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#26 2012年12月21日 03:07:31

iris
ゲストユーザー

Re: 組織の改善に関する議論

上の投稿の「パウロ書簡」は「パウロの主張」に訂正します。


続いて本題の組織について述べます。

私はある神父が「教会が教えているから信じるという姿勢ではダメです。自分の信仰に責任を持ちなさい」と
教えているのを聞いて、これはキリスト教徒にとって重要な心構えだと思いました。

上に述べたとおり、キリスト教の信仰の基礎となるのはあくまでも神と自分との個人的な親密な関係であり、
教会との関係ではありません。それでも、各々の信仰を育てあうような交わりは貴重です。

問題は成員の意識です。目に見えない神との適切な関係を保つためには常に自覚が必要です。
しかし自分の信仰を忘れ、他人任せで幸福が転がり込んでくるのを期待する人もいます。
組織の中で力を持ち支配しようとする人間、組織に依存してラクをしようとする人間のどちらにも、
本来の信仰から逸脱していくことの責任があると思います。
また、信仰で結ばれた組織であっても、結局は人間の組織であるということを認識しておくべきです。


最後に献身について

聖書の神への信仰に献身の要素が含まれるのは自然なことだと思います。
すべてを尽くして神を愛する(信じる)ことを神は要求しているからです。
しかし教会やものみの塔のような組織への献身を要求しているわけではありません。

カトリックの修道者は「清貧・貞潔・従順」の3つの誓願を立てます。
このうち従順の誓願は徹底的にキリストの生き方に倣うという誓いですが、事実上は修道生活において
上の指示に従うという意味も含まれています。組織への献身のようなものです。
ブラザーやシスターになりたいと望む人が修道院で生活を始めてから、最終的に生涯をその修道会で
修道者として生きると誓う「終生誓願」を立てるまでには、何年もかけていくつもの段階を踏んでいきます。
その間に、その人がその修道会で生きることが適切かどうかを慎重に見極めるのです。
修道院には修道生活のための環境も整えられていますし、個人の適性も考慮されます。

エホバの証人研究さんの「従順と清貧の誓い」の記事では、この誓いは一部の人だけに要求されているようですが、
事実上は研究生から始まってすべての成員に同じことが(金銭的な内容を除いて)要求されていますね。
伝道に専念できる環境が整っていなくても、伝道に適性がなくても、すべての成員に一律に修道者のような生活を
要求している点が、さまざまな問題を生んでいる原因のひとつだと思います。

#27 2012年12月21日 22:25:27

sk
メンバー

Re: 組織の改善に関する議論

iris さん

投稿ありがとうございます。

まず、聖書の解釈についての私の見方を説明したいと思います。

神は全人類にご自分の意思を伝えるために聖書を備えてくださいました。
それで、普通の人がその内容を理解することを期待されていると思います。
加えて、心を見られれる神ご自身が、ふさわしい人々をキリストに導くとも言われています。

テモテ第二 3:16-17
16 聖書全体は神の霊感を受けたもので,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です。17 それは,神の人が十分な能力を備え,あらゆる良い業に対して全く整えられた者となるためです。

ヨハネ 6:44
44 わたしを遣わした方である父が引き寄せてくださらない限り,だれもわたしのもとに来ることはできません。


また、キリストに関する救いの音信を先に受け入れた人は、それを他の人々と分かち合うことが期待されています。そのようにして、全人類(アダムの子孫の全て)が、救いの音信を聞く機会を得ることが神の御意思だからです。

神は、アダムの全ての子孫を受け継いだ罪から救う意思(目的)と手立て(キリスト)をお持ちです。

ヨハネ 3:16
16 「というのは,神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされたからです。

ヨハネ 6:51
51 わたしは天から下って来た生きたパンです。だれでもこのパンを食べるなら,その人は永久に生きます。そして,本当のことですが,わたしが与えるパンとは,世の命のためのわたしの肉なのです」。

テモテ第一 2:4
4 [神]のご意志は,あらゆる人が救われて,真理の正確な知識に至ることなのです。

ペテロ第二 3:9
9 エホバはご自分の約束に関し,ある人々が遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなた方に対して辛抱しておられるのです。

聖書は、悔改めを強調しています。
それは、単に使徒パウロの思いから出た要求ではありません。
そして、それは神との和解にとって必要です。

キリスト教の音信は、和解の音信といえます。
その和解は、神の方の大きな犠牲を伴って備えられました。
それで、それはまた神の側の大きな愛の表明でもあります。
和解の音信を受け入れた人は、神の愛に見習うように励まされています。
クリスチャンが愛を強調するのは、神の愛に同種の愛を持ってこたえ応じるためです。

ヨハネ第一 4:19
19 わたしたちは,神がまずわたしたちを愛してくださったので愛するのです。

コリント第二 5:17-20
17 したがって,キリストと結ばれている人がいれば,その人は新しい創造物です。古い事物は過ぎ去りました。見よ,新しい事物が存在しているのです。18 しかし,すべてのものは神から出ており,[神]はキリストを通してわたしたちをご自分と和解させ,また,和解の奉仕の務めをわたしたちに与えてくださいました。19すなわち,神はキリストによって世をご自分と和解させて,その罪過を彼らに帰さず,わたしたちに和解の言葉をゆだねてくださったのです。

20 それゆえ,わたしたちはキリストの代理をする大使であり,それはあたかも神がわたしたちを通して懇願しておられるかのようです。わたしたちはキリストの代理としてこう願います。「神と和解してください」

神との和解は、悔改めと、キリストへの信仰によりなされます。
それは、清い良心をもたらし、神が全人類の隠れたことを裁く際に、救いをもたらします。

ローマ 2:15-16
15 彼らこそ,律法の内容がその心に書かれていることを証明する者であり,その良心が彼らと共に証しをし,自らの考えの間で,あるいはとがめられ,あるいは釈明されさえしているのです。16 わたしが宣明する良いたよりにしたがえば,神がキリスト・イエスを通して人類の隠れた事柄を裁く日に,このことはなされます。

クリスチャンに求められているバプテスマは、悔改めの象徴であり、救いに必要な清い良心を求める意思表示です。
詳しい説明はココをご覧下さい。
http://www.jwstudy.com/jwbbs/viewtopic.php?pid=200#p200

ペテロ第一 3:21
21 これに相当するもの,すなわちバプテスマ(肉の汚れを除くことではなく,神に対して正しい良心を願い求めること)がまた,イエス・キリストの復活を通して今あなた方を救っているのです。

それで、使徒パウロのアレオパゴスにおいてなされた証言は、私たちが伝えるべきキリスト教の音信そのものと言えます。
それが神の王国の音信であり、その具体的な内容については、別に投稿したいと思います。

マタイ 28:18-20
18 すると,イエスは近づいて来て,彼らにこう話された。「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。19 それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,わたしの名において彼らにバプテスマを施し,20 わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。そして,見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです」。

使途 1:8, 2:32, 3:15
8 しかし,聖霊があなた方の上に到来するときにあなた方は力を受け,エルサレムでも,ユダヤとサマリアの全土でも,また地の最も遠い所にまで,わたしの証人となるでしょう」。
2:32 このイエスを神は復活させたのであり,わたしたちは皆その事の証人です。
3:15 一方では,命の主要な代理者を殺しました。しかし神はこの方を死人の中からよみがえらせたのであり,わたしたちはその事の証人です。

使途 17:22-31
22 さて,パウロはアレオパゴスの真ん中に立って,こう言った。
「アテネの皆さん,わたしは,あなた方がすべての事において,他の人たち以上に神々への恐れの念を厚く抱いておられる様子を見ました。23 例えば,歩きながら,あなた方の崇敬の対象となっているものを注意深く見ているうちに,わたしは,『知られていない神に』と刻み込まれた祭壇も見つけました。それで,あなた方が知らないで敬虔な専心を示しているもの,それをわたしはあなた方に広めているのです。24 世界とその中のすべてのものを造られた神,この方は実に天地の主であり,手で作った神殿などには住まず,25 また,何かが必要でもあるかのように,人間の手によって世話を受けるわけでもありません。ご自身がすべて[の人]に命と息とすべての物を与えておられるからです。26 そして,一人の[人]からすべての国の人を造って地の全面に住まわせ,また,定められた時と[人々]の居住のための一定の限界とをお定めになりました。27 人々が神を求めるためであり,それは,彼らが[神]を模索してほんとうに見いだすならばのことですが,実際のところ[神]は,わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではありません。28 わたしたちは[神]によって命を持ち,動き,存在しているからであり,あなた方の詩人のある者たちも,『そはわれらはまたその子孫なり』と言っているとおりです。

29 「したがって,わたしたちは神の子孫なのですから,神たる者を金や銀や石,人間の技巧や考案によって彫刻されたもののように思うべきではありません。30 確かに,神はそうした無知の時代を見過ごしてこられはしましたが,今では,どこにおいてもすべての者が悔い改めるべきことを人類に告げておられます。31 なぜなら,ご自分が任命したひとりの人によって人の住む地を義をもって裁くために日を定め,彼を死人の中から復活させてすべての人に保証をお与えになったからです」。

天地創造の神、キリスト、悔改め、裁きは、キリスト教の音信です。

聖書を何回も読んで、人々は聖書の音信についてそれぞれ異なった見方を持つと思います。それで各自は、自らの推論、見方、信仰において神から裁かれることになります。この点で他人を裁く権威はどの人間にも与えられていませんん。ある人が三位一体を信じるなら、それはその人と神との関係であり、それを信じない人を裁く立場を与えるものではありません。その逆も同じであり、各自は自ら確信した事に関して神から裁かれることになります。

ローマ 14:22
22 あなたの抱く信仰は,神のみ前で自分自身にしたがって抱きなさい。自らよしとしている事柄について自分を裁かないでよい人は幸いです。

ガラテア 6:7
7 惑わされてはなりません。神は侮られるような方ではありません。何であれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになるのです。

マタイ 11:19
19 . . . 知恵はその働きによって義にかなっていることが示されるのです。

テサロニケ第一 5:21
21 すべてのことを確かめなさい。りっぱな事柄をしっかり守りなさい。


他の人の聖句の解釈や説明は参考になりますが、それが自らの思いや霊と共振しない場合があることを認める必要があります。それで、他の人の信仰によって動揺する理由はありません。jw研究さんのような無神論者であっても、それがその方の信仰であると見なせます。また、誰かの聖句に基づく説明や解説により、あることがより明確になるとか、納得できるなら、それによって思いを調整すれば良いと思います。そのようにして聖書の真理の理解を深めることは、その経路となった人から導かれているのではありません。それは、聖書の真理そのものと、その正確な理解を助ける神の霊の働きによる結果といえます。そのように他の人の信仰により励みを受けたり、理解を広げたり深めたりし、神との個人的な関係を発展させていけます。

jw研究さんは、自然科学を信じていますので、アインシュタインとニコラ・テスラの思い(確信)の違いについて気付いているかも知れません。見えない現象の説明や実際的な適用に違いがあるのが現実ですね。わたしは、その人そのものが各人の主人だと思っています。また、その独自性は神の性質から来ていると見なしています。

この点で、真理の経路となる人についての健全な見方が大切です。
聖書は、そのような人を信仰における兄弟と見なすよう教えています。
その人は、わたしたちの信仰の主人ではありません。

マタイ 23:8-10
8 しかしあなた方は,ラビと呼ばれてはなりません。あなた方の教師はただ一人であり,あなた方はみな兄弟だからです。9 また,地上のだれをも父と呼んではなりません。あなた方の父はただ一人,天におられる方だからです。10 また,『指導者』と呼ばれてもなりません。

コリント第二 1:24
24 わたしたちがあなた方の信仰に対する主人であるというのではありません。わたしたちはあなた方の喜びのための同労者です。あなた方が立っているのは[自分の]信仰によるのです。

コリント第一 3:7
7 ですから,大切なのは,植える者でも水を注ぐ者でもなく,成長させてくださる神なのです。

フィリピ 1:18
18 ではどうなるでしょうか。見せかけであっても真実であっても,あらゆる方法でキリストが言い広められている,ということにほかなりません。そのことをわたしは歓んでいます。そうです,これからも歓んでゆくのです。

キリストの音信の経路が重要ではありません。経路となる人は、過ちを犯す不完全な人間に過ぎません。
聖書そのものに注目する必要があります。
また、理解のために神の霊に頼ることが大切です。

そして、自ら確信した事を喜んで他の人と分かち合ってください。
その際、異なる見方を持つ人を打ち負かす(無理やり納得させる)必要はありません。
あなたの信仰の表明により益を受ける人が必ずいるでしょう。

ヨハネ第一 5:20
20 しかしわたしたちは,神のみ子が来て,真実な方について知ることができるよう,わたしたちに知的な能力を与えてくださったことを知っています。そしてわたしたちは,み子イエス・キリストによって,真実な方と結ばれています。

ヨハネ 14:26, 16:13
26 しかし,父がわたしの名によって遣わしてくださる助け手,つまり聖霊のことですが,その者はあなた方にすべてのことを教え,わたしが告げたすべての事柄を思い起こさせるでしょう。
16:13 しかし,その者,すなわち真理の霊が到来するとき,あなた方を真理の全体へと案内するでしょう。

ペテロ第一 3:15
15 むしろ,あなた方の心の中でキリストを主として神聖なものとし,だれでもあなた方のうちにある希望の理由を問う人に対し,その前で弁明できるよう常に備えをしていなさい。しかし温和な気持ちと深い敬意をもってそうするようにしなさい。



以上が聖書の真理、またその理解に関わるわたしの見方です。

それで、わたしが展開する聖句に基づく推論はわたしの信仰の表明であり、わたしと神との個人的な関係の現われです。
わたしは、それにより他の方が益を受けることを望みますが、それを他の人に押し付けるつもりはありません。
人は、おのおの自分の荷(思い、見方、責任、背景)を持っています。

ガラテア 6:5
5 人はおのおの自分の荷を負うのです。





献身という考え方について、

バプテスマに関して神への献身が関わっている聖句はありません。
全て、悔改め、キリストの名による、キリストへの、と表現されています。

キリストは罪人を招くために来たと述べられています。
それで救いのための第一歩は献身ではなく、悔改めです。
バプテスマを受ける人はキリストの弟子となります。
パウロは、それを義の奴隷と表現しています。
それはまた、キリストの花嫁、キリストの体、神の神殿とも表現されています。
キリストの弟子たちが神聖な奉仕に励むのは救いを獲得するためではなく、救われた事への感謝の表明のためです。
提供されている救いを確実にするために精力的に努力するように励まされています。
それは、彼らの感謝と愛の純粋さの証拠となります。
しかし、救いは自分の献身を立証する業によるものではありません。
不完全な人間にとってそれは不可能なことです。
クリスチャンの救いは神の恵み(無償の賜物)によります。神への献身ではありません。
上記の要点の聖句による裏づけは別の機会に展開したいと思います。

ルカ 18:9-14
9 しかし[イエス]は,自分は義にかなっているのだと自負し,ほかの人たちを取るに足りない者と考えるある人々にも次の例えを話された。10 「二人の人が祈りをするため神殿に上りました。一人はパリサイ人,他の一人は収税人でした。11 パリサイ人は立って,これらのことを自分の中で祈りはじめました。『神よ,わたしは,自分がほかの人々,ゆすり取る者,不義な者,姦淫をする者などのようでなく,またこの収税人のようですらないことを感謝します。12 わたしは週に二回断食をし,自分が得るすべての物の十分の一を納めています』。13 一方,収税人は離れたところに立って,目を天のほうに上げようともせず,胸をたたきながら,『神よ,罪人のわたしに慈悲をお示しください』と言いました。14 あなた方に言いますが,この人は,先の人より義にかなった者であることを示して家に帰って行きました。自分を高める者はみな辱められますが,自分を低くする者は高められるのです」。

パリサイ人は、自らの神への責任を細かく守り、いわば献身的な生き方の確信を表明しています。


興味深い点は、書士やパリサイ人の言い伝えの伝統に、コルバン(神に捧げられたもの)があります。
そして、それらの伝統により神の言葉を無効にしているとして、イエスは宗教指導者を糾弾しました。


マルコ 7:9-12
9  [イエス]はさらに続けてこう言われた。「あなた方は自分たちの伝統を保とうとして,巧妙にも神のおきてを押しのけています。10  たとえば,モーセは,『あなたの父と母を敬いなさい』,そして,『父や母をののしる者は死に至らせなさい』と言いました。11  ところがあなた方は,『もし人が自分の父や母に向かって,「わたしの持つものであなたがわたしから益をお受けになるものがあるかもしれませんが,それはみなコルバン(つまり,神に献納された供え物)なのです」と言うならば』と言います—12  あなた方はもはやその人に,自分の父や母のために何一つさせないのです。13 こうしてあなた方は,自分たちが伝えた伝統によって神の言葉を無にしています。そして多くのこれと同様の事をあなた方は行なっています」。


エホバの証人の奉仕優先マインド、神への献身を果たすという見方は、パリサイ人の見方と似ています。
それで、神への献身の名の下に、自分の親族への思いやりを欠いた決定や行動を正当化する傾向が見られます。



これが、わたしの思い(考え、考え方)と信仰です。
異なった思いの方も、ご自分の思いや信仰を表明なさってください。
それによって、対立が生じるかも知れませんが、相互作用をうけると思います。


また、神への信仰以前に責任ある人として異なる意見を見下したり、裁いたりすることを避けることができると思います。



読んで頂きありがとうございました。

編集者 sk (2012年12月22日 15:59:51)

オフライン

#28 2012年12月22日 12:24:00

iris
ゲストユーザー

Re: 組織の改善に関する議論

skさん

お返事ありがとうございます。skさんの確信されたことを分かち合うことができて嬉しいです。
昨日書いてくださった内容は、私の思いや信仰と同じです。

skさんの信仰は、次の部分に要約されていると思います。
そしてこれは、イエスの教え(キリスト教の教え)そのものです。

「キリスト教の音信は、和解の音信といえます。
その和解は、神の方の大きな犠牲を伴って備えられました。
それで、それはまた神の側の大きな愛の表明でもあります。
和解の音信を受け入れた人は、神の愛に見習うように励まされています。
クリスチャンが愛を強調するのは、神の愛に同種の愛を持ってこたえ応じるためです。
神との和解は、悔改めと、キリストへの信仰によりなされます。
それは、清い良心をもたらし、神が全人類の隠れたことを裁く際に、救いをもたらします。」

このskさんの説明は大変わかりやすい説明です。
アレオパゴスの説教は、キリスト教の音信そのものといえるかもしれませんが、
聖書を読み込んでいる人でなければ、何のことやらわからないと思います。

私は悔い改めを軽視しているわけではありません。悔い改めこそが信仰の出発点です。
悔い改めることなしに、キリストへの信仰を持つことはできないと思います。


さて、聖書の音信について人がそれぞれ異なった見方を持つことは当然のことであり、
それ自体が責められるべきことではありません。
skさんのおっしゃるように、「他の人の信仰により励みを受けたり、理解を広げたり深めたりし、
神との個人的な関係を発展させていけ」ることこそが、分かち合いの恵みです。

エホバの証人研究さんが無神論者でいらっしゃるとしても、個人的なスタンスとしては他人から
批判されるようなことではありません。それをホームページなりブログなりで発信されることも、
個人的見解として表明する分には誰も文句をつけることはできません。

しかし、エホバの証人問題について情報提供するという目的で発信されるのであれば、
聖書のメインテーマであるキリストの音信(福音)についてキリスト教の立場を理解せずに
「エホバの証人はキリスト教である」と断言されるのは問題だと思います。
(念のため申し上げておきますが、「キリスト教」と「組織されたキリスト教会」とは別です。)

「エホバの証人はキリスト教か」という記事の中で、現在は削除されていますが
「イエスキリストを信仰の中心にしていなくてもキリスト教の定義から外れるほどではない」と
書かれていたのは、特にキリスト教の立場をまったく理解していない発言です。
skさんが使徒 1:8, 2:32, 3:15 で指摘されている通り、クリスチャンは「キリストの証人」
あるいは「神がキリストによって救いを備えられたことの証人」であるべきです。

エホバの証人研究さんのホームページを訪れる人は、エホバの証人について何らかの
問題意識を持っている人だと思います。その人たちに向かって、「国語辞典の定義では
こうですよ」と情報提供したところで何の意味があるでしょうか?
国語辞典以上の情報が求められているのではないでしょうか?
エホバの証人はなぜキリスト教の定義に当てはまるのか、という解説をひそかに削除されたようですが、
解説なしに断言されるよりは、個人的見解であっても解説があったほうがましだと思います。

エホバの証人問題で困っている人たちは、必死の思いで情報を求めています。
また、エホバの証人も、伝統的キリスト教徒も、生涯を賭けて信仰を大切にしているのです。
エホバの証人研究さんには、ご自身は無信仰でもかまいませんから、
信仰を大切にしている人たちの気持ちだけは理解していただければと思っています。
そして、ご自身の情報発信がどれだけの重みを持つかを自覚していただくことを願っています。

#29 2012年12月22日 15:03:50

iris
ゲストユーザー

Re: 組織の改善に関する議論

キリスト教とキリスト教会について

エホバの証人研究さんは、「キリスト教」と「キリスト教会」を混同されているのではないかと思います。
「キリスト教の教え」と「キリスト教会の教え」とは別に考える必要があります。

「キリスト教の教え」とは聖書が伝える教えです。skさんが上に書いてくださったとおりです。
「キリスト教会の教え」とは「キリスト教の教え+α」です。

例えばカトリックの場合、「カトリック教会の教え=キリスト教の教え+カトリック教会の伝統」となります。
カトリック教会の伝統とは三位一体論、聖職者制度、マリア崇敬(崇拝ではない)などです。
カトリック以外の伝統的教会の場合は「教会の教え=キリスト教の教え+各教会の伝統」です。
三位一体論については、カトリックからそのまま引き継いでいるところがほとんどですね。
そして単立教会の場合は、「教会の教え=キリスト教の教え+牧師個人の信仰」となります。

「キリスト教」と名乗る以上、教会の教えに「キリスト教の教え」が含まれていることは必須です。
ところがものみの塔の教えはどうでしょうか? 「キリスト教の教え」が含まれていません。
これで「キリスト教」と言えるでしょうか?

実際には、本来のキリスト教の教えと各教会の伝統とを区別して教えることはしません。
その教会にとっては、その教会の教えがキリスト教の教えであることには間違いないですし、
各個人にとっても、自分だけの体験に基づいた自分だけのキリスト教があってよいのです。
(当然ながら、キリスト教の教えだけは守らなければキリスト教ではなくなります。)

もんもんさんは、エホバの証人の組織には問題が多くて神から捨てられるかもしれない、と
心配しておられるようですが、skさんもおっしゃるとおり、神が問題にされるのは
もんもんさん個人と神との関係です。もんもんさんだけの信仰があってよいのです。
信仰を分かち合える交わりは大切ですが、個人に過剰に干渉する組織は弊害の方が大きいと思います。
これは伝統的キリスト教会でも同じことです。

#30 2012年12月22日 16:24:53

sk
メンバー

Re: 組織の改善に関する議論

iris さん


同じ思いを持った信仰の同労者ということですね。
わたしも、嬉しく思います。

また、わたしは jw研究さんの調査や見解にも感謝しています。
多くのエホバの証人の思いの調整にとても役立つと思います。

キリスト教の定義をめぐる対立があるみたいですが、互いに他方の見方や意見をその人のものとして、そのまま許容なさることを望みます。

エホバの証人について

エホバの証人は、自分たちをキリスト教と信じています。
ものみの塔協会自体、宗教法人登記の際キリスト教としています。
最近の裁判(メンローパーク王国会館乗っ取り訴訟等)でも、協会は自らを、カトリックと同じ階級制度を持つ教会として、その権利を公に主張しています。

上記の現実に存在する証拠から、彼らは自らをキリスト教と公言しています。


真のキリスト教が何であるかについての論議は、各自の聖書の内容へのアプローチの仕方により異なって来ると思います。


小麦と雑草のたとえの中で、イエスは収穫まで本物と偽者が世界の畑の中に混在すると述べています。
また、裁きのときに多くのものが帰還したキリストに向かって「主よ、主よ」と語りかけるとも予言されています。
それで、組織されたキリスト教に属していてもいなくても、キリスト教を自認する個々の人は自分の信仰が神に受け入れられるものかどうか、つまり本物かどうか絶えず吟味するよう励まされています。


マタイ 13:28-30
28 彼は言いました,『敵である人がそれをしたのだ』。彼らは言いました,『では,わたしどもが行ってそれを集めることをお望みですか』。29 彼は言いました,『いや。雑草を集めるさい,小麦も一緒に根こぎにすることがあってはいけない。30 収穫まで両方とも一緒に成長させておきなさい。収穫の季節になったら,わたしは刈り取る者たちに,まず雑草を集め,焼いてしまうためにそれを縛って束にし,それから,小麦をわたしの倉に集めることに掛かりなさい,と言おう』」。

マタイ 7:21-23
21 「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が[入る]のです。22 その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名において預言し,あなたの名において悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。23 しかしその時,わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ,と。

コリント第二 13:5
5 自分が信仰にあるかどうかを絶えず試しなさい。自分自身がどんなものであるかを絶えず吟味しなさい。それともあなた方は,イエス・キリストがあなた方と結びついておられることが分からないのですか。それは,あなた方が非とされているのでなければのことですが。


iris さん

キリスト教とキリスト教会の識別の記事ありがとうございます。

そのとおりですね、
わたしは、どの教会も本物と偽者、あるいは、聖書の教えの量や理解の深さの違いを持つ信者たちを含んでいると思っています。それで、誰が本物かの裁きは、神のみによると見ています。


神が受け入れる人、又は推薦する人は幸福だと思います。

コリント第二 10:18
18 自分を推薦する者が是認されるのではなく,エホバの推薦される人が[是認される]のです。



また、人を喜ばすのではなく、神を喜ばす者となるようになりたいと思っています。

ガラテア 1:10
10 いったい,わたしがいま説得しようとしているのは人間でしょうか,それとも神でしょうか。あるいは,わたしは人間を喜ばせようと努めているのでしょうか。もしいまだに人間を喜ばせているとすれば,わたしはキリストの奴隷ではありません。




それで、ここに集う兄弟姉妹たち、
本物のクリスチャンとなるために互いの信仰と神から与えられた賜物を、全ての人の益のために活用しましょう。


コリント第一 12:4-11
4 さて,賜物はさまざまですが,霊は同じです。5 奉仕の務めはさまざまでも,主は同じです。6 働きはさまざまでも,すべての人の中であらゆる働きをされる神は同じです。7 しかし,霊の顕現は,有益な事柄を目的として各々に与えられます。8 たとえば,ある人には霊によって知恵のことば,ある人には同じ霊にしたがって知識のことば,9 ある人には同じ霊によって信仰,ある人にはその一つの霊によっていやしの賜物,10 さらにある人には強力な業の働き,ある人には預言すること,ある人には霊感のことばを識別する力,ある人には種々の異言,そしてある人には異言を解釈する力が与えられています。11 しかし,これらのすべての働きを同一の霊が行なうのであり,その欲するとおりに各々に分配するのです。

エフェソス 4:7, 16
7 さて,キリストが無償の賜物をどのように量り出してくださったかに応じて,わたしたち一人一人に過分のご親切が与えられました
16 この[キリスト]をもととして,体の各部すべては,調和よく組み合わされることにより,また必要なものを与えるすべての関節を通して協働することにより,それぞれの部分が定めの機能を果たすにつれて,愛のうちに自らを築き上げることを目ざした体の成長に資するのです。


よろしくお願いします。 smile

編集者 sk (2012年12月23日 21:45:12)

オフライン

#31 2012年12月22日 16:55:14

カレブ
Administrator

Re: 組織の改善に関する議論

irisさん
ご意見ありがとうございます。

irisさんの キリスト教に関するご意見もわたしは特に異論はありません。
また skさんの聖書の解説もとても納得できるものです。

わたしがこのサイトを立ち上げたとき現役エホバの証人を主な対象に
していました。それと同時に一般の人も「エホバ」で検索してくること、
そしてその中の多くは聖書に関心があるわけでも宗教に入ることに
関心があるわけでもなく、たまたまエホバの証人と関係してしまった
という人がほとんであることを想定していました。

ですからサイトの中はエホバの証人の致命的な間違いを指摘すると
ともに、エホバの証人が人間として危険なわけではなく、人道的に
扱う必要がある人々であることも指摘する必要があると感じていました。

これはエホバの証人の組織に入信することに危険がないという意味では
なく、人間として接するというレベルでの話です。

わたしは一般の人にエホバの証人ってなんですかと聞かれたら、やはり
キリスト教の一派だと答えます。それと同時に普通のキリスト教とは違う
部分を説明します。
率直に言うと、「エホバの証人はキリスト教ではありません」という
メッセージはキリスト教を信仰しようと心が傾いている人に対してしか
意味が通じないです。

ご指摘の通り「キリスト教」やキリスト教会のことに言及した記事の幾つかの文面に
修正を加えました。最初の頃に書いた記事を読みなおしてみて、公平ではないと
思えた文面があったからです。しかしエホバの証人は分類するならキリスト教だと
今でも考えています。

また気になる点がございましたらご指摘ください。

オフライン

#32 2012年12月22日 19:03:24

iris
ゲストユーザー

Re: 組織の改善に関する議論

エホバの証人研究さん

丁寧なお返事ありがとうございます。

エホバの証人がキリスト教であるかどうかが問題になるのは、
エホバの証人とキリスト教徒とそのどちらかになろうとしている人、
よく分からないけれどとにかく聖書を勉強したい人にとってだけです。
ご指摘の通り、それ以外の人には問題になりません。

それなのに、聖書にも信仰にも関心がない人に向かって、
「エホバの証人はキリスト教の一派である」という個人的見解に基づく
先入観を与える必要があるのでしょうか?
私が同じ立場であれば、「エホバの証人はキリスト教の一派であると
自称しているが、本当にキリスト教かどうかは知らない」と答えます。
エホバの証人がキリスト教であってもなくても、個々のエホバの証人を
人道的に扱うべきであることには変わりありません。
また、聖書を勉強している以上、個々のエホバの証人が個人的に
キリスト教の信仰をもっている可能性は十分にあります。

「エホバの証人キリスト教比較表」でも、各教会の伝統の部分だけを
比較しても意味がありません。
キリスト教とエホバの証人との最大の違いは、エホバの証人には
「キリスト教の教えがない」ということです。
カトリックとプロテスタントを比較するときに同様の比較表が見られますが、
「キリスト教の教えがあるかどうか」という項目がないのは
両方ともあるに決まっているからです。

聖書に関心がある人が、キリスト教のつもりでエホバの証人に
なってしまうことについてはどうお考えなのでしょうか?
エホバの証人が増えることを望んでおられるのでしょうか?

#33 2012年12月22日 21:32:17

カレブ
Administrator

Re: 組織の改善に関する議論

irisさん

ご意見ありがとうございます。クリスチャンとしての立場はよくわかります。
同じように、イスラム教過激派に迷惑している正統イスラム教徒の気持ちもわかります。
しかしタリバンもやはり分類するとイスラム教を基盤とする組織とみなされています。(政治組織として)

キリスト教の定義については、論題としてはあまり意味をもたないと思います。
この話題が問題になるのは恐らく、日本のキリスト教の発展はエホバの証人によって妨害されている
と感じるからではないでしょうか。
これについてはわたしは肯定も否定もできない微妙な問題だと感じています。
聖書に関心がある人が、伝統的キリスト教ではなくエホバの証人になるというケースは、それなりの
割合であると思います。ただその人がエホバの証人にならなければクリスチャンになっていたかと
言うと判断がつきません。それほど単純なことでもないように思います。

逆にクリスチャンの立場としてエホバの証人被害について教えていただけると助かります。
教会にとって「エホバの証人問題」とはどのようなものなのでしょうか?
かなり迷惑しているという状況があるのでしょうか?

オフライン

#34 2012年12月23日 02:09:26

iris
ゲストユーザー

Re: 組織の改善に関する議論

エホバの証人研究さん

お返事ありがとうございます。

私はカトリックですが、カトリック教会にとってエホバの証人がいると不利であるとか
邪魔であるということはありません。カトリック教会はエホバの証人問題に無関心です。
(無関心というのは要するにエホバの証人に対する愛がないということですが。)

カトリック以外の教会の中には、一部にエホバの証人が目障りで仕方ないという教会も
あるように聞いていますが、そういう教会は信者を取られると思っているのかもしれません。
私の印象では、歴史の短い教会や単立教会にそのような傾向がある気がします。

「日本のキリスト教の発展がエホバの証人によって妨害されている」と感じる人も
中にはいるかもしれませんが、多くの教会ではそのような見方はしないと思います。
「当教会はエホバの証人とは関係ありません」で済ましているところがほとんどでしょう。


私個人としては、職業上大変迷惑しています。輸血拒否問題で当事者になりかねないからです。
しかも私たちの相手は子どもです。本人の意思に反して、親に見殺しにされるかもしれないのです。

多くの医療関係者にとっては、エホバの証人は単に面倒くさい患者にすぎません。
最近ではどの医療機関でも輸血拒否への対応が決められていますから、運悪く面倒くさい患者に
遭遇してしまったらマニュアルに従えばいいと考えていると思います。

しかし私にとっては、エホバの証人も同じ神を信じる仲間のようなものです。
自分が信仰を持っていますから、エホバの証人がどれほど真剣に信じているかもわかります。
そして、輸血拒否が聖書の教え(キリスト教の教え)ではないということも知っています。
ですから、ただでさえ命に関わる大変な状況のときに、輸血拒否などというくだらない教義に
悩まされないで、もっと重要なことに心を配ってもらいたいのです。
けれどもエホバの証人にしてみれば、輸血拒否だけを信じない、というわけにはいかないのです。
ですから、そもそもエホバの証人にならないのがいちばんです。

キリスト教系の学校の卒業生でも、輸血拒否に迷惑していた医療関係者でも、
「聖書を学びませんか」と誘われてエホバの証人になり、輸血拒否も当然と思うようになっていきます。
「ものみの塔の教えは聖書の教えでもキリスト教の教えでもない」という情報は非常に重要です。
これはエホバの証人を増やさないためです。キリスト教徒が増えるかどうかには興味はありません。

キリスト教の教えがでたらめだったとして、私の人生の最後に何が残るでしょうか。
神の愛を信じ、人を愛することにつとめた幸せな人生が残るだけです。
ものみの塔の教えがでたらめだったと知ったエホバの証人の人生の最後に残るのは、
自分の本当の望みを捨て、場合によっては家族も家族の命も捨てた後悔だと思います。
この違いは大きいと思いませんか?

#35 2012年12月23日 13:12:09

カレブ
Administrator

Re: 組織の改善に関する議論

irisさん
状況がよくわかる説明をありがとうございます。
輸血拒否の問題は本当に深刻なものだと思います。
世界各国でも問題になっており、恐らく今後、この問題と家族内の排斥の問題で
宗教法人資格を失うことになる国が出てくると思います。

>けれどもエホバの証人にしてみれば、輸血拒否だけを信じない、というわけにはいかないのです。

これが一番の問題で、エホバの証人の中には輸血に関する教えの矛盾にうすうす気づいていて
協会が路線を変えたら大歓迎する人がたくさんいるとわたしは思っています。
家族内の排斥に関しても実は関係する信者は、それに疑問を持っている場合が多いと思うのです。
しかし信者の中で声をあげることができない仕組みになっています。
こうした問題は大いに啓蒙する必要があり、人権問題としてもっと注目されるべきだと思います。
いずれ宗教法人をはくだつされる国が出てくると思います。

以下の点はまったく同意いたします。

iris さんの発言:

キリスト教の教えがでたらめだったとして、私の人生の最後に何が残るでしょうか。
神の愛を信じ、人を愛することにつとめた幸せな人生が残るだけです。
ものみの塔の教えがでたらめだったと知ったエホバの証人の人生の最後に残るのは、
自分の本当の望みを捨て、場合によっては家族も家族の命も捨てた後悔だと思います。
この違いは大きいと思いませんか?

この点はちょうど記事にしてUPしようとも思っています。
考えさせる点を指摘してくださりありがとうございます。

オフライン

#36 2012年12月23日 13:15:56

iris
ゲストユーザー

Re: 組織の改善に関する議論

私は最初にこの掲示板に書き込んだときから、宗教論争をしたいわけではない、
輸血拒否を防ぐためにはエホバの証人にならないことが重要なので、
「聖書を利用して勧誘してはいるが、ものみの塔の教えは聖書の教えでもキリスト教の
教えでもない」と広報することが必要である、と一貫して主張してきました。

それでもエホバの証人研究さんは、キリスト教徒としてエホバの証人に迷惑している、
キリスト教会にとってエホバの証人が邪魔であるという動機からの発言であると
考えておられたようですね。


キリスト教会にとって、エホバの証人問題には関わらないのが無難なのです。
多くの教会にとっては、世の中にエホバの証人がいても痛くも痒くもありません。

キリスト教についてよく理解しているキリスト教徒なら、ものみの塔の教えが
キリスト教の教えではないということはすぐにわかります。けれども聖書にもキリスト教にも
関心のない大多数の人には、なかなか理解できないのが普通です。
ですから「エホバの証人はキリスト教ではない」と主張したところで、護教論だとか
宗派争いだとか不寛容だとか思われて、非常に不愉快な思いをするだけでなく、
キリスト教のイメージダウンにも繋がる可能性があるのは容易に想像がつきます。
エホバの証人研究さんのような、キリスト教側の立場でない人が正しく理解して、
情報提供してくださるのがいちばんよいのです。


エホバの証人研究さんにとって、エホバの証人はキリスト教であるということが
なぜそれほど重要なのか私には理解できません。
エホバの証人がキリスト教でないと都合が悪いことでもあるのでしょうか?

聖書を学びたいという動機でエホバの証人になった人が、輸血拒否によって
命を落とすかもしれません。家族から見捨てられたり社会に適応できなかったりして
うつ病になったり、自殺したりするかもしれません。このように命にかかわる
問題であるという認識がエホバの証人研究さんには足りないと私は思います。

医学の世界では「予防に勝る治療法なし」と言います。病気になってから時間と労力と
お金をかけて治療するよりは、病気にならないように予防する方が節約になるのです。
現役エホバの証人への情報提供はもちろん重要ですが、エホバの証人になろうと
している人に配慮することも同等以上に重要であると私は思います。

#37 2012年12月23日 19:41:51

カレブ
Administrator

Re: 組織の改善に関する議論

iris さん

お返事ありがとうございます。以下の点を自分なりに考えてお答えします。

>エホバの証人研究さんにとって、エホバの証人はキリスト教であるということが
>なぜそれほど重要なのか私には理解できません。
>エホバの証人がキリスト教でないと都合が悪いことでもあるのでしょうか?

わたしにとってエホバの証人がキリスト教であることが重要なのではなく、
自分自身が分類するとキリスト教だと思っているからです。
これは都合の問題ではありません。

エホバの証人はキリスト教ではないというメッセージは、予防の面で
効果があるとは思っていません。ここが iris さんと考えが違う点なのかなと
感じます。

>現役エホバの証人への情報提供はもちろん重要ですが、エホバの証人になろうと
>している人に配慮することも同等以上に重要であると私は思います。

ご指摘の通り、アップしている記事は現役エホバの証人を対象にしています。
予防効果があるかどうかは定かではないですが、このサイトを見てエホバの証人に
なりたいという気持ちが高まるとは思っていません。

日本ではクリスチャンを公言する人は人口の1%ほどです。
何か特別なことがない限り、エホバの証人も主流教会も現状維持か減少傾向が続くと思います。
エホバの証人に関しては、あれだけ伝道に力を入れてやっと減少を食い止めている
くらいですから、厳しい現実があるとおもいます。

このような現状があるのでわたしは、すでにエホバの証人になっている人たちを重視しています。
その人たちの多くは今ほどインターネットで情報を調べることが少なかった時代の人です。

今、日本でバプテスマを受けるエホバの証人の半数はいわゆる二世の立場の人であると
思います。その人たちに対しても「エホバの証人はキリスト教ではない」という言葉は意味がない
と思います。

サイトを立ち上げたころにアップした記事はまた時間があるときに再点検したいと思います。
またご意見ありましたら書き込んでください。

オフライン

#38 2012年12月24日 09:37:10

iris
ゲストユーザー

Re: 組織の改善に関する議論

エホバの証人研究さん
丁寧にお返事くださることには感謝しています。

ものみの塔については、非常に丁寧に検証された記事をお書きになるエホバの証人研究さんが、
キリスト教については理解しようとせず、先入観にもとづいた情報を提供しておられるのが非常に
残念です。

エホバの証人研究さんがおっしゃるとおり、キリスト教の定義は既に安定しています。
「イエスをキリストすなわち救世主と信じる宗教。神の国の福音を説き、人類の罪を救済するために
自ら十字架につき、復活したイエス=キリストを信仰の中心とする。」
この定義に間違いはありません。

ものみの塔の教えも同様の定義で語れるかもしれません。
しかし、ものみの塔の教えでイエスが伝えたメッセージとされる「王国のよいたより」の内容は
キリスト教が教える(聖書に書かれている)「神の国の福音」とはまったく内容が違いますし、
「イエス=キリスト」に対する信仰の意味も、ものみの塔とキリスト教とではまったく違うのです。
国語辞典に載るほど安定している「定義」に含まれる内容こそが違うのです。

エホバの証人に関連して、どうしてもキリスト教に言及したいのであれば、キリスト教の教えも
きちんと勉強してください。ものみの塔の教える「王国のよいたより」が聖書に書かれている
「神の国の福音」と同じかどうか比較してみてください。
エホバの証人研究さんなら、先入観を持たずに聖書(福音書)を読むだけで、理解できるはずです。
ものみの塔の教えを信じ込まされていたskさんも、聖書から本来の福音を理解されているのです。

#39 2012年12月24日 09:42:44

iris
ゲストユーザー

Re: 組織の改善に関する議論

ものみの塔のウソのうち、「神の国の福音」を「王国のよいたより」にすりかえていることが最大のウソです。
「王国のよいたより」を証明するために、その他の多くのウソ(BC607年問題など)が必要になっているのです。

#40 2015年07月21日 18:28:08

yangmask
ゲストユーザー

Re: 組織の改善に関する議論

すみません、ざっと読みしかしてないんですが、一言。


sk さんの発言:

バプテスマに関して献身という言葉自体や考えは聖書のどこにもありません。そのような教えは、ものみの塔協会の欺きに過ぎません。ものみの塔協会は、神への献身という都合のいい教えにより信者を献身の責任で心理的に縛り自らの目的に仕えさせています。エホバ神は私たちに献身を求めておられません。

まず、イエスご自身が受けたバプテスマは、明らかに「悔い改め」のためのものではありませんでした。イエスは罪のない方でしたから。

ですから、この点だけ考えても、バプテスマには単なる「悔い改め」以上の意味があることが分かりますね。

-----

また、旧約聖書で、神はイスラエルに対して専心の念を求めましたね。(申命記6:4-5,14-15)。他の神々を崇拝せず、神のおきてを守ることをお求めになりましたし、そうしなかった場合、大変厳しく罰せられました。

つまり、イスラエルは神に対して結婚関係に入ったのと同じであり、彼らが他の神々や諸国民の王たちに傾倒するのは、霊的な浮気以外の何ものでもありませんでした。(エゼキエル16:3,15,26,28,41、ホセア1:2,3:1)。

-

同様に、神がクリスチャンに対しても「あなただけにお仕えします」と誓うことを求められておられると考えることは道理にかなっています。

それは、人が結婚式の時に、終生配偶者だけに忠実であることを誓うのと全く同じ理屈ですね。人に対して忠実を誓うというのなら、神に対して忠実を誓うことはなおのこと正しいと言えるでしょう。

それを、JWは「献身」と呼んでいるのではないでしょうか。

#41 2015年07月21日 18:35:03

カレブ
Administrator

Re: 組織の改善に関する議論

yangmask さん

もしかして古いトピックから初めて
全部のスレッドにコメント入れるつもりじゃないでしょうね?

この掲示板は新たな投稿があるとそれが全部上に並ぶ仕組みになっていますので

その点を考えて空気読んでくださいね。

オフライン

#42 2015年07月21日 18:49:23

yangmask
ゲストユーザー

Re: 組織の改善に関する議論

はい、興味のあるのトピックだけにするつもりですよ。新しいトピック立てるのもどうかと思って。

たまに、過去の討議を振り返るのもよいのでは? 一旦、再発議しても、皆さんが関心なければ、そこで終了ですしね。

決して掲示板を荒らすつもりはないです。私の見解が異なっていても、ルールとマナーを守る限り、かえってよい討議ができるのではないでしょうか? 先入観さえなければ。

今日はこれにて終了です。また明日。

#43 2015年07月21日 18:55:42

カレブ
Administrator

Re: 組織の改善に関する議論

そうですね。
限定的なものであれば構いません。

内容によってはスレッド全体を読み返す必要がでるほど
忘れられていますので、その点も心配です。
でも量的ば制限を配慮していただければ構いません。
あと古い投稿が残っていてももう参加していないメンバーもいます。

オフライン

#44 2015年07月21日 19:56:02

yangmask
ゲストユーザー

Re: 組織の改善に関する議論

ありがとうございます。何だか生意気な反論しちゃったかなと思って、発言取り消そうかと思ってたんですが・・・。寛大なお返事でとても嬉しく思いました。本当に本当にありがとう。発言時には気を付けます!

今、霞が関の地下鉄です。wifiがあるんで。

#45 2015年07月21日 20:30:33

カレブ
Administrator

Re: 組織の改善に関する議論

>今、霞が関の地下鉄です。wifiがあるんで。

帰る家はあるんですね。

それにしても東京の公衆WIFI化は素晴らしいですね。

オフライン

#46 2015年07月21日 20:41:10

sk
メンバー

Re: 組織の改善に関する議論

yamgmaskさんの思い

まず、イエスご自身が受けたバプテスマは、明らかに「悔い改め」のためのものではありませんでした。イエスは罪のない方でしたから。

ですから、この点だけ考えても、バプテスマには単なる「悔い改め」以上の意味があることが分かりますね。

-----

また、旧約聖書で、神はイスラエルに対して専心の念を求めましたね。(申命記6:4-5,14-15)。他の神々を崇拝せず、神のおきてを守ることをお求めになりましたし、そうしなかった場合、大変厳しく罰せられました。


イスラエル国民が献身した国民であれば、イエスはイスラエル国民として生まれましたから、既に他のイスラエル国民と同様に献身した立場にいた事になります。

イスラエル国民はyangmaskさんが好む献身の誓を守れなかったために律法違反者として悔い改めが必要であり、バプテストのヨハネやクリスチャンのバプテスマは罪人としての悔い改めの象徴であり、神への献身の象徴ではありません。

yangmaskさんは、単にイメージでコメントするのではなく聖書から自らの主張を裏付ける責任を果たしてください。

クリスチャンのバプテスマに献身の意味を読み取ることは不可能です。

yangmaskさんは現役のエホバの証人でしょうか。
もしそうであれば、インチキものみの塔を去った者がすべて信仰の破船者でないことに気づいてください。

私も、あなたと同じようにエホバ神を崇拝しています。

自らの信仰について喜んで聖書から論じる用意があります。


yangmaskさん、
クリスチャンのバプテスマについてあなたの理解を聖書から論じてください。

そうすれば多くの人があなたの見方が聖書的かどうか調べることができます。

編集者 sk (2015年07月21日 20:45:46)

オフライン

#47 2015年07月21日 20:43:08

もんもん
メンバー

Re: 組織の改善に関する議論

yangmaskさん

まず、イエスご自身が受けたバプテスマは、明らかに「悔い改め」のためのものではありませんでした。イエスは罪のない方でしたから。

キリストは、罪がないのに、罪があるかのようにして死にました。ですから、話の始まりとして、罪があるかのようにして悔い改めのバプテスマを受けるのは、矛盾ではないと思います。キリストは、罪を背負ったのですから。

  少なくともバプテスマには、神に献身の意味はないですよ。「あたなはわたしの愛する子」といっているのですから、むしろ、神からの承認なのでしょう。「悔い改めた」->「神からの許し」という流れが自然ではないでしょうか。

編集者 もんもん (2015年07月21日 20:47:41)

オフライン

#48 2015年07月21日 21:52:41

sk
メンバー

Re: 組織の改善に関する議論

イエスのバプテスマは、献身でも悔い改めの象徴でもありません。


イエスのバプテスマは、メシアとしての証しのためです。


ヨハネ  1:29-34
29 次の日,彼は,イエスが自分のほうに来るのに目を留めて,こう言った。「見なさい,世の罪を取り去る,神の子羊です! 30 これこそ,わたしの後に,わたしの前を進んだ人が来る,わたしより先に存在された方だから,とわたしが言ったその方です。31 わたしもこの方を知りませんでしたが,わたしが水でバプテスマを施しに来たのは,この方がイスラエルに明らかにされるためでした」。32 ヨハネはまた証しをしてこう言った。「わたしは,霊が天からはとのように下って来るのを見ましたが,それはこの方の上にとどまりました。33 わたしもその方を知りませんでしたが,水でバプテスマを施すようにわたしを遣わした方が,『あなたは霊が下ってある人の上にとどまるのを見るが,それがだれであろうと,その者こそ聖霊でバプテスマを施す者である』とわたしに言われました。34 そしてわたしは[それを]見たので,この方こそ神の子であると証ししたのです」。


マタイ 3:13
13 その時,イエスはガリラヤからヨルダンに,ヨハネのところに来られたが,彼からバプテスマを受けるためであった。14 しかし,[ヨハネ]は彼をとどめようとして言った,「私こそあなたからバプテスマを受ける必要のある者ですのに,あなたが私のもとにおいでになるのですか」。15 イエスは答えて言われた,「この度はそうさせてもらいたい。このようにしてわたしたちが義にかなったことをすべて果たすのはふさわしいことなのです」。そこで[ヨハネ]はとどめるのをやめた。16 バプテスマを受けたのち,イエスはすぐに水から上がられた。すると,見よ,天が開け,[イエス]は,神の霊がはとのように下って自分の上に来るのをご覧になった。17 見よ,さらに天からの声があって,こう言った。「これはわたしの子,[わたしの]愛する者である。この者をわたしは是認した」。



これらの記録は、イエスのバプテスマが罪人のバプテスマと異なっていることを示しています。

それは、メシアを世に紹介するためのもので、バプテスマのヨハネの弟子たちはイエスの弟子となりました。


ヨハネ 1:35-42
35 また次の日,ヨハネは自分の弟子二人と一緒に立っていたが,36 イエスが歩いておられるのを見て,こう言った。「見なさい,神の子羊です!」37 すると,その二人の弟子は彼が話すのを聞いてイエスのあとに付いて行った。38 そこでイエスは振り向いて彼らがあとに付いて来るのを見,こう言われた。「あなた方は何を求めているのですか」。彼らは言った,「ラビ(これは,訳せば,師よ,という意味である),どこに滞在しておられるのですか」。39 [イエス]は彼らに言われた,「来てごらんなさい。そうすれば,あなた方は見るでしょう」。こうして,彼らは行って,[イエス]がどこに滞在しておられるかを見,その日は彼のところにとどまった。それは第十時ごろであった。40 シモン・ペテロの兄弟アンデレは,ヨハネの語ることを聞いて[イエス]のあとに付いて行ったその二人のうちの一人であった。41 この人はまず自分の兄弟シモンを見つけて,「わたしたちはメシアを見つけた」と言った([メシア]とは,訳せば,キリストという意味である)。42 彼は[シモン]をイエスのところに連れて行った。それをご覧になると,イエスはこう言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(これはペテロと訳されている)と呼ばれるでしょう」。



イエスのバプテスマは他のバプテスマと同じようにみなすことはできません。


ものみの塔の説明は聖書を無視した都合のいい自己主張にすぎません。
その目的は、ものみの塔協会に献身する信者を作ることです。

ですから、ものみの塔協会によって真のクリスチャンは生み出されません。

編集者 sk (2015年07月21日 21:58:28)

オフライン

#49 2015年07月21日 22:30:54

yangmask
ゲストユーザー

Re: 組織の改善に関する議論

なるほど、勉強になります。

ヘブライ10:9の「ご覧ください、わたしはあなたのご意志を行なうために参りました」はどうでしょうか。

イスラエル国民の場合、それはモーセの律法に基づく献身であったと言えると思います。(コリント第一10:2、「モーセへのバプテスマ」)。しかし、イエスはキリストの律法に基づき献身したのではなかったでしょうか。

それは、上の聖句の文脈にもあるように、自己犠牲の精神を伴うものでした。実際、ローマ6:3は「キリスト・イエスへのバプテスマを受けたわたしたちすべては、その死へのバプテスマを受けたのです」とありますね。


-----


ところで、実は私も組織の外にいる人間の一人です。ですから、組織の外にいて尚、信仰を保っている人がいるであろうことには同意します。

それに、組織の改革は絶対に必要であるという点も同感です。ただし、それは単なる人間的な方法でではなく、飽くまでも神の方法によらなければならないというのが私の持論ですね。

私の組織に対する見解は私のサイトにありますので、ご参照いただければと思います。

https://sites.google.com/site/jwbibleprophesy/00

-

#50 2015年07月21日 23:14:56

カレブ
Administrator

Re: 組織の改善に関する議論

yangmask さんの発言:

それは、上の聖句の文脈にもあるように、自己犠牲の精神を伴うものでした。実際、ローマ6:3は「キリスト・イエスへのバプテスマを受けたわたしたちすべては、その死へのバプテスマを受けたのです」とありますね。

Yangmaskさんの頭の中では「バプテスマ=献身」の図式が出来上がってるので
エホバの証人の組織が求めているようなアイデアにつながるんでしょうね。
「死」というものが「自分を殺す」みたいな感じの意味では
文脈は語られていないと思います。

罪に関して死んだ者になるという概念はありますが、
それはエホバの証人が「献身」から思い浮かべがちな
宗教活動に従事するという概念ではないと思います。

ロマ書は律法主義的なユダヤ人の概念否定するのが全体的な流れです。

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