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#526 2017年02月02日 18:40:35

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

てつてつさん
「愛と心理療法」はわたしが心理学の本を
読み始めたころ出会いました。
原題は「行く人の少ない路(みち)」だったと思います。
一言でいうのならあえて苦痛を受け入れて
自分の精神的な成長を突き進もうとすることだと思いました。
JWになってしまうと精神修養がほとんどありません。
統治体の言いなりになり自分で考えませんから…。
この本に示されている「愛」の定義も興味深いです。
「愛」でないものも説明されていました。
聖書でパウロが述べている「愛」もいいのですが、
別次元で考察されています。
聖書だけがすべてではないと思ったものです…。

この本の最終章で「神の恩寵」が説明されていました。
新世界訳聖書は「神の過分のご親切」と訳しているところです。
王国行間逐語訳ではただ一言「神の恵み」でしたね。
この恩寵が人間生活においてどのように具現するのか、
実際例を挙げて説明されていたところが、
わたしのお気に入りでした…。

てつてつさんは
聖書が真実神の言葉で歴史上の真実な出来事かどうか、
苦悩して模索するだけの精神的向上心があるので、
精神科医、あるいはカウンセリングは
不要だとわたしは思います。

オフライン

#527 2017年02月02日 18:47:36

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

Gメン75は見た記憶がありません。
その前の「キーハンター」ははっきり思い出せます。
出演メンバーがほとんど同じだったではないでしょうか。
わたしが脱塔した自分を納得させるため、
繰り返し見続けたのは
韓国ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」があります…。
これも傷ついた心を癒してくれたと思うのですが…。

オフライン

#528 2017年02月03日 00:43:28

1,000時間奉仕者
ゲストユーザー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

「チャングム」で癒されましたか……>ラハムさん

皇帝のお抱え料理人(お医者さんかな?)の話でしたっけか…。李英愛が美しかったですね。

韓ドラはとにかく長ーいのが苦手で、私は部分部分しか見ていません。何しろ大好きな「キム・サムスン」(← 趣味が悪いでしょ f(^^;) ですら始まって10話もたずに脱落した根性ナシですから。

「自分を納得させる」こととチャングムとどんなつながりがあったんですか?

#529 2017年02月04日 10:06:59

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

1,000時間奉仕者さん、
白い巨塔のセリフを言えるってすごいですね。
わたしも最初見たのが唐沢版でしたから、
こちらのほうが印象が強いです。
これを見てから直接小説を読みました。
白い巨塔もチャングムも組織が大きくなりすぎると
どこでも同じような傾向が生じるんだってわかりました。
JW組織も例外でないって認識できて
妙に自分を納得させられたんです。
脱塔した理由を正当化する助けになりました。

脱塔して自由になりつつあり
人としての感情に素直になれました。
だから今日は父親の法要にこれから参加するのです。

オフライン

#530 2017年02月09日 16:23:59

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

脱塔したころは法要など仏事に参加するのは大きな抵抗でした。
なんだか悪いことをしているような感覚があったようです。
しかし、10年以上の歳月が経過しました。
先週末、102歳で亡くなった父の第三回忌に参加したのですが、
脱塔初期にはあった違和感がなくなったのです。
抵抗感がなくなったというのか…。

脱塔したころだったでしょうか、
JWも同じように死んだ人の
第何回忌というのをしていることに気づきました。
毎年定期的にしているイエス・キリストの死の記念式ですね。
仏教的にいうなら1900何回忌ということだと思います。
もうしばらくすると2000回忌にもなるでしょう。
こう主張すれば、JWは意味が全く違うと反論するでしょうね。
JW流聖書解釈によれば、キリストが全人類の贖いとして
亡くなられたことを感謝し、思い起こすためであって、
一般人が亡くなったことを
思い出すのとは意味が違うと言うでしょう。

JWからすれば、キリストも一度は人間でした。
杭にはりつけになり死んだことは間違いありません。
死んだ人を毎年同じ時節に思い出すことには違いありません。
そのような意味では第何回忌と同じだと思いました。

死んだ人を拝むのは偶像崇拝だとも言います。
わたしも現役時代はそう考え、崇拝行為は避けていました。
脱塔近くなってこれはケチな料簡だと思うようになったのです。
拝む行為だけしか考えていません。
でも、第何回忌法要というのは、
生き残った親族が集まりあい元気な姿を確認する
とても良い機会だと思えるようになったのです。
そして、薄れゆく亡くなった人を思い出し、
人生における別れに自分の気持ちを整理することになります。
また、伝道の書などでも述べられていますが、
自分の生き方を振り返り再吟味するチャンスにもなります。
あるいは、死んだ人を敬う気持ちも大切だと思います。

JWは崇拝行為という観点からしか物事を見ようとしない、
とても狭量な宗教でした。しかし、その束縛から離れ、
人間として素直な気持ちで亡くなった人を大切にし、
親族との交友関係を今しばらく保てるのは
とてもさわやかなことです…。

オフライン

#531 2017年02月10日 23:59:57

1,000時間奉仕者
ゲストユーザー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

法事ですか……考えさせられるものがありますね。

未信者のまま死んだウチの父はなかなか理解のある男でした。

「オレ自身はしないが、オレが死んだら好きなようにせい」みたいな “青竹割ってヘコにかく” 親父。JWの教理には賛同しないくせに自らの外科手術には「輸血を避ける方向で頼んます」的なお願いを主治医にしたり(笑)。

死後の扱いも「お前らの好きにしな」と言い残して、我々家族の目の前でリアルタイムで息を引き取りました。面倒くさかったのはその他の遺族の方で、基本的にお墓や法事を大切にする系の親族だったため、未亡人である母親の希望をできるだけ尊重しつつ、可能な限り仏式のしきたりに沿いつつも、譲れないところはおカネで逃げる?みたいな敬虔なJWなら目くじら立てそうなかわし方でシノギました。

死後数年で分かったことですが、我らが一族も一枚岩ではなく墓や法事にはそれぞれの考え方が色濃く反映されていて、実にドライに「死」を捉えている者もいれば、あくまで墓石にこだわる義兄弟もおり、最も顔を立てるべきはだれか?を的確に判断するのがいちばん重要なことらしい、ということです。

すべての仏教徒がそうだというつもりはありません。現代のように一族が東北・東京・名古屋・四国・九州……と散らばって住んでいる状況がある限り、死んだ兄弟姉妹についての感じ方には大きなバラツキがあるわけで、実際その後まもなく死んだ忠実なJWの母親の肉親たちは、びっくりするほど母の死に対して淡泊でした。それは母がJWであることとはほとんど関係ないと思います。

このテの話、掘り下げればいくらでも出てくると思いますので、じっくり意見を交わしましょう。

#532 2017年02月15日 21:46:01

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

母が死んだ20年近く前、
わたしはがちがちのエホバの証人信者だったのです。
だから、葬儀には参加せず、手も合わせませんでした。
父は、それを見てわたしに向かい、
「いい死に方はしない」と言いました。
「いい死に方ってどういう死に方なんだろうって」
ずっと思い続けて怖かったのです。
父は先祖を大切にしてずっと手を合わせていたのですが、
父の死んだころの様子を振り返ると
その死に方はほんとうによかったんだろうかって、疑問です。

きょう、読んでいた「ナザレのイエスは神の子か」に
説明されているイエスの死に方を読んでみると。
彼の死に方の手順が人類史上最悪だったと思います。
読んでいて気持ち悪くなり吐き気がしてきました。

編集者 ラハム (2017年02月15日 21:47:26)

オフライン

#533 2017年02月15日 22:37:22

ルツとリカ
ゲストユーザー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

1000時間奉仕者さんの白い巨塔の捉え方が今までになく新鮮で面白いです。

財前に対してそういう見方をする人もいるのだなと。
むしろ里見が超人過ぎて現実離れしているという意見も、何気に納得できます。

どっちが理想の医者か、ではないですものね。
それぞれの信念を持って医療と向き合う二人の男の生き様と、感情のもつれ合いの話と捉えるなら、非常に読み応えある作品だと思います。

あとGメン歩きの話で盛り上がってますが、興味があったので動画を見ました。
私が交わっていた会衆は、会館から3分ほど離れたところにある駐車場を長年借りていて、皆そこからゾロゾロと歩いていたのですが、
思いっきりGメン歩きそのものだった気がします。。

特に女同士でペチャペチャと喋り出したら周りが見えないなんてよくあることですし、
夜の集会ともなれば、生活道路を利用するクルマも多く、傍若無人な横歩きをして後ろからクラクションを何度鳴らされたか思い出せない。
それでも反省することなく、ひどくみっともない光景の中に自分もいたのかと思うと、人としてとても恥ずかしくなります。

先日、あからさまに迷惑な路駐をしている信者の車が何台も目に留まり不愉快極まりませんでした。
しかも、留守中の自宅インターホンにしっかりとその車の持ち主と思われる女性の姿が録画されており、朝と昼と二回も訪ねてきた様子でした。

今度、私の在宅中に訪ねてこようものなら、車をどこに止めているのか尋問したいです。

コンビニの駐車場に停めたとしても、帰りに98円の水を買えばいいだけなのに。(それでもモラル的にアウトか?)
私が、やむなくコンビニの駐車場を1時間お借りするとしたら最低300円の買い物はしますがね。

エルサレムの神殿まで3日かけて往復していたイエスの家族の記事に感銘を受けるほどなのだから、区域内を歩いて移動したところで運動になるし時間も稼げるのに。

#534 2017年02月16日 17:40:15

akame
ゲストユーザー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

ラハムさん

>JWは崇拝行為という観点からしか物事を見ようとしない、とても狭量な宗教でした。しかし、その束縛から離れ、人間として素直な気持ちで亡くなった人を大切にし、親族との交友関係を今しばらく保てるのはとてもさわやかなことです…。


まさに実感しています。

#535 2017年02月16日 20:00:56

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

わたしも含めて大勢の生き残ることを
余儀なくされた人たちは、
亡くなった人たちと別れることなど
たやすくできることではないというのが本音です。
それぞれの気持ちを大事に扱うことをどこかに置き忘れた
宗教がJWの教義だと思います。

仏教の法要は亡くなった人たちと別れつつある人々の
感情を癒し大切にする行事だとわたしは思います…。

オフライン

#536 2017年02月17日 00:22:01

1,000時間奉仕者
ゲストユーザー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

近年は親族の関わりがドンドン薄く少なくなってきて、法事くらいしか一同が集まるチャンスがない、という側面も大きいかと思います。

ウチの爺ちゃんだったか婆ちゃんだったか忘れましたが、死んだとき通夜・告別式・初七日をいっぺんにやる、という暴挙(笑)を提案した親族がいて、しかもそれが採用されましたから驚いたのなんの。

聞けばやはり、というか、多くの関係者が遠隔地に散らばっているので3回も来られない、このワンチャンスしか集合できないとのこと。しかもこれって結構あるあるな方法なんだそうで二度ビックリでした。

>ルツとリカさん

仲良くしてた兄弟がJWの駐車マナーの悪さについてため息をついており、なかでもご指摘のコンビニP利用について腹を立てていました、「失礼だ」と(買い物すべき、の意)。

ただ彼も貧乏開拓者なのでP拝借が嵩んでくると資金繰り?に苦労し、「この間、¥0で立派な “コンビニ客” になる方法を見つけた」というので「何?」と訊くと、「ATMで残高照会してレシートを持ち帰ること!」

このドロボーめ、小賢しい手を考えつきやがって!(笑)

#537 2017年02月23日 15:30:34

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

歩行障害者には「駐車禁止除外車両」の許可証が
公安委員会から交付されていて、
駐車禁止場所に駐車しても違反にならなかったのです。
現在は自動車に交付されるのでなく障害者当人に交付されるので、
乗せてもらえる自動車ならどれでも違反になりません。
現役時代はこのステッカーを利用して
ずいぶんと野外奉仕に参加したものです。
健常者の友人からも仲間のJWからうらやましがられました。

ところが脱塔ししばらくしてこのステッカーが
ほとんど役に立たなくなったのです。
それは、駐車禁止場所に駐車できるのですが、
駐車する方法に少しでも違法性があれば、
即駐車違反にされるよう厳密な道交法の適用になったからです。
たとえば、駐車車両から右側に余地を残すとか、
路側帯のある場所の駐車方法、交差点から5メートル以内は避ける、
消化栓から1メートル以上離れるなどなどです…。
この駐車方法をすべて満足させることは
都会の道路では非常に困難になりました。
以前は、ステッカーを表示すれば、これらの方法に関する
道交法の適用を大目に見て違反になりませんでした。
わたしが現役を離れてからの出来事だったのです。

地元王国会館の集会出席のときもどうどうと
路上駐車し二時間以上集会に出ていました。
でも、現在は厳密に解釈すれば、
王国会館周辺の路上もステッカー表示でも
違法駐車になります。

わたしのところに時々やってくる長老は
巡回訪問があるからとか、特別講演だからとか言っては
わたしに集会出席を促すので、
そのような事情の変化を説明したことがあるのですが、
だれひとりとして交通手段を提供してくれる
JWはいません。自力でやってこいというわけです。

わたしが現役だったとき、
高齢者や乳飲み子のいる姉妹たちの
送迎を自分から申し出て助けていたのですが、
わたしには何もないんだなあと薄情さを感じます。
中野っちさんのブログでは記念式で不活発者にも
自動車の送迎をするよう統治体から指示があったと
いうことですから、わたしにはどうしてくるのか
様子見しようと思っています…。

オフライン

#538 2017年02月24日 08:40:43

ルツとリカ
ゲストユーザー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

ラハムさん、おはようございます。

そのような時代があったのですね!
まだまだJWに優しかった時代というべきか。。
けれど、それでラハムさんを羨むのはどうかと…(汗)

私も思い返せば現役時代、とっくに覚醒していたものの「月に1時間だけでも入れるように」と言われ、嫌々ながら宣教に参加していた頃、至る所で路駐禁止の場合は舌打ちしていたような気がします。

そう言えば、脱塔直前に、歩行に何かしらの不具合がある方が研究生として熱心に交わっていたことがありました。
詳しくは分かりませんが、本人は持病の副作用で歩き方がおぼつかないと言っていました。

しかしある時、「家から徒歩15分の距離も歩いてこれないようならもう来なくていい」と研究司会者に言われたそうです。

と言うのも、その方はあまりに教えに啓発を受けすぎて、神権宣教学校に入る前から「自分はエホバの証人だ」と触れ回っていたことも関係あるのかもしれませんが、

そこまで熱心なら、研究司会者の車をアテにしないで自分で王国会館まで来いと言われたのだと言っていました。(彼の話がどこまで本当かわかりませんが)
その後彼がどうなったのかは分かりません。

その一方で、神権宣教学校に入っていない(見るからに暇つぶしで入る気がない)研究生を足繁く援助しまくり、王国とは関係のないプライベートでもアッシーを務めている人もいました。

「何もその方にそこまでしなくても…」という周囲の声を無視し、「愛の組織だからこれぐらい当然。私がやりたくてやってあげている」という感じでした。

いずれにせよ、のめり込みすぎはバランス感覚を失うものだということを俯瞰している今日この頃であります。

#539 2017年02月25日 18:32:18

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

ルツとリカ さんの発言:

そう言えば、脱塔直前に、歩行に何かしらの不具合がある方が研究生として熱心に交わっていたことがありました。
詳しくは分かりませんが、本人は持病の副作用で歩き方がおぼつかないと言っていました。

障害者のわたしも大歓迎してくれるのだから、
さぞ、すばらしい、世界唯一の宗教だと思い込まされたのが、
わたしの人生行路の過ちだったのです。
障害者が歩く15分と健常者の感覚で15分歩くのは
意味が全く違うということに気が付かないのが、
JW教義によって感覚まひが生じているところだと思います。
もっとも、この点いわゆる世の人と大差ないところが、
世界一の真理を標榜する宗教の悲しいところです…。

オフライン

#540 2017年03月05日 21:01:54

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

最近、N・Tライトの
「新約聖書と神の民」を読み進んでいます。
600ページ以上ありますので、
読破にはこれまで以上の根気を要求されています。
JWと似ているところもあるのですが、
別次元で聖書について説明をしているので、
読んでみる価値があると思います…。

オフライン

#541 2017年03月05日 21:23:57

てつてつ
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

自分も ちょこっとだけ よみましたが挫折しております がんばってください

オフライン

#542 2017年03月08日 18:07:53

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

ことしで正式なJWになって40年になろうとしています。
多少の喜びもありましたが、苦しみ、困惑、疑念などを
胸いっぱい味わうことになってしまいました。
振り返ってみると、JWに関係しなければ、
聖書という書物について知ることがなかったでしょう。
間違いの多い組織でしたが、直接聖書を読んでいましたので、
JWTCなどに出席し、聖書のお話を聞いても、
それはどこそこに書かれていた内容だと
心に浮かべることが容易です。
最近説明を聞いていてなるほどと思うことがありました。
それは聖書を「物語」として読むというものです。
聖書の内容をいささかでも知るものとして、
物語として受け入れ、読むほうがすっきり感があります。
説明でN・Tライトに言及されることが多いので、
彼の著作である「新約聖書と神の民・日本語版」を
通読し始めました。てつてつさんのいうように
難しい言葉がたくさんあらわれ、理解に難儀しました。
でも、歯を食いしばり中ほどまで来ています。
サロン出席時に説明のコピーをもらいました。
聖書を物語として読むことをやさしく説明しています。
以下、転載内容です…。

聖書批評学では、1980年代になると、
聖書を物語と見なして研究する方法が盛んになります。
「物語」と言われると、すぐ伝説、神話、
フィクションなどを連想する人も多いでしょう。
しかし、人類の歴史において「物語」が
果たした役割を理解しますと、
それが間違いであることがわかります。
実は、物語は古くから存在した、
人類にとって最も基本的で普遍的、
かつ効果的なコミュニケーションツールです。
古代の人々があるメッセージを代々の世代に伝えようとする場合、
「物語」以外の伝達手段はありませんでした。
日本人も太古の昔から、自らの起源や歩みを
「物語形式」で伝承してきました。
古代オリエントの世界も同様です。
物語は、古今東西を問わず、自らの存立を
表現する人類共通の手段だったのです。

神が人間に「神ご自身の御思いやご計画」を伝えようとする
場合にも、「物語形式」が用いられました。
現存する66巻からなる聖書は、まさにそのような書物です。
ところがキリスト教界は、長い間「聖書は命題的な真理を
啓示している書物である」と考えてきました。
その結果、聖書は神に関する真理が明らかにされている書物、
黙想などをとおして神との交わりを実現する書物、
人間の道徳や倫理、生き方や処世術を説いている書物、
歴史や科学を教えている教科書のような
書物として扱われてきました。
むろん、このような活用方法のすべてが間違っているなどと
言いたいわけではありません。むしろ、もし聖書が
物語形式で啓示されているとすれば、従来の読み方は
かなりピント外れであり、「誤りがあるかないか」
というような問いを発すること自体、
お門違いなことをしている、と申し上げたいのです。

一文字ずつ入力していて、ちょっと長いです。
あす、体力があれば続きを転載する予定です…。

編集者 ラハム (2017年03月09日 17:18:24)

オフライン

#543 2017年03月08日 18:59:42

(Chimera)
ゲストユーザー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

で、その物語というのは、実際に起きた事実ではなく、古代の人々が信じた信仰の記録という意味ですか?
あるいは単に何らかのメッセージを伝えるための創作話?
中澤さんはどのように理解しているのだろう。

#544 2017年03月08日 19:33:07

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

わたしは一歩も立ち上がって歩けないのです。
そのわたしが人力車いすを二の腕で転がして得た情報です。
電動式は使っていません、電車二つを乗り継いだのです。

もし、あなたがほんとうのことを知りたいのであれば、
二本足で歩行可能だったら、
ご自分で移動方法を確保できるのなら、
ご自分で中澤氏に質問してください。
きつい返事でしょうが、
ほんとうに真実を知りたいと強く願うなら、
死に物狂いの努力が要求されていると思います…。

わたしはそれでも真実が知りたいのです…。

編集者 ラハム (2017年03月08日 19:34:39)

オフライン

#545 2017年03月09日 17:19:36

(Chimera)
ゲストユーザー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

聖書の中にあり。

#546 2017年03月09日 18:08:20

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

きのうの続きを転載してみます。
これを読む限りJWの聖書解釈に非常に似ています。
ただ、天に行く人が144,000人だとか
残りは地上で暮らすことになるなどというところが
異なっているような気がします。

これまでは、組織の出版物だけから主に
聖書の解釈を学んでいましたから、
組織以外の人たちがどのような解釈をしているのか、
十分知ってから聖書に対する評価や判断を下してみようと
思って、現在のところ聖書を神の目的に関する
物語であるという説明に行きあたっているのです。
とても参考になる見識だと考えています…。
以下、転載のつづきです。

聖書とは「人間が神の造られた世界をどのように
治めたらよいのか」を中心テーマにした「神の物語」です。
それは、六幕から成り立っているドラマに
見立てることができます。
第一幕は、神が全被造物を善きものとしてお造りになり、
その最後に人を「神のかたち」に造られ
この世界を治める使命を与えられた、というストーリーです。
続く第二幕は、そのような使命を課せられた人間は、
神が禁じられた「善悪を知る木」の実を取って食べ、
神の戒めに背き、神が期待された使命を果たせない存在に
化してしまったと伝えます。
第三幕では、そのような人類に対し、神はご自身の民
イスラエルを選び、
彼らに被造物管理の責任をゆだねるのですが、
その民もまた神に従うことに失敗し、
捕囚という神の裁きを経験します。
第四幕では、神は、独り子であるイエスをイスラエルの使命を
全うする「真のイスラエル」としてこの世界に派遣し、
死と復活をとおして人間の贖いを成し遂げ、
イエスを信じるクリスチャンを「キリストの共同相続人」
として贖われます。
第五幕は、このイエスによって贖われた
クリスチャンは、聖霊を受けて神の子になり、
キリストが支配する「神の国」において、最初の人間に与えられた
「被造物管理の使命」を「王なる祭司」として
全うするというストーリーです。
そして第六幕は、終わりの日にキリストは再臨され、
天(神の支配)は地に降りてきて、「再創造の世界」が
完成されるというものです。

この物語の原作者は神です。物語の主人公もまた、神ご自身です。
そして、実際に舞台で演じているのは人間です。
しかも、この物語の第五幕は、今なお現在進行形で進められています。
そこで大切な役目を果たしているのは、何と「あなた」であり
「わたし」です。聖書は過去の歴史物語を楽しませてくれるだけの
書物でも、未来の再創造物語に希望を抱かせてくれるだけの
書物でもありません。イエスに贖われた
クリスチャンたちが皆、現役スターとして、
神の物語を創作し、演出し続けている書物に他なりません。

編集者 ラハム (2017年03月09日 19:06:16)

オフライン

#547 2017年03月10日 14:05:07

鬼太郎
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

ラハム兄弟 簡潔で理解しやすい、整理した説明に感謝します
現在進行形の舞台で演じている自分達の存在という説明も受け入れやすいです。
全てを楽園待ちにするJW教理と、その教理を前提とした組織の仕組みでは、、、
現在進行形の犠牲者を作るだけですから、、、。

オフライン

#548 2017年03月10日 19:40:56

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

これまでの二つのトピックで転載した、
聖書を物語として読むという説明文は、
『物語の世界で「無誤性」は問題にならない」という
中沢啓介氏が「船の右側」誌に寄稿した記事からものです。
決してわたしの著作ではありません。
文字データはありませんから、
コピー文章を見ながら入力しています。

JWだったとき「無謬」という言葉は聞いていたのですが、
聖書に関して「無誤」ということは聞きませんでした。
「聖書は無誤である」という考えの歴史、
「無誤性は聖書的か」という記事の後で
「聖書は物語である」という記事に続いていました。
この最後の部分を転載したのです。

とても興味深い内容ですから、
体力の許すときに転載してみようかと思っています…。

オフライン

#549 2017年03月12日 19:20:24

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

じっくり読み返すと
現代のJWも聖書の「無誤性」を証明しようと
やっきになっているグループの一部に思えてきました…。
以下、転載です-

-無誤性が出てくるまで-

初めに「聖書は無誤である」という考え方が
出てきた背景を考えてみましょう。
今から500年ほど前、カトリック教会の
堕落を憂えた人たちが「聖書のみ、信仰のみ、万人祭司」の
三つの旗印を掲げ、宗教改革運動を展開しました。
改革者たちは、カトリックが自分たちの伝承を重んじて
聖書から逸脱したことを批判しました。
その批判に対しカトリックは「法王の無謬性
(infallibity)」という教義を持ち出して反論しました。
それに対しプロテスタントは「聖書のみ」を主張し
「聖書の無謬性(infallibity)」を表明しました。
時が進み18世紀になると「聖書批評学」が盛んになります。
その学問では、聖書は古代オリエントで発見された文献の
一つにすぎないと見なされ、
考古学上で発見された様々の文献や資料、
遺跡などと比較検討されるようになりました。
その結果、聖書に含まれるそれぞれの書物は、
著者の信仰や世界観、言語能力や表現力、
時代思潮や精神風土、論理力や文学類型などの
制約内で執筆されていることが明らかにされました。
プロテスタント主流派(Mainline)は、
このような学問的な成果を当然のこととして
受け止めましたが、福音派(Evangelical)は
一般的に「聖書は神によって霊感されたので、
他の文献と同じような人間的・時代的な
制約を受けるはずがない」と主張し、批判的でした。

18世紀から19世紀にかけての聖書批評学は
「現存する聖書は元々どのような資料を基にして
作り上げられていったのか」という
問題を究明しようとしました
(これは「資料批評」と言われます)。
ところが20世紀初頭になると「そのような個々の資料は、
どのような共同体がどういう状況に置かれた時に生
み出されたのかか」ということが問題にされました
(これは「様式史批評」と言われます)。
さらに20世紀も後半になると「それらの資料を
今日の聖書の形にした編集者の意図や神学は
どのようなものだったのか」が盛んに論じられました
(これは「編集史批評」と言われます)。
そして20世紀も終わりに近づくと
「聖書は一つのまとまった物語である」と
見なされるようになり、その物語をどのように
解釈したらよいのかが大きな問題になりました
(これは「物語批評」と言われます)。

福音派の聖書学者は、初期段階の資料批評や
様式史批評に対しては否定的でしたが、
編集史批評の頃から好意的になり、聖書を客観的、
学問的に読むメリットに理解を示すようになりました。
そうなりますと、
聖書の中には一見矛盾に見える箇所
(例えば、福音書間で)
数字の食い違い
(例えば、列王記と歴代誌の間で)
一般の科学や歴史と矛盾する記述
(例えば、創世記の天地創造とビッグバン理論や進化論の間で)
など一つ一つに丁寧に弁護する必要が生じます。
そのような作業に頁摯に取り組もうとする人々は、
宗教改革者たちの主張した「無謬性」は信仰告白的な
神学用語であり、実証的なニュアンスの言葉ではない、と
見なしました。それに対し「聖書は神の霊感を受けて
書かれた神の言葉である以上、矛盾など一切存在しない。
歴史的にも科学的にも誤りがあるはずはない」と
強力に主張する人々が現れました。
彼らは「無謬性(infallibity)」という言葉では飽き足らず、
「無誤性(inerrancy)」という言葉を使うべきだと主張し始めました。
こうして、無謬か無誤かという論争が始まったのです。

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#550 2017年03月13日 06:10:25

てつてつ
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会~酸いも甘きもわたしのJW人生~

ラハムさん よく調べていただいてありがとうございます 自分は聖書が神の言葉ではないと感じるようになってから全く読まなくなってしまったんですけど cry  ラハムさんはがんばってください

編集者 てつてつ (2017年03月13日 07:04:45)

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