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#1 2013年03月01日 22:49:15

もんもん
メンバー

聖書を直接引用しないで聖書の疑問を話合おう

新しいトピックを作ってみました。自分の言葉で表現したいなぁと思っている方向けです。もし興味があれば、書きこんでください。

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#2 2013年03月04日 13:18:16

悠木
ゲストユーザー

Re: 聖書を直接引用しないで聖書の疑問を話合おう

そんなに深い意見を持っているわけではないのですが、聖書、とくに旧約聖書は、女性蔑視的な印象がありまして、ちょっとなァと思っていたりします。
あと、エホバの証人時代には、「聖書には一貫性がある」とよく言われていましたが、私にはどうもそうは思えなくて。
作家の平井和正さんが、「聖書の神さまって、多重人格みたい」と書いておられたことがあって、「あーその感想ワカル」と思ったものです。
聖書がお好きな方にはすみません、こんな書き込みで…。

#3 2013年03月04日 22:04:02

もんもん
メンバー

Re: 聖書を直接引用しないで聖書の疑問を話合おう

悠木さん

ようこそ。ここでは否定しあわずに、聖書の感想や疑問などを書き込めたらいいなぁと思っています。悠木さんは、どんな点が多重人格だと感じていますか。怖かったり、愛があったりするようなところですか。

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#4 2013年03月04日 22:35:22

カレブ
Administrator

Re: 聖書を直接引用しないで聖書の疑問を話合おう

(申命記 22:28‐29) 「人がある娘,すなわち婚約していない処女を見つけ,これをとらえて共に寝,その者たちが見いだされた場合,29 彼女と寝たその男はその娘の父に銀五十シェケルを与えなければならない。そして,その者が彼女を辱めたゆえに,彼女はその者の妻となる。その者は[命の]日の限り彼女と離婚することを許されない。

女は所有物
結婚前はお父さんの所有物。
結婚後は夫の所有物。

この考えは当時の世界では当たり前でした。

女性や平等人権意識が強くなったのが世界ではキリスト教系の国が
早かったのですが。これが単なる偶然(たまたま文明国)だったからなのか、
あるいは何らかのキリスト教会の教えが文化に影響したのか、この点については
意見がわかれると思います。わたしも関心がある分野です。

ちなみに、上の聖句に対する、ものみの塔の説明もなかなか面白いです。

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#5 2013年03月05日 07:26:14

悠木
ゲストユーザー

Re: 聖書を直接引用しないで聖書の疑問を話合おう

浅学の身でお恥ずかしいのですが、そうですね、ある場面ではとても寛大で、「愛のある神さま」というイメージで、かと思えばある場面ではとても苛烈で、人をガンガン殺してしまうというイメージがあります。
古代イスラエル人の神、イエスが思い描いていた神、パウロが思い描いていた神、どれも、それぞれの個性や理想が反映されている神さま観であって、「ひとつの人格神」と捉えることに無理があるような気がしています。
個人的な立場としては、無神論者でございまして。いえ、もちろん、よほど原理主義的な方でないかぎりは、有神論者の方とも仲良くさせてもらえたらなと思ってはいるのですが。
最近は、リチャード・ドーキンス著『神は妄想である』を大変面白く読みました。
で、この本に対する有神論者の方からの反撃であるA・E・マクグラス&J・C・マクグラス共著『神は妄想か?』をこれから読むところです。
アホなので難しいお話はなかなか理解できなかったりするのですけども(^^;

#6 2013年03月05日 08:48:47

sk
メンバー

Re: 聖書を直接引用しないで聖書の疑問を話合おう

おはようございます。

女性の平等にかんする神の見方と思われるjw研究さんの指摘について

申命記の要求(申命記 22:28‐29)
「人がある娘,すなわち婚約していない処女を見つけ,これをとらえて共に寝,その者たちが見いだされた場合,29 彼女と寝たその男はその娘の父に銀五十シェケルを与えなければならない。そして,その者が彼女を辱めたゆえに,彼女はその者の妻となる。その者は[命の]日の限り彼女と離婚することを許されない。



モーセの律法によるレイプ犯罪の扱い
犯人は娘の父親にたいする罰金と娘を妻として扶養する責任が課される。
見方を変えるとレイプされた娘の立場は結婚と同じように保証されています。
この扱いに神の側の女性に対する気遣いを見出せます。



今日の司法制度でこれはどのように扱われるか。
被害者が裁判を起こさない限り犯罪者は何の義務も負わない。
これは神を知らない人間のお粗末な公正と、口先の上での平等の結果であると思います。

義理の兄にレイプされたら 罰金はいくらもらえますか?を参考に見てください。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa … 1383924758

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#7 2013年03月05日 12:29:39

カレブ
Administrator

Re: 聖書を直接引用しないで聖書の疑問を話合おう

有神論者の方からの反撃であるA・E・マクグラス&J・C・マクグラス共著『神は妄想か?』をこれから読むところです。

日本語でこれが出てるの知りませんでした。
これは読みたいと思って、近所の図書館データベースで検索したら、置いてませんでした・・・・
ドーキンスのものと一緒に読んだらおもしろそうですね。

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#8 2013年03月05日 22:40:19

akame
ゲストユーザー

Re: 聖書を直接引用しないで聖書の疑問を話合おう

「この世界の実体」「人間と神など」謎が多いのですが、聖書の神でしたら既に疑問を越えて自分の中では結論が出ています。

古代の拙い時代を反映した神です。自然界への脅威、病死や事故死、その他不条理な死(または罰)を神がもたらしている
との考え方が中心なので「神の怒りをなだめる」ことが聖書の基本的な軸のひとつとなっています。

たとえばレビ記3章などを読んでも分かりますが牛やヤギ、羊など多数の家畜が「エホバに捧げられて」います。
日によっては数千匹以上の動物や家畜が裁断で焼かれたり内臓がばらばらにされていたりします。
(仕方なしに肉を食べ始めた人間にしては)

それらの家畜を殺す場面をみたことがありますか?各種動画でもあります。
家畜を殺すとき、子供たちの多くは泣きます。飼えば本当に可愛くて情が移るからです。

それを命令規定したりして、そのおびただしく流れる肉の焼ける匂いを人間からの捧げものとして
喜んでいる時点で私的には「聖書の神は低級神」となります。

それでは野蛮すぎるとイエスの犠牲と関連つけられてはいますが「どれだけなだめなければ
ならない神なのでしょう。

それでも神に文句いわず従うべきとの論理展開したのが「ヨブ記」となります。ところがこのヨブ記の神が
また実に不条理でサタンと取引して「子供たちを殺します:サタンが実行したが同じこと:ヨブにはそのことが
しらされない」

そりゃそうでしょう。

「あなたがどれほど神からの仕打ちに耐えられか、それでも神を呪わないか、サタンの挑戦に応じたので子供を
サタンの力でシバ人を使い殺させました」

サタンの仕打ちよりもこの告白のほうが耐え難いかもしれません。

理由をいわなくて子供たちを死なせましたが子どもたちも同数与えました。祝福?

知っていますか?愛情深い親は亡くなった子供の日数を数えていることを?
ひとりの子供の死は人生でどれほどの悲しみをもたらすか?生きていればともに得られたであろう
経験の喪失感の深さを?新たな命が悲しみを癒す?

本当の人間の情を知らない、あるいはそんなことには疎い神を連想させる記述に満ちているのが
聖書です。(特にヘブライ語聖書:それでは神と人間との溝が埋まらないと悟ったのがイエス)

取り急ぎ失礼します。

#9 2013年03月05日 23:06:21

もんもん
メンバー

Re: 聖書を直接引用しないで聖書の疑問を話合おう

akameさん

>古代の拙い時代を反映した神です。自然界への脅威、病死や事故死、その他不条理な死(または罰)を神がもたらしている
>との考え方が中心なので「神の怒りをなだめる」ことが聖書の基本的な軸のひとつとなっています。

なるほどなるほど。ちなみにakameさんは、どんな基準が好きですか。聖書を見てこの神は嫌だなぁと思うのであれば、
自分の中に、これが正しいと言った基準のようなものがあるかと思うんです。平和とか平等とかでしょうか。

エホバの証人研究さんも、男女同権という考え方を好まれているようですね。

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#10 2013年03月05日 23:10:54

カレブ
Administrator

Re: 聖書を直接引用しないで聖書の疑問を話合おう

akameさん、こんにちは。

そういえば、
動物の犠牲の脂の乗った煙のことが 「安らぎの香り」(レビ記 1:17) って描写されていましたね。
焼肉屋でカルビを食べる時ならわかりますが、次々と内臓をばらばらにして焼きまくってる
様子を想像するとなんとも 「安らぎの香り」というイメージがなんとも別のものになります。

ヨブ記の話は興味深いですね。
そういえば、ヨブ記の最後の章は、死んだ子供のことはスルーされていましたが、
最後に超美人な娘が生まれて、めでたしとなっていました。
でも確かヨブのお試し期間に殺された子供たちは復活するのでダブルの祝福と
解説されていたような気がします。



もんもんさん、こんにちは。

話戻りますが、

(申命記 22:28‐29) 「人がある娘,すなわち婚約していない処女を見つけ,これをとらえて共に寝,その者たちが見いだされた場合,29 彼女と寝たその男はその娘の父に銀五十シェケルを与えなければならない。そして,その者が彼女を辱めたゆえに,彼女はその者の妻となる。その者は[命の]日の限り彼女と離婚することを許されない。

この聖句を現代に当てはめるとどうなるか
実例がありました。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/121 … 002-n1.htm
「性的暴行被害の少女、相談の警察官に容疑者との結婚促され自殺 インド」

考えさせられます。

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#11 2013年03月06日 06:05:21

akame
ゲストユーザー

Re: 聖書を直接引用しないで聖書の疑問を話合おう

もんもんさんは頭の回転がはやく、切り替えができる方ですが
この辺りはじっくりと味わっていただきたいと思います。

私は聖書の全否定ではなく、そのふさわしい立ち位置を考える上での時代考証、
社会学的考察が必要と感じています。

最初の大編纂を行ったモーセの時代も現在とは少し異なるものが支配していました。
他民族との衝突、科学的知識の不足、特に文明の衝突では何よりも統率が重視されます。

(かっての日本もそうでしすが)そのためには強い結束力が必要で富国強兵的観念は
強い男社会、縦型社会となります。生めよ増えよで生まない女性は非常に低くみられます。
その観点からの男尊女卑的記述、女性の嘆きが多いのも理由があります。

新約聖書の時代もその延長(コリント第二)でとにかく男性の下でなければなりません。
いずれも強い社会に綻びができることを懸念しています。

聖書に変わる基準?については又

#12 2013年03月06日 11:43:28

もんもん
メンバー

Re: 聖書を直接引用しないで聖書の疑問を話合おう

akemeさん

僕は、率直に言うと、聖書が示す価値観は、男尊女卑だと思います。同じように、神尊人卑であって、人尊動物卑です。大人尊子ども卑ででもあります。でもそれは、差別感情とはちょっと違うんじゃないかなぁと思うんです。イエスは、子どもたちや、女性たち、立場の弱い人を愛したでしょう。弟子たちや女性たちはイエスのことを主(主人と言う意味)と呼びましたし、それでよい関係ができていたと思います。だから、「頭の関係」と「保護される順番」は逆なんじゃないかなぁと思うんです。

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#13 2013年03月06日 11:44:29

もんもん
メンバー

Re: 聖書を直接引用しないで聖書の疑問を話合おう

エホバの証人研究さん

よい引用をありがとうございます。ちょっと聖書を読んだり、黙想してみたりします。

オフライン

#14 2013年03月06日 11:48:16

もんもん
メンバー

Re: 聖書を直接引用しないで聖書の疑問を話合おう

エホバの証人研究さん

>次々と内臓をばらばらにして焼きまくってる
>様子を想像するとなんとも 「安らぎの香り」というイメージがなんとも別のものになります。

屠殺業に汚れたイメージを持っておられないでしょうか。特に日本人は、神道による穢れ思想の影響が強いと思いますので、屠殺を仕事としている人に、汚れたイメージを抱きがちではないかと思います。自分は肉をおいしく食べているけれど、殺す仕事は、ちょっと汚いというような感じです。

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#15 2013年03月06日 12:34:02

カレブ
Administrator

Re: 聖書を直接引用しないで聖書の疑問を話合おう

もんもん さんの発言:

エホバの証人研究さん

>次々と内臓をばらばらにして焼きまくってる
>様子を想像するとなんとも 「安らぎの香り」というイメージがなんとも別のものになります。

屠殺業に汚れたイメージを持っておられないでしょうか。特に日本人は、神道による穢れ思想の影響が強いと思いますので、屠殺を仕事としている人に、汚れたイメージを抱きがちではないかと思います。自分は肉をおいしく食べているけれど、殺す仕事は、ちょっと汚いというような感じです。

もんもんさん、返信ありがとうございます。

YOUTUBEで動物の犠牲の動画がいくつかUPされていますが、18禁になってました。
勇気があるようでしたらご覧ください。
http://www.youtube.com/results?search_q … .0.0...1ac.
↑ animal sacrifice で検索


屠殺業のイメージですが、ツタヤのドキュメンタリーコーナーの『フード・インク』『ありあまるごちそう』という
DVDを見たことがあります。現代ではなかなか整然と屠殺が行われて効率がいいですよね。
上の動物の犠牲にくらべるとずっと汚れたイメージは減ります(^^)。

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#16 2013年03月07日 07:52:22

akame
ゲストユーザー

Re: 聖書を直接引用しないで聖書の疑問を話合おう

私が聖書を絶対基準にしないのは単に聖書の神が嫌という幼稚な理由ではありません。

聖書を絶対基準にする客観的な証拠は実際にはないということが主な理由です。

(例、ノア洪水は既に世界的な学術調査でなかったことがわかっています。あれば地学上
としては比較的年代の新しい出来事なので世界が約1年地中に没していた学術上の証拠があるはず
ですが現実にはない:40日の雨で3000M級の山を越えるとなると数千ミリ/hの雨量が必要となり不可。
木やタールの船ではもたない。瞬時に起きたとされる地殻変動においては更に無い。その他多数)


我以外認めない狭量な神にとって現代人の殆どの思想や芸術、信教の自由などは(詳細に一つ一つ考
えてみてください)あってはならない類になり、やがて邪悪な者として滅ぼされる対象になります。
待っているのは恐怖政治(でも将軍様はすばらしいの世界)

その神を好む方もおられるかもしれませんが、その他多くの理由で聖書を基準に据えることは実に愚
かなことであるといえます。人のかかえる問題をきちんと解決しようとせず、問題を神やサタンやア
ダムのような悪をになう存在に委ねること(思考停止と変わらない)は何の進歩になりませんし、
たとえ楽園で千年経とうが真の問題解決とはほとんど関係ないことでしょう。

#17 2013年03月07日 07:57:01

akame
ゲストユーザー

Re: 聖書を直接引用しないで聖書の疑問を話合おう

訂正(地中→水中)

#18 2013年03月07日 09:03:30

カレブ
Administrator

Re: 聖書を直接引用しないで聖書の疑問を話合おう

おはようございます。

>木やタールの船ではもたない。瞬時に起きたとされる地殻変動においては更に無い

ものみの塔が描くような地殻変動がおきたとしたら、ハイチや東北の津波どころの話ではないですよね。
数十メートル、数百メートル級の波でふっとびます。
宇宙戦艦ヤマトにでも乗らない限り救いはありません。
でも、そこは”奇跡”という言葉で解決する手もありますね。

古代のユダヤ人はオーストラリア大陸やマダガスカル島、北極の存在を知らなかったと思いますので
ノアの洪水の話もまんざらおかしな話でもなかったのだと思います。

それにしても協会の描くノアの箱舟の絵にコアラやカンガルー、ホッキョクグマが描かれないのは
気になりますね。

>たとえ楽園で千年経とうが真の問題解決とはほとんど関係ないことでしょう。

千年たったらサタンを牢屋から出して人間を滅びに導くとなっていますが、
あれは番犬を解き放って、子供たちを襲わせるようなサディスティックな感じも
ありますよね。
サタンを存続させているのは”宇宙論争”が解決していないからという解釈になっていますが、
もう論争なんてとっくに解決しているはずなのに、
ここで生かしておいたサタンをもう一回最後に使っちゃうって、それ以外に方法はないのだろうか。

サタンも馬鹿の一つ覚えのように、人間を誘惑する活動をしちゃうようですが、
なんだか幼稚な茶番劇を見ているようにも思えます。

akameさんが”恐怖政治”と言われるのもわかります。

しかし、それでも聖書を尊重して、神を敬うという立場をとるとなると、
何らかのうまい説明が必要になってきますね。

オフライン

#19 2013年03月07日 20:09:39

akame
ゲストユーザー

Re: 聖書を直接引用しないで聖書の疑問を話合おう

>でも、そこは”奇跡”という言葉で解決する手もありますね。

根本主義は最後は奥義(奇跡、神の導き)を出しますが、それは
再現性がないので科学の定義から外れますが意に介さないので
議論にならないのです。

私はかって創造説と進化論の議論サイトをみたり、投稿(当時はJW擁護)したりした
ものです。以下参考

http://members.jcom.home.ne.jp/natrom/flood.html

どちらの説(洪水関係)がより納得できるかは各自が判断できますが、
気をつけないといけないのは、

思想や宗教的論争は「洗脳合戦」であるということです。

それで事実の曲解、捏造なども頻繁です。たとえば

http://www.afpbb.com/article/life-cultu … 97/5676346

当の本人たちが「証拠がない」といっても、その種の新聞の見出しは
「発見」となります。誠実さは影を潜め詐欺にも似た宣伝が展開されます。

結果としてこのようになったりしていますが、キリスト教原理主義者がはばをきかせる
ところでは、今後もこのようなことは続くのではないでしょか?

>それにしても協会の描くノアの箱舟の絵にコアラやカンガルー、ホッキョクグマが描かれないのは
気になりますね。

意味深ですね(笑

>サタンも馬鹿の一つ覚えのように、人間を誘惑する活動をしちゃうようですが、
なんだか幼稚な茶番劇を見ているようにも思えます。

JW研究さん、お気持ち分かります。

実は1975年狂奏曲では創世記から否定して目を付けられたのですが、JW離脱
直前では集会で「なぜみんなシナリオ通り行動したのでしょう?」などの質問多発で、
特定の友人意外からはあまり会話をしてもえらえなくなっていました。

この種の疑問も安易な答えでは更なる疑問の噴出になる要素が幾重にもからんでいますね。

#20 2013年03月07日 20:14:38

akame
ゲストユーザー

Re: 聖書を直接引用しないで聖書の疑問を話合おう

抜けました。

>今後もこのようなことは続くのではないでしょか?

の後に下が入ります。

http://transact.seesaa.net/article/148227623.html

#21 2013年03月07日 21:09:38

もんもん
メンバー

Re: 聖書を直接引用しないで聖書の疑問を話合おう

akameさん

>根本主義は最後は奥義(奇跡、神の導き)を出しますが、それは
>再現性がないので科学の定義から外れますが意に介さないので
>議論にならないのです。

はい。奇跡や神の創造を信じる以上は、すべてが科学で説明できるということは、拒否することになります。だから、すべてが科学で説明できると主張する人とは、土台が違うので、どうしても、平行線になってしまうと思います。

でも、どうやっても神は見えないですし「神は霊である」ということがイエスが語った真実だと思っていますので、どうしようもないです。「見えないけれど存在する」という意見と「見えないから存在しない」という意見は平行線です。

オフライン

#22 2013年03月07日 21:38:31

akame
ゲストユーザー

Re: 聖書を直接引用しないで聖書の疑問を話合おう

もんもんさん

>「見えないけれど存在する」という意見と「見えないから存在しない」という意見は平行線です。

こうした議論はそれほど単純ではなくて「全てが科学で説明できる」とか「見えないものはすべて否定する」
人と実際に会ったことがありません。

私は神の存在は分かります。心で感じるからです。

本当は心の問題なのに科学を出すから、では科学的根拠をさらに出せとなるわけです。

それでもある程度は論理性(考えた上での真の納得)が必要だと思います。

#23 2013年03月08日 23:48:48

もんもん
メンバー

Re: 聖書を直接引用しないで聖書の疑問を話合おう

akameさん

akameさんは、神の存在を心で感じることができるんですね。根本的に科学が説明しないと、神を信じない方なのだと勘違いしていました。神を感じているけれど、聖書の神には疑問を抱いているという立場なのですね。

オフライン

#24 2013年03月11日 20:32:58

akame
ゲストユーザー

Re: 聖書を直接引用しないで聖書の疑問を話合おう

心で感じるとは祈り、感情、行動などと深く結びついています。

その表現がシックリきたのは比較的最近のことで、ライトな話題にもある
本能的なものに近いように思います。

それはたとえ私たちが最悪の存在になっても癒しを与えることのできる
力のある方です。

処罰して終わりは人間の法の限界ですが、神の救いは
それをはるかに凌駕して、殆ど無限の機会を人に与えるものとなっています。

善で悪を征する(単なる処罰は神の領域ではない)のが本来の姿で、
「我を崇拝せよ、我こそは・・」などを繰り返すような存在ではなく、
ご自身への信仰などよりも、人のその成長の過程にこそ意義がある
主旨とされる、そのような暖かい存在を今は感じています。

#25 2013年03月13日 07:25:57

akame
ゲストユーザー

Re: 聖書を直接引用しないで聖書の疑問を話合おう

暴虐が満ちたから
地を滅ぼす

ルール違反者は
処刑

(予防策をあまり講じたとは思えない)
短絡的な聖書の創造神への違和感は
人間的な限界への違和感にとても似ています。

ノアの洪水には
箱舟の中以外の命への制御されない、
動物たちをも巻き込む怒りが示されています。

選択の自由や力がある存在は結果よりも
手段に本質が出るものです。

洪水で人々を流し去る。つまり
溺れさせること。

(溺死の苦しさで私の友人は
顔や胸を自分の爪でえぐった後が
ありました。)

イエスの話にある2羽の雀さえ配慮される
神となんと隔たりがあることでしょう。

豊かな創造力があればあるほど、その印象は
強く残ります。こうした発想を多くの暴君や組織が
真似てきました。

己の意向に反する分子を悪と定義さえできれば
あとは義の印籠を己に付与すればよいのです。

犯罪抑止といえば聞こえはよいのですが
その実、水も漏らさない統制にいわゆる「見せしめ」
のために残酷な死が利用されました。石打ちの刑などその典型
で、こうした処刑はある程度の犯罪抑止効果はあったことでしょう。

しかし公開処刑など行った歴史や国々の顛末を振り返れば、
こうした脅迫的手法では、それ以上のこと

私たちの心の奥にある利己心や憎しみや差別感情を改善して
他の者を忍耐し慈しもうとする強い動機付けにはなり難いことを
示しているように思えます。

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