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#201 2020年01月04日 14:33:42

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

日蓮などは聖書の神と違って、ほいさんの信じる創造者くらい信憑性のないものです。

#202 2020年01月04日 14:38:56

ほい
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

私は、「創造者がいてほしい」という気持ちが私の願望であることは認めていますよ。
だからこそそれが正しいなどとは主張しないんです。てつてつさんもそうですよ、きっと(違ってたらすみません汗)。

「忠臣蔵」を楽しむのは良いですが、史実の「赤穂事件」とは違います。

今日はこれから予定があるので、ここで失礼します。

#203 2020年01月04日 14:50:26

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

アーマンさんの 書き換えられた聖書 17ページあたり

ターニングポイントとなったのは二学期の、私が敬愛するカレン・ストーリという敬虐な教授の授業だった。その授業は当時の私の(今もそうだが)一番のお気に入りの福音書である『マルコによる福音書』の釈義だった。この授業に参加するには、『マルコによる福音書』を完壁にギリシア語で読めなくてはならない(私はこの学期が始まる前に、この福音書に出てくるギリシア語の語彙をひとつ残らず暗記した)。私たちは重要な条に関する考えを書き留める釈義ノートをつけ、テキストの解釈上の問題について討論し、自分で選んだ解釈上の難問に関する期末論文を提出することが義務づけられていた。私が選んだのは、『マルコ』第二章でイエスと弟子たちが安息日に麦畑を通っているとき、弟子たちが麦の穂を摘んで食べ、これを厳格で知られるファリサイ派に答められた、という部分だ。これに対してイエスは「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と述べ、ダヴィデ王と供の者たちが空腹だったときのことに言及する。曰く、「アビァタルが大祭司であったとき、ダヴイデは神の家に入り、祭司のほかには誰も食べてはならない供えのパンを食べたではないか」。この一節に重大な問題があることはよく知られている。というのも、ここでイエスが引用している旧約聖書の一節(『サムエル記上』一二章一’六)を見ると、ダヴィデがこれを行なったときの大祭司はアビァタルではなく、その父親のアヒメレクなのだ。つまり言い換えるなら、これは聖書といえども決して無謬ではなく、なかには間違った箇所もあるということを如実に示す一節だということだ。ストーリ教授に提出した論文の中で、私は次のような主旨の複雑な議論を長々と展開した。つまりマルコはここで、この出来事が「アビアタルが大祭司であったとき」に起こったと述べてはいるが、それは実際にはアビアタルが大祭司であったということを意味するのではないのであって、本当はこの出来事が聖書のテキストの中でアビアタルが主要なキャラクタとして登場する部分において起こったということを表わしているのである、と。私はそこに用いられているギリシア語の単語の意味に基づいてこのょうに論じたのだが、若干回りくどい感があるということは否めなかった。でも私はストーリ教授がこの論を高く買ってくれると思い込んでいた。というのも彼は善きキリスト教徒の学者であって、明らかに(私と同様)聖書の中に純然たる誤りなど紛れ込んでいるはずがないと信じているはずだったのだから。だが返ってきた論文を見ると、その末尾に添えられた教授のコメントはたったの一行だけ。しかもその一行は私の脳髄を直撃するものだったのである。曰く、「たぶんマルコはたんに間違えたのでしょう」。私は頭を抱えた。自分がこの論文に込めた作業のすべてを考え抜いた。そして自分が、好ましからざる問題を迂回するために若干のアクロバット的釈義に頼っていたということを認めざるを得なかった。私の論文の結論は、まあ実際のところ、どちらかと言えば若干こじつけの気味がなきにしもあらずであった。そして私は最終的に、次のような判断を下すに至ったのである。「あううう……もしかしたら、マルコは本当に間違えたのかもな-」。ひとたびこれを認めてしまうと、もはや水門は開かれてしまった。もしもマルコの第二章に、取るに足らないような些細な間違いがあるのなら、他の箇所にもありうるということだ。

オフライン

#204 2020年01月04日 14:51:07

ガッツだぜpart2
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

聖書という書物について・・・

まず、何から書けば良いのやら・・・・

アノニマスさんとのやり取りの中で、ちょっとある考えが浮かびました。
それを書いてみます。

聖書の各章の中で、ヨナ記は不思議な存在です。閑話休題的と言う人もいます。私も
そう感じていました。イエスもヨナ記の話を持ち出していて、好きだったのかなと
単純に思っていました。それで、知恵の木に関して、アノニマスさんからの助言と自分の考え
を逡巡しているうちに、閃くものがありました。

何のことか整理しますと、知恵の木に関して、神は全知全能なのだから、人間が盗って食べる
事を予知できなかったのかという問題がありますが、そこで私は、神が人間にわざと仕掛けたと
考えてみました・・・・愛ある神ではなかったのかという疑問が生じますが、そこでもう一つ
可能性を考えました・・・・

神は、人間が盗って食べることはとっくに予見しており、あえて食べさせた。それは「赦す」という
知性の面で、高度で難易度の高い業を教えるためだった。人間が後悔して謝罪すれば「赦す」つもり
だった。それは神の一つの特性で重要な部分であり、「赦す」もしくは「許す」というお手本を示し
人間に「赦す」「許す」ことの重要性を教えるためだった。創世記を読むと、人間は言い訳はしても謝罪して
おらず、神が赦しについて教える機会は先延ばしされる事になった。だからこれ以上の罪を重ねさせないため
に楽園を追放する事になり、神の本質を見ることの出来なかったサタンは楽園を追放された。

だから後悔して謝罪する事の重要性を神の、「私は悔やむ」という謎表現で表しているのだと考えました・・・・
ヨナ記は直接神と真っ向からやり合う珍しい章です。ここで、神は「赦す」「許す」事について
ヨナに諭しています。創世記で、知恵の木を植えた神の真の目的の解答が与えられたという訳です・・・・

しかしイエスの登場までは知恵の木を食して楽園追放された理由に対する解答は得られませんでした。
律法学者は博識で、今でいうところの裁判官、弁護士ですが、イエスと違い事の本質を見抜くことはできませんでした。

イエスはおそらくですが、「赦す」ことを神は人間に教えたかったのだという事を民衆に伝えるために「神の赦し」に
ついて伝道したのだと思います。だから説話の中でヨナ記に触れられたりされ、「愛」(赦す心の働きの元となるもの)
について伝道されたのだと思います。

そこで、赦す事がいかに難易度の高いものであるかをさらに説明する聖句が続きます。
ペテロが復活したイエスにどこに行かれるのか尋ねた時、「あなたが見捨てた者たちのところへ」と答えられた
聖句があったと思います。イエスの受難を考えると、あれだけの受難を受けたにも関わらず、なおもそこへ赴き
救おうという非常に難しい心のなせる業があります。

ここで、イエスは死んだではないかという疑問が生じますが、この疑問の答えが伝道の書です。
母の胎内で、骨に魂が入るときという聖句があったと思います。肉体は魂の器に過ぎず、人の本質は魂である
という考えがその当時からすでにあったと読みました。イエスは正しい解答を示すことにより魂を救済したと
考えることが出来ます。肉体は土から取られたに過ぎず、そこに神が命を吹き込んで人になったのだから
滅びゆく肉体は神がその気になればまたこの地上に作り直せる(火星に散骨しない限り)器であり、命の本体は
魂であるという一つの考えが読み取れます・・・・・・・

そこでその考えと魂の救済について、弟子たちによって伝道されたはずでした・・・・・・

しかし、イエスが連行される前だというのに眠りこけたり、余り洞察をしない弟子たちなので、現在に至っているの
ではないでしょうか。

黙示録では、自らの意思で悔い改めを選ばない者たちへの処遇が書かれており、これにて完結です。

#205 2020年01月04日 14:58:56

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

当時のメッセージの伝え方というのは要点さえ伝えれば細部はアレンジしてもよかったという事を読んだ事があります。
確か、「キリストは神か偽善者か」
ジョシュ・マクドウェル著

だったでしょうか。他の本でも読んだ記憶があります。

そういった点を考えると福音書の相違点も納得できます。

しかし、重要なメッセージは各福音書共通であり信憑性は高いでしょう。

そういう観点からのものは読まないで否定的な学者の説ばかり読んでたら公平な調べ方とは言い難く、てつてつさんのように棄教するのも当然でしょう。

#206 2020年01月04日 15:01:42

がっつだぜpart2
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

長くなりましたが、では「赦す」「許す」ことがなぜ重要で高度な業なのか。これがカオスの本質だと
思います。ちょっと譬えるにはふさわしく無いかもしれませんが、アクセルとブレーキみたいなもので
遊びの部分と言うか、何というかゆとりの部分というか、可能性というか、エントロピーというか
そういうものなのではないかと思います。神は無限の存在なので、常に可能性を孕んでいる。
そしてその事が神の本質であるように思います。

忘れてならないのは無限の可能性を秘めた存在ならば時空にも干渉できるという事です。
これ以上は今は書くのを控えます。

以上、いかがでしたでしょうか。アノニマスさん、ご助言ありがとうございます。

#207 2020年01月04日 15:20:18

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

捏造された聖書 77ページあたり

そんなわけで、写本を複製する書記たちはありとあらゆる改ざんをやった。後の章で、それぞれの改ざんの種類についてもっと深く見ていくことにするが、ともかくここでは改ざんが行なわれていたということ、それも広く行なわれていたということを知れば十分だろう。とくに、テキストの複製が始まった最初の二百年間は、ほとんどの写字生が素人だったから、その傾向は強かった。本文批評が取り組むべき主要な問題のひとつは、現存する写本がこんなにも間違いだらけという状況の下で、どうやってオリジナル・テキストをlつまり、著者が最初に書いた通りのテキストをl復元するかということだ。さらに問題を悪化させているのは、ひとたび改ざんが行なわれると、それはそのテキストの伝統の中にしっかりと根を下ろしてしまうという事実だ。実際、オリジナルよりもさらにしっかりと根を下ろしてしまうのだ。つまり言い換えるなら、ひとたび書記がテキストにl偶発的であれ、意図的であれI改寅を加えると、その改鼠が写本の中で恒久化されてしまうということだ(もちろん、他の書記がこれに気づいて元に戻した場合を除く)。その写本を複製する第二の書記は、改寅されたものをそのまま複製することになる(それが正しいと信じているわけだ)。そしてさらに自分自身の改童を付け加えてしまう。さらにその写本を複製する第三の書記は、第一、第二の書記の改鼠を両方とも複製した上で、さらに自分自身の改寅を付け加える。以下同文。改童が修正されるのは、書記がその前任者の誤りに気づいて、これを修正しようとしたときだけだ。とはいうものの、改寅を訂正しようとする書記が、それを正しく訂正できるという保証はない。つまり、これは間違いだと判断したものを訂正しながら、実際にはその訂正の方が間違っていた、という事態もありうるわけだ。そんなわけで、今やテキストには三通りあるということが判った。オリジナル、改ざん、そしてその改ざんを修正しようとして間違ったもの、の三つだ。改ざんは増大し、繰り返される。時には修正されるが、時には改ざんに改ざんが積み重ねられる。それが延々と続いていくわけだ。何世紀にもわたって。言うまでもなく、書記の手許に複数の写本があり、両者を比較対照することによって誤りを正すことができる場合もある。だが実際のところ、これはさらに問題を悪化させてしまう恐れもあるのだ。つまりその書記が、改鼠された方の写本を正しいと思いこみ、それに照らして正しい方の写本を訂正してしまう可能性もあるということだ。可能性はどこまで広がるか判らない。このような問題を抱えた私たちは、いったいどうやって、オリジナル・テキスト、すなわち著者自身が書いたテキストを復元することができるのか?これは途方もない問題だ。あまりにも途方もなさ過ぎて、多くの本文批評家が「オリジナル」テキストに関する議論はやめた方がいい、と主張しているくらいだ。だってそんなものは絶対に復元不可能なんだから。

編集者 てつてつ (2020年01月04日 15:21:57)

オフライン

#208 2020年01月04日 15:22:07

ガッツだぜpart2
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

もうひとつ。フランシスコ教皇がやらかしましたね。人間の定める宗教的地位は神の目から見れば
意味のないものであることを示してしまいました。
新幹線で滅多刺しになりながらも2人の女性を救った方は魂レベルでクリスチャンであり、肉体は
逃亡を許しても、魂が見捨てて逃げることを許さなかった事例です。

私自身にはそのような崇高な魂はあるように思えないので、ただただ尊敬するのみです。

象にも高度な知性があるようで、東南アジアのある国で、象の群れが復讐にため、村を襲撃しました。
そしてある家を踏み潰そうとして前足を振り上げたときに、中にいた赤ん坊が泣き声を上げました。
象は振り上げた足を下ろし、その家を踏み潰すのを止めました。象にさえこのような高度な思考が
あるというのに、本当に情けなく、また闇の深い事件です。人間も正しい教育を受けられないと
こういう事になるという事例です。

話が脱線してしまいました。

めぐままさん、てつてつさん、アノニマスさん、聖書は難しいです。

#209 2020年01月04日 15:22:55

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

聖書は改ざんされていますか?

東京キリストの教会 特別シリーズ(20180721)「聖書の信憑性」 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=b9iSWSGZ5Ec

#210 2020年01月04日 20:11:34

めぐママ
メンバー

Re: 聖書という書物について

てつてつさん        今 百人一首の歌人 の生涯  の番組を見ています。  不幸な 人生って怨霊となった人が多いのです。  怨霊って  平将門の乱  で 死んだ 将門のクビが  遠くまで飛んで来たとか  祟りがあって  首塚を 作って 丁重にお祀りしたら事故がなくなったとか、 都市伝説を まともに信じています。  JRの工事とか。  都会の土地  坪単価が 高いのに。

聖書でも非業の死を遂げた人  記念して  ジグラッド を建てていましたね。

怨霊  って  怖れられたのですね。

オフライン

#211 2020年01月04日 21:06:57

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

ニムロデですね kiss

オフライン

#212 2020年01月05日 09:21:03

ジョエル
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

仰天さんお久しぶりです。

仰天 さんの発言:

律法の遵守については、論争後、使徒も参加したエルサレム会議で守る必要はないと結論が出ています。(これも指摘済み)

多くのユダヤ人は、もはや安息日、その他の律法を守る事なく習慣を変えました。
その大きな変化はイエスの復活があったとしか思えないのです。



私たちがエルサレムに着くと、きょうだいたちは喜んで迎えてくれた。翌日、パウロは私たちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長老が皆集まっていた。パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。人々はこれを聞いて、神を崇め、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。(中略)異邦人で信者になった人たちについては、私たちはすでに手紙を書き送りました。偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉と、淫らな行いとを避けるようにという決定です。」(使徒言行録21章18以降)



エルサレム会議の結論は、「異邦人で信者になった人」(ユダヤ教への改宗を経由せずジーザス信者になった人)向けで、エルサレム教会を中心とするユダヤ人信者は守り続けたのでは?

#213 2020年01月05日 09:40:58

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

ジョエル さんの発言:

仰天さんお久しぶりです。

仰天 さんの発言:

律法の遵守については、論争後、使徒も参加したエルサレム会議で守る必要はないと結論が出ています。(これも指摘済み)

多くのユダヤ人は、もはや安息日、その他の律法を守る事なく習慣を変えました。
その大きな変化はイエスの復活があったとしか思えないのです。



私たちがエルサレムに着くと、きょうだいたちは喜んで迎えてくれた。翌日、パウロは私たちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長老が皆集まっていた。パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。人々はこれを聞いて、神を崇め、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。(中略)異邦人で信者になった人たちについては、私たちはすでに手紙を書き送りました。偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉と、淫らな行いとを避けるようにという決定です。」(使徒言行録21章18以降)



エルサレム会議の結論は、「異邦人で信者になった人」(ユダヤ教への改宗を経由せずジーザス信者になった人)向けで、エルサレム教会を中心とするユダヤ人信者は守り続けたのでは?

お久しぶりです。


こういうものがありました。



律法と福音の問題再び

それは、パウロに対して批判があるということでした。パウロが、海外のユダヤ人に対して、ユダヤ人の戒律、旧約聖書に基づいた戒律である律法に従うなと教えていると言われているというのです。そしてヤコブは、パウロに向けられているそのような非難を払拭するために、23節から述べられているような行動を取ってほしいというのです。すなわち、ここでまた律法と福音の問題が浮上しているのです。
旧約聖書とそれに基づいてできたユダヤ人の律法、すなわち戒律を、イエス・キリストを信じた者も守らなければならないのかどうか。これについては、以前エルサレムの教会会議で決まったことがありました。それは、25節に述べられているように、「偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉を食べないように、そしてみだらな行いを避けるように」ということだけを守れば良いという決定でした。ただしそれは、異邦人、すなわちユダヤ人以外の外国人はそれでよいというのであって、ユダヤ人はイエスさまを信じた後も、引き続き旧約聖書の律法を守らなければならないというものであったというのです。
なぜ、ユダヤ人と外国人で、このような違いが生じるのか。同じイエス・キリストを信じているのに、どうして信仰の内容が違うのか。
一つには、エルサレムの教会が置かれているきびしい状況があったのでしょう。エルサレムのキリスト信徒は、まさにユダヤ人社会のど真ん中で暮らしているわけです。そのユダヤ人は皆、ユダヤ教の戒律である律法を守って生活しているわけです。しかるに、彼らユダヤ人キリスト者が律法を守らないということになると、それは激しい迫害を受けることになる。それは、伝道にもマイナスであるという思いがあったのでしょう。そういう、同じユダヤ人への配慮から、イエスさまを信じた後も、依然として旧約聖書に基づく律法を守って信仰生活を送っていたと考えることができます。
しかし、そのように、ユダヤ人への配慮だけではないでしょう。やはり、そこにはエルサレムの教会が、少しユダヤ教に後戻りしているような印象を受けます。つまり、律法と福音の問題です。完全に福音信仰に立てないエルサレム教会の姿がそこに見え隠れいたします。


http://zushikyokai.holy.jp/sermon/ser_170430.html

つまり、救いには律法を守る事は関係ないとはいえ、諸事情からエルサレム教会は守っていたのだと思います。

#214 2020年01月05日 10:08:00

ジョエル
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

仰天さん

「パウロ ヤコブ 律法」でググるとすぐに出てくるサイトですね。予習は済んでいます。自分の問いは、守っていたのか、いなかったのかだけで、「あったのでしょう」「と考えることができます」などの理由づけの推測まではお尋ねはしていなかったのですが、ありがとうございます。


「多くのユダヤ人がもはや律法を守ることなく習慣をかえた」訳ではないこと、そしてそのサイトの牧師さんもお認めのように、エルサレム教会はパウロの説いた福音信仰と全く一致していた訳でもない、ということですね。了解しました。

#215 2020年01月05日 10:21:02

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

もはやクリスチャンは律法の下にはいないという見解は変わりません。

守っていた人もいたでしょうが、最終的にエルサレム教会の使徒も殉教したと伝えられているのですから、ユダヤ教のフリばかりいつまでもしていたわけではないでしょう。

見ていたわけでもないのに断言は出来ませんのでそういう表現になるのは仕方ない事です。

ちなみに、誰でも知ってる事でしょうが、エルサレム教会は統治体でもなく特別に優れた会衆というわけでもなかったと思います。

救いに関しては会議でまとまった意見として一致しています。

#216 2020年01月05日 10:26:36

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

トップに出てくるサイトでも自分が参考にならないものは載せませんので、予習済みなら聞かなくても自分の結論は既に出しているはずです。
試すような質問だと思いましたが案の定そうでしたか。

#217 2020年01月05日 10:31:27

ジョエル
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

「多くのユダヤ人は、もはや安息日、その他の律法を守る事なく習慣を変えました。その大きな変化はイエスの復活があったとしか思えないのです。」(仰天さん)

「彼らユダヤ人キリスト者が律法を守らないということになると、それは激しい迫害を受けることになる。それは、伝道にもマイナスであるという思いがあったのでしょう。」(牧師さん)


ジーザスの復活がそれほどの事実なら、どんな迫害があろうと広まっていくはずが(仰天説)、牧師説によるとジーザス信仰発祥地のはずのエルサレム教会は「迫害されちゃうから伝道にマイナス」とか意外に日和ってますね。


仰天 さんの発言:

律法を守っていかなければならないなら、動物の犠牲の代わりにご自身を捧げられたイエスの贖いが無意味です。


ほんとは無意味なんだけど~迫害されて伝道にマイナスだから~しぶしぶというより「熱心に守っていた」ようなのですが、それもフリなんでしょうか。聖書ってありのままに読めばごく分かりやすい本だと思うのですが、奥が深いです。


>守っていた人もいた(仰天さん)

>幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。(使徒言行録)


これを発言した人、または書いた人は誇張した、もしくは話を盛ってしまったのでしょうか?「聖書を否定」してはいけませんよ、仰天さん。

#218 2020年01月05日 10:38:27

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

エルサレムに住んでいたユダヤ教の影響が激しい場所のクリスチャンは律法の影響はあったでしょう。

それ以外の場所に住むパウロ含むユダヤ人は安息日ではなく週の始めに集まっており、習慣を変えたわけです。

では、ジョエルさんは使徒グループが復活したイエスの伝えた福音に反した思いで全員が律法を最後まで守っていたと思うわけですね?

その理由を解説どうぞ。

#219 2020年01月05日 10:48:39

ジョエル
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

「復活したイエスの伝えた福音」とは何でしょうか?


聖書に書いてある以上の理由?解説?(行間埋め)が必要なのでしょうか。ありのままに読めば、エルサレム教会はパウロの説いた福音信仰とは一致しておらず、ユダヤ人にとって、ジーザスを信じた後も律法は依然として彼らの守るべき伝統であり信仰の一部であり続けていた以外のことは読み取れませんよ。

#220 2020年01月05日 11:06:45

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

ソーダ ソーダ ジョェルさんに賛成です kiss

オフライン

#221 2020年01月05日 11:22:40

めぐママ
メンバー

Re: 聖書という書物について

てつてつさん        このかたは  図星 なことを指摘されると  すぐに反応されます。
アンガー マネジメント  について読んで欲しいです。

モテないよ。   粋なオトコに なって欲しいです。

ところで  博識 なようで  この掲示板で 人材育成 出来たのでしょうか?

ゆりさん  に 呼びかけてみたい。

オフライン

#222 2020年01月05日 11:37:17

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

ジョエル さんの発言:

「復活したイエスの伝えた福音」とは何でしょうか?


聖書に書いてある以上の理由?解説?(行間埋め)が必要なのでしょうか。ありのままに読めば、エルサレム教会はパウロの説いた福音信仰とは一致しておらず、ユダヤ人にとって、ジーザスを信じた後も律法は依然として彼らの守るべき伝統であり信仰の一部であり続けていた以外のことは読み取れませんよ。

イエスは異邦人も招いておられます。それがイエスの福音です。
厳密に言えば復活前から多くの人を救う贖いとなられる事を教えていました。


使徒の教えもイエスは全人類の為に贖いとなられたというものです。

それはパウロと使徒でも一致しており、エルサレム会議でクリスチャンの救いには律法の遵守は関係ないと結論が出ています。

エルサレム教会のユダヤ人が律法を守っていた理由としては、もともと彼らはユダヤ教徒であり、イエスへの信仰に入った彼らはユダヤ人の宗教儀式によっては霊的救いが得られない事は知っていました。(使徒15:13-21、ガラ2:15-21)

けれども、律法やユダヤ人の習慣のある部分は、キリストを信じる信仰とキリストへの愛を表すものとして守ってもよいと理解していたと思われます。


「信仰に入った彼らは律法を守っていた」これは何の信仰に入ったのでしょうか。
イエスへの信仰です。

時折、使徒グループはイエスを信じた後もユダヤ教徒だったという意見も見ますが、それだと単なるユダヤ教ですので福音書ともパウロの教えとも異なります。
パウロはファリサイ派から変えられました。

使徒の教えが福音書ともパウロ書簡の教えとも関係なく、単なるユダヤ教だったと主張するならその根拠が必要でしょう。

特にてつてつさん、明確な説明を早くして下さい。


ジョエルさんの場合は、エルサレム会議以降、ユダヤ人クリスチャン全員が晩年に至るまで律法を守っていたというのなら説明をして下さい。


エルサレム教会のユダヤ人だけ守っていましたか?殉教の死まで守っていましたか?

私としてはエルサレム教会が律法を守っていたかどうかは関係なく、ギリシャ語を話すユダヤ教のユダヤ人と異邦人クリスチャンはイエスの教えを継承しており安息日の代わりに日曜日に礼拝を守ったという事に大きく変えられたと思います。


それに、使徒もパウロも譲歩しながらも基本的に一致しており、譲れない部分もあり、対立していたといえばそうとも言えるし一致していたといえばそうも言えるのです。
それを部分だけ切り離して対立していたのだと言うのは勝手ですが、新約聖書をイエスや使徒とも関係ないヘレニストがでっち上げたと主張するなら、てつてつさんは具体的に説得力ある解説をして下さい。

それもできずにジョエルさんに乗っかって、そうだそうだと言っているだけでは何の意味もないでしょう。

どっかのママさんもしっかり考察する事なく否定的な書物を鵜呑みにしたり、他の人の書き込みにすぐに便乗する人に過ぎません。

#223 2020年01月05日 12:23:41

ジョエル
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

仰天さん

>使徒もパウロも譲歩しながらも基本的に一致しており、譲れない部分もあり、対立していたといえばそうとも言えるし一致していたといえばそうも言えるのです。

それはその通りで、何から何まで対立していた訳でもなく、異邦人は律法遵守なしでOKでは対立は回避されています。


>ジョエルさんの場合は、エルサレム会議以降、ユダヤ人クリスチャン全員が晩年に至るまで律法を守っていたというのなら説明をして下さい。

聖書から読み取れることはエルサレム会議以降の出来事として書かれているその時点で一致していない、というだけで、晩年に至るまでとか何とかみたいな主張(推測)はしていませんよ。

#224 2020年01月05日 12:27:03

ジョエル
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

仰天 さんの発言:

エルサレム教会のユダヤ人が律法を守っていた理由としては、もともと彼らはユダヤ教徒であり、イエスへの信仰に入った彼らはユダヤ人の宗教儀式によっては霊的救いが得られない事は知っていました。(使徒15:13-21、ガラ2:15-21)

けれども、律法やユダヤ人の習慣のある部分は、キリストを信じる信仰とキリストへの愛を表すものとして守ってもよいと理解していたと思われます。

原始ユダヤ人信仰者が今のクリスチャンが言うような何かの「霊的救い」についての思想を発展させていたとは初耳なのですが、彼らにとっての「霊的救い」とは何でしょうか?(ガラテヤのようなパウロ書簡からの説明ではなく)

あと、律法やユダヤ人の習慣の「ある部分」とは何でしょうか?


その部分をありのままに読めば、エルサレム教会のユダヤ人にとって律法は依然として守るべき神聖な伝統だったとしか読み取れませんが、しかも仰天さんの言うとおり、異邦人の間にディアスポラしているユダヤ人にパウロの影響で律法を守らなくなっている人が出始めていることを危惧してますよね。彼らが仰天さんのいうような「理解」をしていたのなら、彼らは何を危惧していたのでしょう。

#225 2020年01月05日 15:17:51

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

原始キリスト教史 コンツェルマン

ちょっと読み始めたのですが 一部興味深いと思うところコピペします

エルサレム会議で決まったことの解説 132ページあたり

パウロとバルナバは自分たちの伝道領域において、貧しい人々、すなわちエルサレムにいる貧しい人々(ローマ一五・二五’二六参照)のために、献金を集める義務を負っている。パウロは、即座に仕事に着手したと請け合っている。この献金は、慈善活動以上の意味をつ。今後それは、一本の赤い糸のようにパウロの生涯を貫く。それ故、後で繰り返しその献金に立ち戻らねばならないであろう。しかし、それは多くの論議を引き起こしたし、かつ今でも引き起こしているので、ここにおいて根本的な事柄を論じなければならない。ちなみに奇妙なのは、使徒行伝がこの協定についてまるで沈黙しているのも同然だ、ということである。一五章においても、後のパウロの伝道の記述においても、またそれに言及することが不可避であると思われるような、実際献金を持参する以外の目的がない、パウロのエルサレムへ向けての最後の旅行においても(ローマ一五・二五’二六)、使徒行伝はこの協定について触れない。ただ一度だけそれについて、付随的に後から追加するように軽く言及されるのみである(行伝二四・一七)。しかもその発言が極めて不明瞭なために、パウロの手紙を知らない読者は、その示唆しているところをほとんど理解することができないのである。
さて、この献金はすでに次のように説明された。すなわち、実際には献金は、パウロに課せられた正規の教会税であった。それによって彼は、自らの教会と共に、教会全体の合法的本部としての原始教団の管轄下にある、と認めなければならなかった。エルサレムは、ここではすでに、後代のローマと類似した役割を演じている。「貧しい人々」とは、社会的意味における貧民ではなく、原始教団のための宗教的名称である、と。この解釈を支持するために、さらにユダヤ教が指摘されている。全世界の成人したユダヤ人のすべては、毎年エルサレム神殿に税金を納めなければならないのである。このことから献金は、この模範に従って「真のイスラエル」の税金として整えられていた、という結論が出される。実はこのいわゆる平行例は、この仮説に反対する証拠である。
(a)ユダヤ人はすべて、パレスティナに住んでいるユダヤ人も含めて、神殿税を払わねばならない。その意味を考えるとこれは、キリスト教徒にとって、異邦人キリスト教徒のみならずすべてのキリスト教徒に対する課税となるであろう
(b)神殿税は規則的な、年毎の税金であるが、献金は一回ずつ独立している。
(c)献金は、ローマ人への手紙一五章二五’二六節やコリント人への第二の手紙八章九節が説明している如く、本当に貧しい人々のための慈善活動である。
もっともその意味は、ただ慈善そのものにおいて尽きるわけではない。この献金は明らかに以下のことを示す。すなわち、教会は一つであるということ、異邦人教会は異なる生活形態にあるがその創設との歴史的関連から解き放たれることはないということ、単に異なる生活様式を持つ二つの集団からではなく、異なる救済史的位置を持つ二つの集団によって構成されている時に、教会は今やユダヤ人と異邦人から成る一つの教会である、ということを献金は示す。献金は、教会の歴史性と救済の普遍性を示している。両者は統一体なのである。要約すると、土台は敷かれてはいるが、間隙が認められる。一部のユダヤ人キリスト教徒は、決定に従わない(ガラテャ人への手紙!)。ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒の共同生活は、以前よりも問題がある。エルサレムとパウロの間の管轄範囲の分離は、不明瞭であり、衝突を招くことになるであろう。

よくわからないですけどこんな見方もあるんですね

編集者 てつてつ (2020年01月05日 15:19:11)

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