#176 2020年01月03日 22:33:10
- ガッツだぜpart2
- ゲストユーザー
Re: 聖書という書物について
めぐままさん、遅くなりましたが、私はお答えできるような人間ではありませんが、重要と言えば
イエスの父のヨセフ。違っているかもしれませんが、ヨセフが沈黙を守っているせいで全てが謎です。
また、ついつい勧められるままに飲んだらダウンです。明日から禁酒です。
#177 2020年01月03日 22:41:13
- 仰天
- ゲストユーザー
Re: 聖書という書物について
あとちょっと今思ったのですが 仰天さんは何度もイエスの復活について聖書に500人以上の人が見ていると書いてあるし そのようなことがなければ周りの人もだまっていなかっただろうということを根拠にしていますが
(ルカ 2:1‐5) …さてそのころ,人の住む全地に登録を命ずる布告がカエサル・アウグスツスから出た。2(この最初の登録はクレニオがシリアの総督であった時に行なわれたものである。)
ということも実際にあったと思っておられるのですか?
今度は登録の事に話を急に持っていくわけですか?
その前に、マタイとパウロの教えはイエスの贖いと復活、多くの人の救いのためにイエスが死なれたという点で一致しており対立していないという点は認めるのですか?
それは否定できない部分だと思いますが。
1つ1つ整理しなければならないでしょう。
それと、通読は何回しましたか?
私はまだ8回です。
#178 2020年01月03日 22:43:57
- めぐママ
- メンバー
Re: 聖書という書物について
シセイさん
ガッツだぜ! すご〜い!
マタイによる福音書を読み直して見ましたよ。
世界史 ダニエルの預言 のトピックで irisさんが
「聖書についての いち番重要な 正しい知識は 『聖書は 科学的真理や 歴史的史実の教科書ではない』 という事ではないか と 思っています。」
と仰っていました。 続いて 「アメリカは・・・ 』
の文章も ウチの 息子の 配偶者 理系だけど 同じ事 言います。 それでも 神様信じて 旅先で神社⛩を見つけると ちょっとご挨拶に行って来ます。 と言うの
ヨセフ についての 素晴らしい 記述 思い出して書きますね。
その 牧師さんの わたくしの 付け足しもあるかもしれないけど。
オフライン
#179 2020年01月03日 22:51:17
#180 2020年01月03日 22:57:14
#181 2020年01月04日 08:50:11
- 仰天
- ゲストユーザー
Re: 聖書という書物について
イエスの遺体は、本当に墓から消えたのか
ウィリアム・レイン・クレイグ博士は、イースターの象徴として語り継がれてきたイエスの復活が史実であるという強力な証拠を持っていた。マルコ福音書およびコリント人への手紙第一、15章にある教会信条は、話の伝説化が生じる暇のないほどの古い時期に書かれた文章であり、その中にイエスの復活が記録あるいは暗示されている。
イエスの墓が空になっていたことを最初に見つけたのが女性であるという記録も、当時の社会情勢から、この話の真実性をさらに強化する要因となっている。イエスの墓の所在地はクリスチャンもユダヤ人も知っていたわけであり、疑う人物があれば、そこに行って真相を確かめることが可能だった。
実際、墓にイエスの遺体があると確認した人物は誰もおらず、それを喜んで報告しそうなローマ政府の当局者やユダヤの宗教指導者たちも、イエスの墓に関して何のコメントもしていない。その代わり、その動機も機会もなかったはずの弟子たちがイエスの遺体を盗み出したなどというとんでもない話をでっち上げた。今日のキリスト教懐疑主義者たちが信じているのは、このでっち上げの話である。
アーマンの言う、墓に見張りの兵はおらずイエスの遺体を弟子が盗み出したという説に説得力はあるでしょうか?(本人さえ自説に信憑性がないような事を書いていますが)
イエスの墓を誰も見張ってなかったという事が真相ならローマ側は、見張りなど付けていないとの反論をすれば済むこと。説得力はなし。
兵士が見張りについて墓が石で塞がれていた記述を疑う根拠は特にないでしょう。
#182 2020年01月04日 08:53:29
- てつてつ
- メンバー
Re: 聖書という書物について
仰天さん>その前に、マタイとパウロの教えはイエスの贖いと復活、多くの人の救いのためにイエスが死なれたという点で一致しており対立していないという点は認めるのですか?
それは否定できない部分だと思いますが。
この点は同じだと思いますが アーマンさんの キリスト教成立のなぞを解く 279ページ 前掲
パウロとマタイは律法の遵守について、同意見だったか?答えは、明らかに「否」である
とあるように 律法を守ることが救いにつながるかという点については対立していると思います
>1つ1つ整理しなければならないでしょう。
すみません 登録の件について聞いたのは 仰天さんが復活について500人以上の弟子たちが見たと福音書に書いてあるけどそれがウソなら周りの人がだまってないはずだ といってましたが 自分は登録の話もウソだと思いますが まわり人たちは またあの変な宗教の人たちがおかしいこといってるわー か ファンタジー「または聖書についての質問さんがいう>福音書という新しい文学ジャンル」として見ていたのかなーと思っただけです
それと、通読は何回しましたか?
すみません証人時代に多分何回かしたと思いますが断絶してからまったくしてないです
あと
仰天さん>アーマンさんの作り出した『神話』を信じる事はできません。
カトリックでも異端のエホバの証人の歪められた福音等の間違いは指摘していますね。
ガエタノ・コンプリ
「ゆがめられたキリスト―エホバの証人、モルモン教、原理運動」をご覧下さい
は何を言いたかったのでしょうか?
編集者 てつてつ (2020年01月04日 09:05:10)
オフライン
#183 2020年01月04日 09:29:27
- 仰天
- ゲストユーザー
Re: 聖書という書物について
仰天さん>その前に、マタイとパウロの教えはイエスの贖いと復活、多くの人の救いのためにイエスが死なれたという点で一致しており対立していないという点は認めるのですか?
それは否定できない部分だと思いますが。この点は同じだと思いますが アーマンさんの キリスト教成立のなぞを解く 279ページ 前掲
パウロとマタイは律法の遵守について、同意見だったか?答えは、明らかに「否」であるとあるように 律法を守ることが救いにつながるかという点については対立していると思います
>1つ1つ整理しなければならないでしょう。
すみません 登録の件について聞いたのは 仰天さんが復活について500人以上の弟子たちが見たと福音書に書いてあるけどそれがウソなら周りの人がだまってないはずだ といってましたが 自分は登録の話もウソだと思いますが まわり人たちは またあの変な宗教の人たちがおかしいこといってるわー か ファンタジー「または聖書についての質問さんがいう>福音書という新しい文学ジャンル」として見ていたのかなーと思っただけです
それと、通読は何回しましたか?
すみません証人時代に多分何回かしたと思いますが断絶してからまったくしてないですあと
仰天さん>アーマンさんの作り出した『神話』を信じる事はできません。
カトリックでも異端のエホバの証人の歪められた福音等の間違いは指摘していますね。
ガエタノ・コンプリ
「ゆがめられたキリスト―エホバの証人、モルモン教、原理運動」をご覧下さいは何を言いたかったのでしょうか?
律法の遵守については、論争後、使徒も参加したエルサレム会議で守る必要はないと結論が出ています。(これも指摘済み)
律法を守っていかなければならないなら、動物の犠牲の代わりにご自身を捧げられたイエスの贖いが無意味です。
神殿での捧げ物は新しい契約では必要ありません。割礼もそうです。
安息日を守る事はユダヤ人を含むクリスチャンは守らなくなり、代わりにイエスの復活があった週の始めである日曜日に集まるようになりました。
パウロの説教により多くのユダヤ人もクリスチャンになっていたのですし、パウロは使徒とも協力していたのですからパウロがギリシャ人だけと行動していたわけではありません。
多くのユダヤ人は、もはや安息日、その他の律法を守る事なく習慣を変えました。
その大きな変化はイエスの復活があったとしか思えないのです。
イエスは安息日の主ですし、律法主義の宗教指導者たちと対立していたのですから新しい契約の後にも旧契約の律法を守るべきという事はないと思いますね。
ファンタジー、文学に過ぎないとの反論が非常に弱く、反対に、真実であるという確かな確信のもとに爆発的に広がっています。
コンプリ神父のは、カトリックはおおらかで他の間違いを指摘などしないというような他の人の書き込みがあり、それに対してのものです。
#184 2020年01月04日 09:33:18
- 仰天
- ゲストユーザー
Re: 聖書という書物について
十字架の死後、復活したイエスを目撃した人はいるのか?
復活後のイエスが現れた話は、何年もかけて作り上げられた神話ではない。この分野の専門家であるゲーリー・ハバーマス博士は、「イエスの復活は、キリスト教が誕生した瞬間からの中心的信念」と説明している。コリント人への手紙第一15章では、復活したイエスを見た人物の名前が具体的に挙げられており、パウロはこの事実を疑う人は、名前が挙がった人物(使徒も含まれますからパウロの体験は幻覚ではないのです。その事は使徒にも確認され承認されています。)
の所に行って、自分で直接その真偽を確かめるように奨励している。使徒の働きでは、イエスの復活に関する主張が至るところに書かれ、その年代も非常に古い。また福音書では、弟子たちが復活したイエスと再会を果たした話が数多く記録されている。
この件に関し、イギリス人神学者のマイケル・グリーンは、「イエスが復活後に現れたことは、古代史の中でも最も真実なことである。・・・・これが史実であり、また初代教会のクリスチャンがイエスの復活に絶対的な信仰を持つことができたことの理由がここにあることは、理性的に考えても、疑う余地はまったくない」と結論づけている。
#185 2020年01月04日 09:36:40
- 仰天
- ゲストユーザー
Re: 聖書という書物について
ほいさん、バート・D・アーマンの説に可能性がありますか?
本当に幻覚の可能性があるかどうかしっかり調べましたかという事を言っているわけです。
大抵の場合はアーマンさんの本だけ読んで他には何も調べてもいないのではないでしょうか。
十分な根拠?
疑って疑って調べ尽くして、被造物と聖書で十分な根拠だと考えている人も多く存在しています。
創造者もいないのに、宇宙の中でこの地球にだけポーカーで言えば連続して揃ったカードが出続けたような奇跡が都合よく偶然にあり続けたと言うような事はありません。(それは神がいる以上の奇跡です。)
てつてつさんがよく引き合いに出すイスラム教ですが、イスラム伝承はマホメットの死後数百年経ってから確立しています。
ですから、イエスを実際に知る人々が生きていた時代に書かれた福音書と比較することはできません。
J・P・モーランド博士はイエスの復活を裏付ける状況証拠を挙げています。
1、十二使徒たちは、復活の事実を知る特別な立場にあり、それが事実である事を宣言しながら殉教していった。
2、復活が事実でないとしたら、パウロやヤコブといったキリスト教懐疑主義者が改宗し、殉教していった事実が証明できない。
3、十字架から数週間後に、数千人ものユダヤ人が、ユダヤ社会で何世紀にも渡って受け継がれてきた社会的・宗教的に重要な慣習を取りやめた。しかも、イエスに対する信仰に誤りがあれば、地獄に落ちる覚悟をしたうえでのことであった。
4、聖餐・バプテスマの誕生が、イエスの復活と死を暗示していること。
5、ローマ政府の激しい厳しい迫害にもかかわらず、教会が台頭・成長していった。特にこの五番目の傾向に関しては、C・F・D・モールが、「歴史に巨大な穴を、すなわち復活という形と大きさをした穴を開ける」とまとめている。
#186 2020年01月04日 09:53:40
- 仰天
- ゲストユーザー
Re: 聖書という書物について
全てのユダヤ人はパウロと対立していて行動を別にしていたでしょうか?パウロと対立していたユダヤ人と12使徒の考えは同じでしたか?
使徒言行録/ 14章 01節
イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。
使徒言行録/ 17章 11節
ここのユダヤ人は、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日聖書を調べていた。
コリントの信徒への手紙一/ 12章 13節
なぜなら、私たちは皆、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの霊によって一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったからです。
コロサイの信徒への手紙/ 03章 11節
そこには、もはやギリシア人とユダヤ人、割礼のある者とない者、未開の人、スキタイ人、奴隷、自由人の違いはありません。キリストがすべてであり、すべてのものの内におられるのです。
12使徒同様、数多くのユダヤ人が異邦人と共にクリスチャンになっており、神の救いは全ての人へと広げられました。
受け入れたユダヤ人はもはや律法の下にはいない事は明白です。
#187 2020年01月04日 12:56:48
- めぐママ
- メンバー
Re: 聖書という書物について
てつてつさん おはようございます!
今日は お仕事お休みですか?
ゆりさんという人が不思議でした。 突然 人格が豹変していって アザミさんを煽って 三太郎さんのことを罵って いい大人の 第三者間のことで 熱くなるなんて キャラが お育ちの良い 恵まれた環境のかたとは思えず 論争を仕掛けて来ても 放っておいたのです。
タニタクミ ひよりさん は ハンニバル のレクター博士みたいだと感じて (これは 単なる 勘) いましたが 魔物の子さんのところに 殴り込み 発言しています。
騒ぎを起こして 構って欲しい 八百屋お七
さやかさんの動画
多重 ハンドルネーム の人って 惹かれ合うのでしょうか?
サルガタナス も不思議
ゆりさん は どうも タニタクミ だったようです。
読者は識別力を 働かせなさい。 カレブさんは わかっていても みんなが気がつくのを 待っていた。 そんな気がします。
オフライン
#188 2020年01月04日 13:27:07
#189 2020年01月04日 13:37:12
#190 2020年01月04日 13:47:43
- てつてつ
- メンバー
Re: 聖書という書物について
書物としての新約聖書 313ページあたり
「もしかすると」ではなくて、非常にはっきりしているのは、使徒行伝一五章のいわゆる使徒会議の場面である。エルサレム教会の主だった者たち(イエスの弟ヤコブ、・ヘテロなど)の会議だから、当然アラム語が会議の主たる言語だったはずである。ヤコブやペテロは、多少はギリシャ語も理解しただろうけれども、場所はエルサレムだし、アラム語以外で会議が行なわれた可能性はなかっただろう。そうすると、そこに外から来て参加したバルナバやパウロは、逆に、ある程度はアラム語を理解できたとしても、たいして流暢に話せたわけはないから、どこまで会議に積極的に参加できたかわからない。パウロの書いていることだけを歴史的事実だとみなすパウロ絶対主義の学者たちは、このエルサレム会議の記録についても、使徒行伝の記事の方はパウロの記述(ガラティァ書二章)とかなり異なるので、事実ではない、と言いたがる。確かに両者の違いはあまりに大きく、簡単には両者を調整することはできない。ガラティァ書二章ではパウロが堂々と主役であるのに、使徒行伝一五章ではパウロの影はまったく薄く、居るのか居ないのかわからないほどである。しかし、エルサレム教会の会議であるから、エルサレムのキリスト教の中心人物たちが主導権を握るのは当然としても、それだけでなく、もしも会議がずっとアラム語で進行したのであるとすればいくらおしゃべりのパウロでも、簡単に口をさしはさむのは無理だっただろう。それに対して、ガラティァ書二章の方は、会議そのものの報告ではなく、パウロは、実際には会議では影の薄い存在だったのに、ともかくもその折りにギリシャ語で確認できたことのうち、自分に都合のいいことだけを述べているのであろうと考えられる。
編集者 てつてつ (2020年01月04日 13:48:43)
オフライン
#191 2020年01月04日 13:59:06
- てつてつ
- メンバー
Re: 聖書という書物について
アーマンさんの キリスト教成立のなぞをとく73ページあたり
パウロが改宗する以前に、キリスト教徒を迫害していたことは良く知られている。したがって、イエスが宣教活動をしていた時期には、彼の信奉者ではなかった。それどころか、イエスのことを全く知らなかった可能性が高い。パウロは.ハレスチナの人間ではなかったし、母語もアラム語ではなくギリシャ語だった。しかしある時点で、何らかの理由から、彼は「天からの光」を見る(『使徒言行録』九章三節では、文字通り光を見たことになっている)。それを期に、キリスト教の敵から、最大の擁護者の一人へと転身を遂げる。その後彼はどのような行動を取ったのだろう?パウロ自身は、『ガラテャの信徒への手紙』一章十六節から二十節にかけて、以下のように改俊後の出来事を述懐している。わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません自分は嘘をついていないとパウロがことさら念押ししているため、読者は檮躍してしまう。彼の言葉はいたって明快だ。回心した後、彼は誰にも相談せず、三年間使徒の誰一人とも会わず、その後もケファ(ペトロ)とイエスの兄弟、ヤコブ以外、会っていない。そうなると、『使徒言行録』がにわかに面白味を帯びてくる。なぜなら、『使徒言行録』九章によれば、改宗した.ハウロは、しばらく「弟子たちと」ダマスコに滞在し、それからこの町を去ってエルサレムに行き、そこで使徒に会っているからである(九章十九‐二十九節)。あらゆる点で、『使徒言行録』は.ハウロの記述と相反している。パウロはすぐに他のキリスト教徒と合流し、一時彼らと共にいたのか(『使徒言行録』)、それともそうしなかったのか(パウロ)?一路エルサレムに向かったのか(『使徒言行録』)、向かわなかったのか(パウロ)?使徒たちに会ったのか(『使徒言行録』)、ペトロとヤコブにしか会わなかったのか(パウロ)?パウロの書簡と『使徒言行録』に慣れ親しんでいる読者なら、どうして両者の記述が食い違っているのか、容易に理解できるだろう。・ハウロは、『ガラテャの信徒への手紙』の中で、福音がイエスを通じて、神から直接もたらされたことを強調している。彼は、神以外の誰からもl他の使徒からさえl福音を受け取っていないのだから、福音の内容について彼と意見を分かつ者は誰であろうと、実は彼ではなく神に楯突いていることになると言いたいのだ。一方、『使徒言行録』の記者は、イエスの本当の使徒、すなわち元々の弟子と。ハウロが、全ての点で完全に連続性を共有していると主張している。彼らは邊遁し、言葉を交わし、意見が一致したl『使徒言行録』では、何度もこう繰り返されている。しかし・ハウロにとって重要なのは、神から直接授けられた自分の権威だった。彼は誰とも協議せず、使徒にも会わなかった。『使徒言行録』の記者とパゥロは、論じるべき主題を異にしていたため、起こった出来事を記録した彼らの記述も別物になってしまったのだ。両者の違いは興味深いが、重大な矛盾でもある。どちらを信じればいいのだろうか?私ならパウロに軍配を上げる。彼は、自分の行動を熟知していただろうし、真実を語っていることを神に誓っているのだから。パウロが嘘をついていると考えるには、少々無理がある。
オフライン
#192 2020年01月04日 14:00:34
- ほい
- ゲストユーザー
Re: 聖書という書物について
ほいさん、バート・D・アーマンの説に可能性がありますか?
本当に幻覚の可能性があるかどうかしっかり調べましたかという事を言っているわけです。
大抵の場合はアーマンさんの本だけ読んで他には何も調べてもいないのではないでしょうか。
私の答えは既に述べているように「分からない」、そして聖書は後世の人が信じるに足る十分な根拠を提供していない、ということです。
アーマンさんの書かれている話は、あくまでも可能性の話であるということはご自身も認めておられると思いますが、なぜあえてそういう話をしたのかというと、「復活」と比べたらまだ可能性があるという対比のためではないでしょうか。
幻覚が「あり得ない」というなら、復活は「もっとあり得ない」ということです。
すべて可能性の話です。
十分な根拠?
疑って疑って調べ尽くして、被造物と聖書で十分な根拠だと考えている人も多く存在しています。
それは主観的な根拠ですよね。つまり確証バイアスです。
まあ信仰とはそういうものなので、そうすることを批判する気は全くありませんが、それをあたかも論理的で正しいことであるかのように主張されるなら、私は反対します。
創造者もいないのに、宇宙の中でこの地球にだけポーカーで言えば連続して揃ったカードが出続けたような奇跡が都合よく偶然にあり続けたと言うような事はありません。(それは神がいる以上の奇跡です。)
先にも述べたように私は創造者の存在は否定していません(むしろ肯定したい方です)。
ただ、その存在を論理的に納得できる仕方で人類に示されないのは府に堕ちないです。
聖書の神は、過去には数々の奇跡を起こされたのに、なぜ今はその一つも示されないんでしょうね。
#193 2020年01月04日 14:05:54
- 仰天
- ゲストユーザー
Re: 聖書という書物について
田川さんの パウロがキリストを見たことの解説
書物としての新約聖書 304ページ
パウロにしても、ギリシャ文化の中心地にキリスト教の福音をもって訪れるのは、相当な勇気を必要としただろう。しかも、そこに至らなければ、福音の「世界宣教」にはならない。彼としてはいわば清水の舞台から跳び下りるほどの覚悟でエーゲ海をわたったのだろう。その時の強度な心理的ストレスが伝説化された幻覚体験として使徒行伝では語られている
まず、田川さんのパウロ幻覚説もアーマン氏同様間違いです。
反対者であったパウロが復活も知らないのにクリスチャンになり、福音を携えて宣教したという理由の説明が必要となります。
説明をどうぞ。
幻覚というものは熱中症などでも見る事もあるかもしれませんが、それが人生を変えるほどの改宗するほどのリアルなものにはなり得ないでしょう。
それに、ペテロらと会い幻ではない事が確認されているわけです。
死者やマリア様と会うような幻覚というものは懐かしく思ったり、会いたいという想いがなければ見れません。
しかし、パウロは迫害者で、イエスの弟子たちでさえ復活を信じておらず、墓を見に行った婦人たちも香料を持って遺体処理に出かけたのであり、イエスを園丁と間違えているわけですから全く復活など期待してもいなかったのです。
そんな心理状態では幻覚はあり得ません。
他の大勢の弟子も各自バラバラな場所にいて普段の生活をしており、その場所はイエスの復活を期待するような聖地でもなく、復活さえ信じていませんでした。
よって田川さん、アーマン、それを信奉するてつてつさんの唱える幻覚説は誤りです。
#194 2020年01月04日 14:11:25
- 仰天
- ゲストユーザー
Re: 聖書という書物について
ほいさん、アーマンの言う事は論理的でもなく、神を否定する結論、奇跡などないという考えを前提としており、結局は否定したいだけなのです。
今は奇跡はいつでも起こっているとも言えますし、(被造物から読み取れる)
起こっていないとも言えます。(聖書時代のような目に見える奇跡は現代ではないからです)
なぜかって?
今は信仰の時代だからです。
見ずに信じる者は幸いです。
#195 2020年01月04日 14:11:28
- てつてつ
- メンバー
Re: 聖書という書物について
ありゃりゃ ニアミスしそうでしたね
♯190-191と あとパウロが自分の教会からの寄付をもっていったという記述もどこかにあったと思うのですが それらから考えると使徒行伝のエルサレム会議の記述は筆者の理想または美化したもので 実際に起きたことは12使徒グループのユダヤ教的クリスチャンはお金をもってきたパウロをむげにもできず また自分たちはパレスチナ以外で伝道するつもりもないし 救われるのは律法を守って割礼を受けるというイエス導師の教えを守ったおれたちだけなんだけど まああんた「パウロ」がおれたちのシマ以外で会員募って上がりを持ってきてくれる分にはかまわないよ まあその際にハードル下げて律法と割礼免除でもいいんじゃねー どうせ俺たち以外には救われないし みたいなものだったんじゃないかなとかってに想像しました てつてつ行伝1.1より
まあ一時期の日蓮正宗と創価学会の仲が良かった時期みたいに で本当はそのままだったらパウロたちは池田の大ちゃんみたいに本山から排斥されたのかもしれませんが70年のエルサレムの滅びで本山の12使徒グループが壊滅されられちゃったんで パウロ派が残ったのかもしれないと思いました
編集者 てつてつ (2020年01月04日 14:28:59)
オフライン
#196 2020年01月04日 14:22:57
- 仰天
- ゲストユーザー
Re: 聖書という書物について
てつてつさんが推測や妄想するのは自由ですが、具体的な解説がほとんどありません。
#197 2020年01月04日 14:24:27
- 仰天
- ゲストユーザー
Re: 聖書という書物について
聖書の話は伝言ゲームのようであり、信用できないというアーマンの説は正しいと言えるでしょうか。
この点で、ある人がクレイグ・ブロンバーグ博士と語った記録があります。
伝言ゲーム
読書の皆さんもおそらく伝言ゲームをしたことがあるだろう。ある子供が別の子供の耳もとで、もそもそと話を伝える。たとえば「君は大切な親友だよ」というメッセージを伝えていくと、最後の子供にはそれが「君は大変な悪友だよ」などというとんでもない内容で伝わったりする。
「お互い、正直に行きましょう。伝言ゲームとイエスの話の伝承を比べるのはいい線をついていると思いませんか」
しかし博士は乗ってこなかった。「そうでもないですね。聖書では、その内容を一生懸命に覚えて、それをきちんと覚えたと確信するまで他の人に伝えないのですから、伝言ゲームとはまったく違います。
伝言ゲームは、話をきちんと聞きとれるかどうかとか、メッセージは一度しか伝えてもらえないという点にスリルがあり、楽しめるわけです。話を聞いたらそれをすぐに次の人に伝えなくちゃいけない。ひそひそ声で話して、次の人が内容を滅茶苦茶にしてしまうかもしれない。
そんなわけですから、部屋を一回りして最後の三十人目に到達する頃には、話がとんでもない方向に行っているのは当たり前です。」
「なぜ伝言ゲームと口承文化を比べるのはダメなのですか」
博士はコーヒーを一口飲んでから言った。「伝言ゲームを一世紀の社会に当てはめて、抑制と均衡という観点から考えてみましょう。当時の伝言ゲームでは『三人続けて伝言を受け取ったら、その三人目の人は、列の一番最初の人に向かって大声で「内容はこれで合っていますか」と確認すること。そして、内容が間違っている場合には、きちんと正しい内容を理解してから次の人にメッセージを伝える。この作業を列の最後まで繰り返す』というルールが適用されていました。
当時の社会は、口伝えの話を常にモニターし、間違いを修正する必要がないかをチェックしていたのです。この作業によって、話の真実性が維持されたわけです。
ですから、そこで伝えられたものは、子供の伝言ゲームとはまったく違いますよ」
#198 2020年01月04日 14:24:59
- ほい
- ゲストユーザー
Re: 聖書という書物について
ほいさん、アーマンの言う事は論理的でもなく、神を否定する結論、奇跡などないという考えを前提としており、結局は否定したいだけなのです。
「奇跡などない」これが常識です。
その常識に反して奇跡があるというんですから、その根拠を示すべきです。
常識に基づく推論は客観的ですが、常識に反して一方を過度に指示するとしたら、それは客観的で論理的といえるのでしょうか?
ずっとこのループです。
今は奇跡はいつでも起こっているとも言えますし、(被造物から読み取れる)
起こっていないとも言えます。(聖書時代のような目に見える奇跡は現代ではないからです)なぜかって?
今は信仰の時代だからです。
見ずに信じる者は幸いです。
ほんと、物は言いようですよね。
「自分は奇跡を行ったけど、今は理由があって奇跡はできない」という人がいたら、その話は信じないのが普通の反応です。
仰天さんは聖書否定を推測や妄想といいますが、聖書の全肯定もまた推測や妄想ですよ。
#199 2020年01月04日 14:30:38
- ほい
- ゲストユーザー
Re: 聖書という書物について
伝言ゲームと口承文化の違いは、あくまでも程度の違いであって、それを以って口承文化が100%正確に引き継げるというのは論理の飛躍ですよ。
日蓮正宗が仏様の考えを100%正確に受け継いでいるというのと大して変わらない主張だと思います。
#200 2020年01月04日 14:32:23
- 仰天
- ゲストユーザー
Re: 聖書という書物について
偶然に宇宙や生命ができたというのは奇跡です。
状況証拠からイエスの復活は否定できないでしょう。
はいさんは都合よく、人は不条理な行動を取る場合もありますと言いますが、なぜ復活もなく弟子たちがそうした不条理な行動をとったかの具体的な説明は何もしません。
否定派の状況証拠は非常に疑わしく論理的でもありません。
否定したいだけで結論ありきの自説なだけです。
奇跡を常に起こすように神に要求するのは愚かでしょう。
奇跡を見ても幻覚だとして片付けるわけですから詭弁です。
今は信仰の時代であり、信仰によって裁かれるというのが聖書の教えです。
それが嫌なら信じなくて構いませんが、否定する意見を出すなら妥当なものを出すようにして下さい。