ログインしていません。

#151 2020年01月03日 03:07:27

ガッツだぜpart2
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

それぞれの段階があるので、てつてつさんのご紹介された文書が無意味とは思いません。
私もアーマン氏の著書は読みました。投影された影が正方形でも立方体とは限りませんし
色んな角度から見るチャンスはあるべきだと認識しています。

(お屠蘇飲み過ぎて頭痛い)
聖書は比喩表現を多数用いてるので、意図が伝わりにくいところがあります。

箴言の書第15章


1 柔らかい答は憤りをとどめ、激しい言葉は怒りをひきおこす。

2 知恵ある者の舌は知識をわかち与え、愚かな者の口は愚かを吐き出す。

3 主の目はどこにでもあって、悪人と善人とを見張っている。

4 優しい舌は命の木である、乱暴な言葉は魂を傷つける。

5 愚かな者は父の教訓を軽んじる、戒めを守る者は賢い者である。

6 正しい者の家には多くの宝がある、悪しき者の所得には煩いがある。

7 知恵ある者のくちびるは知識をひろめる、愚かな者の心はそうでない

特に4節と7節、知識は人を助けるものなので、段階に応じて摂取しても良いと
思います。多少の毒は耐性をつけるかもしれません。そもそもてつてつさんは
熱心なクリスチャンですので、その熱心なクリスチャンであったてつてつさんが
別の思いを抱かれたのなら、その経緯に耳を傾け静かに拝読しても良いと思い
ます。てつてつさん、私は変わり者ですがエイリアンじゃないので大丈夫ですよ^^

#152 2020年01月03日 03:18:22

ガッツだぜpart2
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

めぐままさん、お屠蘇飲みすぎてレスが遅くなりました。普段飲まないので
いきなり酔いがくるのです・・・

箴言の書、以前はあまり目を通さなかったのですが、ここにきて本当に心に
染みるようになりました。箴言、実は道徳や処世術だけではなく、聖書の
大きな流れの一つで重要なパートです。繰り返し命の木と書かれています。
ここを見過ごさないでしっかり聖書全体の繋がりについて考えてみたいと
思います。

そうする事によってスルメを味わうように聖書を味わえると思います。
処世術、歴史、民族史と研究の余地があって面白いと感じています。

#153 2020年01月03日 03:24:03

ガッツだぜpart2
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

明日から始動ですので書き溜めて行きますね。飲み過ぎてうたた寝して起きたら
こんな時間に。体がもちません。ではこれから寝ます。すみません、丸1日掲示板
を見られない毎日になると思いますのでレスが遅くなります。

#154 2020年01月03日 14:47:23

しろ
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

お正月少し落ち着いたので 以前 会衆で頂いた「エホバは秘密を明かにされる方」「エホバはほどなくして必ず起きる事柄をあきらかにされる」というコピー資料を読んでいます。
ここで話題になっている事柄に比べると 随分と初歩的なことかもしれませんが 組織のこじ付けの文とは思えないほど 歴史の流れに合いすぎていて驚きました。
(八人の王〜ダニエルの書 啓示の書の預言)

一人で読んでいたらサッパリわからないと思いますが 正しいかどうかは別として 理解しやすいです。

カトリックやプロテスタントも同じような解釈なのでしょうか?

聖書って不思議な本ですね

#155 2020年01月03日 16:48:41

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

このトピの♯52
仰天さん>つまり、田川さんはマルコが書いた事は否定していません。

田川さんが書いた 原始キリスト教史の一断面 25ページあたり

右の訳文に見られるように、。〈パピアス自身もマルコ福音書の執筆事情について直接には何も知らず、長老ヨハネなる人物の言葉に従って論じているのである。従って、資料的価値があるのはさらに限定されて、長老ヨハネの言葉だけとなる(右の訳文では、通説に従って、これにあたると思われる部分に『』をつけておいた)。この内容は次の四点にまとめられる
一、著者がマルコという名の人物であること
二、マルコはペテロの通訳であったこと
三、マルコ福音書の内容はペテロの伝えた伝承であること
四、マルコの記述は「順序だっていない」こと
この中、第二、第三の点は、新約聖書に何個所か出てくるマルコなる人物とは一致しないし、使徒行伝その他でぺテロの活動についていろいろ描かれているが、ペテロの通訳なるマルコという人物には一度も言及されていない。さらに決定的なことは、後述するように、マルコ福音書の内容からいって、これがペテロの通訳者であった人物がペテロの話すことを忠実に書き記したものとはとても思えないのである。とすると信葱性があるのは、この福音書の著者がマルコという名であった、ということだけになる。しかしマルコという名は平凡な名前であって、名前だけわかっても大した意味はない。

と述べてますので 名前はマルコだったかもしれない程度の意味かと思いました


あと以前のKAOさんの 指摘も思い出しました
ナザレのイエスは神の子か♯70より

【元証人さんの発言】
「否定的な著作の多い自称、神を信じないクリスチャンであるギリシャ語の専門家の田川建三さんでさえ、『書物としての新約聖書』の中でマルコなどを福音書筆者と書いてます。(P333)」

これに対し【てつてつさんの発言】
「確かに田川さんはマルコの福音書はマルコがアラム語で書いたという理解でした
大変勉強になりました 元証人さんもすごい勉強しておられるのですね

というわけで ちょっと自分にはこれ以上分からないですね すいませーん 田川先生のパダワンのKAOさーん お願いします ちょっと助けてくださーい」

・・・という流れだったのですね。必要とされている時に忙しくてランプから出てこられないようでは「ランプの精」失格でしたね(笑) それではあらためまして・・・

田川先生は「マルコが福音書を書いた」なんて一言も言っておられないのでご安心を(笑)
突然こう書いても意味不明かもしれませんが、少し面倒ですが説明を試みます。

まず第一に我々の手元には「マルコによる福音書」が存在します。これは歴史的な固有名詞です。それに対し「この福音書はいったい誰が書いたのか?」という聖書学上の著者問題というものがございます。この第二福音書がマルコの名と結びつけられたのは、「教会史」で知られるエウセビオス(260-339)が、ヒエラポリスの司教パピアスの伝える伝承によるもので、そこで「マルコ」はペテロに同行した通訳として言及されています。しかしそれがⅠペテロ5章13節の人物を指しているかどうか、単なる通訳ではなく「わたしの子」と表現されており、それにⅠペテロそのものが偽書とされていることを勘案すると、根拠は乏しいようです。他にも新約の中にはパウロの同行者としてのマルコ(ヨハネ・マルコ)も存在しますが、その場合でもイエスの同時代人とはなりません。

要するに聖書学の分野では、マルコ福音書の著者は「無名人」であり、著者としての「マルコ」とは、便宜上の記号にすぎないということです。田川先生は、もはやマルコの専門家という狭い範囲の研究者ではありませんが、学位論文はマルコ研究だし、いまだ上巻だけとはいえ、『マルコ福音書』注解も出しており(新教出版社:1972年)、その序説の部分で著者問題に言及し、「著者がどういう人物であったかはわからない。新約聖書で何度か言及されているマルコなる人物(使徒行伝12:12,25,13:5,13,15:36以下 ピレモン24,第一ペテロ5:13)とは、おそらく無関係であろう。」(P6)と明確に書いていらっしゃいます。

編集者 てつてつ (2020年01月03日 16:57:55)

オフライン

#156 2020年01月03日 17:34:40

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

田川さんは最近改訂された著書で見解を改めており、他の最近の注解書や学者の説でもマルコが記者であるという見方に戻っているものもあります。それも指摘済みです。
他の方も書いておられました。

ヤマ さんの発言:

初めまして。
KAOさんやてつてつさん、ラハムさんたちの論議を楽しく拝見しております。

田川先生のマルコ福音書の著者に関する見解が、現在では異なっています。どなたかが訂正して下さるものと思い、静観しておりましたが、いまだ、その投稿がないようですので紹介させていただきます。

KAOさんが、マルコ福音書上巻の記事を紹介して下さっており、マルコ福音書のマルコとは、使徒12:12等に出てくるヨハネ・マルコとは別人物であり、記号的名称であるとの見解を紹介して下さいました。

以下引用。
まず第一に我々の手元には「マルコによる福音書」が存在します。これは歴史的な固有名詞です。それに対し「この福音書はいったい誰が書いたのか?」という聖書学上の著者問題というものがございます。この第二福音書がマルコの名と結びつけられたのは、「教会史」で知られるエウセビオス(260-339)が、ヒエラポリスの司教パピアスの伝える伝承によるもので、そこで「マルコ」はペテロに同行した通訳として言及されています。しかしそれがⅠペテロ5章13節の人物を指しているかどうか、単なる通訳ではなく「わたしの子」と表現されており、それにⅠペテロそのものが偽書とされていることを勘案すると、根拠は乏しいようです。他にも新約の中にはパウロの同行者としてのマルコ(ヨハネ・マルコ)も存在しますが、その場合でもイエスの同時代人とはなりません。

要するに聖書学の分野では、マルコ福音書の著者は「無名人」であり、著者としての「マルコ」とは、便宜上の記号にすぎないということです。田川先生は、もはやマルコの専門家という狭い範囲の研究者ではありませんが、学位論文はマルコ研究だし、いまだ上巻だけとはいえ、『マルコ福音書』注解も出しており(新教出版社:1972年)、その序説の部分で著者問題に言及し、「著者がどういう人物であったかはわからない。新約聖書で何度か言及されているマルコなる人物(使徒行伝12:12,25,13:5,13,15:36以下 ピレモン24,第一ペテロ5:13)とは、おそらく無関係であろう。」(P6)と明確に書いていらっしゃいます。
引用終わり。


現在、田川先生はこの見解を撤回しており、「新約聖書訳と註」の第一巻、マルコ福音書の解説P853~以下のようにあります。

以下引用。
・・・このマルコがこの福音書の著者であるという指摘は、現存の文献では最も古くさかのぼっても二世紀初めまでしかさかのぼれないが、しかし、二世紀には広く広まっており、その点ではまったく異論もなかったのだから、すでに一世紀後半にはそのことは十分に広く知られていたものであろう。そして現に、この人物がこの福音書の著者であることを否定する積極的な理由は何一つない。それにもかかわらず比較的最近の聖書学では、これを否定する傾向が強い。(私も若いころは学会の主流に抵抗する勇気がなかったから、その意見にくみしていた。どうもすみません)。しかしこのマルコがこの福音書を書いたということに反対すべき根拠は、本当に、何一つないと言ってよい。むしろ、この人物ならばいかにもこの本を書いただろうな、と思えるふしは多い。・・・
引用終わり。


マタイとヨハネに関しては、記号的名称でしかないが、マルコとルカに関しては、聖書中に登場する実在の人物である、と考えておられるようです。

詳しくは、新約聖書訳と註でご確認ください。


「書物としての新約聖書」P335-6にかけても、
・・・キリスト教の長い伝統では、この人物は使徒行伝12:12などに出てくるヨハネと呼ばれるマルコと同一人物であろう、と信じられてきた。とすれば、エルサレム在住の、キリスト教の発足時にはまだおそらく若かった人物で、その母親マリアは最初期のエルサレムのキリスト教会のかなり有力な人物であったらしい。おそらくはバルナバが彼をヘレニズム世界に向かう宣教活動にひっぱりだした(12:25,13:5)。しかし、第一回伝道旅行でおそらくパウロと衝突して、途中からひきかえしてしまう(13:13)。それが原因で、バルナバ自身も第二回伝道旅行の時にはパウロと判れ、マルコと共に別の伝道旅行に出発する(15:36以下)。もしもこの人物がマルコ福音書の著者であったならば、そのギリシャ語のくせも大いに理解できるというものである。・・・

ここでも、はっきりとヨハネ・マルコがマルコ福音書の著者であると断定はしていないが、その可能性が非常に高いことを示唆しています。

ご参考になれば、幸いです。

#157 2020年01月03日 17:43:05

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

てつてつさんの場合は自己の見解に合わせて色々と持ってくるのはいいのですが、福音書はエルサレム破壊後、70年以降に書かれたような意見であったり、イエスが預言したようにペラに逃げていたユダヤ人がいたなどと
預言が前になされていた等、非常に都合よく展開していて矛盾していると思います。

#158 2020年01月03日 18:12:17

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

仰天さん書き込みありがとうございます

マルコは聖書の中に何回か言及されていますが

洞察の本みますと全員同一人物となっているようですが 仰天さんも同じ意見ですか?

オフライン

#159 2020年01月03日 19:01:37

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

てつてつ さんの発言:

仰天さん書き込みありがとうございます

マルコは聖書の中に何回か言及されていますが

洞察の本みますと全員同一人物となっているようですが 仰天さんも同じ意見ですか?

中には第一ペテロのマルコは福音書記者のマルコとは断定できないと見る人もいますが福音派の場合は大抵同じ人物と見ています。
同一人物だということを否定する要素が何かありますか?

さらに、てつてつさんは、十二使徒のグループと、ナザレ派とエビオン派とマンキオン派とグノーシスが同じだと考えるわけですか?

#160 2020年01月03日 19:31:00

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

返信ありがとうございます

仰天さん>福音派の場合は大抵同じ人物と見ています
では仰天さんも同じ意見なわけですね
これはまた考えたいと思いますが

>さらに、てつてつさんは、十二使徒のグループと、ナザレ派とエビオン派とマンキオン派とグノーシスが同じだと考えるわけですか?

ちょっと正確にはわかりませんが

少なくとも イエスと12使徒のグループは律法は守れという教えで
パウロたちから今日の一般にキリスト教といわれる教えは律法を守ろうとするものはキリストの購いを無駄にしているという教えで対立していると思います
この違いは仰天さんは認められるのですか?
「後のことは枝葉のことなのでそれほど重要ではないと思いますが」

編集者 てつてつ (2020年01月03日 19:46:56)

オフライン

#161 2020年01月03日 19:55:25

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

いや、てつてつさんは明確に使徒グループはエビオン派だったと書いていたわけです。

ユダヤ人クリスチャンの中には律法を守るべきという傾向が強かったものの、使徒グループであるエルサレム教会での会議で律法を守らないといけないという事はないと定められています。
それも指摘済みです。なぜ一度指摘した事を忘れるのでしょうか?

使徒言行録/ 15章 20節
ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。

29節
すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」

25節
また、異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を書き送りました。それは、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。」


さらに、てつてつさんは、パウロが律法に関して融通のきかない者であったという事を述べた書籍から転載していました。

これも明らかな間違いです。


パウロは、異邦人クリスチャンは律法の下にいない、イスラエルと結ばれたものだと分かっていましたがユダヤ人の気持ちに譲歩して割礼を施しています。

使徒言行録/ 16章 03節
パウロは、このテモテを連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を施した。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。


ペテロも異邦人とも食事もしており、旧い契約である律法に固執するユダヤ人もいましたが異邦人にも聖霊が注がれた事を認めています。

基本的にパウロと協力して、主にパウロは異邦人への伝道へと派遣されました。パウロは使徒に承認されているのです。

それも何度も書いた事です。ですから初期には意見の相違があったのは事実ですが対立ではありません。

で、使徒グループはエビオン派でしたか?

パウロは融通のきかない人間でしたか、それともそんなことはないですか?

#162 2020年01月03日 19:59:46

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

一部訂正します。

初期には意見の相違や対立があったにせよ、ずっと対立していたという事はありません。

#163 2020年01月03日 20:44:01

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

仰天さん書き込みありがとうございます

>いや、てつてつさんは明確に使徒グループはエビオン派だったと書いていたわけです。

>で、使徒グループはエビオン派でしたか?

エビオン派または他のどの派なのかは正確には自分にはわかりませんが


仰天さんが指摘しているのは このトピの♯117のことだと思いますが そこには田川さんが

使徒パウロの思想は、エビオン派やマタイやイエス自身のそれとは違った(エビオン派にとって、パウロは大敵だった)。パウロは、神に正しく向き合ううえで、律法など何の役にも立たないと、声高に主張している。入信した異教徒は、ユダヤの律法など無視していいというのだ。パウロによれば、もし異教徒が割礼したら、それは不必要なことをしただけでなく、神の恩寵を否定したことになる。神は、律法や割礼の盟約ではなく、イエスの死がもたらした贈り物として、救済してくれるのだから。割礼などしてしまった男は、救われないことにもなりかねない
(『ガラテャの信徒への手紙』五章四節)。パウロとマタイは、律法の遵守について、同意見だったか?答えは、明らかに「否」であるパウロとイエスは同じ宗教を唱導していただろうか?これは、歴史的に大変重要な疑問であり、否定することは難しい。イエスは、神の国に迎え入れられるためには、神が課した律法を守らなければならないと、信者に説いた。パウロは、律法は、王国に入ることと、何ら関係がないと諭した。パウロにとって大切だったのは、イエスの死と復活だけだった。歴史上のイエスは、律法について教えた。パウロは、イエスについて教えた。というより、一部の学者が言うように、パウロにとって、イエスの宗教は、すでにイエスにまつわる宗教だった

とありますので自分はパウロが解釈したものとイエスの教えは違うと思っていて それだけで十分かと思っています

追伸

♯108にもありましたね

てつてつ>エビオン派について  エビオン派はこれまでの書き込みでイエスの直属のペテロやイエスの肉の兄弟のヤコブたちのグループと思われる人たちのことですね やっぱりパウロたちのグループとは考え方が違ってたようですね

225ページあたりから

一部の学者は、エビオン派が、イエスの死後エルサレムの教会指導者になったイエスの兄弟ヤコブや使徒ペトロを始めとする、イエスの初期の信者と非常に似通った思想を持っていたと考えている。とりわけヤコブは、イエスの信奉者が、ユダヤの律法を忠実に守るべきだという立場を取っていたようだ。

使徒パウロの思想は、彼らと正反対の解釈に立脚していた。彼は、イエスの神は万人の神であり、イエスを信じる異教徒は、ユダヤ教徒になる必要はないと主張した

のあたりを読んで自分はそうかなと思っただけです

仰天さん>パウロは融通のきかない人間でしたか、それともそんなことはないですか?
さらに、てつてつさんは、パウロが律法に関して融通のきかない者であったという事を述べた書籍から転載していました。
これも明らかな間違いです。
パウロは、異邦人クリスチャンは律法の下にいない、イスラエルと結ばれたものだと分かっていましたがユダヤ人の気持ちに譲歩して割礼を施しています。

自分もパウロはユダヤ人にはユダヤ人のように または弱い良心をもつものには融通を利かせる人物だと思っていますが

(ガラテア 2:11, 12) …しかし,ケファがアンティオキアに来た時,わたしは面と向かって彼に抵抗しました。彼には責めるべきところがあったからです。12ヤコブのもとからある人たちが来るまで…

このヤコブのもとから来た人というのが12使徒グループから派遣された人だと自分は思っているのですが 彼らが正面きって律法をまもって割礼を受けた上でイエスをキリストと信じなければ救われないということについては断固として反対していると思います

(使徒 15:1, 2) 15 さて,ある人たちがユダヤから下って来て,「モーセの慣例どおり割礼を受けないかぎり,あなた方は救われない」と兄弟たちに教えはじめた。2しかし彼らを相手に,パウロとバルナバによって少なからぬ争論と議論が起きた時…

編集者 てつてつ (2020年01月04日 08:00:31)

オフライン

#164 2020年01月03日 20:58:43

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

パウロの教えは復活したイエスの啓示であり、神がイスラエル人とだけ結んだ旧契約から、新しい契約に移ったのであり、イエスの教えは最初はユダヤ人に、それから異邦人にまで救いがもたらされたという事です。
アブラハムに約束された通りであり、新しい契約はエレミヤ書にも出ているわけです。

“31:31主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。
31:32この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。
31:33しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。
31:34人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。”(エレミヤ31:31-34)

よって、イエスの教えとパウロの教えが異なるというのはてつてつの全体的に理解していない偏った見方に過ぎないと思います。

何回聖書通読しましたか?

#165 2020年01月03日 21:01:01

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

あと、例の文庫からも使徒グループがエビオン派であるかのように書いた記事を載せてなかったですか?

エビオン派だと思ってほとんど同意して載せたのではないのですか?

#166 2020年01月03日 21:04:18

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

ヘレニストが福音書を書いて、そして12使徒とも異邦人クリスチャンの教えは異なっているなどと考えるのは自由ですが、足りない部分を推測で埋めるのなら、ものみの塔と何ら変わらないではないですか?

#167 2020年01月03日 21:17:16

ほい
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

「足りない部分を推測で埋める」というのは、聖書擁護派も同じだと思います。
否定的に穴を埋めるか、肯定的に穴を埋めるかだけの違いですよね。
結局は「分からない」というのが一番誠実な結論ではないでしょうか。

アーマンさんの意見が、センセーショナルなのかとか、新鮮なのかいうことに興味はありませんが、自分は少なくとも偏りのない客観的な見方の一つだなと感じます。
普通は起こらないことが起こったと主張しながら、客観的に十分な根拠はない。
十分な根拠はないのに、信じない人は滅ぼされる。

こういう解釈にはお腹いっぱいです。あくまでも独り言です。。。

#168 2020年01月03日 21:22:17

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

ヤコブの元から来たとはあっても派遣されたとは書いていません。
エルサレム教会には様々なユダヤ人が紛れ込んでおり、行き過ぎた律法主義のユダヤ人たちを偽使徒と呼んでいるのです。

偽兄弟も、偽預言者も混ざっていたことでしょう。

いいですか。マタイとパウロの教えが異なるという事ですが、マタイでもイエスは多くの人を救う身代金として仕えるために来たと書いてあるわけです。マタイでもイエスは復活すると述べており、復活されたわけです。

多くの人を救うとは、ユダヤ人だけですか?

#169 2020年01月03日 21:30:03

めぐママ
メンバー

Re: 聖書という書物について

ほいさん    こんばんは

てつてつさん   忙しそうだし    ガッツだぜさんも   二日酔いで仕事して 答えてくれません。 聖書中の 重要な役割をする人物。
でも一言も喋らない  台詞がないんです。 どうしてだろうと 思っていたのですが、 仰天さんは 聖書通読 何度されたのですか?

この人物に 興味があるのです。 そして  何故 台詞がないのか?

教えていただいてもいいですか?

オフライン

#170 2020年01月03日 21:34:22

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

アーマンさんの個人的見解は客観的とは言えないものがあります。
伝言ゲームに例えた話もそうですが、特に幻覚説。

それらについて書こうかと思っていましたが時間がなくなりました。


滅びばかり気にして真の人生を生きていない。
神は信じたいと言いながらまことの神と出会っていない。

創造者がいるとしても存在を示さず意思を伝えることもできないなら果たしてそれは神でしょうか。

キリストだけですよ、遺体が存在しないのは。






独り言です。



あと、めぐママさんの謎かけのようなものには興味が全くありません。

過去の発言から、残念ながらめぐママさんからは誠実さが感じられませんので会話する気はありません。

#171 2020年01月03日 21:40:37

めぐママ
メンバー

Re: 聖書という書物について

あー  残念ですね。

カトリックではなくて  プロテスタントの牧師さんの エッセイの中にあった エピソードです。

台詞がないのも  何かの 神慮 なのでしょう。


「信徒の友」  だったか  プロテスタントの牧師さん。犬養道子さんではありません。
何処かの 教会でご夫妻で 働いておられる  かたの 苦難の 道のりを さらりと書いてある エッセイ。 妻の方は 子育てや  教会運営 の苦労 夫の牧師は 信仰に生きているなかで
さまざまな人の 相談を受け  難病にかかり そのなかで  改めて ご自分の信仰に向き合う とても  淡々とした文章ながら  心を打つものでした。

ずっと 覚えていますが その雑誌は 手元にない、  残念です。  その方にお聞きしたくてもわかりません。

編集者 めぐママ (2020年01月03日 21:56:57)

オフライン

#172 2020年01月03日 21:45:11

ほい
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

皆人間ですので、多少なりとも主観は入るものです。
伝言ゲームや幻覚説は、アーマンさんがそう主張しているわけではなく、そういう可能性もあるという異議を呈しているだけではないでしょうか。
大事なのは、できるだけ客観的に物事を見ようと努めているか、最初から結論は既にあって確証バイアスで物事を見ているかということであり、これはある程度伝わってくるものです。

滅びばかり気にしているつもりはありませんが、重大なことなので無視はできませんよね。
まことの神に出会っていないなどとおっしゃいますが、その根拠がないのになぜ聖書の神がまことの神だと断言できるのでしょうか。
「創造者がいてほしい」これは願望ですが、「(私の知る範囲では)存在を示さず意思も伝えていない」これが現実です。
十分な根拠を示してくれれば私も信じたいですが、その根拠がないんですからどうしようもないですよね。

#173 2020年01月03日 21:54:32

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

あとちょっと今思ったのですが 仰天さんは何度もイエスの復活について聖書に500人以上の人が見ていると書いてあるし そのようなことがなければ周りの人もだまっていなかっただろうということを根拠にしていますが

(ルカ 2:1‐5) …さてそのころ,人の住む全地に登録を命ずる布告がカエサル・アウグスツスから出た。2(この最初の登録はクレニオがシリアの総督であった時に行なわれたものである。)

ということも実際にあったと思っておられるのですか?

編集者 てつてつ (2020年01月03日 21:54:56)

オフライン

#174 2020年01月03日 22:11:02

ガッツだぜpart2
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

アノニマスさん、私が思うに、聖書は複数の書き手と翻訳者がいる訳ですので
翻訳の仕方ひとつでニュアンスが変わってきます。翻訳の段階で一度人の脳を
通過するため、クオリアの問題で、各人で食い違ってくる上、そこから得られる感触
も個々人で異なる訳です。
聖書から得られる感触と言っても、ものみの塔の場合は1914年の終わりの時に始まる
聖書にひとつも書かれていない憶測であり、霊感と呼ぶにはあまりにカルトな教義を
流布しているので語るに及ばずです。
この組織の厄介なところは、カルト教義と聖書に書かれている実際にあることをごちゃまぜに
していること。このようなカルト教団の存在が、聖書から自然に読み取れる実際のできごとを
指摘しているに過ぎないことさえ、おかしいと言われる要因になってしまっています。
アノニマスさんや私が聖句の繋がりを発見しようとしていることさえ、一歩間違うとカルトの
ように扱われる恐れがあるのではと思います。

めぐままさん、アノニマスさん、私が思うに、ものみの塔のような偏ったインスピレーションを
得ないためにどうするかですが、そもそも聖書翻訳が複数人の手に依り、脳の個体間による違い
(クオリア)のせいで弱冠相互に異なる可能性がある事を考慮すると、聖句の繋がりを読むと同時に
文化、気候、風土等の背景を考慮するしかないと思うのです。
このときにカルト集団でさえ、あながち間違った情報を書いていない事があり(そのためにカルト
は理系の専門家を育てる)おかしな方向に誘導されないよう、選ぶ資料に公正を期する必要があります。

#175 2020年01月03日 22:21:30

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

もう一つ思い出しました ヤマさんという方のブログで パウロと12使徒たちの対立について書かれていました


パウロがエルサレムの使徒たちから任命された「諸国民の使徒」であったわけではなく、パウロが自ら「使徒」という語を「称号」として使っていることを考慮するならば、「優秀な使徒たち」との皮肉は、エルサレム教会の「十二使徒たち」、キリスト教の権威である「使徒」に対する皮肉であると思われる。...

生きているイエスを知っていた使徒たちと自分を比較されたパウロは、コリントスの信者たちに腹を立て、彼らを「優秀な使徒たち」という嫌味な呼び方をして、対抗心を示したのであろう。

編集者 てつてつ (2020年01月03日 22:22:54)

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