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#126 2020年01月01日 16:26:46

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

320ページあたり

キリスト教が人間の創造物だと知ってしまった人は誰しも、信仰から離れ、教会に通うのを止め、日曜の午前中に、何か他のことをやり始めるだろうと、読者は考えるかもしれない。だが、私の場合、そんなふうにはならなかった。のみならず、私のように、熱心な福音主義者として研究を始め、新約聖書への歴史的・批判的視点の有無を言わせぬ説得力に兜を脱いだ後も、信仰を貫いている学者は、それこそごまんといる。私には、神学校で教鞭を執り、将来の聖職者を訓練している親友が、何人かいる。彼らは、私がここまで述べてきたことに、ほぼ完全に同意してくれる。何人かは、新約聖書概論の授業で、私の書いた教科書を使っているが、そこには、本書で論じたことが、詳細に書かれている。私の場合、キリスト教が人間の創造物であることに気づいたとぎ、この宗教の主義主張について、自分がどう考えているかを、きちんと見極める必要性を感じた。そして、キリスト教的な考えが、自分ととても波長が合うという結論に達した。私の世界観や、世界のなかでの自分の立ち位置に対する私の考えと、非常に相性がよかったのである。

私は、キリスト教が説く神やキリスト、それにキリストが救いをもたらすという教えを、一種の宗教的な「神話」、あるいは「神話」群と捉えるようになった。それは、証明されておらず、証明することもできないが、反証することもできない一連の物語、考え方、視点であり、私の人生や思考を特徴づけ、導くことができる、あるいはそうあるべきものだった。

この神話によれば、イエスは、他者のために生き、そして死ぬことを選んだのだ。私は、その崇高で人をも気高くする思想に胸打たれた。イエスが自己犠牲の手本を示したからこそ、キリストは、崇拝する価値のある存在なのだと信じていた。そして、彼を見習わなくてはならないと感じていた。彼の自己犠牲が歴史的事実であることを立証できるからではなく、その行為に個人的に共鳴したからである。

さらに言えば、聖書を信じなくたって、聖書から学べることはある。聖書は、信仰の書としてだけでなく、私たちの文明や文化の基礎を築いた人々の思想、信条、経験、活動、愛、憎しみ、偏見、そして意見を記録した史料として読承、研究する価値がある本なのだ。なぜ私たちはここにいるのか、何をすべきなのか、この世界はどうなるのか、そんな人生の大問題について思索するときに、先例を示すことによって、助けてくれる。真実を追い求め、抑圧と闘い、正義のために努力し、平和主義を貫くよう、私たちの背中を押してくれる。人生を精一杯生きようという意欲を刺激し、自分のことだけを考えず、もっと他人のために生きるよう、促してくれる。このような教訓が無用になる時代、過去の傑出した宗教家たちの思想が、生の只中で模索する私たちにとって、無意味になる時代など、人類の歴史が続く限り、決して来ることはないだろう。

ここまでで この本は終わりです
自分も聖書に書かれていることが全て史実ではなくとも 博愛とかそこから良いものを得ることについてはいいことだと思います

100分の著者>そのお経によって救われる人が一人でもいたなら、それは正しい教えだと言えます。

の仏教と同じようにキリスト教も変わってきたと思いますが その中から自分の役に立つものが一つでもあればよいのではないでしょうか kiss

編集者 てつてつ (2020年01月01日 16:49:36)

オフライン

#127 2020年01月01日 16:40:25

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

ヘブル8章には古い契約、新しい契約ということが出てきます。
古い契約は、モーセを通して神様とイスラエル人が結んだものです。




ヘブル8:8-12に書かれている新しい契約についての預言は、預言者エレミヤに古い契約の時代に次のように語られたのです。




“31:31主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。
31:32この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。
31:33しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。
31:34人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。”(エレミヤ31:31-34)


エレミヤ書で新しい契約を結ぶとはっきり書いていますから古い契約、つまり律法にこだわっているなら明らかな間違いです。

また、イエスの十字架以降、使徒を含むエルサレム会議でも割礼や動物の捧げ物等の指示はありません。

使徒言行録/ 15章 20節
ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。

29節
すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」

25節
また、異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を書き送りました。それは、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。」


12使徒を含めた初代教会も最初は律法の影響はあり、他の律法にこだわり変質したイエスを信じたユダヤ人もいたものの、結論として初代教会は律法の元にはおらず新しい契約に移っています。

#128 2020年01月01日 16:55:57

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

弟子達は幻覚を起こしていたのか?

今でもなお、太って白髪のエルビス・プレスリーがドーナッツ屋に駆け込むのを見たと思っている人がいます。それに、言い表せない検査に従い、宇宙船の中で宇宙人と最後の晩を過ごしたと信じている人もいます。

時々、自分が見たいと望んでいるものが、本当はそれは存在しないのに、見える人がいるようです。そのため、イエスの弟子たちが十字架の死であまりに取り乱し、生きているイエスに会いたいという願望が大きな幻覚を引き起こしたと主張する人がいるのです。もっともらしく思われますか?

アメリカ・キリスト教カウンセラー協会の元会長である心理学者ゲイリー・コリンズ氏は、急速に変化した弟子たちの行動の裏には幻覚があったという可能性について聞かれました。コリンズ氏はこう述べています。「幻覚は、個々に発生するものだ。その本質上、1回につき、あたえられた一つの幻覚を、一人の人しか見ることができない。絶対に、集団で見れるものではない。[30]

心理学者トーマス・J・ソアバーン氏によれば、幻覚はわずかの可能性すらありえないそうです。普通の健全な心を持つ500人の個人がありとあらゆる感覚的(視覚、聴覚、触覚など)な印象を体験するということや、これら全ての体験が完全に幻覚によるものでなければならないということは絶対にありえない。[31]

その上、幻覚の心理学では、幻覚を見る人はあまりにその人に会いたいがために、心がそれを作りだすといった心の状態になければいけません。

初期の教会で重要な指導者だった2人ヤコブとパウロはどちらも、生き返ったイエスに遭遇しましたが、予期してたわけでも、喜びを期待してたわけでもありませんでした。使徒パウロは、実際最初の頃はイエスの信者を迫害した指導者でしたが、イエスが生き返って彼の前に現れたという彼自身の証言を除いて、彼の改宗は不可解なままです。

幻覚の理論も行き止まりのようです。復活以外にどう説明できますか?

嘘から伝説へ

一部の納得できない懐疑派は、復活話の原因を、生き返ったイエスを見たと嘘をついたもしくは考えた人(一個人か複数)によって始められた伝説のせいにしました。時間が経つにつれ、伝説が語り継がれるごとに尾ひれがついて大きくなったのだと。

表面的には、もっともらしいシナリオのようでした。しかし、その理論には大きな3つ問題があるのです。

まず、複数の目撃者が反論活動してる間は、伝説が単に作られることはありません。古代ローマ、ギリシャの歴史家A.N.シャーウィン-ホワイトは、復活のニュースは伝説にしてはあまりにも早く、急速に広がったと主張しました。[32]

次に、伝説は昔からの言い伝えによって作られるのであって、実証できる現代史文書とはセットになっていません。しかし、福音書は復活から30年以内に書かれています。[33]

第三に、伝説の理論は、空っぽの墓の真相も、イエスが生きていたという歴史的に実証された使徒たちの信念についても、十分に説明なされていません。[34]

それゆえに、伝説の理論はこの驚くべき主張を言い逃れるための試みと比べて説得力はたいして変わらないようです。さらに、イエスキリストの復活の話は、イエスを信仰する12人を始めとし、歴史を変えました。彼らはローマ帝国全体とそれ以上の範囲に及んで変化をもたらし続けました。たった一つの伝説が、そんな短期間の間にどうやって歴史に巨大な影響を与えることができようか?



イエスは死人からよみがえったか? — Page 9
https://y-jesus.org/japanese/wwrj/6_body_count/9/

#129 2020年01月01日 17:25:15

ガッツだぜpart2
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

あけましておめでとうございます。
てつてつさん、結論、みなそこに行き着くのですね・・・
私も同じ結論です。全て過ちというよりも、そこには歴史と事実とが含まれていない訳では
ないので、役立つ情報を各自で得れば良いのではないでしょうか。背景や情報が無ければ
何かに喩えて著すという事も無いと思うので
、自分の人生に良いと思われる部分を役立てれば
良いと思います。

てつてつさん、アノニマスさん、私は旧約聖書から始まって、新約聖書で新しい基準と秩序がもたらされ
この物語は最終章を迎えるよう企画された物語だと思っています。その最終章に向かって言葉のリレーが
紡がれ、変化しながら、生とは何か死とは何か問答しながら結論に至る大作です。

旧約聖書でwhy?「なぜ人は死ぬの」
answer「死ぬ事は永い時、眠ることと同じ、ヘブライ人以外は罪人なので復活しない」
新約聖書でwhy?「なぜ人は死ぬの」
answer「罪人と神の目から見て善人をその民族によらず、生前の行いで選別するため」

聖書も成長しながらより精神論、哲学的と変化しています。とはいえ、新約もキリストに従わない者は煉獄が待っている
と最終的に結論しているところが、腑に落ちない人は腑に落ちないと思います。

最終章で結論したはずなのに、「肉体の死は死か?」「あの世はあるのか?」論争は終わっておらず、こればっかりは
死んでみなきゃわかんねえ(いきなりお下品ですみません)

死後の世界が実視できるようになるまで、この命題の答えは未来永劫に続くと思われます。
しかし、ダニエル書にあるように「終わりの日にはあちらこちら探り調べる者が大勢現れるでしょう」
という預言が、今、こうしてインターネットを通し現実のものとなり、世界のクリスチャンの割合が
3割となった今、佳きことについて語り合われるならば、ゼカリヤ書にあるように大団円を迎える時が
来ると思われます。ゼカリヤも終わりの日について、その時期についての明言は避けていますが
条件が整った今、もしかしたら何らかの良い変化があると良いなと・・・・・・・

#130 2020年01月01日 18:33:31

めぐママ
メンバー

Re: 聖書という書物について

皆さま あけましておめでとうございます。

ガッツだぜさん  やつばりね、ほぼ同じ事を考えていました。
神話の国 出雲へ行って 宮崎の神話の誕生 と同じく 神楽  大蛇 などなど 地域を盛り上げようと飾ってありました。 高千穂峡は 天岩戸神社とか  渓谷の美でしたけど。

神話を持たない国民は滅びるのだそうです。 アイデンティティを保ち我々は 価値ある国民で、生き残って 世界を動かしていくのだ!   というエネルギーで 最近まで 命を懸けてきました。

聖書も 神話も 長い年月のうちに 時代に受け入れられやすいように 洗練されてきました。 日本むかし話も 昭和の初めの頃の話を聞くと  随分と違っていて 驚きます。
最近では 育メン が注目されて それは 切実な問題ですから 幼な子のイエスを 抱っこしているのは マリアではなくて ヨセフ でしたね。 irisさんの    仰っていた パパ様 ローマ教皇様は  なかなか 粋なコトをなさいます。
でも カトリックのかたで それは違うじゃないか!  とムキになっているかたのことは 聞いていません。  時代と共に 必要にかられて 柔軟に対応するのが 民の幸せになりますね。


山陰 松江は 宍道湖のほとりの 温泉地 などは観光で人も集まりますが 知り合いの方が 近所の会社 営業所が消えていくし かつての大通りも 寂しい景色になったと言われてました。
それで お隣の県の 水木しげる 鬼太郎ブームにあやかろうと 何処に行っても妖怪のお土産がありました。  不思議 妖怪のチカラを借りなければ 盛り上げられないなんて いけませんねー

でも 妖怪は 本当にいたんだ とか  出雲の神話を本気で信じてるかたはいませんでした。  楽しく盛り上げているから  お土産買って  帰ったら宣伝してねー
ということでした。 またのお越しをお待ちしております  と。

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#131 2020年01月01日 18:41:07

めぐママ
メンバー

Re: 聖書という書物について

指輪物語 のストーリーが判らなくて  ホワイ???

スターウォーズの エピソードと 人物像 筋が読めずに  ホワイ???

聖書が判らない と神父様に聴いたり シスターに聞いたりした事、

「to be continue ・・・。だよ。  大人になるまで待って 。」 で良かったです。

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#132 2020年01月01日 18:46:28

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

アーマンさんは根拠が弱いわけです。

彼の説を正しいとはとても言えないでしょう。

アーマンさんの作り出した『神話』を信じる事はできません。

カトリックでも異端のエホバの証人の歪められた福音等の間違いは指摘していますね。


ガエタノ・コンプリ
「ゆがめられたキリスト―エホバの証人、モルモン教、原理運動」

をご覧下さい。

#133 2020年01月01日 19:24:11

めぐママ
メンバー

Re: 聖書という書物について

てつてつさん       ガッツだぜさん アノニマスさん

聖書中の 誰だったか
「あなたがたも 知っているように・・・  」と聴衆に語りかけた  そして イエスの復活とか  500人の弟子達に現れた 話を進めた  これって  ストローマン論法ですよね。   トランプ氏も真似していた。

みんな そう思っているのか〜?
じゃあ この話 聞いておいたほうがいいのかな?
みんな信じてるのかな?
だったら ホントかも?

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#134 2020年01月01日 19:31:38

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

懐疑主義者はもはや詭弁。




カトリックはおおらかとはいっても

他宗の人々が救われる事があったとしてもキリストの十字架によるという見解には変わりはないのです。

カトリックはプロテスタントの人々を出て行った兄弟たちとみなしています。

基本的に自分たちが正しいというスタンスは変わらないと思います。

#135 2020年01月01日 19:58:45

めぐママ
メンバー

Re: 聖書という書物について

ガッツだぜさん、私の友人 とても優秀で 高校で英語を教え 自宅で塾もやって高校生に数学 国語 歴史も教えられる(早くに脱塔した人〕かたが 電話してきて 東京で地震が起きたらどうするという番組を見て 怖がって  自分はいいけど 娘の家が津波に耐えられない。 最近 何やらの陰謀論(アヤシイ) 山口敏太郎 とか にハマっているの。明後日 地震が起きる と言うから そりゃいつか 明日か 30年後かには70%の確率だけど、
陰謀論について語り  akameさん   の御紹介 の 小椋修(おぐらおさむ)の新世界 というブログを 紹介しました。
後ほど 「ありがとう!  あなたは賢いわ!  また カツを入れてね!」
とメール。
編み物 お料理  フラワーアレンジメント  以外のことで 彼女から褒められたことはなかった。
この掲示板 で  賢くなれたのかしら?

何はともあれ  嬉しいことです。
司馬遼太郎の本を紹介したら 手っ取り早く 映画をレンタルしてきたらしいです。  近くのときは 貸し借り出来たのにね。

オフライン

#136 2020年01月01日 20:28:07

ほい
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

仰天さん、自分はまだ現役なので新年のあいさつは控えさせてもらいますが、今年もよろしくお願いします。

仰天 さんの発言:

懐疑主義者はもはや詭弁。

これだけ少し気になったので、しつこくて恐縮ですが書き込みます。

まず、イエスの奇跡や復活など、現代の常識から考えてあり得ないのでは?ということは、まずは疑ってかかるのが詭弁ではなく正常ではないでしょうか。
普通じゃないから奇跡なわけで。

聖書の記述が正しい(事実である)ということの証拠として挙げられているのは、やはり聖書の記述であり、身内の話なので証拠というには信憑性に説得力が欠けます。
目撃証人が大勢いて、それを否定する資料は残っていないとのことですが、当時のキリスト教(クリスチャン)は、小さな土着宗教の一つにすぎず、世界中からの注目を集めていたわけではないです(それはローマ帝国の国教化~欧米列強の帝国主義全盛期にかけて世界に浸透した何百年も後のはなし)。
ですので、そうした小さな宗教の教えに一つ一つ反論するような資料が残っていたとしたら、それはかえって珍しいことだともいえます。
実際に聖書が2000年以上残ってきたことが特異なことなんですから。

その後の歴史で、聖書は(ローマ帝国圏で)擁護されたので、聖書を否定する文献などがたとえ当初はあったとしても、護教的立場の人たちによって処分された可能性もとても高いと思います。

もちろん、どちらの意見も推測にすぎず、両者ともに決定的な証拠がないので、今でも議論は終わらないのでしょうが。


とわいえ、話を戻しますが、普通ではないことが起こったと信じるに足る証拠が十分にないのですから、懐疑主義者が詭弁というのは、ちょっと違うと思います。

#137 2020年01月01日 20:34:53

めぐママ
メンバー

Re: 聖書という書物について

シセイさん、 歴史で思い出しのだけど 明智光秀の本能寺事件の 真相について
話題になってるらしく 大河の影響もあるのか それより以前に 明智光秀の子孫であるかたが実際は 違うということを 調べた本があるそうです。息子がその漫画を読み 少し教えてくれたところによると 司馬遼太郎氏
と似ているかな? と思いました。
あの時代 秀吉が  チャンスを捉えた いきさつ、  家康の老獪さ。
シセイさんは、よくご存じでしょうね。 
今 、 録画してあった 塩野七生さん が 母校 学習院の高校生と対談しているのを見て  思い出しました。
歴史の見方  どれほど 災いをもたらしたか! それで彼女は 一番嫌いなのは 「狂信」  自分が一番正しいと思い込むこと だそうです。
「狂信」  特定の考えに 強く支配されている状態

高校生  「現代において 正しいものはあるのですか?
それを 見抜く目とは?」

塩野    「それは2500年も探している。 ソクラテス から イエス キリストも。
    わたくしたちの世代 美智子皇后も  躾  ということを大切にして教えられました。 しつけ とは みっともない事はしない 。正しいか 間違っているか は関係なく 見苦しいマネはしない。  それが一つの出口。
今は お母様がたは 教えませんか?
わたくしは 日本を出て 外国人の中で生きて やはり そうでしたね。
正解を はやく 求めなくていい 正解なんてないと 思いなさい。」

黒澤明監督のそばで 映画作りをみて 視点 。光の当て方  。切り口。 などを学び  司馬遼太郎氏とも 親交を深めたかたが
若い時代を 満喫なさいませ。   満喫しないから  すぐにキレる大人になる。

と おっしゃって  高校生は 教養  こそが 免疫となる。 人生は短いから全てを経験する時間はなくても  免疫力を持つことをしたい。  見苦しくないとは  品格ある生き方だと思う。
など感想を述べていました。

ローマ人の物語  読みたいです。

編集者 めぐママ (2020年01月01日 20:56:21)

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#138 2020年01月01日 20:49:05

めぐママ
メンバー

Re: 聖書という書物について

ほいさん  あいかわらず 目の付け所がシャープですね。

それにいつも冷静ですね。  コレ ポイント! 

目撃証人が多数いた。 その 資料も あったけど  何かの理由で今は 示せない。  紅海を渡る時に 戦車の車輪が外れて 今もあるはずだけど  政治的な理由で 調査不可能。
砂漠を旅していた時の 痕跡は ヤハウェが 消し去った。 コレが 奇跡です。

目撃証人の 証言を記したものは  終わりの日に 多くの者が ゆき巡り 論争が起きるという預言を ダニエルがしたので その日に  シュレッダーにかけた。


そういう事にすれば 皆を 納得させられる。


てつてつさん     続きを お願いします。

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#139 2020年01月01日 20:49:18

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

懐疑主義者は詭弁というのはどこかのママさんがストローマン論法とか的外れな事を書いておられまして、しかもその指摘も故意ではないとはいえ不正確であり、「あなた方も知っているように」と五百人の話をしたという箇所はありません。

あなたがたに最も大切なこととして伝えたのはですので不正確なゆがめた展開ですから、どちらかといえばそのほうがストローマン論法でしょう。(故意だとは思いませんが)

まぁ、その人は信仰も聖書も捨てた人らしく、それは構いませんけど、聖書を論じるのであれば聖書を持っているべきでしょうし、買わなくても論じるのならオンライン聖書から引用するなどするべきだと思います。


懐疑主義者は詭弁というのは、全ての否定派の事ではなくて直前の書き込みに対してのものです。

#140 2020年01月01日 20:54:03

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

1、初代教会がエビオン派という説には無理がある。
2、異邦人クリスチャンへイエスの教えが伝わっていないという見解も無理がある。
3、弟子たちが幻覚を見た説はほとんど有り得ない。

よって、前提が間違いなのでてつてつさんの結論には無理があると思います。

#141 2020年01月01日 21:18:54

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

ほいさんの指摘ですが、


>その後の歴史で、聖書は(ローマ帝国圏で)擁護されたので、聖書を否定する文献などがたとえ当初はあったとしても、護教的立場の人たちによって処分された可能性もとても高いと思います。

との事ですが、

新約聖書は、キリスト殺害の罪をローマ人に負わせていますし、キリスト受難や、初代教会から唱えられてきた使徒信条では、「キリストは、ポンテオ・ピラトのもとで十字架に付けられた」と明記しています。

また、ローマ及びローマ皇帝を「荒らす憎むべき者」(マタイ24章)と呼び、野獣と呼んでいます。(黙示録13章)

ですから、もしローマが自己を正当化しようとして否定する文献を処分したとしたなら、まずローマを悪者として書いている聖書自体を処分したでしょう。

そうしていないのは聖書の記述を覆す事が出来なかったと私は考えます。

ですから、聖書否定の文献などが存在していたのならば、あれだけ様々な異端への反駁が残っているのですから当然残っているはずです。
それが全くないという事は存在していなかったと思います。

もちろん、確かめては来られないのでほいさんがあったんだと思うのは自由ですが、ほとんどその可能性はないのではないでしょうか。



そのほいさんの意見を深く考察することもなく、てつてつさんやアーマンその他の本も深く考察せずに鋭いと述べる人はちょっと疑問ですね。


論証が甘いのではないかなという感じですね。

#142 2020年01月01日 21:39:37

ガッツだぜpart2
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

めぐママさん、アノニマスさん、ほいさん、モーセは神からの命で
幕屋の布を巧みに織り成せと命じた訳ですが、これがポイントと
言いますか伏線になっていると思います。巧みに織り成せ、まさに
テキスタイル、textですね。聖書は伏線が幾つも張られているtextなので
最後にその伏線を回収するように書かれていると感じます。
幕屋の布の場合は4本ですね。
オーケストラ編成に喩えることもできるかもしれません。
一部だけ読んでも浅読みになってしまうと感じます。
必ず基調となるメロディがあると思いますので、その繰り返しパターンを
見つけるとまた興味深いかもしれません。

てつてつさん、おかわりいいですか?他にも良さげな資料がありましたら
タイトルだけでも紹介してください。

#143 2020年01月01日 21:59:07

ほい
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

仰天さん、了解です。

私は聖書否定の文献があったと考えているというわけではなく、たとえあったとしても残っていない方が普通なのではないかと言いたかっただけです。

懐疑主義者が ”みんな” 詭弁という主張でなければ、とりあえず私から言うことは他にはありません。

#144 2020年01月02日 09:19:39

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

オマケ326ページあたり

これは、聖書全般に当てはまることだ。聖書は、違う世界の、違うコンテクストで書かれているのだから。「イエスの再来」という発想は、私たちの頭上、雲のうえの天空に、神のいる空間があり、イエスが神とともに住むために、そこへ昇っていったという前提に立脚している。彼は物理的に昇天し、同じく物理的に戻ってくるのだ。しかし、雲のうえに神やイエスがいる空間があるなんて信じている人は、もういない。雲のうえには、大気圏が続き、その先には宇宙が広がっている。そして宇宙の遥か彼方には、何十億もの星がまたたいている。これが、私たちの銀河系である。イエスが降臨するという思想が、「そのうえ」があることを想定しているなら、宇宙空間には、文字通り上も下もなく、ただあるのは、人々がこの瞬間に立っている場所の上下だけだという認識は、どうなってしまう?このような思想に整合性を持たせようと思ったら、どうしたって、現代風に再解釈せざるを得ない。あるいは、イエスの再来という神話を、新たな神話に作り変える必要がある。そうでないと、イエスの降臨という発想だけでなく、この発想がよりどころにしている宇宙観をも認めなければいけなくなる。
聖書の教えとは、そういうものだ。女性、同性愛、婚外性交、処刑、戦争、富、奴隷制、病気、そういったことすべてについての教えにも、同じことが言える。

聖書を読むときに、自分に都合のいい箇所だけ選び出して、それ以外の教えを捨ててしまうことに、危倶を抱く人もいるかもしれない。しかし、私に言わせれば、すでに誰もが、そういう読み方をしている。そのひどい例が、選り好みなんてせず、すべての教えに従っていると思い込んでいる人々だ。私の若い友人が、タトゥーを入れたいと言うと、福音主義的な彼女の両親が猛反対した。その理由は、聖書のある書が刺青を非難しているから、というものだが、同じ書、すなわち『レビ記』は、他にも二種類の布地を使った衣服を着ることや、豚肉を食べることを禁じている。両親に反抗した子どもは、石打ちの刑に処せられるべき、なんてことまで書いてある。なんで刺青に関する教えだけをことさら言い立てて、服地や豚肉や石打ちのことは、不問に付すのだろう?

聖書のどの部分が、現代のコンテクストでどのような意味を持つか考える際、聖書記者が、私たちとはまるで違う世界に生きており、彼らの書くものが、当時の社会通念や信仰のあり方を反映しているという歴史的視点を常に意識しておく必要がある。そのいい例が、彼らの世界では、私たちが考えるところの同性愛という概念がなかったことである。別の言い方をすれば、彼らの世界には、同性愛が存在しなかった。なぜか?男女を問わず、同性と性交しなかったからではなく(実際していた)、性的指向という認識が欠落していたからだ。それは、彼らの生きていた世界に限ったことではなかった。性的指向という観念は、十九世紀や二十世紀の西洋の思想家が編承だしたものだ。そのため、同性間の性的関係を糾弾した使徒.ハウロを縛っていた固定観念と、現代世界の人々が、性的存在である自分たちについて抱いている固定観念は、まったくの別物である。だから、同性同士の関係についてのパウロの指示を、彼の性やジェンダーに対する先入観から切り離して、異なる先入観に移植することによって、従おうとしてもうまくいかない。

聖書に書かれているいくつかの女性観は、他のものよりも優れている。使徒ハウロは、女性がキリスト教共同体の指導者になれるし、またなるべきだという、極めて真っ当な意見の持ち主だった。その証拠に、彼自身の共同体では、女性の教会指導者や助祭、さらには使徒さえいた(『ローマの信徒への手紙』十六章)。このような姿勢は、後世の書記が、・ハウロの書簡『コリントの信徒への手紙こに挿入した、女性は常に教会では黙っていなさいという教えや(『コリントの信徒への手紙こ十四章三十五‐三十六節)、パウロの名を編った作者が捏造した『テモテヘの手紙こに記されている、女性は大人しく、従順で、子供を産んでいればいいという教えよりも、ずっと好ましい(『1テモテヘの手紙二章十一‐十五節)。

編集者 てつてつ (2020年01月02日 09:30:52)

オフライン

#145 2020年01月02日 09:37:50

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

シセイさん>てつてつさん、おかわりいいですか?他にも良さげな資料がありましたらタイトルだけでも紹介してください

いやちょっとシセイさんの思考回路は自分にとっては量子力学のようなものでほぼ理解できませんのでムリだと思います cry

ムーくらいじゃないとダメなんじゃないかなと思います

編集者 てつてつ (2020年01月02日 09:38:20)

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#146 2020年01月02日 10:00:13

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

ここまでバート・D・アーマンの意見を見てくると分かる事は、アーマンの主張している事は何ら新しいものでもなく、古くから言われてきた事であって、そのような知識なら神学校に通っている学生は大抵知っており、神学生でなくても多少詳しい人なら知っている情報に過ぎないという事です。

それらの否定的な見解には教会側からとっくに反論がなされていているのですが、一般の人や、そうした背景を知らない組織の教えしか知らないJWの人達は、アーマンの書籍がセンセーショナルに売り出されると真相が分かったつもりになり動揺してしまったという事でしょう。


本文批評の分野があるという事を知ったりする事、いろんな視点から考えるのはいいのですが、その説を唱える人の見解について本当かどうかをさらに調べてみる事をお勧めします。

アーマンさんの言う、初期クリスチャンは文字も書けない下級農民だったという説は既に指摘済みですが、そのような弟子もいたわけですが福音書記者については書ける人であった可能性も高い事は述べました。

では、彼が時々語る聖書は伝言ゲームのようなもので信用できないという意見、さらに、マリア様を見た人も多くいて、時には言葉を交わしたり触れたりした(ような気がした)という経験と、聖書にある多くの弟子たちに現れた復活のイエスを見た体験がなぜ違うのかを見ていこうと思います。


まだ書いてませんが、アーマンさんの主張のおかしな点を探ろうと思います。

彼の説は多くある説の中のひとつに過ぎず、確定された事実でもなく論理的でもないという事です。

#147 2020年01月02日 10:35:49

ガッツだぜpart2
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

箴言の書第9章

7 あざける者を戒める者は、自ら恥を得、悪しき者を責める者は自ら傷を受ける。

8 あざける者を責めるな、おそらく彼はあなたを憎むであろう。知恵ある者を責めよ、彼はあなたを愛する。

9 知恵ある者に教訓を授けよ、彼はますます知恵を得る。正しい者を教えよ、彼は学に進む。

聖書はいい事書いていると痛感。アノニマスさん、箴言の書は本当によい章ですね。

ところで、この部分どう思われますか。
箴言第11章30節
30 正しい者の結ぶ実は命の木である、不法な者は人の命をとる。

これと繋がりのある聖句を探しています。

#148 2020年01月02日 17:54:05

ラハム
メンバー

Re: 聖書という書物について

仰天 さんの発言:

ここまでバート・D・アーマンの意見を見てくると分かる事は、
アーマンの主張している事は何ら新しいものでもなく、
古くから言われてきた事であって、
そのような知識なら神学校に通っている学生は大抵知っており、
神学生でなくても多少詳しい人なら知っている情報に過ぎないという事です。

それらの否定的な見解には教会側からとっくに反論がなされていているのですが、
一般の人や、そうした背景を知らない組織の教えしか知らないJWの人達は、
アーマンの書籍がセンセーショナルに売り出されると
真相が分かったつもりになり動揺してしまったという事でしょう。

わたしはほんとうにもとJWですが、
アーマン氏の著作についての仰天さんの説明に
同意できるようになってきました。

というのは、
この掲示板で紹介されたアーマン氏の著作や
田川氏の著作を幾冊か読むことができ、
その後、神学校で使用されている教科書としての神学書、
また、多くの聖書翻訳の説明など読むことができたのです。
神学生が用いている教科書ですが…。

その結果、
アーマン氏や田川氏が述べている聖書についての解説が
特別珍しいものではないことを知るに至っています。

JW経験者は偏った情報を与えられてるので、
彼らがしているような批判的な説明が新鮮に聞こえて、
聖書について真実が分かったような気にさせられるのでしょう…。

オフライン

#149 2020年01月02日 20:01:24

めぐママ
メンバー

Re: 聖書という書物について

聖書の 解釈は  100人いれば100通り あってもいいと思います。

ところで  てつてつさん       ガッツだぜさん

聖書中の人物で  かなり 重要な役割を果たした かたなんですが  「。。。」がないかた  つまり 。。。 と言ったという記述のない 人物がおられるのですが どなただと 思われますか? 
台詞がないんです。

オフライン

#150 2020年01月02日 20:43:00

めぐママ
メンバー

Re: 聖書という書物について

「その信仰に倣う」  という 挿絵のきれいな本がありましたよね。

その中に出てきて とても 感動していました。  集会で扱われる頃には もう  離れていましたが、 あのまま いたら  コメント と言うのですかね? 今は
注解をしていたと思う、 今 見ても  上手に作ってあります。

イザヤの 台詞 ここに私がおります。 遣わしてください。
我は ここにあり     こよなき 業に 我遣わし給え
この歌 で  モンゴル バングラデシュ に行ったのかと思うと 切ないです。

重要な 役割なのに 台詞が 無いのです。

でも 信仰に倣うの本のその部分 の扱いは感動しました。
自己犠牲  を美徳 としていた。

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