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#101 2019年12月31日 10:39:09

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

みなさんこんにちは 原始キリスト教 マルセルシモンという本ちょっと読んでみました この筆者の見方もエルサレムにいた12使徒のグループたちの教えは律法は守れという教えでパウロのグループは律法は終わったとの見方で対立があったとの見方のようです 結局70年の神殿破壊で12使徒グループは壊滅しパウロの思想と融合したものが今日まで残っているみたいな意見でした

150ページあたり

それから数年たった六六年に、ユダヤ人の大叛乱が勃発する。この時にはすでにエルサレムのキリスト教団は、ヤコプの処刑で警戒するようになって、予想される迫害を免れようとしたからか、あるいはただ戦いがはじまるや、叛乱の現場から逃げ出しただけなのか、ともかく町を去っていたのである。そしてトランスヨルダン地方の異教都市である。ペラに移住した。叛乱は失敗に終わった。紀元七○年の、エルサレム、神殿、ユダヤ国家などの破壊は、ユダヤ的キリスト教に致命的打撃をあたえた。聖所を非難したステパノ、律法の終りを告げ、契約が異邦人に移ったことを宣したパウロ、彼らの言うところは正しかったのである。若いキリスト教界は、一時はそのパレスチナの災禍を再臨の序幕と信じた。しかし再臨はなかなか実現されないので、今度はその災禍に、イスラエルの上にうちおろされる神の御手を見たのであった。爾後、母教会としての威光は消滅し、ユダヤ的キリスト教という呼び方もなくなったのである。使徒グループの正統的後継者たるペラのユダヤ人キリスト者は、地理的にも、またその律法主義によっても孤立し、伝道の大道からも離れ、信仰の主流からも遠ざかって、もはやとるにたらない存在になってしまう。ますます異邦人の教会となっていく「教会」の外側にはみ出してしまった彼らユダヤ人キリスト者は、まもなく、エビオン派とかナザレ派といった異端宗派の名も知れぬ一派になりさがってしまうのである。

カトリック教の原型である二世紀の教会キリスト教は、結局、パウロ的要素と、エルサレム的要素の綜合から生じた。しかし、もしもあの七○年のパレスチナ災禍が起こらなかったとしたら、その綜合は不可能であり、パウロ思想の前途はきわめて危うかったことであろう。
したがって私たちは、英国歴史家SGF・ブランドンと共に、十分な理由をもって、この七○年の事件こそ、「教会」の生きた歴史において、よみがえりのイエスがあらわれて以来のもっとも決定的な出来事である、と認めるのである。

というわけでイエス→12使徒→パウロ→今日の聖書で書かれているキリスト教 という形でイエスの教えが正しく伝えられているというのは幻想で実際は関係している人間の思想や時代の要素で中身が大きく変化しているのだと思いました cry

あとちょっと本題とは関係ないですけどペラに逃げた本家の12使徒グループのエルサレムのクリスチャンたちが結局そのまま消滅してしまい今日では単に異端の一派として片付けられてしまっていると書かれていますが 自分が現役のころは確かものみの塔によると彼らだけがイエスの警告に従って山「ペラ」に事前に逃げてて助かったのでクリスチャンの手本ですみたいなことを聞いた覚えがありますけど最後はそのまま自然消滅してしまったんですね cry

編集者 てつてつ (2019年12月31日 15:41:49)

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#102 2019年12月31日 11:23:25

アノニマス
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

ガッツだぜ2さん、読了者なんですね!(変な言い方ですが) そうです、閃きを感じる時ありますよね。やけに気になる聖句があったり。私も神がサタンを使って人間を試したのではと考えました。が、神はそんな嫌な神ではないはずです。

私はエホバの証人の聖書研究が書籍中心で聖書は辞書のような扱いだったので、都合のいいところだけ教えているかもと思って通読を始めました。テレビでカルトとかマインドコントロールの話があったからです。 

忙しくなったので後程。よいお年を。

#103 2019年12月31日 15:14:40

めぐママ
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Re: 聖書という書物について

てつてつさん        原始キリスト教 の紹介 ありがとうございます。

キリスト教史 だったか ヨーロッパ 中世史 だったか 忘れましたが   「修道院」の 筆者の教授が 読むように言われた本です。
ク・セ・ジュ文庫  懐かしい響。 買っただけです。
読んでいません。 適当にレポート提出したような気がします。

あのころ難しい本をつぎつぎと課題に出されて クラブ活動 の忙しさ  自宅から 通ってたので 寝坊しては遅刻して、そんな思い出が読みがえります。
乗ってた電車 今は 桃太郎線と呼び名が変わってます。

学生に 読む力 資料から情報を読み取って 自分で考えさせる 指導をしていたのだと思います。 聞き齧りや Amazonの口コミ  ネットの エセ情報に踊らされないように 備えをしてくれていたのだと 思います。

親睦 トピがエラくややこしい 事になっています。
人のことには口出ししません。  くわばら 桑原。

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#104 2020年01月01日 07:36:21

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

みなさん明けましておめでとうございます 今年もまたよろしくお願いいたします

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編集者 てつてつ (2020年01月01日 07:39:11)

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#105 2020年01月01日 08:01:20

タニタクミ
メンバー

Re: 聖書という書物について

てつてつさん、明けましておめでとうございます。


今年もてつてつさんのトピックなどでの、
勇敢なそして爽やかな、聖書論議を楽しみにしております。


本年もよろしくお願いいたします。

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#106 2020年01月01日 10:14:42

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

みなさんこんにちは アーマンさんのキリスト教成立のなぞを解くから自分が勝手に興味深いなと思ったところコピペします

223ページ 聖書正典の成立あたりから

聖書に記された言葉が、神の啓示だと考えることのほうが深刻だ。加えて、神が、現在私たちの手元にある聖書を、本当に正典として認めたのかどうか、知ることもできない。正しい文書だけが聖書に収められていると、どうして言えるだろうか?神から霊感を授けられた書など、他には存在しないと、どうして断言できるだろうか?新約聖書といえば、昔からずっとそこにあり、これからもあり続けるあの新約聖書のことだ。アメリカのどこであろうと、あるいは西洋のどこであろうと、新約聖書を買えば、四つの福音書の後に『使徒言行録』が続き、その後に書簡が続き、最後はヨハネの黙示録』で締めくくられた本が手に入る。もちろん新約聖書は、いつだってこういうものだったはずだ。ところが、いつの時代にもこうだったわけではない。事実は全くの逆で、どの文書を聖書に含めるかをめぐって、実に長く激しい論争が繰り広げられたのである。信じがたいことだが、世界中のすべての教会が最終的な合意に達したことは、ただの一度もなかった。歴史を通じて、いつもどこかの国で(シリア、アルメニア、エチオピア)、私たちの使っている聖書とは微妙に異なる正典を持つ教会があった。私たちの誰もが親しんでいる二十七の書からなる正典は、十六世紀に宗教改革に対抗して開かれたトリエント公会議まで、いかなる公会議によっても、承認されたことがなかった。この公会議は、当時広まアボクリブァ「旧約聖書外典」を旧約正典から外そうとするプロテスタントの運動に対抗して、これも同時に正典に入れることを決定した。奇妙なことに、正典は、ある時点ではっきりと採択されることなく、誰が決を採ったわけでもないのに、出現したのだ。しかし、正典がひょっこり出来上がってしまったというわけではない。それは、連綿と続いた議論やすったもんだの末、編纂され、形作られていった。どの書が正統なのかはっきりさせることは良いことだという良識もさることながら、当時キリスト教徒たちが置かれていた、もっと現実的で切羽詰まった状況が、こうした論争をいやがうえにも激化させた。教会の成立後数世紀の間、あまたのキリスト教集団が、多種多様な神学論や教会組織論を擁護した。これらの集団は、最も根本的な問題のいくつかについて、全く異なる主張を展開した。神は何人いるのか?イエスは人間なのか、はたまた神性を有するのか?この物質世界は善なのか、悪なのか?救済は生きた人間に訪れるのか、それとも肉体を脱することによって得られるのか?イエスの死は救済とどのような関係にあるのか?正典の発展に伴う難題は、自分たちこそ正しいと主張し、信者を獲得しようと競合しあう集団一つひとつが、彼らの見解に権威を与えてくれる聖なる書物を、独自に保有していたということだ。こうした書物の多くは、使徒によって書かれたとされていた。一体誰が正しいのか?紛議の結果、ようやく出来上がった正典は最終的に勝利した集団が護持していた書を収録したものだった。しかしそこに辿りつくまでには、何世紀もかかったのである。

編集者 てつてつ (2020年01月02日 09:59:37)

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#107 2020年01月01日 10:17:29

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

正典化が行われた背景を正確に把握するには、創成期の初期キリスト教運動の驚くべき多様性について、いくらか知っておく必要がある。読者は、その始まりから、基本的にキリスト教が一枚岩であったと思っているかもしれない。すなわち、イエスに端を発し、パウロが解釈を与え、中世の教会を経て、現在に至るものだと。残念ながら、話はそう単純ではない。イエスの死後およそ百五十年もすると、自分たちこそが、イエスと使徒の教えを正しく継承していると称するキリスト教集団が乱立した。彼らの主義主張は、新約聖書に収められている書のそれをはるかに凌ぐ多様性を誇っていた。彼らはいかなる集団だったのだろうか?

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#108 2020年01月01日 10:30:03

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

エビオン派について  エビオン派はこれまでの書き込みでイエスの直属のペテロやイエスの肉の兄弟のヤコブたちのグループと思われる人たちのことですね やっぱりパウロたちのグループとは考え方が違ってたようですね cry

225ページあたりから

エビオン派は、改宗したユダヤ人の一派である。彼らは、ユダヤ人らしくあることにこだわり、へブライ語聖書(旧約聖書)に記されている、神がモーセに与えた律法を遵守したうえで、イエスは、この世界を救うために、神によって遣わされたメシアであると信じる人々だった。彼らの名前の由来は分かっていない。多くの学者は、「貧しい者」を意味するヘブライ語、「エビオとから来ていると考えている。おそらくこの一派は、『使徒言行録』に描かれているイエスの最初の信者たちに倣い、自ら進ん貧しい暮らしをしていたと思われる(『使徒言行録』二章四十四‐五節、四章三十二節)。宗教的な務めの一環として福音に従い、すべてを捨てよというイエスの教えを実行していたらしい。ほぼ確実に言えるのは、エピオン派が、最初の信者の精神的な後継者を称し、イエスへの信仰は、ユダヤ教との決別を意味するのではなく、ユダヤ教を正しく理解することにあると考えていたことである すなわち、彼らにとって、ユダヤ教とは、シナイ山で神がモーセに示したものだった。一部の学者は、エビオン派が、イエスの死後エルサレムの教会指導者になったイエスの兄弟ヤコブや使徒ペトロを始めとする、イエスの初期の信者と非常に似通った思想を持っていたと考えている。とりわけヤコブは、イエスの信奉者が、ユダヤの律法を忠実に守るべきだという立場を取っていたようだ。
ヤコブや後世のエビオン派は、イエスはユダヤの律法を実現すべく、ユダヤの神によってユダヤの民に遣わされた、ユダヤのメシアだとみなしていた。したがって、イエスに従おうとする者は誰であろうと、ユダヤ教徒でなければならなかった。異教徒が改宗した場合、彼は、割礼を受けることを求められた。神自身が律法で定めているとおり(『創世記』十七章十‐十四節)、男性がイスラエルの神の信者になる必須条件が、割礼だったからである。
しかし、使徒パウロの思想は、彼らと正反対の解釈に立脚していた。彼は、イエスの神は万人の神であり、イエスを信じる異教徒は、ユダヤ教徒になる必要はないと主張した。パウロによれば、律法を遵守しても、神に正しく向き合うことはできず、救済されることもない。最終的に、パウロはこの論争で勝利したが、その後もエビオン派を含め、彼に異議を唱えるキリスト教徒は、何世紀もの間、絶えることがなかった。彼らにとって、パウロは信心深い、偉大な使徒などではなく、信仰の何たるかを見誤った人間でしかなかった。

編集者 てつてつ (2020年01月01日 10:31:10)

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#109 2020年01月01日 11:22:29

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

最終的に、信徒を獲得する闘争を勝ち残ることができたのは、たった一つのキリスト教集団だった。おそらく、彼らの勝利が揺るぎないものとなったのは、三世紀になってからである。四世紀初頭に、ローマ皇帝コンスタンティヌスがキリスト教に改宗する際、彼は、勝者の信仰を選んだ。皇帝の死後五十年ほど経ってから、キリスト教は、ローマ帝国の国教になるが、大多数の人間が受け入れたのも、やはり同じ勝者の信仰だった。といっても、当然こうした信仰には、様々なヴァリエーションがあった。異説は、いつの時代にも存在するものである。ひとたび闘いに勝利すると、この集団は、自分たちが正しいと宣言するのみならず、キリスト教が誕生してこのかた、ずっと正しかったと主張した。「正しい信仰」の専門用語は、「正統教義」である
「正統な」キリスト教徒、すなわち闘いの勝利者は、競合する意見に異端のレッテルを貼った。ヘレシーという言葉は、「選択」を意味するギリシャ語から来ており、異端者とは、間違った信仰、非正統的信仰を選んだ人々を指す。勝利が確定する前の、勝ち組のキリスト教徒たちを、何と呼べばいいだろう?私は、後の正統派の先達である彼らを、「原始正統派」と呼び習わしている。二、一二世紀の、原始正統派に属するキリスト教徒の史料が、一番多く残されている。なぜなら、反対勢力の文書ではなく、彼らの文書が、後世のために保存されたからだ。こうした文書の著者には、殉教者ユスティノス、イレナエウス、テルトゥリアヌス、ヒッポリュトス、アレクサンドリアのクレメンス、それにオリゲネスらが名を連ねている。初期キリスト教史を専攻する学生には馴染承深い名前だ。彼らは、最終的に正統と認められることになる教義の成立に一役買った人びとである。すべての反対意見を、一度に論破しようとした彼らが果たした役割は決して小さくなく、その結果、導き出された結論はある種の矛盾を内包せざるを得なかった。例えば、エビオン派の教義のうち、イエスが完全に人間だという点は容認され、イエスが神ではないとする点は退けられた。マルキォン派については、イエスが神性を有する存在であるという教義はよしとされ、彼が人間であることを否定する教義は却下された。どうしたら、原始正統派は、このような両極端の説を、同時に主張することができたのだろうか?彼らは、イエスが神であると同時に人間だったと結論付けたのだこれが正統派の見解になった。後にキリスト教信条の形でまとめられたものが、正統派の主要な教義になった。すなわち、神は唯一絶対の存在で、彼は万物の創造主であり、したがって、万物は、たとえ罪という欠陥を抱えていたとしても、本来的に善であるというものだ。神の子イエスは、人であると同時に神であるが、(グノーシス派が主張するような)二つの存在ではなく、一つである。彼は、秘密の知識ではなく、己の血を流すことによって、救済をもたらした。対抗勢力同様、原始正統派は、彼ら特有の見解を正当化する、神聖な権威となる一連の文書類を保有していた。こうした文書の一部は、最終的に正典として認められた

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#110 2020年01月01日 11:30:41

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

パウロや他の弟子の幻覚説、エビオン派が正統キリスト教という説などについての間違いや矛盾点について反論はある程度まとまってはいるのですが、正月で身内が集まってますので詳しい解説はまだできません。

そういったバート・D・アーマンや田川さん、文庫から自分の見解と合うものを持ってくるのは結構なのですが、問題はそれらが、しっかりとした根拠に基づいているかどうかが重要なのです。

#111 2020年01月01日 11:38:16

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

二十世紀初頭まで、ほぼすべてのキリスト教神学者は、このように正統と異端を位置づけていた。しかし、ヴァルター・バウアーが書いた「初期キリスト教における正統と異端』が出版されると、こうした認識は、根底から覆される(初版は、一九三四年にドイツで出版)。これは、現代になってから、初期キリスト教について書かれた、最も重要な本である。バウァーは、いくつかの基本的な点について、エウセビオスに異議を唱えており、初期教会における覇権をめぐる神学論争の実相を再解釈しようと試みた 例えば、エジプト、シリア、小アジア、ローマなど、初期キリスト教世界全域の、様々な地域における、キリスト教の最古の史料を検討してい魂。そして、史料を詳細に検証すると、エウセビオスが書き残した記録とはかけ離れた物語が浮かび上がってくることに気づいた。多くの地域では、後に異端のレッテルを貼られることになるキリスト教の信仰こそが、本来のキリスト教であり、一部のいわゆる異端と呼ばれる信者の数は、正統な信仰を受け入れていた信者の数を上回っていた。ある場所では、マルキオン派が支配的であり、また別の場所では、グノーシス派が席巻していた。さらに、いくつかの集団では、後に異端とされる教義と、正統とされる教義を、明確に区別していなかった。エウセビオスの時代の、明確な神学上の分類は、本来の信仰に起因するものではなく、教派間の争いが先鋭化し、それぞれの集団の間に戦線が引かれた、後世の産物だった。後の時代なら異端者とゑなされたであろう人々は、彼らの時代には、完全に正統だと考えられていたのだ。しかし、改宗者を獲得する闘争の過程で、最後に勝ち残ったのは、たった一つの集団だった。ローマを中心に、勢力を誇っていた集団である。帝国の首都たるローマの教会は、その信徒の数、資金力、組織力で抜きん出ていたキリスト教共同体として、他のキリスト教集団に、多大な影響力を及ぼしていた。他のどの集団よりも、多くの信者を取り込んでいったこのローマの集団は、最終的に競争を制し、その正統性を高らかに宣言した。彼らは、イエスと使徒の教えの正しき継承者であることを自認し、自分たちの教義が、いつの時代にも多数派であったと主張し、抗争の歴史を書きかえるという決定打を放った。そうして出現したのが、ローマ教会の特色を備えたキリスト教だった。ローマ的なキリスト教、すなわちローマン・カトリック(普遍的を意味する)の誕生である。そこに至るまでの過程の終着点にいたのが、エウセビオスだった。彼は、歴史を書き換えることによって、後世の歴史家に、彼の所属する集団が、常に主流派だったという考えを植えつけた。しかし、それは、史実とはかけ離れた歴史観だった。

バウアーが描く、創成期のキリスト教の状況は、基本的には間違っていないように思える。初期には、数多くのキリスト教集団が存在し、そのすべてが、自らの正当性を誇示していた。彼らは、自分たちの主義主張の論拠となる書物を持ち、使徒によって書かれたとされるそうした書物は、イエスや彼の最初の弟子たちの教えを忠実に伝えるものだと考えられていた。一方勝ち組の集団は、必ずしもイエスや使徒の教えを正確に受け継いでいたとは言えなかった。例えば、四世紀のニケア信条」では、イエスが、「完全なる神にして、完全なる人間」であるとか、彼が、「造られずに生まれ、父と同質である」と宣言されているが、使徒の誰一人として、そのようなことは言っていない。勝者は自身を正統派と呼んだが、彼らの信仰は、キリスト教の原型ではなく、熾烈な戦いの末に勝利を勝ち取ったにすぎない

編集者 てつてつ (2020年01月01日 11:43:09)

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#112 2020年01月01日 11:49:38

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

正典をめぐる議論が終結するめどが立つまで、少なくとも三○○年という月日を要した。最終的に下された決定は、指導者たちによって、上から強制されたものではなく、また、一朝一夕に得られたものでもない。しばしば痛みを伴う、ゆっくりとしたプロセスを経て、正典は成立した。その間には、多くの異議が唱えられ、様々な見解が表明され、議論され、受容され、あるいは抑圧された。キリスト教神学者や信者が、聖書の正典化の背景に、どのような神の働きかけや導きを見出そうとも、それは、膨大な歴史的・文化的要因によって突き動かされた、極めて人間くさい過程だったことも、また事実なのである。

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#113 2020年01月01日 12:02:35

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

第七章 だれがキリスト教を発明したのか261ページあたりから
「今日一般的にキリストの教えとされるものがどのようにして作り上げられていったのかという話です」


キリスト教の中核は、何といっても苦悩するメシアへの信仰であろう

多くのキリスト教徒にとって、イエスをメシアと呼ぶのはごく当たり前のことなので、なぜユダヤ教徒がイエスをメシアと認めないのか、理解できない。キリスト教の伝統では、ユダヤ教聖書に登場する預言者は、繰り返しメシアが何をして、どのような人物で、何を体験するかといった預言をしており、しかもイエスがそうした預言をすべて満たしていると信じられている。預言によれば、メシアは処女から生まれ(キリスト教徒にとってはイエスもそうだ)、ベツレヘムで誕生し(イエスもしかり)、偉大なる治癒者であり(イエスもしかり)、ロバに乗ってエルサレムに入城し(イエスもしかり)、同胞であるユダヤ人から拒絶され(イエスもしかり)、処刑という恐ろしい死を迎え(イエスもしかり)、死から蘇る(イエスもしかり)。
キリスト教徒からすれば、イエスは、こうした旧約聖書に出てくる預言を、ことごとく体現しているからして、彼がメシアであることは、火を見るよりも明らかである。彼らは、なぜユダヤ教徒がこの事実を信じようとしないのか、不思議でならない。ユダヤ教徒がキリストの言葉を受け入れないのは、どういうわけだ?なぜ信じないのだ?意固地になっているだけなのだろうか?分からず屋なのか?それとも字が読めないのか?そんなに馬鹿なのか?

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#114 2020年01月01日 14:38:23

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

その答えは、実は至極単純である。キリスト教が誕生するまで、伝統的にユダヤ教には、苦悩するメシアの待望論は存在しなかったのだ。
けれど、聖書は、何度も苦しむメシアに言及しているではないかって?ところが、そんなことはないのである。当初から、キリスト教徒は、未来の苦悶するメシアの出現がはっきりと預言されている証左として、旧約聖書の一節を、頻繁に引用してきた。例えば、ひどい苦痛を、時には明確に人びとの罪のために引き受ける人について語られている『イザャ書』五十三章や、『詩編」二十二編などがそれだ。キリスト教徒に言わせれば、これらの記述は、メシアがどのような存在かを明示している。しかし、イエスを信じないユダヤ教徒の反論は、非常に説得力がある。すなわち、ここではメシアについて、一切言及されていないと、彼らは言う。読者自身も、『イザャ書』五十三章や『詩編』二十二編を読んで、確認してみてほしい(関連する箇所については後述する)。「メシヤという言葉は、一度も出てこない。ユダヤ人は、これらの記述は、メシアではなく、誰か別の人間(あるいは大勢の誰か)のことを指していると、伝統的に解釈してきた。
私たちが知る限り、キリスト教成立以前のユダヤ人は、誰一人として他人の罪のために苦しみ、死んだ後に生き返るメシアを待ち望んでいなかった。ならば、メシアとはどのようなものなのか?私たちは、イエスの時代に書かれたユダヤの古文書から、ユダヤ人が思い描いていた多様なメシア像を知ることができる。そうしたメシア像は、イエスとかけ離れていた。

一部のユダヤ人がメシアに求めていたのは、偉大で力強い、戦う王、もしくはさらに強大な地上の宇宙的審判者であることだった。さらに、これとは違う未来の救世主像を思い描いていたユダヤ人もいる
しかし、すべてのユダヤ人の期待には、共通点もあった。彼らは、来るべき時代のメシアは、威厳と力強さを兼ね備え、その絶対的な力で、神の敵を打ち負かし、神の民や他の国々を、厳格に統治する者であることを望んでいた。
ところがイエスはどうであったか?ほとんど知られていなかった、ガリラヤの僻地出身の遊行説教師に過ぎず、ユダヤの律法に背き、反体制分子として礫刑に処せられた男だ。イエスは、ローマ人を追い払うことができず、逆に虫けらのように叩き潰されてしまった。大方のユダヤ人にとって、そんなイエスをメシアと呼ぶことは、笑止千万であり、ほとんど(あるいは実際に)、神への冒濱以外の何ものでもなかった。イエスがメシアだって?礫にされた遊説者が?そんな男が神のメシアだって?へえ、そう。

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#115 2020年01月01日 14:53:54

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

ユダヤ人の間で、メシアが苦悩し、罪のために死ぬなどという発想がなかったのに、なぜ、キリスト教徒は、苦しむメシアを信じたのだろうか?歴史的な経緯を説明しよう。イエスの死に先立って、信者のなかには、彼がメシアだと考える者がいた。このような確信は、福音書全般に見られる。だが、もし彼らが、「イエスはメシアだ」と言った場合、伝統的なユダヤのメシアのことを指していたことは明らかだ。例えば、イエスが、イスラエルに再び王国を樹立し、その民を統くるというような(ただし、イエス自身は、メシアを、もっと別の、黙示思想的観点から理解していたらしいことを心に留めておいてほしい
イエスがメシアかもしれないという希望は、歴史によって、打ち砕かれた。イエスは軍隊を立ち上げることもなく、ローマ人を約束された地から追い払うこともなく、イスラエルを主権国家にすることもなかった。それどころか、彼は礫になったのだ。こうした事態は、イエスの信者に、彼への信仰が、根拠なきものであった事実を突きつけた。
だが、少なくとも彼らのうちの何人かは、神がイエスを復活させたと信じるようになった。これにより、彼らは自分たちの先の考えを再確認した。本当に、イエスは神に選ばれし者だった!彼は、神の子だったのだ!神の恩寵を受け、神により油を塗られた、我々の救世主だった。彼こそ、メシアであるイエスがメシアであることを再確認した、初期キリスト教徒は、メシアを新しく再定義せざるを得くなった。
彼らの論理は、非の打ち所がなかった。イエスはメシアである。イエスは苦しんで死んだ。従って、メシアは苦悩し、死ぬべき存在なのだ。しかし、ユダヤでは、メシアが苦しみを引き受け、死ぬことが預言されていないという事実を、どう解釈すればいいのだろう?最初期のキリスト教徒は、自分たちの新しい信仰への手掛かりを求めて、旧約聖書をくまなく調べ始めた。そして、メシアに言及している箇所ではなく、神の義人の苦痛について描かれているほかの部分に、そうした手掛かりを見つけ出した。キリスト教徒は、メシアに一切触れられておらず、それ以前には、誰一人として、メシアについて述べられているとは思いもよらなかった記述が、実際にはメシアのことを語っていると結論づけ、主張した。キリスト教徒にとって、『イザヤ書』五十三章三節から六節までの記述などは、はっきりとメシアの到来を予言していた。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。

例えば、マタイもルカも、イエスがベツレヘム出身だとしているが、その経緯については、異なる説明をしており、そのあらすじは、相互に矛盾している。なぜ両者は、イエスがベツレヘムで誕生したことに拘泥したのだろうか?旧約聖書に、救世主はベツレヘムからやって来ると書かれているからだ
(『ミカ書』五章一‐二節)。けれど、イエスがナザレで育ったことは、周知の事実ではなかったか?その通りだ。例えば『マタィによる福音書』や『ルカによる福音書』には、イエスが実際にナザレで幼少期を過ごしたとある。しかし、彼は、ベツレヘムで生を受けた。それはこういうことだ。問題は、両福音書の内容が、相互に矛盾していることである。これは何を意味するのか?キリスト教徒は、自分たちが信じていることに照らし合わせて、イエスの物語を語り、あらゆる点で、彼の人生が、聖書の預言どおりであることにしたかった。なぜなら、イエスは、苦しむメシアなのだから。
実のところ、イエスが苦悩するメシアだという考えは、初期キリスト教徒が発明したものである

パウロは、このようなメシア像があまりに馬鹿げていたからこそ、正当だとみなした(『コリントの信徒への手紙-章十八‐二十五節)。神の作法は、人間とは違う。神は、メシアを十字架に架けることによって、世界を救ったが、それは、誰一人として、予期しえなかったことだ。パウロにとって、これは、神が世界にもたらした救済の要だった(『コリントの信徒への手紙こ十五章三‐五節、『ローマの信徒への手紙こ-章‐三章)。メシアが死ぬことによって、ユダヤ教徒もキリスト教徒も含めた、すべての人間に、救済への道が開かれたのだ。さらに、パウロは、この論理をもう一歩進めた。例えばユダヤの律法ではなく、メシアの死によってのみ、人は、神と正しい関係を結べるのだと主張した。しかし、メシアが十字架に架けられなければならなかったという考えを思いついたのは、パウロではない。このような発想は、ずっと早い段階で生まれ、イエスの最初の信者が、神がイエスを復活させたと信じるようになったときだった。パウロは、改宗したときに、この考えを受け継いだのだ。そして、キリスト教がユダヤ教と挟を分かち、ユダヤ教と真っ向から対立する、独立した宗教、イエス自身の宗教へと変貌を遂げたのは、まさにこの考えゆえであった

編集者 てつてつ (2020年01月01日 14:54:10)

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#116 2020年01月01日 15:03:18

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

278ページあたり

初期キリスト教史を研究する歴史家が向き合わなければならない、最も差し迫った、それでいて強く心を惹かれる疑問は、徹頭徹尾ユダヤ的だったイエスの宗教が、なぜかくも短い期間に、非ユダヤ的宗教へと変貌したのか、ということである。キリスト教は、いかにして、一世紀にも満たないうちに、ユダヤ教の一宗派から、激烈な反ユダヤ的宗教になったのだろうか?

イエスの実際の言動を再構築してみると、その全てが、ユダヤ的な黙示思想の枠組承に、ぴたりと当てはまる。イエスが新しい宗教の開祖だとみなしたのは、後世のキリスト教徒だけである。彼自身には、そのような認識はなかったと思われる。彼の信奉していた宗教とは、すなわち正しく理解されたユダヤ教だった(もちろん、ファリサイ派やサドカイ派らの理解とは違って、という意味で)。後世の信者の一部は、イエスの教えのユダヤ的な特徴を守り通した。だが、キリスト教が別の方向へと向かうにつれ、彼らは異端のレッテルを貼られるようになる。キリスト教の本来の在り方が否定され、糾弾されるとは、初期キリスト教史の皮肉としか言いようがない。エビオン派として知られるキリスト教徒は、イエスが律法を廃止する意図など、さらさらなかったと強く主張していた。イエスは、ユダヤの神が、ユダヤの律法を守らせるために、ユダヤの民に遣わした、ユダヤ人のメシアだった。イエス自身、非常に熱心に律法に帰依していたため、彼の信者は、ユダヤ教徒でなければならず、律法を遵守する必要があった。もし律法が、神の民に属する男たちは、割礼を受けなければならないと言っているのなら、そうしなければならなかった。もし律法が、神の民は、清浄食の規定に従わなければならないと言っているのなら、その規定を守らなければならなかった。もし律法が、安息日を定めているなら、それに従わなければならなかった。エビオン派は、エルサレムの教会指導者だったイエスの兄弟、ヤコブが、このような考えを奨励したと主張した。学者は、彼らの主張は正しかったのではないかと認めている。同様の見解は、『マタイ』にも見られる。なるほど、この福音書は、エビオン派同様、救済の鍵がイエスの死と復活にあると唱えている。だが、同時に、もし天国の王国に入りたければ、律法を守る必要があると、イエスが説いていたことにも触れている。事実、ユダヤの指導者たち以上に、忠実に律法を守らなければならないとされている(『マタイ』五章十七‐二十節)。この福音書では、イエスは、律法の真義を信者に伝える律法の教師として描かれている。彼は、いかなる律法も破ることを許していない。自分に倣い、律法に従うよう、信者に強く求めている。

編集者 てつてつ (2020年01月03日 22:03:02)

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#117 2020年01月01日 15:07:15

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

使徒パウロの思想は、エビオン派やマタイやイエス自身のそれとは違った(エビオン派にとって、パウロは大敵だった)。パウロは、神に正しく向き合ううえで、律法など何の役にも立たないと、声高に主張している。入信した異教徒は、ユダヤの律法など無視していいというのだ。パウロによれば、もし異教徒が割礼したら、それは不必要なことをしただけでなく、神の恩寵を否定したことになる。神は、律法や割礼の盟約ではなく、イエスの死がもたらした贈り物として、救済してくれるのだから。割礼などしてしまった男は、救われないことにもなりかねない
(『ガラテャの信徒への手紙』五章四節)。パウロとマタイは、律法の遵守について、同意見だったか?答えは、明らかに「否」である。パウロとイエスは同じ宗教を唱導していただろうか?これは、歴史的に大変重要な疑問であり、否定することは難しい。イエスは、神の国に迎え入れられるためには、神が課した律法を守らなければならないと、信者に説いた。パウロは、律法は、王国に入ることと、何ら関係がないと諭した。パウロにとって大切だったのは、イエスの死と復活だけだった。歴史上のイエスは、律法について教えた。パウロは、イエスについて教えた。というより、一部の学者が言うように、パウロにとって、イエスの宗教は、すでにイエスにまつわる宗教だった

編集者 てつてつ (2020年01月01日 15:07:44)

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#118 2020年01月01日 15:22:20

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

287ページあたり

イエスはいつ神の子になったのか

『使徒言行録』では、イエスが神だとは、一言も書かれていない。さらに注目すべきは、いくつかの箇所で、神がイエスに特別な地位を授けたのは、復活したときだという、非常に原始的な信仰が述べられていることである。ルカが記録したずっと前に、これらの言葉を語ったキリスト教徒の語り部にとって、イエスは、血肉を備えた人間であり、彼を復活させたときに、神が特別な身分に引き上げたのだった。

『使徒言行録』にも書かれているように、最初期のキリスト教徒は、復活の際に、イエスが神の子になった(そしてメシアになり、主になった)と考えていたと思われる

が、その一方で、後のキリスト教徒は、彼が、洗礼を受けたときに、神の子になったと考えるようになった。だが、このような信仰の変遷は、それに留まらなかった。『マルコが書かれた何年か後、『ルカ』が登場する。この福音書では、イエスは、復活や洗礼によって、神の子になったのではなく、生まれた瞬間から神の子だった。従って、『マルコ』と違い、『ルカ』では、処女懐胎の物語が記されている。先の章で述べたように、ルカは、マリアが受胎した時点で、イエスが神の子になったと解釈している

最も新しい福音書である『ヨハネ』は、イエスが神の子になった時点を、さらに遡らせ、永遠の昔からそうだったことにしてしまったイエスの神性に言及している福音書は、『ヨハネ』だけである。ハネにとって、キリストは、神が復活させたからでも、洗礼のとぎに養子にしたからでも、母親を妊娠させたからでもなかった。キリストは、天地創造以前の、そもそもの始まりから、神の言として、神とともにいたから、神の子なのだ。

編集者 てつてつ (2020年01月01日 15:29:17)

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#119 2020年01月01日 15:39:15

仰天
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Re: 聖書という書物について

引用


エビオン派の律法理解。エビオン派は自他共に認める律法の熱狂的な支持者であり、それを厳格に守るあまり、菜食主義、清貧、そして清浄を旨としていた。一方で、モーセの律法を組織的に変更した点もある。彼らは律法の変更によって、以下のことを否定した:動物犠牲の血なまぐさい祭儀、イスラエルの王政、聖書の中で成就しなかった預言、そして神人同型説である。彼らにとって、イエスは律法の遵守者であると同時に、律法の改革者でもあったのである。中でも、動物祭儀の否定は、エビオン派による反パウロ主義とつながっていて重要である。というのも、パウロによるイエスの死の救済論的評価とは、まさにイエスを贖いの犠牲とすることに他ならなかったからである。いわば、イエスは洗礼の水によって、犠牲という火を鎮火したのだった。このように、一見矛盾する、律法の厳守と改革とは、律法と神の意志との乖離を埋めるためのものであった。

歴史の中でのエビオン派の位置。すでに見たように、エビオン派の考え方は、祭儀の場所としてのエルサレム神殿の否定であった。これと似た考え方は、エッセネ派にも見られる。論文著者は、アイン・フェシュカのツァドク派、ダマスカス教会、エッセネ派、そしてエビオン派が教義上の関連性を持っていると指摘する。

引用終わり




ここでは、エビオン派というのは動物犠牲の祭儀、神殿を否定したと書かれています。


てつてつさんの主張ではヘレニストのクリスチャンが神殿を否定し、12使徒らのエルサレム教会は律法を重視していて神殿も律法も否定していなかったという解説でしたが大きく矛盾してますね。



http://virtrilinguis.blogspot.com/2015/ … anity.html

#120 2020年01月01日 15:40:25

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

●ナザレ派

1世紀の初代教会はユダヤ教の「ナザレ人の分派」として捉えられていたが、この初代教会の呼称としての「ナザレ派」と区別して、サラミスのエピファニオス(AD 4c)が当時存在していたグループとして「ナザレ派」に言及している。イエス=キリストを神の子キリストとして受け入れるユダヤ人から成る。エピファニオスやヒエロニムスは紀元70年のエルサレム陥落時にイエスの預言に従ってペラ(エルサレムの北東)に逃れたユダヤ人キリスト教徒の系譜と見なしている。

モーセの律法を順守するなどエビオン派と似ているが、エビオン派と違い処女懐胎などを認め、おそらく新約聖書もキリスト教とほぼ同様のものを用いる。ただし、マタイによる福音書をヘブライ語で保持しており、そちらをギリシア語に翻訳される前の原文とみなしていた。
ヒエロニムス(AD 5c)はエビオン派とナザレ派を分けて記述している。

11世紀にも安息日を守るナザレ派のことが言及されている。パサギニ派と同一視する仮説もある。




初代教会を指す『ナザレ派』はイエスを神の子として認めており、処女懐胎も認め、明らかにエビオン派とは別のものです。


後のナザレ派とも区別して考えなくてはならないでしょう。

つまり、てつてつさんの初代教会はエビオン派という説は間違いです。









Nazarene (sect) - Wikipedia
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Nazarene_(sect)

#121 2020年01月01日 15:41:34

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

てつてつ さんの発言:

しかし、メシアが十字架に架けられなければならなかったという考えを思いついたのは、パウロではない。このような発想は、ずっと早い段階で生まれ、イエスの最初の信者が、神がイエスを復活させたと信じるようになったときだった。パウロは、改宗したときに、この考えを受け継いだのだ。そして、キリスト教がユダヤ教と挟を分かち、ユダヤ教と真っ向から対立する、独立した宗教、イエス自身の宗教へと変貌を遂げたのは、まさにこの考えゆえであった

おやおや、てつてつさんの考えでは、キリスト教はパウロがでっち上げたのではなかったのですか?

パウロ以前からイエスの弟子たちの間でイエスがメシアだという確信があった事を示していますね。

それに、メシアニックジューも増えてますからイエスをメシアだとユダヤ人の全てが受け入れていないわけではありません。

ユダヤ人が退けたので異邦人へも救いが開かれたのであり、聖書通りでしょう。

また、イエスは再臨の時に力あるメシアとして、王の王、主の主として現れるわけですからユダヤ人の期待したメシアがすぐに助けてくれると間違った理解をしていてもイエスはメシアであり、勝利者なのです。

その事は預言通りに復活で示されました。

#122 2020年01月01日 15:45:45

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

三位一体の教理が生まれた過程 299ページあたり

もしキリストが神であり、神も神なら、神は二人いるじゃないか?

初期キリスト教徒のあらゆる神学的疑問について言えることだが、この疑問への答えは、多岐にわたる。ユダヤ教的キリスト教徒だったエビオン派は、神は一人しかいないのだから、キリストは神ではないと、頑強に主張した。キリストが神だったら、神が二人になってしまう。エピオン派にとって、イエスはメシアであり(ユダヤ社会では、メシアが神とみなされたことは一度もなかった)、原罪を背負って死ぬことによって、この世で神の意志を実現するために、神によって選ばれた人間だ。したがって、彼は神にとって特別な人間で、神によって、その息子として迎えられた。しかし、彼は、最初から最後まで、掛け値なしの人間であり、神ではない。

さらに、聖霊の問題も厄介な代物だった。イエスは、『ヨハネ』のなかで、自分が天国に帰った後に、「別の弁護者」なる聖霊が、地上に降りてくると語っているので、聖霊も神ということになる(十四章十六節)。この聖霊も、父なる神や神の子とは別物だ。そういうわけで、「三位一体の」神が出来上がる。三つの位格にして一人の神。


このような事態が大問題だった理由の一つは、キリスト教に改宗したコンスタンティヌス帝が、この新宗教を、分裂した帝国を統合するために利用しようとしたからだ。しかし、肝心の宗教が分裂していたのでは、お話にならない。まず宗教を一つにまとめる必要があった。そこでこの皇帝は、この問題について議論し、全キリスト教徒を結束させるために決着をつけるべく、帝国内の最も重要な司教を招集して、ニヶァで会議を開催した。これが、三二五年に開かれた、有名な一一ヶァ公会議である。公会議の最後に、アタナシウスの説が採択された。ときどき指摘されることとは違って、この決定は、ほぼ満場一致で可決され、僅差でアリウス派の説が否決されたわけではない。とはいえ、その後も議論は続き、四世紀のある時期には、アリウス派が巻き返すかに見えた。しかし結局、正統の地位を獲得したのは、アタナシウス派の見解だった。神格を有する位格は、三つある。それらは、相互に独立している。しかし、そのどれもが、等しく唯一神であり、永遠の存在である。そして、同一の実体を共有している。これが、三位一体の教義である。この種の事柄について、明確に説明されていない新約聖書の教えからすると、この教義の成立は、大した進歩だった。イエスを神とみなしているヨハネ』のような文書でさえ、三つの存在が一つの実体だなどという見解は、一つも見当たらない。読者も想像できるかもしれないが、後世の書記は、新約聖書に、この教義について何も書かれていないことに困惑し、少なくともある一箇所に、はっきりと三位一体に言及している文章を挿入した(『ヨハネの手紙亘五章七‐八節)。三位一体は、聖書の教えに基づいていると、アタナシウスらは主張しているが、実際には、新約聖書のどこにも書かれていない、後世のキリスト教徒の発明である。三百年の間に、イエスは、ユダヤの黙示思想的預言者から、三位一体の位格の一つである神へと変貌した。初期キリスト教の発展は、まさに瞠目すべきものだった。

編集者 てつてつ (2020年01月01日 15:47:13)

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#123 2020年01月01日 15:59:29

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

311ページあたり

手短に言えば、時代が下るとともに、肉体の復活という黙示思想的観念は、不滅の魂という教義へと変容した。そして、天国と地獄への信仰が出現する。この信仰は、イエスやパウロの教えにはなかったもので、神の国がこの世に顕現することは決してないことを悟った、後世のキリスト教徒によって、考案されたものである。そして、この信仰は、キリスト教の標準的な教えとなり、これからもずっとそうであり続けるだろう

オフライン

#124 2020年01月01日 16:04:10

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

310ページあたり

私たちが伝統的なキリスト教と考えているものは、天から降ってきたのではなく、イエスの宣教活動直後から、著しい発展を遂げた。それはまた、単にイエスの教えから直接発生したのではない。多くの点で、後にキリスト教と呼ばれるようになった宗教は、イエスの教えから大きく乖離することで成立した。批評的な歴史学者が、ずっと前から認めているように、キリスト教は、イエスの宗教ではなく、イエスについての宗教なのだ。
この章で私が論じた伝統的なキリスト教のあらゆる側面は、初期教会の創作と考えることができる。このような初期教会の発展を考察する一部の学者は、イエスが登場する以前から存在していたものとの確かな連続性を見い出している。キリスト教神学者は、キリスト教の発展の背後に、神の手が働いていると考えるかもしれない。しかし他の学者は、むしろその断絶に注目している。つまり、「正統な」キリスト教思想は、イエスや初期の弟子の教えから必然的に導き出されたというよりは、後世のキリスト教徒に影響を与えた、歴史的・文化的要因によって、形成されていった教義だと、彼らは考えている。後代に成立したこうした教義は、最終的に、後の教会において、広く受容され、「常識」にさえなった
(教義が形成されるプロセスに、神が関わっていたかどうかは別にして)。
初期キリスト教の発展の連続性を強調するにしろ、不連続性を強調するにしろ、後世の信者が信じるようになった信仰や思想が、イエス自身が奉じていた宗教とは別物であることに変わりはない。私たちがキリスト教とみなしているものの発明、すなわち一連の神学的な革新は、パウロだけが成し遂げたわけではない。イエスの宗教をイエスについての宗教へ変質させた人々のなかで、最も大きな働きをしたのも、パウロではない。無数のキリスト教徒が、キリスト教のこのような変質に関わり、その大多数は、古代の霧の中へと消えていった、名もなきキリスト教思想家であり、説教者だった。彼らは、イエスにまつわる伝承を、自分たちの時代に合わせて再解釈した。現代に生きる私たちは、歴史的・文化的な力によって導かれ、形作られた、そうした再解釈について、時に推測し、あれこれ思いをめぐらすことしかできない。私たちが知るキリスト教は、一夜にして出現したわけでは、決してない。それは、競合する思想、教義、見解、正典および規律をめぐる、苦闘と議論と争いに彩られた長い年月をかけて出来上がったのだ。最終的に成立したキリスト教は、紛れもなく、人間の発明だったそして、歴史的・文化的重要性という観点からすると、それは、西洋文明の歴史の最も偉大な発明であったことに異論の余地はないだろう。

編集者 てつてつ (2020年01月04日 07:57:00)

オフライン

#125 2020年01月01日 16:06:46

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

まず、てつてつさんは麻原が神格化される事をイエスの場合と同様に言われる事がありますが、麻原の事件から数十年経っても、当時の事を知る人々が多く存在しているのですから真相は知られています。

パウロはイエスの死後数年以内に書簡に記した内容を伝えていますから、その信条を伝えていた時代はイエスの死から僅かしか経っていないのです。

アレクサンドロス大王の伝記で最古のものとされているものは、アレクサンドロス大王の死後400年以上経って書かれていますが、歴史家の間では信憑性が高く評価されています。
パウロ書簡の成立の早さに加え、福音書が数十年後に書かれていたとしても他の伝記と比べると
まさにニュース速報並の早さと言えるでしょう。

ですから新約聖書の成立年代は問題にはなりません。

てつてつさんの主張では、イエスの事を伝える人というのは信者さんである身内の言う事なので信用できないとの事ですが、それを言うならイエスを否定する人々は聖書もイエスも信じたくない嘘だと信じる身内の言う事なのです。



パウロの言葉を見てみましょう。

「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。」

次に、クレイグ・L・ブロンバーグ博士の言葉にも注目して下さい。

クレイグ・ブロンバーグ博士は、四福音書と呼ばれるイエスの一代記に関する権威としてアメリカ中に名を知られた人物で、スコットランドのアバディーン大学を卒業し、新約聖書研究の博士号を取得。

その後は、英国ケンブリッジ大学のティンダル校で主任研究員として働き、世界中の優秀な研究者と共にイエスに関する数多くの素晴らしい研究を行っている人です。
その後の十数年間は、エリート神学校として知られるデンバー神学校で、新約聖書研究の教授として教鞭をとっていました。


「イエスの死が紀元30年より前だとすると、パウロの改宗は32年頃ということになります。パウロはすぐにダマスコに案内され、アナニアというクリスチャンと他の弟子に会っています。彼がエルサレムで使徒に最初に会ったのは、35年頃のことでしょうから、この3年間のどこかで、初代教会がすでに信じ、まとめ上げたこの信条がパウロに伝えられたのです。
このコリント人への手紙第一、15章では、私たちの罪のためにイエスが死んだ事実に加え、復活したイエスが出会った人々について詳しく記録されています。そしてその全てが、イエスの死後わずか2年ないし5年以内の話なのです。

ですから、これはアームストロングが主張しているような、40年、あるいはそれ以上たってからの神話ではないのです。
こうした流れを見ますと、まだ書物にはされていないものの、復活に対するクリスチャンの信念はイエスの死後2年から5年以内には構築されたと言って差し支えないでしょう。
これは非常に重要です。

アレクサンドロス大王の500年に対する福音書の30年から60年という比較どころではありません。
2年ですよ、2年!
他の分野では500年でも十分に信用に値すると言われるのです。」


こうした点を見ますと、伝説というのは長い期間で形成されるものですが年月が短い事が分かります。

ですから単なる神話や伝説ではなく事実だったと見るほうが道理にかなっていると言えるのではないでしょうか。

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