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#126 2013年01月09日 20:04:28

もんもん
メンバー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

もうひとつだけ紹介です。

(ヘブライ9章28節)
そして,彼が二度目に現われるのは罪のことを離れてであり,それは,[自分の]救いを求めて切に彼を待ち望む者たちに対してです。

「現れる」という表現は、目に見えるという風に解釈するが、自然だと思います。
1度目に現れたのは、明らかに、イエスが地上に人間としてこられたときのことです。
ですので2度目という表現は、イエスが地上にこられるということを示唆しているのではないかと思うのです。

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#127 2013年01月09日 20:15:17

もんもん
メンバー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

エホバの証人研究さん
コメントありがとうございます。「地的希望を持つクリスチャン」という教理は、エホバの証人を拡大するために、矛盾が少なくて都合のよい解釈を、他の文献や新しく登場した聖書解釈から拝借したのではないかと想像します。でも間違っているわけではなくて、聖書全体を矛盾なく説明するには、かなりよい説なのではないかと思っています。

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#128 2013年01月09日 20:15:35

カレブ
Administrator

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

>わたしの調査によると、聖書には天に行くという表現はまったくないです。また天に住むという表現もまったくないです。
>イエスと神の王国が「天から下る」とか「到来」するという表現はあっても、クリスチャンが天へ行くという表現はまったく存在していません。

なるほど、それならわかります。
興味深い点だと思います。

わたしは、ものみの塔の作り出した ある時までは天で支配するクリスチャンが
選ばれて、ある時からは地上の楽園に生きる人が選ばれるようになったという
教理が、その出来上がる過程を見ると、とても雑で安易なものだと感じました。

しかし、2,3世紀のクリスチャンでも地上に神の国が出現する
という考えを持つ人がいましたので、聖書筆者の中にもそのような
考え(地上に神の国ができる)を持っていた人がいる可能性は十分あると思います。

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#129 2013年01月09日 21:16:04

sk
メンバー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

もんもんさん、


まずクリスチャンが天に行くかどうか

以下の聖句は明らかにイエスの弟子たちが天に行くこと、またそこに住むことを立証しています。
もんもんさんがこんな簡単な真理を理解できないのが不思議です。


フィリピ 3:14
14 キリスト・イエスによる神からの賞である上への召しのため,目標に向かってひたすら走っているのです。

ヘブライ 3:1
1 そのようなわけで,聖なる兄弟たち,天の召しにあずかる人たちよ,わたしたちが[信仰を]告白する使徒また大祭司,イエスを思い見なさい。

ヨハネ 14:2
2 わたしの父の家には住むところがたくさんあります。そうでなかったなら,わたしはあなた方に告げたことでしょう。わたしはあなた方のために場所を準備しに行こうとしているのですから。3 そしてまた,わたしが行ってあなた方のために場所を準備したなら,わたしは再び来て,あなた方をわたしのところに迎えますわたしのいる所にあなた方もまたいるためです。

フィリピ 3:20
20 しかしわたしたちについて言えば,わたしたちの市民権は天にあり,わたしたちはまた,そこから救い主,主イエス・キリスト[が来られるの]を切に待っています。21 彼はその持つ力,すなわち一切のものをご自分に服させるほどの[力]の働きにより,わたしたちの辱められた体を作り替えて,ご自分の栄光ある体にかなうものとしてくださるのです。

コリント第一 15:42-52
42 死人の復活についてもこれと同じです。朽ちる様でまかれ,朽ちない様でよみがえらされます。43 不名誉のうちにまかれ,栄光のうちによみがえらされます。弱さのうちにまかれ,力のうちによみがえらされます。44 物質の体でまかれ,霊的な体でよみがえらされます。物質の体があるなら,霊的な[体]もあります。45 まさにそう書かれています。「最初の人アダムは生きた魂になった」。最後のアダムは命を与える霊になったのです。46 とはいえ,最初のものは霊的なものではなく,物質のものであり,後に霊的なものとなります。47 最初の人は地から出て塵で造られており,第二の人は天から出ています。48 塵で造られた者たちは塵で造られた者のようであり,天的な者たちは天的な者のようです。49 そして,わたしたちは,塵で造られた者の像を帯びてきたように,また天的な者の像を帯びるのです。

50 また,兄弟たち,わたしはこのことを言います。肉と血は神の王国を受け継ぐことができず,朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはありません。51 ご覧なさい,わたしはあなた方に神聖な奥義を告げます。わたしたちはみな[死の]眠りにつくのではありませんが,わたしたちはみな変えられるのです。52 一瞬に,またたくまに,最後のラッパの間にです。ラッパが鳴ると,死人は朽ちないものによみがえらされ,わたしたちは変えられるからです。

テサロニケ第一 4:16-17
16 主ご自身が号令とみ使いの頭の声また神のラッパと共に天から下られると,キリストと結ばれて死んでいる者たちが最初によみがえるからです。17 その後,生き残っているわたしたち生きている者が,彼らと共に,雲のうちに取り去られて空中で主に会い,こうしてわたしたちは,常に主と共にいることになるのです。


ペテロ第一 1:3-4
3 わたしたちの主イエス・キリストの神また父がたたえられますように。[神]はその大いなる憐れみにより,イエス・キリストの死人の中からの復活を通して,生ける希望への新たな誕生をわたしたちに与えてくださったのです。4 すなわち,朽ちず,汚れなく,あせることのない相続財産へ[の誕生]です。それはあなた方のために天に取って置かれているものです。


天から下る新しいエルサレムは子羊の花嫁と言われています。
イエスの弟子たちは子羊の花嫁にたとえられていますので、キリストの弟子たちは新しいエルサレムの成員です。新しいエルサレムの12の土台石には12使徒の名が刻まれています。
その新しいエルサレムが天から下るということは、キリストの弟子たちは、キリストの花嫁として天に居住していることが分かります。その都市が天から地に下る目的は何ですか、アブラハムの胤として人類に祝福をもたらすことです。

啓示 3:12
12 「『征服する者—わたしはその者をわたしの神の神殿の中の柱とし,彼はもはや[そこから]決して出ないであろう。そしてわたしは,わたしの神の名と,わたしの神の都市,すなわち天のわたしの神のもとから下る新しいエルサレムの名と,わたしの新しい名とをその者の上に書く。

啓示 21:9-14
9 そして,最後の七つの災厄を満たした七つの鉢を持つ七人のみ使いの一人が来て,わたしと話してこう言った。「こちらに来なさい。子羊の妻である花嫁をあなたに見せよう」。10 そうして彼は,霊[の力]のうちにわたしを大きくて高大な山に運んで行き,聖なる都市エルサレムが,天から,神のもとから下って来るのを,11 そして神の栄光を帯びているのを見せてくれた。その輝きは極めて貴い宝石に似ており,碧玉が水晶のように澄みきって輝いているかのようであった。12 それには大きくて高大な城壁があり,また十二の門があった。そして,門のところには十二人のみ使いがおり,イスラエルの子らの十二の部族の名が書き込まれていた。13 東に三つの門,北に三つの門,南に三つの門,西に三つの門があった。14 その都市の城壁にはまた十二の土台石があり,それには子羊の十二使徒の十二の名があった。



では次に天への召しについて


イエス以外のクリスチャンはすべてアブラハムの胤です。
そして今の時期の召しはすべて天的召しです。
相続人、神の子、王国の子、聖なる者はすべて同じものを指します。
それはアブラハムの約束の胤です。
その主要な方はキリストであり、クリスチャンはキリストに属する者であるゆえアブラハムの約束の胤として天の王国に召されています。
啓示の144,000人は新しい契約により買い取られた人類の中のあらゆる国民、国語、民の中から公平に選ばれます。彼らは、王なる祭司となり、キリストの花嫁にたとえられています。

キリストの帰還(主の日の到来)の時、この小さな群れの144,000人は、第一の復活とみ使いによる召集により天でキリストに会い、サタンの頭を砕く業に与ります。

この144,000人以外の人類は、キリストに属するアブラハムの約束の胤ではありません。
無神論者、エホバの証人も含むキリスト教世界の霊によって生まれていない自称クリスチャンたち、他の宗教を信じている人たちはキリストに属するアブラハムの約束の胤ではありません。
それらの人々は天に召されていません。それらの人々は、キリストと144,000人のアブラハムの約束の胤により自らを祝福する新しい契約により贖われたイスラエルの12部族で象徴される諸国民です。彼らは、地にあるものであり、ローマ 8:19-21 の創造物で、彼らをあつめる業はキリストの到来から開始されるでしょう。

ローマ 8:19-21
19 創造物は切なる期待を抱いて神の子たちの表わし示されることを待っているのです。20 創造物は虚無に服させられましたが,それは自らの意志によるのではなく,服させた方によるのであり,それはこの希望に基づいていたからです。21 すなわち,創造物そのものが腐朽への奴隷状態から自由にされ,神の子供の栄光ある自由を持つようになることです。

マタイ 25:31-33
31 「人の子がその栄光のうちに到来し,またすべてのみ使いが彼と共に[到来する]と,そのとき彼は自分の栄光の座に座ります。32 そして,すべての国の民が彼の前に集められ,彼は,羊飼いが羊をやぎから分けるように,人をひとりひとり分けます。33 そして彼は羊を自分の右に,やぎを自分の左に置くでしょう。

神のことばは、地にあるものをあつめる業は、天にあるものをあつめる業の後に続くことを明らかにしています。

エフェソス 1:10
10 定められた時の満了したときにおける管理のためにご自身のうちに意図された意向によるものであり,すなわちそれは,すべてのもの,天にあるものと地にあるものを,キリストにおいて再び集めることです。


ものみの塔協会は、時でもないのに自分勝手に1935年以来、「地にあるもの」をあつめ始めました。
それで彼らの教えにより欺かれあつめられた全世界の700万人のJWは聖書の1つの希望がアブラハムの約束の胤の天的なものであるこを理解していません。

ですから、ものみの塔の教えは、マタイ 23:13 にある偽善者の教えです。

マタイ 23:13
13 「偽善者なる書士とパリサイ人たち,あなた方は災いです! あなた方は人の前で天の王国を閉ざすからです。あなた方自身が入らず,また入る途中の者が入ることをも許さないのです。


まとめ

天にあるもの: キリストに属するアブラハムの約束の胤、水と霊により再び生まれたクリスチャン
地にあるもの: アブラハムの胤ををとおして自らを祝福する諸国民、イスラエルの12部族で象徴される贖われた全人類

新約聖書(クリスチャン・ギリシャ語聖書)が差し伸べている希望は、天にあるもの、キリストに属するアブラハムの約束の胤の与る天的なものです。
それで、新約聖書はアブラハムの胤をあつめるために書かれています。

JWは、ものみの塔の教えにより自らを地上の楽園の希望を持つ他の羊と思い込まされています。
ものみの塔協会は天的クラスと地的クラスの教えにより天的クラスの地的クラスへの支配を現時点から強調し、それによって700万人の自らを地的クラスであると信じている従順な人々の崇拝心を利用し全世界で物質的に繁栄してきました。


この記事を読んで理解できるアブラハムの約束の胤の皆さん、あなたの意見を聞かせてください。

編集者 sk (2014年06月26日 18:16:41)

オフライン

#130 2013年01月10日 10:44:18

ゲン
ゲストユーザー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

ものみの塔は、啓示7:9の「大群衆」は地上で生き残るグループであると教えています。
しかし、「御座と小羊」の前に立っているということは、明らかに天にいるということです。
さらに、啓示7:15の「神殿」は、ギリシャ語のナオスを訳したものですが、ナオスには天そのものを表す意味もあります。

また、ものみの塔は、キリスト以前の義者は地上で復活すると教えていますが、マタイ8:11には、アブラハム、イサク、ヤコブが天で復活するとはっきり書かれています。つまり、キリストの贖いには遡及効があるということです。
さらに、マタイ8:11には、多くの人が東から西からきて天で宴の席につくとあります。啓示7:9の「大群衆」も、あらゆる国民、部族、民族、国語から来ているので、これに通じるのではないでしょうか。

#131 2013年01月10日 11:51:40

もんもん
メンバー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

skさん

わたしはグループを二分して、聖書の言葉を当てはめるという方法に疑問を持っています。たとえば「神の子」や「相続財産」や「兄弟たち」という言葉が、ある聖句ではひとつのグループに、他の箇所では他のグループにという読み方は非常に恣意的だと思うからです。どうもすっきりとしません。

いくつかの聖句を検討してみます。

(フィリピ 3:20)
20 しかしわたしたちについて言えば,わたしたちの市民権は天にあり,わたしたちはまた,そこから救い主,主イエス・キリスト[が来られるの]を切に待っています。21 彼はその持つ力,すなわち一切のものをご自分に服させるほどの[力]の働きにより,わたしたちの辱められた体を作り替えて,ご自分の栄光ある体にかなうものとしてくださるのです。

パウロが市民権という言葉を使うときは、それはローマ市民権との類似で語っているように思います。ローマ市民権とは、ローマに住んでいる必要はなくて、ユダヤなどのローマの影響が及ぶ他の地域にいたとしても、その市民権を主張することができました。

パウロの主張は、支配者であるサタンの世で市民権を持っているのではなくて、市民権は天にあるということ、つまり、神を支持している民だといっているのだと解釈することができると思います。

現在はクリスチャンは外国人居留者のように生活していますが、神の王国が地上に到来するとき、名実ともに神の王国の民となるのではないでしょうか。

ですから、グループを二分する必要はなくて、この言葉は、クリスチャンすべてに語られたものとして解釈することができると思います。天という言葉が入っている他の聖句も同じような観点で、すべてのクリスチャンに当てはめることができるのではないかと思います。

(ヨハネ 14:2)
2 わたしの父の家には住むところがたくさんあります。そうでなかったなら,わたしはあなた方に告げたことでしょう。わたしはあなた方のために場所を準備しに行こうとしているのですから。3 そしてまた,わたしが行ってあなた方のために場所を準備したなら,わたしは再び来て,あなた方をわたしのところに迎えます。わたしのいる所にあなた方もまたいるためです。

イエスはこの聖句で、地上に来て、あなたがたを迎えるといっているのではないでしょうか。天に戻るのではなくて、神の王国が地上に到来して、そこに迎え入れるという意味ではないでしょうか。

オフライン

#132 2013年01月10日 12:18:23

もんもん
メンバー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

ゲンさん

>ものみの塔は、啓示7:9の「大群衆」は地上で生き残るグループであると教えています。
>しかし、「御座と小羊」の前に立っているということは、明らかに天にいるということです。
>さらに、啓示7:15の「神殿」は、ギリシャ語のナオスを訳したものですが、ナオスには天そのものを表す意味もあります。

モーセの例を考えてみてください。

(出エジプト記19章18節)
するとシナイ山はその全山が煙った。エホバが火のうちにあってそこに下って来られたためである。その煙は窯の煙のように立ち上り,山全体が激しく震動した。19 角笛の音がいよいよ大きくなった時,モーセは話しはじめ,[まことの]神も声をもってこれに答えはじめられた。

モーセは、シナイ山という地上の場所に居ながら、神の前に立って話すことができています。ですから、「御座と小羊」の前に立っているという表現では、天にいるということを確証することができないと思います。むしろイエスと14万4000人は、シオンの山という地上の場所に立って、み使いたちに刈り取らせているのではないかと思うのです。

>また、ものみの塔は、キリスト以前の義者は地上で復活すると教えていますが、マタイ8:11には、アブラハム、イサク、ヤコブが天で復活するとはっきり書かれています。つまり、キリストの贖いには遡及効があるということです。さらに、マタイ8:11には、多くの人が東から西からきて天で宴の席につくとあります。啓示7:9の「大群衆」も、あらゆる国民、部族、民族、国語から来ているので、これに通じるのではないでしょうか。

(マタイ16章28説)
あなた方に真実に言いますが,ここに立っている者の中には,人の子が自分の王国をもって到来するのをまず見るまでは決して死を味わわない者たちがいます

イエスは、王国をもって到来するといっていますので、天の王国が現在は天にあるとしても、将来イエスと共に、地上に到来して、そこで「食卓について横になる」と考えることはできないでしょうか。地上で生活をして、体が存在しないことには「食卓について横になる」ことはできないと思うんです。

オフライン

#133 2013年01月10日 12:43:19

ゲン
ゲストユーザー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

もんもんさん

ナオスというのは神殿全体ではなく、祭司だけが入ることのできる聖所の部分です。地上の聖所であれば、とても「大群衆」がそこに立つことなどできません。つまり、天における象徴的な聖所と理解するのが自然ではないでしょうか。

また、「食卓について横になる」というのは、比喩的な表現だと思います。地上で宴を楽しむ人たちのように、天においても霊者たちに楽しみがあるということではないでしょうか。

#134 2013年01月10日 17:21:17

sk
メンバー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

こんばんは、

三つ巴で複雑になってきましたね。


まず、もんもんさん


グループを2つに分けているのは、わたしではありません。
聖書にそのように書かれています。
そしてわたしは素直にそれを認めている、あるいは信じています。

アブラハム契約:            アブラハムの胤と、自らを祝福する地の民 (創世記 22:18)
全人類を1つにする管理: 天にあるものと、地にあるもの (エフェソス 1:10)
全人類の和解:             地にあるものと、天にあるもの (コロサイ 1:20)
神の子の栄光ある自由:  神の子たちと、創造物 (ローマ 8:19-21)

わたしにとって、2つの異なる実体が明白です。
天にあるものが地にあるものの祝福の経路となります。
アブラハムの胤(キリストと小さな群れ)は全人類に王なる祭司として仕えるでしょう。

キリストは天にいます。
この方が「わたしのいる所に、あなた方もまたいるためですと述べいます (ヨハネ 14:3)
キリストの帰還は、天にあるものを、キリストのいる所の天に迎えるためです。
地上に迎えるとの解釈は無理があると思います。

このように自然に理解すると他の聖句との整合が取れます。
霊的な体でよみがえり、天的な者のようになる (コリント第一 15:44, 48)
肉と血は王国を受継ぐことはできない (コリント第一 15:50)
雲のうちに取り去られて空中で主に合い、常に主と共にいる (テサロニケ第二 4:16-17)
天にある相続財産 (ペテロ第一 1:3-4)
天にある市民権 (フィリピ 3:20)
上への召し、天への召し (フィリピ 3:14、ヘブライ 3:1)


第一の復活について

マタイ 22:29-30
29 イエスは答えて言われた,「あなた方は間違っています。聖書も神の力も知らないからです。30 復活のさい,男はめとらず,女も嫁ぎません。天にいるみ使いたちのようになるのです。


このように天のグループと地のグループがあるのは明白です。
とはいえその両者は永遠の命の希望において1つの希望に召されていると見なせます。
聖書は、天的であれ地的であれ全人類に永遠の命の希望を差し伸べているからです。

しかし、エフェソス 4:4 で言及されている希望は、キリストに属する者の与る天における永遠の命と見なせます。なぜなら、その文脈で体、霊、主、信仰、バプテスマについて言及されているからです。
それらはキリストに属するアブラハムの胤を表す表現だからです。




信仰
バプテスマ

エフェソス 1:22-23
22 [神]はまた,すべてのものを彼の足の下に服させ,会衆に対して彼をすべてのものの頭とされました。23 その[会衆]は彼の体であり,すべてにあってすべてのものを満たす方の満ちるところです。

エフェソス 2:6, 15-16, 19-22
6 また,キリスト・イエスとの結びつきにおいてわたしたちを共によみがえらせ,天の場所に共に座らせてくださったのです。
15 この方は自分の肉によって敵意を,すなわち[数々の]定めから成るおきての律法を廃棄されました。それは,二つの民をご自身との結びつきのもとに一人の新しい人に創造し,平和を作り出すためでした。16 またそれは,両方の民を一つの体とし,苦しみの杭を通して神と十分に和解させるためでした。
19 それゆえ,あなた方はもはや決してよそ者や外人居留者ではありません。聖なる者たちと同じ市民であり,神の家族の成員なのです。20 そしてあなた方は使徒や預言者たちの土台の上に築き上げられているのであり,キリスト・イエスご自身は土台の隅石です。21 彼と結びあって建物全体は調和よく組み合わされ,エホバのための聖なる神殿に成長してゆきます。22 彼と結びあってあなた方も共に築き上げられ,神が霊によって住まれる所となってゆくのです。

エフェソス 3:6
6 すなわちそれは,諸国の人々が良いたよりを通してキリスト・イエスと結ばれて,共同の相続人,同じ体の成員,わたしたちと共に約束にあずかる者となる,ということです。



ガラテア 3:27-29
27 キリストへのバプテスマを受けたあなた方は皆キリストを身に着けたからです。28 ユダヤ人もギリシャ人もなく,奴隷も自由人もなく,男性も女性もありません。あなた方は皆キリスト・イエスと結ばれて一人の[人]となっているからです。29 さらに,キリストに属しているのであれば,あなた方はまさにアブラハムの胤であり,約束に関連した相続人です。


エフェソス 4:4-6
4 体は一つ,霊は一つです。それは,あなた方が自分たちの召されたその一つの希望のうちに召されたのと同じです。5 主は一つ,信仰は一つ,バプテスマは一つです。6 すべての者の神また父は一つであり,すべての上に,すべてを通し,すべての中におられるのです。


それで、ここで述べている召されたひとつの希望とは、天への召しのことです。

ペテロ第一 1:3-4
3 わたしたちの主イエス・キリストの神また父がたたえられますように。[神]はその大いなる憐れみにより,イエス・キリストの死人の中からの復活を通して,生ける希望への新たな誕生をわたしたちに与えてくださったのです。4 すなわち,朽ちず,汚れなく,あせることのない相続財産へ[の誕生]です。それはあなた方のために天に取って置かれているものです。




次にゲンさん

思いを表明してくださりありがとうございます。

啓示 7:15
15 それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も[神]に神聖な奉仕をささげている。また,み座に座っておられる方は彼らの上にご自分の天幕を広げられるであろう。


まず啓示 7:15 の神殿について


http://www.blueletterbible.org/lang/lex … 3485&t=KJV
啓示 7:15 の神殿 (naos)

聖書中の用法
1 エルサレムの神殿、しかし至聖所
2 異教徒の神殿、寺院
3 比喩的に、聖なる者で構成される霊的な神殿、クリスチャン会衆

ナオスの象徴的な意味は、アブラハムの胤、キリストに属する小さな群れ、クリスチャン会衆のことです。

ヨハネ 2:21
21 しかし,[イエス]はご自分の体の神殿について語っておられたのであった。

コリント第一 3:16-17
16 あなた方は,自分たちが神の神殿であり,神の霊が自分たちの中に宿っていることを知らないのですか。17 もしだれかが神の神殿を滅ぼすなら,神はその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなた方はその[神殿]なのです。

コリント第一 6:19
19 あなた方の体が,あなた方の内にある聖霊の神殿であることを知らないとでもいうのですか。その[聖霊]はあなた方が神から受けているものです。また,あなた方は自分自身のものではありません。

エフェソス 2:21
21 彼と結びあって建物全体は調和よく組み合わされ,エホバのための聖なる神殿に成長してゆきます。

テサロニケ第二 2:4
4 彼(不法の人)は,すべて「神」と呼ばれる者また崇敬の対象とされるものに逆らい,自分をその上に高め,こうして神の神殿に座し,自分を神として公に示します。



啓示 21:22
22 そして,わたしはその中に神殿を見なかった。全能者なるエホバ神がその神殿であり,子羊もそうだからである。

ナオスの
実体は天で、地上でそれを代表するものがアブラハムの胤の王国となるでしょう。

それで大艱難を生き残る大群衆は、地上においてアブラハムの胤の王なる祭司をとおして清い崇拝を学びエホバ神を受け入れらる仕方で崇拝するでしょう。



啓示 7:15 の神のみ座の前について

http://www.blueletterbible.org/lang/lex … KJV&page=1
前、エノピオン (enopion)

聖書中の用法
1 面前で、前で
占拠された場所の: 前、向こう側の、反対の場所、目をむける対象

ルカ 1:6
6 二人は共に,エホバのすべてのおきてと法的な要求にしたがってとがめなく歩んでおり,神のみ前にあって義にかなった者であった。

使徒 7:46
46 彼は神のみ前に恵みを得,ヤコブの神のために住まいを備える[特権]を請い求めました。

使徒 8:21
21 この事においてあなたにはあずかる分も受け分もありません。あなたの心は神から見てまっすぐではないからです。

使徒 10:4
4 この人は彼を見つめ,恐れ驚いて,「主よ,何でしょうか」と言った。[み使い]は彼に言った,「あなたの祈りと憐れみの施しとは記念として神のみ前に上りました。

ヘブライ 4:13
13 そして,[神]のみ前に明らかでない創造物は一つもなく,すべてのものはその目に裸で,あらわにされており,この方に対してわたしたちは言い開きをしなければなりません。


それで、神のみ座の前を文字どうりに解釈することもできますが、
わたしは、むしろ地上の大群衆が神の関心と好意の目を受けていると思います。


次にマタイ 8:11 について

マタイ 8:11
11 しかしあなた方に言いますが,東のほうや西のほうからの大勢の人が来て,天の王国でアブラハム,イサク,ヤコブと共に食卓について横になるでしょう。


まず、この聖句が天について述べていると解釈したとして、、

東のほうや西のほうからの大勢の人は、あらゆる国民、国語、民から均等に取られる144,000人を表すとも理解できます。144,000人は地から買い取られ子羊の行くとこへどこでもついて行くといわれていますので、それが天的クラスであることが分かります。

他方、大群衆の場合、彼らは大艱難から出てくると表現されています。
この表現から、大群衆は大艱難を生き残る諸国民の羊の地的なクラスと思います。


次に、天にアブラハム、イサク、ヤコブが復活するかどうかについて、

その可能性を否定はしませんが、以下の聖句から、それは無いと思います。

マタイ 11:11-13
11 あなた方に真実に言いますが,女から生まれた者の中でバプテストのヨハネより偉大な者は起こされていません。しかし,天の王国において小さいほうの者も彼よりは偉大です。12 ただ,バプテストのヨハネの日から今に至るまで,天の王国は人々の押し進む目標となっており,押し進んでいる者たちはそれをとらえつつあります。13 すべて,つまり預言者たちと律法とは,ヨハネに至るまで預言したからです。

アブラハム、イサク、ヤコブでさえバプテストのヨハネより偉大ではないといわれています。
そして、バプテストのヨハネでさえ、天の王国の相続人と比べると劣ると述べられています。
また、王国の召しは、バプテストのヨハネの日から人類に差し伸べられたことが分かります。

それで、マタイ 8:11 の約束は、天の王国の管理下の地上のパラダイスについて述べていると思います。

編集者 sk (2013年02月26日 21:06:53)

オフライン

#135 2013年01月10日 19:38:26

ゲン
ゲストユーザー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

sk さんの発言:

東のほうや西のほうからの大勢の人は、あらゆる国民、国語、民から均等に取られる144,000人を表すとも理解できます。144,000人は地から買い取られ子羊の行くとこへどこでもついて行くといわれていますので、それが天的クラスであることが分かります。
他方、大群衆の場合、彼らは大艱難から出てくると表現されています。
この表現から、大群衆は大艱難を生き残る諸国民の羊の知的なクラスと思います。

聖書のどこに144,000人があらゆる国民、国語、民から均等に取られると書いてあるのでしょうか。
あらゆる国民、国語、民から来るのは大群衆であって144,000人ではありません。(啓示7:9)

また、古代イスラエルにおいてナオスは、祭司だけが入ることのできる聖所でした。
大群衆が大艱難を生き残る諸国民だとすると、いつの時点で祭司の資格を得たのでしょうか。
むしろ、天に行く資格がある者だからこそ祭司としてナオスに立つことができるのではないでしょうか。

あと、本件とは関係がないことですが、新約聖書の写本には「エホバ」という名前は一回も出てきません。
啓示22:18には、「この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。」とありますので、ご注意ください。

#136 2013年01月10日 20:48:42

sk
メンバー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

こんばんは、

ゲンさん

返信ありがとうございます。


まず144,000人について


啓示 5:9-10
9 そして彼らは新しい歌を歌って言う,「あなたは巻き物を受け取ってその封印を開くにふさわしい方です。あなたはほふられ,自分の血をもって,あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人々を買い取ったからです。10 そして,彼らをわたしたちの神に対して王国また祭司とし,彼らは地に対し王として支配するのです」。

啓示 7:4
4 そしてわたしは,証印を押された者たちの数を聞いたが,それは十四万四千であり,イスラエルの子らのすべての部族の者たちが証印を押された。

啓示 14:1-5
1 またわたしが見ると,見よ,子羊がシオンの山に立っており,彼と共に,十四万四千人の者が,彼の名と彼の父の名をその額に書かれて[立っていた]。2 またわたしは,多くの水の音のような,そして大きな雷鳴のような音が天から出るのを聞いた。わたしが聞いた音は,自分で弾くたて琴に合わせて歌う歌い手たちの[声]のようであった。3 そして彼らは,み座の前および四つの生き物と長老たちの前で,新しい歌であるかのような[歌]を歌っている。地から買い取られた十四万四千人の者でなければ,だれもその歌を学び取ることができなかった。4 これらは女によって自分を汚さなかった者である。事実,彼らは童貞である。これらは,子羊の行くところにはどこへでも従って行く者たちである。これらは,神と子羊に対する初穂として人類の中から買い取られたのであり,5 その口に偽りは見いだされなかった。彼らはきずのない者たちである。

144,000人は地から買い取られました。
彼らは子羊の追随者と呼ばれています。
その表現はキリストの弟子たちのことであり、イエスは小さな群れに王国を与える約束しています。
またキリストはご自分の弟子たちを天に迎える約束もしています。
ですから、啓示 14:1-5 の144,000人は、啓示 5:9-10 の「あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人々を買い取った」と述べられている王なる祭司のことです。

またこの144,000人の王なる祭司は、啓示 7:4-8 によるとイスラエルの12部族から均等に取られています。
イスラエルの12部族は、全人類を象徴しています。(マタイ 19:28、コリント第一 6:2)

イスラエルの12部族が全人類の「世」をあらわすことについて、以下を参照してください。
http://www.jwstudy.com/jwbbs/viewtopic.php?pid=333#p333

以上の理由で、144,000人は贖われた全人類の世から取られます。


ゲンさんが以上のつながりをご存知かと思っていました。


次にナオスについて

それは、上記の用法でも出ているように至聖所のことです。
それの実体は天です。

この同じナオスが、アブラハムの胤に用いられています。
上の#134の投稿で用いた象徴的な神殿を表す聖句はすべてナオスが持ちられています。
それで、ナオスを神の神殿で表されているキリストに属するアブラハムの胤の王なる祭司と理解することができます。


大艱難生存者の大群衆は路頭に迷うままにはされません。
かれらは、直ちに王国の管理下に置かれ、アブラハムの胤が王なる祭司として彼らを導くことになります。

その様子がイザヤ 2:2-4、ミカ 4:1-4 に予言されています。

何と書かれていますか。

イザヤ 2:2-4
2 そして,末の日 (final part of the days) に,エホバの家の山はもろもろの山の頂より上に堅く据えられ,もろもろの丘より上に必ず高められ,すべての国の民は必ず流れのようにそこに向かう。3 そして多くの民は必ず行って,こう言う。「来なさい。エホバの山に,ヤコブの神の家に上ろう。[神]はご自分の道についてわたしたちに教え諭してくださる。わたしたちはその道筋を歩もう」。律法はシオンから,エホバの言葉はエルサレムから出るのである。4 そして,[神]は諸国民の中で必ず裁きを行ない,多くの民に関して事を正される。そして,彼らはその剣をすきの刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず,彼らはもはや戦いを学ばない。

final part of the days 時代の最終部分と訳せます。

ミカ 4:1-4
1 そして,末の日 (final part of the days) に,エホバの家の山はもろもろの山の頂より上に堅く据えられ,もろもろの丘より上に必ず高められる。もろもろの民は必ず流れのようにそこに向かう。2 そして,多くの国の民が必ず行って,こう言う。「来なさい。エホバの山に,ヤコブの神の家に上ろう。[神]はご自分の道についてわたしたちに教え諭してくださる。わたしたちはその道筋を歩もう」。律法はシオンから,エホバの言葉はエルサレムから出るのである。3 そして,[神]は多くの民の間で必ず裁きを行ない,遠く離れた強大な国々に関して事を正される。それで彼らはその剣をすきの刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず,彼らはもはや戦いを学ばない。4 そして彼らはまさに,各々自分のぶどうの木の下,自分のいちじくの木の下に座り,[これを]おののかせる者はだれもいない。万軍のエホバの口が[これを]語ったのである。

象徴的な神殿(ナオス)であるアブラハムの胤の王なる祭司によりエホバの崇拝が高められ、諸国民は、象徴的なナオスで神を崇拝するでしょう。

ナオスを文字どおり天と解釈した場合、大群衆は、天的クラスの実際の数となるでしょう。
わたしはむしろ他方を好みます。

ひとりひとり独特の理解や解釈があると思います。


次に、クリスチャンギリシャ語聖書中のエホバの名前について

明らかにものみの塔協会は、書かれている事を超えたことをしました。
クリスチャンギリシャ語聖書中に、神の名前は、啓示のハレルヤの中に短縮された形の「ヤー」があるだけです。

イエスや弟子たちが、エホバ、あるいはヤハウェーを用いていたかは個々の想像になります。
イエスは神を、天の父として紹介し教えました。
パウロは諸国民に良いたよりを伝える際、固有名詞ではなく「神」を用いています。

このことから何か学ぶべきことがあると思います。

ゲンさんは、この点で何か皆さんとシェアーできる思いをお持ちでしょうか。


YHWH神について、わたしはエホバ、又はヤハウェーを用いることに抵抗はありません。
しかし、イエスやパウロの宣教の仕方からも学びたいと思っています。
エホバの証人の兄弟姉妹たちは、エホバのお名前を普通以上に意識していると思います。
それで、彼らがわたしの記事を読む時、神にについてエホバのお名前を見るときいくらか安心されるだろうと思い時々記事にエホバを使用しています。

わたしは、JWの兄弟姉妹たちが自分で聖句を考えることを心から願っています。
そうすれば、ものみの塔協会の理解の欠点が明らかになるからです。


JWの皆さん、皆さんの意見も聞かせてください。

編集者 sk (2014年06月26日 18:17:08)

オフライン

#137 2013年01月10日 23:22:23

もんもん
メンバー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

skさん

聖書は、14万4000人のための書物ではないと思います。
たとえば、ヘブライ人への手紙で「天への召し」が天に復活する14万4000人を指しているとすれば、
ヘブライ人への手紙は、14万4000人に向かって書かれたことになります。

けれどもギリシャ語聖書の全体に流れる論調は、
イスラエルの血縁だけではなく、諸国民すべてに救いが開かれたというものです。

だから、使徒たちの活動や種々の手紙の中で、パウロは、クリスチャンを
ふたつのグループに区別して語ったりはしていません。
すべての国民、すべてのクリスチャンを対象とした手紙となっています。

パウロの主張はいつでも「イスラエル人だけではなくて、諸国民にも救いが開かれた」のだということだと思います。

よく統治体は「油注がれたクリスチャン会衆に向かって書かれた手紙」などといいますが、
そんなわけはなくて、当時の普通の会衆に向かって書かれたものです。

ですから、ある聖句は、このグループに、ある聖句はこのグループにという適用はできないと思います。
パウロが語っている対象が、突然変化して、またすぐに戻ってくるということは変だと思います。

カトリック協会の方やプロテスタント教会の方は「死ぬと天に行く」といいます。
浄土真宗の方は「死ねば極楽浄土に行く」といいます。
エホバの証人の統治体は「死ねば眠りにつき、一部は地上に復活し、一部は天に復活する」といいます。

そこで、わたしも、新しい観点を提供したいと思います。
「イエスも含めて、すべての人が地上で復活する」というものです。
神の王国はイエスとともに地上に到来し、イエスは地上で人を集めいれます。

霊的な体でよみがえり、天的な者のようになる (コリント第一 15:44, 48)
-> イエスが復活したときの体のように、穴が開いていても生きていられる、天的な不滅性を地上で身に着けます。

肉と血は王国を受継ぐことはできない (コリント第一 15:50)
-> アダムから受け継いだ罪のある体では、王国を受け継ぐことはできません。復活あるいは、体を変えられることが必要です。

雲のうちに取り去られて空中で主に合い、常に主と共にいる (テサロニケ第二 4:16-17)
-> 空中という言葉は天を意味してはいません。集められるときに、空中に浮かぶのかもしれません。

天にある相続財産 (ペテロ第一 1:3-4)
-> 天にある相続財産は、神の王国と共に地上に到来します。

天にある市民権 (フィリピ 3:20)
-> 天に市民権を持っているので、神の王国の到来のときに、神の王国に入ることができます。

上への召し、天への召し (フィリピ 3:14、ヘブライ 3:1)
-> 上という言葉は天を意味していないかもしれません。 「天への」ではなくて「天の」召しですね。
つまり、世の支配者からではなくて、神からの招待と考えるのはどうでしょうか。

聖書全体を読み通すときに、イエスは地上にもう一度来るつもりで
弟子たちは、イエスが地上に来ることを信じていたという観点で読むと、
非常にすっきりとして、ふたつのグループに分けて読む必要がなくなるんです。
ぜひお試しください。

オフライン

#138 2013年01月11日 00:08:33

sk
メンバー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

もんもんさん


返信ありがとうございます。


クリスチャンギリシャ語聖書はキリストに属するアブラハムの胤、「天にあるもの」をあつめるために書かれています。
諸国民が生来のイスラエルとひとつになってキリストに属するアブラハムの約束の胤になる取決めは神聖な奥義と言われています。
使徒たちの活動、ローマ書、ガラテア、エフェソス、などパウロの書簡、及びクリスチャンギリシャ語聖書はすべて天にあるものをあつめることに焦点を合わせて書かれています。

エフェソス 3:
4 その点を考えれば,あなた方はこれを読む際,キリストの神聖な奥義についてわたしの把握しているところを悟れるはずです。5ほかの世代において,この[奥義]は,今その聖なる使徒や預言者たちに霊によって啓示されているほどには,人の子らに知らされていませんでした。6 すなわちそれは,諸国の人々が良いたよりを通してキリスト・イエスと結ばれて,共同の相続人,同じ体の成員,わたしたちと共に約束にあずかる者となる,ということです。

わたしは、これが創世記 3:15 のサタンの頭を砕く女の胤、創世記 22:18 のすべての国民に祝福をもたらすアブラハムの胤に関わる妥当な理解だと確信しています。


そのようなわけで、もんもんさんの見解に同調はできませんが、もんもんさんの見解を了解いたしました。
どちらとも、ものみの塔の教えに束縛されずに自分の思いを聖句によって導いていますので引き続き神の霊の導きをそれぞれ求めて行けると思います。

ご自分の理解をシェアーしていただきありがとうございます。
また、聖句からの説明をよろしくお願いします。
異なる見解から学びたいと思っています。
楽しみにしています。

わたしも自分の理解をシェアーしてゆきたいと思います。

ありがとうございました。

編集者 sk (2014年06月26日 18:18:35)

オフライン

#139 2013年01月11日 10:15:49

ゲン
ゲストユーザー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

sk さんの発言:

啓示 5:9-10
9 そして彼らは新しい歌を歌って言う,「あなたは巻き物を受け取ってその封印を開くにふさわしい方です。あなたはほふられ,自分の血をもって,あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人々を買い取ったからです。10 そして,彼らをわたしたちの神に対して王国また祭司とし,彼らは地に対し王として支配するのです」。

そして彼らは新しい歌を歌って言う

この部分の「彼ら」は144,000人を指しています。

そして、その144,000人が歌っている歌の内容が、鉤括弧の部分です。

「あなたは巻き物を受け取ってその封印を開くにふさわしい方です。あなたはほふられ,自分の血をもって,あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人々を買い取ったからです。そして,彼らをわたしたちの神に対して王国また祭司とし,彼らは地に対し王として支配するのです」

つまり、144,000人が歌っているのは、あらゆる部族と国語と民と国民の中から来た大群集について歌っているのです。
もし、これが144,000人が、自分達のことを歌っているとしたら、「彼らは地に対し王として支配するのです」の部分が、「わたしたちは地に対し王として支配するのです」とならなければ文章としておかしいです。


sk さんの発言:

YHWH神について、わたしはエホバ、又はヤハウェーを用いることに抵抗はありません。
しかし、イエスやパウロの宣教の仕方からも学びたいと思っています。
エホバの証人の兄弟姉妹たちは、エホバのお名前を普通以上に意識していると思います。
それで、彼らがわたしの記事を読む時、神にについてエホバのお名前を見るときいくらか安心されるだろうと思い時々記事にエホバを使用しています。

「YHWH」は、古代イスラエルと神との契約における契約名だとする説が有力です。
キリストの贖いによって、古代イスラエルと神との契約は終了しました。
よって、「エホバ」「ヤハウェー」などの名前を用いることは、いまだに安息日を守っている人々と変わりません。
つまり、キリストの贖いに対する不敬です。
パウロはそのことを十分に理解していたからこそ、神を父と呼んでいたのではないでしょうか。

#140 2013年01月11日 15:22:20

iris
ゲストユーザー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

ray さんの発言:

もっとも重要な理由は、irisさんもおっしゃっておられるとおり、キリスト教が、キリストの贖いによって罪の許しを得るというシンプルな教理なのに、
jwはたくさんのタルムード的な聖書注解書、規則をつくり、それを守らなければ救われないという、まさにユダヤ教である、ということです。
私もそんな規則はとうてい守れませんから、常に否定ばかりされて、自尊心をもてないまま、貴重な時間を無駄にしてしまいました。

キリストによる罪の許し、そして神との正常な関係に戻れるという教えだけで、皆が自尊心を得、毎日十分に能力を発揮して幸福な生活をおくれるはずです。
しかし、そうしないで、jwが毎月ものみードを印刷し続けているのは、信者の自尊心を奪い、未来永劫服従させるためだと思います。
まさしくサタン的です!

ですから、そのような自尊心を打ち砕かれた人々を、ほうっておくのは忍びないです。
でもそのような人々は、とても繊細で、どうしてもネガティブです。彼らへのキリストの愛の伝え方がまだわかりません。

また、ユダヤ教ではキリストはユダヤ教の伝道師とみなされています。
つまりキリストがもっとはっきりユダヤ教を否定していれば、キリストの精神も分かりやすかったのですが、どうもユダヤ教とのごちゃまぜ感があります。
やはりどう理解したらいいの?と思ってしまいます。

rayさん、エホバの証人の方々へキリストの愛を伝えたいというお気持ちはとても素晴らしいと思います。
私も同じような気持ちでエホバの証人の方々に接したいと思っています。

キリスト教について、rayさんの「キリストの贖いによって罪の許しを得るというシンプルな教理」
「キリストによる罪の許し、そして神との正常な関係に戻れるという教えだけで、皆が自尊心を得、毎日十分に能力を発揮して幸福な生活をおくれるはず」
という理解は正しいと思います。rayさんがどのようにそれを信じるようになったかを語ることが、キリストの愛を伝えることになると思います。
教科書的な「正解」は人の心を動かしません。エホバの証人だったrayさんがキリストの愛を知った体験こそが、エホバの証人の兄弟姉妹の心を動かすと思います。


エホバの証人は、キリスト教は旧約聖書と新約聖書にもとづく教えであると考えているようですが、エホバの証人が理想とする原始キリスト教の時代には、
旧約聖書も新約聖書も存在しませんでした。原始キリスト教は、(旧約)聖書の権威を否定するものとして生まれたのですが、特にパウロがその思想を
(旧約)聖書の権威によって論証しようとしたために、現在の旧約聖書を聖典として持ち続けるという矛盾を抱え込むことになったのです。

1世紀のユダヤ教が聖典としての(旧約)聖書にもとづく教えであったのと同じように、キリスト教が聖典としての旧新約聖書にもとづく教えであると
考えられるようになったのは、ルターの宗教改革以後のことです。「聖書のみ」というプロテスタントの姿勢は、もともとは本来のキリスト教に戻ろうとして
生まれたはずだったのですが、結果としては聖書を都合のよいように解釈する自由を認めたことになってしまいました。
そのために、1世紀のユダヤ教が(旧約)聖書の律法にがんじがらめになっていたように、現在のキリスト教にも旧新約聖書を教派の都合のよいように
権威づけることによって本来の教えが二の次にされてしまう傾向が見られます。

さすがにものみの塔のように「新しい契約」の内容まで変えてしまってはキリスト教ではなくなってしまいますが、
キリスト教ではあっても(特に明文化されない姿勢が)キリスト教的でない教会は少なくないと思います。
エホバの証人研究さんが「エホバの証人はキリスト教である」と思い込んでおられるのも、キリスト教的でないキリスト教会とものみの塔との違いが
はっきりしないためかもしれませんね。

アメリカは自他ともに認めるキリスト教国のはずですが、実際にはキリスト教の理想からはかけ離れた国になっています。
アメリカの(主流派であるプロテスタントの)思想は、ユダヤ教の思想に近いと私は思います。ものみの塔がアメリカ生まれであるのもうなずけます。

#141 2013年01月11日 15:53:23

iris
ゲストユーザー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

念のために補足です。

iris さんの発言:

アメリカの(主流派であるプロテスタントの)思想は、ユダヤ教の思想に近いと私は思います。

この「主流派であるプロテスタント」とは、カトリック以外という意味ではありません。
プロテスタントの諸教派のうち、アメリカで主流である教派という意味です。

#142 2013年01月11日 17:39:59

sk
メンバー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

こんばんは、

ゲンさん


啓示 5:9-10 の歌は24人の長老たちによって歌われています。
その24人の長老たちの実体は置いといて、その歌で歌われている、地から買い取られて王なる祭司になるものの実体は、大群衆でしょうか、または144,000人でしょうか。

啓示 5:8-10
8 そして彼が巻き物を受け取った時,四つの生き物と二十四人の長老は子羊の前にひれ伏した。彼らは各々たて琴と,香を満たした黄金の鉢とを持っていた。その[香]は聖なる者たちの祈りを表わしている。9 そして彼らは新しい歌を歌って言う,「あなたは巻き物を受け取ってその封印を開くにふさわしい方です。あなたはほふられ,自分の血をもって,あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人々を買い取ったからです。10 そして,彼らをわたしたちの神に対して王国また祭司とし,彼らは地に対し王として支配するのです」。


144,000人について用いられている表現

「イスラエルの子らのすべての部族の者たちが証印を押された」(啓示 7:4)
「地から買い取られた十四万四千人の者」(啓示 14:3)

啓示 14:1-3
1 またわたしが見ると,見よ,子羊がシオンの山に立っており,彼と共に,十四万四千人の者が,彼の名と彼の父の名をその額に書かれて[立っていた]。2 またわたしは,多くの水の音のような,そして大きな雷鳴のような音が天から出るのを聞いた。わたしが聞いた音は,自分で弾くたて琴に合わせて歌う歌い手たちの[声]のようであった。3 そして彼らは,み座の前および四つの生き物と長老たちの前で,新しい歌であるかのような[歌]を歌っている。地から買い取られた十四万四千人の者でなければ,だれもその歌を学び取ることができなかった。

啓示の7章の24人の長老たちも、啓示14章の144,000人もそれぞれ歌を歌っていると述べられています。

「あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人々を買い取った」(啓示 5:9)
「地から買い取られた十四万四千人の者」(啓示 14:3)

これらの描写及び他の表現は、同一実体を表していると考えるのが自然と思います。


他方、大群衆の描写は異なっています。

大群衆について述べらている表現

「すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆」、「これは大患難から出て来る者たち」、「命の水の泉に彼らを導かれるからである。そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう」(啓示 7:9, 14, 17)です。

「来た」
「出て来る」

これは、「買い取られる」と対照をなしています。

「来る」と言う表現は取り去られることではありません。
それはその場における移動を連想させます。
それで大群衆は、大艱難をから出てくる、つまり通過して生き残ると見なすことはごく普通の自然な解釈と思います。
その理解には何も無理なこじつけはありません。

そしてそれは、聖書の他の真理ともよく調和しています。

箴言 2:21-22
21 廉直な者たちが地に住み,とがめのない者たちが[地]に残されるからである。22 邪悪な者たちは地から断ち滅ぼされ,不実な者たちは[地]から引き抜かれるのである。

啓示 21:3-4
3 それと共に,わたしはみ座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ! 神の天幕が人と共にあり,[神]は彼らと共に住み,彼らはその民となるであろう。そして神みずから彼らと共におられるであろう。4 また[神]は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」。

このように大群衆に関わる描写は地的な要素につながっています。


他方144,000人のアブラハムの胤の場合、彼らは「買い取られる」のであり、生き残るのではありません。
取られるという表現は、意図性、及び場所の移動を強く連想させます。
これらの小さな群れのアブラハムの胤はある目的のために地から天へ取られます。

この地から天への移動はイエスの予言の描写と調和しています。

マタイ 24:40-42
40 その時二人の男が野にいるでしょう。一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです。41 二人の女が手臼をひいているでしょう。一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです。42 それゆえ,ずっと見張っていなさい。あなた方は,自分たちの主がどの日に来るかを知らないからです。


レイモンド・フランズ兄弟やエド・ダンロップ兄弟は、大群衆がナオス(至聖所)と関連しているので、ひとつの可能性として大群衆は象徴的な144,000人の実際の数を意味していると見なせるとを書いています。

しかし、上記の理由でわたしはその見方に同調できません。
とはいえ、他の人の見方を了解いたします。



次にYHWHについて


YHWH が最初に現れる聖書の箇所は、

創世記 2:4
4 これは,天と地が創造されたとき,エホバ神が地と天を造られた日におけるその歴史である。

です。

ここで、YHWH は神として紹介されています。
契約とは何の関係もありません。

出エジプト 3:15
15 そののち神はもう一度モーセに言われた,
「あなたはイスラエルの子らにこう言うように。『あなた方の父祖の神,アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神エホバがわたしをあなた方のもとに遣わされた』。これは定めのない時に至るわたしの名,代々にわたるわたしの記念である。


YHWH は神の名前です。

それでこの方についてその名を用いることを禁じる理由はありません。
その正確な発音はヤーウェに近いといわれています。
またエホバ、イェホバなども近いと思われます。

英語の Jehovah の使用は、13世紀にイタリアのカトリックの修道僧レイモンド・マーチニ (Raymundo Martini) によるヨホア (Yohoua) の発音が、数世紀後にラテン語のYがドイツ語Jになり、Jehovah となりました。

英語の聖書に Jehovah が最初に現れたのは、1530年のウィリアム・ティンダル (William Tyndale) 訳の聖書です。
その時代の英語では、神の名前はIEHOUAHと綴られていました。ラテン語から英語へ、また英語自体の変化を経て、現在の英語発音 Jehovah に至っています。

西暦2世紀の初期クリスチャン作家アレキサンドリアのクレメント (Clement of Alexandria) はヤーウェ (Yahweh) を用いています。他の初期ギリシャ語写本もヤーウェ (Yahweh) を用いています。

http://www.yhwh.com/jehovah.htm

それで神の名前の正確な発音はヤーウェに近いと思います。

日本には古代イスラエルの10部族が渡来して、皇室または、古代政府の要人となった形跡があります。
天皇のことを「みかど」とよびます。それでガド族との繋がりがあると言われています。
また、古代の天皇のことを「すめらみこと」と呼びます。「すめら」とはサマリアの地を意味していると言われてます。
また、京都の祇園祭りなどにその痕跡を見ることができます。
また、日本語のカタカナはヘブライ語のアルファベットと酷似しています。
さらに、祭りの掛け声のような日本語として意味をなさない発音に神の名前の短縮形の「ヤー」が入っています。
また、日本人特有の慣行として山彦を楽しみます。その際の山に向かって発することばは、「ヤッホー」です。
このことばは日本語として意味をなしませんが、神の名前の短縮形が使われています。
そして、聖書中でエホバは山の神として認識されています。

日ユ同祖論参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5% … 6%E8%AB%96



西暦2世紀の初期クリスチャン作家が神の名前の発音を記録している事実は無視できないと思います。
それから推測して、イエスもイエスの弟子たちも神の名前を使用していたと結論付けることは突飛なことではないと思います。

以上の理由で、わたしは、神のお名前エホバ、またはヤーウェを用いることに何の抵抗もありません。
名前の発音以上に大切なことは、その名前が代表する神を知ることと、その方の特質や、目的をふさわしく日常の行いで代表していくとであることを認めます。

編集者 sk (2014年06月26日 18:20:00)

オフライン

#143 2013年01月11日 19:17:56

ゲン
ゲストユーザー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

skさん、返信ありがとうございます。

大群衆に関するskさんの解釈は理解しました。
しかし、ナオスに諸国民が立っているというのは、私には違和感があるので、skさんとは解釈を異にします。
いずれにしても、この件はこれで終了したいと思います。

次にYHWHについてですが、創世記を書いたのはモーセです。
当時、イスラエルは神との契約下にあったので、モーセがYHWHを用いて創世記を書いたとしても何ら不思議なことではありません。むしろ、YHWHが神のみ名であるというのであれば、なぜ新約聖書に1回も出てこないのか、そのほうが不思議です。

#144 2013年01月11日 19:58:57

ゲン
ゲストユーザー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

skさん、別の質問があるのですが、ものみの塔は、千年王国が終わるとキリストは王座を神に明け渡すと教えていますが、イザヤ9:6-7,啓示11:15,啓示22:5には、キリストが永遠の王であると書いてあります。これはどちらが正しいのでしょうか。

#145 2013年01月11日 21:38:47

もんもん
メンバー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

skさん

お返事ありがとうございます。わたしはここで議論はいったん終了したいと思います。
また機会があれば、書き込みます。

二つのグループに分けないで読むために
「14万4000人=完全に数のそろったクリスチャン=大群衆」
という説も考えてみました。

ではまた。

オフライン

#146 2013年01月11日 22:09:53

sk
メンバー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

ゲンさん

返信ありがとうございます。

ゲンさんの見方了解です。


YHWHについて

たとえ律法契約下のモーセが書いたとしても、これが「律法契約」という実体ではなく「神」という実体と結びついて記述が展開している以上普通に読む限りだれでもそれが神の名前であると認識します。

YHWHを契約名とするためには、おそらく多くの仮定や無理のある聖書の関連付けを要すると思います。このような解釈は、そのように教えられない限りだれにとっても思いも及ばないことです。それで、通常の理解の及ばない極めて非現実的な見方と思います。

またクリスチャンギリシャ語聖書の現存する写本の中にYHWHが無い点について、

まず、西暦1席に書かれた聖書の原典は存在していません。それで背教が顕在化した西暦2世紀以降の写本に頼らざる得ません。
それで、ものみの塔協会、その他の研究グループが主張するように、ギリシャ語聖書の筆者がヘブライ語聖書からの引用をする際YHWHをそのまま記載したかどうかを原本で確認することはできません。

現存する新約の聖書の写本(2世紀から15世紀)にはYHWHの記録はありません。

しかし、初期クリスチャン作家たちの記録にYHWHやその発音の記録を認めることができます。またさまざまな遺跡や発掘物にYHWHを確認できます。それらの発掘物はそれが神の名前であることを示しています。それが契約を表すことは立証できないでしょう。

それで、神の名前(固有名詞)が西暦1世紀当時、イエスや弟子たちにより用いられていたことを疑う理由はありません。


また毎年新約の写本が数冊発見されています。
最近の相当数の発見は2008年にありました。アラビアで47冊の新しい発見がありました。少なくともそのうちの17冊は西側の学者たちに未知のものです。

写本の比較研究において、40万の変異がそれら西暦2世紀から15世紀の写本にあると見られています。


原本と西暦2世紀以降の写本の間に何かあったのかどうかは、今のところ確定できません。
今後の写本の発掘や研究の結果を待つ必要があります。

おそらく今日エホバの証人が頻繁にエホバの名前を用いるほど、キリストの弟子たちを含む西暦1世紀のユダヤ人や周囲の民は固有名詞エホバを用いずに神を認識していたと思われます。

天地の創造者、命の源を人々は共通意識として固有名詞のエホバではなく代名詞の「神」ということばで認識できたでしょうしそれで十分だったと思われます。

ですから、イエスも使徒パウロもご自分の宣教の際に固有名詞のエホバに現代のエホバの証人のようなこだわりはなかったと思います。それで彼らの宣教は固有名詞のエホバではなく、ユダヤ人でもギリシャ人でも、だれでも共通に認識できる代名詞の「神」を用いたことを記録は示しています。


固有名詞エホバを広める理由はありませんでした


イエスの場合、固有名詞エホバを広める理由はありませんでした。
ユダヤ人はその名前を既に知っていたでしょう。
彼らに欠けていたのはその神との関係です。
それで、イエスは神を天の父としてユダヤ人を教えました。
またYHWH神の性質をご自分の活動により反映させました。

そのようにして、神の名を知らせました。これは、名前の発音を問題にしているのではなく、神の性質や見方、目的の宣明でした。そして人々は神との個人的な関係を求めるよう助けられ励まされました。それで、イエスは神を表現することばとして「天の父」ということばや概念を用いています。



使徒パウロの場合、やはり固有名詞エホバを広める理由はありませんでした。
エホバの証人が強調するような「宇宙主権の論争」など王国の良いたよりのテーマでは無いからです。パウロは異邦人にキリストの良いたよりを宣べ伝えました。その救いの音信で強調されるべき点は、「誰が神か」というテーマではありません。それで神の固有名詞エホバをことさら強調する必要はありません。むしろ異邦人を含め誰もが共通に意識できる「神」が救いを備えられたこと、その救いの主要な代理者がキリストであることがクリスチャンの音信の要点でした。
そのようなわけで、固有名詞エホバにこだわるような理由がありませんので、新約聖書に固有名詞エホバの記述が無いことを理解できます。

新約に「ハレルヤ」ヤハを賛美せよとの記録があります。
それは、契約を賛美せよとの呼びかには取れません。ヤハは神の固有名詞です。

また聖書全巻を通してYHWH神、ヤーウェの神、エホバ神は契約を表すことばであり得ません。
発音のできな、あるいは忘れた契約などあり得ません。
それは神の固有名詞です。
初期クリスチャン作家たちもYHWHを神の固有名詞として認めていました。
それが、自然な見方です。

YHWHを契約と解釈することは聖書中のそれと関わる多くの表現と矛盾します。


以上がわたしの見解です。

編集者 sk (2013年01月11日 22:16:58)

オフライン

#147 2013年01月12日 12:28:49

ゲン
ゲストユーザー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

sk さんの発言:

使徒パウロの場合、やはり固有名詞エホバを広める理由はありませんでした。
エホバの証人が強調するような「宇宙主権の論争」など王国の良いたよりのテーマでは無いからです。パウロは異邦人にキリストの良いたよりを宣べ伝えました。その救いの音信で強調されるべき点は、「誰が神か」というテーマではありません。それで神の固有名詞エホバをことさら強調する必要はありません。むしろ異邦人を含め誰もが共通に意識できる「神」が救いを備えられたこと、その救いの主要な代理者がキリストであることがクリスチャンの音信の要点でした。
そのようなわけで、固有名詞エホバにこだわるような理由がありませんので、新約聖書に固有名詞エホバの記述が無いことを理解できます。

つまり、現代の我々も、固有名詞エホバにこだわるような理由がないということになりますね。


sk さんの発言:

西暦1世紀に書かれた聖書の原典は存在していません。それで背教が顕在化した西暦2世紀以降の写本に頼らざる得ません。
それで、ものみの塔協会、その他の研究グループが主張するように、ギリシャ語聖書の筆者がヘブライ語聖書からの引用をする際YHWHをそのまま記載したかどうかを原本で確認することはできません。

sk さんの発言:

毎年新約の写本が数冊発見されています。
最近の相当数の発見は2008年にありました。アラビアで47冊の新しい発見がありました。少なくともそのうちの17冊は西側の学者たちに未知のものです。
写本の比較研究において、40万の変異がそれら西暦2世紀から15世紀の写本にあると見られています。

現在、我々が読んでいる聖書が原本と乖離している可能性があるとすれば、そもそも聖書を正しく理解することなどできないのではありませんか。

#148 2013年01月12日 21:56:06

ray
メンバー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

skさん

わたしもゲンさんと同じ疑問です。聖書そのものが、背教した者たちによって編纂された感じです。ある人たちはペテロの福音書やユダの福音書もあったと言っています。

どのように聖書の信頼性を見極めればいいのでしょうか?

また、聖書のまちまちな解釈を神が許しておられるのはなぜなのでしょうか?組織に頼らずに解釈しようとすれば、ますます単純明快である必要があるのに。

御意見をお願いします。

オフライン

#149 2013年01月12日 22:43:24

sk
メンバー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

こんばんは、

ゲンさん

返信ありがとうございます。

クリスチャン宣教におけるエホバ

そうですね、至高者のお名前ですので、わたしは愛着を持っていますが、エホバの名前はキリスト教の宣教において重要ではありませんね。聖書中にあるとおり宣べ伝える際、代名詞の「神」で十分ですね。それで十分意味が通じます。ものみの塔協会は神の名前エホバを絶対伝えないといけないとの印象をJWに与えていますね。振り返ってみればこれも滑稽に感じます。

いわゆる宇宙主権の論争はラザフォードによる創作で、ものみの塔協会の独自性を出すのに役に立った浅薄な教えですね。

日本人は、神道というユダヤ教の影響の強い信仰をすでに持っていますので信心深い人たちは「神」という代名詞で至高の存在を意識できるはずです。神がキリストを人類の命のために備えられたという音信で人々を命の主要な代理者であるキリストに導きたいと思います。

もちろん、至高者のお名前がヤーウェ、あるいはエホバであることを隠す必要もありませんので、その名前の扱いについてはそれにふさわしいものになると思います。エホバの証人のようにエホバ、エホバとはならないでしょう。


次に聖書の記録の信頼性の問題

わたしは、4万以上存在する聖書写本を直に調べたことはありません。
この点でそれを行っている聖書学者たちの評価を読んだり聞いたりして納得しています。

彼らの説明によると、
古代の歴史書のどの写本の数より、聖書写本数が桁違いに多い。
その写本の比較研究により各世代間の情報伝達ミスがほとんど無い。
つまり、本筋における崩れは無いといえます。
写本の比較研究により、三位一体論者による加筆が発見されて修正され内容の純度が高まっています。
また、考古学の発掘による聖書の記録の正しさが立証されており、今後もそれが期待されています。

以上の理由で、聖書写本研究家たちは、聖書は古代のどの歴史家の書物より内容の信憑性がはるかに確立されていると述べています。

原本から最初の写本までの期間が僅か50-75年で、写本の数、及びその正確さ、何世代にも渡り内容が崩れずに保存されいる点において聖書に匹敵する本はありません。それで多くの写本研究家は、聖書の原本の再生は可能である述べており、わたしもそれに同意します。

このように聖書学者たちの研究結果を調べる自分にできる調査は信仰を強める助けになっています。

わたしは、聖書学者の学術的調査に感謝しています。
それによって聖書の内容の純度が高まるからです。

それに加え、特に聖書そのものを読み通し、またテーマごとに何回も聖句を調べ考えたりして、その記録の内面の調和、真実の響きをを認めています。これがわたしの信仰の元となっています。

本当のシナイ山、出エジプトのルートの発見など考古学上の発見は、わたしの信仰を強めています。
http://www.jwstudy.com/jwbbs/viewtopic.php?pid=49#p49


「聖書写本の信頼性」で検索して、ご自分で調査なさってください。


以下は英語のビデオです。
https://www.youtube.com/watch?v=HRemWMIy2IY

内容の要約

古代書物と新約聖書の比較

原本から最初の写本までの期間         
プトレミー       750年
シーザー      1000年
プラトン        1200年
エレスタロス  1400年
ソクラテス     1400年
ユレペティス   1500年
新約聖書     50-75年

現存する写本の数
シーザー        10冊
プラトン            7冊
タキタス          20冊
ヘロドトス          8冊
小プレニー         7冊
ソクラテス      190冊
新約聖書  24,633冊

編集者 sk (2014年06月26日 18:20:38)

オフライン

#150 2013年01月13日 11:41:08

ゲン
ゲストユーザー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

skさん、返信ありがとうございます。

聖書の史実性の高さは、歴史家たちも認めるところです。
それにより、ものみの塔が主張する「607年のエルサレムの滅び」が、全くのデタラメであることが明らかにされました。

しかし、66冊すべてが正典なのかは誰にも証明できません。
実際、「テモテ第一」「テモテ第二」「テトスヘの手紙」は、パウロの名を騙った偽書であるとの説があります。
また、外典とされている書のなかにも、正典が存在する可能性も否定できません。

66冊の聖書を編纂したのは、皮肉にも「大いなるバビロン」であり、その内容を鵜呑みにすることはできません。

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