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#76 2013年01月04日 00:03:44

TT
ゲストユーザー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

もんもんさんへ

言われていることはわかります。
そして私なりに考えてこれまで出してきた結果なのですが、究極の所、神を理解したり近づくということは無理なのではないかということです。

所詮人間の観点から、神の善悪にケチをつけること自体が間違っていて、人間の理性で、もしくは特質の範囲で神を推し量ろうとすること自体が間違っているのだと考えるようになりました。

ただ、私は子供の頃は親から、そして今でも組織から神は愛情深い父親のような方で、聖句にあるように忠実な者たちが神に近づくことを願っていると教えられてきました。
確かにそう感じさせる神の取り計らいは、SKさんが挙げられているように数多くあります。 そのことに異議はありません。

しかし、神の取り扱いについて理解に苦しむこともあると思うのです。
組織は、とにかくわからないことがあるからといって神の取り扱いを疑問視してはいけないといいます。

とにかく信じてゆくしかないのでしょうか?
もんもんさんは     

聖書の記述があるから「エホバの裁き」についてや、「神の忠節な愛」というのが、
どういう愛なのかが理解できるんじゃないかと思います。

と言われますが、私は聖書の記述があるからエホバの裁きや忠節な愛がわからなくなる時があります。

#77 2013年01月04日 09:12:35

sk
メンバー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

皆さん、おはようございます。

jam さん、TTさん


お2人ともakameさんの至った結論に関心がおありのうようですね。

わたしも同じです。
akameさんが神をどう見ておられるのか、わたしの観点からは想像もつかず不思議に思っています。




TTさん

まず、子供の犠牲について述べさせてください。

TTさんも既に十分ご承知の話です。

サタンとアダムによる不従順による問題の解決として、神がその場で宣言された予言は、蛇は女の胤のかかとを砕くことを含んでいました。

創世記 3:15
15 そしてわたしは,お前と女との間,またお前の胤と女の胤との間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き,お前は彼のかかとを砕くであろう」。


このかかとを砕くことは、女の胤の死と復活を意味していました。
つまり、神のキリストは、死に、その後復活することが定められていました。

イエスはそのことを十分わきまえており、地上での宣教活動が終わる1年くらい前から明確にご自分の死と復活について弟子たちに語り始めました。


マルコ 8:27-38 (マタイ 16:13-28、ルカ 9:18-27)
27 イエスと弟子たちは次にカエサレア・フィリピの村々に向かわれた。そして,その途中で,[イエス]は弟子たちに質問しはじめ,「人々はわたしのことをだれだと言っていますか」と言われた。28 彼らは言った,「バプテストのヨハネ,ほかの者は,エリヤ,さらにほかの者は,預言者の一人,と」。29 すると[イエス]は彼らに質問された,「だが,あなた方は,わたしのことをだれであると言いますか」。ペテロが答えて言った,「あなたはキリストです」。30 すると[イエス]は,ご自分のことをだれにも告げないようにと彼らに厳重に言い渡された。31 また,人の子が必ず多くの苦しみに遭い,年長者・祭司長・書士たちに退けられて殺され,三日後によみがえることを,彼らに教え始められた。32 実際,[イエス]ははっきりとそのことを言っておられた。ところが,ペテロは彼をわきに連れて行って叱り始めた。33 [イエス]は向きを変え,弟子たちのほうを見ながらペテロを叱り,「わたしの後ろに下がれ,サタンよ。あなたは,神の考えではなく,人間の考えを抱いているからです」と言われた。

34 次いで[イエス]は群衆を弟子たちと一緒に自分のもとに呼んで,こう言われた。「わたしに付いて来たいと思うなら,その人は自分を捨て,自分の苦しみの杭を取り上げて,絶えずわたしのあとに従いなさい。35 だれでも自分の魂を救おうと思う者はそれを失うからです。しかし,だれでもわたしと良いたよりのために自分の魂を失う者はそれを救うのです。36 人が全世界をかち得ても,それによって自分の魂を失うなら,いったい何の益があるでしょうか。37 人は自分の魂と引き換えにいったい何を与えるのでしょうか。38 だれでも,この罪深い姦淫の世代にあってわたしとわたしの言葉を恥じるようになる者は,人の子も,聖なるみ使いたちと共に自分の父の栄光のうちに到来する時,その者を恥じるのです」。


キリストの役目がよく分かるこの弟子たちとのやり取りの中で、イエスは、ご自分の死と復活を語り始めています。
そして、同じように命を失う覚悟を弟子たちに励ましました。
それは、創世記 3:15 の女の胤が蛇(サタン)によりかかとを砕かれることの成就となりました。

また、このキリストの犠牲の死はイエスの同意なしには生じないことになっていました。

ヨハネ 10:17-18
17 このゆえに父はわたしを愛してくださいます。すなわち,わたしが自分の魂をなげうつからです。それは,わたしがそれを再び受けるようになるためです。18 だれもわたしからそれを取り去ったわけではなく,わたしはそれを自分からなげうつのです。わたしはそれをなげうつ権限があり,またそれを再び受ける権限があります。このことに関するおきてをわたしは自分の父から受けました」。

このようにキリストは死ぬ必要がないのに、別の表現では、死に値する罪がないのに、罪のない命を自らなげうつことになっていました。何のためでしょうか。アダムの罪を贖うためです。アダムの不従順による不利な判決を、ご自分の従順によって元に戻すためです。このようにキリストの従順により、倫理的、法的な要求が満たされアダムの子孫の救済が可能となりました。

このキリストの死は、憎しみやあざけりの試練の中での苦痛を伴う死でした。
それによってわたしたちの救いが可能となりました。「彼の打ち傷によってあなた方はいやされました」と言われているとおりです。(ペテロ第一 2:24)

それは、人類への神とキリストの関心の深さ、と愛の表れでした。

ヨハネ 15:12-13
12 わたしがあなた方を愛したとおりにあなた方が互いを愛すること,これがわたしのおきてです。13 友のために自分の魂をなげうつこと,これより大きな愛を持つ者はいません。


つまり、神とキリストは、わたしたちのために苦痛を伴う最大の犠牲を惜しまなかったということです。
なぜ神とキリストはそこまでしてわたしたちを助けたいのでしょうか。
それは、わたしたちの可能性を信じているからです。
アダムから不従順の傾向を受継いで生まれてはいますが、わたしたちひとりひとりは、キリストのようになる可能性を持っています。神はご自分の理知ある被造物の忠誠、従順に全幅の信頼をお持ちです。ですから、その可能性、というより確実性のために喜んで最大の犠牲を払われました。

このようにまず神がわたしたち罪人に信頼を示し自己犠牲の愛を表されました。

アブラハムとイサクの劇は、人類の救出のために神とキリストが行なうことの予型でした。

神がアブラハムにイサクを犠牲として要求されたときイサクは青年であり自らの意思を表明できる年齢でした。
それでこの親子が同意して行なおうとした事は彼らの信仰の表明でした。
アブラハムはどんな信仰を持っていたのでしょうか。

聖書は、彼が復活を信じていたことを示しています。
それは、神の約束とそれを実現する神の能力に対する信仰でした。

ヘブライ 11:17-19
17 信仰によって,アブラハムは,試された時,イサクをささげたも同然でした。約束を喜びのもとに受けた人が,[自分の]独り[子]をささげようとしたのです。18 しかも,「『あなたの胤』と呼ばれるものはイサクを通してであろう」と言われていたのです。19 しかし彼は,神は死人の中からでもこれをよみがえらせることができると考えました。そしてまた,ひとつの例えとして,確かに彼をそこから受けました。

もちろんイサクもアブラハムと同じように復活を信じていたでしょう。
この親子は、死と復活を確信してこの犠牲劇に臨んだことが分かります。
その同じ信仰がキリストを受け入れるすべての人に求められています。
なぜなら、創世記 3:15 の女の胤はかかとを砕かれることになっているからです。

それで、イエスは西暦32年のペンテコステの後、ご自分の身分(キリスト、アブラハムの主要な胤)と死と復活を語り始めた際、弟子たち(副次的な胤になる人々)に死を覚悟するように教えました。

それでキリストに信仰を働かせるすべての者にアブラハムのような信仰が期待されています。

ガラテア 3:7, 29
7 . . . 信仰を堅く守る者がアブラハムの子である . . .
29 さらに,キリストに属しているのであれば,あなた方はまさにアブラハムの胤であり,約束に関連した相続人です。


まとめ

神がアブラハムに独り子のイサクを犠牲として捧げるよう求めたとき、イサクは幼年期ではありませんでした。
彼は、責任能力のある青年でした。この親子は復活の信仰を共有していました。また人類の救出に関する創世記 3:15 の予言も知っていました。さらにアベルが血の犠牲の必要性を理解していたように、その意味を理解していたでしょう。愛ある親であるアブラハムにとって、また青年のイサクにとって神の要求は神への信仰の試みとなりました。彼らは、神が約束を果たすことができると十分確信しており、神の要求どおり行動しました。


それは、神への信頼、信仰の優れた表明であり、神はアブラハムの行為を是認して次のように述べています。

創世記 22:12
12 . . . わたしは今,あなたが自分の子,あなたのひとり子をさえわたしに与えることを差し控えなかったので,あなたが神を恐れる者であることをよく知った

「あなたの独り子をさえ差し控えなかった」と述べられています。
それは、神ご自身がキリストを人類のために差し控えないことを示す予型となりました。

あなたが、お子さんをお持ちであれば神がどれほどの思いをもってご自分の独り子の犠牲を備えたか良く分かるのではありませんか。

神の要求は不当なものでしょうか。人間の知性や感情にとって担えないほどのものですか。
神が自ら行なわないことを、理知ある被造物に要求することがありますか。
神はすべてのことにおいて私たちに模範を示していませんか。
他の者の益のために犠牲を惜しまない愛において最初に行動されたのは誰ですか。
神の像に造られている人間はその神の愛に見習うことは不可能でしょうか。
それは可能です。神はそのことをご存知でした。
それで、信仰を持つアブラハムにご自分が行なうことの予型となる犠牲の劇を求めました。
神の信頼のとおりにアブラハムは答え応じ、神の信頼は報われました。

わたしは、このすべてに神の側の不当性を見出すことができません。
神の私たちに対する信頼と愛は完全で、神は同種の信頼と愛をもって答え応じるよう私たちに求めておらると思います。そこに不当性、神の愛の純度への疑いの余地はありません。

ヨハネ第一 4:19
19 わたしたちは,彼がまずわたしたちを愛してくださったので愛するのです。

エフェソス 5:1-2
1 それゆえ,愛される子供として,神を見倣う者となりなさい。2 そして,キリストがあなた方を愛し,芳しい香りとなる神への捧げ物また犠牲としてご自身をあなた方のために引き渡されたように,あなた方も愛のうちに歩んでゆきなさい。

ご自分の理知ある子たちへの神の愛、全幅の信頼は、神へのわたしたちの愛と全幅の信頼によって答え応じられるでしょう。それが結合の完全な絆でありそれを破壊できる力はどこにも存在しません。


利己的で、自己中心的で、誇り高く、偽りの推論で自分を欺く者は自ら神から離れるでしょう。


詩篇 73:27-28
27 ご覧ください,あなたから離れている者たちは滅びうせます。
不道徳にもあなたから去って行く者を,あなたはみな必ず沈黙させられます。

28 しかしわたしについていえば,神に近づくことは良いことなのです。
主権者なる主エホバのもとに,わたしは自分の避難所を置きました。
あなたのすべてのみ業を告げ知らせるためです。

ヤコブ 4:8
8 神に近づきなさい。そうすれば,[神]はあなた方に近づいてくださいます。あなた方の手を清くしなさい,罪人たちよ。また,あなた方の心を浄めなさい,優柔不断の者たちよ。


それで、神の行動の理由を考える時、その正当性を理解するように試みるなら見習うべきすばらしい特質を学べるでしょう。その理解はあなたを神に引寄せるでしょう。そのようにして神との関係が深まりす。やがて、あなたは天の父が日常生活の中であなたのためにして下っている親切に敏感になるでしょう。聖書の救いの音信をはっきり理解するになるにつれ心の喜びが増し加わるでしょう。そのようにして愛、喜び、平和、親切、善良 . . .  といった神の霊の実をいつも示すようになるでしょう。


ダビデの姦淫の子の死について

神はダビデと王国契約を締結していました。
サタンはその契約を破綻させるため人間の不完全さ用いました。
それによって契約の一方の当事者は不適格者になりました。
ダビデは姦淫、殺人の罪を犯し死刑の処罰を自らに招きました。
サタンの企みと人間の不完全さにより生じた神の目的の成就を妨げる障害、神はどのようにこの状況を扱うでしょうか。

神はダビデの罪を姦淫の子の命で贖いました。
姦淫の子は正当に王権の継承はできません。
それでその子をとおしてダビデとの王国契約の履行はあり得ません。
姦淫の子の死はダビデにとっての処罰の始まりとなりました。
ダビデの人生は、彼の犯した罪のため、神の宣言どおり苦難に満ちました。
「人は自分のまくものを刈り取る」の原則はいつでも有効に働いています。
ダビデの人生は出エジプト 34:7 の真実さを物語っています。

出エジプト 34:7
7 愛ある親切を幾千[代]までも保ち,とがと違犯と罪とを赦す者。しかし,処罰を免れさせることは決してせず,父のとがに対する処罰を子や孫にもたらして,三代,四代に及ぼす」。


ダビデは姦淫、殺人を犯しましたがその命は贖われました。
このことは、神がどんな邪悪な行為を犯していても真の悔改めを受け入れる用意のあることを示しています。
ダビデの事件は、真の悔い改め、罪の許し、結果を刈り取ること、について多くのことを教える生きたサンプルといえます。

サタン、不完全な人間は、神の約束の成就を妨げるかのような状況を作り出します。
これまで神は、ご自分の僕、ご自分の民の罪、それによる失格をアダムの時以来ずっと扱ってこられました。
しかしそれは同時に、神の知恵、洞察、善良さ、愛、などの魅力的な特質の表れともなっており、私たちの心を強化してきました。

サタンと不完全な人間の罪のいずれもエホバ神の愛ある目的の成就を阻むことはできません。
最終的な結果は既に保証されており、すべては正され神が意図しておられる秩序が回復するでしょう。
アダムの失敗以来、他の人の罪により害を被った人は数え上げられません。
公正で愛ある神がそのすべてをご存知です。
神の定めたとき、それらの人々(胎児も含む)の人権の回復を目の当たりにするとき、わたしたちは、サタンの反逆と人間の不完全さを公正と愛で巧みに扱いご自分の愛ある約束をひとつ残らず成就された神を称えるでしょう。

ローマ 11:33-36
33 ああ,神の富と知恵と知識の深さよ。その裁きは何と探りがたく,その道は[何と]たどりがたいものなのでしょう。34 「だれがエホバの思いを知るようになり,だれがその助言者となったであろうか」,35 また,「だれがまず[神]に与えてその者に報いがされなければならないようにしただろうか」とあるのです。36 すべてのものは[神]から,また[神]により,そして[神]のためにあるからです。[神]に栄光が永久にありますように。アーメン。


ハイテク通信機器やサタンの「世」の実態については別トピックを立てます。


読んで頂きありがとうございました。
ご意見をお聞かせ下さい。

編集者 sk (2014年06月25日 18:38:29)

オフライン

#78 2013年01月04日 09:15:04

ゲン
ゲストユーザー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

ダビデが人口調査の罪を犯したとき、神は、み使いを遣わしてイスラエルに疫病をばらまき、無差別殺戮を実行します。
これにより、七万人もの人々の命が奪われます。
ダビデは、「民を数えよと命じたのはわたしではありませんか。罪を犯し、悪い事をしたのはわたしです。しかしこれらの羊は何をしましたか。」と神に尋ねますが、神は何も答えることはありませんでした。
その後、人口調査は解禁されました。一体何のための取り決めだったのでしょうか。理解に苦しみます。

#79 2013年01月04日 11:48:50

sk
メンバー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

ダビデの人口調査


神の目的の成就を阻むためのサタンの働きは、神の民の中に顕在です。


サムエル第二 24:1
1 ときに,再びエホバの怒りがイスラエルに向かって燃えた。ある者がダビデを駆り立てて彼らに向かわせ,「さあ,イスラエルとユダを数えなさい」と言ったときのことである。

ダビデを駆り立てたのは誰ですか。

歴代第一 21:1
1 それから,サタンがイスラエルに逆らって立ち上がり,ダビデを駆り立ててイスラエルを数えさせようとした。


神、サタン、神の僕たちの関係を理解する必要があります。
神は、私たちの心を試すサタンの要求を受け入れています。
つまり、サタンは神を信じると公言するすべての人を試すことができるということです。
それで、「エホバの証人の組織は神から保護されている」などの幻想により欺かれてはなりません。
どの組織もサタンの管理運営下にあります。
神は人の心をあらわにする触媒としてサタンの働きを許容しておられます。
また神はサタンの働きを懲らしめなどの目的で許容することもあります。

ルカ 22:31
31 「シモン,シモン,見よ,サタンは,あなた方を小麦のようにふるいにかけるため,あなた方を手に入れることを要求しました。

コリント第一 5:5
5 あなた方がそのような人を肉の滅びのためにサタンに引き渡し,こうして主の日に霊が救われるようにするためです。

コリント第二 12:7
7 . . . 高慢になることのないよう,わたしは肉体に一つのとげを与えられました。それはサタンの使いであって,わたしが高慢にならないよう,わたしに終始平手打ちを加えるためのものです。

テサロニケ第二 2:9-12
9 しかし,不法の者が存在するのはサタンの働きによるのであり,それはあらゆる強力な業と偽りのしるしと異兆を伴い,10 また,滅びゆく者たちに対するあらゆる不義の欺きを伴っています。 . . .
11 そのゆえに神は,誤りの働きを彼らのもとに至らせて,彼らが偽りを信じるようにするのであり,12 それは,彼らすべてが,真理を信じないで不義を喜びとしたことに対して裁きを受けるためです。


ダビデの罪

ダビデは律法の規定に従いませんでした。
また、彼の行為は彼の心の誇りを暴露しました。
彼は律法で規定されていた災厄を招きました。それは、彼だけのものではありませんでした。

出エジプト 30:12
12 「イスラエルの子らの人口調査のためあなたがその合計を調べる時には,その人口調査に当たって彼らは各々自分の魂のための贖いをエホバに納めねばならない。こうしてその人口調査のさい彼らに災厄が臨まないようにするのである。



神の違反の扱い方

ダビデの良心が機能し罪を意識し始めたとき、神は律法の規定どおり臨む災厄についてダビデに選択の機会を提供しました。ダビデは一番期間の短い3日間の疫病を選択しました。

さて、選択された災厄が開始されました。
その完了の途中で、神ご自身がご自分の規定を緩和なさり1日でその災厄を終了されたと思われます。
その災厄で7万人が命を失いました。
それは神が原因ではありませんでした。
それは、サタンから始まり、ダビデの誇りによりもたらされたものです。
サタンの策略とダビデの罪により神はご自分の司法上の決定の実行を余儀なくされました。
それは、神にとっても心の痛むことでした。


サムエル第二 24:10
10 ところで,ダビデがこのように民を数えた後,その心は彼を打ちはじめた。そこでダビデはエホバに言った,「私は自分のしたことで,大いに罪をおかしました。それで今,エホバよ,どうか,この僕のとがを見逃してください。私は本当に愚かなことを致しましたので」。11 ダビデが朝起きたところ,エホバの言葉がダビデの幻を見る人,預言者ガドに臨んで言った,12 「行って,あなたはダビデに言いなさい,『エホバはこのように言われた。「三つの事をわたしはあなたに負わせる。そのうち一つを自分のために選べ。わたしがそれをあなたにするためである」』」。13 そこでガドはダビデのもとに来て,彼に告げて言った,「あなたの土地で七年間の飢きんがあなたに臨むのがよいか,あなたが敵対者の前から三か月間逃げ,彼らがあなたを追跡するのが[よいか],あるいはあなたの土地で三日間疫病が起きるのが[よいか]。今,わたしを遣わした方に何と返答するかをよく考え,わきまえなさい」。14 それでダビデはガドに言った,「それはわたしには非常に苦しいことです。どうか,エホバのみ手に陥らせてください。その憐れみは多いからです。しかし,人の手にはわたしを陥らせないでください」。

15 すると,エホバはその朝から,定められた時までイスラエルに疫病を下されたので,ダンからベエル・シェバに至るまで民のうち七万人が死んだ。16 そして,み使いはその手をエルサレムに向けて突き出して,これを滅びに陥れようとしたが,エホバはその災いのことで悔やみはじめられた。それで,民の中で滅びをもたらしているみ使いにこう言われた。「それで十分だ! さあ,あなたの手を下ろせ」。ときに,エホバのみ使いは,エブス人アラウナの脱穀場のすぐそばにいた。

17 次いでダビデは,民を討ち倒しているみ使いを見たとき,エホバに言った。すなわち,こう言った。「ご覧ください,私が罪をおかしたのです。私が不当なことをしたのです。ですが,これらの羊は—何をしたのでしょう。どうか,あなたのみ手を私と私の父の家に臨ませてください」。


神はダビデの質問にお答えになりませんでした。
ダビデは自分の罪が招いた災厄が自分に及ばず他に及んだことで心を痛めました。
神はダビデの良心がそのように反応することを望まれたに違いありません。

あなたは、この実例からなにを学びますか。

人が犯す罪は他人を巻き込むことではありませんか。
それで罪、神の基準からの逸脱は有害です。
ダビデの例やアカンなどの聖書中の記録は、罪が、関係のない無実の人を巻き込むことを思い起こさせ罪の誘惑に抵抗する力となるでしょう。

またダビデの人生は、神に油注がれた者でさえ多くの罪を犯し悲惨な結果に苦しむことを教えます。
ダビデはキラリと光る信仰を持っていました。
しかし、姦淫、殺人、その他の律法の要求違反を犯しました。
これが不完全な人間の姿であり、聖書の記録は神が不完全さを考慮に入れて下さること、酌量すること、それに合わせてご自分の基準を調整なさることなどを教えています。

全体から見ると神はすべての罪を許すつもりです。
またすべての被った害を何倍にもして償うつもりです。
ですから、神はご自分の独り子の犠牲を喜んで備えられました。

ダビデ、その他不完全な人間の神の扱い方につまずかない人は幸いです。


神の基準

申命記 32:4
4 岩なる方,そのみ業は完全,
そのすべての道は公正である。
忠実の神,不正なところは少しもない。
義であり,廉直であられる。

ヨブ記 34:12
12 しかも,実際,神は,邪悪なことを行なわれない。
全能者は裁きを曲げられない。

詩篇 18:30
30 [まことの]神については,その道は完全であり,
エホバのことばは精錬されたものである。
ご自分のもとに避難するすべての者にとって,[神]は盾である。

哀歌 3:22
22 わたしたちが終わりに至らなかったのは,エホバの愛ある親切の行為です。その憐れみは決して終わりに至ることがないからです。


神の考えは人間の考えではありません。
神の公正の基準は不動でありその要求は必ず満たされます。
人はまくものを必ず刈り取ることになります。
また、神は苦しみや痛みの先にある良いもののために必要な処置を決して控えません。


マタイ 16:21-23
21 その時以後,イエス・キリストは,ご自分がエルサレムに行って年長者・祭司長・書士たちから多くの苦しみを受け,かつ殺され,三日目によみがえらされねばならないことを弟子たちに示し始められた。22 すると,ペテロは彼をわきに連れて行き,「主よ,ご自分を大切になさってください。あなたは決してそのような[運命]にはならないでしょう」と言って叱り始めた。23 しかし,[イエス]はペテロに背を向けて言われた,「わたしの後ろに下がれ,サタンよ! あなたはわたしをつまずかせるものです。あなたは,神の考えではなく,人間の考えを抱いているからです」。

イザヤ 55:8-11
8 「あなた方の考えはわたしの考えではなく,わたしの道はあなた方の道ではないからである」と,エホバはお告げになる。9 「天が地より高いように,わたしの道はあなたの道より高く,わたしの考えはあなたの考えより[高い]からである。10 降り注ぐ雨,また雪は,天から下り,実際に地にしみ込み,ものを生じさせ,芽を出させ,そして,種が種をまく者に,パンがそれを食べる者に実際に与えられなければ,その場所に帰らない。11 わたしの口から出て行くわたしの言葉も,それと全く同じようになる。それは成果を収めずにわたしのもとに帰って来ることはない。それは必ずわたしの喜びとしたことを行ない,わたしがそれを送り出したことに関して確かな成功を収める


神がご自分の愛ある目的の成就に向けて行なう業の「ひとコマ」につまずかない人は幸いです。


読んで頂きありがとうございました。

編集者 sk (2013年01月04日 16:17:26)

オフライン

#80 2013年01月04日 12:51:58

ゲン
ゲストユーザー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

skさん、回答ありがとうございます。

ダビデは神に任命された王です。その王でさえサタンに屈してしまうということになると、我々凡人がサタンに勝利することなどそもそも無理があるのではないでしょうか。
それに、サタンは元々が地位の高いみ使いであり、知性も力も人間の比ではないことを考慮すると、このような試み自体が不合理に感じます。

#81 2013年01月04日 13:18:16

TT
ゲストユーザー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

SKさんへ

詳しい解説ありがとうございました。

頭では解っていたこととはいえ、改めて文章にしていただくと考えさせられました。
個人研究が足りないと突っ込まれても仕方ないところです。

違う話になりますが、みなさんに質問させてください。
エホバの証人の組織が行っていることで、聖書にそっておこなっている際立って良い面はありますか?エホバの証人のこういうところは素晴らしいというところはありますか?
例えば、王国の良いたよりを世界中で熱心に宣べ伝えるように、という命令に従っているかなどについてどうでしょうか?
兄弟愛を実践しているか?という面などについてはどうでしょうか。

私としては、輸血拒否、各種の予言の理解の変更、忠実で思慮深い奴隷の理解、排斥措置の厳しさ、などについては組織の考えに同調していません。
ただ、それらの理由だけで組織自体を全面否定もできない気持ちもあるのです。

それでもしよければ、みなさんの、エホバの証人のこういうところはいいと思っているよ! ということがありましたら教えてください。

#82 2013年01月04日 16:13:23

sk
メンバー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

ゲンさん

返信ありがとうございます。

不完全な人間は神の霊をうけたとしてもみな無価値な存在です。
すべて同じレベルです。
だれも特別視する必要はありません。

ローマ 3:12
2 すべて[の人]が[道から]それ,みな共に価値のない者となった。親切を行なう者はいない,一人すらいない」。

使徒 14:15
15 . . . わたしたちも,あなた方と同じ弱さを持つ人間です。

ガラテア 2:6
6 . . . 相当な人と思えた人たちとしては—それが以前どのような人たちであったかは,わたしにとって少しも相違を来たしません—神は人の外見にしたがって事を行なったりはされません


もちろんこれは人を見下したり、敬意を示さないという意味ではありません。
クリスチャンは、他の人を自分の上におき、他の人の必要に関心を払うように教えられています。

神の霊の賜物があったとしても、それにより人の不完全さが無くなるのではありません。
神は、霊の賜物により達成されることより、むしろ人の心からの表現を重視しておられます。
それがその人の独自性であり、神はそれに関心があります。

コリント第一 14:14-15
14 というのは,わたしが異言で祈っている場合,祈っているのはわたしの霊[の賜物]であって,わたしの思いは実を結んでいないからです。15 では,どうすべきでしょうか。わたしは霊[の賜物]をもって祈りますが,同時に[自分の]思いをもって祈ります。わたしは霊[の賜物]をもって賛美を歌いますが,同時に[自分の]思いをもって賛美を歌うのです。

神の霊による任命、賜物は、それを受ける人を受継いだ罪から解放することはありません。
自らの不従順(罪)は自らの意思で神の霊の助けを求めて制御すべきものです。
それと神の霊による任命や賜物は無関係です。

それで神の民は、任命を受けていても受けていなくても、霊の賜物を持っていてもいなくても、神の前に同じ罪人です。それぞれの立場で自分の罪が他に及ぼす影響の大きさを認識すべきです。

ルカ 12:48
48 . . . 実際,だれでも多く与えられた者,その者には多くのことが要求されます。そして,人々が多くをゆだねた者,その者に人々は普通以上を要求するのです。

ヤコブ 3:1
1 わたしの兄弟たち,あなた方の多くが教える者となるべきではありません。わたしたちがより重い裁きを受けることをあなた方は知っているからです。


ダビデの人生の記録を読むなら、ダビデは神の救いの力に対する模範的な信仰を示したとはいえ、姦淫、陰謀、殺人、自分の娘(タマル)のレイプの処理、息子たちの闘争、契約の箱の運搬の際の違反、人口調査による処罰、その他いろいろな問題を抱えたことが分かります。それでこの人を特別視する理由はありません。

贖われたアダムの子孫の一人と見なせるでしょう。
もちろんダビデは復活してウリヤとの間で神の道にしたがって問題を正す必要があります。
いずれにしても、ダビデを含めすべてのアダムの子らは自分のまいたものを刈りとらさせられます。

感謝にあふれる謙遜な人にとって罪の償いやそれに伴う調整は受け入れがたいものではないでしょう。
彼らは喜んで謝り、償いをし、平和を回復するでしょう。
神の道を学ぶものにとってその変化は難しいものではありません。



サタンとの戦い

この戦いはもう終わりました。
西暦 33年にサタンは、約束の胤のかかとを砕きました。
その時点で約束の胤は世を征服しました。
その後サタンは自分の頭を砕かれるときを待つのみとなりました。
その時が来るまで、サタンはキリストの追随者である約束の胤の副次的な成員を攻撃の的にします。

私たちの忠誠、神への従順を砕くためにサタンは何でもするでしょう。
彼は自分の世を用いそれを行ないます。
西暦1世紀にローマ皇帝による火のような迫害がありました。
西暦2世紀に予告されていた背教が顕在化しました。
西暦4世紀驚くべきことにキリスト教がローマの国教となりました。

真のクリスチャンの小麦級は、厚い雑草の偽クリスチャンのキリスト教会の影に覆われてその姿が見えなくなりました。
それから、中世の宗教改革にいたるまで、ラテン語聖書がローマカトリック教会により管理され一般の人々はそれを読むことはできず、教会の司祭により人々の生活は支配されました。やがてマルティン・ルターやウィリアム・ティンダルなどの宗教改革によりその状況が改善されれ一般の人々が聖書によって導かれる環境が出現しました。しかしサタンの働きはつづきキリスト教を名乗る多くの宗派の組織(ものみの塔協会を含む)があたかも真のクリスチャンであるかのように見なされる社会が作られました。これらのすべては小麦級を排除するサタンの働きであり、アブラハムの副次的な胤が聖書の真理により導かれないようにする仕組みです。

しかし、神の霊とキリストの監督や導きはそれに勝り強力であり、現在、世界中で聖書のことばに導かれるアブラハムの胤が組織宗教の大いなるバビロンを離れ連携して増加しています。


聖句による裏づけ

ヨハネ 16:33
33 あなた方がわたしによって平安を得るために,わたしはこれらのことを言いました。世にあってあなた方には患難がありますが,勇気を出しなさい! わたしは世を征服したのです」。

ルカ 10:18
18 すると[イエス]は彼らに言われた,「わたしには,サタンがすでに稲妻のように天から落ちたのが見えるようになりました。

啓示 12:17
17 それで龍は女に向かって憤り,彼女の胤のうちの残っている者たち,すなわち,神のおきてを守り行ない,イエスについての証しの業を持つ者たちと戦うために出て行った。


マタイ 13:24-30, 37-39
24 [イエス]は彼らに別の例えを示してこう言われた。「天の王国は,自分の畑にりっぱな種をまいた人のようになりました。25 人々が眠っている間に,その人の敵がやって来て,小麦の間に雑草をまき足して去りました。26 葉が生え出て実を生み出すと,その際に雑草も現われました。27 それで,その家あるじの奴隷たちがやって来て言いました,『ご主人様,畑にはりっぱな種をおまきになったのではありませんでしたか。それなのに,どうしてそこに雑草が生えてくるのでしょうか』。28 彼は言いました,『敵である人がそれをしたのだ』。彼らは言いました,『では,わたしどもが行ってそれを集めることをお望みですか』。29 彼は言いました,『いや。雑草を集めるさい,小麦も一緒に根こぎにすることがあってはいけない。30 収穫まで両方とも一緒に成長させておきなさい。収穫の季節になったら,わたしは刈り取る者たちに,まず雑草を集め,焼いてしまうためにそれを縛って束にし,それから,小麦をわたしの倉に集めることに掛かりなさい,と言おう』」。

37 [イエス]は応じて言われた,「りっぱな種をまく者は人の子です。38 畑は世界です。りっぱな種,それは王国の子たちです。それに対し,雑草は邪悪な者の子たちであり,39 それをまいた敵は悪魔です。収穫は事物の体制の終結であり,刈り取る者はみ使いたちです。


サタンの欺き、誘惑、脅し、迫害がありますが、恐れる必要はありません。
神は私たちを助けると約束しています。 
神に近づいてください。
神との親密な関係の内に保護を求めてください。

ヤコブ 4:7-8
7 したがって,神に服しなさい。しかし,悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば,彼はあなたから逃げ去ります。8 神に近づきなさい。そうすれば,[神]はあなた方に近づいてくださいます。あなた方の手を清くしなさい,罪人たちよ。また,あなた方の心を浄めなさい,優柔不断の者たちよ。

歴代第二 15:2
2 そこで,彼はアサの前に出て行って,こう言った,「アサおよび,ユダとベニヤミンのすべて[の人々]よ,わたし[の言うこと]を聞きなさい! あなた方がエホバと共にいる限り,[神]はあなた方と共におられます。もしあなた方が[神]を求めるなら,[神]はあなた方に見いだされるようにされますが,もしあなた方が[神]を捨てるなら,[神]もあなた方を捨てられるでしょう。

歴代第一 28:9
9 「それで,我が子ソロモンよ,あなたはあなたの父の神を知り,全き心と喜ばしい魂とをもって[神]に仕えるように。すべての心をエホバは探り,すべての考えの傾向をわきまえておられるからである。もしあなたが[神]を求めるなら,ご自分をあなたに見いだされるようにされるが,もしあなたが[神]を捨てるなら,あなたを永久に捨て去られるであろう。

詩篇 91:1-16
1 至高者の秘められた所に住む者は,
自ら全能者の陰に宿り場を得ることになる。

2 わたしはエホバに申し上げよう,「[あなたは]わたしの避難所,わたしのとりで,
わたしの依り頼むわたしの神です」と。

3 それは,[神]ご自身が,鳥を捕らえる者のわなから,
逆境を生じさせる疫病から,あなたを救い出されるからだ。

4 [神]はあなたに近づくものをその羽翼で阻み,
あなたは[神]の翼の下に避難する。
[神]の真実は大盾,また,堡塁となる。

5 あなたは夜の怖るべきものも,
昼に飛んで来る矢も恐れない。

6 また,暗闇を歩む疫病も,
真昼に奪略を行なう滅びをも。

7 千人がまさしくあなたの傍らに倒れ,
万人があなたの右手に[倒れる]。
あなたにそれが近づくことはない。

8 あなたはただ自分の目で見つめ,
邪悪な者たちの応報を見る。

9 それはあなたが,「エホバはわたしの避難所です」と[言った]からである。
あなたは至高者ご自身を自分の住まいとした。

10 どんな災いもあなたに降り懸かることなく,
災厄もあなたの天幕に近寄ることはない。

11 [神]はあなたに関してご自分の使いたちに命令を出されるからである。
あなたをそのすべての道において守るようにと。

12 彼らは手であなたを支えて運び,
あなたが石に足を打ちつけることのないようにする。

13 あなたは若いライオンとコブラを踏みつけ,
たてがみのある若いライオンと大きなへびを踏みにじる。

14 彼がわたしに愛情を傾けたので,
わたしも彼を逃れさせる。
彼がわたしの名を知るようになったので,わたしは彼を保護する。

15 彼はわたしを呼び求め,わたしは彼に答える。
わたしは苦難のときに彼と共にいるであろう。
わたしは彼を助け出し,彼に栄光を授ける。

16 わたしは長い日々をもって彼を満ち足らせ,
わたしによる救いを彼に見させるであろう。


皆さんが、ものみの塔協会の欺きの教えや人間の哲学を離れ、神のことばに導かれますように。


読んで頂きありがとうございました。

編集者 sk (2013年01月05日 21:55:13)

オフライン

#83 2013年01月04日 17:12:31

akame
ゲストユーザー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

jamさんへ

(余談です)

人はかなり限定された存在です。

視覚さえ「本当の状態」を捉えていないことも以外に多いことをjamさんもご存知だと思います。
それでも人は森羅万象の真実を希求します。様々な不安や恐れからの解放を求めています。

しかしすべてのことの確認はできませんからどうしても見切り発車を余儀なくされています。

ましてや聖書や神の探求となるとそれはかなりの見切り発車となります。

とりわけ宗教分野は様々な大前提、既存概念で成り立っており

しかも分析や検証は非常に難しいのです。


(進化論はさておき)


神は唯一だろうか?それとも多神だろうか?

なぜ、それが分かるのか?

神はご自身の意志を必ず言語的メッセージとして人に与えるのだろうか?

なぜ、それが分かるのか?



聖書は多くの事実や真実が書かれていると思っていますが

本当に根幹となる部分の説明は十分とはいえません。

たとえば、天使がサタンになった理由にしても、

「自由意志の御用だ」「ねたみだ」といっても元からあった悪が引き出された可能性を

論理的に否定している解釈を読んだことがありません。


自由意志を行使すると悪いことをする可能性がある時点でその存在は不完全ではないのでしょうか?


自由意志を行使しても善いことしか行えない存在が完全なのではないのでしょうか?

そうした完全さを目標にした思想さえあります。


「試す状況になったが反抗した」ならそれは失敗作(完全なものを創れなかった証拠)

ではないのでしょうか?


しかしこれも私の考えにすぎません。


でもこうした『疑いを持つこと自体』が本当に悪いのでしょうか?


人には聖書の真偽なども究極的には分からないと思います。

「信仰」ですから判る範囲で信じることは構わないと思いますが

黒か白か判ったと断定することを私はしたくありません。


なぜなら、断定できる人ほど基本的に危ういものを持っていると

これまでの人生で感じています。


知れば知るほど迷う、既成概念が変わり続ける、知らなかった

ことが益々増える、

とりわけ人の感情の広さや深さを知れば知るほど特定の基準で裁けない。
一派一からげにできない個々の実に奥深い命に気付かされます。

その謙虚さを持たないことが

神の名の下での戦争への発展を歴史は示しています。

「絶対真実だ、正義だ」というスローガンでこれまでどれほどの血が流されてきたでしょう。

実際の血でなくとも精神的な殺人をどれほど犯す危険がそこにあることでしょう。

最後は「信じられないお前は死ね」です。



まわりの空気で「納得したふり」もしたりします。

やがて人として当たり前の感情や反発心でさえ自分で押し殺してしまう、

いえ、感じないようになります。疑問さえもたなくなります。


正典という虎の衣を借りての妙な自信家になったりします。

「人は信念の奴隷」になる可能性が高くその人の環境によっては

「他者から心をコントロールされることを求めている」

人さえいるかのように思える場合もあります。

私もそうなる可能性がありそれを忘れるかもしれません。


信じない自由、それもある意味尊いこと。

そうしたことをわきまえた投稿をしたいと思っています。



失礼します。

#84 2013年01月04日 21:12:13

TT
ゲストユーザー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

今週は巡回訪問なので、先程まで長老と僕の集まりに参加していました。

話の一部で、長老と僕は統治体と支部事務所の指導に忠節であることによって一致を保つよう話されました。
組織に忠節でなければ、神からの聖霊は閉ざされ会衆は混乱するということでした。

ところで関係ない話ですが、あるエホバの証人が排斥、あるいは断絶した場合、数年前までは会衆に発表する際、〇〇さんは排斥されましたとか 断絶しましたとか発表されていたかと思いますが、最近では〇〇さんはエホバの証人ではなくなられました、というふうに発表の仕方が変わったと思います。

その辺の事情をご存知の方がおられましたら教えてください。

#85 2013年01月04日 21:47:26

jam
ゲストユーザー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

TTさん、お疲れ様です。

その件に関しては、あちこちで見かけましたが、こちらのURLは参考になるでしょうか?yahoo知恵袋です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa … 1175709881

排斥 人権裁判 エホバの証人で 探してみました。

#86 2013年01月04日 21:59:28

カレブ
Administrator

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

TTさん
書き込みありがとうございます。

>あるエホバの証人が排斥、あるいは断絶した場合、数年前までは会衆に発表する際、〇〇さんは排斥されましたとか
>断絶しましたとか発表されていたかと思いますが、最近では〇〇さんはエホバの証人ではなくなられました、
>というふうに発表の仕方が変わったと思います。

上記の点、わたしの知っている範囲でお答えします。(細かな点は正確ではないかもしれません)

以前から「中立の問題」で違反した人に対しては断絶として扱うという方針を打ち出されていました。
これにより排斥ではなく断絶という表現を使うことにより戒律を守らせることを強要するカルトという
イメージを少しでもなくすためです。

そして、ブルガリアでの宗教法人認可を得るころに、
協会は「輸血を行ってた人がいても宗教上の制裁は加えない」と述べて宗教としての認可をえました。
これは実質上の嘘なのですが、彼らには言い訳の戦略がありました。
つまり、輸血を自発的に行った人は自ら断絶したのだ、我々が制裁を加えたのではないという
言いわけです。

実質上は聴聞を行い宗教裁判により制裁を加えているのですが、会衆には
その人は「断絶した」と語ります。
この点は2010年版の長老マニュアルには明確に記載されています。

現在、排斥なのか断絶なのかわからないような発表をしているのには
上記のような経緯があります。

オフライン

#87 2013年01月04日 22:27:05

もんもん
メンバー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

>実質上は聴聞を行い宗教裁判により制裁を加えているのですが、会衆には
>その人は「断絶した」と語ります。
>この点は2010年版の長老マニュアルには明確に記載されています。

なんという二枚舌なんでしょうか。とほほ。

オフライン

#88 2013年01月04日 22:39:05

TT
ゲストユーザー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

みなさん、ありがとうございます。

ヤフー知恵袋にもいろいろな疑問や考察があがっているのですねー
知らなかった、、、

長老マニュアル、以前は父も持っていましたが、今は降りているので持っていません。
しかし、いろいろ興味深いことが書かれていそうですね。
僕の立場では知らされていないことがまだまだあります。

#89 2013年01月05日 10:39:16

jam
ゲストユーザー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

akameさんへ

メッセージありがとうございます。
いろいろ考えていて、遅くなりました。

akameさんへ

ありがとうございます。

>自由意志を行使すると悪いことをする可能性がある時点でその存在は不完全ではないのでしょうか?

>自由意志を行使しても善いことしか行えない存在が完全なのではないのでしょうか?

>「試す状況になったが反抗した」ならそれは失敗作(完全なものを創れなかった証拠)

>ではないのでしょうか?

子供が中学生の頃、こういう質問をよくされました。わたしも、答えがみつからず、ただただ、理解が得られるよう祈るしかありませんでした。
結局子供は離れてしまったのですが、今は「お母さんがいつもよく考えるように育ててくれたからだよ」っていわれています。

JWの教理を学んで魅力的だったのは、何の罪もない(この場合、不完全さの罪とかはおいといて)
子供たちや本当に善良な人たちが苦しめられていることに対して、最終的には希望があるということでした。

最終的には、JWの教えだと、そういう真に助けを必要とする人の援助は人に任せて
信者は組織拡大だけを考えなさいというものでした。

確かに神に委ねてしまえば、何も考えずに現実から目をそられ、時間の奉仕さえしていれば
コミュニティーからの是認が得られて、とりあえず安心して生きていけます。

結局、私も何もしてこなかったし、今も希望がなくなったと嘆くばかりで、慎みのない妄想と、自己憐憫に浸っているだけです。


いろいろな考えを知りたいと思っています。

だから今はJW以外の情報がほしいのです。私は、もういやというほど協会の出版物と集会と資料とを調べました。
ある人からは、足りないだろうといわれるかもしれませんが。

でも、それならば多くの知識を有している人が偉いのですか?あきらかに、理解力の乏しい人がいます。
でも神なら、その人を多く用いるのではないでしょうか?
神の栄光を望むのであれば、石をも叫ぶようにされる神ならば。

とか考えてしまう私です。

皆さんのように、思慮深くなく考えがまとまっていないので わかりづらくてすみません。

不可知論はできれば今の段階では避けたいのです。

よろしくお願いします。

#90 2013年01月05日 11:01:29

iris
ゲストユーザー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

もんもんさん

>わたしはキリスト教について、聖書から話し合いあいたいと思っているのに、
>irisさんは、歴史的なキリスト教の定義から出発しようとしていると思います。

私はキリスト教について、聖書から話し合いたいと思っているのに、
もんもんさんは、ものみの塔の教えから出発しようとしていると思います。

>エホバの証人を異端(リンゴではない)と呼んでいるのは、正統派キリスト教の伝統なんですよ。
>だから、ぜひirisさんが、この観点については考え直していただきたいと思っています。

エホバの証人を真のクリスチャン(本当のリンゴ)と呼んでいるのは、ものみの塔の教えなんですよ。
だから、もんもんさんには、この観点についてはぜひ考え直していただきたいと思っています。


私のリンゴの例えを理解していただけなかったようですが。
リンゴの存在する場所であれば、世界中のどこに行っても「リンゴをください」と言えばリンゴが出てきます。
リンゴとはどんなものかというのはほぼ決まっているからです。1歳児でもリンゴを正しく認識します。
新しい品種のリンゴでも、普通のリンゴを知っている人ならそれがリンゴだとわかるはずなのです。

ものみの塔の教えは、「新種の果物で本当のリンゴを発見した。世界中のリンゴは実はリンゴではなかった」と言っているようなものです。
新種の果物の美味しさを宣伝するのは勝手ですが、新種には別の名前を付けるべきです。
そして美味しさだけでなく、食べた場合の悪影響についても情報提供するのが親切というものです。


>>私がものみの塔についていちばんキリスト教的でないと思うのは、エホバの証人を神の側に置き、「世の人」をサタンの側に置いて、
>>自分たちはサタンとの関係を絶っているかのように教えている点です。

>これはエホバの証人の間でよく見られる悪い風潮だと思います。「すべての人が罪を負っている」と聖書に書かれているので、もっと謙遜にならないといけないと思います。

もんもんさん、よくよく考えてみてください。
エホバの証人を神の側に置き、「世の人」をサタンの側に置いているのは、個々のエホバの証人が作り出した風潮ですか?
「ものみの塔」(2012年8月1日)には詩編37:10-11の説明として次のように書かれています。

「神も、今日わたしたちの周囲にいる悪い人々を追い出そうとしておられるのです。もう一度、10節を見てください。
「邪悪な者はいなくなる」と述べられていますね。つまり、他人に迷惑をかけている者たちを神が“追い出す”ということです。
そうすれば、善良な人たちは平和のうちに地上での生活を楽しめるようになります。」

この説明から、どんなことがわかりますか? ものみの塔は、「善良な人たち」と「邪悪な者」がいると教えていることがわかりますね。
そして、「邪悪な者」とは「他人に迷惑をかけている者たち」であり、その者たちは神に追い出されることになっています。

個々のエホバの証人たちは、このものみの塔の教えを本気になって信じているだけです。
そして、「邪悪な者」を避けて「善良な人たち」のグループに入らなければと必死になっているのです。
もんもんさんが、組織ごと神に捨てられるのではないかと心配しなければならないのも、この教えのためです。
(キリスト教の教えでは、神に従わない人が存在しなくても教えが成り立ちます。むしろそれを理想としています。
ものみの塔の教えでは、神に従わない人が存在しなくては教えが成り立ちません。)


もんもんさんは、ものみの塔の教えが聖書の教えでありキリスト教の教えであるということには疑う余地はないとお考えなのですか?
そして、組織のあり方だけが問題であるとお考えのようですね?
けれども私は、組織のあり方に問題が多いのは、ものみの塔の教えに問題があるからだと考えています。

キリスト教において最も重要な「新しい契約」の内容が、本来のキリスト教の教えとものみの塔の教えとではまったく異なるということは認識されましたか?
なぜこれほどまでに違うのでしょうか? 聖書の記述と「調和している」のはどちらだと思いますか?

もんもんさんは私の発言に対して、エホバの証人の立場から、ものみの塔の教えを擁護することを重視して返信されています。
ものみの塔の教えから離れて、もんもんさん自身の良心に従って聖書を読まなければ、真理は見えてこないと思います。
私はもんもんさんの良心には信頼しています。私の知っている個々のエホバの証人の良心を信頼しているのと同じです。
その良心が、ものみの塔の教えによって曇ったり、苦しめられたりしているのが、本当にお気の毒だと思います。


akameさん

>神に最後はお任せできる。とはいえ
>不条理の中にあっても自らの課題に正面から取り組むことで成長する。
>これが人生の大きな意味で、神の喜びでもあると今は感じています。

私も同感です。

#91 2013年01月05日 12:10:33

sk
メンバー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

自由意志

わたし達は、神の像にしたがって創造されました。
そして神は「わたしはなる者になる」神と言われています。

出エジプト 3:14
14 すると神はモーセに言われた,「わたしは自分がなるところのものとなる」。そしてさらに言われた,「あなたはイスラエルの子らにこう言うように。『わたしはなるという方がわたしをあなた方のもとに遣わされた』」。

「自分がなるところのものになる」とはどういうことですか。
自分がしたいこと、あるいは、自分が望むこと、喜ぶことをするということです。
別の言葉で表現すると神は、自由意志の神であるということです。
また神は愛であるとも言われています。
そして愛は自由意志に基づくものです。誰も愛を強要できません。

わたし達はそのような神の像に想像されています。
神の本質が自由意志であるように、その子である私たちの本質も自由意志です。
私たちも、また自分のなるところのものなろうとします。
わたしたちも、自分の望むこと、したいこと、喜ぶことを行ないます。
何を見、聞き、読み、考えるかを強制されて、またはあらかじめ決められてではなく、自らの意思で選びます。

そして自由意志は選択の結果を刈り取る責任を伴います。
つまり、まくものを刈り取る大原則が自由意志を支えています。
神ご自身もその原則に従われます。まくものに対応する収穫物、原因に正確、また普遍的に対応する結果の法則は神の公正さの現れです。

まとめ

自由意志には責任が伴う。
まくものを刈り取る原則の信頼性、公正さは神の本質に由来する。



神にないもの、神にできないこと

神は創造者として全知全能で永遠の存在と表現されます。
神はすべてのものの源ですが、神の本質にないものは元々存在しないものと見なせます。

どんなものでしょうか。

それは偽りです。
それで、神は偽ることができません。
それは、神の本質にないものです。
ですから、偽りは永続しません。

テトス 1:2
2 . . . 偽ることのできない神 . . .

箴言 12:19
19 永久に堅く立てられるのは真実の唇であり,偽りの舌はほんの一瞬にすぎない。


では神の本質に存在しない偽りはどこから生まれたのでしょうか。
それは、ある神の子の自由意志から生まれました。

そしてこの者は、後に偽りの父と、イエスから称されました。

ヨハネ 8:44
44 . . . その者は,その始まりにおいて人殺しであり,真理の内に堅く立ちませんでした。真実さが彼の内にないからです。彼が偽りを語るときには,自分の性向のままに語ります。彼は偽り者であって,[偽り]の父だからです。

それで、偽りはこの者から始まりました。
彼の推論は神の本質への疑問を伴い、それを正当化するための偽りを必要としました。
このようにして「偽り」、「嘘」、「達成しえない考え」が存在するようになりました。
それは、この者が自分の望むものを見、聞き、感じ、考えて発展させたこの者独自の産物でした。
この偽りは、この者にとって都合がよく自らの正当化の道具となりました。
その結果、この者は思考は内向きとなりました。
つまり、自己中心的となったということです。
その結果、神、他の神の子らとのバランスを欠く自らの益を優先する行動を起こしました。
彼は、自ら生み出した偽りの推論を用いて、自らを他の者以上に高め、他の者を自分が生み出した存在し得ない考え、または達成し得ない計画へ同調させました。そのようにして彼は偽りの父として、自らの子を生み出しました。

彼の偽りは他の者を導く行動原理となり、彼はそれにより、いわゆる神となりました。
そもそもそれは自己中心の原理であり、神の本質の愛と正反対のものです。
サタンは神の要求や扱いを自己中心の視点から見ており、そのように私たちに働きかけます。

サタンは偽りの推論をもってエバに近づきました。
その偽りは彼女が自己中心に考えるのを助けました。

創世記 3:1-5
1 さて,エホバ神が造られた野のすべての野獣のうち蛇が最も用心深かった。それで[蛇]が女にこう言いはじめた。「あなた方は園のすべての木からは食べてはならない,と神が言われたのは本当ですか」。2 それに対して女は蛇に言った,「園の木の実をわたしたちは食べてよいのです。3 でも,園の真ん中にある木の実を[食べること]について,神は,『あなた方はそれから食べてはならない。いや,それに触れてもならない。あなた方が死ぬことのないためだ』と言われました」。4 それに対して蛇は女に言った,「あなた方は決して死ぬようなことはありません。5 その[木]から食べる日には,あなた方の目が必ず開け,あなた方が必ず神のようになって善悪を知るようになることを,神は知っているのです」。

このようにサタンは、神の取決めの価値を無意味なもの、むしろ自己の益に反するものに印象付けています。

残念ならがら、そのような偽りの存在(危険)を全く経験したことな無いエバは、それによって自己中心に物事を見るように、サタンの思惑通り助けられました。

その結果は、

創世記 3:6
6 そこで女は見て,その木が食物として良く,目に慕わしいものであるのを知った。たしかに,その木は眺めて好ましいものであった。それで彼女はその実を取って食べはじめた。

神が禁じていた実は、自分の目に好ましいもの、自分の食物としても良いものであり、それを禁じる正当な理由はないかも知れない。それで、食べたとしても何も変わらないだろう。と自己サイドの推論が優勢になり、禁令の背後にある神の意図を、その場で推論することはありませんでした。

サタンは偽りをもって、エバに不意打ちを食らわせました。
エバは、サタンの狙ったとおり行動し神より自らを優先させました。
エバは欺かれたのであり、自分に都合のいい偽りに信頼を置いた点で、彼女が自己中心的に振舞ったことが分かります。



アダムの場合はどうでしょうか。

エバがその実をアダムに勧めた時、エバはいつもと変わらず元気ではつらつとしていたことでしょう。
食べた影響は外見上全くありませんでした。
それで、エバは自分がした事の意味を把握しておらず、いわば善意の第三者的に振舞ったでしょう。

問題の木の実を手渡されたアダムは突然重大な選択を迫られます。
サタン、天のみ使いたちはアダムの決定に注視していたことでしょう。

サタンの偽りの原理の真実性が証明され、サタンの偽りが実は真実で、神の愛の原理は偽りであるということになるのでしょうか。

創世記 3:6
6 . . . その後,共にいたときに夫にも与え,彼もそれを食べはじめた。

アダムは欺かれませんでしたが、自ら偽りと分かってる偽りを選びました。
それは、アダムが今を将来に優先させたということです。
その時点でのアダムの生活は、エバの存在により、なにも欠けることの無い満ち足りたものだったでしょう。
自分の最愛の妻を失う事態は、アダムに選択を迫ります。
残念ながら、彼は現時点の自分の満足、または幸福を神のことばに優先させました。
彼は神のことばではなく自分の妻のことばに従いました。それは、自己を優先させた決定でした。

この時点でサタンの主張が、あたかも立証されたかのようになりました。


サタンの主張

神より自己の所有物を優先する

ヨブ記 1:9-11
9 するとサタンはエホバに答えて言った,「ヨブはただいたずらに神を恐れたのでしょうか。10 あなたが,彼とその家と彼の持っているすべてのものとの周りにくまなく垣を巡らされたではありませんか。彼の手の業をあなたは祝福されたので,その畜類は地にふえ広がりました。11 しかし逆に,どうか,あなたの手を出して,彼の持っているすべてのものに触れて,果たして彼が,それもあなたの顔に向かってあなたをのろわないかどうかを[見てください]」。



神より自分自身を優先する

ヨブ記 2:4-5
4 しかしサタンはエホバに答えて言った,「皮のためには皮をもってしますので,人は自分の魂のためなら,持っているすべてのものを与えます。5 逆に,どうか,あなたの手を出して,彼の骨と肉にまで触れて,果たして彼が,それもあなたの顔に向かってあなたをのろわないかどうか[を見てください]」。


このように、サタンは神の子らは究極的に自己中心原理で行動すると主張しています。
また、この神の像に造られた神の子らの実態から判断して、神そのものも自己中心でありそのように行動していると主張しています。

これは、神の本質である利他的な愛の否定であり、神とその子らの動機を疑問視したことが分かります。

やがてサタンの主張に同調したみ使いたちが数多く現れ、彼らは天を去り地上に下り自己中心の生活を始めました。

これは神の本質からの離反であり、結合の完全な絆への愚かな挑戦でした。
それで神はご自分の本質を証明するようにサタンにより強いられたことになります。

神の本質にないものが永続することはあり得ません。
サタンの偽りは長続きしません。

この倫理的な戦いの発展と結末が創世記 3:15 の予言で示されています。

創世記 3:15
15 そしてわたしは,お前と女との間,またお前の胤と女の胤との間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き,お前は彼のかかとを砕くであろう」。

サタンは、女の胤のかかとを砕くことになり、女の胤はサタンの頭を砕くことが示されています。
サタンがそれを望んで策を弄したとしても、その逆はあり得ません。

予言されたとおり、キリストの死に至るまでの従順により、アダムの不従順がもたらした判決が中立状態に戻され、人は従順か不従順かを自らの自由意志で選択できることが証明されました。

ここで、アダムの直面した試みとキリストの直面した試みの質と程度を考慮してください。
アダムは経験の無さに対応した程度の試みを受けました。。
キリストの場合は明らかにサタンの敵意の的としての試みでした。
キリストの従順は、すべての神の子らの可能性の証明であり、自由意志による永続する普遍の選択の証拠です。
ですから神の創造の落ち度を主張することはできませんし、自由意志の質を疑問視することも排除されます。
神は、ご自分と愛で結ばれる子らを持つことが可能であることが、キリストの従順により立証されました。
このようにキリストの犠牲の死は神とその子らの関係の土台となる動機の正しさの立証です。
ですから、そう望むなら、誰でもキリストのようになれるでしょう。


そして、それはサタンの主張の偽りの証明ともなり、義なる裁きの根拠となりました。
やがで、神はすべての不従順を義と憐れみをもって裁かれるでしょう。
サタンとその胤の頭は、女の胤により砕かれるでしょう。
人類は罪とその影響から開放されるでしょう。
そして、神の子の栄光ある自由を享受するでしょう。


アダムの不完全な子らでさえ、神に信仰を働かせ結合の完全な絆で神と結ばれる者が、アベルの時から今日に至るまで出現しています。誰でも自らの意思で神に近づくことも離れることもできます。しかし、神の本質にないもの(自己中心)は永続しません。


ユダ 21
21 自分を神の愛のうちに保ちなさい。そして,永遠の命を目ざしつつわたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ちなさい。


読んで頂きありがとうございました。

編集者 sk (2014年06月25日 19:10:05)

オフライン

#92 2013年01月05日 13:52:32

浜田朋尚
ゲストユーザー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

戦いの最中、アマレク人のある家に入りました。男はすでに殺され、
  そこで恐怖に震える乳飲み子を抱いた女性がいます。
  乳飲み子はすやすや眠っているかもしれません。
  母親は命乞いをするかもしれません。
  「神の命令だからと平気で殺せるだろうか?」

この質問に答えられる方はいますか?


私は牛肉を食べます。しかし、牛を平気で殺すことはできません。
牛を屠殺するための知識や経験、技術、資格をもっていないからです。

(人を殺す)教育や訓練を受けていない人間に、「神の命令だからと平気で殺せるだろうか?」という問うことに意味はあるのでしょうか?
もし、「殺せる」と答えるとしたら、その人は精神的に問題があるのかもしれない。
逆に、教育や訓練を受けたのちに「殺せない」と答えるのなら、その人には、その職務を全うする資格(あるいは適性)がないということでしょう。

カナンの地に入る前に、イスラエルは、40年にわたる過酷ともいえる精錬を受けています。
イスラエルは、神の軍隊でもありました。

さて、質問のポイントは、「乳飲み子を殺すことを命じる神は、残酷か否か」ということでした。
神(エホバ)は残酷だと思う人は、エホバに従う必要はまったくありません。

ヨシュア24:15
もしエホバに仕えることがあなた方の目から見てよくない事とされるなら、川の向こうにいたあなた方の父祖たちが仕えた神々であれ、あなた方がいま住んでいる地のアモリ人の神々であれ、あなた方が仕える者を今日自分で選びなさい。しかし、わたしとわたしの家の者とはエホバに仕えます。

………………………………


  累々たる遺体をふとみると自分の親だったり自分の子供の一人かもしれません。
  だれが殺されるかわかりません。人間からみて邪悪かどうか
  決してわからない赤ちゃんでも殺されるのですから
  近所でよく話していたおばちゃんかもしれません。
  葬式どころか地の肥やしです。
  その光景は決して忘れないことでしょう。
  ・・・
  裁きのあと、これで本当に神への愛が強まり
  皆で幸福に笑ってすごせるのでしょうか?

この質問はどうでしょうか?


日本の主要都市の多くは戦争で焼け野原になりました。東京大空襲では10万人以上ともいわれる人たちが一夜でその命を奪われています。
こうした経験をしたのちも、私たちは、幸福を求めて立ち上がってきました。

(累々たる遺体をみた)裁きののちに、「神への愛が強まり、皆で幸福に笑ってすごせる」ように努力する人たちもいるでしょう。
それは、冷酷なことではないのです。

#93 2013年01月05日 15:11:16

akame
ゲストユーザー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

>日本の主要都市の多くは戦争で焼け野原になりました。東京大空襲では10万人以上ともいわれる人たちが一夜でその命を奪われています。
こうした経験をしたのちも、私たちは、幸福を求めて立ち上がってきました。

(累々たる遺体をみた)裁きののちに、「神への愛が強まり、皆で幸福に笑ってすごせる」ように努力する人たちもいるでしょう。


もうしわけありません。人間の戦争と神の裁きを比較する意味がよくわかりませんし、神だから余計心に
のこるものがあるように思います。

>それは、冷酷なことではないのです。

それはあなたの感性であって

私は冷酷に「感じます」


>不可知論

jamさん、私は神を客観的な事実で証明するのは困難だと感じますが、
存在や神の活動を生活の中で感じていますので不可知論者ではありません。

しかし感じたことを「絶対そうだ」といえるほどの自信がありませんし、
それは以前に書いたようにあまりよくないと思っています。

私なりに考えたことですが、

聖書はどうしても先人の解説の手を借りないとわからない
ことが多いのです。それでも出来るだけ先入観をもたず
当時の人になって読むことが大切だと思っています。

それで次のような聖句

ヨブ記26:7、彼は北の天を空間に張り、地を何もない所に掛けられる。

などは聖書は科学的にも正しいことの典型として説明されています。

しかしその句の後辺りに

38:12 あなたが生まれてこのかた、朝に対して命令を下し、暁に対してその所をさし示し
、38:13 これに地の果て果てをつかまえさせ、悪者をそこから振り落とさせたことがあるか。

13大地の縁をつかんで/神に逆らう者どもを地上から払い落とせと。

13これに地の縁をとらえさせ、/悪人をその上から振り落させたことがあるか。


「あなたは夜明けにその場所を知らせ、地の果てを捕まえさせて、邪悪な者たちがそこから振り落と

されるようにしたか。」


これはご存知、神が悪人を処罰することを示しています。高い崖から振り落とすように。

(英語では「地の果て」は「the extremities of the earth」となっていて、
extremitiesが複数形になっているので、ゴツゴツした崖をあらわしている)

これは科学が発達していなかったから地球をあえて平地の形にしてその果てに人が落ちる
比ゆ的な話だとは思うのですが、こうした表現で多くの人が地の淵(ふち)から落ちる
非現実的な心配したともいわれています。

まあ、それでも古代のポリネシア人は勇気をもって海洋をわたりコロンブスより
かなり前にアメリカに移住していたとも言われていますけれど。

それで聖書の物語は素直に読めば、当時の人たちの幼稚な世界観や神観が
単純な思考などがそのまま反映されていることが多いように思えるのです。

(時に強度のストレスからの妄想的思想も)

それを「聖書は神のことばで一字一句間違いはないはずだからここはこうだろう」と
考えるから余計に滑稽な解釈になるのではないでしょうか?

似たようなことですが、

詩篇 104 篇 5 節の「また地をその基の上に据えられました。 地はそれゆえ、とこしえにゆるぎませ

ん。

もちろんこれは天動説の根拠ではないことはわかりますが、JWのような根本主義的解釈
(どうあっても間違いではないので基の比ゆの意味を探る)などもかなり無理があるのではと
感じます。


またヨブ記では気になったところが他に色々ありますが次回に。

失礼します。

#94 2013年01月05日 15:54:07

カレブ
Administrator

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

浜田朋尚 さんの発言:

さて、質問のポイントは、「乳飲み子を殺すことを命じる神は、残酷か否か」ということでした。
神(エホバ)は残酷だと思う人は、エホバに従う必要はまったくありません。

浜田さん、こんにちは。
ちょっとお聞きしたいのですが、これは浜田さんご自身が
乳飲み子を殺すことを命じる神を残酷だと感じないということでしょうか?

それとも残酷のように思えるけども、
それでも命令したのは神であるから、それに従うべきだと感じるということでしょうか?

オフライン

#95 2013年01月05日 17:05:37

浜田朋尚
ゲストユーザー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

エホバの証人研究さん、ご質問、ありがとうございます。
言葉足らずな点、いつもながら申し訳なく思っています。

さて、「残酷」という言葉は、goo辞書では「無慈悲でむごたらしい」と説明されています。他の辞書には、「思いやりがなく、平気で苦しめるさま」という記述もありました。

私は、「アマレク人の乳飲み子には、神から『無慈悲でむごたらしい』死が与えられた」とは思って(感じて)いません。

#96 2013年01月05日 18:13:52

カレブ
Administrator

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

浜田朋尚 さんの発言:

私は、「アマレク人の乳飲み子には、神から『無慈悲でむごたらしい』死が与えられた」とは思って(感じて)いません。

浜田さん さっそく回答ありがとうございます。

わたしがお尋ねしたい点は、それを行ったのが「神」であったから
その赤ちゃんの処刑が『無慈悲でむごたらしい』ではなくなるという
考えが根底にあるではないかという点なんです。

だとすると akameさんの指摘は的を射ているように思います。
基本的には誰もが旧約聖書の物語の中に残虐性を見出しているという
点は同じなんだと思います。

あとはその残虐性をどのように解釈するか、いろんな意見が出るのは
良いことだと思います。

発言されている皆さんは
「JW以外の人類が間もなく抹殺される」
という考えが間違っているという点で一致しているとは思います。

オフライン

#97 2013年01月05日 19:57:50

浜田朋尚
ゲストユーザー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

エホバの証人研究さん、こちらこそ、ありがとうございます。

  わたしがお尋ねしたい点は、それを行ったのが「神」であったから
  その赤ちゃんの処刑が『無慈悲でむごたらしい』ではなくなるという
  考えが根底にあるではないかという点なんです。

私が最初に投げかけた問いは、次のようなものでした。

  「私は牛肉を食べます。しかし、牛を平気で殺すことはできません。
    牛を屠殺するための知識や経験、技術、資格をもっていないからです。」

(その牛が私の所有物だとしても)殺した牛を食肉として使用するという理由があったとしても、私が牛を殺したのであれば、私は罪に問われます(動物愛護法に抵触します)。
しかし、私が食肉業者の人間で、きちんとした資格を持っていれば、罪に問われることはありません。


どんな理由であれ、人間が人間の意志で「幼児の虐殺」を行なったのであれば、それは「残虐で卑劣な行為」です。


神(エホバ)は、『無慈悲でむごたらしい』行為を、アマレク人の乳幼児に行なったのでしょうか。
アマレク人の乳幼児を処刑する資格も、その権利も、エホバにはありませんか。


もしそうであるならば、神は、罪を犯していることになります。


神(エホバ)が、『無慈悲でむごたらしい』行為を行なう罪深い神であるならば、私たちは、別の神を捜すべきではありませんか?
あるいは、別の神を創造し、新たな聖書を書きましょう(神は、人間の最高の創造物で、所詮、聖書は人間の書いた物に過ぎないと言う人もいます)。


ところで、「JW以外の人類が間もなく抹殺される」というのは、ほんとうにエホバの考えですか?

#98 2013年01月05日 20:17:31

TT
ゲストユーザー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

みなさんの様々な考察が聞けて、この掲示板に来ることを楽しみにしています。

私なりにですが、今取り上げられている要点を平たく言っててしまうと

アマレクの赤子を殺すようにと言う命令(その命令を出す動機が、アマレクの人たちが大いなる悪を行っていて裁きを受けるに値するといったことが根底にあったとして)が、人間の支配者が述べていたものだとしたら、それは残虐なものであると捉えるが、神が命じたものであるなら、それは正当なものであるとして人間は受け止めなければいけない

と言うことなのでしょうか

私はハルマゲドンでエホバの証人以外の人々は滅ぼされる(実際にはエホバの証人とハルマゲドンが来るまでに真理を知る機会がなかった多くの人は滅ぼされないと教えている)という教えには抵抗を感じています。
しかし、アマレク人や約束の地を取得するにあたってその地に住んでいた人々を、人間の目には滅ぼすべき悪なのか判別できない子供達も、皆殺しにしていったことを考えると、そしてそれは人が口を挟むべきではない
正当なことなのだと言われてしまうと、エホバ神は将来ハルマゲドンの時にもご自分に忠実なもの以外は皆殺しという選択をされるのでないかと考えてしまいます。

救われる人が少ないということは聖書にも示されていると思います。
イエスも救いに至る狭い道と滅びに至る広い道に言及されました。 滅びに至る道を行く人が多いことが話されていたと思います。

この辺の解釈は、皆さんどのように考えられていますか?

#99 2013年01月05日 21:12:40

sk
メンバー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

こんばんは、

再びアマレク人の皆殺しの件

それは残虐行為を勧めるものではありません。
それは処刑です。

聖書では処刑は石打でなされました。
死体は焼かれたり、刑柱上にさらされました。
また、諸国民に対する剣による処刑もありました。

また懲らしめの鞭打ちの刑もありました。
犯罪行為の犠牲者保護の実際的な取決めも与えられていました。
例えば、盗みに対して5倍の賠償が求められました。

これらの処罰は道徳の崩壊の強力な防波堤となっていたと思われます。
しかし、イスラエルは周囲の諸国民の道にならい道徳崩壊と司法制度の腐敗を招きました。

今日では死刑は、ギロチン、絞首刑、電気椅子、その他で執行されます。
しかし、人々は死刑廃止を望んでいます。
そして伝道の書のことばのとおりの結果を刈り取っています。

伝道の書 8:11
11 悪い業に対する刑の宣告が速やかに執行されなかったため,それゆえに人の子らの心はその中で悪を行なうよう凝り固まってしまった

それで、現在の司法制度による処罰の基準により神の処遇を裁く妥当性はありません。

死刑をある人が残虐行為とみなしたからと言ってそれが残虐行為になるのではありません。
それは、それに相当する悪行に対する処罰であり、命の切断による罪の代価の支払いに過ぎません。

ローマ6:23
23 罪の報いは死ですが,. . .

では、ある行為の残虐性、または正当性を決定する最もふさわしい方だれでしょうか。
事情を良く知らない第三者でしょうか。
それともその裁きの執行を命じた神ご自身でしょうか。

神に勝る裁き主がいますか。

ヤコブ 4:12
12 立法者また裁き主である方はひとり,それは救うことも滅ぼすこともできる方です。

詩篇 11:15
5 エホバは義なる者をも邪悪な者をも自ら調べ,
その魂は暴虐を愛する者を必ず憎む

すべての行為は知識の限りのある人間によって正確に評価されるのではありません。
その行為が残虐なのかどうかは神により正確に評価されます。

サムエル第一 2:3
3 あなた方は余りごう慢に多くを語ってはなりません。
慎みのないことを何もあなた方の口から出すことがありませんように。
まことにエホバは知識の神であられ,
この方によってもろもろの行ないは正しく評価されるからです。


今日神は処刑の権威の行使を人間の政府にゆだねています。

ローマ 13:1-4
1 すべての魂は上位の権威に服しなさい。神によらない権威はないからです。存在する権威は神によってその相対的な地位に据えられているのです。2 したがって,権威に敵対する者は,神の取り決めに逆らう立場を取っていることになります。それに逆らう立場を取っている者たちは,身に裁きを受けます。3 支配者たちは,善行にではなく,悪行にとって,恐れるべきものとなるのです。それで,あなたは権威に対する恐れを持たないでいたいと思うのですか。善を行なってゆきなさい。そうすれば,あなたはそれから称賛を受けるでしょう。4 それはあなたの益のための神の奉仕者だからです。しかし,もしあなたが悪を行なっているのであれば,恐れなさい。それはいたずらに剣を帯びているのではないからです。それは神の奉仕者であり,悪を習わしにする者に憤りを表明する復しゅう者なのです。


神はイスラエル人をご自分の刑執行者として用いてアマレク人に死刑を執行しました。その神の刑の執行を人が残虐行為と主張したからといって、それがそうなるのではありません。
(神により刑執行者として用いられた国民、バビロン、アッシリア、エジプト、ペルシャ、シリア、ローマ、その他)

神により処刑された邪悪な者たちは数多くいます。
それらの邪悪な者たちに希望はあるでしょうか。
神のことばから分かることは、

死は罪の報いであり、処刑された者たちは自らの罪の代価を死により支払いました。
また、聖書は義者と不義者の復活を約束しています。

ヨハネ 5:28-29
28 このことを驚き怪しんではなりません。記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです。29 良いことを行なった者は命の復活へ,いとうべきことを習わしにした者は裁きの復活へと[出て来るのです]。

いとうべきことを習わしにした者たちも復活するでしょう。
復活により命にもどされて、再び命の機会を与えてくださった神と神の義の基準について知らされるでしょう。
その者のがその機会を感謝して活用して神の義なる裁きに服せばその者は幸いです。

神に処刑されたカナン人、紅海で処刑されたエジプト人、コラ、アカン、カイン、ユダ、ソドムとゴモラの人たち、ロトの妻、アナニアとサッピラなど聖書中の邪悪なキャラクターが復活するでしょう。もちろん誰が復活するかを決めるのは神ご自身なので、この点で誰も独善的な主張はできません。


それで、乳児を含めカナン人の処刑された人たちについて希望が無いのではありません。
また死は意識の無い状態でありそのこに苦痛はありません。復活の時まで命の恵みのうちにいないだけのことです。
それで限られた人間の視点で、神の処置を邪悪などとしないで下さい。それは、神の救出の計画のほんの一コマであり、処刑された者たちにさえ神の計画による将来があることに気付いてください。

神はすべての悪の尻拭いを実行するおつもりです。


読んで頂いてありがとうございました。

オフライン

#100 2013年01月05日 21:17:47

もんもん
メンバー

Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)

みなさんは全員、「人間の命は尊い」という前提でお話されているのだと感じています。

その前提の上で、ヘブライ語聖書では「なぜ神はご自分の選んだ者に命を、反する者に死をもたらすのか」ということを議論しているのだと思います。

その選び方が、残虐で、不公正に見えるというものだと思います。

でも最終的には、神は復活によってまず過去の死を取り消して、イエス・キリストの贖いに信仰を働かせるならば、命を与えるといってくれているので、わたしには、全体を通してみるなら不公正には見えないです。

部分的には不公正で残虐に見えても、歴史の始まりから終わりまでを見るならば、とても公正かなと思います。

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