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#1 2019年05月25日 17:45:40

カレブ
Administrator

仰天さんのキリスト教擁護スレッド

このスレッドは キリスト教擁護のうち特に
現代の確立された科学を否定して聖書を擁護する人のために用意しました。
確立された科学の中にはC14による年代測定、証明されている考古学など
様々な分野があります。
またすでに討論されている内容の繰り返しや精査されていないサイトのコピペなどの投稿も
管理人の判断でこちらにまとめさせていただくことがあります。

「仰天さんの」キリスト教擁護スレッドとタイトルにしていますが、
どなたでも参加していただくことができます。

オフライン

#2 2019年05月26日 06:23:48

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

さて、せっかくの新しいトピックですが何を書きましょうか。

私のキリスト教擁護スレッドとの事ですが、カレブさんも仰っているように、神と聖書を愛する皆様が活用してくださっても構いません。

勘のいい人ならば、私が特にキリスト教を擁護しているというわけではないという事に気付いておられるかもしれません。(ラハムさんも感じておられるように否定派が多い為に私がそれと反対の意見を書くと結果として擁護にはなっていますが。)


全員ではないのですが、中には過度に神そのものや聖書を信じる人々を蔑み、見下している人が存在しています。

もちろん、そのような意見も自由なのですが、時には、それは違うでしょうという書き込みも見られます。

掲示板の中のある人は、そのような否定派の人の書き込みをよく調べないで無批判で受け入れておられる印象があります。(聖書についての質問さんのエチオピアの宦官の例等。)

まぁ、自分と同じ否定の意見を受け入れたい傾向は理解できるのですけどね。


それで、ある程度伝えたい事はお伝えできましたので、あとは、それぞれのトピック内で、それは違うのでは?と思う事があれば書き込むようにしますという私の意図が理解されていないのは少し残念なのですが、
ゆりさんやラハムさん、そのほかの聖書と神を愛する人もよろしければここを活用して下さいね。(^-^)


ラハムさんには、以前、みことばかえる塾の、かえるのるちゃんのブログを紹介したのですが、ゆりさん、アザミさん、ラハムさんももちろん、そのほかの皆さんにも今回は、違うブログを紹介します。


バイブル+真理スパイス Asafu
https://ameblo.jp/estersmile/




もちろん、ブログ主さんとは何の面識もありません。m(_ _)m

#3 2019年05月26日 11:03:17

ゆり
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

仰天さん、こんにちは。(^-^)/

私も少し前まで akameさんと同じことを言っていましたから、 akameさんのお気持ちも分かるのですが、(神は残酷、至高の神と思えない等)

今は驚くほどのパラダイムシフトです。(笑)

これも仰天さんが少しも怯まずに諭し続けてくださったお陰です。

今では神と聖書への愛に戻ることができましたし、
おそらく以前より確固とした信仰や聖書の深い理解を得つつあります。

でも、こちらが聖書否定の掲示板であることを考えると、
仰天さんと巡り会えたことは奇跡的なことだったのですね。( ⁎ᵕᴗᵕ⁎ )

私のような人間が聖書に戻ることができたのは、こちらが自由に討論できる場であったからです。
皮肉なことかも知れませんが、カレブさんに感謝いたします。



さてさて、早速ご紹介頂いたブログの最新動画ですが、インパクトがありますね。本当にその通りだと頷きながら聴いていました。(時間の関係でまだ1/4ほどですが)

続きを楽しみにしつつ、出掛けてきます。(*ᴗˬᴗ)⁾⁾ペコ

#4 2019年05月26日 23:19:11

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

聖書を史実だと見たならば、残酷と言う。

そして滅ぼされた罪多き者らに感情移入して、こう言う。
神よ、それはあんまりだ と。

神の裁きに異議を申し立てる。

しかし、史実だと見るなら、あなたに命を与えてくれたのは神なのだ。
全てのよいものを備えて下さったのもその方なのだ。美味しいものも、家族も友達も。

その命の与え主よりも造られた他のものを重んじるのでしょうか。

思考できるのも神のおかげなのです。

それを指摘されても分からない人は永遠に分からないでしょう。(^◇^;)

#5 2019年05月27日 11:24:21

ジョエル
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

仰天さん、こちらで回答しますね。

>私の信条が問題だというのなら

信条を問題にしたのではなく、自分の信条ではないのに若い地球信者さんのサイトから次々引用する意図がよく分からなかったのですが、「それらの人々がどういう根拠で信じているかを示すため」なんですね。それは分かりましたので、こちらのトピで紹介されたらいいと思います。


>ご自分の信条を発表されたらどうでしょうか?

前にも同じ質問をされたので慣れていますが、発表するような信条は持ち合わせていないのと、「何らかの創造者を信じているのか」という質問の答えなら、仰天さんが進化に対して考えているのと同じように、決定打に欠けるので確かなことは分からない、というスタンスです。

進化論のトピに具体例も書きましたが、生物進化の基本原理はすでに解明された科学的事実なので、そこは仰天さんとは違いますが。

#6 2019年05月27日 12:16:59

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ジョエルさん、こんにちは。

どういう根拠で信じているかを示すためでもありますけど、ラハムさんやゆりさん、その他の聖書を信じたい人達のためでもあります。


ジョエルさんのご意見は分かりました。
ありがとうございます。

#7 2019年05月27日 12:54:03

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

石炭に「炭素14」の大発見! - 若い地球と進化論
https://darwinkieta.hatenablog.com/entr … /12/001626


字幕付きの動画があります。

#8 2019年05月28日 12:05:04

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

聖書についての質問 さんの発言:

「出エジプトの話は思いやりの話ではないよ。アブラハムとの契約があったから。」

「出エジプトの話では、神はファラオの心をかたくなにして、民を解放させないように仕向けたあげく、様々な災厄でエジプト人を苦しめ、最後はエジプト人の長子を皆殺しにします。エジプト人を不必要に過度に苦しめています。旧約の神の残虐性がよくわかります。」
「これは旧約の倫理が、あくまで古代の仲間内の倫理に過ぎないことの反映だね。仲間でなければ、子どもでも皆殺しだから。仲間でない人に対してどうあるべきかは考えられていない。」

ファラオが神に反抗したのは神がそのように強制されたからではありません。ファラオの心は既に神に対してかたくなになっていたのです。
それで神がファラオの心の頑固で反抗的な態度に対峙された時、ファラオは一層抵抗したという事です。この、さらなるかたくなさは神に対するファラオの意図的な反抗と抵抗に対する罰だったのです。
神に反抗して自分の頑固なやり方を変えようとしない人々に適用される原則を神は具体的に示されました。
人々にその罪深い欲望の影響と結果をまともに受けるようにさせ、実際にその心をかたくなにさせなければならない時があるのです。この危機的な状況にある人々は、神の愛とみことばの真理に対して霊的に目が見えなくなっている事が多いのです。神はしばしば、こうなる事を許されます。それは人々が希望を失い、最終的に神に助けと救いを求めるようになるためです。
初期の災害の裁きによってファラオの心は少しだけ和らぎました。ですが、神がその災害を取り除くとファラオの心は再びかたくなになりました。
神が憐れみを示すたびに、ファラオは自ら神に抵抗して心をかたくなにしていったのです。


さて、次からは引用です。私が引用や転載を行う場合は、自分の言葉で言い換えるよりは、原文をそのまま載せたほうがよく伝わると考えた場合です。
そして、引用先を載せるのも、私が正しく引用しているか等を確認してもらう為であり、意味もなく貼っているのでもありません。

一部だけ引用します。

まず第一に、パロは潔白でもなく、敬虔な人でもありません。彼は、イスラエル人、(当時1500万人以上はいたと思われるイスラエル人)のひどい虐待と圧制を指導していた残忍な独裁者でした。エジプトのパロたちは400年もの間イスラエル人を奴隷にして来ました。その前のパロは―このパロである可能性もありますが、―イスラエル人の男子の初子の殺人を命令しました。(出エジプト1:16)神が心をかたくなにされたパロは悪い人でした。そして彼が支配していた国も、彼に賛成したし、少なくとも彼の悪い行動に反対はしませんでした。

二番目に、最初の二、三の災害の前に、イスラエルを行かせることに対してパロは心をかたくなにしました。「パロの心はかたくなになり、」(出エジプト記7:13、22;8:19)「ところが、パロは息つく暇の出来たのを見て、強情になり、」(出エジプト記8:15)「しかし、パロはこの時も強情になり、」(出エジプト記8:32)パロが自分で自分の心をかたくなにしなかったら、エジプトのすべての災害を防ぐことはできたのです。神はこれから起こる裁きのより厳しい警告をパロにされたのです。パロは、神の命令に反して自分の心をかたくなにして、自分と自国に裁きを招くことを選んだのです。

パロが自分の心を固くしたので、その結果、神はパロの心をさらにかたくなにして、最後のいくつかの災害が来るのを許されたのです。(出エジプト記9:12;10:20、27) パロとエジプトは、400年の奴隷制度と集団殺人で、自分たちにこれらの裁きを招いたのです。罪の報酬は死ですし(ローマ6:23)、パロもエジプトも神に対してひどい罪を犯したので、もし神がエジプトを完全に全滅させられたとしても、それは当然義なることと言えるでしょう。 だから神がパロの心をかたくなにされたことは悪いことではないのです。さらに、エジプトに対して、もっと災害を加えられたことも悪いことではなかったのです。災害はそれぞれ、ひどいことではあったのですが、実際には、完全にエジプトを破滅させなかったのは神の憐れみの現われだったのです。エジプトを全滅させても、エジプトにとってそれは当然正しい罰だったわけですから。

神はなぜパロの心をかたくなにされたの?
https://www.gotquestions.org/Japanese/J … heart.html

ですから、潔白で善良なファラオを神がかたくなにしたのではなく、最初からかたくなで反抗的なファラオと神が対峙される事によって、さらにファラオがかたくなさを示したという事なのです。
そして、イスラエルを長い間奴隷として過酷に扱っていたファラオにエジプトの民は賛成していたのです。イスラエルなどは奴隷として扱っても当然だと思っていたでしょう。中には、そのように思っていないエジプト人もいたのではないかと言われるかもしれません。しかし、全体的にエジプトの民がファラオに賛同していなければ神が裁きを下す事はないはずです。それでも神は、エジプト人が生き残るようにされ、憐れみを示しておられます。エジプト人が悔い改めるならば裁きは免れる事ができたわけです。神の力を目の当たりにしながらも反省するどころか、より反抗的になったのですから、言い逃れはできないでしょう。


聖書についての質問 さんの発言:

「出エジプトの話は、発端からバカバカしいです。イスラエル人がどんどん増えていったので、人口を抑制しようと、ファラオが産婆に男の子が生まれたら殺すように言う。これは非合理的ですよ。」
「確かにおかしい。人口を抑制するためには女の子を殺すべきだろう。しかも、神のような存在であるファラオが産婆と直接話をするなんてこともあり得ない。ストーリ上、男であるモーセを主人公にするために、男の子を殺せという命令が必要だったということだね。出エジプトの話は非合理的な点が沢山あって、昔から冗談の対象になっている。」

出エジプト記/ 01章 10節
抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」

:出エジプト記/ 01章 11節
エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。


ここでは、ファラオは、イスラエルが敵になる事を恐れた事が読み取れます。つまり、主に男の力を恐れたのです。

そこで、重労働で虐待したもののイスラエル人は増え続けたので男子を殺すように命じたのです。

ある牧師は、「恐らく男たちはいつか自分たちに向かって武器を取り、反逆することになるかも知れない、という含みがあるのでしょう。」と述べています。

女の子だけは生かしておくのは、やがてエジプト人と結婚して、エジプトの家系の中に吸収され、ヘブライ民族は消滅すると考えたのかもしれません。

ですから、一概に非合理的とは言えません。

また、ファラオが助産婦に直接話した事も有り得ないと断言する根拠は何でしょうか?


その産婆たちシフラとプアに命じた時は呼び寄せて語ったのか、使者に伝えさせたかは分かりませんが、男の子を生かしている事を問いただした時には呼び出して話しています。



出エジプト記/ 01章 15節

エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。

出エジプト記/ 01章 18節
エジプト王は彼女たちを呼びつけて問いただした。「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」


ヨセフもファラオに呼び出されて話をしていますから、ファラオが直接人と話す事はないとは断言できないでしょう。


創世記/ 41章 14節
そこで、ファラオはヨセフを呼びにやった。ヨセフは直ちに牢屋から連れ出され、散髪をし着物を着替えてから、ファラオの前に出た。




聖書についての質問 さんの発言:

「聖書には、エホバが思いやりを示さなかった例の方が沢山ありますよね。4節では、イザヤとゼカリヤから、エホバが思いやりがあることを示す聖句が引用されています。イザヤとゼカリヤから、エホバの思いやりのなさ、無慈悲さ、残酷性を示す聖句を教えてください。」

「イザヤにはたくさんある。例えば13章。バビロンに対して、エホバの日が来るとどうなるか、残酷なことを延々と描いている。13:15,16では、“見つけられる者はみな刺し通され,一度に集め捕られた者はみな剣によって倒れる。 彼らの子供たちさえ,彼らの目の前で打ち砕かれる。彼らの家は略奪され,彼らの妻は犯される。”子どもだって許さない、親の目の前で打ち砕くというわけ。女でも許さない。強姦されて殺されるんだろうね。思いやりがあるかな?実現しなかったからよかったけれど。」

イザヤ13章は主の日の予型でもありますが、基本的にはバビロンの滅亡に関しての預言であり、示された15、16節は、17節以降を見るとメディヤ人が行う事です。
バビロンの滅亡は何段階かにかけて成就しました。最初は前689年のアッシリヤによる攻撃でセナケリブによって征服され、その後ネブカデネザルのもとで再び力を持ったバビロンは前539年にメディヤペルシャ帝国のキュロスによって占領されました。


エホバの証人問題に関しては割と正当な批判をされているようですが、聖書についての質問さんは聖書を読んでますか?
思いつきでぽんぽん何でも書くだけなら誰でもできるのですよ?それとも、キュロスを用いて裁きを行なった神が残酷だという意見ですか?しかし、それは神が決める事です。
そのように聖書についての質問さんが思われるのは自由ですが、イスラエルでも不忠実になった時には戦闘で敗れて同じように裁かれていますから、その意味では公平な裁きだと言えるのではないでしょうか。

また、当時のエチオピアが現在のエチオピアとは違う場所であるという事、エチオピアの高官が戦車を使用したりギリシャ語を話せた可能性の高さ、異邦人もエルサレムに巡礼に来ても不思議ではない事、キリスト論の移り変わりもなく、最初からキリストは神として聖書では書かれている事等は、聖書辞典や注解書等で容易に確認できる事です。

聖書批判をしておられるというのに、辞典等で確認さえされないのでしょうか?持っていないのもどうかと思いますが、それでもネット上でも確かめてから投稿する事もできるはずです。また、単に聖書そのものをよく読むだけでも分かる事もあります。
そのような事すらされないで批判しておられるのでしょうか。私が仏教や他の宗教について意見や批判を行うとすれば、当然そのようなものを扱った書籍等を読んで行います。
私が問題点を指摘するのは、同じ聖書批判の内容でも、レベルを上げて欲しいからです。


聖書についての質問 さんの発言:

「ゼカリヤはどうですか?」
「ユダヤ人に対して、ゼカリヤ11:6は、“『わたしはこの地に住む者に対してもはや同情を示さない』と,エホバはお告げになる。”と言っている。同情は示さないけれど、思いやりは示すのかな。」
「JWの教義では、エホバは、間もなく人類の99.9%を皆殺しにして、残りの0.1%にその死体を片付けさせるという仕事をやらせようとしているわけです。思いやりのある神様ではないですよ。」
「旧約聖書のおかげで、キリスト教は多くの信者を逃してきたと思うね。」

キリスト教では、イスラエルがゼカリヤ11:1-3で描かれてるような裁きを受けるのは、羊飼いである王(メシア、キリスト)を拒むからという理解です。ゼカリヤはまず、イスラエルの良い牧者であるメシアを表すように指示されています。(11:4-14)。次に人々をだまして迷わせようとする邪悪なイスラエルの牧者を演じて、実例を示すように指示されました。(11:15-17)。この邪悪な牧者は終わりの時の反キリストを表していると思われます。

4節の、屠るための羊の群れ とは、イスラエルであり、メシアを拒むので罰せられるように定められました。紀元70年にローマが虐殺を実行しています。

エホバの証人の教えでは、エホバの証人しか助からないと教えていますから、ほとんどの人は滅びるという事です。
ですから、彼らの言う「エホバ」という偽の神は言われる通り思いやりのある神ではありません。

キリスト教では、昔はカトリック、プロテスタント等で対立した事もありましたが基本的に、ある特定の組織の者だけが助かるとは考えていません。
様々な教派、団体の人が助かるでしょうし、神とキリストを認めるならどこの団体にも所属していなくても助かる人もいるでしょう。
それに、旧約時代の聖徒達も救われますからエホバの証人の考えるようなJWだけのごく小数だけが助かるという事ではありません。

仏教の人でも、他の宗教の人でも、無宗教の人でも、生きているうちに神とキリストを認めるなら救われますし、クリスチャンは多くの人の救いを望んでいます。

旧約聖書を表面だけ読んで曲解したなら離れていくでしょうね。信仰は全ての人が持っているわけではありませんから不思議ではありません。それに、エホバの証人とキリスト教は全く別のものです。



聖書についての質問 さんの発言:

「8から13節は、イエスの手本に倣うという内容ですが、8節に、“イエスはそのすべてに喜びを感じましたが,特に人間に深い愛情を抱いていました。「親愛の情を抱く事柄は人の子らに関してであった」と記されています。(箴 8:31)”とあります。箴言が引用されていますが、これはイエスのことなんですか?」
「JWはそう解釈しているようだね。箴言は知恵が擬人化されて、知恵自らが語るというスタイルをとっている部分が多い。箴言8章もそうだけど、8:22-31は創造における知恵の関わりを語っている部分。」
「8:22、23では、“エホバが,創造の初めとして,昔の偉業の最初として私を生み出した。 私は,昔から据えられた。初めから,地球より前の時代から。”と知恵が語っています。これはヨハネのロゴスと似ていますね。それで、箴言の知恵がイエスであるという解釈が出てきたんですね。」
「擬人化された知恵なのに、JWは、この“わたし”をイエスと解釈している。このような解釈は昔はよくあったけれど、今はそれを支持する人はほとんどいない。JWの基本的な教義は20世紀前半までに作られたようだ。その当時の聖書解釈をそのまま維持しているということだね。」
「この知恵である“わたし”は女性ですよね。それから、この“わたし”の性格はかなり傲慢です。知恵のないものに対して非常に辛辣です。」
「イエスとは違うキャラクターだね。」

おっしゃる通り、擬人化された知恵でしょうから、イエスとは断言できませんが、知恵は傲慢で辛辣でしょうか。

神が生み出された、新改訳では、「得ておられた」知恵ですよ?

そこでの知恵は、分別、思慮をわきまえるように諭し、正しい事、真実を告げ、悪を忌み嫌い、曲がった事やよこしまはないという事を述べ、懲らしめや知識を受けるように、また、正義を制定するとあります。主を恐れることは悪を憎むこと、主を恐れることは知識の初め、愚か者は知恵と訓戒をさげすむとあります。
イエスが擬人化された知恵かどうかは置いといても、完全に父なる神とイエスとも一致していると思いますけど。


聖書についての質問 さんの発言:

「12節で、ラザロが死んだときイエスが涙を流したというヨハネ11:35について、“親しい友を亡くして悲しかっただけではなく,マルタやマリアの悲しみに胸を打たれたからです。”と解説しています。これは間違いですよね?」
「ヨハネ11:36に、“それでユダヤ人たちは言いだした。「見なさい,本当に愛情を抱いていたのだ」。”とある。となると、JWの見解は、このユダヤ人たちの見解と同じということ。でも、ヨハネでは、イエスの敵対勢力は、“ユダヤ人”とひとくくりにされることが多い。」
「このユダヤ人の見解は、イエスの敵の見解であって、本当は違うということですね。」

確かにイエスに敵対する人々をユダヤ人として書いてはいますが、ユダヤ人という言葉全てが敵対勢力として出ているのではありません。

ヨハネによる福音書/ 11章 19節
マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。

ヨハネによる福音書/ 11章 33節
イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、

ヨハネによる福音書/ 11章 36節
ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。

ヨハネによる福音書/ 11章 45節
マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。


ここで示されているユダヤ人とは敵対勢力でしょうか?
後にユダヤ人クリスチャンの群れも形成されており、イエスに夜中に誠実な態度で質問に来たニコデモもファリサイ派の議員であり、ユダヤ人でした。ニコデモは後にイエスの埋葬を手伝っています。
ですから、「どんなにラザロを愛しておられたことか」という見解が敵の見解であり、本当は違うというのは誤りです。
なぜなら、11章5節に、「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた」とあるからです。


聖書についての質問 さんの発言:

「ユダヤ人の発言を聞いた後、11:38で、“イエスは,再び心の中でうめいてから,墓に来た。”とあり、イエスはユダヤ人の発言を是認していないよ。ヨハネのイエスは神のごとき存在。そのイエスが涙を流したとすれば、ひとりの知人の死に対してではなく、罪と死によって生じた人間の悲惨さそのものに涙したという方がもっともらしい。」

まず、罪と死によって生じた人間の悲惨さそのものに涙したという意見は問題ないのですが、既に示したようにラザロを愛しておられたわけですから、知人のために泣いたのではないとは言えません。

ヨハネ11:33 新世界訳では霊においてうめき、苦しみを覚えたとあります。他の翻訳は霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、または、心に憤りを覚え、興奮してとなっています。ここはこの世界のあらゆる悪によって引き起こされた心の痛みと苦しみを目にした主イエスが深く共感して同情された事を表しています。

「動揺を感じて」と訳されるギリシャ語「エムブリマオマイ」という言葉は、同情と怒りを伴う深い悲しみを意味しています。主イエスは罪(ラザロの罪ではなく、全人類の神に対する反抗と違反)の結果であるあらゆる悲惨な出来事、その最も厳しい結果である死に直面して悲しみと怒りを覚えられました。けれども、主イエスはこの状況にただ苦しんでいただけではありません。ラザロをよみがえらそうとしておられました。この後、主イエスは人類のあらゆる罪のために死に、そしてよみがえられました。それは全人類に罪の赦しと救いの機会を提供するためでした。

11:35 イエスは涙を流された。
この短い言葉は、ご自分の民が損害を受け、悲しみを嘆くときに感じられる神の深い同情を表しています。
「涙を流された」ギリシャ語「ダクルオー」は、主イエスが突然わーと泣き出し、それから静かに泣かれたという意味です。悲しむ人にとってこれは慰めではないでしょうか。ラザロの親族だけではなく、私たちのためにもキリストは同じように感じてくださいます。愛していてくださるからです。この言葉が、聖書のどの書物よりも主イエスの神性(神の特性)を強調している書物に書かれている事に注意するとよいでしょう。友のために泣かれたのは、神であり人であり、「すべてのものは、この方によって造られた」(1:3)という主イエスだったのです。
神は深く感情のこもった思いやりに満ちた愛を全人類に持っておられます。(ルカ19:41)


聖書についての質問 さんの発言:

「大多数のJWでは、奉仕活動をし、集会に出席するだけで、精一杯ですよ。さらに思いやりを示せとか、過大な要求されても、多くのJWは、無理です、と心の中で言っていると思います。」
「カルトは信者に過大な要求をし、達成できないことで罪悪感と恥の感情を持たせるのが普通だね。それで、JWも信者にどんどん要求するわけだね。」

そうですね。エホバの証人は要求される事が多く、常に忙しくしてますね。熱心さだけは買いますが、本当にそんな、聖書の歪んだ読み方や自分の頭で考えない生き方で人生を無駄にしていいのでしょうか。

ある人の発言では、二世はほとんど覚醒していて気楽にやっているとの事でしたが、私の近所の二世信者はまだ組織を信じている者も結構いる感じです。

フルタイムの仕事に就く者も増え、仕事と予習、集会、奉仕、大会と忙しそうです。

要求が多いのは確かにカルトの特徴でしょう。

#9 2019年05月28日 12:52:32

ほい
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

色々書きたいことはあるのですが、とりあえず一点だけ一番気になった部分に焦点を絞って質問します。

仰天 さんの発言:

ですから、潔白で善良なファラオを神がかたくなにしたのではなく、最初からかたくなで反抗的なファラオと神が対峙される事によって、さらにファラオがかたくなさを示したという事なのです。
そして、イスラエルを長い間奴隷として過酷に扱っていたファラオにエジプトの民は賛成していたのです。イスラエルなどは奴隷として扱っても当然だと思っていたでしょう。中には、そのように思っていないエジプト人もいたのではないかと言われるかもしれません。しかし、全体的にエジプトの民がファラオに賛同していなければ神が裁きを下す事はないはずです。それでも神は、エジプト人が生き残るようにされ、憐れみを示しておられます。エジプト人が悔い改めるならば裁きは免れる事ができたわけです。神の力を目の当たりにしながらも反省するどころか、より反抗的になったのですから、言い逃れはできないでしょう。

この解釈には強い違和感を持ちます。

まず、当時のエジプト人にファラオの決定に異議を唱えることが許されたとお考えでしょうか?表立ってそのようなことをすれば死刑になってもおかしくないのではないでしょうか?
それを賛同していたと一括りに論じるのはかなり乱暴だと思いますがどうでしょう?

また、エホバはエジプト人の長子を皆殺しにしていますが、これはどのように説明されますか?
仮に仰天さんがおっしゃる通りエジプト人が全体としてイスラエルの虐待に賛同していた(黙認していた)として、そのことを理由に直接関係のない子どもたちを皆殺しにするという処罰は正当化されるのでしょうか?
これら子どもたちには「悔い改める」機会さえ与えられなかったのでしょうか?

もしこれらの行為が正当化されるのなら、今朝川崎で起きた痛ましい襲撃事件も正当化されるのかもしれません。
残念ながら犯人が死亡したので動機の解明が困難になることが懸念されますが、もしかすると現在の日本社会に対する不満、怒り、恨みがあったのかもしれません。
こんな日本社会を作ったのは政府ですが、現在の日本は民主主義ですから、古代のエジプト以上にそんな政府を選任した責任は国民にあるということになります。
であれば、そんな日本人を罰するために彼らの子どもを殺すことも、エホバがエジプト人の長子を皆殺しにしたことを考えれば何の問題もないのかもしれません。

仰天さんの主張はこのようなものなのでしょうか?
私には到底受け入れられません。

#10 2019年05月28日 18:05:44

ひよりタニタクミ
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ほい さんの発言:

残念ながら犯人が死亡したので動機の解明が困難になることが懸念されますが、もしかすると現在の日本社会に対する不満、怒り、恨みがあったのかもしれません。
こんな日本社会を作ったのは政府ですが、現在の日本は民主主義ですから、古代のエジプト以上にそんな政府を選任した責任は国民にあるということになります。
であれば、そんな日本人を罰するために彼らの子どもを殺すことも、


ほいさん、こんばんはm(_ _)m


なんかHNが落ち着かない状態ですけど申し訳ありません、ほいさんのこの文章は素晴らしいと思いました。犯人は口を利けません。でも被害者の御家族は、きっと一生涯この犯人を赦しはしないのでしょう。当然のことです。神の【子に罪を負わせて、3代4代に及ぼす】と言う、沙汰は、人道的に見て全く善いとは思えません。


聖書に、神の子に罪を負わせ死を与える残虐性をこれほどに理不尽に描いているのは【被害者】の思いに、思慮を働かせているためではと思うのですが。








ほいさんはどう思われますか?

#11 2019年05月28日 19:13:21

ひよりタニタクミ
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

仰天さん。


パウロ 愛と赦しの物語

YouTubeで、宣伝を観てみました。

映画のなかにパウロの、【私はキリストではない】というセリフがあって、パウロはそういう葛藤に、いつも悩んでいたように思いました。

あの【自分はキリストのようになれない】と
悶々とジレンマに陥りがちなパウロ。

ステファノ殺害をよしとした過去の罪悪感を忘れられず、
自分を赦せないのではないでしょうか?

ステファノの御家族はパウロを、
一生涯赦さないと思いますか?


パウロのなかでキリストの死は、
イコール神の愛として、どのように
【キリストの愛は自分に迫っていた】と思いますか?




仰天さんはどう思われますか?

#12 2019年05月28日 19:39:25

ひよりタニタクミ
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

めぐママさん。


私に対して、【エナジーバンパイアー】と仰いましたよね?
そして、御自分のことを、【ブチキレる】と仰ってもいました。


ですから、私は自分の過去を余すことなく打ち明けました。
愉快犯と仰ってる、そのお言葉の背後には、あのトピックでの
御自身の御発言をお気に病まれてのことと判っております。

でも私は、レイプ犯人をさえ、
心のなかで赦している人間です。
あの言葉を私は、全く怨んでもおりません。


また、あのトピックにて、皆さんの御意見を私は辛いと傷付きながらも、いつも【レイプされたあの苦しみに比べれば、耐えやすい】
と思って敢えて反感を買う言い方に終始しておりました。


めぐママさん。もうあのトピックでのなかで繰り広げられた言葉の応酬をお忘れください。あれは私が造り上げた虚構だったんです



レイプされた被害者の精神は、まともなものではありません。
私が最後まで命を懸けていられたのも、レイプされたとき、
1度私は、女として、またヒトとして既に死んでいるからです。

#13 2019年05月28日 19:50:44

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ひよりさん、

映画の中で、パウロはステファノの殺害をよしとしただけでなく、多くのクリスチャンを投獄し、結果としてそれらの人々は処刑されました。



使徒言行録/ 09章 21節
これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」



パウロは夢の中でその事を思い出し何度もうなされています。

最後にパウロは斬首刑になるのですが、天国に行ったパウロの元に多くの殺害されたクリスチャン、(少女や、色々な男女のキリスト教徒たち)が真っ先に走り寄ってきてパウロを歓迎して抱きしめていました。

ステファノの家族はパウロを赦していると思います。(^-^)

キリストの愛はパウロに十字架の贖いで赦しを与え、復活後に現れて下さった事により示されています。


「多く許されたものは多く愛する。
少ししか許されないものは少ししか愛さない。」

#14 2019年05月28日 22:05:07

ひよりタニタクミ
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

仰天 さんの発言:

ステファノの家族はパウロを赦していると思います。(^-^)

キリストの愛はパウロに十字架の贖いで赦しを与え、復活後に現れて下さった事により示されています。


「多く許されたものは多く愛する。
少ししか許されないものは少ししか愛さない。」


仰天さん。

私の親は、私がレイプされたときに妊娠しなかったことを喜びました。でも私は、レイプによりあろうことか、マゾヒスティックな感覚を身に付けてしまいました。(単なる暴力ではなく、JWであることゆえの迫害とも言える理由でレイプされたのでそう言えるのですが)

レイプの苦しみや痛みに耐えるために替わりの感情として死にも匹敵する恥辱に対処しようと脳が、殉教的喜び、自虐的喜び、等のアブノーマルな悦楽の記憶へと、改変させようとしたということです。


それで、現在の私の大抵の精神的苦痛は普通の人の何倍も平然としてやり過ごせる、マゾヒスティックな特質には自分も、驚くほどです。


私はステファノ殺害の際に、ステファノに石打ちの痛みや死の迫る恐怖を取り去ったのは、実は私自身の経験した脳の機能の効力だったのだろうか?と、


思うことがあります。


ステファノを死に際して苦痛を和らげたのは、一種の脳内麻薬、と言う可能性もあると思います。イエス・キリストの死の際にも、イエスはヒソプに染み込ませた酸いぶどう酒を拒んでいましたが、既に死の恐怖はステファノ同様の安らかな心境だったと思います。


イエス・キリスト、ステファノとは全く逆のパウロを悪夢に悩ませた殺害記憶は、逆に加害者としての責め苦としてパウロに生きてるうちに決して安寧を与えないことで、常に、【罪の重み】と【キリストの赦し】をリアルに手紙に書き記させるために、必要な苦しみだったのではないか


と私は考えています。


このように考えてみると、加害者の苦悩と言うのは、被害者が被った命の重さを生涯負い続けると言う、死よりも苦しい心境ではあるまいか?


であれば、被害者として死んでいく者の理不尽さを御家族は無念に思い、哀しみは癒えず、自分も跡を追いたいと思う気持ちも当然の感情ですが、その死はある意味で意義ある死、尊厳死であるとも思います。


イエス・キリストの死の意味は、この辺りにあったのでは?と思います。


詰まり、理不尽な死を受けてきた多くのこども達を含めた、膨大な犠牲者の御家族の思い、哀しみの禍根をキリストの死は、そこで断ち切る。


ここで、キリスト教に一石を投じるほどの発言を致しますが、
(それほど大それた事を言おうとしていると自覚しています)


ここには、


神自ら、神が自分自身を【赦す】と言うこと


これは、聖書に反するあまりにも酷い言い草ですが


神のしてきた殺害、数多くの死者への弔い、



それらの残虐性の赦しは神自身が自分を赦す必要があった。
まず、神自身が自らの加害意識に対して、自分の罪を償っていたのではないでしょうか。



このために、キリスト教が育まれてきたのではないでしょうか?


そんな風に思えました。







この考えは、どう思われますか?

#15 2019年05月29日 10:26:36

ゆり
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ほいさん、
この掲示板の利用規約に「進化論に対する反論、聖書否定に対する反論は一切受け付けません」と明記されていますか?

忖度しろと言うことですか?
それは可笑しいでしょう。

エホバの証人時代と比較して、聖書に対する見方の点で極端から極端へ走っていることはないですか?

聖書に対して過敏に反応されるのには理由があるにしても、
聖書の正当性を説く人に対する人格攻撃は見ていて恐ろしいです。

仰天さんはその極端な思考を危惧しておられるのであって、何もご自分の主張が正しいなんて一言も言っておられませんよ。

誰の主張であれ、受け容れるかどうかは各自が自分のアタマで理性的に判断すればよいのであって、誰かの意見に合わせる必要もないし、その為に徒党を組む必要もないと思います。

#16 2019年05月29日 11:17:09

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ゆりさん

大丈夫ですよ^_^

ほいさんは多分、真面目に質問しておられると思います。

ジョエルさんも誠実な対応をされる方ですし、そのような方とはお話をしてもいいかなと思っています。

#17 2019年05月29日 11:47:47

ひよりタニタクミ
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ゆりさん。

こんにちはm(_ _)m


ほいさんとゆりさん。
HNが二文字同士だからでしょうか?

御二人が話し合われると、
またエンドレスになられる気が致します。

せっかくのスレッドですから、
トピ主の仰天さんに対してお声かけ、
したら良いと思いますよ。


私も、
仰天さんの御返信を御待ちししています。

#18 2019年05月29日 12:13:01

ゆり
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ひよりさん、こんにちは。(^-^)

>ほいさんとゆりさん。
HNが二文字同士だからでしょうか?
御二人が話し合われると、
またエンドレスになられる気が致します。


お腹を抱えて笑ってしまいました。
そうですね。
お気遣いありがとうございます。

#19 2019年05月29日 12:47:28

ほい
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ひよりタニタクミ さんの発言:
ほい さんの発言:

残念ながら犯人が死亡したので動機の解明が困難になることが懸念されますが、もしかすると現在の日本社会に対する不満、怒り、恨みがあったのかもしれません。
こんな日本社会を作ったのは政府ですが、現在の日本は民主主義ですから、古代のエジプト以上にそんな政府を選任した責任は国民にあるということになります。
であれば、そんな日本人を罰するために彼らの子どもを殺すことも、

ほいさん、こんばんはm(_ _)m

なんかHNが落ち着かない状態ですけど申し訳ありません、ほいさんのこの文章は素晴らしいと思いました。犯人は口を利けません。でも被害者の御家族は、きっと一生涯この犯人を赦しはしないのでしょう。当然のことです。神の【子に罪を負わせて、3代4代に及ぼす】と言う、沙汰は、人道的に見て全く善いとは思えません。

聖書に、神の子に罪を負わせ死を与える残虐性をこれほどに理不尽に描いているのは【被害者】の思いに、思慮を働かせているためではと思うのですが。

ほいさんはどう思われますか?

ひよりさん、こんにちは。

「【被害者】の思いに、思慮を働かせているため」という意味を図りかねているのですが、奴隷として被害者であるイスラエル人にとっては、加害者であるエジプト人は赦しがたい存在なので、その無念を晴らすために神があえて残虐的に復讐した、ということでしょうか?

被害者の気持ちを考えると復讐したいという思いは十分に分かるのですが(私も自分の子どもが殺されたら、犯人を殺してやりたいと思うでしょう)、だからと言って直接の加害者ではない加害者の関係者まで復讐の対象にするというのは赦されないと思います。

ひよりさんの質問の意味をはき違えていたらすみません。

#20 2019年05月29日 13:07:11

ほい
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ゆり さんの発言:

ほいさん、
この掲示板の利用規約に「進化論に対する反論、聖書否定に対する反論は一切受け付けません」と明記されていますか?

忖度しろと言うことですか?
それは可笑しいでしょう。

エホバの証人時代と比較して、聖書に対する見方の点で極端から極端へ走っていることはないですか?

聖書に対して過敏に反応されるのには理由があるにしても、
聖書の正当性を説く人に対する人格攻撃は見ていて恐ろしいです。

仰天さんはその極端な思考を危惧しておられるのであって、何もご自分の主張が正しいなんて一言も言っておられませんよ。

誰の主張であれ、受け容れるかどうかは各自が自分のアタマで理性的に判断すればよいのであって、誰かの意見に合わせる必要もないし、その為に徒党を組む必要もないと思います。

ゆりさん、別スレッドの私のコメントの真意は、忖度しろと言うことではなく、むしろ忖度するなと言いたかったんです(分かりにくくてすみません汗)。
おかしいと思うところはちゃんと指摘する、できる環境が健全だと思うからです。

ですので、私が言いたかったのは「聖書の神にも忖度するな」ということでした。神様でもおかしいところは指摘してしかるべきだと考えます。
もちろん納得のいく原因や理由を得られるのであれば、私はその指摘は撤回するつもりです。
今は仰天さんの説明待ちですね。全然急がないので(というか自分も返信遅いので)お時間のある時に返信いただければ十分です。

掲示板の運営方針については、何でもありになるとそれはやはり無秩序ですので、何らかのルールは必要になると思います。
でもそのルールも白黒はっきりできるものではなく、大半がケースバイケースで判断することが必要な場合が多いのではないでしょうか。
そして、この掲示板でそれを判断するのは運営者であるカレブさん、次いで各スレッドのスレ主でしょう。

私個人の意見としては、仰天さんのコメントを隔離すべきとまでは感じませんでしたが、カレブさんはこれまでの経験や他の閲覧者の心情などにも配慮して決断されたのかもしれません。
まだこのスレでは議論を許されていますし、私としては抗議するほど理不尽な措置とは思いませんでした。

サイト運営者と聖書の神の最大の違いは、従わないことを許されるかどうかではないかと考えています。
もしこのサイトの運営方針に不満があれば、このサイトを去ることも、他のサイトに行くことも、自分で同様のサイトを立ち上げることもできます。
でも聖書の神の場合、原理主義的に解釈すると従わない人類は滅ぼされてしまいます。もう一つに地球に移民するなんて選択肢はないのです。
私はこの考え方はカルト的だと思っています。

すみません、昼休みが終わったのでひとまずここまでで。
また夜に覗かせてもらいます。

#21 2019年05月29日 13:12:44

ほい
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

あ、あと「被害妄想」発言をした私が言っても説得力ゼロですが、人格攻撃は良くないと思いますよ。
なので仰天さんの意見には同意していませんが、一線を越えた仰天さんへの批判には私は反対です。
これは、エホバの証人に対する批判でも同様です。
一応、これが私のスタンスです(^^;)

#22 2019年05月29日 15:03:40

ゆり
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ほいさん、お返事ありがとうございます。

この度、人格攻撃する人に対して直接意見を述べてくださったのは、ほいさんだけでした。(^-^)
ほいさんのスタンスは分かっていますよ。
私も同じスタンスです。

#23 2019年05月29日 21:26:02

ひよりタニタクミ
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ほい さんの発言:

「【被害者】の思いに、思慮を働かせているため」という意味を図りかねているのですが、奴隷として被害者であるイスラエル人にとっては、加害者であるエジプト人は赦しがたい存在なので、その無念を晴らすために神があえて残虐的に復讐した、というでしょうか?

だからと言って直接の加害者ではない加害者の関係者まで復讐の対象にするというのは赦されないと思います。


ほいさん、御返信どうもありがとうございますm(_ _)m


仰天さんの御返信を御待ちしていますが、その間にほいさんと
会話したいと思いました。


ほいさんのお考え、私の思いと合致しています。


ところでエジプト脱出を先導したモーセは、
ヘブライ人ではなく、
エジプト人であった事は御存知でしたでしょうか?




長子皆殺しの命令が布告された時には、ファラオの娘が、
赤子のモーセを匿うのですが、モーセがヘブライ人であれば、
いくらファラオでも黙認しなかったと予測します。




モーセがエジプト人であった事を思うと、出エジプト記の
エジプト脱出劇は、モーセがエジプト人でありながら、
ファラオと対立してエジプト人全体を敵にまわしたと言えます。




では、被害者は誰でしょう?

イスラエル人の救出に
神が介入してモーセをリーダーにして


モーセにとって同胞エジプト人が
理不尽に大量に虐殺されていたと考えると、


ナゼかモーセが加害者に思えてくるのは、
不思議ですね。






どう思われますか?

#24 2019年05月29日 23:29:03

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ほい さんの発言:

返信ありがとうございます。
お互いの立場を尊重して議論するという点は、私も仰天さんと近いスタンスだと思いますので、ここに書くことは仰天さんに私の意見に同意して欲しいということではありません。
疑問がある点や、自分の見方を書きたい部分のみ返信しますね。
もし機会があれば、また仰天さんのご意見を拝見したいです。

ほいさんに誠実さを感じていますと書いたところ、表向きはエホバの証人を演じているので誠実とは程遠いという事を言っておられました。

これは、JWのご両親の為を思っての事だと思いますが、確認なのですが、ほいさんは神がおられても残酷な神様のように思うので、そのような神様なら滅ぼされる事を選びますと書いておられました。

二世として育って来られても、神はおられると思って心から感謝していた時期もあられたのでしょうか?
それとも、神に感謝しなさいと教えられてきたものの神を身近に感じる事なく感謝する気持ちもほとんどなかったのでしょうか?
それによって同じ聖書の話を聞いても違ってくると思うのです。


ほい さんの発言:

私としては、残虐な民への裁きということ自体は否定するつもりはないのですが、人の心を知ることができ、個別に裁く能力を有している神であれば、異民族や某都市の住民すべてを一律で滅ぼすというような暴挙を選ぶ必要性はないのではないかと感じます。

確かに、ノアの洪水を史実として見た時には、一律で滅ぼされた事になりますが、確かな箱舟の建造期間は分かりませんが、相当長い期間があり、その間にノアと家族達は周りの人々に警告し続けたはずですから、悔い改めて箱舟に入る事もできたはずです。
ヨナ書を見るとニネベの人々は悔い改めて助かっていますし、ヨシュアの遣わした斥候をかくまって助けたラハブとその家族もカナン人の中から助かっています。それに、降伏してきたギブオン人も仲間になりました。在留外国人も律法で守られています。

ですから、全部が全部一律で滅ぼしたとか、暴挙だとは言い切れないと私は思います。


ほい さんの発言:

もちろん、完全に公平な立場で物事を評するというのはとても難しいことです。
自分の好みや思想、経験などで何がしらのフィルターがかかることは往々にあることでしょう。
ただ、エホバは旧約聖書の中で相当な数の人を殺していますし、その中には老人、女性、子どもなどの非戦闘員も多数含まれています。
現代の文明国における一般的な価値観に照らして見ると、フィルターの有無にかかわらず、やはり残酷だと感じるのが普通の感覚だと思います。

確かに現代人の感覚で見ると残酷だと感じるのが普通だと言えます。
しかし、現代の感覚という時点でフィルターがかかっていると思います。
神は創造の時から、神から離れるなら死ぬ事を警告しておられました。
聖書の言う罪とは、戦闘員であるという事には限られません。旧約の時代は神の奇跡や力を直接に目の当たりにできた時代です。その点で現代の感覚と同じではないと思います。老人、女性、子供でも明らかに神を認めず反抗していたなら、処罰を受けたでしょう。
神から離れた人類全てを神は滅ぼす事もできましたが、それでも神は救済の道を備えられました。


ほい さんの発言:

他に子供を授ける事もおできになるということがエホバの証人の解釈なのかは微妙ですが、あくまでも可能性の話です。
創世記の記述は情報量が致命的に少なく、それぞれの発言の真意も分かりづらいというのが事実ではないでしょうか。

おっしゃる通り、書いてない事もありますから具体的に分からない点もありますね。しかし、アブラハムは、「私と息子は戻ってくる」と言っている事は確かです。

そして、アブラハムはその試練に遭う前に、神からこう約束されています。


創世記/ 21章 12節
神はアブラハムに言われた。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。


ですから、イサク以外に別に子供をとは考えてはおらず、イサクによって子孫が伝えられると確信し、神を信頼していたと思います。


ほい さんの発言:

22章8節でアブラハムが「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」と言っていますが、好意的に解釈すれば神が小羊を備えてくださると考えていたと言えるかもしれませんが、イサクについてこさせるための方便だったという可能性もあります。

方便だったかもしれないですし、そうでないかもしれません。詳しく書いてないですから。


ほい さんの発言:

実際アブラハムはイサクに「お前を犠牲として捧げるようエホバに言われた」とは事前に伝えていません。
推測は省き、書いてあることだけから考えると、神はイサクを捧げさせることはしないとアブラハムは確信していたとは言いきれないのではないでしょうか。


ヘブライ人への手紙/ 11章 19節
アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。


聖書を信じるなら、アブラハムがイサクを捧げる事は絶対になかったとは言えないですが、神を信頼していたという事だけは確かでしょう。

そして、イサクも羊がない事は分かっていたわけですし、おそらく成人しており、縛られる時に抵抗して逃げる力もありましたが、そのようにしませんでした。
イサクも神と父アブラハムとを信頼していたわけです。
神は自分の約束を破るような独り子イサクを捧げさせるような事はされず、とどめられ代わりに雄羊を備えられました。これはキリストを表わしていると思います。

ほい さんの発言:

先ほども書きましたが、私が言っているフィルターなしというのは、信仰心の有無とは関係のない現代の一般的な価値観で見るとということです。
現代でもイスラム教の過激派が無差別テロをしていますが、他のまともなイスラム教徒も含めて、現代の価値観ではたとえどのような理由があっても無差別殺人を正当化することはあり得ないと思います。

信じていなかったら関係ないと言われますが、信じない者は滅びるという聖書の内容自体がカルト性を帯びているとはお感じになりませんか?

見てきましたように、神による裁きは、テロによる無差別殺人とは異なります。

信じない者は滅びると言われますが、信じるなら救われるのです。

神を認めてイエスの贖いを認め、感謝して生きるだけで永遠の命なのです。何も難しい事はないです。それは自由意志で選ぶ事ができます。特にカルト性は感じません。
カルトというのは偽りの宗教に見られるのであって、真の神がカルトであるはずがないのです。

カルトの意味をどのように考えておられますか?

ほい さんの発言:

議論を否定する意図はありませんでした。
ただ、ある程度の期間そのような議論を続けてこられた方にとっては、いつになっても再び繰り返される議論にウンザリしてしまうという気持ちは理解できるということです。
ゴールのないマラソンのようなものなので…。


例えば、ユーフラテス川が洪水後もあるからおかしいという同じような否定派の意見は色々あるでしょうが、地形が洪水前と後では完全に異なっているという指摘を私はしました。
そのように、具体的に一つ一つ見ていくなら、(このほいさんとのやり取りでの指摘も含めて)聖書に対する見方が変化したり、眼から鱗が落ちて聖書に対する愛が戻る方もおられるかもしれません。

ですから、決してゴールのないマラソンとは思いません。
中には、ご自分で結論を出しておられて、相手がどんな説明をしようとも聞き入れる気がない人もおられます。
そのような人とは平行線だとは思いますが。

議論がウンザリと思われる方は参加しなければいいと思います。

#25 2019年05月29日 23:32:02

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ほい さんの発言:

色々書きたいことはあるのですが、とりあえず一点だけ一番気になった部分に焦点を絞って質問します。

仰天 さんの発言:

ですから、潔白で善良なファラオを神がかたくなにしたのではなく、最初からかたくなで反抗的なファラオと神が対峙される事によって、さらにファラオがかたくなさを示したという事なのです。
そして、イスラエルを長い間奴隷として過酷に扱っていたファラオにエジプトの民は賛成していたのです。イスラエルなどは奴隷として扱っても当然だと思っていたでしょう。中には、そのように思っていないエジプト人もいたのではないかと言われるかもしれません。しかし、全体的にエジプトの民がファラオに賛同していなければ神が裁きを下す事はないはずです。それでも神は、エジプト人が生き残るようにされ、憐れみを示しておられます。エジプト人が悔い改めるならば裁きは免れる事ができたわけです。神の力を目の当たりにしながらも反省するどころか、より反抗的になったのですから、言い逃れはできないでしょう。

ほい さんの発言:

この解釈には強い違和感を持ちます。

まず、当時のエジプト人にファラオの決定に異議を唱えることが許されたとお考えでしょうか?表立ってそのようなことをすれば死刑になってもおかしくないのではないでしょうか?
それを賛同していたと一括りに論じるのはかなり乱暴だと思いますがどうでしょう?

異議を唱える者は家臣の中にはいました。

出エジプト記/ 10章 07節
ファラオの家臣が王に進言した。「いつまで、この男はわたしたちを陥れる罠となるのでしょうか。即刻あの者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてはいかがでしょう。エジプトが滅びかかっているのが、まだお分かりになりませんか。」


死刑にはなっていませんが、民衆は異議を唱える事は難しかったかもしれません。
しかし、家臣と民衆の大半が反対したなら状況は変わったかもしれません。それは分かりません。

ファラオですから簡単に聞く耳を持つとは思えませんが。
エジプト人の中にもイスラエルを可哀想だと思う人ももちろんいたでしょうが、

恐れて異議を唱えられなかったとしましょう。しかしそれは結局は自分達だけがよければいいという考えであり、大部分の者がイスラエルを奴隷として虐げる事に賛同していたと見られてもおかしくはないと思います。

現に、エジプトの民はイスラエルの男子を溺れさせて殺しています。

出エジプト記/ 01章 22節
ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」


ほい さんの発言:

また、エホバはエジプト人の長子を皆殺しにしていますが、これはどのように説明されますか?
仮に仰天さんがおっしゃる通りエジプト人が全体としてイスラエルの虐待に賛同していた(黙認していた)として、そのことを理由に直接関係のない子どもたちを皆殺しにするという処罰は正当化されるのでしょうか?
これら子どもたちには「悔い改める」機会さえ与えられなかったのでしょうか?

雹の災いの時ですが、神を恐れて家畜としもべ達を避難させたエジプト人は助かっています。出エジプト9:20


十の災厄がエジプトに臨んだわけですが、早い段階で神の力を認めて反省し、イスラエルを去らせておけばほとんど被害はなかったでしょう。
しかし、神の力を見ながらファラオはモーセとアロンの言う事を聞き入れませんでした。

災厄の後にファラオは「今度ばかりはわたしが間違っていた。正しいのは主であり、悪いのはわたしとわたしの民である。 あなた達を去らせよう。」と表面だけ言いましたが、災厄がなくなると約束を破り強情さを示しました。


出エジプト記/ 09章 34節
ファラオは、雨も雹も雷もやんだのを見て、またもや過ちを重ね、彼も彼の家臣も心を頑迷にした。


そのような事が何度も繰り返されて、神の奇跡を直に見てもファラオは悔い改める事はありませんでした。
イスラエルから約束のメシアが出るのですから、エジプトでヘブライ人が消滅させられるなら人類の救いに関わります。

それでも強情なファラオに対して最後の災いとして出されたのが初子への災いでしたが、その災厄までには時間がありました。それまで全ての災いが実現していたのですからイスラエルを去らせるなら回避できたわけです。

幼子には災いでしたが、そこまでしないとファラオは民を去らせなかったのです。十分な警告が与えられていたのです。

殺された子供は災難でしたが、私はそのような善悪の区別のつかない幼子達は天国に行ったと思います。

イエスは、「神の国はこのような者たちのものである」と語り、子どもたちを抱き上げ、祝福されたからです。その中にエジプトの幼子もベツレヘム周辺で殺された二歳以下の幼子も入っていると思います。

これを言うとオウムのポアを思い出す人もいるかもしれません。殺されても天国だから殺してもいいのだと。しかし、そのような事を言っているのではありません。そこまでしなければ頑ななファラオはイスラエルを去らせなかったのです。神はそのようになる前から十分な警告を与えました。

オウム真理教は真理などではなく、永遠の命を与える事はできません。
子供達は最大の災難から最高の祝福へと変えられたと私は思います。


ほい さんの発言:

もしこれらの行為が正当化されるのなら、今朝川崎で起きた痛ましい襲撃事件も正当化されるのかもしれません。
残念ながら犯人が死亡したので動機の解明が困難になることが懸念されますが、もしかすると現在の日本社会に対する不満、怒り、恨みがあったのかもしれません。
こんな日本社会を作ったのは政府ですが、現在の日本は民主主義ですから、古代のエジプト以上にそんな政府を選任した責任は国民にあるということになります。
であれば、そんな日本人を罰するために彼らの子どもを殺すことも、エホバがエジプト人の長子を皆殺しにしたことを考えれば何の問題もないのかもしれません。

仰天さんの主張はこのようなものなのでしょうか?
私には到底受け入れられません。

犯人が社会に不満があっても、罰として人殺しをする権利はありません。命の与え主だけが命を奪う事ができ、その権限があります。

神による上に立つ権威の法による裁きである処刑以外で、不満があれば殺していいというのは、明らかに殺すなかれという教えに反しています。



もちろん、これらの意見を押し付ける気はありませんが、ほいさんの考えの参考になる点があるなら幸いです。

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