#54 2017年09月21日 00:49:51
- どうでもいいけど
- ゲストユーザー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
てつてつさんがiris流カトリック信者と言うことがよくわかりましたありがとうございます
#55 2017年09月21日 01:22:27
- iris
- メンバー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
てつてつさん、私もイエズスさまの教えが真実だと信じていますよ。
ですから、生涯をかけてカトリックとして生きていくことに決めたのです。
私にとっては「わたしの神」はイザナギノミコトやガンジス河ではダメです。
泣きに行くところもカトリック教会でなくてはダメです。
ただ、ほかの人にとっても「irisの信じている神」が真実であるかどうかはわからないと思います。
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブライ11:1)
科学的事実は、見ようと思えば誰にでも見えます。ですから、信仰の対象ではありません。
どのような信仰を持っていようと、科学的事実は誰にとっても科学的事実です。
聖書の時代には科学的事実として見えていなかった事柄も、科学の進歩によってどんどん科学的事実として見えるようになり、信仰(宗教)が扱う範囲からは外れてきています。
ですから、聖書に書かれている事柄のうち、明らかに見えている科学的事実と矛盾するものについては、信仰によって無理やり事実を捻じ曲げるのではなく、信仰の対象ではなくなったことを認めるしかないと思います。
科学的素養のある人にとっては、そのように考えるのが自然だと思います。
オフライン
#56 2017年09月23日 06:54:35
- てつてつ
- メンバー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
ささらさん こんにちはまたいつでも時間できたときに書き込んでくださいね
irisさん ヘブライ11.1はものみの塔の聖書を見ると
(ヘブライ 11:1) 信仰とは,望んでいる事柄に対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な論証です…
となっていて 聖書は 自分は見えない実態もきちんと証拠立てて調べることによりはっきり理解できるようになり それゆえに信じるということが信仰という意味かなと考えていました 一例電波はみえないが計測器などにより証明できる ものみの塔もそのように教えていたような気がします
でもirisさんの 聖書をみると
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブライ11:1)
となっていて 本人が望んでいる事柄を確信することが信仰であるという意味に読めますね
ティンデル聖書注解の説明 も いまいちよくわからないので この件についての議論はさけたいと思いますが自分が今まで正しいと思っていた聖書の説明が違う場合もあるということがわかってよかったです
私にとっては「わたしの神」はイザナギノミコトやガンジス河ではダメです。泣きに行くところもカトリック教会でなくてはダメです。
自分はエデンの園のアダムとイブの話から ノアの大洪水ですべての動物と人間が滅んでノアの家族だけが生き残りそれから現在のすべての生き物や人間が生じた という話と
ガンジス川崇拝の ガンガー女神が地上を清めるために降臨しようとしたがあまりに強烈なため地球か壊れるのでシバ男神が髪の毛で受け止めてそれがガンジス川になりそこで身を清めることにより罪が清められカルマからも脱することができるという教えも 根本的な部分は寓話と思ってそれでも信者さんは共にすごい信仰していると思うので 同じじゃないかなーと思うのですが
編集者 てつてつ (2017年09月23日 07:08:55)
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#57 2017年09月30日 08:27:58
- iris
- メンバー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
みなさまおはようございます。
(ヘブライ 11:1) 信仰とは,望んでいる事柄に対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な論証です…
てつてつさんが紹介してくださった新世界訳の聖句ですが、
この文は何を言いたいのか、日本語の意味が私にはさっぱり理解できません。
日本語訳が悪いのか、あるいはもとの英文がおかしいのか、いずれにしても、
もともとの聖書のギリシャ語とは違うことを言っているように思われます。
私の手元にある英文の聖書は、40年以上前のTEV(The New Testament in Today's English Version)ですが、ヘブライ11:1は次のようになっています。
To have faith is to be sure of the things we hope for,
to be certain of the things we cannot see.
これを直訳すると「信仰するということは、わたしたちの期待(待望・希望)している事柄を確信すること、わたしたちの見ることができない事柄を確信すること」となり、先日私が御紹介した新共同訳の聖句
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」
とほぼ同じ意味であることがわかります。
原文のギリシャ語から別々に英語(TEV)と日本語(新共同訳)に訳された文が一致していることから、TEVや新共同訳が原文のギリシャ語を正しく反映しているものと考えてよいと思います。
新世界訳とはかなり違いますね。
エホバの証人の中には、信仰(宗教)と科学との区別がつかなくなってしまっている人が少なくないように私には思われます。
新共同訳聖書は「信仰とは見えない事実を見えないまま信じること」という信仰者として適切な態度を示していると思いますが、新世界訳を使うと「信仰があれば見えない事実も無理やり見えることにできる」と教えることができ、これが信仰上の事柄と科学的事実とを混同させる原因になっているように感じます。
カレブさんが「カトリックでは真理でないことを真理のように教える」とお考えだったり、ささらほーさらさんが「進化を認めながら信仰も持つのは矛盾している」とお考えだったりするのも、信仰上の事柄(物語の中の事実)と科学的事実との区別をつけさせない(意図的に混同させる)ものみの塔の考え方が影響しているのかな…とてつてつさんの書き込みを読んで考えました。
聖書の時代なら、事実を科学的に解明する技術は現代と比較にならないので、信仰上の事実と科学的事実とが混同されても仕方ない部分はあると思いますが、原文のギリシャ語は本当のところどのような意味なのでしょうね?
編集者 iris (2017年09月30日 08:44:28)
オフライン
#58 2017年09月30日 14:28:52
- カレブ
- Administrator
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
irisさん おはようございます。
わたしが述べているのはとても単純なことで
irisさんの言われる「信仰上の事柄」は事実でもなんでもなく
いわゆる妄想と変わりないということです。
妄想が悪いわけではなりません。わたしはSF映画が好きですが
それは単なる妄想の物語にすぎません。そして人々は躊躇することなくそれを認めることができます。
しかし宗教の問題はカトリックを含めて、単なる妄想を「真理」のように教えているということです。
どれだけの人が「物語の中の事実」というあいまいな表現に満足できるのでしょうか。
irisさんはキリストが3日目によみがえったということを信じていないのでしょうか?
ノアの洪水の話や他の怪しい話は「物語の中の事実」でも構わないが
キリストの復活の話だけは正真正銘の事実なのでしょうか?
オフライン
#59 2017年09月30日 20:15:11
- てつてつ
- メンバー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
irisさん こんにちは
新世界訳の聖句ですが、この文は何を言いたいのか、日本語の意味が私にはさっぱり理解できません。
ヘブライ 11:1は翻訳によって微妙に違いがあるようですね
ただ自分がこのトピの♯65でティンデルの聖書注解を参照しましたように
著者はこの冒頭の言明で信仰に関する精密な定義を試みている、と考える必要はない。むしろ、神の人たちの過去のさまざまな経験の中で鮮やかに例証された重要な局面を提示するのである
とあるように 別にこの聖句が聖書のいう信仰の定義というわけではないようですのでそれほどこだわる必要はないようです
「自分はこの聖句が聖書の言う信仰の定義だと今の今まで確信していましたが 」
あと新世界訳聖書については 良心の危機68ページに
「新世界訳」には訳者の名前は記されておらず、「新世界訳委員会」の仕事であることになっている。この委員会には他にネイサン・ノア、アルバート・シュローダー、ジョージ・ギャンギャスがいた。しかし、聖書の言語について、この種の翻訳をするための知識があるのはフレッド・フランズだけだった。フレッド・フランズは、シンシナティ大学でギリシャ語を二年間学んでいたが、へプライ語は独学だった。
とあるように多少専門知識があったのはフレッド・フランズだけのようです それもかなり怪しいと思いますが
さらにいったん英語に翻訳されたものを再度日本語に翻訳していますので怪しいの2乗になっていると思います
エホバの証人の中には、信仰(宗教)と科学との区別がつかなくなってしまっている人が少なくないように私には思われます。
多分区別はついていると思いますが ものみの塔では基本聖書に書かれていることは文字通りそのままおきたと教えているのでirisさんはそう感じるのでしょう
新世界訳を使うと「信仰があれば見えない事実も無理やり見えることにできる」と教えることができ、これが信仰上の事柄と科学的事実とを混同させる原因になっているように感じます。
これは違います ものみの塔はそのようなことは行っていなかったと思います 自分が♯65で書いたように
聖書は 自分は見えない実態もきちんと証拠立てて調べることによりはっきり理解できるようになり それゆえに信じるということが信仰という意味かなと考えていました 一例電波はみえないが計測器などにより証明できる ものみの塔もそのように教えていたような気がします
だったと思います
あと自分はirisさんの
信仰上の事柄(物語の中の事実)と科学的事実との区別
の意味がわかりません 具体例をあげていただけますか
編集者 てつてつ (2017年09月30日 20:49:43)
オフライン
#60 2017年09月30日 21:11:50
- さやか666
- ゲストユーザー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
思い出しました
似たようなことを自身のブログで扱ったことがあります
https://ameblo.jp/sayaka66rock/entry-12185884602.html
楽しさや感動のための嘘の共有というのはアリだと思います
#62 2017年10月01日 22:06:04
- さやか666
- ゲストユーザー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
お褒めいただきありがとうございます
たしかにこういう込み入った内容こそ、シンプルで平たい説明がないといけませんよね
とたんにインチキくさくなりますから
また投稿します
#63 2017年10月02日 17:07:34
- ジョエル
- ゲストユーザー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
さやかさんその記事なつかしい
サヤカのきしめん に衝撃を受けてしばらくお邪魔していました
大抵の記事は自分の理解も及びませんでしたが
#64 2017年10月02日 21:02:56
- さやか666
- ゲストユーザー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
よい説明が思いつきませんわ、気づいたらドビュッシーの名言とかググってました
さておいて
誰もが知ってると思います、ディズニーシーでタートルトークという人気のアトラクションがあります
大きな液晶で画像の亀さんとお話するのですが
亀のおしゃべりが面白くて人気です
冷めた目で見れば全くの虚構なのですが、問題視する人はいないと思います
教育現場で問題になったトンデモ資料があったみたいです「江戸しぐさ」「水からの伝言」
タートルトークと違って激しい批判を受けてしまうのは教育現場でそれらが事実のような扱いを受けていたからでしょうね
てつてつさん、相変わらずよく分からない感じになりましたがとりあえず投稿します
#66 2017年10月02日 22:18:29
- ジョエル
- ゲストユーザー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
ドビュッシーの名言ですか
自分の頭をよぎったのはバンプオブチキンの「あの人は優しく嘘をついた」です。
「私は再び来る」
「その日、その時は、だれも知らない」
永遠に破られない約束(嘘)
言った方も言われた方も嘘だと分かっていて、それが生きる力になる
そういう「信じ方」も世の中にはあっていいと思います。
#67 2017年10月03日 01:29:35
- iris
- メンバー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
てつてつさん、コメントありがとうございます。
ヘブライ11.1はものみの塔の聖書を見ると
(ヘブライ 11:1) 信仰とは,望んでいる事柄に対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な論証です…
となっていて 聖書は 自分は見えない実態もきちんと証拠立てて調べることによりはっきり理解できるようになり それゆえに信じるということが信仰という意味かなと考えていました 一例電波はみえないが計測器などにより証明できる ものみの塔もそのように教えていたような気がします
これは、見えない電波が計測器などによりその存在や性質が証明できるように、「見えない実体」も客観的な証拠に基づいて実在することを証明できると教えているように思います。
つまり、ものみの塔の指示に従って「研究」すれば、「見えない実体」も科学的事実と同じように客観的な(誰にでも証明可能な)事実と理解できるということではないでしょうか。
私はこのような教え方こそ、「見えない実体」すなわち信仰上の事柄と科学的事実とを混同させる原因だと感じます。
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブライ11:1)新共同訳
カトリック教会はどう教えているかというと、ヘブライ11:1に関しては「カトリック教会の教え」(カトリック中央協議会 2003年)の34ページに解説があります。
それによると、「望んでいることがら」「見えない事実」とは、「壊れない幸せ」「永遠に変わることのない過ぎ去らない愛」「死ぬことのないいのち」といった、この世に存在しない超自然のことがらをさしており、信仰とはこのような「人がこの世のものには見いだすことができずとも心底希望していること」が存在し、実現するのだと確信することとされています。
つまり、ものみの塔の教えでは「見えない実体」が観測できるもの、実在するものと考えられているのに対し、カトリックの考え方では、これらのことがらはそもそもこの世に存在しない超自然のことがらであるというのが大前提であることがわかります。つまり信仰が扱うことがらは、カレブさんのおっしゃるところの「妄想」の中に存在するものであって、科学的事実のように誰もが客観的に観測して確認できるような性質のものではないということです。
信仰と科学とでは、そもそも対象も考え方も異なるのです。
念のために繰り返し申し上げますが、カトリックの教えを紹介するのはものみの塔の教えと比較するためであって、カトリックが正しいからでも、カトリックに勧誘するためでもありません。
編集者 iris (2017年10月03日 01:38:33)
オフライン
#68 2017年10月03日 06:10:02
- run
- ゲストユーザー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
irisさんはキリストが3日目によみがえったということを信じていないのでしょうか?
キリストの復活を信じているのか否か、これは僕も関心があります。
すでに、#8にて答えておられましたよ。
「イエスは処女マリアから生まれ、死んで3日目に復活し、生者と死者を裁くために来られる」
という教えのほうは、カトリックの物語だと思います。
カトリックの物語を共有する人々の間でだけ通用する真理ではあるかもしれませんが、
単なる真理ではないと思っています。
恐らく、キリストの復活を信じているとしても 飽くまでもカトリックの物語として受け入れているだけのことで、全人類が共有すべき真理であると思っているわけではない。「隣人愛」こそが真理である…という考えではないでしょうか?
違うのかな?
横入り失礼致しました。<(_ _)>
#69 2017年10月03日 07:32:05
- てつてつ
- メンバー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
さやかさん 書き込みありがとうございます
タートルトーク 「江戸しぐさ」「水からの伝言」
全部はじめて聞く言葉だったのでネットで検索してみて少しわかりました 勉強になりましたありがとうございました
irisさん 書き込みありがとうございます
つまり、ものみの塔の指示に従って「研究」すれば、「見えない実体」も科学的事実と同じように客観的な(誰にでも証明可能な)事実と理解できるということではないでしょうか。
これはそうだと思います ただ自分は現在も「ものみの塔の指示に従って」という文字をなくした後半の部分はそうだと考えています 「一例 遺伝子の配列は偶然ではありえないので創造者がいるにちがいないと思っています」
カトリックの教えは 以前にアマゾンでポチッたのがありましたのでirisさん の引用した部分読んでみました のである程度わかりました
ただ同じ本の39ページあたりに
キリストと使徒たちの教えは、一方で新約聖書に結晶していきましたが、他方で、教えの要諦がまとめられて「信仰の規範」として伝えられてきました。すでに二世紀からそれらは「信条(信仰宣言)」として定式化していきました。古代において数多くの信条が各地方に見られましたが、その基本的形式と内容はどれも共通です。信条は、主として洗礼に際して受洗者が信仰を宣言するときの定式として生じてきました(時として教理教授の基本形であった場合もあるようです)。ですから、これだけのことを信じ、その信仰を公に宣言するなら、キリスト信者であるということです。信条は古代以降も今日に至るまで、洗礼を受ける人々の、またミサにおける教会共同体の信仰宣言として、教会において中心的意義を占めています
とあり そのあと三つの信条の例があげられているのですが 三つとも
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府に下り三日目に死者のうちから復活し、
と書かれているので 自分はたぶんこれが事実だと認めないといけないと思うのですが....
これを物語と信じますなんて言ったら破門されるかも
追伸
ものみの搭の信仰の定義
https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/102000168
編集者 てつてつ (2017年10月03日 13:11:30)
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#70 2017年10月03日 13:07:38
- iris
- メンバー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
runさん、お久しぶりですね。コメントありがとうございます。
自分でどんどんお返事できればよいのですが、なかなか時間がとれませんので、少しずつお返事しています。
キリストの復活を信じているとしても 飽くまでもカトリックの物語として受け入れているだけのことで、全人類が共有すべき真理であると思っているわけではない。
概ねrunさんのおっしゃる通りです。
私はカトリックですからカトリックの物語を信じています。
しかし、科学的事実を認めるのと同じように信じているわけではありません。
カトリックの物語はカトリック信者にとっては真実ですが、カトリック信者でない人にとって真実である必要はありません。
エホバの証人とカトリック信者とでは、信仰というものに対する認識がまるで違うと私は思うのですが、エホバの証人にとっての「信仰(宗教)」のあり方こそが一般的な「信仰(宗教)」というものだと信じている方々には、なかなか理解していただくのは難しいようです。
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#71 2017年10月03日 13:20:23
- てつてつ
- メンバー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
あとiris さん
先ほどの信条は最初から物語として信者さんに言わせていたのですか?それとも途中から物語に変わったのですか?そうだとしたら事実だと信じている信者さんは間違いを信じていて救われないのですか?
あと
>カトリックの物語はカトリック信者にとっては真実
の意味がわかりません
あと物語を信仰の根拠にしているので救いというのは現実のものではなく本人が救われたと思っていればよいものなのでしょうか?
何だか疑問がたくさんでてきます
追伸
(マタイ 24:37‐39) …人の子の臨在はちょうどノアの日のようだからです。38 洪水前のそれらの日,ノアが箱船に入る日まで,人々は食べたり飲んだり,めとったり嫁いだりしていました。39 そして,洪水が来て彼らすべてを流し去るまで注意しませんでしたが,人の子の臨在[の時]もそのようになるのです…
イエズス様が語られたこのノアの大洪水への言及はイエズス様は物語として語られているのでしょうか? それとも事実として? またはこの記述全体が物語りなのでしょうか?
あとヤフーの知恵袋でカトリックの背景を持つ方が信仰とはという質問をしたときに 証人だと思われるyu08033227440さんが返答していますが 典型的な証人の「自分と同じ」回答をしていますね
「信仰とは、望んでいる事柄に対する保証された期待であり、見えない実体についての明白な論証です」
ヘブライ11章1節の信仰の定義です。
注目できるのは最後の部分の「論証」、「論理的に証明すること」です。
つまり、自分の信じていることを筋道立てて説明できること、これが信仰です。
自分は神を信じています!神はいるからです!!と強くわめきたてるのもいいですが、なぜ信じているのか、いると言えるどんな証拠があるのか、
全く論理的な説明になっていないので、所詮その程度の信仰になってしまいます。
追伸2
あとirisさんが紹介されたカトリックの教えの36ページをみますと
「神の啓示は、つねに集団としての民に与えられました。旧約における神の啓示は、神と神が選ばれた民との契約として出発しました(出エジプト岨・116参照)。イエスは福音を告げるにあたって、神の民であるイスラエル民族の十二部族を象徴する十二弟子を召し出しました。この十二弟子を出発点として生まれた教会は、自分たちが神から召された新しい神の民であると自覚しました。こうして教会は、団体として神とキリストから啓示を託されたものと信じ、これを「信仰の遺産」と呼び、純正なものとして保ち、誤りなく各世代に伝える務めを果たしてきました」
とありましたが これはものみの塔が組織として信者を支配する権利が神から与えられているいう論理と同じだと思います
また続いて
『教会憲章』は、「聖なるかたから塗油を受けた信者の総体は、信仰において誤ることができない。この特性は、『司教をはじめとしてすべての信徒を含む』信者の総体が信仰と道徳のことがらについて全面的に賛同するとき、神の民全体の超自然的な信仰の感覚を通して現れる」と述べています。神からの啓示を託された教会には、誤った考えや信仰の実践が入り込むこともありましたが、教会が全体として誤りに陥るということは決してないといっています。教会がもとの福音と違った方向にいってしまうなら、すべての人々、あらゆる時代の人々のための神からの啓示がどこにも純正に保たれていないという矛盾を生みます。もしキリストにおける神の啓示が本物であれば、教会が全体として信仰のことがらにおいて誤らないということは、ほとんど論理的帰結です
とありましたが これは自分たちが作った教会憲章に教会が全体として誤りに陥るということは決してないとかかれているから大丈夫といっているわけで 例えは悪いですけどセールスマンが自分たちの会社のパンフレットを持ってきてほらここに大丈夫だと書いてあるでしょだから大丈夫ですみたいな感じにしか自分には思えないです
あと別に自分はirisさんを困らせようとか いじわるしてやろうという気持ちはないつもりで単にirisさんの話から疑問な点を述べているつもりですが でももうこの件はわかったからおいといてといわれるならそういっていただければそうします
編集者 てつてつ (2017年10月04日 07:08:37)
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#73 2017年10月04日 13:24:21
- iris
- メンバー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
「隣人愛」こそが真理である…という考えではないでしょうか?
宗教では「真理」という語をよく使いますが、その意味するところは人によって違うように思います。つまり、日本語話者が全員一致で納得するような厳密な定義がはたしてあるのか、疑問に思います。科学における真理、キリスト教における真理、仏教における真理、それぞれ少しずつ違うものを指しているのではないでしょうか。
カレブさんは「“真理”のように教える」という言い方をよくされますが、私にはどのように教えることなのかがよく理解できないのです。ですから、“真理”のように教えるとはどのように教えることを指すのかお尋ねしたのですが、お答えはいただけないようですね。
私は#8を書くために、小学生向けの国語辞典から定義を借りてきました。
真理:いつでもどこでも変わらず、正しいとされることがら。(チャレンジ小学国語辞典第6版)
さて、これに基づいて考えますと、「人間として最も大切なことは、隣人を自分のように愛すること」という教えは、いつでもどこでも変わらず正しいと私は思いますので、上の「真理」の定義に合致します。
一方、「イエスは処女マリアから生まれ、死んで3日目に復活し、生者と死者を裁くために来られる」という教えのほうは、いつでもどこでも変わらず正しいわけではないと私は思いますので、上の「真理」の定義には合致しません。
ただ、私は「いつでもどこでも変わらず、正しいとされることがら」という定義が、宗教上の意味を含めて“真理”ということばを説明し尽くしているとは思えません。
というわけで、私は「隣人愛」こそが真理であると思っているわけではありませんが、「人間として最も大切なことは、隣人を自分のように愛すること」という教えは、いつでもどこでも正しいと思っています。
編集者 iris (2017年10月04日 13:51:27)
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#74 2017年10月04日 13:35:46
- iris
- メンバー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
irisさんはキリストが3日目によみがえったということを信じていないのでしょうか?
ノアの洪水の話や他の怪しい話は「物語の中の事実」でも構わないが
キリストの復活の話だけは正真正銘の事実なのでしょうか?
キリストの復活を信じているのか否か、これは僕も関心があります。
私にとってはノアの洪水は神話で、キリストの復活は真実です。
けれども、キリストの復活を信じているのは私に信仰があるからであって、
科学的事実を認めるように信じているわけではありません。
編集者 iris (2017年10月04日 13:37:26)
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#75 2017年10月04日 18:20:05
- てつてつ
- メンバー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
irisさん 書き込みありがとうございます
できれば追伸ではなくて、新たに書き込んでいただいた方が私はお返事しやすいです
了解しました わざわざ新しく書き込むほどではないかなーと思ったので追伸にしたのですが 見ている方にとっては あれっ! いつのまにか増えてる と思いますよね 申し訳ありませんでした
カレブさんは「“真理”のように教える」という言い方をよくされますが、私にはどのように教えることなのかがよく理解できないのです
多分 事実「本当におこったこと」として教えると同じ意味だと思います
私にとってはノアの洪水は神話で、キリストの復活は真実です。
けれども、キリストの復活を信じているのは私に信仰があるからであって、
科学的事実を認めるように信じているわけではありません
これが超難解な表現で自分にとっては量子力学ほどむずかしいiris理論です
以前にもちよっと書き込みしましたが 自分は電子は陽子の周りをまわっていて三次元的感覚で言うとある時間にある場所にあるはずなのですが それではダメのようで確率の雲という表現でないとうまくいかないそうです 自分には理解できませんが現在こちらの方が科学的に正しいそうです
ですから >キリストの復活は真実です
という意味は実際におきた それは科学的事実です しか 考えられないのですが iris理論のほうが正しくて自分が理解できないだけなのかもしれないです
ぜんぜん関係ないですけど 今日仕事させていただいた田舎の一人暮らしのおばあちゃんが家の横にあるカキをもうだれも食べないのでたくさんとっていってくれ といわれたのでたくさんいただいたのですが 激ウマの甘柿ですが ちょっと前までたくさん葉っぱについていた刺されるとすごいいたいイラガの幼虫がぜんぶサナギになっていて 自分は神様がイラガにもたっぷり葉っぱ食べさせてあげて 柿がおいしくなるころに人間が刺されずにおいしいカキをたべられるようサナギになるように創造されたと信じてますよー
(マタイ 6:26) …天の鳥をよく観察しなさい。種をまいたり,刈り取ったり,倉に集め入れたりはしません。それでも,あなた方の天の父はこれを養っておられます。あなた方はそれらより価値のあるものではありませんか…
iris理論にまけない てつてつ理論でしょ
でもてつてつさんはイラガにさされるとソッコー踏み潰しますよー
編集者 てつてつ (2017年10月04日 20:30:39)
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