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#1401 2022年09月02日 15:56:30

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#1400さんは相当感情的になられていますね。

「キリスト教のある宗派の教えに否定的だからと言って、キリスト教の特定の宗派の味方というわけではありません。」というのは、バインの旧新約聖書用語解説辞典とは違う見解を述べている辞典のことです。

時間があれば、#1400さんのこだわっている問題にお答えしますが、定例のものみの塔の記事について書いているものですから、忙しいのです。

ところで、例の出典はなんですか?

#1402 2022年09月02日 16:12:10

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“希望を抱いてエホバを待て(27)”で、ヨブに倣って試練に耐えて、死ぬまで組織のために尽くそうという内容です。」
「1節で“間もなくエホバは,病気や悲しみや死をなくします。(啓 21:3,4)”と言っているけれど、その根拠となる啓示21章は千年統治の後のことを書いている部分。ところがJWは間もなく生じることと誤解している。」
「1節では、その後“希望を抱いてご自分を待つ「温厚な人」を用いて,地球をパラダイスに変えていきます。(詩 37:9-11)”とありますが、引照聖句はパラダイスなんて言っていません。」
「聖書に地上のパラダイスなんて言う思想はないよ。JWの信者集めのための方便だよ。」

「2節もつまらないことが書いています。“エホバはこれまでずっと約束を守ってきました。際立った例を1つ考えてみましょう。「啓示」の書には,エホバがこの時代にあらゆる国や民族や言語の人を清い崇拝のうちに結び合わせるという約束が書かれています。今,このグループは「大群衆」と呼ばれています。(啓 7:9,10)”とありますが、啓示7章が“この時代”のことで、その中の大群衆がJWのことだなんて言っているのはJWだけです。」
「しかも、大群衆であるJWは“一致と平和を楽しんでいます。”、“より良い世界の希望について喜んで語ります。”と根拠のない宣伝をしている。JWは白人中心の宗教で、人種差別的でしょう。」

「5から9節が“サタンはヨブの希望を奪おうとした”です。 ヨブの話が始まりました。5節でヨブが1日で不幸になったとありますが、その原因はあいまいにしています。」
「神様とサタンの賭けが原因だ。サタンは神様の許可のもとヨブを不幸に陥れる。ヨブ42:11に“エホバがヨブの身に生じるままにしたさまざまな災難”とあるけれど、これは誤訳で、協会共同訳の“主が彼にもたらした災い”が正しい。ヨブの災難の原因は神様にあると認めている部分だね。」
「この記事にあるようにサタンが悪いというのは完全な誤読ということですね。」

「旧約では新約のような悪霊やサタンは登場しない。旧約のサタンは人間を試みたり、告発する仕事を担っている神の使用人。」
「JWはサタン概念が長い時間をかけて徐々に作られてきたことを理解していませんから。」
「列王一11:14に“エホバは,エドム人ハダドがソロモンに反抗するようにした。”とあるけれど、協会共同訳では“主はソロモンに敵対する者として、エドム人ハダドを起こされた。”となっている。こちらの方が直訳に近くて、“敵対する者”となっているのがサタンという単語。つまりエドム人ハダドはサタンになったと言っている。サタンという単語は旧約ではこのように使われている。」

「サタンが悪霊のリーダーになるのは旧約と新約の中間時代ですよね。」
「紀元前1世紀頃に書かれた“アダムとエバの生涯”が、初めてエバを誘惑する蛇とサタンとを明確に結びつけたもの。その本ではサタンが神に反逆したのは神の似姿として造られたアダムへの嫉妬心からで、サタンが反逆の結果地上に追いやられ、地上に投げ落されたサタンはアダムとエバの幸福を見てねたましくなり、腹いせにエバを誘惑するという。このようなサタン観が新約に受け継がれていく。」

「8節で“サタンは別の方法でヨブを攻撃しました。3人の偽の友を使って,ヨブの自尊心を奪おうとしました。”とありますが、これは違いますね。3人はサタンの手先とは書かれていません。JWの拡大解釈です。“3人は,ヨブが苦しんでいるのは何か悪い ことをしたからだ,と主張しました。”とありますが、これは旧約聖書の中の普通の思想ですよ。」
「旧約聖書にある、善行には祝福、罪には禍という応報思想に立てば、罰を受けている人はなにがしかの罪があると考えるしかないわけ。ヨブ記は人間がたとえ義であっても禍に見舞われるという、因果応報の論理を否定するという意図があるので、3人の友人は否定されるべき因果応報原理を主張する役割を与えられたにすぎない。」

「9節で“やがてヨブは,おそらく頭を上げ,3人の友を真っすぐに見てこう言いました。「私は死ぬまで忠誠を貫く!」(ヨブ 27:5)”とありますが、これは日本語訳がおかしいですよ。」
「ヨブ27:5はUntil I die, I will not renounce my integrity!となっているから、自分が無実であるという主張を取り下げるつもりはないと言っている。意図的な語訳でないとすると翻訳者のレベルは酷いね。協会共同訳では” 私は自分の潔白を捨てない。”となっている。」

「9節の最後に“たとえ死ぬことになったとしても,エホバが生き返らせてくださる,ということを理解していました。(ヨブ 14:13-15)”とありますが、これは間違いですよ。」
「引照聖句には“人は死ぬと,もう一度生きられるでしょうか。私は捕らわれている間,解放の時が来るまでずっと待ちます。”とあるけれど、これは復活信仰を抱いているわけではない。ヨブ14章の前半では死後の生活を否定している。」
「ヨブ14:11,12では“水は海からなくなり,川も干上がって枯れます。 人も,横たわり,起き上がりません。天がなくなるまで,目覚めることはなく,眠りから起こされることはありません。”とありますね。」

「死者の復活が最初に出てくるのはダニエル12:2の“地面の中で眠っている多くの人が目を覚まします。ある人たちは永遠の命を得,ある人たちはとがめられて永久に嫌悪されます。”だね。これはアンティオコス・エピファネス4世の迫害下(前168-165)には、律法を破る行為が強要され、それに従った人々は命を助けられた。しかし、王の命令に従わず殉教した者も多かった。つまり律法遵守した正しいものが死ぬことになった。」
「これは、イスラエルの人々が信じてきた善行には祝福、罪には禍という応報思想に反する事態なわけです。」

「応報思想では説明できない事態に対する答えとして、一方には命への復活が、他方には罰への復活があるという思想が生じたと考えられている。正義の問題は現世では解決できないので、本当かどうか確かめようのない別の世界で解決されるということにしたわけだ。」
「ダニエル書はダニエルの名をかたって前2世紀に書かれたもので、旧約の中では一番新約に近い思想が出てくるのですね。」
「でもダニエル書で復活するとしているのは殉教した人限定だけど。」

「10から16節が“ヨブの手本に倣うには”です。 11節に“ヨブの例から分かる通り,エホバへの信頼を保つなら,どんな試練も忍耐でき,サタンに立ち向かうことができます。”と見当違いなことを言っています。」
「ヨブは神への信頼を失っていたよ。例えば、ヨブ9:21,22に“たとえ忠誠を尽くしているとしても,私は自信が持てない。生きていくのはもううんざりだ。どうせ同じだ。だから私は言う。『神は無実の人も悪人も滅ぼす』。”とある。神を信頼している人の発言じゃないよ。」
「そんなヨブに対して、終盤で嵐の中からエホバが現れ、直接ヨブに答えるということが生じて、ヨブは再びエホバを信頼するようになるわけです。」
「ヨブは極めて特殊な話で、JWが倣えるお手本ではないよ。」

「12節で“私たちは,復活の希望に強い信仰を持つ必要があります。”と恐ろしいことを言っています。要するに死を恐れず組織に忠誠を尽くせということですよ。」
「 “私たちも復活を固く信じているなら,死に直面してもエホバへの忠誠を保つことができます。”とあるね。復活するから死んでもいいということ?人命軽視の繊細さに欠けた野蛮な教えだ。」

「13節に“私たちは,サタンがどんな手を使ってヨブを攻撃したかに注目する必要があります。なぜなら,サタンは現代の私たちに対しても似たような方法を使ってくるからです。”とあるのですが、サタンはエホバの許可のもとヨブの家畜と僕と子どもたちを皆殺しにし、さらにヨブを病気にしたことには、全く触れられていないのです。」
「子ども向けの聖書物語しか読んだことないようだね。ヨブ記から学べることとしては、突然子どもが死んだり、重い皮膚病になったらサタンの攻撃と考えようということかな?」

「13節で“サタンは,「人は自分の命を守るために,自分が持つもの全てを差し出します」と主張しました。”とありますが、この主張は間違いですね。歴史を見れば、多くの人が様々な宗教で殉教してきました。また命が一番大事なら戦争は起きません。兵士は皆逃亡します。」
「人間には自分の命より大事なものがあるというのが普通でしょう。JWは命惜しさにJWをやっているのかもしれないけれどね。」

「14節で“私たちは試練を,自分をもっとよく知る機会と見る必要があります。ヨブの場合,試練は,自分の弱さに気付き,それを直す助けとなりました。”とありますが、ヨブの事例は特殊事例で、他の人に当てはめることは無理があります。」
「試練によって自分の隠れた面を知るということはあるだろうけれど、ヨブとは関係ないよ。」

「15節に“それに対してヨブは,エホバが善い方であることを認めて,謙遜にこう言いました。「あなたのことを耳で聞いてはいましたが,今ではあなたをこの目で見ております」。(ヨブ 42:5)”と言っていますが、これはエホバを善い方と認めた発言ですか?」
「“あなたのことを耳で聞いてはいましたが,今ではあなたをこの目で見ております”はけっこう難解だ。宗教には間接宗教と直接宗教がある。間接宗教は普通の宗教で、他人や書物から学ぶ宗教。直接宗教は聖なるものとの直接体験に基づく宗教。神を見るとは直接聖なるものを体験するということ。神様はヨブの疑問に答えてはくれなかったけれど、神を直接体験したことによりヨブは神の実在を確信し満足したという意味だろう。」
「パウロは直接宗教ですね。イエスを直接体験した。」
「こういう神秘体験をする人は現代でもけっこういる。」

「16節の最後に“ヨブのように,私たちも エホバの声に耳を傾けましょう。そうするなら,敵のうそによって希望を奪われてしまうことはありません。”とあり、執筆者はヨブのことをぜんぜん理解していないのがよくわかります。」
「言いたいことが最初にあって、その根拠となるような聖句を後から適当に探してくるという仕方で記事が書かれているからね。」

「17,18節が“希望は私たちの支えとなる”です。 ヘブライ11章に出てくる信仰の模範となる人たちの話になります。」
「17節の上にある挿絵の説明が“ヨブの忠誠は報われた。ヨブと妻はエホバに祝福され,長い人生を楽しんだ。”とあるけれど、JWはまともな倫理観がないね。死んだ子どもや召使はどうなったの?死んだきりだよ。」
「ヨブ42:12,13に“エホバがヨブを祝福したので,ヨブの残りの人生は以前よりも豊かになった。ヨブは,羊1万4000匹,ラクダ6000頭,牛1000対,雌ロバ1000頭を持つようになった。さらに,息子7人と娘3人を持つようになった。”とあります。エホバにとって子どもは家畜と同じで、数さえたくさん居ればいいということですね。」
「エホバって、子どもが死んで悲しんでいる人に、また産めばいいじゃないかと言う、無神経なバカと同じレベルということだ。」

「17節では“確かに,彼らは生きている間にエホバの約束全てが実現するのを見たわけではありません。それでも,希望を抱いてエホバを待ち続けました。”とある。こうした人を見倣えということだけど、弱気になっているね。間もなく楽園が来ます、あと少しで約束が実現しますとなぜ言わないの?それがJWの教義だよ。」
「それは先週言いましたから、今週は悲観的なことを言う週なんじゃないですか?信者の気持ちをあげたり、下げたりして、うまくコントロールしようということです。」

#1403 2022年09月09日 10:07:23

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

「私は裸で母の胎を出た。また裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の名はほめたたえられますように。このような時でも、ヨブは罪を犯さず、神を非難しなかった。」

”希望”とか”忍耐”とかの話じゃなくて「裸で生まれたんだから裸で帰ろう」と起きたことを現実として受け入れるほかはないと言っているだけです。


ヨブが「神を非難しなかった」のもここまでで、財産や家族を失っても諦めの境地でいられたのが、それが自分に起因するものだという因果応報的なことを言われる(旧約には悪を行うなら災いをもたらすってしっかり書いてありますけどね、特に申命記とか)のには”耐えられなかった”ようで、次第にヒートアップして、自分は正しい人間だが神は善人も悪人も滅ぼすと言って非難しています。

間接的ではあっても、この部分はサタンは正しかったことになり、サタンではなく、ヨブの方が「あなたは神よりも自分を正しいとするのか」とエリフと神に叱られています。

だから協会共同訳の通り、自分は死ぬまで「自分の潔白」(との主張)は撤回しない、取り下げない、と言っているんですよね。


この話から、宇宙なんちゃら論争のような誇大妄想解釈を編み出すだけでなく、その解釈に合わせて聖書まで書き換えるのがJWクオリティです。

彼らが何よりも”耐えられない”のは「自分たちが悪く言われる」ことで、そこはヨブと似ていてそれだけは絶対に認めたくありません笑。

この話を読んで、自分たちが唯一正しい宗教だ、という主張を死ぬまで撤回しないことが神への忠誠と勘違いしていることに気づいて、あなたたちは自分を神よりも正しいとするのか、こっちの教訓を普通に学んだ方がよさそうですね。

#1404 2022年09月09日 12:32:36

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

あなたの身から生まれる子も土地の実りも、牛の子も羊の子も呪われる。

あなたが悪い行いを重ねて、わたしを捨てるならば、あなたの行う手の働きすべてに対して、主は呪いと混乱と懲らしめを送り、あなたは速やかに滅ぼされ、消えうせるであろう。

主は、エジプトのはれ物、潰瘍、できもの、皮癬などであなたを打たれ、あなたはいやされることはない。


いつか話題になった申命記の祝福と呪いの羅列ですが、こういう思想からすればヨブに起きたことを見て「神に呪われている」と思うのは旧約聖書では普通のことです。

こういう単純な思想では説明できないことが増えてくると、その思想にも変化が生じます。


聖書が人の手で書かれた以上、時代とともに思想が変化するのはキリスト教でも普通のこと(キリストでさえ「人の子」だった)とされていますが、こういう話をしても、聖書の無誤謬性を信仰したい、権威にしたいタイプの特殊なキリスト教(そこから派生してエホバ教に変異したJW含む)の方たちとは話がかみ合わないですね。

#1405 2022年09月09日 14:26:11

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“神の王国は統治している! (28)”で、今神の王国が天で統治しているというJWの教義を再学習するという内容です。」
「ダニエル書と啓示から幾つかの聖句を抜き出して作り上げた独特の教義の復習ということね。JWの教義は奇想天外すぎて頭になかなか入ってこないから、何度でも繰り返す必要があるんだろうね。」

「1節に“人々が,「終わりの時代」について聖書で預言されている通りのことをしているからです。(テモ二 3:1-5)この預言が実現していることは,物事を誠実に考える人であれば否定できないことです。”と自信たっぷりに断定していますが、間違いですよ。」
「引照聖句のテモテ二3:1-5では、終わりの日には“人々は自分を愛し,お金を愛し,自慢ばかりし,傲慢で,・・・”と19の特徴が挙げられているけれど、現代が以前と比べてこのような特徴が強まったという証拠はない。あるなら示して欲しい。」
「JWは終末論宗教ですから、証拠など無関係に今は終わりの時だと永遠に言い続けて、信者集めをするしか能がないのですよ。」

「20世紀に強まったものと言えば、女性の権利、貧しい人や障がい者に対する福祉サービス、平均寿命の伸び、乳幼児死亡率の減少、栄養状態の改善等々だろう。奴隷制もほとんどの国でなくなった。」
「つまり、終わりの時代には、女が平等に扱われ社会進出し、貧しい者や障害のある者に多くのお金が使われ、人々はより健康で、平均寿命は延び、子どもはよく食べ空腹で泣くことは減り、むしろ肥満が問題になり、そして奴隷もいなくなるだろう、と書かれていれば今が終わりの時代と納得することも可能ですが、聖書にはそのようなことは一切書かれていません。」
「終わりのしるしとして、一般的なことを書き連ねているだけだから、いつの時代でも今が終わりの日と主張する人はいた。JWもその同類ということ。」

「3から5節が“神の王国はいつ設立されたか”です。 4節に1914年と書いています。その根拠はダニエル4章にある“7つの時”です。これはネブカドネザルの夢についての話で、神の王国などと全く関係ありません。」
「それなのに、いきなり神の王国の預言と断定してしまうから、ついていけないね。」
「19世紀のアメリカでイエスの再臨に日を計算しようとした人たちが、持ち出した聖句ですよ。その末裔の一つがJWということですよ。」

「4節で“「7つの時」とは,2520年間のことです。”と断定しているけれど、これは7×360という式から来た数字。でも、なぜ360倍するのかという根拠はないよ。神の1日は1000年だから1000倍するのが正しいような気がするね。」
「そうなるとあと4000年以上先の話になり、不都合なのですよ。」

「その次に“この期間は,バビロニア人がエルサレムのエホバの王座から王を取り除いた紀元前607年に始まりました。”とある。とんでもないウソ。607じゃないよ。」
「JWもウソとわかっていますが、今更変えられないのです。ところで、なぜエルサレム滅亡の時が2520年間の始まりの時と決まったんですか?7つの時はいつから始まるなんて聖書のどこにも書かれていませんよ。」

「7つの時のことを言い出したのは、19世紀のウィリア・ムミラーで、彼はマナセ王がアッシリアに捕縛された前677年を開始の年とし、1843年にキリストの再臨があると主張して、大恥をかいた。その後ネルソン・バーバー(Barbour)がエルサレム滅亡の年を前606年とし、その年を7つの時の開始の年とした。そして1914年を算出し、大患難の始まりの年とした。イエスの再臨は大患難の40年前で、1874年と主張したものの、何事も生じず大恥をかいた。」
「しかし、バーバーはめげることなく、1874年にキリストは見えない形で再臨したと主張を変えたのですよね。」

「JWの創始者のラッセルは1876年にバーバーと出会い、その影響を受けて、バーバーの主張をいただくことになる。」
「JWがキリストの見えない再臨の年を1874年から1914年に変えたのは、1934年ですよ。」
「その後、西暦0年というのがないことに気づいた組織はエルサレム滅亡の年を前606から1年ずらして前607年に変えた。今の教義の誕生だ。JWが間抜けな人間の組織ということがよくわかるね。」

「6から8節が“キリストが神の王国の王として統治していると言えるのはなぜか”です。 “イエスは,戦争や食糧不足や地震が起きると言いました。また,「あちらこちらで」流行病があるとも言いました。新型コロナウイルスの大流行は,まさにこの一例です。”と、新型コロナウィルスもキリストが神の王国を統治している根拠のようです。」
「そこに書いてあることはいつの時代でもあったよ。コロナより100年ほど前のスペイン風邪の方がはるかに死者数が多いよ。」

「7節に“イエスが王になって以降,世界の状況がますます悪くなっているのはなぜでしょうか。”と、とんでもないことを言っています。ますます悪くなっているという根拠はありません。」
「統治体の一人は黒人だ。彼はJWが白人の宗教と非難されないように統治体に加えてもらったのだろうけれど、19世紀だと奴隷として一生を終わった可能性が高いよ。アメリカの黒人にとって世界の状況はますます悪くなっているとは言えないよ。」

「7節では“啓示 12章によると,サタンはこの戦いに負け,邪悪な天使たちと共に地に投げ落とされました。サタンは大きな怒りを抱いていて,その怒りを人類にぶつけているので,「地……には災いが降り掛か」っています。”と、1914年以降“世界の状況がますます悪くなっている”理由を説明していますが、啓示12章は20世紀の話じゃありませんよ。」
「啓示12章はイエスの地上での誕生に関する章で、時代を言うなら1世紀のこと。今のJWとは関係ないよ。」

「7節の下にある写真の説明に“私たちは悪いニュースを見聞きして喜ぶことはないが,聖書の預言が実現していることを知って,神の王国が統治していることを確信できる。”とありまして、悪いニュースを見て喜ぶなと注意しています。」
「JWと言えば、災害や戦争などで人がたくさん死ぬと喜ぶ反社会的な人たちと思われているからね。そういうことは人前ではするな、こっそり喜べということだね。」

「9から16節が“神の王国の敵はどんな結末を迎えるか”です。 今度はダニエル書2章にあるネブカドネザルが巨大な像の夢を見たという話です。鉄と粘土の足が英米世界強国というJW独自の強国を指すと主張しています。政治の話が好きですね。」
「この解釈も10回以上は変わってきたよね。時代に合わせて変えてきた。」

「ものみの塔1985年7月1日号の“「末の日」に勝ち誇る”の中では“地に対する人間の誤った支配は,苛酷な独裁主義と比較的柔軟な民主的形態の統治が入り混じったものになっています。鉄と粘土が混ざり合わないように,これらも混ざり合うことがありません。”とあって、鉄と粘土は独裁主義と民主主義を指しているという珍解釈でした。」
「10節で“この粘土は「人の子孫」,つまり一般の人々を表しています。”とあるけれど、これはまた解釈の変更かな?またもや新しい光だね。最近の解釈はものみの塔2012年9月15日号“この世界はどのように終わりに至るか”の13節にある“足と指が鉄と粘土から成っていることは,英米世界強国の弱体化した状態を表わしています。”というものだった。」

「10節には“人々が選挙で大きな力を持っていたり,公民権運動や抗議運動や労働組合に関係した活動を行ったりするために,この世界強国の指導者たちは自分が願った通りのことを実行できていません。”とありまして、JWは民主的な政府は弱く、独裁的な政府は強いという国家観を持っていることがわかりますね。JWという組織は独裁的で全く民主的な点はありませんから、ロシアや中国のような政治体制に親近感があるのですよ。」
「国民から選挙で選ばれる政府は正当性があり、独裁的な政府よりも強いという政治観ではないわけだ。ロシアや中国のほうがアメリカよりも強いと思っているわけだね。独裁国家最強という偏った政治観に基づく解釈だね。独裁的なロシアに対して、民主的なウクライナは互角に戦っているよ。」

「10節の下の囲み記事では、“私たちもこうした人たちから影響を受ける可能性があるでしょうか。確かにあります。心を守っていないなら,中立を保てなくなる危険があります。”とあり、民主国家での様々な政治・社会活動にかかわるなと言っています。」
「それは中立ではなくて、既成の政治勢力に味方していることになるのにね。ここで想定しているのは児童性的虐待に対する厳罰化や児童保護の強化を求める運動じゃないかな。JWは被害者は放置し、性犯罪者を守るというのが本当の基本方針でしょう。そういうのにかかわるなと言いたいのだよ。」

「JWのダニエル書2章の巨大な像はバビロン,メディア-ペルシャ,ギリシャ,ローマ,英米という解釈です。普通はどう解釈しているのですか?」
「普通は5つではなく4つの王国だよ。足の部分は5番目の王国とは書かれていない。4番目の王国の一部に過ぎない。そこがJWの根本的におかしいところ。ダニエル7章の野獣だって4匹。これは古代に4つの王国が交代するという思想があったから。」
「普通の解釈では最後はローマかギリシャということですね。それだと現代につながらないので、英米強国なる概念を捏造したわけですね。」
「ローマから英米との間に時代差がありすぎるよ。ダニエル書は現代についての預言書じゃないよ。」

「13節から啓示17章の“大いなるバビロン”の話になります。JWは大いなるバビロン=偽りの宗教という解釈で、14節で“「10人の王」で表されている政治勢力が間違った宗教を攻撃し,滅ぼします。”と言っています。面白いのはその滅ぼし方で、“間もなくエホバは,政治勢力の心に「ご自分の考えを……入れて実行させ」ます。”と言っています。」
「そういうことを想定しないと、宗教が滅びるなんてありえないからだろう。」

「15節で“「啓示」の書は,大いなるバビロンを支持する人たちを「水」に例えています。(啓 17:15)そして,その水が「枯れ」るとも述べています。これはつまり,世界を惑わしている間違った宗教全体が支持者の多くを失うということです。(啓 16:12)”と言っています。これってへんですよ。」
「啓示16:12には“第6の天使が,自分の鉢の中身を大河ユーフラテスに注ぎ出した。すると,大河の水が枯れ”とあるけれど、これが啓示17章の水と同じかというと違うよ。大いなるバビロンはローマを指しているわけで、ユーフラテス川とは関係ない。」

「啓示17:9に“7つの頭は7つの山を表しており,その上に女が座っています。”とあって、ローマは7つの丘の上に建てられた町として当時知られていたわけですから、1世紀の人はローマを指していると理解したはずです。」
「関連のありそうなものを文脈無視して結び付け、突飛な解釈をするのがJW流解釈の極意だね。」

「16節で“政治勢力による間違った宗教の滅びは突然に生じるので,世界の人々は驚くことになります。*”とありますが、これは平和安全宣言があって、突然滅びるということのようですね。」
「脚注には“近い将来に起きることについて詳しくは,「神の王国は支配している!」の本の21章を参照”とある。そこを見ると“パウロはこう書いていました。「人々が,『平和だ,安全だ』と言っているその時,突然の滅びが,……彼らに突如として臨みます」。 (略) 何が滅ぼされるのでしょうか。最初に「大いなるバビロン」,つまり偽りの宗教の世界帝国が滅ぼされます。”と説明している。」
「突然の滅びはテサロニケ一5:3にあるのですが、それを啓示と繋げるわけですね。テサロニケには大いなるバビロンも小さなバビロンも出てきませんよ。」
「平和でも戦争でも、とにかく終わりが近いというのがJWの教義ということだね。」

「17、18節が“将来に備えて信仰を強める”です。 17節で“ダニエル書には,「真の知識が満ちあふれ[る]」という預言があります。現代,まさにその通りになっています。私たちは,今の時代に関する預言を理解することができています。(ダニ 12:4,9,10)”とありますが、違いますね。」
「JWに真の知識は満ち溢れていないだろう。いつ変更されるかわからない奇妙な教義があるだけだ。」

「ダニエル12:4には“真の知識”という言葉はありませんよ。単なる“知識”です。」
「JWが勝手に書き加えたもの。協会共同訳では“多くの人々は探求して知識を増やす。”となっている。この意味はけっこう難解だね。」

「ダニエル書が想定している終わりの時代は前2世紀じゃないですか?」
「ダニエル書はバビロニア帝国からペルシャ帝国の時代に活躍したダニエルによって書かれたということになっている。実際はずっと後の前2世紀に書かれた。本当にダニエルが書いたのなら、なぜ書かれた時代にこの書は全く知られていなかったのかを説明する必要がでてくる。それがダニエル12:4だ。」

「そこでは天使ミカエルが“ダニエル,終わりの時までこれらの言葉を秘密にしておき,この書を封印しておきなさい。多くの人が巡り歩き,真の知識が満ちあふれます。”と言っています。つまり、終わりの時まで封印するように言われたので、書かれてからその時まで知られていなかったのだと言い訳しているわけですね。」
「これは偽名文書がよく使う手法なの。」
「いずれにしてもダニエル書が世に出た時は終わりの時ということですね。今から2100年以上前だったわけですね。」

#1406 2022年09月11日 10:34:53

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

古代ギリシャ語自体が、新約聖書を書くために存在するようになった言語ではありません。

新約聖書が書かれるよりも前からギリシャの詩人や哲学者が膨大な文献を残しており、現代の新約学者以前に、新約が書かれた時点で既に古代ギリシャ語の語彙が”借用”されているとも言えます。

ロゴス、アイオーン、時を表すカイロスやクロノス、アルケー、アレテー、カリス、ピュシス、タルタロス、ハデス、挙げればキリはないです。

それらの用語を調べるには、特定のキリスト教派に関係なく、聖書以外の文献を研究することが必須です。JW洞察でさえ、それらの言葉が新約以前の、ギリシャ人の哲学者(アリストテレスなど)がどのような意味で使っていたかを引用しています(そういうことをするのは都合のいい時だけですが)。

新約が書かれた後の教父たち(東方神学につながるギリシャ教父たちなど)はこういう新約の語彙に基づいて神学を作り上げていったので、そこにギリシャ哲学の要素が入り込むのは自然な流れです。

#1407 2022年09月16日 14:31:30

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“監督であるイエスの指示に従う(29)”で、組織の指示はイエスの指示と思って無条件に従えという内容です。」
「英文ではSupport Our Overseer Jesusで、指示に従うではなく、支持しなさいだよ。」
「日本版では服従が最も重要というように改変されているわけですね。」

「いつもはエホバなのに、今度は珍しくイエスを持ち出してきたのは、伝道活動を取り上げるからだね。」
「エホバは伝道しなさいなんて一言も言っていませんからね。」
「エホバは古代の民族宗教の神だから、他民族に伝道するという発想は全くない。信者の増加は子孫繁栄によってもたらされるという生物学的なもの。」
「それに対し、JWは伝道一本やりで、子作りによって信者を増やすという発想はありませんね。」
「その点はエホバ的じゃないけれど、今更子作りに励むのも遅すぎるしね。」

「ところが1節には“エホバは現代,王国の良い知らせが世界中で伝えられることを願っています。(マル 13:10。テモ一 2:3,4)ですから,伝道活動はエホバが行っていることです。”とあります。」
「そんなに伝道活動は大事なら、旧約聖書時代になぜ伝道しないのかな?エジプトやバビロニアで伝道活動をすればよかったのに。」

「1節ではさらに“この活動は非常に重要なので,エホバは愛する独り子イエスを選んで監督させています。”と断定していますが、その根拠は示されていません。」
「イエスは伝道活動の監督に任命されましたなんて言っているのはJWだけだろう。」

「3から8節が“イエスは伝道活動を監督している”です。 マタイ28:18の“には天と地における全ての権威が与えられています。”が引用され、“ですから,イエスには伝道活動を監督する権威が与えられているのです。”と法律の解釈みたいなことを言っています。」
「権威と監督は違うよ。監督するというのは、取り締まったり、指図したりする、指揮指導をするということ。カート奉仕はイエスの指示があったの?電話や手紙で伝道活動しろとイエスから指示があったの?ないよね。」
「JWの伝道活動はイエスから監督されていると主張するなら、その具体的な根拠を示さないといけないわけです。聖書の一節を引用すれば済むという問題じゃありません。」

「そういう時にJWが持ち出すのが、JWは世界中で伝道活動をしています、ということだね。」
「8節に“現代,800万を優に超える人たちが,240の国や地域でエホバの組織と共に活動しています。そして,毎年10万人を超える人たちがバプテスマを受けています。”といっていますね。」
「でもJWと同じ頃に始まったアメリカのキリスト教系の宗教団体に比べると信者数は少ないんだよ。信者数では負けているよ。別の根拠はないのかな?」

「6節で“背教者や宗教指導者や政治家たちは,私たちの活動について間違ったイメージを広めてきました。”とありますが、自分たちのことを過大評価しすぎですよ。」
「多くの国ではJWは取るに足りない宗教団体で、多くの人はJWの知識もないし関心もないだろう。間違ったイメージを広げてきた政治家って具体的に誰なのか、教えて欲しいね。」

「6節の最後に“イエスの支えにより,良い知らせは世界中の人々に伝えられています。”とありますが、世界中というのは嘘です。イスラム圏をはじめとしてJWの空白地帯は相当あります。」
「事実に反することを、恥ずかしげもなく堂々と言えないとJWはやれないということだね。」

「6節に“イエスが,「あなたたちは……私の名のために全ての国の人々から憎まれます」と予告していたからです。(マタ 24:9)ですから,人々から憎まれるということは,エホバから良いと認められているということです。”というのはあまりにも非論理的です。」
「まず、イエスの弟子は憎まれるという聖句と、JWが憎まれるとエホバから認められるということは何の関係もない。JWの教義でイエス=エホバじゃないでしょう。」
「JWが憎まれるのはそれだけのことをしているからで、エホバが認めるかどうかなどと関係ないですよ。ところが、JWは周囲から憎まれれば憎まれるほどエホバに認められていると思い込むわけです。反社会的なカルト的思考そのものです。」
「人々から憎まれれば、自分たちの行いに問題があるのではと少しは思って欲しいけれど、JWにはそれは無理ということね。」

「7節に“聖書の預言がまさにその通りになっているのです。 「あらゆる言語の国々から来た」人たちが,聖書の真理という「清い言語」を話せるようになっています。(ゼカ 8:23。ゼパ 3:9)”とあるのですが、これは相互に無関係な2つの聖句をつなげたものです。こんなものは聖書の預言じゃありません。JWが事後的に造った預言ですよ。」
「“清い言語”が聖書の真理?この解釈も過去には二転三転したと思うよ。これはゼパニヤ3:9の“その時,私は国々の言語を清い言語に変える。”からの引用だけど、元の聖書の翻訳がインチキだよ。」
「協会共同訳では“その時、私はもろもろの民に清い唇を授ける。”です。“唇”をJWは“言語”に変えたわけですね。これはどうなんですか?」
「文字通りの唇を指すと普通は解釈する。動詞は受動態なので清くないものが清くされるという意味。JWのように清い唇が神の言葉を指すという解釈は成立しない。」
「もろもろの民の唇を清い唇に変えるという意味で、要するにエホバ以外の神に祈り、誓ったりしなくなるということですね。」

「それから“その時”とは今の時代ではない。ゼパニヤ3:8に“私の激情の火によって地上全体は焼き尽くされる。”とあり、その後“その時”と続くんだよ。」
「聖書はなんでも今の時代のことを言っていると決めつけるのが、JW流聖書解釈です。」

「9から12節までが“イエスは奴隷を任命する”です。 この記事の最重要部分です。9節に“マタイ 24:45-47を読む。イエスは,終わりの時に聖書からの教えという信仰を強める食物を与えるために,「忠実で思慮深い奴隷」を任命することを予告しました。”とありまして、たとえ話を予言とあくまで主張しています。」
「このたとえの主旨は、マタイ24:44にある、“ですから,あなたたちも,用意ができていることを示しなさい。人の子は予期しない時刻に来るからです。”ということだよ。イエスは終わりの日にだれだれを任命するなんて一言も言っていない。」

「ここで使われてい“奴隷”という単語は単数形ですよ。ひとりを指すとなぜ解釈しないのでしょうか?」
「そういう文法的なことを気にするような人はJWにはいないんだよ。」

「イエスが1914年に天の王国を設立することは予言されていたというのがJWの教義ですから、マタイ24:44を否定してきたことになりますね。」
「マタイ24:36で“その日と時刻については誰も知りません。”とあるのに、終わりは間もまくとか、終わりの日の終わりの最後の部分にいるとかいって信者集めをしてきたJWは、マタイ24:23で警告されている“その時,『見なさい,ここにキリストがいる』とか,『そこに!』とか言う人がいても,信じてはなりません”というのにぴったり当てはまると感じるのが普通の人の感覚だよ。」

「忠実で思慮深い奴隷とは統治体のことだというのは最近思いついた解釈ですよね。以前は144000人のことだと言っていました。」
「変わったのは2013年。ものみの塔7月15日号の“忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか”で、“キリストの臨在の期間中,霊的食物の準備と分配に直接かかわる,油そそがれた兄弟たちの少人数の一団で構成されています。”と変わった。JWの統治体崇拝をどんどん推し進めようという意図だね。」
「統治体の独裁的な権力を正当化するのに都合がいいので、忠実で思慮深い奴隷のたとえ話が盛んに利用されているわけです。」
「1世紀に統治体があったという歴史の捏造も統治体の独裁的な権力を正当化するためだね。」

「10,11節は統治体の自画自賛です。過去の様々な出版物に触れ、11節で“忠実な奴隷はイエスの監督の下で,この食物を用意し,分配しています。”と言っています。」
「JWの出版物はイエスの監督のもとに発行されてきたの?違うだろう。信者向けの記事だからか知らないけれど、言いたい放題だね。」
「イエスの預言の解釈があれこれ変わったのはどう説明するのですか?例えば“世代”の解釈。」
「きっとそれもイエスの監督のもとに行われたんだろうね。これはイエスに責任転嫁しようということだ。統治体は悪くないよ、悪いのはイエスだよ、と言っているのと同じ。」

「12節も自画自賛です。いつものことですがエホバという名前をつかっているから自分たちは偉いと言っていますね。それ以外自慢する材料がないようです。でも“そして「新世界訳聖書」には,神の名前がふさわしい所に復元されています。”というのは嘘ですよ。」
「そもそも神の名前はエホバではない。また新約聖書に神の名前は出てこないのに、勝手にエホバに変えた。JWの聖書はひどい改ざん聖書以外の何物でもない。インチキ宗教まっしぐらだよ。」

「13から16節が“イエスは弟子たちを組織している”です。 一番バカバカしいところです。14節に“イエスは,危機的な状況が生じると,賢明な指示を与えます。新型コロナウイルスの流行に伴って,こうした指示が本当に助けになるということが明らかになったのではないでしょうか。”と言っています。JWのコロナ対策ってイエスの指示だったそうです。」
「本気で言っているのかな?JWは2万数千人以上新型コロナウイルスで死んだようだ。これは高い死亡率で、JWのコロナ対策が優れたものではなかったということを示している。責任転嫁のために、イエスを持ち出してきたんじゃないの?」

「15節で“感染症が流行する中,私たちは集会や伝道をどのように行うかについても,はっきりとした指示を与えられました。すぐに,集会や大会はインターネットを使って行われるようになりました。”とあります。ZOOMを使ったのはイエスの指示だったのですか?」
「JWの中にはZOOMはJWが作ったと信じている人が居るらしいからね。そういう無知な信者の間違った思い込みに便乗しているね。」

「対面での集会が開かれなかったことによって、かなりの信者がJWから離れていったようですよ。それで対面での集会の再開を急いだわけです。」
「そういう否定的なことにはまったく触れず、“エホバは私たちの努力を祝福してくださっています。多くの支部が,伝道者の数の大幅な増加を報告しています。”というのがJW流の記事の書き方だね。」
「伝道者数が増えたのは戸別訪問しなくてよくなったからですよ。手紙や電話でいいとなれば適当にやったことにして、報告できますから。」
「実態はどうでもよくて、数字さえ増加すればいいというのがJWという組織の体質だということだね。こういう組織では数字の捏造が常態化し、ますます実態と乖離するようになる。」

「15節の下に“祝福”という名の囲み記事がありまして、体験談が2つ出ています。いつもの決まりきった体験談ですね。」
「2つ目の話で“1人の兄弟は,小学校時代の同級生に電話をかけることにしました。”とある。小学生の同級生にまで電話かけるわけだ。よっぽど電話する相手がいなかったのだろう。」
「小学生から見ればJWはおかしなカルト集団にしか見えませんから、そんなJWから電話がかかってきても、困惑するだけですよ。」

「16節に“ある人たちは,組織は感染症対策の面で慎重過ぎると感じているかもしれません。”とある。早く対面での集会を再開すべきという意見が本部に寄せられていたということかな?」
「それは寄付集めを担当している部署からじゃないですか。このままでは寄付が減る一方だ、という文句が来ていたんですよ。」
「でも” 組織からの指示が本当に賢明なものであることがたびたび明らかになりました。”と勝利宣言している。この記事は単なるプロパガンダなんだけど、これだけ事実を無視できるということは素晴らしいね。」

#1408 2022年09月19日 09:34:52

アメリカの掲示板から
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

「監督であるイエスの指示に従う」の集会に参加した人の感想が、アメリカの掲示板に出ていました。その大体の翻訳です。


「起きたまま会議に出席するのは耐えられない」

私は PIMO (*身体的にも精神的にも組織の外にいるという意味)で、家族の病気と旅行のため、数週間は対面での会議を避けることができましたが、今日は出席しなければなりませんでした (マイクの義務)。

なんというコミカルな混乱、一体どうして私はこのナンセンスにもっと早く目覚めなかったのだろうか???

私たちの会衆では熱心に歌う人は誰もいません。ほとんどの人はまったく歌いません。賛美の歌というよりは、ゾンビ カルトの聖歌のように聞こえます。

日曜日の話しはつまらないものでした。妻と私は起きているのに苦労しています。新しいものはなく、いつもと同じ退屈な内容です。

この日曜日のものみの塔のレッスンはとてもカルトでした。全体が大きな「お互いの背中を叩く」セッションでした(*自画自賛という意味)。忠実な奴隷の素晴らしさをみんなでたたえましょう!

コメントに独自の考えはありません。さまざまな時点で4 ~ 5 人が、「私たちは追いつくことができないほど多くの素晴らしい霊的食物を手に入れました」と同じコメントしました。

心理的圧迫がたくさんあります。パラグラフ 13 を参照してください。組織なしでどこへ行けばいいのでしょう?と問いかけています。

Covidの対応についての自画自賛は馬鹿げたものでした。彼らがしたことは、米国疾病管理センターのガイダンスに従っただけで、証人は一般人と同じかそれ以上の割合で死亡しました。それなのにどのようにイエスが再び私たちを守ったというのでしょうか?

レッスン全体は、忠実で思慮深い奴隷の権威構造を強化することに焦点を当てています。それ以上のものではありません。

集会は1920年代からそのまま引き出された物憂げな歌と、非常に長々とした閉会の祈りで締めくくられました。

自然消滅を成し遂げ、この価値のないカルトが終わるのが待ちきれません。

#1409 2022年09月19日 20:58:37

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

>背教者や宗教指導者や政治家たちは,私たちの活動について間違ったイメージを広めてきました

「それはサタンの攻撃であり、そのような攻撃を受けていることこそ、神に選ばれている証拠なのです」


件の団体も、まったく同じことを言って信者を激励している模様

テレビで何回か見た日本の会長の方、顔がそんなに似ていることもないはずが、長年日本JWの代表だったODさんを思い出してなつかしくなりました

#1410 2022年09月23日 14:33:42

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“あなたにとって重要な古代の預言 (30)”で、創世記3:15のJW流の解釈を学んで、組織に対する忠誠心を高めるという内容です。」
「創世記3:15 は“そして私は,あなたと女の間,またあなたの子孫と女の子孫の間に敵意を置く。彼はあなたの頭を砕き,あなたは彼のかかとに傷を負わせる。”だけど、この聖句の解釈の復習をさせられるわけだ。」

「2節に“聖書の全ての書は創世記 3章15節と関連していて,1つのメッセージを伝えています。それは,救出者が遣わされて,悪魔と悪魔に従う邪悪な者たち全てを滅ぼすというメッセージです。”とありますが、これは創世記本来のメッセージではなく、キリスト教が生まれてからの後知恵的解釈ですよね。」
「そのように最初に解釈したのは初代教父のエイレナイオスだね。要するに人間と悪との長い闘争の後、女の末から生まれるイエスキリストが悪に致命的打撃を与えるという預言と解釈した。」
「パウロはローマ16:20で“平和を与える神により,間もなくサタンは皆さんの足の下で砕かれます。”と言っていますが、キリストが砕くとは言っていませんから、パウロにはない後の時代の思想ですね。」

「創世記3:15は文学ジャンルで言うと原因譚(たん)というもの。現在のある事実を過去のある出来事から説明するお話のこと。ロトの妻が塩の柱になったというのも死海周辺で塩の柱のようなものがあることの原因譚なわけで、地名の由来とか創世記にはその種の話が結構ある。」
「エデンの話自体全体が原因譚ですよね。」
「まず創世3:14で“あなたはこうしたことを行ったので,全ての家畜と野生動物の中で卑しいものとなる。あなたは腹ばいになって動き,生涯ずっと土を食べる。”とある。これはヘビが他の動物と異なって手足もなく腹ばいで動くようになった原因を説明している話。もっとも、ヘビは土を食べないけれどね。」

「そして3:15で“そして私は,あなたと女の間,またあなたの子孫と女の子孫の間に敵意を置く。彼はあなたの頭を砕き,あなたは彼のかかとに傷を負わせる。”とありますが、これはヘビが話しかけた時エバはすこしも嫌悪を示さなかったけれど、一般に女性はヘビが嫌いということについての原因譚ですね。」
「問題は3:15の後半だ。キリスト教ができてから、この部分の訳や解釈についてはうんざりするほどいろいろなことが論じられてきた。」

「“子孫”という言葉が出てきますが、単数形なので一人を指しているという理解でいいのですか?」
「そうとも言えない。創世22:17に“私はあなたを必ず祝福し,あなたの子孫を必ず,天の星や海辺の砂のように多くしよう。あなたの子孫は敵の町を攻略する。”とあるけれど、“子孫”と訳されている元のヘブライ言葉は単数形。創世記の作者は無数の子孫を指すのに単数形を使用している。それで3:15の子孫も子孫全体を指していると解釈できる。」

「現代の聖書では“彼”と訳されていますが、昔のカトリック系の聖書は“彼女”だったんじゃないですか?」
「そう。昔のキリスト教美術には、聖母マリアがヘビを踏んづけているというのがよくあった。ところがいろいろな理由で“彼”になった。しかし、“彼女”もありうる。」
「ヘブライ語は子音だけで書かれているからですね。」

「訳では、“砕き”と“傷を負わせる”というのが問題だね。こういう訳なので女の子孫がヘビに傷つけられながらも勝利する意味と誤解される。実際は使われているヘブライ語の動詞は同じものだ。従って両者相打ちというのが正しい理解。」
「この動詞の時制は未完了形となっていますが、これは未来のことを指す時制ではないですよね。文法的に言って、未来の預言ではないですよ。」
「女とヘビの間に敵意を置いたというのが3:15の前半で、その結果どうなるかを言ったのが後半で、お互い延々と攻撃しあうことになると言っている。この場合の未完了形は行為の反復を表していると解釈できる。」

「ものみの塔の記事に戻りますと、4から10節が“この預言に登場する者たちは誰を表しているか”です。 4節に“創世記 3章14,15節の預言には,「蛇」,蛇の「子孫」,「女」,女の「子孫」が登場します。それぞれは誰を表しているのでしょうか。”と問いかけ、ヘビは悪魔サタンといっています。5節で“蛇の子孫とは,サタンと同じようにエホバ神やエホバに仕える人たちに敵対する天使と人間を表しています。”と言っています。」
「創世記の中ではヘビはヘビだよ。悪魔に操られているなんてことは書かれていない。ヘビに対する呪いは3:14で“あなたはこうしたことを行ったので,全ての家畜と野生動物の中で卑しいものとなる。あなたは腹ばいになって動き,生涯ずっと土を食べる。”で、動物のヘビについて言っているのは明らかでしょう。」

「この訳はへんということですね。“卑しいものとなる”じゃなくて“呪われたものとなる”が正しい?」
「英文ではcursedとなっているから“呪われた”だね。日本語翻訳者は神が呪うというのが不都合と考えて、改変したんだろう。気楽に聖書を改変するのが日本語訳者ね。」

「6節で“では次に,「女」とは誰かを考えましょう。この女がエバであるはずはありません。”と断定しているのには驚きです。この段階で女はエバ以外にいませんよ。」
「3:15より前では女はエバのこと。3:16でも女はエバのこと。しかし3:15だけ女はエバではないというわけだ。全く恣意的な解釈の典型だ。高等教育を受けた人はJWについていけないのがよくわかる。」
「啓示の解釈もほとんどが比ゆ的と解釈しながら、144000は文字通りと解釈するのと同じです。組織の都合に合わせているだけです。」

「7節で“創世記 3章15節に出てくる女が誰であるか は,聖書の巻末の書で明らかにされています。(啓示 12:1,2,5,10を読む。)”と言って、“この女は,エホバに忠実に仕える天使たちから成る,エホバの組織の天の部分を表しています。”とある。聖書の中には組織という言葉は1回も出てこないよ。組織という言葉が大好きなのはJWだろう。」
「JWの組織至上主義という思想と啓示に書かれていることから、後知恵的に時間をさかのぼって創世記を解釈しているわけですね。」
「現代の世界情勢を見て、ダニエル書に出てくる北の王はロシアだと言っているのと同じ。世界情勢が変わればまた別のことを言うだけ。JWの解釈をまじめに受け止める必要はないことくらい、長年信者をしている人なら理解しているよ。」

「7節で“この女は,人間の女性ではありません。足の下に月があり,頭には12の星の冠をかぶっています。そして,特別な子供,つまり神の王国を産みます。”と啓示12章に出てくる女と強引に結び付けますが、この女が神の王国を産むとは知りませんでした。」
「啓示12章の女が産んだのはキリストと解釈するのが普通だけど、そう解釈するとJWの終末のストーリがおかしくなるので、それはできないわけだ。」

「8節に“イエスは30歳の頃,聖なる力によって神から選ばれた者となりました。この時,イエスは女の子孫の主要な部分となりました。”とあります。イエスがバプテスマを受けた時に女の子孫になったという解釈のようです。」
「女は天の組織を指すという解釈なので、女の子孫となるためには、天から認められなくてはならないと考えたようだね。」

「9節には“クリスチャンは,聖なる力によってエホバから選ばれる時,女の子孫の一部となります。ですから,女の子孫はイエス・キリストと14万4000人の共同統治者から成っているのです。”と、ここでも144000人のJWの独自教義が出てきます。」
「144000人は選ばれた人なの?何の根拠もなく、勝手に自分がその一人と思い込める変人に過ぎないでしょう。」

「この根拠はガラテア3:28,29のようです。そこには“皆さんはキリストのものなのですから,まさにアブラハムの子孫であり”とあるので、ガラテアのクリスチャンも女の子孫ということのようです。」
「普通はこれはクリスチャン全体に向けられた言葉で、144000人だけに向けられたものなどというへんてこな解釈はしないよ。パウロに144000人とその他に人類は分けられるという思想はない。」

「11,12節が“この預言はどのように実現してきたか”です。 イエスの死と復活が“かかとを傷つける”という預言の成就で、“頭を砕く”というのはまだ先のことのようです。」
「2000年以上の時間差があるということ?創世記3:15はどう見ても同時に起きることとして描いているよ。まずかかとを傷つけ、ずっと後に頭を砕くなんて書いていない。このような解釈は1世紀にはなく、JWが言う背教者の時代のものなんだけどね。」

「13から18節が“この預言はどのように私たちのためになるか”です。 創世記3:15と関係ない話が続きます。」
「14節が面白い。“2つのグループの間に敵意や憎しみが募るにも時間がかかるからです。”とある。それはおかしいね。エデンの園の段階で“敵意を置く”と書いてあるよ。時間がかかることにしないと不都合だからにすぎないね。」

「14節で“ここ最近の100年間,預言のこの部分がまさにその通りになっています。”とあって、JWが憎まれるのはこの予言の成就だといっています。」
「15節で“私たちはエホバを100%信頼しています。ここまで考えてきた通り,創世記 3章15節の預言のほとんどがすでに実現してきたからです。”と一方的勝利宣言している。聖書に書かれている過去の出来事を預言の成就と決めつけているにすぎないわけで、何も驚きはないし、信頼感が増すなんてことはないよ。」

「16,17,18節はJWが大好きな体験談です。全てウソくさいです。」
「16節で“グアムで宣教者として奉仕しているカーティス兄弟” が出てくるけれど、組織に迎合しているだけだよ。“創世記 3章15節の預言についてじっくり考えることによって,天のお父さんエホバへの信頼を保つことができています。”とあるけれど、どうしてそうなるのか理解できない。エホバは関係ないでしょう。」
「“じっくり考えると”というのはウソですね。こんな人は何も考えていませんよ。“組織から言われたことを頭の中で繰り返してみたら”と言い換えるべきです。」

「17節には“ドイツのバイエルンに住むウルスラ姉妹は,創世記 3章15節を理解して,聖書が神の聖なる力の導きによって書かれた本だということを確信できました。”とある。それならなぜJWなの?JWこそ聖書を改ざんし、いい加減でずさんな解釈を信者に押し付ける一番かかわってはいけないキリスト教系団体だよ。」
「そんなに聖書が好きなら、別の宗教団体を勧めますね。JW流のバイブルレッスンじゃなくて、まじめに聖書研究をしている団体がありますよ。」
「でも、そういうのはこういう人には難しすぎる。JWレベルがこの人にはあっているんだろうね。」

「18節の“ミクロネシアのジェシカ姉妹”もずれたことを言っています。“創世記 3章15節の預言は,確かに実現してきたのです。この預言のおかげで,今私たちが経験している苦しみはエホバが意図したものではないということを理解できました。”といっていますが、この世のすべてのことは神が決めたんですよ。」
「JWの教義では宇宙主権論争かなにかそんなことのために神はサタンを処罰せず放置したし、人類が病気になったり死ぬようにしたのも神様でしょう。この世界の全ての出来事に責任があるのが神という存在でしょう。」

「この姉妹はさらに“また,エホバに仕えるなら,今最高の人生を送ることができ,将来さらに素晴らしい生活を送れる,という確信も強まりました。”と、取って付けたようなことをいっています。」
「これは執筆者が勝手に書き加えたものだよ。創世記 3章15節とは何の関係もないし、会衆内の人間関係に悩み、無意味な集会と奉仕で消耗していくだけのJWの人生が”最高の人生”と本気で思っているわけないよ。」

#1411 2022年09月30日 14:54:34

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“祈りという宝を大切にしましょう (31)”で、祈る時はああしろ、こうしろと指図している、という内容です。」
「自由に祈るということはダメなのね。JWの神様に祈る時は細かなルールに従わないとダメなわけね。面倒くさい神様だね。」
「英文ではTreasure Your Privilege of Prayerで、祈りという特権を宝としようです。祈りが宝とは言っていません。JWの思考では“特権=宝”です」
「日本版では特権という言葉を訳さないことが多いよ。でも“祈りという宝”という表現はへんだろう。」

「2節で“ダビデ王は祈りを宝のように大切にしていました。エホバにこう歌いました。「私の祈りが,あなたに捧げられる香のようになりますように」。(詩 141:1,2)”と言ってから、“ダビデが祈りを香に例えたことから,天のお父さんエホバに祈る時には自分の言葉を注意深く選びたいと思っていたことが分かります。”と言っています。これっておかしいでよね。」
「まず詩編141はどう見てもダビデの作ではない。後の時代のものだね。それから“ダビデが祈りを香に例えた”という部分が違うね。例えではなく祈りが香をたく行為のかわりになりますようにということ。詩編141:2の後半は“両手を上げた祈りが,夕方の穀物の捧げ物のようになりますように。”だけど、これも両手をあげるという行為が夕方の穀物の捧げ物の代わりになりますように、ということ。」

「神殿での儀式が正常に行われなくなった時代のものということですか?」
「もともと香と祈りは無関係で、時代がすすむにつれて関連付けられるようになった。だからこの詩はバビロン捕囚以降の時代のものだね。少なくとも崇拝の力点が香をたくといった儀式的なものから、祈りといった内面的なものへと移行する時代に書かれた詩ということ。」

「3節に“エホバに祈る時には,なれなれしい言葉を使うのではなく,深い敬意を込めて話す必要があります。”とありますが、へんですよ。2節では“天のお父さんエホバ”といっています。本当にやさしいお父さんなら、多少なれなれしくしても怒ったりしませんよ。」
「祈る時、“深い敬意を込めて”祈るようにと聖書のどこに書いてあるの?3節では“エホバを威厳の ある王”だから敬意をこめて祈れといっているね。祈る時は天のお父さんじゃなくなるということだね。」

「4から9節が“それで,このように祈らなければなりません”です。 祈り方のハウツーが出ています。4節は“マタイ 6:9,10を読む。”とあります。5節はマタイ6:11-13が引用されています。主の祈りというものですね。本当にイエスはこのように祈ったのでしょうか?」
「何とも言えないね。イエスはアラム語をしゃべっていた。しかし、この祈りはギリシャ語。アラム語からギリシャ語に翻訳したものかというとそういうようには見えない。使われているギリシャ語の中に極めて特殊な単語があり、最初からギリシャ語の祈りだったように見える。」
「マルコ14:36ではイエスは“アバ,父よ,あなたには全てのことが可能です。この杯を私から取り除いてください。”と祈ります。アバは父という意味のアラム語ですよね。この聖句はアラム語から訳したというしるしです。一方、主の祈りでは父は一貫してギリシャ語ですね。」

「主の祈りで使われているギリシャ語は特殊なので、訳も難しい。JW訳ではマタイ6:11は“今日,この日のためのパンを私たちにお与えください。”だけど、協会共同訳では“私たちに日ごとの糧を今日お与えください。”となっている。」
「求めているのは今日のパンなのか、日ごとのパンなのかという違いですね。」

「JW訳ではマタイ6:13は“私たちを誘惑に陥らせないで,邪悪な者から救い出してください。”だけど、協会共同訳では“私たちを試みに遭わせず/悪からお救いください。”だ。誘惑なのか試みなのか、救って欲しいのは邪悪なものからなのか悪そのものなのかあいまいなの。どう訳すかで解釈も変わる。」

「ところで、主の祈りは新約聖書で誰か引用していますか?」
「誰も引用していない。パウロをはじめとして新約聖書の作者たちは恐らく主の祈りなど知らないのだろう。」

「7節では“祈る時には,エホバを賛美することも忘れてはいけません。”、8節でが“エホバが与えてくださっているさまざまな良いものについて感謝することも大切です。”と言っています。祈りでは、賛美と感謝が大事なようです。」
「8節で“愛情深いお父さんエホバがこうしたものをはじめ,たくさんのものを与えてくださっているのは,私たちの幸福を願っているからです。”とあるけれど、そんなことはないでしょう。今までウイルスや細菌によって膨大な数の人間が死んで来た。JWの教義ではこれらも神様の素晴らしい創造物なんだろうけれど、人間の幸福を願って造ったとは思えないね。」

「血を吸う蚊やノミも人間の幸福を願って創造したのですか?人間に嫌がらせをするために造ったと言われた方が納得できます。地球上には、有害で薄気味悪い生き物が多すぎます。」
「蚊はマラリアを媒介する。マラリアによる全世界での死者数は2018年で43.5万人だ。嫌がらせではすまないよ。マラリアはマラリア原虫によって引き起こされる病気だけど、マラリア原虫を造ってくれて感謝しますと祈らなくてはいけないのかな。」

「9節に“自分が具体的に祈ったことをリストにして,それを時折見返すことができます。そして,エホバが祈りに答えてくださったことについて感謝の祈りを捧げましょう。”とあります。滑稽ですよ。祈りに答えてくれるとしたら、空腹なので食べ物をくださいと祈ったら、会衆の誰かが食べ物を持ってきてくれた程度のことしかないと思いますよ。しかもこれは祈りと関係ない可能性が高いです。」
「英文では“You could make a list of specific requests you have made”で具体的に祈ったことではなく、具体的に要求したことのリストを作るといっている。JWにとって、祈りは神に対する自分勝手な要求なんだよ。賛美と感謝はどこへいったのかな。」

「マタイ6:8に“異国の人々のようであってはなりません。天の父は,あなたたちが求める前から,必要とするものを知っているのです。”とあります。要求リストを作れということは、この聖句は間違いで、天の父は信者の必要としているものは知らないということですね。」
「JWという宗教はわかりやすいけれど、聖書的ではないことがわかる。」

「10から12節が“大切な独り子イエスについてエホバに感謝する”です。 エホバに感謝するので、イエスには感謝しなくていいみたいです。」
「JWは祈る対象はエホバという神様だけという教義だ。でもこれも昔は違った。イエスに祈ってもよかった。変わったのは1954年。JWはそれまで80年間イエスに祈ってきたのだけど、それはすべて間違いだった!!!ということになった。ひどいね。」
「その間でもイエスに祈ったら、祈りがたちまちかないましたという体験談はたくさんあったのでしょうね。祈りが聞かれたという体験談は何の意味もないことがわかります。」

「ヘブライ1:6に“神はご自分の初子を再び世界に遣わす際,こう言います。「神の天使たちは皆,彼に敬意を表しなさい」。”と、あるけれど、1961年のJW訳では“And let all God's angels worship him.”で、崇拝しなさいだった。教義の変更とともに聖書の翻訳を変えるJWというのがわかるよね。」
「協会共同訳では“神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ。”となっていますね。」
「天使も崇拝するイエスをJWは崇拝してはいけないというルールを設けているくせに、自称クリスチャンなんだよね。」

「13から16節が“仲間のために祈る”です。 この記事の問題の部分ですね。13節の下の写真ですが、“姉妹が統治体を聖なる力によって祝福してくださるよう,また,災害や迫害で苦しんでいる仲間を助けてくださるようエホバに祈っている。”という説明がついています。」
「なぜかアンソニー・モリスが出ている。ウィスキー大好きなモリスおじさんが統治体の代表なのかな?」

「祈りの中に統治体の兄弟を祝福してくださいと祈る人がこれからますます増えてくるということですね。カルトらしく個人崇拝がますますはびこるわけです。」
「統治体を祈りに含めるのは常識だよ。統治体を褒めたたえなければ、JWの中で出世できない。こんな祈りがアメリカの大会であったそうだよ。

愛するエホバ、ベトナム戦争の勇者、アンソニー・モリスを私たちに統治体の一員としてお与えくださり、感謝いたします。ベトナムで、人間の焼けるにおいを何度も経験し、人間ホットドッグも何度も見たと自慢している彼は、間もなく生じる大患難におけるどんな悲惨なことにも動じず、私たちを理解できない奇妙な指示で導いてくださるでしょう。感謝します。

モリス兄弟は、体にぴったりしたパンツやカラフルな靴下を好むのは同性愛者であるということを教えてくださりました。ありがとうございます。

モリス兄弟は、ブロードキャスティングで、子どもにアイスクリームを買うお金を組織に寄付するように、恥じらいもなくお話ししてくださりました。とても感謝いたします。

モリス兄弟は、マッカランシングルモルトウィスキーがとてもおいしいことを、教えてくれました。男の中の男が飲むべきは、水っぽいビールなどではなく、一瓶数千円のウィスキーのストレートと教えてくださりました。感謝します。」

「モリス兄弟への感謝の気持ちが満ち溢れた祈りですね。感動しました。」

「オーストラリアでは統治体の一人であるジェフリー・ジャクソンに感謝する、こんな祈りがなされたそうだ。

愛するエホバ、ジェフリー・ジャクソンを私たちに統治体の一員としてお与えくださり、感謝いたします。オーストラリア王立委員会の前での彼の証言は、まさに、マタイによる福音書第10章18節のイエスの予言、「そして,あなたたちは私のために総督や王の前に連れていかれます。その人たちと異国の人々に証言するためです。」の成就でした。彼は口ごもり、おろおろしながらも、組織内の児童性的虐待についてごまかしてくれました。とても感謝いたします。」

「これもジャクソン兄弟への感謝があふれた、いい祈りですね。」
「ほかの統治体のメンバーへの祈りは別の時に紹介しよう。」

「16節には“会衆で教え導いている兄弟たちのためにも祈れます。”と、長老の名前を一人一人挙げて感謝する祈りを推奨していますね。」
「ますます祈りの時間がゴマすりタイムと変わり、長くなって、眠り込む人が増えることになるね。JWが個人崇拝のくだらない宗教へと変質したことがよくわかるよ。」

「17,18節が“ほかの人を代表して祈る時”です。 結構細かい指示が出ています。17節では“聖書レッスンを行っている姉妹が,参加してくれる姉妹に祈りをお願いすることがあるかもしれません。頼まれた姉妹は,学んでいる人のことをよく知らない場合,レッスンの終わりに祈りたいと思うかもしれません。”とあります。時間を入れるためにくっ付いてきた姉妹には、終わりの祈りをさせろという指示です。」
「18節の指示が面白いね。“祈りは助言や発表を行うためのものではありません。”、“集会で祈る場合,特に始めの祈りでは,「多くの言葉」を使って長く祈る必要はないでしょう。”とある。そうかもしれないけれど、長々と祈りたい人には好きなだけ祈らせてあげたらいいじゃないか。けちくさい宗教だよね。」
「長いだけで、くだらない祈りが多いのですよ。もっとはっきりと祈りは30秒以内にすることと、この記事で書いてくれたらいいと思いますよ。」
「その場合でも、統治体への感謝の祈りは時間無制限でしょう。」

「19節が“毎日の生活の中で祈りを大切にする”です。 “エホバの処罰の日がますます近づいているので,私たちは毎日の生活の中で祈りをいっそう大切にする必要があります。”とあります。が、“エホバの処罰の日”とはなんですか?」
「英文ではwe approach Jehovah’s day of judgmentだから、“エホバの裁きの日”のようだ。それを“処罰の日”と訳したのは、JW以外の人に対する敵意と憎悪のせいだね。」
「日頃JWをバカにしている連中は間もなく滅ぼされると思い込むことによって、奇妙な宗教のせいで人生を破壊されてしまった惨めな自分の精神状態を何とか正常に保っているのですよ。」
「英文では“ますます近づいている”とは言っていないよ。単に“近づく”。日本語版の方が終末論をあおっているのは、いつまでも終わりの来ないことに対する翻訳者のいら立ちのあらわれかな。」

#1412 2022年10月07日 14:37:58

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“若い皆さん,バプテスマの後もクリスチャンとして成長していきましょう(32)”で、バプテスマを受けたばかりの若い信者に、これからは組織のために死ぬまで働け、と指示しているという内容です。」
「バプテスマを受けたばかりの若い信者なんてそんなにいないでしょう。でも洗脳の足りない軟弱な若い信者が多いので、引き締めを図ったということかな。」

「2節で“今後は別の試練も経験することになります。サタンがエホバに対するあなたの愛を弱め,エホバから引き離そうとするからです。(エフェ 4:14)”と、さっそくカルトらしいことを言っていますね。」
「自分たち以外の人間はサタンの手下で、サタンの反対があるから負けるなと吹き込むわけだね。それを真に受けてしまうと、外部からのまともな意見もサタンの策略と退けてしまい、カルトから出られなくなる。組織の思うつぼだね。」

「3から15節が“クリスチャンとして成長するには”です。 5つのことが指示されています。」
「JWはJWで、クリスチャンじゃないよ。旧約聖書の律法主義と終末預言を主な教義とし、既成のキリスト教を敵視しているアメリカの新興宗教でしょう。」

「3節で“パウロはエフェソスの仲間たちに対して,クリスチャンとして「十分に成長」するようにと言いました。(エフェ 4:13)これはつまり,進歩を続ける必要があるということです。”とありますが、全く成長しないのがJWですよ。」
「ものみの塔の記事は小学4年生レベルなので、JWであり続けることは、永遠に小学4年生の教室に通うようなもの。成長などとは無縁だね。」

「4節に、指令①“エホバを愛する面で成長する。”が出ています。そのためには“エホバについて知れば知るほど,エホバをいっそう愛し,エホバの性格や物事の扱い方に魅力を感じるようになります。”と書いています。実際は、エホバを知れば知るほど嫌いになります。」
「旧約聖書の神様のやらかしたことと言えば、ノアの洪水の大虐殺、バベルの塔建設を妨害するために言語を混乱させ人類を分裂させたこと、長子皆殺しなどエジプト人散々苦しめたこと、悪者ダビデを罰せず、無関係な人を代わりに殺したことなどがすぐに思い出されるね。」
「JWの教義では、エホバは間もなく史上最悪の大虐殺をするわけですよ。神は残忍な暴君です。」

「5節に“あなたは,聖書を毎日読むことを習慣にしていますか。もしまだであれば,ぜひ始めてみてください。”とあるけれど、そういうことと人間として成長することは関係ないよ。聖書1万回読んだところで、ダメな人間はダメなままだよ。」
「本を読むと人間として成長すると思うのは、普段本を読まないからですよ。」

「5節で推奨しているのは福音書読むことなんだけど、その理由が面白い。“イエスはエホバの性格を完璧に反映していました。それで私たちは,イエスについて知れば知るほどエホバへの愛を深めることができます。”とある。イエスを知るとエホバを知ることができるので福音書を読め、という理屈なんだ。旧約の神は怒ってばかりの残忍な神だから、信者には勧めないのかな。」
「JWでは、公式には認めませんが、事実上イエス=エホバという二位一体説になっているわけですね。でも、イエスと旧約聖書のエホバじゃ性格が違いすぎます。」

「5節で、イエスは近づきやすい人だったと述べた後、“ですから,エホバも近づきやすい方だということが分かります。”といっているけれど、違うよ。例えば、出エジプト24:1、2で、神はモーセに“あなたとアロン,ナダブとアビフ,イスラエルの長老70人は,エホバのもとに上り,離れた所でひれ伏しなさい。 あなたが独りでエホバに近づくべきである。他の人たちは近づいてはならない。民はあなたと共に上ってはならない。”という。全然近づきやすい方じゃないよ。」

「7節で“クリスチャンとして十分に成長した兄弟姉妹とよく知り合うようにするなら,いっそうエホバを愛するようになり,自分もクリスチャンとして成長することができます。”とあります。しかしJWに“クリスチャンとして十分に成長した兄弟姉妹”なんかいませんよ。バカげた楽園幻想で人生を無駄にし、老後の生活もおぼつかないカルトの犠牲者がいるだけです。」
「7節では“そうした兄弟姉妹は,本当に喜びにあふれています。そして,エホバに仕えるという決定を全く後悔していません。”とあるから、喜びにあふれていて、後悔のない人が“クリスチャンとして十分に成長した兄弟姉妹”と呼ばれるための必要条件のようだ。」
「やっぱりそんな人はいませんよ。口にこそ出しませんが、JWに騙された、こんなはずじゃなかった、とみんな思っていますよ。」
「かといってJWを辞めることはなく、死ぬまでJWで居続けるのだろうね。」

「8節が指令②で、“疑いの気持ちを乗り越える。”です。進化のことを扱っています。」
「面白いのは“2節で考えた通り,サタンは,私たちがクリスチャンとしてさらに成長するのを阻もうとしています。”と断言しているところ。サタンがどうのこうのという主張の根拠は、この記事の2節なんだよ。自分たちの主張の根拠は自分たちということ。」
「サタンがバプテスマを受けた若いJWの人生に介入してくるということですが、聖書にそんなことは書いていませんから、自分たちの記事を根拠にするしかないのです。」

「8節に“格言 18章17節にある次の言葉を覚えておくのは大切です。「最初に言い分を述べる人は正しく見える。やがて相手方が来て,彼に問いただす」。ですから,学校で教わることをうのみにするのではなく,聖書の真理をよく調べるようにしましょう。”とある。まず、この聖句の日本語訳がへんだ。」
「英文では“The first to state his case seems right, Until the other party comes and cross-examines him.”ですから、これは裁判の話ですね。反対尋問cross-examinationの必要性を言っています。」
「JW訳は英語から日本語に翻訳する際の誤りが多いね。協会共同訳では“最初に訴えを起こす者は正しく見えるが/隣人が来て、それを尋問する。”となっていて、この聖句が裁判について言っていることがわかるけれど、JW日本語訳では全くそれがわからない。それだけでも訳としてダメということ。」

「この聖句はJWにとって不都合ですよ。JWはJWの理解した聖書の主張が絶対正しいという結論から出発しますので、裁判でいうと最初から判決を決めている裁判官と同じです。」
「“学校で教わることをうのみにするのではなく,聖書の真理をよく調べるようにしましょう。”というなら、JWで教わることを鵜呑みにするのではなく、学校で教えられることをよく調べましょうと言って欲しい。」

「“聖書の真理をよく調べるようにしましょう。”と言っても、具体的には“エホバの証人の出版物を調査してください。”と言っています。そんなことがよく調べることになりますか?」
「ならないよ。信者を外部の情報から遮断したいということだ。」

「9節で、メリッサ姉妹が“学校では,進化論が事実であるかのように教えられます。”と言っていますが、訳に問題がありますよね。」
「evolution is presented in a way that seems so convincing.だね。進化論ではなく“進化”。わざとそうしたのかも。進化は事実と翻訳者も思っているのだろう。それで進化論と変えた。」
「メリッサ姉妹は、そのあとJWの出版物を読んだそうで、“本当に助けになりました。”と言っています。バカですね。」
「いやいや、模範的なJWだよ。JW以外の情報源を敵視し、JWの情報だけに依存して、それを鵜吞みにする。こんなだましやすい人はいないよ。死ぬまで統治体の言いなりの人生を送ってくれる。」

「8節の上に、若い女性JWが学校で進化論に反論し、JWの創造論を披露しているという痛々しい写真が出ています。よせばいいのに“生命の起源 ― 5つの大切な質問”の冊子を紹介しているようです。」
「写真を見ると先生も生徒も感心したように聞いている。こんなことありえないだろう。“生命の起源”という冊子は誤りだらけだよ。幼稚な反進化論のプロパガンダにすぎない。学校では、JWの信者は奇妙なカルト宗教の一員と自覚し、目立たず、反論せず、おとなしくしていようよ。」

「“生命の起源 ― 5つの大切な質問”の3ページに“生命は創造されたのか,それとも進化したのか。”とあります。ここでこの冊子のレベルがわかります。生命の起源と進化は別問題なのに混同しています。」
「例えるなら、コンピュータの仕組みとその進歩についての授業なのに、コンピュータは誰が発明したのか、それを知らずしてコンピュータのことは語れないと熱弁をふるっているおバカな人だね。」

「昔“生命―進化か創造か”という本があって、不正引用だらけで有名なのですが、“生命の起源”という冊子はどうなんですか?」
「21ページに“例えば,DNAの2重らせん構造の発見に貢献した科学者フランシス・クリックは,DNA分子はあまりにも秩序立っているので,ひとりでに生じたとは考えられない,と結論しました。そして,知性を持つ地球外の生命体がDNAを地球へ送り込み,生命の誕生を助けた,という説を提唱しました。”とあるけれど、これは後に撤回したよ。それなのにこんなことを書いて、読者をミスリードしている。」
「その後に“もっと最近では,50年にわたり無神論を唱えてきた高名な哲学者アントニー・フルーが,考えを180度変えました。81歳の時に,生命は何らかの知性の働きによって造られたに違いない,と述べるようになったのです。なぜ考えを改めたのでしょうか。DNAの研究のゆえです。”とありますが、生物学のド素人の哲学者の見解なんて、わざわざ引用するに値するほど重要ですか?」
「意味ないよ。しかも、この哲学者は聖書の神様を信じるようになったわけではない。この人の立場は理神論で、要するに、宇宙の創造者として神を認めるけれど、神がおこなったのは宇宙とその自然法則の創造だけで、それ以降、宇宙は自己発展したという立場。JWが信じているような、人間に話しかけたり、いじめたりするような聖書の神様は否定する。それを隠している点で不誠実だね。」

「10節が指令③で“間違った行いを退ける。”です。いうまでもなくJWがこだわっている性の問題です。“先ほどのメリッサ姉妹は,不道徳な考えと闘っていました。”とあります。どんな不道徳な考えを抱いていたのか知りたいですが、何も書いていません。つまらないです。」
「11節に“勇気を求めてエホバに祈り,父に悩みを打ち明けました。そうしたら,とっても気持ちが楽になりました。”とある。打ち明けられたお父さんも驚いただろうね。でもどんな悩みなのか具体的に書いてくれたら、この記事で一番記憶に残る話になっただろうに。残念だ。」

「性の問題を回避するには、早く結婚するというのがJW的に一番いい解決策じゃないですか?」
「だから外国ではJWは早婚だよ。つまらない動機で結婚し、その後何十年も不幸な結婚生活に耐えるのがJW人生。」

「12節が指令④で“聖書の原則を指針とする。”です。細かな規則ではなく原則が大事と言いたいようです。」
「JWの律法主義が度を越えてきたと反省しているならいいのだけどね。」

「12節で二つの聖句が出ていますが、原則が大事などとは言っていません。」
「まず詩編19:7は“エホバの律法は完全で,力を吹き込む。”といっているから、あの細々しい規則の順守が大事だと言っている。もう一つのイザヤ48:18は“あなたが私のおきてに注意を払いさえすれば!そうすれば,あなたの平和は川の流れのように豊かになり,あなたの正しい行いは海の波のように多くなる。”で、原則が大事ではないよ。」
「ここでは律法は完全なもので、全て守るべきと言っていますよ。」
「それが聖書の原則というなら、JWは聖書にある全ての規則を守るべきじゃないのかな。」

「12節で、カリー姉妹が“私は,聖書に載せられている規則だけでなく,原則も理解する必要がありました”と言っていますが、誤訳でしょう。」
「I needed to understand Bible principles rather than just rules.だから、規則よりもむしろ聖書の原則を理解する必要がありました、と言っている。日本語翻訳者は規則順守主義者なので、規則プラス原則が必要と勝手に変えたんだよ。統治体に逆らっているから排斥ものだ。」

「13節が指令⑤で“エホバを愛している人を友達にする。”です。人間関係をJWだけに限定しろということです。カルトらしいですね。」
「15節に“パウロは,1世紀のクリスチャン会衆の中にクリスチャンらしくない考え方や行動をしている人がいることを知っていました。それでテモテに対して,そうした人から離れているようにと警告しました。(テモテ第二 2:20-22を読む。)”とあるけれど、引照聖句はそんなこと言っていないよ。」

「テモテ二2:21に“それで,後者のような人たちから離れている人は,立派な用途のための器具となります。”とありますが誤訳ですか?協会共同訳では“それゆえ、卑しいことから離れて自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、”ですね。人ではなく“卑しいこと”から離れるように言っています。」
「ここは家の中の器の例えを用いている部分なのに、突然“人”が出てくるのがおかしい。JWの教義に合うように訳したんじゃないの。」

「16から18節が“目標を立てるとよいのはなぜか”です。 16節の指令⑥が“適切な目標を立てる。”です。JWの適切な目標は全時間奉仕者になることのようです。最悪の目標です。」
「17節では“人を助けることによっても,クリスチャンとして成長できます。”といっているけれど、JW仲間を助けるという意味だよね。それ以外の人は無視。」
「そんなことはないようですよ。17節に、“王国の良い知らせを伝えることによって,兄弟姉妹以外の人にも愛を示すことができます。”とありますから、JW以外の人には、永遠の命をもたらす王国の良い便りを伝えるという、最高の愛の行いをしていることになっています。」
「それをやめてくれたら、JWの好感度はアップするんだけどね。無理のようだね。」

「最後の19節が泣けます。“クリスチャンとして成長していくなら,多くの祝福を経験できます。むなしい目標を追い求めて若さを無駄にすることを避けられます。”とありますが、JWとして生きるとは、“むなしい目標を追い求めて若さを無駄にすること”そのものですよ。」
「コロナのおかげで最近は見ないけれど、無残な老醜をさらして町をうろついていたJWも、昔はそれなりの美男美女だったのかもね。若い人はそうなる前に迷わずJWから抜け出ることだね。」

#1413 2022年10月10日 13:45:55

アメリカの掲示板から
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

今週の記事の8,9節(進化について扱った部分)についての投稿の大体の訳です。アメリカのJWの様子がわかります。


私は会議に座ってコメントを聞いています。それらは私が予想していたものでした。

基本的に進化論者は神に仕えたくない大バカ者なので、進化を信じています。進化は愚かな概念です。時計には作り手がいませんか?は?!?建物にも建てた人がいませんか?は?!?!

しかし、私を本当にイライラさせたコメントが1つありました。長くJWをしている人が「進化論が間違っていることを証明できる」と言ったのです。

他のJWは、もはや「強く奨励」されていないためマスクを外した笑顔で同意してうなずきました。「はい、進化を間違っていると証明できます!」

私は強い怒りを感じました。あるいは、私が聞いていたことに戸惑いました。どちらかはわかりません。

私は人々が何を信じているかは気にしません。人々がトールを信じているか、異教徒であるか、JW であるか、クラゲを崇拝しているかは気にしません。彼らの信念が他人の生活に悪影響を及ぼさない限り、私は気にしません. 私は自分が何を信じているのかまだわからないので、他人の信念を判断するのは偽善的です。

しかし、このような発言は私を激怒させます。彼らが認識さえしていない彼らの独善性と傲慢さにです。

「では、反論してください。あなたの詳細な研究、出版物、巨大な頭脳を持つ自分を、世界をリードする科学者やハーバード大学、そして新聞社に持ち込んで、進化を反証するその 100% の真実を公表してください。まさに画期的でしょう。今すぐやってください。傲慢で何でも知っているマザー****(ののしり語です)!世界を変えて命を救え!」

少なくとも私はそう言いたかった。

いつまでPIMO(身体的には組織内にいるが精神的には組織の外にいる状態)でいられるかわかりません。友達を心から愛しています。私はこの王国会館で育ちましたが、組織の外には誰もいません。誰もない。友達も家族も職場の同僚さえもいません。自分の未来を見つめると、悲しみしか見えません。友達や家族なしでは生きていけません。私はこれらすべてのために、すでにうつ病と自殺念慮に直面しています。私の知っている人すべてを失うのではないかという恐れで、気が狂いそうです。

しかし、神が彼らを選び、特別な秘密の知識を持っている等々の理由で、自分は地球上の誰よりも賢く、人生のすべての答えを持っていると思いたがる人々と一緒にこの部屋にいることに、私は疲れ果てました。 明らかに、すべてのJWがそうだということではありませんが、私を狂気へと駆り立て始めている人たちがいるのです。

#1414 2022年10月13日 15:21:35

新世界(仰天)
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

進化論の間違いが証明されたなら凄いですけど。

#1415 2022年10月14日 14:32:25

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“ エホバはご自分に仕える人たちを見守っている(33)”で、JWであることはつらく苦しいことだけれど、最後まで組織のために働きなさいという内容です。」
「“何を学ぶか”には“私たちが今直面しているいろいろな問題と闘うには,エホバの助けが必要です。”とある。JWの問題は、JWを辞めて、別の生き方をすることが一番の解決策だよ。エホバの助けなどありもしないものに依存させて、信者の自立を妨害しようとしている。」

「アルコール依存症の人に、酒をやめることを勧めるのではなく、神様に頼れば解決しますとアドバイスしているようなものです。」
「信者の自立を妨害し、宗教団体に依存させるわけだね。あなたは無力で無能なダメ人間だから、神様に頼るしかないのですというのはカルトのよく使う手だね。」

「1節に“もちろんエホバは,ご自分に仕える人たちのことをいつも見ていて,気遣い,守っています。”と自信たっぷりに言っていますが、そんなことはないですよ。グアテマラで死んだ日本人女性JWのことは忘れたんですか?」
「統治体が覚えているわけないよ。勝手に行って、勝手に死んだというのが公式見解。」

「聖書の中の神は自分に仕える人にひどいことばかりしていますよ。たまにいいことをするだけです。」
「モーセに対してどうだったかというと、出エジプト4:24-26に“道中の宿でのこと,エホバは彼に会い,彼を殺そうとした。そこでチッポラは石の短刀を取り,息子に割礼を施して,息子の包皮を彼の両足に当て,「あなたは私にとって血の花婿だからです」と言った。それで神は彼を行かせた。”とあるよ。」
「これからエジプトに行って民を救おうとしているモーセを殺そうとしたなんて理解できません。さらに息子の包皮を足に当てたから殺すのをやめたというのも全く理解できません。」
「使える人を気遣い守る神というよりは、理解不能な危険な神ということだ。」

「3から7節が“自分は独りぼっちだと感じる時”です。 JWの問題は孤独感のようです。3節に“例えば,若い人たちは,学校でクラスメートに対して自分の信条を説明しなければいけない時や,会衆が変わる時などにそう感じるかもしれません。”とあるのですが、これは学校でJWのカルト丸出しの教義を説明せよと、子どもに間接的に圧力をかけています。」
「本当は、そうやってJWの子どもを学校で孤立させたいんだよ。孤立させてJW以外に行くところがないようにするわけだね。」

「4節からエリヤの話になります。エホバはエリヤを助けたから、JWも助けてくれるということのようです。そんなことはありませんよ。」
「昔は人類に介入した神様も、今は何もしないよ。まもなくすることと言えば人類大虐殺。」

「5節の最後で“では私たちは,自分は独りぼっちだと感じる時,エホバに助けていただくためにどんなことができるでしょうか。”と問いかけます。6節に“エホバは私たちに,ご自分に祈るようにと勧めています。”とあって、祈れば孤独も解決するようです。」
「祈り、集会、宣教はなんにでも効くというのがJWの教義だよね。」

「6節で“例えば,学校で自分の信条について話す時に,心細くて怖くなるなら,勇気を求めてエホバに祈ることができます。”と、またもや子どもに学校でJWについて語るよう圧力をかけています。」
「JWの家に生まれるということは本当に不幸なことだ。精神的におかしくなるのも無理はないね。そんなことは、子どもにさせないで親が学校に乗り込んで、JWの教義を説明すればいいだろう。」

「6節に“自分の気持ちをエホバに打ち明け,エホバからの答えに耳を傾け,”とあります。耳を傾けたら、エホバからの答えが聞こえてくるのですか?ありえませんよ。」
「誤訳だね。Pour your heart out to Jehovah, see how he responds to your prayers,だから、“エホバがどのように祈りに答えるか見る”だよ。Seeなのにどうして“耳を傾け”になるのかな?」
「翻訳者は祈れば、エホバが話しかけてくると本当に思っているんじゃないですか?」
「この翻訳者はいろいろな声が聞こえてくる人なのかもね。」

「7節に“エホバは,私たちみんなにやりがいのある仕事を与えてくださっています。”とあって、JW活動をやれば孤独が和らぐそうです。マウリシオ兄弟は“誰かと一緒に宣教を行うと,とても楽しい気持ちになり,寂しさが和らぎました”と言っています。」
「誰かと一緒にやれば、宣教じゃなくても寂しさが和らぐよ。スポーツでもゲームでも同じだよ。」
「そんな相手がいないのがJWなんですよ。」

「それなら、本音の言えない表面的な関係をJWでだらだらと続けるよりも、孤独を楽しむようにしたら。“独りともし火のもとに文を広げて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。”と、“徒然草”に書いてあるよ。」
「徒然草の作者の吉田兼好は孤独を愛している人ですね。」
「“ただ独りあるのみこそよけれ”と言っている。煩わしい人間関係を整理して静かに暮らし、世間づきあいを止めて、ゆったりした気持ちで本来の自分を取り戻すことを勧めている。」

「JW内の煩わしい人間関係で苦しむJW信者とは真逆の生き方です。」
「JWのような生き方を、完全に自分を見失い、酔っ払って夢を見ているようなものだと吉田兼好は言っている。せかせかと動き回るだけで、本当にやるべきことを忘れているとも言っている。JWも聖書より徒然草を読んだらいいよ。」

「8から14節が“厳しい試練に押しつぶされそうな時”です。 孤独の次は試練です。8節に“私たちは,この終わりの時代にさまざまな試練を経験するということを理解しています。(テモ二 3:1)”と、終末論をあおっています。」
「JWが試練にあうのはJWという宗教に問題があるからなんだけど、JWは今は終わりの時だから試練に会うと問題をすり替えているわけだね。終末論はいろいろ使える便利なものというのがわかるね。」

「引照聖句のテモテ二3:1に“終わりの時代は困難で危機的な時になります。”とありますが、今は危機の時代ではないですよ。」
「100年前と比較して、戦争や病気、飢えで死ぬ確率は激減し、健康で長生きできるようになった。車を持つのは特権階級だったけれど、今では誰でも持てる。冷たい水に手を突っ込んで洗濯する必要もなくなった。車も電気もない時代の方がよかったという人はいないね。」

「9節からヨブの話です。“エホバはヨブのことを見守っていました。ヨブを愛していたので,ヨブが試練を乗り越えられるよう必要な助けを与えました。”とありますが、違いますね。」
「何をしたかというと、10節に、“ヨブに,ご自分が非常に豊かな知恵を持っていることや,ご自分が造ったものを愛情深く世話していることについて話しました。畏敬の気持ちを抱かせる動物を幾つも挙げました。(ヨブ 38:1,2; 39:9,13,19,27; 40:15; 41:1,2)”とある。これが必要な助けなの?違うよ。」

「参照聖句はヨブ38,39、40章からのものですが、そこは動物たちを愛情深く世話しているなんてことは書かれていません。」
「神は38:2、3で“知らないのに言葉を発し,私の考えを覆い隠しているのは誰か。男らしく,私の問いに向き合ってみなさい。私はあなたに質問しよう。あなたは私に答えなさい。”といって話を始める。38,39章のテーマは、いかにヨブが神の創造した世界を知らないかということ。」
「ヨブは40:4、5で“何とお答えしましょう。手で口を押さえるしかありません。1度,いえ2度話しましたが,もう話しません。何も言いません。”と、自分がいかに無知であったかを認めるわけですね。」
「執筆者はヨブ記を読んだことがないね。」

「10節の上の挿絵では色々な動物が描かれていて、カバとワニもいるのですが、ヨブ40:15にあるベヘモトはカバで、ヨブ41:1にあるレビヤタンはワニでいいのですか?」
「ヨブ記の記述からベヘモトはカバが一番似ているので、カバとすることがあるけれど、違うよ。」
「ヨブ40:19に“ベヘモトは神が造った物のうち筆頭に挙げられる。それを造った者だけが,剣を携えてそれに近づける。”とあります。これがカバとはへんですね。」
「それは誤訳。協会共同訳では“これは神の業の最初のものであり/これを造った者が剣を授けた。”の方が正しい。これはカバと一致しないので、ベヘモトは神話的な怪物のことだろう。」
「レビヤタンはワニじゃないですよ。人間の武器では倒すことのできない無敵の存在として描かれています。これも神話的怪物です。」
「JWは聖書が神話的動物について触れていることを認めたくないので、無理やりカバとワニにしてしまったということだね。」

「ヨブ記の動物の描写は正確じゃないですよ。」
「ヨブ記の作者は動物のことをあまり知らないね。」
「ヨブ39:14に“ダチョウは卵を地面に残し,土の中でそれを温める。”とし、39:17で“神が知恵を奪ったからだ。理解力を与えることはしなかった。”と、ダチョウをバカにしています。これは間違いですよ。」
「ダチョウは雄と雌が交代しながら卵をかえす。土の中に埋めて温めることはない。39:16では“ダチョウは自分のひなを荒く扱う。自分の子ではないかのように。苦労が無駄になることを気にしない。”とあるけれど、間違い。またヨブ39:30に“ワシのひなは血を吸う。”とあるがこれも間違い。」

「10節には“また,ヨブに力や慰めを与えるために,忠実な若いエリフを用いました。”とありますが、これも違いますよ。」
「エリフの主張はそれまでの友人の主張と基本的に同じで、慰めたりしていないよ。」
「エリフについてはヨブ32:2で“さて,ラムの氏族のブズの子孫,バラクエルの子エリフは怒りに燃えた。なぜなら,ヨブが神の正しさよりも自分の正しさを証明しようとしたからだった。”と紹介されています。どうして“怒りに燃えた。”が、“力や慰めを与えるために”になるのでしょうか?」
「エリフはヨブ32:18で“話したいことがたくさんあり,私の中にある聖なる力が私を突き動かします。”と、単に年を重ねただけのヨブの友人とは違うと言っている、自信過剰で傲慢な怒れる若者だよ。」

「11節では、“エホバは,ヨブに対しては直接語り掛けましたが,私たちに対しては聖書を通して語り掛けています。”と言って、“では,試練にぶつかった時に慰めとなる聖書の言葉を幾つか考えてみましょう。”と続きます。ヨブの話と全く関連しません。」
「ヨブの話で2節分使ったけれど、それを省略したら、この記事は14節で終わってしまう。水増しするようにエライ人から言われたんじゃないの。」

「13節が“忠実で思慮深い奴隷”こと統治体の老人へのゴマスリです。ある姉妹は“忠実で思慮深い奴隷を通して与えてくださる信仰を強める食物のおかげで,忍耐することができています。”と語ったそうです。」
「統治体への崇拝を強めようということだね。」
「13節に“「忠実で思慮深い奴隷」は,エホバからの助けを得て,さまざまな記事や動画や音楽を提供してきました。”とありますが。ウソですよ。」
「エホバからの助けを得ているのに、記事がこのレベル?動画も音楽も聖なるものを全く感じないよ。」

「14節で“会衆の誰かが難しい問題に遭っても忠実を保てるよう,兄弟姉妹はエリフに倣って喜んで助けたいと思っています。”と、困っている信者を助けて、JWを辞めないようにしなさいと言っています。」
「信者数を維持するために助け合えと言っているようで面白い。ここで出ている体験談は、夫が重い病気になった姉妹の話だけど、“私は車を運転できないので,会衆の兄弟姉妹は私が集会や伝道に行けるように助けてくれました。”とある。看病に専念してはいけないようだね。」
「看病を理由に奉仕活動をサボるのを防ぐために、無理やり伝道に連れて行ったんですよ。」
「この姉妹もわがままで思いやりの欠けた男尊女卑のJW夫の看病に嫌気がしていて、気晴らしをするために伝道と称して外歩きをしただけかもよ。」

「15,16節が“エホバの優しい気遣いに感謝する”です。 15節で“エホバが必要なものを全て与えてくださっているので,私たちは問題に立ち向かうことができます。”といい、16節で“エホバから引き続き気遣っていただくためには,自分の責任を果たす必要があります。”と、最後は信者に対する要求で終わります。神と信者の関係はgive and takeのようです。」
「実際は信者はgive and giveだね。与えるだけ。」
「問題に立ち向かうのに“必要なもの”の代表は、お金と時間と思考力です。JWを長くやればやるほど、お金も時間も思考力もなくなっていきます。」
「JWのたわごとに騙されないで、まじめに働き、お金をためて、自分の好きなことを勉強して、人生の問題に立ち向かう。こっちのほうがはるかにいいよ。」

#1416 2022年10月21日 14:42:21

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“ 真理に従って歩み続ける(34)”で、JWの教えを真理と信じて、組織の言いなりになりなさいという、いつもの内容です。」
「“何を学ぶか”で、“私たちは,自分の信条や生き方を「真理」と表現することがよくあります。”と言っている。というわけで、JWの言う真理という用語は独特の意味があるわけだけど、自分たちだけにしか通じない用語を好むというのはカルトの特徴ね。」

「この記事の主題聖句はヨハネ三1:3の“私の子供たちが真理に従って歩み続けているのを聞くことほど,うれしいことはありません。”ですが、ここでいう真理は、よく変わるJWの教義や生き方とは関係ないですよ。」
「新約聖書にエホバというインチキネームを勝手に挿入したり、古代の歴史を捏造しているJWが真理を語るというのは悪い冗談にしか思えない。誕生祝禁止に代表されるような根拠の乏しい禁止事項がたくさんあるけれど、あれも真理の一部なの?」

「3から14節が“私たちが「真理」を愛しているのはなぜか”です。 長いですね。この記事のメインですが、信者はJWの真理を少しも愛していないので、長々と愛する理由を説明する必要があるわけです。」
「JWの真理は無理やり押し付けられるもので、愛する対象じゃないでしょう。」

「3節では“その中でも最も重要なのは,真理の源であるエホバ神を愛していることです。”といっています。JWの真理の源は統治体ですよ。輸血は初めは問題なしだったのに輸血禁止へと変わり、さらに血液の部分なら問題なしと変わったのはエホバのせいですか?統治体のメンバーが変わったからですよ。」
「エホバを愛するからです、というのは、何にでも使える便利な理由付けで、単なる建前だよ。」

「4節の上の写真の説明の見出しが“聖書の真理を表す例え: いかり”です。これはヘブライ6:9の“この希望は,私たちの命のためのいかりであり”から来ています。」
「真理はどうしたの?希望がいかりと言っているだけだよ。」
「それで、“聖書の真理には,将来の希望が含まれています。”と言って、無理やり、真理=いかりにしています。」
「ひどい非論理的主張だ。例えば、希望はむなしいものなら、真理には希望も含まれるので、真理もむなしいものですということになるのか?希望と真理は別だろう。これと同じ奇妙な論理がこの後も出てくるよ。」

「5節で“ここでパウロは,神から選ばれたクリスチャンが抱いていた,天で生きる希望について述べていました。”とあります。つまり144000人だけが対象というわけです。これもJWだけの真理ですよ。」
「6節にイボンヌ姉妹の話が出ているけれど、少しヘンな話だね。」

「この人は“子供の頃,死ぬことをとても恐れていました。”が、7節で、JWの真理を知って、“わたしは,地上のパラダイスで永遠に生きる希望を自分も持てる,と信じるようになりました。”と言っています。それで、“将来や死ぬことが心配で夜も眠れない,ということはもうありません。”だそうです。」
「間もなくハルマゲドンが来て、死ぬことなく生きたまま楽園に行けると教えられたから、死の恐怖から解放されたんじゃないの?“間もなく”という部分がこの記事では省略しているよ。間もなくでなければ、やっぱり死ぬんだよ。病気で長く苦しんで死ぬかもよ。」

「“間もなく今の体制が終わり、そのまま地上のパラダイスで永遠に生きる希望をもてる”ので、死ぬのが怖くなくなりましたとあるべきですよ。でも、そこまで書く自信がなかったようです。」
「はるか昔、いま生きている人は死ぬことなし、といった宣伝活動をJWはしていたけれど、実際はみな死んだ。イボンヌ姉妹の年齢は書かれていないけれど、そう若くはないのだろう。死ぬことなく楽園に行くという希望は完全に無くなっただろうね。むなしい希望だったね。」

「8節の上に写真があって、“聖書の真理を表す例え: 宝”という見出しです。本当は、“天の王国は野原に隠された宝のようです。”(マタイ13:44)なので、天の王国の例えなのですが、“聖書の真理には,神の王国の良い知らせも含まれています。”から問題ないようです。」
「8節に“手に入れるために大きな犠牲を払いました。持ち物を全て売ったのです。”と、例えについて説明しているけれど、違うよ。この例えをよく理解していないね。」

「この例えでは、野原で宝を見つけて、それを隠し、“喜びのあまり,行って持ち物を全て売り,その野原を買います。”とあります。犠牲なんて払っていません。しかも、この人は結構悪い人ですよ。真実を隠し、その土地を買ったわけですから。模範とすべきではありません。」
「当時の慣習では、この場合土地の所有者に宝の権利がある。正直者なら地主に宝が埋まっていることを教え、わずかばかりのお礼を貰う程度だろう。このたとえの男は宝まるごと得るために、宝があることを隠して、その土地を買った。ずる賢い男だ。」

「JWの真理では、犠牲を払って死ぬまで組織のために働いて、やっと報われることになっていますから、この例えも、犠牲を払うことを強調した歪んだ解釈になっています。」
「この例えはそういう思想を否定して、天の王国は個人の正しさや努力に対して与えられるご褒美のようなものではない、と言っているんだけどね。」
「たとえの人物はたまたま宝を見つけただけです。その後、うまく立ち回って、宝をゲットした。善人などと書かれていません。」
「神の恵みとして一方的に与えられる救済という考えは、死ぬまで組織に尽くしたら救済されるというJWの真理にはないので、理解できないのだろう。」

「10節は“多くの人が,エホバに喜んでいただくために大きな犠牲を払ってきました。”で始まり、マイケル兄弟の話が11節まで続きます。マイケル兄弟は武道が好きだったけれど、JWと出会い、武道をやめたという話です。これが大きな犠牲を払った人ですか?武道で生活をしていたわけでなく、単なる武道好きの若者ですよ。」
「他にいい事例が見つからなかったんだよ。まともな人からすれば、JWのために犠牲を払うなんてバカバカしいからね。」

「武道がダメな根拠として10節に出ているのは詩編11:5の“エホバは正しい人と悪い人を調べ,暴力を愛する人を憎む。”だけです。武道を禁じる根拠としては弱いですね。」
「空手や柔道に対するアメリカ人の偏見が背後にあるだろう。空手や柔道の精神は暴力賛美や暴力崇拝ではない。」

「旧約聖書は暴力賛美の精神であふれていますよ。神自身が暴力的です。列王二2章には、エリシャの禿げ頭をからかった42人の子どもを、エホバは2頭のクマを使って皆殺しにしています。こんな神様が“暴力を愛する人を憎む。”なんてよく言いますね。」
「神の民であるイスラエルも暴力的。詩編137:8,9では“バビロン,おまえはもうすぐ壊滅させられる。おまえが私たちに加えた仕打ちで,おまえに報いる者は幸せだ。おまえの子供たちを捕まえて,岩にたたきつける者は幸せだ。”と、バビロンに対する憎しみを酷い暴力で表現している。この作者は憎しみのあまり、少し頭がおかしくなったのだろう。」

「それなのに聖書を根拠にJWは柔道も空手もダメだなんて理解できません。」
「聖書を持ち出せばなんにでも禁止できるという実例だね。聖書には戦いや軍人を嫌うという思想はない。聖書によれば、イスラエル人は神の助けを受けて、カナンの地を侵略し、殺人や盗みを行っている。歴史上の他の侵略者と何も変わらない。平和主義とは無縁だね。」

「12節の上の写真の見出しは“聖書の真理を表す例え: ランプ”です。JWの真理は“闇の中で輝くランプ”だそうです。マイリ―姉妹の話が13節まで続きます。マイリー姉妹は宗教の教えにいろいろ疑問があったのですが、JWを知って、“神の言葉 聖書の論理が納得のゆくものだったので,人生観がより良いものになりました。”と言っています。」
「疑問を持つのはいいことだけど、JWの安易な答えにすぐ飛びついてしまったのはまずかったね。疑問があるなら、インターネットで検索した方がよかったよ。この人はアゼルバイジャン人だそうだけど、インターネットは普及していないのかな。」

「15から17節が“真理を愛していることをどのように示せるか”です。 愛するだけではダメで、それを組織の望む仕方で示さないといけないと信者に強要しています。こういう点がカルト的ですね。」
「ものみの塔創刊号から引用されているのが面白い。“ただ一輪の真理の花に満足してはならない。”そうだ。もっともっと勉強しなさいということのようだね。」

「16節で“でもエホバは,真理のいっそう深い理解を「求め続け」,「探し続ける」よう私たちに勧めています。(格言 2:4-6を読む。)”とありますが、引照聖句の部分は教師が語っている部分で、神が語っているわけではありませんよ。」
「それから“求め続けkeep seeking”や“探し続けるkeep searching”と訳しているけれど、誤訳だろう。こういう訳はJW訳以外に見たことないよ。」
「協会共同訳では“銀を求めるようにそれを尋ね/隠された宝を求めるようにそれを探すなら”となっています。」
「推測すると、JWの訳者はヘブライ語の文法とギリシャ語の文法をごちゃまぜに理解しているからだと思うね。ここで使われているヘブライ語の動詞は文法的にimperfectだけど、ギリシャ語文法なら未完了過去という意味で、英語なら過去進行形で訳していいの。しかしヘブライ語は違う。聖書のヘブライ語は単一の純粋な言語ではなく、雑多な言語からなる混合言語なので、文法は複雑怪奇なんだよ。」

「17節で“真理に従って生きる必要があります。つまり,学んだことを実践する必要があるということです。”といっています。一見もっともそうですが、具体的には、伝道、集会、建設奉仕などJW活動に限定されるわけです。困った人を助けるなどといった行為は含まれないのですよ。」
「あくまでJWのための真理だからね。」

「17節で“そのようにして初めて,真理によって本当の幸せを得ることができます。(ヤコブ 1:25を読む。)”とあって、引照聖句には“そのような人は幸せになります。”とあるのですが、“幸せになる”というのは聖書的な言い方じゃないですよ。」
「幸せとは主観的な幸福感を指す。そんなことを聖書は扱わないね。」
「協会共同訳では、“このような人は、その行いによって幸いな者となるのです。”とありますね。」
「makariosというギリシャ語が使われているけれど、英語だとhappyではなくblessedで、主観的な幸福感ではない。例えばマタイ5:4の“悲しむ人々は、幸いである”というのは、神に是認される、神から好意を得られるという意味で、JW訳のように“嘆き悲しむ人たちは幸福です。”と訳してしまうと、意味が通らなくなる。」

「最後の18節は“「真理に従って歩み続け」るようベストを尽くすことは,本当に私たちのためになります。”と実利実益に訴えて終わります。」
「長年“真理に従って歩み続け”た老人たちを見れば、それが本当かすぐわかるよ。」

#1417 2022年10月22日 10:28:05

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

たしか、神の好意を得ている(はず)という主観的な状態 = JWの主観的な幸福感、だったと思います。


昔、有名長老でJW組織に雇われてもいた人が、何かのことで長老からおろされて手当金もなくなり、有名長老だった頃のパワハラ気質が抜けなくて奥さんに別居されて家賃が払えなくなり、まともな職につけず自分も中高年にさしかかっていながらさらに年老いた両親を頼って実家に出戻りし、それでも集会では「世の人は真理を知らず哀れなのに対してエホバの証人は最高の幸福を味わっている」みたいなことを言っていたのを思い出します。


誰かが言っていたような「幸せとは不幸せな状態に気づいてないことである」


でもこういう話で毎週のように繰り返し刷り込まないと気づいちゃう、というかもう気づいちゃってる信者が増えているんでしょうね。


「あなたは、『私は幸せで、真理を得た。エホバに養われているので何一つ必要なものはない』と言いますが、自分が惨めで、痛ましく、貧しく、目が見えず、裸であることに気付いていません。」(JW版啓示3章)

#1418 2022年10月28日 15:09:20

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“これからも「力づけ合ってください」 (35)”で、パウロに倣って、お互い助け合って、JWをやめる人が減るように努力しようという内容です。」
「1節に“確かに,立派な王国会館を建てることはエホバへの賛美となります。”とあるよ。それなら立派な王国会館を売り払ってしまうことはエホバへの侮辱になるんじゃないの?」
「特に金欲しさで、サタンの配下と敵視している他の宗教への売却はエホバへの最大限の侮辱になりますね。」
「旧約聖書なら、売却に関与した人物は地面が裂けて、そのまま飲み込まれたと書かれるね。」

「主題聖句は“力づけ合ってください”と訳されていますが、英文ではBuilding One Another Upで、互いに築きあってください、という意味ですよ。それで1節に建設の話が出てくるのですね。」
「“力づけ合ってください”と適当に聖書を翻訳したので、この記事のつながりがわからなくなっている。聖書の翻訳をやり直すべきだね。古い訳では“互いに築き上げる”と訳していたのに、なぜ変えたのか理解できない。この翻訳の問題はあとでも出てくる。」

「3から6節が” 試練に立ち向かうよう助けた”です。 JWの人生は試練だらけですから。ここではパウロの話が続きます。」
「JWは、使徒たちの活動に書かれていることをそのまま事実と思い込んでいるようだけれど、使徒たちの活動の著者はパウロのことをよく知らないし、書かれていることも、パウロ自身の手紙の内容と一致しないことが多く、不正確なんだよ。」

「3節に“自分や同行者の生活を支えるために働く必要がありました。(使徒 20:34)”とありますが、パウロ自身は同行者の生活を支えたなんて言っていませんよね。」
「パウロの仕事は天幕づくりとなっているけれど、それはそんなに稼げる職業ではない。コリント二6:10に“貧しいと見なされていますが,多くの人を富ませています。何も持っていないと見なされていますが,あらゆる物を持っています。”と、パウロは極貧の生活を送っていると書いている。他人の生活を支えるなんてことは無理だろう。」

「4節に“テサロニケに会衆ができて間もなく,クリスチャンになったばかりの兄弟姉妹は激しい反対に直面しました。”とあり、そのため“パウロとシラスはテサロニケを去らなければいけませんでしたが”と続きます。これは使徒17章に基づいていますが、それだとパウロはほんのわずかしかテサロニケにいなかったことになります。テサロニケへの手紙に書かれていることを読むと相当長くいたはずです。」
「使徒17:2に“それで,パウロは自分の習慣通り会堂に入り,3週続けて安息日に聖書から論じ”とある。その後襲撃事件が起こり、テサロニケからベレアに行ったことになっている。」

「つまり使徒ではパウロたちはテサロニケに3週間ほどしかいなかったように読めますね。」
「ところがテサロニケ一2:9に“兄弟たち,私たちが苦労して働いたことを覚えているでしょう。皆さんに神の良い知らせを伝えた時,誰にも経済的な負担を掛けないよう,私たちは昼も夜も働きました。”とあり、平日はパウロがテサロニケでお金を稼ぐために働いていたことがわかる。となるとパウロの宣教活動は安息日にユダヤ人の集まる会堂での3日だけということになってしまう。」

「テサロニケ一1:9に“人々は,私たちが皆さんに初めて会った時の様子や,皆さんがどのように偶像から離れて,生きている真の神に仕えるようになったかを話しています。”とありますから、偶像崇拝をしていた異邦人も改宗してクリスチャンになったことがわかります。いったいいつ彼らに伝道したんですか?」
「使徒たちの活動に書かれていることとは違って、パウロが書いたテサロニケの手紙からは、パウロが相当の期間テサロニケにいて、ユダヤ人だけでなく異邦人にも伝道活動をしてかなりの成果をあげたことが読み取れる。というわけで、使徒たちの活動に書かれているテサロニケのパウロの活動はあまり正確ではない。」

「5節で、パウロが会衆ごとに長老を任命したことをについて、“それらの長老たちは,会衆の慰めとなったことでしょう。現代の長老たちも同じです。”と言っています。パウロの時代がそうだったから、現代のJWもそうなるという論理についていけません。全く別ですよ。」
「JWの暗黙の仮定は、1世紀のクリスチャン=現代のJW というもの。もちろんインチキな仮定だ。」

「5節に出ている、ブライアント兄弟の話は悲惨です。“15歳の時,父は家を出ていき,母は排斥されました。見捨てられたように感じ,とても落ち込みました。”とあります。家族を破壊するJWの排斥制度の犠牲者ですね。」
「ところが長老の励ましによって、“やがて全時間奉仕を始めることができました。”と言っている。不幸な若者の弱みに付け込み、甘言を弄してカルト宗教にのめりこませるとは、罪な長老だね。」
「この若者はJW以外行くところがなかったのですよ。それだけです。この体験談の最後に、“全時間奉仕者にならなければ、犯罪組織に入り、麻薬の密売人になっていたでしょう。”と付け加えてくれれば、体験談として完璧になったのに惜しかったです。」
「JWの道か犯罪者の道の二つしかないのが、JWの体験談の暗黙の仮定だよね。」

「7から11節が“平和な関係を保つよう助けた”です。 7節で、意見の違いがあっても、“聖書の教えに反しない事柄に関しては,自分の意見を押し通そうとしてはいけません。”と、相手に合わせるのが最上の策と言っています。」
「7節で“どんな物でも食べてよいと考えるようになったユダヤ人たちがいました。一方,そうは思わないユダヤ人もいました。そのために,会衆が分裂してしまっていました。”と言ってから、“パウロは,平和を保つことの大切さを教えるためにこう言いました。「肉を食べることやぶどう酒を飲むことなど,兄弟に過ちを犯させるような事柄は何も行わないのがよいでしょう」。(ローマ 14:19-21を読む。)”とある。これはへんだね。」
「食物規定を守るか守らないかで分裂があったということと、ローマ14:21は関係ないですよ。」
「そこには肉とぶどう酒が出てくる。ぶどう酒を飲んではいけないという律法の規定はあった?それがどうして“兄弟に過ちを犯させるような事柄”になるの?おかしいよ。これは、その当時存在した禁欲主義者のことをいっている。」

「ローマ14:19は“ですから,平和に役立つことや,励まし合う助けになることを何でも行いましょう。”とありますが、“励まし合う助けになること”という訳はへんですよ。英文ではthe things that build one another upで、“お互い築き上げること”ですよ。」
「日本のJWにはこんな難しいことを言ってもわからないと思ったのかも。」

「7節のまとめは“私たちも同じように,好みに関することを問題にしないことによって,仲間を力づけ,平和を保つことができます。”なのですが、肉やぶどう酒のことを、食べ物の好みの問題と誤解しているようで、おかしいです。」
「英文ではpersonal preferenceで、“個人の選択”くらいに訳して欲しいけれど、日本のJWには難しすぎる表現なのかも。」

「8節に割礼問題の話が出ています。パウロは“自分の意見を押し通そうとするのではなく,エルサレムにいる使徒や長老たちに判断を仰ぎました。(使徒 15:1,2)”とあります。」
「使徒15章には、西暦49年のエルサレム会議のことが出ている。8節でガラテアが引照聖句として使われているけれど、ガラテアが書かれたのは50年以降で、時系列が合わない。」
「つまり、エルサレム会議では異邦人は割礼必要なしという結論だったのに、ガラテアでは、エルサレム会議のことは全く触れられず、異邦人の割礼問題が出ているわけで、奇妙な話であるということですね。」
「ありうるのは、パウロはエルサレム会議のことを知らなかったか、エルサレム会議自体がフィクションのどちらか。」

「9節に“聖書に基づく指示は,多くの場合,出版物や組織から与えられるガイドライン の中に載せられています。自分の意見を通そうとするのではなく,そうした指示に従うなら,会衆の平和に貢献できます。”とあります。聖書の指示=組織の指示ということで、組織の言いなりになるしかないわけです。そうしない信者は平和を乱す人として排斥ですね。」
「それなら、平信徒はいわゆる長老マニュアルを見せて欲しいと要求したらいいよ。組織の指示に忠実に従いたいので、ぜひとも見せてください、と言ってみる。見せてくれないのなら、裏表のある怪しげな組織と判断していい。」

「12から16節が“兄弟姉妹の信仰を強めた”です。 12節に“兄弟姉妹の中には,エホバの証人ではない家族や同僚やクラスメートからばかにされている人がいます。”とありますが、これは仕方ないですよ。」
「終わりが来る、来ると触れ回ってから150年もたってしまったことだけでも、からかわれるのに値するよ。」
「12節では“また,バプテスマを受けて以来,この体制が終わるのを長年待ってきた人もいます。”とあります。こういう人が結構いるので、ますますからかわれます。」
「この体制の悪口をさんざん言いながら長年待った挙句、今やこの体制が提供する生活保護にすがる貧乏老人JWなら、からかわれるだけ済んでいることに、ありがたいと思って欲しいね。」

「12節の下の写真の説明が“父親がクリスマスに誘われた娘と一緒に,出版物の提案を基にどのように説明できるかを考えている。”というものです。友達にクリスマスに誘われても、断れ、それがいやなら家を出ていけと脅迫するわけですね。」
「この女の子は親が信仰している禁止事項だらけの宗教のせいで楽しい子ども時代を失ってしまうわけだ。賢そうな子だから、いずれJWという泥沼から出ていくよ。」

「JWがクリスマスを祝わなくなったのは1927年からです。それまではJW本部でも楽しく祝っていました。」
「JWの教義では1919年にイエスがJWを真の宗教として選んだことになっている。その当時はクリスマスを祝っていた。ということは、クリスマスは問題ないということだよ。」
「異教が起源だからダメということらしいですが、異教が起源のものでも結婚指輪もネクタイなどはJWは大好きです。それなのに、なぜクリスマスはダメなの?と子どもに聞かれたら、何と答えるのでしょうか?」
「統治体のおじいさん達がダメと言ったから、ダメなの、で押し切るだけだ。理屈なんかないよ。」

「13節が“パウロは聖書を使って兄弟姉妹の信仰を強めた。”で、結論は“私たちも,誰かからばかにされている人が自分の信じていることをしっかり説明するために,出版物を活用するよう助けることができます。”というものです。JWはJWの出版物が事実上の聖典です。」
「具体的に出ているのは、「生命 ― どこから?」や「生命の起源 ― 5つの大切な質問」の冊子。その内容は、生物は複雑なもので、それが自然にできるはずがない、だから創造者がいるという論点で尽きるものだよ。」
「仮にそうだとしても、JWの神様が創造主とは限らないですよ。」
「創造主は誰が創造したのか、という問題が残る。宇宙を創造する神様が自然にできるはずないよね、誰が造ったの?という質問に答えられないので、バカにされる。」

「13節の下にある挿絵が笑えます。JWが被災者を助けているというものですが、被災者は聖書を片手に持っているのです。つまり、JWはJWしか助けないのですよ。」
「JWの聖書を持っていなければ、どんなに困っていても無視されるわけね。JWがこれ以上増えないことを望むね。」

「14節が“パウロは,「立派な行い」によって愛を示すよう兄弟姉妹を励ました。”です。具体的には“現代でも,自分の時間や体力や能力などを用いて災害救援を行うなら,兄弟姉妹の信仰を強めることができます。世界的な活動のために定期的に寄付することによっても助けになれます。”とあり、災害救援と“定期的に寄付すること”が大事なようです。」
「またもや寄付のお願いだけど、単発的な寄付はエホバが喜ばれませんと書いてくれたらわかりやすいのにね。みんなで被災地に行って伝道活動しましょうと言わないだけましだね。」

「14節の下の写真の説明が“1人の長老が,信仰が弱くなっている兄弟を訪問し,何年か前に一緒に出席した開拓奉仕学校の時の写真を見せている。その兄弟は写真を見て,楽しかった時のことを思い出し,エホバに仕える喜びをまた味わいたいと思うようになっている。やがて,この兄弟は会衆に戻ってくる。”とあります。これを書いた人は何もわかっていませんね。」
「信仰が弱くなっているというのはそれなりの理由があるからだよ。JWの嘘や不誠実さに嫌気がしたのかもしれないし、重なる世代の教義でJWのバカバカしさに気づいたのかもしれない。それなのに昔の写真を見せただけで、再び会衆に戻ってくると考えるとは、オメデタイ人だね。」

「15節が“パウロは信仰が弱くなっていた人たちを励まし続けた。”です。具体的には16節に“真理を知ったいきさつについて話してもらったり,エホバに助けてもらった時のことを思い出すよう励ましたりできるかもしれません。”とあります。逆効果のほうが心配です。」
「親にガスホースでお尻をたたかれながら真理を知りましたとか、薄気味悪い長老に体を触られながら真理を知りましたとか、サタンとかハルマゲドンとか絶えず脅かされながら真理を知りました、という話がでるかも。」

「最後の17,18節が“これからも励まし……合ってください”です。 単なるまとめです。」
「17節に“建設を行う人が技術を磨いていくのと同じように,私たちも互いに力づけ合う点で成長していくことができます。”と、建設の話がでてくるけれど、これは主題聖句がbuilding one another up(互いに築きあう)といっているから。日本のJWはそのへんは理解できないままだね。」
「日本語版では、“力づけあい”となっているので、そのつながりがわからなくなっています。」
「聖書を適当に訳するから、こういうことになる。JWは翻訳宗教なのに、翻訳がいい加減すぎる。人材難なのだろうから、増々いいかげんな翻訳宗教になっていくのだろう。というわけで、日本のJWは特にバカにされても仕方がないということだね。」

#1419 2022年11月04日 14:42:01

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバに仕える人たちは正しいことを愛する(36)”で、組織の指示通りにすることが正しいことなのだ、という内容です。」
「JWお気に入りのキャラクターであるヨセフが登場するけれど、子どもには聞かせられないね。」
「1節は“ヤコブの息子ヨセフは,難しい問題にぶつかりました。ある女性から,「私と寝て」と言われたのです。”で始まります。いきなりこれですからね。」
「12歳以下は集会参加を禁止にすべき。子どもにへんなことを教えるのはやめよう。」

「2節に、ヨセフが“例えば,エホバが取り決めた結婚は1人の男性と1人の女性の結び付きである,ということを理解していました。”とあります。でも聖書の中の人物で複数の妻を持っていたり、妾を持っていた人は何人もいます。律法に妻は一人なんて言う規定はありません。男性は好き放題というのが聖書の教えです。」
「ヨセフの父であるヤコブはレアとラケルの姉妹を妻とし、彼女らの女奴隷とも関係を持っている。そんな父をヨセフが非難したことはないよ。」
「この記事の執筆者は聖書を知らないようですね。」
「2節の結論は、“ヨセフはエホバを愛していたので,エホバの基準に従いたいと思っていました。”という単なる推測だけど、この推測を導くために、たわごとを並べただけだね。」

「ヨセフの妻って、誰ですか?ほとんど取り上げられませんよね。」
「創世記41:45に“その後ファラオはヨセフに,ザフナテ・パネアという名前を与え,オンの祭司ポティフェラの娘アセナトを妻として与えた。”とある。模範的なはずのヨセフは異教の祭司の娘を妻としたわけだね。これは、JW的にはきわめて不都合な真実なので、JWの記事では触れられることはまずない。」

「創世記46:20に“ヨセフにはエジプトでマナセとエフライムが生まれた。オンの祭司ポティフェラの娘アセナトが産んだ子たちである。”とあります。マナセとエフライムは母親が異教のエジプト人ですが、それが問題になったことってありますか?」
「ないよ。イサクやヤコブの妻を選ぶときは、どの民族かを重視していた。例えば、創世記24:3,4でアブラハムは“私の息子の妻を,私の周りに住んでいるカナン人の娘の中から選んではなりません。私の故郷,私の親族の所に行って,息子イサクのために妻を連れてくるのです。”と言っている。ところが、それがヨセフについては忘れられている。いい加減な所が聖書らしいともいえる。」

「4から8節が“正しさとは何か”です。 4節に“世の中には,自分こそ正しいと考える独善的な人たちが多くいます。”と根拠もなくひどいことを書いています。」
「訳がいいかげんなの。英文ではそんなことを言っていない。When people think of a righteous person, many may think of someone who is smug, judgmental, or self-righteous.なので、正義の人といえば、多くの人は気取った、批判的あるいは独善的な人を思い浮かべるかもしれません、という意味。独善的な人が多くいるとは言っていない。」
「翻訳者の周りのJWにそういう人が多いので、ついついそう書いてしまったと思います。」

「5節で、“聖書で言う正しさとは,エホバから見て正しいことを行うことです。”と言っている。これだけでは何を言いたいかよくわからないけれど、6節に“エホバは全てのものを造った方なので,エホバだけが正邪の基準を正しく定めることができます。”とあるから、JW的には、エホバが殺せと言ったら殺すのが正しいということのようだ。」
「実際に子どもに輸血を拒否して死なせています。自分の親がこんな危険な宗教の信者という子どもはどうしたらいいのでしょうね。」

「6節で“聖書は,エホバを「正しさの源」と呼んでいます。(エレ 50:7)”とあるけれど、誤解しているよ。」
「エレミヤ50:7では“敵たちは言った。『われわれに罪はない。彼らがエホバに対して罪を犯したのだ。正しさの源であり,父祖たちが希望を抱いて待ったエホバに対して,罪を犯したのだ』”とあります。これはイスラエルの民が“行こう。忘れられることのない永遠の契約によって,エホバと結び付こう。”(エレ50:5)と言って、さまよっていたら、攻撃されたという状況での、敵側の発言ですよ。」
「神とイスラエル人は契約を結んだけれど、イスラエル人は破った。しかし神は契約を守り続けた。イスラエル人が不幸な状況にあるけれど、それは神ではなくイスラエル人のせいである。そういう意味で、神を“正しさの源”と呼んでいる。JWは文脈無視の聖書解釈が普通ということだね。」

「旧約聖書では、正しいというのは神あるいは人間との関係において、要求されている義務を果たすことといった意味じゃないですか?」
「旧約では、正しいとは人を殺すなといった倫理的徳目や行いではなくて、主に契約の義務を果たすことだね。イスラエル人は神様に従うと契約したのだから、神が殺せと言ったら殺すことが正しいし、殺さないのは悪になる。現代人の考える倫理とは違う。」
「神と契約しなかった他の民族にはエホバは“正しさの源”ではないということですね。イスラエル人はとんでもない神様と契約してしまって、気の毒です。」

「6節で“エホバの基準は,人間の基準よりもはるかに高いものです。”とあるけれど、そうとは言えない。旧約聖書の律法は現代人から見れば野蛮で不合理なものがたくさんある。」
「代表的なものは、奴隷制の容認です。」
「JWはアメリカの奴隷解放以後の宗教だけど、その前に存在していたら、奴隷制度維持に賛成していただろうね。聖書に奴隷制を禁止する部分は存在しないからと言ってね。」

「8節に“こう約束しています。「正しい人は地上に住み続け,そこで永遠に暮らす」。(詩 37:29)”とあるのですが、訳がへんじゃないですか?JWの教義そのものですよ。」
「自分たちの教義に合わせて訳しているね。協会共同訳では“正しき者は地を受け継ぎ/いつまでもその地に住む。”だけど、この辺が妥当な訳。ここではイスラエルの地のことを言っているだけ。」

「詩編37は悪人と正しい人を対比している詩で、預言のようなものではないですよ。」
「悪人が栄えているようだけれど、それは長続きせず、正しい人がイスラエルの地で栄えるだろう、という願いを込めた詩だね。」
「永遠と訳されている言葉は単に相当の長い期間という意味ですよね。」
「無限の時間という概念は古代イスラエルにないよ。無限という概念は数学からきている。数字に弱く、数学が全く発達しなかった古代イスラエル人が、永遠つまり無限に続く時間など思いつくはずがない。」

「9から21節が” エホバの基準への愛を強める”です。 3つのことが書かれています。9節では”(1)基準を定める方エホバを愛する“です。10節では“エホバについて学び,エホバの考え方や素晴らしい性質についての理解を深めていく必要があります。”といって、アブラハムの話が出てきます。ソドムとゴモラを滅ぼすときにエホバと交渉した話とイサクを犠牲に捧げるという話です。」
「10節に“例えば,ソドムとゴモラを滅ぼすというエホバの決定について知った時,アブラハムは,「地上の人全てを裁く方」が正しい人と邪悪な人を一緒に滅ぼしてしまうのではないか,と心配になりました。”とあるけれど、違うね。アブラハムは創世記18:24で“もし町の中に正しい人が50人いるとしたらどうでしょうか。それでも滅ぼされますか。50人の正しい人のためにその町を容赦することはされないのでしょうか。”といっているよ。」
「アブラハムが神に要求しているのは、正しい人50人いたら町全体を救えということですね。」

「“正しい人と邪悪な人を一緒に滅ぼしてしまうのではないか,と心配になりました。”というなら、正しい人だけを救ってくださいと言えばいい。ところがアブラハムは邪悪なものを含めて町を救えと厚かましい要求している。」
「でもエホバは18:26で“ソドムの町に正しい人が50人いるなら,その人たちのために町全体を容赦しましょう”と言い、最終的には10人でOKと、アブラハムの言いなりになっています。」

「11節では、イサクを犠牲に捧げる話がでているけれど、“でもアブラハムは,エホバのことを前よりもよく知るようになっていました。それで,エホバに何も尋ねることなく,その通りにするために準備を始めました。”とあるけれど、逆だろう。」
「ソドムの件ではアブラハムは過剰な要求をしたのに、エホバは言いなりでした。エホバのことをよく知ったアブラハムはエホバのことを扱いやすい交渉相手と考え、イサクを犠牲に捧げるよう言われた時は、得意の交渉術を使って、イサクの代わりに病気で死にそうな羊で許してもらえると考えました、となるべきです。」

「創世18:25でアブラハムは“邪悪な人と一緒に正しい人も滅ぼして,正しい人と邪悪な人を同じ目に遭わせるようなことを,あなたがなさるはずはありません。あなたに限ってあり得ないことです。地上の人全てを裁く方は,正しいことを行われるのではありませんか。”と雄弁に語っている。今まさに罪のないイサクが殺されそうという時に、あれだけ巧みに交渉したアブラハムが無言で従っているのはへんだね。アブラハムの性格にあまりにも一貫性がなさすぎる。」
「これは様々な異なる種類の話をアブラハムの物語として、一つにまとめてしまったからですよ。」
「自分の子どもを殺せと要求する神様は本当は悪魔なのでは、と現代人なら思うね。」

「12節で“どうすればアブラハムに倣えるでしょうか。エホバについて学び続けることです。”とあります。結局、エホバについて学び続けるわけです。」
「長々と書いたアブラハムの話はどうでもよいわけだ。エホバを学べば、エホバを愛するようになるという結論だけど、そんなことはないよ。旧約聖書の神様は最悪のキャラクターだよ。」

「13節は“(2)正しいことに対する愛を強めるよう毎日努力する。”です。“正しさに関するエホバの基準への愛を強めることは,筋肉を鍛えることと似ています。どちらも,毎日努力する必要があります。”とありますが、納得できません。愛と筋肉は違いますよ。」
「13節で“そして,「正しく生きようとする人を愛する」と約束しています。(格言 15:9を読む。)”とあるのもへんだね。格言は神の約束じゃないよ。その当時流布していた一般的な知恵だ。」
「格言15:9は“エホバは,悪人の道をひどく嫌い,正しく生きようとする人を愛する。”ですが、悪人の生き方は神から嫌われるけれど、正しく生きようとする人は神に愛されると言っているだけです。悪人でも栄えることはありますし、正しき人が不幸になることもありますよ。」

「エホバの基準への愛を強めるとはどういうことなのか、具体例を示して欲しいね。輸血は少しくらいならいいと思っていたけれど、一滴でもダメだと考えを変えること?同性愛者に寛容だったけれど、同性愛者は早く滅んで欲しいと変えること?児童性的虐待を見たら警察に通報すべきと思っていたけれど、エホバの基準にあわせて2人の証人がいなければ放置しようと考えを変えること?具体例がなくて、抽象論ばかりでわからないね。」

「15節に具体例が出てきますよ。“どんなことを話すか,どんな音楽を聞くか,どんな本を読むか,どんなテレビや動画を見るかについて決める時には・・・”とあります。“不道徳や暴力や貪欲や利己心といった,エホバが正しくないと考えているものに思いを傾けさせるもの”はダメだということのようです。」
「ヨセフとかアブラハムとか持ち出してきたけれど、結局そんなことね。正しい基準を守れと言いつつ、信者が楽しむ音楽、本、テレビや動画を管理統制しようというだけだ。でも、やっぱり抽象的だね。具体的に禁止音楽や禁止書籍をリストアップしてよ。」
「そんなことをしたら増々おかしなカルト宗教と思われるので、そこまでは指示しないのです。各会衆の長老に任せて、何か問題が起きれば、その長老の責任とするわけです。」

「16節が理解できないね。“イザヤ 48章18節にあるエホバの例えに注目してみましょう。(読む。)そこでエホバは,私たちの正しい行いが,「海の波のように多くなる」と述べています。”とある。どういうこと?」
「正しい行いが1日1回だったのに1日1000回になるということでしょうか?波が5秒に1回来るとすると、1日17280回正しい行いをすることになります。」

「日本語訳がへんなんだよ。your righteousness like the waves of the seaとあるから、正しい行いじゃなくて、あなたの義でしょう。海のように多くなるではなく、単に海の波のようだといっているだけ。」
「協会共同訳では“あなたの正義は海の波のようになるであろうに。”です。」
「数が増えるということではなくて、絶えることなく続くことの例えだよ。この聖句は日本語翻訳者には難しかったみたいだね。」

「18節が“(3)裁くことをエホバに委ねる。”です。“ほかの人を裁いたり独善的になったりしてはいけません。私たちには,自分の基準でほかの人を裁く権利は与えられていません。”と珍しくまともなことを言っています。」
「そうは言っても、長老たちは非公開の長老マニュアルに従って、信者を情け容赦なく裁くわけだから、他の人を裁いていけないというのは平信徒だけだよ。」

「20節に具体例が出ています。“例えば,兄弟姉妹の動機を疑ったりはしません。”とあります。その理由は“「動機を調べる」ことができるのはエホバだけです。(格 16:2)”というものですが、引照聖句はそんなことは言っていません。」
「“エホバは動機を調べる。”とあるだけで、エホバ以外は動機を調べないなんて書いていないね。実際、多くの人は動機を問題にするよ。」

「動機という概念は近代的なもので、古代イスラエルにそのような概念はないですよ。」
「動機と訳されている言葉はruachで、意味は”息、風、霊、魂”だね。協会共同訳では” だが主はその魂を調べる。”と、魂としている。しかし、古代イスラエルに肉体とは別個に魂なるものがあるという思想はないよ。」
「古代イスラエルには人間の内面の複雑性をあらわす言葉自体が乏しくて、ruach(息)で代用していたわけですね。」
「目に見えないけれど内側から人間を動かす何かがある。それがruach。その言葉が物に適用されたら”風”だし、人間なら”動機”と呼んでもそれほど悪くないけれど、近代的過ぎる。”真意”くらいに訳して欲しいね。」

「21節では“そして,私たちは兄弟姉妹でない人のことも裁いたりはしません。”と、JW以外は裁くなと、いいこと言っています。」
「でも、その意味は“あなたは,エホバの証人ではない親族について,「あの人が真理を聞くことは絶対にない」と言ったことがありますか。そのように裁くことは,独善的で出過ぎたことです。”というもの。つまり親族にはしつこくJWになるよう勧誘しろということ。」
「それなら、滅びる人と勝手に裁いてくれたほうが嬉しいですよ。」

「最後の22節はまとめだけど、“正しさに関するエホバの基準を愛するなら,私たちは幸福になることができます。”とある。根拠がないよ。幸福になるよりも、不幸になる人の方が多いよ。」
「次の“そして,人々は私たちの姿を見て,神にも私たちにもいっそう引き寄せられるようになります。”は、その逆ですよね。老いたJWのみじめな姿を見て、JWからいっそう離れ去ります。」

#1420 2022年11月11日 14:38:11

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“仲間を信頼しましょう (37)”で、JWは信頼できない人が多いけれど、それでも信頼してJW活動を熱心にやりなさい、という内容です。」
「JWの中で一番信頼できないのは統治体の老人でしょう。自画自賛はよくするけれど、誤りは絶対認めない。ダブルスタンダードで自分たちには甘く、他の宗教にはサタンの手先と悪口雑言を並べる。」

「1節から問題発言です。“サタンの世界で暮らしている人々は,誰を信頼したらよいのかが分からなくなっています。”と断定しています。何を根拠に、こんなことを言っているのでしょうね。」
「根拠なんかないよ。今は終わりの時代だというJWのタテマエがあるから、信頼度が低下していることにしたいだけ。」

「JWみたいな怪しい宗教を信頼してはダメなことはわかっている点で、一般の人のほうがJWより優れていますね。」
「自分たち以外の人たちを敵視するのはカルトの特徴。しかし、組織は信者から集めた金を銀行に預けたり、投資銀行を通じて投資したりしているよ。これはサタンの世の金融システムを信頼しているということになる。」

「2節に“そして,聖書の導きが信頼できるものであるということを,経験を通して知っています。”と断定していますが、逆の経験の方が多いですよ。」
「JWが翻訳し解釈した聖書の導きは安っぽい人生訓か危険なカルトの教えで、信頼できないことは、JWなら経験を通して知っています、と書いて欲しいね。」

「3から5節が“私たちには兄弟姉妹が必要”です。 信者の一致団結を呼びかけています。4節にその理由が書かれています。“サタンとサタンの支配下にある者たちは,神に仕える人たちを間もなく攻撃します。”とあります。」
「JWが迫害を恐れて地下室か天井裏に隠れている挿絵がないのが寂しいね。恐怖をあおるのがカルトの特徴だよ。」

「5節には、JWの情けない現実が出てきます。“とはいえ,中には兄弟姉妹を信頼するのを難しく感じる人もいます。それは,内密のことをほかの人に漏らされたり,約束を破られたりしたことがあるからかもしれません。あるいは,傷つくようなことを言われたりされたりしたからかもしれません。”とあります。ダメな人ばかりのJWということです。」
「JWは常識の欠けた信頼性の乏しい人間の集まりということだね。こんな宗教はさっさとやめよう。」

「6から8節が“愛によって信頼を築く”です。 6節で“信頼の土台となるのは,愛です。”と言い、“コリント第一13:4-8を読む”となっています。」
「6節で取り上げられているのは、“愛は辛抱強く,親切です”と“[愛は]いら立ちません。愛は傷つけられても根に持ちません”の2つなんだよ。要するに、嫌なことをされても耐えろ、忘れろ、というわけだ。これが信頼の土台?違うよ。」
「コリント一13:6の“愛は不正を喜ばないで,真実を喜びます。”を取り上げて欲しかったですね。不正を許さないこと、真実を隠さないことが信頼の土台ですよ。」
「JWはそんなことを言えた立場じゃないからね。組織内に不正があっても、不完全だからと問題視しないし、不都合な真実は知らぬ、存ぜぬとごまかすか、それは個人の選択ですと逃げる。」

「7節で“兄弟姉妹の欠点に注目するのではなく,良い性質や可能性に目を向けるように努力しましょう。(マタイ 7:1-5を読む。)”とあるのですが、引照聖句はそんなことを言っていません。」
「マタイ7:3-5で“なぜ仲間の目の中にあるわらを見ながら,自分の目の中にある材木に気付かないのですか。また,どうして仲間に,『あなたの目からわらを取り除かせてください』と言えるのですか。見なさい,自分の目の中には材木があるのです。”とあるけれど、これは大きな問題を抱えている人が仲間の兄弟に助言するのは問題だと言っているもの。だから7:5で“偽善者よ! まず自分の目から材木を取り除きなさい。”と言っている。他人の欠点に目をつぶって良い点を見ようという、JWが好むような人生訓じゃないね。」

「JW訳では“わら”となっていますが、協会共同訳では“おがくず”になっています。JW訳が間違いですか?」
「“わらくず”ならまだいいけれど、“わら”はへんだね。目の中に入る小さなものだよ。ほこりとかちりのようなもの。後で材木が出てくるから、木材に関連させておがくずにしたんだろうね。」

「7節に“エホバが願っているのは,信頼できることを示してきた人を信頼することです。 *”とあり、*には“偽兄弟が「曲がった事柄」を言って,会衆の人たちを惑わそうとすることがあります。”と言っています。エルサレム滅亡は前607年ではない、JWは歴史をねつ造しているなんて組織に不都合な真実を言う人のことは信頼するなと釘を刺しています。」
「信頼する人は、組織に都合が良ければ平気でうそをつけるようなJWという指示だね。」

「8節に“では,兄弟姉妹への信頼を深めるためにどんなことができるでしょうか。相手のことをよく知るようにしましょう。”とありますが、よく知った結果やっぱり信頼できない人だ、とわかるケースもありますよ。そういうことは想定していないのですね。」
「車に何度も乗せてあげたのに、感謝しないし、ガソリン代も1円も払おうともしないことがわかると、信頼できないね。」
「他人の悪口が大好きな人も信頼できません。小さな約束でも守らない人は信頼できません。間違ったことをしても素直に謝らない人は信頼できません。」
「それって、JWのことだよね。」

「9から12節が“信頼するのをやめなかった人たち”です。 聖書の登場人物から学ぶというわけです。」
「聖書では信頼できるのは人間ではなく神だけという思想なんだけど、JWは違うわけだ。」

「9節では“あなたは,責任ある兄弟からがっかりさせられたことがありますか。もしあるなら,ハンナの手本について考えることはためになります。”とあります。」
「大祭司エリは酷い男だったけれど、“それでもハンナは,息子を与えられたなら幕屋で仕えさせる,という誓いを守りました。それはつまり,息子をエリのもとに預けるということです。”とある。執筆者は聖書をあまり知らないね。」
「神に対して息子を与えられたら幕屋で仕えさせると誓いを立てたわけですから、息子が生まれたら、誓いを実行するのは当たり前です。」
「エリが嫌な男なので、誓いを破るなんてことをしたら、たちまち神様によって焼き殺されるよ。」

「10節には“あなたは,親しい友達から裏切られたように感じたことがありますか。もしあるなら,ダビデ王について考えてみてください。”とあります。これは論旨がよくわからないです。」
「ダビデはアヒトフェルに裏切られたけれど、フシャイは信頼していたと書いてある。それが何か素晴らしいことのように言っている。執筆者は、ひとりに裏切られたら、自動的に全ての人を信頼しなくなると思っているようだ。そんなことはないだろう。」

「11節が、ナバルの召使です。珍しい人を取り上げていますね。“この召し使いもナバルの家の者だったので,自分の命がアビガイルに懸かっているということが分かっていました。そして,逃げるのではなく,アビガイルが何とかしてくれると信じました。”とあります。」
「この召使は、サムエル一25:17で“ご主人はどうしようもない方で,誰も何も言えないのです。”と言っているけれど、訳がへんだね。どうしようもない男だと、どうして誰も何も言えないの?」
「協会共同訳では“ならず者”となっています。ならず者なら怖くて誰も何も言えません。」

「11節ではさらに、“アビガイルは,ダビデがふさわしい判断をしてくれると信頼していたのです。”とあって、信頼の連鎖が続いていたかのように書かれているけれど、アビガイルがダビデを信頼していたとは聖書のどこにも書かれていない。」
「アビガイルは大量の贈り物を持って行きます。ダビデより贈り物の力を信頼していたと思いますよ。現実的です。」
「格言17:8に“贈り物は持ち主にとって宝石のようであり,その人はどこに行っても成功する。”とあるし、格言21:14には“ひそかな贈り物は怒りをなだめ,秘密の賄賂はすさまじい怒りをなだめる。”とあるからね。アビガイルに倣って、巡回監督に高価な贈り物をしたら長老になれたという人だっているよね。この場合巡回監督を信頼していたとは言わないよ。」

「12節がイエスの話で、“イエスは,欠点がある弟子たちのことを信頼しました。”とあります。JWにとって、イエスも単なる聖書中の登場人物のひとりにすぎません。」
「ダビデやアビガイルと同格だね。」

「13から16節が“信頼を再び築く”です。 まず信頼を裏切る行為が挙げられます。13節では“1人の姉妹は,ある長老を信頼して個人的なことを打ち明けました。でも次の日,その長老の奥さんから励ましの電話がかかってきました。姉妹が打ち明けた話を長老から聞いたことは明らかでした。”とあります。これはJWでは普通のことです。誰かに秘密をしゃべれば、次の日その内容が会衆のほとんどの人に知れ渡ります。」
「JWが個人の思想信条や生活に無制限に土足で踏み込む宗教だから、個人の秘密を守る重要性に気づかないんだよ。」
「その後、“姉妹がこの長老を信頼できなくなったのも,無理もないことでした。”と続きます。個人の秘密を守るように、やんわりと言っていますよ。」
「来週も個人の秘密を守る問題をさらに取り上げているから、組織はこの問題に危機感を抱いているね。世界各国で個人情報の取り扱いに関する法律が厳しくなってきているからね。」

「14節が兄弟同士の対立の話です。“敵はサタンです。兄弟姉妹ではありません”と言っています。このスローガンを定着させたいようで、驚いたことに15節の下にわざわざ抜き出しています。スローガンなら、“ソフトクリームひとつ、いや待て寄付だ”とか“うれしいな、僕の寄付が高級時計に”というのは子ども向けにどうでしょうか?」
「“欲しがりません、終わりが来るまでは”とか、“贅沢は、サタンの友だ”とかのスローガンも使って欲しいね。」

「15節は、不当に扱われた姉妹の話で、結論は“「エホバはこの兄弟たちを許しているに違いない。だから,自分も許さなければいけない」と考えるようになりました。”と、被害者泣き寝入りの勧めです。いつもの結論ですね。」
「これは聖書に反しているよ。詩編41:9,10に“私が信頼していた親しい友,一緒にパンを食べていた人が私に敵対するようになった。 エホバ,私に憐れみを掛け,起き上がらせてください。彼らに返報するために。”とある。信頼していた友が裏切った場合、必要なのは報復だ。泣き寝入りではなく、神様の力を借りて仕返しをするのが旧約聖書のやり方だよ。」

「16節に奇妙なたとえ話が出ています。“もし食中毒になってしまったなら,その後は食べる物にいっそう気を付けるはずです。でも,だからといって,食べるのをやめてしまうことはないでしょう。同じように,1度嫌な経験をしたからといって,兄弟姉妹は誰も信頼できないと考えてはいけません。”です。納得がいきませんね。もしJoWsというアメリカから来た奇妙な食べ物があったとします。そのJoWsを食べて一度食中毒になったら、JoWsは二度と食べません。」

「信頼できない兄弟姉妹はたくさんいるけれど、信頼できる兄弟姉妹も少しはいるから、組織にとどまって欲しいと言いたいんだよ。」
「もしある食堂の料理で食中毒を起こしてしまっても、別の料理もあるので、別の食堂に行かないでください、ということですか?」
「さすがに、そういう虫のいいことを堂々と述べる自信がなかったので、へんな例えを作り出したんだよ。」

「16節では、“人は皆,生まれた時から不完全だからです。”とあります。なんにでも使えるいいわけです。それならサタンの世の人だって、みな不完全なのですから、JWが攻撃するのは不当なことですし、滅ぼされるのも不当な事ですよ。」
「不完全だからという言い訳はJWの内部限定。JW以外は不完全でも許さない。JWのダブルスタンダードの典型。」

「最後の17節が笑えます。“サタンが支配する世界では,信頼はほとんど見られません。でも,エホバの証人の間には,愛に基づく信頼が満ちています。”とあります。執筆者は妄想の世界に住んでいますね。」
「集会で退屈している信者に、ここで笑ってもらおうという親切心だよ。統治体はアメリカの司法制度や金融制度を信頼し、裁判を起こしたり投資したりしているだろう。統治体は本音ではサタンの世界はけっこう信頼できると思っているはず。」
「来週も、信頼の話みたいですよ。よっぽどJWには信頼がないということですね。」

#1421 2022年11月18日 14:59:16

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“信頼される人になりましょう (38)”で、個人の秘密にかかわることをペラペラしゃべるな、という内容です。」
「こんなことをみんなで学ばなくてはいけないほどJWは常識の欠けた人たちということね。JWと関わりを持つのはやめよう。」

「宗教関係者は守秘義務がありますよね。」
「刑法134条の第2項に“宗教、祈祷若しくは祭祀の職にある者又はこれらの職にあった者が、正当な理由がないのに、その業務上取り扱ったことについて知り得た人の秘密を漏らしたときも、前項と同様とする。”とある。“前項と同様とする。”とは、6カ月以下の懲役又は10万円以下の罰金に処するということ。」
「JWの長老は第2項に該当するのですか?」
「実際に裁判になってみないとわからないね。日本では、裁判で長老が聖職者に当たるかどうかをめぐって争われたことはないでしょう。」

「アメリカではJW関連の裁判は多いですよね。そこで聖職者と認められているのですか?」
「JW側が、長老は聖職者で、守秘義務があり、会衆内の児童性的虐待について証言できないと主張する場合もある。一方、JWには聖職者はいないと主張する場合もある。」
「いい加減な組織ということですね。」
「アメリカの裁判では、長老は聖職者だという主張は認められないケースが多いね。つまり裁判では聖職者で守秘義務があるので証言はできないという主張は認められないことが多い。」

「組織としては、長老は聖職者として認めてもらえるようにすれば、裁判で知っていることを隠蔽できるので、好都合と考えているわけですね。」
「そうだろうね。そこでとりあえず、組織として長老に守秘義務を課すようになるかもしれない。」

「最近の事例では、アメリカのイリノイ州では、聖職者は児童の性的虐待の報告に関連するトレーニングに3年ごと参加することが義務付けられているのですが、組織から長老に与えられた指示は、長老は宗教ボランティアであり、個人で対応するように、その際ものみの塔や会衆との関係を言ってはいけないというものだったようですね。」
「そのようだ。長老は単なるボランティアで、組織とは無関係の人間として切り離されるわけだ。組織と無関係な人間なのに組織の方針に忠実に従って、その結果責任も個人で負うというのが長老という立場なわけだ。アメリカで長老であることは危険すぎる。」
「組織の指示はトレーニングを受けても、児童の性的虐待については長老マニュアルの14章7節に従えと言っていますよ。」
「それがイリノイ州の法律に反していた場合、長老は逮捕される危険性がある。もうすでにイリノイ州では2人の長老が、児童虐待を報告しなかったことで有罪判決を受けている。JWは反社会的な組織なので、長老なんかなるもんじゃないよ。」

「3から7節が“昔の忠実な人たちの手本”です。 聖書について学んでいるという錯覚を与えるために、いつものように主題とは関係の薄い聖書中の人物を取り上げます。最初はダニエルです。」
「ダニエルの何を見習うのかというと、4節に“自分はエホバの証人ではない人からどんな評判を得ているだろうか。責任をきちんと果たす人,信頼できる人と見られているだろうか。”とある。JWは外部の人からも信頼を勝ち取れということのようだけど、無理な要求だね。」

「JWは職場でも自分の都合ばかり主張し、仕事に関して無責任で信頼できない人と思われていますよ。王国第一主義ですからそうなります。」
「JWという怪しい宗教の信者というだけで、外部の人から信頼を勝ち取るのは絶望的。」

「5節では“要塞の長ハナニヤ”というマイナーな人物が取り上げられています。ネヘミヤ7:2に“ハナニヤはとても信頼できる人で,ほかの人たちよりも真の神を畏れていた。”とあるので、ここでとりあげられたようです。」
「5節で“ハナニヤはエホバを愛していて,エホバが悲しむことは決してしたくないと思っていたので,与えられる仕事をどれも真剣に果たしました。”とある。ハナニヤが何を考えていたかがどうしてわかるのかな?単なる想像だろう。」
「ハナニヤは総督ネヘミヤから任命されたので、エホバじゃなくて総督から認めてもらえるように仕事をしたと思いますよ。」
「“信頼”という言葉で検索したら、ハナニヤがヒットしたので、一節分適当なことを書いたというだけだね。」

「6節は“パウロから信頼されていたテキコの例も考えてみましょう。”と、マイナーな人物であるテキコが登場です。」
「1節分埋めるための単なる素材だね。テキコがどういう人物かはほとんどわからない。手本にしようがないよ。」

「8から11節が“内密を守る”です。 この記事の主な部分ですね。“内密を守る”とは部外者に知られないようにするということです。組織外への情報の漏洩を恐れているということですか。」
「内密という言葉は、口外されると組織にダメージが与えられることを恐れて、特定の情報を隠すために使用する言葉だよ。JWはそういう怪しげな組織ということだね。」
「あくまでも組織防衛が主要な関心ということですね。」
「内密という言葉を使用するということはそういうこと。個人の秘密を守るということはたいして関心がないね。」

「8節では“プライバシーを尊重する必要もあります。”と言っています。当たり前のことが守られていないということですね。」
「個人の私生活に無制限に踏み込んでくる宗教だからね。預金がいくらあるか聞かれた研究生もいるくらいだ。」
「しかし、脚注には“会衆の誰かが重大な罪を犯したことを知ったなら,長老に助けを求めるようその人に強く勧める必要があります。もし,その人が私たちの勧めに応じようとしないなら,(略)その件を長老たちに報告するべきです。”と、密告することが義務であることを書いています。」
「結局、プライバシーは尊重されないということだね。カルトらしく信者の管理統制、相互監視が最優先ということ。」

「9節では、“家族の一人一人には,家族のプライベートなことをほかの人に漏らさない ようにする責任があります。”と、これまた当たり前のことを強調しています。こんなこともわからないのがJWのようです。」
「JWは大きな家族なんじゃないの?そう宣伝することもあるよね。家族ならみんなで情報共有してもいいはずだよ。でも実際は違うということだ。」

「9節に“そして子供たちは,家族が恥ずかしく思うようなことをほかの人に話してはいけない,ということを教えてもらう必要があります。”とあるのですが、驚きです。もし模範的な長老のお父さんJWが体罰と称して子どもに暴力をふるっている場合も、その子は黙っているべきということになりますよ。」
「虐待を受けている子どもには、警察やその他の公的機関に助けを求めるよう勧めるのが良心的な宗教だろう。JWは家族が恥ずかしく思うかもしれないから、黙っていることを勧めるわけだ。児童虐待を防止しない反社会的なカルトだね。」

「10節に“内密を守ってくれる友達がいるというのは,本当にありがたいことです。そういう人こそ,「真の友」です。”とります。ということは、密告が義務のJWには真の友はいないということですね。」
「10節では“格言 17:17を読む。”とあり、そこには“真の友はどんな時にも愛を示す。苦難の時に頼れる兄弟である。”とある。JW内の人間関係は全て条件付きの関係でしょう。教義に少し疑問を述べただけでも、危険人物として、周りから無視されるということがありうるよね。」

「協会共同訳では“友はどのような時でも愛してくれる。/兄弟は苦難の時のために生まれる。”です。JW訳は誤訳ですよ。」
「友と兄弟を対比しているわけで、JWのように訳すのは間違いだね。」

「内密を守ることの重要性を言いたいのなら、読むべきはこの聖句ではないですよ。例えば、格言25:9、10に“自分の言い分を当人に伝えよ。聞いた内密の話を明かしてはならない。さもないと,聞いた人があなたに恥をかかせる。あなたが広めた悪い話は撤回できない。”とあります。これをなぜ引用しないのでしょうか?」
「密告をすすめるJWには不都合な聖句だからだよ。格言20:19に“中傷する人は内密のことを漏らして回る。うわさ好きの人と交友を持ってはならない。”とある。JWとはやっぱり交友を持つべきじゃないね。」

「11節でやっと長老が取り上げられます。“私たちは,長老たちが内密を守ってくれることを確信しているので,何でも話すことができます。そして,私たちは長老たちから内密の事柄を聞き出そうとしたりはしません。また,長老の妻たちも,夫から話を聞き出そうとはしません。”とあります。現実はその逆ですね。」
「一番の問題は長老の妻だろう。この連中は秘密を聞き出し、それを自分のお気に入りに伝えることによって、会衆内で影響力を保つ。これからもそうするよ。情報は力なり、だ。」

「JWジョークです。会衆内のことは何でも知っている長老の妻でも知らないことは何でしょう?」
「長老の夫が浮気をしていることだよ。」

「守秘義務のない人に個人的なことを話すのはやめた方がいいですね。」
「守秘義務はないけれど、密告義務はある組織には、何も言わないのが正しい在り方。」

「12から16節が“信頼される人になる上で役立つ性質”です。 5つの徳目が並びます。そんなことより、秘密保持に関する具体的な規則を決めればいいのですよ。規則で信者をコントロールするのが大好きなんですから。」
「12節が“愛”なんだけど、愛の対象は仲間限定。こんなキリスト教は聞いたことがない。エホバ教ならではの教えだね。仲間を愛しているがゆえに、仲間の秘密はしゃべらないのだそうだ。」

「13節が“謙遜さ”で、14節が“識別力”です。秘密を保てない人は謙遜さと識別力が欠けているようです。」
「14節に“「黙っているのに時があり,話すのに時がある」ということを理解しています。(伝 3:7)「沈黙は金,雄弁は銀」ということわざもある通り,話すよりも黙っている方が良い時がある,ということです。”とあるけれど、そういう意味じゃないよ。」

「伝道3:1-8がひとまとまりで、産まれる/死ぬのような相反することが14対並んでいる部分ですね。」
「3:1はThere is an appointed time for everythingとあるけれど、日本語訳は“何事にも時がある。”となっている。正確には“何事にも定められた時がある。”だよ。そして14対の“時がある”が続く。」
「“黙っているのに時があり,話すのに時がある”は、話すよりも黙っている方が良い時があるという当たり前のことを言っているのではないですね。」
「3:2は“生まれる時があり,死ぬ時がある。”だけど、生死は人間がコントロールできるものではない。それは神がコントロールしているという意味。以下同じ。人生にいつ何が起きるか、それは人間の力や知恵が及ぶところではないという思想を詩の形式で表したのが、3:1-8だね。」

「15節が“正直さ”で、16節が“自制”だけど、具体例が“ソーシャルメディアを使う時には,特に自制が必要です。気を付けていないと,内密の事柄を意図せずに,大勢の人に発信してしまうかもしれません。”なんだけど、実際にこんなことがあったんだろうね。でもこれって自制とは関係ないでしょう。無知か不注意ということだよ。」
「16節には“私たちの活動が禁止されていたり制限されていたりする国では,当局からの取り調べの時に,こうした事態に直面するかもしれません。”と、危機感をあおっています。」
「そんな国で活動しているJWは全JW の1%もいないよ。ここでこういうことをわざわざ書くのは、危機感をあおる以外の目的はないよね。」

「最後の17節が笑えます。“エホバは私たちを,愛情深く信頼できる人たちから成る家族に加えてくださいました。”とあります。やっぱりJWは家族のようです。家族の間に秘密があるのはおかしいですよ。妻は夫の悪口を、大きな家族の一員である人にしゃべっても問題ありませんよ。家族なんですから。」
「JWに一貫した論理を期待しても無理ということだね。」

#1422 2022年11月25日 15:06:50

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“あなたの名前は「命の書」に記されていますか (39)”で、脚注で” この記事では,ヨハネ 5章28,29節にあるイエスの言葉に関する理解の調整を取り上げます。“と、言っています。」
「理解の調整というの、教義の変更をさすJW特殊用語だね。本当に変更すべき教義は変わらず、どうでもいい教義がころころ変わるけれど、これもなぜ今頃変えるのか不思議だね。」

「誰が復活して、誰が復活しないのかを改めて整理してみたら、ヨハネ5:28,29の解釈と矛盾することに気づいたからじゃないですか?」
「死者が復活して地上で永遠に生きるなんてことはJWの独自教義なのだから、それと聖書との整合性が得られないことはよくあるでしょう。JWの教義の中で、復活の教義はバカバカしい教義の代表だ。つじつま合わせに苦労しているということね。」

「1節に“現在では,非常に大勢の人たちの名前が記されています。聖書はこの書のことを,「記録の書」,「命の書」,「命の巻物」と呼んでいます。この記事では,そのうちの「命の書」という表現を用います。”といっていますが、これらの書が同一のものということは決まっていませんよ。別のものじゃないですか?」
「最初に出てくるのは出エジプト32:32の“どうか私の名前をあなたの書から消し去ってください。”というモーセの発言の部分。この書がどんなものかは全くわからない。名前が書いてあるんだろうね。」
「この名前が書かれた書というアイデアは詩編によく使われています。例えば詩編40:7に“ご覧ください,私は来ました。巻物に私について書いてある通りです。”とあります。名前以外にもその人のことが書かれているようです。」
「詩だからね。文字通りというより、比喩的な表現だと思うよ、」

「詩編69:28には、悪人に対して、“生きている人の書*から消されますように。正しい人たちの中に含められませんように。”とあるのですが、“生きている人の書”というのもあることがわかりますね。この書から消されると死ぬということですね。デスノートの逆ですね。」
「デスノートは漫画だけれど、このノートに名前を書かれた人は死ぬというルールが設定されていた。」
「元の所有者は死神です。ノートに死因を書かなければ、心臓まひで死ぬというルールです。」

「詩編139:16はちょっと性質が違う書が出てくる。“あなたの目は胎児の私を見ました。私のあらゆる部分があなたの書に書かれました。それらが形作られる日々のことが,まだどの部分もできていない時に書かれました。”とある。これは身体的特徴が書かれている書なのかな?それともその人の全人生が書かれている書なのかな?」
「まだまだいろんな書がありますよね。」
「いろんな書があるのに、“命の書”しかないと執筆者は思っている点でダメだね。」

「この記事によると、人間は命の書に名前が記入されていないと永遠に生きられないというルールが設定されているのですが、2節に“現代の私たちも,独り子イエス・キリストの贖いに基づくエホバとの強い絆を持っているなら,この書に名前を記してもらうことができます。(ヨハ 3:16,36)”とあります。しかし、引照聖句はそんなことを言っていません。」
「命の書のルールはJWが勝手に作ったもの。漫画のデスノートみたいなものだね。」
「デスノートのほうがルールが明確で詳細ですよ。」
「ヨハネ3:16には“独り子に信仰を抱く人が”とあり、ヨハネ3:36には“子に信仰を抱く人は永遠の命を受ける。”とあってエホバなんか出てこない。なんで“エホバとの強い絆を持っているなら”という条件が付くのか不思議だね。エホバ教だからという理由以外ないよ。」

「2節に“この特別な書に名前が記されているのは,深い敬意を持ってエホバを崇拝し,エホバのお名前を大切にしている人たちです。それらの人たちには,永遠に生きる見込みがあります。”と書いていますが、これもJWが勝手に設定したルールですね。命の書と永遠の命は必ずしも結び付きませんよ。」
「それが書かれているのは啓示21:27の“子羊の命の巻物に名前が書かれている者だけが入るのである。”くらいだ。旧約聖書では何らかの書に記録されるという思想はあるけれど、記録されたから永遠の命が与えられるとか、永遠に滅ぼされるとは書いていない。」

「5から8節が“どんな人の名前が命の書に記されているか”です。 人類は5つのグループに分けられるようです。最初は①イエスと共に天で治めるよう選ばれた人たち。この人たちは命の書に書かれています。根拠はフィリッピ4:3です。」
「パウロは“こうした人たちの名前は命の書に記されています。”と言っているけれど、それなら命の書の何ページに書いてあるか教えて欲しかったね。」
「要するに、大した意味はないということですね。そもそも144000人の天上組とその他の地上組の人類2階級論はJWのバカげた独自の教義にすぎません。」
「パウロは手紙の中の一節で、相手をほめただけ。命の書というものがそんなに重要なら、パウロはそれについてしっかり述べたと思うよ。でもパウロが命の書に言及したのはここだけ。命の書という思想は基本的に啓示の中で出てくるもの。」

「7節は、②ほかの羊の大群衆。この人たちはハルマゲドンを通過しますが、“命の書に鉛筆で名前を記されているような状態です。”とあります。いつ消されるかわからない不安定な立場のようです。デスノートにはないルールです。根拠となる聖句はありません。JW独自のルールです。」
「千年間組織の奴隷として働かないといけないわけだ。普通はそれを楽園とは呼ばないね。」

「8節は、③ハルマゲドンで滅ぼされるヤギ。JW以外の人類のことです。永遠の死で、復活はありません。」
「JWの教義では、間もなくハルマゲドンが来て、家族の中でJW以外の人は殺されるけれど、それがその家族の姿を見た最後になるわけだ。幼い孫もその親がJWでなければ、焼き殺されて、鳥の餌になって、おしまいというわけだ。年老いたJWにとって本当に慰めになる教えだね。」

「9から12節が“復活してくる人たち”です。 10節が、④正しい人です。“いわば鉛筆で命の書に記されています。”とあり、いつでも消すことは可能です。11節が、⑤正しくない人で、復活しますが、“エホバの正しい基準に従って生きることについて教えてもらう必要があります。それで,神の王国は史上最大の教育プログラムを行います。”とあります。根拠となる聖句はありません。JW独自ルールです。」
「JWの楽園というのは、思想改造キャンプということね。住みたくないね。」

「知能の低い人や精神障害の人はどうなるのか心配です。」
「生きていた時と同じデータに基づいた複製人間を作るわけだろう。勝手に良い方向に変えたら、自由意思とやらを損なうからダメなんだよ。そもそも、こんなことに何の意味があるのかわからない。」
「宇宙主権論争のためじゃないですか?」
「宇宙の創造者なら、もっとましなことをして欲しいね。」

「12節に“誰が正しくない人を教えるのでしょうか。大群衆と,復活してきた正しい人です。”とあり、JWは楽園でも、今と同じようなバイブルレッスンと集会を1000年間するみたいです。」
「JWの想像する楽園は結局今の生活の延長に過ぎないということだね。人間の想像力ってそんなものなんだよ。」

「12節で、“とはいえ,与えられる助けをはねつけるなら,たとえ100歳であったとしても滅ぼされることになります。(イザ 65:20)”と言っています。JWのバイブルレッスンに文句を言うと、滅ぼされるみたいです。北朝鮮の強制収容所とそう変わらない世界です。」
「これはね、復活した連続殺人犯のことを心配する手紙を本部に書いたJWがいるんだよ。そんな人とは一緒に住めませんと文句を言われたので、その人を安心させるために楽園では悪い奴はすぐに滅ぼされるようにした。どうせ架空の世界なのだから、ルール設定はどうにでもなる。」

「引照聖句は楽園後の世界を言っているものではないですよ。」
「引照聖句のイザヤ65:20に“そこには,数日しか生きない乳児も,寿命を全うしない老人もいなくなる。”とある。永遠に生きるなんて書いていない。みな寿命を全うするとあるだけ。JWと違ってイザヤに、人間がハルマゲドン後に復活して、永遠に生きるという思想はないよ。」

「12節で“エホバとイエスは,人の心を読むことができます。”とあります。それなら悪人をなぜ復活させて、さらに滅ぼすという余計なことをするのか理解できません。」
「教育による矯正可能かどうかは神様ならわかるわけでしょう。矯正不可能な人をわざわざ復活させて余計な仕事をJWにさせるのは、JWを忙しくさせて何も考えないようにするためとしか思えないね。」

「13から19節が“命の復活と裁きの復活”です。 新しい光です。ヨハネ5:28,29の教義変更を説明します。そこには“良いことをした人は命の復活へ,悪いことを行った人は裁きの復活へと出てきます”と書かれています。」
「14節で“私たちはこれまで,この聖句は人が復活した後に行うことについて述べている,と理解していました。つまり,復活した人の中には,良いことをする人もいれば,悪いことを行う人もいる,と考えていました。”とこれまでの見解を述べている。どうしてそう解釈できるのか不思議だね。JWの奇妙な復活の教義と整合性を取るためなのか?」

「新しい解釈は、“過去形を使い,「良いことをした」,「悪いことを行った」と述べています。ですから,これらの行いは,死ぬ前のものであることが分かります。”というものです。聖句の解釈の時に時制を無視するのがJWのようです。驚きますね。」
「高等教育を敵視するからだよ。」

「この教義変更の理由は、14節で“新しい世界では,悪いことを行うことは誰にも許されないからです。”と説明しています。文法的に正しい解釈をした結果じゃありません。」
「12節に出てきた、楽園の秩序維持のため、バイブルレッスンを拒むと100歳でも殺されるという解釈ね。楽園では悪人も悪いことができないとルールを変えたので、従来の解釈変更が必要になったのかな。」

「ヨハネの福音書に神の王国もハルマゲドンの思想もありませんよね。」
「ヨハネ5:24には“私の言葉を聞いて,私を遣わした方を信じる人は,永遠の命を受けます。断罪されず,死から命へと移っています。”とある。最後の部分のギリシャ語の動詞の時制は完了形。英語訳ではhas passed over from death to lifeとなっている。イエスを信じる者は永遠の命をもうすでに与えられているんだよ。」
「永遠の命を受けたので、もはや断罪されることはないわけですね。」
「こういう思想を“実現した終末論”と呼ぶ。JWはヨハネは読まない方がいいよ。」

「16節で、悪い人の復活は“「裁きの復活」となります。*”と言っています。そこで問題となるのは“裁きの復活”の意味ですが、脚注には“この文脈でイエスは「裁き」という言葉をもっと広い意味で使っていたようです。つまり,評価や観察を行うこと,あるいは,あるギリシャ語の辞典が述べているように,「行いを精査すること」という意味で述べていたと思われます。”と、都合よく解釈しなおしています。」
「何の根拠も示さず、“この文脈でイエスは「裁き」という言葉をもっと広い意味で使っていたようです。”と言っている。違うだろう。どうせJWは無知無学な連中で、上からの命令には盲目的に従うように日頃から躾けているので、どんなたわごとでも信者の間では通用するとタカをくくっているんだろう。」

「17節も興味深いです。“復活してくる人は皆,千年統治の間に開かれる新しい巻物に書かれているおきてに従う必要があります。”とあります。細かな規則が無数に書かれているのでしょうね。」
「旧約聖書の世界に逆戻りだ。でもその根拠となっている啓示20:12,13に、おきてのことなんか出てこないよ。JWの設定したルールね。」

「18節で、引照聖句の“各自の行いに応じて裁かれた。”の解釈が出てきます。“新しい世界で与えられる教育に応じてどう行動するか,ということです。”とあります。楽園は巨大な学校のようなもので、先生に口答えしたり、ささいな校則を破ったりすると死刑になるようです。」
「14節で“新しい世界では,悪いことを行うことは誰にも許されないからです。”とあったよ。そんな悪さはあり得ない世界のようだ。」
「ということはテストの成績が悪いと、天から火が降って来て焼き殺されるということでしょうか?」
「思想改造キャンプで、細かなおきてに従いつつ、バイブルレッスンにまじめに取り組むかどうかで、永遠の命か死かが決まると想定しているようだ。もちろん聖書的根拠はない。」

「19節の下に興味深いイラストがあります。“1人の兄弟が,千年統治の間に行われる大規模な教育プログラムで教えている。”というものですが、嘘くさい世界です。」
「3面が大きなガラスで覆われた現代風の建物だけど、誰がガラス工場で働いているんだろう?誰がそのガラスを森の中まで運んできたんだろう?車で運んできたとしたら、その車は誰が作っているのだろう?以下疑問は果てしなく続く・・・。」
「車を作っているのは、復活したトヨタの人ですよ。復活前と同じことをするのが、楽園のようです。ただJWが偉そうにしている点だけが違うのです。」
「JWの楽園は、社会の底辺で惨めな人生を送っているJWの権力欲を満たすための幻想ということだ。」

#1423 2022年11月25日 23:34:54

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

「教育による矯正可能かどうかは神様ならわかる」はずですが、愛ゆえに予知しないみたいです。

罪の報酬は死であって、死んだ者は罪から解放されている、とパウロは言ってるのに、JWのエホバは、復活というか作り直すときも罪人のままで作り直すんですかね。既にいっかい罪ゆえに苦しんで死んでますよ。

パウロは自分は罪に抗えないみじみな存在だって言ってますが、死んで解放されてもなお1000年にも渡る、しかもリニューアルされた戒律だらけの「罪との闘い」が始まるとは、そんな思想はパウロ書簡にもヨハネ福音にもないと思うのですが、JWオリジナルの復活教義はかなりのマゾヒズムです。


罪人のまま作り直しておきながら「悪いことは行うことは許されない」そうなので、助けをはねのける、ということは何も悪いことはしていないのに、レッスン中の態度が悪いだけで焼き殺すとか、デスノートみたいに心臓マヒで息絶えるとか、そんな感じでしょうか。そこは心を読むのかな?

愛があるなら予知してあげて、もういっかい残酷に処刑するためにわざわざ作り直すのはやめてほしいですね。そもそも、JWはゴースト(魂)思想を否定しているので、体と性格と記憶が同一なだけの複製=別人ですけど。

#1424 2022年11月26日 00:59:10

仰天
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

こんばんは。
ジョエルさん、寝ておられるとは思いますが。

文脈から判断しますと、罪に対して死んだので罪から解放されているという事でして、実際に死んだ事を意味しません。JW解釈のよくある間違いとして昔から知られています。つまり、死んだら魂はなく滅ぼされたら罪から放免されるので地獄の責め苦はないとする無茶苦茶な解釈です。悪しからず。

#1425 2022年11月26日 06:51:52

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

仰天さんお疲れ様です。

JW復活教義解釈の前提で書いていますので、彼らの解釈の中でもつじつまがあっていないということでした。

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