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#1276 2021年02月03日 13:43:05

忖度なし
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

たとえイエスが「超人間な存在として実在」していたとしても、彼自身がペンを取り言葉を記したのではありません。また、弟子も聖書の記述されている事象の目撃証人として記録した訳では必ずしもないでしょう。イエスの講話を直接聞いていたとしても、書記のように記録したのではないはずです。

一介の人間が記憶や聞いた(伝え聞いた)話を頼りに執筆したもの、そこには脚色があり、穴もあることでしょう。イエスの教えと言われる記述も含めて聖書ってそんなものではないでしょうか。

#1277 2021年02月05日 15:49:35

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、” 復活 確かな希望(49)”で、復活に関するJWの教義をもう一度勉強しましょう、という内容ですね。コリント一15章が主に取り上げられています。来週も復活の話です。2週続きです。」
「復活の話で盛り上げようというわけなんだろうけど、JWの復活には興味が持てないね。JWの復活というのは再創造、つまり複製の作製だ。自分が死んでから、自分の複製が造られても、それは自分ではないし、自分とは関係ないよ。」

「JWの復活の教義で、一番問題なのは144000人が天に行き、それ以外の人は地上で復活するという点でしょうか?」
「これは聖書から適当に聖句を拾い集めて作ったインチキ教義の代表だね。天に行く人に定員を設けるなんて言う発想はケチ臭い人間の発想でしょう。しかも1世紀のクリスチャンは天に行くという。いつ生まれるかによって決まるなんて不公平だろう。」
「神は不公平な方ではないとJWはよく強調しています。」
「JWがまともな宗教を目指すなら、人間の平等や神の公平性と愛という原則にたたないとね。」

「2節に引用されているのは使徒24:15の“神が正しい人も正しくない人も復活させてくださるという希望です。”というものです。これはパウロが言ったことになっているのですが、パウロは、自分の手紙で正しくない人の復活なんか言っていました?」
「言ってないよ。24:15では“私はこの方たちと同じ希望を持っております。”とある。この方たちというのは大祭司アナニヤのことだけど、アナニヤはサドカイ派で復活の教義を受け入れていない。間違いだ。使徒24:15はパウロが実際に言ったことではないでしょう。使徒の作者の創作だね。」

「2節には“ヨブは,自分が死んでも神が思い出して生き返らせてくださる,と確信していました。(ヨブ 14:7-10,12-15)”とあるのですが、これはウソでしょう。」
「ヨブ14:12に“人も,横たわり,起き上がりません。天がなくなるまで,目覚めることはなく,眠りから起こされることはありません。”といっている。これは復活の否定。死の究極性をいっている。」
「14:13の“あなたの怒りが過ぎ去るまで私を隠し,私のために期限を定め,時が来たら私を思い出してください。”は、ヨブの願望ですよね。復活の信仰ではないですよ。」
「14:19に“あなたは死にゆく人間の望みを消し去りました。”とある。ヨブは苦しみから逃れるために死とその後の復活を望むけれど、現実的にはその望みはないと言っている。復活信仰が生じるのはずっと後の時代。」

「6節に“預言者イザヤによると,メシアは「地上から除かれ」,「悪人と共に墓を与えられ」ることになっていました。それだけでなく,「多くの人の罪を担」うことにもなっていました。イエスが贖いになることによって,この預言は実現しました。(イザ 53:8,9,12。マタ 20:28。ロマ 5:8)”とあります。イザヤ53章はイエスの預言なのですか?」
「4つある“主の僕”の歌の最後のもので、52:13から始まって53:12で終わる、すごい長い詩。中心は53:1から10だけど、問題はそこに出てくる“彼”とは誰か?」
「JWも多くのキリスト教もそれはイエスのことと解釈しています。」
「しかし、それは後知恵的にイエスの生涯の意味を旧約聖書の中に探し求めたら、イザヤの“主の僕”がよく当てはまったからで、本当にイザヤがイエスを預言していたということではない。」
「イエスと似ている所もありますが、違う所も結構ありますよね。」
「イザヤ53:8,9が引照聖句となっているけれど、“誰が彼の家系の詳細を知ろうとするだろうか。”とあるけれど、イエスだったら当てはまらない。2つも家系図が聖書にのっている。」
「“彼”は個人ではないですよ。」
「個人とした場合、53:8は“彼は地上から除かれた。”とある。しかし、引照聖句となっていない53:10には“彼は自分の子孫を見て,長く生きることになり”とあって矛盾する。そこで“彼”はイスラエル全体を指していて、53章はバビロン捕囚とその苦難、それからの回復のことを言っていると解釈できる。」

「7から10節が“大勢の目撃者”です。イエスの復活には大勢の目撃者がいたので信用できるというものです。」
「目撃者がたくさんいるから信じるの?例えば、聖母マリアに出会って、会話をしたなんて言う話しはヨーロッパ中に沢山ある。大勢の人の前に現れたことも何度もある。それは古代や中世だけでなく現代でもあるよ。聖母マリアが現れた場所に教会が建てられている所だってある。でも、JWやプロテスタントはこんな話を信じない。目撃者が沢山いるのに。」
「聖母マリアはカトリックだからですね。」
「JWやプロテスタントはイエスの復活は事実だ。それは大勢の目撃者がいるからという。それなら聖母マリアの話も事実と認めるべき。しかし、無視する。典型的なダブルスタンダード。」
「イエスの復活の目撃者といっても、すべて聖書に出ている話ですから。説得力はないですよ。」
「ローマ帝国の記録にあるというなら信ぴょう性は高まるけれど、イエスのことは当時の記録には何も書かれていない。」

「コリント一15:4,5でパウロは“3日目に生き返らされ, ケファの前に現れ,それから12人の前に現れた”とありますが、イエスの逮捕後弟子たちはガラリアに逃げたのなら、3日後にエルサレムに戻ってイエスに会うことは不可能です。1週間はかかります。」
「パウロの言っているのは、史実ではなく初期クリスチャンの間に流布していた伝承だよ。」

「11と12節は“間違った考えを正す”です。コリントには死者の復活はないという人がいたけれど、パウロは復活はあると手紙に書いたという話です。」
「12節に“イエスは,目に見えない存在として復活した最初の方です。”とある。この意味はなんなの?」
「洞察の“体”によると、イエスの死後“その体は腐敗の過程をたどることなく分解させられたのでしょう。”といっています。根拠はありませんが、イエスの体は消滅したというのがJWの教義です。そして、“霊者としてよみがえらされたイエスは(ペテ一 3:18),昔,み使いたちが使者として現われた際に行なったように,肉体を備えて現われることができました。”とあります。」
「イエスの肉体性を否定するのはグノーシス主義的だね。復活というのは通常“肉体の復活”を指す。魂や霊が天に行くというのは復活とは言わない。」
「福音書を読むと、復活後のイエスは肉体を持った存在の様に思えます。」

「ルカの福音書から見てみよう。復活したイエスをみて、“しかし弟子たちは仰天して恐れ,自分たちは幻影を見ているのだと思った。”と24:37にある。それでイエスは24:39で“私の手と足を見なさい。間違いなく私です。私に触り,見てみなさい。幻影であれば,あなたたちが見ているような肉体はありません。”という。それでも弟子が信じられないようなので、イエスは24:43で焼き魚を“皆の目の前で食べた。”とある。」
「ルカはイエスが肉も骨も口も胃もある、生前と同じ肉体をもって復活したことをしつこく示しているわけですね。」
「それはルカが福音書を書いたころ、JWのようにイエスは霊的に復活したと主張するグループがいて、それに反論するためと思われている。霊は食べたりしないので、わざわざ復活したイエスに魚を食べさせた。」

「ヨハネはもっとイエスの肉体性を強調していますよ。疑り深いトマスの話なんかあります。」
「ヨハネ20:27でイエスは“「指でここを触り,私の手を見て,私の脇腹に手を当てなさい。そして,疑うのをやめ,信じなさい」。”と言っている。これも復活したイエスの肉体性を、しかも復活前と後の連続性を強調する意図のもとに書かれている。」

「12節に“天に復活した最初の方でもあります。(コリ一 15:20。使徒 26:23。ペテロ第一 3:18,22を読む。)”とあります。天で復活したというのはペテロ第一 3:18だけなのです。“キリストは人間として死にましたが,天での命を受けました。”とあります。これは誤訳じゃないですか?」
「日本語訳に問題がある。英文は“He was put to death in the flesh but made alive in the spirit.(肉において殺されましたが、霊において生かされました。)”というもの。それを“天での命を受けました”に変えている。ペテロ一が言っているのは、ヘブライ書と同じで“昇栄exaltation”と言う思想。復活とは別の概念なの。」
「歴史的には、イエスの死後にイエスを見たという人が現れたわけですね。それを説明するのに、イエスは霊として天に行き、それが地上に現れたという思想が生まれたんですよね。」
「フィリピ2:6-11はもっとも初期のキリスト教の思想をパウロが引用した部分なんだけど、2:9に“神は彼をさらに上の地位に高め”とある。協会共同訳では“神はキリストを高く上げ”で、こちらの方が正しい。これが昇栄という思想。」

「13から17節が“キリストのゆえに「生かされる」人たち”です。13節で“1人の人の死によって多くの人が命を得ることなどあるのでしょうか。”と問いかけ、パウロの考えを述べています。」
「“1人の人の死によって多くの人が命を得る”と言う理屈はよく理解できない。イエスの死の意味を探すうちにパウロが思いついた理屈でしょう。」
「絶対的な神というものを想定しておきながら、アダムの罪を贖うためにはキリストの死が必要というのは矛盾ですよ。絶対的な神なら、アダムの罪はなかったことにすると宣言すればそれでいいはずです。」
「そのとおり。当時のローマ帝国内では、神殿で犠牲の動物の血を流すことがごく当たり前に行われていて、それがとても意義のあることと思われていたんだ。そういった社会では、イエスの血が全人類を救うという話しは抵抗なく受け入れられたのでしょう。しかし、現代人には理解しがたい。」

「14節で“アダムが復活することはありません。”と、アダムは復活しないことが明言してあるのが面白いです。」
「誰が復活して、誰が復活しないのかについては、JWの教えは二転三転してきたからね。はるか昔はアダムは復活すると言っていたよ。」
「ソドムとゴモラの住民も復活すると言ったり、しないと言ったりしていますよね?」
「復活について聖書はあまり述べていないから、JWは適当に想像を交えて、好きなことを言っている。」

「17節には“現在,予告されていた「キリストの臨在」はすでに始まっています。死の眠りに就いていた,天に行くよう選ばれたクリスチャンは,その臨在が始まった後,天での報いを受け,「キリストと同様の復活を遂げてキリストと結ばれ」ました。”とJWの独自教義が出ています。」
「天に行く少数の人たちと地上で復活する大群衆という教義はJW独自のもの。キリストの臨在はすでに始まったというのも独自教義。JW以外は相手にされないよ。」

「啓示1:7には“見なさい,この方は雲と共に来ます。そして,全ての目はこの方を見ます。この方を刺し通した者たちもです。地上の全ての民族が,この方のゆえに自分の体をたたいて悲しみます。”とあります。イエスが目に見えない形でこっそりと現れるなんていうのは聖書のどこにも書いていません。」
「それはマタイ24:30の“その時,人の子のしるしが天に現れます。そして,地上の全ての民族は胸をたたいて悲しみ,人の子が力と大きな栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見ます。”とほほ同じ内容だね。イエスの再臨は誰にも明らかな形で行われるはず。」
「しかし、イエスの再臨が生じるはずだった1914年に何も起こらなかったので、目に見えない形でイエスの再臨が生じだと詐欺師の言い訳のような主張を始めたわけですね。」
「100年以上ウソをつき続ければ、ウソも本当になると思っているんだよ。」

「18,19節が“確かな希望がある”です。18節に“聖書によると,パウロなど,天に行く人たち が経験するのは「早い方の復活」です。(フィリ 3:11つまり,その後にほかの復活が起きるということです。)”とあります。」
「引照聖句だけど、協会共同訳では“何とかして死者の中からの復活に達したいのです。”となっていて、JW訳の様に“何とかして早い方の復活を経験したいと願っているのです。”とは違う。」
「“早い方の復活”と言う言葉はない?」
「元のギリシャ語に“早い方の”に相当する言葉はないよ。JWの挿入だ。」

「天に復活する早い復活があって、その後に地上で復活するというJWの教えは聖書的根拠がないわけですね。」
「そうでしょう。19節で、使徒24:15に“正しくない人も復活させてくださるという希望”のことに触れてから、“正しくない人が天に行くことはありません。ですからこの言葉は,将来地上で復活が起きることを示しています。”といっている。」
「地上の復活の聖書的根拠として使徒24:15が使われているわけですね。」
「以前だと、地上の復活の聖書的根拠として、詩編とかイザヤとかを持ち出していた。その聖句は本当は別のことを言っていることに今頃気づいたのかも。それで新しい根拠として使徒24:15を見つけてきた。」

「最後の20節は、復活の希望です。愛する人にまた会える、死んでもまた生き返る、と言っています。」
「その希望をエサに、死ぬまで組織のためにタダで働かせるつもりだね。統治体の老人たちのにんまりした顔が目に浮かぶよ。」

#1278 2021年02月12日 15:21:34

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“死者はどのように生き返らされるのか(50)”で、コリント一15章の説明で、そこに書かれているのは天に行く人しか当てはまらないけれど、それ以外の人も学ぼうというものです。」
「JWの聖書解釈をおかしなものにしているのは、人間は少数の天上組と地上組に分かれて、新約聖書はその少数の天上組にむけられたものという教義だね。」
「パウロにそんな思想はありませんよね。JWだけです。」
「そのJWの独自の教義をパウロの手紙に当てはめて解釈するわけだから、奇妙なものになる。こんなもの学んでも意味がないよ。」

「2節に“1世紀のイエスの弟子の中には,神の聖なる力に導かれて天への復活について書いた人たちがいます。”といって、ヨハネ一3:2の“分かっているのは,神がご自分を示す時に私たちが神のようなものになるということです。”を引用しています。これは天の復活について言っているのですか?」
「ヨハネはパウロと思想が違う。復活の際、人間が神のようになるという変容という思想はパウロのものでヨハネのものではない。ヨハネの福音書は、すでに永遠の命を得ていることを強調している。」
「ヨハネ5:24でイエスは“私の言葉を聞いて,私を遣わした方を信じる人は,永遠の命を受けます。断罪されず,死から命へと移っています。”といっています。6:54では“私の肉を食べ,私の血を飲む人は永遠の命を受け,私はその人を終わりの日に復活させます。”といっていますし、14:23では“私を愛する人は私の言葉を守ります。私の父はその人を愛し,私たちはその人の所に行って一緒にいます。”といっています。パウロとは全然違う思想ですね。」
「ヨハネのイエスは再臨、JW用語だと臨在について何も語っていない。ヨハネの手紙をパウロ的に解釈するのは間違っている。」

「ヨハネ一3:2の“神”はイエスのことですよね?」
「そうだね。だから2節に“エホバを見ることになります。”と言うのは違う。」

「3節にコリント一15:32の“エフェソスで野獣と戦った”と言うパウロの言葉を取り上げています。これは比喩的な意味ですよね。」
「コリント二11:23-27では、パウロが経験した迫害や困難が列挙されているけれど、野獣と戦ったとは書いていない。」

「4節が恐ろしいです。“たとえ命を落とすことになるとしても,エホバが将来はるかに素晴らしい報いを与えてくださることを知っているので,恐れてはいません。”とあります。殉教を恐れるなということなのでしょうか?」
「復活を信者に信じ込ませて、危険を恐れるな、今の命を惜しむな、といっている。本当に危険な宗教だね。」
「こんなことを書いている人たちは安全な場所で安楽な生活をしています。そういう欺瞞に末端の信者は気づくべきですよ。」

「ここでいう“素晴らしい報い”とは、正確に言うと将来自分の複製が造られ、自分として振る舞うということだ。それがなぜ“素晴らしい報い”なのか理解できない。そんなに素晴らしいなら、その複製を100体くらい作って欲しいね。」

「4節では“今は危険な時代です。”と言っています。4節の上にある挿絵は父親が外を警戒し、母親と二人の娘がJWの教えを学んでいるというものなのですが、こんな国ってどれほどあるのですか?」
「ほとんどの国では、JWなんか相手にされていない。でも統治体は自分たちのことを過大評価して、国家から狙われているという妄想を抱いているのかも。今でもナイジェリアのようにクリスチャンが大量に殺害されている国はあるけれど、それはJWを対象にしたものではない。」
「イスラム過激派が殺しているのですね。」
「”Christian Today”によると2020年の半年でナイジェリアでは1202人のクリスチャンが殺害され、数千人が負傷した。」
「教会も破壊されたり、放火されたりしていますね。」

「“オープン・ドアーズ”という迫害されているクリスチャンを支援する国際的な団体があるけれど、毎年ワールド・ウォッチ・リストというのを発表している。」
「キリスト教徒に対する迫害を行っている国のリストですね。50か国以上ありますね。」
「1位は北朝鮮だけど、ほとんどがイスラム教国。インド、ベトナム、中国も迫害国になっている。“オープン・ドアーズ”によると世界のクリスチャンの8人に1人が迫害国に住んでいる。JWはそれらの国にほとんどいないよ。」

「7から12節が“どんな体か”です。8節で“生きていた時と同じ体に復活させる必要はありません。”とあります。10節で“「天での体」で生き返らされることについて言っていたのです。(コリ一 15:42-44)”といっています。“天の体”って変な言葉ですね。」
「コリント一15:44は“地上での体があるなら,天での体もあります。”とあるけれど、英文は“If there is a physical body, there is also a spiritual one.”で地上だの天上だのは出てこない。a spiritual one(霊的な体)といっている。協会共同訳では“自然の体があるのですから、霊の体もあるわけです。”となっている。」
「日本語訳者は“霊”が嫌いですよね。悪霊とか聖霊は別な言葉に変えています。霊的な体は天上の体ですか?こんな勝手なことが許されるのですね。」

「JWの翻訳者には“霊の体”と言う意味が分からないのかも。人間は肉体と霊あるいは魂からなるという二元論はパウロにはない。古代の思想では霊も物質的なもの。ただ非常に細かい粒子からなると考えられていた。」
「要するに、パウロは復活した体は普通の肉体ではなく永続する朽ちない体に変容したものと想定しているわけですね。」
「コリント一15:50には“肉体は神の王国を受けることができず,朽ちるものが朽ちないものを受けることはありません。”とあるのは、変容した肉体だけが神の王国を受けることができるという意味。JWの復活観とは全然違う。」
「その変容は一瞬で起こるといっていますね。15:52には“ラッパが鳴ると,死者は朽ちないものとして生き返らされ,私たちは変えられるのです。”」
「そして、その後“「死は永久にのみ込まれる」と書かれている通りになります。”とパウロは言っている。」

「11節に“復活した時,「命を与える,目に見えない存在になり」,天に戻りました。”とあります。コリント一15:45からの引用ですが、これもへんな訳ですよね。」
「英文では“The last Adam became a life-giving spirit.”で、“命をあたる霊になった”とあるのに、霊をきらう日本語訳者が“目に見えない存在”と勝手に変えた。霊が目に見えないなんて決まっていないよ。」
「JW訳の聖書もひどいですが、その日本語訳はもっとひどいですね。聖書研究ではなく、匿名の翻訳者の思想を学んでいるだけですね。」

「13から16節が“死に対する勝利”です。13節では、キリストの臨在に関して“1914年以来,この聖書預言は確かに実現しています。”とインチキ教義を繰り返しています。」
「1914年から100年以上たったけれど、これからどうするのだろうね。いつまでも重なる世代でごまかせるとは思ってはいないだろうし。」
「14節では、“天に行くクリスチャンのうち,いま生きている人たちは,地上の歩みを終えると,すぐに天での命に復活させられます。”とあります。その根拠は,コリント第一 15:51,52だそうです。今はラッパが鳴っている時期なんだそうです。」
「JW独自の教義だね。天に行った人は今頃何をしているのかな?何もしていないよね。」

「13節の引照聖句のコリント一15:23は“最初にキリスト,その後,キリストの臨在の間に,キリストのものである人たちです。”とあります。油注がれた人だけが復活するなんて言っていません。」
「天上組と地上組に分かれて、天上組だけ特別扱いにするなんてことは聖書のどこにも書かれていない。JWの独自教義に過ぎない。」

「15節から啓示に飛びます。天で復活した人は“司令官であるイエスに従い,鉄のつえで国々を処罰します。(啓 19:11-15)”とあります。」
「聖句のつまみ食いだね。引照聖句の啓示19:14に“天の軍勢が,白くて清い上等の亜麻布の衣服を着て,白い馬に乗り,この方の後に従っていた。”とある。しかし、この天の軍勢がJWの言うように144000人のことだなんてどこにも書いていない。」

「最後の17節に“復活に対する確信が本当に強まります。そして,パウロの勧めに従って「主の活動」を熱心に行うように動かされます。(コリント第一 15:58を読む。)”とあります。その引照聖句には“主の活動をいつも活発に行ってください。”とあるのですが、これだとJWなら伝道をやれという意味と解釈してしまうと思うのですが、そういう意味ではないですよね。」
「英文は“the work of the Lord”で、“主の業”とか“主の働き”と訳すべきでしょう。元のギリシャ語のergonは非常に広い意味の言葉。それを“主の活動”と訳するのは伝道活動と理解するよう誘導しているね。」
「17節の設問が“コリント第一 15章58節から,何を行うように動かされますか。”なのです。どういうコメントを期待しているかミエミエですね。」
「どんな記事も結局、結論はもっと伝道せよ、になるということだね。」

「コリント一15:58は15章の最後の締めくくりです。15:32に復活がなければ“食べたり飲んだりしましょう。明日には死ぬからです。”という態度を生み出すとパウロは言っています。それに対して復活を確信した人はそういう生き方をしてはいけないし、しないはずだと言いたいようです。」
「15:34で“正しいことを行って,本心に立ち返ってください。罪を犯し続けてはなりません。”とコリントの人たちにいっている。最後の15:58の主の業に励めというのは、この15:34を言い換えたものだよ。」
「パウロは信者に伝道をせよなんてJWみたいな要求はしていませんよね。」
「していないね。要求しているのは統治体の老人だよ。」

#1279 2021年02月12日 17:56:40

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

「この朽ちるものは朽ちないものを着、この死ぬべきものは死なないものを必ず着ることになるからです。」(コリント二15章)

2000年前に信じられていたことなので仕方ないですが、パウロに続く最初期の教父たちの著作でも、天(天上界)とは、目に見えない、どこにあるかもよく分からない怪しげな霊界ではなく、キリストのようにそのまま空を上がっていくと上方にある、より空気が澄み切った清浄な世界だと考えられています。ナウシカの設定のように、大気の組成も異なるその清浄な世界に現在の朽ちる肉体は順応できないので、より上質な体を身にまとう朽ちない存在に、何でもできる神様が魔法のような力で瞬時に作り替えてくれることになっています。

福音書をありのままに読めばキリストも肉体で復活して昇天しているので、パウロの言うプニューマ(霊)の体とは、朽ちる肉体とは異なるが同じように見たり触ったりできる、天上界用に作り替えられた体のこと(地上界とも併用可)とされています。


JWの、キリストは復活後に、仮に、また便宜的に、物質化した体をつけていたにすぎない、という解釈は質問さんが指摘された通り霊肉二元論のグノーシスぽいですね。過去の天使も同じことをした(はず)と勝手な想像を言いますが、これもありのままに読めば旧約の初期伝承に出てくる子エホバたちも鳥のような翼は生やしておらず、はしごをつかって天上界と行き来して、人間と同じような体でヤコブとモンゴル相撲をしていますから。

#1280 2021年02月19日 15:23:35

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバは……落胆した人を救ってくださる(51)”で、ヨセフ,ナオミとルツ,あるレビ族の人,ペテロの話から、落胆しても、組織のために働けという内容です。」
「小学生向けの聖書物語から学ぶ教訓話だね。大人がわざわざ学ぶようなものじゃないだろう。この記事は、窓ふきJWの写真の方が話題になっているよね。」

「3から7節が“ヨセフはひどい扱いを受けた”です。ヨセフはJWお気に入りのキャラクターですね。」
「女性からの誘惑を退けたという点がいいのだろうね。性的に潔癖なことをJWは異常に高く評価している。しかしヨセフは特別な人。神がヨセフを助けたからと言って、今のJWを助けるなんてことはないよ。何の励ましにもならない。」
「物語としても面白いじゃないですか。甘やかされて育った生意気な若造が外国で人生の浮き沈みを経験し、最後はハッピーエンドです。」
「これを史実と考えるのがJWの問題点だ。」

「洞察の“ヤコブ”の所を見ますと“兄弟たちはヨセフをつかみ,エジプトへ向かう隊商に売りました。これは西暦前1750年のことです。”とあります。」
「エジプト第13王朝の時代だね。この時代はあまり資料がない。もちろんヨセフに関する資料もない。」
「創世記47:11に“ヨセフは,ファラオの命令通り,父と兄弟たちをエジプトに住ませ,最も良い地域であるラメセスにある土地を与えた。”とあります。ラメセスとはずっと後の時代のファラオじゃないですか?」
「ラメセスは第19代王朝のラメセス二世(在位前1292から前1224)を指していると理解されている。そうなるとヨセフは創世記47:11によればラメセス二世の後の時代ということになる。」

「創世記47:17に“ヨセフは,馬,家畜の羊,家畜の牛やろばと引き換えに彼らにパンを与えてゆき”とあります。ヨセフの兄弟たちが馬を飼っていたなんてありえるのですか?」
「JWの言うように前1750年頃だとするとあり得ない。ずっと後でもあり得ないね。馬は戦車を引くために飼われていた。」

「7節が“学べること。”で、“世の中は冷たく,私たちはひどい扱いを受けることがあります。兄弟姉妹に傷つけられることもあります。でも,エホバが岩であり避難所であることを覚えておくなら,失望したりエホバに仕えるのをやめたりすることはあり ません。”だそうです。要するに、ひどい目にあってもエホバに仕え続けろ、ということです。」
「英文では“this world is cruel and that people will treat us unjustly.”だよ。“冷たい”ではなく“冷酷”、また“ひどい扱い”ではなく“不当な扱い”なんだけど。」
「日本語翻訳者のほうが世の中を知っているということですね。JWの会衆より普通の社会のほうがまともです。それで表現をやわらげたんじゃないですか。」
「生活保護は誰のお金か思い出したのかもね。」

「8から13節が“深い悲しみを味わった2人の女性”で、ナオミとルツの話です。ルツ記ですが、本当の主役はナオミですよね。ナオミの方が苦労しています。」
「飢饉のため外国へ逃げて難民となる。その間に夫や息子を亡くす。」
「エホバは何をしているんだと言いたくなりますね。」
「何にもしていないよ。どうしてこの記事でナオミとルツの話を取り上げるのか疑問だね。ナオミだって、ルツ1:21で“私は多くのものを持って出ていきましたが,エホバは私が全てを失って帰るようにされました。全能者エホバが私をつらい目に遭わせ,不幸にされたのですから”と言っている。」
「もし外国で長年奉仕活動をしてきたJWがナオミと同じことを言ったら、排斥だ!といわれますよ。ナオミは勇気があるのか単にバカなのか、どちらなんでしょう。」
「勇気があるんだよ。ナオミは神様に頼ろうとか、エホバが必要なものを備えてくれるなんて甘い考えをしていない。」

「9節で“ボアズは,ルツが義理の母であるナオミに尽くして愛を示しているのを見て心を動かされ,ナオミの家族の相続地を買い戻してルツを妻として迎えます。”とありますが、これは違いますよ。」
「ボアズはルツが落穂ひろいをしている所を見て、いい女だなと気に入ったんだよ。収穫する監督にルツのことをあれこれ聞いて、特別扱いをする。それを聞いたナオミはボアズはルツに気があると判断し、おしゃれをして、“ボアズの足元の服をまくって横になりなさい。どうしたらいいかを教えてくれるわ。”と3:4でルツに指示を与えた。」
「これって、女の方から夜這いをするということですよね。大胆です。」
「ルツは“お母さんの言う通りにします”という。この夜這いにはルツとナオミの将来がかかっていることがわかっていた。いざとなれば女の方が度胸があるんだよ。」

「そして3:7では“一方ボアズは,食べたり飲んだりして楽しんでいた。そして,穀物の山のそばへ行って横になった。その後,ルツはそっと近寄り,ボアズの足元の服をまくって横になった。”とあります。夜這い成功というわけですね。」
「“横になった”と訳されている単語は、創世記39:7の“主人の妻がヨセフに目を留め,「私と寝て」と言うようになった。”の“寝る”と訳されている単語と同じで、性行為をさす。」
「その後、ルツは3:9で“どうか私を保護してください。あなたは買い戻す権利をお持ちですから。”といいます。これは結婚を迫っているのですよね。」
「ボアズは3:13で“朝までここで横になっていなさい”といって、3:14では“それでルツは,朝までボアズの足元で横になり,明るくなって人に気付かれる前に起きた。”とある。不倫小説そのものだね。」
「ルツの魅力と大胆な行動がボアズとの結婚を成立させたわけで、“ナオミに尽くして愛を示しているのを見て心を動かされ”というのは間違いですね。」

「11節に“2人の間に生まれた子オベデは,ダビデ王の祖父になります。(ルツ 4:17)”とあります。ルツ記の最後に家系図が出ているのですが、普通は後から付け加えたと考えられていますよね。」
「元の話はダビデと何の関係もなく、ただ苦労した女性が最後には幸せになりましたという話しだった。それを後の時代の人がそれをダビデと関係づけた。ダビデと関係ある話ということでルツ記がヘブライ語聖書に採用された。」
「家系図は、4:18の“ペレツの家系は”と始まります。ペレツはユダとタマルの子どもですよね。なぜペレツから始めるのですか」
「タマルは子どものいない未亡人。結婚相手を紹介してくれない義父のユダをだまして、ユダとの間に子どもをもうけた。タマルの話とルツの話が似ていることをこういう形で示しているんだよ。」

「13節が“学べること。”です。“天の父に全面的に頼り,兄弟姉妹たちから離れないようにしましょう。”とあります。同じ会衆のJWを頼れということでしょうか?全然頼りになんかできません。」
「ルツの話からそれが学べることじゃないでしょう。神に頼るな、苦境にあってもあきらめるな、ベストを尽くせ。そうすれば神の祝福がある。そうことだよ。」

「14から16節が“信仰を失いかけたレビ族の人”です。詩編73の話です。14節の上にあるのが、話題の写真です。」
「窓ふきJWが豪華なランチを食べている男女二組を窓越しにつまらなそうに見ているという写真だけど、アメリカではJWの職業として窓ふきなど清掃関係が多いそうだ。」
「こんなジョークを聞いたことがあります。ハルマゲドンが起こると失業する人は?答えはJW。なぜかというとハルマゲドンで拭く窓が割れてしまうから。」

「この写真はいろいろな所でからかわれているよね。レストランが営業時間中に窓ふきをさせることはないとか、JWなら昼間は働かないで奉仕活動をしなさい、なんて言われている。」
「レストランの窓を拭くのにスプレーのボトルを持っています。これはおかしいです。ゴム手袋をしていますが、あれは食器洗い用ではないでしょうか。服装もヘンです。何のリアリティもありません。」
「そんなことをいったら、レストランの客の座り方もヘンだよ。写真撮影用にテーブルの片側によって座っている。ウエイターがワインのボトルの真ん中を持っているのもおかしい。このニセモノ感はJWのニセモノ感そのものだ。」

「14節で、詩篇73の作者は“悪人や高慢な人たちがうまくやっているように見えて,ねたましく思ったのです。”とあります。写真の男女二組はそういう人と決めつけてよいのでしょうか?」
「JWの妬みに満ちた歪んだ目で見ればそう見えるんだろう。」
「詩篇73のテーマは善なる神がなぜ悪人が栄えるのを許しているのだろうか、というものですよね。」
「その答えは見つからない。ただ、悪は滅びると信じ、彼らをうらやましく思うのをやめると言っている。JWにもおなじみの精神的勝利法のひとつだね。」
「15節で、詩篇作者は“悪人が「滑りやすい土地」にいて,「恐ろしい結末」を迎えることも理解しました。”とあります。JWみたいな人です。」
「JWも自分たち以外をまもなく滅ぼされる人と考えて、みじめな自分たちの方が本当は幸せだと、無理に思いこんでいるんだよね。」

「16節は“学べること。”です。“悪い人がうまくやっているように見えても,ねたんではいけません。幸せそうでもそれはうわべだけの一時的なものであり,長続きしません。(伝 8:12,13)”とあります。」
「引照聖句の使い方が問題だね。伝道の書はそういう常識論には反対だよ。」
「伝道8:13は“悪人が良い結果を得ることはない。悪人が生きる日々は影のようで,長く続かない。神を畏れていないからだ。”とあります。これって伝道の書らしくないですね。」
「次の8:14では“地上でむなしいことが起きている。正しい人が,悪を行ったかのように扱われ,悪人が,正しいことを行ったかのように扱われている。私は,これもまたむなしいと言う。”とある。これが伝道の書の見かただよ。」
「8:12,13は後の時代での挿入ですか?」
「そう考える人もいる。別な人は、12,13は普通の見かたを紹介しただけと解釈する。つまり悪は長く続かない、そうよく言うよね、しかし・・・だよね、というつながりというわけ。」

「16節で“成功しているように見える悪い人たちをねたんでいることに気付いたなら,”とあります。成功している人=悪人というのがJWの考えのようです。そう思わないと精神のバランスが保てないのでしょう。」
「16節の終わりに“ほかの何よりもエホバを愛しているなら,本当に幸せになり,”とある。英文ではyou will find true happiness(真の幸福を見出すでしょう)。これもJW以外の人の幸福は偽物といっているのと同じだ。」
「エホバ一筋の高齢JWは幸福どころか、極貧の悲惨な生活の人が多いようですよ。でもそんな人でも、尋ねられれば、エホバのおかげで幸せな一生ですと言います。」
「過ぎた日々はもう戻らないからね。幸せだったと自分をだまして残りの人生を生きる方が楽なんだよ。JWとして一生を送るということは、現実逃避と自己欺瞞に終始した一生を送るということだね。」

「17から19節が“ペテロは自分の弱さのせいで落胆した”です。イエスを3度否認したことを言っているようです。」
「19節の“学べること。”では、“私たちも間違ったことをしてしまっても,もう許されないと考えるべきではありません。”とある。しかし、ペテロは特別だよ。ペテロに起きたから、今のJWにも起きるとは決まっていないよ。」
「イエスは許しても、組織は許しません。」

#1281 2021年02月26日 15:46:16

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“落胆に負けないようにする(52)”で、どんなに落胆しても、まじめに伝道しなさいという内容です。」
「JWであるということは辛いことだね。落胆した時くらい、ゆっくり休もうとなぜ言えないのかな。」
「そんなこと言ったら、JWはいつも休んでいます。」

「2節に“落胆の原因となるものはいろいろあります。”とあるけれど、JWが落胆するのはいつまでも終わりの日が来ないことが最大の原因だろう。つまりインチキ終末論のせい。どうして格言13:12の“期待がなかなか実現しないと落ち込むが,かなえられた望みは命の木である。”を引用しないのかな?」
「それを触れるわけにはいきませんよ。」
「今でも、終わりの終わりの終わりだとか言って終末論をあおっている。終末論宗教から脱却できない組織の失敗だよ。それを個人の問題にすり替えている。」

「3から8節が“不完全さや弱さに悩まされている”です。これが落胆の原因の1番目です。」
「3節の下の挿絵の説明が“エホバは,私たちが過去に行った良いことも今行っている良いことも知っている。”なんだけど、過去にどんなに良い行いをしても、悪いことを1回しただけで排斥になることがあるよね。ということは、過去の良い行いなんて大した意味はないわけだ。」
「JWは減点ゲームをしていて、良い行いでもプラスにはなりません。減点ゼロというだけです。しかし悪いことをすると減点100で、たちまちJWはゲームオバーになります。」
「それだからJWが落ち込みやすい。」

「4節がデボラとマリアの経験談です。“デボラは子供の頃よくけなされ,褒められることはほとんどありませんでした。そのため自尊心が低く,”とあります。これはJWの子どもによくある例ですよ。」
「JWは自尊心の低い人間を意図的に造り出しているからね。何かと言えば不完全とか罪人とか言うし、ルールの第1は服従だろう。子どもに対してはほめるより、叱る、罰を与えることを好み、従順さを最大の美徳とする。」
「自分のやりたいことを努力してやり遂げるとか、自分で目標を立てて、目標に到達するという喜びを経験したことがないですよ。やるべきことは周りから押し付けられ、自分の希望は押さえつけられるのがJWの子どもです。」
「そういう体験がなければ自尊心は育たないかもね。」

「マリアは“親族からけなされ,自分は役立たずだと思っていました。”とあります。これはJWの親族でしょうね。」
「集会や伝道を嫌がったのかな?それだけで人間としての価値を否定されるのがJWだよね。」
「過度にけなし、役立たずと思わせて、周りの人間に依存するように仕向けるのがカルトのやり方です。」
「そうだけど、子どもだとそれに気づくのは無理だね。」

「5節に“そしてエホバは,私たちが自分では気付かないような良い面も見てくださいます。(ヨハネ第一 3:19,20を読む。)”とあります。引照聖句はそんなこと言っていますか?」
「3:20に“神は私たちの心より大きく、全てのことを知っているからです。”とあるけれど、3:19は“そのようにして,私たちは自分が真理から出ていることを確信し,神の前で安心できます。”とある。問題は“そのようにして”があること。その意味は、3:13-18に書いてある。」
「3:18に“子供たち,口先だけの愛になってしまわないよう,行いによって誠実に愛を表しましょう。”とあります。」
「それで3:19は、行いと真実によって愛することによって、神の前で安心できるといっている。そうしているなら、“心に責められることがあっても安心できるのです。神は私たちの心より大きく・・・”と続く。」
「ヨハネでは神は無限に寛大なわけではないわけですね。」
「神は寛大だ。神の恵みは無限だ。しかし一番重要な掟であるお互いに愛することをしている限りというのがヨハネの思想だね。集会や伝道が最も大事なんて言う思想はもちろんないよ。」

「6節に“根深い悪い習慣をやめようとしている人が,逆戻りしてがっかりすることがあります。”とあるのですが、この記事では、こういう人をどうすべきなのかあいまいです。」
「そういう人は排斥し、家族でも無視する、で終わりでしょう。」
「そうは書かれていません。7節では、ある長老の言葉を引用して“間違いをするたびに心から悔い改める人こそ,エホバから見て正しい人です。”とあります。かといって、悔い改めれば許されるほど甘い組織ではないですよ。」
「それである長老の発言ということにしているわけだね。あくまでも個人の意見ですということ。一方、性犯罪者には甘すぎると非難されている。悔い改めたら性犯罪者もタブレットを持たせて各家を回らせるのかと聞かれたらどう答えるのかな?」

「8節では、“経験のある仲間に自分から話して,助けを求める必要があるかもしれません。”とあります。落胆している人は仲間に助けを求めよということですね。」
「しかし、問題はJWには守秘義務がないこと。誰かに相談したら、翌日には会衆の全員が知っているなんてことになりかねない。本当に大事なことを相談できる組織ではない。」

「9から13節が“病気で苦しんでいる”です。病気のJWは多いですよ。記事の内容は、病人をいたわるのではなく、いかに組織のために働かせるかに重点が置かれています。」
「病気は、さぼる言い訳にはならないぞと釘を刺している。いつものことだよ。」
「きちんとした医療を受けたくてもお金がかかることを心配して、インチキ民間療法にたよるJW が結構います。その点も気の毒です。」
「JWには無知無学な人が多いから、インチキ民間療法でも簡単に信じてしまうのだろう。」

「9節では、エホバは“例えば,兄弟姉妹が家事や買い物をしてくれたり一緒に祈ってくれたりするように導くかもしれません。”と書いています。いやらしい書き方ですね。」
「組織は命令はしたくないんだよ。何かあったら命令した方の責任が問われるかもしれないからね。それでエホバが・・・なんて言い方をする。宗教って便利だね。」
「JWが海外に奉仕活動に行くのも、あくまでも自発的に行きました、組織は知りませんということにしますよね。JWが海外で殺されても組織に非難が及ばないようにするために。」
「そのへんはアメリカの宗教ビジネスという感じだね。法的責任をいかに回避するかということにとても熱心。一方、信者の安全などには無関心だ。」

「9節では“もうすぐ新しい世界で完全な命を得て,病気も苦痛もなくなる,という素晴らしい希望”についても出ています。こんな希望を持たせることが病人にとっていいことなのでしょうか?」
「現実逃避だね。現実逃避の問題点は、それによって今自分が抱えている健康上の問題に真剣に向き合わなくなること。かえって寿命を縮めることになるよ。」

「11節のシンディの体験談はウソくさいです。命にかかわる病気になったけれど、医師や看護師に伝道することにした。とても感謝されたというものですが、社交辞令というのがわからない人なんじゃないですか?」
「“患者から気遣いの言葉を掛けられることはめったにない,と言うお医者さんや看護師もいましたし,感謝してくれる人もたくさんいました。”とあるね。JWらしい鈍感で厚かましい人間なんだろう。一応患者だから、冷たく扱わなかっただけだろう。」
「内心では迷惑なカルト信者と思っていたんじゃないですか。」

「翻訳だけど、“お医者さんや看護師”はへんだろう。“医師や看護師”でいいよ。なぜ医師だけがお医者さんになるのか理解できない。」
「JWは序列意識が高い人たちだから、医師と看護師で差をつけようと思ったんじゃないですか。」

「12節に“米国のローレルという姉妹は,鉄の肺の中で37年間過ごしました。”とあります。“鉄の肺”とは何ですか?」
「鉄の肺は、人工呼吸器。首から下を気密タンクの中に入れる。圧力を陰圧にしたり、元に戻したりして呼吸を助ける。1950年代まで用いられたようだよ。」
「ということはローレル姉妹の話はそうとう昔ですね。昔の話を何度も利用しているということですね。」
「病気なのに伝道活動に成果を上げたなんて言う例は他にないんだろう。」

「13節は、またある長老の言葉の引用です。“自宅や介護施設などから出られない兄弟姉妹”は“人目につく所に出版物を少し並べておくことをお勧めします。”だそうです。また。“手紙や電話で伝道することもできます。”とあります。」
「病気の人をいかに働かせるかという内容だね。介護施設でそんなことしたらいじめられないか心配だ。介護施設ではJWのことは忘れよう。」

「14から17が“望んでいる割り当てが与えられない”です。」
「英文では“割り当て”ではなく“特権PRIVILEGE”なんだけど。日本語翻訳者は特権という言葉は意識的に避けているね。」
「14節で、“ダビデ王の例から学べます。”とあって、“神殿の建設のために惜しみなく寄付をしました。素晴らしい手本です。”とあります。」
「露骨なおねだりだ。落胆しても寄付を忘れるなということだ。」
「組織が落胆している人を気にしているのは、寄付が減るかもしれないという心配からですね。」

「16節に“忠実な天使たちも良い手本です。悪いアハブ王の治世中に,エホバはどのようにアハブをだましたらよいか天使たちに意見を求めました。何人かの天使が意見を言いましたが,神は1人の天使の提案を採用しました。(王一 22:19-22)”と列王記一22章の話を取り上げています。神が“だます”ことをするとは驚きです。」
「“だます”と普通は訳さないけどね。JWの神様は平気でだますわけだ。」
「JWでは、偽りの父はサタンです、と教えていますけどね。そうじゃないわけですね。」
「それから、“天使”という訳はおかしい。英文では“a spirit”で霊だよ。忠実に訳そうよ。天使思想はバビロン捕囚以降にペルシャ宗教の影響を受けて発展するもの。時代が異なれば思想も異なると言いう当たり前のことを無視している。」

「18から20節が“区域の人たちが話を聞いてくれない”です。こんなことで今さら落胆するJWはいないですよ。時間さえ入れば、聞いてくれなくても気にしませんよ。」
「18節に“もっと楽しく奉仕するには”という囲み記事が紹介されている。親切だね。」
「余計なお世話です。どう工夫しようが、伝道はつまらない無意味な活動です。」

「20節に、エレミヤが、” それでも伝道し続けたのはなぜでしょうか。「エホバの言葉」がエレミヤの中で火のようになり,抑えられなかったからです。私たちも,神の言葉で心がいっぱいになっているなら,同じようになります。”とあるけれど、違うだろう。」
「エレミヤ20:9では“神の言葉は私の心の中で燃える火,骨の中に閉じ込められた火のようになりました。私はそれを抑えるのに疲れ,もう耐えられなくなりました。”とありますね。これは神の強制性をいっているわけですよね。」
「エレミヤは神の言葉など語りたくないけれど、神がそれを許してくれない。そういう境地ということ。アモスは“ライオンがほえた! 誰が恐れないだろうか。主権者である主エホバが語った! 誰が預言しないだろうか。”と3:8で言っている。これも預言というのは個人の選択の余地のないものであることを言っている。」

「JWの聖書レッスンをしても、エレミヤの心境になるなんてことはありません。」
「エレミヤの境地に近いのが、 “わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島山”と詠んだ幕末の志士・平野国臣だね。」
「これって、安倍前首相が総裁選のまえにツイッターに投稿していました。」

「20節の最後に“毎日聖書を学んでよく考えることは大切です。そうするともっと喜べるようになり,宣教も楽しくなるでしょう。(エレミヤ 15:16)”とあるけれど、引照聖句の使い方がへんだよ。」
「そこには“あなたの言葉によって私の心は喜びにあふれました。大軍を率いる神エホバ,私はあなたの名で呼ばれています。”とありますが、これはエレミヤの初めの頃の心境を言ったものですよね。その後、心境の変化が生じたのですよね。」
「15:18では“なぜ私の痛みは長引き,傷は治らないのでしょうか。どうしても癒えません。あなたは私にとって,信頼できないもの,当てにならない水源のようになられるのですか。”とエレミヤは不満を爆発させている。」
「文脈を無視して、都合のいい部分だけを取り出す。この部分はそういうJW流の聖書レッスンの実例というわけです。」

「最後の21節に“この記事に出てきたデボラは,「落胆はサタンが使う強力な武器の1つです」と言います。”とあるけれど、落胆はダメな宗教の一員なら当然の反応だよ。」
「こうみるとサタンって便利な存在ですね。」

#1282 2021年03月03日 07:04:37

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

困ったときの質問さん頼りですみません

一神教の起源 山我さんの
77ページ
創世記は、イスラエルの祖先アブラハムの故郷は「カルデアのウル」であったとする。ウルはメソポタミア最南部にあった世界最古の都市国家の一つで、前三○○○年紀前半にはシュメール文化の中心地として栄えたが、イスラエルの祖先がそこからやって来たということは、歴史的にはまずあり得ないことである。イスラエルの祖先が南メソポタミアからやって来たのであれば、彼らはシュメール語や少なくとも南東セム語を話したはずであるが、後のイスラエル人は北西セム語を話し、言語的・文化的にはカナン人やフェニキア人に近い。そもそも「カルデア」とは、前六世紀にユダ王国の生き残りの人々をバビロン捕囚にした新バビロニアの別名であり、「カルデア人」について歴史的に最初に言及があるのは、前九世紀のアッシリア人の文書においてである。したがって、遅くとも前二○○○年紀の半ばには存在していたはずのアブラハムが、「カルデアのウル」からやって来たはずはないのである 創世記で「カルデアのウル」について語る箇所は、前記の二箇所のみで、いずれもさまざまな理由から、創世記の中でもかなり遅い時期(バビロン捕囚以降)に書かれたものと考えられる。アブラハムが「カルデアのウル」を脱出するというイメージは、バビロン捕囚にある人々が、自分たちの帰郷の念を民族の祖先の姿に重ねたものであろう。

の記述についての真偽がよくわからないのですがまたご存知のことありましたら教えていただけたらうれしいです

オフライン

#1283 2021年03月03日 13:21:38

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

てつてつさんのご質問にお答えします。

イスラエルの祖先が南メソポタミアからやって来たのであれば、彼らはシュメール語や少なくとも南東セム語を話したはずであるが、後のイスラエル人は北西セム語を話し、言語的・文化的にはカナン人やフェニキア人に近い。

正しいでしょう。イスラエル人はカナン人とほぼ同じ言語を使い、文字もほぼ同じで、生活習慣や宗教もほぼ同じです。考古学的発掘調査でも、それがイスラエル人の住んでいた場所かカナン人の住んでいた場所か区別するは困難なほどです。そのため、イスラエル人はメソポタミアなど外部から移住してきたカナン人とは異なる文化を持った人たちではなく、カナン人の中から主に中央高地と呼ばれる場所に移り住んだ人たちとみられています。

カナン文明は前13世紀ごろ崩壊します。聖書以外でイスラエルという言葉がでてくるのは、メルエンプハタ碑文で前13世紀末の前1207年ごろです。カナンの混乱期に混乱を避けるため中央高地に移住し、前13世紀末にはほかのカナン人と区別され、イスラエル人と認識されるようになったようです。

メルエンプハタはエジプト王ですが、即位名はバエンラー・メリネチェルで「ラーの魂、神々に愛されしもの」という意味です。古代の中東では崇拝する神の名前を自分の名前に取り入れるという習慣があったことがわかります。それで名前はどのような宗教を信じているのかを知るうえで重要です。イスラエルは名前からエルを崇拝していたということになります。ヤハウエ系の名前が出てくるのはかなり後の時代です。

イスラエル人の本当の祖先はヤコブ(イスラエルに改名する)で、アブラハムとイサクの物語は後からヤコブ物語に付け加えられ、イスラエルの祖先にされとみることができます。

そもそも「カルデア」とは、前六世紀にユダ王国の生き残りの人々をバビロン捕囚にした新バビロニアの別名であり、「カルデア人」について歴史的に最初に言及があるのは、前九世紀のアッシリア人の文書においてである。したがって、遅くとも前二○○○年紀の半ばには存在していたはずのアブラハムが、「カルデアのウル」からやって来たはずはないのである。

旧約聖書ではカルデアはバビロンやそれに関連する事を指します。例えば、
イザヤ13:19、“最も輝かしい王国,カルデア人にとって美しく誇らしいバビロンは”、
エレミヤ24:5、“私は,捕囚にされたユダの人たち,この場所から私がカルデア人の土地に追いやった人たちを,”、
エゼキエル1:3、“カルデア人の土地,ケバル川のほとりで,エホバが祭司ブジの子エゼキエルに語り掛けた。”

創世記を読んだ古代のイスラエル人は、自分たちの祖先であるアブラハムはバビロンを脱出してきたのだと理解したと思います。

カルデアという言葉が最初に出てくるのは、アッシリア王アッシュールナツィルパル2世(アッシュール神は後継者を守護するという意味)の時代の文書(前860年)でKalduと表記されています。

前2000年頃とされるアブラハムがカルデアのウルから来たことはありえません。当時はカルデアという言葉は存在しません。江戸時代に東京という呼び名が存在しなかったのと同じです。そのころカレデアは“海の土地”と呼ばれていたようです。

創世記で「カルデアのウル」について語る箇所は、前記の二箇所のみで、いずれもさまざまな理由から、創世記の中でもかなり遅い時期(バビロン捕囚以降)に書かれたものと考えられる。

「カルデアのウル」は創世記には通常は3か所でてくると言います。
11:28 ハランは,出生地であるカルデア人の町ウルで死んだ。
11:31 カルデア人の町ウルを出てカナン地方に向かった。
15:7  私エホバは,この地方を与えるためにあなたをカルデア人の町ウルから連れ出した。
山我さんは初めの2つを一つと数えているようです。

あとネヘミヤ9:7に“あなたは真の神エホバで,アブラムを選んでカルデア人の町ウルから連れ出し,”とあるだけです。創世記以外で「カルデアのウル」という表現が出てくるのは、バビロン捕囚以降のネヘミヤ記だけということです。このような言い方はそれまでは知られていなかったという可能性が強いことになります。

アブラハム、イサク、ヤコブの族長物語は前7、8世紀頃の世界を描いているようです。今の形になったのはバビロン捕囚以降ということでしょう。

アブラハムが「カルデアのウル」を脱出するというイメージは、バビロン捕囚にある人々が、自分たちの帰郷の念を民族の祖先の姿に重ねたものであろう。

普通はそう考えられています。旧約聖書ではカルデアはバビロンを指します。古代のイスラエル人にとって、カルデアから来たアブラハムは、バビロンに捕らわれて後にカナンの地に戻ってきたイスラエル人を予表する人物と理解されたでしょう。

アブラハムの時代に「カルデア」というのは時代錯誤ですが、創世記の作者は神学的理由から「カルデア」をどうしても付け加えたかったのでしょう。

#1284 2021年03月03日 14:18:54

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん大変分かりやすい説明ありがとうございます ちょっと凄すぎです kiss

仰天さんというわけみたいです えっへん!まるで自分が答えたかのように tongue


追伸

>アブラハム、イサク、ヤコブの族長物語は前7、8世紀頃の世界を描いているようです。今の形になったのはバビロン捕囚以降ということでしょう。

フィンケルシュタインの発掘された聖書

52-53ページ

族長たちの物語にはラクダ、たいていはラクダの群れがたくさん出てくる。しかし、ョセフが兄弟たちによって奴隷に売られた物語においてのように(創三七・二五)、ラクダはまた隊商貿易において使われた荷物運搬用の動物として述べられている。私たちは今、考古学的調査によって、ラクダは二千年期後期以前に荷物運搬用の動物として家畜化されてはおらず、紀元前一○○○年の後しばらくするまで古代近東においてその用途で広く使われてはいなかったことを知っている。そして、ヨセフ物語における「樹脂、乳香、没薬」を運ぶラクダの隊商というさらに印象的な細部の描写は、紀元前八’七世紀のアッシリア帝国の監視の下で繁栄した、富をもたらすアラビア貿易の主要産物を明らかによく知っていることを示している...

だから、ラクダ、アラビアの物品、ペリシテ人、ゲラルという組み合わせは、創世記の族長物語で言及されている他の場所や国々とともに、ひじょうに重要である。すべての手がかりは、聖書が伝えるところの族長たちが生きていた時代よりも何世紀も後の編集時期を指し示している。これらの、そして他の時代錯誤的な事柄は、族長物語が集中して書かれたのが紀元前八、七世紀の時代であったことを示唆している。


>アブラハムの時代に「カルデア」というのは時代錯誤ですが、創世記の作者は神学的理由から「カルデア」をどうしても付け加えたかったのでしょう。

375ページ
創世記の最後の編集者たちは単なる比嶮に満足しなかった。彼らはどれほどイスラエルの人々の起源が文明世界のまさに中心にあったかを示したかった。それゆえ彼らは、彼らの周りの未発達で、教養のない地域に現れたより劣った人々とは違い、イスラエルの民の偉大な祖先はウルという国際的で、名高い都市の出身であったことをほのめかしている。アブラハムがウル出身であることはばらばらの二つの節でのみ言及されているが(P資料である創二・二八と三一)、彼の物語は北シリアにあるアラム人の都市ハランにもっと重点を置いているように思われる。しかしその簡潔な言及でさえ十分であった。アブラハムの出生地としてのウルは、一般に思われている民族の先祖の故国としてひじょうに大きな名声を与えたであろう。ウルはひじょうに古く、そして学問の場所として有名であっただけでなく、それは、紀元前六世紀中期にバビロニア人の、あるいはカルデア人の王ナボニドゥスによって宗教センターとして再建された時代に、全地域的に大きな名声を得た。それゆえ、アブラハムが「カルデアのウル」で生まれたことへの言及はユダヤ人に古くからの有名な文化的起源を提供しただろう。

編集者 てつてつ (2021年03月04日 07:33:33)

オフライン

#1285 2021年03月04日 13:15:37

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

またまたすみません

仰天さんの北部のウル説についてどう思われるでしょうか?
自分にはまず聖書ありきの無理やり感があるのですが cry
山我さんやフィンケルシュタインさんも知っていると思いますが全く言及してないのでかなりマイナーな説とか

質問さんでもハム太郎さんでもその他ご存じの方おられましたら書き込みよろしくお願いいたします

編集者 てつてつ (2021年03月04日 15:20:34)

オフライン

#1286 2021年03月05日 12:05:11

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

てつてつ さんの発言:

仰天さんの北部のウル説についてどう思われるでしょうか?

てつてつさんの質問にお答えします。

まず仰天さんの主張ということですが、仰天さんがどこにそんなことを書いてあるのか探すのに苦労しました。「#○○○〇に書いてある」と付け加えてもらえるとありがたいです。#2189に見つけました。

仰天 さんの発言:

  アブラハムの故郷ウルは、南部のシュメールの首都ウルとは異なる、メソポタミア北部の都市ですから、南部のウル説をとっている山我さんの出す結論も誤りです。
北部のウルなら聖書と合致しています。

「アブラハムの故郷ウルは、南部のシュメールの首都ウルとは異なる、メソポタミア北部の都市」という証拠はありません。てつてつさんのおっしゃる通りのマイナーな説です。

「北部のウルなら聖書と合致しています。」とありますが、聖書の何と一致しているのでしょうか?南ではだめで北だとよい、というのはいったい何なのでしょう?理解できません。自分の正当性を信じてもらうための強弁でしょう。

ウルはどこにあったのかは不明です。ここがそうだという決定的な証拠などありません。ただ一番可能性が高いのは南の方のウルと多くの人が判断しているということです。

仰天さんの書いてあることは、特に気に留める必要はないでしょう。

仰天さんが、リンク先に挙げているブログを見ますと、南ではなさそうだから北ではないかという程度の根拠しか書かれていません。

「アブラハムの時代にはすでにカルデヤ人の影響が強かったメソポタミヤ北部にも、ウルという地があることが分かってきた以上、正確な場所は今後の発掘にゆだねるにしても、この北部のウルをアブラハムの出立の地としない理由はありません。」

と主張していますが、「アブラハムの時代にはすでにカルデヤ人の影響が強かったメソポタミヤ北部」とは何を証拠に言っているのか疑問です。

アブラハムの時代は前2000年頃を指すのでしょう。そのころカルデア人という名称はありません。カルデアという名称が出てくるのは前9世紀です。

カルデアとは、もともとイラク南部のペルシャ湾沿岸の沼地や平地を指す言葉(mat Kaldu)で、後にそこに住む人たちを指すようになった言葉なので、メソポタミア北部とは関係は薄いです。

イスラエル人の祖先がどのような人であったかは聖書の中でもあいまいです。申命記26:5には“私の父祖は各地を転々とするアラム人で、エジプトに下り,少数の家族と一緒に外国人としてそこにとどまりました。しかしそこで,強くて数が多い,強大な国民になりました”とありますが、“私の父祖”というのはヤコブのことで、ここではヤコブはアラム人と主張しています。アラム人とは今のシリアやその周辺に住んでいる人たちのことです。

しかし、聖書以外でアラム人が初めて出てくるのは前12世紀のアッシリアの文書です。ヤコブのいた時代にはアラム人という名称はありません。申命記をモーセが書いたとすると、モーセの時代にもアラム人という名称は存在しません。これは19世紀に書かれたと主張している文書の中で、ロシアに住む人たちをソ連人と呼んでいるようなものです。ソ連人といういい方はロシア革命以降の言い方です。

創世記14:13には“逃げ延びたある人がヘブライ人アブラムの所にやって来て”とあり、アブラムがヘブライ人となっています。アブラムはヘブライ人でしたが、孫の代になるとアラム人に変わったようですね。

#1287 2021年03月05日 13:24:09

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

大変失礼しました 質問さんありがとうございます やっぱりそうだったのですね 安心しました kiss

>「北部のウルなら聖書と合致しています。」とありますが、聖書の何と一致しているのでしょうか?南ではだめで北だとよい、というのはいったい何なのでしょう?理解できません。自分の正当性を信じてもらうための強弁でしょう

南のカルデアのウルだとすると明らかにアブラハムの時代と大きくずれてしまいそれをくつがえすことはできそうにないので 北部のウルならその点は逃げられるという意味で聖書と合致しているのだと思います cry

編集者 てつてつ (2021年03月05日 21:03:16)

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#1288 2021年03月05日 15:53:19

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“平静を保ち,エホバを信頼しましょう(1)”で、不安のコントロールの仕方を学ぶという内容です。イザヤ35:15の“平静を保ち,信頼するなら,力を得る”が今年の年句だそうです。」
「英文では“Keep Calm and Trust in Jehovah”だけど、“Keep Calm and ・・・”というのは、英語のスローガンとしてよくあるものなんだ。戦争中のポスターに“Keep Calm and Carry On”というのがあって、そのパロディーがたくさんある。最近だと、Keep Calm and Wash Your Hands”(平静を保ち、手を洗おう)というのがあったね。」
「JWも戦争中のスローガンを真似していると思われますね。」
「JWの年句なんて誰も気にしないでしょう。」

「3から5節が“不安を感じる原因”です。JWであることが、不安の最大の原因だと思いますが、それは無視ですね。」
「3節に“食べ物や服の値段が毎年のように上がっていくのを抑えることはできません。”とあるけれど、本当は“衣食住の値段”だよ。“住”を忘れているよ。」
「“food, clothing, and shelter”とありますが、“shelter”が“住”のこととわからなかったので、訳さなかったんですよ。わからない単語は飛ばしたんでしょう。」
「“food, clothing, and shelter”は、”衣食住“という慣用句だよ。こんなことも知らないで翻訳をしているのかな。」

「3節では“こうした問題が起きる のは,この世界のほとんどの人たちが聖書の教えと合わない考え方をしているからです。”といっていますが、違いますね。」
「食料品の値段が上がるのは生産量が減ったからとか輸送費が上がったからじゃないの?値段が上がったり下がったりすることと聖書の教えは関係ないよ。」
「物価上昇を心配するのはお金のない人です。JWは低学歴低収入の生活をするよう組織から圧力をかけられています。JWが物価上昇に不安を感じるとすれば、組織のせいです。」
「JWの不安感を取り除き、生活をよくするのは簡単だよ。JWを辞めて、無意味な宗教活動のかわりに、真面目に仕事をすればいいだけ。聖書を読まなくてもわかることだよ。」

「“「今の体制での心配事」は,エホバに仕える妨げとなります。”とあります。これが組織が心理療法のまねごとをしようとしている理由です。」
「信者のメンタルヘルスより、心を病むことによる伝道活動の低下を心配しているわけだね。」

「5節に“イエスは弟子たちに,「心配するのをやめなさい」と言いました。(マタ 6:25)”といって、その意味を“イエスは私たちに,生活していくのに必要なもののことを心配し過ぎて,神に仕えることを二の次にしてはいけない,と言っていたのです。”と説明しています。しかし、そんなことは言っていません。」
「マタイ6:25は“命は食物より,体は服より大切ではありませんか。”で終わる。これは、命や体というとても価値のあるものを与えてくれた神様が、食べ物や服のようなちっぽけなことを与えてくれないはずはないでしょう。だから、食べ物や服のことで心配するのをやめなさいといっている。心配過ぎると神に仕えるのに妨げになるから心配するなとは言っていない。」

「6節からが“平静を保つのに役立つ6つの方法”です。6節は“(1)いつでも祈る。”です。7節では“具体的に祈るなら,エホバが答えてくださる時,そのことがはっきり分かります。祈りに対する答えがなかなか得られないように思えても,諦めないようにしましょう。”とアドバイスしています。」
「祈りというのはお願い事ね。あれが欲しいとかこれをしてくれと具体的に祈るわけだ。そして、祈りに答えてもらった事例を集めようということだね。」
「850万人の人が祈れば一人や二人偶然で祈りに答えてもらったと感じる人はでてきますよね。」
「一人や二人じゃないよ。10万分の一の確率でも85人はいる。」

「9節が“(2)自分の知恵ではなく,エホバの知恵に頼る。”です。」
「10節に、具体的にエホバを頼るというのはどういうことかが出ている。これがへんなんだ。」
「給料の高い仕事を断る、JW以外の人との交際を断る、とありますね。」
「要するに、組織の言いなりになってJWの小さな世界にひきこもれば、エホバに頼っていることになるわけだ。」

「11節が“(3)良い例や悪い例から学ぶ。”です。12節に“私たちが正しいことのために苦しむ時,エホバは私たちのことを喜び,聖なる力を与えてくださいます。そのことを聖書の中で約束してくださっています。(ペテロ第一 3:14; 4:14を読む。)”とあります。引照聖句はそんなこと言っていません。」
「そこでは“キリストの名のために非難されているなら,”とある。JWはキリストではなくエホバの名のために非難されている。この聖句とは無関係だよ。」

「12節では“将来厳しい迫害を受けた時にどうしたらよいかとあれこれ考えないようにしましょう。”と危機感をあおっています。JWのような弱小宗教のことなどほとんどの国では気にしていません。問題になるのは犯罪をおかしたり、裁判所の命令に従わなかったりしているからです。」
「統治体はけっこう妄想的なようだから、全世界の国がロシアの様にJWを刑務所にぶち込むと本気で思っているかもよ。」
「そういう被害妄想はウィスキーの飲みすぎによって悪化するんじゃないですか?ベトナム戦争帰りのモリスがおかしな妄想を抱かないか心配です。」

「13節でアサ王が悪い例として取り上げられています。」
「引用されているのが全て歴代誌なんだけど、歴代誌は史実性は乏しいものだよ。例えば歴代誌二16:1に“アサの治世の第36年,イスラエルのバアシャ王はユダを攻め”とあるけれど、列王一16:8,10では“バアシャの子エラは,ユダのアサ王の治世の第26年に,ティルツァでイスラエルの王になった。彼は2年治めた。”、“ジムリはやって来てエラを殺し,代わりに王になった。ユダのアサ王の治世の第27年のことである。”とある。」
「つまりパアシャ王はアサ王の26年目には死んでいて、その後継者のエラ王は27年目に死んでいるわけですね。それなのに歴代誌ではアサ王の36年目に攻め込んできていることになっているわけですね。10年計算を間違えたんじゃないですか。」
「それからアサ王の軍隊がエチオピア軍100万人皆殺しというバカバカしい話も歴代誌の話。」
「歴代二15:19には“アサの治世の第35年まで戦争がなかった。”とありますが、列王一15:16には“アサとイスラエルの王バアシャの間には戦いが絶えなかった。”とありますね。」

「それ以外にも、歴代誌は数字がいいかげんだね。列王一7:15に“彼は2本の銅の柱を鋳造した。それぞれの柱は,高さ8メートルで,”とあるけれど、歴代誌二3:15では“長さは15.6メートルで,”と2倍の長さになっている。」
「列王一9:23に“ソロモンの工事を取り仕切る代官の長,工事をする民の現場監督が550人いた。”とありますが、歴代誌二8:10には“ソロモン王の代官の長,民の現場監督が250人いた。”とあり、今度は約半減しています。」
「数字に関しては神の霊感が働いていないようだね。」

「14節にある、アサ王からの教訓は、“自分で解決できると考えて自信過剰になると,聖書に書かれているエホバの導きに頼らなくなってしまいます。”です。これも、自分で考えるな、組織に頼れというカルト的な教訓ですね。」
「何かに取り組むとき、自分で解決できるという自信は必要だよ。英文には“自信過剰”ではなくて、単に自信confidentだよ。自信を持つことを罪悪視して否定してしまうと、周囲ばかり気にして、何も一人では決められないJWによくいる人間が出来上がると思うよ。」

「15節が“(4)聖書の言葉を覚える。”です。これは役に立ちそうですよ。」
「いい聖句があったらメモしておくのだそうだ。例えば伝道7:12の“お金は身の守りであり,知恵も身の守りである。”なんていいよね。貯金箱にこの聖句を書いておこう。」

「16節が“(5)神に仕えている人たちとの交友を楽しむ。”です。“友からの「良い言葉」は,不安な気持ちを和らげるのにとても役立ちます。(格 12:25)”とあります。」
「友人は大事だよね。でも格言19:4には“富は多くの友を引き付け,貧しい人は友にも見捨てられる。”とあるよ。お金さえあれば友達なんかいくらでもできるよ。友よりお金の方が大事だね。」

「17節が“(6)希望を強く保つ。”です。“王国についての希望は「命のためのいかり」のようなものです。”とあります。ヘブライ6:19の引用なのですが、ヘブライは王国の希望なんて言っていますか?」
「ヘブライは神の王国について関心はないね。」
「ということは、ヘブライ6:19の“この希望”というのは“王国についての希望”ではない?」
「それらしきことを言っているのはヘブライ12:28の“それで,私たちは決して揺り動かされない王国を授けられることになっているのですから,”だけ。しかも、この日本語訳はへんなの。英文ではwe are to receive a Kingdomで現在形。日本語訳だと未来形だ。」
「JWの日本語翻訳者は神の王国といえば未来のことと思い込んでいるから、こんな間違いをするのですね。」
「新約聖書では、神の王国は今来ているという考えと未来のことという考えが並列的にあるというのが基本なんだけどね。JWはそのへんがわかっていない。」

「17節では“エホバは,不安や心配のない将来を約束しています。そのことをじっくり考えましょう。(イザ 65:17)”とあります。これも引照聖句の誤用ですね。」
「“私は新しい天と新しい地を創造している。以前の事柄は思い出されることも,心に浮かぶこともない。”というものだけど、イザヤ65章はイスラエルの復興について言っているもので、ハルマゲドン後の楽園について言っているわけではない。」
「イザヤ65:20には“100歳で死んだ者も少年と見なされるのである。”とあります。JWのように永遠の命なんて言っていません。ただ長生きすると言っているだけですね。」

「“つらいことが全くない,平和な新しい世界で生活している自分の姿を思い描いてください。(ミカ 4:4)”とあるけれど、ミカ4:4も楽園のことを言っているわけではないよ。」
「ミカ4:3は“国は国に向かって剣を振り上げず,彼らはもはや戦いを学ばない。”とありますが、ここでは国家が存在していることが前提ですよ。楽園ではありません。」
「旧約聖書に地上の楽園が到来するというJW的な考えはないの。楽園のような描写は復興した新しいイスラエルのことだよ。」

「最後の18節は、“この体制の終わりが近づくにつれて,不安や心配を感じさせるような問題は増えていくでしょう。”と不安をあおって終わりです。」
「それでこそJWらしいね。2021年度もカルト色をどんどん強めて、奇想天外な記事を書きまくって欲しい。多少知性のあるJWなら、この宗教のおかしさに気づくかも。」

#1289 2021年03月06日 03:12:29

またい
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書って、行動の規制じゃなくって、自由だ。

#1290 2021年03月06日 21:09:46

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

またまたまた質問さんにお聞きします cry
仰天さんの♯2203の主張と山我さんの主張とどちらが正しいと思われるでしょうかご意見あれば教えていただければうれしいです


仰天さん>さて、いと高き方(エルヨーン)とヤハウェが聖書で区別されているでしょうか。
詩編/ 047編 003節
「主はいと高き神、畏るべき方/全地に君臨される偉大な王。 」
主(ヤハウェ)がいと高き方であると述べています。区別されていません。

自分はこの場合 詩編/ 047編 003節と申命記/ 32章 08節は関係ないと思うのですが


仰天さん>では、申命記の「神の子」または「神々」と訳される者の数に従って境を設けられたという表現はヤハウェ以外の神を認めた表現なのでしょうか?
そうではありません。聖書では、天使もイスラエル国民も、つまり人間も神の子と呼ばれています。....
脱線しましたが、では、申命記の神の子とは何を表すかというとイスラエル人です。
その事はホセア書から分かります。
ホセア書/ 02章 01節
「イスラエルの人々は、その数を増し/海の砂のようになり/量ることも、数えることもできなくなる。彼らは/「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)」と/言われるかわりに/「生ける神の子ら」と言われるようになる。 」
また、イスラエル人ではありませんが人間を神の子と呼んでいる点としてアダムの場合があります。
他の翻訳では分かりにくいのですが新改訳ではこうなっています。
ルカ3:38
「エノスの子、セツの子、アダムの子、このアダムは神の子である。」
つまり、新しい訳である協会共同訳の意味でよいのです。
申命記/ 32章 08節
いと高き方が相続地を諸国民に継がせ/人の子らを分けられたとき/イスラエルの人々の数に合わせて/それぞれの民の境を設けられた。
「神の子」は「イスラエル人」であり、聖書は、ヤハウェのほかに神々が存在する事は示していないわけです。

自分>上記の主張も 申命記/ 32章 08節 とは関連がないと思います 山我さんはここで使われている神とか主などの原語 エル エロヒーム エルヨーンなどの言葉から全体を推測していると思います

山我さんの本122ページ
神名は原語に戻し、新共同訳の意訳を多少修正しながら引用してみよう。...
エルョーンが国々に嗣業の地を分け、人の子ら〔人類〕を割り振られたとき、神の子らの数に従い、国々の境を設けられた。ヤハウェに割り当てられたのはその民、ヤコブが定められた彼の嗣業。申命記/ 32章 08節

ティンデル聖書注解 352ページ でも申命記/ 32章 08節

歴史の初めに「いと高き方」(エルョーン)は、諸国民に土地の分け前を割り当てて、彼らの祖国とさせた(創世10章)。またイスラエルの人数に従って、諸国民の境を決めた。この時点で、本文の伝承の間に不一致が見られる。七十人訳は「神の子らの数に従って」と読んでいるのに対して、マソラ本文は「イスラエルの子ら」と読んでいる。クムラン第四洞窟で発見された断片は、七十人訳と一致し、マソラ本文には一致しない。マソラ本文は原文を修正して、国々の数がイスラエルの子らの数に対応するような計画を神が定めた、という意味になるようにしたと思われる。しかし、もし七十人訳の読み方に従うならば、監督をする天的な存在、ある種の守護天使がいるという考えが考慮されているようだ。

と自分には 山我さんと同じような考えを書いているように思います



仰天さん>詩編/ 082章 006節
私は言った/「あなたがたは神々。/あなたがたは皆、いと高き方の子。
旧約聖書の中では、モーセや権威を与えられた者をエロヒム(神)と呼んでいる例がありまして、これはガッツだぜさんも示しておられたように、裁判官的な意味もあって人にも用いられています。
神から権威が与えられているので神と呼んでいるに過ぎませんね。
山我さんが挙げている問題の箇所も文脈を見ると神々の存在について語っているのではないのは明らかです。
通常、この箇所は、悪を行なう不正な「裁き人」に対して語っているとの理解であり、悪を行なって自分を神のように考えて振る舞う不正な裁き人に対する皮肉で「あなた方は神々だ」と述べられているのです。
つまり、ここでいう「神々」とは「裁き人」を指しておりヤハウェのほかに神々が存在するというような意味とは全く異なります。

山我さんの本の124-6ページから

この詩編はいわゆる「エロヒーム歌集」に属し、「ヤハウェ」の語を避けており、単複同形の「エロヒーム」の語が異なる意味に用いられているので、分かりにくい面があるが、最初に単数形の動詞で「立ち」、「裁きを行う」と言われている「神(エロヒームとがヤハウェであろう。彼が、その他の「神々(エロヒーム)」を裁いているわけである(1節)。「神々」には、裁判官的な職務が委ねられているらしい。しかし彼らの「裁き」方は「不正」で「邪悪な者」に有利なものであった



ここでもまた、神名は原文に戻して、新共同訳を多少修正しながらまず引用してみよう。
神(エロヒーム)はエルの会議の中に立ち、
神々(エロヒーム)の間で裁きを行われる。
...
わたしは言った。「あなたたちは神々(エロヒーム)だ。皆、エルョーンの子らだ。
しかし、あなたたちは人間のように死ぬ。君候の一人のように没落する。」
神(エロヒーム)よ、立ち上がり、地を裁いてください。
あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。

内容から見れば、最初の七節(1-7節)は詩編作者が見た一種の天上界の幻であり、最後の節(8節)はその幻に基づき、幻の中で語られたこと(神による全地の裁き)が実現するように、という詩編作者の祈りと嘆願である。幻の内容は、一人の権威のある語り手が、正しく職務を果たさない裁判官たちの不正と怠慢ぶりを叱責告発し、それに対する制裁を宣告しているような場面であるが、異様なのは、叱責している側も「神」(「エロヒーム」、動詞は単数)で、叱責を受けている側も「神々」(「エロヒーム」、「〜の間で」、「あなたたち」から複数形と解される)だということである。すなわち、それは「エルの会議」(新共同訳がなぜ「神聖な会議」と訳したのかは不明である)での出来事なのである。...
ここには、他の国々の「神々」が「神」の名に値するものではなく、8節の祈りにも表現されているように、ヤハウェ(のみ)が全世界の裁き手であるという、かなり進んだ神観が前提とされている。したがってこの詩編は、時代的にはそれほど古いものではないと考えられる。それにもかかわらず、この詩編には、「エルョーン」とヤハウェと「神々」の関係についての古い観念の痕跡が残されているように思われるのである。


追伸 カナン神話とヘブライ叙事詩 99ページ

***は何語か不明

詩編八二・一の****という表現を「エールの議会」と見る仮説が提出されているが、そうすると、その詩編は(エロヒスト的な詩編のエローヒームを改訂して)ヤハウェがエールの議会のうちにいるのを表現するものと解される。その個所を、今述べたように解して、明らかにエールがヤハウェの固有名と見なされる古い詩に帰属させるという考えには疑問が残る。しかし、《***》がカナン神話における名称であることは明らかである。その名称はウガリットでは(***)「エールの議会」という形で出て来る。


聖書においては、イスラエルの神ヤハウェとエールとの区別を十分意識して、エールを、イスラエルのものでなく、カナンの神の固有名詞として用いる例は、きわめて稀である。これはきわめて顕著な事実である。


あと ウガリット神話も関係しているようでその神話も時代とともに変化しているのでこの問題はかなりむずかしいみたいです  多分この問題は永遠にはっきりと解明されることはないと思いますが 聖書にあるような仕方でヤハウェ一神教がもたらされたのではないことだけはわかると思います

編集者 てつてつ (2021年03月08日 08:19:16)

オフライン

#1291 2021年03月08日 16:06:53

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

てつてつさんの質問にお答えします。仰天さんの主張はJWの主張とそれほど変わりはないので、JWになじみのある人はわかりやすいと思います。

てつてつ さんの発言:

  仰天さん>さて、いと高き方(エルヨーン)とヤハウェが聖書で区別されているでしょうか。
詩編/ 047編 003節
「主はいと高き神、畏るべき方/全地に君臨される偉大な王。 」
主(ヤハウェ)がいと高き方であると述べています。区別されていません。

自分はこの場合 詩編/ 047編 003節と申命記/ 32章 08節は関係ないと思うのですが

てつてつさんの言うことが正しいと思います。申命記32:08は歴史的にかなり早い時期のもので、初期の宗教観がうかがえるものですが、詩編47はずっと後の時代のものです。後の時代のものに書かれていることから、時間をさかのぼって遡及的に前の時代のものを説明することはできません。

エルヨーンが初めて出てくるのは創世記14:18です。“サレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持ってきた。メルキゼデクは至高の神に仕える祭司だった。”とありますが、“至高の神”がエルヨーンです。メルキゼデクはヤハウェ崇拝者ではなく異教の人です。サレムは後のエルサレムのことですが、イスラエル王国成立前はサレムがエルヨーン崇拝の中心地だったことになります。

メルキゼデクは14:19で“至高の神(‘el·yō·wn lə·’êl エルヨーン・ラ・エル),天地を造った方によって,アブラムが祝福されますように。”というのですが、“至高の神”とう訳はおかしくて、エルヨーンだけで至高の神(エルを固有名詞ではなく一般名詞とした場合)と訳せますので、正しく訳すと“神の中の至高の神”です。Fisherという人の説によりますと、この部分は“天と地の神々の親”という意味になります。

つまりメルキゼデクの仕えるエルヨーンはヤハウェではないということです。それが後にヤハウェと同一視されるようになり、ヤハウェ・エルヨーンといういい方が特に詩の中で使われるようになったとのです。


てつてつ さんの発言:

仰天さん>では、申命記の「神の子」または「神々」と訳される者の数に従って境を設けられたという表現はヤハウェ以外の神を認めた表現なのでしょうか?
そうではありません。聖書では、天使もイスラエル国民も、つまり人間も神の子と呼ばれています。....
脱線しましたが、では、申命記の神の子とは何を表すかというとイスラエル人です。(略)

自分>上記の主張も 申命記/ 32章 08節 とは関連がないと思います 山我さんはここで使われている神とか主などの原語 エル エロヒーム エルヨーンなどの言葉から全体を推測していると思います

申命記32:8、9は、JW訳では“至高者はさまざまな国民に土地を与えた時,アダムの子たちを互いに引き離した時,さまざまな民の境界を定めて,イスラエルの子たちの数を考慮した。エホバの民はその方のもの,ヤコブはその方の財産だからである。”

仰天さんの主張はJWと同じです。“イスラエルの子たちの数を考慮した。”とあります。

一方、これを山我さんは“エルョーンが国々に嗣業の地を分け、人の子ら〔人類〕を割り振られたとき、神の子らの数に従い、国々の境を設けられた。ヤハウェに割り当てられたのはその民、ヤコブが定められた彼の嗣業。”と訳しています。

山我さんのように考えるのが最近の考え方です。この部分は初期の宗教観をあらわしているもので、多神教的世界を想定しています。神々の中で最高神はエルヨーンです。創世記14:19と同じ思想です。これはJWのような人たちの宗教観と一致しませんので、一致するように訳を変えるわけです。

エルヨーンは、クロスの「カナン神話とヘブライ叙事詩」にありますように、“エルヨーン神”、“エル・いと高きもの”、“至高の神”のどれかの意味とされます。この場合は“エル・いと高きもの”でしょう。

この部分は、エルヨーンがそれぞれの神々に民と土地を割り当てたのですが、ヤハウェにはヤコブとイスラエルの土地が与えられたと主張しているのです。また、外来の神であるヤハウェがカナンの神々の一員であるという主張が言外に含まれています。

これは、初めカナンの中央高地(イスラエル)では、多神教で主にエルを崇拝していたが、後からヤハウェ宗教が伝搬し、エルとヤハウェが同一視されるようになったという最近の研究成果に一致しています。

原文の“神の息子たち”がイスラエル人を指すのかという問題ですが、マソラ本文は“イスラエルの子たち”となっているので、“イスラエルの子たち”と訳している聖書が多いわけです。仰天さんの言うように“神の息子たち”がイスラエル人を指すと解釈して“イスラエルの子たち”となっているわけではありません。

しかし、死海文書には“神の子ら”とあったことから、本来は“神の子ら”だったが、“神の子ら”だとあまりにも多神教的なので“イスラエルの子たち”に書き換えたと推測されています。

出エジプト12:12では“エジプトの全ての神々を裁いて処罰する”とあります。多神教を前提としたこの節の解釈は難しいものだったのですが、申命記32:8,9と同じ宗教観とすれば、このときエジプトに割り当てられた神々は処罰されていなくなったという意味ということになります。

70人訳では“神の天使たち”となっており、やはり人間ではない天的存在と理解していたことがわかります。天使が各地に割り当てられたという思想はダニエル書にも登場します。ダニエル10:13“ペルシャの領土の長が21日間,私の前に立ちはだかりました。そこへ主立った長のひとりミカエルが助けに来てくれて”とあり、ダニエル10:20“私はペルシャの長と戦うためにすぐ戻らなければなりません。私が去ると,ギリシャの長が来ます。”とあり、各地に天使がいてお互い戦っていることが想定されています。


てつてつ さんの発言:

  仰天さん>詩編/ 082章 006節
私は言った/「あなたがたは神々。/あなたがたは皆、いと高き方の子。
旧約聖書の中では、モーセや権威を与えられた者をエロヒム(神)と呼んでいる例がありまして、これはガッツだぜさんも示しておられたように、裁判官的な意味もあって人にも用いられています。神から権威が与えられているので神と呼んでいるに過ぎませんね。(略)

山我さんの本の124-6ページから
この詩編はいわゆる「エロヒーム歌集」に属し、「ヤハウェ」の語を避けており、単複同形の「エロヒーム」の語が異なる意味に用いられているので、分かりにくい面があるが、最初に単数形の動詞で「立ち」、「裁きを行う」と言われている「神(エロヒーム)」がヤハウェであろう。彼が、その他の「神々(エロヒーム)」を裁いているわけである(1節)。「神々」には、裁判官的な職務が委ねられているらしい。

詩編82の解釈は伝統的には、神々とよばれているのは仰天さんの言うように裁判官のこと、イスラエルを圧迫している他の国の権力者、そして異教の神々という解釈がありました。“イスラエルの宗教=一神教”を前提にすると、人間のことと解釈するしかないわけです。山我さんは申命記32章と同じ宗教観が詩編82にあると考えていて、そうしたほうがよく解釈できると主張しているわけです。

詩編82で注目すべきは最後の8節で“神よ,立ち上がり,地上で裁きを行ってください。全ての国はあなたのものだからです。”とありますが、これは先ほど紹介した出エジプト12:12の“エジプトの全ての神々を裁いて処罰する”と同じこと全ての国でしてくださいと祈っていると解釈できます。言葉遣いが似ているのです。

詩編82は多神教を前提としている詩とすれば、素直に解釈できます。しかし、てつてつさんが引用している「カナン神話とヘブライ叙事詩」にあるように、この詩は後の時代の作品と思われるので、その時代ではエローヒムがもはや神の固有名詞として使われることはないのではという疑いがあります。

詩編82:1に“神は,神の集会を取り仕切る”とありますが、“神(エル)の集会”というのはウガリット文書に出てきますので、カナン宗教に由来します。そこではエルが主催する神々の会議です。詩編82もカナン的な神々の集まりを想定しているともいえます。

詩編82の解釈は考慮すべき点がいろいろあり、こういう意味だとは決めかねます。

#1292 2021年03月08日 17:00:24

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

質問さん大変詳しい説明ありがとうございました kiss

>詩編82の解釈は考慮すべき点がいろいろあり、こういう意味だとは決めかねます。

一神教の起源 124ページ
これとよく似た観念を表しているのが、詩編八二編である。これは、百五○ある旧約聖書の詩編の中でも最も風変わりで異様なもので、それだけに研究者の間でも解釈が大きく分かれている。年代についても、それを古い多神教的イメージの尾祗骨的痕跡と見る立場から、極めて遅い時代のものとする見方まで、実にさまざまである。詩編の注解者として有名なドイツの旧約学者、ハンス・ョアヒム・クラウスは、「詩編八二は詩編全体の中でもあまりにも例外的な性格のものなので、あらゆる点で納得のゆく説明を提供することは不可能であろう」と記している。

と書いてありますね

あとウガリットなんて初めて聞きましたね

今回の件で感じたのは

ああ..聖書の闇の深さよ。その深さは何と探りがたく,その闇は[何と]たどりがたいものなのでしょう。

みたいな感じでした cry

編集者 てつてつ (2021年03月08日 23:57:33)

オフライン

#1293 2021年03月10日 21:37:37

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

質問さん またまたすみません
カナン神話とヘブライ叙事詩 パラパラ見ててちょっと気になったのですが 95ページから

権力は父殺しと近親相姦の陰謀によって委譲される...

更に、族長の社会は近親相姦と父権に対する反抗が家族の平和を脅かすという概念装置を造り出す。このような強制力がダビデの宮廷史に劇的に示されている。ダビデの息子アムノンによるアブサロムの妹タマルの凌辱は、父殺しとダビデに対するアブサロムの最終的な反逆を含む争いの始まりとなったのである。権力奪取の意志はアブサロムが父のハーレムに侵入することによって示され、その挿話は、軍事力の差のためにアブサロムが失墜して、ようやく終了する。ダビデが晩年王に指名したソロモンによるダビデ王位の継承もまた兄弟間の殺人に至る争いとハーレムをめぐる陰謀によって特徴づけられる。これは族長的な社会の大家族制下に生きた人間と神々の生活の類型なのである。


とエールやバアルその他の一族の神話に 父親を去勢して殺しそのあと父親のハーレムをのっとってはじめて権力の委譲をはっきりさせることができるみたいなことが書かれていて アブサロムの話がそのような神話からヒントを得て創作されたみたいな書き方がされているような気がするのですが 質問さんはアブサロムの一連の話はフィクションだと思われますか?

編集者 てつてつ (2021年03月11日 06:49:59)

オフライン

#1294 2021年03月11日 12:29:21

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

てつてつ さんの発言:

アブサロムの話がそのような神話からヒントを得て創作されたみたいな書き方がされているような気がするのですが 質問さんはアブサロムの一連の話はフィクションだと思われますか?

「カナン神話とヘブライ叙事詩」でクロスが言っているのは、族長社会の構造が権力を握っている年老いた父親と活力と野心に満ちた息子たちとの権力闘争を絶えず引き起こし、権力者の一族は不安定にならざるを得ないということです。

それが神話に反映され、神々の関係も不安定で絶えず争います。また、ダビデの家族もそのような族長社会の原初的な構造を反映して、近親相姦あり、息子同士の争いがあり、息子のアブサロムの反逆ありとなっている、と言っていると思います。

ダビデの息子たちの話が神話をもとに創作されたといっているのではなく、神話もダビデの家族の話も、背景としている社会構造が類似しているので、類似した父と子の権力闘争の話になると言っていると思います。

ダビデの話はサムエル記に出ていますが、サムエル記は神話的な部分はほとんどなく、人間のリアルな権力闘争を描いています。宮廷にあった実際の記録をもとにしているのではないでしょうか。

アムノンがアブサロムに殺されて、その後アブサロムが反逆するも殺されるという話しは神話をもとにした創作物にはない細部のリアリティがあります。

アムノンはサムエル二3:2に“ヘブロンでダビデに息子たちが生まれた。長男はエズレルのアヒノアムが産んだアムノン”とあり、母親はアヒノアムです。

サムエル一14:50には“サウルの妻はアヒノアムといい,”とあり、サムエル二12:7,8に“私はあなたを選んでイスラエルの王とし,あなたをサウルから助け出した。 あなたの主人の家のものと妻たちを喜んで与え,”とあります。

つまりアムノンの母アヒノアムはサウル王の妻だったと思われます。ダビデはサウルに関係する人物を皆殺しにしようとしていますので、アムノンを自分の後継者にはしたくなかったはずです。しかし、息子を殺すわけにはいきません。ダビデはアムノンをうまく始末する方法を考えていたと思われます。

アムノンは異母妹のタマルをレイプするわけですが、これはダビデの暗黙の了承のもとではないでしょうか。ダビデはその結末を予想していたでしょう。その後タマルと母親が同じのアブサロムが復讐心に燃えてアムノンを殺害しますが、ダビデの計算通りじゃないでしょうか。アブサロムは兄弟を殺したのに結局許されています。しかし、兄弟殺しのアブサロムを王位につけるわけにはいきません。

アブサロムは後にダビデに反逆しますが、この時もダビデはアブサロムを放置して、未然に反逆防ぐことはありませんでした。その後の展開は、戦争経験がほとんどないアブサロムがあっさりと敗北し死にます。これもダビデの計算通りの結果ではないでしょうか。そして王位はソロモンが継ぐことになります。

この展開はかなり史実に近いでしょう。ただダビデが善人に描かれているのは創作でしょうね。サムエル二18:5で“王はヨアブ,アビシャイ,イッタイにこう命じた。「私のために,若いアブサロムを優しく扱ってください」。”とありますが、反逆者は殺すでしょう。アブサロムの死を聞いた後、サムエル二18:3で“わが子アブサロム,わが子,わが子アブサロム! 私が代わりに死ねばよかったのに。わが子,わが子アブサロム!”とダビデは嘆きますが、これも創作でしょう。

”アブサロム、アブサロム!”というフォークナーの有名な小説があります。聖書をもとにしていますが、聖書の話とはあまり関係はありません。南北戦争前後の3代にわたるアメリカ南部の家族の物語です。名作ですが難解です。

#1295 2021年03月12日 07:18:51

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

質問さんありがとうございます kiss
>「カナン神話とヘブライ叙事詩」でクロスが言っているのは、族長社会の構造が権力を握っている年老いた父親と活力と野心に満ちた息子たちとの権力闘争を絶えず引き起こし、権力者の一族は不安定にならざるを得ないということです。それが神話に反映され、神々の関係も不安定で絶えず争います。また、ダビデの家族もそのような族長社会の原初的な構造を反映して、近親相姦あり、息子同士の争いがあり、息子のアブサロムの反逆ありとなっている、と言っていると思います。

そうだったんですね なんだかクロスの本 自分の頭が悪いのか判りにくい表現が多くて神話から創作したことをいいたいのかと思いました cry
あとしばらく前に質問さんがパウロの難破の話はオデッセイアからのものだという書き込みがあったと思うのですが どの本からの引用か教えていただけないでしょうか?

編集者 てつてつ (2021年03月12日 07:19:20)

オフライン

#1296 2021年03月12日 15:28:31

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“「イエスの愛する弟子」から学ぶ(2)”で、使徒ヨハネから学ぶ正しいJWのあり方という内容です。」
「ヨハネ文書をすべて使徒ヨハネが書いたものとJWは決めつけているけれど、それは正しくないよ。ヨハネの福音書はオリジナルがあったとしても、それに複数の人間が手を加えて、最終的に今の形になったと推定されている。」
「それらの人たちをヨハネ教団と呼んだりするわけですね。」

「序文をなす1:1-18はロゴス・キリスト論と言われるけれど、すでにあった詩であって、後に本文に付け加えられたものと推定されている。ヨハネ7:53-8:11の罪なき者がまず石を投げよという部分は後世の追加で、これはJW訳からは削除されている。15-17章は後からの追加。最初は20章で終わっていたはずだけど、別の人が21章を書き加えている。」
「ヨハネには重複やつじつまの合わないところがありますが、これも複数の人によるからですか?」
「そうだろうね。例えば、最後の晩餐の時、13:36で“シモン・ペテロが言った。「主よ,どこへ行くのですか」。”とある。14:5で“トマスが言った。「主よ,あなたの行こうとしている所が分からないのに,どうしてその道が分かるでしょうか」。”とある。ところが、その後イエスは16:5で“しかし今,私は自分を遣わした方のもとに行こうとしています。それでも,あなたたちの誰も,『どこに行くのですか』とは尋ねません。”とトンデモ発言をしている。このようなことは他にもある。」

「3節に“ヨハネは,クリスチャンが愛を示すべきことを何度も強調しました。イエスの生涯を記録した福音書の中で,「愛」や「愛する」といった言葉をたくさん用いています。その数は,ほかの3人の福音書筆者が用いた数の合計よりも多いのです。”とあります。ヨハネの福音書は他の福音書と内容がだいぶ違いますよね。」
「ヨハネによく出てくる言葉は、愛、命、真理、この世などがある。一方、他の福音書にあってヨハネにほとんど出てこないのが、神の国、義、力など。終末論も聖霊やキリストに対する考えも他の福音書とは大きく違う。」

「6から8節が“愛を行動で示す”です。久しぶりにイエスが杭に磔になっている挿絵が登場です。」
「イエスが一本の杭に磔になったとありそうもないことを言っているのはJWだけ。」
「ヨハネ19:17で“そして,[イエス]は自分で苦しみの杭を負いつつ”とあります。挿絵から推定すると、この杭はイエスの身長の2倍くらいの長さがあるんじゃないですか?」
「杭が倒れないように地面に深く埋める必要があるから、身長の3倍は必要だ。」
「しかも、かなり太いですよね。そんなものを持てないですよ。」
「普通は、十字架の横木を持たされたと解釈する。それなら持ち運び可能だからね。」

「6節に“エホバは私たちのために,大切なわが子が苦しんで死ぬようにしたのです。(ヨハ 3:16)”とあります。この引照聖句は問題がありますよね。」
「“神は,自分の独り子を与えるほどに人類を愛したのです。”とある。この訳は意図的な語訳だね。英語版では““For God loved the world so much that he gave his only-begotten Son”で、神が愛したのは“この世the world”だよ。それを日本語版では“人類”に変えている。」
「神がこの世を愛したとなるとJWには不都合だからですね。」
「JWは神がまもなくこの世を滅ぼすと言っている。それに対して、神は自分の独り子を与えるほどにこの世を愛したのに滅ぼすなんておかしいだろうという批判がある。それを意識して“人類”に変えたんだろう。しかし、この聖句はキリスト教圏では有名なので、英語版では変えることはできない。ただでさえJWの聖書は改ざん聖書とバカにされているわけだから。」

「9から14節が“兄弟姉妹を愛する”です。9節に“パトモス島にいた時には,自分に与えられた啓示を記録して,各地の会衆に送りました。そのおかげで兄弟姉妹は,「間もなく必ず起きる事柄」を知ることができました。(啓 1:1)”とあります。これってへんじゃないですか?」
「ヨハネによる啓示が書かれて2000年くらい経ったけれど、JWの解釈ではこれから実現することが書かれていることになっている。ということは“間もなく必ず起きる事柄”ではなかったということになるよ。」

「その次に“パトモス島から解放された後と思われますが,ヨハネは福音書を書き,イエスの生涯と伝道活動について記録しました。”とありますが、何の根拠もないですよ。」
「啓示の作者は福音書やヨハネの手紙の作者とは別人。啓示のギリシャ語は文法的な間違いも多く、かなりひどいギリシャ語として有名。福音書や手紙のきちんとしたギリシャ語とは全然違う。」
「啓示21:14に“都市の城壁には12の土台石もあり,それには子羊の12使徒の12の名前が刻まれていた。”とありますが、作者は12使徒を自分以外の人達と見なしていますよ。」
「啓示の作者は自分は12使徒のひとりだとはどこにも言っていない。」

「10節に“サタンが支配する世の中は,私たちがお金を稼いだり有名になったりするために自分の時間やエネルギーを全て使うように仕向けます。”とありますけど、違うでしょう。すごい偏見ですね。」
「そういう人にあったことはないな。お金が欲しいとか有名になりたいと思っても、そのためにすべての時間やエネルギーを使う人なんか世界にどれくらいいるのかな?」

「11節が、愛を実践する方法について書いてあるのですが、“災害救援や建設プロジェクトに参加している人がいます。また,誰もが世界的な活動のために寄付することができます。こうしたことをするのは,神と人々を愛しているからです。また私たちは,毎週集会に出席することによって兄弟姉妹を愛していることを示します。”とあります。“愛=労働力+寄付+集会の参加”というJWの愛の公式が成り立つようです。」
「この公式だと、貧乏で病気がちの年老いたJWは愛がないことになるね。」

「JWを動かしているのは愛じゃないですよ。」
「JWを動かしているのは、仲間からの圧力と恐怖心と周りから少しばかり偉く思われたいという名誉心じゃないの。」
「“疲れているとしても集会に行き,緊張するとしてもコメントします。”とありますが、コメントするのは決まったメンバーだけですよ。」
「使徒ヨハネとは関係ない話ばかりだね。使徒ヨハネの頃は建設プロジェクトも世界的な活動のための寄付もなかったよ。」

「12節では“誰かに良くない傾向が見られるなら,その人に必要なアドバイスを親切に伝えることによって,愛を示せます。”といっている。信者同士監視しあい、干渉しあうことを愛と呼ぶようだ。こんな愛はいらないね。」
「愛に満ちた長老の中には、問題があると感じた兄弟姉妹の自宅付近に車を止めて監視する人もいるそうです。その長老の車の中には双眼鏡がいつもあるそうです。」
「スパイ行為をJWでは愛の実践と呼ぶわけだね。」

「14節で、ヨハネ三に出てくるデオトレフェスのことを“1世紀の統治体から各地の会衆を訪問するよう派遣された長老たちに全く敬意を払いませんでした。”といっています。1世紀に統治体はなかったのに、堂々とウソをついています。」
「ウソも100回言えば真実になると思っているんだよ。」

「15から17節が“家族を愛する”です。15節では“家族の頭は,生活していくのに必要なものを家族に与えることによって,家族を愛していることを示せます。(テモ一 5:8)とはいえ,家族がエホバとの絆を保てるよう助けることの方がもっと重要です。”と相変わらずのカルト的な2分法です。」
「これは意図的な語訳だよ。英文では、“material things cannot satisfy his family’s spiritual needs.物質的なものでは家族の霊的必要を満たすことはできません。”といっているだけ。日本語訳だと家族が飢えていても開拓奉仕を行えと言っているように読めるけれど、元の文はそんなことは言っていない。」

「15節には“イエスはひどく苦しみながらも,マリアの世話をヨハネに託しました。(ヨハ 19:26,27)”とあります。ヨハネに託した理由として“イエスの弟や妹たちは,(中略) まだ一人もイエスの弟子にはなっていなかったようです。”とあります。それならヨハネ以外でもよかったはずです。なぜヨハネなのでしょうか?」

「ヨハネの家が裕福だったからじゃないの。マルコ1:20に“2人は,父親のゼベダイと雇われ人たちを舟に残してイエスの後に付いていった。”とある。ゼベダイはヨハネの父親。漁師といっても、人を雇うような立場にある。それからヨハネ18:15に“さて,シモン・ペテロともう1人の弟子がイエスに付いていった。その弟子は大祭司に知られていて,イエスと一緒に大祭司の家の中庭に入っていった。”とある。」
「ペテロと一緒にいた弟子がヨハネですね。」
「普通はそう考えられている。その弟子は“大祭司に知られていて”とあるけれど、これはかなり親密なことを表わす動詞が使われている。なぜガリラヤの漁師の息子が大祭司と知り合いなの?」
「親戚とか?」

「ありそうなのは、ヨハネの父親がガリラヤの魚を塩漬けにして、大祭司に納入していて、ヨハネも以前に何度か同行して、その際大祭司やその家の者と知り合いになったというシナリオ。もしそうだとするとヨハネの父親は、現代風に言えば水産会社の社長ということになる。というわけで裕福な家族と推測されている。」
「ヨハネ19:27では“その時から,その弟子はイエスの母親を自宅に引き取った。”とあります。これはエルサレムの家ですよ。なぜヨハネがエルサレムに家があるのか不思議でしたけれど、そういうビジネスをしているのなら、消費地のエルサレムに家があった方が便利ですよね。」

「それから、イエスの母マリアはヨハネの母と姉妹関係にある。ヨハネ19:25には“イエスの苦しみの杭のそばには,イエスの母親と母親の姉妹,クロパの妻マリアとマリア・マグダレネが立っていた。”とある。一方マタイ27:56には“その中には,マリア・マグダレネ,ヤコブとヨセの母親マリア,ゼベダイの子たちの母親がいた。”とある。“クロパの妻マリア”は“ヤコブとヨセの母親マリア”のこと。そうなると、イエスの母親の姉妹は“ゼベダイの子たちの母親”つまりヨハネの母親。要するにイエスとヨハネは親戚と推測されている。」

「16節に“ヨハネにはいろいろな責任がありました。”とあり、JWのお父さんはヨハネが様々な責任を要領よく果たしたという点を見倣うようにといっています。」
「17節では“家族の頭が,生活の面でも,感情の面でも,信仰の面でも家族を支えるために頑張っていることに,家族は心から感謝することでしょう。”とあるね。過大な要求だよ。JWのお父さんはスーパーパパじゃないと務まらない。」

「最後の2節が“いつも私に愛されます”です。これはヨハネ15:10の言葉です。」
「19節で“ヨハネの時代と同じように,今もサタンがこの世界を支配しています。サタンには愛のかけらもありません。”とある。サタンは世界の支配者なんだ。」
「そうなると、今回の新型コロナウイルスの問題ではサタンに感謝しないといけませんね。」
「そもそもウィルスを作ったのは万物の創造者エホバー。ウィルスで人間が死ぬ究極的な原因はエホバーということになる。それに対して薬やワクチンを作っているのは、JWではないサタンの支配下の人。サタンに感謝だね。」

「でも19節では“サタンは,私たちが兄弟姉妹を愛するのをやめさせたいと思っています。しかし,サタンがそうできるかどうかは私たち次第です。”とありますから、サタンは大した力はなさそうです。JWにちょっとした嫌がらせをする小悪党がサタンです。世の中の支配者じゃありません。」
「サタンはJWにとって都合の良い悪役を演じるキャラクターに過ぎないということだね。サタンとは?なんて真剣に考えていないね。」

#1297 2021年03月19日 15:45:17

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“ほかの羊の大群衆は神とキリストをたたえる(3)”で、3月27日の記念式向けの内容です。」
「記念式と言えば、飲み食いする人が増加していて、それをどう抑えるかというのが中心問題だったよね。」
「中心問題かどうかは別として、この記事でも飲み食いする人を減らそうという意図がありますね。」

「1,2節に1935年から天上組と地上組に分かれるようになり、地上組は啓示7:9の“大群衆”であるとされたと書いてある。」
「それまでは全員天に行くという教義だったわけですが、なぜ変わったのですか?」
「ある本によると、楽園では地上に復活する人がたくさんいるけれど、もしJWが全員天に行ったなら、誰がその復活した人たちにJWの教義を教えるのかという問題が出てきたからだそうだ。地上にかなりの数のJWがいないといけないことになった。」

「2節では、奇妙なことに“こうして,1つの群れ,1人の羊飼いとなります。(ヨハ 10:16)”とヨハネ10:16を引用していますが、JWの教義では二つの群れになるわけで、この聖句との矛盾を何も感じないのですね。」
「今週の題の“ほかの羊の大群衆”と言う言葉は聖書にないよ。ヨハネ10:16の“ほかの羊”と啓示7章の“大群衆”を勝手に結び付けたJWのヘンテコな造語だけど、本来結び付けられるものではないよ。」

「3から5節が“新たな理解によって大きな変化がもたらされる”です。5節で“1936年からは記念式でパンを食べることもぶどう酒を飲むこともしなくなった人たちのことを,エホバはどう見ているでしょうか。”と問いかけています。答えは“自分の間違いを認め,記念式でパンを食べることやぶどう酒を飲むことをやめ,エホバに忠実に仕え続けるなら,エホバはその人をほかの羊の1人と見てくださるでしょう。”だそうです。」
「昨年まで飲み食いした人は今年からはやめよう、やめても問題ないとほのめかしているね。」
「そのあとで、“そうした人たちは,記念式でパンを食べることやぶどう酒を飲むことはもうしませんが,記念式に出席することはやめません。”と書いています。記念式には間違いなく出席するようくぎを刺しています。」
「飲み食いできないのなら、出席をやめたくなるのが普通だよ。」

「6から12節が“特別な希望”です。啓示7章の解説です。7章の初めに144000人がでてきます。JWの面白いところはこれが文字通りの数と誤解しているところですね。」
「7:4には“イスラエルの子孫の全部族の中から人々が証印を押された。”とあるから、144000人が文字通りだと、“イスラエルの子孫”だって文字通り解釈すべき。」
「14400人は啓示14章にも出てきますが、“この者たちは,女によって自分を汚さなかった。童貞なのである。そして,・・・”と144000人のことが色々書いているのですが、数字だけ文字通りで、後はすべて何らかの象徴と解釈します。何の一貫性もありません。」

「啓示7:1-4では、“別の天使が,生きている神の証印を持って,日の出の方角から上ってきた。”とあり、“私たちが,私たちの神の奴隷たちの額に証印を押すまでは,陸地も海も木も損なってはなりません”と言って、144000人に証印を押す。144000人は天使が上ってきたときに選ばれる。JWの考えるように1世紀から現代まで2000年間にわたって少しずつ選ぶわけじゃないよ。」
「JWは、初めは1881年に選び終わったと言っていたのです。それが何の根拠も示されず1931年に延期されました。そして1935年にまた延期。そして、現在は、情けないことにそれがいつ終わるかはわかりませんといっています。」
「ものみの塔2007年5月1日号の“読者の質問”に“天への希望を抱くようクリスチャンを召すことは,いつ終わるのですか”が出ていて、答えは“聖書は,この質問について明確な答えを述べていません。”とある。つまり、長い間聖書に書かれていないことを勝手に推測して日付を決めていたわけだ。本当にひどい連中だ。」

「7節が大群衆の解説です。大群衆は地上で永遠に暮らすなんて一言も聖書に書かれていません。」
「大群衆は啓示19:1にも出てくる。“私は大きな群衆の大声のようなものが,天でこう言うのを聞いた。”とある。大群衆は天にいる。啓示7:9の“大群衆”と同じなのに、“大きな群衆”とあたかも別の存在かのように訳しているのが笑えるね。」
「教義に合わせて聖書の訳を変えるのがJWです。でもこれは日本語訳の問題ですよね。」
「英文では、7:9も19:1も“a great crowd”で同じ単語になっている。しかし19:1を“大群衆”と訳すると彼らが天にいることになってしまうと翻訳者は気づいて、“大きな群衆”と訳することにしたんだろう。」
「JW訳はただでさえ信用できないのに、その日本語訳となると全く信用できません。」

「それからJWは144000人と大群衆が全く別の存在と考えるけれど、両者は区別なんかされていない。144000人については7:4で“そして私は,証印を押された人たちの数を聞いた。”とあって、聞くだけ。そして、7:9で“その後,私が見ると,全ての国や民族や種族や言語の人々の中から来た,誰も数え切れない大群衆が・・・”と続く。ヨハネが実際に見たのは大群衆だけ。144000人も大群衆の一部なんだよ。」

「大群衆とはどのような人たちなんですか?」
「大群衆は①王座と子羊の前に立っていた(7:9)、②大患難から出てくる人たち(7:14)、③神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をしています(7:15)とあることから、大患難で殉教した人たちで、天にいると考えられる。」
「啓示6章の第5の封印を解いたときに“私は殺された人たちの血が祭壇の基部にあるのを見た。神の言葉を守ったために,また伝道したために殺された人たちの血である。(6:9)”とありますが、この人達ですね。6:11で“一人一人に白くて長い衣服が与えられた”とありまして、これは大群衆と同じ服ですね。」

「9節に“大群衆は,献身し,バプテスマを受けたクリスチャンです。”とあるけれど、何の根拠もない。」
「9節では大群衆は“比喩的神殿の地上の庭で「昼も夜も神に神聖な奉仕を[する]」ことができています。”とあります。大群衆は地上にいるという教義があるので、大群衆がいる神殿は比喩的と言うしかないわけですね。」
「大群衆は天にいるよ。」

「9節の下の挿絵が北朝鮮の宣伝ポスターのようですね。死体でいっぱいの燃えている都市を背景に美しい自然の中、人々が前に進むという絵です。」
「アジア系の4人が先頭にいるけれど、その描き方が北朝鮮のプロパガンダの絵に似ている。女性にはチマチョゴリを着せて欲しかった。」
「大群衆はアジア人やアフリカ人が描かれていますが、天に行く人はみな白人のように描かれています。アメリカの白人至上主義宗教ならではでしょうか。」
「1935年に天に行く人を集めることは基本的に終わったという教義だからじゃないの。1935年の段階ではJWはほとんどが白人だよ。エホバは白人が好きなんでしょう。」

「10節で“大患難から出てくる大群衆は,引き続き神からの世話を受けることができます。”とありますが、具体的には7:16に“この人たちはもはや飢えることも喉が渇くこともなく,照り付ける太陽の熱や焼け付くような暑さに襲われることもありません。”とあるだけです。現代の日本人の多くは、これらのことはもうすでに実現しています。」
「これは古代の中東に住む貧しい人たちの夢なんだよ。暑く乾燥した気候の中で長時間労働を強いられ、食べ物も満足にない。そういう人たちにとって、飢えることも渇くことも、夏の暑さに襲われることもないとなれば、天国だよ。先進国の中流以上であればもうすでに実現されていて、楽園を待つまでもない。」

「10節では、啓示21:3,4がなぜか引用され「もはや死はなくなり,悲しみも嘆きも苦痛もなくなります。」とあるのですが、これってインチキですよ。7章について論じているのに、なぜここで21章に飛ぶのですか?」
「7章は“神はこの人たちの目から全ての涙を拭い去られます。”で終わるからだろう。JWとしてはインパクトが足りないと感じたのだろう。そこで21章へ飛ぶ。聖書のあちこちからつまみ食いして、もっともらしい話を作るのがJW流の聖書解釈なの。」

「11節に“イエスは地上に生き残った大群衆を「[永遠の]命の水の泉」に導きます。”とあります。“[永遠の]”はJWの勝手な挿入ですよね?」
「JW訳でも、啓示7:17は“命の水の泉”となっていて“永遠”はないよ。勝手に挿入するとは、神の組織らしくないよ。」
「11節には“これまで地上で生きた人は何十億人もいますが”とありますが、これは間違いですよ。」
「現在の人口は約75憶人だよ。今だけで“何十億人もいます”。これまでの全人口は1000億人を超えると推定されている。それだと楽園が過密状態になるので、信じたくないのだろうね。」

「13から15節が“記念式で神とキリストを心からたたえる”です。記念式には必ず来いという命令です。13節に“ほとんどの会衆には,記念式でパンを食べ,ぶどう酒を飲む人が1人もいません。”と、記念式では誰も飲み食いしないのが普通であることを知らせています。」
「それでも記念式に来なければならない理由が面白い。“例えで考えてみましょう。友達の結婚式に出席する人は,結婚する2人への愛や気遣いを示すためにそうします。同じように,ほかの羊が記念式に出席するのは,キリストと天に行く人たちを愛し, 助けになりたいと思っているからです。”だって。この例えはおかしいよ。」
「誰も飲み食いしない記念式は、新郎新婦のいない結婚式のようなものです。そんなものに誰も出席しませんよ。もっといい例えを来年までに考えて欲しいですね。」

「14節には“そして,一緒に記念式に出席するよう,できるだけ多くの人を招待します。”とあるね。JWだけで十分だよ。」
「14節には“天に行くよう選ばれた人たちが地上にいる間は,主の晩餐に出席し続けます。”とあります。天に行く人がいなくなったら、この儀式はやめるということのようですね。」
「2014年の“王国宣教”3月号に“今年が最後の記念式になるでしょうか。(コリ一 11:26)わたしたちには分かりません。”とある。1914年の天での王国設立から100年目の2014年には何らかの大きな出来事を期待するJWがいたんだろうね。」
「それから7年もたちましたけれど、何も起こらないですね。」
「最近のJWの教義では、大患難のある時期に天上組は天に召されることになっている。記念式ファンの人は安心していいよ。終わることはない。」

「16から18節が“希望を与えてくださったエホバに感謝する”です。16節では“神が天に行く人たちをほかの羊よりも高く評価している,ということはありません。”と矛盾したことを言っています。」
「“天に行く人”と“他の羊”という呼び方からして差別しているだろう。JWでは、天に行く人は人間だけど、地上組は単なる羊にすぎないということだ。支配者と従順な羊という関係だよ。」

「18節では楽園幻想を振りまいています。“その時には,自分の家を建て,庭を造り,病気の心配をすることなく子供を育てることができます。(イザ 65:21-23)”とあります。今やろうと思ったらできることですよ。」
「引照聖句のイザヤ65:21-23はJWの想定するハルマゲドン後の地上の楽園のことを言っているわけじゃない。」
「そもそもハルマゲドン後の地上の楽園について聖書は何も述べていません。JWが信者集めに考え出したプロパガンダにすぎません。」
「地上の楽園と聞いたら、胡散臭いものだと思うのが常識のある大人の判断でしょう。」

#1298 2021年03月24日 14:19:11

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

火曜の夕方に近所のJW少年がやって来た。
「いつもより早く予習に来ました。次回のものみの塔は、“優しい愛情を深めていきましょう(4)”で、JW同士もっと優しく接しようよ、という内容です。」
「JW内の人間関係は相当問題があるということかな。この種の記事が多いよ。でも16節と短いのがいい点だね。」

「1節にはお決まりの“聖書は,終わりの時代には人々の間に「自然な愛情」が見られなくなる,と予告していました。(テモ二 3:1,3)今,まさにその預言の通りになっています。例えば,多くの家族が離婚によってばらばらになっています。”とあります。離婚は増加していますか?」
「離婚が増えているかどうかは相対離婚率(離婚率÷婚姻率)の変化でわかる。日本の場合は2000年は0.33で2018年は0.35でほとんど変化はない。アメリカは過去20年間0.5前後で推移している。」
「JWの言うように終わりの時代で自然の愛情が見られなくなったという根拠はないということですね。」
「“自然な愛情がなく”と訳されているのはastorgosという単語だけれど、ここ以外では、ローマ1:31に一回だけ出てくるレアな単語で、実は意味はよくわからない。“自然な愛情がなく”という訳は勝手に意味を込めすぎでしょう。協会共同訳では“情けを知らず”となっている。」

「4,5節が“エホバは「優しい愛情にあふれ」た方”です。エホバは憐れみ深いそうです。5節で、“エホバは私たちがつらい状況にあるのを見ると,憐れみを感じ,私たちを助けてくれます。”とありますが、そんなことないですよ。どれくらい助けられたのか統計を示して欲しいです。」
「5節には“聖書によると,私たちを助けたいというエホバの願いは,母親が子供を思う気持ちよりも強いものです。”とある。安易にこんなことを書いていいのかな?」

「愛の神という概念は現実とかなりかけ離れたものですよ。」
「エホバという神は愛の神で、人間を助けたいという願望も持っているというわけだろう。それなら、なぜ人間を助けないの?なぜ祈りにも答えないし、どんな悲劇的なことが起きても傍観しているの?」
「それについては、JWは主権論争がどうのこうの、自由意志がどうのこうのと誤魔化すのですよ。」
「どんな病気でも治せる医者がいるとしよう。その医者は病気を治したいと強く願っていると主張する。しかし、今医学上の論争があってそれが解決するまでは、一人の患者も診察しないし、治療もしないと言う。その結果患者はどんどん死んでいるとする。この医者を愛のある医者とか優しい愛情にあふれた医者とは絶対に言わないよね。神も同じだろう。」
「エホバは人間を救う能力もあるし、そうしたいと願っているとJWは主張しますが、それとエホバは優しい愛情にあふれた神という主張と調和しないということですね。」

「詩編103:11には“神がご自分を畏れる人たちに示す揺るぎない愛の大きさも計り知れない。”とある。神が愛を示すのは、“自分を畏れる人たち”限定ということ。神の愛は条件付きの自己中心的な愛じゃないの。」
「エレミヤ11:11ではイスラエルとユダの人に向かって、エホバは“私は彼らに,逃れることができない災いをもたらす。彼らが助けを求めても,私は耳を傾けない。”と言っています。憐れみを感じないようです。JWはこういう聖句は無視ですね。」
「エゼキエル5:11-13では、エルサレムに向かって、“私の目はあなたを惜しまず,私は全く同情しない。あなたの3分の1は疫病で死ぬか,飢餓によってあなたの中で命を落とす。別の3分の1はあなたの周囲で剣によって倒れる。そして最後の3分の1を私はあらゆる方向に散らし,剣を抜いてその後を追う。こうして私の怒りは収まり,人々に対する憤りは静まり,私は気が治まる。”とある。少しも憐れみ深くないよ。」

「5節で“私たちは,仲間から嫌なことをされても,許して根に持たないことによって,憐れみを示すことができます。”とあります。これは憐れみの誤用じゃないですか。」
「嫌なことをする人に対しては、神様に倣って“私の目はあなたを惜しまず,私は全く同情しない。”といって、仕返しをするのが聖書的じゃないかな。」
「そういうことができるのはドラマの中だけです。」
「いつものことだけどJWは加害者に甘く、被害者に対しては根に持たず許しなさいと過大な要求をする。とても不公平で、悪を助けている。」

「6から9節が“ヨナタンとダビデは「固い友情で結ばれ」ていた”です。しかし、ヨナタンとダビデは年の差が30歳ほど離れています。2人の関係は友情ですか?」
「どうみても同性愛的関係に見えるね。友達というより恋人同士に近いよ。サムエル一18:3には“ヨナタンはダビデを自分自身のように愛していたので,ヨナタンとダビデは契約を結んだ。”とある。」
「サムエル一20章では、ダビデがサウル王に殺されそうになるわけですが、そのときヨナタンは“「さあ,野原に行きましょう」。それで2人とも野原に出ていった。”とありますが、これはソロモンの歌7:11の“来て,いとしい人。一緒に野原に行き,ヘンナの木の所で一休みしましょう。”と同じ表現です。」
「この野原で二人が別れる時、サムエル一20:41によると“2人は口づけし,泣いた。ダビデの方が激しく泣いた。”とある。恋愛小説の一節のようだ。こういうのを友情とは言わないよ。」
「ヨナタンが戦死したことを知ったダビデは哀歌をつくるわけですが、サムエル二1:26では“私の兄弟ヨナタン,あなたを失ってとても苦しい。あなたは本当に慕わしい人だった。私にとってあなたの愛は女性の愛よりも素晴らしかった。”と言っています。」
「ダビデとヨナタンの物語が書かれた時代では、同性愛に寛大であったということじゃないの。」

「しかし、普通の解説書ではダビデとヨナタンは同性愛的関係とは書いていませんよね。キリスト教が同性愛嫌いだからですか?」
「そうでしょう。ダビデはペリシテ人と密接な関係があったけれど、ペリシテ人はエーゲ海方面から来た“海の民”と呼ばれたギリシャ系の人たちで、ギリシャ文化は同性愛に極めて寛大だ。エジプトも同性愛を犯罪視することはない。」

「8節に“ヨナタンは謙遜な人で,エホバを深く愛していました。”とあります。でもそれを示す聖句は引用されていません。」
「この記事では、ヨナタンは模範的人物として描かれているので、そういう事にしただけだよ。執筆者はもっともらしい話を書き飛ばしているだけで、根拠なんか気にしていないよ。」

「10節以降が“優しい愛情を示すには”です。10節に“誰かから嫌なことをされた時には”どうすべきか書いてありまして“愛 を抱いて互いに寛容であってください。”とエフェソス4:1を引用しています。」
「JWは被害者に泣き寝入りを勧めているだけ。嫌なことをされても、文句の一つも言ってはいけないの?実害があった場合は謝罪と補償を求めるべきだよ。そうしなければ悪人がのさばることになる。」
「10節には“仲間の間違いに注目することはないでしょう。”とありますから、見て見ぬふりを勧めています。」

「11節に“仲間の間違いが目に付く時は特に,優しい愛情を示すのは難しいものです。”とあって、ユウオデアとスントケのことを取りあげている(フィリ 4:2,3)。問題は挿絵。二人の女性が喧嘩して、周りがなだめているというような絵だけれど、二人の対立はそんなものではないよ。」
「パウロが手紙の中でわざわざ名前を挙げているのは、フィリッピの中で重要な役割を果たしている女性だからですよね。」
「当時のクリスチャンは個人の家に集まっていた。ユウオデアとスントケはそのような家を提供していた有力者ではないかと推定される。その二人が組織運営上のことで対立し、それは会衆全体に関わるものなのでわざわざ個人名を挙げて、お願いしている。」

「4:2で“ユウオデアとスントケに勧めます。”とありますが、これは丁寧な言い方なのですね。」
「parakalōという動詞がつかわれているけれど、これは丁寧な表現で、決して自分より下の者に対する言い方ではない。“私と肩を並べて一生懸命働いてきました。”とあるように対等なものとして扱っている。だから、争いはやめろとか、仲良くしなさいなんて言う命令をしているわけではない。」

「12節で“年齢や育った環境が違っても,友達になることができます。”とありますが、そうはいっても、似た者同士の方が友達になりやすいですよ。」
「JWは老人ばかりになり、比較的若い人の数が減っているから、若い人向けにそういうことを言っているだけだよ。」

「12節の下には、若い夫婦が老夫婦の家を訪問するという挿絵があります。JWにしては、なかなか裕福そうな家ですね。職業は窓ふきじゃないようです。」
「JWのイメージ戦略で、現実とは関係ない。果物かお菓子かを持ってきているけれど、そんなものはJWの長老は喜ばないでしょう。次回からは、手土産は商品券と高級ウィスキーにして欲しいと、言われるよ。」
「長老が受け取った高級ウィスキーは巡回監督にわいろとして渡されるかも。」
「その後、巡り巡って、最後には統治体のトニーおじさんの胃の中におさまる。」

「13節に“イエスに倣って,私たちも親しい友達を特別扱いしないようにすべきです。(ヤコ 2:3,4)”とありますが、引照聖句とは関係ないです。」
「“皆さんは,上等な服を着ている人には親切にして,「この良い席にお座りください」と言い,貧しい人には,「立っていてください」とか「私の足元に座ってください」と言いますか。”で、この聖句は貧富の差による差別を扱っている。」
「友達を特別扱いしない人は正義の人かもしれませんが、友達は一人もいないような気がします。」
「不完全な世界では正義だけではやっていけない。友達は相互に助け合うもの。何かしてくれたら、お返しに何かしなくてはならない。それが嫌なら友達など持たないことだね。」

「15節に体験談が出ています。国際大会の帰り道、車の事故にあって、道路わきに呆然と立っていたら、二組のJWが車を止めてハグしてくれたり、援助を申し出てくれたというものです。どうってことのない話だと思いますが、かなりの字数を使っています。」
「一種の“埋め草”だね。埋め草というのは、雑誌・新聞などの余白を埋めるために使う短い記事のこと。」
「書くことがなかったので、この体験談で埋めているわけですね。」
「国際大会の帰り道ということで、一時的に気分が高揚して、兄弟愛が高まっただけじゃないの。」

「この体験について“本当に大変な出来事でしたが,エホバの愛を感じる場面が何度もありました。”と言っています。エホバは事故のあと助けてくれたようですが、事故そのものを防いではくれないようです。」
「たぶんエホバが事故を起こしたんだよ。おかげでこの事故が記事になったじゃないか。」

#1299 2021年03月25日 06:28:54

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

ダビデとヨナタンがそのような関係というのははじめて聞きました ネット検索してみるとそのような見方は結構あるのですね

>ペリシテ人はエーゲ海方面から来た“海の民”と呼ばれたギリシャ系の人たちで、ギリシャ文化は同性愛に極めて寛大だ。

映画の中でアレキサンダー大王もそのように描かれてましたね

編集者 てつてつ (2021年03月25日 06:31:32)

オフライン

#1300 2021年04月02日 15:56:35

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“全ての男性の頭はキリストで[す](5)”で、夫婦における夫の在り方について書かれています。来週は妻編です。」
「男尊女卑のJWだけど、夫の横暴を少しでも減らしたいという意図が見える記事だね。」
「男尊女卑の文化圏に育ち、さらに男尊女卑のJWになると、とんでもない暴君亭主が出来上がるわけです。それによる弊害が出ているのでしょう。JWでは家庭内暴力は離婚の原因と認めないという暴力容認宗教ですから、夫の暴力に苦しむ女性JWが結構いるはずです。」
「暴君でも稼ぎがよいなら我慢できるかもしれないけれど、JW亭主は半人前の稼ぎだからね。その分妻にサービスしなさいということだね。」

「3から5節が“頭であるとはどういうことか”です。“女性の頭は男性”ですが責任が伴うといっています。“家族にどう接するかについてエホバとイエスから責任を問われます。(ペテ一 3:7)”とありますが、引照聖句はそんなことは言っていません。」
「“女性はより繊細な器ですから,妻を大切にしましょう”とあるね。“繊細な器”は英文ではa weaker vesselで、“より弱い”という意味だよ。男女の不平等を前提とし、女性は弱いから大事に扱えという指示。そうしなかった場合の責任については何も書かれていない。」
「ペテロ1の3章は妻と夫へそれぞれ指示が書かれていますが、妻へは1から6節で、夫へは7節だけです。これからして不平等です。」
「6節もかけて、夫に従えとしつこく言っているのは、現代人からすればおかしいね。」

「5節では家族の頭の権限の制限についてかかれています。まず“決まりを作る時には,聖書の原則に沿ったものにする必要があります。”とあります。JWは聖書に基づかない規則をいろいろ作ってきたので、末端の信者がそのまねをするわけですよ。統治体がまずこれまでの馬鹿げた規則を撤回し、謝罪すべきです。」
「聖書の原則自体あいまいなものなんだよ。恣意的に用いることが可能で、悪人が悪用する。」
「“自分の家族ではない人のために決まりを作る権限はありません。”とあります。」
「他の家庭に首を突っ込むなということだね。こんな当たり前のことをわざわざ言わなくてはならないというのは、情けないね。」
「また“父親には家を出た息子や娘に対する頭としての権限はありません。”とあります。」
「大嫌いなJWの父親から逃れるには、家を出ればいいわけだ。」

「6,7節が“エホバが頭という立場を定めたのはなぜか”です。6節に“誰が頭かがはっきりしていないと,エホバの家族はばらばらになり,幸せではいられなくなるでしょう。”といっています。これは執筆者の見解ですね。」
「カルト的だね。家族は多様なもので、ある一つの在り方以外は不幸になるというものじゃないでしょう。」
「JWの家族と言えば、バラバラで不幸せな家族が多いですよ。」
「子どもの立場からすれば、奇妙な宗教と理不尽な規則を押し付けられた上に、楽しみは制限され、おまけにとても貧乏ときたら最悪の家族でしょう。」

「7節では、男性に問題があることを認めていますが、その原因は“多くの男性がエホバの定めた家族のための基準を無視して地元の文化や伝統に従っているからです。”と言っています。男尊女卑は悪くない。悪いのは“地元の文化や伝統”だそうです。」
「“エホバの定めた家族の基準”とは何なの?例えば、出エジプト21:7に“人が娘を女奴隷として売ったなら,彼女は男奴隷と同じ仕方で自由の身になることはない。”とある。父親が自分の娘を奴隷として売ることを認めている。子どもの売買は聖書の原則には反しないようだね。」
「一夫多妻も妾も認めています。」
「申命記24:1に“男性が女性と結婚したものの,女性に恥ずべき点があるのが分かって好きでなくなったなら,離婚証書を書いて手渡し,家から去らせなければなりません”とあるように夫の側から簡単に離婚できるけれど、妻の側からはできない。これも“エホバの定めた家族の基準”じゃないの?」

「8から13節が“家族の良い頭になるには”で、謙遜さと愛が大事なようです。」
「10節の下の夫婦で料理を作り、聖書の勉強をしているという写真だけれど、宣伝用のモデルハウスとしても、裕福すぎるだろう。この男の職業はレストランの窓ふきじゃないよね。シンプルな生活とよく言うけれど、本音はそうじゃないことがよくわかる。」

「11節には“謙遜な夫は家事を進んで行います。”とあります。家事をしない夫は謙遜ではないということですね。」
「結婚生活がうまくいくには、安定した収入があることと夫の家事参加度が高いことという調査があるよ。JWは宗教にかまけて安定した収入がない分、家事に参加しないといけないということだね。」

「12節に“生活するのに必要なものを得られるようにします。(テモ一 5:8)”とあります。久しぶりにテモテ一5:8を見たような気がします。」
「“もしもある人が,自分の家族,特に一緒に住んでいる人たちに必要な物を与えないなら,クリスチャンの信条を否定していることになり,信仰のない人より悪いといえます。”と言う聖句だね。これは宗教にかまけてまともに働かないJWにとって、あまり触れて欲しくないわけだ。」
「ついでにヤコブ2:16,17“「安心して過ごしてください。温かくして,たくさん食べてください」と言うだけで,体に必要な物をその人に与えないなら,何の価値があるでしょうか。 同じように信仰も,行動が伴っていないなら,死んでいるのです。”も引照聖句にすべきです。」
「これによくあてはまるのが統治体だよ。口先で愛と言いうだけで何も愛を実践していない。そういう訳でこの聖句は無視だよ。」

「13節の下に“結婚したばかりの男性が妻の敬意を得るには”と言う囲み記事があります。6つのアドバイスが出ています。3番目が“妻を自分の母親と比較しない。”です。JWの母親だと、掃除はしない、料理はいい加減、感情的で理屈が通じず、すぐわめき散らすというのが典型ですから、母親と比較したら自分の妻はなんと素晴らしいと思うんじゃないですか?」
「妻もJWだったら、若いだけでJW母親の劣化版にすぎないよ。」

「14から20節が“家族の頭が行うべきこと”です。5つのことが書かれています。」
「14節に“家族の頭も,家族が信仰を強く保てるよう助けることを最優先に考えます。”とある。やっぱり宗教優先、家族はその次ということのようだ。」
「15節では“家族の頭も同じように,妻や子供を愛していることを言葉や行動で示せます。例えば,一緒に聖書を研究できます。”とあります。こんな愛はいらないという子どもはけっこういると思います。」
「なぜ一緒に聖書研究という名のJWの教義の勉強をすると愛していることになるの?組織の言いなりになっているだけでしょう。」

「14節では“家族を愛し,大切に思い,感謝していることを言葉で伝えることもできます。ふさわしい時には,ほかの人もいるところで家族を褒めることができるでしょう。”とありますが、これはアメリカ人の考えそうなことですよ。アメリカ文化が世界で通用すると思っているわけです。」
「アメリカ人は家族にI love youとかLoveとかよく言うよ。でも他にそんなことをしている文化圏はあるかな?そんなことをしているのは、日本だったら、アメリカかぶれの変人だけだろう。執筆者はアメリカしか知らない田舎者ということ。」

「16節では“エホバはイスラエル人に,生きていくのに必要なものを与えました。イスラエル人が不従順になったために罰を受けていた間もです。”とあります。本当ですか?」
「これは出エジプトの話なんだけれど、神は食料と水は与えているね。でもそれだけだよ。牛や羊やたくさんの家畜もいたことになっている。家畜のえさはどうしたのかな?砂漠は夜は冷える。暖をとるためには薪が必要。それはどうしたのかな?」

「“罰を受けていた間もです。”とわざわざ書くのは、子どもが集会に行くのを拒否するとか、排斥されたという家族が増えているからでしょうね。」
「そういう場合、父親が家を出て行けと恫喝したり、食べ物を与えないということがあるようだ。英語の掲示板で、今日家を出るように言われたという10代の若者の投稿をみたことがある。日本だと、それは児童虐待や保護責任者遺棄という犯罪になる。」
「そういう常識のないJWの親のせいで、JWの評判が悪くなるのを心配しているのですよ。」
「組織の言うことに盲従し、自分たちは絶対的に正しいと信じているから、JWはどんなにひどいことでもできる。JWの子どもは気の毒だね。」

「16節では“家族の頭も,エホバに喜んでいただくためには,家族が生活するのに必要なものを得られるようにしなければなりません。しかし,上手にバランスを取る必要があります。”とあり、仕事をしてお金を稼ぎなさいと一応言っていますが、バランスを取れといって、あまり仕事をするなとブレーキをかけています。」
「組織の言いなりになって、宗教第一で生活した結果、家族が悲惨なことになっても組織は責任を負わないことを家族の頭は理解すべき。」

「18節に“ガラテア 6章1節の原則を当てはめ,家族を「優しく正」します。”とあります。ガラテア6:1は“兄弟たち,誰かが道を踏み外したなら,たとえ気付かずにそうした場合でも,クリスチャンとして十分に資格がある皆さんは,その人を優しく正すことに努めてください。”となっていますが、この訳はいかにもJW的な気がするのですが。」
「“十分に資格がある皆さん”と言う表現はJW的だね。1世紀に資格認定試験はないよ。直訳すると“霊の人”。」
「ガラテア5:25には“私たちは聖なる力に導かれて生きているのですから”とあります。全てのガラテアの信者は“霊の人”ということですよね。」
「パウロは全ての全ての信者に正すことに勤めるように言っている。特定の資格のある人しか正すことをしてはいけないというようなJW的な思想はないよ。」

「ガラテアの手紙は別名“怒りの手紙”ともよばれますよね。ガラテア3:1には“無分別なガラテアの人たち”とパウロは言っています。それが“霊の人”に変わるのがよく理解できないのですが。」
「パウロがガラテアの人を“霊の人”と呼んだのは一種の皮肉表現と思われている。手紙が書かれた時点では、ガラテアの信者は本当はそれほど霊的じゃない。あるいは、ガラテアの信者の一部の人が自分たちを“霊の人”と呼んでいて、それを知ったパウロが皮肉ったという説もある。いずれにしてもJWの“十分に資格がある皆さん”という訳は全然ダメ。」

「19節が“家族のことを考えて決定する。”なのです。JWの父親は組織の規則のことを考えて決定するよう求められているわけで、矛盾しています。」
「JWとしては、組織の規則に従った決定が家族のことを考えた決定と見なしているんだよ。意思決定に関して、個人の裁量は認めない、組織への服従を最優先するというのがJW。」
「JWの子どもなら、その辺は幻想を持っていないと思います。親が子どもよりエホバを優先するだろうということはわかっています。」
「JWの子どもは自分には親はいないと思って、はやく自立することが大事ということだね。」

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