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#1201 2020年08月07日 14:27:22

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“お名前が神聖なものとされますように(23)”で、神の名前が重要なこととその理由が主な内容です。」
「奇妙なJW神学が展開されていて、ついていけないね。13節に、“聖書の中心テーマは次のようなものです。エホバが,イエスの治める王国によって名を神聖なものとし,地球全体に正義と平和を行き渡らせる,ということです。”と、何の根拠もなく断言しているのに驚いた。」
「神の名前にこだわっているのはJWだけですよね。」

「名前は他のものから区別するために必要とされる。したがって神の名前が重要なのは多神教だよ。一神教では名前なんかどうでもいい。イスラム教のアラーというのは、the Godだからね。神の名前じゃない。」
「一神教でありながら、名前が大事とするJWの理屈は説得力がないですよ。」
「しかもエホバなんて言っているのはJWだけ。嘘の名前だよ。JWだってそれは認めている。それでもエホバという名前を使うのは、よく使われているからと言っている。笑えるね。」
「朝日新聞が、在日韓国人の犯罪を報道するとき、本名ではなく通称名を使う理屈と似ていますね。」
「JWと朝日の意外な共通点だ。」

「1節に、“全ての人に関わる非常に重要な問題があります。その問題には,神の主権と神の名が関係しています。”とあるのです。これって変な文章です。重要な問題がありますと言っておきながら、それを明らかにせず、主権と名前が関係するとしか言っていません。これって、なぞなぞですか?」
「英文でははっきり書いているよ。“VERY important issues are facing us today—sovereignty and vindication.(主権と義の立証)”とある。神の名前なんて出てこない。翻訳者はvindicationという意味が分からなかったのかも。キリスト教関係の本にはよく出てくるけれど、翻訳者はキリスト教とは関係のないエホバ教の信者なので、こういう言葉がよくわからないのだろう。でも、sovereignty and vindicationが今日の重要問題なんて、ばかばかしい。」

「その次の文は、“エホバの証人である私たちは,このような点について語る時,心が熱くなります。”ですが、そんなJW見たことありません。アメリカのJWはエホバの主権を熱く語るのですか?風変わりな人たちですね。」
「英文では、“we love discussing those fascinating subjects.”で、語るのが大好きみたいだよ。でも、そんなJWはアメリカにもいないよ。この記事が信用できないことがよくわかる。」

「囲み記事の冒頭で、“全ての人に関わる極めて重要な問題は,エホバの名が神聖なものとされることです。”と断言していますよね。そして、この問題には、“エホバは正当な主権者なのか”という問題と、“知性を持つ者全ての中で,神に忠誠を尽くす者がいるのかという問題”が関連するのだと、断言しています。理解できませんね。」
「名前、主権、忠誠という問題が三位一体となっているという主張ね。そう考える根拠も論理もない。ただ断言しているだけ。」
「JWが強弁している場合、その主張に根拠がないということですね。」

「すべての人に関わる重要な問題が、エホバの名前がどうのこうのという問題であるなんて、バカバカしくて、あきれてしまうね。」
「もし北朝鮮のテレビが、北朝鮮全人民すべてにかかわる問題はキム委員長のお名前を神聖なものにすることです、と言ったとしても、ああいう体制なので理解できます。JWも同じようなものということですね。」
「愛ある神なら、自分の名前のことより、人間がどう生活し、どう幸せに暮らすかといった問題の方を重視するはずだよ。執筆者ははその程度のこともわからないようだね。」

「5から7節が、“神の名は重要”です。5節に、“「お名前が神聖なものとされますように」。(マタ 6:9)イエスはこう祈ることがとても大切であると教えました。”とありますが、これはどういう意味ですか?」
「まず神の名=神。神が聖なるものとして扱われますようにという意味。イエスは神の名前を使わないといけないなんて言っているわけじゃないよ。」

「6節に、エホバというインチキネームを使うことの言い訳が出ています。“名前をどう表記するか,どう発音するかよりも,名前から誰を思い浮かべ,どんな印象を持つか,ということの方が重要です。”とあります。」
「そうだとしても、正しい名前を使うことの重要性は減らないよ。インチキネームを使うことの根拠としては弱いね。またその理屈なら、神でも主でもよいということになる。その方がインチキネームよりましだね。」

「6節に、“名にそれほどの価値があるのはなぜですか。名には他者からの評判や評価という意味合いがあるからです。”というのはちょっと違いますよね。」
「名前が大事なのは、古代社会では名前=その人だから。神の名をあがめる=神をあがめる、こと。神の名を汚す=神を汚すこと。JWみたいに、神の名を連呼することが大事という意味ではないよ。」

「8から12節が、“神の名が初めて傷つけられた時”で、エデンの園の物語を大げさに解釈した話を書いています。ほとんどが推測と断定です。」
「8節に、“アダムとエバはエホバの名を知っていました。エホバがどんな方かも知っていました。”とあるけれど、根拠はない。」
「神様はいつアダムとエバに自己紹介しました?単なる推測ですよね。」
「出エジプト6:2、3に、“神はモーセにさらに言った。「私はエホバである。  私は全能の神として,アブラハム,イサク,ヤコブに現れたが,私の名エホバについて十分に知らせることはしなかった。”といっている。アブラハムたちはエホバなる名前を知らないということ。」
「エホバという名前が知られるようになるのは、出エジプト以降という想定ですね。」

「“全能の神”と訳しているけれど、本当はEl Shaddai(シャダイ神)なの。Elは“神”と訳されているけれど、カナン地域の最高神の名前。Shaddaiは意味がよくわからない。」
「後のギリシャ語訳から“全能の”と訳すのが慣例になっているだけですよね。」
「一番ありそうなのは、古代ヘブライ語のshadhadh(破壊する、恐れさせる)から来た名前という説。旧約聖書の神様にぴったりだね。」
「アブラハムたちはシャダイと神を呼んでいたようですね。創世記17:1に、“アブラムが99歳の時,エホバはアブラムに現れて,こう言った。「私は全能の神である。私の道を歩み,非の打ちどころがない人になりなさい。”とありますが、神様は自分のことを全能の神すなわちエル・シャダイと自己紹介しています。」
「旧約聖書の中で神は、いろいろな名前があるの。最終的には、どう呼ぶかはどうでもよくなった。」

「9節の“サタンは蛇が話しているように見せ掛けてエバにこう尋ねました。”というのも聖書的根拠はないですよね。」
「ヘビはヘビだよ。創世記3:1は、“さて,エホバ神が造った野生動物の中で蛇が最も用心深かった。蛇が女に言った。”とある。蛇は野生動物の中の一つということが明記されている。これはエデンの物語は超自然的なものではないと読者にわからせるため。」
「サタンの腹話術の人形として使われたなんてどこにも書いていないですね。」
「動物がしゃべることに対して否定的になった後の時代の解釈にすぎない。」
「それに、サタンが悪魔のボスのようになるのはかなり後の時代ですよ。バビロン捕囚以降の時代です。」

「次に、“「あなたたちは庭園の全ての木の実を食べてはならない,と神が言ったのは本当ですか」。この質問には,毒のような巧妙なうそが盛られていました。”とあるけれど、違うだろう。ヘビは質問しただけだよ。巧妙なウソとはなにを指すの?」
「9節の最後は、“エバは,「エホバはもっと良いものがあるのに与えてくれないのかも」と考え始めたかもしれません。”です。“かもしれません”なんて単なる推測です。自分で物語を作っています。」

「10節に“サタンは真っ向から神に反対しました。神をあからさまに中傷し,エホバをうそつき呼ばわりしたのです。”とあるけれど、この話の登場人物はヘビでサタンではない。ヘビはサタンというのはJWの解釈に過ぎない。」
「10節に、“エホバよりもサタンを信頼し,最悪の決定をしてしまいました。”とありますが、これもエホバ対サタンというJWの二元論を創世記に当てはめているだけですね。サタンではなくヘビですよ。」

「細かいことを言うと、神から食べるなといわれたのはアダムで、その時点ではエバは存在していない。エバは神の命令をアダムから聞いたと考えるしかない。」
「となると、正確に言うと、エホバよりもサタンを信頼した、のではなく、アダムの話よりもヘビの話を信頼した、というわけですね。こういう細部にJWはこだわってほしいです。」

「11節が面白い。“エバはサタンにどう返答すべきでしたか。”と問いかけて、模範解答を示している。“あなたが誰かは知りませんが,私は父エホバを愛しています。エホバは私のことを思ってくれています。私たち夫婦にたくさんのものをくれました。エホバのことをひどく言うなんて許せません。もう話したくありません。”だそうだ。」
「これって、児童の性的虐待のことを質問された、頭の悪いJWの反応とそっくりです。要するに、会話を拒否するわけですから。」
「JWの想定では、エバは完全な知性を備えているのだよね。それなら、ヘビがしゃべったのに、“あなたが誰かは知りませんが”は、ないよ。もし本当にサタンが蛇を操っていたら、頭の良いエバは、ヘビに向かって“いま、あんたがしゃべるのを見ていたけれど、言葉と口の動きがゼンゼンあってないよ。”くらいは言ったと思うね。」
「まるでディズニーアニメの世界ですね。」

「それから“父エホバ”とあるけれど、そのような概念をエバが持っていたとなぜ言えるの?父なる神という発想は旧約聖書ではまれな概念だよ。」
「JWは新約聖書と旧約聖書をごちゃまぜにして聖書を理解しています。」
「それから、エバにとってエホバは父なの?創世記3:3で、エバは“神は,『食べてはならない。触れてもならない。食べたり触れたりするなら死ぬ』と言いました。”と言っている。父ではなく神と呼んでいるよ。」

「13から15節が、“エホバは名を神聖なものとする”です。13節で“聖書の中心テーマ”が、“イエスの治める王国によって名を神聖なものとし,地球全体に正義と平和を行き渡らせる。”ことと断定しています。」
「13節の、“聖書には,エホバがどのようにしてご自分の名を神聖なものとするかが記されています。(エゼキエル 36:23を読む。)”も、意味不明だね。」
「エゼキエル36:23には、“私は,あなたたちが異国の人々の中で汚した,私の偉大な名を,必ず神聖なものとする。”とありますが、どのようにかは書いていません。」
「それはエゼキエル36:24から28に書かれている。36:24に“私はあなたたちを国々から連れ出し,あらゆる土地から集めて,あなたたちの土地に連れ戻す。”とあるように、バビロン捕囚から再びイスラエルの地に戻り、正しい崇拝を回復することをもって、名を神聖なものにすると言っている。」
「ユダヤ人がバビロニアに負けたということは、ユダヤ人の神であるエホバがバビロニアの神に負けたということを意味するというのが古代の考えですよね。多神教を前提にしています。それがエホバの名を汚されるということで、それを元の状態に戻すことによって、名を清めるという理屈ですね。」
「それが、今のJWとどう関係するのか理解できないね。」

「15節に、“サタンは今でも神の名を傷つけています。”とあります。それは無神論と地獄の教義を指すようです。“そもそも創造者など存在しないと思わせようと します。”、“人を地獄で火あぶりにする冷酷な神だ,とさえ教えています。”とあります。」
「それなら、神の存在を信じ、地獄を信じない人は、サタンにだまされていないということになるね。そういう人は世の中に沢山いるでしょう。JWも安心してよいよ。」
「15節の上の挿絵を見ると、アダムとエバの他に、カトリックの司祭と進化論を教えている教師のような人が描かれています。」
「JWはこの二つを敵視し、憎んでいるようだね。」

「16から19節が、“あなたにできること”です。まず16節で、“エホバが聖なる神,正しい神,善い神,愛の神であることを伝えることができます。”とあります。」
「旧約聖書を読めば、そんな神ではないことは明らかでしょう。JWの教義でも、まもなく人類99.9%を大虐殺する神様だよ。それと愛、正義、善とどう結びつくのかな?」

「17節に、“パリサイ派の人は,エホバが厳しく,要求が多く,人間と関わりを持たない無慈悲な神であるかのような印象を植え付けていました。”とありますが、これはJWのことですよ。」
「この執筆者は、パリサイ派を持ち出すことによって、今のJWを批判しているのかもよ。」
「違いますよ。JWはパリサイ派と同じと見られているなんて、これっぽっちも思っていません。だから自己満足に浸っていられます。」

#1202 2020年08月07日 15:00:13

ガッツだぜpart2
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ジョエルさんへ

もちろん山の神というのは私の想像で、破壊等の意味である事は知っております。
お時間のある時に感想をお願いいたします。

#1203 2020年08月07日 17:18:59

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

万年研究生さん>地上に雨がふらなかったとコメントがありJW LIBURARYで調べてもどうもはっきりしません。

てつてつ>どこだったかはっきり覚えてないですけど 旧の進化と創造の本のどこかに大洪水までは雨がふらなかったという一節があったような気がします 虹が現れるようになったのは大洪水以降雨が地上に降るようになったからみたいなことが書いてあったような気がします

旧の進化と創造の本ちょっと確認してみましたがそのような記述は見当たりませんでした 申し訳ありません勘違いだったようです cry

編集者 てつてつ (2020年08月07日 17:31:51)

オフライン

#1204 2020年08月07日 18:14:35

ガッツだぜpart2
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

>てつてつさんへ プレゼント

これの引用ではないでしょうか?
https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1200003626


聖書に対する洞察,第2巻

より

”これが,人間が虹を見た最初の時かどうかに関しては,多くの意見が出されてきました。注解者の中には,虹はそれ以前にも見られたのであって,この時に神が虹を『お与えになった』というのは,実際には,以前から起きていた現象に特別の意味もしくは意義を『付与』されたということである,と主張する人もいます。このような見方をする人の多くは,大洪水が局地的なものに過ぎない,あるいは大洪水によって大気が実質的に変化しなかったと考えています。


それでも,これは虹のことが初めて述べられている箇所であり,またもし虹がそれ以前から見られていたのであれば,神がそれをご自分の契約の顕著なしるしにされたとしても,実際には少しも効果がなかったでしょう。それはありふれた事柄であって,変化,つまり新しい事を印づける重大な事柄とはならなかったでしょう。

それと大昔、青い手帳サイズより少し大きいサイズの本を使ってませんでしたか?記憶違いかもしれませんが。

#1205 2020年08月07日 18:32:18

ガッツだぜpart2
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

この引用文で私が疑問に感じるのは、感情的だなという事です。

”実際には,以前から起きていた現象に特別の意味もしくは意義を『付与』されたということである”

からの大洪水を信じていないからだという結論が、若いJWの子にはきついでしょう・・・・・

#1206 2020年08月07日 19:07:21

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ガッツさん

山の神含めて諸説あるのは知っていますが、語源てそういうもの(銀シャリのM1優勝ネタ)なので感想をと言われても難しいですね...

ガッツさんには申し訳ないですが、質問さんが書いたようにシャーダド(破壊)がヤハウェらしくて古代ヘブライ人のイメージに近いのではと思っています。エルシャッダイがよく出てくるヨブ記のヨブは「主は与え、主は奪う」と言っています。

与えるも奪うも「それはヤハウェの勝手なんです」が古代ヘブライ人なので、ヨブが子ども皆殺しにされたあげくに71行のスクリューカウンターを叩きつけられて説教されたように「神の正しさを問う」という発想すら彼らにはなく、おこがましいもいいところです。ヤハウェも「サタンがお前のこと悪く言うからさ~ワシがやったんじゃないんだよ~」みたいなヘタれたネタばらしもしてませんし。

#1207 2020年08月07日 19:26:12

ガッツだぜpart2
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

そうですね。それと語源は別として、この神様は遊牧民の神らしく放浪癖があるような気もします。
よく言えば変化前進の神。追従する者は一時も休めません。これは私の感想です。

ジョエルさんの仰天さんトピでしたか、第三神殿の話で、もう既にそこには神はいないような気がします。

#1208 2020年08月08日 06:02:10

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

ガッツさん>>てつてつさんへ プレゼント

これの引用ではないでしょうか?
https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1200003626

ありがとうございます でもちょっと自分の思っているのとちがいます 昔はもっと山が低く大洪水の水で全ての山の頂まで水没することが可能でそれまで雨も降っていなかったみたいな記述があったような...かなり記憶があいまいです cry

オフライン

#1209 2020年08月08日 19:45:39

アノニマス
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

おじゃまします。

研究生だった昔、その話教えてもらった覚えがあります。雨が止んでから山が隆起したり海溝が深くなって今の水位になったと。

#1210 2020年08月14日 16:05:28

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方、暑い中、汗だくで近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“私の心を一つにしてください,私はあなたの名を一心に畏れます。(24)”で、神の名前は大事だから、神の名前を一生懸命伝道しなさい、そして性的な誘惑を拒否しなさい、という内容です。」
「後半にダビデが出てくるけれど、JWではダビデといえば性欲過多な男の代表という扱いだから、ダビデが出てくると、どうしてもポルノはダメだ、みたいな話になるよね。 12歳以下は集会に参加しないでね。」

「1節に、神を畏れるとは、“神に畏敬の気持ち,深い敬意を抱くことです。”と説明しています。“畏れる”とはそういう意味ですが、わざわざ書いているのは、元の英文ではfearだからですね。」
「fearは、恐れる、怖がるという意味。だから、そうではないよ、とわざわざ説明している。」

「3から7節が、“エホバの名に畏敬の気持ちを抱くべき理由”です。」
「3節はJWのおかしな論理がよくわかる駄文だね。“モーセは岩の裂け目に隠れ,エホバの栄光が通り過ぎるのを見た時,どんな気持ちになったでしょうか。”と問いかけて、その答えを、“「聖書に対する洞察」の本によれば”とJWの出版物に求めている。おかしいだろう。」
「この執筆者にとって“洞察”の本は昔の偉い人たちが書いたと権威のある本なのですよ。“洞察”に書いてあれば真理と思っていますよ。」
「“洞察”が最初に書かれたのは40年くらい前だよ。その時使った資料はもっと古いもの。しかも、“良心の自由”によると、その主な著者5人の内2人は後に排斥されている。」
「その後、3節では、“モーセはエホバの名を使うたびに,この時の出来事を思い起こしたことでしょう。”と、いいかげんな推測を述べています。いやになりますね。」

「4節で、詩篇 77:11-15が引照聖句になっている。77:11は、“私はヤハが行ったことを思い出す。”で始まる。“ヤハ”は神の名前の短縮形だよ。だから神の名前はヤハで始まると推測されている。エホバならエホでしょう。JWはエホバという名前がへんだと気づかないのかな。」
「JWにそういうことを期待するのは無理ですよ。ハレル・ヤのヤも神の名前の短縮形ですよね。JWはハレル・エと改変すべきですね。」

「5節で、“エホバという名には「彼はならせる」という意味があるという見解に,多くの学者は同意しています。”というのは不正引用だ。多くの学者って誰のことなの?」
「YHWHの意味や語源について多くの説はありますが、定説はないのですね。」
「そうだね。おそらくヘブライ語ではないよ。YHWHという神の名前は、バビロニア、エジプト、アラブに見られる。中東地域ではよく知られている神で、それが後にイスラエルの神に採用された。もしヘブライ語起源としたら、“彼は成らせる”ではなく“彼は在る”のほうがより妥当でしょう。」

「7節で、“エホバが造ったもの全てについて考えると,創造者であるエホバに対する畏敬の気持ちに打たれます。”とお決まりのことを言っています。」
「ウイルスや細菌も神様が造ったんだよね。いかなる戦争や災害よりも、ウイルスや細菌のせいで死んだ人間の数の方がはるかに多い。恐怖を感じても、畏敬の念は感じないね。」
「初めはウイルスや細菌は有益な存在として造られたというのはどうですか?」
「絶対にない。生物にはウイルスや細菌から体を守るための免疫という極めて複雑な仕組みが存在する。もしウイルスや細菌が有益なものだったら、そんな複雑な仕組みは必要としない。」

「8から11節が、“エホバの名を広める”です。8節に、“イスラエル人が約束の地に入る直前,エホバはモーセに,ある歌の言葉を教えました。(申 31:19)”とあります。申命記31から32章にかけて、モーセの歌とよばれるものがありますが、それを読むと、とうていモーセの時代のものではないと思いますね。」
「申命記は、カナンの地に入る直前に、モーセがイスラエルの民に行った別れの説教を書き記したものとなっている。申命記の最後で、イスラエルの民がヨルダン川を渡って行くのを見送りつつ、モーセは120歳の一生を終えるという設定だね。しかし、申命記の内容は、城壁で囲まれた都市の生活や、王制、裁判所、職業的な祭司などずっと後の時代の制度が存在することになっていて、モーセの時代のものじゃない。アッシリアに北王国が滅ぼされた後で、紀元前7世紀ごろ書かれたと考えられている。」
「モーセの歌の時代背景は、バビロン捕囚期かそれ以降が一番良く合うと思いますが?」
「内容的にそうだね。文章の形式もアッシリアの訴訟文書と同じ。申命記31,32章は後の時代の追加部分と考えられている。」

「“(申命 32:2,3を読む。)2,3節の内容を考えると分かるように,エホバは自分の名が隠されることを望んでいません。”とあります。申命記32:3には、“私はエホバの名を広めるからだ。私たちの神の偉大さを語れ。”とあります。」
「これは詩なのね。ヘブライ語の詩は2行で一つのまとまりのことが多い。同じことを2回、表現を変えて言う。そのため解釈がしやすい。」
「つまり“エホバの名を広める”を言い換えたのが、“神の偉大さを語れ”ということですね。」
「神がしたこと、神の性格を明らかにせよ、示せという意味で、神の名を選挙運動のように連呼せよということではない。」
「本当に神が、自分の名が隠されることを望んでいないのなら、なぜ神の名前は消えたのでしょうか?正確な発音さえわからないわけですよ。」
「神は無力か、名前などどうでもよいと思っているか、のどちらかじゃないの?」

「出エジプト20:7に“あなたの神エホバの名をむやみに用いてはならない。その名をむやみに用いる人をエホバは処罰せずにはおかない。”とありますしね。JWはこちらの聖句は無視ですね。」
「こちらは罰則付きだからね、神の名前をみだりに口にしてはいけないんだよ。」

「自分の父親をファーストネームで呼ぶ地域はあるのですか?アメリカの若い親はそうですよね。」
「アメリカだって、父親のことをジョーとかマイクなんて呼ぶ家庭はそんなに多くないと思うね。どこかにそういう調査結果があると思うけど。」
「イエスは祈りで父と呼んでいます。それを名前で呼べというのは、アメリカ人の習慣の押し付けじゃないですか?多くの文化では、神の名前を呼び捨てにしません。」
「JWはアメリカ文化の産物ということだね。アジアでは、偉い人を名前で呼んではいけない、それは失礼だと考える地域もあるから、偉大な創造者をエホバと呼び捨てにするのに違和感を覚える人も多いかもね。」

「8節に“人々は,モーセからエホバとエホバの輝かしい名について教えられ,感動したことでしょう。”とあるけれど、これも単なる推測です。」
「元の英文は、“What a privilege it was for people to hear Moses teach them about Jehovah and His glorious name!”で、“感動したことでしょう。”ではなくて、“なんという特権privilegeなのでしょう!”だよ。特権大好きなのがJWだね。」

「9節に、“家から家に,また公共エリアで伝道する時も,神の名がエホバであることを聖書を使って知らせましょう。”とあります。これはやめた方がいいですよ。」
「神の名前がエホバだなんて、どんな聖書辞典にも出ていないよ。ある新興宗教が固執していますが、エホバという名前は間違いです、みたいなことが書いてあるのが普通。一般の人から、そのようなものを見せられたら、どう答えるの?」

「9節に、“エホバの名を傷つける教えが一般に広まっている,ということを示せます。”とありますが、そんなに広まっていますか?」
「これは誤訳だね。元の英文はWe are clearing up some of the lies and slander about Jehovah that others may have been taught.(私たちは今まで教えられてきたかもしれないエホバについての嘘や中傷の一部を正しています。)で、嘘や中傷が広まっていることを示すのではなく、正しい教えによって正すのだ、といっている。」

「10節から、エホバの名前からエホバの基準・規則に話がすり替わります。11節で、“エホバの基準や規則の価値を理解するには,それらが愛の表れであるという ことを知る必要があります。”と言っています。」
「輸血禁止がなぜ愛の表われなのか、説明できる人はいるの?JWの様々な禁止事項は単に信者を管理統制するためじゃないの?」
「聖書レッスンでは、研究生を、たくさんある無意味なJWの禁止事項は愛の表われと、うまく言いくるめるように工夫しましょうと言っているだけですよ。JWにはくだらない基準や規則だらけなんてことは、JWが一番知っています。」

「11節に、“聖書レッスンを行う際,こう尋ねることができます。「神がこのような指示を与えているのはなぜだと思いますか。エホバのどんな性格や考えが分かりますか。」”とあるよね。でも、研究生が、サムエル一15:3の“さあ,アマレク人を討ちに行き,所有物も一緒に滅ぼし尽くしなさい。生かしておいてはならない。男性も女性も,子供も幼児も,牛も羊も,ラクダもロバも殺しなさい。”を示して、“これって徹底的な民族浄化ですよね。この指示から、エホバのどんな性格や考えが分かりますか。”と尋ねられたら、どう答えるの?」
「エリシャが、少年たちに禿げ頭とからかわれた時、列王二2:24に、“少年たちに災いがあるようエホバの名によって願い求めた。すると,森の中から雌熊が2頭出てきて,子供たちのうち42人を引き裂いた。”とあります。子どもの虐殺ですね。このことからエホバのどんな性格や考えがわかりますか?」
「難しいね。熊が大好きな性格かな?」

「12節からが、“エホバの名によって歩む”ですが、中身はなぜか性欲を抑えようという話です。ここからは12歳以下はZOOMから退出してね。」
「12節に、“ダビデは,「仲間の妻[を]……欲しいと思ってはならない」というエホバの基準を知っていました。(出 20:17)それでも,その女性を見続けたようです。”と、あるけれど、違うだろう。」
「バテシバが人妻とわかったのは、バテシバの事を調べさせた後の話です。」
「本当はダビデの話はどうでもいいんだよ。」

「ポイントは、15節の、“テレビやインターネットで性的な欲望を刺激する画像を目にしたら,どうしますか。ポルノではないので大丈夫,と考えますか。心を分かれさせようとするサタンの手口であることを見抜きますか。”でしょう。」
「ポルノではない“性的な欲望を刺激する画像”とは具体的にどんなもの?巨乳の水着の女性の写真とか?」
「そういうものを作っているのは、実はサタンなんですね。驚きました。」
「ベテルで働いているJWの中に、このような画像をスマホにたくさん集めている兄弟が結構いるんだよ。それを見ながら、大量にティッシュペーパーを消費している。それを禁止するための記事なんじゃないの。」

「15節に、“そのような画像は,大きな丸太を割る時に使う,金属製の小さなくさびのようです。まず,薄い刃の部分を丸太に刺します。それから,くさびを打ち込むと,丸太は割れます。性的な欲望を刺激する画像は,くさびの刃先のようです。無害に思える小さなことがきっかけで心が分かれ,あっという間に罪を犯してしまうことがあります。”とありますが、典型的な詭弁ですね。」
「これは、「滑りやすい坂論法slippery slope argument」だね。一度何かに踏み出せば、歯止めが利かなくなり、最悪の結果になる。だから最初の一歩を踏み出してはいけない、というタイプの詭弁。」
「水着の画像を一度見ると、どんどん滑り落ちて、最後は強姦魔になる、だからそのような画像を見てはいけないと言っているようなものですね。もしそれが本当なら、この世は強姦魔だらけです。」
「この記事の執筆者も、無害な画像を禁止するまともな理屈が思いつかなかったんだよ。こんな詭弁でだまされるのは、間抜けなJWくらいだね。」

「JWはポルノ規制には熱心ですが、幼児の性的虐待などについての記事はほとんど出ませんね。裁判で多額の賠償金の支払いを命じられているわけで、ポルノ規制よりも、より重大な問題なのに、おかしいですよ。」
「ポルノ規制は。信者を管理統制するための、そして罪悪感を抱かせるための道具だね。あるいは、一度でも水着の映像を見ると、幼児に性的暴行を働く強姦魔になると、本気で信じているのかも。」

「17節に、“自分の心の状態を,団結しているチームのようにしましょう。エホバに仕えるという1つの目標に,自分の考えや欲求や感情を合わせるのです。”とあります。これは無理ですね。」
「人間の脳がそうなっていないよ。脳はそれぞれがある程度独立した部分を寄せ集めたような設計になっている。非常に肥満した人が、痩せるという“一つの目標に、考えや欲求や感情を合わせる”ことができるかといえば、それは困難だ。痩せたいと思っても、食欲を感じる部分はそれとは独立して働くので、考えとは無関係に食べたいという欲求が生じる。だから痩せたいと強く願っても、簡単には痩せられない。」
「JWの言うように人間の脳を設計したのが、エホバなら、文句はエホバに言いなさいということですね。人間は悪くない。」
「この記事もおかしな詭弁が目立つものだった。執筆者を変えたらいいと思うよ。」

#1211 2020年08月21日 14:52:06

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“私は……自ら自分の羊を捜[す](25)”で、不活発(inactive 6カ月以上野外奉仕報告を提出していない人)になったJWをどう扱うか、という内容です。」
「珍しいテーマだね。不活発者の増加と、新しい信者獲得の困難から、不活発者を再利用しようと考えたわけだね。」

「2節に、“エホバはわが子が1人でも集会や伝道に参加しなくなると,すぐに気付きます。”とありますが、エホバの子ってだれですか?一般の信者のことですか?」
「よくわからないね。いつから一般の信者も神の子になったのかな?」

「4から7節が、“エホバに仕えるのをやめてしまった理由”です。取り上げられているのは、仕事、病気、会衆内の人間関係、過去の罪です。」
「外れる預言、よく変わる教義、JW独自のインチキ歴史年代、児童性的虐待の組織的隠ぺい、国連やナチスとの怪しい関係、しつこい寄付の要請などは不活発になった理由としてとりあげていないのか。残念だね。」
「組織にとって不都合な問題は無視します。」
「児童性的虐待の問題は英語圏ではかなり広く知られてきて、それを理由にJWを辞める人がかなり出てきている。それなのにこの問題は無視ね。」

「5節のアンの話は悲惨ですね。5人の子どもがいて、そのうち2人は障害と病気があり、1人は排斥だそうです。それで不活発になった。」
「アンはJWになったのがそもそもの間違い。JWは困難な家庭を支援するよりも、一時間でも多く伝道した方が偉いという倒錯した価値観の宗教で、助け合いの精神なんかないよ。困った人を援助してくれる宗教団体はたくさんある。そういう宗教に入るべきだったね。」

「6節もひどい話です。“罪を犯したといううその告発によって,会衆で得ていた資格を失いました。どう反応しましたか。「もう我慢できないと思いました。次第に会衆と距離を置くようになりました」。”とあります。」
「“もう我慢できないと思いました。”は、英文では“I got angry(私は怒りました)”だよ。当然の怒りだよね。ウソの告発がまかり通る組織に対する反省はないのかな。」
「この程度のことで、怒る方が悪いというような書き方です。」
「この節は、“コロサイ 3:13を読む。”で始まる。そこには、“引き続き互いに我慢し,寛大に許し合いましょう。”と書いてある。嘘の告発で被害を受けても、怒ったりせず、許せということみたいだね。加害者の責任を放置し、被害者のほうに過大な要求をする、実に不公平な組織だ。」

「“うその告発”とあります。この場合、二人の証人ルールは守られたのでしょうか?」
「守られたとしたら、二人もウソつきがいたということになる。守られなかったとしたら、大変な問題だ。JWは児童性的虐待では証人が二人いないから、何もできませんでしたと言い訳している。それなのに、より些細な問題で、1人のウソの告発で処分をしているなら、性的虐待問題での言い訳がウソになる。」

「7節の例は、考えようによっては滑稽です。“性的不道徳を犯し,戒めを与えられました。初めは集会に行っていましたが,自分がここにいていいのだろうかと思い,気分が落ち込んでいきました。”とあります。それで不活発になったそうですが、JWの偉い人で、性的不道徳を犯していて、何の戒めもないという人はけっこういるのですから、気にしすぎですよ。」
「偉くなればなるほど、性的不道徳くらいで、処分することは困難だ。公に知られるとJWのただでさえ悪いイメージがさらに悪化する。組織の中枢にいるJWだと、せいぜい巡回監督として地方に左遷するくらいじゃないの。生活の面倒は見てやる。その代わり一切しゃべるな。そういう取引でね。」
「ですから平信徒が、性的不道徳くらいで、過度に自分を責めることはないですよ。」
「罪悪感はカルトの罠なの。カルトは罪悪感で信者を縛り、宗教に依存させようとする。」

「8と9節が、“エホバは自分の羊を愛している”です。マタイ18章の99匹と1匹の迷える羊の話を取り上げています。迷える羊を不活発になったJWのことと見ているようです。」
「8節に、イザヤ40:11の“神は羊飼いのようにご自分の群れを世話する。”を引用して“偉大 な羊飼いエホバは,”とある。9節には、“エホバを羊飼いに例えるのはなぜ適切ですか。”と言っている。でも、旧約聖書で、神様を羊飼いに例えることは極めてまれだよ。」

「イザヤ40:11以外だと、詩篇23:1の“エホバは私の牧者。”くらいですか?王や軍の指揮官のことを羊飼いに例えるということもありますね。」
「その場合、大抵はいい意味じゃないの。ゼカリヤ13:7に“大軍を率いるエホバは宣言する。「剣よ,目を覚まして私の牧者に立ち向かえ。・・・”とある。“私の牧者”とはイスラエルの指導者のことで、神によって裁かれる存在。悪者。」
「つまり、羊飼いとは高く評価されている職業じゃないわけですね。」

「イスラエル人は基本的に農民なの。農民からすれば、羊飼いは有害な存在。自分の土地に勝手に羊を連れてきては、植物を食べさせていく。時代が進むと、羊飼いは泥棒と同じようなものと見られるようになる。羊飼いは安息日を守るのも難しいし、律法遵守という観点からも好ましい職業とは思われなくなる。」
「そのようなことを知らない、この記事の執筆者は、エホバを羊飼いに例えることを適切なことと思い込んでいるわけですね。」

「10から14節が、“エホバは自分の羊を捜す”です。10節では、“エゼキエル 34:11-16を読む。”とありまして、これはこの記事のタイトルになっている聖句です。」
「エゼキエル34:11には、“私はここにおり,自ら自分の羊を捜し,世話する。”とあるけれど、これはバビロン捕囚中のイスラエルの民に向かっていった言葉だよ。現代のJWに向けて言ったものではない。」
「JWはこの聖句を長老にあてはめています。10節には、“長老たちはそのような人を捜し,会衆に戻れるよう助け,エホバとの友情を取り戻せるよう優しく世話します。”とあります。」
「でも、その時長老たちに、教義の一部でも疑問を投げかけると、不活発者から排斥へと一気に進むんじゃないの?すこしも優しくないよね。」
「組織に表立って異議を唱えないかぎり、優しく世話をするという条件付きのものです。」
「12節ではヨナが出ているよ。“立派な羊飼いであるエホバは,ヨナを救い出し,割り当てた仕事を果たせるよう助けました。”と言っている。でも、ヨナは特別な例で、それを一般化はできないよ。」

「13節は、詩編73を取り上げています。“詩編 73編の筆者は,悪人が良い暮らしをしているのを見て落胆しました。エホバの望む通りにして何の意味があるのだろう,と思いました。”とあります。」
「詩編73は、悪が栄えることに対する苦悩が描かれている。73:16に“私は事の意味を理解しようとして,思い悩んでいた。”とある。」
「なぜ義人が苦しみ、悪人が栄えるのか、という問題ですが、その答えは詩編73を読んでも、ありませんね。答えがわからないので、73:19に“悪人は急に破滅する。突然に終わりを迎える。恐ろしい結末を。”といっていて、自分を慰めています。」
「でも、これは現実に反する。悪人だからと言って、突然恐ろしい終わり方をするなんてことは決まっていない。事故、災害や病気は義人にも悪人にも平等に死をもたらす。また、誰が悪人かも、現実でははっきりしない。」
「JWの統治体はJWから神のように崇められていますが、JWに批判的な人からすれば、多くの人の人生を破壊する悪人ですからね。」

「13節に“この筆者は,エホバとの良い関係こそが深い満足感を与える,ということを理解するようになりました。”とあるけれど、“深い満足感”という言葉は詩編73にはないよ。」
「詩篇作者は、なぜ悪人が栄えるのかについて答えがわからなかったわけですから、深く満足はしていませんよ。」
「初めは73:3に“私は高慢な人をねたましく思った。”とあるけれど、神による裁きを確信し、終わりの73:28では、“間違いなく,あなたから離れている人たちは滅びる。あなたのもとから去る不誠実な人を皆,あなたは消し去る。”という残酷な破壊願望に変わっただけ。いかにも旧約聖書的だ。」

「詩編73からの教訓は、“長老たちは,エホバに仕えて何になるのだろう,と考えるようになった人のことをすぐに非難してはなりません。その人の言動の背後にあるものを見極めるように努めます。”だそうです。」
「“エホバに仕えて何になるのだろう”と考える人に、長老は詩編73:28を読んで聞かせて、間もなく滅びることになっていいのですか?と厳しく問い詰めるのかと思ったら、そうじゃないのね。信者獲得に苦労するようになると、滅びると脅すのは禁止ね。」

「14節にはエリヤの例が出ていまして、その教訓は、“仲間を優しく支える必要があります。感情をぶつけてきたり,「自分はエホバに許してもらえない」と言ってきたりするとしても,長老たちはひたすら耳を傾けます。”だそうです。」
「そんなことはエリヤの話からは学べないよ。この記事が言っているのは、カウンセリングの際の基本的な態度だよ。相談者に、支持的かつ受容的に接しましょう、話をよく聞きましょう、ということ。このような思想は聖書にはないよ。」

「15,16節は、“エホバの迷い出た羊をどう見るべきか”です。イエス、パウロの例をあげて、16節で“長老たちには特別な責任があります。”と言っています。長老もっと働けということですね。」
「15節に、イエスは“「イスラエル国民の迷い出た羊」がエホバのもとに戻れるよう,できる限りのことをして助けました。(マタ 15:24。ルカ 19:9,10)”とある。“イスラエル国民の迷い出た羊”はマタイ15:24にあるけれど、この羊はマタイ18章の100匹の中の迷い出た1匹の羊とは違う意味なんだけど。」
「迷い出た羊であるイスラエルという意味で、イスラエルの中の迷い出た人たちという意味ではないですね。」
「マタイ10:5,6に、“異国の人々の所に行ってはならず,サマリア人の町に入ってはなりません。 いつも,イスラエル国民の迷い出た羊の所に行きなさい。”というイエスの指示が出ている。“イスラエル国民の迷い出た羊”は異国の人々と対比されていて、イスラエルの他の羊と対比されているわけではない。というわけで、“イスラエル国民の迷い出た羊”は、迷い出た羊であるイスラエルという意味だと解釈されるの。」

「16節で、ある長老が、“エホバが迷い出た羊のことをどれほど深く気に掛けているかを考えると,そのような人を助けるために何でもしてあげたいという気持ちになります。”といっているけれど、不活発になった人の多くは、長老の助けなんて必要としていないよ。余計なおせっかいをしないほうが、平和が保たれるんじゃないの。」
「来週は、そのおせっかいの仕方について学びます。」

#1212 2020年08月27日 07:35:30

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

水曜の夕方に近所のJW少年が汗まみれでやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“私のもとに戻ってきなさい(26)”で、不活発になった人を復帰させる方法について述べたものです。」
「来週からは、不活発になった人へ、しつこくメールや電話攻撃が始まるのかな?電話番号は早く変えよう。」

「3から7節が、“なくした硬貨を捜す”です。ルカ15章にでている、1枚の硬貨をなくした女性のたとえ話が取り上げられています。ドラクマ硬貨1枚は一日分の賃金に相当すると考えられていますよね。」
「そう。でも自給自足の田舎の村人にとって硬貨自体極めて稀なもので、金額以上の価値がある。」
「4節に、“イエスの時代,ユダヤ人の母親が,結婚 する娘に10枚セットのドラクマ硬貨を贈ることがあったようです。”とありますが本当ですか?」
「結婚する娘になにがしかの財産を持たせる、婚資という習慣はあった。しかし、10枚セットというのは本当かな?引用元を示さないインチキ引用だから、評価できない。婚資としての硬貨は、10枚かどうかは別にして、ネックレスとして身に着けていることが多かったようだ。だから、そのうち一つが欠けると、金額以上に大きな損失となる。」

「4節に、“家中を掃いて注意深く捜します。掃いて集めたごみの中に,きらりと光るものがあります。なくした硬貨です。”と解説していますが、これは正しい解釈ですか?」
「当時の村人の家は一部屋で土の床。ほうきで床を掃いて、硬貨があったら、手ごたえがある、あるいは金属音がすると思うよ。それで発見にいたるというのが一番ありそうなこと。山のようにごみを集めて、その中から硬貨を探すというのは、ありそうもない。」

「5節に、“イエスの例えからも分かるように,なくしたものを見つけるには労力が要ります。”とありますが、これは間違いですね。」
「硬貨は家の中で簡単に見つかった。村中探したわけじゃない。」
「でも、この例えの教訓は、“不活発な人を捜すためにも,労力が要る場合があります。”みたいです。」
「おかしな解釈だね。なくした硬貨の話の結論は、“悔い改める1人の罪人については,神の天使たちが一緒に喜ぶのです。”だよ。なくしたものが見つかった時の喜びが主なテーマで、さがす苦労ではない。」
「不活発の人は、“悔い改める1人の罪人”なんですか?違いますよ。」
「不活発なんていう人は聖書に出てこないよ。JWという組織の分類に過ぎない。イエスが不活発な人について語ったことなんかないよ。」

「8から13節は、“いなくなった息子や娘が戻れるよう助ける”です。8節には、ルカ15章にある放蕩息子の例えが出ています。」
「9節で、“エホバはこの例えの父親のようです。”とあるけれど、違うよ。」
「この父親は無条件で息子を受け入れています。無条件の愛を示しています。一方、JWのエホバという神様はあれこれと要求し、条件付きの愛しか示さないケチくさい神様ですから、全然違います。」
「“不活発な兄弟姉妹のことを愛していて,戻ってくることを願っています。”とあるけれど、戻ってくるとは組織に戻ってくるということでしょう。それを願っているのは、統治体の老人でしょう。」

「9節には、不活発な人を戻らせるには、“辛抱強さ,思いやり,愛が求められます。”とあり、10節以降その解説です。」
「10節に、“以前不活発だった人は,口をそろえて,何度も長老や会衆の人たちが訪ねてきてくれてやっと行動できた,と言っています。”とある。これは、不活発な人には、しつこく繰り返し訪問せよという組織の指示だね。」

「11節には、“会衆の誰かに傷つけられたという思いをなかなか拭えない人がいます。”、“不当に扱われたと思っている人もいます。”とあり、JWの人間関係や信者の扱いが不活発の大きな原因であると、組織も認識しているようですね。」
「不活発になる理由としては、教義上の、あるいは組織運営上の問題に気づくというのがあるけれど、これは知的なタイプの人。こういう人はJWにはあまりいないでしょう。」
「重複する世代とかバカげた方向に教義変更されても、多くのJWは無反応ですからね。」
「それよりも、長老や仲間のJWに不当な扱いを受けて、感情的に傷ついたことによって不活発になる人が多いんじゃないの。」
「そういう人に何をするかというと、“そのような人には,話を聞いて気持ちを理解してくれる人が必要です。”と、話を聞いて、口先だけの同情を示すだけみたいです。」
「それで、戻ったという事例があるんだろう。」
「数少ない成功例を過剰に一般化しているだけじゃないですか。」

「12節は、ホセア11:4の“親切の縄で,愛の綱で,私は彼らを導き続けた。”に基づいたお話です。“神の愛はどのような意味で縄のようですか。”と問いかけ、溺れた人は、“ロープを投げて引っ張ってもらい,ボートに乗せてもらう必要があります。”と言っています。そんな意味なんですか?違いますよね。」
「“親切の縄”というのは直訳すると、“人間の綱”。この奇妙な表現の解釈がむずかしい。一つは、JWのように、“人間的な”という意味と理解して、“親切の縄”のように訳する。もう一つは、協会共同訳のように“人を結ぶ綱”と解釈する。」
「“親切の縄で,愛の綱で”というのは、ヘブライの詩の形式からすると、同じことを、言葉を変えて2回言っているということですよね。となると、協会共同訳の、“人を結ぶ綱、愛の絆で”という訳の方がいいですよ。」
「ここでイメージされているのが、牛なのか子どもなのか、で訳は変わる。ホセア11:3は、“私はエフライムに歩き方を教え,腕の中に抱いた。”と、子どものイメージなの。ここでは珍しく、神は母のイメージとなっている。」
「それを踏まえて翻訳すべきということですね。それがJWはわかっていない。」
「“神の愛はどのような意味で縄のようですか。”という問いに対して、執筆者が用意した答えは見当はずれなもの。」

「13節に、30年以上不活発だった人が復帰したという話しが出ています。」
「30年間も不活発、つまり不活発なJWと記録されてきたの?除籍という制度はないのかな。一度JWになると、30年間JW活動しなくても、JWなの?断絶届がなければ、JWと見なされる?」
「会衆の長老次第なんじゃないですか。」
「その辺はいい加減な組織なんだ。」

「14,15節は、“優しく支える”です。」
「英文では、“LOVINGLY SUPPORT THE WEAK”で、優しく支える対象を“THE WEAK”(弱い者)と呼んでいるね。傲岸不遜な言い方だ。そうとは限らないよ。」
「14節に、“イエスが語った,迷い出た羊に関する例えの中で,羊飼いは羊を肩に載せて運び,群れに連れ戻しました。”とありますが、羊は迷い出たのですか?」
「これはルカ15章の話だよね。元の英文では、“the lost sheep”で、失われた羊という意味。それを迷い出た羊と誤訳しているだけ。」
「マタイとルカを混同しているのでしょうか。マタイ18:12は、“ある男性に100匹の羊がいて,その1匹が迷い出るなら”とありますね。」
「ルカ15:4には“ある男性が100匹の羊を持っていて1匹がいなくなったとき”とある。迷い出たとは言っていない。協会共同訳では、“あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、”とあり、羊飼いが羊を見失った、つまり羊飼いの過失を示している。こちらの訳の方がよい。」

「マタイとルカでは、99匹を残したのが、山と荒野で違いますし、ルカは羊を肩に乗せて連れてきますが、マタイはそうでないですね。」
「ルカは、パリサイ派などの“この男は罪人たちを歓迎して一緒に食事をする”という非難に対する答えとして、この例えが語られる。マタイでは、弟子たちに向けられた例えとなっている。そのため例えの意味するところも違うことになる。」

「15節に、戻ろうとした不活発な人は“聖書を誰かと学び直す必要があります。”とあります。でも、英文では“a Bible study”とありますから、聖書ではなく、JWの出版物からJWの教義を学ぶ聖書レッスンのことをいっています。」
「情けないことにJWの教義はよく変わるから、しばらく休んでいた人はついてこられないからでしょう。」

「16,17節は、“天にも地上にも喜びがある”です。16節は、この記事の中で一番笑えるところですよね。」
「“エホバのもとに戻りたいと強く願っている不活発な人を捜す活動に,天使が関わっていることを示す経験はたくさんあります。”といって、その根拠として、“エクアドルに住むシルビオの例を取り上げましょう。ある日,シルビオは,会衆に戻りたいと涙ながらに祈っていました。すると,まだ祈っている最中に家のベルが鳴りました。2人の長老が訪ねてきたのです。”という話しを載せている。それだけ?バカバカしいね。」
「この種の話はカルト宗教の出版物によく出ていますよ。JWだけじゃないです。」
「祈っていたら、長老が来たというだけ。天使がかかわっている証拠にはならない。こういうのを偶然とよぶ。」

「でも、天使が長老を導いた可能性もありますよ。」
「平凡なことで説明できるのに、極めて起こりそうもない常識を超えたなにか(この場合は天使の導き)が原因だ、とするためには、極めて起こりそうもない、常識を超えた強力な証拠が必要なの。」
「シルビオの家の上空に、翼の生えたケニー・ロジャース風の白いひげの男が飛んでいる写真とかビデオが証拠として必要ですね。」
「写真は偽物をいくらでも作れるから、証拠としては不十分ね。」

「JWは全世界で850万人くらいいるらしいのですが、その850万人が毎日祈れば、祈りが聞かれたという体験談は相当集められますよ。」
「祈りが偶然かなう確率が100万分の1でも、毎日数人のJWは、自分の祈りがかなったという経験をすることになる。」
「体験談なんて、何かを主張するための証拠としての価値なんかないですよ。」
「強いて言えば、エビデンスレベルは下から数えて2番目だ。」
「エビデンスレベルというのは、医学分野である治療法がどれほどの根拠があるかを示すものですね。」
「エビデンスレベル1が一番高くて、6が一番低い。6は、“専門委員会や専門家個人の意見”、5は“症例報告や症例集積研究”。体験談は強いて言えばエビデンスレベル5程度。エビデンスレベルが高いのは、1つ以上のランダム化比較試験(EL2)だけど、実は、このような根拠のある治療法はそれほど多くないんだ。」

「17節に、“開拓者のサルバドルは,不活発な人を助けることに特に力を入れています。”とあります。ということは、不活発者を訪問するのも、時間として入れていいということですね。」
「開拓者なんだから、時間が入らなければ、不活発者に時間や労力をさくわけがないよ。いかに楽に時間を入れるかが開拓者に最も求められる能力でしょう。」
「不活発者が復帰することを、サルバドルは、“エホバの大切な羊がサタンの世から救い出された”と言っていますが、傲慢な言い方ですね。」
「それがカルトというもの。でもね、JWとしてしか生きられないという人もいるでしょう。オウム真理教をやめたけれど、またその後継団体に入信した人もいるよ。」

#1213 2020年09月04日 15:21:02

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“自分のことを必要以上に考えてはなりません(27)”で、(1)夫婦の関係,(2)さまざまな奉仕の機会,(3)ソーシャルメディアの使い方で、謙遜にしなさい、という内容です。
「また謙遜の話か。JWは信者に謙遜であることを要求しすぎだよ。」
「JWにとって謙遜とは他のJWを非難するときに使える便利な言葉なのです。あの人はケンソンじゃない、という悪口に使えるのです。」
「JWの謙遜とは、自己主張するな、自分の意見を言うな、他の人の指示に黙って従え、といったことでしょう。こんなことをまじめにやっていると精神的におかしくなるよ。」

「3から6節が、“夫婦の間で謙遜である”です。謙遜であれば夫婦の問題は解決するみたいです。」
「安易な解決策を教えてくれるのがカルトだからね。謙遜であれば、離婚も避けられるし、もっと幸福になるというわけだ。」
「4節に、“この世の知恵は,「あなたの気持ちに正直になり,あなたの幸せを考えなさい。離婚という結果でも構いませんよ」とささやき掛けてきます。”とありますが、これはJWのことですよ。JWとしての都合を最優先し、信者ではない配偶者から離婚を迫られても妥協しない。JWとしての義務をまず考える。JWのためなら家庭崩壊も気にしない。」

「アメリカで2014年に行われた調査によると、アメリカのJWの12%は離婚経験者となっている。サンプル数は244と少ないけれどね。この数値は他のキリスト教の離婚率とほぼ同じ。JWは離婚率が低いわけではない。」
「平成27年度司法統計によりますと、男性からの離婚原因1〜3位は、1)性格が合わない、2)精神的に虐待する、3)家族親族と折り合いが悪い、です。JWの妻を持った男性なら、2)と3)は当てはまりますね。JWは離婚予備軍が多いでしょうね。」
「一度JWになってしまった妻を辞めさせるのは難しい。カルトと戦うよりも、さっさと離婚した方が、人生を無駄にしないと思うね。」

「同じ統計ですが、女性からの離婚原因1〜3位は、1)性格が合わない、2)生活費を渡さない、3)精神的に虐待する、です。それに比べて、4節に、“聖書が離婚の根拠として挙げているものは性的不道徳だけです。”とあるように、JWは離婚原因を限定しすぎます。」
「離婚を広く認めると、JWのほとんどが離婚するという心配があるのかな。」
「夫の暴力によって、骨折するようなことがあっても、JWなら離婚は認められないです。暴力は、女性からの離婚原因の第4位です。」
「裁判所は、そのような暴力亭主との離婚を認めてくれるし、慰謝料の請求も認めてくれるよ。」
「それに対して、自称・真の宗教のJWでは、謙遜にして、耐えろというだけです。」
「裁判所とJWのどちらが人間の安全や幸福に対して配慮しているか、明らかだね。」

「7から11節が、“「いつも謙遜」にエホバに仕える”です。7節では“監督の務めを委ねられた兄弟は自分のことを必要以上に考えてはなりません。”と言っています。」
「巡回監督なんか、簡単に降格できるんだから、偉そうにふるまうなということだね。」

「8節では3人の聖書中の人物をあげて、“誇りや野心は人を破滅させます。”といっています。“デオトレフェスは厚かましくも,「会衆で一番上に立とうとして」いました。(ヨハ三 9)”とありますが、これって統治体のことじゃないですか?」
「その次に、“ウジヤは高慢だったので,エホバから割り当てられていない務めを果たそうとしました。”とあるけれど、これも統治体のことでしょう。統治体は、自分たちを忠実で思慮深い奴隷に任命されたと称しているけれど、何の根拠もないよ。自分で勝手に“割り当てられていない務めを果たそうとしました。”ということだよ。」
「3人目は、“アブサロムは王になりたかったので,ずる賢い方法で人々を味方に付けようとしました。”とあります。ずる賢い方法で統治体に任命された人は何人かいそうです。要するに、8節の本当の目的は、隠れた統治体批判じゃないですか。」

「9節に、キリストは“「神のような方でしたが,神の立場を奪って神と同等になろうなどとは考えませんでした」。(フィリ 2:6)エホバに次ぐ立場にいても,自分のことを必要以上に考えたりしません。”とある。フィリッピ2:6の訳がへんだね。」
「英語版では、“although he was existing in God’s form, gave no consideration to a seizure, namely, that he should be equal to God.”(神の形で存在していたが、奪うこと、すなわち神と同等であるべき、とは考えませんでした。)です。意味が分からないです。」
「字義訳に近い英語版を相当意訳したのが日本語版。翻訳者の解釈が相当入っている。」
「協会共同訳では、“神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず”となっています。これも解釈が相当入っていますね。」
「フィリッピ2:6から11はフィリッピのキリスト賛歌とよばれるもので、早い段階に成立したキリストに関する韻文を引用したもの。パウロの思想そのものではない。パウロ以前のもっとも初期のキリスト教の思想がうかがえる部分としてキリスト教研究では貴重とされている部分。ここは翻訳も解釈も難しいところ。」

「10節が、会衆の問題がきちんと扱われていない場合、どうするかが出ています。“不平を言うのではなく,謙遜であってください。教え導いている人たちを信頼しましょう。”とあります。要するに、何もするなということですね。」
「これは児童性的虐待の問題のことを言っているようだけど、JWの言う謙遜の意味がよく分かるね。謙遜とは盲目的に服従すること。それができないひとは謙遜じゃないということみたいだね。被害者も被害を訴えると、謙遜じゃないということになり、いじめられるようだ。」

「“正直なところ,会衆が一致するようにということを本当に考えているだろうか。それとも,自分に注意を引こうとしていないだろうか”と自問するように書いてあるのですが、問題を解決するよりも、表面的な一致を重視せよという、組織の考えがわかります。」
「悲しいことにJWは問題を解決するのではなく、問題の先延ばし、被害者の泣き寝入りを勧めているようだ。今までは信者はそうしてきたかもしれないけれど、これからは裁判に訴えるなど、違った対処をして欲しいね。」

「11節には、“エホバは能力よりも謙遜さを,効率よりも一致を大切にします。”とありますが、これはエホバではなくJWの価値観ですね。」
「平信徒に期待するのは謙遜という名の盲目的服従であって何かを成し遂げる能力ではない。表面的な一致が重要なのであって、より効率的であっても一致を乱すようなら、ダメだということ。文字通り羊の群れであれ、ということだ。」
「すばらしいアイデアがあっても黙っていろ、文句があっても黙っていろというわけで、若くて有能な人にはJWは向いていないということですね。」
「JWは社会の底辺にいて、命令されることに慣れきった低学歴貧困層の宗教を目指しているということだよ。将来有望な若者がいる宗教ではないね。」

「12から15節が、“ソーシャルメディアの使い方と謙遜さ”です。この記事の主な内容でしょう。新たな禁止事項を設けようということです。」
「要するに、ソーシャルメディアを見るな、コメントだろうが写真だろうが投稿するな、ということね。でもその理由がいい加減だね。」
「13節に、“ソーシャルメディアで他の人の写真や投稿をチェックすることに多くの時間をかけると,かえって寂しさが増し,気分がふさぎ込む,という研究結果があります。”とありますが、あいかわらずの不正引用で、引用元が示されていません。この研究結果も評価しようがありません。」
「ノアの洪水は本当だ、みたいな怪しげな本でも、著者がまともな人だと、ちゃんと参考文献を示すよ。JWの執筆者はそれ以下だね。」

「15節に、“私のコメントや写真や動画を見て,自慢している,と思う人はいないだろうか。嫉妬心をあおってしまわないだろうか”と自問せよ、とあります。」
「でもね、誰かの投稿を見て、嫉妬心を感じる方にこそ問題があるよ。それをたしなめるべきで、投稿した人を非難するのはおかしい。」
「他の人が嫉妬する、といってはあれこれ禁止し、信者を統制する。自由を認めない。これがカルトのやり方ということですね。」
「ソーシャルメディアを楽しんだって、本当の神様なら文句は言わないよ。」

「15節の上の挿絵は、ある女性がレストランに行ったり、旅行に行ったりしたときに写真を撮っているというものですが、ある開拓者の老姉妹は、私が若い時は旅行に行くようなお金がなかった、外国にはこんなお金のあるJWがいるのか、と言っていました。」
「こんな人は極めてまれでしょう。記事の挿絵はJWの現実とは何の関係もない。北朝鮮のプロパガンダと同じ。」

「15節に、ヨハネ一2:6について、“「持ち物を見せびらかす」という表現は,ある英訳聖書では,「重要人物と見られたがる」と訳されています。クリスチャンは,自分をアピールする必要があるとは考えません。”とあります。ある英訳聖書ってなんですか?」
「”The Message: The Bible in Contemporary Language(MSG)”だね。新約聖書は1993年に出版されている。ピーターソンという長老派の牧師が、現代アメリカ英語で現代人にわかりやすい翻訳を目指したもの。リビングバイブルと同じタイプの聖書だね。学問的に権威のある訳じゃないし、他の宗派の牧師の訳なので、引用元を明らかにしたくなかったのかもね。」
「“重要人物と見られたがる”という訳はへんですよね。」
「ピーターソン牧師のすごい意訳だね。字義的には“生活を自慢する”。生活と訳されるbiosは物質的な富という意味があるので、持ち物を見せびらかすとか、見栄を張った生活と訳さされる。」
「ある個人訳で○○と訳してあるから、どうだというのでしょうね。そう解釈すべきという根拠にはなりませんよ。いい加減な記事ですね。」

「最後の2節は、“健全な考え方をしましょう”です。16節に“謙遜な人は健全な考え方をします。自分についてバランスの取れた見方をし,他の人の方が多くの点で自分より上であることを認めます。(フィリ 2:3)”とあり、謙遜だと健全みたいです。」
「引照聖句のフィリッピ2:3の訳が気になるね。“謙遜になり,自分より他の人の方が上だと考えてください。”とある。協会共同訳だと、“へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。”だ。」
「JW訳は“互いに”がないですね。」
「ギリシャ語本文には“互いに”という意味のギリシャ語があるよ。パウロは信者が相互にへりくだることを期待しているわけで、特定の誰かだけへりくだりなさいと言っているわけじゃない。」
「JWは下の者は上の者にへりくだり、命令に服従せよという意味で、謙遜でありなさい、そうであるかぎりにおいて健全だ、と言っているようです。」
「JWは、人間は上下関係があって、下の者は上に服従することが義務であり美徳という思想だね。その非聖書的な教えを、自分たちに都合の良いように訳した聖書から聖句をつまみ食いして、信者に神の言葉として教えるわけだ。」

「16節では、ペテロ一5:5が引照聖句となっていますが、“そして皆が,人と接する上で謙遜さを身に着けてください。”とあるのですが、協会共同訳では、“皆互いに謙遜を身に着けなさい。”で、ここでも“互いに”がないのがJW訳です。」
「ところが、英語版では、“But all of you clothe yourselves with humility toward one another”で“互いに”がある。日本語訳の単純なミス。ミスが多すぎるね。聖書に対する敬意がない。」

「17節がまとめで、“謙遜であるなら,夫婦の仲は良くなり,会衆の一致に貢献できます。人から注目されるためにソーシャルメディアを使ったりはしません。”だそうです。」
「要するに、結婚生活でも会衆で文句を言うな、ソーシャルメディアを使うな、ということ言いたくて、謙遜がどうのと聖句をこねくり回していただけだね。」

#1214 2020年09月04日 19:41:13

ガッツだぜpart2
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ぽんちゃん さんの発言:
聖書についての質問 さんの発言:

15節に、ヨハネ一2:6について、“「持ち物を見せびらかす」という表現は,ある英訳聖書では,「重要人物と見られたがる」と訳されています。

ヨハネ一2:16ですね。探してしまいました。

なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。 (新共同訳)

ヨハネ一2:6
神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。(新共同訳)

「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。 (口語訳)

一応、貼りました。

#1215 2020年09月10日 09:29:56

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

水曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“真理に対する確信を強めましょう(28)”で、信者に盲目的な信仰を要求する内容です。」
「確信が持てないのは、信者自身に問題があると思わせたいようだね。真理とされていたものが数年で変更されることもあるわけで、確信を持つ方がおかしいだろう。」

「1節に、“私たちは「真理」という言葉を大抵,私たちの信条,崇拝,生き方を指して使います。”とあります。知りませんでした。」
「普通の意味の真理とは違うわけね。こういう特殊な言葉の使い方をするのはカルトの特徴。大事なのは“真理”についての真理だね。」

「2節で、“多くの人は,初めて集会に出席した時に,演壇からの話よりも,愛を示す様子が強く印象に残っていると言います。”とあります。カルトの信者集めは大体こんなものですね。」
「だから社会的に孤立した人が信者になりやすい。でも、3節で“もし信仰の土台がエホバとの絆ではなく,仲間との絆だけであるなら,信仰は崩れてしまうでしょう。”と、人間関係にたよるだけでは、信者の定着率が低いようだ。それで真理への確信を強めろと言っているんだろう。」
「JWの人間関係が魅力的に思えるのは最初だけです。途中から、JWの人間関係に嫌気がする、傷つけられることが多くなります。」

「3節に“誰かが背教して聖書の真理を批判するかもしれません。”とあるけれど、“someone becomes an apostate, asserting that we do not have the truth.”なので、“聖書の真理を批判する”のではなくて、“我々が真理を持っていないと主張する”だよ。つまり組織批判。」
「それだともっともな主張だと同意する人がたくさん出てきそうなので、翻訳者は、意図的に変えたと思います。」

「4節に“その人たちはイエスの弟子になることに試練や苦難が伴うことを理解していなかったのかもしれません。”とあるけれど、JWの苦難はイエスの弟子であることとは直接関係ない理由から生じているよ。」
「高等教育の禁止、輸血の禁止、その他の数多くの禁止事項、そして集会や奉仕への過剰な要求。これらはJWの生活をとても困難にしていますが、イエスの命令ではなく、パリサイ的な組織の命令に過ぎません。」

「5節に“仲間に傷つけられたり他の人のクリスチャンらしくない行動を見たりしても,その確信は揺らぎません。”と書いてある。おかしいだろう。この時点で、JWに疑問を抱くべきだよ。」
「確信が揺らぐ方が間違っていると思わせたいわけです。」
「5節に、“どんな試練に直面しても,信仰は弱まるのではなく強くなります。”とあるけれど、これは試練じゃないよ。適切にJWを評価するよいチャンスにすぎない。まともな人なら、JWは、言っていることと実際の行いが一致しない真の宗教をかたるインチキだ、と評価できる。」

「6,7節が、“神についての正確な知識を得る”です。6節には、1世紀のクリスチャンは“「神についての正確な知識」に基づいて信仰を築いたのです。(コロ 1:9,10)”とあります。」
「“神についての正確な知識”はコロサイ1;10の“神についての正確な知識をますます得られますように”からきている。協会共同訳では、“神をますます深く知るように”だ。かなり違うよ。」
「ギリシャ語本文には“正確な”に相当する単語はありませんね。JWの勝手な付け足しですね。協会共同訳あたりが妥当なんでしょうね。」
「JWの考えでは、JWの教えだけが正確な知識なので、正確な知識を強調したいのだろう。」

「7節に、“仲間が私たちを傷つけたり重大な罪を犯したりしても,真理は変わりません。”とわざわざ書いてあるのは、JWの児童性的虐待などの犯罪に関する情報が、JWの間でも広まっているからでしょうね。」
「以前は背教者の嘘と強弁していたけど、犯罪があっても、なにがあっても、JWは真理という強弁にかえたわけだ。」

「8,9節が、“納得して信じる”です。これはJW2世には難しいですね。子どものころから押し付けられた恐怖の宗教にすぎませんから。」
「8節ではテモテのことを取り上げている。でも、“テモテはイエスの弟子たちが示す愛を見て感動したに違いありません。兄弟姉妹の仲間になって役に立ちたいと強く感じたことでしょう。”は単なる推測だろう。英文では、“Timothy was no doubt impressed・・・”と、恥ずかしげもなくno doubt(疑いもなく)という表現をしている。これを省略した日本語翻訳者は執筆者よりは狂信度が低いね。」
「“疑いもなく”が出てきたときは、根拠のない強弁にすぎないというのがJWの法則です。」
「狂信的な方が味のあるおもしろい文章になるんだけどね。」

「9節には、確信すべき3つの基本的教えが出ています。1と2はエホバと聖書に関するもので、3が組織に関するもので、“エホバはキリストの指導に従う人たちのグループを持っていて,それがエホバの証人であるという点です。”とあります。JWがキリストの指導に従うエホバの組織であると確信するのは、まともな人なら無理でしょう。」
「神の組織であるという証拠を示せば、みんな確信するよ。正確な預言をするとか、奇跡を起こすとかすればいいだけ。神の組織なら簡単じゃないの?なぜしないのかな?」
「モーセやイエスも奇跡を起こしました。使徒たちだってそうです。」
「JWが過去に行った多くの預言は一度も当たらなかったよ。この事実が意味しているのは、JWは神の組織というよりインチキ宗教組織ということじゃないの。」

「10から13節が、“確信できるよう他の人を助ける”です。」
「10節に“私たちクリスチャンには耳を傾ける人たちに真理を教える責任があるからです。 (テモ一 4:16)”とありますが、引照聖句ではそんなことを言っていないよ。」
「“責任がある”は暴論ですね。」
「テモテ一4:16には、“自分自身と自分の教えに絶えず注意を払いなさい。これらのことを粘り強く行いなさい。”とあるけれど、テモテ4章は異端の問題を扱っていて、異端の教えに惑わされないように注意を払いなさい、といっている所。」
「テモテ一4章は、“神からの言葉は次のことを明らかにしています。後の時代にある人たちは信仰を捨て,神からのものに思える偽りの言葉や,邪悪な天使の教えに注意を向けるようになります。”で始まりますね。その締めくくりが、4:16なんですね。」

「10節の最後に、“他の人を教えるなら,私たち自身の確信も強まります。”とあるね。これは本当じゃないかな。コミットメントと一貫性の原理がはたらくからね。」
「あることを他人の前で正しいと語ると、本当は信じていなくても、それをより信じるようになるということですね。」
「組織がJWに伝道させるのも、新規獲得以外に、それによって組織の教えにより忠実になるということを期待しているんだよ。」

「13節に、“子供にもリサーチ用ツールの使い方を教えましょう。そうすればエホバと,エホバが「食物を与える」ために用いている「忠実で思慮深い奴隷」に対する感謝が深まるでしょう。”とあります。エホバに感謝するだけじゃダメなんですね。」
「子どもの時から、統治体を崇めまつるように教育するのが、模範的なJWの親のようだ。」

「14節から最後までが、“聖書の預言を学ぶ”です。14節に、“聖書の預言を調べることは,エホバに対する 強い信仰を築く上で欠かせません。”とあります。聖書の預言が当たったことを信じさせて、組織に対する信仰を強めさせようという考えですね。」
「囲み記事には、4つの預言とそれを扱ったのがどのものみの塔の記事か出ている。これって、何度も解釈が変わったものだよ。信仰が強まるどころか、JWにたいする失望感と不信感を強めるだけじゃないかな。」
「執筆者はそう考えないのですよ。古い解釈が捨てられ新しい解釈に変わると、新しい光がさした、これは神から是認されている証拠だ、とますます確信するんですよ。」
「普通の人の思考様式とは違うね。」

「15から17節で、ナチスの迫害の話がでています。迫害にあっても信仰を保てと、危機意識をあおる内容です。15節に、“ある姉妹は,ヒムラーが強制収容所にいた姉妹たちに次のように語ったと伝えています。「おまえたちのエホバとやらは天で治めるがいい。だが,この地上で支配するのはわれわれだ。おまえたちか,われわれか,どちらが長く持ちこたえられるか目にもの見せてやる!」”とあるのですが、本当でしょうか?」
「“目覚めよ”1980年2月1日号の“私たちはあきらめませんでした!”という記事からの引用だね。そこには“ドイツのラベンスブリュック強制収容所にいました。それは1939年9月のことで”とある。本当は“ラベンスブリュック”ではなく“ラーフェンスブリュック”だけど。」
「17節には、ヒムラーがリューブケ兄弟に偶然出会うという話しがでています。」
「1975年の年鑑の“第3部-ドイツ”に出ている話だ。」

「つまり、別々のナチス関連の記事をまとめて一つのストーリーに仕立てているわけですね。都合の良い部分をつまみ食いした文章ですね。」
「そんなわけで、情報源はJWの文書なのだけれど、引用元は示さなかった。引用元を示すと、つまみ食いがばれるから。」

「その年鑑には、たぶん同じ話だと思うのですが、“1937年のこと,彼(ヒムラーの事)はリヒテンブルクの姉妹たちに誇らしげにこう語りました。「お前たちもやはり降伏することになるのだ。お前たちがどんなにちっぽけな者かを思い知らせてやろう。我々のほうがお前らよりももっと長く持ちこたえられるのだ!」”とあります。時期も話の内容も違いますね。」
「同じ出来事だろう。ナチス高官のヒムラーがJWの姉妹と直接会話するなんてことがそうあるとは思えない。年鑑の方が発行年が古いし、話した内容ももっともらしい。年鑑に書かれている方が真実と思える。ただし、時期は1939年だと思う。ラーフェンスブリュック強制収容所ができて、リヒテンブルク強制収容所から囚人の移送が行われたのが1939年なんだ。」
「“目ざめよ”のヒムラーの発言はJWがいかにも創作したという感じです。しょせん、“目覚めよ”はJWの宣伝雑誌ですからね。」
「ヒムラーが、1939年に“この地上で支配するのはわれわれだ。”という誇大妄想的なことを言うとは思えないね。これでは漫画のキャラクターだね。」

「16節に、“聖書研究者たちは,神の王国が1914年に統治を始めたことを知っていました。それで,自分たちが激しい反対を受けることを予期していました。”とあります。これはJWの歴史に合致していますか?」
「JWは50年近く、キリストの目に見えない臨在は、1874年と言い続けていて、レイモンド・フランズの“良心の危機”の200ページに、“1929年になってもこの1874年を教えていたのである。”とあるよ。1930年代のドイツのJWが1914年を神の王国の開始と確信していたかどうかは不明だね。」

「17節に、“エホバの証人をひどくけなしてきたヒムラーには,返す言葉がありませんでした。その後間もなく,ヒムラーは自殺しました。”という文章は、ミスリーディングです。」
「JWとのことが、ヒムラー自殺の原因かのような印象を与えるように書かれている。もちろん、ヒムラーの自殺はJWとは何の関係もない。JWの役割を現実以上に大きく見せたいという動機があるね。ものみの塔の記事は信用できないということがよくわかる。」

「最後の18節に、“私たちも,聖書の教えが真理であるという確信をさらに強めましょう。”とあります。最後まで、聖書の教え=JWの教えと誤認させようとしています。」
「聖書の権威を借りるJWという立場だからね。JWの教えの多くは聖書とは無関係だよ。エルサレム滅亡西暦前607年というのは聖書にそう書いてあるわけではない。JWの創始者ラッセルの思い込みだ。そんなことを確信できるわけないよ。」
「ラッセルの主張は西暦前606年だったんです。ずっと後になって、西暦0年がないことを知ったJWが607年にこっそり変えたんですよ。この事実を知ると確信がますます強まりますね。」

#1216 2020年09月18日 15:24:08

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“私が弱い時,私には力がある(29)”で、バカにされてもJWを続けろ、という内容です。」
「1節にある“語句の説明”で“自分が弱いと感じる理由はさまざまです。罪を受け継いでいること,貧しいこと,病気であること,教育をあまり受けていないことなどです。”と、“弱い”ことを説明しているけれど、これらはJWだからこそあてはまるという面が多いよ。」
「貧しい、病気である、教育をあまり受けていない、これはJWによく当てはまります。JWでない人生を選んでいれば避けられた可能性が高いですね。」
「組織は意図的に信者を精神的にも身体的にも社会的にも経済的にも“弱い”状態に追い込んでいるんだよ。そして弱さを克服するためには組織の指示に従えと信者に命令する。これはカルトの特徴だね。」

「2節に、“自分が弱いと感じるときにも強くなれる,という点です。(コリント第二 12:9,10を読む。)エホバはパウロに,「人が弱い時にこそ,私の力は完全に発揮される」と言いました。”とありますが、何かへんですね。」
「弱い時にも強くなれるのではなく、弱い時こそ強くなるとパウロは言っている。この違いが執筆者にはわからないんだ。」

「3から6節が、“「侮辱」を喜ぶ”です。3節に“侮辱され反対されることは,イエスの真の弟子であるしるしだからです。(ペテ一 4:14)”とありますが、聖書のどこにそんなことが書いていますか?」
「引照聖句のペテロ一 4:14には“キリストの名のために非難されているなら,皆さんは幸せです。”とあるだけ。そもそもJWはキリストの名のために非難されることはないでしょう。」
「エホバの人とか、エホバとかバカにされますけどね。」
「弟子なら侮辱される、反対される、非難されると言っているだけで、侮辱されるのが弟子のしるしという訳ではないよ。」

「3節に、“クリスチャンが弱い存在と見られていたのは,政治に関わることがなく,軍務に就かず,社会の役に立たないと考えられていたからです。”とありますが、違いますよね?」
「違うだろう。古代ローマは民主主義だったの?大多数は政治に関わらないよ。それから、聖書のどこに軍人を嫌っている部分があるの?クリスチャンが社会の役に立たないとみなされたという根拠はあるの?」
「これは、今のJWのことですよね。1世紀のクリスチャンを現代のJWと意図的に混同しています。」

「4節に、“クリスチャンを迫害したローマ帝国はすでに崩壊していますが,イエスに従った人たちは今天で王として治めています。”とありますが、聖句の引用がありません。」
「これはJW独自の教義。1914年神の王国成立なんてことを言っているのは、JWだけ。しかもその年代は古代史を改ざんして、導き出したもの。JW以外の人には言わないほうがいいね。」

「5節に、“私たちエホバの証人は,時折見下され,無知で弱い人としてあざけられることがあります。周囲の人たちと同じ態度を取らないからです。”とありますが、JWの自己評価としてどうですか?」
「見下され、あざけられるというのは正しい自己認識だね。問題はその理由だ。他の人と同調しないからじゃないよ。実際に見下され、あざけられても仕方がない存在だからだよ。例えば、馬鹿げた教義を真理と主張し、他の宗教をサタンの手先と攻撃する。」
「“重複する世代”なんて誰も説明できないです。にもかかわらず終わりは近いと相変わらず言い続けています。」
「それも見下され、あざけられる理由だね。」
「まともに働かず、年金も払わず、生活保護を受給している人が多いのも見下される理由の一つです。社会貢献をせず、社会に寄生する。」
「日本の生活保護費の総額は3.8兆円くらい。消費税2%分より少ない。大した額じゃないのだから、JWの老人が生活保護をもらうぐらい大目に見てあげようよ。サタンの政府はJWと違って寛大のようだよ。」

「5節に“さらに,私たちは政治に関わることはなく,どんな国の軍務に就くこともしません。”とあります。これが見下される理由と考えているようです。」
「JWが誇れるのはこの二つなんだよ。それでこんなことをわざわざ言っているわけだ。でも、多くの国では政治に関わることは義務ではないし、徴兵制もない。そういった国では、それが見下される理由にはならないよ。」

「政治に関わらないと言ったって、立候補しない、投票しないというだけですよ。」
「ところが全ての社会的行為は政治的ともいえる。JWに関して言えば、現状維持的で、世の中の変革を妨げるという政治的役割を果たしていることが多い。政治上の争いが多い国の保守的な政治家はJWが一定数増えることを歓迎すると思うね。JWの増加は変革を妨げ、今の政治体制を支えることにつながる。」

「例えば、人種問題なんかそうですよね。」
「人種差別が激しかったころのアメリカでは、南部では人種別にJWの集会が開かれていた。人種隔離政策に賛成していたと言われても仕方がない。人種隔離政策に反対する人たちからすれば、JWは白人の偽善的な腐った宗教にしか見えなかっただろう。」
「統治体の中に一人黒人がいます。白人だけではまずいという政治判断のせいですよ。」
「ロレックス大好きなサミュエル・ハードだね。彼は現在85歳と思うけれど、人種隔離時代にはそのことについて何も疑問を持たなかったようだ。要するに白人の言いなりになる黒人だ。それで彼は出世した。そういう無害な黒人を統治体に加えることにより、JWは白人だけの宗教という政治的非難をかわすことができる。そういう意味で、黒人一人を統治体に加えるというのは、現代政治の産物だね。」

「7から9節が、“自分の力に頼ってはならない”で、パウロから3つの点を学ぼうというものです。その3つは、(1)エホバに頼り,(2)聖書中の手本から学び,(3)兄弟姉妹からの助けを受け入れましょう、です。7節に、その一つ目として、“エホバに仕える 時,自分の力や能力に頼ってはならない,ということです。”とあります。」
「パウロはすごい人だったのに、“それでも自分の力に頼ることはありませんでした。”とあるね。」

「7節では、“パウロはローマの属州キリキアの首都タルソスで育ちました。タルソスは繁栄した都市であり,学問の中心地でした。パウロは高い教育を受けました。当時のユダヤ人の指導者で,とても尊敬されていたガマリエルという人から教えられました。(使徒 5:34; 22:3)”とありますが、これは“使徒”にだけ出ていることで、自慢するのが好きなパウロ自身はこんなことは言っていません。これは“使徒”の創作ですか?」
「恐らくそうだろうね。“使徒”の著者には、パウロはすごい人なんだと読者に印象付けようという意図がある。最高のユダヤ教の教育を受けた人がキリスト教に改宗したということで、キリスト教の優位性を示そうとしている。それでパウロの経歴をでっちあげた。」
「パウロは、ガラテア1:14で“多くの同年代の同胞よりもユダヤ教に打ち込み,はるかに熱心に父祖たちの伝統に従っていました。”と言っていますが、本当にガマリエルのもとで学んだのなら、ここでそれについて触れないのは奇妙です。」
「ガマリエルはエルサレムにいた。もしパウロがガマリエルから学んだのであれば、エルサレムに何人かの知人がいたはずだけれど、その気配もない。パウロのユダヤ教の知識はギリシャ語をベースにしていて、ヘブライ語あるいはアラム語によるユダヤ教の知識があったのか不明。」
「パウロが旧約聖書を引用するときは、ほとんどがギリシャ語訳からで、ヘブライ語から引用することはまれです。」

「9節に、“重い病気と闘っているなら,エホバにできる限り奉仕できるよう,必要な力を求めて祈ってください。”とあるけれど、JWは本当に大変だ。早死にするのもよくわかるね。」
「重い病気なら治療に専念してくださいとはいえないみたいです。このへんがカルトらしいところですね。」
「英文ではa chronic disability(慢性障害)なので“重い病気”とは限らないよ。喘息、アレルギー、関節炎、糖尿病、片頭痛だって慢性障害だ。日本のJWだけ“重い病気”でも奉仕しなくてはいけないようだ。」

「10から15節が、“聖書中の手本から学ぶ”です。10節に“パウロは聖書を熱心に学びました。聖書に記されている事柄をよく知っていましたが,聖書中の人物の手本から教訓を得てもいました。”とあります。そして、ダビデの話になります。」
「ゴリアテとの戦いの話だ。ダビデというと、ゴリアテかバテシバとJWでは決まっている。」

「15節に、“会衆の誰かからつらく当たられたことがありますか。そうであれば,ダビデやパウロの手本を思い出しましょう。”とありますが、これは無責任ですよ。会衆内の問題は、会衆が何とかすべきじゃないですか?」
「組織内の人の問題行動は組織が責任を持って正します、と言えないんだね。信者を細かいところまで管理する宗教だけど、信者同士のもめ事には関与しないみたいだ。」

「15節には“でも状況が許すなら,相手がエホバと聖書について理解できるよう助けることにより,悪を征服します。”とあります。ローマ12:21の“善によって悪を征服し続けましょう。”からきているのですが、こういう意味なんですか?」
「ローマ12:20にその意味が出ている。“敵が飢えているなら,食べさせましょう。喉が渇いているなら,飲む物を与えましょう。そうすれば,燃える炭をその人の頭の上に積むことになるのです。”とある。敵に対して善で応える。そうすれば相手は恥と悔恨の燃えるような痛みを感じるはずだという意味だね。でも、敵に対してJWの教義を教えるのは善で応えることではないよ。なぜなら、まもなくお前たちは皆殺しだという復讐メッセージそのものだから。」

「16から18節が、“助けを受け入れる”です。16,17節がパウロの話で、18節がその教訓なんですが、その教訓はパウロの話とほとんど関係ないですよ。」
「パウロが迫害者だったころ、イエスの声が聞こえてきて、目が見えなくなったけれど、後に回復したという奇跡物語ね。」
「17節に、“ダマスカスへの道中でイエスから教えられた事柄を忘れることはあり ませんでした。謙遜であり続け,兄弟姉妹からの助けを進んで受け入れました。”とあります。これの聖書的根拠は出ていません。イエスはパウロに謙遜であれ、なんていっていませんよ。」
「イエスは、使徒9:6で“起きて町に入りなさい。そうすれば,何をすべきか告げられます。”というだけ。この記事の執筆者にはイエスの声が聞こえたんじゃないの。」
「イエスとの劇的な出会いですが、これは“使徒”にあるだけで、パウロは自分自身の書簡の中で、ひとこともそれに触れていません。この話は“使徒”の創作と考えていい?」
「普通はそう考えられている。このようなイエスとの出会いがあれば、パウロはしつこく手紙の中で書いたはず。また。使徒26:12‐18に同じ出来事をパウロが語るという場面が描かれているけれど、かなり使徒9章とは違っているからね。」
「使徒9:3では、“天からの光が彼の周りを照らし”と、パウロに光が当たったとありますが、使徒26:13では、“それは太陽の輝きより明るく,私の周りと,一緒に旅をしていた者たちの周りを照らしました。”と、パウロとそれ以外のものに光が当たったことになっていますね。」
「使徒9:7では、“一緒に旅をしていた人たちは,声の響きは聞こえたが”とあるけれど、使徒26:14では、“ヘブライ語で私にこう言う声が聞こえました。”とあり、パウロだけが声を聞いたようだ。」

「18節の教訓が、“エホバに長く仕え,経験を積んでくると,以前ほど素直に他の人からの助けを受け入れていないかもしれません。自分よりも経験の浅い人から助けを差し伸べられる場合は特にそうです。”なのです。パウロと関係ありませんね。」
「こんな教訓を無理矢理ここに押し込むというのは、頑固者の老人JWに手を焼いているという現実があるんだろうね。自分より若い長老の意見など鼻であしらう困った老人JWが結構いるんだよ。」
「元巡回監督や元長老の老人がのさばって、現役長老が小さくなっている会衆はあるでしょうね。」

#1217 2020年09月25日 15:52:06

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“真理に従って歩んでください(30)”で、ヨハネの手紙に触れながら、組織に服従せよ、性的不道徳はダメだ、という内容です。」
「性的問題は地球上のあらゆる問題よりも重要な宇宙主権にかかわる大問題というのがJWの立場なの?」
「違いますよ。児童の性的虐待という性犯罪についてもっと取り上げるべきなのに、滅多にない性的問題をとりあげ、大げさに騒ぎすぎです。バランスを書いています。」
「統治体は性的な問題に取りつかれているようだ。9節に、“学校の女子たちから関係を持つよう迫られることがありました。”と、あるけれど、ダサいカルトのJWに滅多に起こるようなことじゃないだろう。」

「3節に、“ヨハネは使徒の中で一番最後まで生きた人です。偽りを教える人たちが会衆に悪影響を与えていることを心配していました。”とあり、ヨハネの手紙は使徒ヨハネが書いたとJWは主張していますが、ヨハネの手紙には作者名は出ていませんよね。」
「“長老”とあるだけだね。ヨハネ三9に“会衆で一番上に立とうとしているデオトレフェスは,私たちに敬意を払わず,何も聞き入れようとしません。”とある。使徒ヨハネがこんな情けないことを書くかな?使徒の権威が全くないということだよ。」

「3節の下に“ヨハネの手紙が書かれたいきさつ”という囲み記事があります。“偽りを教える人たちが会衆に入り込み,クリスチャンを惑わそうとしていることを心配して”手紙を書いたとあります。さらに“その人たちの教えはイエスの教えに反するもので,自己中心的であり,愛の欠けた態度を助長しました。ヨハネはその人たちを反キリストと呼んでいます。”とあります。これは正しいですか?」
「ヨハネの手紙は会衆の分裂に対処しようとしたもの。反キリストと呼ばれている人たちはJWが言うような人ではないよ。ヨハネ一4:2,3に“イエス・キリストが人間として来たことを認める預言は,全て神からのものです。しかし,イエスを認めない預言は,どれも神からのものではありません。それは反キリストの預言です。”、ヨハネ二7に“彼らは,イエス・キリストが人間として来たことを認めません。人を欺く者であり,反キリストです。”とある。ここからわかるのは、反キリストは、いわゆる仮現論者(docetist)、つまりイエスが人間として地上に存在していたことを否定する人たち。」

「なぜイエスが人間として活動したことを否定するのですか?」
「イエスの神格化が進んだ結果だね。イエスが神なら、イエスは肉体を持つはずがない、人間の様に見えただけという主張が生まれた。」
「それに対してヨハネは、“イエス・キリストが人間として来た”と認めるのが真実と強調している。“人間としてきた”というのは、英文ではcome in the flesh(肉となって来た)で、イエスの肉体性を強調している。これは、反キリストがイエスの肉体性を否定する仮現論者だからだね。」
「その辺を理解していない日本語翻訳者は“人間として来た”と訳しているわけですね。」
「誰か、日本語訳は英語の直訳でいい、余計なことはするなと、日本支部に電話したら。」

「4,5節は、“真理に従って歩むために”です。5節に、“真理に従って歩み続けるには,エホバが真理の神であること,またエホバが聖書の中で私たちに語っている事柄は全て真理であることを確信している必要があります。”と書いています。」
「そして、付け足しのように、“約束されていたメシアはイエスである,と確信している必要もあります。”とあるのが笑えるね。ヨハネの手紙はイエスについて論じているわけで、エホバなんて関係ないよ。JWは何が何でもエホバを押しこむね。」
「“エホバとイエスについての真理を固く信じていない人たちを惑わす,と警告しました。(ヨハ二 7-11)”とありますが、引照聖句に“エホバとイエスについての真理”なんて言葉は出てきませんよ。」
「聖書のどこにも、“エホバとイエスについての真理”なんて言葉はない。JWの創作。」

「6から13節が、“どんなことが障害になるか”です。6節は、“哲学などの思想”が障害になると言っています。」
「そうはいっても、具体的には進化論のことのようだね。アレクシアという人の体験談が出ているけれど、“生命 ― どのようにして存在するようになったか 進化か,それとも創造か」の本を調べました。調べ始めて間もなく,どちらが正しいかはっきりしました。”とあるのには笑えるね。あんなインチキ本でころりとだまされるんだから。」
「その本は1985年出版です。35年も前で、内容は古いですし、不正引用だらけの悪質な創造論のプロパガンダ本です。とっくに廃棄図書に指定すべきものですよ。」
「あんな本でも教育水準の低い無知な人間相手だと、十分役立つということのようだね。」

「7節は、“ヨハネは,真理に従って歩むことと性的に不道徳な生き方は両立し得ない,と言っています。(ヨハ一 1:6)”と、JWらしく性的問題をとりあげていますが、引照聖句はそんなこと言っていますか?」
「ヨハネ一1:6は、“「自分は神と結び付いている」と言いながら闇の中を歩き続けるなら,私たちはうそをついているのであり,真理を実践していません。”だね。性的なことなんて何も言っていないよ。ヨハネ一1章の途中から2章にかけて、真の弟子と反キリストを区別する基準を述べている。これはその一番目。」
「闇の中を歩く者は反キリストで、光の中を歩くなら真の弟子と言っています。これは道徳や倫理の問題ではないですよ。それは次の、1:8-10で扱われています。」
「ヨハネ一1:5では“神は光である”と述べているから。暗闇を歩くというのは、イエスによって与えられた神の教えを拒否することで、光の中を歩くというのはイエスに関するヨハネの教えを受け入れるということ。それを、性道徳の問題に矮小化するのが、JWらしくていいよね。性に取りつかれた人たちだ。」

「8節は、“罪に対する世の人々の見方に影響されてはなりません。”とありまして、ヨハネ一1:8の“「自分には罪がない」と言うなら,私たちは自分を欺いているのであり,心の中に真理がありません。”が引照聖句になっていますが、8節では、“ヨハネの時代に背教者たちは,故意に罪を犯しても神に受け入れてもらえると主張していました。”と解説しています。これはおかしいですよ。」
「この部分は真の弟子と反キリストを区別する基準を述べているけれど、罪とは何かについて、ヨハネには独自の思想があって、JWの考える罪とは違う。例えば、ヨハネ9:41に“イエスは言った。「目が見えなかったなら,あなた方には罪がないでしょう。しかしあなた方は今,『見える』と言っています。あなた方の罪は見過ごされません」。”とある。」
「これはパリサイ派の人に向けて言ったものですね。」
「見えなかったら、イエスを拒否しても罪がない。見えるのにイエスを拒否したあなた方は罪がある、という論理。アダムから受け継いだ罪という思想とは違うことがわかるよ。」

「罪とはイエスの教えを知りながら拒否し、退けるというような意味なわけですね。それで反キリストは罪があるのに、罪がないというとそれはウソだ言う訳ですね。」
「それに対して、真の弟子は、クリスチャンになる前には罪を犯してきたことを認め、許され、清められ、イエスは、ヨハネ1:12にあるように“彼は自分を受け入れた人全てに,神の子供となる権利を与えた。”というのがヨハネの思想。」
「これもJWとはだいぶ違いますね。」
「ここでヨハネが問題としているのはキリスト論で、JWの大好きな道徳論ではない。」

「ところが、9節では、また性の問題が出てきます。」
「女の子から関係を迫られたというアレクザンデルの話ね。アレクザンデルは、単にからかわれただけだよ。“あなたも同じような圧力を受けていますか。”とあるけれど、カルト信者のJWの男子がそんな圧力を受ける?」
「若いJWには“二重生活”をしている人は結構います。“二重生活”とは、学校や職場では、ふつうのワルで、集会や奉仕のときは普通のJWという生活です。落ちこぼれの集まる底辺の高校に行っていたりすると、JW男子でも意外にもてることもあるんですよ。」
「それは驚いた。若いJWのイメージを改める必要があるわけね。」
「ところで、アレクサンデルは“彼女をつくらないようにしていたので,”とありますが、英文では“since I did not have a girlfriendガールフレンドがいなかったので”ですよ。正確に訳してほしいです。」
「信者の管理統制に熱心な日本では、彼女を作ること自体が罪と思わせたいんだよ。」

「11節が、“私たちは背教者の教えを退けなければなりません。”で、次は背教者問題です。」
「具体的には、“敵対者たちは,インターネットやソーシャルメディアを使って,エホバに対する私たちの信頼や兄弟たちに対する愛を弱めようとしています。”とあり、情けないことにインターネットやソーシャルメディアの影響力を恐れているということだね。」
「ネット上の情報の多くは真実に基づいていますから、JWとしては反論できないので、“その背後にサタンがいるのです。”とカルト丸出しの主張をして、信者を情報隔離状態にさせようということです。それ以外の対抗策がないのですよ。」

「12節の、“エホバが今用いている唯一の組織を信頼する必要もあります。”とあるけれど、これは肥満した老人ばかりの統治体が率いるJWのこと?」
「もちろんJWの組織のことですよ。神が用いているという根拠はないですけれど。」
「13節に“私たちは世の人々に憎まれることを予期すべきです。(略)今の体制の終わりが近づくにつれ,サタンの怒りは激しくなります。”とある。これは児童性的虐待事件が世界各地で裁判になっているからだろうね。JWに不利な判決が出ても、自分たちが悪いからではなく、サタンの陰謀だ!と組織内で言い訳するためだよ。」
「JWは外部の人からほめられれば、模範的な真の神の民だからですと言います。外部の人から非難されても、真の神の民だから非難される、憎まれるというわけですね。」
「どちらでも真の神の民の証拠という便利な主張だね。」

「14節からが、“真理に従って歩み続けるよう,助け合う”です。14節が“思いやりを示す”なんですが、さりげなく“王国会館や家屋を修理する必要がありますか。”と聞いています。」
「思いやりを示す対象としては、本当は王国会館が第一位なんだよ。王国会館を高値で売却するには、日ごろのメンテナンスが欠かせないからね。」

「15節が“許し合う”ですが、実際は許し合うのではなく、傷つけられた側が許すことを求められるだけです。JWは、傷つけることよりも、傷けられて許さないことの方を重大視するという歪んだ倫理観ですから。」
「経験談が民族差別問題だ。JWでもこの種の差別はひどいようだね。ここでは、差別された側が、“奉仕中に,兄弟の言葉を聞いてどんな気持ちになったかを話しました。”とある。これはJWらしくないね。」
「以前の例だと、いじめられた人がいじめた人にプレゼントするなんて言うのがありました。」
「この記事では、“それ以来,溝は埋まり,良い友になることができました。”とある。これってディズニー映画の話し?そう簡単に人間は変わらないよ。」
「差別主義者の兄弟は、もし会衆の中で盗みがあったら、○○人のあの兄弟が犯人だ!と偏見丸出しで、密告すると思います。」

#1218 2020年09月26日 15:02:25

Kiti
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん、僕も予習して思ったこと。背教者はサタンから来てる、惑わそうとしているっていうけど、皆さんはど正論をいってるだけで、考えは確かに教えと対峙するとこもあるけど、ひとつの考えとして受け入れ誠実に答えるべきだと思いました。

オフライン

#1219 2020年09月26日 18:43:31

またい
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

予習なんて、やめて、楽しめることしよ。今日声出して笑った?

#1220 2020年09月27日 17:51:21

若ハゲ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

またいさん、笑うのは結構だけど、エホバ達が空気を読まずにアホな話をして笑ってるの、すごく迷惑ですよ。
基本的に、エボバ達は、一般社会では大人しくしてて下さい。

#1221 2020年09月27日 23:09:36

Kiti
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

若ハゲさん、マタイさんは私のことを気遣っていってくれているのだとおもいます。こんばんは、はじめましてっていう私の作ったトピック見ていただければわかると思います。

オフライン

#1222 2020年10月02日 15:35:44

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“「真の土台を持つ都市」を待ち望んでいますか(31)”で、アブラハムと3人のJWの話が主な内容で、とにかく辛抱しなさい、と言いたいようです。」
「JWであることは、苦労の連続だからね。1節に、“現在,幾百万もの人たちが犠牲を払ってエホバに仕えています。”とあるよ。それなら、さっさとJWを辞めようよ。」
「払った犠牲の大きさをわざと思い出させているのですよ。“結婚しないでいる兄弟姉妹たちがいます。子供を持たないことにした夫婦もいます。今あるもので満足して生活している家族もいます。”と続きます。払った犠牲を考えれば、今さら辞めるわけにはいかないと思うのですよ。」
「埋没費用効果あるいはsunk cost effectだね。払った費用が大きければ大きいほど、それが回収できないにもかかわらず元を取ろうとして、不合理な判断をしてしまうというもの。」
「“この人たちに共通しているのは,できるだけ十分にエホバに仕えたいと願っていることです。”とありますが、本当は“できるだけ十分にエホバから元を取りたいと願っている”のですね。」

「払った犠牲に関する訳が気になるね。Married couples have postponed having children. は、“結婚しても子どもを持つことを延期しています。”だよ。日本のJWは延期ではなく子どもを持たないことにしたわけだ。」
「延期したというのは、持たないことにした、の婉曲表現じゃないですか?」
「アメリカやヨーロッパのJWは早く結婚する人が多い。ドイツ人JWのジョークに、JWの結婚式はなぜ午後が多いでしょうか?答えは、午前中は授業があるから、というものがあるよ。」
「学生結婚ということですか。」
「それを考えると、子どもを持つことを延期したと訳すべきなの。日本語翻訳者は勝手に変えすぎ。」

「1節で“本当に必要なものはエホバが与えてくださるということを信じて,満足しています。その期待は裏切られません。”とありますが、嘘ですね。」
「これは単純な事実だから、調べればすぐわかる。生活保護受給者はどうなの?あれもエホバ?」
「そもそも、607年とか1914年とか単純な事実について嘘を言う組織に忠実なJWが、真の神から特別待遇を受けるわけがありませんよ。」
「1節で、JWの期待が裏切られないことについて、“なぜそういえますか。私たちが仕えているのは,「信仰を持つ人全ての父祖」アブラハムを祝福したエホバだからです。”には笑える。何の論理性もない。アブラハムと現代のJWに何の関連があるの?」
「論理としては、“エホバはアブラハムを祝福した。JWはエホバに仕えている。ゆえにエホバはJWを祝福する。”というものですが、論理的に間違っています。」
「この二つの前提からはいかなる論理的な結論も導くことは不可能。」

「3から5節が、“「真の土台を持つ都市」とは何か”で、それはイエス・キリストと,天に行くよう選ばれた14万4000人からなる天の王国らしいです。」
「聖書のあちらこちらから聖句を拾い集めて作ったJW独自の教義だね。どうでもいい話だね。」

「5節に、アブラハムは“どこかに定住して王を支持することはせず,遊牧生活を送りました。”とあります。アブラハムは遊牧民ですか?」
「遊牧民の定義次第だけど、アブラハムは遊牧民ではない。中東での遊牧生活にはラクダが不可欠。ラクダなしには長距離の移動はむりだね。アブラハムの時代にラクダは家畜化されてはいない。」
「アブハムは西暦前2000年くらいの人という設定です。そのころはまだラクダは家畜化されていない?5節の上の挿絵にはラクダが描かれていますし、創世記にはラクダが数回登場しますよ。」
「ラクダの家畜は西暦前1000年くらい。創世記にラクダが出てくるのは、創世記が書かれた時にはラクダが家畜化されていたということ。アブラハムたちの家畜は基本的に羊とヤギ。羊やヤギは定期的に水を与えないと死んでしまうので、砂漠どころか荒野も渡れない。水に近い、都市からそう遠くない緑地帯に暮らしていたと推定される。」

「6から12節が、“アブラハムはどんな問題に直面したか”です。」
「6節に、“アブラハムが住んでいたウルは,比較的安全で住みやすく,設備が整っていました。”とあるのには驚いた。創世記には“カルデア人の町ウル”とある。それがどこかは不明なんだけどね。カルデアというのは西暦前9世紀以降知られるようになった言葉で、“カルデア人の町ウル”というのは新バビロニア王国が強大になってから以降の呼び方。」
「つまり創世記を書いた人はバビロニアの時代以降の人ということですね。」
「古代ギリシャ語訳の70人訳は、“カルデア人の地方”となっている。アブラハムたちは、この物語が書かれた時カルデア人が住んでいる所から来たと言いたいだけ。」
「JWは南メソポタミアのウルと決めつけているようですね。」
「ウルという町はその他にもあることを知らないのかも。」

「7節に、“アブラハムとサラはウルの安全で快適な家を離れ,”とありますが、単なる推測ですね。どんな生活をしていたのか、聖書は何も言っていません。」
「都市の住民だったということ?それが途中で、羊やヤギを飼う天幕暮らしに変わった?無理じゃないの。」

「アブラハムは神から召命されるわけですが、創世記12:1に“あなたが住んでいる土地を出て,あなたの親族と父の家族から離れ,私が示す土地に行きなさい。”とあります。この時、アブラハムはハランに住んでいます。ハランの地で召命されたというのがJWの解釈のようです。ところが、協会共同訳だと、“「あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ/私が示す地に行きなさい。”で、召命場所がウルと読めます。もちろん、JWの方が間違いですよね。」
「創世記15:7に“私エホバは,この地方を与えるためにあなたをカルデア人の町ウルから連れ出した。”とあるよ。召命場所はウルでしょう。」

「11節に、“家族と共にウルを出た時には,70歳を過ぎていたようです。”とありますが、引照聖句には、“アブラムは,75歳の時にハランを出た。”とあるだけです。JWでは、根拠もなく、ハラン滞在を5年以内としているようですね。それはおかしいですよ。」
「創世記12:5には、“ハランで得た召し使いたちと共に,カナン地方に向かった。”とある。創世記14:14では“彼の家で生まれて訓練された従者318人を集め,ダンまで追い掛けた。”とあり、相当な数の従者がいたようだ。これらをハランの地で抱えたとすると、相当の期間ハランに居たと考えるのが妥当なんだけどね。」

「11節のポイントは、“自分が歩いて巡った土地をエホバが子孫に与えてくださるのを見ることなく生涯を終えました。「都市」である神の王国が設立されるのを見ることもありませんでした。それでも,「充実した長い人生を送った」と述べられています。(創 25:8)”でしょう。」
「アブラハムは約束が実現される前に死んだけれど充実した人生だったように、JWも楽園など来るわけないけれど集会と奉仕活動で充実した人生を送れるよ、ということだね。」

「創世記25:8は、協会共同訳では、“アブラハムは良き晩年を迎え、老いた後、生涯を全うして息絶え”とあります。だいぶ違いますね。」
「創世記15:15で神はアブラハムに“あなた自身は,長生きした後,死の眠りに就き,父祖たちのように葬られる。”と約束する。その約束が果たされたというのが、25:8の主旨だね。“長生きした”と訳されている同じ単語が25:8でも使われているけれど、そこでは“充実した長い人生を送った”とかなり膨らませて訳している。統一して欲しいね。」
「その点、協会共同訳はしっかりしていますね。15:15も“あなた自身は良き晩年を迎えて”と、“良き晩年を迎えて”で統一しています。」
「同じ言葉なのに、適当に変えて訳するという点でJW訳はずさんだよね。カルト信者による素人訳でしかないね。」
「アブラハムが「充実した長い人生を送った」ことにしたいので、そう訳したということでしょうかね。」
「そして、ものみの塔で利用するためだね。」

「13から16節が、“アブラハムの手本に倣った人たち”です。3人の人物の紹介ですが、全員過去のものみの塔の“ライフストーリー”の記事で紹介された人です。」
「古い記事の使いまわしね。最近の人で記事に使えそうな人がいないということ?それとも執筆者の手抜き?3人の“ライフストーリー”の記事はアブラハムとほとんど関係ないよ。」

「13節に出ている、ビル・ウォールデンは、将来有望な人生を捨てて、刑務所とアフリカ宣教と母親の介護という素晴らしい人生を歩んだという話しです。」
「アブラハムは、神の指示で故郷を出たけれど、裕福で子どもにも恵まれた。ビルは、組織の指示で、貧しいアフリカに行き、自分より貧しい人たちの世話になりながら宣教師として働き、財産もなく子どももいない。何の共通点もないよ。」

「16節に出ているのは、3代目会長のノア(Knorr)の妻だったオードリーの話です。ノアは1977年に亡くなっていますが、この女性は1978年に再婚しています。元ニューヨークの消防士とです。再婚が早すぎませんか?」
「1978年だと、オードリーは53歳。ノアは20歳年上の老人だった。そんなに夫婦仲はよくなかったんじゃないの。オードリーはハウスキーパーとしてベテルで働いている時に、20歳年上の会長のノアに見初められたわけだけど、初めから雇い主と使用人のような関係だったかも。」
「2004年の“ライフストーリー”によると、“ネイサン・H・ノアから関心を示された時,『この人ならベテルにとどまれるわ』と思いました。”とあります。それだけです。あまり愛情を感じません。」
「ノアに対して、その記事で復讐しているのかも。結婚の喜びは一切書かれていないからね。」
「一方、再婚相手については、“ライフストーリー”には、“グレンはとてもハンサムで物静かな,優しい人でした。”とあります。ほめすぎですよ。」
「老いぼれのノアとは大違いだったんだろう。幸せそうでよかったね。」

「ベテルでは結婚したら、外に出ていくというのが原則だったのですが、ノア会長自らが結婚したので、この原則はうやむやになったのです。それまでは、結婚したためベテルを追い出されて、生活に困窮するJWが結構いたそうです。」
「ノアのもとで、輸血禁止の教義が作られていった。無駄に死んだJWの死に一番責任のある男だけど、少しはいいことをしたのかな?」

「ノア会長と言えば、同性愛者嫌いで有名ですよね。1969年に60人以上のベテラーを同性愛を理由に追放しています。それで、ネイサン・H・ノアはネイサン・ホモ・ノアと言われるようになったそうですよ。」
「”New boy”という本がある。この著者は1970年にベテルに入る。そしてノアの講演を聞くわけだけど、ノアの話はセックスの話で、かなりひどい内容だったと書かれている。」
「どんなものですか?」
「ノアは、4年間ベテル奉仕をする若者たちに、“I only want you to pee with it for four years(これからの4年間はそれを小便するのにだけ使って欲しい)”と言っている。無教養な田舎のおっさんだね。」
「レイモンド・フランズの“良心の危機”の104ページに、“基本的にノアは気さくで、温かみの感じる人物だった。「会長」としての立場にない時には、一緒にいて楽しい人物だった。”とあります。楽しすぎるんじゃないですか?」
「ノアは、そして、“結婚したら、セックスはたいしたことじゃない。セックスの後、二階に行って壁にペンキを塗るのもいいし、仕事に行ったっていい。“と言ったそうだ。セックスの後ペンキを塗るなんて言う話は聞いたことがないので、とても印象に残ったそうだ。」
「その時、周囲に女性はいなかったのですか?」
「いたそうだ。女性たちは困惑していたけれど、ノアは気にしなかった。彼はキング・ノアと呼ばれていたそうだから。」

「16節に、ノア会長は“いつも忙しくしていなさい。人のためになることを行うようにしなさい。そうすれば,生きていることは喜びになる”と死ぬ間際に言ったとあります。なかなかいいアドバイスじゃないですか?」
「ものみの塔の記事よりも、ずっといいね。それに対して17節には、“世界の出来事は,終わりの時代が間もなく終わる時に私たちが生きていることを示しています。”とある。ものみの塔は芸のない終末論を繰り返すだけだね。」

#1223 2020年10月04日 15:16:50

Kiti
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

エホバの証人ってつっこみどころありすぎますね?最近予習もちゃんとやってない(やる気ない)ので集会中に??が浮かびますね最近

オフライン

#1224 2020年10月09日 15:47:42

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“謙遜さと慎みを持って神と共に歩みましょう(32)”で、謙遜さと慎みを持って組織に服従しましょうという内容です。」
「これもよくある内容で、少しも面白くないね。JWの中で謙遜さと慎みが一番必要なのは統治体の老人たちでしょう。」

「1節で、エホバは謙遜だと言っています。サムエル二22:36の“あなたは救いの盾を私に下さる。私が優れた者になれるのはあなたが謙遜だから。(サム二 22:36。詩 18:35)”が引用されていますが、協会共同訳では、“あなたは私に救いの盾を授け/あなたが応じてくださることが/私を大いなる者とした。”で、謙遜なんて出てこないのです。」
「現代の聖書で謙遜としているのは、福音派の新改訳くらいかな。神が謙遜とは?謙遜だと私が優れたものになる?なぜ?よくわからない。多くの聖書は、あなたが助けてくれるので私は偉大なものになれました、という意味と理解している。死海写本では「私の助け」となっている。」

「サムエル二22章と詩編18は、ほとんど同じです。これは、同一の詩の異なるバージョンと見てよいのでしょうか?」
「その様だね。詩編18のほうが新しく、不明瞭な表現には説明がついている。礼拝にふさわしいように変更したのだろう。」

「3から9節が、“エホバの手本から何を学べるか”で、エホバの手本なるものが繰り返されます。3節には、“エホバは本当に憐れみ深く,思いやりがある方です。”とありますが、これは違いますよね。」
「旧約聖書を読めば、神は無慈悲で思いやりが欠けているとしか思えないね。申命記7:16に“あなたは,エホバ神が与えるどの民も滅ぼさなければなりません。彼らを哀れに思ってはなりません。”とある。ヨシュア11:20では“彼らの心が頑固になるままにしてイスラエルと戦うようにさせたのは,エホバだった。彼らに憐れみを示さず,滅ぼし尽くすためだった。エホバがモーセに命じた通り,彼らは全滅すべきだった。”とある。異民族を無慈悲に子供も含めて絶滅させよと言っている。普通は、こういう神を“憐れみ深く,思いやりがある方”とはいわない。」

「イスラエルに対しても無慈悲ですよ。ホセア1:6で“その子をロ・ルハマと名付けなさい。私はイスラエル国民にもう憐れみを示さないからだ。彼らを必ず追い払う。”と言っています。イザヤ9:17では、“エホバは若者のことを喜ばず,父親のいない子供ややもめに憐れみを示さない。彼らは皆,背教者また悪人であり,無分別なことを語っているからである。”と、父親のいない子供ややもめにも憐れみを示さないといっています。」
「イザヤ27:11には“この民は理解が欠けている。そのため,彼らを造った方は憐れみを示さず,彼らを形作った方は情けを掛けない。”とある。理解が欠けていると憐れみを示してくれない。無慈悲だね。」

「5節に“イエスの共同統治者たちをも訓練します。とはいえ,務めを与えた後に細かいところ まで仕切ろうとはしません。ご自分の望むことを行ってくれると信頼します。(啓 5:10)”とありますが、引照聖句はそんなことを言っていません。」
「聖書を読む限り、神様は細部にまであれこれ指示を出す極端な仕切りたがり屋だよ。例えば、出エジプト25:9に“あなたたちは,私が示す型の通りに幕屋と全ての備品を作らなければならない。”といって6章に渡って細かな指示を出している。全宇宙の支配者にあるまじき細かさだよ。人間たちに全く裁量の余地を残さない。」
「出エジプト25:31-40に純金のランプ台の作り方の細かい指示が出ています。34キロの純金で作れとあります。」
「金の量がすこしでも少ないと、宇宙の秩序が乱れるんじゃないの?」

「6節に、エホバからの教訓が出ているのですが、“エホバは誰の助けも必要としないのに,他の者に権限を委ねます。であれば,私たちはなおのことそうすべきです。”というものです。JWらしいひねりが入りました。」
「神からの教訓は結局組織運営の話に矮小化されるのがJWだね。時代遅れの老人は若者に仕事と権限を譲れということだね。」
「現在ZOOMの活用などIT化を進めていますから、その種の技術に疎い老人はいらないというのが組織の本音ですよ。」
「仕事と権限を譲ったら、年老いたJWは単なる貧困老人に転落するわけだから、組織にしがみついている老人はそれらを手放さないよ。JW老人を簡単に切り捨てられると思うな、JW老人を甘く見るな、と言いたいね。」

「7節に、“家の仕事のやり方について子供の意見を聞くのはいかがですか。”とあるのには驚きました。上の者には絶対服従を求めるJWですよ。子供の意見を聞け、なんてアドバイスはかつてありましたか?」
「“家の仕事”と限定しているのはよくないね。元の英文は、単に“a task”だよ。翻訳者も驚いたんだろう。」

「8節に、“高齢者である自分に子供ができるという約束を聞いて笑ったサラに対し,エホバは気を悪くしたり怒ったりしませんでした。(創 18:10-14)”とあるのですが、この時のエホバが少し変なんですよ。18:12でサラは、“私はすっかり衰え,主人も年老いているのに,そんなにうれしいことがあるのかしら。”と言ったのに、18:13で、エホバは、“サラが笑って,『年老いた私が本当に子供を産めるのだろうか』と言ったのはどうしてですか。”というのです。かなりサラの発言を変えています。記憶の間違いですか?エホバはこの時体調不良だったんでしょうか?」
「この創世記18章は複数の異なる伝承を一つにまとめたものだから、というのが一つの答えだね。そのため細部で不一致が出てくる。日本語訳だとわからないけれど、同じ場面で動詞が単数形になったり複数形になったりしている。」
「サラの話は中途半端に終わりますよね。サラが“私は笑っていません!”と嘘をついたことについて、何のお咎めもないです。」
「8節の最後に、“サラの尊厳を重んじました。”とあるけれど、違うね。話の展開上、創世記では続きの部分をカットした。編集の結果だよ。」

「9節がその教訓ですが、“あなたが決めた事柄に異議が挟まれるとき,どのように反応しますか。すぐに却下しますか。それとも,なぜ反対するのかを理解するよう努めますか。”とあります。」
「反対する理由を理解しようと努めるけれど、反対の意見は絶対聞かないというのがJWだよね。物分かりの良いふりをしようということだね。」

「10から16節が、“他の人たちの実例から何を学べるか”で、11節では、サウル王は出過ぎた行動をとった悪い例として出ています。12節では、ダニエルが慎みの模範として取り上げられています。」
「12節に、“演壇でした話を褒められたり,伝道で良い経験ができたりしても,全てはエホバのおかげであることを忘れないようにしましょう。”とあるね。よい結果が出て、誰かからほめられたら、すべてエホバのおかげです、と言わない人は慎みに欠けると認定していいということね。」
「ダニエルの例は、ネブカドネザルが見た夢の解釈についてのものです。これは神の助けなしにできません。ダニエルがそれを自分の功績にしなかったのは当然です。それに対して、演壇で話したり伝道したりすることは、ふつうの能力さえあれば誰にでもできることです。比較の対象が違いすぎます。」
「慎み深くしなさいということの本当の意味は、あなたたちは無能で無力な存在なので、組織に絶えず依存しろ、でしゃばるな、ということのようだ。」

「13節で、“イエスは神の子で,完全でしたが,いつもエホバに頼りました。(ヨハネ 5:19,30を読む。)”とありますが、ヨハネはイエスと神との同等性、一体性を強調していますよ。イエスがエホバに頼る存在というのは違いますよ。」
「引照聖句のすぐ後の、5:21には、“父が死者を生き返らせて命を与えるように,子も自分が望む人に命を与えるからです。”とある。旧約聖書では、命を与えるのは神にしかできない。でもイエスは自分が望む人に命を与えるといっている。5:22では、“父は誰一人裁かず,裁くことを全て子に委ねています。”とある。旧約聖書では、裁くのは神と決まっている。」
「詩編82:8に、“神よ,立ち上がり,地上で裁きを行ってください。全ての国はあなたのものだからです。”とあるように、裁くのは神の仕事というのが旧約聖書の考えです。でも、イエスが裁くといっているわけですね。イエスは旧約の神そのものです。」

「実はイエスがどのような存在かは、各福音書で違う。またパウロのイエス観は福音書とは違う。いろいろなイエスがいるということ。」
「ヨハネのイエス観はJWのイエス観と一番違いますよね。JWではイエスは天使のひとりにすぎないわけですから。」
「その辺を理解していれば、引照聖句にヨハネは使わないと思うね。執筆者にはそういう自覚はないということだね。」

「14節で、再びヨハネを引照聖句にしています。“エホバから権限を与えられていない事柄は,決してしませんでした。(ヨハ 12:49)”とあります。」
「ヨハネ12:49は、“私は自分の考えで話したのではなく,私を遣わした天の父が,何を言い何を教えるべきかを命じました。”というもの。ここでも要点はイエスと神の一体性であって、イエスの権限は限られていたけれど、その権限を超えたりしませんでしたと読むJWは相当歪んでいるね。」

「15節が笑えます。“コリント第一 4章6節の「書かれている事柄を越えてはならない」という勧めの通りにするなら,イエスに倣っていることになります。”とありますが、JWは、聖書の中で禁止と書かれていないことをあれこれと禁止していますよね。やはり、自分たちのしていることについての自覚がないのですね。」
「余計な禁止事項をもうけるのは、信者を管理統制するため。カルトは信者を社会から隔離させようとするものなの。アメリカのようなキリスト教国で、十字架もクリスマスも復活祭も誕生祝いもダメとすれば、JW以外の人とは付き合えないことになる。JWは孤立し、組織に依存するしかなくなる。組織としては大満足だね。」
「それで異教起源でも結婚指輪はOKなのですね。JW以外の付き合いとは無関係です。」
「結婚しているかどうかを示すものがあった方が、男女関係にうるさい会衆の運営上便利という面もあるからじゃないかな。」

「15節に、“聖書や出版物に載っているアドバイスに注意を引きましょう。そうすれば,自分の限界をわきまえていることを示せます。”とありますが、“出版物”は余計ですよ。組織は自分の限界をわきまえていませんね。」
「JWの出版物では、20年前正しかったことが、その10年後には間違いとされるなんていう例は沢山ある。そんな出版物を聖書と同等に扱うなんて、傲慢な組織だね。」

「17から19節が、“謙遜さと慎みを示すことの価値”です。英文では、“HOW WE BENEFIT FROM BEING HUMBLE AND MODEST”で、“価値”というより“利益”ですよ。謙遜で慎み深いと、“幸せな気持ちになれる”と17節にあります。」
「英語版は利益誘導的なことが多い。その方が実利的なアメリカ人に受けるのだろうね。日本語翻訳者は、JWはご利益宗教ではないと思っているのか、利益誘導的な面を正直に訳さないことが多いね。」

「17節に、ルカ17章のイエスによって癒された10人のうち、1人だけが感謝した話をとりあげ、“この男性は謙遜で慎みがあったので,与えられた助けに感謝し,神をたたえました。”とありますが、そんなことは聖書に書かれていません。この人についてはサマリア人だったことが書かれているだけです。最後に、イエスは、“あなたが良くなったのは信仰があったからです。”というわけで、この話のテーマは信仰ですよね?」
「“謙遜と慎み”はこの話には関係ないね。イエスは、10人に“自分を祭司に見せに行きなさい。”という。サマリア人の男はそこでジレンマに陥る。サマリア人の神殿はゲジムにあり、そこに行ってサマリア人の祭司の所に行くべきなのか、他のユダヤ人と同じようにすべきなのか、という問題。病気は途中で治る。そして、真に崇拝すべきは神殿ではなくイエスその人と悟る。その男はイエスの元に戻り、“そしてイエスの足元にひれ伏して感謝した。”というわけ。ひれ伏すというのは崇拝行為。だからイエスはその男の信仰をほめるわけだ。」

「19節では、再び権限移譲を促していますね。高慢な人は“誰かを訓練して権限を与えるよりも,仕事を“きちんと”果たすには,つまり自分の望むように果たすには,自分でやるしかない,と考えます。”とあります。」
「役立たずの長老に向けて書かれているね。さっさと若い人に権限を譲らないと、高慢な人間 と認定するよという脅しだね。」
「老人切り捨ての姿勢がよくわかった今週の記事でした。権限を譲る若い人がそもそも会衆にいない場合も想定してほしかったです。」

#1225 2020年10月16日 15:30:49

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“復活 神の愛,知恵,辛抱の表れ(33)”で、復活幻想を振りまいて、JWのやる気を少しでも上げようという内容です。」
「その前に、ハルマゲドン後、神様によってぶち殺された77億人の遺体をどう処理するかについて取り上げて欲しいね。」
「そもそも聖書に、ハルマゲドン後、人間が地上に復活して永遠に暮らすなんてことは書かれていません。これはJWの教義の中でも極めてバカバカしいものです。」
「そう。だからこの記事はお気楽な夢物語の駄文だ。こんな駄文を書いて生活している執筆者は、もう楽園で暮らしているようなものだね。」

「最初の4節は読む必要はありません。5から7節は、“復活はどのように行われるか”です、聖書には何も書かれていませんから、執筆者の無責任な推論が述べられているだけです。」
「5節に、“その人たちが皆一度に生き返ることはないものと思われます。なぜでしょうか。地球の人口が一気に増えると混乱が生じるからです。”とある。そうとは決まっていないだろう。信仰心がないね。神様に不可能なことはない。一度に復活しても、混乱など生じないよ。神様を信じようね。」
「JWは神の介入は基本的にないと想定しているようです。」
「神に頼らず、自らの業によって自力救済を目指すのがJWの基本姿勢だ。楽園でも同じなわけだ。」

「過去生まれた人類は1000億人くらいですよね。1年間に1億人ずつ復活しても1000年かかります。」
「ところが洞察の“復活”の所には、“これまで地上に生存した人間の数は,非常に大ざっぱに見積もって200億人です。この問題を研究している人の中には,これまでに生存した人の数はとてもそこまでは行かないと考える人が多くいます。”と、何の根拠も示さず、とんでもないことが書かれている。今でさえ77億人いるのに、こんなに少ないわけないよ。いい加減な根拠に基づいた楽園幻想ということがよくわかる。」
「現代の技術を使っても、100億人分の食料しか生産できないそうですよ。」
「楽園は原始農業だよね。それなら10億人くらいしか養えないよ。」

「6節に、“ハルマゲドンを生き残った人が,復活してきた人に対して行う世話の中で最も大切なのは,神の王国や神が求めている事柄について教えることです。”とありますが、そんなこと聖書のどこにも書かれていません。楽園では、のんびりパンダと遊んですごすのかと思っていました。」
「楽園についての挿絵はそういう幻想をふりまいていたよね。そのイメージはもう否定されたようだよ。JWの予想する楽園での生活は、集会と聖書レッスンに明け暮れるというもののようだね。週3回のパートタイムの仕事ももちろんある。」
「JWの細かな規則はそのままなのでしょうね。ダビデもネクタイをしないといけないのでしょうか?ひげも禁止?」
「バテシバもセクシーな恰好だと排斥だよ。JWの楽園は現状とそう変わらず、退屈で窮屈な所ということだね。」

「7節に、“キリストの1000年の統治の間に,エホバに仕える人は皆,エホバに喜ばれるために変化していかなければなりません。”とあります。変化しなかった人はどうなのですか?」
「JWの楽園では、食料や家などは組織から配分されることになると思う。北朝鮮のようなもの。そのような経済体制で組織に逆らうと、食料も家も奪われて、野垂れ死にするしかなくなるね。」
「そういう人たちが軍隊のようなものを作り、略奪するということもありえますね。」
「というわけで、何の秩序もない古代世界に戻り、歴史を繰り返す。邪悪な世界を何とかしようとノアの大洪水を起こしたけれど、単なる大虐殺で元の世界に戻った。それと同じことが再び繰り返されると予想するね。」

「8,9節が、“復活してきた家族を見分けることができるか”です。答えはできるというものです。8節に、“エホバは人を再び造る際,亡くなる前と同じ外見を持ち,同じ話し方や考え方をする人を造るものと思われます。”とあります。」
「死んだ時のコピーを造るということだね。ということは、90歳で死亡した人は90歳で復活し、0歳で死亡した人は0歳で復活するの?0歳児の面倒は誰が見るんだろう?恐らく過去の人類の50%は5歳以内に死亡しているので、乳幼児は膨大な数になるよ。成人の段階で復活させてあげないと、余計な負担がかかる。」
「楽園で、おむつや哺乳瓶を作る工場や技術者はいませんよね。全員20歳で復活というルールにしたら、おむつも哺乳瓶も必要なくなります。単なる空想なんですから、そういう事にしましょうよ。」

「9節に、“復活する人には健康な体が与えられます。とはいえ,その人たちが直ちに完全になるわけではありません。そうだとしたら,家族や友人は,復活してきた人が誰だか分からないでしょう。”には笑える。なぜすぐに健康にしないの?時間をかける必要なんかないじゃないの?復活した人が誰かわからなくなるから、時間をかけるなんてバカじゃないの?」
「全身麻痺の人は復活しても全身麻痺なわけですね。その理由が誰かわからないと困るからとは、ふざけていますね。名札をつけるだけでいいじゃないですか。」
「美容整形した人は整形前の姿で復活?それだと誰かわからないよ。」

「9節に、“エホバはイエスが統治する時,「私は病気だ」と言う人はいないと約束しています。(イザ 33:24。ロマ 6:7)”とありますが、この引照聖句のイザヤ33:24はハルマゲドン後の世界のことではないですよね。」
「一つ前のイザヤ33:23には“その時,たくさんの戦利品が分けられ,足が不自由な人も多くの略奪品を手に入れる。”だよ。イザヤが言っているのはイスラエル民族の再興であって、現代のJWとは関係はない。」

「10から12節が“復活によってどんな喜びを経験できるか”です。復活幻想を盛り上げる部分です。」
「8節に、復活した家族と会える、と言っているけれど、正確には死んだ家族の複製と会えるということだよ。」
「頭を開けてみたら、電子部品詰まっているかもしれませんね。その方が修理が簡単そうですよ。」
「会いたくない家族がいることはこの執筆者は思いつかないようだね。妻に合いたくない男性や夫に会いたくない女性は結構いるでしょう。」
「ソロモンは1000人の妻と妾がいましたが、復活後、その1000人はどうなるのですか?」
「ソロモンは神と直接話せるんじゃないの。気に入らない500人は復活させないでください、と交渉するんじゃないの。」

「10節に“復活という素晴らしい 贈り物を与えてくださった優しい父エホバ”とあるけれど、違うね。他のキリスト教の神様は死んだらすぐに天国に連れて行ってくれるよ。JWの神様は144000人だけしか天国に迎えてくれない。どケチだ。しかも、死んだらすぐにではない。地上の復活組の中には何千年も待っている人もいる。なぜそんなに無駄に待たせる必要があるの?愛ある神様じゃないよ。」
「JWは、死後の世界についての見方が旧約聖書の段階で止まっているわけですよね。」

「旧約聖書の初めの見解は、死んだら何もないというもの。途中から復活ということが言われるようになる。」
「それはイスラエル民族の再興のことを言っているわけですよね。それが、個人に適用されるようになり、個人の復活という思想が生まれた。」
「個人の復活という概念が出てくるのは、倫理観の進歩がある。悪人も善人も死後は同じ境遇というのは正義に反しているという見方がでてきたことによる。」

「旧約聖書で個人の復活が出てくるのはダニエル書ですか?」
「それが唯一の例だね。ダニエル12:3の“地面の中で眠っている多くの人が目を覚まします。ある人たちは永遠の命を得,ある人たちはとがめられて永久に嫌悪されます。”」
「ここでは、目を覚ますのは、多くの人であって、全てではないです。ある人たちは、“とがめられて永久に嫌悪”されるとありますが、どういう意味ですか?」
「復活後、自分たちの罪を明らかにされ、辱められた後、永久に破壊されるという意味。また、“永遠の命”という単語は、旧約ではここしか出てこない表現。普通は、これは天での復活を意味すると理解されている。」
「復活するのは、ダニエル12:1によると、“国が始まってからその時まで生じたことがない苦難の時”です。これが後に、死後すぐに復活すると考えが変わるわけですね。」
「そう。初めから復活させるつもりなら、なぜ延期する必要があるの?どうせ復活するなら死後すぐの方がいい、という考え。JWの復活観は、復活の時期についてはダニエル書的だけど、細部は全然違う。」

「11節に、“神に反逆する人たちが楽園の平和を損なうことは許されません。”と、書いています。楽園にも刑務所や警察はいるんでしょうね。」
「裁判官もいるのか?それとも素人による人民裁判?でも、女性は排除だろうね。JWの楽園は、女は黙っていろというわけで、男性にとってのみの楽園だね。」

「13、14節は、“エホバの愛の表れ”です。13節に、“あなたを復活させることが必要になったら,あなたの記憶,態度,性格を容易に復元することができます。”とあり、これが愛の現れだそうです。」
「そんなことは聖書のどこにも書いていないけれど、中には自分の容姿を少しばかりよくして復活させてほしいと思う人もいるよ。復活後鏡を見て、落胆する人も多いということね。」

「15,16節は、“エホバの知恵の表れ”です。15節で、“死に対する恐怖心は,正しいことをする妨げになります。”と、何やら不穏なことが書いています。」
「復活を信じていれば、死ぬことなんか怖くないよね、喜んで組織のために死んでくれるよね、ということだね。」
「15節には、“復活の希望には,エホバの何と深い知恵が表れているのでしょう。”とありますから、これはエホバの知恵なのだそうです。」
「これって、イスラム教の過激派が自爆テロ要員を募集するときの誘い方とそっくりだ。死後の世界の幸福を保証し、地上の命を喜んで投げ打つように説得する。死なんか何でもないと思わせる。」

「16節に2つのテストが出ています。“毎日の小さな事柄でもエホバを信頼して決定しているだろうか”と“自分の生き方には,王国を第一にしていれば必要な物は与えられるというエホバの約束への信頼が表れているだろうか”という問いです。両方にハイと答えられない人はエホバを信頼していないことになるそうです。」
「両方ともハイと答える人はバカか偽善者のどちらか。」
「なぜ、唐突にこんなことをいうのでしょうかね?」
「危機意識をあおる作戦でしょう。楽園幻想でいい気持にさせておいて、その前には試練が立ちはだかっているのだ、一層組織のために働けと引き締める。」

「17.18節は、“エホバの辛抱の表れ”です。“私たちはエホバが辛抱していることに感謝できます。エホバが辛抱しているので,私たちを含む大勢の人が「悔い改める」時間を持つことができました。”とあり、JWが100年以上も待っているハルマゲドンが起こらないことを感謝せよと言っています。」
「また“私たちもエホバの辛抱に倣いましょう。”と呼び掛けている。JWは感謝に加えて、一生辛抱しなくてはいけないようだ。」

「17節に、“死んだ人を復活させたいと強く願っていますが,辛抱しています。(ヨブ 14:14,15)”とありますが、この引照聖句はそんなこと言っていませんよね。」
「ヨブ14:15は“あなたはご自分の手で造った人に再び会いたいと願います。”とある。訳がへんだよ。協会共同訳は“あなたの手の業を尋ね求めてください。”だけど、こちらが字義通り。古いJW訳でも、“ご自分のみ手の業をあなたは慕われます”。となっている。」
「それを、“ご自分の手で造った人に再び会いたい”と訳しちゃったんですね。ひどい意訳です。“再び”に相当する語は原文にはないですよ。」

「18節に、やっと体験談が出てきた。真偽不明の体験談でも、単調な記事の中では、それなりに興味深いね。」
「この体験談は夫の病気を辛抱したという話です。それまでの話とあまり関連性がないです。」
「“姉妹の夫は重い不安障害を抱え,集会に行けなくなってしまいました。”とあるけれど、元の文はanxiety attacksとある。これはパニック発作のことだね。パニック発作とは、突然理由もなく、動悸やめまい、発汗、窒息感、吐き気、手足の震えといった症状が出ること。これが繰り返され生活に支障が出るとパニック障害と診断される。」
「この夫は集会に行くとパニック発作が起きたんでしょう。それで集会に行けなくなった。それなら集会を休めばいいだけですよ。JW以外の人なら何の問題もないのに。気の毒です。」
「妻は、“私にとってとてもつらい時期でした。家族で思い描いていたことができなくなってしまいました”といっている。この発言からは夫に対する愛情はほとんど感じられない。被害者意識だけ。このJW妻が夫の症状を悪化させているよ。夫に集会に行かせようと様々な圧力をかけたんだろう。」
「“姉妹は辛抱強く夫を支え続けました。”とありますが、辛抱強く集会に行くようにあの手この手で圧力をかけたのでしょうね。夫の本心は、あんな馬鹿らしい集会になど行きたくない!、とどうして気づかないのでしょうね。カルト宗教にどっぷりつかった最悪の妻ですね。」
「“一歩一歩,回復に向けて努力しています”とある。治ったとは言っていない。JWを辞めないと、回復は難しいよ。」

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