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#901 2019年02月07日 16:30:30

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

水曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“パラダイスで会いましょう!”で、JW独自のパラダイス論を弁護している護教的な内容です。」

「今週のタイトルは聖書からではなくて、韓国での大会の最後に、“パラダイスで会いましょう!”といって別れたという話からきている。異例だね。」
「聖書にはそもそもパラダイスなんて言葉はあまり出てきませんからね。苦肉の策ですね。」
「この韓国の大会は、いつ頃なの?」
「これは1999年の話です。2000年の“年鑑”に出ています。“韓国の証人たちはそこを通ってゆく代表者たちに,「楽園で会いましょう!」,「わたしたちは皆さんを愛しています!」と大声で語りかけました。”とあります。世紀末ですから、本気でまもなく楽園が来ると思っていたんじゃないですか?」
「20年前ね。つわものどもの夢のあと、という話だね。今は誰もそんなことは言わないんだろうね。」

「そもそも、パラダイスって何ですか?」
「エデンの園をギリシャ語に翻訳したときに使われた単語。もともとはペルシャ語。ある土地を囲む壁をさした。そこから、壁で囲われている公園とか果樹園といった意味が派生した。」
「となると、地球上がパラダイスになるというのはエデンの園のようになるということですね。でも、そんなこと聖書のどこに出ているんですか?7から10節では、パラダイスは天ではなく地上にできることをいっているようですね。」

「いくつかの聖句を引用しているけれど、どれもパラダイスに触れたものは一つもない。詩編37:29の“義なる者たちは地を所有し,そこに永久に住むであろう。”が引用されているけれど、この地は、神がイスラエル人に約束した土地のことだよ。自分の国さえ守れないイスラエルの人たちに、地球全体が楽園になるなんていうお目出たい思想がその当時あるわけないよ。」
「旧約聖書にはそのような思想はないですよね。旧約が問題にしているのはアブラハムの子孫だけですから。」
「イザヤ51:3には、“エホバは必ずシオンを慰めてくださるからである。そのすべての荒れ廃れた所を必ず慰め,その荒野をエデンのように,その砂漠平原をエホバの園のようにされる。”とある。ここからわかるのは、エホバが気にしているのはシオン、つまりエルサレムとその周辺だけということね。そこだけはエデンあるいはエホバの園のようにするといっている。」

「11節からはイザヤ書からの引用が続きますね。」
「おもしろいのは、12節。“イザヤ35:5-10をよむ。”とある。35:5、6は、“その時,盲人の目は開かれ,耳の聞こえない者の耳も開けられる。 その時,足のなえた者は雄鹿のように登って行き,口のきけない者の舌はうれしさの余り叫びを上げる”とある。」
「“しかし,イザヤの預言はすべて実現したでしょうか。”とあって、それは将来のパラダイスのこととしていますが、へんですよね。」
「へんだね。マタイ11:5には、“盲人は再び見,足なえの人は歩き回り,らい病の人は清められ,耳の聞こえなかった人は聞き,死人はよみがえらされ,貧しい人々には良いたよりが宣明されています。”とある。つまり、イエスによってイザヤの預言はことごとく実現した。だからイエスはメシヤだ。これがマタイの主張。」

「13節で“イザヤ65:21-23を読む。”とあります。それを受けて、14節で、“この預言には,わたしたちの寿命が「木の日数のようにな[る]」とも述べられています。”とあって、永遠に生きるとは言っていません。」
「その直前のイザヤ65:20で”死ぬ“とあるから。永遠には生きない。」
「イザヤ65章はイスラエルの民に起きることを予言しているわけで、ハルマゲドンの後にくる楽園とは関係ありませんよね。」
「イザヤ65:18では、“いまわたしは,エルサレムを喜びのいわれ,その民を歓喜のいわれとして創造しているからである。”とある。その後、新しいエルサレムでは、みんな長生きし、楽しく働き、子孫が増える、動物も平和になるといっている。未来のパラダイスのことだなんてどこにも書いていないよ。」

「この記事が力を入れているのは、16節から始まる、ルカ23:43、“今日あなたに真実に言いますが,あなたはわたしと共にパラダイスにいるでしょう”の“今日”という単語の翻訳問題です。正しくは、“あなたに真実に言いますが,今日・・・”ですよね。」
「17節で、“前者のように訳している聖書もあれば,後者のように訳している聖書もあります。”とあるけれど、誤解を招く表現だ。新世界訳のように訳している聖書はまずないよ。新世界訳が誤訳ではないことを懸命に訴えているけれど、説得力はないね。」
「聖句を自分たちの教義に合わせるための、意図的誤訳ですよね。イエスは罪びとに面と向かってしゃべっているわけですから、わざわざ“今日あなたに真実に言いますが”なんて言うはずはないですよ。今日しゃべっているのはわかりきったことです。」
「“あなたに真実に言いますが”といういい方は、amén soi  legó の翻訳だけど、新約聖書の中で74回も出てくる決まり文句。重要なことをこれから言うよ、という合図だね。新世界訳でも、73回はこれをひとまとまりとして訳している。そうしなかったただ1回が、ルカ23:43だ。なぜそうしなかったかというと、自分たちの教義に反するからだ。」
「JWのパラダイスは、遠い将来に地上にできるというものですから。」

「天ではなく地上にできるという根拠を述べてほしいけれど、その根拠は示されていない。あるのは、ご都合主義的な推測だけ。」
「パラダイスという言葉は、新世界訳では3回しかでてきません。そのうち2回(コリ二12:4、啓示2:7)は、明らかに天でのパラダイスを指しています。唯一あいまいなのがルカ23:43で、そのためJWはその聖句にこだわっているわけです。」
「イエスは罪人が将来パラダイスに入ることを約束した。しかし、21節によると、“イエスが天の王国で共にいるという契約を忠実な使徒たちと結んでいたことなど知りませんでした。(ルカ 22:29)その人はバプテスマさえ受けていませんでした。(ヨハ 3:3‐6,12)ですから,イエスが約束したのは,地上のパラダイスであるに違いありません。”とある。これはJWの教義に合うように推論をしているだけ。」
「バプテスマを受けないとダメだなんてけち臭いことをイエスは言いませんよ。イエスは自分でバプテスマを施したことなんかありません。JWは自分たちの教義をイエスに押し付けています。」
「イエスは一言も地上のパラダイスとは言っていない。イエスの言っていないことを、自分たちに都合の良いように付け加える。きっとイエスも怒っているよ。」

「要するに、パラダイスとは何か、について聖書の中で統一した見解などないということですね。」
「そのとおり。だからルカ23:43でイエスが語ったパラダイスとは何を指しているのか、よくわからない。パラダイスという単語をイエスが使ったのはここだけだからね。その当時、パラダイスがどういう意味だったのかを解明しないといけないね。」
「どんな意味だったんですか?」
「もともとパラダイスは地上の庭園のような意味だった。しかし、時代とともにだんだん天上に引き上げられていった。パウロやヨハネの時代では完全に天に存在する。」
「パウロは第3の天といっていますね。」
「当時の思想がうかがえるのが、ルカ16章にある富んだ人とラザロの話。ラザロは死んだあとアブラハムの懐にいく。富んだ人は死んだあとハデスで苦しめられる。その当時、死後の世界として天国と地獄のようなものがあるという思想があったことがわかる。」
「アブラハムの懐がパラダイスということですか?」
「当時の思想に、パラダイスは地上のどこかにある、しかし隠されている。そこにはアブラハムやイサク、ヤコブがいるというものがあった。隠されたパラダイス論だね。」
「ルカ16章の例えはその隠されたパラダイス論を背景にしているわけですね。イエスがこの話を本当に語ったとすれば、イエスがパラダイスという単語で意味していたものは、アブラハムの懐?天国?」
「少なくともパラダイスは、JWの言うような、動物と戯れる、ディズニーランド風の地上の楽園は意味していない。」

「20節に、“中東のある聖書翻訳者は,イエスの言葉についてこう述べています。”と長々と引用しています。出典不明ですが、この人は信頼できる人なんですか?」
「信頼できないね。この人は、おそらく、ジョージ・ラムサ(George Lamsa 1892-1975)。トルコ人。ラムサは、新約聖書はギリシャ語で書かれたのではなく。アラム語で書かれたと主張して、独自の聖書を翻訳している。通称ラムサ聖書。各地で講演し、”light for all”という雑誌も発行していた。アラム聖書協会というのも設立している。JWのライバルみたいな人だよ。」
「つまり、JWみたいに、普通の学者からは相手にされない人なんですね。それで、実名を明かさないで引用しているのですね。」
「JWの引用は、変な人のものが多いね。学会の権威みたいな人からのものはまずない。」

#902 2019年02月15日 16:52:49

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“「神がくびきで結ばれたもの」を尊ぶ”で、離婚問題に対するJWの見解が書かれています。」
「それで、どんな見解なの?」
「19節がまとめで、“イエスは離婚について教え,パウロは別居に関する神からのアドバイスを与えました。イエスもパウロも,神に仕える人に結婚の絆を尊んでほしいと願っていました。”とあって、安易に離婚も別居もするなというわけです。」

「いつパウロが別居についてアドバイスしたの?」
「14節で、“しかし,中には夫と別居する人もいました。(コリント第一 7:10,11を読む。)”とあります。引照聖句には、“妻は夫から離れるべきではありません。 しかし,もしも離れるようなことがあるなら,結婚しないでいるか,さもなければ夫と和解しなさい。”とあります。」
「これは単なる別居のことじゃないよ。妻の側の自発的な別居すなわち離婚のことをいっている。1世紀の帝政ローマでは、結婚を証明する書類も離婚を証明する書類もない。妻が離婚したければ家を出て、別れて暮らせばよかった。ユダヤ人の社会とは違う。しかし、このような離婚は宗教的には有効ではないので、再婚はダメだよというのがパウロの主旨。」
「離婚した状態でなければ、“結婚しないでいるか”なんていう指示はあり得ませんよ。離婚して再婚可能だけれども、結婚しちゃダメとパウロは言っているのですね。」
「この記事の執筆者は聖句を理解していないね。見当はずれのことを言っている。」

「6節で、一夫多妻制について触れています。その場合でも、“最初の妻を守り,世話することが求められていたのです。(出 21:9,10)”とあるのですが、引用すべきは11節じゃないですか?10と11節でひとまとまりで、“もし彼が別の妻をめとるとしても,彼女の糧と衣服と結婚の分とを減らしてはならない。 これら三つのものを彼が与えないのであれば,彼女は金銭の支払いなく無償で出て行くことになる。”というものです。これは離婚が可能な条件を述べていますよね?」
「この聖句は、夫は妻に十分な物質的なものを保証する義務があり、それを果たせないなら妻は離婚できる、と解釈される。これは1世紀のユダヤ人には当たり前のことで、それで、イエスもパウロもわざわざこのことに触れていない。社会福祉制度のない古代では、扶養する能力のない夫のもとにいたら、妻も子も飢え死にするしかないよ。」
「コリント一7:33,34の“一方,結婚している男子は,どうしたら妻の是認を得られるかと,世の事柄に気を遣い, 彼は分かたれるのです。”は、出エジプト21:10,11を背景にしていると思います。夫には扶養義務があったので、結婚するとお金を稼ぐことに気を遣わざるを得ないということですよね。」
「そうだね。JWが出エジプト21:11に触れないのは、ずるいね。それはJWの男性の多くは経済力がないからだろう。極貧のJW夫婦がいて、“JWの夫は食べ物も服も買ってくれません。離婚したいです。”というJWの女性の訴えを、組織として認めたら、男性のJW は無給のJW活動なんかしなくなるからね。」
「女性や子どもの福祉を考えれば、扶養する能力がない夫と離婚できるのは当然ですよ。家族を養って、初めて家族の頭と威張ることができると考えるべきです。」

「8節には、マラキの時代には、“多くの男性が,不実にも「自分の若い時の妻」と離婚していました。”と書いてあります。引用されているマラキ2:13-16を見ても、離婚が多いとは書いていません。“神は離婚を憎んだ”とはありますが。当時、離婚は多かったのですか?」
「まず、原文では“神は離婚を憎んだ”とは書いていない。“彼は離婚を憎んだ”とある。それから、“彼は離婚し憎んだ”と読むべきという説もある。」
「マラキ書は本文がかなり破損して、翻訳が難しい書物ですよね。」
「離婚については、離婚統計がないからわからない。何の根拠もなくJWは断定するのが悪い癖だ。でも、稀だっただろうと推測できる。その理由は、離婚すると、男性は婚資、つまり結婚の際に女性が持参した金や物を返すという習慣があったので、離婚は経済的に難しかった。」
「聖書を見ると、男性の方だって、女性に贈り物をするわけで、それで相殺とはいかないのですか?例えば、創世24:53では、“そして僕は銀の品物,金の品物,種々の衣を取り出してはそれをリベカに与え”とあります。リベカをめとるためにかなりのお金を使っていますよ。」
「一般には、女性の持参金の方が多いので、相殺できない。」

「離婚となると申命記24:1-4が焦点となるわけですが、意味があいまいですよね。女に“みだりな点”を見つけたら離婚可能なのですが、“みだりな点”っていったい何でしょうか?7節に、“律法は「みだりな点」とは何かを述べていませんが,それはささいな間違いではなく,恥ずべき重大な事柄だったに違いありません。”とありますが本当でしょうか?」
「“みだりな点”の原文は、“事柄の裸”で意味は不明だ。これは1世紀でも統一した解釈はなかった。ある学派は、料理を焦がしたというようなことでもそれに含まれるとしたし、別の学派は、姦淫に至らない性的不品行という意味としていた。このような解釈問題があったので、パリサイ派がイエスに離婚問題について議論を吹っ掛けたわけだ。」
「姦淫は含まれないのですか?」
「申命記22章によると、姦淫は男女とも死刑。離婚では済まない重大犯罪という位置づけね。」
「民数記5章によりますと、姦淫が疑われた女は苦い水を飲むというテストを受けるようですね。それで疑いが晴れたら問題なし、そうでなければ死刑です。ひどい法律ですね。」
「だから、“みだりな点”は姦淫の疑い、という意味でもない。」

「離婚に対するイエスの本当の見解はどうなんでしょうか?福音書で違いますよね。」
「イエスは離婚に否定的なのは間違いない。ところがマタイ19:9で、“淫行以外の理由で妻を離婚して別の女と結婚する者は,姦淫を犯すのです。”と離婚してよい例外規定を設けている。これが解釈上難しい。この例外規定はマルコやルカにはなく、マタイだけにしかないのはなぜか、この例外規定の意味は何か?そもそも“淫行”の意味とはなにか、どれも難問だね。」
「この記事では、“ポルネイアとは,聖書に基づく結婚関係外で行なわれる不義の性的行為を指します。”といって、非常に広く解釈しています。」
「へんだと思う。それは、離婚の自由を広く認めることになり、“神がくびきで結ばれたものを,人が離してはなりません。”というイエスの基本的な立場に反する。」
「離婚理由となる“ポルネイア”は、姦淫に限定すべきということですか?」
「それが、イエスの立場に近いと思うね。JWは、離婚率の高いアメリカの宗教のせいか、聖書に基づくと言いながら、離婚理由を広く認めすぎ。」

「11から13節では、ホセアの例を出して、相手に問題があっても必ずしも離婚しなくていい、むしろ結婚関係を続ける方が好ましい、というようなことを書いていますね。ホセアとゴメルの関係はどう理解したらいいですか?」
「ホセア1:2で、“エホバはホセアにこう言われた。「行って,淫行の妻また淫行の子供らを自分のために取れ。”と、神様はホセアにとんでもない命令を出す。ホセアはそれに従い、ゴメルという変な名前の女と結婚し、生まれた子ども3人に奇怪な名前を付ける。」
「虐殺のあった場所のエズレル、憐れまないという意味のロ・ルハマ、我が民にあらずという意味のロ・アミですね。これが事実だとすると、子どもがかわいそうです。」
「事実だとすると、預言者の象徴的行為の例とみるべき。預言者は言葉で語るだけでなく、象徴的行為でメッセージを発信する。行動預言といういい方もある。」
「イザヤ20:2で、エホバはイザヤに“行って,あなたは腰から粗布を解かなければならない。サンダルも足から脱ぐべきである。”と命じています。ご苦労なことに、イザヤは“裸になり,はだしで歩き回った”わけですが、これもエジプト人はこのような姿で捕虜になるということの象徴的行為ですね。」
「ホセアは神とイスラエルの関係を、忠実な夫と淫行を重ねる妻の関係ととらえて、最後は関係が修復されるという預言劇を演じているようなもの。というわけで、ホセアの結婚は事実だとしても、普通の人間の参考になるようなものではない。」

「13節で、“性的不道徳を犯した配偶者と離婚しないことにして,性関係を持つなら,相手を許したことになります。(コリ一 7:3,5)”とあります。引照聖句のコリ一 7:3,5には全くそのようなことは書いていません。JW独自ルールを作ったということでしょうか?」
「離婚に関する、そのような細かい規則は聖書にはないよ。勝手に作った決まりだね。」
「JWはパリサイ派とよく似ていますね。」

「一番おかしいのは17節。“夫は,妻が健康や命の危険を感じるほど,身体的に虐待したかもしれません。”という妻に対して、別居も離婚もせず、その夫のもとに留まるように勧めている。まったく狂った意見だ。旧約聖書の時代じゃないんだから、暴力は犯罪なんだよ。妻が、その暴力亭主に殺されたら、JWは責任を取るの?そんなつもりもないくせに、聖句を引用して、偉そうに説教をしている。暴力亭主からはすぐに逃げてくださいと信者になぜ言わないの?」
「JWの女性は、本当に気の毒ですね。」
「組織が、女性信者の生命や安全に対して、いかに無関心かわかるよ。」

#903 2019年02月22日 16:56:59

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“若い皆さん,エホバはあなたの幸せを願っておられます”で、若者よ、進学するな、JWこそ最高の生き方だ、という内容です。説得力がないのが欠点ですね。」

「1節に、“担任や進路指導の先生などから,高等教育を受けて良い仕事に就くよう勧められたかもしれません。”とある。その後に英文では、“Jehovah, however, advises you to take a different course.”(しかし、エホバは異なる進路をとるようにアドバイスしています。)があるのに、日本語版にはない。」
「高等教育反対の教義が、日本では受けが悪いと思って、翻訳者が削除したんですね。排斥処分ものですね。」
「低学歴で、低収入の職に就くことこそが、正しいJWの進路だという教義に反対なのかもね。しかし、この文を削除したため、この記事の高等教育反対の趣旨がわかりづらくなった。」

「1節で“人生で何を第一にするかを決める際には,この終わりの時におけるご自分の目的やご意志をよく考えるよう勧めておられます。”とあります。要するに間もなく終わりが来る。残された時間は短い。学校なんか行く暇はない。これが高等教育を受けないJWの理屈です。100年以上前から言っていますね。」
「組織自体はこの世がズーと続くと想定して、本部の建設などもしているにもかかわらず、間もなく終わりが来るというインチキを若者に押し付け、前途有望な若者の人生を破壊する。だから反社会的なカルトといわれる。」
「聖書のどこにも、高等教育はダメだなんて書かれていませんよ。モーセはエジプトの最高の教育を受けたとされるし、ダニエルと仲間の3人もバビロニアで3年間教育を受けたことになっています。異教の地での教育を非難している部分は聖書の中にどこにもないです。」
「JWの教義は、真理と称していながら、聖書も歴史も知らない無知な人間向けになので、高等教育を嫌うのでしょう。」

「5節で、“エホバはご自分に仕える若い人たちを大切に思っておられます。あなたもその一人として,エホバからたくさんの「良いもの」を与えられ,幸せを味わっているに違いありません。”と決めつけています。JWは世界一幸福な民ですから。」
「5節によると、その良いものは、“神からの教え,最高の友,価値ある目標,本当の自由”のようだね。」
「つまり、大学に行かなくても、JWなら、学び、友を作り、生きる目標と真の自由が与えられる、だから大学に行く必要はないと言いたいわけですよ。」
「現実は、何の役にも立たないカルトの教えを繰り返し学ばされ、同じJWとは本音も言えない条件付きの表面的関係しか持てず、組織が与える目標と制限の中で、宗教ロボットとして生きる。まともな若者ならさっさと辞めるか、精神病になるかのどちらかだよ。」

「6から8節は“神からの教え”についてです。6節で“「忠実で思慮深い奴隷」を通して,信仰を強める「食物」をたくさん与えてくださっています。”とあるように、実際は神からではなく統治体の教えなので、役に立つどころか有害です。」
「8節では、終末カルトならではの脅しという手段に訴えている。」
「そこでは、“間もなく,サタンの世のすべての部分が滅ぼされます。エホバだけがわたしたちを守ってくださいます。食べ物も底を突き,エホバに頼るしかない時が来るかもしれません。”とあります。JWとして組織の言いなりにならないと、どうなるか知っているのか、と脅しですね。飢え死にした人の挿絵でもつければ効果的だったかも。」

「9から11節が、“最高の友”の話です。JWはみな友達だそうです。」
「カルトでは、個々の信者は組織への忠誠心だけで評価されるので、信者としての自由意思を持てない。そのため信者同士の本当の人格的な結びつきは成立しない。」
「よきJWを演じている限りの条件付き人間関係ですから、友人ではないですよ。箴言17:17には、“真の友はどんな時にも愛しつづけるものであり,苦難のときのために生まれた兄弟である。”とありますが、JWには当てはまらないですね。」
「友人はありのままの自分を受け入れてくれる。でもJWは他人をコントロールし、強制的に変えようとする。だからJWは友人ではない。」
「それなら、友人は意見の違いを認める。でもJWは意見の違う人をサタンと呼ぶ。だからJWは友人ではない。」

「10節に、“母語は違っても,互いに「清い言語」を話しています。”とある。無理やり共通点を見つけてきたという感じだね。“清い言語”ってJWの特殊用語のこと?外部の人にはわかりにくい特殊用語が幅を利かせているというのは、カルトの特徴にすぎない。」
「11節で、“まだ会ったこともないのに,世界中に友達がいるのです。エホバの証人以外にこのような交友を楽しんでいる人たちがいるでしょうか。”とおバカなことを言っていますが、実際に、外国のJW と友人だというJWはどれくらいいるんですか?」
「会衆が違えば、無関係な人というのがJW同士の基本的な関係じゃないの。それから人類皆兄弟的なことはどの宗教でも言っている。」

「12から14節は、“価値ある目標”についてです。伝道の書が引用されているのですが、JWでは著者をソロモン王としています。これでいいのですか?」
「伝道1:1で、著者は“王ダビデの子”と言っている。知恵があって、莫大な富をもち、たくさんの家を建て、ハーレムをもっていたと、1から2章かけてある。それで、ソロモン王が著者となってきた。しかし、現代では完全に否定されている。そもそも伝道1:6がソロモンであることを否定している」
「“わたしより先にエルサレムにいただれよりも大いに知恵を増し加え”という部分ですか?」
「新共同訳では、“かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって”とある。こちらの方がましだね。文字通り訳すると、“かつてエルサレムに君臨した者の全てにもまさって”となる。ソロモンの前にはダビデしかいないのに“全てall”という表現を使うはずがない。これはJWにとって不都合なので、新世界訳はその点をごまかして、“エルサレムにいただれよりも”と訳しているわけだ。」
「他に著者がソロモンではない理由は何ですか?」
「使われているヘブライ語だね。新しい時代のヘブライ語なの。ソロモン時代の古いヘブライ語とは違う。アラム語の影響がみられる。書かれたのは西暦前3から5世紀ごろと推定されている。2:5にある“庭園”はpardesの複数形。pardesはパラダイスの語源でもあるけれど、ペルシャ語からきた言葉。ペルシャ帝国に支配されていた時代以降に書かれたことになる。」
「箴言や雅歌にはソロモンの名前が出ていますが、伝道の書には出ていませんね。」

「12節では、“伝道の書 11:9–12:1を読む。あなたはエホバに喜んでいただくため,どんな目標に取り組んでいますか。”とあるのですが、伝道の書のこの部分は本文の内容と関係しませんよ。執筆者は“若い成年の日にあなたの心があなたに良いことをするように。そして,あなたの心の道に,あなたの目の見る物事のうちに歩め。”という部分を、若者に目標に向かって頑張れと激励していると誤解しています。」
「執筆者は伝道の書を完全に誤解している。旧約聖書の他の部分で、“あなたの心の道に,あなたの目の見る物事のうちに歩め”なんてアドバイスしているところがある?」
「ないですよ。」
「なぜならそれは悪いことなの。例えば、民数記15:39には“あなた方は自分の心と目に従って行ってはならない。”とある。心と目は人を迷わすもので、それに従ってはならないというのが、旧約聖書の倫理。」
「伝道の書でも、その後で、“それらすべてのことに関して,[まことの]神があなたを裁かれることを知れ”とありますので、このアドバイスに従うことがとても危険だということをわざわざ言っているわけですよね。」
「気になるのは12:1の“あなたの若い成年の日にあなたの偉大な創造者を覚えよ”という訳。“覚えよ”じゃなくて“思い出せremember”だよ。新世界訳の英語版でもrememberとなっている。」
「創造者の何を思い出すのですか?」
「よくわからないけれど、文脈と“創造者”という稀な言い方からすると、土から人間を作った創造者は逆のこともできる破壊者でもあることを思い出せという意味のようだ。」

「16から20節では、“本当の自由”を扱っています。JW以外は偽物の自由、JWは本当の自由という単純な主張です。説得力ゼロです。空理空論ですね。」
「JWには過剰なほどの禁止事項があって、あれはダメ、これはダメということはみんな知っている。JWのようなカルトは組織に無制限に服従することが求められる。批判も疑問も許されない。進学や結婚も自由にならない。集会に参加しない自由もない。参加しなければ、指導や批判の対象になる。自由は極めて限られることはみんな知っているよ。」
「JW以外は、“病気や依存症になることもあれば,命を失うこともあります。”と16節で言ってから、17節で、“他方,聖書の規準に従ったために病気になった人はどれほどいるでしょうか。”と問うのですが、輸血禁止の教義のせいでどれくらいのJW が死んだんでしょうかね?予防接種や臓器移植を禁止して、無駄にJWを死なせていた時代もありました。」
「JWだって病気や依存症になるでしょう。統計はないけれど、平均寿命はJWの方が、それ以外の人よりも短いと思うね。JWの幹部にも飲酒の問題を抱えている人はいるでしょう。」
「昨年、グアテマラで日本人女性JWが殺されました。彼女がJWでなければ、あんな死に方はしないですよ。」

#904 2019年02月23日 07:19:54

卓郎
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

>>970 三太郎
え?教会のクリスチャンがノアの大洪水を信じて「学校の教科書が間違ってる」って言ってましたよ?

個人的には靖国神社のように特定の目的の神社以外は分けて考えません。地元の神社として初詣して願うだけです。
殺人事件の見立て殺人の題材に成らない限り地元の伝承なんぞ興味も無い。

>浄土宗や浄土真宗は「南無阿弥陀仏」唱えるだけで、誰でも極楽浄土へ行ける。これを根拠に言っている?

仏教の事は知らないけど、クリスチャンと世間の価値観とは根本的に違います
世間的にはエホバの証人もクリスチャン、キリスト教と同じ穴のムジナですね

ハルマゲドンで滅ぼせば良いなら司法制度を尊重してないでしょ?
それを公言してるから馬鹿にされるんだよ。キリスト教との違いなんてその程度に過ぎない、輸血拒否とかどうでも良い。本人や家族の許可なく輸血禁止は法律上も認められてる。

『刑罰』と『信仰』は無関係、クリスチャンの根本的な勘違いはコレだよ!
刑罰は人が社会で生きていく為の約束に過ぎないず、死んだ人には無関係!
駐車禁止の標識で駐車したら罰金と減点を払ったらチャラだよ?
ハッキリ見える所に標識で提示してるのに違反したから罰則が有るのは当たり前だろ?
殺人罪も交通違反と同じ理屈で然るべきペナルティが大きいってだけ。
殺人犯が犯した罪と向き有って獄中で生きて償えるかどうかは本人しだい。
時代劇のようにその場で切腹するなら罪の償いには成ると思いますよ。https://www.youtube.com/watch?v=67PrlheanMU

例え死刑囚でも執行まで15年以上は掛る。その間に遺族に手紙を出したり出来る猶予は有る。
もし捕まらずに逃げ続けてそれで人生を謳歌出来る奴は居ない。
ロクな人生じゃなく「逃げ得」なんて言葉は有り得ない。
犯した罪と向き合う方が余程に有意義な人生だろ

捕まった犯罪者だって逮捕されて逆に安心しるモンだ。
拘置所では三食のご飯を食べられて考える時間はタップリ貰える。
犯人の気持ちで考えれば解るけど逃げ続ける人生の方が辛い。https://magazine.manba.co.jp/2016/11/22/ueda-kindaichi/
「南無阿弥陀仏」と念仏なんぞに何の価値も無いね

そして人生を終えた死人には刑罰なんて関係無い。
つまりハルマゲドンで裁かれる人間も、生き返る人間も一人も居ないって事です
何故ならば法と秩序は生きていく上の約束事に過ぎないからだ。
死刑囚でも死刑執行した後は丁重に遺体を扱って弔われて遺族にお返しする。
ハルマゲドンで滅ぼすなんて馬鹿な妄言をこいてる奴には馬の耳に念仏だろうけどな
罪は滅ぼす物じゃなく生きて償う物なんだ。殺人を犯しても別に死ななくても良い。生きる事で償える
この世間の価値観を理解しないから馬鹿にされるんだよ?

僕は世間の司法制度を尊重してる側です。クリスチャンはハルマゲドンを信仰してる側でしょ?
世間とは違う土俵で生きてるクリスチャンと同じ土俵で議論出来る訳が無いじゃん?

#905 2019年02月24日 03:06:20

またい
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

Dear 卓郎
私は、神さまが大好きで、聖書読んでみた。JWにはいったのは、失敗だった。ここにきて、助けられて、面白いのでここに来る。

#906 2019年03月01日 16:54:13

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“若い皆さん,充実した生き方をしてください”で、詩篇16編を題材にしていますが、先週の繰り返しです。JWこそ最高の生き方と若者を説得しようとしています。」

「1,2節はトニーという父親のいない高校中退すれすれの若者が、JWから生命の起源に関する冊子をもらったのをきっかけに、立派なJWになりましたという話が出ている。心が痛むね。」
「どうしてですか?」
「学校や社会に不適応な若者はたくさんいる。彼らは自分の居場所がないんだ。そういう若者がカルトの甘言にだまされて、カルト教団の一員となっていくという典型的なケースだからだよ。」
「トニーは聖書レッスンを始めてから、成績もトップクラスになったとありますから、元々優秀なんですよ。しかし、家は貧しく大学進学も難しい。周りの友人とは価値観や人生観が合わない。なまじ優秀なだけに一層鬱屈した状態だったと思います。そこへ一見知的な雰囲気の生命の起源の冊子を見せられたわけです。そこには、学校で教えられているのは嘘だ、真理はJWの教えだと書かれています。トニーは、それを信じることによって、学校の友達や先生は知らない真理を、自分だけが知っているという知的優越感を味わえるのです。」
「知的なものに関心のある若者を勧誘するには、生命の起源の冊子は有効かもね。」
「生命の設計者がいたとしても、JWのエホバとは限りませんよ。それなのにエホバこそが創造者だと飛躍した結論を受け入れた瞬間に、JWに取り込まれていくのです。」
「カルトは社会的経済的に不利な若者に、自尊心と所属すべき集団とカルト内での地位の向上という具体的目標を与える。カルトでは、多少優秀であれば他の社会集団では得られない名誉や地位を得やすい。だから、ある種の若者にはカルトも魅力的な人生の選択肢になる。」

「しかし、どのカルトも、幹部には一流大学卒をそろえたがりますよ。」
「社会的評価を気にするからだよ。その点、JWの統治体は偉いよ。多くは中卒・高卒のたたき上げだ。知性は感じないが、打たれ強そうだ。重要な教義の変更行っても、悪びれることなく堂々としているね。」
「オーストラリア王立委員会で、統治体のメンバーであるジェフリー・ジャクソンが証言し、その様子はYoutubeなどで見られるのですが、無知な田舎のおじさんが、エリート法律家の質問に答えるのに四苦八苦しているという印象でした。」
「ジャクソンは中卒だ。見た目もさえない。JWのイメージ戦略を考えれば、統治体のメンバーは公の場に出ない方がいいね。」
「みな太りすぎで、JWのイメージを損ねています。」
「肥満した宗教指導者なんて、あざけりの対象になるだけだよ。寄付で大食いをしている腐敗した恥知らずの人間とね。内部の人間を、高学歴のエリートに育てればいい。そして彼らを統治体の一員にする。」
「そうなるとJWの教義しか知らない低学歴のトニーのような若者は、タブレットを持ってその辺をうろうろして一生を終わるのですね。」
「JWにとっては、それが充実した人生だろう。」

「4,5節では、カナン征服とダビデのゴリアテ退治の例を出して、“信仰があれば必ず良い結果になります。今日でもそうです。”と言っています。」
「それだと、悪い結果だと信仰がなかったということだよ。グアテマラで死んだ日本人女性JWは信仰がなかったんだね。信仰があればなぜ良い結果になるの?聖句を一つ二つ引用する以外の根拠を示してほしいね。」
「カナン征服もゴリアテ退治も史実ではないでしょう。ゴリアテは身長約3mだそうですが、実際にそんな人はいるのですか?」
「サム一17:4の、“その丈は六キュビトと一指当たりであった。”からきている。JWでは、1キュビト=44.5cmとしているようだ。一指は半キュビドなので、6.5×44.5=289.25で、約290㎝。これは、古代の計測の仕方を知らない無知な人の計算だね。」
「キュビドは肘から中指の先までの長さで、標準的な物差しがあったわけではないということですね。」
「そう。一指は指を広げて親指の先から小指の先までの長さのこと。これも測る人によってみんな違う。宮殿の建築などでは標準となるようなものを使っただろうけれど、普通は自分の腕や指で大雑把に測っていた。」
「ゴリアテの身長は6.5キュビトとして、どれくらいになるのですか?」
「ゴリアテの身長をだれが測ったかというと、ゴリアテを倒したダビデが一番考えられる。その当時の人間の平均身長は、発掘された骨から推定すると150㎝から155㎝くらい。」
「とても小柄なんですね。」
「同じ身長の現代人の肘から中指の長さを測ると、約42cm。となると、ゴリアテの身長は約273cm。聖書研究も奥が深いだろう。」
「きちんと計測された人で最高の身長は約277㎝なので、十分あり得る数字ですね。」
「実際に測るときは、指を広げていくつあるか数えることが多かったと考えられる。150cmくらいの身長の人の一指は約19cm。これだと約247㎝となる。という訳で、ゴリアテの身長は250㎝程度とするのが妥当でしょう。」
「古い写本や翻訳では4.5キュビトにしているものもありますよね。」
「その場合は、エジプトのキュビトを使ったからだと思われる。70人訳は、4.5キュビトだけど、訳されたのはエジプトのアレクサンドリアだからね。」
「サムエル一17章には、ゴリアテの装備が異常に詳しく描かれていますが、ダビデの時代の装備ではないそうですね。」
「ずーと後の時代のもの。ゴリアテとダビデの対決は、後の時代の創作だね。それから一騎打ちという戦いのスタイルもダビデ時代の後の時代。」

「7節から、詩篇16が取り上げられるのですが、16:5の“エホバはわたしに配分された受け分,わたしの杯の分です”が最初に引用されます。どういう意味ですか?」
「“配分された受け分”は食べ物のこと。“杯の分”は飲み物のこと。神様は食べ物であり飲み物です、つまり生きていくのに欠かせないものです、という意味。」
「7節には、“ダビデの「受け分」には,エホバとの親しい関係が含まれていました。”とありますが、おかしいですね。エホバは受け分と言っているのですから、“ダビデの「受け分」”という表現はあり得ませんよ。」
「執筆者は詩篇16を全く理解していない。若者向けの教訓話に利用できると思って、適当に引用しているだけ。これがJW流聖書レッスン。この程度の人物が、何百万人も学ぶ記事を書けるというのは、カルトならではだ。」

「11節で、“詩篇16:3を読む。”とあり、その後、“エホバを愛する人と共にいることで大きな「喜び」を味わいました。そのような人を「聖なる者たち」とも呼んでいます。”とあります。16:3にある“聖なる者たち”って、エホバを愛する人たちのことなんですか、違うと思います。」
「16:3には、“地にいる聖なる者たちに対するものなのです。彼らに,その威光ある者たちにこそ,わたしのすべての喜びがあります。”とある。“地にいる”という表現から、天にもいるということがわかる。つまり、天使に対応する存在ということ。しかも“威光ある者たち”でもある。具体的に、何を指しているのかはわからない。何らかの神的存在か祭司を指していると推測されている。単なるエホバ愛好者ではないことは確かだね。」

「14節で、外国で奉仕しているドイツの若い兄弟の語ることがへんです。“年を取って自分の人生を振り返る時に,『自分のしたいことばかりしていたな』と後悔したくありません。”というのです。これだと外国奉仕を、本当はしたくないけれど、したいことばかりしていたと後悔したくないから、しているというへんな意味になります。」
「変なことを言っているように思えるのは翻訳がへんだからさ。“自分のしたいことばかりしていたな”と訳されている部分は、everything I did was just about meで、自分のしたこと全ては自分に関することだけだったな、つまり他の人のために何かしたことはないと後悔したくないので、貧乏な外国で奉仕をしているという意味。」
「外国奉仕だって自分でしたいからしているわけですよね。翻訳者は、日本の若者を、自分のしたいことをすることは悪なのだ、と洗脳したいのでしょうね。自分のしたいことをして一生すごせたら、素晴らしい人生なのに。」
「たいていの人はそんなふうには生きられないね。」

「15節では、“どんな目標を持てますか。”と問いかけ、11の目標が囲みの中に列挙されています。これ以外の目標を持つことは許されないみたいですね。」
「ろくな目標はないね。まともなのは“外国語を学ぶ”くらい。あとは全てJWというカルト教団の中だけで意味を持つものでしかない。若者をJWの中に一生閉じ込めようということだね。」

「16から20節は、自由の問題を扱っているのですが、主として偽りの宗教の問題を論じています。偽りの宗教を、性道徳と絡めて非難しています。」
「18節で、“偽りの宗教は大抵,同性愛を含む性的不道徳を容認しています。その結果,人々は自由になるどころか,多くの「苦痛」を味わっています。”と根拠のない主張を述べているのが笑えるね。」
「JWの同性愛差別はいつまで続けられますか?JWは黒人差別をして、集会でも人種別に分けていたことがありました。しかし、今は初めから人種差別に反対してかのようにふるまっています。世の中の価値観に合わせているわけです。」
「公然と同性愛者を差別する発言を繰り返すと、差別主義的団体と認定されてしまう。国によっては活動の制限などを課されるかもしれない。」

「20節に、“若い皆さん,神から与えられた自由を大切にしてください。”とあります。自由は神から与えられたものなのですか?違うと思います。」
「ここでいう自由はおそらく道徳的自由のことだろう。道徳的なことも不道徳なことも人間は選べるという程度のこと。ふつう自由というと言論の自由、信教の自由、良心の自由など社会的な自由をさす。これらは皆人類が長い戦いの中で勝ち取ったもので、神から与えられたものじゃない。例えば、聖書の神は奴隷制度を容認している。現在奴隷制度がないのは神様のおかげじゃないよ。」

#907 2019年03月07日 13:13:14

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

> 知性は感じないが、打たれ強そうだ
> 重要な教義を変更しても、悪びれることもなく堂々としている


この組織は上へいくほど裸の王様になるので、下々の空気は読まないか、読めなくなります。洗脳を免れた子どもの方が空気を読んで「王様は裸だよ」と叫ぶこともなく静かに消えてました。

外からの批判には、サタンの迫害は真の宗教の証と、むしろMP吸収する呪文を持っています。

「言葉の意味は分からないがとにかくすごい自信だ」で言い切ってあげるのが彼らの役割なんだと思います。そういう他人依存(宗教)の需要は根強くあります。


「キリストの臨在は信仰を持つ者だけに『見える』のです」

彼らも王様のように、知性を感じないだけでそんなに邪悪でもなく、詐欺職人のように解釈をすり合わせる連中がいるんだろうとは予想しています。


ところで、70人訳の底本には幾つかのバージョンの存在が想定されていますが、ゴリアテの身長はヘレニズム世代向けに多少現実味を持たせたのではなく、エジプトのキュビトなんですね。勉強になります。

#908 2019年03月07日 16:24:29

死生観の者です
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

※注意 ネームの意味と書いている内容は違います

卓郎さんへ
仏教徒から見たエホバの証人というスレでお返事待ってます・・・

#909 2019年03月08日 15:58:14

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“心配してはいけない。私があなたの神である”というもので、2019年の年句であるイザヤ41:10について学ぶというものです。」
「ところで、年句って、決めなくてはいけないの?どうでもいいんじゃないの?」
「年句は必要ですよ。年句を心に刻んで、1年頑張るのが正しいJWです。」
「この号から、新しい形式になったんだね。“何を学ぶか*”とあり*をクリックすると、説明が出てくる。紙の雑誌にはできないことだね。」
「この記事では、困難があっても、“穏やかな気持ちを保てる3つの理由が記されています。”と説明しています。」

「聖句の翻訳が新しい英語版からのものになっている。古いのは、“恐れてはならない。わたしはあなたと共にいるからである。周りを見回すな。わたしはあなたの神だからである。わたしはあなたを強くする。わたしはあなたを本当に助ける。”で、新しいのは、“恐れてはいけない。私があなたと共にいる。心配してはいけない。私があなたの神である。私はあなたを強くし,必ず助ける。”だ。」
「古いほうの“周りを見回すな。”が、“心配してはいけない。”に変わったのが大きな違いですね。」
「“周りを見回すな。”は文字通りの訳。敵が迫っていると思って、恐怖のあまり周りを見回すことをするな、という意味。一言でいうと、“心配するな”ということ。字義訳をやめたんだね。字義訳だと意味が分からないからね。新共同訳だと、“たじろぐな”としている。」
「聖書の翻訳方針も二転三転して、一貫性がないですね。」
「素人が辞書を片手に訳したようなものだからね。翻訳とはどうあるべきか、考えられてこなかったということ。」
「7節で、“「心配[する]」に相当するヘブライ語には,「だれかあるいは何かに襲われるのではないかと,後ろを振り返る」とか「危険な状況に置かれた人のように警戒する」という意味があります。”と訳が変わったことの言い訳を言っています。」
「不誠実な説明だね。“「心配[する]」に相当するヘブライ語”が説明してあるような意味があるわけじゃないよ。それは解釈さ。そう解釈して、短くすると“心配する”になった。以前の字義訳だと、意味不明なので、ほかの聖書の真似をして訳しました、と正直に言えばいいのに。」

「恐れるな、心配するな、必ず助けるといっても、個々人について述べられているわけじゃないですよね。グアテマラで死亡した日本人JWには少なくとも当てはまりませんでしたね。3節で、“この記事では,2019年の年句であるイザヤ 41章10節に記されている,エホバの3つの約束を取り上げます。”と、あたかも現代のJWに対する約束かのように言っていますが、文脈を無視した解釈ですね。」
「イザヤ41:8で、“しかし,イスラエルよ,あなたはわたしの僕であり,ヤコブよ,わたしが選んだあなたは,わたしの友アブラハムの胤である。”と呼びかけている。41:10のことばは、イスラエル民族全体を対象にしているわけで、現代人にむけての言葉ではない。」
「4節で、“エホバは友アブラハムを守ったように,わたしたちも守ってくださいます。”とありますが、何を根拠にそんなことを言うのですかね。アブラハムは特別でしょう。」
「アブラハムは、神がお前の子孫をめちゃくちゃ増やすよと約束した相手だからね。途中で死なれたら困るわけなので、何度も介入してくる。それはアブラハムだから。」
「イスラエル民族についても、神が介入して助けたのはエジプト脱出と大量虐殺賛美のカナン征服だけじゃないですか?それ以降の神はイスラエルの民は不信仰だといって処罰しまくるだけの迷惑な存在です。」
「暗い、脅かすような預言ばかりが旧約聖書には並んでいる。それが変わるのがイザヤ40章以降なの。そこからは、慰めと救いが主なテーマになってくる。国の滅亡とバビロン捕囚というこれ以上落ちようがないくらいまで落ちたからだろう。」
「JWとしては、この聖句を自分たちに向けられたと勝手に思い込んで、1年頑張ろうということです。」

「6節に、1節に続いて良子(Yoshiko)の話が出ている。エホバのおかげで、穏やかな死を迎えられたという話だけれど、これはエホバではなく終末医療のおかげだよ。」
「余命数か月と言われたとありますから、末期がんということでしょうか?模範的なJWだったということで、宣教一筋で、健康診断など受けていなかったんじゃないですか。JWのせいで早く死んだような気がします。」
「末期がんだとすると、入院先は緩和病棟かな。積極的な治療はせず、もっぱら苦痛の緩和。医療用麻薬が効いていてれば、苦痛はそれほど感じない。」
「“亡くなる日まで,看護師さんや他の患者さんにエホバとエホバの約束について話していました。”とありますから、迷惑な患者だったんでしょうね。」
「“亡くなる日まで”というのは嘘だろう。」
「周りに迷惑をかけるだけの問題患者が、カルトでは、死ぬまで宣教活動をした模範的人物に祭り上げられるというのがよくわかりますね。そして、病気のJWも、死ぬまで宣教活動せよと、間接的に圧力をかけているわけです。」
「ここで触れられていないことは、良子は若い時は、JWから自分が老人になって死ぬことはないと教えられていたということだよ。そのことには触れず穏やかな死を迎えられたのはエホバのおかげだなんてよく書くよ。良子がまともなら、死ぬ間際、自分の人生についてある種の苦々しさを感じたはずだよ。」

「2節で、“エホバがこの言葉をイザヤに記させたのはなぜでしょうか。捕囚にされ,バビロンに連れていかれることになっていたユダヤ人を励ますためです。”とありますが、間違いですよね。」
「 イザヤ40-55章は、39章までとは違う人物によって、バビロンで書かれたというのが主流の考えだね。この部分では、ペルシャ王キュロスの名前が出てくる。キュロスを油注がれたものと呼んでいる。キュロスが即位したのは前559年、メディアを併合したのが前550年。そのキュロスを知っていたとなると、バビロンで生まれて、その時代には成人していた人物が著者だ。イザヤ44章には偶像の作り方が詳しく出ている。著者は、バビロンでそれを実際に見ていたと思うね。」

「10,11節で、飛行機に乗っているジムとベンのたとえ話が出ています。飛行機が揺れて、ジムは不安なのですが、機長が立派な自分の父親であることを知っているベンは安心している、という話です。11節にある結論は、“ベンのように,わたしたちは天の父エホバをよく知っているので安心していられます。”」
「エホバを知っていると不安だらけだ。気に入らない人間を平気で殺す神様だからね。エホバが機長だと、こういう話の方が適切だ。飛行機の燃料が不足しています。機体を軽くするために、機長が指名した人を飛行機から突き落とすことにしました。まず指名されたのはスカートが短く膝が見える女です。窓から突き落とされました。次は、高等教育を受けた男です。頭をかち割られた後、突き落とされました。次は、十字架をつけていた女です。十字架を口の中に突っ込まれた後、突き落とされました。ベンはそれを喜んでみていました。次は、」
「残酷なのが旧約聖書らしくていいのですが、長くなるのでやめましょうよ。」
「もっと続けたいな。JWの神様が、人類の99.9%は嫌いなのは間違いないね。」

「13節の、“世界の幾つかの場所で,敵たちは必死になって,伝道活動をやめさせ,組織を解体しようとしています。しかし,わたしたちは過度に心配しません。”とあります。これはおかしいですよ。心から心配すべきですよ。苦しむのは末端の信者で統治体の老人じゃないから、そう言えるのですよ。」
「ロシアの場合、統治体の責任は大きいね。JWは過激集団として、解散・財産の没収という結果になったわけだけど。裁判で見え透いた嘘を並べている。」
「例えば、どんなことですか?」
「エホバの証人が唯一つの正しい宗教であり、エホバの証人を信仰しない人をサタンと呼ぶが、これは禁止されている「宗教的不和の扇動」にあたると指摘された。これに対してJWの弁護士はどの宗教でも他の宗教を批判するので、JWが特別ではないといった。」
「嘘ですね。JWほど他の宗教を悪魔呼ばわりする宗教はないでしょう。自分たち以外の宗教は腐敗堕落していて神に裁かれる存在だと攻撃していますからね。宗教的不和を扇動していますね。」
「多くの時間を信仰生活に捧げさせ、家族内の義務を遂行させないのは違法な「家族崩壊の強制」に当たると指摘された。それに対して、それは個人の問題で組織とは無関係と主張した。」
「JWらしい言い逃れですが、これも嘘ですね。」
「輸血を拒否するのは、違法な「自殺の勧誘、もしくは生命及び健康上危険な状態にある者に対する治療の宗教的動機による拒否の勧誘」に当たると指摘された。それに対して、弁護士は、輸血を拒否するのはエイズや他の病気の感染を避けるためであると弁明した。」
「嘘ですね。これだけ見え透いた嘘を並べれば、ロシアの裁判所もJWを危険な嘘つき集団と判断したくなりますね。」
「さらに、統治体は、信者を扇動してロシアに大量に手紙を送りつけるというバカなこともした。」
「テロリスト集団ですね。」
「統治体は、ロシアでは数々のミスを重ねで、最悪の結果を招いた。多くの末端信者がその犠牲になっている。それなのに、“わたしたちは過度に心配しません。”と、無責任極まることを言いう。あきれる。」

「14節に、“わたしたちは人々に憎まれることを予期しています。(マタ 10:22)イエスは,弟子たちが終わりの時に厳しい迫害を受けることを予告しました。”とありますが、ロシアの場合だと、カトリック教会をはじめJW以外の様々な宗教が迫害されていますね。」
「JWは自分たちが真の宗教だから弾圧されるといいたいだろうけれど、そうではないよね。へんてこな聖書解釈に基づく、独自の教義のせいだよ。」
「にもかかわらず、16節で、“神の民の敵たちすべては「無きもののようになり,滅びうせる」のです。”と、勝利宣言しているのが笑えます。」
「裁判でウソをつきまくっているのが神の民ではないでしょう。」

#910 2019年03月15日 16:35:51

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“集会でエホバを賛美する”で、もっと集会でコメントせよ、という内容で、だれきった集会を活性化しようというものです。」
「コメントといっても本文から読み上げるだけ。記事に対する異議や疑問は禁止だろう。毎回、シナリオ通りに演じる芝居のようなもので、予定調和的に終わる。活性化なんて無理じゃないの。」
「ほとんどのJWは、コメントなんてどうでもいいと思っていますよ。」

「集会でコメントする、つまり大勢の人の前で何かを言うことは、その人を発言内容に一致した行動をさせるという心理的効果がある。コミットメント効果とよぶ。組織はそれを狙っているのだろう。」
「コメントさせてコミットですね。あるJWに、集会で、伝道はとても重要なことですと、コメントさせれば、そうコメントしない人よりも、伝道に熱心になる可能性が高くなるということですね。」
「オウム真理教でも、みんなも前で、修行するぞ、修行するぞ、と繰り返し信者に言わせていたよ。カルトがよく使うテクニック。組織からすれば、信者を集会に来させ、コメントという形で組織の意向に沿った発言を自発的にさせるというのは、十分意味のあることなんだ。」

「2節で、“今日,エホバを賛美する方法の一つは,集会でコメントすることです。”とあります。いつからそうなったんですか?コメントと賛美は本来別のことですよ。賛美するようなコメント以外はするなということですね。」
「エホバ=組織とすれば、そうだろうね。コメントしない人は賛美する気持ちがない人だ、いずれ排斥だ、と脅す意味もあるね。」
「3から9節は、集会でコメントする4つの理由が出ています。3節では、“集会で行なうコメントは「賛美の犠牲」の一部であり,他の人に代わりにささげてもらうことはできません。(ヘブライ 13:15を読む。)”と、コメント=賛美の犠牲という新たな教義をぶちかましています。」
「ヘブライ13:15の“賛美の犠牲”は、集会でコメントすることとは無関係。この聖句は、動物の犠牲を捧げることを重視した古いユダヤ的な崇拝のシステムから新しいキリスト教的崇拝のシステムに移行すべきことを説いている部分。動物の犠牲ではなく、賛美の犠牲が大事だといっているのはそういう意味。」
「コメントと関連ありそうな、いい聖句が他に見つからなかったんですね。」

「5節の下にある、集会の様子を写した写真だけど、黒人の少年が最前列に座って、手をあげている。模範的な例なんだろうけれど、こんな子どもでもスーツにネクタイなんだ。一昔前のアメリカ中流階層の価値観だね。子どもに大人と同じ服装をさせるというのは、奇妙に感じるよ。」
「イギリスでは、王室の子どもでも半ズボンをはかせますよね。子どもを大人のミニチュアにはしません。」
「子どもの服装についても、JWは昔のアメリカ中流階層の価値観を押し付けようとしているということ。ロシアのようなアメリカ嫌いの国では、JWを、宗教に加え、アメリカ文化の伝道者ともみなして、敵意を感じるだろう。」

「10から12節は、コメントが苦手な人へのアドバイスです。12節で、“ヨナについても考えてください。ニネベの人々に警告を伝えるようエホバから命じられた時,恐れのあまり逆方向へ逃げてしまいました。”とあります。ヨナが逃げたのは恐れのためなんですか?」
「何を恐れて逃げたの?ニネベに警告を与えることを恐れたと言いたいのかな?そんなことは聖書のどこにも書いていない。」
「ヨナは神の命令に従わない点で、神を恐れぬ大胆不敵な男ですよ。」
「ヨナ自身は、ヨナ4:2,3でこう言っている。“ああ今,エホバよ,わたしが自分の土地にいた時,この事がわたしの問題ではありませんでしたか。そのためにわたしは先にタルシシュに逃げたのです。あなたが,慈しみと憐れみに富み,怒ることに遅く,愛ある親切に満ちた神であり,災いについて悔やまれる方であることを知っていたからです。”」
「これは、ヨナがニネベの町の壊滅を預言したのに、ニネベの人が悔い改めて、エホバがそのためニネベの人を許し、ヨナの預言が実現しなくなったことを言っている部分ですね。」
「ヨナが逃げたのは、こうなる事がわかっていたから、自分はニネベに行くのが嫌だったと説明しているのに、この記事では恐怖心で逃げたことになっている。執筆者も統治体もヨナ書を読んだことがないのだろう。」

「ヨナって、預言者のパロディみたいな存在ですよね。列王第二14:25に、“イスラエルの境界をハマトに入るところからアラバの海に至るまで回復したのは彼であった。それは,イスラエルの神エホバが,その僕,ガト・ヘフェルの出身の預言者,アミタイの子ヨナを通して語られた言葉のとおりであった。”と、ヨナが出てきますが、これとは無関係ですよね。」
「無関係だね。ヨナ書は短編小説のようなもの。ヨナは結局ニネベの町に行って、滅亡の警告をする。すると、驚いたことに、町全体が断食し粗布をまとうことをする。家畜まで同じことをする。こんな偉業はいかなる預言者も成し遂げたことはない。」
「ヨナはニネベの人に悔い改めを求めていませんよね。ヨナの語ったことは、3:4によると、“しきりにふれ告げてこう言った。「あとわずか四十日でニネベは覆される」。”だけです。やる気のない預言者ですよ。それにもかかわらず偉業を成し遂げた。」
「というわけで、教訓物語で、史実ではない。」
「でも、JWでは史実として扱っています。」
「“洞察”のヨナのところを見ると、とんでもないことが書いてある。ヨナが偉業を成し遂げたことに対して、カイルという人の見解を紹介している。そこでは、“東洋人が非常に感情に動かされやすい人々であること,アジアの異教にはみな至高者への独特の畏敬の念が見られること,アッシリアではごく初期の時代から予言や神託が非常に重んじられていたことなどを心に留めさえすれば理解できる。”と、人種的偏見丸出しの聖書擁護をしている。」
「JWによって引用される人はろくな人はいませんよ。」

「それから、列王記のヨナは前8世紀の人。ところが、ヨナ3:3には、“ニネベは神にとって大きな都市であり”とある。英語でNinʹe·veh was a very large cityとあるように、原文でも過去形なの。ヨナ書がかかれている時点でニネベは過去の都市になっている。ニネベが滅ぼされたのは前612年。ということは書かれたのは早くても前6世紀。時代が違いすぎる。」
「異教徒でも神は救済するといった普遍的なメッセージはバビロン捕囚以降ですよね。しかも、バビロンから帰還した後の、エズラ・ネヘミヤの時代は民族感情が高まっていましたから、さらにその後ですよね。となると前4世紀くらいに書かれたのですかね。」
「ヨナ書はニネベについて歴史的に不正確で、著者はニネベのことをあまり知らない。3:3には、“歩いて回ると三日かかった。”とあるけれど、そんな大きくはない。“ニネベの王”というのが出てくるけれど、そういう位は存在しない。アッシリアの王はいたけれど。」
「ニネベが滅びてから、相当経過した時点で書かれたということですね。」

「14から19節は、適切なコメントのための注意事項です。迷惑なコメントをする人が結構いるのです。」
「17節で、“すぐに指されないとしても,気分を害したりがっかりしたりしないでください。”とある。自分は手をあげても指名してくれないと文句を言う人がいるんだろうね。」
「実際にえこひいきする司会者もいるのですよ。閉鎖的なカルト集団ですから、当然好き嫌いは激しいのです。」
「逆もあるだろう。司会者が嫌われているので、誰も手を挙げないというケースだ。」
「当然あります。司会者の人気度はコメントの多さに影響します。」
「18節で、“できれば30秒以内でコメントしましょう。”とある。長々とコメントする人がいるんだ。この時しか目立つ場がないという人もいるよね。しかし、30秒は短すぎるよ。」
「なるべく多くの人に喋らせようという方針なんですよ。幼児にだってコメントさせるくらいです。中身なんかどうでもよくて、私も参加できた、この集団の一員だ、という実感を持たせるためのコメントです。一人で時間を独占しちゃだめですよ。」
「18節に、“最初のコメントは,質問に直接答える簡潔なものにしましょう。”とある。指示しすぎだよ。これを神様の指示と理解して、この通りにしないと、文句を言う人がでるよ。」
「何でもコントロールしようとするのがカルトの特徴ですから。」

「それじゃ最後の20節の質問を使って、コメントの練習をしよう。質問は、“集会は友人たちとの食事とどんな点が似ていますか。”だよ。難しい質問だ。」
「どちらも、1年に1回くらいで十分です、というのはどうでしょうか?」
「長老から指導があるね。」
「それなら、どちらも、その場にいない人の悪口で盛り上がります、というのはどうでしょうか。」
「審理委員会行きかも。」

#911 2019年03月15日 18:06:43

サルガタナス
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

先生、
いつも為になるお話ありがとうございます
先生の所に通う少年にも似た気持ちで
いつも楽しく拝見しています
コメントってものみの塔に書いてありましたな
いつもの注解って表現じゃないんですね
またちょっと上の方針が変わったのかも知れません
明日集会でお勉強なので
そのあたりも注目していきたいと思います。

#912 2019年03月15日 18:18:01

またい
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ごめんなさい。私言葉知らなくて。

#913 2019年03月22日 14:45:48

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“どうすれば心を守れますか”で、サタンの誘惑に負けて、JWを辞めるな、という内容です。」
「組織防衛的な記事が多くなったね。この世の悪を一身に背負わされているサタンも大変だ。」

「初めの2節は、ソロモン王の話です。“あなたの民を裁[く]ために,従順な心をぜひこの僕にお与えください”とお願いしたとあります。」
「それは列王一3:9だけど、新共同訳では“聞き分ける心”だよ。民を裁くために、従順な心はへんだろう。服従を最高の美徳とするJWならではの誤訳だね。もとのヘブライ語の意味は“聞く”という意味。」
「2節に、ソロモンは“神から豊かな知恵を与えられたため,人々に広く知られるようになりました。”とありますが、ソロモンのことは聖書以外の資料には出てこないですよね。」
「そう。無名の存在。」

「4節で、“「心」とはその人の考え,感情,動機,願望を指しています。外見だけでは分からない,人の内面のことです。”とあります。これってわざわざ説明が必要ですか。」
「日本語なら、説明は不要だね。でも元は英語だから、説明が必要なの。心と訳されている元の英語はheart。heartは心臓、胸、中心などの意味もある非常に多義的な言葉。キャベツのハートといえば、キャベツの芯のことだし、東京のハートといえば、東京の中心という意味。それで聖書でいうheartとは何ですか、という問いが意味を持つ。」
「ここでいうheartは“こころ”を指すとわざわざ説明しているのですね。」
「古代のイスラエルでは心臓が思考や感情を生み出す場所と考えられていた。」

「5節の例えがへんですね。“人の内面は大切です。体の健康の例で考えましょう。第一に,体の健康を保つには,健康に良い食事をし,定期的に運動しなければなりません。同様に,エホバとの良い関係を保つには,エホバからの教えを学び,エホバへの信仰を行動で示さなければなりません。”とつづきます。内面の重要性を体の健康の例で考えるといっていますが、そうなっていません。この場合、体の健康にはよい食事と運動が重要なように、人の内面も食事に相当する○○と運動に相当する△△が重要です、というような形式の文章を期待しますよね。全くそうなっていません。」
「いつものように翻訳が悪いのさ。“エホバとの良い関係を保つには,エホバからの教えを学び,エホバへの信仰を行動で示さなければなりません。”のもとの英文は、“to keep ourselves in good spiritual condition, we must choose a healthy diet of spiritual food and regularly exercise our faith in Jehovah.”(良い霊的な状態を保つには、健康的な霊的食物を選び、エホバへの信仰を定期的に働かせなくてはなりません)、で、a healthy dietとregularly exercise が対句として使われている。この並行関係を無視した日本語文は翻訳ではなく、作文だ。分派活動なので排斥処分だね。」

「6から9節は、サタンのテクニックについての解説です。悪い交友関係(6節)、映画やテレビ番組(7、8節)、お金(9節)に気をつけろということです。いつもの繰り返しですね。」
「JW以外はサタンの支配下だから一切見るな、聞くな、触るなと、指示すればいいのに。完全にマンネリズムに陥っている。ほとんどのJWはここで寝てしまうんじゃないの。」
「7節の、“サタンは映画やテレビ番組などのエンターテインメントを使って自分の考え方を広めています。”というのは、いかにも狂信的なカルトという感じで、いいんじゃないですか?映画監督はサタンの手下なわけです。」
「JWが出てくる映画に、“パーフェクトワールド”がある。クリント・イーストウッド監督だ。」
「ケビン・コスナーの脱獄囚がJWの少年を誘拐して、逃走するという話ですね。JWは人間を抑圧するもののシンボルとして描かれていたと思います。無表情だった少年が脱獄囚と旅する中で、少しずつ子どもらしくなっていきます。JW少年を解放する条件が、ハロウィンにいかせろ、というのが面白かったです。いい映画だと思うのですが、統治体からすると、クリント・イーストウッドは悪魔の手先なんですね。」
「この映画では、家庭内暴力も重要なテーマになっている。JWは、体罰で子どもを虐待する宗教なので、この映画でJWが出てくる必然性があるわけだ。映画に出てくるJWはたいていおかしな人間と描かれるので、統治体は映画は大嫌いなんだろうね。」
「なぜパーフェクトワールド(完全な世界)という題名なんですか?不完全な社会や人間を描いているのに。」
「それはものみの塔の話よりも面白そうだね。でも後にしよう。」

「8節によると、子どもが何を見てよいかどうかを決めるのは親で、“親の皆さんには,子どもがサタンに心を汚されないように守る特別な責任があります。”と書いています。これは、親以外のものが口出しするなという意味でしょうか?」
「そういうことだろう。“聖書の教えに基づく家のルールを決めてください。”とあるからね。そうなると、寛大な家庭と厳格な家庭ではかなりルールに差がでてくる。それに対して、長老や監督が口出しするなということだろう。」
「親の教育権を尊重するというのであればいいことです。子どもを育てたことのない長老が、偉そうに子育てについて助言するというのがJWです。このバカげたことはやめるべきですよ。」
「8節に、“どんな映画やテレビ番組を見てはいけないかを子どもに伝え,その理由を理解できるよう助けてください。”とある。JWが理由を説明する場合、単にエホバに喜ばれないとか、ものみの塔にダメと書いてあるとか、言うだけだろう。」
「理由になっていませんね。偉い人がダメと言ったからダメと言っているだけです。」
「JWは典型的な権威主義的組織。上の命令は無条件で従え、疑問をもつな、理由を聞くな、という原理で動いている。親子でも出そうだ。」
「ところが、そう思われたくないので、子どもの意見を尊重する物分かりの良い親であるかのように演技しろということですね。」

「8節の引照聖句として、エフェソス6:1、“子供たちよ,主と結ばれたあなた方の親に従順でありなさい。”が出ている。ところが、新共同訳では、“子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。”と訳している。」
「主に結ばれているのが、親なのか、子どもなのかと見解が分かれていますね。当然、新世界訳の方がおかしいのですよね?」
「新世界訳のように訳している聖書はないと思うよ。新世界訳は、JWとJWでない両親からなる子どもは、JWの親の方に従うべきだという、JWに都合の良い教義を導き出すためのものじゃないかな。」
「新世界訳だと、両親がともにクリスチャンでない子どもは親に従う必要はないことになります。そうだとすると過激な主張ですよ。」
「主、つまりキリストが子どもは親に従うべきだと望んでいるので、クリスチャンの子どもたちは、仮に親がクリスチャンでなくても親に従うべきだ、と言っている。それが普通の訳に基づく解釈。」

「10から16節は、サタンからの防御術です。特別目新しい点はありません。性的なことを避けること(12節)、祈りと聖書(15節)、JW Broadcasting(16節)についてです。」
「マンネリだ。ここで、JWは熟睡だね。16節に、“JW Broadcastingは心を守るのに役立ちます。どうすればエホバの考え方に倣えるかを学べます。”というのは嘘だろう。学べるのは、数年で変わる、インチキ臭い統治体の考え方だよ。」

「最後の17,18節は、旧約からの引用で終わるのですが、17節では、“何があってもエホバの命令に従い,ご意志を行なうことによって,エホバを全き心で愛していることを示せるのです。(列王第一 8:61を読む。)”とあります。」
「なんかヒステリックだね。列王一8:61の新しい英語訳を基に記事にしているわけだけど、日本語版と少し違うんだ。本文と聖句が一致しなくなっている。“全き心で愛する”というのは、日本語版にはない。」
「“何があってもエホバの命令に従い”という絶対服従精神を押し付けようとしている文は、翻訳者の創作ですね。」
「列王一8:61は、神殿が完成して、ソロモンが集まった人々に訓示をしている中の一節。ソロモンが言っているのは、“その規定にしたがって歩み,そのおきてを守ること”つまり、律法を守れということ。現代人にはあまり関係ないね。」

「最後の18節には、“詩篇139:23,24を読む”とあります。」
「その詩篇は、139:19-24が一つのかたまりなんだけど、前半を無視してはまずいね。」
「“ああ,神よ,あなたが邪悪な者を打ち殺してくださるなら!”(19節)、“わたしは憎しみの限りをつくして彼らを憎みます。”(22節)と、物騒な言葉がありますね。そのあと引用部分になるわけです。」
「この詩は、呪いの詩。この呪いは利己的なものではありません、ということで、23節の、“神よ,わたしをくまなく探り,わたしの心を知ってください。わたしを調べて,不安の念を起こさせるわたしの考えを知ってください。”がくる。後半だけ切り取っては、詩の意味が分からなくなる。」

「詩篇は結構、呪いの詩がありますよね。」
「数え方によるけれど20以上あるだろう。自分の敵に対して、神の裁きや復讐、呪いを求める詩だ。旧約が大好きなJWなんだから、みんなでJWを弾圧しているロシア政府を滅ぼしてくださいって、祈ればいいんじゃないの。」
「詩篇55:9はどうですか。“荒廃が彼らに[臨め]!彼らは生きたままシェオルに下って行け。”憎しみ爆発です。現代だったら過激主義者と思われますね。」
「過激主義者ということで、ロシアから追放と財産没収になったんだよ。」

#914 2019年03月22日 17:57:39

サルガタナス
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

質問先生
いつも、ものみの塔の研究記事の解説
ありがとうございます
僕は先生の解説が大好きです
いつもすごく勉強になるのはもちろんのこと
例えば
この世の悪を一身に背負わされているサタンも大変だ。」
という端々に見られる先生の優しさや
何かにつけてマイコンによる服従やら従順やら忙しい
記事の内容にたいする先生の善良さから来る怒りなど
質問先生の人柄がにじみ出てて僕は大好きです
勝手ながらこれからも楽しみ待っています。

#915 2019年03月22日 22:08:52

またい
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

あー先生なんだね。こんな文章書けたらいいなと思う。

#916 2019年03月23日 00:46:01

サルガタナス
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

またいさん
いつもありがとうございます
実は最後で
これからも楽しみに待ってます
と書くつもりが
これからも楽しみ待ってます
って間違えちゃったんですよー、以後気をつけます

#917 2019年03月29日 16:30:17

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“天で治める王について簡素な式から学べること”で、記念式の予告編といった内容ですが、簡素さを強調しています。一部で派手な式になっていることを意識したものなんでしょう。」
「パンとワインが回されるだけで、誰も飲んだり食べたりしないのが普通の式なんて、簡素すぎる。JWの唯一の行事なんだから、年に一回、みんなで大騒ぎできるようにしたいというのは、自然な欲求だよ。」
「JWでは、中南米の信者が占める割合が急増しています。そういった国のJWは、カトリックを背景としていますから、JWの記念式はつまらないし、異様でしょうね。」
「世界の中には、人を招待しときながら、来た人に何も飲ませず、食わせずに帰らせるのは、礼儀に反するという地域があると思うよ。そのような地域では、かえってJWの異様さが印象付けられてしまう。」
「来た人にはたっぷり飲み食いさせて、JW.ORGと書かれたお土産も渡せば、JWのイメージもよくなりますよ。」
「この記事では、この簡素でつまらない式を、強引にイエスの謙遜さ,勇気,愛に結び付けて、それに見倣うことを指示している。」
「JWは本当に楽しみの少ない宗教です。」

「JWの記念式は、キリストのことより、誰が飲み食いするか、飲み食いした人の人数はどれくらいか、といった本来のキリスト教とは無関係なことが主な関心になっているんじゃないのかな。」
「それは、JW独特の人間2階級制度のせいですね。144000人という定員のある天に行ってキリストと一緒に支配者になる人間と、定員なしの地にとどまってどんな暮らしになるか全く不明の人間の2階級制度です。記念式で飲み食いすると、自称・天の支配者なわけです。」
「最後の晩餐で、イエスは、“この杯は,わたしの血による新しい契約を表わしています。”(ルカ22:20)といって、新しい契約を結ぶのだけど、ものみの塔1989年8月15日号によると、“新しい契約は全人類が入れるゆるやかな取り決めでないことは明らかです。それは神と油そそがれたクリスチャンが関係する,慎重に取り決められた法的な備えなのです。”とある。」
「つまり、JWの教義ではイエスは144000人とだけ新しい契約を結んだ。残りの人間は関係ない、というものですね。普通のキリスト教からすれば、JWトンデモ教義の代表のようなものですね。」
「残りの人間は、神の地上の代理者である統治体にすがるしかないというのがJWの教義。この教義によって、事実上JWは人間崇拝の宗教となり、カルトになる。」
「2代目会長のラザフォードの時に、それまでの教義をひっくり返す形でこの教義ができたのですね。」
「カトリックだと、聖人や聖母マリアがイエスにとりなしてくれる。だから、聖母マリアに祈ったりする。それに対して、JWは、あの頼りない統治体の老人を頼るしかないんだ。」

「ところで2018年度は、19521人が表象物を飲み食いしたようです。2017年度は18564人ですから、1年間で957人も増加しています。このペースだと、今年はいよいよ2万人越えですね。とても楽しみです。」
「昔は、飲み食いする人の減少をもって、終わりの日が近い証拠です、と言っていた。増加しているということは終わりの日がどんどん遅くなっている証拠です、ということになるよ。結構なことだ。」

「2節で、“自分の死を記念する *”とあって、*をクリックするとその意味が出てくるのだけど、“記念するとは,重要な出来事や人物を思い出すこと。敬意を表わすために,特別なことを行なう場合もある。”とある。元の英文とかなり違うよ。」
「英文は、“To commemorate means to do something special in order to remember and honor an important event or person.”ですね。特別なことを行う場合もある、ではなくて、思い出し、敬意を表すために特別なことを行う、という意味ですね。」
「いつものことだけど、訳ではなく創作だね。」

「挿絵ですが、イエスが髭を生やしています。一時期、髭がなくなったのですが、復活しています。杭の処刑の様子が小さく描かれています。手首の所に釘が1本、足首の所に釘1本使われているように見えます。これはまずいんじゃないですか?」
「ヨハネ20:25で、イエスの復活を見たという弟子たちに、トマスは、“その手にくぎ(複数形)の跡を見,わたしの指をくぎ(複数形)の跡に差し入れ,手をその脇腹に差し入れない限り,わたしは決して信じない。”という。釘が1本だとまずいんだよね。複数の釘を使うようにしないと。」
「マタイ27:37では、“「これはユダヤ人の王イエス」と記した罪状を彼の頭上に掲げた。”とありますから、罪状を書いた板は手の上ではなく頭の上に置かないとだめですね。やっぱり1本の杭の上で死んだというJWの主張は無理がありますね。」
「杭を運んだと福音書にあるけれど、これだと地面に埋まっている部分を含めると、身長の3倍くらいの長さがある。とうてい一人で持てるものではない。史実では、運ばされるのは十字架の横木だから、一人でも持てる。そろそろ杭の上で死んだというウソ歴史はやめたらいいんじゃないかな。」

「8節に、“ユダを去らせた後に簡素な式を行ないました。”とあります。本当ですか?」
「ルカ22:21で、式を終えた後、“しかし,見よ,わたしを裏切る者の手がわたしと共に食卓にあります。”とイエスは言う。ユダもいたということ。マルコではルカと順序が逆で、初めに裏切り者がいるという。でも、ユダが出ていったとは書いていないので、そこにいたのだろう。マタイはマルコとほぼ同じ展開。」
「ユダが出ていったとあるのはヨハネ13章ですが、ヨハネではパンとワインの式がないですからね。イエスは代わりに弟子たちの足を洗うことをします。」
「簡素な式にユダもいたとみるべき。しかし、JWはそれを否定したいということだね。裏切り者のユダがパンとワインを食べていたら、天に行く人間だけが飲み食いするというJWの教義と矛盾することになる。」

「8節には、“イエスは不安を感じていたかもしれません。”とのんきなことを書いてあります。処刑前のイエスはかなり苦悩しているんじゃないですか?」
「最後の食事の後、マルコ14:33では、“ご自分はぼう然とされ,かつひどく苦悩し始められた。”、14:35では、“少し進んで行って地面に伏し,もしできることなら,その時が自分から過ぎ去るようにと祈りはじめられた。”とあり、かなり苦悩している。逮捕後、ショック状態になったようで、ほとんど口を利かず、最後に、“わたしの神,わたしの神,なぜわたしをお見捨てになりましたか。”と言って、死ぬ。」
「ルカでも、22:44で、“しかし彼はもだえはじめ,いよいよ切に祈られた。そして,汗が血の滴りのようになって地面に落ちた。”と結構苦悩しています。マタイでも、26:37,38で、“ご自分は非常に悲しみ,かつひどく苦悩し始められた。それから彼らにこう言われた。「わたしの魂は深く憂え悲しみ,死なんばかりです。」”と、これまた苦悩しています。それなのにこの記事では“不安を感じていたかもしれません。”と見当違いのことをいっています。」
「でも、ヨハネでは違うよ。イエスは何も悩まないし、逮捕後も雄弁に語る。JWは、この部分はヨハネを採用して、後は無視しているのだろう。JW聖書解釈が、いかに恣意的かというよい例だね。」

「主の晩餐について、聖書のあちこちから引用しているけれど、それがいつなのかについて、論じていないのが気になるな。」
「この記事ではマタイを主に使っています。マタイ26:19,20によると、“弟子たちはイエスが命じたとおりに行なって,過ぎ越しの用意を整えた。さて,夕方になってから,[イエス]は十二弟子と共に食卓について横になっておられた。”とありますので、過ぎ越しの祭りの日の食事が、主の晩餐の日です。」
「ところがヨハネだと、違う日。ヨハネ19:14に“さて,それは過ぎ越しの準備[の日]であり,第六時ごろ(*正午)であった。それから彼はユダヤ人たちに言った,「見なさい。あなた方の王だ!」”とある。これはピラトによる裁判の場面。イエスは過ぎ越しの前の日に逮捕されて処刑される。つまり、過ぎ越しの食事はしていない。」
「マタイやマルコ・ルカでは、イエスは木曜の夜に過ぎ越しの食事を食べ、その後逮捕され、処刑される。一方、ヨハネでは過ぎ越しの食事の前に死ぬわけですね。」
「JWでは、主の晩餐は過ぎ越しの祭りの日と言っているので、ヨハネの記述は無視している。JWとしては、どうつじつまを合わせているのか知りたいな。」
「つじつまが合わないと思って、無視しているんですよ。歴史的にはどちらの方が正しいのですか?」
「ヨハネの方が正しいだろうね。ヨハネ以外は、イエスは過ぎ越しの祭りの日に逮捕され、夜中にサンヘドリンで裁判をうけ、ピラトに渡されて、直ちに死刑となっているけれど、祭りの日の深夜に死刑判決が出る裁判を行うことは当時の習慣から考えられない。その他にも不自然なことが多い。」

「簡素な式は、イエスの愛の表われだそうで、その根拠として、15,16節では、刑務所や強制収容所でも、簡素だから記念式を行えたことを書いています。その様なことを想定して、イエスが故意に式を簡素にしたかのような言い方です。」
「JWは自分たちが迫害され続けたかのようなことを言いたがるね。JWが活動している大多数の国で国家的あるいは組織的な迫害などない。その証拠に、あれだけ他の宗教を悪魔よばわりしながら、のんびりとカートの横で突っ立っている。」
「迫害は、自分たちが真の宗教だということの証拠と考えているからですよ。マタイ24:13に、“終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です。”とありますから。」

#918 2019年03月29日 18:47:23

仰天
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問 さんの発言:

「この記事ではマタイを主に使っています。マタイ26:19,20によると、“弟子たちはイエスが命じたとおりに行なって,過ぎ越しの用意を整えた。さて,夕方になってから,[イエス]は十二弟子と共に食卓について横になっておられた。”とありますので、過ぎ越しの祭りの日の食事が、主の晩餐の日です。」
「ところがヨハネだと、違う日。ヨハネ19:14に“さて,それは過ぎ越しの準備[の日]であり,第六時ごろ(*正午)であった。それから彼はユダヤ人たちに言った,「見なさい。あなた方の王だ!」”とある。これはピラトによる裁判の場面。イエスは過ぎ越しの前の日に逮捕されて処刑される。つまり、過ぎ越しの食事はしていない。」
「マタイやマルコ・ルカでは、イエスは木曜の夜に過ぎ越しの食事を食べ、その後逮捕され、処刑される。一方、ヨハネでは過ぎ越しの食事の前に死ぬわけですね。」
「JWでは、主の晩餐は過ぎ越しの祭りの日と言っているので、ヨハネの記述は無視している。JWとしては、どうつじつまを合わせているのか知りたいな。」
「つじつまが合わないと思って、無視しているんですよ。歴史的にはどちらの方が正しいのですか?」
「ヨハネの方が正しいだろうね。ヨハネ以外は、イエスは過ぎ越しの祭りの日に逮捕され、夜中にサンヘドリンで裁判をうけ、ピラトに渡されて、直ちに死刑となっているけれど、祭りの日の深夜に死刑判決が出る裁判を行うことは当時の習慣から考えられない。その他にも不自然なことが多い。」

いつも興味深い記事に感謝します。

もちろん、聖書には多くの矛盾する箇所や食い違いもあるという事は理解していますが、イエスの処刑の日付に関してはヨハネは異なる暦を使用しているのであって食い違いはないという事も言われています。
その事についてどのように思われますか?

以下の通りであったならこの点に関しては矛盾はないと思うのですが?

イエス:最後の晩餐と十字架の日
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/ … 40212.html


過越しの日付に関するユダヤの混乱 - Quartodecimanium Memo

http://d.hatena.ne.jp/Quartodecimani/20 … 1280586094

#919 2019年04月01日 12:13:58

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#990の仰天さんの質問:

「イエスの処刑の日付に関してはヨハネは異なる暦を使用しているのであって食い違いはないという事も言われています。その事についてどのように思われますか?」

に、お答えします。

受難物語ではヨハネとそれ以外の3つの福音書(共観福音書)との違いが、大きすぎるので、日付だけ一致させても、それ以外の不一致はどうしようもなく、日付の食い違いをなくそうとする行為は、護教的立場に立つ人(キリスト教のおかげで生活できている人が多いです。)以外、あまり意味がありません。

日付の違いは、わずか1日なので、いろいろなことを想定すれば、なんとか一致させることはできます。そのひとつの方法が、イエスは主流のユダヤ人(パリサイ派)とは違うカレンダーを使っていたという説です。

例えば、仰天さんが紹介してくださったホームページと同じ主張ですが、イエスがクムラン・エッセネ派の暦を使用していたとしたら、他のユダヤ人より1日前に過ぎ越しの食事をとり、共観福音書の記述通りとなりますが、一方ヨハネはパリサイ派の暦で日付を書いたのだとすれば、不一致が解消するというものです。

問題は、イエスが他のユダヤ人と異なる暦を使っていたという証拠が一切なく、しかも、そのようなことはありそうもないということです。イエスがユダヤ人主流のパリサイ派と違う暦を使っていたら、安息日もずれてしまい、パリサイ派と大きな問題になるはずですが、そのようなことは福音書には書かれていません。またイエスがクムラン・エッセネ派の一員だったこともありそうもないことです。

こう考えれば、福音書間の不一致は解消するはずだという護教論は昔からうんざりするほどあります。しかし、一つや二つの不一致を解消したところで、それ以外の不一致が多く残ります。恣意的な仮定を設けて不一致を解消してもあまり生産的でなく、4つの福音書は、それぞれ別のもので不一致があるのは当然だと考えた方がよいだろうとするのが普通の人の態度です。

受難物語におけるヨハネとそれ以外の福音書との食い違いの主なものを紹介すると、
1.    最後の晩餐と処刑の日付:14日(ヨハネ)と15日(共観)。
2.    イエス逮捕時の弟子たちの行動:イエスが去るよう促した(ヨハネ)と逃げ去った(共観)。
3.    夜中の尋問:アンナスからカイファのもとへ連行され、ユダヤ人が死刑判決を下せるかどうか議論(ヨハネ)とカイファのもとへ連行され、裁判となり、冒とく罪になる(共観)。
4.    イエスの最後の3時間に暗闇になったか?:いいえ(ヨハネ)とはい(共観)
5.    処刑後イエスのもとに集まった人:ガリラヤの女性たち、イエスの母、イエスの愛した弟子(ヨハネ)とガリラヤの女性たちだけ(共観)。
6.    誰がイエスを埋葬したか:アリマタヤ出身のヨセフとニコデモ(ヨハネ)とアリマタヤ出身のヨセフだけ(共観)。

という訳で、日付だけ一致させても、それ以外の不一致はどうするのという問題が残ります。聖書にない「実はこうだった。」という話を作り上げて、一致させようとする人はたくさんいますが、護教論の信者以外は相手にしませんね。

共観福音書の最大の問題は、過ぎ越しの祭りの夜に裁判が開かれて、冒とく罪になったという記述です。過ぎ越しの祭りはユダヤ人にとって極めて重要で、その日に、特に夜中には裁判は開かれないことになっていました。また裁判と処刑が同じ日(日没から日没までが1日)に行われることも普通は考えられません。普通は別に日に行う。それから「冒とく罪」というのも奇妙です。1世紀にもメシアと称した人間はたくさんいましたが、冒とく罪で裁かれた人はいません。

15日の過ぎ越しの祭りの日に逮捕処刑という共観福音書の記述は、当時の法制度からみてありえず、この問題を回避するのはヨハネの14日に逮捕処刑という記述です。というわけで、新発見の資料がない限り、ヨハネの方を信用するのが妥当ではないかという結論になります。

#920 2019年04月01日 15:17:41

仰天
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん、

そうですね。確かに過ぎ越しの日に裁判という事は無理があるように思います。

分かりやすくまとめて下さりありがとうございました。

#921 2019年04月02日 07:55:59

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

仰天さんこんにちは 福音書は全て実際に起こった史実を書いているのではなく 物語形式の神学とアーマンさんはいってますので 細かい部分にこだわらず筆者がそう解釈したというスタンスで読んだ方がいいのかもしれません

オフライン

#922 2019年04月02日 07:58:15

仰天
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

てつてつさん、おはようございます。

アーマンさんの本は出た時から読んでますよ。数冊持っています。

#923 2019年04月02日 08:53:29

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

分かりましたありがとうございます

オフライン

#924 2019年04月04日 00:09:01

シセイ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

内心、こんなに書き込みに熱中していて自分も終わりかなと反省しつつ・・・
私的に感想を一つ。akameさんの複数の霊という初期の書き込みの言葉、否定しなくても良かったのかなと思います。今はAIの時代。単体のAI同士をつなげて集合知として機能させる。面倒なのでぐぐってください。そうなることはシュワちゃんの映画で予告されていたし。日本の某教授が頑固だったせいで日本はAI研究が遅れてしまいました。海外がアルゴリズムによってAIを作製していた時代、日本は物理学方面から研究を進めてしまいAIは不可能なのだという結論と意味不明な物理理論に支配されてしまいました。教授の当時のPDFを拝見すると怒りで震えそうです。AIには光束の集結が必要なのだとか一種の宗教です。海外では不毛な議論から離れ、数学方面からアタックして成功しました。日本がアルファ碁を作れましたか?確かに今でも自発的次世代AIはいまだ作れませんがもどきは作れました。

このAIの基礎理論は集合知に関するもので「鳥の群れはなぜ不思議な動きをするのか」等の研究から出発したものでした。ボイドです。日本では「群れにリーダーがいて指令を送っている」と最難関大学ですら言っていました。その頃海外では密かに「いくつかの制約を与えることによって、あたかも一つの生き物であるかのような動きをする」ことを突き止めAI を発展させました。その規則とは「互いに離れすぎない」「一定の距離を保つ」あと忘れましたが3つくらいの規則でした。たった3つくらいの条件で制約を与えるだけで鳥の群れは複雑なうねりをみせる動きをしたのでした。
これを日本では「群れにリーダーがいて指令を送ってる」と真面目に言っていました。
いったん切ります。

#925 2019年04月04日 00:26:42

シセイ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

私とakameさんの言っていることは厳密には違いますが、求めているものは共通の性質があると感じました。
集合知です。そして人間の脳でさえ集合知を抜きには語れないのです。たしかにひとつひとつの神経細胞は
小さく分けていけば最後は元素です。しかし問題なのは自発的に刈り込みを行うことなのです。現在のAIでは
予め与えられた回路で探索を行いますが、人間の神経細胞は自発的に探索を行い自分で経路を選び、時には
刈り込みを行います。元素がいくら寄り集まっても経路はありますが、自発的探索(もどきではなく)はできて
いないのです。量子コンピューターも本音をいうと擬似的なものなんです。これ言うと国家予算がうるさくなる
でしょう。

物理の方程式は現象を説明しますが「なぜそうなる必要があるのか」という一番深いところが解明できているわけ
ではありません。今でも大統一論、超弦理論は未完成なんです。だから不完全な理論でakameさんを否定すること
もないと思いました。
アブラハムの神の限界についてはあのE=MC^2おじさんも言及してます。人格神を否定していることは有名ですね。
幼稚だと。選ばれた民という発想自体が幼稚だと。人間も進歩しているので進歩と同時に考えが変わっていくのも当然。
認識できる範囲は増えていくわけですから。

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