#26 2016年10月09日 11:54:39
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
すみません、話が前後しました。
••さんの力はどこから来るのですか?」
M(仮称)さんが答えます。
「私の場合、千里眼は密教修行で得られる背後霊や守護霊と梵語で会話する方式です」
「印を結んで行いますが、印は梵語の代用になります。より高い(徳の高い)存在と繋がる為に修行が必要なのです」
下手をすれば魔(聖書の悪霊とは異なる)に引かれますし、これは密教秘技のひとつで、これ以上詳しく述べることはやめておきます。
それから話題がいろいろ転じて宗教の話になりました。私も模索している時期でしたから、興味がありました。
#27 2016年10月09日 15:17:03
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
宗教がこれほどの影響力を人類に与えられた要因を「虚構」だけでは説明できません。
単なる個人的な思いつき、捏造だけではすぐに消滅して存続不可能です。
集団への見えない領域からの力添えがあって存続可能となります。
祈り(理想への強い念)を受けた霊または霊群が動き、虚構は実体になります。
例えば、ある時など、病院で10人がかりでも抑えらない霊の発現を見ました。知人の治療に対する不信?を発端に暴れ出し、10人以上の看護士を浮き上がらせる力です。薬とは関係なく意識朦朧になり、
主治医によると、病院始まって以来「医学的には説明できない」ことでした。
それで、集団内で先行したカリスマ群が見えない領域からの力添えを受けると単なる虚構(理想)が事実になるのです。
古代なら、弱者が強者に奇跡的な勝利を得たりします。
同時に勝たせた霊を神として崇めたてると、
特定の性質を持つ霊になります。つまりその時に最も必要な資質に対応した神に成ります。
それは時には偶然のように現れたり、声だけだったり、自然の驚異と共に現れたり、現れ方は様々です。
しかし、それが後にカリスマ期から組織化されだすと、さらなる脚色が入ったりします。
それで、啓典や伝説などは、事実や脚色が混在していますから、一概に全否定或いは全肯定とは言えなくなるのです。
そして大概の組織は、特定の霊が支配します。その支配的な霊は偽装しますから、見分けるのは容易なことではありません。
#28 2016年10月09日 15:57:49
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
言えるのは、本当に必要な学びは、自分の心に問う以外にはないということです。また必要な学びも時々に応じて変化することでしょう。
例えば、その組織また思想は自分が心底望んでいることだろうか?自分の長所を伸ばし短所を改善してくれるだろうか?普段の生活の中で感動したり感謝できる気持ちが高まるだろうか?
しかしその点では私は失敗してきました。
当時私は様々な模索にあり、Mさんからより深く学ぶ機会がありながら、自分からそれを手放すことになりました。今ではそれもまた自分には必要な経験だったような気がしています。
#29 2016年10月09日 19:37:47
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
当時私はMさんが指摘する霊的解釈よりも、
善なる存在(善しかない存在)を信じたいという気持ちが非常に強かったように思います。それには母親の「イエスに会う」体験の影響がありました。私はその体験で命があったと感じていましたから、その体験が意味することをキリスト教的探求に的を絞ろうと決意しました。
それで、ある日若い私はMさんに、自分はキリスト教の中で救いを見つけようと思うと告げました。今から思うと、Mさんは私の置かれた立場を不憫に思う親心がありましたが、それを無下にしたのです。
Mさんは最後に「自由にすれば良いけれど、貴方はいつか観音に導かれて行くはず」と
言われました。その意味がわかったのは比較的最近のことです。
その後貪るように聖書や神学書を読んだり教会や思想を巡ったりしました。やがてJWの根本主義、絶対神に惹かれていきました。
結論を言えば、
単眼的に「イエスを探す旅」は結果としては多くの苦痛があり虚しい部分も多々ありました。さらに脱JW後もいろいろありました。
様々な思い込みをできる限り廃し、霊的世界を再検証しながらここまで来ました。まだまだ修業中で、やっと真の救いの意味と、今を生きることの大切さを知ったかなと感じています。
とりあえず、ここまでにします。
#31 2016年10月10日 00:56:56
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
>ものみの塔を操る霊、
確かにそう感じます。但し
霊の世界は玉石混淆、善悪は相対的です。
サタンや悪霊は人為なものです。
自然界と同じで、肉食が悪く草食が良いなどは実際にはないことにも似ています。
自然界では、ハヤブサなど生まれながらのハンターが減ると弊害が増えます。
今日の研究では、有害で致命的とも言える台風や雷や山火事その他の天災が実際には地球生命維持を担っている現象であることが知られています。
http://matome.naver.jp/m/odai/2140710714845398901
また、私の経験ではあらゆる物質に(例、硬貨やお米)霊が付き得ますが、人間の想念との相互関係の結果です。それで、あらゆる組織(小さな会社から国まで)がそのような力を持ち得ます。一方的な支配や影響ではなく相互関係になります。また、そうしたものが殆どないものもあります。
過去の神話伝説、聖書もそのような視点からの読み方が必要で、さらに人為的な脚色が入った、と私は考えています。
「全てはゆるされていますが、全てが益にはなりません」はひとつの至言ですね。
#32 2016年10月10日 20:36:39
- ジョエル
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
(♯23)ある意味 聖書の神の資質にも通じて、
最高の美や愛情もあれば、残酷さや
大量の動物の犠牲(血や肉が焼ける匂い)に
恍惚とする野蛮さも持ち合わせています。(♯27)その祈りの性質に合致した霊が祈りを拾ってくれることがあります。(捨てる神あれば拾う神あり)
集団での命がけの念(祈り)または「妄想に近いもの」はかなり強力な霊を動かします。
子殺しの話を蒸し返したくはないですが
親族、故郷、習慣、宗教に満たされず、行くあてもなく放浪する精神状態の中、やっと授かった子さえ、その子を愛おしむことが見えざる真の神への従順を妨げはしないかと、我が手で現実に殺せる実感を得た刹那に至ってようやくその不安は鎮まる
ならせめて自分が死ねよ、子を殺すな、というあたりまえの情念さえ超克し
レンブラントの燔祭で描かれるアブラハムの顔は、絶望なのか悲哀なのか、それすら超越した無表情なのか、天使の方がもういいのだと必死に止めているかのような
この苛烈なまでの、絶対超越神への畏れの念に応じるかのように「アブラハムの神」が現れる、かなり強力な霊を動かしてしまったかもしれませんね
#33 2016年10月10日 20:51:25
- ジョエル
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
「原始クリスチャン」にとって自分の命を懸ける程度は当然の試練、目の前で拷問にかけられながら哀願する非信者の家族を、絶望とも悲哀ともつかない超然とした表情で見つめていたらしいです。
限界も何も(汗)ルーツとしては対話による世界平和を模索する宗教ではない気がします(普通の話が通じない)。旧約で語られる平和は、異邦諸国がユダヤ人(とその神)の至上性に帰順することによる平和願望で、敵を愛せのはずのキリスト教に形を変えても覇権主義に取り込まれ、その名残(念?)は今も根深いです。
#34 2016年10月10日 21:08:42
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
ジョエルさん、鋭い。
>レンブラントの燔祭
アブラハムの目が完全にイッてますね。
レンブラントの凄さも感じますが、会館で子供に鞭している親の形相を思い出しました。
霊が「人間の方が怖い」と言った話もあります。
#35 2016年10月10日 21:21:44
- ジョエル
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
>会館で子供に鞭している親の形相
一応、キリスト教ではすべての不条理と子殺しの業は神本人が贖った(あらゆる非難を背負った)と自分は考えているのですが
旧約のつまみ食いしかせずに、我が子を鞭打つ親、忌避する親には「もういいのだ」という内なる声は聞こえないのでしょう
#36 2016年10月10日 22:12:35
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
私は「イエスの現出」は信じています。
男顔負けの気丈な母親を打ち負かすほどの絶望的な出来事があり、彼女は衝動的に自死しようとしたのです。赤子の私と共に。
目を瞑った瞬間、白い衣装の端正な顔立ちの男性が浮かび出てしきりに首を左右に振ったと言います。それで思い直したらしいのです。まだ信仰は無かった時にキリストに会ったと話していました。
類似の話はよく聞きます。
「実体はイエスではない」など解釈はいろいろできますが、小難しい論理や教理よりも、こういった本人にしか分からない出来事が、キリスト教だけに限らず、様々な信仰の継続を裏で支えてきたように思います。
殺せ、死ね ではなく「生きること」「生かすこと」を伝える、宗派や教理を凌駕した存在を時々感じています。
#37 2016年10月11日 22:06:38
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
出来事は文章にした途端に「虚構」になる宿命を負っています。
イエスの記録も後に脚色されましたが、それでも真実の響きは残っていて、「イエスの霊」は今でも働いています。
こうした出来事を通しクリスチャンになる方はおられます。日本では仏教や神道系での顕現になります。
癒しや身体的な救いを入り口にして特定の信仰に導かれることは、田舎のおじちゃんやおばちゃんからも聞けます。時には聞いていて一緒に泣いたりします。
問題はここからです。
その信仰は大体何処かの組織宗教に通じています。或いはまだそれは「カリスマ期」で、組織化前のグループかもしれません。
やがて、良いものを分かち合う動機で、組織やルールを作り始めます。組織が出来るとそれを守る仕組みを考えます。
そして、神慮により絶対的な信仰は確立できないようにされているのに、自分たちの理想郷の到来を早めようとしたりします。
そこからまた種々な問題発生を繰り返すことになるように思います。
#38 2016年10月13日 12:36:14
- 神の僕
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
アブラハムの神に限界などない。
#39 2016年10月13日 13:33:10
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
それで?
#40 2016年10月13日 15:25:56
- 神の僕
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
最高の神だ。
#41 2016年10月13日 15:51:04
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
神の僕さん
それだと単なる落書きですよ。
大人ならもう少し説明しないと
#43 2016年10月18日 19:13:58
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
本論に戻りますが、一神教に関する歴史と
最近の世界問題との関連性についてですが、
『原理主義から世界の動きが見える――キリスト教・イスラーム・ユダヤ教の真実と虚像』
の著者である小原 克博 氏 の見解は参考になるかもしれません。ユーチューブにもありました。
https://m.youtube.com/watch?v=QeFzmCoZ_FU
何が問題の根になるのでしょうか?
#44 2016年10月18日 19:43:29
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
(途中ですが)
小原克博 牧師は「フェミニスト神学」を提唱しているようですが、興味深いことにファンダメンタリストたちからは避難されています。
#45 2016年10月18日 23:48:22
- てなもんや
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
まったく空気を読めないものです
私の好きな町山智浩さんの話聞いて見てください
https://www.youtube.com/watch?v=iB6JaCQG6FY
#46 2016年10月19日 06:41:40
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#47 2016年10月19日 08:11:11
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
(退屈な動画でした。悪しからず。)
小原克博さん、かなり前向きで良いと思います。
しかし、アブラハムの祭壇を退けることはとても困難でしょう。宗教霊=力づくの霊が固執してますから。
え、その祭壇に乗るのは?
もちろん生身の人間です。
#48 2016年10月20日 08:16:18
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
話を少し転回させます。
生前、キリスト教の教えにあずからなかった人たちには救いの希望があるのでしょうか?
この質問はJW教理形成の背景と重なる部分がありますので調べる価値はあると思います。
そこで「セカンドチャンス論」をJW時代から調べていましたが、概ね以下の通りです。
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/seiseco.htm
セカンドチャンス論
http://cult-sos.jp/seminar/949/
セカンドチャンス否定
http://cult-sos.jp/seminar/946/
否定的検証
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/secoch05.htm
反論(否定)への反論
私はこうした議論があること自体「限界」を示しているように思っています。
#49 2016年10月20日 08:39:15
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
「セカンドチャンス論」は
大勢としては聖書の曲解になるようです。
#50 2016年10月20日 20:33:53
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
私は久保さんにキリスト者としての心意気を感じます。
信じるものは異なれど、向かうところは近いような気がしました。