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#1 Re: 親睦・相談 » JW辞めてよかった体験 » 2021年05月25日 21:48:22

Jay

通りすがりさん、深い話をありがとうございます。

仰ることを読ませていただいた時、パスカルの「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である」という言葉を思い出しました。自然界においての個々の人の存在はか弱いものです。しかしそれらが群となり「考える存在」となった時、多くのことを成せる力を持ち得ます。
その意味では、人間は海岸の砂粒のような存在ではないでしょう。

人が考える神性は、実のところ人の内奥にあると考えます。しかし自分自身の内奥を見ることは困難です。ですから神という客観的存在を置き、それを介して自身の内奥と対話しているのではないでしょうか。ですからその神がどのようなものであるかは関係ないのです。それが岩や山などの八百万の神であってもいいのです。

祈りも同様のものではないかと考えます。神への祈りとは実は自分の内奥への語りかけなのです。祈りに対する応えが与えられてそれに基づいて行動するとは、自分の深層心理(潜在意識)の声を聞きそれに基づいて行動する、と近いものではないかと。

こう考えると異なる言語圏・文化圏・宗教圏でそれぞれに異なる神がいることも、同じ名前の神であっても解釈が異なることも、ある教義に共感する人が群となることも(あくまで僕的にですが)説明がつきます。

#2 Re: 親睦・相談 » JW辞めてよかった体験 » 2021年05月18日 03:25:16

Jay

通りすがりさん、

私もいろいろありすぎます。
また貴殿の見解、ほぼほぼ同意します。

かつての長老より

#3 Re: 親睦・相談 » ターニング・ポイント通過中 » 2021年04月02日 01:28:46

Jay

洗脳の結果ですよね・・・。
ちょっと冷静になって客観視すれば「正しい」ではなく「おかしい(変&可笑しい)」ということに気付くと思うのですが、洗脳とは恐ろしいです。

#5 Re: 親睦・相談 » ターニング・ポイント通過中 » 2021年03月22日 09:35:14

Jay

夫婦って互いに真の友みたいなものではないでしょうか?
親子や兄弟は・・違うかな?

「真の友」という言葉は新世界訳の表現ですよね。英訳は単に「a friend」です。(ヘブライ語原文はどのような表現になっているかは知りませんが)

そして「兄弟」という表現ですが、これは同じ信仰を持っている仲間を指していう言葉でしょうか? 必ずしもそうではないはずです。何故なら互いに兄弟と呼び合うケースは色々あるからです。(ここ、ツッコミを受けそうですが。・・・)

ところで、JWはこの聖句を引用して、「同じJWの仲間は兄弟であり、真の友である」なんていう身勝手な解釈にいく場合(人たち)もあるでしょうが、冷静に客観視すれば、彼らの人間関係なんて薄っぺらなものです。何かあれば村八分する人たちですから。

とは言え・・・、友の存在は大事です。

#6 Re: 親睦・相談 » ターニング・ポイント通過中 » 2021年03月20日 01:36:53

Jay

A friend loves at all times,
And a brother is born for adversity.
(Proverbs 17:17)

日本語ではなくあえて英語で「箴言17:17」を見てみると、そこにあるメッセージはすごくシンプルです。
誰であってもこのような友を求めているのではないでしょうか?
私もそうです。

聖句は多くの場合、一つの聖句を切り取って考察されます。本来は文脈ありきだと思うのですが、なぜかそうされず、個々の聖句を取り出し、時には異なる書の聖句をつなぎ合わせて見解を示したりもされます。

それに倣いこの聖句だけを見るならば、言わんとしているところは非常に簡潔です。
ここにはいわゆる「条件」は付されていませんので、同じ宗教にいるものであること、同じ神を信じていること、同じ国民であること等は何も関係ないはずです。

自分が悩み苦しんでいる時に寄り添ってくれる異教徒の人、
人間の性向と弱さに起因する罪を犯したものを排除するJW・・・、
悩み苦しんだ結果離塔した途端に言葉をかけることもせず一切の交渉を断つJW・・・・、
どちらが「友」と言えるでしょうか?

宗教の壁、文化の壁、人種の壁・・・を超えた、いわゆる「無条件の友」が友ではないでしょうか?

私は離塔して「JWの友」は全て失いました。しかし、彼らはそもそもここで言うような「友」ではなかったのでしょう。Forever Friendでもありませんでした。

ですから新たな友を必要としました。
そして、時間はかかっていますが、その友を見つける機会をようやく見いだすことができました。

皆さんはいかがですか?

#7 Re: 親睦・相談 » ターニング・ポイント通過中 » 2021年03月13日 03:47:05

Jay
またい さんの発言:

あの、元気ですか?カレブ?お会いしたい。

カレブさんのトピックに書き込みされるとコンタクトできるのではないでしょうか?

#8 Re: 親睦・相談 » ターニング・ポイント通過中 » 2021年02月10日 13:03:43

Jay

深いですね・・・。

まずは手を差し伸べるのがいいのか・・・
自分の限界をわきまえて、中途半端になるのであれば、最初から関らない方がいいのか・・・

責任持って元気になるまで寄り添うのがベストなのでしょうが、これはすごく難しいです。
かと言って「元JWを助ける専門家」などいないと思いますし・・・。

このようなカルト宗教被害者を産まないことが何よりも大事なんでしょうね。

#9 Re: 親睦・相談 » ターニング・ポイント通過中 » 2021年02月10日 05:27:51

Jay
またい さんの発言:

死にたい。って人にぃって、死ぬ人少ない。もし、死んでも当人の意思だから

確かにその通りなんですが・・・死にたいほど悩み苦しんでいる近しい人に、「ご勝手に、どうせ死ぬ勇気なんてないんでしょ?」とは(思っていたとしても)普通言えないですよ。

「死にたい」というのはフラッグの一つかと・・・。日常の表現として「疲れた〜、死にそうだ〜」などと使っている場合は意味なしですが、本当にフラッグを立てている人が「死にたい」と声を絞り出した場合・・。どうすればいいのか・・・、その場になってみないとわからないと思います。見極めも含めて。

何事もなく終わればそれもよし。「狼少年」的言動に振り回されるのも、それもまた良し。と私は考えてます。もちろんこれが正しいということではないですが。

私は自死した人が身近にいました。なのでその行動と結果に至るプロセスもみてきたわけです。仰るように「死にたい。って人に言って、死ぬ人少ない。」のは事実でしょう。しかし「もう生きていたいとは思わないが死ぬのは怖い!自殺なんてできない!」と言ってた人が自死する場合もあるのも事実です。

「死んでも当人の意思」・・・これも全くその通りだと思います。

深い意味での個々人の死生観も関係してくるので、何が正解か、どうするのがいいのか私にはわかりません。全て結果論のような気もします。

でも言えることは親孝行と同じく、「助ける言動は生きている人に対してしかできない」ということです。

論点がずれてしまいました。すみません。

#10 Re: 親睦・相談 » ターニング・ポイント通過中 » 2021年02月09日 23:58:39

Jay

疑点さんが仰った「メンタル回復の途上での励まし合い」「元JWとは別の視点からの気付きや助け」はとても必要だと思います。でも、励ましの言葉や助けを受けるのを期待し待つのではなく、「励ますこと」「助けようとすること」がキーです。励ましの言葉を考え発すること、それこそが自分自身を励まし強めていきます。励ます方も励まされる方も、双方が励まされます。

ですから疑点さんとのやりとりによって私も強められました。ありがとうございました。

「元JWとは別の視点からの気付きや助け」もそうだと思います。私みたいにスピリチュアル方面の行動や体験(まだごく一部しか書いていませんが)もいわゆる「別の視点」的なものかもしれません。まあ、助けになるかどうかは別として・・・元JWですし・・・。

受動ではなく能動が大事という意味では、脱党後の生き方においても同じかもしれません。変化が必要な時、変化を待つのではなく変化する勇気を持つこと。人の目や失敗することを恐れていては変われません。人に迷惑をかけず&巻き込まずに注意しながら、好きなことやJW時代にはできなかったことに取り組んでみるとか。。。

私の「スピリチュアル方面の行動」はいわば足がかりです。ボルダリングの最初の一歩なのかもしれません。そこがゴールではなく、見えないゴールに向かう「一歩」です。この一歩、確かに二歩目三歩目と新しい世界を見せてくれました。

JW時代には「今を生きずに楽園で生きる」ために「今の自分を殺すことや無個性になること」を学んでしまったと思います。待つのではなく、とことん考え悩み、そしてその後は行動することが大事だと考えます。その選択肢は山ほどありますよ。世の中捨てたもんじゃありません。

#11 Re: 親睦・相談 » ターニング・ポイント通過中 » 2021年02月09日 09:20:38

Jay

<追記です>

依存してくる人の気持ちも理解できます。だからこそ無視できないんです。で、自分も苦しむ・・・という危険なループもあるのですが・・このように考えてみました。

脱党すると、生真面目に「世の友人」を作らずにいた人ほど孤立します。パートタイムの仕事だけで生活していた人は、将来への不安も大きいでしょう。様々な理由と原因でそのような人は「自尊心」にダメージを受けていると考えられます。「自尊心が傷つき孤立する」・・・これは苦しいです。なので自然と「誰かに気にかけてほしい」「自分の存在を認めてほしい」という思いが生まれます。これは承認欲求というほど強いものではないかもしれませんが、自分に接してくれ認めてくれる「友」を求めているのだと考えます。

とは言え、こうした人の力になるには精神力・忍耐力・持続力・共感力、そして文字通りの体力が必要です。ダメージからの回復も一朝一夕にはいかないでしょう。そのプロセスも一人一人異なります。

本当に社会復帰の為の受け皿となるリハビリ・システムが必要だと思います。

#12 Re: 親睦・相談 » ターニング・ポイント通過中 » 2021年02月09日 04:30:37

Jay

疑点さん、レスポンスありがとうございます。

読ませていただいて一番「これはしんどいだろうなあ」と思ったのは、「個人情報プライバシーまで全開示で依存してくる人」という部分でした。この「依存」が常軌を逸した形で現れると、時間関わらずに電話をしてきたりということになるだろうと容易に想像できます。

多くの場合「その種の依存傾向はその人が本質的に持っているもの」だと思います。元JWだからというのではなくて、です。その人がJWであった時には周りの人があれやこれやとかまってくれたのでしょうが、脱塔すると周りに自分に気にかけかまってくれる人が激減します。時には全くいなくなってしまうこともあるでしょう。

そうなると誰かに「死ぬ死ぬ」と言ってでも注目をしてもらい、かまってもらいたくなるのです。いわゆる依存ですね。(私もこのタイプの人を知っています。)

しかし、その声に応えられる時とそうではない時があるのは仕方ありません。しかし、応えられない時は・・・一転して逆恨みされてしまうというリスクがあります。で、次に起こるかもしれない状況は「攻撃」や「中傷」です。これも依存の一症状と言えますが、これはキツイです。

こちらに無視できる精神的体力があればいいのですが、真面目な人は無視できないですよね。これだと「巻き込まれて」メンタルが疲弊してしまいます。これは絶対に避けなければなりません。

難しいですね・・・。

#13 Re: 親睦・相談 » ターニング・ポイント通過中 » 2021年02月08日 05:39:21

Jay

カウンセラーに関して書ける範囲で書きますね。

はじめに言えることは、私はカウンセラーを信じてはいなかった、ということです。カウンセラーはいわゆる「聞き手」です、クライアント(相談者)はカウンセラーに話し、時には対話することによって何らかの解決策を自ら見出します。確かに話すこと自体に意味があると言えますが、カウンセラーはそのアシストをするだけです。対して、コンサルタントは積極的に解決案を提案してくれるでしょうが、果たして元JWの心情を理解できるかどうかは疑問です。医師に至っては「大変だったら薬を出しましょうか」で感情を鎮静するだけでしょう。精神科医とはそのようなことしかできないと思います。

もし冷静に自分を見つめ考察することが難しい場合は、カウンセラーの助けを借りて話し「思いを整理」することは良いのかもしれません。しかし、私は精一杯自分自身に向き合った後でしたから、再度誰かに話をすることの必要性は感じていませんでした。カウンセラーの元へ行ったのは家内の「お願いだから一度行ってみてほしい」という言葉があったからです。幸い保険で100%カバーできるということなのでダメもとで行ってみました。しかし結果は思った通りでした。事の次第を説明し、時々挟まれる質問に対してまた説明し・・・の連続・・・、正直いって面倒臭い作業(?)に終始しただけでした。

もちろん一度で全て説明できるわけではありませんので何度か通いました。で、4回ほど行った時に「これで終わりにします」とカウンセラーに言い、行くことをやめました。やめた理由はいくつかありますが、いくら説明しても真意(JWの経験)は伝わらないという虚しさ、そして解決案の提案は一切ないという時間の無駄さ、等でした。(注:全て私の経験における私個人の見解なので、カウンセラーを否定する意図はありません)もちろんカウンセラーは医師ではありませんので薬の処方もありません。よしんば処方されたところで、薬で精神を抑制するつもりはありませんでした。

ですからカウンセラーの元に行ったことは「一つの経験」以上でも以下でもなかったわけです。むしろその後に取った一連のアクション(このトピック書いてきた事柄です)の方が助けになりました。

実は、最近はいろんな相談を受けて何人かの方と個人的にお話をさせていただいています。自分にできる手助けがあるならしたい、と思っているからです。ここでは書けない話しも含めて、です。

私の生業としては2−3足の違う草鞋を履いてますが、その一つはビジネス・コンサルタントです。ですから今は相談を受けることも仕事の一つになってきています。「JW関連に強いメンタル・カウンセラー&コンサルタント」といった感じですね。カウンセラーを信じていないと書いておきながら、カウンセリングをしているのは矛盾しているわけですが、「しっかりと耳を傾けて話を聞く大切さ」も痛感していますから、この面ではカウンセリングでもあるわけです。

もちろん私は資格を持ったカウンセラーではありません。しかし、資格を持った評判高いカウンセラーであったとしても元JWが置かれた状況や辛さを理解できるのかといえば、それは難しいと思っています。であれば「経験者」の方が適役ではないでしょうか?カウンセラーと相談者の間において、双方向で話が通じやすいと思うからです。

なんでも話せて理解を示してくれる相談できる人がお近くにおられると良いですね。

#14 Re: 親睦・相談 » ターニング・ポイント通過中 » 2021年02月07日 07:18:49

Jay

「決して他人を巻き込まない」

誰でも誰かに支えられて生きています。完全に孤立して生きていける人などいません。ですから「他人との関係を絶つ」ことは無理ですしそうする必要もありません。美味しい店を見つければ友人に話し「一度行ってみれば?」と勧めるでしょうし、いい映画を見ればやはり人に話すでしょう。勧めることはしなくてもその人は「自分も観てみよう」となるかもしれません。

こうした言動は「人を巻き込む」ことでしょうか? そうでは無いと思います。

では、自分の信仰とその信仰ゆえの恩恵を他人に勧めるとなるとどうでしょうか? 始めは純粋に「自分にとってよかったから」という思いと動機で他人に話すことはあるでしょう。この段階であれば「人を巻き込む」ことでは無いと思います。もちろん、その行動が真に自発的なものであるならば・・です。

しかし、宗教組織が設けたシステムと刷り込まれた価値観でそうした場合は全く違う意味になります。野外奉仕を「取り決め」で行うことはもはや「奉仕」でも「自発」でも無いです。WTはこの「自発」という言葉を巧みに利用します。周りに追い込まれ、刷り込まれた価値観により、取り決めによって取った言動など決して「自発」では無いはずです。心の中では野外宣教などに行きたくないのに行かされていた、もしくは行っていた人は少なくないはずです。

WTは、宗教法人として信者を増やすためにとる手段を「強いられてではない自発奉仕、全ては個々人の自由意識での行動」という詭弁で逃げ場を作っています。この詭弁によって宗教法人は法的責任から逃れられるかもしれませんが、個々人についてはそうではないはず。なぜなら「強いられてではない自発的に個々人の自由意識でおこなった」ことになるからです。何を? (ややこしい文章ですみません)

「人を巻き込む」行為をです。

疑点さんが仰るように、洗脳から覚醒したまともな人ならば、この点において苦しむと思います。

自分が巻き込んで組織に入れてしまった人が今も喜んでそこにとどまっているならばいいですが、もしその人が苦しんで組織から離れ、今も苦しんでいるならば・・・。辛いと思います。倫理的責任を感じてしまうのではないでしょうか?

極端な例ですが、戦争に駆り出され多くの人の命を奪った経験に対する苦しみに似ているかもしれません。もしこの例えが許されるなら、元JWが精神疾患を経験することも納得がいきます。帰還軍人をケアする社会とプログラムがあるのですから、帰還宗教信者もケアが必要だと思います。

#15 Re: 親睦・相談 » ターニング・ポイント通過中 » 2021年02月02日 09:26:40

Jay

>>連載を楽しみに読んでいました。続きはもう書かれないのでしょうか?

なんか独りよがりの書き込みのように感じてきてしばしストップしていました。「連載」なんて言っていただけるととても嬉しいです。ありがとうございます。
ネタは色々あるので、また書き進んでみようかなあ・・・。

>>スピリチュアル、マルチ、自己啓発を一通り経験して、これらは宗教の領域であると感じた。

あくまで私の意見としてですが・・・、それぞれ似てはいますが全く違うと思います。

マルチはお金欲しさでしかないです。たとえそれが宗教的であったとしても、目的は金銭でしょう。セールストークに「理想や夢」が織り込まれていたとしても、それは相手をミスリードするための手段でしかないと思っています。

自己啓発は自分自身に目を向けてはいるでしょうが、やはりそこには富や成功という目的(ゴール)があってのことのように見えます。また「啓発」は、他人からの知識や情報からの影響によるものでしかありません。しかし、本を書いたり、講演をしたりして、連鎖的に他人に伝えようとしたら、宗教的だと言えると思います。でも、そうでなければ「学び・気づき」の一つだと思います。

宗教は一番面倒です。信仰も含めて自分自身の事柄のように見えますが、これが組織になった途端、関わり方が変わりますし、人間関係や権力・支配力といった余計なものが絡んできます。むしろそれらが自らの生き方の価値観において主な部分を占めるようになっていきます。

スピリチュアルは・・・何をもってそういうのかという定義にもよると思います。、超自然現象や力(予言や占いを含む)といった科学では解明されていな事柄等もを指して言うのでのであれば、「信じるか信じないか」が関係してきますから、佐藤氏のいう通り宗教的ではあるでしょう。

しかし、スピリチュアル → スピリチュアリティ →  霊性 → メンタリティ →  考えや精神のあり方、というように捉えていけば、他人や金銭的利益、欲や野望といったものから離れていられると思います。言い換えれば他人を巻き込まない「個人的な事柄」です。

私にとってのスピリチュアルとは、自分の体験・経験・考えの検証、等でしかないです。自分の関心、自分の考えに素直になることです。しかし、他人を巻き込んだり巻き込まれたりしないことが大切です。

>>私の父親の危篤も死も知らせる前に、寝たきりの祖母の枕元に父が現れた。

私は母を自宅ホスピスで介護し看取りました。母の最後の時が近づいた時でしたが、無意識で昏睡状態であった母が突然目を開け、空に手を伸ばし、穏やかな表情に変わっていったのです。それはあたかも「誰かが迎えにきた」瞬間だったのかもしれません。もしかすると先に他界した父だったのかも・・・。

科学では証明できないことは山ほどあります。そこに目を向けて知りたいと思うことは、自然なことだとも思います。なので、宗教になってしまったり、他人を巻き込んだりしない形で、そうした事柄も探っていきたいと考えています。

格好良く言えば、私にとってのスピリチュアルとは「旅(ジャーニー)」なのかもしれません。

#16 Re: 親睦・相談 » 「聖書の記述は真実なのか?」 » 2021年01月07日 00:51:16

Jay

てつてつさん、ありがとうございます。

>時代も作者もちがう著者が書いたものをむりやりくっつけた本を全体で何を言おうとしているのですか という質問自体が成り立たないと思います

その通りだと思います。すなわち66の書をまとめた「聖書」にテーマを付したり、一つのことを殊更に強調して教えたりするのはナンセンスだと思います。


>あと各書については当然それぞれ 歴史を書こうとか 自分の信じていること書こうとか著者の目的あると思います

その通りだと思います。ですから私の書いたように何を言いたいのかは「書によって異なる」ことになるでしょう。


>>聖書って解釈と使い方によって、万華鏡のように変幻するものなんでしょうか???
>解釈は教祖の都合によって恣意的に変幻させることができるとおもいますよ

私の質問は聖書に親しみのない人が普通に思うことってこうなのではないか、という質問でした。
まさに解釈と使い方によってどんな主張も出来得ると思います。


>自分は聖書にスピリチュアルなものは全然ないと思っています 人間が自分の考えを書いたものだとおもっています

私もそう思います。それ以上でもそれ以下でもないと思います。


>>聖書って「そもそも」なんなんでしょうね?
>Jayさんは ものみの塔から アダムの創造と堕落 啓示の書の楽園の回復までものみの塔のオリジナルの一貫したストーリーを教え込まれて何かスピリチュアルなものを感じてしまうのでこのような質問がでるのかもしれませんね

いやこの質問も普通の人代表の質問です。インタビュアーが「このように言う人もいるかと思いますがいかがですか?」のようなものです。
この「そもそも何?」に対しては答えがない、と言うのが答えだと思います。

でもそのような「聖書」を時代を問わず世界中の人が手にし、読み、意見を戦わせ・・・・筆者(といっても一人ではないですが)にとっては「してやったり」かもしれませんね。


やはり、聖書は「オチのないミステリー」であり、自由にパーツをつなぎ合わせてストーリー構築しオチを想像する・・・・そういうものだと思います。なので別のトピックでも書きましたが、アカデミックな考察を一切しなかったのです。JWに関しても聖書に関しても、です。枝葉をとって議論や考察をしても無駄だと思います。十人十色の解釈と主張があるでしょうから・・・。それよりも感覚的に捉えればそれだけで「おかしいぞ」というのはわかります。

聖書(とJW)に忖度して擁護する必要はないと考えます。各自が思いたいことを思い、信じたいことを信じ、やりたいことをする、つまるところこれしかないのですから・・・。

#17 Re: 親睦・相談 » 「聖書の記述は真実なのか?」 » 2021年01月06日 10:38:48

Jay

仰る通り聖書を「一冊」の本と捉えるのには無理があると思います。なので中には正確な書もあればそうではない書もあることには同意します。

てつてつさんは「聖書は何を伝えようとしているのか?」についてはどのように思われますか?

書によって違うとは思いますが・・・・もしそうならJWがするように旧約新約の両方から都合のいい聖句を拾って話をするのはどうなんでしょう? 作り話の部分の正当性を正確な部分で説明したり、正確な部分を歴史の記録ということで済ませ不正確な部分をことさら強調したり。。。。

聖書って解釈と使い方によって、万華鏡のように変幻するものなんでしょうか????
聖書って「そもそも」なんなんでしょうね?

#18 親睦・相談 » 「聖書の記述は真実なのか?」 » 2021年01月06日 04:23:46

Jay
返信: 4

「聖書の記述は真実なのか?」という素朴な「そもそも疑問」です。皆様のご意見をお聞かせいただければと思います。ですからこのトピックは意見交換トピックです。

神は最初の人間アダム、そしてその骨からエバを作られた。彼ら二人は完全な人間であり、死の概念はそこにはなかった。二人は罪を犯した故、神から有罪宣告を受け死ぬようになった。聖書はその経緯と救世主であるイエスを人類に送るまでの記録書であり、またイエスの教えを守るものたちに再び永遠の命を与える指南書でもある。

聖書とその内容の一面をまとめるとこうなりますが、これって変ではないでしょうか?

理由
1)完全な人間として永遠の命を享受したものが一人も存在しない。故に、人間は初めは「死するものではなかった」ということを証明することは不可能。そもそも人間は永遠の命などとは無縁で「常に死にゆく生物」であったのではないか?
2)永遠に生きた人間は過去にも存在しない理由を、「最初の人間が死ぬようになった」で、かたずけているだけなのではないか?
3)生物としての人間は死を恐れ、永遠の命を求めるという概念を持つようになった。故に、「なぜ人間は死にゆくのか?」という疑問に思いを巡らせ、この疑問に対する答えとして識者が「こういう経緯で死ぬようになった」というストーリーを作ったのではないか?
4)そして、「人間は初めは永遠の命を持っていた & こうすれば永遠の命を再び手にすることができる」という命回復アイデアを織り込んだのではないか?
5)しかしそのような方法など存在しえない。故に、聖書の言葉はどうとでも解釈できる不可解な言い回しになってしまったのではないか?
6)とは言え、聖書が単に不可解な書では広く認知されない。そこで、認知されるためには、ある程度「実用書」であることも必要だった。故に著者である識者は多くの知恵と教訓をそこに書き込んだ。
等々・・・。

聖書は人間の本能に訴え、願望をくすぐる書だった故にベストセラーになったのではないか? と感じるのですが、如何でしょうか? 聖書を貫いているテーマは「王国」と言いますが、それはミスリーディングのような気がします。いつの時代も平民は生きづらいものです、食べるに困り、職を失い、病気にもなります。そして本能として「生活が豊かになり長生きしたい」と思います。そこを巧みに刺激する書が「聖書」なのでは? もしかしたら、「これであなたも大金持ちになれる!」という本が人の願望をくすぐり、人気を博するのと大差ないのかもしれません。そのような本でも「有益な知恵」が多く盛り込まれていたら、ある程度認知されロングセラーになりうるかもしれませんし。

皆様にお伺いいたします。
聖書の記述を真実だと信じている方々は何故そう思うのでしょうか?また、聖書の記述を真実だと信じていた方々は何故にそう思われたのでしょうか?

伺うだけではフェアではないので私の回答を書いておきます。
「聖書の内容を知ったのはJWとの聖書研究が初めてでした。のっけから「これは真理です」「聖書は予言(&預言)の書であり、多くの成就を見てきました」「今の世代にうちに間も無く終わりがきます」「エホバの証人だけが救われ、永遠の命を受けます」というインプットがあり、そこからスタートしたからです。自分で調べて真理だという結論が出たわけでも、自分で体験してそう思ったのでもありませんでした。シナリオ的聖書研究によってそう教えられただけです。恥ずかしながらそこに自分の考えは入っていませんでした。それ以後はただレールを歩むだけでした。「聖書は本当に神の言葉ですか?」という公開講演も出張講演を入れたら20回ほどしたと思いますが、もちろんその講演内容に自分の考えを入れることはできませんでした。あれも全てシナリオ通りの結論ありきですから。」

#19 Re: 親睦・相談 » ターニング・ポイント通過中 » 2021年01月04日 13:32:31

Jay

空虚感をいかにして埋めるか(私の経験)その4

さて、次は多くの反感を得るコメントかもしれません。しかしこれも私の経験の一つなので書きます。

JWとしてクリスチャンであった時、そこに信仰心という心が深く関わっていました。心、これ即ちスピリットです。またよく「霊性」という表現が用いられますが、これはそのまま「スピリチュアリティ」です。このスピリチュアルな部分に空洞ができているとも言えるわけですから、手っ取り早く同じスピリチュアルで埋めてしまおうということです。

何をしたかというと、JWが踏み込まない「スピリチュアルへの好奇心」に基づくアクションでした。ですので既述したようにイギリスのレイラインのスポットへ行ったりもしましたし、ロスチャイルドやフリーメイソンリーのことを調べたりもしているわけです。

いや〜これは面白いです。多くあるプロテスタントやその元となったカトリックといったキリスト教、その他の宗教、フリーメイソンリーのコンセプト、有史以来人類が探求している事柄、これらすべてが「スピリチュアル探求」だということに改めて気が付いたのです。和訳して「心の探求」とすれば誤解が少なくなるかもしれませんね。

自分自身の心に飛び込み「本当の自分は何を求めているのか?」を知る探求でもあり、強く関心を持っている「死後の世界」「転生」「パラレル・ワールド」「タイムリープ」といった、ともすればキワモノに対しての探求でもあります。もちろんキワモノの世界には深く没頭するつもりはありません。一例ですが「転生」に関していえば、ヒプノセラピーを体験したことで十分です。要は本を読んで知るだけではなく、経験や体験として知ることが重要なんです。その意味では「死後の世界」を知ることは臨死体験をしない限り不可能ですね。

このようにして関心を少しずつ満たしていくと、心の隙間(空虚感)も少しずつ埋まっていきます。これは実感しています。

この探求に関してはあまり詳しく書くことはできませんのでこれぐらいにしておきますが、ここまで書いてきたこと(その1〜4)を通して力を取り戻してきているのは事実です。

私の経験でした。

#20 Re: 親睦・相談 » ターニング・ポイント通過中 » 2021年01月04日 11:20:15

Jay

空虚感をいかにして埋めるか(私の経験)その3

次は新しい「友人」とどのようなコミュニケーションを持つのか、です。人たちとの関わり方は思いの中に大きな違いを生みます。「自分にとって」必要だった関わり方とはどのようなものかを端的に言い表すとしたら・・・それは「必要とされる」ことです。

自責の念に苛まれており、無価値であるとも考えている自分が誰かに必要とされる・・・・これこそがキーの一つです。必要とされるという需要(?)を満たした時、説明できない「満足感」を感じることができます。「ありがとう」という言葉の持つ力と言い換えることもできるでしょう。小さくてもいいのです。この積み重ねが自尊心の回復プロセスに力を与えてくれます。実のところは知りませんが、「ありがとう」の言葉を受けると何か特別な脳内物質が出るのかもしれませんね。

横断歩道を渡るお年寄りをサポートすることでも、段差で困っている車椅子に乗った方々に少しの手を差し伸べることでも、相手の話を聞いてあげることでも・・・なんでもいいんです。こうしたちょっとした行動さえも、相手を助けるだけでなく、同時に自分をも助けるものとなります。そして空虚感を少しずつですが着実に埋めていくことができます。

この意味では「受けるより与える方が幸福」というのは間違いないですね。

追記:聖句には多くの手が加えられています。ですから「こう書いてあるから真実」という風に鵜呑みにすることは正しくないと考えています。とはいえ、実際に経験や体験によって実感したのであれば、その言葉は少なくとも「自分にとっては真実」となります。「受けるより与える方が幸福」はその一つです。

(続く)

#21 Re: 親睦・相談 » ターニング・ポイント通過中 » 2021年01月04日 10:52:48

Jay
ラハム さんの発言:

そのような変な状態にならされているせいか、
何も感じないようでした。

いや、思うにその人も「こいつは変だ」と感じていると思います。どう贔屓目に見ても変ですから・・。
ただその人には「統治体のメンバーに変だといったらダメだ。」という忖度のブレーキがかかっているだけだと思います。もしくは・・・「自分もこうなりたい」と感じているか、すでに同類と化しているかでしょう。まあ顔芸ではないにせよ・・・。

ここまで極端でなくとも、妙に不自然なニヤニヤ顔JWって多いと思います。反対にドヤ顔タイプもいがちですね。思うに、「ニヤニヤ顔」は裏でコソコソ画策するタイプが多く、「ドヤ顔」は上昇志向が強いわりに自分より上の立場の者にはへつらうタイプが多いなあ、と観察していました。

#22 Re: 親睦・相談 » ターニング・ポイント通過中 » 2021年01月04日 01:50:31

Jay

空虚感をいかにして埋めるか(私の経験)その3

次にしたことは「いろいろなところに行き、いろいろなことをし、いろいろな人に会う」ことです。

イギリスに行ったこともそうした行動の一つでした。ロンドンに住む古い友人を訪ねると、豊富な話題と新しい気づきや出会いが生まれました。するとそこから予測していなかっった出来事が起こり、新しい展開を経験することになったのです。自分に制限を課すことなく自然体で臨めば、出会いは別の新しい出会いを生みます。一歩踏み出せば、次の一歩が見えます。結末や結果など考える必要はありません。小さいことでもいいので自分に素直になって行動してみるのです。

ロンドンのシティ界隈を歩いている時、ストリートの一角にホームレスが座っていました。「空腹です。助けてください。」というようなサインを掲げることもなく、ただ土下座しているかのように頭を垂れていました。今までなら一瞥しただけで通り過ぎていましたが、その時はいくばくかの小銭を差し出しました。これも小さなことです。この行動によって何かが生まれたわけでもありません。しかし、私は「これまでとは違った行動」を取ったのです。誰にも迷惑をかけることなく、ふと思ったことを自然に行動に移してみたのです。誰でも危ないと思ったら逃げるでしょう。それは本能から出た行動です。では「手を差し伸べたい」と思ったらどうしますか? 理性を働かせて、何もしないのでしょうか?「何かしたい」と思った本能を押し殺すのでしょうか? それもいいでしょう。悪いことではありません。しかし、自分を変えるためには、違う行動を取ってみるのも有効でしょう。違う行動といってもそれは作為的なものではなく自然な思いに従った行動です。

これはほんの小さな一例にすぎませんが、このようにしていくと、「ああ、自分はこういう人間だったんだ」ということが少しずつ見えてくるんです。自分自身のことって知っているようで実はあまり知らないんですよ。

ですから、旅に出ることも一案でしょう。まさに気ままに歩き、出会う人に声をかけ、心の声や本能に従って行動していく・・・・。「自分発見」といってもいいかもしれません。これは私にとっては有効でした。失ったものは友人だけでなく、「自分自身」でもあったのですから・・・。

(続く)

#23 Re: 親睦・相談 » ターニング・ポイント通過中 » 2021年01月04日 01:18:30

Jay

空虚感をいかにして埋めるか(私の経験)その2

最初にしたことはとことん自分に向き合うことでした。最初は自責の念、後悔、怒り、挫折感、喪失感といった様々な感情が複雑に入り混じった辛い状態でしたが、とことん自分について考えていました。そして考え尽くした頃、次に襲ってきたのはまさしく空虚感でした。ある時期は魂が抜かれたような状態だったと思います。

失ったものの一つ、空虚感の原因の一つは「友を失った」ことです。JWの中にも波長の合う友人がいました。しかし、WTを抜けると彼ら全ても失うのです。それまでJW以外には親しい友人を作らなかった人にとってこれは辛いです。で、この空虚を埋めるには、同じく人であることが必要だと思いました。なのでいろんな人と積極的に会ってみたのです。昔の友人や、すでにWTから離れた友人にも連絡を取ってみました。するとJWの時とは異なる人脈ができていったのです。フリーメンソンリーの人たちに積極的に会えたのも、この想いが後押ししていたと思います。

辛い時は人と会うことなど到底できないでしょう。私もそうでした。でも、少しでも楽になった時には人と会うことをお勧めします。新しく知り合う人にはJWでの経験や経緯を話す必要などありません。話す話題にも制限はありません。普通に人と話すことができるのですから、いろいろな人と会って話してみてください。

人は独りでは生きてはいけないんです。ですから自分を孤立させてしまうと、辛さが増すばかりです。力を振り絞っていろいろな人に会うと当たり前のあることに気づかされます。「人は優しい」ということ、「JWのような見せかけの優しさではない」ということに。

(続く)

#24 Re: 親睦・相談 » ターニング・ポイント通過中 » 2021年01月04日 00:14:00

Jay

空虚感をいかにして埋めるか(私の経験)その1

JWであることを辞め、WTから自由になった時、自分の中に「穴」が開いたように感じました。そして、なんとかしてその穴を埋めたいとも。

言うまでもなくこの穴は、Wordで打った文章の一部分をデリートしてつまんで短くする、といったような単純作業で「なくなる」わけではありません。ですから「埋める」必要があるのです。どうすればいいのでしょうか? 今までやりたくてもできなかった趣味に打ち込もうか。学びたかった事を勉強したり、仕事に役立つ新しい技術を習得するのに時間を用いようか。WTとは違う宗教を学んでみようか。せっかく聖書に慣れ親しんだのだから。

いろいろ考えましたが、なかなかその穴を埋める自分に合う方法が見つかりません。開いた穴は、単に「時間ができた」でもなければ、「物を失った」でもありません。とは言え、心の中の「何か」を間違いなく失ったのです。そこに穴が開いたようになっているのです。この穴を放置すれば、いつまでたってもそこにあり続けます。そして気づきました。この穴は、実は「空虚感」だということを。次の段階はこの空虚と対峙することです。そしてなんとかして埋めなければ。

私自身このような思いになっていました。そしてようやくある解決法に気づきました。これはある人にとっては至極当たり前のことかもしれませんが、自分にとっては新たな発見だったと言えます。このことについて少し書いてみたいと思います。

(続く)

#25 Re: 親睦・相談 » ターニング・ポイント通過中 » 2021年01月03日 12:40:40

Jay

自分たちが定めたルールに反し罪を犯したものを排除する。いわゆる排斥ですが、このことを別の言葉で説明できないものかと思い探していました。で、見つかったのは「粛清」です。詳しくはウィキペディア(粛清)をみてください。「古今東西問わず、いかなる組織でも普通に行われていること」ともありますが、それ以上の含みがあります。で、WTの排斥の意図と非常に似通っていると感じました。私だけでしょうか?

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