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- 聖書についての質問
- 2025年06月20日 14:43:29
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“神に近づくのは良いこと(15)”で、組織の一員であることは得だし良いことなので、死ぬまで組織のためにタダ働きしよう、という内容です。」
「ここで言う“神に近づく”というのは組織に服従し、組織の言いなりになるという意味。面白い点といえば根拠のない暴論が出ていることぐらいかな。」
「2節に“エホバとの友情も同じように時間をかけて育てていくことが大切です。”とあります。またもやエホバ=友達です。JWの神は安っぽいものですね。」
「英文ではour best Friend, Jehovah(最良の友、エホバ)とあるけれど、“最良の友”は省略しているね。翻訳者は、お金に困っても1円も貸してくれないのに、常に寄付を要求する人を最良の友とは決して言わないことぐらいの常識があるのだろう。」
「細かい規則を作り、それに従わなければ殺すと脅す人も最良の友とは呼びません。」
「旧約聖書の神は極悪非道の最悪のキャラクターと呼ばれているので、少しでもイメージアップを目指してour best Friend, Jehovahという宣伝工作をしているのだろう。」
「2節に“この記事では,エホバに近づくためにはどうしたらいいか,そうするとどんな良いことがあるかについて考えます。”とあります。JWを見れば、エホバに近づくとろくなことはないことがすぐわかります。エホバだけは避けましょう。」
「JWの家庭に生まれた人でそのままJWになる人は3人に1人という調査がアメリカであった。定着率が極めて低い宗教だけれど、それはJWにとどまっても損ばかりで、何もいいことがないからでしょう。」
「5から7節は“「神に近づく」と幸せになれる”です。 でもJWという組織に近づくと不幸になります。5節に“エホバに近づけば近づくほど私たちは幸せになれます。(詩 65:4)”とありますが、引照聖句はそんなことは言っていません。」
「そこには“幸せです,あなたに選ばれて近くに招かれ,あなたの庭に住む人は。”とある。ここで直接言っているのは神殿で奉仕する祭司のこと。今のJWとは何の関係もない。この聖句以外に、神に近づけば幸せになれるという主張の根拠となりそうなものはなかったのだろうね。」
「5節で挙げられている幸せになれる理由というのが“例えば,聖書に書かれているエホバのアドバイスの通りにすれば,賢くなり良い判断ができます。”というものです。説得力ありませんね。」
「具体的にどんなアドバイスか教えて欲しい。具体性がないから説得力ゼロ。」
「格言21:14に“ひそかな贈り物は怒りをなだめ,秘密の賄賂はすさまじい怒りをなだめる。”とあります。これなんかよい判断ですか?」
「長老や巡回監督にわいろを渡すのはよいけれど、公務員にわいろを渡すと捕まるよ。聖書のアドバイスは現代では適用できないものが多い。」
「格言13:24の“むちを控える人は子供を憎んでいる。子供を愛する人は懲らしめを怠らない。”に従うのは、良い判断ですか?児童虐待ですよね。」
「暴力的で体罰推奨の聖書のアドバイスに従っていると捕まってしまう。正しくは“むち”ではなく“杖”。JW英語訳ではrodになっている。古代の羊飼いはムチなんか使わない。杖と訳すると、木刀で子ども殴り殺す日本人JWが現れることを心配して、ムチに変えたのだろう。」
「6,7節が詩編73の話です。詩編73は最近よく取り上げられます。詩編73の作者は悪が栄えていることで落ち込んでいるのですが、7節で“でも,この人はいつまでも落ち込んだままではいませんでした。「神の偉大な聖なる所に入[って]」エホバに考えを正してもらいました。(詩 73:17-19)”とあります。引照聖句には“神の偉大な聖なる所に入るまでは。そして悪人の将来を知った。”とあるだけです。エホバは出てきません。」
「ここで使われている動詞は、神から啓示を受けたというものではなく、単に理解した、知った、という意味。聖なる所に入って、忘れていたことを思い出した、悪は裁かれることを、といった意味。」
「7節で“私たちが落ち込む時,親友であるエホバはそれに気付いています。エホバにアドバイスを求めて祈るなら,聖書や会衆を通して助けてくれます。”とあります。ここではエホバ=親友となっています。」
「英文ではJehovah, our best Friend(エホバ、最良の友)となっているよ。最良の友であるエホバは、自分では何もしないで、会衆を通して助けてくれるだけのようだね。でも会衆を通して助けるなんて、聖書のどこにも書いていない。」
「8から11節は“「神に近づく」と生きる意味が分かり,希望を持てる”です。 9節で“神を信じていない多くの人は,人が何のために生きているかを知りません。”と、根拠もなく断定しています。人類の大多数は現在でも神のようなものを信じていますよ。無神論者は少数です。」
「わら人形論法というやつだね。架空の攻撃しやすい敵を設定し、それを攻撃することにより、自分が正しいかのように見せかけるというJW得意の論法。JW以外は邪悪で、人生に目的もなく、金銭に目がくらみ、快楽にふけっているだけの人間と断定し、それに比べてJWは道徳的で、幸福です、とJWはよく主張する。」
「9節では“人間はエホバに仕えるとき,幸せになれるように造られています。それで,エホバとの友情を築くことは本当の幸せにつながります。(申 10:12,13)”とあります。引照聖句はそんなことを言っていません。そもそも旧約聖書にエホバとの友情を築くという思想はありません。」
「英文ではEven today, we live happier lives because・・・(今日でも、より幸福な生活を送っています。なぜなら・・・)となっていて、“本当の幸せにつながります。”じゃないよ。翻訳者はJWの大多数は少しも幸福じゃないことを知っているので、より妥当な表現に改変したのだろう。」
「人間はエホバに仕えると、脳の中の幸せスイッチがオンになるようにデザインされていると本気で思っているのでしょうか?」
「思っていないよ。それ以外にエホバに仕えると幸せになる理由が思いつかなかっただけ。」
「10節では“多くの人は今の生活に追われています。働き,結婚し,子供を育て,老後の蓄えをしています。”とあります。これはJWでない人を非難していますよ。でも、この何がいけないのですか?老後のたくわえのないJWより、よっぽどましですよ。」
「多くのJWは今の生活に終われています。奉仕、集会、低賃金の労働、結婚もせず、子どももなく、老後のたくわえもありません、となぜ書かないのか不思議だね。」
「しかも訳がヘンですよ。」
「For many, their hope is limited to this life・・・(多くの人は・・・という今の人生での希望しか持っていません。)とある。それなのに、“今の生活に追われています。”と訳している。翻訳者は英文の意味が分からなかったのだろう。」
「それに対して、JWは楽園での永遠に生きるという希望を持っているから幸せだと言いたいわけですね。説得力ないです。」
「現世でも来世でも幸せに過ごせるという宗教の方が幸せでしょう。JWは今は不幸でも将来幸せになるから、自分たちは幸せだと無理に思い込もうとしているようで、気の毒だ。」
「12から15節が“これからも「神に近づく」には”です。 13節に3つのことが出ています。“(1)これからも聖書を読んで学び続けます。・・・(2)エホバがどれほど自分のことを愛してくれているかをじっくり考え,信仰を強めます。(3)エホバが嫌うことを嫌い,そういうことをする人たちと親しくならないようにします。”の3つです。要するにJWの奉仕や集会を熱心に行い、JWの規則に従い、排斥者をきちんと無視しなさいということですね。」
「そうすると、エホバではなく、JWが神のように崇める統治体に近づけるわけだね。」
「14節には“コリント第一 10:31を読む。”とあります。そこには“それで,食べるにしても,飲むにしても,ほかのどんなことをするにしても,全てのことを神の栄光のためにしましょう。”とあり、これを受けて、“健康な生活習慣を心掛け,食べ過ぎたり飲み過ぎたりしないようにします。”とあります。パウロは健康についてのアドバイスをしたわけですか。」
「コリント一10章は、偶像にささげられた食べ物を食べてよいか、という問題を論じているところ。健康問題とは関係ない。」
「不健康な生活をしているJWが多いということで、こんな記事を書いたのでしょうね。それを聖書と関連させるからヘンな文章になるのです。」
「統治体の老人を見ると病気を抱えているようだったり、太りすぎの人が多いよ。まず統治体から健康的な生活習慣始めるべき。太った人は排斥にするという規則を作ったらいいかも。」
「健康的な食生活にはお金がかかります。貧乏なJWは安いインスタント食品ばかり食べるなど栄養面で問題のある生活をせざるを得ません。そういう人はどうすればいいのですか?」
「早死にする前に、楽園が来ることを期待するしかないね。」
「15節では“それで私たちは,エホバについて知らない人たちのことを見下げるようなことはしません。(テモ二 2:23-25)”とあります。これって引照聖句とあっていません。そこには“愚かで無意味な議論を避けなさい。”と言っているだけです。」
「訳に問題がある。we do not look down on others simply because they do not share our beliefs.(自分たちと同じ信仰を持っていないというだけで他の人を見下しだりはしません。)とある。聖書やJWについてJWと異なる意見を持っている人のことを言っている。今のJWは聖書やJWの教義について突っこまれたら、何も言えない人が多いでしょう。だから、そういう人から逃げることを勧めているんだよ。」
「これはJWだけが正しい、JWだけが救われる、とJWは独善的で排他的な主張をしているという非難に対して、そんなことはありませんと弁明できるように、あらかじめ防御線を張っておこうというものですよ。」
「組織は今や衰退期で、以前のように周りに攻撃的にふるまうのは諦めて、いかに周りの非難から自分たちを守るかに頭を使っている。」
「16から17節が“がっかりすることがあっても「神に近づく」”です。 16節で“もしかすると,自分にはエホバに愛される価値がない,と思うことがあるかもしれません。”とあります。組織から離れて精神的に病んでいるJW向けですね。再び詩編73が取り上げられます。17節で“私たちも自分の弱さを痛感したりがっかりしたりする時は,岩のように頼れるエホバに目を向けましょう。(詩 73:26; 94:18)”とあります。要するに、組織に戻ってこい、ということですね。」
「引照聖句の詩編73:26に“神は私の心の岩,永遠に私の全て。”とあるけれど、“私の全て”はないだろう。“私の受くべき分”だよ。神は必要な物を与えてくれる存在という意味。これだとわかりにくいからといって“私の全て”に変えたらダメだよ。気楽に聖書を改ざんしているね。」
「詩編16:5に“エホバが私の全て。良いものを与えてくださり,私の財産を守ってくださる。”とありますが、これも“私の全て”ではないですね。“私の受くべき分”ですね。」
「この訳はひどいね。JW英語訳ではJehovah is my portion, my allotted share, and my cup. You safeguard my inheritanceだよ。意味が分からなかったので勝手に変えたのだろう。協会共同訳では“主はわが受くべき分、わが杯。/あなたこそ、私のくじを決める方。”となっている。こちらの方が原文に忠実。」
「17節には“気持ちがふさいで,もう駄目だと感じる時こそ,エホバに近づいてください。(詩 103:13,14)”とあるのですが、この記事の最後にある注には“憂鬱な気持ちや不安や悲しみが長引く場合には,専門家に相談するとよいかもしれません。”とあります。これも珍しいです。新しい光ですか?エホバに祈れば何でも解決すると思っていました。」
「アリバイ的な文章。JWは信者が精神科に行くのを妨害すると思われているから、もしそんなことを言う人がいたらこの文章を見せて、私たちはどの医療を受けるべきとか受けるべきではないといった指示はしていません、というわけだね。組織の防衛術。」
「18,19節は“「神に近づく」ことに終わりはない”です。 組織ために働くことには終わりがないという意味ですね。多くの信者はますます落ち込みます。」
「JWは終末論カルトなのだから、間もなく終わりが来ます、と景気よく書かないと信者は元気が出ないよ。」
- ジョエル
- 2025年06月14日 17:19:26
「造ったから崇拝するのは当然」
造られた存在である=目的がある、希望がある
造られた存在ではない=目的がない、希望もない
J2として洗脳されるとこのような公式というか演繹前提を勝手に刷り込まれますが、どこから湧いて出てきたんでしょうか。しかもなぜか造った存在を崇拝して無条件に服従までしなければならないおまけつきで、さらにJWは造った存在の代理人だと言っているだけの方々への絶対服従です。
エウレカセブンの受肉したデューイは自分が「創造された存在」であることに絶望して、創造主を消し去ることで自身の尊厳を守ることに存在理由を見出してるぽいです。
「造られた存在である」ほど恐ろしく絶望的なものはない、という公式があったらどう反論するんでしょうか。思うか思わないかの話でどっちも証明しようがなさそうですが。
- 聖書についての質問
- 2025年06月13日 14:23:05
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“誰に仕えるかを……自分で選びなさい(14)”で、組織に死ぬまで仕えなさい、というよくある内容です。」
「大多数のJWは2世、3世でしょう。JWの家庭に生まれたからJWになったわけで、自分で選んだとは言えない。にもかかわらず、JWを選んだことになっているのかな?気の毒。」
「JW1世の人でも精神的に弱っていた時や生活上の悩みに苦しんでいた時に、作り笑いで近づいてきたJWの話をついつい聞いてしまって、それから抜けられなくなり、気づいてみたら兄弟姉妹と呼ばれるようになってしまったという人が多いと思いますよ。」
「インターネットのない時代ではJWについて十分な情報を知ることなく、JWの都合の良いプロパガンダだけを与えられてJWになったわけで、自分で選んだといえるかどうか微妙だね。」
「1節に“優しい天のお父さんエホバは,私たちのことをとても愛していて,今も将来も幸せに生きてほしいと願っています。(伝 3:12,13)”とありますが、英文ではenjoy life now and in the future(今も将来も人生を楽しむ)です。”幸せに生きる”とは違いますよ。」
「翻訳者は、JWは今は人生を楽しむことなく組織の奴隷として生きる、楽しむのは楽園で、と信じているので、そう変えたのだろう。」
「引照聖句には“人は皆,食べ,飲み,一生懸命働いて充実感を得るとよい。”とありますが、JWの場合は、飲まず食わずで、一生充実感ゼロのJW活動をするという生き方です。この聖句に従っていません。」
「伝道の書の主張は旧約では例外的なもの。旧約の勧める生き方の基本は律法を遵守しなさい、というもの。そうすれば幸せになれると主張されている。JWも律法主義者なので、旧約とは相性がいいけれど、伝道の書とは相いれない。伝道8:14に“地上でむなしいことが起きている。正しい人が,悪を行ったかのように扱われ,悪人が,正しいことを行ったかのように扱われている。”とある。行動の善悪とその結果には何の関係もない、というのが伝道の書の思想。」
「伝道の書8:9が引照聖句となっています。“私はこの全てを見た。地上で行われた全てについて真剣に考えた。これまでずっと,人は人を支配し,人に害を及ぼしてきた。”とあるのですが、訳がヘンです。」
「協会共同訳では” 今は、人が人を支配し、災いを招く時代である。”となっている。この聖句は人類のすべての歴史を言っているのか、作者の生きている時代のことを言っているのかという問題だ。もちろんJW訳が間違っている。伝道の書の作者は自分の観察に基づいて語るという姿勢の人。普遍的な法則のようなものを言う人ではない。JW訳はJWの教義に合わせた訳だから、原文とは違う。」
「JWは律法主義者なので、1節に“人間が本当に幸せになるには,エホバに仕え,エホバが決めた基準に沿って生きていくことが必要です。”とあるわけですね。」
「JWのよく変わる規則を神の定めた律法と信じて、それを守り続けて行けば“本当に幸せになる”というのが、組織の主張だけど、誰もまじめに受け取らないでしょう。」
「昨年、奉仕時間を報告しなくてよくなったり、髭を生やしてよくなったり、女性はスカートでなくてもよくなったりと長年続いたエホバの基準が変わりました。この変更の前と後ではどっちが本当に幸せなのでしょうか?」
「基準が変わっても、JWでありつづければ、不幸だ。」
「2節に“サタンは人間に,エホバがいなくても幸せになれる,自分のしたいように生きていけばいい,と信じ込ませようとしています。(創 3:4,5)”とあります。引照聖句はそんなことは言っていません。JWの創作です。」
「そのあとに“エホバはサタンのその主張が間違っていることを証明するため,人間が一定期間,自分たちを治めることを許してきました。”とあるけれど、聖句がないことからわかるように、これもJWの創作。“一定期間”とあるけれど、6000年以上たったよ。」
「エデンの園の話を事実を考えて、それをもとに最重要の教義を作っている時点でJWはダメですよ。」
「エデンの話を真実と思っているのはJWみたいなキリスト教原理主義者だけ。そもそも人類は6000年ほど前に始まったわけじゃないよ。」
「3から5節が“イエスがエホバに仕えることを選んだのはどうしてか”です。 マタイ4章にある悪魔からの誘惑の話です。3節に“イエスがエホバに仕えることを決意していたのはどうしてでしょうか。理由を幾つか考えてみましょう。”とあり、4節には“エホバを愛していたからです。”、“エホバに仕えるのは正しいことだと分かっていました。”とあります。5節には“ほかの理由もあります。イエスは自分がエホバに忠誠を尽くすならどんな良い結果になるかを見つめていました。”とあります。聖書にはそんなことは書かれていません。」
「誘惑を拒否したイエスは、その理由として“○○と書いてあるのです。”と言っているだけ。後の節で、愛、正しい、よい結果の3つをエホバに仕える理由として使うための伏線にすぎない。」
「6から9節が“エホバを崇拝するのが当然といえるのはどうしてか”です。 7節に“エホバは「1人の人から全ての国の人を造っ[た]」創造者です。それで,エホバを崇拝するのは当然のことといえます。(使徒 17:25,26,28)”とあります。いつものように、引照聖句はエホバを崇拝するのは当然だとは言っていません。」
「引照聖句はパウロがアテネで伝道したときの話。神は“人が造った神殿などには住まず, 人間に世話してもらう必要もありません。・・・神のことを金や銀や石のように,人間が考え出して作った彫刻のように考えるべきではありません。”とパウロは言っている。その後復活の話をして、アテネの人からあざ笑われてしまい、アテネの伝道はうまくいかなかったという結末。」
「造ったから崇拝されるのは当然だという理屈は説得力がありません。家を作った人はその家の住人から崇拝されるのは当然ですか?誰もそうは思いません。」
「神を崇拝するのが当然だという理由がほかに思いつかなかったというだけでしょう。“造ること=造ったものを永遠に支配する”という公式があるかのようだね。」
「8節に“エホバは1人でも多くの人に永遠に生きて,自分との友情を楽しんでほしいと思っています。(テモ一 2:3,4)”とあります。引照聖句には友情なんて出てきません。神との友情なんて言っているのはJWだけですよ。」
「引照聖句には“神は,あらゆる人が救われて,真理の正確な知識を得ることを望んでいます。”とあるけれど、訳がおかしいね。“真理の正確な知識を得る”ではなく、“真理を知る”だよ。原文には“正確な”に相当する語はない。協会共同訳では“真理を認識する”となっている。」
「これは、聖書を知るだけでは不十分です、聖書のここに正確な知識を得ることの重要性が書かれていますよね、正確な知識はエホバの出版物でしか得られません、と宣伝するための改ざんですね。」
「信者の新規獲得こそがJWの主な仕事だからね。それに合わせて聖書も変えた。」
「8節に“そのためにエホバは私たちをトレーニングし,・・・”とあるのですが、イライラする文章です。エホバじゃなくて組織ですよ。ウソをついています。」
「エホバというのは組織あるいは統治体の隠れ蓑でしょう。統治体が命じていると言うかわりに、エホバが・・・とごまかすわけだね。エホバはサタンの次に便利なキャラクターだ。」
「9節ではエホバが全ての人を愛していると言っています。その根拠は“エホバはそのような人たちにも必要なものを与えるだけでなく,生活を楽しめるようにもしてきました。”ということのようです。これは事実に反しますね。十分な食料や水を得られない人は現代でもたくさんいますよ。」
「その理屈だと、国民に生活に必要なものや娯楽を供給しているなら、残忍な独裁者も国民を愛しているということになるね。」
「10から16節が“私たちがエホバに仕えたいと思うのはどうしてか”です。 そうしないと周りからいじめられるからとか、ハルマゲドンで滅ぼされると脅かされるからということは書かれていません。10節では“私たちもイエスのようにエホバを心から愛しています。それがエホバに仕える一番の理由です。”とあります。これが模範解答のようです。11節では、それが正しいことで良い結果をもたらすと書かれています。」
「愛、正しさ、よい結果。これが組織が認めるエホバに仕える理由なんだね。」
「12、13節がジェーンとパムの体験談です。12節でジェーンは“エホバの証人から聖書を学んでいて本当に良かったです。学校の子たちはドラッグを使ったり,不道徳なことをしたりしていましたが,私はそういう同調圧力に負けずに済みました。”と言っています。JWの子どもが通う学校はスラム街の犯罪地区にある学校と決まっているようです。」
「これも定型文だね。JWの体験談では、JW以外の子どもはセックスと麻薬に夢中ということになっている。」
「13節には“数年後,2人は伝道者になり,その後開拓奉仕を始めました。高齢になった親の世話をしながら開拓奉仕を続けました。”とあります。これも定型文です。」
「“高齢になった親の世話をしながら”というのが新しいよ。高齢の親などはかまわず、必要性の高いところで開拓奉仕するというのがJWの生き方だったはず。それに対する非難を気にしているのかも。」
「13節で、ジェーンは“エホバが親身になって支えてくださることを実感しました。”といっているのですが、英文ではI learned firsthand that Jehovah faithfully cares for his friends(エホバはご自分の友を誠実に気遣っておられることをじかに学びました)です。”友”を省略しています。」
「エホバ=信者の友達というJWの教えに翻訳者は違和感をおぼえたのだろう。まだ十分洗脳されていないようだ。」
「14節には“サタンとサタンにいいように使われている人たちも,エホバについてのうそを広めてエホバの評判を傷つけています。それで私たちはエホバのために声を上げ,エホバについて本当のことをみんなに知らせたいと思います。”とあります。サタンの手先に敢然と立ち向かうようですが、そんなJWは滅多にいません。大抵は沈黙しています。」
「JWに反対する人はサタンの手先というわけだけど、カルト的でいいね。JWが関わる児童性的虐待の裁判では自分たちの正当性を主張しないで、和解交渉を選ぶことが多い。なぜエホバのために徹底的に戦わないのかな?」
「15節では“私たちはいつもエホバに喜んでもらえるような生き方をしたいと思っています。”とありますが、英文ではWe willingly adjust our goals in life(人生の目標を喜んで調整します)ですよ。これもカルト色を薄めようということですか?」
「表現はどうであれ、組織は信者が進学もせず、定職にもつかず、組織の奴隷として無給で働き続けることを望んでいるので、そうしなさいということだね。」
「15節ではパウロについて“当時の社会での高い地位を喜んで手放し,キリストの弟子としてエホバに仕えることを選びました。(ガラ 1:14)”とありますが、パウロは高い地位についていましたか?引照聖句もそんなことは言っていません。」
「英文ではprominence in his communityとあるので、地域社会での名声という意味。」
「パウロの例だけなのはズルいです。JWお気に入りのダビデはどうですか?王をやめたりしていませんよ。ソロモンはどうですか?エホバに仕えるのに高い地位を喜んで手放したりしていません。」
「一つの例は一つの例にすぎない。組織の都合で恣意的に選んできた聖書の人物の話を全ての人が見倣うべきものと利用するのがJWのやり方というだけ。」
「16節がジュリアの体験談です。これもよくある話です。ジュリアは“音楽を学ぶために名の知れた学校”に通っていたのですがJWに出会い、“やがてジュリアは音楽の世界でキャリアを積むのではなく,エホバのために自分の人生を捧げることを決意しました。”とあります。ジュリアは“全然後悔していません。そしてエホバが将来,私の心の願いを全てかなえてくれることを楽しみにしています。”といっています。」
「有名なプロの歌手ではなく学生でしょう。プロになれるのはごく少数だからね。でもJWになったのは最悪の選択。ジュリアの将来は集会で、大声で歌う歌自慢の孤独な老婆じゃないの?」
「17から20節が“これからもエホバに仕え続ける”です。 まず終末論をあおります。17節には“今の世界の終わりが近づいています。使徒パウロはこう書いています。「あと『ほんのしばらく』すれば,『来ることになっている方は到着します。遅れることはありません』」。(ヘブ 10:37)”とあります。ヘブライ書が書かれてから2000年近くたっています。」
「英文ではWe live in urgent times.で、緊急の時代と言っている。翻訳者は緊急性なんかないと思ってのんびり暮らしているので当たり障りのない言い方に変えたのだろう。」
「19節で“エホバに仕えるなら人生を楽しめなくなると思う人もいます。”とあります。それはそうです。集会や奉仕に追われ、つまらない規則に縛られ、絶えず批判的な信者に監視されて楽しみなんか全くありませんよ。」
「英文ではserving Jehovah involves too much sacrifice.で、エホバに仕えるには犠牲が多すぎる、とあるのに、だいぶやわらげた訳にしているのが笑えるね。JWという人生はどんな犠牲を払おうとも、それをはるかに上回る素晴らしい人生です、と書いて欲しかったね。」
「19節にはジーンの話が出ています。“裏で悪いことをするようになりました。最初は楽しかったですが,だんだん気持ちは冷めていきました。”とあります。これもよくある定型文です。結局“エホバに心から仕えようと決めました。エホバとの距離がぐっと縮まって,自分の祈りに全部答えてくれているように感じています。”とあります。メデタイ話ですが、“祈りに全部答えてくれているように感じています。”はあいまい過ぎます。“祈りに全部答えてくれました。”となぜ書かないのか不思議です。」
「真の幸せは組織の奴隷として生きるこという話ね。説得力ゼロだね。正常な精神状態なのか心配だ。」
「最後の20節で“次のように言ったヨシュアと同じ決意を持つようにしましょう。「私と私の家の者はエホバに仕えます」。(ヨシュ 24:15)”とあります。ここまで真面目に読んできた信者はエホバ=組織という公式ができていますから、組織のために一生捧げるぞ、と気持ちを新たにするだろうという計算ですね。」
「こんな記事を真面目に読んでいる信者なんかいないよ。」
- 匿名
- 2025年06月08日 15:40:13
御回答 ありがとうございます
- AIの回答
- 2025年06月08日 08:51:26
#1578さんの質問にGoogle AI Studioに答えてもらいましょう。
============
はい、エホバの証人が大学に行くことはできます。
ただし、これを理解するにはいくつかの重要な背景を知る必要があります。単純な「はい/いいえ」で答えられる問題ではなく、組織の教えと個人の選択が複雑に絡み合っています。
結論から言うと、**「公式に禁止されてはいないが、組織としては強く推奨しておらず、大学進学には多くの霊的な危険が伴うと教えている」**というのが最も正確な答えになります。
以下に詳しく解説します。
ものみの塔組織の公式な見解と指導
エホバの証人の指導部(統治体)は、大学進学(特に4年制大学)に対して、長年一貫して否定的な見解を示してきました。その理由は主に以下の点です。
1.霊的な危険
悪い交わり: 大学は、エホバの証人の信条や道徳観とは異なる考えを持つ人々との密接な交わりを増やす場所だと見なされます。
世俗的な哲学: 進化論、人間主義、唯物論、批判的思考といった「世の知恵」に触れることで、聖書に基づく信仰が揺らぐ危険があると考えられています。
不道徳な環境: 大学のキャンパスは、性的不道徳、薬物乱用、過度の飲酒などが蔓延する場所として警告されます。
2.時間の使い方
エホバの証人は、現在の「終わりの日」において最も重要な活動は「伝道活動」であると信じています。
大学での勉強や課題、サークル活動に多くの時間を費やすことは、集会、奉仕、個人研究といった霊的な活動の時間を奪うと教えられます。
3.物質主義への懸念
高等教育の主な目的は、高い地位や収入を得るためであると見なされることが多く、これは物質主義的な考え方につながり、霊的な目標から目をそらす危険があるとされています。
近年の変化とニュアンス
かつては大学進学がほぼタブー視されていた時代もありましたが、近年ではその語調に若干の変化が見られます。
・生活のための技術: 現代社会では高校卒業だけでは生計を立てるのが難しい場合があることを組織も認識しています。そのため、生活を支えるための実用的な技術を身につけるための短期大学や専門学校、技術学校など、限定的な高等教育は容認される傾向にあります。
・目的の重要性: 大切なのは「なぜ高等教育を受けるのか」という動機です。自己実現や富のためではなく、「家族を養い、開拓者(全時間奉仕者)として自分を支えるため」といった霊的な目的がある場合は、比較的理解されやすいかもしれません。
大学に進学した場合に起こりうること
大学進学は、血液の問題や喫煙のように**「排斥」の対象となるような罪ではありません**。しかし、進学を選択した信者は、会衆内で以下のような経験をする可能性があります。
・「霊的に弱い」と見なされる: 周囲の信者や長老から、霊的な事柄よりも世俗的な成功を優先していると見なされることがあります。
・「特権」を失う: 会衆内で与えられる奉仕の割り当て(マイク係、朗読、注解など)や、開拓者、長老、奉仕の僕といった立場に就くことが難しくなる場合があります。
・長老からの「助言」: 心配した長老たちが家庭訪問し、大学進学の危険性について話し合うことがあります。これは善意からですが、本人にとっては大きなプレッシャーとなります。
まとめ
・ルール上の禁止ではない: 大学に行ったからといって、自動的にエホバの証人でなくなるわけではありません。
・強いプレッシャーがある: 組織の出版物や集会では、大学進学のデメリットが繰り返し強調されるため、信者は進学を思いとどまるよう強い心理的圧力を感じます。
・個人の選択だが、結果が伴う: 最終的な決定は個人とその家族に委ねられますが、その選択は会衆内での立場や人間関係に影響を与える可能性があります。
そのため、エホバの証人の若者の多くは、大学進学の代わりに、高校卒業後にすぐに全時間奉仕(開拓奉仕)を始めたり、生活のために職業技術を身につける専門学校などを選んだりする傾向があります。
============
- 匿名
- 2025年06月07日 20:15:10
昔は大学教育を否定していたと聞きましたが本当でしょうか?16節に「親が聖書をよく調べ 子供がどんな教育を受けるか賢く選択できるようにサポートしてあげましょう」
とあります 子どもが大学教育を選択するのも可能という事ですね 噂では昔は大学教育を受けること自体 白い目で見られたと聞きましたが。180度変わったということですか?
- 聖書についての質問
- 2025年06月06日 14:24:37
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバの手はあなたのところにも届きます(13)”で、エホバを信じて貧乏に耐えろ、という内容です。」
「JWの大好きな旧約聖書の話を取り上げ、それを現代のJWに無理やり適用し、後は真偽不明の体験談を付け加え、エホバは○○です、と能天気なことを言って終わり、というよくあるタイプの記事だね。」
「でも多少は現実的になっています。13節では“できるなら将来のために貯金をしておくのも賢明なことです。”とあります。本当に今は終わりの終わりなら、将来のための貯金なんかいりませんよ。」
「終末カルトのJWも自信を失っているね。こんな宗教は直ちにやめて、真面目に働いて老後に備えよう、ということだね。」
「2節に“でも,エホバはモーセにこう言います。「それはエホバにできないことだろうか」。(民数記 11:21-23と23節の脚注を読む。)この表現は,元のヘブライ語では「エホバの手はそんなに短いのだろうか」とも訳せ ます。”とあります。これはへんですね。」
「英語訳ではIs the hand of Jehovah too short?で、エホバの手は短すぎるのかとあるよ。ヘブライ語なんか持ち出しているのは、英文を忠実に訳していなことをごまかすため。」
「日本語訳は小学4年生にもわかるように、改変していますからね。英語訳とは相当ずれた訳が多いですよ。」
「適当に訳した聖句がものみの塔の記事で使われると、記事の内容とつじつまを合わせるために余計な文を入れたり、不都合な文を削除したりするよね。聖書より重要なものみの塔の記事でも改変している。」
「そのあとに“「エホバの手」とは,聖なる力,つまりエホバが望むことを行うために使う力のことです。”とありますが、英文ではGod’s holy spirit(神の聖霊)です。」
「聖霊はおかしい。聖霊という思想は旧約聖書にはない。エホバの手は短すぎるのか?ということは、単にエホバにはできないことなのか?という意味の慣用句に過ぎない。」
「4から9節が“モーセとイスラエル人が経験したこと”です。 出エジプト後、荒野をさまよっているときの食糧問題を取り上げています。4節で“荒野でマナを食べることに飽き飽きした外国人は文句を言い始め,イスラエル人もそれに加わります。(民 11:4-6)”とあります。引照聖句には“民の中にいたさまざまな外国人が利己的な願望を口にし”とありますが、“利己的な願望”はヘンですよ。異民族差別が露骨すぎます。」
「協会共同訳では“民の一部の輩が飢えと渇きを覚え”となっている。これは旧約聖書の異民族差別的なところを弱めようという訳だね。それに対して、JWは差別に鈍感なので、JW訳は原文以上に異民族差別をしている。」
「5節では“イスラエル人は,エホバへの感謝の気持ちが欠けた外国人から影響を受けてしまったようです。私たちにも同じようなことが起こり得ます。周りには感謝の気持ちが足りない人が多いので,・・・”とあります。JW以外の人を差別し侮辱しています。」
「英文ではそんなことを言っていないよ。We too could be influenced by the ungrateful spirit of others(私たちも他の人の感謝のかけた気持ちに影響を受けることがあるかもしれません。)と言っているだけ。それを日本語翻訳者が下品な差別的な文に変えた。」
「翻訳者は単にcould beという表現の意味を知らないだけかも。Couldを単にcanの過去形と思っているだけです。それで“起こり得ます。”と訳しているのですよ。」
「Could beは「そうかも」「たぶん」「おそらく」など、ハッキリ断定できないときに使われる表現なんだけどね。」
「6節には“私たちも今の体制で手に入らないものにではなく,新しい世界で与えるとエホバが約束しているものに気持ちを向けるようにしましょう。”とあります。JWは未来の贅沢を想像して今の貧困に耐えろということですね。」
「新しい世でエホバが与えると約束しているものというと、具体的になんなの?ものみの塔に出てくる楽園の想像図からは果物が豊富にある18世紀程度の技術レベルの社会としかわからない。電気はないようだから、近代的な生産設備はなく、当然パソコンも携帯電話もない。今以上に物のない世界だよ。」
「8節は民数記11章のエホバがウズラを与えた話を取り上げます。“エホバは「利己的な渇望を示した人々」に対して激怒し,処罰しました。(民 11:31-34)”とありますが、引照聖句には“処罰しました”とは書いていません。“民に対してエホバの怒りが燃え,エホバは民を打ち始め,非常に大勢の人を滅ぼした。”とあります。怒りのあまり、エホバの大好きな大虐殺をやらかした、というだけです。」
「処罰なら、違反行為のある人を罰し、そうでない人は罰しない。文句を言ったことがそれに該当するなら、文句を言った人だけを処罰すべきだけど、そうは書いていない。それから処罰は違反行為の程度によって変えられるべきもの。些細な違反には小さな罰、大きな違反には大きな罰というのが通常の正義の原則。ところが旧約聖書の神は文句を言った程度のことでいきなり死刑にしてしまう。頭のおかしい残忍な独裁者にしか見えないね。」
「9節は現代のJWについてです。“お金や物を失ったり,ひもじい思いをしたりすることは絶対にないのでしょうか。そうではありません。たとえそういう経験をするとしても,エホバが私たちを見捨てることは決してありません。大変なときも必ず支えてくれます。”とあります。何を言っているかよくわかりません。こんなあいまいなことでは人生設計できません。」
「お金が無くなり、食べ物もなくなることはあるけれど、支えてくれるらしい。どうやって支えるのか、どの程度支えてくれるのかは誰も知らない。神のみぞ知る。」
「10から12節が“生活が苦しいとき”です。 ここから具体的な困難を取り上げます。10節では“この世界が終わりに近づくにつれ,経済事情は悪くなっていくはずです。”とデタラメを言っています。100年前と比べれば、多くの国では人々は豊かで健康になっています。」
「経済事情が悪くなっているのはJWだね。組織の言いなりの人生を送っていることが原因。それなのに経済的困難をこの世が終わり日に近づいているせいにしているだけ。」
「11節が対処法です。“まずできるのは,不安な気持ちをエホバに伝えることです。(格 16:3)”とありますが、訳をだいぶ変えています。要するに祈ればよいということですね。」
「英文ではA primary and effective step is to take your concerns to Jehovah.(最も大切で効果的なことは心配事をエホバに伝えることです)だね。そんなことが最も大切で効果的なこととは思えなかった翻訳者が“まずできるのは”と当たり障りのない表現に変えたね。」
「12節では、良い仕事えようとして家族が離れ離れになるのはダメといっています。大きなお世話ですよ。生活の面倒を見ない組織が個人の生活の仕方にあれこれ口を出すのはやめて欲しいです。実例が出ていて“西アジアに住むトニーは,外国での仕事の話を幾つか持ち掛けられました。でもエホバに祈り,妻とも話し合った後,その打診を断り,節約を心掛けました。”とあります。こうして貧困から抜け出すチャンスを失うわけです。」
「日本にはあまりないかもしれないけれど、欧米にはアジアやアフリカから出稼ぎにきたJWがけっこういる会衆もある。そういう人は12節を読んで、信者の寄付で安楽に生活している奴に何がわかるんだ!俺たちの苦労を知っているのか!と怒鳴って、JWをやめて欲しいね。」
「13から16節が“老後の暮らしが心配になるとき”です。 間もなく終わりが来るから老後の心配など無用です、若い人は老後を迎えることなど絶対にありません、と終末カルトらしく言って欲しかったのですが、そうは言っていません。かといって、老後に備えて貯金をしましょうとも言っていません。どっちつかずのあいまいなことを言っています。」
「13節には“聖書は,先のことも考えて一生懸命働くよう勧めています。(格 6:6-11)できるなら将来のために貯金をしておくのも賢明なことです。”とあるよ。これは終わりが間もなく来ると信じて、宗教道楽に励んだ結果、貧困に苦しむJWに、なんで先のこと考えて一生懸命働かなかったの?自業自得だね、と傷口に塩を塗っているようなもの。詐欺的で冷酷な宗教だ。」
「組織は今までは収入のよい仕事をやめ、開拓奉仕を始めた人を模範的な人とほめたたえてきました。その結果貧乏暮らしにあえいでいる人は組織に騙された!と怒っていいわけですね。」
「そういう人には引照聖句の“怠け者よ,アリの所へ行け。そのやり方を見て,賢くなれ。アリには司令官も,役人も,支配者もいないが, 夏の間に食物を用意し,収穫の時に食糧を集める。”を読んで、聖書にこう書かれているのを知らなかったのですか?と冷淡に言って、おしまいなのがJW。」
「14節はカルト的です。“イエス は自分の弟子になりたいなら,持ち物全てに「別れを告げ」なければいけない,とも言いました。(ルカ 14:33)”とあります。老後のための貯金を奪い取るつもりですよ。」
「引照聖句には“同じように,持ち物全てに別れを告げない人は誰も私の弟子になることができません。”とあるけれど、これってその前のたとえの結論部分だけれど、つながりが悪いんだよね。」
「その前は戦争の話です。勝てそうもないなら使節団を送って和平を求めますとあって、そのあとに、“同じように・・・”と続きます。全く同じではありません。」
「本当の結論部分は、同じようにキリストの弟子は戦うのではなく、神にゆだねます、というようなものだったと推測される。それがのちに今のようなものに変えられて、つながりが悪くなったと考えられている。」
「15節では“文化圏によっては,年を取ってから経済的にサポートしてもらうことを期待して子供を持つことにする人たちもいます。”と、子どもについてです。組織としては、“でもクリスチャンの親にとって一番うれしいのは,子供がエホバに仕えるようになることです。子供が老後の安心材料になることではありません。(ヨハ三 4)”というものです。子どもを頼りにするな、子どもは開拓者にでもさせろ、という指示です。」
「そんなこと言わなくても、JWの息子・娘は年老いたJWの親の面倒なんか見ないよ。まず組織を喜ばすことを考え、親のことは少しも気にかけないのが、模範的なJW。」
「それで排斥された、非JWの息子・娘が年老いたJWの親の面倒をみるというケースがよくあるわけですね。なぜエホバに任せないのか不思議です。」
「その場合、排斥された人なのに親も組織も文句は言わないようだね。エホバが面倒みるから、排斥された人は近寄らないでください、と言って欲しいね。」
「16節は子どもについてです。“一生懸命働くことの大切さを小さい時から教えましょう。(格 29:21。エフェソス 4:28を読む。)学校でしっかり勉強するようにも教えてください。”と、これまた終末カルトらしくないことを言っています。子どもには、学校を卒業する前にハルマゲドンが来るから、勉強などせずに伝道しましょうといったのが昔のJWですよ。終わりの日は遠くになりにけり、ですね。」
「勤労の美徳を説くなんてJWらしくない。最低限の労働、最大限のJW活動、というのがJWが言ってきたこと。JWの子どもはまじめに勉強しない、まじめに働かないという悪評が定着しつつあるのかな?」
「最後の17節では“エホバは腕を伸ばして,その力強い手で必ず支えてくれます。”とまとめています。本当にそうなら、こんな記事は必要ありません。」
「この記事にあったエホバが支えた事例は、古代イスラエルでウズラをくれたということだけだったね。しかもその後は大虐殺。エホバはろくに支えてくれません、というのが妥当な結論でしょう。」
「現代のJWの嘘くさい体験談もありませんでした。お腹を空かしていたら、会衆の人たちが行列を作ってご馳走をもってやって来たとか、仕事がなくて困って、エホバに祈ったら、今までの3倍の給料の仕事にありつけたとか、エホバが支えてくれた話の2つや3つがあってもよさそうなのに・・・。」
「その種の話はだまされやすいJWさえ、もはやまじめに受け取らなくなったことを、組織は知っているのだろう。」
- 聖書についての質問
- 2025年05月30日 14:45:17
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“信仰によって歩んでいますか(12)”で、これからも組織の言いなりの人生を歩みなさい、という内容です。」
「4節に“これから信仰によって歩むことが大切な3つの分野を考えてみましょう。仕事を選ぶとき,結婚相手を選ぶとき,神が責任を委ねている人たちからの指示を受けるときです。”とある。信者の人生を管理統制しようというわけだ。カルトらしいね。」
「JWには自分の人生を自分で決めることは許されないのですね。気の毒です。」
「一度も会ったことのないニューヨークにいる老人たちに自分の人生を決めてもらうなんて、カルト信者以外ありえない。」
「2節に“パウロは,自分と仲間の兄弟姉妹が「見えるものによってではなく信仰によって歩んでいる」と言いました。(コリ二 5:7)何を言おうとしていたのでしょうか。”と問いかけます。その答えは“信仰によって歩む人は,エホバを信頼して決定します。また,聖書に書かれているエホバのアドバイスに従えば,エホバが必ず支えてくれて良い結果になる,と信じています。”というものですが、パウロはそんなことを言っていません。」
「JW流の聖書の珍解釈がよくわかって、勉強になるよ。」
「コリント二5:6で“この体を住まいとしている間は主から離れていることを知っています。”とあります。その状態を5:7で“見えるものによってではなく信仰によって歩んでいるのです。”と言い換えたというのが文章の流れです。」
「今の状態がイエスから離れた状態だというと、今の状態はイエスから離れたダメな状態と誤解される。そこで、信仰によって歩んでいるものにとっては見えないけれどイエスは身近にいる、と補足した。そして5:8では“この体から離れて主のもとに住まいを持ちたいと思っています。”と将来のことを語るわけ。」
「JWでは144000人だけが天への希望を持つとさらなる珍解釈をしています。」
「もちろん、パウロはそんなことを言っていない。この144000人の教義も新しい光によって、いつかは捨てると思うよ。」
「3節で“信仰によって歩んでいくなら,将来いつまでも生きられるようになります。(コリント第二 4:18を読む。)”とありますが、引照聖句はそんなことを言っていません。そこには“私たちは,見えるものではなく見えないものに目を留めます。見えるものは一時的ですが,見えないものは永遠だからです。”とあるだけです。」
「見えるもの=一時的、見えないもの=永遠という関係を言っているだけだね。この場合、見えるものは今の世界のことで、見えないものは来るべき新しい世界のこと。したがって今の苦難は一時的だけれど、来るべき世界でのご褒美は永遠と、信者を励ましている。」
「5から9節が“仕事を選ぶとき”です。 信仰によって歩むと仕事も制約を受けるようです。6節に“信仰によって歩んでいるなら,仕事を選ぶとき,エホバとの絆にどう影響するかも考えます。”とあります。“その仕事をすると,エホバが嫌うことに関わることになるでしょうか。(格 6:16-19)エホバへの崇拝がおろそかになったり,家族と長い間離れ離れになったりするでしょうか。(フィリ 1:10)もしそうなら,その仕事には就かない方がいいでしょう。”と言っています。他に仕事がなかったらどうするのですか?組織は責任を取ってくれませんよ。」
「答えは6節にある。“たとえ仕事を見つけるのが大変だとしても,エホバが必ず養ってくれると信じて決定します。(マタ 6:33。ヘブライ 13:5を読む。)”とある。エホバが養ってくれることを前提に、職をえり好みしなさいということらしい。」
「読むように指定されているヘブライ13:5には“神はこう言っています。「私は決してあなたを離れず,決してあなたを見捨てない」。”とありますが、これは聖書のどこに書いてあるのですか?」
「このとおりに書かれている所はない。新約聖書の作者の旧約聖書からの引用は、ギリシャ語訳からだけど、極めていい加減なものなの。神はそんなこと言っていないよ。」
「7,8節はハビエル兄弟の話です。よくあるパターンの話で、給料の高い仕事があったけれど、それを断り、開拓者になったというものです。こうやって一人の信者の人生が破壊されていくわけです。」
「JWには給料の高い仕事と開拓者の2つの選択肢だけで、その他の選択肢はないのが不思議だ。」
「8節で“数カ月後にはパートの仕事が見つかりました。兄弟はこう言っています。「エホバは私の祈りを聞いて,開拓奉仕がしやすい仕事を与えてくれました。・・・”とあります。パートの仕事を見つけるのに数カ月かかったのですね。その間エホバが養ってくれたのか、それとも失業保険で暮らしていたのか知りたいです。」
「エホバが与えてくれた“開拓奉仕がしやすい仕事”が具体的に何か知りたいね。愛に満ちたエホバの御業をなぜ詳しく書かないのか不思議だ。」
「全知全能の神が与えてくれた仕事がパートの仕事とは・・・。短時間で高収入で安定して、福利厚生も充実している仕事を与える能力はないのですね。」
「エホバよりも、転職サイトの方が役に立つということだね。世界中で悲惨なことがたくさん起きても助けることはないのに、JWにパートの仕事をあっせんする神というのは理解できないね。」
「9節はトレゾール兄弟の話です。“兄弟は残業のせいで集会を休みがちになりました。会社では,不正を隠すようにとプレッシャーをかけられました。”とあります。そしてこの兄弟は仕事を辞めます。」
「たいていの会社はなぜかJWに不正を隠すように指示するね。JWはパート労働者じゃないの?不思議だな。」
「この兄弟は“雇い主はたいてい従業員に対して,良い給料を払っているんだから,家族や宗教などどんなものも犠牲にして働くのは当然だ,と考えます。”と言っていますが、偏見に満ちた発言です。この人は法律無視のブラック企業でしか働いたことがないのでしょう。」
「JWという宗教ゆえに職場で差別などの不当な扱いがあったとすると、組織はすぐに裁判に訴えるよ。訴訟好きの組織だからね。でもそんな裁判は聞いたことないな。」
「この兄弟の結論は“エホバとの絆を一番大切にしようとすると,お金の面で苦労することもありますが,エホバは必ず支えてくれます。”というものです。この兄弟がそうだったからと言って、様々な条件が違う他のJWがそうだということにはなりません。年齢が進むと、パートの仕事だってなかなか難しいですよ。」
「この結論を一個人の発言としているのがズルいね。組織は仕事を辞めて開拓奉仕をしなさいとか、仕事を辞めてもエホバが支えてくれるなんて言っていません、その種の発言があったとしたらそれは一個人の発言です、と何か問題があっても逃げられるようにしている。」
「10から12節が“結婚相手を選ぶとき”です。 JWは自由に結婚相手を決めることはできません。11節に具体的な話が出てきます。まず“例えば,聖書のアドバイスの通り,「若さの盛り」を過ぎてから結婚について考えるようにしている兄弟姉妹がいます。(コリ一 7:36)”とあります。若すぎる結婚はJWに多いようですが、それをたしなめていますね。“早すぎる結婚→早すぎる離婚”が普通になっている国もあるようです。」
「欧米では20歳前後で結婚する人が多いようだ。結婚前についついイケナイことをしてしまって、排斥になるのを避けるためでもあるし、女性の場合は早く結婚相手を見つけないと年を取ってからは見つけるのが困難ということもある。」
「でも一番強調しているのは“「主に従う人とだけ」結婚するようにというコリント第一 7章39節の言葉の通りにします。(読む。)”ということです。JW同士で結婚しなさい、ということですね。」
「そうなるとJWには男性が少ないので、女性の半分は結婚できない。結婚は女性の生活を安定させるという面があるわけで、組織の言うことを聞いて一生独身パートで年金支払い猶予の開拓者だったら、年取った時、悲惨なことになるよ。組織は偉そうなことを言うだけで、その責任は取らない。」
「12節はロサ姉妹の話です。JWでない男性から好意を持たれていたが、その男性との関係を断ち、“今では特別開拓者として奉仕しています。姉妹はこう言っています。「エホバは私の心を幸せでいっぱいにしてくれました」。”というものです。決まりきったパターンの話ですね。」
「これではJWは結婚するか、特別開拓者の2つの選択肢しかないかのようだ。この話の終わりは、今では素晴らしいJWの男性と結婚し、一緒に特別開拓奉仕を楽しんでいます、というものに変えた方がいいよ。だいたい独身の特別開拓者というのがそんなに幸せいっぱいなものじゃないでしょう。負け惜しみを言っているだけと思われる。」
「13から16節が“神が責任を委ねている人たちからの指示を受けるとき”です。 JWは、決して優れた人とはいえないアブナイ人でも長老とか巡回監督という役職についていたら、その人の指示に従わなくてはいけないということです。14節には“信仰によって歩む人は,・・・どんな指示にもすぐに前向きな姿勢で従えます。(ヘブライ 13:17を読む。)”とカルト丸出しのことを言っています。」
「指導者に対する盲目的服従はカルトの特徴。本当にアブナイ宗教だね。」
「引照聖句には“皆さんを教え導いている人たちに従い,進んで応じてください。・・・その人たちが喜んで働けるようにしてください。もし嘆きながら働くことになれば,それは皆さんのためになりません。”とあります。これはどのような人に向けて言っているのですか?」
「恐らく大きな会衆の中の考え方の違う人たちで、指導者としばしば対立するような人に向けてと思われる。」
「JWなら排斥されてしまう人ですね。」
「この当時は指導者と意見が違うからとか、従わないからといったことでJWみたいに追放し、集団で無視するなんてことは行われていないからね。1,2世紀ではキリスト教と言っても多様で様々な考え方があったから、当然指導者とは異なる意見を持ち、指導者と対立する人もいたわけだ。」
「14節では“そして指示に従うなら,会衆のみんなが心を一つにすることができます。(エフェ 4:2,3)”とありますが、引照聖句はそんなことを言っていません。訳もヘンです。そこには“聖なる力による一致を保つよう真剣に努力してください。”とありますが、英語訳ではto maintain the oneness of the spiritで、霊の一致を保つ、です。」
「日本語の翻訳者は霊という言葉を避けるからね。でも“聖なる力による一致”は全く誤訳。それなら一致を保つのは聖なる力の仕事になってしまう。“霊の一致”という概念が理解できなかったのだろうね。」
「14節ではさらに“指示を出している兄弟たちが完璧ではないとしても,私たちが従うならエホバは喜んでくれます。(サム一 15:22)”とあります。カルト的です。引照聖句はそんなことを言っていません。」
「誤った指示に従うことを正義の神は喜びません、という当たり前のことをなぜ言えないのかな?組織を維持することを最優先しているからでしょう。」
「14節ではさらに“もし本当に正されなければいけないことがあるなら,エホバは一番いい時に必ず正してくれます。(ミカ 7:7)”とあります。引照聖句はそんなことを言っていません。“私の救いの神を辛抱強く待つ。私の神は聞いてくださる。”とミカが言っているだけです。」
「JWが正すときは、税金をかけられそうになった時やお金が減った時や、裁判に負けそうな時でしょう。エホバが正したわけではない。そういうことがなければ、何も変えず、文句を言う人を排斥して終わり。」
「体罰推奨から体罰反対に正されたのは、多くの国で体罰が禁止されるようになったからです。聖書では体罰推奨にもかかわらずです。昔はワクチン接種反対だったのに、多くの国で予防接種を義務付けるようになってから、個人の決定に任せるように正されました。エホバなんか関係ありません。」
「JWは非戦闘員としての任務や代替任務を含む兵役に従事することを許されず、その結果、多くの若者が投獄されたけれど、これも正された。理由はブルガリアがJWの宗教登録を拒否したから。宗教登録を許可してもらうために、代替任務を認めることにしたわけだ。エホバなんか関係ない。」
「15,16節がケビン兄弟の体験談です。ケチュア語という少数言語を話す人に伝道していたのですが、政府の規制を守るように言われたというものです。16節に“ケビン兄弟は新しいやり方に取り組んでみることにしました。どうなったでしょうか。「こんなに良い結果になるとは思ってもみませんでした。これまでは伝道でたくさん歩いても,ケチュア語を話す人に1人か2人会えればいい方でした。でも,ケチュア語を話す人が多くいる区域で重点的に奉仕することにしました。そうしたら,前よりも会話できるようになり,再訪問や聖書レッスンも増えました。集会に来る人も増えています。”とあります。よく理解できません。なぜ今まで“ケチュア語を話す人が多くいる地域で重点的に奉仕”しなかったのでしょうか?単に頭が悪いせいでしょうか?」
「本当は一人か二人に会えればそれで時間が入り、JWとしてはそれで十分よかったからだよ。本気で伝道したいなんて思っていないのがJW。」
「最後の17節がまとめです。“何を決めるときも,見えるものだけに頼るのではなく,エホバとの絆を大切にしましょう。”とあります。エホバ=組織ですから、組織のいうことに従え、ということです。」
「この記事で、JWの言うとおりにしてはいけないのが、就職と結婚ということがわかったから、多少役立ったかも。来週は経済的問題と老後の問題を取り上げるようだけど、これもJWの意見を聞かない方がいい問題だ。」
- 聖書についての質問
- 2025年05月23日 14:44:23
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“イエスのように熱い気持ちで伝道する(11)”で、もっと熱心に伝道しなさい、と信者に要求する内容です。」
「熱い気持ちで伝道するとあるので、選挙の候補者みたいに、車の上から拡声器を使って、熱くJWのことを語るのかと思ったら、そんなことはなく、今まで通りのやる気のない伝道活動が続くみたいで安心した。」
「1節では“エホバに仕える人たちは熱い気持ちで伝道しています。その姿勢は一般のクリスチャンとは大きく違っています。(テト 2:14)”とありますが、これはヘンですね。JWは熱い気持ちで伝道していませんよ。もしそうならこんな記事は必要ありません。引照聖句もそんなことは言っていません。」
「元の英文を相当変えている。ONE thing that sets Jehovah’s servants apart from imitation Christians is their zeal for the ministry.(エホバの僕と偽クリスチャンを区別するのは伝道に対する熱意です。)で、事実上JW以外のクリスチャンを偽クリスチャンと呼ぶという敵意丸出しのカルト的文章。翻訳者は偽クリスチャンではなく” 一般のクリスチャン”と変えて、カルト色を薄めている。」
「日本のほとんどのJWは伝道に熱意なんかありません。JWが牛歩でダラダラ歩き回っているのはよく知られています。英文のままだと、日本のJWのほとんどが偽クリスチャンになりますから、文章を変えるのも仕方ないですよ。」
「この記事を書いた人は現実を分かっていないようだね。」
「2節で“何年奉仕していてもなかなか成果が上がらないことがあります。きつい反応が返ってくることもあります。終わりが近づくにつれて,そういう反応はさらに増えていくでしょう。(マタ 10:22)”とあります。伝道の成果が上がらないことを終わりが近いことと結びつけるのは見当はずれです。」
「伝道によって信者がどんどん増えれば、終わりが近いことの証拠だ、と言い、伝道がうまくいかなくなると、やっぱり終わりが近いことの証拠だ、と言う。どちらでも終わりが近いわけだ。」
「引照聖句には“そしてあなたたちは,私の名のために全ての人から憎まれますが・・・”とイエスが言ったというものですが、JWはエホバの人として憎まれているだけで、イエスとは結びつけられていません。JWとは無関係な聖句です。」
「実際は、JWを憎んでいる人なんかほとんどいない。多くの人はJWをほとんど知らないし、知っている人でも迷惑なカルトとしてぼんやりと認識している程度。」
「3節で“イエスの手本から多くのことを学べます。イエスはいつも熱い心を持って伝道しました。その熱意はどんどん高まっていきました。(ルカ 13:6-9を読む。)”とあります。引照聖句は、地主から実をつけないイチジクの木を切るように言われたけれど、栽培人があと1年待ってくれと頼んだというたとえ話です。これって、伝道の話じゃないですよ。」
「何でも伝道と結びつけるのがJW。ルカ13:1-9はイスラエルの悔い改めがテーマ。イチジクの木はイスラエル国民の比喩。3年も実をつけないので切り倒されるところなのに、栽培人がとりなして、肥料まで与えるというのは、イスラエル国民は神に対して実を結んでこなかったけれど、イエスのとりなしで裁きが猶予された。はやく悔い改めなさい、という意味。伝道とは関係ない。」
「3節では“イエスもすでに3年ほどユダヤ人に伝道していましたが,聞く人はわずかでした。この栽培人がイチジクの木のことを諦めなかったように,イエスも人々のことを諦めませんでした。”としつこく伝道とこの話を結び付けていますが、違いますよ。」
「この話では、イチジクの木がどうなったかは述べられていないけれど、やっぱり実をつけることはなく、切り倒されましたという結末じゃないかな。今まで実をつけなかったのに、奇跡でも起こらない限り急に実をつけることはないと、イエスの聴衆は思っただろう。」
「5から7節が“エホバが願っていることを一番大切にする”です。 6節に“良い知らせを伝えるのは今も一番大切な仕事です。エホバとイエスは私たちが伝道することを願っています。(マタ 24:14; 28:19,20)”と、伝道をしたがらないJWを叱っています。」
「伝道を嫌い、建設やベテルでの活動を好むJWが多いようだね。」
「引照聖句では” それで,行って,全ての国の人々を弟子としなさい。”とありますが、全ての弟子に向けられた命令ではなく、11人の使徒に向けられたものです。」
「1世紀、伝道したのはごく一部の人間でしょう。全ての信者がそんなことできるはずがない。」
「7節には“たとえ今,良い知らせを受け入れない人でも,大患難が終わる前に気持ちが変わる可能性があります。”と言っています。それなら大患難なるものが始まってから熱意を込めて伝道すればよいと思います。」
「大患難開始後にJWになってもハルマゲドンを無事通過するというのが今の教義。大患難が始まる前からあれこれ要求されるだけのつまらないJWでいる必要はない。」
「8から10節が“聖書の預言に強い関心を持つ”です。 9節に“聖書の預言についてじっくり考えると,一生懸命伝道しようという気持ちになります。私たちは今の世界がもうすぐ終わることを知っています。聖書は終わりの時代にどんなことが起き,どんな人が増えるのか予告していました。そして今,まさにその通りになっています。”とありますが、違います。JWの言う聖書の預言はインチキで伝道しようなんて言う気になりません。」
「エルサレムの破壊が前607年で、それをもとに1914年にハルマゲドンが来るといっていた。1914年にハルマゲドンが来なかったけれど、目に見えない形で天の王国がどうのこうのとごまかして、預言が実現したと宣伝した。前607年はごまかしようがないのでそのままだけど、間違った年代なのは明らかで、最近はなるべくそれに触れないようにしているというありさま。」
「JWの聖書の預言ではとっくの昔に終わりが来ているはずでした。終わりが来ないので、世代の解釈を変えたというヒドイありさまです。まともなJWなら伝道する気が起こりません。」
「昔は、20世紀になって地震が増えている、だから今は終わりの時代だなんてバカなことを言っていたけれど、今はその種の記事を載せることもなくなった。科学的な知識はJWの執筆者よりも、一般人の方があって、簡単に反論されるからだね。」
「9節では“聖書は「終わりの時に」南の王と北の王が敵対することを預言しています。(ダニ 11:40)このことは今,英米がロシアとそれを支持する国々と敵対することによって実現しています。私たちはダニエル 2章43-45節に出てくる像の足の部分が英米を表していることも理解しています。”とあります。ダニエル書は終末預言じゃありません。こんなことを伝道では言えません。おバカな終末カルトと思われるだけです。」
「対立する二つの国は絶えずあった。いつも終わりの時代ということかな?“私たちは…理解しています。”という表現はサギ的だね。一般の信者はただ統治体から言われたことを盲信しているだけで、理解などしていない。」
「ロシアはウクライナと戦争していますよ。ウクライナが南の王というならまだましです。JWのいう英米二重帝国なんて存在しません。」
「ダニエル書には北と南の王についてかなり詳細に書いてある。それは英米とロシアには全く当てはまらない。JWは方角だって無視している。英米もロシアも方角は北。」
「10節は一般の信者の発言です。カリー姉妹は“エホバは素晴らしい将来を約束してくれています。今は悩みを抱えている人が多いので,その明るい将来についてみんなにもぜひ知ってほしいです。”と言っています。JWによれば、人類大虐殺とその後の死体処理作業が近い将来待っているのですが、これは無視ですね。」
「悩みを抱えている人は、JWのほうがJW以外の人より多いでしょう。そんな人が明るい未来を語っても説得力ないよ。」
「レイラ姉妹は“「イザヤ 11章69節を読むと,今は良い知らせを受け入れそうにない人にも伝えようという意欲が湧いてきます。”といい、クリストファー兄弟は“マルコ 13章10節の予告通り,良い知らせは世界中に広まっています。この預言の実現に貢献できることを誇りに思います。”といっています。組織の望むことを言っているだけです。カルト信者の発言にしか思えません。」
「イザヤ11:6-9がハルマゲドン後の楽園のことを言っているという根拠は何ですか、と質問されたら答えられるのかな?答えられないでしょう。マルコ13:10の“全ての国の人々の間で,良い知らせがまず伝えられなければなりません。”はいつ実現するのですか、と質問されたら、クリストファー兄弟は答えられるのかな?その目標はあきらめたと思ったよ。」
「11から14節が“エホバに頼る”です。 13節で“反対に遭っても熱い心で伝道を続けるには,エホバのサポートが必要です。(啓 12:17)エホバは必ず助けてくれます。”とあります。ウソですよ。滅多にないことですが、時々助けてくれるかもしれません、と書くくらいにとどめるべきですよ。」
「元の英文にはエホバは必ず助けてくれるとは書いていない。日本版JWだけのようだ。神様は必ず○○してくれます、という宗教は危険な詐欺的宗教だからすぐやめよう。」
「14節には“終わりが近づくにつれて,良い知らせを熱い心で伝えることはますます難しくなっていくでしょう。それでも必要なサポートは全て与えられます。(ルカ 21:12-15)”と、気軽に書いていますが、引照聖句はそんなことを言っていません。そこには“あなたたちは私の名のために王や総督の前に連れていかれます。”とありますが、そんなJWはいましたか?“私の名”とはイエスの名ですよ。」
「児童性的虐待の問題とか補助金対象団体に該当するかという問題で裁判になっているけれど、これが引照聖句の予言通りのことというつもりなのかな?」
「伝道するために海外に行って殺されたJWがいますが、必要なサポートは与えられたのですか?」
「個人の責任で勝手にしたことで、組織は一切関知しません、でおしまい。これが必要なサポートの中身なのだろう。」
「14節では“エホバの証人の活動が制限されていても,兄弟たちは良い知らせを伝え続けることができています。自分の力ではなく,エホバに頼っているからです。”と、被害者意識丸出しのことを言っていますが、JWの活動が制限されている国は少数です。」
「JWは主に信教の自由を保障されているキリスト教国で、一般のクリスチャンを偽クリスチャンと攻撃して信者を増やしてきた宗教なのに、被害者意識は人一倍強いようだ。」
「15から17節は“ポジティブな見方をする”です。 16節に“イエスが話した2つの例えについて考えてみてください。(ルカ 13:18-21を読む。)1つはからしの種の例えで,王国のメッセージがとどまることなく大きく広がっていくことを教えました。もう1つはパン種の例えで,王国のメッセージが広範囲に広がり,最初のうちは目に見える変化がなくても,やがて大きな変化を生じさせることを教えました。”とあります。全然違いますよ。そもそもJWのメッセージは中国やインドと言った人口の多い国やイスラム圏にはまったく届いていません。」
「ルカ13:18で“神の王国は何に似ているでしょうか。それを何になぞらえましょうか。”とある。この例えは神の王国についてであって、王国のメッセージについてではない。神は目に見えないほど小さな状態から世界全体に広がる強力な王国をつくるというたとえでしょう。」
「ルカ13:19には“それは,人が庭に植えたからしの種のようです。それは成長して木のようになり,鳥が枝に巣を作りました。”とあるのですが、翻訳がヘンです。英文ではbecame a tree(木になり)です。木のようになったのではありません。」
「翻訳者の浅知恵だね、翻訳者はからしの種が木になることはないことを知っているので、木になるというのはおかしいと思ったのだろう。ここでは普通の植物の生長を言っているのではなく、神の力による奇跡的な変容を言っている。小さな種が巨木となり鳥が巣をつくるほどになると言っている。せめてJWの英文くらいは忠実に訳して欲しい。」
「17節に“今,伝道でどれほどのことが成し遂げられているかを考えると,熱い心で伝道を続ける力が湧いてきます。”とあります。現実とは無関係な文ですね。伝道は信者獲得という点ではほとんど無意味な行為です。」
「17節の上の写真は、カートの横に2人の女性が立っているというもの。これでどうやって熱い心で伝道していることになるのか不思議だね。拡声器を持たせたら。」
「最後の18節で“熱い気持ちで伝道するなら,それを見る人たちは私たちがイエスに倣う本当のクリスチャンであることに気付くでしょう。”と現実とは無関係な、バカげたことを言って締めくくっています。」
「現実は、JWが熱い気持ちで伝道するなら、それを見る人たちはJWが本当に迷惑で危険なカルトであることに気付くでしょう、だね。」
- 聖書についての質問
- 2025年05月16日 14:23:58
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバとイエスに倣った考え方をする(10)”で、ペテロの話を取り上げて、信者にあれこれ要求するという内容です。」
「この記事は特に退屈だね。ウソくさい体験談もでてこない。」
「1節に“「あなたは,心を尽くし,力を尽くし,知力を尽くし,自分の全てを尽くして,あなたの神エホバを愛さなければならない」。(ルカ 10:27)イエスはこれがモーセの律法の中で一番大切なおきてだと分かっていました。”とあるのですが、この訳はヘンですよ。」
「英文ではwith your whole heart and with your whole soul and with your whole strength and with your whole mind(心をこめ、魂をこめ、力をこめ、全ての精神をこめて)とあるのに、“魂”を省略して、“知力”に変えている。日本版JWでは魂soulは受け入れられないようだ。」
「魂は元のギリシャ語ではpsuchéですが、どんな意味ですか?」
「ギリシャ語では感情、欲望、意志を含む人の本質を指す。また体を動かす生命力を指すこともある。感情、欲望、意志を生み出す非物質的なものでもある。」
「ルカ10章では、それが一番大切なおきてとは言っていません。そう言っているのはマタイとマルコです。いいかげんな記事です。」
「マタイ22:37,38とマルコ12:29,30だね。ルカでは神への愛と隣人愛が共に重要と言っていて、序列を付けていない。細部がテキトウなのは執筆者の能力が不足しているのか、やる気がないのか、その両方なのか。」
「5から8節は“エホバの考え方に倣う”です。 人類大虐殺の考え方に倣うのかと思ったのですがそうではなく、マタイ16章にあるペテロの失敗を取り上げてます。」
「イエスが自分の死について話したら、ペテロが余計なことを言って、イエスからマタイ16:23で“私の後ろに下がれ,サタン! あなたは私の邪魔をしています。神の考えではなく,人間の考えを抱いているからです。”と叱られる場面ね。」
「この訳は問題がありますよ。神の考えなど人間にわかりません。神と同じような考えをすることはできません。あまり冴えてるとは言えないイエスの弟子たちには無理ですよ。」
「JW訳は自分たちの都合に合わせた訳だからね。協会共同訳では“神のことを思わず、人のことを思っている。”となっている。」
「それから“私の後ろに下がれ”もヘンです。マタイ16:23は“しかし,イエスはペテロに背を向けて言った。「私の後ろに下がれ,サタン!・・・”というものです。協会共同訳では“イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。・・・”です。」
「イエスはペテロに背を向けたのかというと、元のギリシャ語は向きを変えたという意味で、そうはいっていない。イエスはペテロをしかるわけだから、ペテロの方に向きを変えたと考えるのが自然。そうすると、私の後ろに下がれではなく、引き下がれになる。」
「7節では“やがて,ペテロは自分の考えをエホバの考えに合わせられるようになりました。”とあります。具体的には“ペテロは,異国人のコルネリオの所に行って真理を伝えるようにと指示されます。ユダヤ人は異国人とはほとんど交流を持たなかったので,ペテロはこの指示に従うために考え方を大きく変えなければいけませんでした。神がどんなことを願っているのかを理解すると,ペテロは考え方を調整しました。”というものです。」
「これは最近組織が次々と調整という名の変更をしていることに対して文句を言うな、というメッセージだね。日ごろから、どんな理不尽な命令が来ても黙って従うように信者を訓練している。」
「8節がカルト的で恐ろしいです。“後に,ペテロは当時のクリスチャンに「同じ考え方」でいるように勧めました。(ペテロ第一 3:8と脚注を読む。)”とあります。全ての信者が同じ考えを持つよう要求していますが、この聖句は異論や疑問を許さない全体主義的な宗教を目指すものではありません。」
「引照聖句には“一致した考え”とあるだけ。その脚注に“または,「同じ考え方」。”とある。この脚注の訳は無理があると考え採用しなかったんでしょう。次の改定では全体主義的宗教を目指して“同じ考え方”に変更されるかもね。そのときは“一つの神、一つの考え、一つの統治体”が組織の標語になるよ。」
「協会共同訳では“皆思いを一つにし”と訳していますね。」
「元のギリシャ語は“志を同じくする”と言う意味。同じ目標を持って頑張ろう、という意味でしょう。全員が同じ考えを持つことまでは意味していない。」
「8節には具体例が出ています。“全時間奉仕を始める人が会衆にいるとします。(マタ 6:33)そのような人に,「そんなに頑張らなくていいんじゃない?」などとは言いたくありません。むしろその人を褒め,できるだけサポートしたいと思います。”とあります。」
「全時間奉仕を始めようとする人に対してそのリスクやデメリットをアドバイスする親切な人がいるということだね。でも、そんなことは止めろということね。JWではむしろ、もっとやれやれ、死ぬまでやれ、とはやし立てるのが愛ある態度なんだ。」
「9から12節が“謙虚でいる”です。 JWでは統治体以外にはやたらと謙虚さが求められます。9,10節でヨハネ13章にあるイエスが弟子たちの足を洗った話が出てきます。11節にはペテロは足の不自由な人を癒したけれど、自分の手柄にしなかったという話が出てきます。ペテロは謙虚な人になったようです。」
「そのペテロの話は使徒3章にあるけれど、福音書ではダメな男だったのに、使徒になると理想的な弟子に変身するのが面白い。ペテロは使徒の代表として取り上げられているだけで、歴史上のペテロとはほとんど関係ないと思うよ。」
「使徒ではペテロやパウロが長々と説教する場面がありますが、あれは使徒の作者が創作したものですよ。」
「当時はメモをする習慣なんかないから、ペテロが活躍していた何十年も後に書かれた使徒の作者がペテロやパウロの説教を知っているわけはない。」
「12節には“私たちが人のために何かをするのはエホバと仲間を愛しているからです。”とあります。JWの愛はJW限定だとわかります。」
「元の英文ではwe love Jehovah and we love peopleとあり、仲間ではなく“人々”を愛しているだよ。仲間限定の愛は日本版JW。翻訳者はJW以外の人間は間もなく滅ぼされる人間なので愛の対象ではないと考えているね。」
「13から17節が“「健全な考え方」をする”です。 これはペテロ一4:7の“全てのものの終わりが近づいています。ですから,健全な考え方をしましょう。また,祈ることを常に意識していましょう。”からの引用ですが、この訳はヘンじゃないですか?」
「後半の部分の協会共同訳では“思慮深く振る舞い、身を慎んで、よく祈りなさい。”となっている。この文には“祈る”という動詞はなくて、別の動詞が2つある。初めの動詞は、古代ギリシャの倫理学用語で感情と欲求が理性と調和するという意味。2つ目の動詞は文字通りではしらふでいるという意味で、そこから感情を適切に制御するという意味が派生した。」
「ペテロ一4:3には“かつて皆さんは,恥知らずな行い,激しい欲情,飲み過ぎ,ばか騒ぎ,飲み比べ,忌まわしい偶像崇拝にふけっていましたが”とあります。要するに、こういうことはするなということですね。」
「終わりが近いから、特にそうしなさいということだけど、もうこれが書かれてから2000年近くたったね。」
「13節で、JWの考える健全な考え方とは何か説明しています。“エホバの考えに沿った決定ができるようにベストを尽くします。また,エホバとの絆を何よりも大切にします。”とあります。ここで言うエホバとは組織のことですよ。要するに組織の命令に盲従するのが健全な考え方のようです。」
「聖書が書かれた時代にはJWのような中央集権的な組織は存在していなかったから、組織に盲従することが健全な考え方という思想はもちろんない。」
「14節には、マタイ26章にあるペテロがイエスを知らないと否認した話が出てきます。“イエスは弟子たちにこうアドバイスしました。「ずっと見張っていて絶えず祈り……なさい」。(マタ 26:31,33,41)このアドバイスの通りにしていれば,ペテロは自分がイエスの弟子であることを勇敢に認めることができたはずです。”とありますが、違うでしょう。」
「マタイ26:34で“イエスは言った。「はっきり言いますが,今夜,おんどりが鳴く前に,あなたは3度,私を知らないと言います」。”とあるよ。ペテロの否認はこの時点で確定したんじゃないの?人間の努力でイエスの予言を覆すことができるとJWは考えているのかな?もしそうなら聖書の予言は人間次第で成就したり、しなかったりするような性質のものになるけれど、これはJWにとって不都合でしょう。」
「16節では“やがてペテロは,祈ることによってもっとエホバに頼るようになりました。”とあります。イエスが天に行った後、“ペテロは何をしていましたか。仲間のクリスチャンと「ひたすら祈り続け」ていました。(使徒 1:13,14)”とあるのですが、これは何を祈っているのですか?」
「そこには“皆,思いを一つにしてひたすら祈り続けた。”とある。もとのギリシャ語では“祈り”の前に定冠詞がついている。英語でいえばthe prayerで、何か特定の祈りをしていたことがわかる。」
「使徒1:5で、イエスは“あなたたちは何日もしないうちに聖なる力でバプテスマを施されます。”と言っています。そのことを祈っていたのじゃないですか?」
「ペンテコステの日に、使徒2:4で“皆が聖なる力に満たされ,さまざまな言語で話し始めた。”とある。1章で祈っていたことが2章で実現したというストーリ展開かもしれない。」
「17節では“祈ってエホバに導いてもらうことが大切です。”とあります。その下に“仕事の面接の順番を待っている姉妹が無言で祈っている。”と言うイラストが出ています。祈れば就職できますか?JWは職場では評判が悪いことが多いですよ。」
「JWのように低学歴で何の資格もない人がいくら祈っても、高学歴でいろいろな資格を持っている人が採用されるでしょう。最低賃金しかもらえない応募者がほとんどいない職場だと祈りは効果があるかも。」
「最後の18節はまとめで“私たちもペテロのように成長していけます。神の考えに倣い,謙虚でいるようにし,健全な考え方をすることによってです。”とあります。でもJWは成長しませんよ。ものみの塔の記事だって同じことを繰り返しているだけです。永遠に小学4年生をやっているようなものです。」
「英文には“成長していけます。”とは書いていない。we can become more attuned to Jehovah’s way of thinking. (エホバの考え方にもっと合わせることができます)とあるだけ。JWが成長するなんて、執筆者は思っていない。むしろ成長したら困ると思っているよ。」
- ゆずポン
- 2025年05月10日 18:46:34
あなたは自分の罪を悔い改めて転向し,エホバ神のみ前で,自分が有罪の宣告を受けた,救いを必要とする罪人であることを認め,またその救いはみ子イエス・キリストを通して,父なるエホバからもたらされるものであることを認めていますか。
神と,救いのための神の備えとに対するそうした信仰に基づき,神がイエス・キリストを通して,また啓発を与える聖霊の力のもとで聖書を通してあなたに啓示してくださるところに従って,これからは神の意志を行なうべく,神に無条件で献身しましたか。
これが1985年以前のエホバの証人の、バプテスマの質問です。
ここでは「啓発を与える聖霊の力のもとで聖書を通してあなたに啓示してくださる」ことに対する信仰が求められています。
もともと彼らは、神が聖霊のもと聖書を通して個人個人に啓示を与えると理解していました。そこに「組織」などという表現や考えはありません。
あなたは,イエス・キリストの犠牲に基づいて自分の罪を悔い改め,エホバのご意志を行なうため,エホバに献身しましたか。
あなたは,献身してバプテスマを受けることにより,自分が,神の霊に導かれている組織と交わるエホバの証人の一人になることを理解していますか。
これが現在も採用されている、変更された質問の内容です。そもそも2番目の質問は必要でしょうか?
エホバの証人の大会に出席しバプテスマを受けようとしているその人は、自分がエホバの証人の一人になることは理解しているはずです。
では2番目の質問は何を意味するのでしょうか。
この質問の肝は、エホバの証人の組織を、神の聖霊に導かれていると信じ受け入れることを表明させるということでしょう。
この質問では肝心な聖書に触れてすらいません。重要なのは「組織」なのです。
自分は神エホバに献身したのだと、純粋なエホバの証人は考えているのでしょうが、実際には組織に対する忠誠も誓っていたのです。
この質問に肯定の答えをした人は、組織がどれだけ聖書からかけ離れた見解を述べているように思えたとしても、それに疑問を差し挟んだりすることはもはや許されていないのです。だからこそ、理解できない奇妙な教えがあっても「エホバを待つ」などという姿勢を取るしかないわけです。
公然と非難したり反抗したりする人は、一度バプテスマの際に宣誓したその誓いを破っていると見なされ(残念ながら実際に破っていることになるでしょう)、背教やら排斥やら断絶やらと理由をつけて徹底して排除されてきたのです。そこに「聖書的な裏付け」などほとんど関係ありません。
なぜこの質問のおかしさに気付けなかったのか、今でも後悔しています。
- 聖書についての質問
- 2025年05月09日 14:26:27
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“バプテスマを受けるのをためらわないでください(9)”で、さっさとバプテスマを受けて、組織のためにタダで働け、という内容です。」
「今どきバプテスマを受ける人といえば、周囲の圧力に負けたJWの子どもでしょう。今以上に圧力をかけろということだね。その圧力に負けることなく、バプテスマは受けないで欲しい。」
「1節で“バプテスマを受けると,エホバの家族の1人になり,エホバのものになります。”とありますが、意味するところは、バプテスマを受けると、カルトの一員となり、カルトの所有物になるということですね。」
「英文では“エホバのものになります。”とカルト的なことは書いていない。神に属するものとなる、と言っているだけ。その根拠として旧約聖書からの引照聖句が2つ出ているけれど、全く無関係。旧約聖書にはバプテスマは出てこない。」
「3から6節が“サマリア人”です。 使徒8章にあるサマリア人のバプテスマの話です。4節が“バプテスマを受けるためにサマリア人はどのように問題を乗り越えたか。”で、フィリッポによるサマリア人への伝道の話を取り上げています。」
「使徒8章の始まりはエルサレムで迫害がおこり、使徒たちが各地に散っていったというもの。まずサマリアの話が出てきて、次にガザでエチオピアの宦官がバプテスマを受けるという話が出てくる。福音が広まる様子を描いた章。」
「4節にはサマリア人が“フィリポが病気を治したり邪悪な天使を追い出したりするのを見て,確かにエホバから力を与えられているということを認めました。(使徒 8:7)”とあります。“邪悪な天使”は間違いですよ。」
「英文ではdemonsで、悪霊でしょう。翻訳者は霊が嫌いなので、邪悪な天使に変えている。天使は人間に乗り移るなんて聖書のどこかにかいてあった?日本版JWは非常に奇妙な宗教だ。」
「5節では、サマリア人が“男性も女性もバプテスマを受けた”とあります。病気がたちどころに治るという奇跡をみたら、すぐ信じますよ。なぜエホバは今もそういうことをしないのか不思議です。」
「JWは輸血を禁止して、病気の人を治すどころか死なせているから、新しくバプテスマを受ける人が少ないわけだね。」
「5節では、まだバプテスマを受けていない人に対して問いかけています。“あなたは聖書に書かれていることが真理だと確信していますか。エホバの証人が偏見を持つことなく,誠実に愛し合っている様子を見てきましたか。本物のクリスチャンの証拠である,心からの愛を表そうと努力していることを確信していますか。”です。答えは全て“いいえ”ですね。JWは律法主義的な愛のない組織として知られていますよ。」
「JWでは聖書について学ぶことはない。組織の教えを学ぶだけ。それを聖書の教えと呼んでいるだけ。しかも組織が引用する聖書は組織の都合に合わせて訳された聖書。」
「JWの間には偏見はありますよ。アメリカではJWは白人の宗教で、アフリカ系や中南米からの移民に対する偏見が公然と示されることがあるとされています。」
「アフリカ系のJWは髪形などを白人風にすることを求められて、それに従わないとイジメられる。」
「6節がドイツのルベンの体験談です。“ルベンは「あなたのことを気づかう創造者がおられますか」の本を使って学ぶことにしました。その本を読んで衝撃を受け,「エホバは本当にいるんだ!」と思いました。世界本部に見学に行ったことからも良い感化を受けました。世界中の兄弟姉妹が心を一つにしてエホバに仕えている様子に感動し,本当にすごいと思いました。ルベンはドイツに帰ってから17歳でバプテスマを受けました。”というものです。今頃は開拓者で長老になっているはずですね。」
「だまされやすい若者だね。組織はこういう単純な若者を望んでいるということだ。20歳になったらJWのおかしさに気づくでしょう。」
「“あなたのことを気づかう創造者がおられますか”は一見科学的なことが書かれているだけで中身はいいかげんなものです。」
「そうだね。例えば、その本の第2章に“もう一つ重要な点は,太陽を回る地球の道筋です。彗星は横長の楕円状に動きます。幸いなことに,地球はそうではありません。その軌道はほぼ円形です。ここでもわたしたちは,致命的な甚だしい寒暖の差を免れているのです。”とある。爆笑もの。中学生以下のレベル。」
「地球の周回軌道は楕円です。近いときと遠いときでは500万キロも違います。10万年周期で楕円は伸び縮みを繰り返し、長い楕円のときは氷期になるわけです。そのときは人間にとって最適な環境じゃありません。人間を愛する創造者が地球を造ったとは思えません。」
「軌道が円形だから甚だしい寒暖の差がないわけじゃないよ。この本の作者は、地球が太陽に近づくと夏、離れると冬になると思っているようだけど、地球が太陽から最も離れるのは7月ごろで北半球では夏だ。寒暖の差があるのは地球が傾いているから。現在は23.4度ほど傾いているけれど、少しずつ動いていて13000年後には反対側に傾き、季節が入れ替わる。JWは科学的なことには滑稽なくらい無知だね。」
「6節には“あなたも聖書や神について学んだことを信じ切れないでいるなら,そのままにせず,調査してください。”とありますが、英文ではface them by doing research in our publications.(私たちの出版物を調べてその疑問と向き合ってください。)です。調査してよいのは、組織の出版物限定なのに、日本語訳ではごまかしています。」
「カルトらしさを薄めたかったんだろう。カルトの特徴は情報の制限だからね。広くいろいろな資料をしらべれば、組織の言っていることはたいてい間違いだと気づく。」
「7から10節が“タルソスのサウロ”です。 サウロことパウロがバプテスマを受けた話です。7節にいいことが書いています。“サウロはクリスチャンを激しく迫害しました。しかも,自分のしていることは神の考えに沿っている,と思い込んでいました。”とあります。今のJWみたいですよ。」
「JWは排斥とか忌避とかしているけれど、神の考えに沿っていると思い込んでいる。自分たちはサウロと同じことをしているかもしれないと、少しは反省して欲しいね。」
「8節は“バプテスマを受けるためにサウロはどのように問題を乗り越えたか。”です。“使徒 22:12-16を読む。”とあり、そこには、サウロは失明したのですが、アナニアという人が現れて、目を見えるようにしたあと、バプテスマを受けたということが書かれています。アナニアのおかげですね。」
「このアナニアは、使徒22:12では“神を畏れて律法を守る人で,そこに住む全てのユダヤ人から良い評判を得ていました。”とある。ユダヤ的な意味で尊敬できる良い人ということ。そういう人だったのでユダヤ的信念に基づいてイエスの弟子たちを迫害していたサウロもアナニアの言うことを受け入れることができた。」
「得体の知れない怪しげなカルト信者にバプテスマを受けるように言われても、受ける気がしませんからね。」
「JWも普通の人からみて尊敬できる良い人にならないと、新しくバプテスマを受ける人を見つけるのは困難だということを学び取って欲しいね。」
「8節の下に、パウロがバプテスマを受けるというイラストがあるのですが、服を着たまま水に入っています。これはヘンですよ。」
「2世紀に書かれた本によると、女性と男性が分かれて、裸で水の中へ歩いて行って、水の中でひざまずき3度水をかけられたようだ。水の中に入るのだから服は脱ぐよ。」
「水をかけるだけになったのはどういう理由ですか?」
「キリスト教は北方にも伝わって行ったけれど、北ヨーロッパでは水が冷たすぎて、水の中に入るのが危険視されて、水をかけるだけの灌水礼が普及した。その辺は柔軟に対応したということでしょう。」
「9節に“バプテスマを受けてエホバの証人になると,あなたも大変なことや試練にぶつかるかもしれません。でも大丈夫です。どんなときでもエホバとイエスが必ず支えてくれます。(フィリ 4:13)”とありますが、違和感だらけの文です。引照聖句では“力を与えてくださる方のおかげで,私は強くなり,どんなことも乗り越えられます。”とありますが、これはイエスのことを言っています。またパウロは自分のことをエホバの証人だと言ったことは一度もありません。パウロはエホバの証人ではないです。」
「使徒22:15で、パウロはアナニアから“あなたはイエスの証人となり,見聞きした事柄を全ての人に伝えるからです。”とある。パウロはイエスの証人でエホバなんか知らないよ。」
「使徒22:16には“バプテスマを受け,イエスの名を呼んであなたの罪を洗い去りなさい。”とあります。バプテスマは罪を洗い流す効果があると信じられていたということですか?」
「そのとおり。バプテスマはそれ以前の罪を洗い流すと信じられてので、初期の頃はバプテスマをできる限り先延ばしにして、それまでにあらゆる罪を犯したり、死ぬ直前までバプテスマを延期するズルい人がけっこういたようだ。JWも倣ってもいいかも。」
「10節が体験談です。アンナはバプテスマを受けたのですが、“アンナは親戚からばかにされたり,ひどい扱いを受けたりしました。”というものです。アンナは“エホバが私を強くしてくれました。お父さんとお母さんもいつも支えてくれました。”と言っています。もっとインパクトのある話はなかったのですか?両親が支えてくれるのなら、親戚の嫌がらせなんか大したことないですよ。」
「これでも相当盛っているよ。親戚から嫌味を1回言われたことを“ばかにされたり,ひどい扱いを受けたりしました。”と被害者ぶって言っているような気がする。」
「11から14節は“コルネリオ”です。 11節に“コルネリオはローマの軍隊で約100人の兵士を率いる「百人隊長」でした。(使徒 10:1,脚注)”とあります。そして“コルネリオは自分の高い地位を失うことを恐れてバプテスマをためらったでしょうか。”とあります。これはヘンですね。ローマ軍はJWみたいな排他的な組織じゃありませんよ。」
「異邦人でクリスチャンになったのはコルネリオが最初。コルネリオの前にバプテスマを受けてローマ軍をクビになったという人はいない。だからコルネリオがそんなことを恐れる理由もないよ。」
「12節は“バプテスマを受けるためにコルネリオはどのように問題を乗り越えたか。”で、めでたく“コルネリオも家族もキリストに信仰を持ち,すぐにバプテスマを受けました。(使徒 10:47,48)”とあります。」
「バプテスマの前に奇妙な出版物を学べとか集会に参加して伝道しなさいといわれなかったことをJWとしてはどう思うのか知りたいね。」
「13節では“あなたも生き方を大きく変えなければいけないでしょうか。そうだとしても,エホバが必ず助けてくれます。”とあります。コルネリオはその後生き方を変えたのですか?」
「コルネリオの話はバプテスマを受けたところで終わる。その後については何も書かれていない。またバプテスマを受けるために,生き方が変わってもエホバが助けるなんて、引照聖句がないことからわかるけれど、聖書のどこにも書いていない。」
「14節が日本人の強の体験談です。“日本の強がバプテスマを受けるのにネックになっていたのは,仕事でした。強は生け花の流派の1つ,池坊の家元の助手として働いていました。家元の代わりに強が仏式の葬儀に参列することもよくありました。”とあります。これは事実をゆがめていませんか?」
「強のバプテスマを妨げているのは仕事じゃなくて、会衆の長老でしょう。仕事に難癖をつけて、バプテスマを受けさせなかったんじゃないの?」
「その後“死に関する聖書の教えを知って,そのような式に出席し続けることはできないと気付きました。(コリ二 6:15,16)”とあります。葬式に花が飾られることは普通ですけれど、花を飾った人が葬式に参列しなくてはならない、なんて聞いたことはありません。」
「花を飾ったら、それで仕事は終わりじゃないの?葬式の花を飾るのに特別な資格は必要ないから、わざわざ生け花の家元に葬式の花飾りを頼む人は少数じゃないの?他のJWの体験談と同じようにウソくさい。」
「引照聖句のコリント二6:15,16には異教の葬式に出るなとは書いていません。」
「そこには“クリスチャンはクリスチャンではない人と何を共有するのでしょうか。”とあるけれど、元のギリシャ語にはクリスチャンなんて言葉は出てこない。協会共同訳では“信者と不信者とにどんな関係がありますか。”となっている。これを拡大解釈して、あれもこれもダメとして、信者に負担を強いるのがJW。」
「この体験談の結論は“あなたも仕事がネックになってバプテスマをためらっていますか。もしそうなら,エホバがあなたと家族を養ってくれるということを忘れないでください。(詩 127:2。マタ 6:33)”というものです。これはウソですね。」
「多くのJWが生活保護をもらっているとか、極貧のうちに死んだ、という話をよく聞くけれど、エホバが養ってくれたという話は聞いたことないね。アメリカのベテルを解雇されて、無一文で追い出され、ベテルの近くの公園のベンチで凍死したJW だっていたはず。エホバは何もしてくれない。」
「15から18節が“コリントの人たち”です。 15節にはコリントの人たちは“お金を愛し,道徳的に乱れた生活をしていました。”とあり、16節は“バプテスマを受けるためにコリントの人たちはどのように問題を乗り越えたか。(コリント第二 10:4,5を読む。)”で、この答えは“コリントの人たちは神の言葉と聖なる力によって,生き方を大きく変えることができました。”です。JWにはその両方ないので、生き方は変えられないということですね。」
「JWには無意味な禁止事項が色々あるから、それを守れそうもない人はバプテスマを受けるはやめよう、ということだね。その方がよい人生を送れるよ。」
「17節がモニカの体験談です。“バプテスマを受けるためにやめなければいけないことがありました。汚い言葉遣いや良くないエンターテインメントです。”とあります。“祈ることが大きな力になりました。”とあります。祈れば解決するようです。もっとインパクトのある悪い習慣についての体験談はなかったのでしょうか?」
「JWが話題にするのが大好きな性的な悪い習慣を取り上げて欲しかったね。毎日○○をしていましたが、祈ることでやめることができましたとあればインパクトは大きいのに、残念。」
「最後の19,20節が“あなたの信仰は山も動かせる”です。 19節にはマタイ17:20を取り上げて“弟子たちが信仰を育んでいけば,山のように大きな問題も動かせるようエホバが助けてくれることを保証しました。”とあります。信仰があればどんな問題も解決するようです。」
「それは文脈無視だね。これはマタイ17:19で弟子たちが“なぜ私たちは[悪霊を]追い出せなかったのでしょうか”とイエスに質問したことの答え。同じ弟子たちの質問に対してマルコ9:29では“この種のものは,祈らなければ追い出せません”と答えている。」
「悪魔祓いを弟子たちはうまく行ってきたのに、なぜか失敗した。それでその理由をイエスに尋ねたという話の流れですね。」
「その能力はマタイ10:1で“イエスは12弟子を呼び寄せ,邪悪な天使に対する権威を与えた。それらを追い出し,あらゆる病気や不調を治すためである。”とあるように、イエスによって与えられたもの。それなのにうまくいくことが続くと、それは自分自身の力だと誤解するようになり、失敗すると驚くわけだ。そういう弟子たちに与えられた言葉。バプテスマとは関係ない。」
「最後の20節では“エホバに献身しバプテスマを受けるという,人生で最高の決定ができる”とあります。「最高の決定」とか「最高の人生」という言葉を根拠なく安易に使う人はまず詐欺師ですよ。」
「この記事全体が詐欺的なことは間違いないね。」
- 聖書についての質問
- 2025年05月02日 14:33:27
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバに倣って人を許す(8)”で、自分のことを傷つけた人を許そう、という内容です。」
「許しの3つのステップが出ている。許すことに熱心だけれど、犯罪を防ぐことや犯人を処罰することには無関心なのがJWで、犯罪者には居心地の良い宗教だね。」
「1、2節はデニース姉妹の話です。“2017年にデニース姉妹と家族は新しく完成したエホバの証人の世界本部を訪れました。そこから車で家に帰る途中,事故に遭ってしまいました。コントロールを失った車が姉妹たちの車にぶつかってきたのです。”というものです。エホバはまじめな信者を守ってくれないということです。」
「子どもは重傷を負い、夫は死亡したとあるね。悲惨な事故だ。天使は何をしていたの?」
「1節には“ぶつかってきた車の運転手は酔っていたわけでも不注意だったわけでもありませんでした。”とあります。ということはこの人は悪くないということですよ。」
「事故を起こしておきながら、不注意ではなかったというのは通常無理だ。事故が起きたのは車に欠陥があったと証明されたのかな?そうなら大ニュースになるはず。運転手は悪い人ではないと読者に思わせたいのだろう。」
「2節では“その運転手は,意図せずに人を死なせてしまった罪に問われました。”とあります。過失致死罪に問われたわけですが、1節では不注意ではないとありますので、判決は無罪じゃないですか?」
「そう思うよね。でも“姉妹は裁判所から,その人がどんな判決を受けるかは姉妹の証言に懸かっていると伝えられました。”とあるから、この姉妹が厳しく罰してくださいというと有罪になるようだよ。話がよくわからない。」
「2節で“わずか数週間後,デニース姉妹は法廷に行き,自分たち家族の人生を狂わせた男性の前で証言することになりました。姉妹はどんなことを言ったでしょうか。寛容な判決を願っていることを裁判官に伝えました。”とあります。」
「普通は“寛容な判決”じゃなくて“寛大な判決”じゃないの。」
「すると“裁判官は涙をこらえ切れない様子でこう言いました。法廷でこのようなことを聞いたのは初めてです。被害者の家族が被告のために寛容な判決を願うことなど普通ありません。人を許す温かい言葉を聞くこともまずありません。”と言ったそうです。本当ですか?ウソくさいですね。」
「英文では the judge broke down in tearsで、裁判官は泣き崩れた、という意味。でも日本語訳は” 裁判官は涙をこらえ切れない様子でこう言いました。”とある。翻訳者は英文の表現があまりにも大げさでウソくさいと思ったということだ。」
「結局判決は何だったんですか?何も書かれていません。“その人がどんな判決を受けるかは姉妹の証言に懸かっている”とあり、この姉妹が寛大な判決を求めたわけですから、極めて軽い判決ですんだという結論じゃないとおかしいですよ。」
「厳しい判決だったんじゃないの?この話はJWは裁判官も泣かすほど、すごい人たちと言いたいだけ。こうやってJWの自尊心を高めていくわけだね。」
「これが殺人事件だったらどうだったんですか?それでも寛大な処置をお願いしたのでしょうか?」
「それはまずいね。殺人犯を野放しにしていいのか、と言われてしまう。それで自動車事故の話を持って来た。しかもこの場合、加害者の過失を否定し、やむをえない事故であるかのように言っている。これは加害者が許されるべき人間と読者に思わせるためだろうけれど、それなら過失致死罪で起訴されたりしないよ。つじつまが合わない話だ。」
「4節には“エホバは,私たちがご自分に倣って人を寛大に許すことを願っています。”とあり、許すよう圧力をかけています。」
「許した方がいい場合と厳しく処罰するべき場合があるのに、許すべきという主張だね。それで統治体はバカげた預言や教義によって多くの信者を不幸に陥れても、責任を問われることなく、謝罪もしないで居られる。」
「4節では3つの引照聖句があるのですが、恣意的ですよ。」
「ルカ17:4が出ている。そこには“その人が1日に7回あなたに罪を犯し,7回戻ってきて『悔い改めます』と言うとしても,許さなければなりません。”とある。でもその一つ前の17:3には“注意していなさい。仲間が罪を犯すなら強く警告し,悔い改めるなら許してあげなさい。”とあるのに、こちらは無視している。17:3では罪を犯している人に対して警告する事、悔い改めが許す条件であることが書かれているけれど、とにかく許せというこの記事と矛盾するから無視だね。」
「パウロはコリント二7:9、10で“今は喜んでいます。皆さんがただ悲しんだのではなく,悲しんで悔い改めたからです。・・・神の意志に沿った悲しみは,救いにつながる悔い改めを生じさせるので”と言っています。救われるためには悔い改めることを言っています。」
「この記事では悔い改めという言葉は出てこない。エホバ教はキリスト教とは違うよね。」
「5から9節は“自分の気持ちを無視しない”です。 許すための第1ステップです。6節に“次の点を覚えておきましょう。怒りを感じるのは自然な反応ですが,怒ったままでいるかは自分で決められます。”とあります。そうなんですか?」
「この記事では人間は感情をコントロールできると根拠もなく想定している。怒ったままか怒るのをやめるかは個人の選択だと思っている。現実の人間は違うよ。感情がその人間を支配することだってある。」
「恐怖症は感情がその人間を乗っ取ってしまう例ですよ。」
「恐怖症は特定の物や状況に過剰な恐怖感を感じてしまい日常生活に支障が出てしまう障害だけど、本人はそんなに怖がらなくてもいいことは十分理解しても、やはり怖いわけだ。怖がるのは個人の選択ではないよ。他の感情も同じだ。」
「7節には3人の被害者が出てきます。全員女性です。女性は被害を受けても特に許すことが期待されているようです。」
「立場の弱い信者に過酷なのがカルトの特徴。」
「アン姉妹は“私が小さい時,父は母を捨てて私のベビーシッターと再婚しました。見放されたように感じました。2人に子供が生まれた時,自分の居場所がなくなったように思いました。自分は邪魔者なんだと思いながら大きくなりました。”といっています。」
「ということはアンは父親のもとに留まったということ?離婚の原因は父親にあるわけでしょう。普通は母親が親権を持ち、母親と暮らすよ。かなり不自然な話だ。」
「あとの話は、ジョルジェット姉妹は夫が不倫をし、ナオミ姉妹は夫がポルノを見ていたというものです。」
「不倫とポルノが同一に扱われているのがJWらしいね。JW的には不倫よりもポルノを見る方が悪いことなんじゃないの?」
「8節では“大抵の場合,一番良いのは許すことです。”とあります。そういう訳でJWの間では不倫がはびこるわけですよ。」
「妻がJWの場合、その夫は不倫がばれても、許すのが一番よいことだとものみの塔に書いてあったよ、と妻に言えばいいわけだ。男性にとってはいい宗教だね。」
「8節の下に“トラウマになるような経験をした場合”という記事が出ています。許すというのは“憤りや怒りの気持ちを捨てるようにするということです。”と説明しています。」
「過大な要求だね。JWなら、エホバは人間を自由に感情をコントロールできるようには造られませんでした、と言って欲しいね。」
「そして、“私たちを深く傷つけた人のことをエホバが裁いてくださることを信じ,エホバにお任せしましょう。”とあります。JWの決まり文句のエホバを待つ、ですね。」
「それなら結局許さないということだね。復讐願望を抱きつつ、じっと耐えるということだ。だからJWは精神的に病んでくる。」
「9節はジョルジェット姉妹のお言葉です。“別れた夫への怒りや憤りを捨てるようにしました。そうすると,とても穏やかな気持ちになりました。”といっています。よかったじゃないですか。」
「不倫して離婚した夫も、それはエホバのおかげだね、よかったね、と喜んでいるよ。夫はそれで元の妻のことは忘れ去り、新しい女性と心置きなく楽しく暮らすことができる。男性にとってはいい宗教だね。」
「10から12節が“感情をコントロールする”です。 許すための第2ステップです。10節には“心の傷が癒えるには時間がかかる”とあります。11節では“相手を許すことができるようエホバに祈って助けを求めることは大切です。”とあります。何にでも魔法のように効果があるのが祈りです。」
「心の傷が癒えるように、専門家に相談しましょうとは絶対に言わない。だからJWは精神的に病んでくる。」
「12節では“エホバに頼りましょう。”とJWの決まり文句が出てきます。エホバが頼りにならないからいろいろな問題が生じているのですよ。」
「決まり文句を繰り返すということは、執筆者はそれ以上の知恵がないということだね。被害者に許すことを押し付ける理由やそれが良い結果をもたらす根拠が思いつかないから、決まり文句でごまかすわけ。」
「12節にはナオミ姉妹のお言葉があります。“最初は,ポルノを見た主人を許せなくても仕方がないと思っていました。・・・エホバは私がどう感じているかや,心の傷が癒えるのに時間がかかるということを分かった上で,許すことを望んでいます。”とあります。ポルノを見ることを重大犯罪並みに非難する聖書的根拠はありません。ただJWが嫌っているだけです。」
「それなのに、エホバを持ち出すのが滑稽だね。ポルノを見たくらい許せないのかな?自分は被害者だとしつこく周囲の人間に訴えるのを“被害者ポルノ”ということを知らないのかな。」
「13から16節が“前向きな気持ちを持つ”です。 許すための3つ目のステップです。13節では“兄弟姉妹に傷つけられた場合は特に,仲直りすることを目指しましょう。”と言っています。家庭の問題から会衆内の問題に移行します。ここでも被害者は加害者を許して、仲直りしなくてはいけないようです。」
「JWという宗教は、加害者に優しく、被害者に厳しい。被害者になりやすい子どもや女性はJWにならないように。」
「14節では“エホバは人の良いところに注目しようとする方です。(代二 16:9。詩 130:3)”とありますが、引照聖句はそんなことを言っていません。」
「旧約聖書を見る限り、エホバは血統重視で個人の特徴など重視しない。集団主義で、どの民族に属しているかで人間を判断する。能力にかかわらず女性より男性を重視する。同性愛者というだけで死刑。個人の良いところに注目するなんてことはない。」
「サムエル一6:19に“神はベト・シェメシュの人たちを打った。彼らがエホバの箱を見たからである。民のうち5万70人が打たれて死んだ。エホバが大勢の人を死なせたので,民は嘆き悲しんだ。”とあります。箱を見ただけで死刑です。この出来事の前の6:15では“ベト・シェメシュの人たちは全焼の捧げ物を捧げ,その日,ほかの犠牲もエホバに捧げた。”とあります。良い点に注目していません。」
「サムエル二6:6、7には“ナコンの脱穀場まで来た時,牛が真の神の箱をひっくり返しそうになったため,ウザは手を出してそれをつかんだ。 するとウザに対してエホバの怒りが燃え,真の神はその場でウザを打った。”とある。ウザの良いところに注目などせず、ささいな行為をとがめて死刑にしている。」
「14節には“良い点に 注目しようとするなら,その人を許しやすくなります。”とあります。そんなことないでしょう。」
「嫌な点を考えると相手の評価はマイナス10点だけど、よい点がプラス15点あるから、総合得点はプラス5点になると計算しなさいといっているかのよう。人間の評価はそんなもんじゃないよ。」
「15節では“許したことを相手に伝えることもできるかもしれません。”とあります。被害者に過大な要求です。再びナオミ姉妹の登場です。“許していることをきちんと言葉にして伝えられた時,主人は安心して涙を流しました。そして私も,自分でもびっくりするほど晴れやかな気持ちになりました。主人のことをまた信じられるようになり,以前のように仲良くなりました。”というものです。これでポルノ問題解決です。」
「どうしてこれで“主人のことをまた信じられる”ようになるのか不思議だ。ウソ泣きにだまされているようにしか見えないけれど、悔い改めて、ポルノ撲滅運動に参加するとでも誓ったのかな?」
「ただ涙ぐんでみじめたらしく詫びただけですよ。今度は妻に見つからないようにポルノを楽しもうと心の中で思っています。」
「それにしてもポルノを見たことで夫婦間の大問題になるのはJWだけじゃないの?宇宙の創造者はポルノを憎むと断言するのはJWだけかも。」
「17、18節が“許すとどんな良い結果になるかを考える”です。 ご利益があるそうです。許すとエホバが喜ぶそうです。17節には“健康にも人間関係にも良い影響があります。”と断言しています。許すことを強要されて、そんなことありますか?」
「根拠を示して欲しいね。本当に健康に良い影響があるの?根拠もなく断定ばかりしていると、カルトのプロパガンダ雑誌としても、ますます信用を無くすよ。」
「18節に、最初に出てきたデニース姉妹の話の続きが出てきます。“事故を起こした運転手の男性は裁判が終わったら自殺しようと考えていました。でも,その男性はデニース姉妹が自分を許してくれたことに心を打たれました。そして,エホバの証人と聖書を学び始めました。”とあります。許すと信者が一人増えるというご利益があったということです。」
「バプテスマを受けて、開拓者になりましたとか、いまでは長老ですという決まりきったことを書いていないところを見ると、学び始めたけれど、すぐやめたんじゃないの。学び始めたのも、被害者家族がJWだったので、勧誘された時断りにくかっただけじゃないかな。」
- 許し
- 2025年04月25日 17:20:01
そもそも、イエスの贖いと血を根拠にして神に許していただくためには、新しい契約の当事者でなければなりません。
これは律法契約下で罪の一時的な許しを得るために、外国人も割礼を受けた改宗者となって律法の当事者となる必要があったことと同じです。
大群衆は新しい契約の当事者ではないらしいので、贖いの益は及ばず、ゆえに彼らの罪は神に許されていないことになります。
彼らの罪が許される法的な根拠は一切示されていません。おかしな教えですね。
- 聖書についての質問
- 2025年04月25日 14:19:40
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバは私たちを本当に許してくださる(7)”で、エホバは許してくれるので、JWからひどいことをされても、許してJWを続けなさい、という内容です。」
「数行で済む内容を無駄に膨らませているだけの記事だね。」
「2節に” 「あなたは本当に許す方。それで人はあなたに畏敬の気持ちを抱く」。 *(詩 130:4)エホバは「本当に許す方」です。”とあります。注を見ますと” 元のヘブライ語では,「許す」に当たる語に定冠詞が付いていて,それがほかのものとは異なる唯一本当の許しであることを示しています。多くの聖書翻訳ではこの重要な違いが見過ごされていますが,「新世界訳聖書」では詩編 130編4節でその違いが分かるように訳されています。”と自慢していますが、正しいですか?JWにはいかなる専門家もいないと思いますが。」
「古代ヘブライ語に定冠詞があるかな?慣習的に冠詞と呼ばれるけれど、本当は接頭辞。定冠詞が付くと“ほかのものとは異なる唯一本当の”という意味になると主張しているけれど、そうとは決まっていない。英語のtheと混同していると思うよ。」
「詩編130:4を“本当に許す方”と訳している翻訳はないということですか?」
「協会共同訳では“赦しはあなたのもとにあります。”だね。英語だとJW訳はthere is true forgivenessだけど、そんなふうに訳しているものはなく、単にthere is forgivenessだね。」
「3節に“エホバが誰かを許すとき,その人の罪は完全に消し去られます。”とありますが、エホバはどちらかといえば許さない神ですよ。」
「アダムとエバを許さなかったために、全ての子孫(約1000億人)が死ぬことになったというのが、JWの教義でしょう。罪に対して刑罰のバランスが取れていない。許さない神。」
「申命記23:2の“嫡出ではない子はエホバの会衆に入ることはできません。その人の子孫は10代目でも,エホバの会衆に入ることはできません。”も、なかなか許さない神ということがわかります。」
「嫡出でなくても子どもに罪はないでしょう。子どもは選択できない。それなのに10世代経つまで、仲間外れにするとは。どう考えても許さない神だね。」
「JWが大好きな旧約聖書には許す話はほとんど出てきません。虐殺の話はたくさんありますけれど。」
「旧約聖書の世界では許すことは弱さの現れと考えられているようだ。仲間である隣人を愛し、敵を徹底的に憎み、殺すという世界。許す話と言えば兄弟たちの罪を許したヨセフの話くらいだね。創世記50:17に“あなたの父の神に仕える者たちの違反をどうか許してください」。ヨセフはそれを聞くと,涙を流した。”とある。」
「旧約聖書を読めば、エホバは許す神ではなく、すぐ死刑にする神としか思えません。律法では死刑がやたらと多いです。」
「出エジプト21:17では“父や母をののしる人は必ず死刑にされる。”とある。謝っても死刑なんだろうね。出エジプト31:15では“安息日に仕事をする人は必ず死刑にされる。”とある。飢えた子どもの食料を探していただけでも安息日なら死刑なんだろうね。許す神とは程遠い。」
「5から8節は“エホバは罪を取り除く”です。 エホバは罪を取り去ってくれると言っています。罪を遠くに放し、後ろに投げ捨てる、海の中に投げ捨てると、聖書から引用しています。都合の良い聖句のつまみ食いですね。挿絵が4つもあって、幼児向けの絵本のようです。」
「それならヨシュア24:19、20には“この方は聖なる神,全くの専心を要求する神なのです。皆さんの違反と罪を容赦しません。 皆さんがエホバを捨てて外国の神々に仕えるなら,神は皆さんに良いことをした後でも,皆さんを退けて根絶やしにします。”とあるよ。違反と罪は容赦しない神じゃないの?」
「エルサレムの滅亡について、列王二24:3,4に“マナセが犯したさまざまな罪のゆえ, マナセが流した無実の人の血のゆえである。マナセは無実の人の血でエルサレムを満たした。エホバは許そうとはしなかった。”とあります。マナセ王の罪のせいでエルサレムの住人が苦しむことになったようです。許す神ではなく、無関係な一般人を処罰するのが大好きな神ですよ。」
「時には許し、時には許さない気まぐれな暴君が神でしょう。」
「9から13節は“エホバは罪を拭い去る”です。 エホバは罪を洗い流し、洗い落とし、負債を取り消し、覆い隠すと、聖書から引用しています。これも都合の良い聖句のつまみ食いです。挿絵は4つあります。幼児にもわかるようにという統治体による温かい配慮ですね。」
「それなら申命記29:20に神に従わない人に対して“エホバはその人を許そうとはしません。かえって,エホバの大きな怒りがその人に対して燃え,この書に記された災い全てが必ずその人にもたらされ,エホバはその人の名前を天の下から確実に消し去ります。”とある。罪も消し去ってくれるかもしれないけれど、その人自身も消し去るのがエホバだね。」
「哀歌3:43,44には“あなたは怒り,私たちが近づけないようにしました。私たちを追って,容赦なく殺しました。 ご自分に近づくものを雲で阻み,私たちの祈りが届かないようにしました。”とあります。罪を覆い隠すだけでなく、近づくものを雲ではばみ、祈りを聞かないのがエホバです。」
「イザヤ2:6、9には“あなたはご自分の民,ヤコブの子孫を見捨てました。・・・あなたが彼らを許すことはあり得ません。”とあり、許さない神とイザヤも言っているよ。」
「11節に“古代に使われていたインクは,すすと樹脂と水を混ぜて作られたもので,水を含ませた海綿で拭えば文字を消すことができました。”とありますが、本当ですか?」
「誤訳がある。gumを樹脂と訳しているけれど、樹脂ならresinだね。それに樹脂は水に溶けない。ここでいうgumは糊みたいなものでしょう。糊なら水に溶ける。」
「14から17節が“エホバは良い関係を回復させる”です。 14節に“エホバは罪を本当に許してくださる方なので,私たちはエホバとの良い関係を築くことができます。”とあります。エホバは“「私は彼らの過ちを許し,彼らの罪をもはや思い出さない」。(エレ 31:34)”そうです。」
「引照聖句はイスラエルとの新しい契約のことを言っている部分。エレミヤ31:33で“これが,そうした時代の後に私がイスラエル国民と結ぶ契約である。私は,私の律法を彼らの奥深くに入れ,彼らの心の中に書き記す。”とあり、そして31:34で“私は彼らの過ちを許し,彼らの罪をもはや思い出さない。”と言う。今のJWと何の関係もないよ。」
「16節で“でも,エホバが許してくださっているおかげで「罪から自由に」なることができました。(ロマ 6:17,18。啓 1:5)”とあります。引照聖句はエホバのおかげといっていません。」
「ローマ6:17,18は“かつて罪の奴隷だった皆さんは,今では神から与えられた教えの型に心から従順になりました。 皆さんは罪から自由にされたので,正しいことの奴隷になったのです。”とある。“神から与えられた教えの型に心から従順”になったので罪から自由になったと言っている。エホバは出てこないよ。」
「啓示1:5には“私たちを愛し,自分の血によって私たちを罪から解放してくださった方”とあり、これはキリストのことを指しています。エホバは出てきません。」
「新約になると、キリストが中心でエホバなる神は重要でなくなるので、新約聖書から引用するのはやめた方がいいと思うよ。」
「最後の18,19節が“エホバが許してくださるおかげで可能になること”です。 ここがこの記事の要点です。19節に“でも,許していただきたいと思うなら,私たちの側にもしなければいけないことがあります。イエスはこう言っています。「人の過ちを許さないなら,父もあなたたちの過ちを許されません」。(マタ 6:14,15)私たちはエホバに倣って人を許す必要があるということです。”とあります。この記事は、ひたすらエホバは許して下さる、と連呼してきたのですが、それも条件付きということです。」
「エホバという神様はそういうけち臭い神様でしょう。」
「エホバは許して下さる方なので、JWも許す人になろうということで、JWから性的虐待を受けても許しなさいということですよ。来週は“エホバに倣って人を許す”です。」
「こうやって組織内の犯罪は隠ぺいされるというわけだ。許すことは何度も強調されるけれど、過ちを犯さないようにすることはあまり強調されないのが、JWという宗教の特徴だね。」