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聖書についての質問
2024年06月14日 14:35:59

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“「十分に成長する」ことを目指しましょう(14)”で、円熟したJWになろう、そのためには組織の言いなりになりなさい、という内容です。」
「この記事では組織の助けが必要ということが強調されている。組織に依存しないとJWとしては円熟できないようだ。」

「1節に“赤ちゃんが生まれると,親はとても幸せな気持ちになります。”とあります。JWのせいで結婚も子どももあきらめた人に対する配慮がないですね。」
「英文ではFEW events bring more joy to a married couple than the birth of a healthy baby.で、健康な赤ちゃんの誕生以上に夫婦に喜びをもたらす出来事はほとんどないでしょう、と言っている。出産奨励の方針に変わったのかも。」

「3から8節が“クリスチャンとして大人になるとはどういうことか”です。 3節でいきなりおかしな文が出てきます。“聖書で「大人になる」と訳されているギリシャ語には「十分に成長した」とか「完全な」という意味もあります。(コリ一 2:6)”とありますが、引照聖句には“大人になる”と言う言葉は出てきません。“十分に成長した人たち”と訳されています。」
「英文では“full-grown”だから”成長した”。翻訳者が”大人になる”という言い方になぜかこだわっているので、引照聖句と一致しなくなっている。翻訳に問題があるのはいつものこと。」

「4節では成長したJWについて書かれています。“より好みをしたりせず,エホバが求めていることを全てその通りに行います。”とあります。完全な律法主義者ですね。」
「そう言われると思ってか、その後で“エホバの教えや基準を調べ,よく考えて決定するので,何をするにも細かなルールが必要ということはありません。”とあるよ。成長すると細かなルールは必要ないけれど、成長するまでは細かなルールに束縛されるようだね。」

「5節が十分成長していないJWのことで、“容易に「欺かれたり,ずる賢いたくらみに乗せられたり」,陰謀論を広める人や背教者にだまされたりしてしまいます。(エフェソス 4:14,15を読む。)”とあります。引照聖句はそんなことは言っていません。」
「エフェソス4:14,15は個々の信者のことではなくて、会衆のことを言っている。次の4:16がまとめだけれど、そこには“キリストの下に,体全体は,各関節が役割を果たすことにより,見事に組み合わされて協力し合います。各部が正しく機能するとき,体は成長していき,愛によって力づけられます。”とあって、キリストの体である会衆の在り方について述べてきたことがわかるよ。」

「引照聖句には“ですから,私たちはもう子供であってはならず,波にもまれるかのように翻弄されたり,風に吹かれるかのようにさまざまな教えに振り回されたりしてはなりません。”とあります。子どもだから翻弄されるとか振り回されるなどと書いていません。」
「“子供であってはならず”の意味は、その前の4:13に“私たちは皆,信仰の一致と,神の子についての正確な知識の一致に達し,十分に成長した人となり”とあり、その反対の人、つまり子どもであってはならないという意味。」

「ここで強調されているのは“一致”ですね。子どもというのは自分勝手で、一致できない人という意味ですね。」
「小さな子どもは仲よく遊べないし、共同作業もできない。JWと似ているよね。」

「6節には“十分に成長していないクリスチャンは,エホバとの絆を弱めるようなものを避けたり良い決定をしたりするために,成長したクリスチャンに助けてもらう必要があります。”と、長老などによる指導・監督の必要性を言っています。でも引照聖句はありません。」
「新約聖書が書かれた頃、キリスト教は組織宗教の前の段階だったので、組織運営の在り方や信者の教育・訓練などはほとんど書かれていない。聖書だけでは宗教組織を運営できないので、恣意的なルールがはびこる自称・聖書に基づく宗教が現れる。」

「7節は再び成長したJWのことで、“自分で決めなければいけないことまでほかの人に決めてもらおうとしたり,どうしたらいいか教えてもらおうとしたりはしません。”とあります。自己責任を強調しています。」
「長老に対するメッセージだね。組織は訴訟問題を恐れているのだろう。会衆内の問題に対してどう扱うかは長老で決めろ、統治体は知らないし、責任はないということにしたいようだね。」

「8節が面白いです。“また,成長したクリスチャンは聖書の基準に沿った決定をしますが,みんなが同じ決定をするというわけではありません。良心に基づいて決める場合は特にそうです。このことをよく理解しているので,ほかの人のことを批判したりせずに,一致してエホバに仕えることができます。”とあります。同じ決定をしなくても一致しているという支離滅裂な主張です。」
「これも翻訳に問題があるんだよね。they avoid judging each other over such differences. Instead, they focus on remaining united.だから、意見の違いについて判断することを避けて、団結を保つことに重点を置くという意味。小異を捨てて大同につく、と言いたいようだよ。」

「例えば、ひげを生やしていいか、生やしていいとしたらどこまでの長さ、と言ったことについて、長老たちは統一的な見解を出さないということですね。」
「あごひげは長い間禁止してきたのに、解禁したよね。こういったルールの変更に関しても、文句を言うな、黙って従えということだね。」

「9から11節は“どうすれば成長したクリスチャンになれるか”です。 大したことは書かれていません。10節で“クリスチャンとして大人になるためには,そうなりたいという気持ちをまず育てる必要があります。”と言っています。これは援助奉仕者とか長老になりたがらない人が多いことと関係していますね。」
「“「経験のなさを好む」人は,クリスチャンとして子供のままでいる方がいいと考え,成長しようとしません。”とあるからね。長老という名の雑用係など、なり手がいなくなりつつあるのだろう。」

「11節では“私たちは会衆の牧者,また教える人に助けてもらうことによって「十分に成長した人となり,キリストの背丈に達する」ことができます。(エフェソス 4:11-13を読む。)”とあります。そんな立派な人が会衆にいますか?いないからいろいろ問題が起きているわけです。」
「アメリカは酷いよね。何人もの長老が逮捕されている。JWにはもはや優秀な人を引き付ける魅力はないので、人材面で枯渇しつつある。」

「12から15節が“聖書の深い真理を理解する”です。 12節には“クリスチャンとして成長するためには,「キリストに関する初歩の教理より先に進」む必要があります。この初歩の教理には,悔い改め,信仰, バプテスマ,復活についての教えが含まれています。(ヘブ 6:1,2)”とあります。まるでJWは普通のキリスト教になろうとしているかのようです。」
「JWの初歩の教義と言えば、1914年、まもなくハルマゲドン、地上の楽園、伝道・集会の義務、統治体には絶対服従、輸血禁止、誕生祝い禁止、選挙禁止などなどでしょう。これらはどうしたのかな?」

「14節にはコリント一8章の話が出てきます。“例えば,コリントのクリスチャンはパウロに,偶像に捧げられた物を食べてよいかどうかを判断してほしいと頼んだようです。でもパウロは,一人一人に良心が与えられていて「選択の権利」がある,ということをよく理解していました。それでルールを作ることはしませんでした。”とあります。組織は細かいルールで信者を管理統制することをやめようとしているかのようです。」
「統治体の責任にならないように、統治体は細かなルールについて関知しないけれど、各会衆の長老がしっかり自分の責任で信者を管理統制しなさいということじゃないの。問題が生じて訴えるなら、長老を訴えてね、ということだね。」

「15節には“逆戻り”する危険性を取り上げて、“例えば,クリスチャンになったユダヤ人の多くは,キリストの犠牲によってモーセの律法が無効になってから30年ほどたった後も,律法に従う必要があると主張していました。”とあります。これは、伝道者が奉仕時間を報告しなくてよいのはおかしいから元に戻せとか、ネクタイなしではおかしいとか、ひげを生やすのを認めるのはおかしいので元に戻せというJWの保守派のことを言っていますよ。」
「組織はこれからも時代の変化に合わせて教義変更していく予定だから、古い信者に昔の方がよかった、などと言うなと警告しているね。」

「実際、今のJWはお年寄りが若い頃とは別の宗教になってしまったという話をよく聞きます。そういう人は昔を懐かしんでいますよ。」
「昔の方がまじめに聖書研究をしていたようだね。今の出版物は質・量とも低下している。一方、感情に訴える動画作りには熱心だ。昔バカにしていたテレビ伝道師のまねごとを今では統治体の老人がしている。」

「16から18節が“自己過信に注意する”です。 16節で“私たちはクリスチャンとして十分に成長するよう努力するだけでなく,逆戻りしないようにも気を付ける必要があります。”と、“逆戻り”を警告しています。」
「でも英文には逆戻りなんて言葉はなくて、maintainとあり、成長した状態を維持しなさいといっている。維持しない=逆戻りではないよ。」

「17節に“パウロは,十分に成長していたコロサイの兄弟姉妹に向けて,世の中の考え方に影響されないよう警告しました。(コロ 2:6-10)”とあります。成長維持するには、JW以外の情報を遮断せよということですね。」
「信者に自分たち以外の情報に接触しないように求めるのはカルトの特徴。カルトの教えは外部の情報と比較した場合、そのインチキがすぐわかるからね。」

「引照聖句に“哲学や,中身のない欺きにより,誰かに捕らわれてしまうことがないよう気を付けてください。そうしたものは人間の伝統や世の理念に基づいており,キリストを源とするものではありません。”とあるのですが、JWの教えのことじゃないですか?」
「JWの教義の基礎は19世紀のアメリカの再臨派の教えだね。年代計算の方法なんかはキリストを源とするものでは全くない。時代に合わなくなった教義は、新しい光と称して順次修正している。重なる世代なんかその悲惨な例で、キリストを源とするものではない。」

「JWの服装に関するルールは1950年代のアメリカの“伝統や理念に基づいて”いますよ。」
「男はスーツにネクタイで、ひげはダメで、女はスカートかドレスというのはそうだね。そんなJWの姿を見れば、アメリカの新興宗教の指導者に“捕らわれて”しまっていると思われても仕方がないね。それで少し変えたわけだ。」

「18節には“現在集会や奉仕をお休みしている人や,排斥されている人たちについてはどうでしょうか。謙虚に悔い改めるなら,エホバから完全に見放されるということはありません。しかし,エホバのもとに戻ってくるためには,エホバからの助けを受け入れる必要があります。(エゼ 34:15,16)”と、組織を離れた人に復帰を呼び掛けています。」
「新しい信者の獲得は困難だからね。元JWに戻ってきてもらう方がまだ可能性があると思っているんじゃないの。」

「引照聖句には“私は自ら自分の羊を養い,横たわらせる。 いなくなった羊を捜し,はぐれた羊を連れ戻し,けがをした羊に包帯をし,弱い羊を力づける。”とありますが、これはバビロン捕囚時代のイスラエル人のことを言っているもので、今のJWとは関係ないです。」
「そこにも“エホバのもとに戻ってくるためには,エホバからの助けを受け入れる必要があります。”とは言っていない。聖句の誤用だね。」

「最後の19節では“クリスチャンとして成長することに今取り組んでいるなら,その目標を必ず達成することができます。”と、根拠のない約束をしています。“必ず”というのはウソですよ。」
「安易に“必ず”とかそれに類似した言葉を使う宗教はインチキだから、さっさとやめよう。」

聖書についての質問
2024年06月07日 14:18:17

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバはあなたのことを喜んでいます(13)”で、組織の言いなりになっていれば、エホバは喜ぶという内容です。」
「2節に“バプテスマを受けることが必要です。”とあるから、JWのバプテスマを受けない人はどんなにいい人でも神様からは喜ばれないわけだ。」

「4から9節が“エホバに喜ばれていないと感じることがあるのはどうしてか”です。 大多数の信者はエホバに喜ばれているように感じませんよ。それは組織がそのように誘導しているからです。」
「信者に実行困難な過大な要求をし、自分は十分ではない、ダメだ、と思わせるのがカルト宗教のやり方だからね。」

「4節では“多くの人は,子供の頃から自分には価値がないという気持ちと闘ってきました。(詩 88:15)”とあります。JWによくいるタイプです。英文ではlow self-worthですから、自尊心の低さ、という意味ですね。」
「JWは子どもには過酷な宗教だからね。禁止事項が多すぎる。真面目にJWをやると、学校生活は悲惨なものになる。それで学校ではJWではないかのように振舞う子どもが結構いる。そうすると親にウソをつかざるをえなくなり、ダメな自分と思うわけだ。」

「引照聖句には“私は若い時から苦しんできました。今にも死にそうです。何も感じなくなりました。”とありますが、自尊心の問題ではないです。」
「詩編88の古代のシリヤ語訳の副題に“バビロンに住みし人に関して”とあり、バビロン捕囚についての詩と考えられている。聖句の誤用だね。」

「4節に“クリスチャンではない家庭で育ったトニー兄弟はこう言います。「私は親から『愛しているよ』とか『よくやったね』と言われたことがありませんでした。それで,どれだけ頑張っても認めてもらえないと感じていました」。”とありますが、これはJWの家庭ですよ。」
「JWの家庭はクリスチャンの家庭ではないよね。エホバの家庭だろう。」

「5節は、そういう人に対するアドバイスです。“自分には価値がないと感じる時,エホバご自身が私たち一人一人を引き寄せてくださったということを思い出しましょう。”とあります。これはJWの子どもたちには当てはまりません。JWの家庭に生まれただけです。」
「もっとましなアドバイスを思いつかなかったのか、あるいはJWの多くは伝道活動によってJWになったと誤認しているかだろうね。」

「6節は“真理を学ぶ前にしてしまったことが原因で,罪悪感を感じている人もいます。”とあります。これは刑務所で改宗した元犯罪者のJWですか?」
「罪悪感を利用するのがカルトだからね。組織は特に性的な問題を取り上げて、罪悪感を持たせるようにしている。例えば、大人がポルノを見ることを重大犯罪かのように言っている。」

「低い自尊心と罪悪感はカルト宗教の信者の特徴ですよ。」
「そういった人はカルト宗教のリーダーからすると、操作しやすいよい信者ということになる。」

「7節はアドバイスで“エホバは,私たちが悔い改めるなら快く許す,と約束してくださっています。(詩 86:5)”とありますが、引照聖句には“エホバ,あなたは善い方で,快く許してくださいます。”とあるだけです。詩編作者がエホバにそう呼びかけているだけで、神の約束ではありません。聖句の使い方が滅茶苦茶です。」
「JWの大好きな旧約聖書では悔い改めたら許されるという思想はないよ。」

「例えば、レビ4:27-28に“民の誰かが意図せずに罪を犯し,エホバに禁じられていることを行ったとして有罪になったのであれば, あるいは,罪を犯したことに気付いたのであれば,その人は,犯した罪のための捧げ物として傷のない雌の子ヤギを連れていかなければならない。”とあり、そして、その子ヤギの血を祭壇に振りかけ、脂肪を焼きます。レビ4:31では“祭司はそれを祭壇で焼いて煙にする。それはエホバにとって心地よい香りとなる。こうして祭司はその人のために贖罪を行い,その人は許される。”とありますね。」
「これが旧約聖書の神様だよ。脂肪の香りで怒りが静まる、原始宗教の神そのもの。」

「なぜか知りませんが、血を流すことが、許されるための必要事項ですよ。」
「ヘブライ9:22に“このように,律法によれば,ほとんど全てのものが血によって清められます。血が注ぎ出されなければ,罪が許されることはありません。”とあるとおりだね。神様は血を見ると気分が良くなるのかも。」

「8節では“エホバに喜んでもらえるほど十分にはできていないという気持ちになるかもしれません。”とあります。自己不全感ですね。これもJWに多いと思います。」
「自分自身のことを、どう頑張っても目標には到達しない、無価値、無能、役立たず、無知、怠け者、魅力がない、などと見なして苦しんでいるJWは多いだろう。これはうつ病か、うつ病の一歩手前の状態だよ。」

「9節がアドバイスで“エホバが厳しい方ではなく,私たちにできる以上のことを求めたりはしないということを思い出しましょう。”とあります。根拠となる引照聖句がありません。かりにエホバはそうでも、組織は過大な要求をしてきます。」
「自己不全感に苦しんでいる人は、もう何もできない、全然自信がもてなくなった、生きている価値がなくなった、と思うよ。こうなると危険な精神状態で、一刻も早く専門家に相談した方がいい。聖書を読んだって役に立たないよ。」

「9節にはパウロの例が出ていて、“状況が変わって伝道をあまり行えなくなった時,パウロに対するエホバの見方は変わってしまったでしょうか。そんなことはありません。できることを行い続けたパウロをエホバは喜びました。(使徒 28:30,31)”とあるのですが、エホバが喜んだなんて、引照聖句に書かれていません。」
「記事の質の低下が酷いよね。執筆者はエホバの気持ちがよくわかる特殊能力があるの?でたらめを書きすぎ。」

「10から14節が“エホバが私たちへの愛を伝える方法”です。 3つの方法が出ています。10節では①“聖書”とあります。聖書に書かれていることはJWに向けられていませんよ。それなのに“エホバは聖書を通して私たちに語り掛けてくれています。福音書に記録されているイエスの優しい言葉を,エホバからの言葉と考えることができます。(ヨハネ 16:27を読む。)”と、奇妙なことを言っています。」
「イエスの言葉をエホバの言葉と読み替えろ、ということ?何でもエホバなのね。」

「引照聖句では、イエスが“私が神の代理として来たことを信じているからです。”と言うのですが、誤訳ですよね。」
「イエス=神の代理というのはJWの思想でしょう。協会共同訳では“私が神のもとから出て来たことを信じたからである。”とあるように、原文では“神の代理”という言葉はない。JWが勝手に付け加えたもの。」

「11節が②“必要な助けを与えること”です。“エホバは私たちを助けたいと思っていて,生活に必要なものを与えてくださいます。”とあります。」
「要するに、貧乏な開拓者がパンの耳でも食べられたら、パンの耳でエホバが愛を伝えているということになるわけだ。もっと別な方法で愛を伝えて欲しいね。」

「12節が体験談です。ドミトリー兄弟は失業したのですが、“兄弟はエホバを信頼し,宣教にもっと参加するようにしました。でも,なかなか仕事は見つかりませんでした。”とあります。宣教活動をすれば仕事が見つかると長老にだまされたとしか思えません。」
「そのあと“兄弟は深刻な病気にかかり,寝たきりになってしまいます。”とある。お金がなくてまともな医療を受けられなかったのだろう。悲惨な話だ。」

「それでどうなったかというと、“兄弟は,エホバが助けてくださっているおかげで,家族は食べる物にも着る物にも住む所にも困っていない,ということに気付きました。”というものです。全く納得がいきません。生活費は天から降ってきたのでしょうか?」
「無職で、寝たきりなのにどうやって暮らしているかは全く触れられていない。サタンの政府から生活保護でも受けているので、触れられないのだろう。」

「JWはなるべく社会福祉の充実した国に住めということですね。福祉にただ乗りし、それをエホバが助けてくれたというわけです。」
「社会福祉制度はサタンの政府が生み出したものとして、飢え死にしてもサタンの政府の援助は受けませんとJWがきっぱり拒否したら、それなりに評価が上がると思うよ。今のJWは社会には貢献せずに、社会に寄生しているだけ。」

「13節が③“仲間の兄弟姉妹”です。“エホバは,仲間の兄弟姉妹を通して,私たちを愛していることを伝えてくれます。”とあります。体験談で、“姉妹は失業し,重い病気になりました。その後,夫が重大な罪を犯し,長老ではなくなりました。”というものです。」
「失業と病気はJWにはよくあることのようだね。悲惨な人生だね。」

「それでどうなったかというと、祈ったら、“会衆の長老たちが話をしてくれて,エホバに愛されていることを確信できるように助けてくれました。”、また、さらに祈ったら“まさにその日に,会衆のある兄弟姉妹から手紙をもらいました。温かいメッセージを読んでいるうちに,エホバが私の祈りに答えてくださったということが分かりました。”というものです。祈ったら、長老から話しかけられ、兄弟姉妹から手紙をもらったということです。」
「その程度のことを神が愛を伝えてくれたと言うわけね。失業と病気はどうなったの?これについても祈ったはずだよね。それについては何も書かれていないので、祈っても何の効果もなかったのだろう。」

「14節に” エホバは私たちのことを愛しているので,必要なときには兄弟姉妹を通して助言を与えます。例えば1世紀には,パウロに14通の手紙を書かせました。”とありますが、パウロの真正書簡とされているのは7つですよ。」
「ヘブライ書は手紙じゃないので、パウロの手紙は13。そのうち真正パウロ書簡とされているのは、ローマ、コリント一と二、ガラテヤ、フィリッピ、テサロニケ一、フィレモン。」

「15から17節が“エホバに喜ばれていることはどんなことからも分かるか”です。 3つのことが出てきます。15節には①“エホバに愛され,喜ばれている人は,聖なる力を与えてもらうことができます。”とあります。そして“聖なる力が生み出すものを表せているなら,それはエホバに喜ばれていることの証拠です。”とあります。」
「聖霊が生み出すとされているのはガラテア5:22,23にある“愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰, 温和,自制”の9つのことね。JWがこれらのことをJWでない人よりもより多く示すという証拠はないよ。JWはエホバに喜ばれていないようだ。」

「特に“喜び”はあまり示されませんよ。JWと言えば、陰気で生気に乏しい人たちです。」
「特に伝道している時はそうだね。カートの横に立っている人も喜びゼロだね。」

「16節には②“エホバは良い知らせを伝える任務を,信頼している人に与えます。(テサロニケ第一2:4を読む。)”とあります。引照聖句には“私たちは神から良いと認められ,良い知らせを託されたのですから”とありますが、“私たち”と言うのはパウロとその仲間のことですよ。パウロが自分たちのことを語っているだけで、“良い知らせを伝える任務を,信頼している人に与えます。”とは言っていません。」
「ここは、パウロが自分は福音を神から委ねられたと、強烈な自己主張をしている部分。今のJW とは何の関係もない。」

「16節には体験談が出ています。要するに伝道でうまくいったという話です。結論は“私たちが良い知らせを伝えるためにベストを尽くして頑張るなら,エホバが喜んでくださっていることを確信できます。”というものです。」
「ベストを尽くせば、神が喜ぶと、聖書のどこに書いてあるの?それってアメリカ人の思想。」

「そもそも伝道で誰もベストなんか尽くしていません。仕方なくやっているだけです。」
「新規の信者獲得という点では、ドアからドアの伝道もほとんど無意味だし、カート奉仕なんかは史上最悪の伝道方法。組織はもはや真面目に伝道なんかするつもりはないよ。」

「17節が③“エホバに喜ばれている人は,贖いに基づいて罪を許していただくことができます。(テモ一 2:5,6)”とあります。これは理解できませんね。引照聖句には“人間だったその方は, 全ての人のための対応する贖いとして自分を与えました。”とありますよ。エホバのお気に入りの人だけのための贖いではないです。」
「だから、JWはキリスト教ではないと言われる。」

「17節には“贖いに信仰を持つ人たちのことを正しい人と見て祝福する,と約束してくださっています。(詩編5:12を読む。ロマ 3:26)”とあるのですが、引照聖句はそんなことを言っていません。詩編5:12は贖いのことなど出てきません。
「ローマ3:26には“今イエスに信仰を持つ人を正しいと認めることも,正しいのです。”とある。“イエスに信仰を持つ”というのは“贖い”限定ではないよ。例えば、イエスが死んで復活したと信じるのもイエスに信仰を持つに含まれる。なぜここで贖いを強調するのかはよくわからない。贖いのことを近々取り上げるつもりなのかも。」

「最後の18節はまとめです。“これからもエホバとの絆を強め,エホバに喜ばれているといえる証拠に目を向けるようにしましょう。”とあります。」
「それだったら、あなたが集会に来るだけでエホバは喜ばれます、寄付してくれたらもっと喜びます、と書けばいいのにと思うね。この記事では根拠のないことをアレコレと書いているのだから、それくらい書いても問題ないよ。」

聖書についての質問
2024年05月31日 14:08:11

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“闇を離れ,光の中にとどまる(12)”で、JWとしての禁止事項を学び、JW活動に励めという内容です。」
「闇と光ね。オカルト的だね。でも中身と言えばSNSの使用に対する警告が多い。そんなことを言っても効果はないと思うよ。」

「この記事はエフェソスへの手紙を扱っているのですが、1節に“西暦60年から61年ごろにエフェソスのクリスチャンに宛てて書いた手紙があります。”とあります。書かれたのはこの時期ではないですよ。」
「エフェソスは偽パウロ文書と考えられているからね。パウロが死んでから後の時代に書かれたはず。パウロが書いたとする人でも60から61年頃に書いたとする人はあまりいない。」

「この文書がエフェソスにあてた手紙ということは否定されていますよね。」
「エフェソス1:1に“神の意志によってキリスト・イエスの使徒となったパウロから,エフェソスにいる,キリスト・イエスと結ばれた忠実な聖なる人たちへ。”とあるけれど、“エフェソスにいる”というのは、初期の多くの写本には欠けているので、後から書き加えられたとされている。」

「150年頃に書かれたマルキオンの本にはエフェソスではなく、ラオディキアにあてたものとあるそうですね。」
「エフェソスにパウロは2年間いたことになっている。知り合いもたくさんいたはず。それなのにエフェソスへの手紙には個人的な挨拶はなく、エフェソスのことをあまり知らない人として手紙を書いている。」

「つまり、この文書には元々は特定のあて先は書かれていなくて、各会衆に回覧することを目的とした文書と考えるのが一番もっともらしいわけですね。」
「それなのにエフェソスに向けて書かれた手紙という前提でこの記事が書かれているので、見当違いの内容が多いね。」

「3から7節が“闇から光へ”です。 エフェソスの人はかつては闇だったというのですが、その意味を解説したのが4節以降です。“間違った崇拝”と“道徳の乱れ”があったという意味のようです。」
「あまりわかっていないね。4節の質問が“エフェソスの人たちは崇拝の面で闇の中にいました。そういえるのはどうしてですか。”だけど、“闇の中にいた”とエフェソス5:8ではいっていない。“皆さんはかつて闇でしたが, 今は主と結ばれて光となっています”と 言っている。初歩的な誤読だ。」

「闇から光へと変身したのですね。」
「異教徒から正しいクリスチャンになったことを言っている。」

「6節では“こうした闇から離れる人たちもいました。”と間違ったことを言っています。」
「闇の中にいた、と誤解したままということがわかる。」

「そして、“その人たちは,聖書の真理という光の導きに従うようになりました。”とあります。そんなことは言っていませんね。」
「“今は主と結ばれて光となっています”と言っている。聖書を勉強して、その教えに従うようになったというJW的な理解とは違うよ。」

「7節に“私たちも,真理を学ぶ前は崇拝の面でも道徳の面でも闇の中にいました。間違った宗教に関係した祝日を祝っていた人もいれば,道徳的に乱れた生活を送っていた人もいます。”とあります。クリスマスなんか祝っている人は闇の中にいるわけですね。」
「子どもの誕生日を祝うのも、JW的には闇の中にいる人なわけだ。そんなことにケチをつけるJWの方が心の闇を抱えているように見えるよ。」

「8から12節が“闇から離れる”です。 この記事の中心的部分ですね。8節では“エフェソス 5:3-5を読む。”とあります。そして“エホバに喜ばれない行いを避ける必要がありました。その中には性的に不道徳な行いだけでなく,下品な会話も含まれていました。”とあります。下品な会話禁止ということです。」
「英文ではobscene talkだから、下品な会話というより、猥談だね。」

「9節に具体例が出ていて、“ある国では,何十人ものエホバの証人がオンライン上で友達になり,チャットグループを作って会話を楽しんでいました。初めは,エホバや聖書のことについて話していました。でもやがて,会話の内容は良くないものになっていき,セックスの話題で盛り上がるようになりました。”とあります。チャットグループをつくるのは禁止ということですね。」
「カルトは信者同士が例え真面目なものでも相互に交流するのを好まない。JWもそうだということ。」

「また禁止事項が増えたわけですが、老人のJWはチャットグループと言われても理解できませんよ。」
「集会では、老人はチャットグループについてトンチンカンなコメントをして若い人を笑わせて欲しいね。」

「10節はサタンの陰謀論です。“実際,多くの映画やテレビ番組,ウェブサイトによって,エホバの基準に全く反する考えが広まっています。サタンは,汚れた行動やライフスタイルは問題がないだけでなく,楽しいものだと思わせようとしています。(エフェソス 5:6を読む。)”とあります。サタンが支配する悪の世界というカルト的妄想が全開です。映画やテレビ番組,ウェブサイトを見るのも禁止ということですね。」
「引照聖句には“口先だけの言葉にだまされないでください。こうした事柄のために,神は不従順な人たちに憤りを表そうとしています。”とあるけれど、これはサタンのことを言っているわけじゃないよ。」

「エフェソス5:3-5でよくない事を列挙しています。“口先だけの言葉”というのは、そういうよくない事を大したことないよ、と過小評価するような言葉ですよ。それに騙されるな、真剣に受け止めろ、と言っているのじゃないですか?」
「JW訳では“神は不従順な人たちに憤りを表そうとしています。”とこれから生じることのように訳しているけれど、ギリシャ語の時制は現在形。ここで言う不従順な人たちは会衆内にいる人たちのこと。」

「エフェソスではサタンという言葉は使われていないというのはよく知られていることと思うのですが。」
「4:27の“悪魔に隙を与えてはなりません。”と6:11の“悪魔の策略にしっかり立ち向かえるように”で、サタンではなくdiabolosという語が使われている。この言葉はパウロの本当の手紙には使われない、非パウロ的表現。」

「11節で“それでパウロはエフェソスの兄弟姉妹に,エホバの目に悪いことを行う人たちと「関わりを持ってはなりません」と言いました。(エフェ 5:7)”とあります。カルトらしい付き合う人の制限です。」
「翻訳に問題がある。“関わりを持ってはなりません”なんて無理でしょう。いろいろな人と関わらざるを得ないのが普通の人生。例えば、コリント一5:9,10で“それは,この世の性的に不道徳な人や,貪欲な人,脅し取る人,偶像を崇拝する人と全く接しないようにという意味ではありません。もしそうだとすると,皆さんは世から出なければならないことになります。”とパウロは言っている。」

「協会共同訳では、“ですから、彼らの仲間になってはなりません。”ですね。」
「“関わる”と訳されているギリシャ語は“共にあずかる”という意味。エフェソス3:6でも使われ、そこでは“神の約束は私たちだけでなく異国の人々にも実現するのです。”と訳されている。異国の人々も神の約束に“共にあずかる”という意味。単にかかわるではない。」

「11節には、ある姉妹の発言が出ています、“ソーシャルメディアを使っていると,だんだん感覚が鈍くなってきます。私は,聖書の原則を大切にしない人たちを友達にすることを何とも思わなくなってしまいました。そして,エホバが喜ばないライフスタイルをしても構わないんじゃないかと思うまでになりました。”とあります。ソーシャルメディア禁止ということですね。そんなことを言っていると、若い人はJWをやめますね。」
「会衆の大半を占める老人JWはソーシャルメディアって何のこと?と思っても、知ったふりをして、うなずくのだろうね。」

「12節には“次のように考えてみるのは良いことです。「職場や学校などで会う,エホバの基準を大切にしていない人たちと必要以上に仲良くならないように注意しているだろうか。考え方が古いと言われるとしても,エホバの基準にしっかり従うだろうか」。”とあります。JWは学校でも職場でも、奇妙なカルトの一員として孤立した生き方を強いられるということですね。寂しすぎます。」
「信者を孤立させて、宗教に頼らざるを得なくするのがカルト宗教だからね。それに対抗して、多くのJWは二重生活を送っているんじゃないの?ある時は普通の人、別の時はエホバ大好きのJWと使い分けている。」

「13から18節が“「光の子供として」歩む”です。 13節には“これはつまり,どんな時も本物のクリスチャンにふさわしい行動をするということです。そうするための1つの方法は,聖書と出版物をよく読み,深く学ぶことです。”とあります。聖書と出版物を勉強すると光の子どもとして歩めるようです。」
「13節には“エフェソス 5:7-9を読む。”とあり、そこには“光はあらゆる善いことと正しいことと真実なことを生み出します。”とあるよ。光の子どもとして歩むということは、善、義、真実を生み出し、他の人に良い影響を与え続けることで、何かを勉強することではない。1世紀のクリスチャンの多くは字が読めない人。」

「14節では“聖なる力による助けも必要です。”とあり、15節では“聖なる力を与えてもらうためには,祈ることが大切です。”とあります。」
「問題はその次だね。“集会でエホバを賛美する時にも,聖なる力をもらうことができます。(エフェソス 5:19,20を読む。)”とあるけれど、間違い。協会共同訳では5:18から“むしろ、霊に満たされ、互いに詩と賛歌と霊の歌を唱え、主に向かって心から歌い、また賛美しなさい。”となっている。」

「つまり、霊に満たされた結果、詩や歌などの賛美する行動が生じると言っているわけですね。因果関係が逆なわけです。」
「それなのに、この記事では集会で歌を歌ったら聖なる力がもらえるなんて、バカなことをいっている。そんなことが起こらないことはJWならみな知っているはず。」

「17節には“パウロはエフェソスのクリスチャンに,時間を賢く使うように勧めました。(エフェソス 5:15,16を読む。)”とあります。引照聖句には“時間を有効に使ってください。今は悪い時代だからです。”とありますが、以外にも終わりが近いからですとは言っていませんね。」
「コリント一7:29には“兄弟たち,私は次のことを言います。残された時は少なくなっています。”とある。パウロは終わりの時が近いと信じていた。しかし、終わりは来なかった。それで後の時代に書かれた偽パウロ文書はパウロの終末論を修正することになる。」

「その後で“「邪悪な者」であるサタンは,エホバに仕える時間が残らないほど,毎日の生活のことで忙しくさせようとしています。(ヨハ一 5:19)”と言っていますが、引照聖句はそんなことは言っていません。」
「忙しいのはサタンのせいだったとは知らなかった。単にすることが多いからと思っていたよ。」

「その後で、“それで私たちも,エホバにベストを尽くして仕えることよりも,お金や教育や仕事を優先させるようになってしまうかもしれません。もしそうだとしたら,それは私たちがエホバに仕えていない人たちの影響を受けていることのサインです。”とあります。正しいJWはカネなし、教育なし、仕事なし、の生き方を選ぶようです。つらい人生です。若い人には無理です。」
「信者にそういう生活をさせながら、さらに寄付を要求するというのは無理でしょう。JWという宗教は持続可能じゃないな。」

「18節はドナルド兄弟の体験談です。“『エホバのためにもっと多くのことができるように助けてください。伝道の時間をもっと増やせるような仕事を与えてください』と祈りました。エホバの助けでぴったりの仕事を見つけることができました。夫婦で全時間奉仕をするという人生の新たな一歩を踏み出すこともできました。”というものです。聞き飽きたパターンの話です。もっと工夫した面白味のある体験談を創作して欲しいです。」
「“ぴったりの仕事”とはどんなものか教えて欲しいね。祈らなくても、誰でも応募すれば採用される低賃金で、過酷な単純労働を強いられる仕事じゃないよね。」

「最後の19節はまとめです。いろいろ禁止事項が出てきましたが、“こうしたことを行うなら,闇を離れ,光の中を歩み続けることができます。”と締めくくっています。」
「JWの生活は暗闇の中の生活で、統治体が懐中電灯で照らす部分しか見てはいけないと強制されているようなもの。その闇から早く離れよう。」

聖書についての質問
2024年05月24日 14:26:05

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“がっかりすることがあっても諦めないでください(11)”で、失望ばかりのJW人生だけど、忍耐しなさい、という内容です。」
「忍耐か。よくあるテーマだね。喜びや楽しみは少なく、忍耐を強いられるだけがJWの人生だからね。」

「1節には“私たちは終わりの時代に住んでいるので,いろいろな難しい問題を経験します。そんな中で,エホバの家族の一員でいられるのは素晴らしいことです。”とありますが、これはウソですね。今は最も恵まれた時代じゃないですか?」
「19世紀と比較して、平均寿命や乳幼児死亡率などはあらゆる指標でよくなっている。19世紀だと、庶民は洗濯物を手で洗い、食事は炭や薪で苦労して火をおこして作り、水は遠くから運んでくる必要があった。十分に食べられる人は少なく、肥満は問題にならなかった。現在の先進国の十分食べられて、電気製品に囲まれ、蛇口をひねれば水が出てくる生活に比べれば、昔の方がはるかに“難しい問題を経験”していた。」

「それから“エホバの家族の一員”は少しも素晴らしくありません。エホバの家族に生まれたくなかった人はたくさんいます。」
「そんなに素晴らしいなら、どんどんJWが増えているはず。そうならないのはどうしてなのかな?」

「3から7節が“仲間に傷つけられた時”です。 エホバの家族はすぐにお互い傷つけあうみたいです。どこが素晴らしいのでしょうね。」
「3節に“そんな時,これは本当に神の組織なんだろうかと疑問に思うかもしれません。”とある。まともな知性を持っている人ならそう疑うよ。でも多くはそうしないまま老人になり、後悔するわけだ。」

「4,5節が“聖書中の例”で、パウロががっかりさせられた話が出てきます。4節では“一緒に働いてきたマルコにがっかりさせられたこともあります。(使徒 15:37,38)”とあり、引照聖句には“バルナバは,マルコと呼ばれるヨハネを連れていくことに決めていた。しかしパウロは,パンフリアでマルコが一緒に行動するのをやめてしまったことがあるので,彼を連れていくことに賛成できなかった。”とあります。なぜマルコは一緒に行動するのをやめたのですか?単なる仲たがいじゃないですよ。」
「マルコは途中でエルサレムに帰ってしまったのだけれど、その理由は何も書かれていない。ということは、あまり書きたくない理由で帰ったと推測される。」

「恐らく教義上の対立ですね。“使徒たちの活動”は使徒たちの間に深刻な教義上の対立はなかったものとして描かれています。本当は様々な対立があったわけです。」
「マルコは初期の頃からの弟子で、様々な伝承はペテロと関係が深い人物として描いている。例えば、ペテロ一5:13で“バビロンにいる,皆さんと同じように選ばれた女性が,よろしくと言っています。私が愛するマルコもそうしています。”とある。マルコはペテロの通訳を務めていたという伝承はよく知られている。」

「つまり、マルコはペテロに近い人物なので、パウロとは考えが違ったということですね。」
「考えられるのは異邦人のクリスチャンに対する処遇だね。マルコは使徒13章ではヨハネとヘブライ名で呼ばれている。これはマルコがユダヤ人の伝統にこだわっていたことを示唆している。後になると、ヨハネではなくマルコというローマ名でよばれる。これはマルコがユダヤ教的な考えから脱したことを示していると解釈できる。」

「5節では“パウロがマルコにどのように接したかを考えてみましょう。”とあり、“マルコのことを「とても慰めてくれ」る大切な仲間だと褒めました。(コロ 4:10,11)ローマで投獄されていた時には,自分を支えるためにマルコを連れてきてほしいと言いました。(テモ二 4:11)”とあります。パウロはマルコと仲直りしたということですね。」
「ここで引用されているコロサイもテモテも偽パウロ文書。パウロが書いたように見せかけるために、挨拶の所でマルコの名を出していると考えられている。」

「パウロの真筆とされるフィレモン1:24に“私と共に働く仲間のマルコ,アリスタルコ,デマス,ルカもよろしくと言っています。”とありますから、どうせならこちらを引用すべきということですね。」
「コロサイ4章で挨拶を送る人はフィレモンに出てくる4人全員が含まれている。コロサイは本物らしく見せるためにフィレモンを参考にしたね。」

「6,7節が“学べること”で、6節には“誰かに気に障るようなことをされたとしても,その人がエホバに喜ばれることを行いたいと思っていることを疑わないようにしましょう。ただ軽率に行動してしまっただけなのかもしれません。(格 12:18)”とあります。とあります。いつものやったもの勝ちの被害者泣き寝入りの勧めですね。」
「6節では、“エホバは私たちが間違いをしても,いつまでも怒ったり見限ったりするのではなく,愛し続けてくれます。”とあるけれど、JWの組織はささいなことで排斥し、集団絶交を行う。誰もがこれが真の神の組織だろうかと疑問に思うよ。」

「7節が面白いです。“終わりが近づいているので,仲間との絆を強めることはとても大切です。今後迫害が厳しくなり,投獄されることもあり得ます。”と、恐怖をあおっています。」
「JWなど、政府は相手にしないよ。政府が相手にするのは犯罪者。JWが児童性的虐待を隠蔽したりしなければ、いつまでものんびりカートの横で突っ立っていられるよ。怖がることはないね。」

「7節に体験談が出てきます。“スペインで長老として奉仕しているジュゼップ兄弟は,軍隊に加わらなかったために他の兄弟たちと一緒に投獄されました。”とあります。普通は同じ団体の囚人は別々にするのではないですか?」
「いつ頃の話か書いていないからね、よくわからない。スペインは2000年頃、他のヨーロッパの国々と同時期に徴兵制は廃止になった。だいぶ前の事例を持ち出して、信者を怖がらせている。」

「現在、徴兵制度のある国でもほとんどの国で良心的兵役忌避が認められていますよね。徴兵拒否=刑務所行き、ということはありません。JWにとって不都合ですよね。」
「徴兵制があって、良心的兵役拒否が非合法で、代替役務が制度化されていない国は、北朝鮮とトルコくらい。圧倒的多数のJWには関係ないね。」

「8から11節が“夫や妻にがっかりさせられた時”です。 JWの結婚と言えば、悲惨なものが多いですからね。8節に“聖書によれば,結婚する人は「苦難を身に招きます」。(コリ一 7:28)”とあります。これも誤解を生む表現ですね。」
「旧約聖書では結婚するのは当然。しかしパウロは結婚に否定的だったというだけ。JWも結婚に反対ということかな?」

「9,10が“聖書中の例”でアビガイルが取り上げられます。まず“アビガイルの夫はナバルという荒っぽくて行状が悪い人でした。(サム一 25:3)”とあります。ナバルの意味はバカとか邪悪なという意味じゃないですか?」
「その通り。この名前からして、このお話のヒロインであるアビガイルを引き立てる悪役として登場しているだけ。」

「引照聖句には“妻はアビガイルといった。妻は機転が利く美しい人だった”とあり、聖書中のヒロインは美人と決まっています。」
「旧約聖書では女は美人でなければ価値がない。楽園でも同じだよ。」

「9節で“次のイスラエルの王になるダビデが,ナバルを殺しに来たのです。ナバルがダビデとその部下たちを侮辱したからでした。(サム一 25:9-13)”とあります。侮辱されたら殺してもいいのですか?ダビデの行動を非難すべきなのに、JWは肯定しています。倫理観がおかしいです。」
「史実的にはダビデは傭兵隊長でしょう。暴力団の親分みたいなもの。名誉が何より重視される文化では侮辱されたら殺すのは当然。現代人から見れば危険な犯罪者。」

「その後、“アビガイルは成り行きに任せて,自分だけ逃げることもできました。”とありますが、女一人でどうやって生きていくのですか?」
「自分の夫を捨てて逃げるという選択肢が古代イスラエル社会であったかというと、ないでしょう。夫が殺されたら、妻も子どもも狙われる。一族皆殺しだよ。だからアビガイルはダビデに謝罪しに行った。」

「10節で“アビガイルはエホバを愛し,結婚に関するエホバの基準を守りたいと思っていました。アビガイルは,エホバが最初の夫婦であるアダムとエバに伝えたことをよく知っていたと思われます。”と、根拠のないことを言っています。」
「だからアビガイルは夫のために行動したと言いたいようだけど、違う。古代では夫と妻は独立した個人ではない。運命共同体。ダビデの報復を恐れて、アビガイルは行動した。自分を救う行動だよ。」

「ナバルはその後都合よく死に、アビガイルはダビデの何人か目の妻になります。結婚に関するエホバの基準はどうしたのですか?」
「一夫多妻はエホバの基準では問題ない。楽園でも一夫多妻が認められるよ。」

「10節で“このように勇敢で他の人のために進んで自分を犠牲にするアビガイルのことを,エホバは大切に思っていたに違いありません。”と適当なことを言っています。自己犠牲のすすめですか。」
「アビガイルを神様が具体的に助けた、なんてことはどこにも書かれていない。大切に思ったけれど、何もしないのが神様なわけだ。」

「11節は“学べること。”です。“エホバは,夫や妻が大変だと感じる時にも,結婚生活を続けることを願っています。”とあります。アビガイルの話と何の関係もありませんね。」
「英文ではeven if their mate is difficult to live with.で、一緒に暮らすのが難しい場合でも、と言っている。夫の暴力で肋骨が折れて入院するくらいでないと、別居もダメというのがJWだよね。JWは女性には過酷な宗教だね。」

「11節に、“50年にもわたって辛抱”したカルメン姉妹の体験談が出ています。“結婚がエホバの神聖な取り決めだと知ってからは,それを守るためにできることを何でもしました。エホバのことを愛していたので,夫と別れるようなことは決してしませんでした。”とあります。結婚はエホバのために続けるものなのですか?倒錯した価値観です。」
「夫はJWでないようだから、ちゃんと働いて経済力があるんだよ。カルメン姉妹はJW活動のせいで経済力ゼロ。離婚して生きていけないから夫婦を続けているだけでしょう。よくある話。それを美談に仕立て上げた。」

「12から15節が“自分の失敗に落ち込む時”です。 12節に“重大な罪を犯すと,自分はだめな人間だという気持ちになるかもしれません。”とあります。JWは些細な失敗も重大な罪として、意図的に信者をダメな人間と思わせようとしていますよ。」
「大人がポルノを見たことで悩んだりするのがJWなんだよね。罪悪感を利用して信者を支配するのがカルト宗教。」

「12節に“ロバート兄弟は何年も努力し,援助奉仕者になりました。でも,重大な罪を犯し,エホバを裏切ってしまいました。”とありますが、誤訳じゃないですか?」
「One brother named Robert had worked hard for years to qualify as a ministerial servant.だから、援助奉仕者の資格を得るために何年も熱心に働いてきました、だね。しかし、重大な罪を犯して援助奉仕者になれなかった、ということだろう。それで後悔したんだ。」

「今では10代でも援助奉仕者になれますよ。兄弟が不足しているからです。」
「そういうこともあって、援助奉仕者になれたことにしたのかもね。でもそうするとロバート兄弟の失望感が理解できなくなる。」

「13,14節が“聖書中の例”です。ペテロの登場です。13節がペテロの失敗の数々で、14節で、“ペテロが諦めずにエホバに仕え続けることができたのはどうしてでしょうか。”と、問いかけます。」
「統治体こそ、失敗続きでしょう。それでも諦めず、終わりが近いと言い続けるのはどうしてでしょうと問いかけたいね。」

「14節によると、“まず,ペテロは独りきりにならないようにしました。仲間の兄弟たちと一緒にいて,力をもらいました。”とあります。仲間に支えられたということですね。さらに、“また,復活したイエスがペテロの前に現れました。おそらく励ますためでしょう。”とあります。」
「ペテロを励ますために復活した?そんなことは聖書のどこにも書いていない。」

「これは誤訳ですね。イエスの復活の意味を理解していませんね。JWはキリスト教ではないですから。」
「Jesus appeared to Peter, likely to encourage him.だから、イエスはペテロに現れて、恐らく励ましたでしょう、という意味。後ろの部分は励ますためという目的を表す句ではないよ。」

「15節が“学べること”です。“エホバは私たちのことを愛し,進んで許したいと思っています。そして,そのことを私たちに確信してほしいとも思っています。”とありますが、確信できませんね。エホバのこれからすることは人類大虐殺ですよ。生まれたばかりの赤ちゃんも殺すことを厭わない愛も許しもない神です。」
「ハルマゲドンという大虐殺を引き起こす神が愛と許しの神と言われても誰も納得しないね。」

「聖書には神によって無残に殺された話がたくさんありますよ。残虐な神ですよ。」
「エリシャの禿げ頭をからかった子どもがクマに襲われて殺された話とかね。なぜそんな死に方を神が選んだのか理解できないね。日本では昨年クマに襲われた人が多かったけれど、悲惨な死に方だよ。助かっても、クマの爪や牙でできた深い傷が体にいつまでも残る。残虐な神としかいいようがないね。」

「15節では、先ほどの援助奉仕者になれなかったロバート兄弟が“勇気を出して話すと,エホバが長老たちを通して優しく助けてくれていることにすぐに気が付きました。長老たちは私のことを見限らずに愛し続けてくれました。”と言っています。長老に相談しろ、ということですね。」
「それが役に立たないから、問題なんだよ。長老って、いくつかの聖句と雑誌の記事を読みあげることしか能がない人でしょう。」

「ロバート兄弟の論理が正しいのなら、相談した結果、おしゃべりな長老の妻から相談内容が会衆全体に漏れ、周りから冷たい扱いを受けた場合、エホバが長老たちを通して、いじめているということになりますよ。」
「その方がいかにもエホバらしいね。クマに襲われるよりましでしょう。」

「最後の16節はまとめです。“がっかりすることがあっても,エホバが必ず助けてくださるので,頑張り続けることができます。”とあります。」
「エホバはがっかりしないようには助けてはくれないわけね。というわけで、がっかりし続けることがJW人生のようだね。」

聖書についての質問
2024年05月17日 13:45:21

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“バプテスマの後もイエスに従い続ける(10)”で、バプテスマをうけたらまじめにJWをしなさい、という内容です。」
「イエスに従うのではなく、統治体の老人に従えということだよね。この記事も性的誘惑を退ける話が出てくる。性的な妄想に取りつかれた宗教だね。信者間での性的問題が多いということなのかな?」

「4から10節が“試練や誘惑があってもイエスに従い続ける”です。 4節に“エスは弟子たちに,「苦しみの杭」を「日々」負うことになる,とはっきり言いました。(ルカ 9:23を読む。)これは,イエスに従うといつも苦しまなければいけない,ということでしょうか。そうではありません。イエスは,幸せな生き方ができるとはいえ問題を抱えずに済むわけではない,ということを強調していました。”とありますが、違いますよ。」
「そういう小市民的な教訓ではないね。引照聖句のルカ9:23には“誰でも私に付いてきたいと思うなら,自分を捨て,日々苦しみの杭を持ち上げ,”とある。イエスの弟子になりたいのなら、小市民的な幸福を断念しなさい、といっている。過激な思想。」

「6節では“バプテスマを受けた後も,「罪深い欲望」と闘い続ける必要があります。”とあり、7節では“エホバに献身すると,自分を捨てることになります。つまり,間違った欲求を満たそうとしたり,エホバを悲しませるようなことをしたりしないということです。”と、欲望と闘うことを強調しています。」
「この欲望には食欲は入らないようだね。統治体の肥満ぶりはひどい。暴食はJWでは罪ではないということね。」

「8節では“例えば,結婚している誰かのことが気になってしまったらどうしますか。”と不倫問題が取り上げられます。狭いJWの世界ですからね、JW同士でいろいろありますよ。」
「JWの集会には子供や若い女性は危険すぎると思っていたけれど、既婚女性も狙われるのね。恐ろしいね。」

「9節は仕事の問題です。“もし,集会に定期的に出席するのが難しくなるような仕事の話が来たらどうしますか。きっと迷うことはないでしょう。”とあります。バプテスマを受けた後は集会優先、仕事は二の次となるようです。」
「他人の寄付で暮らしている人は気楽に言えるよね。他に働き口がなくても、迷うことなく断るのが正しいJWなわけだ。収入がなくても、JWは生きる方法があるの?」

「10節で、“聖書にはこうあります。「神は信頼できる方で,皆さんが耐えられないほど誘惑を受けるままにはしません。出口を設けて,誘惑に耐え切れるようにしてくださいます」。(コリ一 10:13)”とありますが、仕事の話はここで言う誘惑とは関係ないですよ。」
「神は就職先を必ず見つけてくれます、という聖句はないね。」

「11から18節が“イエスに従い続けるには”です。 11節では“時には,エホバにもっと仕えようと努力している兄弟姉妹の話を聞くことがあるかもしれません。王国福音伝道者のための学校に出席した人や,さらに伝道者が必要な区域に移動した人たちの話です。もし同じような目標を立てられるなら,それは素晴らしいことです。”とあります。単なる伝道者では不十分だと思わせようとしています。」
「英文ではIf you can set such a goal, by all means do so.で、もしそのような目標を設定できるなら、ぜひそうしてください、と言っている。」

「その後に“でも,今はそうできないとしたらどうでしょうか。そのような人たちと比べて,自分は劣っているなどと考えないでください。”と言っていますが、実際は劣っていると考えよ、と言っているのと同じです。」
「信者の間に、細かな序列を作り、信者同士競わせるのがカルトのよく使う方法。JWも細かな序列があるよね。そんな序列など気にせず、一番下にとどまるようにするのが、カルト宗教とうまく折り合う方法だね。」

「12節では“自分の祈りに心がこもっていないとか,宣教がマンネリ化しているとか,聖書通読を前ほど楽しめていない,と感じる場合はどうでしょうか。”と問いかけています。」
「訳に問題があるね。“聖書通読を前ほど楽しめていない”ではなく、“聖書を読んでも以前ほど有意義に感じられなくなった”だね。聖書通読はもともと楽しくないもの。」

「それに対する回答は“私たちは完全ではないので,気持ちの浮き沈みを経験することがあります。”というものです。完全な人は感情が変動しないとは知りませんでした。完全な人イエスは平板な感情しかありませんでしたか?違いますよ。」
「執筆者の思い付きにすぎないね。完全な人はどんな人かなんて誰も知らない。だから好き勝手に言っているだけ。」

「12節で“コリント第一 9:16,17を読む。”とありますが、この訳もへんですよ。まず“私が良い知らせを広めていることは,誇る理由にはなりません。私に与えられた任務だからです。”がヘンです。任務だからやっているとパウロは言っていませんよ。それだったら、普通のJWと同じです。」
「協会共同訳では“そうせずにはいられないことだからです。”となっている。ここはお金が得られるわけでもないのになぜ福音を伝えているのかを説明している部分。自分の内側からこみあげてくる衝動のようなものがあって、そうせずにはいられないからと説明している。JW訳はダメだね。」

「英文ではnecessityです。必要にせまられてとかやむを得ず、という意味ですから、日本語訳に問題があるということですね。」
「元の言語から英語に翻訳するときに間違いがあり、英語から日本語に翻訳するときにさらに間違うというのがJW訳。ひどいよね。」

「それから“その任務を進んで果たすなら,私は報いを得ます。しかし,たとえ自分の意志に反して果たすとしても,管理人としての責任があることに変わりはありません。”とありますが、これもヘンです。“管理人としての責任”ってなんですか?」
「英文ではI still have a stewardship entrusted to me.だから、stewardshipを“管理人としての責任”と訳したわけだ。管理人と訳すると何か偉そうだけど、主人の奴隷の一人にすぎない。例えば。ルカ16:1に“イエスは弟子たちにも言った。「ある裕福な男性に仕える家の管理人が,主人の物を浪費していると訴えられました。”とあるけれど、同じ単語が使われていて“家の管理人”とここでは訳されているけれど、身分は奴隷。」

「この部分を12節では“パウロは,意欲が湧かない時にも自分の務めを果たそうと心に決めていたのです。”と解説していますが、違いますよ。そういう決意表明じゃありません。」
「ここでは、パウロが自分の宣教活動について述べていて、自分はそうせざるを得ないから進んでやっているけれど、そうでなかったら自分に託された任務でしょう、と言っていると思う。」

「つまり、パウロには宣教をしないという選択肢はないということですね。」
「最後の部分はギリシャ語ではわずか2語しかない。それをJW訳では“管理人としての責任があることに変わりはありません。”と勝手に意味を加えて長い文に訳している。」

「13節が結論で、“私たちも,自分の感情に振り回されないようにしましょう。気持ちが乗らない時にも正しいことを行うと決意してください。”とあります。決意すればなんとかなるというのがJWの教えのようです。」
「気持ちが乗らないというのは、自分の体が発している警告です、と愛ある宗教なら言って欲しいね。このままでは病気になるかもしれませんので、しばらく休養を取りましょう、となぜ言えないのかな?信者をただでこき使うことしか考えていないからだよね。」

「13節の下に3つのイラストがあります。“最後まで走り続けるために”という題が付いています。聖書を読む、集会に参加する、宣教活動をする、ということが描かれています。この3つをやっていれば楽園に行けるということですね。」
「宣教活動のイラストはカートの横に薄ら笑いを浮かべて立っているというもので、これはJWとしてはもう家から家への伝道は重視しないということを意味していると思うね。これだと話す技術も必要としないしね。」

「14から17節が“いつも確かめ……いつも調べてください”です。 ここでの中心はロバート兄弟のウソくさい体験談です。15節に“20歳の頃,パートタイムで働いていました。ある日,仕事が終わった後,同僚の女性から家に来るように誘われました。その女性は『2人だけで“夜”を過ごそうよ』と言いました。最初は遠回しにしか断れませんでしたが,最終的には理由を説明してきちんと断ることができました。”というものです。JWは性的な話が大好きですね。」
「パートの独身のおばちゃんから誘われたけれど、不気味過ぎて断ったというだけじゃないの?」

「JWの男というのは男性的魅力に欠けた、ダサい男がほとんどです。おかしなカルト信者よりも、職場にはもっとましな若い男はたくさんいますよ。なぜわざわざカルト信者に目を付けたのか理解できません。」
「カルト信者にはカルト信者しか持っていない奇妙な魅力があるんだよ。それに興味を持つ女性もいるということかな。」

「17節がその続きです。“私が誘いを断った後,女性は『よく引っ掛からなかったわね』と言いました。どういう意味か尋ねると,エホバの証人だった友達から,エホバの証人の若者はみんな裏表があるから,チャンスがあれば悪いことをするはずだ,と聞いていたようです。それで,私で試してみようという話になったみたいです。それを知った時,エホバの評判を守ることができて本当に良かったと思いました。”とあります。やっぱり本気で誘ったわけじゃありません。一種のイタズラですよ。悪い女です。」
「これは作り話だろう。まず圧倒的多数はJWのことなど知らない。知っていたとしても、輸血拒否して死ぬ、危ない宗教というくらいで、JWは裏表のある人とまで知っている人はまずいないよ。」

「JWは自分がJWであることを恥じていますから、できるだけJWであることを隠します。少し親しくなったからと言って、自分はJWなんだよね、なんて言いません。」
「これは、JWじゃない人に誘われた場合、それは本気ではなくイタズラだ、と無知なJWの若者に思わせるための作り話だ。そうやって、JWの若い人がJW以外の人に興味を持つことを妨害しようとしているね。」

「この体験談の教訓は、誘われたら、即座にきっぱり断れ、というものですから、この通り実行すると、JWはJWの中で結婚相手を見つけるしかないわけです。それが組織の狙いです。」
「男女の比率が不均衡だから、大多数の女性JWは一般人から相手にもされないようなダサい男さえも見つけられずに独身のまま年を取り、貧困にあえぎながら一生を終えるわけだ。」

「最後の18節がまとめです。“エホバが必ず助けてくださるので,バプテスマを受けた後もイエスに従い続けることができます。”とあります。イエスに従うと言っても、聖書を読む、集会に参加する、宣教活動をするというJW活動を熱心にすること以上のことは言っていません。」
「あとは性的誘惑を退けることだね。これは現実のJWにはあまり縁がないことだから、きっぱりしりぞけられそうで、よかったね。」

聖書についての質問
2024年05月10日 14:10:29

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバのために生きていきたいという気持ちを育てましょう(9)”で、さっさと組織に献身し、バプテスマを受けなさい、という内容です。」
「エホバというのは事実上ニューヨークにいる統治体のことだよね。会ったこともない外国の老人のために生きたくはないでしょう。」

「1節に“この5年の間に,100万人以上の人がバプテスマを受けてエホバの証人になりました。その中には,テモテのように「幼い時から」聖書の真理を学んできた人もいます。”とありますが、意図的に誤訳していますよね。」
「後半の部分ね。Many of these, like the first-century disciple Timothy, were taught the truth “from infancy.とあるから、バプテスマを受けた多くは、テモテのように「幼い時から」真理を教えられてきた人です、だね。バプテスマを受ける人=JWの子どもたち、という点をごまかした訳だね。」

「組織は今どきバプテスマを受けるという愚行をやらかす人は、JWの子どもたちがほとんどだと認めているわけですよ。この記事もJWの子どもに向けたものです。」
「そうなると信者にやらせてきた伝道活動の無意味性が明らかになるので、翻訳者は意図的に誤訳したのだろう。」

「3から5節が“献身するとはどういうことか”です。 統治体の老人のいいなりの人生を送るという意味だとは言えないので、3節では“聖書の中で献身とは,特別な目的のために取り分けられることを意味しています。”とあります。これはへんですよ。」
「献身ではないよね。ヘブライ語で“神に捧げる”という動詞の元の意味は神のために取り分けておくという意味だったと言うなら理解できる。例えば、レビ27:16に“所有する畑の一部をエホバに犠牲として捧げる場合,評価額は畑にまくのに必要な種の量で決まる。”とあるけれど、“犠牲として捧げる”と訳されている動詞だね。献身とは違う。また、列王二23:11に“また,ユダの王たちによって太陽に献じられた馬が”とあるけれど、ここでも同じ動詞が使われていて、“献じられた”と訳している。献身じゃないよ。」

「畑を“犠牲として捧げる”というのは意味不明です。誤訳ですよ。」
「JW訳は何も考えずに、機械的に訳しているね。協会共同訳では“主に献げる”となっている。」

「3節では“例えばアロンは,ターバンの前に「献じられたことの聖なる印」である金の板を付けていました。それはアロンがイスラエルの大祭司として特別に取り分けられていたことを示すものでした。(レビ 8:9)”とありますが、これも聖書の訳がヘンですよ。」
「“献じられたことの聖なる”はレビ8:9にあるけれど、何なのこの訳は?協会共同訳では単に“聖なる”となっているけれど、これが普通の訳。一つの単語に勝手に意味を込めて長々と訳しているのがJW訳ということ。」

「3節には“ナジルもエホバのために自分を捧げました。”とありますが、誤解を招きかねない表現です。」
「これだとナジルは一生自分を捧げたと誤解する。実際はナジルの誓約の期間だけなので、1か月とか3か月という程度の期間であることがほとんどだったと考えられている。」

「4節では“エホバに献身した人は,エホバに喜ばれないことは全て避ける必要があります。”とあります。JWの細々した禁止事項を守らないといけないわけです。」
「エホバは子どもの誕生日を祝うのも喜ばない神なんだよね。子どもの命を救うために輸血するのも喜ばない神なんだよね。いつごろから性格がねじ曲がったのかな?」

「そんなエホバですが、4節では“ニコラス兄弟はこう言っています。「エホバのおきては,自由を奪う刑務所の鉄格子のようなものではありません。どう猛なライオンから守ってくれる鉄格子のようです」。”とあります。現実を相当歪めています。でも鉄格子の中に閉じ込められることは認めていますね。」
「少し前まであごひげを生やすことが禁じられていたけれど、あれは何から守ってくれていたのかな?あごひげが認められたということは、そのライオンはどこかへいなくなったということ?奉仕時間を報告するというのは廃止されたけれど、あれは何から守ってくれたのかな?信者を管理統制するための規則が多いのがカルトの特徴。」

「5節では“献身はあなたがエホバとの間で個人的に行うものです。一方,バプテスマはあなたが献身したことを周りの人たちに明らかにするものです。”と献身とバプテスマの違いを説明しています。」
「それなら、献身は後から撤回できます、と書いて欲しかったね。個人的なものなのだから、他人に何かを言われるようなものじゃないよね。」

「6から8節が“エホバに献身するのはどうしてか”です。 周りからの圧力のせいとは書けないので、6節によると“私たちが献身する一番の理由はエホバへの愛です。”と、何の根拠も示さず断言しています。」
「全世界のJWを対象に調査して欲しいね。もちろん匿名で。エホバへの愛からですなんていう人はほとんどいなくて、親から強制されて、仕方なく献身しましたという人が相当いると思うね。」

「6節では“聖書を学ぶことによって,(1)エホバが現実の存在であること,(2)聖書が聖なる力に導かれて書かれたこと,(3)エホバがご自分の望むことを行うために組織を用いていることを確信できるようになったでしょう。”と言っていますが、特に(3)はウソですね。」
「組織という言葉は聖書に出てこない。献身は個人的なことなのだから、組織など不要じゃないの?」

「7節で“エホバに献身するためには,聖書の基本的な教えを学び,エホバの基準に合わせて生活する必要があります。そして,学んだことをできる限りほかの人に伝えるようにします。”とあります。献身すると伝道しなくてはいけないみたいです。」
「今は伝道したとチェックするだけでしょう。エホバの基準はよく変わるいい加減な基準。」

「7節では“こうした愛があるなら,ただ聖書を教えてくれている人や親を喜ばせたいとか,周りの友達がみんなそうしているという理由で,献身しバプテスマを受けることはないでしょう。”とあります。組織もバプテスマの情けない実態をわかっていますね。」
「要するに、なぜ献身しましたかと誰かに尋ねられたら、周囲の圧力とかハルマゲドンで滅ぼされないためと正直に答えないで、エホバへの愛ですと答えなさいという指示だね。」

「8節には“エホバが自分にしてくれた全てのことを考えると,感謝の気持ちが湧いてきて,エホバに献身したいという気持ちになります。(詩編 116:12-14を読む。)”とあります。これも献身する理由を尋ねられたら、そう答えなさいという指示ですね。愛と感謝です。」
「引照聖句の詩編116は病気で死にそうになった人が回復し、神に感謝を述べている詩。その様な体験をすれば感謝したくなるというだけの話。」

「詩編116:3で“死の綱が私に巻き付き,墓が私を捕らえた。苦難と悲しみに圧倒された。”とありますね。」
「それで、この詩の作者は何をしたかというと、116:17には“私はあなたに感謝の犠牲を捧げ,エホバの名を呼ぶ。”とある。JWも献身ではなく、動物の犠牲をささげた方が聖書的じゃないの?」

「9,10節が“準備ができていますか”です。 9節に“自分にはまだ早いと感じる人もいます。”とあります。そうやって、嫌なバプテスマを回避するわけですよ。」
「30歳でバプテスマを受けたイエスに倣いたいと思います、ということがなぜダメなのか教えて欲しいね。」

「10節の下に、“エホバの証人の親に育てられている皆さんへ”と言う記事があります。学習すべき記事が挙げられています。」
「その教材の一つが“若い人は尋ねる バプテスマを受けるのは大切?”というものだけど、大切な理由としてバプテスマを受けないとハルマゲドンで死ぬというのは出てこないね。どうしてそう書かないのか理解できない。脅しはカルトの愛用する方法でしょう。」

「11から15節が“ためらう人がいるのはどうしてか”です。 それはJWという恥ずかしい宗教と関わりたくないからですよ。でも11節では“重大な罪を犯して排斥されてしまったらどうしよう,と思うのかもしれません。”とあります。組織は排斥制度がバプテスマにとって問題ということは認識しているようです。」
「排斥制度は信者がやめるのを阻止する重要な手段だから、そう簡単にやめられない。しかし、その排斥制度が信者の新規加入を妨げているというわけだ。排斥制度のジレンマだね。」

「ためらっている人に対しては“必要な助けをエホバが必ず与えてくださいます。”と言っていますね。」
「これは誤訳だね。英文ではそんなことは言っていない。」

「be assuredとありますから、大丈夫と思うとか、安心するという意味ですね。」
「Please be assuredなら“ご安心ください”と言う意味。必要な助けを与えてくれるでしょうから安心してくださいといっているだけで、“必ず与えてくださいます”とはいっていない。詐欺的な翻訳だ。」

「12節では“間違ったことをしたいという気持ちを抑えることなんてできない,と言う人もいるかもしれませんが,そうすることは可能です。”とあります。日本語ではあいまいですが、これは同性愛の人のことを言っていますね。」
「英文ではyou can learn to control your impulsesで、”あなたの衝動”と言っている。これは性的衝動のことでしょう。性的志向は変えられるというのがJW理論なんだよね。根拠はないけれど。」

「13節が笑えます。” 誘惑に遭った時にどうするかを前もって決めておくなら,正しく行動しやすくなります。”とあります。どう見ても女性に縁のなさそうなダサイJWの男が、女性に誘惑されたらどう行動しようかと頭の中であれこれ考えるわけですか?意味ありませんし、不気味です。」
「そういうことを普段から考えている男は危険だね。性的妄想に取りつかれている。」

「13,14節で、誘惑をきっぱりしりぞけたヨセフの話が模範として出てきます。JWは本当に性的なことに取りつかれていますね。」
「JWにとって性的なルール違反は殺人よりも悪いことのようだ。」

「16,17節が“エホバとの友情を深める”です。 英文ではKEEP DRAWING CLOSE TO JEHOVAHで、友情など出てきませんよ。」
「エホバに常に近づきなさい、だね。宇宙の創造者との友情というのは理解できないけれど、JWではエホバは友達と宣伝している。」

「16節で“イエスは,エホバによって引き寄せられた人が弟子になれる,と言いました。(ヨハネ 6:44を読む。)”とあります。17節では、これがJW2世に当てはまるかどうかを問題にしています。JW2世はJWの親の元に生まれたからJWになっているわけで、神から引き寄せられたわけではありません。でも、組織としてはそれを認めるわけにはいきませんよね。」
「17節には、“でもエホバはあなたのことを親とひとまとめに見ているわけではありません。一人一人を引き寄せておられます。”とあるね。この根拠はないでしょう。聖書を見る限り、子どもは親の付属物だよ。借金を払うために子どもを奴隷として売ることが可能なのが、聖書の世界。親と独立した存在と子どもを認識するようになるのは近代社会になってから。」

「ダビデとバテシバの話でもそうです。神の罰は誰に下るかというと、生まれた子どもです。サムエル二12:18には“そして7日目,子供は死んだ。”とあります。子どもの罪は何ですか?」
「子どもの罪はダビデの子どもであるということ以外にないよ。子どもを“親とひとまとめに見ている”ことがよくわかる。」

「最後の18節は次回の予告です。“次の記事では,バプテスマの後もエホバに仕えていく上で,どんなことが助けになるかを学びます。”とあります。信者に対するいろんな要求事項が出てきます。」
「今までは無給の宗教拡張員に対して要求することが多すぎたと、反省することはないようだね。」

聖書についての質問
2024年05月03日 10:45:13

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバの導きにこれからも従っていきましょう(8)”で、統治体をエホバと思って従え、という内容です。」
「統治体もモリスを追い出してから、新しい人を2人入れたよね。これから新しい光がいっぱい出てくるのか楽しみだね。誕生祝の解禁あたりが次の新しい光かな?」

「1節に“森の中で道に迷ったところを想像してみてください。いろいろな危険が潜んでいます。野生動物や,毒を持った虫や植物,岩場などです。でもそんな時,危険な場所はどこか,どうすればそれを避けられるかを教えてくれるガイドが一緒にいてくれるなら,どれほど安心できるでしょう。”とあります。このガイドが統治体と言いたいようです。」
「“毒を持った虫や植物”は神様が造ったというのがJWの見解でしょう。なぜそんなものを造ったのか教えて欲しいね。」

「アダムがエデンの園を追い出された時、エデンの園に入り込まないようにそういう危険な虫や植物を作ったというのはどうでしょう?」
「JWなら、そンなウソ話でも納得するね。」

「2節で、エホバは“人間を通して私たちを導いてくれます。「忠実で思慮深い奴隷」は,私たちが賢い決定をすることができるように「食物」を与えてくれます。(マタ 24:45)”とあります。要するに統治体のことですよね。もっとましな人がたくさんいると思います。」
「忠実で思慮深い奴隷が統治体のことを指すようになったのは、2012年からだよ。それまでその解釈は何度も変わった。144千人、ラッセル、144千人とイエス、144千人ときて、今は統治体ということになっている。統治体の権威を高めるためだね。」

「食物とは、出版物などのことを指すと思うのですが、それを書いているのは統治体じゃないですよ。動画で統治体の老人が話しますが、その原稿だって別の人が書いていますよ。」
「統治体は統治体以外の人が書いた原稿をただ承認するだけでしょう。」

「2節では“巡回監督や長老などの任命された兄弟たちは,私たちがこの難しい時代を生き抜くために必要な指示や励ましを与えてくれます。”とあります。こんなことは滅多にないですよ。長老の成り手がいなくて、20代前半の役立たずが、組織の言いなりというだけで長老になっていますよ。」
「英文では、その文の前にJehovah also uses other capable men to guide us.(エホバはまた他の有能な人を用いて私たちを導かれます。)という文がある。これを省略したのは、巡回監督や長老がどう見ても有能な人には思えないからだね。」

「翻訳者はしばしば統治体が用意してくださった霊的食物の中身を勝手に変えますよね。統治体に対する敬意が足りませんよ。」
「日本支部の人たちは、陰では統治体のバカどものせいで、マスコミに追及されたと、ののしっているよ。統治体崇拝は末端の信者だけ。」

「3節の下に、統治体の9人の写真があるのですが、これは10年ほど前の写真を改変したものですね。」
「元は8人の写真で、モリスの話を聞いているというものだった。モリスを消して、別の人を挿入し、右端にももう一人加えているね。」

「なぜ新たに写真を撮らないのでしょうか?統治体は毎週集まって会議をしないのですか?」
「新たに写真を撮ると、そうとう老化が進んでいることがわかるからじゃないの。統治体が毎週集まるかは不明だね。本部にいた人でも二人以上の統治体を同時に見ることは滅多になかったというよ。」

「4から8節が“エホバはイスラエル人をどのように導いたか”です。 出エジプト後の荒野の40年間の話です。雲の柱で導いたそうです。」
「それを史実として学ばなくてはいけないのがJWなわけだ。小学生でも嘘だろうと思うよ。」

「出エジプトも史実ではありませんし、40年間の荒野の放浪も史実ではありません。」
「JWの年代計算では、出エジプトは前1513年だ。その時代に200万人以上の人がシナイ半島に暮らしていたという考古学的な証拠はないし、あの地域でそれだけの数の人が暮らすことは不可能。」

「5節に“その後の40年間も,エホバは荒野にいる人々を雲の柱によって導きました。モーセはその導きに従い続けました。”とありますが、そうとは言えないと思います。」
「民数記10:30,31にこういう会話があるよ。“しかしホバブは言った。「私は行きません。親族がいる故郷に戻ります」。 モーセは言った。「どうか,私たちを見捨てないでください。荒野でどこに宿営したらよいかを知っているあなたに,案内をしてほしいのです。”モーセはエホバよりもホハブに案内して欲しかったようだよ。」

「民数記は矛盾だらけですよね。」
「いろいろな資料がごちゃ混ぜになっていて、一貫しないところがたくさんある。」

「6節では“エホバがモーセを通して導いているはっきりとした証拠があったにもかかわらず,イスラエル人の多くはそれを退けました。(民数記 14:2,10,11を読む。)”とあります。イスラエル人は不信心者だったと言いたいようです。」
「民数記14章は、カナンの地を偵察に行ったら、ネフィリムもいて、あまりにも強大なので、攻めるのは無理という報告を聞いて、イスラエル人はエジプトに帰りたいと言ったけれど、カレブとヨシュアだけは攻撃を主張したという話。」

「それで、カレブとヨシュア以外の20歳以上の人は荒野で死ぬことになるわけですよ。」
「エジプトにいた方が良かったと思って死んだ人は相当いるだろうね。まもなく楽園に行けると40年だまされてきたJWならその気持ちがわかるでしょう。」

「8節は、裁き人、預言者によって民を導いたことを書いています。」
「8節に“エホバが預言者たちを通してご自分の民を導いているということは,誰の目にも明らかでした。”とあるけれど、そんなことはないよ。」

「預言者にも色々いて、預言者同士が対立し、普通の人には誰が本当の預言者かはよくわからないということがありましたよ。」
「エレミヤ23:11には“預言者も祭司も汚れている。私は自分の家の中でさえ彼らの悪い行いを見た」と,エホバは宣言する。”とあるよ。エレミヤ23:16には“大軍を率いるエホバはこう言う。「あなたたちに預言している預言者たちの言葉を聞いてはならない。彼らはあなたたちを欺いている。”とあるよ。」

「9,10節が“エホバは1世紀のクリスチャンをどのように導いたか”です。 使徒や長老を通して導いたとあります。」
「10節の下の囲み記事が“はっきりとした証拠があっても認められなかったのはどうしてか”というもの。こういう質問が本部に寄せられていたのかな?」

「JWにこそ、児童の性的虐待や数々の犯罪の“はっきりとした証拠があっても認められなかったのはどうしてか”と問いたいですよ。」
「JWの場合、自分の信じたくないことはどんなに証拠があっても無視するか、背教者のウソと捻じ曲げて解釈し、自分の信念を守っている。」

「囲み記事では、“多くの場合,誇りの気持ちが原因でした。(ヨハ 3:19。ペテ二 3:3,4。ユダ 18)”とありますが、引照聖句にはそのようなことは書かれていません。」
「英文ではbecause of selfish motives.となっている。”自己中心的な動機”だよ。それでも引照聖句とは合わないので、誇りの気持ちのほうがいいと判断したのかも。」

「11から14節が“エホバは現代の私たちをどのように導いているか”です。 この記事の中心的部分です。14節で“人間を通しても導いているでしょうか。その通りです。”とあります。」
「その例が出ているけれど、ウソが多いね。“例えば,1800年代後半の出来事について考えてみましょう。チャールズ・テイズ・ラッセルと仲間たちは,1914年が神の王国の設立に関する重要な年になると考えるようになりました。”とある。そして“1914年に起きた世界の出来事は,神の王国が統治を始めたことを示しています。”と説明しているけれど、違うよ。」

「1914年以前は、1914年がこの体制の終わりと予言していたわけです。その歴史を改変していますね。」
「1914年以前の教義は、終わりの日は1799年に始まり、イエスの再臨は 1874 年で、イエスは1878年に天国で統治を始めた。異邦人の時は 1914 年に終了し、偽りの宗教の崩壊と地上のすべての政府の終わりが来て、地上は楽園になるというもの。これらのことはなかったことにしている。」

「その後、JWは、終わりの日は1914年に始まり、1914年より前に生まれた人々の一生あるいは世代内に終わる、というものに変わっていったわけです。」
「でも、それも賞味期限が過ぎると、終わりの日は1914年に始まり、「重複する世代」の期間の後、終わりの終わりが来るという聖書的根拠のないものに変わり、賢明な多くの信者が統治体を見限った。」

「11節では、にもかかわらず“エホバはそうした兄弟たちを確かに導いていました。”と断言しています。」
「もしそうなら、エホバの導きは全く信用できないものということだ。」

「12節は、自分たちは正しかったという宣伝です。“第2次世界大戦中はどうだったでしょうか。世界本部の責任ある兄弟たちは啓示 17章8節を注意深く研究した結果,この戦争がハルマゲドンまでずっと続くわけではないということを理解しました。”とあります。」
「第2次世界大戦は、JWの年代計算にあてはまならなかっただけでしょう。」

「13節では“振り返ってみると,この大変な時期にエホバがご自分に仕える人たちを導いていたことは明らかです。”と主張していますが、少しも明らかではありません。」
「都合のよいことだけを取り上げ、不都合なことは無視するなら、どんな組織も神に導かれていると主張できる。」

「14節で“現在,統治体はキリストに導きを求め続けています。いつでもエホバとキリストの見方を反映した指示を兄弟姉妹に与えたいと思っています。そして,巡回監督や長老たちを通して会衆に指示を与えています。”とありますが、そうなんですか?」
「長老が訴えられた場合、それは長老の判断によるもので、統治体は知らないと言うよ。長老を任命したのは巡回監督で、統治体には任命責任はないとも主張する。」

「14節には“でもイエスは,忠実な奴隷や長老たちを注意深く導き,”とあります。イエスが統治体や長老を導いている、と断言しています。イエスは具体的にどういう方法で導いているのか教えて欲しいです。」
「統治体は霊感を受けるわけではないといっている。となると、天から手紙が本部の屋上にひらひらと降ってくる?その中に、“重なる世代”とか血液分画の教義が書かれていたの?」

「そうじゃないと思います。統治体が選択肢をいくつか紙に書いて、テーブルの上に並べます。“どれにしようかな、イエス様の言う通り”と言いながら、ひとつずつ指さしていくのです。最後に指さしている選択肢が、イエスの導きによるものです。」
「JWならやっていそう。」

「15から18節が“エホバの指示にいつも従うなら良い結果になる”です。 これは事実に反します。エホバは指示しません。指示するのは統治体です。」
「しかも大抵はろくな指示じゃないよ。」

「15節に体験談が出てきます。“アンディー兄弟とロビン姉妹は,生活をシンプルにするようにというアドバイスに従いました。(マタイ 6:22の注釈を参照。)その結果,建設奉仕に参加できました。”というものです。組織はタダの労働力を得られて、よかったですね。」
「聖書に建設奉仕をしなさい、と書かれていないよ。統治体の指示でしかない。」

「“姉妹はこう言います。「自分の全てを尽くしてエホバにお仕えできているので,とても幸せです。エホバから割り当てられた奉仕を行うと,『新しい世界の生活ってこんな感じなのかな』と楽しみになります」。アンディー兄弟も同じ気持ちです。「王国のために自分の時間やエネルギーを使うことができているので,とても充実しています」”と言っています。エホバと統治体を完全に混同しています。この夫婦にはどんなみじめな老後が待っているか、心配です。」
「信者に建設工事にもっと参加しろと言いたいのだろう。ただの労働力を使えるJWは不動産販売業として成功するかも。雑誌を売り歩いていた頃より儲かる。」

「16節も体験談で、大学進学をやめた姉妹の話です。“大学の奨学金を4年間もらえるという話がありました。でも,エホバのためにベストを尽くしたいと思いました。それで,奨学金の話は断り,商業について学べる専門学校へ行くことにしました。その方が開拓奉仕をやっていくのに役立つと思ったからです。この決定ができて本当に良かったです。今,開拓奉仕をしています。予定を調整しやすい仕事に就くことができたので,ベテルでコミューターとしても奉仕しています。”というものですが、ウソくさいですね。」
「大学に行くなという強い圧力を受けて、泣く泣く専門学校に行ったというのが本当じゃないの?父親が長老で、娘が大学に行くなら長老を辞任すべきだと言われて、自分の地位のために娘に大学を断念するように圧力をかけた、なんてことじゃないかな。」

「英文ではIt was one of the best decisions I have ever made.と言っています。それはこれまで私が下した最高の決断のひとつでした、という意味です。そう訳すとあまりにもウソくさいので” この決定ができて本当に良かったです。”としたのですよ。」
「商業の専門学校に行って、どんな職業に就いたのかは知らないけれど、そういう事務職はやがてAIに取って代わられるよ。最高の決断をした結果が、無意味な開拓奉仕というのは悲しいね。本来ならもっと違った人生があったのに。」

「最後の18節で“与えられる指示が自分の望むこととは違う場合でも,あなたは従い続けますか。”と問いかけます。嫌なことでも従えということですね。JWはつらいですね。」
「その後に、“今エホバが与えてくださっている導きに従っているなら,将来もそうしやすくなることでしょう。”とある。“今”は太字で強調している。これは教義変更が関係しているね。」

「大患難が始まってから、悔い改めても楽園に行けるという教義変更ですね。その時までノアの箱舟の扉は開いているというものです。“今”は様子見の時ですよ。」
「大患難が本当に始まるまで、JWになって開拓奉仕などする必要はない。統治体に従うのは“今”ではなく、大患難が来るまで待とう。」

聖書についての質問
2024年04月26日 14:21:36

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“ナジルから学べること(7)”で、JWもナジル人と同じように、献身の義務を果たせ、という内容です。」
「いつものように、末端の信者にあれこれと無理な要求をする内容だね。」

「2節で、“「ナジル」という言葉は「選び出された者」,「分けられた者」,「献じられた者」という意味のヘブライ語に基づく言葉です。”とありますが正しいですか?」
「そうだね。それからナジルnazirは、“誓う”という意味のnadarと関係していると考えられている。」

「“この言葉は,エホバに熱心に仕え,特別な犠牲を払ったイスラエル人を指しています。”と言うのは違いますよね。」
「民数記6章がナジルについて説明している所だけれど、6:2に“男性でも女性でも,特別な誓約をしてエホバとの関係でナジルとして生活する場合”とあるように、特別な請願をして、それがかなうようにと、ある特殊な生活を自ら選ぶというもの。期間は30日から100日くらいが多かったようだ。」

「特別な請願というと、病気が回復しますようにとか、子どもが生まれますようにとか個人的なものですよね。どこの国でも似たような習慣はありましたよ。」
「イスラエルが平和になるまで、ナジルとして生活するというような人はいなかったと思うよ。ほとんどの人は私的利益の追求でしょう。」

「ところが、2節では“それでもエホバを心から愛し,エホバがしてくれたことに感謝していたので,ナジルになろうと思う人たちがいました。(申 6:5; 16:17)”と見てきたようなことを書いています。しかも、引照聖句はナジルと関係ありません。」
「ナジルをお手本にしようというのがこの記事の主旨だから、ナジルを美化しているわけだね。」

「2節の下に、“エホバに任命されたナジル”という囲み記事があり、サムソン、サムエル、バプテスマのヨハネの3人が出ています。サムエルはナジルとは書かれていないと思いますが?」
「聖書のどこにもサムエルはナジルであると書かれていない。問題の聖句はサムエル一1:11で、“私はその子をエホバにお捧げし,一生涯,仕えさせます。その子の頭には決してかみそりを当てません。”というハンナの祈りだけど、ナジルにします、とは言っていないし、髪の毛を切らないということだけを誓っている。」

「ナジルの誓いは、髪を切らない、ワインを飲まない、死体に触れない、汚れた食物の禁止が含まれていますよ。」
「それで古代のギリシャ語訳である70人訳では、ハンナはワインや強い酒は飲みません、という誓いを加えている。ナジルの誓いとしては不十分と思ったのだろう。サムエルが生涯ナジルだったかは不明だね。生まれたときからナジルだと、サムエルはすごい長髪だったことになる。」

「サムソンはナジルと明確に書かれていますが、サムソンはナジルの誓いを守っていますか?ライオンの死骸に触れていますし、宴会も開いています。ワインを飲んだとは書かれていませんが、サムソンは何も飲まなかったとも書かれていません。」
「サムソンは力の源として髪の毛を伸ばしていたことから、後の時代にナジルと結びつけられて、それに合うように物語が作られたのだろう。サムソンはやりたい放題の人間で、ナジルに期待されるような禁欲的な生活とは無縁だ。」

「使徒18:18に“パウロは誓約をしていたので,ケンクレアで髪の毛を短く刈った。”とあります。これはナジルの誓約じゃないですか?」
「JWはそう思わないのだろう。髪の毛をそったではなく“短く刈った”と訳しているからね。民数6:18に“ナジルは会見の天幕の入り口で,頭をそらなければならない。ナジルである間に伸びたその髪の毛を取って,共食の犠牲の下にある火で燃やす。”とある。パウロの時代ならエルサレムの神殿で頭をそるわけだ。でもJW訳では、パウロはケンクレアで髪の毛を“短く刈った”としている。」

「協会共同訳では“パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアイで髪をそった。”とあります。これはナジルの誓いと見なしていますね。」
「そうだね。エルサレムから遠く離れたナジルは別な所で髪をそって、そのひと房だけをエルサレムに持って行き、燃やすことが許されていたよう。パウロは使徒21章でエルサレムに行っている。だからケンクレアで髪をそってもナジルではないとは言えない。」

「4から6節が“喜んで犠牲を払う”です。 JWは何かと犠牲を払うように要求されます。4節では“民数記 6:3,4を読む。ナジルは,お酒やブドウを一切避ける必要がありました。干したブドウも生のブドウも食べてはいけませんでした。”とあります。確かにすごい犠牲です。」
「ナジルの誓いの期間は普通は短期間で終わるので、それほどつらいことではないでしょう。人生の楽しみを放棄していることを示すという象徴的な意味合いが強いと思うね。」

「5節が体験談です。“マディアンは高収入で,2人はいいマンションに住んでいました。でもエホバのためにもっと多くのことを行いたいと思い,生活を見直すことにしました。2人はこう言っています。「まず出費を減らすことにしました。小さなアパートに引っ越して車を売り……ました」。”というものです。高級ワインをやめてコンビニの750円のワインにしましたというものとは違いますね。」
「ナジルの話も、結局いつもの貧乏暮らしの勧めとなるわけだ。今頃マディアンはJWの言を信じたことを後悔しているよ。でも払った犠牲が多すぎてJWをやめられないのだろう。」

「6節は払うべき犠牲の例です。“例えば,好きな仕事や快適な家やペットを飼うことを諦めた人もいます。多くの人 は,しばらくの間独身でいたり子供を持たないことにしたりしています。家族や友達から離れて暮らすことになるとしても,伝道者がさらに必要な所で奉仕することにした人もいます。”とあります。これはワイン禁止よりも厳しすぎます。」
「ナジルになっても、JWには決してなるな、ということだね。」

「7から9節が“人と異なっていることを進んで受け入れる”です。 奇妙なカルト宗教の信者でいろということですね。7節では“民数記 6:5を読む。ナジルは髪を切らないことを誓いました。”とあります。」
「ナジルは髪を伸ばした変人ではなく、祭司に準じた聖なる人という扱いで、JWのような奇妙なカルト宗教の信者とは全く違う存在だよ。ナジルの期間は短いので、そんなひどい長髪にはならない。女性の場合は普段とそんなに変わらない。」

「7節では“預言者アモスの時代,背教したイスラエル人たちは「ナジルにぶどう酒をしきりに勧め」ました。ぶどう酒を飲まないという誓いを破らせようとしたのかもしれません。(アモ 2:12)それで,ナジルが誓いをしっかりと守り,人と異なっているには勇気が必要だったことでしょう。”とあります。聖句を誤解していますね。」
「アモス2:12は“それなのに,あなたたちはナジルにぶどう酒をしきりに勧め,「預言してはならない」と預言者に命じた。”というものだけど、“あなたたち”とはイスラエルのことで、この部分はイスラエルの歴史を要約して言っている部分。イスラエルは神に仕える人に対してひどい扱いをしてきたと非難している。アモスの時代にナジル人にワインを無理やり飲ませるイジメがあったわけではないよ。」

「8節が体験談です。旧約聖書の話と体験談がセットになるのが、よくあるパターンですが、あまり関連性がないです。“ノルウェーに住む,10歳のベンジャミン兄弟の例を考えてみましょう。兄弟が通う学校では,戦争が続いているウクライナを応援するためにあるイベントが行われました。子供たちはウクライナ国旗の色の服を着て歌を歌うようにと言われました。兄弟はこのイベントに参加せずに,離れた所で見ていることにしました。”という言ものです。」
「髪の毛とは全く関係ない話だね。政治的中立を守れ、というJWによくある話だ。」

「そして“兄弟は勇気を出して先生の所に行き,こう言いました。「ぼくは,どの国の味方にも敵にもなりたくありません。だから,政治に関係したイベントには参加しません。それにエホバの証人の中には,戦争に行かないことにしたので刑務所に入れられている人がたくさんいるんです」。”と言ったそうです。とてもかわいそうです。奇妙なカルトに洗脳された愚か者と周囲の人から見られて、これからの学校生活を過ごすわけです。」
「学校の先生は、10歳の子どもがこんなことを言うのは、狂信的な親に強制されたからと思っているよ。この10歳の少年も2,3年したら、JWのおかしさに気づき、JWをやめる計画を立て始めるはず。」

「9節が泣けます。“エホバに喜ばれることを行おうとすると,人と違うことをして目立つことになります。職場や学校で自分がエホバの証人であることを伝えるには勇気が要ります。”とあります。カルト信者として生きるのは本当につらいことです。」
「多くのJWは学校や職場ではJWであることを隠している。JWであることはとても恥ずかしいことだと知っているんだよ。」

「10から13節が“エホバのことをいつも一番にする”です。 10節には“民数記 6:6,7を読む。ナジルは死んだ人に近づいてはいけませんでした。これはそれほど大きな犠牲ではなかったと思いますか。”とあります。そんなすごい犠牲ですか?」
「引照聖句の民数記6:6、7には“エホバのために分けられている間はずっと,死んだ人に近づいてはならない。父,母,兄弟,姉妹が死んだとしても,自分を汚してはならない。”とある。汚れるというのは身体的接触があった場合を指す。つまり、死体に触れるなということ。葬式に出るなということではないよ。」

「11節で“私たちは聖書の教えに従って家族を大切にしますが,家族が願っていることよりもエホバが求めて いることを優先します。”とありますから、家族の葬式でも異教の葬式に出るなといっているわけですね。」
「こうやって、家族関係を破壊するのがJWだけど、はっきり指示せず、あいまいに書くところがずるいね。」

「12節が体験談です。夫婦でJWの勉強をしていたけれど、妻が止めて、夫もやめさせようとしたけれど、夫は続けて、妻もまたJWの勉強を再開し、バプテスマを受けましたというメデタイ話です。」
「家族をJWにならせるというのが、JWにとって家族を大切にするということなんだ。それ以外の点では家族など無視だよね。」

「13節は家族を犠牲にしてもエホバが大事という内容で、“本当に幸せになるためには,エホバに喜ばれることを行う必要があります。確かに,家族を大切にし,愛と敬意を込めて接しつつ,エホバに仕えるためには犠牲が伴います。”とあります。」
「でもJWが本当に幸せな人に見えないのはどうしてかな?むしろ非常に不幸そうだよ。それでハルマゲドンでの一発逆転を夢見ているんじゃないの。」

「14,15節が“ナジルの手本に倣うよう励まし合う”です。 今までのまとめです。この記事は中身が薄いですね。“進んで犠牲を払い,勇気を示している仲間を心から褒めるようにしましょう。”と言っています。仲間内でほめあって、他では得られない承認欲求を満たすわけですね。」
「周囲から孤立させ、自分を理解してくれるのは同じ宗教の仲間しかいないと思わせるのがカルトのやり方。」

「15節には珍しいことが書いています。“全時間奉仕を行っている兄弟姉妹の生活を助けることもできるかもしれません。”とあり、ある姉妹がもらえる年金が増えたので,開拓奉仕をしている二人の若い姉妹に“毎月決まった額のお金を渡して電話代として使ってもらえるようにしました。本当に素晴らしいお手本です。”とあります。お金は組織に寄付するのがJWじゃないですか?」
「物価上昇の激しい地域では、それまでのお手当では全時間奉仕者の生活が成り立たなくなってきたね。かといって組織はさらにお金を出すつもりはない。末端の年金生活者を使おうというわけだ。ひどい話。」

「年金暮らしの老人が若い人を援助するというのはおかしいですよ。普通は逆じゃないですか?非常識な宗教ですね。」
「老人は役立たずだから、せめて金銭面で組織に貢献せよ、という指令だね。」

「最後の16節です。この記事は短くていいですね。“では,これからも自分のベストを尽くしてエホバに仕えていきましょう。”で終わります。」
「ナジルを取り上げたけれど、執筆者の勉強不足で、あまり話を膨らませられずに終わった感じだね。執筆者はもっと勉強して欲しいね。」

聖書についての質問
2024年04月19日 14:00:06

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバの名を賛美せよ(6)”で、エホバという神の名前を宣伝をしなさい、という内容です。」
「エホバは聖書の神の名前じゃないよ。エホバ教の神の名前にすぎない。1年に1回はこういう記事を出さないといけない規則でもあるのかな?」

「この記事の主題聖句は詩編113:1で、“ヤハを賛美せよ!エホバに仕える人たち,賛美せよ。エホバの名を賛美せよ。”です。“ヤハ”は神の名前の短縮形ですよ。それなのに、どうして神の名がエホバになるのですか?ありえません。」
「正論が通じるような宗教じゃないということだね。都合が悪いので“ヤハを賛美せよ!”の部分は省略している。」

「4から7節は“エホバに喜んでもらうことができる”です。 エホバの名を賛美する理由①です。4節で“ある人は,不安で自信がないので褒め言葉が欲しいと思うかもしれませんが,全能の神であるエホバはそうではありません。”とあります。これは聖書の神って絶えず愛され、ほめられることを要求する宇宙一のナルシストだ、という評価を意識したものですね。」
「聖書の神ほど、自分を愛せ、ほめよ、奉仕せよという神はいないよね。出エジプト34:14,15は“エホバは全くの専心を要求することで知られている。全くの専心を要求する神なのである”と訳されているけれど、協会共同訳では“主はその名を妬みと言い、妬む神だからである。”とあり、こちらの方が正しい。」

「聖書の神の名は“妬み”なんですね。」
「妬みは英語でjealousなので、エホバ(Jehovah)の証人よりもジェラスの証人に変えた方が、より聖書的。」

「4節では、エホバが賛美称賛マニアであることを弁護するのにヘンな例えが出てきます。“幼い娘が父親に抱き付き,「世界で一番好き!」と言います。父親は娘の素直な言葉を聞いて感動し,とても幸せな気持ちになるでしょう。では,この父親について,「この人は娘からのこういう言葉がないと不安になるんだ」と思うでしょうか。そんなことはないはずです。”というものです。“そんなことはないはずです。”とは必ずしも言えませんね。」
「この父親が、娘に、わが家の第一の掟は父親を心を込め、魂を込めて愛さねばならない、そうしないと家から追い出す、と日ごろから言っている人だとすると、精神的に危ない人と思うよ。聖書の神は例えるならこういう父親。」

「5節がJWの神学です。“天の父エホバを賛美するなら,サタンが私たち一人一人について述べているうそに反論できます。”とあります。JWはサタンの主張がウソであることを命を懸けて証明する任務を背負っているようです。」
「サタンの主張はなにかというと、“サタンは最後まで神に忠誠を尽くす人はいないと主張しました。人は神に背いた方が自分にプラスになると思ったなら必ず神に背くと言いました。(ヨブ 1:9-11; 2:4)”とある。なぜかこの主張に反論する責任をJWが負っているというわけだね。そう思うなら、JWは死ぬまで忠誠をつくして、サタンのウソに反論して欲しいね。JW以外の人はその様子を見物しているよ。」

「6節では“エホバを愛する人はエホバという名を心から賛美したいと思うはずです。”と言っています。“思うはずです。”は事実上命令です。」
「JWなら、エホバ、エホバと賛美しまくるしかないわけだ。」

「7節で“現代の私たちも,エホバへの愛や感謝を熱く語ることによって,エホバに喜んでもらうことができます。”とあります。これは伝道でエホバ、エホバと語れということです。」
「やっぱり賛美するだけじゃ足りなくて、伝道という無意味な苦行をしなくてはいけないようだ。でも、聖書のどこにもそんなことは書かれていない。本気でそう思うなら、エホバを賛美せよ、と看板に書いて、それを持ち歩いたらいい。」

「7節では“さらに,エホバに倣うために一生懸命努力することによっても,エホバを賛美できます。”とありますが、これも新たな信者獲得のためです。」
「“その結果,誠実な人たちはエホバのもとに引き寄せられます。”とあるからね。信者獲得につながらないことには関心がないのがJW。組織が勧める様々なことはたいてい信者獲得を目的にしているよね。」

「8から13節が“イエスに喜んでもらうことができる”です。 エホバの名を賛美する理由②です。珍しくイエスが登場です。最近、キリスト教からJWに改宗した人にアピールするためですよ。」
「そういう人はエホバなんかになじみがないからね。」

「8節では、イエスが“「私はあなたのお名前を彼らに知らせました」と言いました。(ヨハ 17:26)これはどういう意味だったのでしょうか。”と問いかけていますが、イエスは神の名前を口に出すことなどありませんよ。1世紀のイスラエルでは神の名を言うことは重大な冒とく行為で、神の名を出せば捕まって殺されます。」
「“神の名”というのは神のこと、あるいは神の性質を指す。“私はあなたのお名前を彼らに知らせました”というのは、JWが想定しているように、神の名は○○だよ、と教えたということではなく、神がどのような方かを教えたということ。」

「JWはエホバというインチキネームを人々に知らせているということは、聖書の神はインチキな神と言っているようなものじゃないですか?」
「聖書の神様はインチキネームを宣伝しているJWのことを怒っていると思うよ。」

「9節に、“イエスは神の名前がエホバだということをただ人に伝えただけではありません。”とありますから、JWはイエスは神の名前はエホバだと選挙カーのように連呼したと信じているようです。」
「そのような場面は福音書の中に一度もないのはなぜなんだろうね?」

「10節に“イエスはほかの人にもエホバの名前を使ってほしいと思っていたでしょうか。確かにそう思っていました。”と言っています。JWだけです。こんなことを言っているのは。」
「その根拠としているのは、マルコ5:19の“親族のもとに帰り,エホバがしてくださった全てのことと示してくださった憐れみについて知らせなさい。”というイエスの発言。まず元のギリシャ語本文にはエホバなど出てこない。JWが勝手にエホバに変えた。」

「それに、JW訳でも、エホバの名前を宣べ伝えなさいとは言っていません。“エホバの名前を使ってほしいと思っていた”という根拠になりません。」
「自分たちの教義に合うように聖書を改ざんし、改ざんした聖書を自分たちの教義の根拠にしているけれど、JWらしく、どこか間抜けだね。」

「イエスがエホバの名前を宣伝していたという根拠にマルコを用いるのは不適切ですよ。執筆者は聖書を知りませんね。」
「例えば、マルコ1:44で皮膚病を治した男に、イエスは“誰にも何も言わないようにしなさい。ただ自分を祭司に見せに行き,モーセが指示した物を捧げなさい。癒やされた証拠としてです。”と言う。マルコではイエスは宣伝に熱心ではない。」

「*をクリックすると、“マルコがイエスの言葉を記録した時にエホバという名前を使ったといえる十分な証拠があります。それで,「新世界訳聖書」ではエホバの名前が使われています。この聖句の注釈もご覧ください。”とあります。この聖句の注釈には“ほとんどのギリシャ語写本はここマル 5:19で「主」(ホ キュリオス)としているが,もともと神の名前が使われていて後代に主という称号に置き換えられたと考える十分の理由がある。そのため,ここの本文でエホバという名前を使っている。付録C1,C3の序文とマル 5:19を参照。”とありますが、具体的に“十分の理由”とは何か書かれていません。」
「何も根拠がない時に、JWは“十分な理由がある”とだけ書く。神の名前が置き替えられたとする十分な理由はわからないね。」

「10節には“イエスの願いは今も変わっていません。私たちに世界中でエホバの名を知らせてほしいと思っています。(マタ 24:14; 28:19,20)”と主張していますが、引照聖句にはそんなことは書いていません。」
「例えば、マタイ28:19では“父と子と聖なる力の名によってバプテスマを施し”とある。JW訳でもエホバではなく“父”だね。もし新しい翻訳がJWから出るとすると、エホバに変える十分の理由がありますといって、ここはエホバに変えるのだろう。」

「11節では“それで弟子たちにこう祈るように教えました。「天におられる私たちの父よ,お名前が神聖なものとされますように」。(マタ 6:9)”と、イエスがエホバという名前を重視していたかのように言っています。」
「名前はその対象そのもの、その対象の特徴や権威を表す。それらが神聖なものとなりますようにという意味。また神を直接指すのは恐れ多いことなので、神とは言わず間接的に神の名前が神聖なものになるようにと祈りなさいという意味もある。」

「11節に“イエスは,この問題が人間にとっても天使たちにとっても一番大きな問題であることを理解していました。(エゼキエル 36:23を読む。)”とあります。今度はエゼキエル書に飛びますが、的外れですよ。」
「そこには“私は,あなたたちが異国の人々の中で汚した,私の偉大な名を,必ず神聖なものとする。”とあるけれど、名前そのものではなく名前が指すものを神聖なものとするという意味。つまり神の名前ではなく神そのものを問題にしている。その後に“そして,あなたたちの中で,異国の人々の目の前で,私が神聖なものとされる時,”とあり、神の名前が神そのものを指していることがわかる。」

「どうやって神聖なものにするかというと、エホバ、エホバと連呼することによってではないですよ。」
「エゼキエル36:24では“私はあなたたちを国々から連れ出し,あらゆる土地から集めて,あなたたちの土地に連れ戻す。”とある。離散したイスラエル人を元の土地に戻すことによって、イスラエルの神は聖なる真の神だということを示すという意味。JWとは何の関係もない。」

「13節では“王であるイエスに喜んでもらいたいと思うなら,エホバがどんな方かについてほかの人に伝えて神の名を賛美しましょう。そのようにしてイエスの手本にしっかり付いていくことができます。 (ペテ一 2:21)”とまとめていますが、いつものことですが、引照聖句はそんなことは言っていません。」
「そこでは、キリストが“その歩みに皆さんがしっかり付いてくるよう手本を示しました。”とあるだけ。エホバを宣伝する話なんか出てこない。」

「14から16節が“人々の命を救うことができる”です。 エホバの名を賛美する理由③です。14節では“エホバの名を賛美するなら人々の命を救うことにもなります。”と主張しています。知りませんでした。JWが輸血拒否で死んだり、伝道中に殺されたりということはどうなったんですかね。エホバのせいで命を失っていますよ。」
「JWの教義では、エホバの名を知る→エホバ教に入る→永遠の命、というものだから、途中で犠牲が出てもそれは小さいことで問題ないということ。」

「16節が体験談です。“エホバという名前を知ったことで,アリーアの人生は大きく変わりました。「神様には名前があって,しかも親友になれるんだ!」と思いました。アリーアはこう言います。「今では本当に穏やかな気持ちを味わうことができています。エホバという名前を知ることができて本当にうれしいです」。”というものです。全く理解できません。」
「神に名前があると知って驚きました、というだけの話を滅茶苦茶誇張した話のように思えるね。」

「JW以外の資料を調べれば、聖書の神の名をエホバと呼んでいるのはJWだけということに気が付きますよ。たいていの本には、一部の宗教団体がエホバと呼んでいるが、それは間違いである、とさえ書いています。」
「情報弱者がJWに騙される。」

「もう一つの体験談は“スティーブはこう言います。「それまで,神様に名前があるなんて知りませんでした。……生まれて初めて,神様を身近な存在に感じることができました。最高の友達を見つけたと思いました」。”というものです。これもウソ臭さプンプンです。」
「似たような話は以前にもあったね。こうした体験談を載せることによって、エホバ、エホバ、と連呼するよう信者を誘導しているわけだ。」

「最後の17節が信者に対する指令です。“伝道や聖書レッスンで,エホバという名前について伝えていますか。エホバがどんな方かを知るように助けているでしょうか。”とあります。こういうことを言うのは、未だに多くの国で、性犯罪者の保護、輸血拒否、体罰による児童虐待、様々な行事への参加拒否以外ではエホバの証人というのはほとんど知られていないからでしょうね。」
「本気で、エホバの名前を知らせたいなら、テレビ広告でも、新聞広告でもしたらいいよ。そういうことをしないで、末端の信者にエホバ宣伝を押し付けるのは、本気でそんなことを重視していないから。」

「広告を出すのに必要なお金が惜しいから、広告はしませんね。」
「無給でこき使える信者がいるかぎりはそうだろうね。」

聖書についての質問
2024年04月12日 14:30:55

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“決してあなたを見捨てない(5)”で、統治体は間もなく天に行くけれど、心配するな、という内容です。」
「どうでもいい話だね。JWという宗教の奇妙さが味わえる内容かも。」

「1節で“「ものみの塔」2013年7月15日号で,地上に残っている選ばれたクリスチャン全てはハルマゲドンが始まる前に天へ行くと説明されました。”と、JWの最新の教義を紹介しています。“前”が太字です。」
「10年も前だから、誰も覚えていないよ。今ごろそうだったのかと、多くのJWが驚いているよ。」

「3から5節が“どんなことは起きないか”です。 3節に“統治体の兄弟たちがいなくなったら,ほかの羊は頼れる存在を失ってエホバから離れてしまうのではないか,と思う人もいます。”とあります。そうはならないと言いたいようです。」
「統治体がいなくても何も問題ないでしょう。まるで統治体のためにエホバ教があるみたいだ。」

「統治体がいなくなったら、輸血禁止とか誕生祝い禁止とかおバカなルールがなくなり、よりましな宗教になると思います。」
「誰もがそう思うけれど、統治体の老人はそう思わないようだね。」

「3節にエホアシュ王の話が出ていて、“エホヤダが死ぬとすぐに悪いことを行うようになりました。エホバに従わない高官たちの言うことに耳を傾け,エホバに仕えるのをやめてしまいました。(代二 24:2,15-19)”とあるのです。引照聖句の歴代二24:18に“民は父祖たちの神エホバの家を捨てて,聖木や偶像を崇拝するようになり,その罪のゆえに神の怒りがユダとエルサレムに向けられた。”とあるのですが、これは誤訳ですよ。どうして突然“民”が出てくるのですか?宮廷内部の話ですよ。」
「民ではなく、王と高官たちでしょう。英文ではThey(彼ら)なんだけど、あまり頭が良いとは言えない翻訳者はそれを民と誤解したわけだ。」

「旧約聖書は一般の人間のことなどあまり関心を持っていませんよ。関心があるのは王とその周辺の権力者だけです。」
「一般のイスラエル人の間では偶像崇拝は普通のことで、古代の様々な偶像はイスラエル各地からよく発掘されている。」

「4節では最後の使徒ヨハネの話で、“でもヨハネが死んだ後,背教は山火事のように一気に広がりました。そして数十年の間に,クリスチャン会衆は間違った考えや行いによってすっかり腐敗してしまいました。”と言っていますが、その根拠はありません。」
「1世紀のクリスチャンはよかったけれど、2世紀目から背教者になったというのがJWの歴史観だというだけ。根拠なんかないよ。」

「5節で、統治体がいなくなっても、” エホアシュのように教えられた道から外れてしまったり,2世紀のクリスチャンたちのようにエホバから離れてしまったりするのでしょうか。決してそんなことにはなりません。”と断言しています。根拠はありません。」
「そうだけど、今の統治体がいない方が、よりましな宗教になるのは確実。」

「6から10節が“清い崇拝が途絶えることはない”です。 3つの時代別に論じています。7節が“古代イスラエルの時代”で、8節が“使徒たちが死んだ後の時代”です。要するに邪悪な時代だったと言いたいようです。」
「8節で“背教したキリスト教が誕生し,それが大いなるバビロン(世界を惑わしている宗教全体)の主要な部分となりました。”とある。こんなことを言っているのはJWだけ。JWがキリスト教を憎んでいるのがよくわかる。」

「9節が“全ての事柄の回復の時”で、1914年に始まり、“メシアの王国が人間を完全な状態にし,地球を楽園に変える時まで続きます。”とあります。今は“終わりの時”であり、“回復の時”のようです。好きなことを言っていますね。」
「1914年というインチキ年代が登場だ。1914年から離れられないのがJWにとって致命的だね。黙っていれば、そのうちみんな忘れるのに。」

「10節がイザヤ54章の解釈です。“イザヤ 54:17を読む。聖書には「あなたを攻撃するために作られるどんな武器も役に立た[ない]」とあります。この預言は今実現しています。”とありますが、こんなこと断言していいのですか?」
「この聖句が現代のJWに向けて書かれていると思う時点でまともじゃないね。」

「ここでいう“あなた”は誰のことかというと、イザヤ54:11に“苦しめられ,嵐に翻弄され,慰められていない女よ,私は固いモルタルを使ってあなたの石を敷き,サファイアをあなたの土台として据えている。”とありますように、エルサレムのことですよ。」
「ヘブライ語の文には“女”という単語はない。訳するときに補ったもの。協会共同訳では“苦しめられ、嵐に弄ばれ/慰められなかった都よ”としている。エルサレムのことを言っているので、“都”にしたのだろう。」

「10節ではさらに“次の言葉も今の時代にまさに当てはまります。「あなたの子たちは皆エホバに教えられ,豊かな平和を味わう。あなたは正しさによってしっかりと据えられる。……何も恐れず,おびえることもない。恐怖を抱かせるものがあなたに近づくことはない」。(イザ 54:13,14)”とありますが、これもデタラメですね。」
「ここでいう“あなた”はJWのことではなくエルサレムのことだからね。“あなたの子たち”とはエルサレムの新しい市民のことだね。」

「その聖句と違って、JWはいろいろなこと怖れ、脅えていますよ。その現実を否定するわけですね。」
「恐れや不安をいうと、信仰心が足りない、と非難されるだけなので、黙っているだけだね。」

「11から17節までが“どんなことが起きるか”です。 どんなことが起きるかなんて、あの統治体がわかるはずないですよ。11節で“選ばれた人たちが天に行った後,どんなことが起きるのでしょうか。”と問いかけています。答えは“天で王として治めるイエスは,地上にいる私たちを必ず世話してくださいます。それで,何も心配する必要はありません。”というものです。」
「つまり、統治体など要らないということだね。早く天にでもどこにでも行って欲しいね。」

「12節が旧約聖書の話で、モーセとエリヤが登場します。二人ともちゃんと後継者を育てていたから、死んでも何も問題はなかったと言いたいようです。」
「12節に“モーセの代わりにヨシュアが指導者になるようにし,モーセが生きている間にヨシュアが何年もトレーニングを受けられるようにしました。(出 33:11。申 34:9)”とあるけれど、民数記27章では違うことが書かれているよ。」

「民数記27章は、荒野放浪の40年目の出来事で、モーセがアバリム山に登って、神が約束した土地を見なさいと言われる場面ですね。」
「民数記27:15,16で“モーセはエホバに言った。「全ての人に命を与える神エホバが,民の上に立つ1人の男性を任命してくださいますように。”と言う。ということはこの時点でモーセの後継者が決まっていないようだ。そして民数記27:18で“エホバはモーセに言った。「健全な精神を持つ,ヌンの子ヨシュアを選び,彼に手を置きなさい。”とある。つまり、民数記ではモーセの死ぬ直前に後継者が決まったことになっている。」

「13節では“統治体の兄弟たちはモーセやエリヤのように,トレーニングを行うことがどれほど大切かをよく理解しています。それで,教え導く責任を果たせるよう,ほかの羊の兄弟たちを長い間トレーニングしてきました。”とあるね。統治体はモーセやエリヤと同等と言いたいようだ。」

「14節は預言です。統治体が天に行った、“その時,私たちは諸国家の連合体であるマゴグのゴグからの攻撃を受けます。(エゼ 38:18-20)でもその攻撃は一時的なものです。エホバを崇拝することをやめさせることは決してできません。エホバは必ずご自分の民を救い出します。”とあります。統治体が天に行くことなどありませんから、好きなことを言えますね。迫害の恐怖をあおって信者を引き締めようということじゃないですか?」
「ほとんど国ではJWなんかに関心を持っていないよ。世界的な迫害が起こりそうもないとわかったら、“諸国家の連合体であるマゴグのゴグ”という解釈をまた変えるかもね。やっぱりマゴグのゴグはサタンに率いられた邪悪な天使たちのことです、と言い出すかも。」

「“マゴグのゴグ”はエゼキエル書の表現ですよ。JWの大好きな啓示20:7では“彼は出ていって,地の四方にいる人々,ゴグとマゴグを惑わし,戦争のために集める。”とあって、“ゴグとマゴグ”ですよ。意味が違いますよ。啓示の方は無視するということですか?」
「エゼキエル書ではマゴグは地名だけれど、啓示では人物名になっている。啓示の著者のうっかりミスかも。」

「それ以外にもエゼキエル書と啓示では違いがありますよね。」
「エゼキエル書ではマゴグのゴグは終末論とは無関係だね。エゼキエル書ではゴグの攻撃は神が引き起こすことになっているけれど、啓示ではサタンが軍勢を集める。二つの異なるシナリオがあるわけで、JWはエゼキエル書の方を採用するつもりなのか?」

「15節は天に行った人が何をするのかについての説明です。“将来この世界の政治体制が「子羊と戦います」。そして「子羊は……彼らを征服します」。その戦いでは,「招かれ,選ばれた忠実な者たち」が子羊を助けます。(啓示 17:14を読む。)この人たちは天に復活した人たちのことです。それで,大患難の終わりごろ天に復活した人たちに与えられる最初の仕事は,戦うことです。”とあります。戦争ですか。今から軍事について学んでおいた方がいいですよ。」
「今度は啓示のシナリオを採用するわけね。でも啓示17章は地上での出来事が描かれている部分。“招かれ,選ばれた忠実な者たち”が天に行った人のことを指すとはどこにも書かれていない。普通は信者のことを指していると解釈される。」

「天に行く144000人と地上組へと人間が別れるというJWのインチキ教義が、こういう特殊な解釈を産んでいる原因ですね。」
「天には強力な天使軍団がいるはず。144000人の援軍なんかいらない。地上の戦いだから、信者が子羊を助けるという設定なの。」

「16節が面白いです。“地上に残っている選ばれたクリスチャンの中には,高齢で体の弱い人たちもいるかもしれません。でも天に復活した後は不滅の命を与えられ,イエス・キリストと一緒に力強く戦います。”とあります。誰もがあの肥満した統治体の老人が戦いで役立つとは思いませんから、わざわざこうして弁解しているのですよ。」
「恐らく統治体の老人たちは、かっこいい戦士に変身した自分の姿を想像して、早く天に行って、戦いたいな、と思いながら生活しているよ。楽しいね。」

「最後の17節は地上組へのメッセージです。“ハルマゲドンの戦いが始まる時,どんなことをする必要があるでしょうか。エホバに頼り,エホバからの指示に従うことです。”とあります。」
「ここで言うエホバとは組織のことだよね。組織に頼っているとろくなことにはならないということは長年JWをやっていればわかるよね。」

「17節にも聖句の誤用がありますね。“パウロが言っている通り,「政府も,今あるものも,これから来るものも,……神の愛から私たちを引き離すことはできません」。(ロマ 8:38,39)”とあるのですが、“これから来るものも”は太字にして強調しています。これからくると統治体が予想している大患難を指していると思っているようです。」
「訳がダメだね。協会共同訳では“死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも”で、現在と未来の2つで“時間”を指している。神の愛を引き離すという点では、“時間”というものだって無力だ、という意味。抽象的な議論をしているわけで、具体的な出来事を言っているわけではない。」

「最後に“エホバがあなたを見捨てることは決してないのです。”とありますが、奉仕活動中に強盗に襲われても守ってはくれませんので、注意してくださいと書き加えて欲しいですね。」
「それから、末端の信者は組織にとっては使い捨てです、と書き加えて欲しい。」

ジョエル
2024年04月05日 16:44:46

ユダヤ教では、神をイメージすることは偶像(image)崇拝とされます。

聖書を読んで神様をイメージしてくださいといっても、箇所ごとに全くイメージが違うし、それを読む人が受けるイメージもそれぞれです。


では神は○○である、○○な方である、といろいろ聖書に書いてあるのはOKなのでしょうか。

これもユダヤ教で大昔から議論されてきたことですが、それはその人の神を称えたいという「気持ち」を表現しているだけで、○○である、という人間のつたない言語や、さらにその言語を解釈する人間によって神が定義されることはありません。

それでも人間が言語によって神を表現したい、表現しよう、とする営みは、子どもがつたない似顔絵を書くようなもので、小さな子どもが何人かいて親の似顔絵を描かせれば、目の前に見ている親でも、それぞれ全く違う似顔絵になります。むしろ、子どもの側の個性や特徴が表れます。

親はどれも似てないぞ、似顔絵を描くのは禁止だ、と破り捨てはしないように、神様もそれくらいは大目に見てくれているんじゃないか、という考えです。


ユダヤ教は書物宗教ですが、書物崇拝教ではなくそれも偶像崇拝になるので、神は○○である、と聖書に書いてあることでも、それは書いた人の情緒、思想や特徴が表れているものと読みます。

キリスト教で「神は愛である」はヨハネ神学の特徴を示すものと言われるのと同じですね。

聖書についての質問
2024年04月05日 14:15:13

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバはあなたのことを心から愛しています(4)”で、エホバは私たちのことを愛しているので、エホバの組織のために働けという内容ですね。」
「エホバという神様は愛の神からは程遠いと思うけれど、JWでは、神は愛ですという聖句一つあれば、愛の神になるわけだね。」

「1節で“エホバについて考える時,どんなイメージが浮かびますか。”と問いかけています。子どもなら白いひげを生やしたおじいさんです、と答えるのでしょうか?」
「聖書の神は一つのイメージでは語れない。戦争の神でもあるし、平和の神でもある。残忍な殺戮者でもあるし、人を慈しむこともある。つまり、多面的で理解不可能な存在。」

「わかりやすい、神のイメージは全て疑わしいということですね。」
「聖書の神は、愛の神です、とか善い神です、といった単純な言葉では片づけられないということ。」

「1節で“例えば,エホバは「太陽,盾」,「焼き尽くす火」と表現されています。(詩 84:11。ヘブ 12:29)”とありますが、太陽と盾は良いとしても、焼き尽くす火はよくないですね。執筆者はよい意味と誤解しているのではないですか?」
「それはヘブライ12:29からの引用だけど、さらにそれは申命記4:24の“あなたの神エホバは焼き尽くす火であり,全くの専心を要求する神だからです。”を引用したものだね。」

「ふつうは“ねたむ神”と訳しますね。それだと神のイメージが悪いと思って、“全くの専心を要求する神”とJWでは長たらしく訳したわけですね。」
「神は焼き尽くす火というのは、神に従わないと焼き尽くされてしまうという警告で、エホバに服従と崇拝と捧げものをしないと殺されるというもの。愛とは程遠い神様と言っているんだけどね。」

「2節で“エホバは目に見えないので,エホバが自分のことを愛してくれていると信じるのを難しく感じることがあるかもしれません。”とあるのは、まとはずれです。エホバの愛を信じられないのは、エホバが見えないこととはそれ程関係ありません。」
「見えなくても、朝起きたら素敵なプレゼントを枕元に置いてくれるような神様なら、愛を信じられる。JWの神様は信者にあれこれ要求し、酷使するだけだから、愛を信じられないのも無理はない。」

「3節で“エホバを一言で言い表すなら,愛です。(ヨハ一 4:8)”といっています。引照聖句には“愛さない人は,神をよく知りません。神は愛だからです。”とあります。」
「愛を強調するのは、ヨハネの特徴。ヨハネの神学がそうだということだね。ヨハネ一4:7-21はヨハネ3章のイエスとニコデモの会話を下敷きにしたものとされる。」

「ヨハネ一4:9の“神は独り子を世に遣わし,その方によって私たちが命を得られるようにしてくださいました。このことから,神が私たちを愛してくださっていることが明らかになりました。”は、ヨハネ3:16の“神は,自分の独り子を与えるほどに人類を愛したのです。”を言い換えたものですね。」
「JWの翻訳者は“人類を愛した”と意図的な誤訳をしている。英文では“God loved the world”で、神が愛したのはこの世界。神がこの世界を愛したとあるのを受けて、ヨハネ一では“神は独り子を世に遣わし”となっている。“人類”に遣わしたのではない。」

「JWはこの世界は滅ぼされるものと決めつけているので、神がこの世界を愛しているというのは不都合ということで、変えたわけですね。」
「ヨハネには終末論はないんだよ。神はこの世界を愛しているのだから、滅ぼすことはないというのがヨハネの思想。JWの教義とは相いれないからといって、聖書を改ざんしてはダメだろう。」

「4から7節が“エホバは私たちのことを心から愛している”です。 4節で“「エホバは優しい愛情にあふれ[る]方」です。(ヤコ 5:11)”とあるのですが、引照聖句には“皆さんはヨブの忍耐について聞き,ヨブがエホバのおかげでどんな結末を迎えたかを知っています。エホバは優しい愛情にあふれ,憐れみ深い方なのです。”とあります。これは納得できませんね。」
「ヨブはどんな結末になったかというと、ヨブ42:12,13には“エホバがヨブを祝福したので,ヨブの残りの人生は以前よりも豊かになった。ヨブは,羊1万4000匹,ラクダ6000頭,牛1000対,雌ロバ1000頭を持つようになった。さらに,息子7人と娘3人を持つようになった。”とある。ヨブにはもともと息子7人と娘3人がいたけれど、サタンによって殺されてしまった。サタンの行為は神の許可のもとで行われている。」

「亡くなった子どもと同じ数の子どもが新たに生まれたのだから、問題ないだろうということですね。人間は単なる数字です。」
「神には一人一人がかけがえのない人間だ!という思想はないということ。数字があっていれば問題としないようだ。優しい愛情にあふれている神とは言えないね。」

「4節で“聖書の中でエホバはご自分のことを愛情深い母親に例えています。(イザ 66:12,13)”とあります。引照聖句には“母親が子を慰めるように,私もあなたたちを絶えず慰める。”とあります。」
「神は本来、男でも女でもないでしょう。でも聖書の神は男だよね。女性的なイメージは例外的だ。」

「5節で“何か重大な間違いを犯したとしても,エホバは私たちのことを見捨てたりしません。自分の間違いを認めてエホバのもとに戻るなら,私たちのことを変わらずに愛してくれます。”とあります。これは排斥された人に向けて言っていますね。エホバは許しても、組織は許してくれません。」
「逆に、エホバは許さなくても、長老と仲が良かったらすぐに許される。人間的な、あまりに人間的な組織だからね。」

「6節に“ゼカリヤ 2:8を読む。エホバは私たちのことを瞳に例えています。”とあります。そこには“あなたたちに触れる者たちは私の瞳に触れているのである。”とあります。瞳とは大切なものの例えですね。」
「この聖句は当時のイスラエル人に向けて言われたもので、現代のJWに向けて言われたものではない。2:9に“私は今,彼らに向かって手を振りかざす。彼らは自分の奴隷たちに略奪される。”とあるように、イスラエル人を虐げているものに滅亡が近いことを言っている。愛の神ではなく、破壊し滅ぼす神だね。」

「8から11節が“エホバは愛を表している”です。 エホバはイエス、天に行く人たちに愛を表しているそうです。そして9節の最後で“では,エホバが愛しているのは天に行くよう選ばれた人たちだけなのでしょうか。そうではありません。エホバは私たち全てのことを愛しています。”と付け足しています。」
「JWの教義では、人間は天に行く少数の人と行かないその他大勢の2階級に分かれるわけだけど、JWが想像する神様は天に行く人の方を当然愛していて、その他はどうでもいい。」

「9節に“ローマ 5:5を読む。エホバは天に行くよう選ばれた人たちにも愛を表しています。”とあります。そこには“神の愛が心の中に注がれているからです。”とありますが、通常は全ての信者が当てはまると解釈しますよ。」
「JWの教義ではそうじゃなくて、たった144000人だけにしか適用できないというもの。天に行かない人は新約聖書を読む必要はないと思うよ。自分たちに無関係のことが書かれているわけだから。」

「10節で“エホバが私たちを愛しているといえる最大の証拠は何でしょうか。贖いです。”とありますが、納得いきません。エホバは単なる傍観者にすぎません。」
「JWの教義では神とイエスは完全に別の存在なので、そう思われても仕方ないね。頑張ったのはイエスで、神は大したことはしていない。」

「10節で“おかげで私たちの罪は許され,エホバと友になることができるようになりました。”とあります。前回は天のお父さんエホバ、ということが出てきましたが、JWでは父ではなく友のようです。」
「JWでは、神様を天の父と呼んでいいのは天に行く人だけのようだよ。それ以外のひとには単なる友達。でも、友達ならお金がない時、貸してくれてもよさそうだけど、そういうことは一切してくれない冷淡な友達ね。」

「11節に“(エレミヤ 31:3を読む。)エホバは私たちを愛しているので,ご自分のもとに引き寄せてくださいました。”とあります。そこでは“揺るぎない愛をもってあなたを引き寄せたのである。”と言っています。これはJWは神から選ばれた特別な人間だ、と言っているわけですね。」
「この聖句は、古代イスラエルのことを言っているわけで、今のJWのことを言っているわけではない。でもカルトは信者の選民意識を高めるような教育をするもの。JWも同様だね。」

「12から18節が“エホバの愛について考えると,どんな気持ちになるか”です。 詩編の中で一番有名な、詩編23:1-6を取り上げ、エホバの愛についてどう感じるべきかを指示します。カルトらしく感情までコントロールするわけですね。」
「12節で“ダビデはエホバが愛し,優しく気遣ってくれていることを確信していました。そのことを詩編 23編で歌っています。”とあるけれど、“歌っています。”は違和感がある表現だね。羊飼いの杖をマイクがわりにして歌っている姿を想像してしまう。英文ではdescribesなので、表しています、くらいにして欲しい。」

「12節で“ダビデには,牧者であるエホバとの強い絆がありました。”とあり、“牧者”は太字で強調しているのだけれど、古代中東では、神を牧者に例えるのはよくあることじゃないですか?」
「例えば、バビロニアの神であるウトゥ(シャマシュ)は牧者とよばれている。王が自分のことを牧者と呼ぶのもよくあることで、聖書の発明ではない。」

「13節が“私は何も不足しない”です。詩編23:1からです。模範的なJWはそう感じるべきだということですね。14節が体験談です。クレア姉妹は“父親が脳卒中になり,妹は排斥され,家族がやっていた仕事がうまくいかなくなり,家を失いました。”が、しかし“エホバは私たち家族が必要な物に事欠かないようにしてくれました。エホバが私たちの想像を超えるほどたくさんのものを与えてくれたことが何度もありました。”と言っています。極めてまれなケースを取り上げているだけですね。」
「エホバは不幸のどん底に落ち込むまでは何もしてくれないけれど、飢え死にするのは何とか防いでくれるということかな。でも、それでもって“私は何も不足しない”とはいえない。」

「本当は、エホバが与えてくれたんじゃなくて、周囲の人がくれたんですよ。」
「そういうわけで、クレア姉妹は裕福な信者が多くて、慈善活動に熱心な宗教に改宗した方がいいかも。でも、そういう宗教はJWとは違って、信者でなくても援助してくれるから、あえて改宗する必要はないかもね。」

「15節が“力を取り戻す” 詩編23:3からです。模範的なJWはそう感じるべきだということです。16節が体験談で、夫に捨てられたレイチェル姉妹は“エホバに愛されていることを実感できるようにしてくださいました。兄弟姉妹は一緒に時間を過ごし,食事を届けてくれました。温かいメッセージや聖句を送ったり,ほほ笑んで安心させたりもしてくれました。”とあります。これまたエホバではなく、仲間が助けてくれたという話ですよ。」
「JWよりもはるかに信者同士の助け合いが活発な宗教はたくさんある。助けて欲しければ、この人もJW以外の宗教に改宗した方がいいね。」

「実際は、年老いて、極貧にあえぎながら、孤独に死ぬJWの方が多いわけですよ。現実をゆがめています。」
「そういう暗くて悲惨な話は、JWなら皆よく知っているから、記事では滅多にない良い話をとりあげ、少しでも元気出せるようにという統治体の暖かい配慮なんだよ。」

「17節が“何も悪いものを恐れない。あなたが共にいてくださるから”です。詩編23:4からです。模範的なJWはそう感じるべきだということです。18節が体験談で、息子が自殺したスージー姉妹が“エホバの優しい愛について考えると,エホバに守られているように感じ,穏やかな気持ちになりました。”と、嘘くさいことを言っています。」
「本当かもよ。JWを長年やっていると普通の思考や感情がなくなるようだからね。息子が死んでも、エホバの名を聞くと条件反射的に穏やかな気持ちになれるのかも。」

「タソスという長老の話も出ています。徴兵を拒否して刑務所に4年間入れられたのですが、“エホバは必要な物を与えるだけでなく,十分に世話してくれました。それで,エホバに心から頼ろうという気持ちが強まりました。”とあります。必要な物は刑務所から与えられたのではないですか?刑務所に天使が食べ物を持ってきてくれたわけじゃないでしょう。」
「JWにとって、刑務所はそんなに悪い場所ではないようだね。衣食住が保証されるし、退屈な集会にも出なくていい。この長老は“刑務所にいる間に正規開拓奉仕を始めました。”といっている。暇だからできるわけでしょう。」

「インパクトに欠ける体験談ばかりでした。」
「どうせなら、飢え死にしそうになったら天使が食べ物を持ってきてくれたとか、殺人犯に襲われたけれどエホバが守ってくれたとか、常識をぶち破った奇想天外なものにして欲しいね。」

「最後の19節が“優しいエホバがそばにいてくださる”です。 “兄弟姉妹の経験からも分かる通り,「愛……の神」であるエホバが私たちと共にいてくださいます。”とありますが、英文ではThe experiences that we have discussed all prove that Jehovah, “the God of love,” is with us!です。だいぶ意味を変えています。」
「英文では、これまで議論したすべての経験は、“愛の神”エホバが私たち共におられることを証明しています!とかなりバカなことを言っているので、変えたんだろう。」

「執筆者は高等教育を受けたことがないので“証明する prove”の意味が分からないのでしょうね。」
「体験談をいくら積み重ねても、何かを証明することにはならない。でもそうは思っていないので、毎回真偽不明の体験談を並べて、そういうわけで神は愛ということが証明されました、などとバカなことを書いているのだろう。」

聖書についての質問
2024年03月29日 14:34:35

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“大変な時も,エホバが助けてくれる(3)”で、人生のどん底でエホバがどのように助けてくださるか、という内容です。」
「どうすればよいかというと、ここでは祈る、聖書を読む、JWの出版物を読む、JW仲間に頼る、の4つがでている。つまり何か問題があってもJWの枠内で対処せよ、JW以外の専門家や機関にたよるなということだ。」

「うつ状態であっても、祈りと聖書ですか?悪化するだけですね。」
「JWの自殺率が高くなるのも無理はないね。」

「1節に、大変な時とは具体的にどんな時かについて、例をあげています。“ルイス兄弟は,特殊ながんにかかっていて余命数カ月しかない,と医師から言われました。モニカ姉妹は夫婦で忙しく奉仕していました。でもある日,長老である夫が何年も隠れて罪を犯していたということが分かりました。オリビアという独身の姉妹は,大きなハリケーンが近づいていたため,避難しなければなりませんでした。戻ってみると,家は嵐で壊れ,めちゃくちゃになっていました。”とあります。」
「病気、夫の浮気、自然災害だね。これらのことを神様が助けてくれると誤認するように、この記事で誘導するわけだね。」

「3から6節が“エホバは守ってくれる”です。 事実に反しますね。守ってくれません。今までどれ程のJWが奉仕中に死んだり、暴行を受けたりしたか、組織は報告すべきです。」
「この記事では、①挑戦→②エホバはどのように助けてくれるか→③私たちがしなければならないこと、という順番で話が進むようになっている。小学生でもわかるように工夫しているのだろう。」

「3節が“挑戦”で、病気、夫の浮気、自然災害がでてきます。4節が“エホバはどのように助けてくれるか”で、“エホバは私たちに「神からの平和」を与えると約束しています。(フィリピ 4:6,7を読む。)”とあります。“エホバに真剣に祈った後,自分でも驚くほど穏やかな気持ちになったことがありますか。それが「神からの平和」です。”と解説しています。」
「祈ったあと気持ちが穏やかになったら、それをエホバの助けだと思えということね。別の神に祈っても同じようなことは起きるけれど、これもエホバの助けなのかな?祈るという行為自体がもたらす気持ちの変化じゃないの?」

「4節で、“フィリピ 4章7節には,神からの平和が「心と考えを守[る]」ともあります。「守る」と訳されるギリシャ語は軍事用語で,守備隊が町を敵の攻撃から守ったことと関係しています。”と言っているのですが、正しくは、4:7は“神からの平和が,キリスト・イエスを通して皆さんの心と考えを守ります。”です。“キリスト・イエス”が省略されています。エホバ教ならではの引用ですね。」
「訳もヘンだね。“キリスト・イエスを通して”ではなくて“キリスト・イエスにあって in Christ Jesus”だよ。キリスト・イエスという町にとどまる限り、神からの平和が守ってくれるといっているわけで、JWのように怪しげなエホバの町に行ってしまったら守ってはくれない。」

「神の平和は何から心と考えを守ってくれるとパウロは言っているのですか?」
「パウロが平和という時は、異端との戦いを背景にしていることが多い。例えば、コリント二13:11で“最後に,兄弟たち,これからも喜び,正され,慰められ,同じ考え方をし,平和に生活してください。そうすれば,愛と平和の神が共にいてくださいます。”といっている。神の平和に満たされているなら、JWみたいなインチキ宗教から守られ、だまされることもない、ということじゃないの。」

「6節が“私たちは何をすべきか。”で、“神からの平和を感じられるまで祈る”ことを勧めています。余命数カ月のルイス兄弟の話が出ていて、“こういう状況になると,医療に関することなど,いろんなことを決定する のはとても難しいです。でも,私たちは祈りのおかげで,大変な中でも穏やかな気持ちでいることができています。”とあります、“医療に関すること”と言うのは輸血に関することですよね。」
「終末期になると、よく敗血症になる。敗血症の初期段階では赤血球輸血が推奨されている。JW独自の奇妙な血液理論によると赤血球はダメなわけだね。それで敗血症に対してアルブミン製剤を勧めることがある。」

「アルブミン製剤は血漿分画成分で、血漿から分離精製したものですね。これはJWの血液理論では問題ないですね。JWの表現では、良心の問題ということですね。」
「でもアルブミン製剤では効果があまり期待されない。どうするJW?というわけだ。JWの患者は病院からすれば来ないで欲しいよね。」

「6節では“2人は真剣に何度も祈り,穏やかな心や良い決定を下すための知恵を与えてくださるようエホバにお願いしました。そして,エホバの助けを実感しました。”とあります。具体的にどんな決定をしたのか書いて欲しいです。」
「具体的に書くと、“エホバの助け”の実態がわかってしまうから書けないんだよ。抽象的表現でごまかしている。」

「7から9節が“エホバは私たちが安定できるように助けてくれる”です。 7節で、ルイス兄弟が死亡したことになっています。8節が“エホバはどのように助けてくれるか。”で、“エホバは私たちを安定させると約束しています。(イザヤ 33:6を読む。)”とあります。これは聖句の誤用ですね。」
「イザヤ33:1-6は要するに助けてくれという祈りだ。33:2で“エホバ,憐れみを示してください。私たちは希望を抱いてあなたを待ちます。朝ごとに力を与えてください。苦難の時に救ってください。”とある。33:6の“その方はあなたの時代に安定をもたらす。”は神様の約束じゃないよ。“その方”が神様のことで、神様が安定をもたらすはずだと願っているわけ。」

「“あなたの時代”とはイザヤが生きていた時代のことですよ。」
「21世紀のことではないよね。文脈を無視して、聖句を切り取って、これが神の約束ですというのは、誤用というより、キリスト教系のカルトがよくやる詐欺だね。」

「8節に船のスタビライザーの話が出てきて、“このスタビライザーは船が前に進んでいないと効果を発揮できません。同じように,難しい状況の中でも諦めずにエホバに仕え続けるなら,エホバは私たちを安定させてくれます。”とあるのですが、エホバは難しい状況でも前に進まないと信者を安定させてくれない過酷な神様なんですね。」
「船のスタビライザーとエホバは何の関係もないよ。それなのに“同じように”と無理矢理関連付けて、信者を酷使しようとしている。こういうのを非論理的文章という。」

「9節は“私たちは何をすべきか。”で、“祈りや集会や奉仕の習慣を守るように努力しましょう。”とあります。夫が死亡しても、いつものJW活動をしなさいという過酷な要求です。」
「それだけじゃないよ。9節には“個人研究やじっくり考えるための時間をきちんと取ることも大切です。”といって、JWの資料を勉強しなくてはならないようだ。夫が死んだときに、一体何のためにそんなことをしなくてはならないのかな?人が死ぬと様々な法的な手続きがあるから、それをきちんとしましょうと言って欲しい。」

「10から13節が“エホバは支えてくれる”です。 10節で“大変な問題が降り掛かると,身体面でも感情面でもダメージを受けて,「もうだめだ」と感じることがあるかもしれません。”とあります。11節が“エホバはどのように助けてくれるか。”で、“エホバは私たちを支えると約束してくれています。(詩編94:18を読む。)”と力強く言っていますが、これまた聖句の誤用ですね。」
「詩編94:18には“「足を滑らせてしまう」と私が言った時,エホバ,あなたは揺るぎない愛を示し,私を支えてくださった。”とある。これがどうしてエホバの約束になるの?詩編94の前半は、悪人に対する報復を神に祈り求めたもので、後半は悪人を滅ぼすであろう神に対する信頼感を述べたもの。」

「12節で“エホバは,誰かの心を動かして私たちを支えることがよくあります。”と言っていますが、誰かが助けてくれたら、それはその人の意志ではなく、エホバに操られて助けに来たと解釈せよということですね。」
「JWは良いことはエホバのせい、悪いことはサタンのせい、という単純な二元論で生きているので、そういうことになるね。でもJWには良いことは滅多に起きないから、エホバは役に立たないね。」

「13節が“私たちは何をすべきか。”で、“大変な時こそ,家族や友達や長老たちの助けを進んで受け入れるようにしましょう。エホバはそうした人を通して,あなたを支えたいと思っているのです。”とあります。執筆者はエホバの考えがわかるのですね。」
「人の弱みに付け込むのがJWのやり方でしょう。夫を亡くした妻に長老が押しかけて、JWをやめたら復活した夫に会えないと言って、JWに囲い込むようにするわけだね。」

「14から16節が“エホバは安心させてくれる”です。 14節で“私たちは恐れを感じることがあります。”とあります。15節が“エホバはどのように助けてくれるか。”で、“エホバは私たちを安心させ,落ち着かせてくれます。(詩編94:19を読む。)”とあります。11節に出ていた聖句の続きですね。“心配事で圧倒されそうな時,あなたは私を安心させ,落ち着かせてくださった。”とありますが、これはエホバの約束ではありません。聖句の誤用です。」
「15節では“小さな女の子がひどい雷のせいで怖くて眠れなくなっている様子をイメージしてみてください。”とあるけれど、英文ではThis psalm may make us think of a little girl who is scared・・・で、この詩編を読むとおびえている少女を思い浮かぶかもしれません、と言っている。この詩編94を読んで、そんなことを思う人はいないよ。執筆者はまともに聖書を読んだことがない人だね。」

「詩編94:16で“私のため,悪人に対抗してくれるのは誰か。悪を行う人に立ち向かってくれるのは誰か。”と作者は問いかけています。おびえる少女ではありませんね。」
「そして詩編94:17-19で、神以外に誰もいないことを言っている。神様、あなた以外悪に立ち向かってくれる人はいません、だからしっかり悪人を滅ぼしてくださいね、信頼していますよ、という内容。」

「15節で“私たちが試練に遭って怖いと感じる時,天のお父さんエホバは私たちを“抱き寄せ”,気持ちを落ち着かせてくださいます。”と言っています。いつからJWはエホバの子どもになったのですか?」
「JWはエホバの友、しかもいつでも捨てられる条件付きの友じゃなかった?本当に子どもに格上げしたのか?」

「16節が“私たちは何をすべきか。”で、“いつでも祈り,聖書を読んでエホバと一緒に時間を過ごすようにしましょう。”と、恐れおののいている時でも、祈りと聖書で解決のようです。」
「16節で“そうするなら,ストレスを感じる時にも,まずエホバに助けを求めることができます。”とあるけれど、英文ではThen when you are under stress, your first thought will likely be to turn to your heavenly Father.で、”あなたの天のお父さん”なんだよ。でも翻訳者は違和感があったので、”エホバ”に変えたのだろう。日本のJWは神の子どもじゃないということね。」

「最後の17節で、“エホバは私たちを守り,安定させ,支え,安心させてくれます。”と言っていますが、聖書の誤用に基づくカラ約束ですね。」
「エホバが頼りにならないことは、古い信者なら十分理解しているよ。」

聖書についての質問
2024年03月15日 14:24:42

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“1年で一番大切な日に向けて準備する(2)”で、キリストの死の記念式を利用して、信者集めに頑張ろう、という内容です。」
「毎年同じような記事が出るけれど、参加する必要のないカルトの儀式についてのつまらない記事だね。」

「1節には“エホバに仕える人たちは,キリストの死の記念式を1年で一番大切にしています。それはイエスが行うようにと弟子たちに命じた,たった一つの行事だからです。”とありますが、これ以外の行事はするなと言外に言っていますね。でも命じていない行事をしてはいけないということはないですよ。」
「キリストの誕生を祝ってはいけないと聖書にはないので、祝ったって、イエスは文句を言わないでしょう。」

「JWの考えるエホバという神は偏狭で、起源がどうのこうのと些末なことにこだわるつまらない神なので、機嫌を損ねないように細心の注意を払わなくてはいけないのです。」
「JWの教義では、宇宙の創造者があまりにもけちくさい存在なので呆れるね。子どもの誕生祝いにも不機嫌になる神様なんだよね。」

「3節に“賛美の歌を2曲歌い,パン とぶどう酒を回します。”とあります。飲み食いする人は順調に増加して2020年には2万人を超えました。組織としては困った事態ですよ。」
「塔1999/2/1の“土の器にあるわたしたちの宝”と言う記事の中に、“もう追加はありません!”という囲み記事があって、“そのような召しは,すでに1931年ないし1935年ごろに終わったのです。もはや追加はありません。では,交わりはじめたばかりで記念式の表象物にあずかる少数の人はどういう人なのでしょうか。もしその人が残りの者だとしたら,それは補充です。油そそがれた者の隊伍への追加ではなく,離れ落ちたかもしれない人に代わる補充なのです。”とある。この見解は今も変わっていないはず。」

「天に行く人を選ぶのが1935年頃に終わったという聖書的根拠はあるのですか?」
「あるわけないよ。JWの教義の多くと同様聖書的根拠はない。」

「記念式で飲み食いする人が今も2万人以上いるということは、天に行くはずだった人のかなりがJWをやめたことになりますね。それも組織には不都合ですよ。」
「それで、塔2011/8/15の“読者からの質問”と言う記事で“過去の宗教信条や,精神的・感情的な問題などにより,誤って自分は天の召しを受けていると思い込む人がいるかもしれないからです。”と、飲み食いする人の中に相当数の少し頭のおかしな人が含まれていると見なしているようだ。」

「組織としては、そういうおかしな人を除けば飲み食いする人は減少しているはずと言いたいわけですね。」
「なにせ、塔2000/1/15の“ずっと見張っていなさい”と言う記事で、今が終わりの日である証拠を6つ挙げているのだけれど、その6つ目として“第六に,キリストの油そそがれた真の弟子たちの人数が減少しています。”と言っている。終末カルトとしては飲み食いする人が本当に増加しているとは認めがたいわけだね。記念式の話の半分くらいは、飲み食いできる人はこの中にはいません、絶対飲み食いするなよ、というものになるよ。」

「5から12節が“記念式に向けて心を整えるには”です。 記念式に向けて精神修養が必要なようです。5節で“記念式に向けて心を整えるために,イエス・キリストの犠牲の価値についてじっくり考えることは重要です。”といっています。9節までがイエスの生涯に触れています。普段はイエスを無視しているJWもこの記事ではさすがにイエスを持ち上げています。」
「5節に“「イエスは何のために死にましたか」の動画も参照。”とある。来年からは、つまらない話はやめて、全部動画にしたらいいよ。」

「10節では“自分の息子がみんなから退けられ,虐待され,苦しむ様子を見るのは,エホバにとって本当につらいことだったに違いありません。”とありますが、聖句は引用されていません。」
「つらいかどうかなど、人間がどうして知ることができるでしょうか?と今の統治体だったら言うのかと思ったけれど、この記事でも相変わらず根拠のない断定を続けている。」

「11節で“西暦33年の春に愛する子イエスが苦しんで死ぬのを見た時,エホバがどんな思いでいたのかイメージすることができます。”とあります。JWとしては、イエスは33年に死んだことにしたいようですが、JW以外では30年とすることが多いですよ。」
「30年と33年のどちらが聖書の記述にあっているかというと、30年なんだよ。イエスの処刑の日について、マルコ15:33には“昼の12時になった時,闇が全土に垂れ込めて,午後3時にまで及んだ。”とある。これは日食があったことを示していると解釈できる。使徒2:20に“太陽は闇に,月は血に変わる。”とあり、日食と部分月食を意味しているようだけれど、これはイエスの死と復活について述べている部分と解釈できる。」

「つまりイエスの死の前に日食と月食があったと読めるということですね。」
「すると、29年11月24日に皆既日食、29年12月9日に部分月食がエルサレムで見ることができたことが分かった。それでイエスの死は30年だろうと推定されることになる。33年の前にはそのようなことが起きていない。」

「イエスが死んだのは30年4月です。日食も月食もだいぶ前ですね。」
「イエスの死の話が伝承されるなかで、数か月前の出来事が、イエスの死んだ日に起きたことに変えられたと推定しているわけだ。」

「JWがイエスの死を33年と主張するのは、JWのダニエル書9:25-27の解釈で33年に死んだことになっているからですね。今さら30年に変えられない。」
「69週と週の半ばというのを、483年と3.5年とし、33年になるわけだ。アルタクセルクセスの第20年,つまり西暦前455年を起点としているのだけど、史実では445年なんだよね。このずれは、エルサレム滅亡年をウソの西暦前607年としたことの影響。JWの年代学はメチャクチャ。多少の知性のある人はJWには向いていないね。」

「12節で“記念式までの間,個人研究や家族の崇拝で贖いについて調べてみるのはどうですか。”とあり、JWの資料から調べることを勧めています。」
「記事で書くのが面倒くさかったんだろう。それで自分で調べてくださいとなったんだよ。」

「13から16節が“ほかの人を助ける”です。 ここからが本論です。要するに、記念式にいかに来させるかということです。13節に“まずは招待しましょう。”とあります。そんなにやる気のあるJWはいますか?」
「もし招待して、何か誤解して本当に来てしまったら、気まずいよ。あのつまらない意味不明の儀式にあきれ返るのが目に見えているからね。」

「15節で“エホバの証人の集まりに出席したことがない人は特に,知りたいことがいろいろあるかもしれません。それで,どんなことを聞かれるかもしれないか予想しておいて,答えられるようにしておくのは良いことです。”と、質問に対する模範解答を準備せよと言っています。」
「新しい人なんか来ないし、来ても質問なんかしないよ。」

「16節は“記念式の後も,いろんな疑問を持つ人がいるかもしれません。”とあり、そういう人のために“jw.orgの「エホバの証人が主の晩餐を守り行なう方法はほかの教会と違いますが,なぜですか」という記事を活用できます。”と、タブレットで記事を見せることを勧めています。」
「多くの人はわざわざタブレットに書かれていることを読んだりしないよ。読むのが面倒だし、それ程興味があるわけじゃない。」

「カルトに大事なのは人を引き込む話術ですよ。それでJWも今まで話し方を練習来たわけですよ。それを放棄するわけですね。」
「JWの質が低下して、それが期待できないので、タブレットで見せるという誰でもできる方法を推奨しているのだろうけれど、ダブレットに頼るようになっては、宗教としてはおしまいだね。」

「17,18節が” しばらくお休みしている人をサポートする”です。 JWに嫌気がしてJWから離れている人を記念式に来させろ、と長老に指令しています。」
「英語ではINACTIVEなので、活動していない人、不活発な人、でしょう。それを”しばらくお休みをしている人”と訳すとは、幼稚園みたいだね。」

「17節に“兄弟姉妹のことを心から気に掛けるようにしましょう。(エゼキエル 34:12,16を読む。)”とあるのですが、聖句の誤用ですよ。」
「そこには“散らされた羊を見つけて養っている羊飼いのように,私は自分の羊を世話する。雲と濃い暗闇の日に散らされた全ての場所から,羊を救い出す。”とあるけれど、ここでいう“私”は神のことで、“羊”はバビロン捕囚によって散らされたイスラエル人のこと。JWとは関係ないよ。」

「17節には誘い方も出ています。“兄弟姉妹のことを愛していること,助けになるためにできることは何でもしたいと思っていることを伝えてください。そして,記念式に招待しましょう。”とあります。記念式の直前にそんな見え透いたウソを言っても、反感をかうだけですよ。」
「長老は、こういう白々しいウソをまじめに言える男じゃないと務まらないということだね。いやなら長老をやめればいいだけ。」

「18節で、しばらくお休みをしている人が記念式に来た場合、”“気まずくさせるような質問をしたり,傷つくようなことを言ったりしないようにしましょう。”と言っています。余計なことを言うJWがいるということですね。」
「18節の下に2枚の写真と二人の人の体験談が出ているけれど、ウソくさい話だね。」

「歓迎を受けて、一人は、“わが家に帰ってきたんです”と言っていますし、もう一人は“まるで家に帰ってきたかのようでした”と言っています。何かの冗談ですか?ありえませんね。」
「以前JWとして活動していたなら、JWの行動パターンを知っているはず。熱烈に歓迎を受けてもそれは表面だけで、本音は別の所にあることぐらいわかるよ。“わが家”なんて思うはずがない。」

「最後の19節では“では,1年で一番大切な日である記念式に向けて,今年もできる限りの準備をしましょう。”と信者のしりを叩いています。時間も報告しなくてよくなったので、どれほどの信者がまじめにやるのか楽しみです。」
「19節の後に、“2024年のように,日曜日に記念式が行われる場合,週末の集会はありません。そのため,来週の研究記事はありません。”とある。これは良いニュースだ。」

聖書についての質問
2024年03月08日 14:35:52

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバに頼って恐れを乗り越える(1)”で、恐ろしいことが次々起こるけれど、エホバに頼って耐えなさい、という内容です。」
「迫害の恐怖をあおっている。それは信者を支配するカルトのいつものやり方。」

「ノルウェーでの裁判、JWが負けましたよね。エホバは裁判では頼っても無駄のようです。」
「弁護士費用だけでも数千万円使ったようだけど、エホバを頼って、上訴するんじゃないかな?」

「この号から、質問の答えを書く四角い欄がついています。小学生のワークブックに増々似てきましたね。」
「答えをアプリにインプットすると、自動的に組織に転送されるようになっているのかな?不気味だね。」

「1節に“私たちの誰もが恐れを感じることがあります。もちろん聖書を学んでいるので,亡くなった人や邪悪な天使を恐れたり,将来について不安に思ったりすることはもうないかもしれません。”とありますが、JWは悪霊を恐れていますし、将来については不安だらけです。現実を無視しています。」
「JWはサタンと悪霊が自分たちを狙っていると、とても怖がっているよ。中古の物には悪霊がついているかもしれないと恐れて買わないのがJWでしょう。」

「2節からダビデの話になります。突然、旧約聖書の世界に飛ぶのはよくあるパターンですが、旧約の出来事を現代のJWと関連させようとしても、何のリアリティも感じませんよ。」
「ダビデは何度も取り上げられている。信者にとっては退屈だね。」

「3節に“ダビデは恐れを感じた 時,エホバに頼りました。(詩編56:1-3,11を読む。)”とあります。引照聖句には“私は恐れる時,あなたに頼る。”とありまして、これが今年の年句です。」
「詩編56の表題には“フィリスティア人がガトでダビデを捕らえた時”とあり、その時の詩とJWは思っているようだけど、表題は後からつけられたもので、表題と中身はあまり関係ない。ダビデは作者だという根拠もない。」

「3節で“エホバの助けによって,そこから逃げる方法を思い付きました。普通では考えられないことですが,狂人のように振る舞ったのです。”とありますが、エホバの助けで狂人のふりをすることを思いついたなんて聖書のどこにも書いていません。」
「普通の人なら、別な方法をお願いします、と神様に言うね。この話はサムエル記一21章にでているわけだけど、サムエル記では神の介入はほとんどない。ダビデが追い詰められて狂人のふりをしたら、うまく騙せたという話。」

「狂人のふりをするというのは、エホバを頼っている人間のすることとは思えません。」
「詩編56の作者は56:9で“私が助けを求めるその日に,敵は退却する。私は確信している。神が味方であることを。”といっている。こう確信している人物が敵につかまって狂人のふりをするなんてありえない。」

「ダビデは狂人のふりまでしてアキシュ王の支配するガトから逃れたのに、サムエル一27章で、ガトに戻っています。アキシュ王はダビデにチクラグという町を与えます。サムエル一21章とつじつまが合いません。」
「サムエル一21:10には“その日,ダビデは立ち上がってサウルからさらに逃げ,やがてガトのアキシュ王の所に来た。”とある。その直前はどこにいたかというと、ノブにいる祭司アヒメレクの所。ダビデがガトで狂人のふりをした話は直前の話とつながらない。」

「この話は後からの挿入ということですね。」
「ダビデはアキシュ王の傭兵だったということを否定したくて、この話を挿入したのだろう。」

「4節で頼りになる医師の例を持ち出して、“同じようにエホバがこれまでどんなことをしてきたか,今どんなことをしているか,これからどんなことをしてくれるかを考えるなら,エホバに頼ろうという気持ちが強くなります。”と言っていますが、エホバってろくなことをしていません。」
「神を医師に例えるのは全く不適切だね。神を例えるなら、医師ではなく、人間を断罪し、処罰を加える裁判官兼死刑執行人でしょう。」

「5から7節が“エホバはこれまでどんなことをしてきたか”です。 5節では“詩編56:12,13を読む。”とありますが、その後に書いてあることとほとんど関連しません。」
「5節で言っているのは“例えば,ダビデはエホバが造った物に注目して,エホバの力強さや人間に対する温かい気遣いをじっくり考えました。(詩 65:6-9)また,エホバがご自分に仕える人たちをどのように助けてきたかも思い巡らしました。(詩 31:19; 37:25,26)何よりも,エホバが自分にこれまでどんなことをしてくれたかについてじっくり考えました。”ということ。詩編56:12,13とは無関係。」

「6節では自然観察に関連して、“例えば,鳥や花を「よく観察」するなら,エホバが私たちのことを必ず養ってくださると確信することができます。”といていますが、少しも確信できません。自然界の厳しさを知れば、確信できる方がおかしいです。」
「誕生した鳥のほとんどは1年以内に死ぬよ。そうでなければ地球上鳥だらけになっている。」

「7節が体験談です。真偽不明の体験談がJWの主要な教材なのはいつものことです。ストーカーの被害に遭った姉妹が“警察に連絡する時には長老にサポートしてもらいました。”とあります。警察に助けを求めるというのは珍しいですね。祈れば解決するのでは?」
「警察に通報することを推奨しているようだけれど、“長老にサポートしてもらいました。”とあるから、警察に相談する前に、無知無学の長老にまず相談しろということ。組織にとって不利益と判断したら長老は警察への通報をやめさせるのだろう。」

「組織にとって、被害者救済は重要ではないですからね。」
「死んでも復活するから問題ないという考えでしょう。」

「7節では、“でもそれだけでなく,エホバがご自分に仕える人をどのように助けてきたかについて考えるようにしました。”と続きます。誰のことを考えたかというと、ダニエルのことです。“ダニエルは悪いことを何もしていなかったのに,おなかをすかせたライオンのいる穴に投げ込まれました。でもエホバはダニエルのことを助けました。”と言っています。」
「大昔に書かれた本よりも、現実を直視すべき。過去どれだけの女性JWが伝道中に殺されたり、ひどい目にあったかを調べた方がいいよ。集会中に襲われたり、爆弾が爆発したりして何人の人が死んでいるかも調べた方がいい。そうすれば“エホバがご自分に仕える人をどのように助けてきたか” についての真実を知ることができる。」

「8から11節が“エホバは今どんなことをしているか”です。 8節はダビデの話で、9節では“あなたが恐れを感じている時,エホバはそのことを分かっていて,恐れを乗り越えられるよう助けたいと思っておられます。”と言っています。」
「でも何もしてくれないよね。」

「そんなことはないようですよ。10節で“問題にぶつかって恐れを感じている時には,エホバが助けてくれていることになかなか気付けないかもしれません。”とあります。助けてくれているのですが、気付けないだけのようです。それで、“エホバの助けに気付けるようにしてください,と祈ることができます。”と言っています。」
「普通では気付かない程度にしか助けてくれないということね。」

「10節で“最近,集会で話やコメントを聞いて,まさに自分に必要なことに気付かせてもらえたと感じたことがあっただろうか。出版物や動画やオリジナルソングから力をもらっただろうか。誰かから励みとなる考えや聖句を教えてもらって,元気が出たことがあっただろうか。”と自問せよとあります。答えは全て、“いいえ”です。」
「集会での話やコメントなんか誰も興味ないでしょう。大多数は仕方なく参加しているだけ。」

「11節は体験談です。セネガルに住むアイダ姉妹の話です。“開拓奉仕を始めるために生活をシンプルにしたので,生計は苦しくなりました。家族は怒って姉妹を責めました。”とあります。それで祈ったら、“祈りが聞かれていることに気付いて,穏やかな気持ちを持てるようになりました」。やがて姉妹は,開拓奉仕を続けながら親をサポートできる仕事を見つけることができました。”とよくあるパターンのメデタイ話です。」
「祈ったら、よい仕事が見つかった、とは言っていないね。そう誤認されるように書いているけれど。」

「この姉妹が高学歴で、お金を稼げる資格を持っていれば、祈らなくても“開拓奉仕を続けながら親をサポートできる仕事”はすぐに見つかったと思います。」
「組織のいうことを聞いて低学歴・低スキルなので、よい仕事がなかなか見つからず、苦労しているだけ。組織の言うことなど聞くものではないことがよくわかる。」

「“やがて”見つかりましたとあるだけですね。運がよかっただけですね。やっぱりエホバは大したことはしてくれません。」
「家族を犠牲にしても、カイタク奉仕をやれという指令だよ。組織の言いなりになっていると家族関係が滅茶苦茶になるということ。」

「12から15節が“エホバはこれからどんなことをしてくれるか”です。 12節がダビデの話で、13節が楽園の話です。13節に、エホバは“どんな問題も経験しないで済むようにしてくれるわけではありません。”とあるのですが、訳に問題がありますね。」
「We do not expect him to shield us from all problems. で、私たちは神が全ての問題から守ってくれるなど期待してはいけません、だね。だいぶ意味が違うよ。祈れば問題解決みたいな調子のことを言っていたのはどうなったの?」

「その後に“でも,この体制で経験するどんな試練も新しい世界で取り除くと約束しています。(イザ 25:7-9)”と、楽園さえ来たら全て解決と思わせています。楽園幻想ですね。」
「単なる楽園幻想だけじゃないよ。“そして,私たちを攻撃する人たちを除き去ることもできます。(ヨハ一 4:4)”と、しっかり復讐願望も満たしてくれることを言っているよ。」

「でも引照聖句はそんなことを言っていませんよ。“子供たち,皆さんは神から出ており,偽預言者たちを征服しました。”とあるだけです。これは未来のことじゃありません。」
「動詞の時制は完了形。もうすでに起きたことを示す時制。JWの言う楽園は聖書的根拠はないね。」

「14節では“サタンと悪い人たちがいなくなり,正しい人たちだけが残って,日に日に完全さに近づいていく様子をイメージしてみてください。”とイメージトレーニングの勧めです。現実逃避です。」
「完全になるとはどういうことか教えて欲しいね。ここで言う“正しい人”とはJWのことだよね。JWしかいない世界って、理想の世界の真逆のイメージ。ベテルのような不気味な世界でしょう。」

「14節ではテモテ二3:1-5の読み替え法が出ています。“終わりの時代は困難で危機的な時になります。人々は自分を愛し,お金を愛し,・・・”を、“新しい世では,最も幸福な時代が来ます。というのは,人々は他の人を愛する者,霊的な富を愛する者,・・・”と読み替えるのだそうです。こんなくだらないことを大真面目でいうほど、知的レベルが低下しているわけですよ。」
「爆笑ものだね。現実逃避の新しい遊び?もっと役に立つことを教えて欲しいね。」

「15節が体験談です。親から家を追い出されたタンヤ姉妹が、“エホバの側にしっかり付くなら,どんな良い結果になるかを考えるようにしました。この体制で何かを失うことになるとしても,エホバが新しい世界でいつまでも幸せに暮らせるようにしてくださいます。今経験しているつらい出来事を思い出すこともありません。”と言っています。イスラム原理主義者の自爆テロリストも似たようなことを言っていますよ。」
「殉教者の論理だね。こんなJWが組織に命令されたらとんでもないことをしそうで恐ろしい。」

「このタンヤ姉妹はどうなったかというと、“そして,エホバの助けで,住む場所を見つけることができました。今では夫婦で全時間奉仕を楽しんでいます。”とこれまたメデタイ結末です。」
「家から追い出されるのはJWだけじゃないよ。JWであることを拒否したJWの子どもだって、家から追い出される。それがいかに不当で残酷なことかを、この記事を読んだJWが少しでも気付いてくれることを望むね。」

「最後の16,17節が“今エホバに頼るのは大切”です。 大患難の話です。“大患難の時,人々は「恐れ……から気を失います」。でも,エホバに仕える人たちは揺らぐことなく勇気を持って行動します。(ルカ 21:26-28を読む。)”とあります。ルカ21章で信者に何か行動することを命じていましたか?」
「ルカ21:34で、“食べ過ぎや飲み過ぎや生活上の心配事で心が圧迫されないよう注意していなさい。”とあり、21:36で“常に祈願をしつつ,ずっと目を覚ましていなさい。”と言っている。JWの場合、“勇気を持って行動します。”というと、集会に参加し、伝道し、建設工事をすることを指していると思うけれど、そんなことは聖書は言っていない。」

「16節のその後の文が“どうしてそうできるのでしょうか。エホバに頼って助けられた経験を積み重ねてきたからです。”となっていますが、誤訳ですよ。」
「Because we will have already learned to trust in Jehovah だから、エホバを信頼することをすでに学んでいるからです、と言っているだけ。“助けられた経験を積み重ねてきた”なんてどこにも書いていない。余計なことを勝手に付け加えるのが日本語翻訳者の好きなこと。」

「その後、タンヤ姉妹のセリフなのですが、これもテキトウに訳していますよね。“どんなに大変な状況にいるとしても,エホバは必ず私たちのために行動してくださるということが分かりました。”とありますが、そんなことは言っていません。」
「ここは、エホバにできないことはないことを学びました、と言っているだけ。そもそも“エホバが私たちのために行動”したことなんかないでしょう。もしそうなら信者はどんどん増えているよ。」

「17節がまとめで、“今年一年,この聖句(私は恐れる時,あなたに頼る)について考えましょう。”と言っています。」
「17節に“この聖句について,ある聖書学者は次のように言っています。「ダビデは恐れの気持ちをただ募らせたり,問題のことばかり考えたりするのではなく,自分を救ってくれる方に目を向けていた」。”とあるけれど、英語版の引用は“ダビデは”は含んでいないよ。翻訳者が勝手に含めている。」

「これも引用元を明らかにしない不正引用ですよね。どこからの引用ですか?」
「ネット上にthe teaching ministry of Jay Mack というサイトがあり、その中の詩編56について解説しているページからの引用だね。He neither feeds his fear nor stares at his problems, but instead, looks to his Redeemer, who will deliver him.とある。ダビデは出てこないよ。」

「末端の信者には組織の提供する資料しか見ないように情報を統制し、上層部はネットから得た怪しげな情報を出典を隠して、ご都合主義的に引用するわけですね。」
「カルトってそんなもの。信者を無知無学のままにしておくと、管理統制しやすいからね。」

「17節の下にある写真は、地震で壊れた家を背景に聖書を抱きしめた女性が立っているというもので、“被災した姉妹が,年句についてじっくり考えている。”と説明があります。こういう災害被災者に、エホバを頼りなさいというのですか?もっとましなことが言えないのかと思います。」
「被災した場合、神様じゃなくて政府や慈善団体に頼った方がいいよ。」

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