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- 許し
- 2025年04月25日 17:20:01
そもそも、イエスの贖いと血を根拠にして神に許していただくためには、新しい契約の当事者でなければなりません。
これは律法契約下で罪の一時的な許しを得るために、外国人も割礼を受けた改宗者となって律法の当事者となる必要があったことと同じです。
大群衆は新しい契約の当事者ではないらしいので、贖いの益は及ばず、ゆえに彼らの罪は神に許されていないことになります。
彼らの罪が許される法的な根拠は一切示されていません。おかしな教えですね。
- 聖書についての質問
- 2025年04月25日 14:19:40
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバは私たちを本当に許してくださる(7)”で、エホバは許してくれるので、JWからひどいことをされても、許してJWを続けなさい、という内容です。」
「数行で済む内容を無駄に膨らませているだけの記事だね。」
「2節に” 「あなたは本当に許す方。それで人はあなたに畏敬の気持ちを抱く」。 *(詩 130:4)エホバは「本当に許す方」です。”とあります。注を見ますと” 元のヘブライ語では,「許す」に当たる語に定冠詞が付いていて,それがほかのものとは異なる唯一本当の許しであることを示しています。多くの聖書翻訳ではこの重要な違いが見過ごされていますが,「新世界訳聖書」では詩編 130編4節でその違いが分かるように訳されています。”と自慢していますが、正しいですか?JWにはいかなる専門家もいないと思いますが。」
「古代ヘブライ語に定冠詞があるかな?慣習的に冠詞と呼ばれるけれど、本当は接頭辞。定冠詞が付くと“ほかのものとは異なる唯一本当の”という意味になると主張しているけれど、そうとは決まっていない。英語のtheと混同していると思うよ。」
「詩編130:4を“本当に許す方”と訳している翻訳はないということですか?」
「協会共同訳では“赦しはあなたのもとにあります。”だね。英語だとJW訳はthere is true forgivenessだけど、そんなふうに訳しているものはなく、単にthere is forgivenessだね。」
「3節に“エホバが誰かを許すとき,その人の罪は完全に消し去られます。”とありますが、エホバはどちらかといえば許さない神ですよ。」
「アダムとエバを許さなかったために、全ての子孫(約1000億人)が死ぬことになったというのが、JWの教義でしょう。罪に対して刑罰のバランスが取れていない。許さない神。」
「申命記23:2の“嫡出ではない子はエホバの会衆に入ることはできません。その人の子孫は10代目でも,エホバの会衆に入ることはできません。”も、なかなか許さない神ということがわかります。」
「嫡出でなくても子どもに罪はないでしょう。子どもは選択できない。それなのに10世代経つまで、仲間外れにするとは。どう考えても許さない神だね。」
「JWが大好きな旧約聖書には許す話はほとんど出てきません。虐殺の話はたくさんありますけれど。」
「旧約聖書の世界では許すことは弱さの現れと考えられているようだ。仲間である隣人を愛し、敵を徹底的に憎み、殺すという世界。許す話と言えば兄弟たちの罪を許したヨセフの話くらいだね。創世記50:17に“あなたの父の神に仕える者たちの違反をどうか許してください」。ヨセフはそれを聞くと,涙を流した。”とある。」
「旧約聖書を読めば、エホバは許す神ではなく、すぐ死刑にする神としか思えません。律法では死刑がやたらと多いです。」
「出エジプト21:17では“父や母をののしる人は必ず死刑にされる。”とある。謝っても死刑なんだろうね。出エジプト31:15では“安息日に仕事をする人は必ず死刑にされる。”とある。飢えた子どもの食料を探していただけでも安息日なら死刑なんだろうね。許す神とは程遠い。」
「5から8節は“エホバは罪を取り除く”です。 エホバは罪を取り去ってくれると言っています。罪を遠くに放し、後ろに投げ捨てる、海の中に投げ捨てると、聖書から引用しています。都合の良い聖句のつまみ食いですね。挿絵が4つもあって、幼児向けの絵本のようです。」
「それならヨシュア24:19、20には“この方は聖なる神,全くの専心を要求する神なのです。皆さんの違反と罪を容赦しません。 皆さんがエホバを捨てて外国の神々に仕えるなら,神は皆さんに良いことをした後でも,皆さんを退けて根絶やしにします。”とあるよ。違反と罪は容赦しない神じゃないの?」
「エルサレムの滅亡について、列王二24:3,4に“マナセが犯したさまざまな罪のゆえ, マナセが流した無実の人の血のゆえである。マナセは無実の人の血でエルサレムを満たした。エホバは許そうとはしなかった。”とあります。マナセ王の罪のせいでエルサレムの住人が苦しむことになったようです。許す神ではなく、無関係な一般人を処罰するのが大好きな神ですよ。」
「時には許し、時には許さない気まぐれな暴君が神でしょう。」
「9から13節は“エホバは罪を拭い去る”です。 エホバは罪を洗い流し、洗い落とし、負債を取り消し、覆い隠すと、聖書から引用しています。これも都合の良い聖句のつまみ食いです。挿絵は4つあります。幼児にもわかるようにという統治体による温かい配慮ですね。」
「それなら申命記29:20に神に従わない人に対して“エホバはその人を許そうとはしません。かえって,エホバの大きな怒りがその人に対して燃え,この書に記された災い全てが必ずその人にもたらされ,エホバはその人の名前を天の下から確実に消し去ります。”とある。罪も消し去ってくれるかもしれないけれど、その人自身も消し去るのがエホバだね。」
「哀歌3:43,44には“あなたは怒り,私たちが近づけないようにしました。私たちを追って,容赦なく殺しました。 ご自分に近づくものを雲で阻み,私たちの祈りが届かないようにしました。”とあります。罪を覆い隠すだけでなく、近づくものを雲ではばみ、祈りを聞かないのがエホバです。」
「イザヤ2:6、9には“あなたはご自分の民,ヤコブの子孫を見捨てました。・・・あなたが彼らを許すことはあり得ません。”とあり、許さない神とイザヤも言っているよ。」
「11節に“古代に使われていたインクは,すすと樹脂と水を混ぜて作られたもので,水を含ませた海綿で拭えば文字を消すことができました。”とありますが、本当ですか?」
「誤訳がある。gumを樹脂と訳しているけれど、樹脂ならresinだね。それに樹脂は水に溶けない。ここでいうgumは糊みたいなものでしょう。糊なら水に溶ける。」
「14から17節が“エホバは良い関係を回復させる”です。 14節に“エホバは罪を本当に許してくださる方なので,私たちはエホバとの良い関係を築くことができます。”とあります。エホバは“「私は彼らの過ちを許し,彼らの罪をもはや思い出さない」。(エレ 31:34)”そうです。」
「引照聖句はイスラエルとの新しい契約のことを言っている部分。エレミヤ31:33で“これが,そうした時代の後に私がイスラエル国民と結ぶ契約である。私は,私の律法を彼らの奥深くに入れ,彼らの心の中に書き記す。”とあり、そして31:34で“私は彼らの過ちを許し,彼らの罪をもはや思い出さない。”と言う。今のJWと何の関係もないよ。」
「16節で“でも,エホバが許してくださっているおかげで「罪から自由に」なることができました。(ロマ 6:17,18。啓 1:5)”とあります。引照聖句はエホバのおかげといっていません。」
「ローマ6:17,18は“かつて罪の奴隷だった皆さんは,今では神から与えられた教えの型に心から従順になりました。 皆さんは罪から自由にされたので,正しいことの奴隷になったのです。”とある。“神から与えられた教えの型に心から従順”になったので罪から自由になったと言っている。エホバは出てこないよ。」
「啓示1:5には“私たちを愛し,自分の血によって私たちを罪から解放してくださった方”とあり、これはキリストのことを指しています。エホバは出てきません。」
「新約になると、キリストが中心でエホバなる神は重要でなくなるので、新約聖書から引用するのはやめた方がいいと思うよ。」
「最後の18,19節が“エホバが許してくださるおかげで可能になること”です。 ここがこの記事の要点です。19節に“でも,許していただきたいと思うなら,私たちの側にもしなければいけないことがあります。イエスはこう言っています。「人の過ちを許さないなら,父もあなたたちの過ちを許されません」。(マタ 6:14,15)私たちはエホバに倣って人を許す必要があるということです。”とあります。この記事は、ひたすらエホバは許して下さる、と連呼してきたのですが、それも条件付きということです。」
「エホバという神様はそういうけち臭い神様でしょう。」
「エホバは許して下さる方なので、JWも許す人になろうということで、JWから性的虐待を受けても許しなさいということですよ。来週は“エホバに倣って人を許す”です。」
「こうやって組織内の犯罪は隠ぺいされるというわけだ。許すことは何度も強調されるけれど、過ちを犯さないようにすることはあまり強調されないのが、JWという宗教の特徴だね。」
- 聖書についての質問
- 2025年04月18日 14:37:01
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバが許してくださることに心から感謝する(6)”で、罪や和解,贖罪,贖い,買い戻し,正しいと認めるといった言葉のJW的な意味を学ぶという内容です。」
「お勉強といった感じだね。ほとんどのJWにとっては興味もないし、やる気も出ないよ。」
「1節はたとえ話です。“想像してみてください。裕福な家庭で育ったある青年が突然悲劇に見舞われます。両親が事故で亡くなってしまったのです。”とあります。そして“両親が財産を使い果たし,多額の借金を残していたのです。青年は財産どころか負債を受け継ぐことになり,返済を求められます。”というのですが、へんな話ですね。」
「日本の法律ではその場合遺産を放棄すれば、負債を受け継ぐことはない。」
「アメリカは違うのですか?」
「アメリカの各州は、相続に関して「管理清算主義」を採用しており、プロベイトという相続財産の管理清算手続を通して、亡くなった人の債権・債務を整理してから法定相続人に引き渡す。債務だけが残った場合、法定相続人がこれを相続することはない。」
「となると、法律を多少知っている人は1節の話を読んだ時点で、バカバカしい話だと気づき、ついていけませんね。」
「JWにはそういう知識のある人はいないということだね。高等教育を敵視しているから。この記事の執筆者も法的なことには全く無知だね。」
「2節では“私たちもこの青年と同じような状況にいます。”とあります。“私たちはアダムから罪を受け継ぎ,死ぬようになりました。この罪は,誰も支払うことのできない巨額の負債のようです。”と説明しています。つまり、神のルールは現行法では考えられないぐらい不公平で過酷なものということですね。」
「現行法では親の借金を子どもに強制的に払わせるのは正義に反する不法な行為だね。キリスト教的な原罪思想が現代人に説得力を持たないのは仕方ないね。それが神のすることですか?おかしいじゃないですか?と聞かれたらJWはどう答えるのか知りたいね。」
「アダムがどうのこうのとか、しゃべるヘビがどうのこうのなんて、真面目に受け止める話ですか?こんな話を歴史上の事実としている点でJWに入る人はいなくなりますね。」
「エデンの話には罪という言葉は出てこない。旧約聖書にはいかなる人間も生まれながらに罪びとであるという思想はない。そういう思想はパウロの発明。」
「でも出エジプト20:5には“私を憎む人については,父の過ちに対する処罰を子や孫やひ孫に及ぼす。”とあります。これは偶像崇拝をする人についていっているのですが、偶像崇拝者の子や孫は生まれつき罪人ということですね。」
「それに対して申命記24:16では“父親は子供がすることのゆえに死刑にされるべきではなく,子供も父親がすることのゆえに死刑にされるべきではありません。人はそれぞれ自分の罪のゆえに死刑にされるべきです。”とあり、親子だから連帯責任があるという思想を批判している。アダムの罪のせいでその子孫が死ななくてはならないことになったというのは間違ったことだね。」
「3節に“聖書で罪は「負債」に例えられています。(マタ 18:32-35)”とありますが、それは新約聖書です。訳がヘンですね。英文を大きく変えていますね。」
「元の英文はJesus likened sins to “debts.” (Matt. 6:12; Luke 11:4)で、イエスは罪を「負債」に例えました、とある。イエスを聖書に変えている。イエスのことが嫌いなようだね。それから引照聖句も変えている。ひどい改変。」
「この改変は聖書の日本語訳がいい加減だからです。英文の引照聖句は日本語訳では“私たちに罪を犯した人たちを私たちが許しましたように,私たちの罪をお許しください。”ですが、英文では罪ではなく“debts.”(借金、負債)です。借金を許してくださいを、勝手に罪を許してくださいに変えたので、本文と合わないのですよ。ルカ11:4の日本語訳も借金の部分を省略しています。」
「引照聖句の借金は文字通り借金で、罪の例えじゃないよ。イエスは当時の最下層の人にむけて話しているわけで、そういった人にとって借金は深刻な問題だった。イエスは単なる宗教家ではなく社会改革を目指していたと考えられている。それで借金にも触れるわけだ。」
「3節に“それで,その負債を返済しなければいけない状況にいます。それができなければ,死という代償を払うしかありません。(ロマ 6:7,23)”とあります。あいまいな訳ですね。英文ではit would be canceled only when we die.なので、死によってのみ帳消しになる、と言っています。死ねば罪が許されるわけですよ。」
「引照聖句のローマ6:7に“死んだ人は自分の罪から放免されているのです。”とあるからね。でもこの記事は罪を許してくれたエホバに感謝しましょうと言い続けている。死ねば罪から許されるって、感謝するようなことじゃないよ。」
「罪が借金なら、借りた人が死んだ時点で帳消しになるのは当然です。」
「エホバは借金を無理やり子孫に押し付けて、払わせている悪徳金融業者だね。」
「4節の下に罪の3つの意味が出ています。①原罪、②良くないことを考えたり行ったりしてしまう傾向、③受け継いだ傾向のせいでしてしまうことがある悪い行い、とあります。これがJWの罪です。原罪という言葉はアウグスティヌスがつくった言葉で聖書にはないですよ。」
「記事では“原罪,つまりアダムがエホバ神に対して犯した最初の違反。”とあるけれど、普通のキリスト教の理解とは違うね。」
「原罪は特定の違反のことじゃないですよ。」
「全ての人間がその中に生まれ、その中に生きる、罪を不可避的に犯さざるを得ない状態のことというのが普通の理解。アウグスティヌスは罪を犯さないことができない状態に人間はいると言っている。このようなことはJWには難しすぎるのかも。」
「聖書を読むと罪は一種のウィルスのようなもので、人から人へ移ると想定されていませんか?聖書の罪は現代人の考える罪とはだいぶ意味が違いますよ。」
「罪は伝染力があると想定されているね。レビ16:21,22に“アロンはヤギの頭に両手を置き,イスラエル人の全ての過ちと違反と罪をその上に告白して,それら全てをヤギの頭に置き,指定された人がヤギを荒野に送り出す。ヤギは民の全ての過ちを担って砂漠の地に行く。ヤギを荒野に送り出すのである。”とある。これは贖罪のヤギと言われるもので、全イスラエルの罪を移されて、荒野に放たれる。これによってイスラエルから罪が取り除かれるというわけだね。現代人の発想とは違う。」
「罪はこの3つ以外の意味がありますよ。パウロは罪を神に対抗する、神と対等な力を持つものとして扱っています。ローマ6:12には“死んでいく体の中で罪が王として支配する”とありますし、ローマ6:14では“罪を主人としてはならないのです。”とあります。」
「JWはそのことが理解できないので聖書の翻訳もヘンなものになっている。協会共同訳ではローマ6:12は“あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて”となっている。体を罪が支配するとあるのに、JW訳では、体の中で罪が王として支配するとしている。誤訳だね。“王として”というのは聖書本文にはない。」
「協会共同訳では、ローマ6:14は“罪があなたがたを支配することはありません。”ですね。それを“罪を主人としてはならないのです。”という道徳的な教訓に変えています。」
「罪はもはやあなたがたの主人ではありません、ぐらいに訳して欲しい。」
「7から19節が、和解,贖罪,贖い,買い戻し,正しいと認めるという語の意味の説明です。」
「JWも終末カルトから普通のキリスト教になろうとしているかのようだね。」
「7節は“和解”で“2人の子孫である私たちはエホバと和解する必要があります。(ローマ 5:10,11を読む。)エホバとの関係を修復する必要があるということです。”とあります。」
「引照聖句には“キリストを通して神と和解したからです。”とある。人類はもうすでに神と和解したんだよ。」
「8から10節は“方法: 贖罪”です。8節に“贖罪には,あるものをそれと同じ価値の別のものと交換することが関係しています。そのようにして,失われたものを取り戻したり,壊れたものを取り換えたりすることができます。”とあります。」
「贖罪にもっと関係しているのは“いけにえ”でしょう。動物を殺して神に捧げる。イサクの話にあるように人間だって殺されて神に捧げられた。イエスは宇宙的ないけにえというのがJWの理解でしょう。」
「9節に“でもイスラエル人が悔い改めて,エホバから求められている犠牲を捧げる限り,エホバは進んでイスラエル人の罪を許しました。”とありますが、そんなことはないですよ。代価なしに贖うことをしましたよ。それが出エジプトじゃないですか?大量の犠牲をささげたから、エジプトの奴隷状態から脱出できたわけじゃありありません。」
「旧約では神はイスラエルを贖うという表現が出てくるけれど、代価なしだよ。出エジプト6:6では“私はエホバである。私は,エジプト人が課す強制労働からあなたたちを解放し,奴隷状態から救い出す。エジプト人に重い処罰を下し,腕を伸ばしてあなたたちを取り戻す。”とあるけれど、正しくは“取り戻す”ではなく“贖う”だ。代金なんか請求しない。」
「イザヤ6:6に“エホバ,イスラエルの王,イスラエルを救う者”とありますが、正しくは“贖う者”ですよ。これも代金を請求していません。」
「代金を払わないと神によって救われないというルールは存在しない。イエスの死の意味を考えるなかで、人類が救われるためには代金を払わないとダメだから、イエスの命で払う必要があったという理屈が後からつくられただけ。」
「11から13節が“代価:贖い”です。11節には“聖書によると,贖いは贖罪や和解のために支払われる代価のことです。”とあります。身代金のことですね。要するにイエスの命で支払われたのですね。」
「12節に“イエスは自分の命を犠牲にすることによってアダムの罪を贖い,アダムが失ったものを取り戻すことができました。(ロマ 5:19)”とある。それがJWの理解なんだろうけれど、引照聖句はそんなことは言っていない。ただ“1人の人の従順によって多くの人が正しい人になるのです。”とあるだけ。」
「14から18節は“結果: 買い戻され,正しいと認められる”です。 15節で“聖書の中で買い戻しという言葉は,贖いが支払われることによって解放されたり無罪とされたりすることを指しています。”と、“買戻し”の説明をしています。17節では“正しいと認めるとは,負債の請求を取り下げ,その記録を消し去って,なかったことにすることを意味しています。”と“正しいと認める”の説明をしています。」
「正しいと認めるというのは義と認めるということでしょう。これは裁判用語で、訴えられた人が無罪だという意味。借金の返済に限定されるわけじゃないけれど、この記事ではなんでも借金問題に限定しているね。」
「17節の後半にある“私たちが贖罪に対して信仰を持っていることと,贖いの 代価が支払われたことに基づいて,負債を取り消してくださるのです。(ロマ 3:24。ガラ 2:16)”は引照聖句と合っていないです。」
「ガラテア2:16は“人が正しいと認められるのは律法に従った行いによるのではなく,イエス・キリストへの信仰による,ということを知っています。”だよ。それを“贖罪に対して信仰を持っていること”に変えている。イエスが嫌いということがよくわかるね。なるべくイエスを出さないようにするのがJWの特徴だ。」
「18節がJWの教義の説明です。“死の眠りに就いている人たちは,「正しい人」も「正しくない人」も復活します。”とあります。ということは、ハルマゲドンが起きた時、たまたま生きていたJWでない人(全人口の99.9%)だけはそのまま滅ぼされて、楽園を体験できないということです。おかしな教義です。」
「死ぬ時期によって扱いが全く異なるわけだ。ハルマゲドン前に死んだら、どんな悪人でも復活し楽園を体験するけれど、ハルマゲドンのときにまだ死んでいないと赤ちゃんでもそのまま滅ぼされる。不公平な神様だね。」
「ハルマゲドンで滅ぼされた人も復活することにすれば、全人類を平等に扱うことになりますけど。」
「平等じゃないよ。ハルマゲドンで死ぬ人はひどい苦しみを味わうわけだ。それから復活させるのであれば滅ぼす必要はないよ。無駄な残酷ショーということになる。」
「最後の19節はまとめです。“この記事の冒頭に出てきた青年のことを思い出してください。その青年は全てのものを失い,決して返すことのできない巨額の負債を受け継ぎました。私たち人類の状況もそれと似ていました。でも,エホバが助けを差し伸べてくれました。”とあります。子孫にまで借金を押し付けるのは人間社会では悪徳金融業者です。エホバも同じということですね。」
「もうすでに死んだ人は罪は許された、つまり借金は無効になったはずじゃなかった?いま生きている人もいずれ死ぬわけで、何が問題なのか理解できなかったね。」
- 聖書についての質問
- 2025年04月04日 14:16:23
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバの愛は私たちを幸せにする(5)”で、記念式に向けて今以上に信者集めに努力しなさい、という内容です。」
「そうしないとハルマゲドンで滅ぼされる!と脅せば、やる気が出たのに。」
「そうは書けないようで、エホバに感謝しているなら、それを行動に移せ、と書いています。」
「それでは効果ないね。カルトらしく恐怖をあおる方が効果的でしょう。」
「1節には“私たちが,エホバの愛や贖いという貴重な贈り物に感謝を表す時,エホバはうれしく思うに違いありません。(ヨハ 3:16。ロマ 5:7,8)”と感謝をすることを強要していますが、引照聖句にはそんなことは書いていません。」
「“違いありません。”と言う表現が出てくるときは、単なる推測にすぎないね。引照聖句は関係しそうなものを適当に選んでいるだけ。」
「新約聖書を読んでも、イエスの弟子たちは感謝することはほとんどないですよ。でもJWは感謝を強要されます。これは信者の感情操作ですよ。」
「福音書では神に感謝するのは主にイエスだね。主の晩餐の時、パンを裂き、神に感謝したというのは何度も出てくる。弟子たちで神に感謝したことが示されるのは、使徒28:15の“パウロは兄弟たちを見ると,神に感謝し,勇気づけられた。”ぐらいかな。イエスの弟子たちは感謝というものをほとんどしない。」
「3から8節が“今の幸せにどう関係しているか”です。 3節に“贖いに基づいて,エホバが私たちの罪を許してくださることです。”とあります。罪が許されて幸せだ、といいうことです。4節では“自分はエホバに許してもらえるような者ではないと感じる人がいるかもしれません。”と、幸せではない人が出てきます。5節では“長年エホバに仕えているからといって,自分にはエホバの憐れみを受ける資格があると考えるのは正しくありません。”と、自分は救われる資格があると信じて幸福感に浸っているJWに冷や水を浴びせます。一気に幸福感が下がりますね。」
「結局、幸せなJWは滅多にいないようだね。カルト信者は罪悪感、恐怖、不安にさいなまれる人が多い。」
「6節に“では,なぜパウロはエホバへの奉仕に打ち込んだのでしょうか。それは,エホバの惜しみない親切に感謝していたからです。(エフェ 3:7)”とあり、パウロに倣って奉仕に打ち込むことが強要されます。感謝だけではダメなんですよ。」
「引照聖句には感謝したから奉仕に打ち込んだとは書いていない。そこには“それは,神が力を用いて,惜しみない親切という無償の贈り物を下さったおかげです。”とある。神の恵みのおかげで奉仕者になれたと言っているよ。」
「7節には“贖いのおかげで今も幸せでいられるもう1つの理由は,エホバとの強い絆を持てることです。”とあります。エホバとの強い絆があるから幸せだ、ということようです。7節には“贖いのおかげで私たちは「神との平和」な関係を楽しみ,神と親しくなることができます。(ローマ 5:1,ヤコブ 2:23を読む。)”とありますが、引照聖句はそんなことを言っていません。」
「ローマ5:1は“私たちは信仰のゆえに正しいと認められたのですから,主イエス・キリストを通して神との平和を楽しみましょう。”とある。贖いは出てこないね。ヤコブ2:23には“「アブラハムはエホバに信仰を持ち,そのことは正しいと見なされた」という聖句の通りになり,アブラハムはエホバの友と呼ばれるようになったのです。”とある。贖いは出てこないね。それから神の友と呼ばれたのはアブラハムだけ。」
「8節には“エホバとの強い絆があるからこそできることの1つは,祈りでエホバに近づくことです。”とありますが、違うでしょう。祈りは誰でもできるはずですよ。」
「祈りもJWだけの特権と考えたいのだろう。問題はエホバなる神は祈りに滅多にこたえないことだね。」
「9から12節が“将来の幸せにどう関係するか”です。 バカバカしい楽園幻想の話が続きますが、その幻想をまじめに受け取れないとJWは続けられないということですね。9節に“エホバは最初,人間が永遠に生きることを意図していました。”とありますが、それを示す聖句はありません。」
「人間が永遠に生きるように造られたなんて聖書のどこにも書いていない。エデンの話はなぜ人間は死ぬのかを説明したお話。永遠に生きるチャンスがあったけれど逃してしまったというわけだね。古代にはその種の話は結構ある。」
「人間以外の動物は病気にもなりますし、皆老いて死ぬわけです。エホバはなぜそうしたんですか?」
「聖書は何もいっていない。楽園では人間は永遠に生きるかもしれないけれど、動物は死ぬわけだ。かわいい動物が死んだら泣くでしょう。楽園でも涙はあるね。そういう病気や死があるところを楽園とは呼べないね。JWの想定する楽園は問題だらけ。」
「10節が笑えます。“永遠に生きられるようになるのは将来のことですが,エホバは私たちに今そのことをよく考えてほしいと思っています。”とあります。そのことをよく考えて欲しいのは組織ですよ。そうすればJWをやめる人が減ると思っているのです。」
「組織は神の考えていることは何でもわかるんだよ。驚きだね。」
「11節は“楽園になった地球での生活をイメージしてみましょう。”と空しい空想ごっこを勧めています。」
「イザヤ書が引照聖句として使われているけれど、そこで描かれているのはJWが想定しているハルマゲドン後の地上の楽園ではないよ。」
「例えばイザヤ65章には、JWの好きな“私は新しい天と新しい地を創造している”と言う聖句がありますが、そこにはエルサレムが神の都市として世界の中心となること、永遠の命ではなく長寿、自分の財産である家とブドウ畑の保全、子孫繁栄、平和的な自然が描かれています。ハルマゲドン後の楽園じゃないです。」
「これは新しいイスラエルだね。古代のイスラエル人の理想の世界を描いたもの。JWみたいに永遠の命ではなく長寿にとどめているのが奥ゆかしいね。」
「12節では楽園で永遠に生きるという幻想を“今どんな犠牲を払うことになるとしても,決して手放したくはないと思うはずです。楽園になった地球で生きるという希望は必ず実現します。”とあります。JWになると犠牲を払うのは確実ですが、楽園は全く不確実です。」
「あるのは選挙公約みたいな“必ず実現します。”と言う言葉だけ。」
「12節の下に、楽園での生活として、陶芸、楽器の演奏、建設、ブドウの収穫、動物の観察などが描かれています。これって多くの人が今やっていることですよ。楽園なんか待つ必要ありません。」
「JWの想像する楽園は、JW活動に追いまくられて、好きなことは何もできず、貧乏なので好きなものもあまり食べられないみじめな生活をしているJWなら楽園と感じられるものにすぎないね。普通の人にはあまり魅力的ではないでしょう。」
「13から16節が“エホバの愛にどのように感謝を表せるか”です。 ここから信者に対する要求事項が並びます。13節は“エホバに仕えることを生活の中で第一にする”です。14節は“信仰を持ってエホバの指示に従う”です。具体的には“例えば,どれほどの教育を受けるかやどんな仕事に就くかなどを決めるとき,エホバが私たちに望んでいることをよく考える必要があります。”とあり、進学、就職を勝手に決めるな、組織の指示に従えということです。カルト的ですね。」
「エホバの望んでいること=組織の望んでいること、という公式があるわけだね。」
「15節は“贖いにどれほど感謝しているかを記念式の時期に表す”です。記念式に大勢の人を連れてこいという指示です。長老には“集会や奉仕を休んでいる兄弟姉妹を忘れずに招待してください。”という指示が出ています。」
「英文では“不活発な人”だ。伝道時間を報告する必要はなくなり、ただチェックするだけに変更されたから、不活発な人は減ったんじゃないの?それでも不活発な人が増えているとなると、大変なことだね。」
「それから“初めて来た人や久しぶりに来た人にもあいさつし,歓迎していることが伝わるようにしましょう。”とあります。排斥された人が来ても、無視せずにあいさつくらいはしなさいという指示ですね。」
「どれくらいのJWが本当に挨拶するか、排斥された人は確かめるためだけに、記念式に出席するかも。ちゃんと挨拶しよう。」
「どうしてJWの記念式に一般の人を来させようとするのか、理解できません。誰も口にしないパンとワインをただ回すだけという奇妙な儀式はとてもカルト的ですよ。JWのことを知らない人が初めて記念式に来て、その奇妙な儀式を見たら、JWになろうなんて絶対思わないですよ。」
「組織が気にしているのは数字。全世界で記念式にこんなに大勢の人が来ました、と毎年自慢したいだけ。それがどのような効果をもたらすかなんて考えていない。」
「16節では“記念式の時期に,クリスチャンの活動をいつも以上に行えますか。”と問いかけています。信者獲得をもっと熱心にやれ!ということですね。」
「“クリスチャンの活動”とあいまいにいう所がズルいね。いつも以上に行えますかなんて、無給のボランティアに対してよく言えるね。」
「そのあと“エホバへの奉仕をすればするほど,エホバの支えをもっと感じ,エホバへの信頼が強まります。(コリ一 3:9)”とありますが、ウソですよ。引照聖句もそんなことは言っていません。奉仕をすればするほど、JWに対して嫌気が増すだけです。」
「組織は時間の報告をやめたことによって、伝道活動を実質的には終了させたようなもの。でもカート奉仕は続けるようだから、一応奉仕は大事とは言い続ける。」
「17節には” エホバはあなたの心を見ています。”とありますが、見ていませんよ。」
「エホバが見ているのは数字でしょう。アメリカの経営者と同じで、数字で表されないものには興味がないようだよ。」
「最後の18節ではエホバとイエスに感謝しようと言っています。」
「無給で一生懸命働いている信者に感謝しようとなぜ言わないのか不思議だね。こんな感謝知らずの宗教はすぐにやめよう。」
- 聖書についての質問
- 2025年03月28日 13:20:15
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“贖いから学べること(4)”で、恒例の記念式むけの記事で、贖いからエホバとイエスについて学べることを考えます、という内容です。」
「記念式は信者の新規獲得の機会でもあるので、記念式に向けて少しでもやる気を出させようということだね。今頃から元JWに記念式のお誘いの電話やメールが来るわけだ。迷惑だね。」
「1節に“イエスは,年に1度,ご自分の死を思い起こす記念式を行うよう命じました。(ルカ 22:19,20)”とありますが、引照聖句には“年に1度”とは書いていません。これはJWの教義ですよ。」
「聖書のどこにも1年に1回しかしてはいけないとは書いていない。初期のころは頻繁に行っていたと推測されている。使徒2:42に“弟子たちはひたすら使徒たちから学び,交友を深め,食事を取り,祈った。”とあるけれど、“食事をとり”は元のギリシャ語では“パンを裂き”でパンを裂くというのは食事をしましたという意味ではなく、後に主の晩餐と呼ばれるようになった宗教儀式を指している。協会共同訳ではちゃんと“パンを裂き”となっている。」
「使徒24:2はJWにとって不都合なので“食事をとり”と意図的に誤訳しているわけですね。そのため、学び、交わり、祈ったとあるのに、食事をとったという非宗教的なことが弟子たちの活動の中に入ってしまったわけですね。」
「使徒20:7には“週の最初の日,私たちが食事をするために集まっていた時”となっているけれど、正しくは“パンを裂くために集まっていた時”で、これも主の晩餐の儀式を指している。この時のパンは非常に小さいもので食事用ではない。それなのにJWは通常の食事に変えている。改ざんだらけなのがJW訳。」
「3から9節が“贖いからエホバについて学べること”です。 エホバ教らしくエホバがまず取り上げられます。3節では“贖いからエホバの公正について学べます。”とあります。“考えてみると,私たちは1人の完全な人間の不従順のせいで,罪と死に捕らわれるようになりました。それで,1人の完全な人間の従順のおかげで,罪と死から自由になることができます。”とあり、これが公正の根拠のようです。アダムの罪に対してイエスの犠牲を必要としたから公正みたいです。」
「そういうことを言いだしたのはパウロ。パウロの神学だね。パウロがイエスの死の意味を考えているうちに、そういう理屈を思いついたということ。」
「4節では“イエスは私たちを救うために本当に死ななければならなかったのでしょうか。”と問いかけています。その答えは“エホバは完全に公正な方なので,アダムのひどい不従順を単に見過ごすというのはあり得ないことでした。”というものです。エホバは自由ではなく、エホバ憲法みたいのものに拘束されているようです。」
「JWは一神教ではないようだ。宇宙にただ一人の神は完全に自由なはず。罪を許したければ、許すと宣言すればいいだけ。でもJWの神はそうできない不自由な存在なわけだ。」
「JWの教義ではサタンは事実上の神です。二人の神が戦っているわけで、その戦いには誰かが決めたルールがあって、エホバもサタンもそれに従わなくてはいけないのです。そうでなければ、サタンはすぐに消滅したはずです。」
「JWの宇宙主権論争がそんな感じだよね。いまのところサタンが優勢だね。このまま行くと、エホバ教は衰退し、20年ほどたったら信者数は激減するのが見えている。」
「5節では“エホバが公正を無視して贖いなしでアダムの不完全な子孫が永遠に生きるようにしていたら,どうなっていたでしょうか。神は別の時にも公正を曲げて正しくないことをするのではないかと思う人が出てくることでしょう。”と、エホバが一方的に罪を許すことに反対しています。」
「すぐ極論を言うね。楽園追放で許すとか、アダムは罰するけれど、アダムの罪は子孫に伝わらないようにするとか、選択肢はいろいろあるわけで、あたかもアダムの罪を無視して永遠に生きるようにするという選択肢しかないかのようにいうのは詭弁だね。」
「キリスト教はイエスの死という現実から出発していて、イエスの死は無駄死にではないと思いたい人たちがあれこれ考えたものです。そして思いついたのがイエスの死は贖いの死であるというアイデアですよ。」
「アダムの罪に対してイエスの犠牲が必要というルールは後付けで、エホバは公正だからイエスの死が必要だったというのは説得力ないね。」
「6節は公正から愛に変わります。“何よりもエホバの愛の深さについて理解することができます。(ヨハ 3:16。ヨハネ第一 4:9,10を読む。)”とあります。でもJWの神様に愛の深さは感じません。引照聖句には“神は独り子を世に遣わし,その方によって私たちが命を得られるようにしてくださいました。”とありますが、JWの教義では死ぬまで伝道、集会、建設工事、寄付などを行い、輸血禁止といった細々とした規則に従い続けたら、楽園で永遠に生きる可能性が出てくるというものですよ。イエスによって命は得られません。」
「JWの教義では愛は出番がない。困っている人がいてもJW以外の人は無視だし、JWでも直接助けるのは好まれない。またそういう行為に何の価値も見出さない。そんなことより伝道が優先される。」
「6節で“私たちは今でも,エホバと仲間のクリスチャンとの温かい関係を楽しむことができています。本当にエホバの優しい愛情に包まれています。”とウソを言っています。“本当に”という表現を付け加える時は、執筆者も本当ではない、つまりウソだと感じているというサインです。」
「単なるプロパガンダ。独裁国家が自分たちの国のすばらしさを宣伝しているようなもの。誰も本気にはしない。」
「7節が宇宙神権論争です。“サタンは,人は神に仕えるのが難しくなると神から離れると主張しています。それが間違っていることを示すため,エホバはイエスが死の前に苦しみに遭うことを許しました。(ヨブ 2:1-5。ペテ一 2:21)”とあります。エホバはサタンの挑発にのせられたということですね。単純でバカな神ですね。でもそんなことは引照聖句には書いていません。」
「本来無関係なヨブ記とペテロ一を組み合わせて作ったJW独自の教義ということかな?ヨブ記はイエスとは関係ないよ。」
「7節にはイエスの苦しみや死に関して“エホバは止めようと思えば,いつでもそうする力がありました。”とありますが、違いますよ。止められません。」
「マタイを読めばわかるけれど、イエスの死に至る一連の出来事は旧約聖書に預言されていて、そのとおりになったことになっている。神は止められないよ。神は無力。」
「8節は“神は全能だから感情を持っていない,とは考えないでください。”とあります。誰もそんなこと考えませんよ。旧約聖書を読めば、神は感情的な暴君と誰もが思いますよ。」
「誰も思っていないことを持ち出して、そのあと否定し、自分が正しいかのような印象を与える。詭弁のテクニックでしょう。」
「8節ではアブラハムがイサクを犠牲として捧げるよう命令を受けた話が出てきます。こんな命令を出す神を非難するわけでもなく、“短刀でイサクを殺そうとしていた時に,アブラハムがどんな気持ちだったか想像してみてください。”とあるだけです。結論は残酷で野蛮なひどい神だ!!以外ありませんよ。」
「それはJWとしては言えない。神のすることは全て愛であり正しいというのがJWの教義。」
「9節では“贖いから分かるように,エホバ以上に私たちを愛している人はいません。家族や親友もかないません。”とあります。これは家族や親友よりもJWを優先しなさいということですね。その結果、信者の人間関係が破壊されてしまうのがエホバ教です。」
「エホバは無慈悲な破壊の神ではなく、愛の神と宣伝したいだけ。誰もそう思っていないよ。」
「10から12節が“贖いからイエスについて学べること”です。 一応イエスについても触れるようです。10節は“イエスはお父さんエホバの評判を気に掛けている。”です。11節は“贖いから,イエスが人々のことを深く気に掛けていることも分かります。”です。12節では、キリストは現在“本当に忙しく活動しています。王,大祭司,会衆の頭として奉仕しています。”とあります。これはJWの独自の教義ですね。」
「具体的に何をしているのかというと、“天に行く人と大群衆を集める活動を担当し,それは大患難が終わる前に完了します。”とある。信者募集係なんだね。驚いた。それ以外の仕事は誰が担当しているのか気になるね。」
「JWの教義では天に行く人はきっかり144000人です。いまだにその数に達していないというのはヘンですよ。イエスは何をしているんですか?使徒たちの活動を読めば、たった一日で何千人もクリスチャンになっています。」
「使徒2:41では1日で3000人が信者になった。2:47には“救われる人を毎日加えていった。”とある。4:4では男性約5000人が信者になった。9:42では多くの人が信者になったとある。同様の表現は17:12と19:18にもある。13:48には“永遠の命を得るための正しい態度を持つ人は皆,信者となった。”とある。21:20には“ユダヤ人の中には何万人もの信者がいて”とある。」
「使徒たちの活動に出てくるだけでも10万人以上クリスチャンになっていますよ。この人たちは皆天に行く人たちというのがJWの教義です。」
「使徒たちの活動で主に描かれているのはペテロとパウロの活動。それ以外の使徒たちだって各地で活動して、信者を増やしていたはず。となると、使徒たちの世代で2,30万人以上になっていて、使徒の弟子の世代でも、信者数はさらに増えて行ったでしょう。1世紀の時点で144000人を超えていて、今の統治体のような自称・天に行く人たちは全てインチキというのが妥当な結論でしょう。」
「ということは、いずれ144000人しか天に行かないという教義は放棄するしかないですね。」
「まずは、144000人には触れないようにするだろうね。そして信者がそのことを忘れたころに、あれは象徴的な数ですという新しい光がでてくるという手順じゃないの。この記事だって144000は出てこない。」
「13から16節が“学ぶのを決してやめない”です。 13節では“今年の記念式の時期に,福音書を丁寧に読むのはどうでしょうか。”とあります。14節では“エホバの証人の出版物にあるたくさんの資料を十分に活用してください。”とあります。JW以外の出版物は見ないでくださいということですね。」
「JW以外の本を読むとJWの程度の低さやおかしさがわかってしまうからね。外部の情報から信者を隔離するのがカルトのやり方。」
「14節では“詩編 119:97と脚注を読む。”とあります。そこには“私はあなたの律法を愛してやまない!一日中じっくり考える。”とあります。JWとして旧約聖書の律法を学べばいいみたいです。」
「詩編119の作者は律法を守ることが人間が救われる道だという思想の持主なのだろう。JWとよく似ている。でもイエスの贖いとは相いれない思想だね。」
「15節では“それで,毎日聖書を読んで,根気強く宝を探しましょう。(詩 1:2)”と、毎日聖書を読むことを勧めています。」
「英文ではstick to your Bible reading schedule(聖書通読のスケジュールを守ってください)だから、毎日読めとは言っていない。聖書通読の計画を作って、それに従って聖書を読みなさいという指示だね。こうなると聖書を読むのが苦痛でしかなくなる。」
「組織は信者が聖書を読むことを本当は望んでいません。聖書に無知なほうが操作しやすいですから。」
「そういうわけで、信者が独自の聖書勉強会を立ち上げると、長老たちからすぐにやめるように言われる。」
「16節は信者がすべきことを列挙しています。もちろんJWが嫌いな伝道もあります。“また,イエスに倣って伝道するなら,贖いというエホバからの最高の贈り物を受ける機会を人々に与えることができます。”とあります。JWだけが贖いという贈り物を人々に届けることができると想定しているのがおかしいですね。非聖書的です。」
「ガラテア3:13に“キリストは私たちを買い取ってくださいました。”とあるように、贖いは誰かに届ける贈り物ではないよ。」
「最後の17節には“次の記事では,贖いが私たちの幸せとどう関係しているか,エホバの愛にどのように感謝を表せるかを考えます。”とあります。またもや幸せと感謝の強要ですね。」
「毎年、同じようなことを学ばされるのにうんざりしたなら、さっさとやめよう、JW!」
- 聖書についての質問
- 2025年03月21日 13:26:02
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバに喜ばれる決定をするには(3)”で、主に若いJWが組織の意向に沿った決定をするように誘導する、という内容です。」
「具体的な例として出てくるのは、パーティー、結婚、就職、身だしなみだ。信者の生活の細部までコントロールするのがカルトの特徴。若い人から反発を受けるから、進学問題は意図的に避けたと思うね。」
「そのような日々の生活の細部に宇宙の創造者がいちいち喜んだり悲しんだりするという想定は納得できません。本当は関心ありませんよ。」
「JWの考えでは演台で話をする人はネクタイをしないと、宇宙の創造者は悲しむことになっている。そういう感情的に不安定な神のご機嫌を取るのが信者に課せられた使命とするのがJWという宗教のようだ。」
「2節に要点が出ています。“賢い決定をするには,(1)情報を集め,(2)エホバの見方を考え,(3)選択肢を比較することが役立ちます。”とあります。選択した結果の評価が抜けていますよ。結果が好ましくなければ賢い決定とは言えませんからね。」
「組織に忠実な年老いたJWを見て欲しいね。組織に言われるとおりの決定をしていると、高い確率で悲惨な老後を迎えるという結果になるのは明らかだから、結果の評価は省略するしかないね。」
「3から5節が“情報を集める”です。 英文ではGET THE FACTS(事実を知る)です。微妙に違います。」
「ここにでてくるのは事実を知るというようなものではないので、事実を知るとは訳しにくかったのだろう。」
「4節に“情報を集めるのに役立つのは質問することです。”とあります。英文では事実を知るには質問することですとなっています。質問したら全ての人が正直に答えると思っているようです。バカですね。」
「ネットで調べましょう、とは言えないようだから、誰かに質問しましょうということになる。」
「そのあと“例えばあるパーティーに誘われたとします。どうしますか。”と尋ねます。主催者にあれこれ質問することを指示しています。“こうした質問をすれば,賢い決定をするのに役立つ情報を得られます。(格言 18:13を読む。)”とありますが、引照聖句はそんなことを言っていません。いつもの聖句の誤用です。」
「そこには“聞かないうちに返事をする人は,愚かであり,辱められる。”とある。相手の言うことをよく聞いてから発言しなさい、と言っているだけで、相手にあれこれ質問しなさいとは言っていない。」
「5節に“例えば,聖書の教えに従わない人が参加したり,見守る人がいないのにお酒が出されたりするならどうでしょうか。その場の収拾がつかなくなる可能性はありますか。(ペテ一 4:3)パーティーの時間と集会や伝道の時間が重なる場合はどうですか。”とあります。JW以外の人が来る集まりは参加するな、集会や伝道が最優先だ、ということですね。」
「信者以外の人との接触をなるべく制限するのがカルトの特徴。」
「6から10節が“エホバの見方を考える”です。 エホバの見方というのはよく変わる組織の見方のことです。6節では“エホバの考えが理解できるよう助けてくださいと祈りましょう。”とあります。」
「そう祈ったら、どのようなことが起きたのか、誰かの体験談でも出てくるのかと思ったら何もない。そんなことでは説得力がないよ。」
「以前のものみの塔なら、高校生のアンドレは友人からパーティーに誘われましたが、友人にそのパーティーのことを詳しく尋ねたところ、酒・麻薬やりたい放題、セックスし放題のパーティーで、しかもそれは集会の時間と重なるのです。アンドレはエホバにどうしたらよいのでしょうかと祈りました。そしてきっぱりと断ったのです。驚くことに、そのパーティーの最中に出火し、参加者全員は焼け死にました。アンドレは今では長老として開拓奉仕を楽しんでいます・・・、という話が出てきたものですよ。」
「そんなパーティーはあり得ないことぐらい、世間知らずのJWでもわかるようになったんだよ。」
「7節には“エホバに知恵を求めたなら,聖書のどんな命令や原則が自分の状況に当てはまるかを考えて,エホバの答えを見極めるようにしましょう。”とあります。」
「英文ではBible laws and principles(聖書の律法や原則)を当てはめようとある。JWは律法を守らなくてはならないようだけど、それはおかしいと思った翻訳者は”命令”と変えたね。」
「8節では“経験ある兄弟姉妹から参考になるアドバイスをもらうことができます。でも,自分で調査することも役立ちます。「エホバの証人のためのリサーチガイド」や「クリスチャンのための聖句ガイド」などの調査ツールには,役立つ情報がたくさん載せられています。”とあります。どんな結果になるかはわかります。あれもダメ、これもダメ、王国最優先というアドバイスですよ。」
「それによって組織に自分の人生を決められることに抵抗感が薄れてゆく。そして気づいたら、自分の人生ではなく、組織が望む人生を歩んでいるだけということになる。若い人は気を付けよう。」
「9節には“では,どうすればエホバに喜んでもらえる決定ができるでしょうか。”とあります。この場合はエホバは組織のことです。組織の偉い人を喜ばそうなんて思わなくていいよ、と愛ある神なら言うと思います。」
「9節で“エフェソス 5:17を読む。”とあり、そこには“いつでも,エホバが何を望んでいるかを見極めましょう。”とあるけれど、新約聖書にはエホバなんか出てこない。神の名前が書かれている写本はないよ。ここでは単に“主”とあるだけで、キリストのことを言っている。JW訳はひどい改ざん聖書。」
「10節では“例えば,親は娘のことを思って,信仰がそれほど強くなくても裕福な男性と結婚してほしいと考えるかもしれません。”とあります。もちろんこれはダメな決定で、貧乏でも長老か援助奉仕者という肩書がある男との結婚が正しい決定のようです。」
「カルトらしい価値観の押し付け。結婚したい人と結婚するのがよい決定だよ。JWの言うことを聞いていたら不幸な結婚をするか、一生独身かのどちらかになる確率が高い。」
「11節から15節は“選択肢を比較する”です。 11節に“でも識別力があれば,いろんなことが関係している場合でも,賢い決定を下すことができます。”とありますが、これは同語反復ですよ。当たり前のことを言っているだけです。」
「賢ければ賢い決定を下せます、と言っているのと同じ。駄文だね。」
「12、13節は仕事を探す話です。賢い決定のためには“例えば,その仕事は会衆の集会の予定に影響しそうでしょうか。家族を感情面でケアしたり信仰面で養ったりするのに必要な時間を 奪われないでしょうか。”と考える必要があるようです。正しいJWは宗教熱心、仕事不熱心で行こう、ということです。」
「その結果、悲惨な貧乏暮らしを強いられるのがJWの子どもたちということになる。不幸の連鎖を止めるためにもJWは子どもは作らないで欲しいね。そうすればJWという宗教はいずれ消滅する。」
「14節は問題ですよ。“例えば,自分の好きな服装や髪形があるかもしれません。でも,一般の人や会衆の人がそれを見てよく思わないとしたらどうでしょうか。識別力があれば,周りの人の気持ちを尊重します。また愛があれば,「人」のためになることを優先し,慎みを示します。”とあります。要するに外見に関して周りのJWの意見に従えということです。信者には自己決定権がないようです。」
「周りの人の気持ちを尊重すると言えば聞こえはいいけれど、JWの要求に従えということにすぎない。JWは自分たちの考えを主張するだけで、JW以外の人の気持ちは尊重しないのにおかしいね。」
「14節では識別力があれば“「人の信仰を妨げる」ことを避けられます。(フィリ 1:10)”とあるのですが、英訳ではnot stumbling others(他の人をつまずかせることがないよう)です。一方、協会共同訳では” 責められるところのない者となり”です。だいぶ違いますね。」
「引照聖句はまず“キリストの日までずっと純粋でいて”とあり、次にaproskopoiという形容詞が続く。これは能動的に危害を加えないとも訳せるし、受動的に非難されないとも訳せる。」
「JWのような立場は救われるためには積極的に伝道したり集会に参加したり奮闘努力する必要があるというものなので、能動的に人をつまずかせるな、と訳すのを好むわけですね。」
「通常のパウロ理解では、パウロはJWと違って自力救済を否定している。純粋というのは周囲の影響による汚染を免れているという意味だけど、それとペアになっている単語なので、受動的な非難されない、責められるところがないという意味と理解するとつり合いが取れる。」
「15節では“場合によっては家族に相談して,そのために一人一人がどのように協力できるかを話し合っておくこともできます。”とあります。JWの家族を相当美化していますね。JWの教義に反する決定をした場合、家族全員で無視し追い出しにかかりますよ。」
「JWの教義に反する決定は自動的に正しくない決定となるので、子どもでも家から追い出して、野たれ死にしても仕方がないというのが、正しいJW家族の在り方。子どもの命よりも教義優先がJW。恐ろしいね。」
「16,17節は“うまくいく決定をする”です。 まとめです。“これまでに考えてきたステップを全て実行すれば,賢い決定が下せます。”とありますが、説得力ゼロです。この記事に従えば、自己決定権を放棄し、絶えずJWの言うことを聞いて、自分の人生を決して責任を取らない他人に決めてもらうのが正しい決定といっているだけです。」
「それがJW的には正しい決定かもしれないけれど、“うまくいく決定”ではないよ。うまくいったかどうかは結果しだい。JWの言うことを聞いていたらうまくいきましたというアンドレやアンジェラの真偽不明の体験談が一つもなかったところを見ると、本当はうまくいかないようだね。」
「最も賢い決定は言うまでもなくJWをやめるという決定ですよ。」
「口には出さないけれど、JWの多くがそう思っているよ。」
- 聖書についての質問
- 2025年03月14日 13:54:09
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“夫の皆さん,妻を大切にしましょう(2)”で、女性を蔑視し妻に暴力をふるうJWの夫の皆さん、少しはましな夫になりましょう、という内容です。」
「妻を大切にするよう注意しなければならないなんて、おかしいね。JWにはまともな男が少ないということかな?」
「アメリカやヨーロッパでは若くして結婚する人が多いのですよ。結婚前なのに愛情表現が過度になりすぎて排斥されることを防ぐためです。ですから非常に未熟な若い男性むけの記事なんですよ。」
「本来結婚すべきでないような人間がJWの規則のせいで、早々と結婚して、お互いに不幸になることが多いので、こんな記事が書かれたわけだ。」
「この記事ではやたらとポルノという言葉が出てきます。ポルノに執着するのはJWの特徴ですね。ポルノを見ることは諸悪の根源であるというのがJWの見解のようです。」
「この記事は子どもに対する配慮は全くないけれど、子どもも集会に参加して、“エホバはポルノを憎みます。”なんてコメントするのかな?」
「1節に“エホバは「幸福な神」です。私たちにも幸せになってほしいと思っています。(テモ一 1:11)”とあります。幸福な神と訳している聖書はありますか?協会共同訳では“祝福に満ちた神”です。」
「JWの英語訳ではthe happy Godだけど、そんな英語の聖書はないでしょう。幸福な神とはどのような意味かJWに質問したいね。人類の不幸を目にしても少しも気にしない能天気な神と言う意味かな?」
「2節にはさっそく、“夫がポルノを見ているために,夫婦関係にひびが入っているケースも少なくありません。”と根拠もなく断定しています。」
「ポルノを見ることで夫婦関係が悪化する夫婦は元々うまくいっていない夫婦じゃないの?夫婦関係が悪くなる原因はいろいろあるのに、わざわざポルノを取り上げるところがJWらしくていいね。」
「3節は夫が妻を虐待する原因を色々あげていますが、もちろんポルノもその一つです。“いつもポルノを見ているために女性や性に対する見方がゆがんでいる人もいます。”とあります。」
「英文ではregularly viewing pornographyで、いつもポルノを見ているとは言っていないよ。定期的に見るということ。いつも見ている人なんていないと思うけど、JWにはいるのかも。」
「本当にポルノが妻への虐待を引き起こしているという根拠はあるのですか?」
「ポルノと虐待との関係は知らないね。ポルノと性犯罪の関係もはっきりしないけれど、性的な表現が強く規制されている国ほど性犯罪が多い。JWのようにポルノを規制すると性犯罪はむしろ増えるかも?」
「JWはポルノとひとくくりしていますが、内容は様々ですよ。」
「有害なポルノとそうでないものがある。有害なポルノの代表は暴力的なもの。暴力的な性描写のあるポルノは犯罪を誘発しやすいとされる。でも、そんなポルノを見たからと言って性犯罪に走る人はごくわずか。ポルノは性犯罪の原因の一つにすぎない。」
「もともと性犯罪傾向の強い人がその種のポルノを好んで見るのでは?」
「それは言えるね。性犯罪と有害なポルノを見ることは、どっちが原因でどっちが結果かははっきりしない。とにかくこの記事のポルノに関する内容は根拠の乏しい、いい加減なものということ。」
「5節では“ペテロ第一 3:7を読む。エホバは夫たちに,妻を大切にするように命じています。”とあります。でも、妻を大切にするようにという聖句はこれ以外にほとんどないですよ。それに対して、妻は夫に従えということは何度も出てきます。」
「たとえば、コロサイ3:18,19に“妻の皆さん,夫に従ってください。それは主に従う人にふさわしいことです。 夫の皆さん,妻を愛し続けてください。ひどく怒ってはなりません。”が典型的だね。妻は夫に服従し、そういう服従的な妻を夫は大切にするという関係が、聖書が想定している夫婦関係でしょう。JWもそういう夫婦を理想の夫婦と見ている。時代遅れだね。」
「6から9節が“妻を傷つけるようなことを決してしない”です。 してはいけない4つのことが出てきます。もちろんポルノも出てきます。6節は“暴力を振るうこと。”で、7節は“言葉の暴力。”で、8節が“ポルノを見ること。”、9節が“妻を性的に辱めること。”です。」
「この中で一番害が少ないのはポルノを見るでしょう。それなのに一番悪いことのように書かれているのがJWらしい。」
「6節には“主題の聖句のペテロ第一 3章7節によると,夫は妻を大切にしないならエホバとの友情を壊してしまう危険があります。エホバに祈りを聞いてもらえなくなる可能性さえあります。”とあります。祈りを聞いてもらえなくなるから妻を虐待してはいけないようです。そういう心配がなければ妻を虐待してもいいのですか?」
「“エホバとの友情を壊してしまう危険”なんて、元の英文にないよ。his relationship with God will be affected.(神との関係は影響を受けるでしょう)とあるだけ。神との友情というくだらないことを言っているのは日本語の翻訳者ということだね。」
「7節では“エホバは全部聞いています。誰も見ていない家の中にいる時を含め,夫が妻にどのような話し方をしているかをエホバは気に掛けています。”とあります。エホバって盗聴しているということですね。でも聞くだけですよ。なにもしませんね。」
「言葉に気を付けろということだけど、もっとましな理由を思いつかなかったのかな?」
「8節では” エホバはポルノを憎んでいます。”と断言しています。宇宙の創造者がそんな小さなことにいちいち腹を立てているとは意外です。地球には愛ある創造者がポルノ以上に憎むべきことがたくさんありますよ。」
「宇宙の創造者にとって、幼い子どもが飢え死にすることよりも、おとながポルノを見ることの方が憎むべきことなんだろう。」
「JWの想定する神は人間の日常生活の隅々まで口を挟まずにはいられない支配的で口うるさい偏狭で嫌な神ということですね。」
「格言5:19に“あなたの妻はかわいい雌鹿,優雅な山ヤギである。いつも彼女の乳房から満足を得るようにしなさい。あなたは妻の愛に絶えず夢中になるように。”とあるよ。JW的には、これって神の言葉なんだよね。こういうことを言う神がポルノを憎んでいるとは思えないけど。」
「9節は18歳以下は読み飛ばすところですよ。“夫の中には性関係において,妻を辱めたり,汚れているとか愛されていないと感じさせたりする人がいます。”とあります。どういうことなのか、抽象的すぎてよくわかりません。なぜイラスト入りで具体的に示さないのでしょうか?」
「英文よりかなりあいまいに訳している。昔は露骨に書いていたのにね。多少常識を身に着けたのかも。」
「10から14節が“妻を傷つける行いをやめる”です。 10節に“夫は妻に対するひどい行いをやめるためにどんなことができるでしょうか。イエスに倣うよう努力することが助けになります。”とありまして、イエスに倣おう、という話が続きます。イエスを持ち出すなんて珍しいですね。普通のキリスト教になろうとしているかのようです。」
「イエスは結婚していないよ。なんかズレてるよね。聖書にはよい夫の話がないということかな。JWの好きな旧約聖書は一夫多妻制の社会を背景としているから、現代人が模範とするような夫は登場しない。」
「よい夫というとイサクはどうですか?妻はリベカ一人だけですよ。」
「イサクも創世記26章に、自己保身のために妻のリベカを妹ですとウソを言って、いろいろ問題を起こしたという話が出ている。模範的じゃないね。」
「ダメな夫に対してイエスに倣えというアドバイスはあまり役に立ちません。下手な野球選手に大谷選手を倣えというだけではうまくならないのと同じです。」
「JWのアドバイスはほとんど役に立たない。JWは聖書を神の知恵の宝庫と信じて、聖書に基づくアドバイスをしようとするけれど、聖書は古代の知恵しかなくて、現代には適用できないものが多い。」
「13節では“夫婦の絆を大切にしている夫は,どんなものであれポルノに当たるものを退けます。”とあります。ポルノ追放で夫婦円満のようです。ポルノにこだわっていますね。」
「そのあとに“ヨブのように自分の目と契約を結び,ふさわしくない関心を持って妻以外の女性を見ないことを決意”するとある。自分の目と契約するというのは詩的表現だよ。それをまじめに受け取って、自分の目と法的拘束力のある契約文書を作るの?聖書に基づくアドバイスがいかにヘンなものかがよくわかる。」
「13節の下に、自動車修理工場ではたらいているJWが仕事仲間からポルノ雑誌を見るよう誘われたけれど、断っているという写真が出ています。今どきポルノ雑誌を持ち込んで回し読みする職場がありますか?」
「ポルノ雑誌自体が時代遅れでしょう。多くの人は自分のケイタイやパソコンで見ていると思うよ。ものみの塔という雑誌を作っている人間がいかに時代遅れかということがわかる。」
「14節は虐待した夫が妻との関係修復するための具体的な手順です。6つ出ています。基本的には、問題を認め、態度を変え、謝罪し、祈り、長老に助けを求めるという流れです。これができるようだと、そもそも問題を起こしていません。なんでも自力で解決できると思っている所が怖いです。」
「たいていの問題は、悔い改めて、祈り、長老に相談すれば、解決するというのがJWの考え方。もし21歳の女性経験ゼロ社会経験ゼロで親と同居している長老がいたら、専門家よりも、その長老に相談することを勧めるのがJWなわけだね。」
「ここでは妻は一方的な被害者として想定されています。悪いのは夫だけとは言えないケースだってありますよ。」
「JWの夫婦観は夫が主導権を握り、妻は従順に従うだけという非現実的なもの。その夫婦観に基づいたJWのアドバイスはほとんど役に立たない。」
「それから家庭内暴力は犯罪だという視点が全くないのが気になりますね。被害にあった妻は警察に相談すべきです。」
「そういうことをして欲しくないから、こんな記事を書いているんだよ。」
「15から17節が“妻を大切にする”です。 3つのことが出ています。15節は“愛していることを伝える。”です。妻を殴っておいて、愛しているも何もないですよ。」
「具体的には“手を握ったり,優しくハグしたりすることができるかもしれません。また,「今何してる?」とか「ご飯食べた?」といったメッセージを送ること もできるでしょう。”と勧めている。殴っておいて、この程度で妻を大切にしていることになるわけないだろう。こんなことを書くから、人を傷つけても簡単に許してもらえるという甘い考えのJWが増えてくる。」
「16節は“感謝を伝える。”で、17節は“妻の尊厳を大切にし,優しく接する。”です。」
「17節には、再び“性関係において,妻を辱めたり不快に感じさせたり良心にとがめを感じさせたりするようなことはしません。”と性行為の問題を取り上げている。でも英文ではHe will not pressure her to engage in sexual acts・・・とあり、妻の嫌がるような性行為を強要するなと言っているのに、それがこの翻訳ではぼかされている。夫婦であっても性関係の強要は犯罪ということを教えるべきだよ。」
「脚注(+)には“聖書には,夫婦間の性行為について何が清くて何が汚れているか,詳しくは書かれていません。クリスチャンの夫婦はこの点で,エホバへの敬意が表れていて,お互いが喜ぶことができ,清い良心を保てるような決定をする必要があります。多くの場合,夫婦は結婚のこのプライベートな面についてほかの人と話し合うことはしないでしょう。”とあります。多少まともになったようですよ。」
「ポイントは最後の部分だよ。夫婦の性関係を長老などに相談するなということ。こういうことをしてはいいのでしょうかと支部や本部に手紙で質問するおバカなJWがいたんだよ。そのJWの質問にいいとか悪いとか言って、後で何か責任を問われるようなことがあると嫌なんだよ。これは本部の弁護士のアドバイスじゃないの。」
「最後の18節はまとめです。“妻を傷つけるようなことをせず,尊厳を大切にし,優しく愛情を込めて接するようにしてください。”とあります。JWの夫にはこんな基本的なことから教えないとダメというわけですね。」
「JWの両親に育てられると、自然な愛情を持たない、性的に歪んだ、不満や怒りを発散できず内側に貯め込み突然暴力をふるい出す最低の男が出来上がるということじゃないの?結婚するならJWの男だけはやめよう!」
- 聖書についての質問
- 2025年03月07日 14:40:01
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバをたたえましょう(1)”で、2025年の年句「エホバをたたえよ。輝かしい名を持つ方を」(詩編 96:8)についての説明です。」
「終わりがクルクルと言いながら、また新しいJW年度を迎えるわけだけど、また1年、組織の奴隷として頑張りなさいということだね。」
「1節はいきなりヘイトスピーチです。” 私たちの周りには自分のことばかり考えている人がたくさんいます。”と根拠も示さず断定しています。」
「自分たち以外の人間を悪人に仕立て上げるのはカルトのよくやること。そうやって自分たちが特別優れた存在と思うわけだね。」
「でも1節では“エホバ神をたたえている人はあまり多くありません。”と珍しく正しいことを言っています。」
「100年以上伝道に励んできたけれど、信者の数はそれほど増えなかったことは正しく認識しているわけだ。」
「2から4節が“エホバをたたえるとはどういうことか”です。 日本語訳では重要なことを省略していますね。英語版では2節にWhat is glory? In the Bible, the word “glory” can refer to anything that makes someone impressive.とあるのに、まるごと飛ばしています。」
「栄光とは何かを定義してある部分だけど、誰かを印象的にするものなら何でも指す言葉と言っている。これはちょっとへんだね。日本語訳では“栄光”を省略しているから、まるごと削除したのだろう。」
「2節の下に、シナイ山のイラストがありますが、シナイ山はこんな山ではないですよ。いいかげんな創作ですね。」
「空想のシナイ山だね。JWとしてはシナイ山は実在すると思っているのだから、実際にどの山が聖書に出てくるシナイ山かを突き止めて欲しいね。でもそういうことはしないのがJWだ。」
「3節に“例えば,エホバの力強さや,温かくて魅力的な性格について他の人に語ることができます。”とあります。伝道すすめですね。伝道するとエホバをたたえることになるようです。」
「伝道時間の報告を廃止したから、ひと月に1回公園で遊んでいる子どもに“エホバは偉大なり!”と話しかければ、伝道したことになる。それで十分ということ。」
「3節に“また, 何かがうまくできた時,エホバのおかげだと考えることができます。”とありますが、これがエホバをたたえる方法だそうです。テストでよい点数を取ったら、エホバのおかげだと考えればいいわけですね。」
「英文ではWe also glorify God when we give him credit for things we accomplish in his strength.(神の力によって成し遂げた事を神の功績と認めることによって、神に栄光を捧げることができる)と言っている。翻訳者はよく意味が分からなかったので、適当に訳したね。」
「4節にルカ13章にあるイエスが病人を癒したという話が出ていて、“イエスが両手を置くと,その女性はすぐに真っすぐに立ち,「神をたたえ始め」ます。”とあるのですが、英文では“神の栄光”です。」
「日本語版では“栄光”は抹殺した。」
「5から7節が“エホバをたたえたいと思うのはどうしてか”です。 3つの答えが出ています。模範回答ですね。5節では“私たちはエホバに深い敬意を抱いている。”、6節では“私たちはエホバを心から愛している。”、7節では“私たちは他の人にもエホバについて知ってほしいと思っている。”とあります。たたえないと滅ぼされると脅かされたからという理由はダメなようです。」
「ポイントは7節だね。要するに伝道しなさい、という話に持って行くわけだ。エホバを愛しているなら伝道する、エホバをたたえたいのなら伝道する、と全ては伝道へとつながるのがJWの論理。」
「7節には“エホバについて本当のことを知らない人はたくさんいます。サタンがエホバについてのひどいうそを広めて,人々の思考を遮っているからです。(コリ二 4:4)”とあるのですが、引照聖句はそんなことを言っていません。」
「一般論としては、まず新約聖書ではキリストが主人公だからね、神はあまり関係ないことが多い。それから新約聖書にはエホバは出てこない。エホバが出てくるのはJWの改ざん聖書だけ。」
「引照聖句は“神に似た者であるキリストについての素晴らしい良い知らせの光が輝き渡らないようにしているのです。”とあります。エホバなんか出てきません。」
「キリストに関する良い知らせを妨げているのはJWでしょう。エホバ、エホバと連呼し、キリストについて書かれた聖句をエホバと勝手に読み替えて、キリストを無視しようとしている。」
「“神に似た者であるキリスト”という訳はへんです。協会共同訳では“神のかたちであるキリスト”となっています。」
「日本語訳の問題だね。英語版ではちゃんとthe image of Godとなっている。神に似たものと訳するのはダメだね。これはキリストは見えない神を可視化した完全な表現であるという思想を言っている。JWではキリストの地位は低いので、翻訳者は“似た者”がふさわしいと思ったのだろう。」
「7節には“サタンは人々に,エホバは恐ろしい神だとか,人間のことを気に掛けていないとか,世の中に苦しみが多いのは神のせいだと思い込ませています。”とカルト丸出しの妄想を言っています。大多数の人はエホバなんて知りません。」
「大多数の人はエホバというのは時々家に作り笑いをしながらやって来る二人組のおばさんのことと思っているよ。そういう人が来ると、家の中ではエホバが来たと言っている。」
「8から14節が“エホバをたたえるためにどんなことができるか”です。 8節に“詩編 96:1-3を読む。言葉によってエホバをたたえることができる。”とあります。引照聖句では“歌え”が3回でてきます。歌うことを勧めるのかと思ったら、8節では“忠実なユダヤ人や1世紀のクリスチャンもそうしました。エホバがしてくださった良いことについてためらわずに話し,エホバの評判を守りました。”とあります。またもや伝道の勧めです。聖句の誤用ですね。」
「聖句なんてどうでもいいんだよ。聖書を学んでいるという幻想を維持するための小道具にすぎない。次の節の体験談が面白いよ。」
「9節にはアンジェリーナ姉妹の体験談です。“姉妹は仕事を始めた頃,同じように新しく会社に入った人たちと一緒にミーティングに参加するようにと言われました。そこでは,それぞれ自分のことを話す機会が与えられました。”とあります。」
「JWの女性が会社に入ったの?正社員じゃないでしょう。掃除の仕事か何かじゃないの?それなのにそんなことを求められるの?作り話としても無理な設定じゃないか。」
「その姉妹は“自分がエホバの証人で,幸せな生活を送っていることをスライドショーにして紹介しようと思っていました。”とあります。ウソでしょう。こんなJWはいませんよ。JWであることはとても恥ずかしいことなので、なるべく隠すのが普通のJWです。無理な設定です。」
「職場に宗教をもち込むのは非常識だね。JWとして幸せな生活を送っているなんて、宗教宣伝以外の何物でもない。この姉妹は世間知らずの非常識なカルト信者なわけで、そんな人がちゃんとした会社に就職できるわけないよ。」
「会社で自己紹介を求められたら、話すべきことは仕事に関連したことじゃないですか?」
「話すべきことと言えば、学歴、職歴、過去に職場でどのようなことを成し遂げてきたか、などでしょう。宗教の話をするなんてありえない。JWの場合はそれしか話すことがないからだろうね。」
「ところが思わぬことが起こります。“でも自分の番が来る直前に,ある男性が,自分はエホバの証人の親に育てられたと言いました。そしてエホバの証人の信条をばかにするようなことを言い始めました。”とあります。こいつもバカですね。そんな話をする場ではないということがわからないようです。どういう会社なんですか?JWや元JWがたくさんいるみたいです。」
「清掃会社でしょう。この人はJWからすれば憎たらしい“背教者”なわけだ。JWが背教者相手に負けるわけにはいかないよね。」
「そして10節です。“とても緊張した空気が流れましたが,姉妹は落ち着いて話しました。自分がエホバの証人のイベントに参加して楽しんでいる写真をみんなに見せて,信じていることを敬意を込めて話しました。(ペテ一 3:15)姉妹が話し終える頃には,その男性の態度は和らいでいました。”とあります。そんなことで態度がやわらぎませんよ。」
「翻訳もおかしい。“エホバの証人のイベント”ではなくspiritual events(霊的行事)。” 信じていることを敬意を込めて話しました”はshe tactfully defended her beliefs(信じていることを巧みに擁護しました)。カルト色を薄めようとしているけれど、やっていることはカルトの宣伝そのもの。」
「10節の下にはその様子を示した写真があります。写真付きとは驚きです。」
「写真では、その姉妹の話を6人が聞いているという設定だけど、みんな熱心に画面を見ている。カルト信者の話にそんな反応するわけないよ。そんな時は、大多数は目を合わせないように下を向いて自分のスマートフォンを見ているよ。」
「10節の結論は“姉妹のように私たちも,誰かがエホバのことを悪く言うとき,エホバをたたえることができます。”というものです。JWは何か言われたらコソコソ逃げないで、天を見上げて、エホバは偉大なり、エホバは偉大なり、と連呼しなさいということのようです。」
「それは狂信度200%以上のJW以外には無理だね。この話は実社会の経験がほとんどない人が1%の事実をもとに99%創作したものだね。この姉妹は周囲の人を不快にさせる独善的な狂信者として、その日のうちにクビになったよ。働きたいなら職場では宗教の話はやめよう。」
「恐らく、この姉妹はどこかの会社に派遣されたのですよ。常識の欠けた人間なのでJWのたわごとを職場の人間に仕事中にダラダラ話して、解雇されただけです。それをこの姉妹はエホバを擁護するために勇敢に立ち上がったという話にでっちあげたんですよ。」
「それを聞いた長老が、元JWの嫌な同僚がいたことにしたほうがインパクトがあると思い、元JWの同僚の話を付け加えたのかもね。こうやって話はふくらんでいくわけだ。」
「その後アンジェリーナ姉妹がどうなったかを書いてくれると、完璧な体験談だったのに、それはありませんね。残念です。」
「その後アンジェリーナ姉妹は会社から高給のポストに就くように頼まれましたが、開拓者になるために断りました。今では開拓者をしながらベテルでの掃除の仕事も楽しんでいます、というものだと思うよ。」
「11節は“詩編 96:8を読む。持っている物を活用してエホバをたたえることができる。”です。引照聖句には“供え物を持って神の庭に入れ。”とあるのですが、結論は“私たちも自発的な寄付によってエホバをたたえることができます。”と言うものです。露骨な寄付のおねだりです。JWも落ちぶれたということですね。」
「寄付でエホバをたたえるなんてバカげた理屈をこねるのをやめて、金がないから、金をくれ、と率直に書いた方が寄付が集まるよ。」
「12節は体験談です。干ばつが続き食糧不足のジンバブエでプリスカ姉妹が一生懸命JW活動をしていたら、“姉妹はエホバの証人の組織を通して救援物資を受け取ることができました。それは兄弟姉妹の寄付によって準備されたものでした。そのことを知った近所の人たちは感銘を受け,「確かに神は見捨てなかった。その神について自分たちも知りたい」と言いました。こうして7人が集会に出席するようになりました。”というものです。この話の要点は何ですか?飢え死にしそうでもJW活動をやれば、食料が得られると言いたいのでしょうか?」
「それを暗示しているけれど、そうは言っていない。それがカルトのズルいところだね。この話の要点はもっと寄付をしたら、苦しんでいるJWを助けられる。もっと寄付をしなさい、というもの。」
「7人が集会に参加するようになったそうですが、救援物資目当てなのはミエミエですよ。」
「その7人は恐らくJWをすぐに見捨てて、もっと資金力のある教会組織の方に移っていったと思うよ。」
「13節が“詩編 96:9を読む。行いによってエホバをたたえることができる。”です。引照聖句は“聖なる装いをしてエホバにひれ伏せ。”とあるだけで、行いでエホバをたたえるとは言っていません。」
「協会共同訳では“聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。”となっている。“聖なる装いをして”というのは、服装にこだわるJWが好みそうな訳だけど、“装い”に相当する言葉は元のヘブライ語にはないよ。」
「14節は囚人の体験談です。ジャックという死刑囚が“収監されていた刑務所を訪問してきたある兄弟と聖書レッスンをすることになりました。ジャックはこれまでたくさん悪いことをしてきましたが,古い人格を脱ぎ捨て,やがてバプテスマを受ける資格を満たすほどになりました。”とあります。そして、“ジャックが処刑された次の週,兄弟たちがこれまで通り集会を刑務所で開くと,そこには初めて集会に来た囚人がいました。”というものです。この種の話は聞き飽きました。」
「どの宗教でも似たような話しがあるよ。死刑囚が敬虔なカトリック教徒になったとか熱心な仏教徒になったとか。」
「14節に“その刑務所で働いていたある軍曹”とあるのですが、誤訳です。刑務所に軍曹はいません。翻訳者は常識がないですね。」
「元の英文ではsergeantで、軍隊なら軍曹と訳されるけれど、ここでは刑務官のある階級を指すのだろう。適切な訳語はないから刑務官と訳するしかないね。」
「最後の15,16節が“近い将来,エホバはどのようにしてご自分の名がたたえられるようにするか”です。 15節は“詩編 96:10-13を読む。”で、そこには“近い将来,エホバはどのようにしてご自分の名がたたえられるようにするでしょうか。裁きを行うことによってです。”とあります。引照聖句の誤用ですね。」
「詩編96は預言じゃないよ。神を賛美している詩だね。詩編96と同じものが歴代一16:23以下にあるけれど、そこでは神の箱がエルサレムに運び込まれたことを祝って、ダビデがつくったことになっている。でもこの詩はバビロン捕囚後のものと考えられている。」
「そのあと、“間もなくエホバは,ご自分の聖なる名を非難している大いなるバビロンを処罰します。”とあり、JWが大好きな啓示に飛びます。」
「英文ではSoon he will execute Babylon the Greatで、executeは処刑する、死刑執行する、という意味。すごいヘイトスピーチ。敵意があふれているね。」
「16節では“今でも私たちは言葉や行いによっていろいろな機会にエホバをたたえることができます。”と夢物語から現実に戻ります。信者は伝道、寄付、JW規則に則った行いに励まないと、エホバをたたえてない、といじめられるわけです。」
「今年の年句の話だったけれど、年句なんて決めなくてはいけないものなの?それは異教の習慣と言って、もうやめたらいいよ。」
- 聖書についての質問
- 2025年02月28日 14:20:32
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバはあなたの涙を見過ごしません(51)”で、悲しい時、つらい時は集会に来て、祈り、聖書を読めばよいのだ、という内容です。」
「何の役にも立たない記事。旧約聖書の話に、体験談を付け加え、教訓をたれるというもので、文章のレベルは小学生程度で何の深みもなく、飽き飽きした、もう勘弁してくれという感想を抱く人が多いよ。」
「聖書を読み、祈り、集会に来るというのがJWのあらゆることの解決策です。この記事でも同じです。」
「少しは何か新しいことでも書いてくれたら面白いのに、そういうことはないよね。この記事でもイエスは出てこない。JWは真のクリスチャンというけれど、イエスには興味がないようだね。」
「この記事ではハンナ、ダビデ、ヒゼキヤ王の三人が登場します。二人に減らしたらいけないのですか?そうすれば早く終わります。」
「3はJWの完全数のようで、3という数字にこだわりがあるようだ。」
「3節で、エホバは“愛情深い親のように,子である私たちが泣いているのを見ると,つらく感じ,助けるために行動してくださいます。(イザヤ 63:9を読む。)”とあるのですが、引照聖句は古代イスラエルの話で、今のJWと関係ないですよ。」
「イザヤ63:7に“私は,エホバの揺るぎない愛の行い,エホバの素晴らしい行いについて語る。エホバは憐れみと大きくて揺るぎない愛により,私たちのために,イスラエル国民のために,多くの良いことを行ってくださったからだ。”とある。神が過去にイスラエル国民示された憐れみと愛を褒めたたえている部分が63:7-9だね。今のJWとは無関係。」
「4節に“聖書には,エホバがご自分に仕える人たちが涙を流した時にどのように助けたかが書かれています。”とありますが、何もしないことの方が圧倒的に多いですよ。」
「伝道4:1に“さらに私はこの地上で行われている虐げの行為全てに注意を向けた。私は虐げられている人たちの涙を見た。彼らには慰めてくれる人がいなかった。”とある。神はなにをしているのかな?」
「5から10節が“悲しい時に流す涙”です。 ハンナが取り上げられます。5節に“問題の1つは,夫にペニンナというもう1人の妻がいて,そのペニンナから見下されていたことです。それだけでなく,ペニンナには何人も子供がいたのに,ハンナには子供ができませんでした。(サム一 1:1,2)”とあります。これって社会制度の問題ですよ。なぜ愛ある神はそういう社会制度を許しているのか小学生でも疑問に思います。」
「一夫多妻制が生み出す問題だね。子どもがいないことが女性にとって大問題になるのは、女性を子どもを産むための道具としか見ない女性蔑視の家父長制度があるから。これらの問題を放置し、時々恣意的に手助けするだけの神は、どう見てもダメな神。」
「独裁者がおかしな社会制度を作り、様々な不幸を生み出しているのに、時々困った人を助けるから、その独裁者を偉大な指導者とほめたたえるようなものですね。」
「JWのように古代中東で書かれた旧約聖書を模範とすると、現代社会ではおかしなことになるからやめよう。」
「英文ではa bigamous marriageという言葉が使われています。重婚という意味ですが、これは間違いです。それで翻訳しなかったのでしょうか?」
「重婚は違法行為を指す言葉。法律上結婚している人がさらに結婚すると重婚罪にとわれる。古代イスラエルでは複数の女性と結婚しても犯罪ではないので重婚という言葉を使うのは間違い。翻訳者はその点を理解していたというより、重婚の意味が分からなかったので翻訳を飛ばしたのだろう。」
「6節で“ハンナが悲しみを和らげるのに役立ったことの1つは,真の崇拝の中心地である幕屋に行ったことです。”とあります。ハンナは祈るわけですが、祈りの効果は祈る場所によって違うということですか?」
「サムエル記を書いた人はそういう思想の持主。神殿で祈らないとダメと思っている。」
「それならJWも年に一回ニューヨークの本部に来て祈らないといけないとなぜしないのか不思議ですね。」
「組織はそんな旅費があれば寄付をしなさいという思想だからだよ。」
「8節が“学べること”で、“私たちも,たとえ気分が優れないとしても クリスチャンの集会に出席するなら,悲しい気持ちが和らぎます。(ヘブライ 10:24,25を読む。)”と、集会に来るよう圧力をかけています。つらいことや悲しいことがあっても、集会を休むなということですね。でもハンナは幕屋に行ったのは年に1回です。JWもそれを見倣って集会に行くのは年に1回だけでいいはずです。」
「JWは不都合なことは無視する。そもそもJWの集会は悲しい気持ちが和らぐようなものではないでしょう。信者にあれこれ要求し、もっと頑張らなくてはダメだ、と罪悪感や無力感を生じさせるもの。」
「9節では“妻を亡くしたある特別開拓者の兄弟”の話が出てきます。“でも集会に行くことで,本当にたくさんの力をもらってきました。兄弟姉妹が掛けてくれる温かい言葉のおかげで,気持ちがすっと軽くなります。”とあります。元気のない人がいたら温かい言葉をかけてあげなさいという指令です。」
「この特別開拓者の人はJWの集会以外に行くところがないんだよ。だから集会にやってくるわけだ。でも集会に来られなくなるほど精神的に落ち込んだら、忘れ去られるだけ。」
「10節は“夫を強盗に殺されるという経験をしたある姉妹”の話です。“でも愛情深いお父さんエホバに祈ると,心が安らぎました。何と祈ったらよいか分からないこともありましたが,エホバは私の気持ちを分かってくださいました。心がひどく乱れる時には,穏やかな気持ちになれるよう祈りました。そうしたら本当に心が落ち着いて,前に進む力が出てきました。”とあります。とにかく祈りなさいという指令ですね。」
「エホバは強盗を防いではくれないけれど、穏やかな気持ちにしてくれるというわけだ。でもエホバ以外の神に祈っても同じ効果は得られるよ。祈りという行為そのものが気持ちを穏やかにする。」
「10節では“苦しい状況そのものは変わらないとしても,エホバはあなたの心を落ち着かせ,穏やかな気持ちを持てるように助けてくださいます。”とあります。エホバは精神病の薬のかわりということですね。」
「宗教は昔からそういう抗うつ剤の役割を果たしてきた。でも今は副作用の少ない抗うつ剤があるから、そちらを利用した方が確実だよ。」
「この記事でも、落ち込んだときは専門家に相談しましょうとは書かれていません。信者の治療の機会を奪う有害な宗教です。」
「集会に来て、祈れとしか書かれていない。これではJWの精神状態は悪化するだけだ。精神症状が進んで集会に来られなくなった信者のなかには冷淡で残酷なJWを恨んでとんでもない事件を引き起こす人も現れる。組織は信者の精神状態の改善を真剣に考慮して欲しいね。」
「11から14節は“裏切られた時に流す涙”です。 JWの人気男ダビデが取り上げられます。ここでは裏切られた男として登場しています。ダビデは被害者のようです。」
「自分と対立する人を裏切り者と呼ぶことによって、自分は悪くない、悪いのは相手だ、と考えるわけだ。JWも自分と対立する人を背教者と呼んで一方的に断罪し、被害者ぶる。」
「12節に“また別の時にダビデが書いた印象的な言葉が詩編 56編8節に収められています。(読む。)そこにはエホバの優しい気遣いが美しく表現されています。”とあります。引照聖句には“私の涙をあなたの革袋に集めてください。あなたの書に記されている私の涙を。”とあるのですが、優しい気遣いなんて全く感じませんよ。」
「苦しんで涙を流している人がいる時に、助けもしないで、その涙を集めている人がいたら異常者だね。詩編56の作者はいい詩的表現と思ったのだろうけれど、いまいちかな。」
「13節が“学べること”で、妻に逃げられた兄弟の話が出てきます。“人間同士の関係は終わってしまうことがあっても,エホバは岩のように変わらない方だということが分かりました。どんなことが起ころうと,エホバはそばにいてくださいます。ご自分に尽くす人を見捨てることはありません。”というものです。エホバへの信仰心があれば、妻に逃げられても耐えることができるようです。」
「別の神様への信仰でも同じ効果が期待できるよ。無理にJWでいる必要はないよ。」
「13節には“あなたが人からどんな扱いを受けようと,天のお父さんはあなたを愛しているのです。”とあるのですが、これって慰めになりますか?ならないですよ。」
「神様に愛されていても、妻に逃げられたという事実は変わらないからね。その事実がその人を苦しめる。」
「これは、奥さんに逃げられた人に向かって、奥さんは逃げても、あなたにはまだ忠実な飼い犬がいるからいいじゃないですかというようなものです。」
「この辺の鈍感さはJWの特徴だ。苦しんでいる人は聖句の一つか二つを読めばいいという程度の思考しかできない。」
「14節には“誰かに裏切られたとき,詩編 34編18節に書かれているダビデの言葉も心の癒やしになります。(読む。)”とあります。その聖句は“エホバは心が傷ついた人のそばにいる。打ちのめされた人を救ってくださる。”です。この聖句を読むと、エホバは傷ついた人に寄り添い、救ってくれると確信できるようです。」
「JWによると、妻に逃げられた人もこの聖句を読めば癒されるわけだ。詩編34は個人的な神への感謝の気持ちを詩にしたもので、神の約束ではない。例えば詩編34:20に“神はその人の骨を全て守る。1本も折られることはなかった。”とあるけれど、これを神の約束と思う人はいないでしょう。」
「15から18節が“先のことが不安になる時に流す涙”です。 今度はヒゼキヤ王の話です。病気で死にそうになったけれど、涙を流したら、回復したことを取り上げています。」
「引照聖句の列王二20:6に“私はあなたの寿命を15年延ばし,アッシリアの王の手からあなたとこの都市を救う。”とあるけれど、これは事後預言だね。ある出来事があった後に、あたかもそれを予言されていたかのように書くというもの。アッシリアの文献にもこのような預言はある。」
「17節が“学べること”で、“あなたも回復の見込みが薄い健康上の問題と闘っていますか。そうであれば,涙を流しながらであっても,祈りでエホバに心を向けてください。” とあります。病気で死にそうになったら祈ればいいようです。」
「しかし、そのあとに“今は,エホバが私たちの抱える問題を全てなくしてくださると期待することはできませんが,エホバが支えてくださると信じて頼ることができます。(詩編 41:3を読む。)”とある。祈っても病気は治らないが、支えてくれると信じて頼ることができるようだね。」
「最後の“エホバが支えてくださると信じて頼ることができます。”は意味不明です。」
「英文ではwe can count on him to sustain us.なので、私たちを支えてくださるのは確かです、と言っている。翻訳者はそんなことはないと知っているので、“エホバが支えてくださると信じて頼ることができます。”と何を言いたいのかよくわからない文章でごまかしたね。」
「引照聖句には“エホバは病に伏せる彼を支える。病気の間,あなたは彼の世話をする。”とありますから、JWはこれを神の約束として信じればいいわけです。病気など問題ではありません、となぜ書かないのか不思議です。」
「JW流に詩編を読めば、神はいろいろなことを約束していることになる。土地は守られ、敵は打倒され、健康で長生きし、豊かに繫栄する。しかし、それがいつまでも実現しないので、死後の世界で実現するとか、JWのように楽園で実現するという思想が後の時代に出てきたわけだね。」
「18節は癌と診断された姉妹の話です。“私にとって特に心の支えになったのは,イザヤ 26章3節です。状況を良くするためにできることはあまりないとしても,その状況にどう反応するかはコントロールできるということを学べました。エホバが平和を与え,穏やかな気持ちにさせてくれるからです。”というものです。その聖句には“あなたに全く頼る人たちを,あなたは守り,絶え間ない平和を与えます。彼らがあなたを信頼するからです。”というものです。」
「長老は会衆に癌になった信者がいたらこの聖句を使って、あなたには平和が与えられます、穏やかに死ぬことができますよ、だから組織に騙された一生だと文句を言うな、と言えいう指示だね。」
「最後の19節はまとめですが、“今は終わりの時代の最終部分で,涙が出るような状況は今後も増えていくことでしょう。”とあります。終末カルトらしい文章です。不安をあおりつつ、間もなくこの世界が終わり、楽園がくるという希望を抱かせています。」
「本気でそう思うなら、病気の人には治療などにお金をかけるのは止めましょう、間もなく楽園が来て病気はなくなるからです、くらいのことを書いて欲しかった。でもそこまで書くと治療を拒否して死んだJWの遺族から訴えられる可能性があるから書けないね。」
- ジョエル
- 2025年02月25日 08:52:03
数学では、フラクタルの一例として、複素平面上の多項式の根に対して、任意の点にニュートン法(線形近似)を施すといずれかの根に収束するので、それを元の位置に戻してどの根に収束したかで色付けする(3次なら3色)と、無限の入れ子構造(フラクタル)となって現れます。
多項式の次数や定数を変えるだけで多様な幾何学パターンが勝手に(自然に笑)生成されます。デザインの知識もセンスも関係ありません。
ニュートンの頃は西洋キリスト教圏の数学者はほぼ、創造者の存在を信じるキリスト教徒だったはずですが、現代の純粋数学者に「聖書の創造者」をそのまま書いてある通りに信じるタイプの人はまずいないと思います。
- ジョエル
- 2025年02月25日 08:35:46
JWが今でも使い続ける粗雑な論理の元ネタは、今から200年以上も前にヒースの荒野をお散歩していた牧師さんが靴にコツンとあたったのが誰かが落とした時計で、こんな人里離れた荒野でも、時計が落ちていれば「自然に」できるはずはなく、それを作った時計職人がいる証拠だと、ごくあたりまえの因果に気づいただけのお話です。スズメバチの巣があれば、それを作ったスズメバチの群れがいたことの証拠だと言うのと同じで、それ以上でもそれ以下でもありません。
この話をJW文書で見た記憶がないのは、200年以上も前の、しかもキリスト教の牧師さんが言ったのと同じロジックを使い回しているだけと思われたくないのか、執筆者がそんなことも知らずとにかく自宗教の文書で何十年も昔から書かれ続けていることをそのまま繰り返しているだけなのか、でしょうか。
その牧師さんの時代から自然科学の知見は飛躍的に進歩していて、今では「自然に」起きる自己組織化現象や、自発的な秩序形成プロセスが知られていて、雪の結晶はその例です。
- 聖書についての質問
- 2025年02月21日 14:39:25
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“お子さんが強い信仰を持てるよう助けましょう(50)”で、子どもの洗脳方法が主な内容です。」
「新しくJWになる人といえば、ほとんどがJWの子ども達。現在、大人になってもJWに留まるのはJWの子ども3人に1人くらいといわれている。それを3人に2人くらいまでにしたいということだね。」
「3節で“この記事では,子供が(1)聖書の教えへの確信を深め,(2)聖書の道徳基準がためになることを理解し,(3)信じていることを説明することができるように,親がどう助けてあげられるかを考えます。”とありますが、英文とはかなり違いがありますね。」
「特に(3)は違うね。英文では(3) defend their beliefsで、自分の信念を擁護する、という意味。説明ではなく、擁護しなくてはいけない。」
「例えば、誕生日を祝うことがなぜダメなのか、を説明するだけではダメで、祝うと悪魔にとりつかれるとか、ハルマゲドンで滅ぼされるとか言って、祝わないことを積極的に擁護することが子どもに求められるわけですね。」
「これは大人でも無理でしょう。子どもには過酷な要求だ。JWをやめたくなるのも無理はない。」
「4から8節は“子供が確信を深めるのを助ける”です。 4節に子どもの疑問が出ています。“神がいるってどうして分かるの? 聖書に書いてあることは本当に信じられるの?”とあります。本質的な疑問です。子どもは鋭いですね。」
「これにJWはどう答えるのかな?JWの答えは小学2年生でも納得のいかないものだよ。それでほとんどがJWを離れる。」
「5節が“聖書に書いてあることが本当であることを子供が自分で見極められるよう助ける。(ローマ 12:2を読む。)”です。具体的には“「ものみの塔出版物索引」や「エホバの証人のためのリサーチガイド」などの調査ツールを使って答えを見つける方法を教えましょう。”とあります。JW以外の資料は見させるなということですね。」
「子どもの洗脳法の第一は情報を制限し、都合の良い情報だけ接触させろ、だね。」
「5節には説得力のない事例が出てきます。“例えば,古代アッシリアの都市ニネベについて調べることができます。聖書の批評家の中には,ニネベという都市が存在しなかったと主張する人もいました。しかし1850年代までに,この都市の遺跡が発掘され,聖書の記述が正確であることが証明されました。”とありますが、サギ的な文章です。」
「ニネベが存在したことが証明されただけで、“聖書の記述が正確であることが証明されました。”というのは過剰な一般化で誤りということぐらい、小学生でも気づくよ。」
「しかも、この話は1850年代の話です。そんな遠い昔の話しか持ちだせないわけです。もっと新しい話はないの、と小学生でも思います。」
「近年の考古学の発掘は聖書に書かれていることがいかにデタラメかを次々と証明している。19世紀の古い事例で、洗脳するしかない。」
「5節ではさらにとんでもないウソが出てきます。“エホバの証人の出版物から分かったことと,百科辞典や他の信頼できる資料から分かったことを比較することで,聖書に書いてあることへの信仰を強めることができます。”とあります。JWではエルサレム滅亡の年が前607年なのに、JW以外の資料は前586/587と書いてあるのはどうなんですか?JWの出版物にあるそれ以外の出来事の年も他の資料とは違います。JWにしか存在しない独自の古代史になっています。」
「その年代計算は聖書とは直接は関係ないからね。JWの出版物が信用できないというだけ。」
「執筆者はJWの子どもは情報制限されているから、JW以外の資料を見ることはないと思っていますね。」
「それで、はったりをかましている。ウソだと思うならブリタニカ百科事典をみてみればいい、というわけだ。誰もブリタニカ百科事典を見ることはないことを知っているので、そう言える。」
「6節は“子供の考える力を伸ばす。”です。“例えば,植物園や博物館に行ったり,エホバの証人の支部事務所にある展示を見に行ったりするのも良い方法です。”とあります。」
「植物園?動物園はダメなのかな?もちろんグーグルでエホバと検索するのはダメなんだよね。」
「6節に“お子さんはモアブ碑石について聞いたことがあるでしょうか。それは神の名前が書かれた3000年前の石碑で,フランスのパリにあるルーブル美術館に展示されています。”とあります。これはメシャ碑文のことですよね。」
「モアブ碑石というのは19世紀の言い方。これには1868年に発見された34行からなる文が書かれている。これも古い事例だね。執筆者は新しいことは知らないようだ。」
「6節には“モアブ碑石は,モアブのメシャ王がイスラエルに反逆したことを記録しています。それは聖書に書かれていることと一致しています。(王二 3:4,5)”とありますが、そんなことないですよ。」
「引照聖句には“アハブが死んで間もなく,モアブの王はイスラエルの王に反抗した。”とある。碑文ではそんなことは書いていない。碑文ではモアブを征服した王はオムリで、オムリの息子の代にメシャが独立戦争を起こし、勝利したとなっている。」
「聖書にあるアハブはオムリの息子です。碑文とは一代ずれているわけですね。」
「それ以外にも碑文が聖書と違う個所はある。それなのに“それは聖書に書かれていることと一致しています。”と断言している。ウソだね。すぐばれるウソでも、繰り返していれば真実となると思っているのかも。」
「7節は“子供が自然界について考えられるようにする。”です。これはよくある話ですが、新しい例を出してきました。“植物を育てたりする時,自然界に見られる興味深いパターンにお子さんの注意を向けるのは良いことです。どうしてですか。そうしたパターンは,知性と知恵のある設計者がいる証拠だからです。”というものですが、間違いですね。」
「それで植物園を勧めていたのね。螺旋とフィボナッチ数列の話だけど、それは設計者がいるという証拠にはならないよ。JW以外の資料を調べれば、花の中心部分や動物の体の中など限られた空間を効率良く利用するために進化した結果フィボナッチ数となったと説明されている。」
「フィボナッチ数列は高校2年くらい学ぶ内容です。執筆者は高校時代に学んだことを基にこんなことを書いているのでしょう。」
「それでもJWの中ではすごいインテリなんでしょう。」
「8節では“例えば,雪の結晶の形はフラクタルとして知られる幾何学構造になっています。フラクタル構造は自然界のほかの物にも見られます。では,こうした美しいパターンの基になっている法則を作ったのは誰でしょうか。”とあります。これは自然を作ったのは神ではなく、自然法則だと言っているようなものです。全ては神が設計図を書いて設計したというJWの自然観からはずれています。」
「それを推し進めていくと、神は宇宙の法則を作っただけで、実際の宇宙はその法則によってできたという考え方になる。JWとしてはまずいでしょう。」
「雪の結晶の例はやめた方がいいですよ。高校時代に習ったフラクタルという言葉を使いたかっただけじゃないですか?」
「雪の結晶はとても複雑な形をして、それを見たら人工物と思えるようなもの。しかし、自然にできたもの。複雑なものだから、設計者がいることにはならないということのよい例として有名だね。JWには不都合だ。」
「すべてのものには設計者がいる、だから宇宙を作った神がいるという主張は、小学生でも、それならその神は誰が設計したのか?という疑問を引き起こすだけですよ。」
「自然界の起源や成り立ちを説明するのに設計者を持ち出しても、何の説明にもならない。こんなことを言っていると、JWになる子どもはますます減るね。」
「9から13節が“聖書の道徳基準がためになることを理解できるよう助ける”です。 ここでいう道徳基準とはJWの細々とした規則のことです。「いつまでも幸せに暮らせます」の本を使えと言っています。」
「JWの子どもはなぜ自分たちだけがJWの理不尽な規則に従わなければならないのかと疑問に思い、JWになりたくないと思うからね。」
「10節は“子供がエホバとの絆を大切にするよう助ける。”で、“例えば,レッスン8では,エホバが私たちのためを思って大事なことに気付かせてくれる友達に例えられています。ヨハネ第一 5章3節を読んで話し合った後,こう尋ねることができます。「エホバがそういういい友達だって分かると,エホバの言うことをどんな気持ちで受け止められると思う?」”とあります。JWの洗脳法がよくわかりますね。都合の良い情報を与え、JWが望む答えに誘導していくわけですね。」
「子どもは親の前では親の期待通りに振る舞うかもしれないけれど、何かがおかしいと気づいているよ。」
「引照聖句には“神のおきては重荷ではありません。”とありますが、子どもにとっては聖書に基づくとされるJWの規則は重荷そのものです。JWは聖書がインチキだと子どもに教えているようなものです。」
「神は友と教えるようだけど、崇拝、感謝、賛美、寄付を要求し、命令通りにしないと滅ぼすと脅す人がいたら、その人を友とは呼ばないことくらい小学生でもわかる。JWの教えは子どもでもバカバカしいとすぐわかる安っぽいものだね。」
「11節は“聖書の教えに従うことがどのようにためになるかを話し合う。”です。例がつまらないです。“例えば,正直でよく働くことが良い結果になるということを話せます。(ヘブ 13:18)”とありますが、この教えは聖書の専売特許じゃありません。ごく普通の非宗教的な道徳です。」
「もっと聖書独自の教えについて触れて欲しいね。女性を差別するとどのようにためになるのかな?結婚するまでセックスをしないとどのようにためになるのかな?同性愛を敵視するとどのようにためになるのかな?輸血を拒否するとどのようにためになるのかな?誕生日やクリスマスを祝わないとどのようにためになるのかな?色々あるのに、答えやすい正直でよく働くことを例に出すなんてズルいね。」
「12節がイーサン兄弟の話です。“私と妻はこんな質問をします。『エホバがこの教えを守ってほしいと思っているのはどうしてだと思う。それにはエホバからの愛がどう表れているかな。もしその教えを守らなかったらどうなると思う』”とあります。JWの理不尽な規則もエホバの愛の表れであり、守れば得になり、守らないと損をすると答えるように誘導するようです。うまくいきませんよ。」
「誕生祝い禁止はどう誘導すればいいの?それが宇宙の創造者の愛の表れと誘導するのはよっぽどの詭弁を弄しないと難しいね。誕生祝をしないのは子どもにとって損するだけで、得にはならないでしょう。」
「こういうのはどうでしょう。“エホバという神はなぜか、子どもが両親から、誕生日おめでとうと言われると最高に気分が悪くなり、その子供を殺したくなるんだ。そんなことが起きないように誕生祝禁止にしたんだね。愛ある神だね。”というのです。説得力ありますよ。」
「それじゃJW以外の子どもはなぜエホバに殺されないの?と反論してきそう。」
「その場合は、“その子たちは間もなくすぐ来るハルマゲドンで木っ端みじんに吹き飛ばされ、バラバラになった体はカラスに食べられるんだよ。”と言うのはどうでしょう。」
「JWの子どもなら納得するかも。JWの子どもにとって神はハルマゲドンを引き起こすだけで何も助けてくれない邪悪な存在だから、本当らしい話と感じるかも。」
「14から17節が“信じていることを説明できるよう助ける”です。 これは子どもには過酷な要求です。JWの家庭に生まれると、とんでもない不幸になることがよくわかります。」
「大人のJWだって、信じていることを説明できないでしょう。それで自分がJWであることがバレないように職場では立ち回っている。なぜ子どもだと皆の前で自分はカルト信者ですということを明らかにし、カルトの教えを擁護しなくてはならないのか、理解できないね。」
「15節は“信じていることについてもっと自信を持てるよう助ける。”です。“創造を信じていることを恥ずかしく感じる必要はありません。”とあります。でも、人類が6000年ほど前に始まったとか、エデンの園で蛇がどうしたこうしたとか、4000年ほど前に地球規模の大洪水が起きたけれど、箱舟を作って助かったとか、バベルの塔の話とか、海が二つに割れたとか、戦争の際に太陽が止まったとか、の話はどうなの?これらを信じていますというのは恥ずかしいよ。」
「そういう話はすべて無視して、生命創造の話しに集中するという作戦です。」
「批判されたら、反論しやすい話題を持ち出すという作戦のようだけど、聖書の中には多くの人がバカバカしいと感じる話は満載だよ。聖書のことを知らない人にしか通用しないね。」
「16節は“創造者がいると信じていることを説明できるよう助ける。(ペテロ第一 3:15を読む。)”です。“jw orgの「若い人は尋ねる 創造? それとも進化?」というシリーズの記事を一緒に振り返ることができます。”とありますが、そこに書かれていることを丸暗記させるわけですね。」
「丸暗記しても、他の人と話すときはすぐにボロが出るから、そんなことは止めよう。」
「具体例が出ていますが、バカバカしいです。“例えば,学校の友達は「自分は見えるものしか信じないし,神なんか見たことない」と言うかもしれません。そんなとき,こう言えます。「町から遠く離れた森の中を歩いていて,立派な家を見つけたとしたらどう思う? 家があるってことは造った人がいるってことだよね。地球も一緒だと思わない?」”というものです。意味不明です。それから、見えるものしか信じないという人に会ったことはありません。しかし、JWの出版物の中にはこういう人がよく出てきます。記事の中の会話がいかに現実離れしているかわかります。」
「これも粗雑な論理だよね。家には造った人がいる。ゆえに宇宙には造った人がいる、と言っているだけ。それならその家があった森は造った人がいるの?それは誰?いないよ。森を造った人はいないが広大な森が存在している。ゆえに広大な宇宙にも造った人はいないが存在している。JWの主張はなにも証明しない。」
「JWの中ではエリートである執筆者がこの程度だとすると、一般のJWの知的レベルが想像できます。」
「だから、20歳以上でJWをやっている人は知性に問題があると疑っていい。」
「17節が“聖書の真理を伝えるチャンスを探すよう助ける。”です。伝道の強要です。学校との友達の会話例が出てきます。“エンジニアが何かを作る時,自然界のデザインをまねすることがよくあるらしいよ。面白い動画があるんだよね」。「だれかが設計?」のシリーズの動画を見せてから,さらにこう言えます。「自然界にあるデザインをまねして設計した人もすごいって言われるんだね。じゃあ,もともとのすごいデザインを考えたのって誰だと思う?”というものです。こんな会話をするJWの子どもがいるとは思えませんね。誰だって学校ではカルトの信者と思われたくないですよ。」
「子どもを宗教拡張員として使うのは児童虐待。子どもはそんなことしなくていい、とまともな大人なら言うよ。」
「ここでも自然界には設計者がいるはずだ、という直感に訴えているだけですね。それがうまくいってもその設計者がJWのエホバと納得させるには相当無理があります。」
「エデンの園の話とかノアの洪水とかを持ち出すと、ドン引きされるよ。」
「最後の18節が“子供が強い信仰を持てるよう助けていく”です。 まとめです。“このように子供が強い信仰を持てるよう助けている親の皆さんの努力にエホバは必ず報いてくださいます。(代二 15:7)”と終わります。引照聖句は子どもの教育とは無関係ですし、どう報いてくれるかは書いていません。」
「引照聖句はアサ王の時代のことを言っている。JWとは全く無関係だね。JWはこのように聖句の断片を恣意的に利用して、理不尽な規則を押し付けている、と子どもはやがて知るよ。それを知ったら、JWをやめようと思うのは当然だよ。」
- 聖書についての質問
- 2025年02月14日 14:14:56
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“永遠に生きるために必要なこと(49)”で、JW流の主の晩餐を擁護する内容です。」
「頭のおかしい人以外は、誰も飲んだり食べたりしないという奇妙な儀式のことね。この記事では、JWの儀式はヨハネ6:53の“人の子の肉を食べず,その血を飲まない限り,自分の内に命を持てません。”に反する、という批判に答えようというわけだ。」
「4から6節が“命のパンとイエスの肉”です。 4節に“イエスが続けて語った次の言葉に人々はさらに衝撃を受けたことでしょう。「人の子の肉を食べず,その血を飲まない限り,自分の内に命を持てません」。(ヨハ 6:53)”とあり、これについて5,6節で、これは比喩的な意味と説明しています。」
「文字通りに解釈する人なんかいるの?いないよ。2節も使う必要ないね。」
「5節で“イスラエルに与えた律法の中でもそれを禁じました。血を食べる人は「除かれ」る,つまり死刑にされることになっていました。(レビ 7:27)”とあります。これって間違いですよ。」
「レビ17:25には“あなたたちでも外国人でも,死んでいた動物や野生動物に引き裂かれた動物を食べた場合は,自分の服を洗い,水を浴びなければならず,夕方まで汚れた人とされる。その後,清くなる。”とある。死んだ動物は血抜きをしていないから食べることは禁じられていた。しかし食べた場合は服を洗って水浴びすれはいいわけで、死刑になるわけではない。」
「JWも輸血した人は、服を洗い水浴びすればよいとすれば、律法にかなった教えと歓迎されますよ。」
「律法ではやたらと死刑にすることになっているけれど、それが本当に実行されたかは疑問視されている。JWもそれを見倣ったらいいよ。」
「5節では“イエスは人々に律法を守るよう教えました。(マタ 5:17-19)”とあります。これも問題です。引照聖句には“律法から最も小さな文字1つや文字の1画が消え去るよりも,天地が消え去る方がまだ早いでしょう。”とありますが、これはマタイの思想ですよ。他の福音書ではそんなことは書かれていません。」
「律法をどう扱うかは福音書の中でも一致はない。たとえばマルコ7章に食事の前に手を洗うことについてのパリサイ派との論争があるけれど、7:19に“こうしてイエスは全ての食物を清いものとした。”と、イエスは律法にある食物規定をひっくり返す。マタイは律法順守主義者で、マルコ7章の話はマタイ15章に出てくるけれど、律法にあうように書き直している。」
「マルコ13:18には終わりの日の災厄について“それが冬に起きないように祈っていなさい。”とありますが、並行記事のマタイ24:20では“逃げるのが冬や安息日にならないように祈っていなさい。”と安息日のことが付け加えられています。安息日のことを気にしているのがマタイということがわかります。」
「マタイはマルコをもとにして書いているけれど、逃げる時に安息日だったら律法に反すると気づき、逃げるのが安息日にならないように祈ることを付け加えたのだろう。それだけマタイは律法順守を気にしているユダヤ教的な人ということ。でも歴史上のイエスがそうだったかどうかはわからない。」
「7、8節は“2つの場面の違い”です。 この記事の中心的部分です。7節に“クリスチャンと言われる人たちの中には,「イエスはヨハネ 6章53節で自分の肉を食べ血を飲むようにと言った時,主の晩餐で行うべきことを教えていた」と主張する人たちもいます。”とあり、そして“主の晩餐に出席する人全員が回されてきたパンを食べぶどう酒を飲むべきだ,と言います。”と問題を提起します。」
「まあ、結論はわかっているけれど、“クリスチャンと言われる人たち”と言う表現は自分たちこそが真のクリスチャンでその他はニセクリスチャンだという悪意を感じさせるいやらしい表現だね。」
「元の英文ではSome religious peopleで、“クリスチャンと言われる人たち”ではないです。翻訳者が悪意に満ちた人間ということですよ。」
「“宗教的な人の中には・・・”と言う意味だけど、翻訳者はJW以外は悪魔の手先で宗教じゃない、と子どもの時から叩きこまれた人なのかも。」
「8節でヨハネ6:53と主の晩餐の時に言ったことの2つの違いを述べます。“1つ目は,イエスがそれぞれの言葉をいつどこで語ったか,という点です。”とありまして、32年と33年と違いがあるといっています。そして“2つ目は,イエスがどんな人たちに対して語ったか,という点です。”とありまして、一般の人々と11人の使徒という違いがあるといっています。それで、“この2つの違いを考えただけでも,「イエスはヨハネ 6章53節で主の晩餐で行うべきことを教えていた」という主張が間違いであることが分かります。”と言う結論です。」
「いつだれに対していったかを問題にしているけれど、JWは聖書に書かれていることを、いつだれに言ったかを全く無視して、現代のJWに当てはめるよ。なぜこの問題だけそれにこだわるのか不思議だね。一貫性がない。」
「翻訳に問題があります。英文ではThese two differences alone undermine the claim・・・ですから、間違いであると断言してはいません。」
「主張を弱める、くらいの意味でしょう。」
「主の晩餐の時、使徒しかいなかったから、飲み食いしていいのは天に行く人だけということにはなりません。この場合、使徒は信者代表のような立場で、イエスの言葉は信者全員に向けられたものと理解しますよ。でもJWだけはそう考えないわけです。」
「ルカ22:19でイエスは“このことを行っていき,私のことを思い起こしなさい。”というけれど、使徒たちだけが行えという意味ではないよ。この言葉は信者全体に向けられていて、使徒たちは信者の代表としてイエスの言葉を聞いたという設定。」
「ヨハネ6:53は主の晩餐とは無関係、そんな聖句は無視して、主の晩餐今まで通りだ、というJWの結論は最初からわかっていますが、その根拠は怪しいということですね。」
「ヨハネ6:53は、普遍的な原則でしょう。大勢の人に向かってイエスは語ったことになっている。すべての信者は、キリストとの関係の象徴として、またキリストの犠牲を思い出す手段として、飲み食いに参加するよう求められている。人間を2つの階級に分けて、天上組だけが飲み食いし、地上組はただ見ているだけなんてことはJWの奇妙な教義に過ぎない。」
「9から14節が“あなたにも関係がある”です。 人類は天上組と地上組に分かれるというJWの教義の説明です。9節では“新しい契約は全人類と結ばれるのではなく,「神の王国」に入る比喩的な「イスラエル国民」と結ばれるものです。(ヘブ 8:6,10; 9:15)”とあります。なぜかヘブライ書に跳びます。」
「イエスと新しい契約を結ぶのは144000人だけで、それ以外は無関係というのがJWの奇妙な教義。ヘブライ8:10の“エホバはこう言う。『これが,そうした時代の後に私がイスラエル国民と結ぶ契約である。”のイスラエル国民が啓示に出てくる144000人だなんて、JW以外には到底思いつかない解釈だね。」
「イスラエル国民という単語は比ゆ的に解釈するのに、144000人は文字通り解釈するなんて一貫性がないです。」
「JWはほとんどの聖句を比ゆ的と解釈し、現代のJWに無理やり当てはめるけれど、144000人は比ゆ的な数とは認めない。奇妙だね。」
「比ゆ的なイスラエル国民が144000人しかいないのは少なすぎます。」
「聖書では出エジプトの時点でイスラエル人は200から300万人いたことになっている。まだ国ができる前でもこの人数だよ。国民となればもっと多いはず。何かヘンだ、と感じて欲しいね。」
「10節では“イエスは主の晩餐の時,「小さな群れ」について述べていました。その時,イエスと一緒に部屋にいた忠実な使徒たちが,「小さな群れ」の最初のメンバーになりました。(ルカ 12:32)”とあります。こんどは“小さな群れ”です。でも引照聖句のルカ12:32は主の晩餐とは関係ありません。」
「主の晩餐で飲み食いしていいのは天に行く少数の人だけと言いたいようだけど、小さな群れが実は144000人とすると、今度は多すぎる。小さな群れと呼べるのは多くても100人以下じゃないの。」
「144000人だけが天に行き、主の晩餐で飲み食いしてよいというJWの教義を守ろうと必死なわけですね。」
「いずれ144000という数字は、比喩的な数字ですと変更されるよ。こういう記事が出るのは、JWの儀式においても飲み食いする人が増えているという問題があるからでしょう。それから元カトリックのJWから見ればJWの儀式は納得できない、聖書に反しているという意見が多いのだろう。」
「11節はヨハネ6章の話です。“むしろこの時,全ての人に永遠に生きる見込みがあることについて言っていました。こうあります。「このパンを食べる人は永遠に生きます。そして,私が与えるパンとは私の肉 であり,人類が生きるためのものです」。(ヨハ 6:51)”とあります。だからヨハネ6章は少数者のための主の晩餐とは無関係と言いたいようです。でも訳がヘンじゃないですか?」
「英文ではthe life of the worldなのに、” 人類が生きるためのもの”と訳している。へんだよ。JWなら”世の命のため”と訳して欲しい。協会共同訳では” 世を生かすために”となっている。」
「翻訳者には”世の命のため”は受け入れられなかったのでしょう。世は間もなく滅びる憎むべき対象ですから。」
「ヨハネ3:16をJWの英訳ではthe worldなのに、“神は,自分の独り子を与えるほどに人類(the world)を愛したのです。”とインチキ訳をしているぐらいだからね。滅茶苦茶だね。」
「それなのに次の3:17では“神が自分の子を世に遣わしたのは,彼が世を断罪するためではなく,世が彼を通して救われるためです。”となっています。なぜ人類としないのでしょうか?滅茶苦茶です。」
「ヨハネでは世を救うためにイエスは来たのであって、神がこの世を滅ぼすという終末思想を否定している。JWには理解しがたいので、訳も滅茶苦茶になるのだろう。」
「12節では他のクリスチャンを攻撃します。“自分はクリスチャンだと言う多くの人たちは,ただ「[イエス]を信じ」て救い主と考えるなら救われる,と思っています。(ヨハ 6:29,「聖書協会共同訳」,日本聖書協会)”とあります。突然自称・世界で一番正確な訳であるJW訳以外の訳が出てきて驚きました。」
「でもこれはインチキ引用だよ。協会共同訳では“神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。”となっている。どうしてすぐばれるウソを書くのか不思議だね。」
「英文ではKing James Versionです。欽定訳ですよ。」
「翻訳者はKing James Versionの意味が分からなくて、適当に聖書協会共同訳としたのかも。そんなことを気にするJWはいないから、ウソはばれないと思ったね。翻訳者もけっこう悪いやつだね。」
「13節で“イエスは単に人々の願いをかなえるために地上に来たのではありません。人々はイエスが教えたこと全てを受け入れ,従うことで,イエスの「もとに来る」必要がありました。(ヨハ 5:40; 6:44)”とありますが、引照聖句のどこにも“従うこと”と言う言葉は出てきません。」
「従うことが必要だと言っているのは組織だね。カルトが信者に求めることは盲目的な服従。」
「15,16節はまとめです。 16節には“「ほかの羊」と呼ばれている人たちは,毎年主の晩餐でパンを食べぶどう酒を飲むことはありませんし,そうすべきでもありません。(ヨハ 10:16)”と、間違ってもお前たちは飲み食いするなとくぎを刺しています。」
「“他の羊”が天上組以外の人類の99.9999%の、パンにもワインにもあずかることのできない被差別民のことを指していると言っているのはJWだけ。」
「この記事の影響で今年の記念式で飲み食いする人が減ったら、統治体はガッツポーズをするわけですね。」
「減らなかったら、もう統計を取るのをやめるね。」
- 聖書についての質問
- 2025年02月07日 14:19:09
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“イエスがパンを与えた奇跡から学べること(48)”で、ヨハネ6章をもとに、組織の言うとおりにしていると楽園でおいしいものがたくさん食べられるよ、という内容です。」
「少数の食料で大勢の人を食べさせたという話から、どんな教訓をJWが引き出すのか楽しみだね。奇想天外なばかばかしいこじつけがあれば面白い。」
「3から5節が“奇跡によってパンを与える”です。 3節には“そこには約5000人の男性に加え,女性や子供もいました。1万5000人分ほどの食事を用意する必要があったかもしれません。”とありますが、正しいのですか?」
「JW訳だと“約5000人の男性がいた。”とある。後でイエスは群衆によって王に担ぎ上げられそうになるけれど、5000人の男性がいればかなりの戦力になるから、その伏線ともいえる。1万5000人は単なる推測。」
「3節には“アンデレは「ここに大麦のパン5つと小さな魚2匹を持っている少年がいます。でも,これほど大勢では何になるでしょうか」と言いました。”とありますが、“小さな魚”で正しいですか?」
「ここで使われているギリシャ語はopsarionで、他の福音書ではichthus。後者を魚と訳して、opsarionを小魚と訳し分けるか、両方とも魚とするかの2つの選択肢がある。JW訳は”小さな魚”と別の単語にするわけだけど、一貫性がなく恣意的。」
「ヨハネで魚が出てくるところは21章です。21:9に“弟子たちが岸に着いた時,炭火の上に魚が置いてあり,パンもあった。”とありますが、ここで使われているのはopsarionです。なぜか小魚とはしていませんね。」
「その一つ前の21:8に“しかしほかの弟子たちは,魚でいっぱいの網を引きながら,小舟でやって来た。”とあるけれど、ここではichthus。ヨハネは魚を表す2つの単語を厳密に区別して用いていない。となると、”小さな魚2匹”ではなく”魚2匹”の方がいい。JW訳はダメだね。」
「4節では“それから,パンと魚を与えてくれたことに感謝して天の父に祈りを捧げました。”とあり、“私たちもイエスの手本に倣い,一人でいる時もそうでない時も食事の前に感謝の祈りを捧げましょう。”と言う指令が続きます。」
「4節の下には食事前に祈りを捧げている3枚の写真がある。その1枚はアジア系の女の子が学校給食の前で祈っているというもの。こんなことをしているとカルト信者と思われて、辛い思いをするからやめよう。」
「4節には“余りが出るほどだったので,イエスは無駄にしたくないと思い,かけらを集めるようにと命じます。そのようにして,後で使えるようにしたのかもしれません。私たちもイエスのように物を無駄にせず,賢く使うようにしたいと思います。”とあります。小学校の道徳の教科書みたいです。」
「これは出版物が減ったことの言い訳かも。組織はかつて大量に出版物を配布していたけれど、ゴミとして捨てられるだけだった。資金不足で出版物を減らしたのではなく、資源の無駄なので、出版物を減らしましたということにしたいのかも。」
「5節には“それで人々はイエスを「王にするために捕らえ」ようとしました。”とあります。イエスは山に去っていくわけですが、“周りからの圧力があっても政治に関わることはしませんでした。ここから私たちは大切な点を学べます。”と、JWは政治にかかわるなという話に持って行きます。」
「イエスのしたことは極めて政治的なことだよ。神の王国を語ることは現実の政治体制を否定すること。ただイエスは暴力革命のようなことを支持しなかっただけ。」
「6節で“問題を解決してくれそうな人を支持したり,その人に投票したりするようにと言われることはあるかもしれません。そのように政治に関わるよう圧力をかけられる時,イエスの手本を思い出すことができます。”と、選挙での投票禁止を指示しています。」
「イエスの時代に選挙での投票なんてないよ。ないものを禁止できるわけない。投票禁止は聖書とは関係のない、JWルール。」
「7から11節が“パンの意味”です。 7節ではマルコ6:52の“先ほどのパンの意味を把握しておらず,まだ心が鈍くて理解できなかったのである。”を引用して、弟子たちはパンの奇跡の意味を理解していなかったと言っています。」
「どうしてマルコに話が飛ぶのか不思議だね。ヨハネでは理解していないのは群衆で、弟子が理解していなかったとするマルコとは違う。」
「9節で“イエスは,人々が一時的な食欲を満たすことを一番に考えていると指摘します。”とありますが、そこまで言っていませんよ。」
「ヨハネ6:26でイエスは“はっきり言っておきますが,皆さんが私を捜しているのは,奇跡を見たからではなく,パンを食べて満足したからです。”と言っているだけで、食欲第一とまでは言っていないね。英文ではtheir priorityだから、”彼らの優先事項は・・・”でしょう。」
「10節が結論で、“「永遠の命を受け」るには,神が遣わした人に信仰を持つことが必要です。”とあります。でもこれは誤訳ですよ。英文では“God’s representative”で、神の代表者です。これは統治体を暗に言っているわけで、統治体に信仰を持たないと永遠の命はないと言いたいようです。」
「統治体崇拝をどんどん推し進めようとしているのが今の組織なのに、“神が遣わした人”と訳するとそれが伝わらないね。翻訳者はそれがわかっていないのか、統治体に逆らっているのか、どちらなんだろう?」
「11節もヘンなことが書かれています。“そして,モーセの時代には自分たちの先祖に食物となるマナを与えられたと言います。(ネヘ 9:15。ヨハ 6:31。詩編 78:24,25を読む。)人々が文字通りのパンをもらうことばかり考えていたことが分かります。”とありますが、空腹でパンを食べたがっているわけではありませんよ。」
「ヨハネ6:29には“私たちがあなたを信じられるよう,あなたはしるしとしてどんな奇跡を見せてくれますか。”とある。空腹だからではなく、イエスを信じられるようしるしを要求している。」
「ヨハネが書かれた時代のユダヤ人の間には、もしメシアが到来したら、モーセの時代と同じように天からマナが降ってきて、食べることができるという考えが広まっていたようです。それでマナの話が出てきたのですよ。」
「人々はイエスが本当のメシアかどうかを知りたかった。それで更なるしるしを欲しがっているという設定。空腹で死にそうという訳じゃないよ。」
「12から15節が“私たちにとって一番大切なこと”です。 ここからがJWに対する指令です。12節には“私たちにとって一番大切なのはエホバとの絆だということです。”とあるのですが、英文をだいぶ変えていますね。」
「エホバのとの絆ではなくour spiritual needs(霊的な必要)。この記事では食べるパンではなく霊的なパンの重要性を言いたいわけで、エホバの絆という訳の分からないことの重要性を言いたいわけではないね。」
「ここまでの記事でエホバの絆なんて一度も出てきていません。それが一番大切なものだとしたら、ここまでの記事は何だったのかと思いますよ。」
「翻訳者はそういうことまで考えて訳していない。霊という言葉は使いたくないので、エホバとの絆でごまかしたのだろう。」
「13節で“私たちはそうした物に対して正しい見方をする必要があります。”と、ぜいたくを非難しています。」
「子どもにアイスクリームを買うお金があったら、寄付しなさいという宗教だからね。ぜいたくは敵だ!欲しがりません、楽園までは、というスローガンを心に刻めということ。」
「13節で“パウロはその点について当時のクリスチャンに宛てた手紙の中で強調しました。シナイ山の近くでイスラエル人に起きた出来事について話し,「彼らのように悪い事柄を行おうとしてはなりません」と警告しました。(コリント第一 10:6,7,11を読む。)”とあります。そして“西暦70年のユダヤ人の体制の終わりが近づいていたからです。”とあるのですが、これはヘンですね。」
「コリント一10:11には“これらの出来事は,今の体制が終わる時に生きている私たちへの警告として書かれたのです。”とあるけれど、これはエルサレムの破壊によって示されるユダヤ社会の終わりを言っているわけではない。どこにそんなことが書いてあるの?今の体制が終わり、新しい神の王国が来るとパウロは素朴に信じているんだよ。」
「コリントという都市はユダヤ人の町ではなく、パレスチナから遠く離れたギリシャ人の都市ですよ。エルサレムが滅びようと関係のない都市の人に向かって、ユダヤ人の体制の終わりを警告なんかしませんよ。」
「この記事は間違いが多いね。思い込みで書いているとしか思えない。」
「13節には“私たちも今の体制の終わりが近づいているので,パウロの警告を真剣に受け止める必要があります。”とありますが、英文ではWe now live near the end of a system of things(今の体制の終わりちかくに生きている)で、正しく訳していません。終末論カルトですから、終わりが近づくなんていい加減な訳はダメですよ。」
「終わりが近いなんて恥ずかしくて言えないのだろう。終わりが近いという根拠を示して欲しいと言われたら、607、1914、重なる世代などインチキな年代や教義に触れざるを得なくなる。」
「14節は楽園幻想です。パンの奇跡と何の関係もありません。“聖書によると,神が地上に対して望んでいることの中には,みんなが上質の食べ物を楽しむことが含まれています。”とあります。パンダを撫ぜながらパンや果物を食べているイラストがあればいいのに、なにもないです。」
「結局、食べ物にこだわっているのはJW。」
「14節では“イザヤ 25章6-8節によると,神の王国の下ではたくさんのおいしい食べ物があります。また,詩編 72編16節では,「地上には穀物が豊かに実り,山々の頂でも豊作になる」と書かれています。”とあるのですが、これらの聖句はJWのいう楽園での生活を言っているものではありません。」
「イザヤ25章は25:2に“あなたは都市を石の山に,防備された町を崩れゆく廃虚にしました。外国人の塔はもはやなくなり,二度と建て直されません。”とあるように、敵の都市の壊滅を喜ぶ章。引用されている部分は、それを祝って祝宴を開いている様子を想像したというものだね。そして25章は、25:10に“モアブは自分の場所で踏みつけられる。肥やしの山の上で踏みつけられるわらのように。”とあるように、隣国のモアブの破滅を願って終わる。JWの楽園とは無関係。」
「詩編72は表題が“ソロモンについて。”とあるように、栄華を極めたとされるソロモン王の時代を理想化した詩ですよ。」
「引用されている詩編72:16の後半には“王の収穫物はレバノンの木々のように素晴らしく”とあるよ。JWの収穫物が豊かに実るということではない。」
「毎回繰り返される、文脈無視のいい加減な聖書の引用は執筆者の知的レベルの問題なのでしょうか?」
「適当に聖句を拾って、もっともらしい話を作るというのがJWが過去140年間やってきたことで、それが当然と思っているのでしょう。」
「15節は復活幻想です。“将来復活が起きる時,イエスの奇跡によってパンと魚を食べた人たちに会えるかもしれません。”とあります。パレスチナまで行ったら会えるのでしょうか?楽園では飛行機はないようですから歩いて行くのですか?」
「誰かが集会で、“復活の話を本来無関係なパンと魚の奇跡の話につなげようとした執筆者の努力に感動しました。”、とコメントして欲しい。」
「15節では“新しい世界では,復活してくる人や生まれてくる子どもたちのために,信仰を強める教育プログラムが準備されることでしょう。”とあります。楽園でも子どもは新しく生まれてくるようです。人口は無限に増えるわけですね。」
「JWの楽園では結婚もあるし、出産もあるようだ。そういうことにしたのは、結婚なし、子供なしの老いたJWでも希望を持てるようにしようという統治体の愛に満ちた温かい配慮だよ。」
「最後の16節では“次の記事ではヨハネ 6章をさらに考えます。”とあります。」
「来週はヨハネ6:53の“人の子の肉を食べず,その血を飲まない限り,自分の内に命を持てません。”を扱い、これは主の記念式とは無関係だから、記念式で飲み食いするなと言いたいようだ。」
- 聖書についての質問
- 2025年01月31日 14:35:22
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“長老として奉仕することを目標にできますか(47)”で、組織は人手不足で、今では誰でもなれるから、援助奉仕者は長老を目指しなさい、という内容です。」
「長老となるための資格について説明しているけれど、それらは努力目標ということで、組織に従順であれば誰でも男なら長老になれるみたいだね。粗製乱造された長老が将来問題を起こして、さらにJWになる人が減るという悪循環に陥る気がするよ。」
「長老という中間管理職がいないと組織が回っていかないという現実がありますからね。長老不足なら、かなり問題のある人でも長老にさせますよ。」
「数が足りていても、高齢者ばかりだと仕事はすすまないしね。能無しでも動き回れる若い長老が必要なのだろう。組織の未来は暗いね。」
「3節に“テモテ第一 3章1-7節とテトス 1章5-9節に載せられている資格を満たしている必要があります。(読む。)この記事では,長老として働く上で求められている次の3つの点について学びます。会衆の人や会衆外の人から良い評判を得ること,家族をしっかり世話すること,会衆のために進んで働くことについて考えます。”とあります。」
「よい評判が最初に来るわけだ。アメリカではJWの長老が結構逮捕されて、地元の新聞で取り上げられている。評判を気にせざるを得ないわけだ。」
「4から9節が“良い評判を得る”です。 4節ではテモテ3:7の“会衆外の人からも良い評判を得ているべきです。”を取り上げます。” エホバの証人ではない人たちに,私たちが信じていることを非難されることがあったとしても,行いや正直さの点で疑いが持たれるようなことがあってはなりません。”とあります。」
「今の長老たちの世間からの悪評を気にして、まず良い評判が長老になるための最初の基準なんだ。JWは正直でよい人という評判を何としても得たいという思いが伝わってくる、情けない文章だ。」
「それなら“私たちが信じていることを非難されることがあったとしても”と言うのも情けない態度です。JWの“真理”と称する教義を正当化する努力を初めから放棄しているように見えますね。」
「今さら奇妙でおかしな宗教という評判は覆せないというあきらめじゃないの。それでおかしな宗教ですが信者は正直でよい人という評判をえて、マイナス評価を少しでもプラスの方に持って行こうという、よい人アピール作戦だ。」
「戸別訪問という迷惑行為をやめたら、多少評判はよくなると思います。」
「それでカート奉仕に変えているんでしょう。」
「6節が“人をよくもてな[す]”なんですが、“人をよくもてなす人は,巡回監督や訪問講演者といった,仲間のために一生懸命働く人たちや,経済的に厳しい状況にある人など,いろいろな人のためにできることを行います。”とあります。力点は巡回監督をもてなせ、ということですね。」
「6節の下の写真の説明は“人をよくもてなすクリスチャンの夫婦は,旅行する監督と妻を温かく迎える。”というもの。巡回監督をお金をかけてもてなさないと、長老には任命されないよと教えてくれている親切な文章だ。」
「7節が“お金を愛さ[ない]”ですが、お金に執着せず、巡回監督のおもてなしにお金を惜しまず使いなさいということですね。」
「逆にいうと、もてなすお金のない人は長老に任命されにくいということだ。結局、JWでもお金は大事だね、というわけだ。」
「9節が“「健全な考え方をし」ている人”なのですが、これは訳がヘンじゃないですか?協会共同訳では“慎みがあり”ですよ。」
「この単語は新約の中では2回しか出てこない超レアな単語で、意味を確定しづらい。もう一か所は同じテモテ一2:9で“女性は,慎みと健全な考え方が表れた,きちんとした服装をすべきです。”というもの。」
「テモテ一2:9は服装について言っていますから、” 健全な考え方が表れた”という訳はおかしいです。派手過ぎないきちんとした服装をすべきというだということですよ。」
「服装が考え方を表すものだという思想は古代にないでしょう。それはいかにも現代的だね。時代を無視するのがJW訳だ。協会共同訳では“女は折り目正しく、控えめに慎み深く身を飾りなさい。”となっている。」
「テモテではテモテにしか出てこない特殊な単語が結構ありますよ。テモテはパウロが書いたことになっていますが、パウロの書簡と語彙の点で違いすぎます。」
「テモテとテトスは牧会書簡というのだけれど、この中で使われている単語は個人名を除くと848種類で、そのうち306は他のパウロの書簡には一度も出てこない。ところがそれらは2世紀のキリスト教関係の文書にはよく出てくるものなの。牧会書簡の作者はパウロではないし、書かれた時期は2世紀頃と推定されている。」
「10から12節が“家族をしっかり世話する”です。 家族全員がよいJWでなければ長老になれないようです。家族を強圧的に管理統制することを求めています。11節には“父親であるなら,未成年の「子供をよくしつけて従わせているべきです」。”とあります。」
「子どもの人権など認められず、奴隷がたくさんいた社会のルールを現代に適用すると、子どもの虐待という問題が生じる。しつけと称して子どもに宗教を強制するのは現代では犯罪的な行為でやめよう。」
「12節には“「ものみの塔」1996年10月15日号21ページ6-7節を参照。)”とあり、そこには“長老の家庭に未成年の子供が幾人かいて,その子供たちが次々に霊的な面で病気になって問題を抱えるとしたら,その長老はもはや「自分の家の者をりっぱに治め……ている人」とみなされないかもしれません。”とあります。あいまいな書き方ですが、子どもがJWの勉強を拒否するとか集会に来ないと、その父親は長老になれないようです。」
「そういうわけで、何としても長老になりたい父親は子どもたちを無理やり信者に仕立て上げようとするわけだ。嫌がる子どもには体罰が吹き荒れるね。宗教という虐待だ。」
「そういえばテモテ一3:3には“暴力を振るわず”とあるのに、この記事では触れられていません。」
「これは不都合と思って、無視したね。恣意的な引用はJWらしくていいじゃないか。」
「ここでは触れられていませんが、子供が大学に進学すると、長老を下ろされることもあります。家庭をよく治めていないということのようです。」
「それは国によってかなり違うようだ。それって聖書に関係ない規則だからね。ヨーロッパでは普通に大学に行く国が多いようだ。日本や韓国では子どもは大学に行かせないというルールが徹底しているようだ。アメリカは地域差が大きいみたい。」
「長老マニュアルの40ページに“長老や援助奉仕者の資格の再検討が必要かもしれない状況”の中に“30. 本人や同居している家族が高等教育を強く望んでいる場合”がありますよ。」
「それを柔軟に解釈する地域と厳格に解釈する地域があるということ。多くの人が大卒なら、子供が大学に進学する度に長老から降格させていたら、長老の成り手がいなくなる。」
「13から16節が“会衆に仕える”です。 13節が“分別があ[る]”ですが、具体的には“長老になったなら,会合に参加する機会があります。そういう時,聖書に書かれていることに反していない限り,大多数の人の意見を進んで支持するでしょうか。”とあります。これがJWの分別のある態度のようです。」
「大した証拠もないのに排斥という意見が多数なら、冤罪と思っても排斥に賛成しなさいということだね。長老の多数を握れば、やりたい放題のことができるのがJWの会衆のようだ。それで数ある会衆の中にはカルトの上を行くスーパーカルトみたいな会衆がどうしても出現する。」
「14節に“長老に任命されるためには,イエスのように謙虚な人になり,エホバから与えられるどんな割り当ても喜んで果たすことが大切です。”とあるのですが、サギ的な文章です。」
「エホバは割り当てなんか与えない。与えているのは会衆の長老でしょう。愚かな人間と神を混同させようとしている。」
「16節は“神の信頼できる言葉にしっかり従[う]”ですが、これはテトス1:9の“神の信頼できる言葉にしっかり従った教え方をしなければなりません。”からの引用ですが、訳がヘンですよ。」
「JW英語訳はholding firmly to the faithful word as respects his art of teachingなので、神の信頼できる言葉ではないよね。しかも力点は信頼できる言葉に従うで、教えることではない。」
「協会共同訳では“教えに適った信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。”です。」
「そういう意味だよ。」
「テトスへの手紙が書かれた時代にはまだ新約聖書は成立していません。ここで言う信頼できる言葉は聖書のことではないですよ。」
「強いて言うなら、パウロや使徒の言葉という意味でしょう。そこから外れたいい加減なことを教えるな、と言っているわけだけど、JWの日本語翻訳者はわかっていない。」
「16節で“聖書や聖書に基づく出版物を真剣に学びましょう。”と言っています。JWの出版物は聖書並みの権威があるわけで、カルトらしいですね。」
「翻訳者はそういわれることを気にしているね。英文では“our publications”で私たちの出版物とあるだけ。それなのに“聖書に基づく出版物”と勝手に言葉を付け加えている。」
「聖書を学んでいるという幻想を維持させるためですね。」
「JWの長老なんだから、聖書ではなく、607とか1914という年代の根拠とか、重なる世代の意味や誕生日を祝うことがなぜ悪なのか、などのカルトの教えを熱心に学べばいいんじゃないの。」
「最後の17,18節が“努力を続けてください”です。 17節に“でも,エホバもエホバが導いている組織も完璧であることを求めてはいない,ということを忘れないでください。”と、急にトーンダウンです。あれこれ基準を述べたけれど、真剣には受け取る必要はないよ、と言っているようなものですね。」
「長老が不足しているという現実に合わせる必要があるからね。実際の宗教組織を運営するには聖書なんか考慮してられないことがしばしばある。」
「17節の下の囲み記事には“兄弟たちの資格に関して考慮する時,長老たちは分別を示し,「正しさにあまりにこだわ」らないように気を付けます。”とあります。もっと基準を緩めろという組織からの指示ですね。」
「“分別を示し”とあるけれど、JWの分別とは原理原則にこだわるな、空気を読め、長いものに巻かれろ、といった態度のことを指すようだ。」
「衰退する組織は人材が流出するだけで新しい人は集まらず、それが衰退を早め、さらに人材が集まらないという悪循環に陥ることがよくわかります。」
「その場合、集まる人材はそれ以前より相当質が落ちる人材となるわけで、衰退に拍車がかかることになる。十代の援助奉仕者、二十代の長老が多くなると、JWも末期的だ。」
「最後の18節では“援助奉仕者の兄弟たち,努力を続けてください!”とあります。援助奉仕者には長老を目指すようますます圧力が高まるということですね。」
「船長にしてくれると言われても、それが沈む船ならはさっさと逃げるよ。援助奉仕者はいかに援助奉仕者をやめるかを考えよう。」