- ホーム
- » 総合フォーラム
- » アブラハムの神の限界
- » 返信
返信
トピックレビュー(最新表示)
- 聖書についての質問
- 2025年05月16日 14:23:58
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバとイエスに倣った考え方をする(10)”で、ペテロの話を取り上げて、信者にあれこれ要求するという内容です。」
「この記事は特に退屈だね。ウソくさい体験談もでてこない。」
「1節に“「あなたは,心を尽くし,力を尽くし,知力を尽くし,自分の全てを尽くして,あなたの神エホバを愛さなければならない」。(ルカ 10:27)イエスはこれがモーセの律法の中で一番大切なおきてだと分かっていました。”とあるのですが、この訳はヘンですよ。」
「英文ではwith your whole heart and with your whole soul and with your whole strength and with your whole mind(心をこめ、魂をこめ、力をこめ、全ての精神をこめて)とあるのに、“魂”を省略して、“知力”に変えている。日本版JWでは魂soulは受け入れられないようだ。」
「魂は元のギリシャ語ではpsuchéですが、どんな意味ですか?」
「ギリシャ語では感情、欲望、意志を含む人の本質を指す。また体を動かす生命力を指すこともある。感情、欲望、意志を生み出す非物質的なものでもある。」
「ルカ10章では、それが一番大切なおきてとは言っていません。そう言っているのはマタイとマルコです。いいかげんな記事です。」
「マタイ22:37,38とマルコ12:29,30だね。ルカでは神への愛と隣人愛が共に重要と言っていて、序列を付けていない。細部がテキトウなのは執筆者の能力が不足しているのか、やる気がないのか、その両方なのか。」
「5から8節は“エホバの考え方に倣う”です。 人類大虐殺の考え方に倣うのかと思ったのですがそうではなく、マタイ16章にあるペテロの失敗を取り上げてます。」
「イエスが自分の死について話したら、ペテロが余計なことを言って、イエスからマタイ16:23で“私の後ろに下がれ,サタン! あなたは私の邪魔をしています。神の考えではなく,人間の考えを抱いているからです。”と叱られる場面ね。」
「この訳は問題がありますよ。神の考えなど人間にわかりません。神と同じような考えをすることはできません。あまり冴えてるとは言えないイエスの弟子たちには無理ですよ。」
「JW訳は自分たちの都合に合わせた訳だからね。協会共同訳では“神のことを思わず、人のことを思っている。”となっている。」
「それから“私の後ろに下がれ”もヘンです。マタイ16:23は“しかし,イエスはペテロに背を向けて言った。「私の後ろに下がれ,サタン!・・・”というものです。協会共同訳では“イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。・・・”です。」
「イエスはペテロに背を向けたのかというと、元のギリシャ語は向きを変えたという意味で、そうはいっていない。イエスはペテロをしかるわけだから、ペテロの方に向きを変えたと考えるのが自然。そうすると、私の後ろに下がれではなく、引き下がれになる。」
「7節では“やがて,ペテロは自分の考えをエホバの考えに合わせられるようになりました。”とあります。具体的には“ペテロは,異国人のコルネリオの所に行って真理を伝えるようにと指示されます。ユダヤ人は異国人とはほとんど交流を持たなかったので,ペテロはこの指示に従うために考え方を大きく変えなければいけませんでした。神がどんなことを願っているのかを理解すると,ペテロは考え方を調整しました。”というものです。」
「これは最近組織が次々と調整という名の変更をしていることに対して文句を言うな、というメッセージだね。日ごろから、どんな理不尽な命令が来ても黙って従うように信者を訓練している。」
「8節がカルト的で恐ろしいです。“後に,ペテロは当時のクリスチャンに「同じ考え方」でいるように勧めました。(ペテロ第一 3:8と脚注を読む。)”とあります。全ての信者が同じ考えを持つよう要求していますが、この聖句は異論や疑問を許さない全体主義的な宗教を目指すものではありません。」
「引照聖句には“一致した考え”とあるだけ。その脚注に“または,「同じ考え方」。”とある。この脚注の訳は無理があると考え採用しなかったんでしょう。次の改定では全体主義的宗教を目指して“同じ考え方”に変更されるかもね。そのときは“一つの神、一つの考え、一つの統治体”が組織の標語になるよ。」
「協会共同訳では“皆思いを一つにし”と訳していますね。」
「元のギリシャ語は“志を同じくする”と言う意味。同じ目標を持って頑張ろう、という意味でしょう。全員が同じ考えを持つことまでは意味していない。」
「8節には具体例が出ています。“全時間奉仕を始める人が会衆にいるとします。(マタ 6:33)そのような人に,「そんなに頑張らなくていいんじゃない?」などとは言いたくありません。むしろその人を褒め,できるだけサポートしたいと思います。”とあります。」
「全時間奉仕を始めようとする人に対してそのリスクやデメリットをアドバイスする親切な人がいるということだね。でも、そんなことは止めろということね。JWではむしろ、もっとやれやれ、死ぬまでやれ、とはやし立てるのが愛ある態度なんだ。」
「9から12節が“謙虚でいる”です。 JWでは統治体以外にはやたらと謙虚さが求められます。9,10節でヨハネ13章にあるイエスが弟子たちの足を洗った話が出てきます。11節にはペテロは足の不自由な人を癒したけれど、自分の手柄にしなかったという話が出てきます。ペテロは謙虚な人になったようです。」
「そのペテロの話は使徒3章にあるけれど、福音書ではダメな男だったのに、使徒になると理想的な弟子に変身するのが面白い。ペテロは使徒の代表として取り上げられているだけで、歴史上のペテロとはほとんど関係ないと思うよ。」
「使徒ではペテロやパウロが長々と説教する場面がありますが、あれは使徒の作者が創作したものですよ。」
「当時はメモをする習慣なんかないから、ペテロが活躍していた何十年も後に書かれた使徒の作者がペテロやパウロの説教を知っているわけはない。」
「12節には“私たちが人のために何かをするのはエホバと仲間を愛しているからです。”とあります。JWの愛はJW限定だとわかります。」
「元の英文ではwe love Jehovah and we love peopleとあり、仲間ではなく“人々”を愛しているだよ。仲間限定の愛は日本版JW。翻訳者はJW以外の人間は間もなく滅ぼされる人間なので愛の対象ではないと考えているね。」
「13から17節が“「健全な考え方」をする”です。 これはペテロ一4:7の“全てのものの終わりが近づいています。ですから,健全な考え方をしましょう。また,祈ることを常に意識していましょう。”からの引用ですが、この訳はヘンじゃないですか?」
「後半の部分の協会共同訳では“思慮深く振る舞い、身を慎んで、よく祈りなさい。”となっている。この文には“祈る”という動詞はなくて、別の動詞が2つある。初めの動詞は、古代ギリシャの倫理学用語で感情と欲求が理性と調和するという意味。2つ目の動詞は文字通りではしらふでいるという意味で、そこから感情を適切に制御するという意味が派生した。」
「ペテロ一4:3には“かつて皆さんは,恥知らずな行い,激しい欲情,飲み過ぎ,ばか騒ぎ,飲み比べ,忌まわしい偶像崇拝にふけっていましたが”とあります。要するに、こういうことはするなということですね。」
「終わりが近いから、特にそうしなさいということだけど、もうこれが書かれてから2000年近くたったね。」
「13節で、JWの考える健全な考え方とは何か説明しています。“エホバの考えに沿った決定ができるようにベストを尽くします。また,エホバとの絆を何よりも大切にします。”とあります。ここで言うエホバとは組織のことですよ。要するに組織の命令に盲従するのが健全な考え方のようです。」
「聖書が書かれた時代にはJWのような中央集権的な組織は存在していなかったから、組織に盲従することが健全な考え方という思想はもちろんない。」
「14節には、マタイ26章にあるペテロがイエスを知らないと否認した話が出てきます。“イエスは弟子たちにこうアドバイスしました。「ずっと見張っていて絶えず祈り……なさい」。(マタ 26:31,33,41)このアドバイスの通りにしていれば,ペテロは自分がイエスの弟子であることを勇敢に認めることができたはずです。”とありますが、違うでしょう。」
「マタイ26:34で“イエスは言った。「はっきり言いますが,今夜,おんどりが鳴く前に,あなたは3度,私を知らないと言います」。”とあるよ。ペテロの否認はこの時点で確定したんじゃないの?人間の努力でイエスの予言を覆すことができるとJWは考えているのかな?もしそうなら聖書の予言は人間次第で成就したり、しなかったりするような性質のものになるけれど、これはJWにとって不都合でしょう。」
「16節では“やがてペテロは,祈ることによってもっとエホバに頼るようになりました。”とあります。イエスが天に行った後、“ペテロは何をしていましたか。仲間のクリスチャンと「ひたすら祈り続け」ていました。(使徒 1:13,14)”とあるのですが、これは何を祈っているのですか?」
「そこには“皆,思いを一つにしてひたすら祈り続けた。”とある。もとのギリシャ語では“祈り”の前に定冠詞がついている。英語でいえばthe prayerで、何か特定の祈りをしていたことがわかる。」
「使徒1:5で、イエスは“あなたたちは何日もしないうちに聖なる力でバプテスマを施されます。”と言っています。そのことを祈っていたのじゃないですか?」
「ペンテコステの日に、使徒2:4で“皆が聖なる力に満たされ,さまざまな言語で話し始めた。”とある。1章で祈っていたことが2章で実現したというストーリ展開かもしれない。」
「17節では“祈ってエホバに導いてもらうことが大切です。”とあります。その下に“仕事の面接の順番を待っている姉妹が無言で祈っている。”と言うイラストが出ています。祈れば就職できますか?JWは職場では評判が悪いことが多いですよ。」
「JWのように低学歴で何の資格もない人がいくら祈っても、高学歴でいろいろな資格を持っている人が採用されるでしょう。最低賃金しかもらえない応募者がほとんどいない職場だと祈りは効果があるかも。」
「最後の18節はまとめで“私たちもペテロのように成長していけます。神の考えに倣い,謙虚でいるようにし,健全な考え方をすることによってです。”とあります。でもJWは成長しませんよ。ものみの塔の記事だって同じことを繰り返しているだけです。永遠に小学4年生をやっているようなものです。」
「英文には“成長していけます。”とは書いていない。we can become more attuned to Jehovah’s way of thinking. (エホバの考え方にもっと合わせることができます)とあるだけ。JWが成長するなんて、執筆者は思っていない。むしろ成長したら困ると思っているよ。」
- ゆずポン
- 2025年05月10日 18:46:34
あなたは自分の罪を悔い改めて転向し,エホバ神のみ前で,自分が有罪の宣告を受けた,救いを必要とする罪人であることを認め,またその救いはみ子イエス・キリストを通して,父なるエホバからもたらされるものであることを認めていますか。
神と,救いのための神の備えとに対するそうした信仰に基づき,神がイエス・キリストを通して,また啓発を与える聖霊の力のもとで聖書を通してあなたに啓示してくださるところに従って,これからは神の意志を行なうべく,神に無条件で献身しましたか。
これが1985年以前のエホバの証人の、バプテスマの質問です。
ここでは「啓発を与える聖霊の力のもとで聖書を通してあなたに啓示してくださる」ことに対する信仰が求められています。
もともと彼らは、神が聖霊のもと聖書を通して個人個人に啓示を与えると理解していました。そこに「組織」などという表現や考えはありません。
あなたは,イエス・キリストの犠牲に基づいて自分の罪を悔い改め,エホバのご意志を行なうため,エホバに献身しましたか。
あなたは,献身してバプテスマを受けることにより,自分が,神の霊に導かれている組織と交わるエホバの証人の一人になることを理解していますか。
これが現在も採用されている、変更された質問の内容です。そもそも2番目の質問は必要でしょうか?
エホバの証人の大会に出席しバプテスマを受けようとしているその人は、自分がエホバの証人の一人になることは理解しているはずです。
では2番目の質問は何を意味するのでしょうか。
この質問の肝は、エホバの証人の組織を、神の聖霊に導かれていると信じ受け入れることを表明させるということでしょう。
この質問では肝心な聖書に触れてすらいません。重要なのは「組織」なのです。
自分は神エホバに献身したのだと、純粋なエホバの証人は考えているのでしょうが、実際には組織に対する忠誠も誓っていたのです。
この質問に肯定の答えをした人は、組織がどれだけ聖書からかけ離れた見解を述べているように思えたとしても、それに疑問を差し挟んだりすることはもはや許されていないのです。だからこそ、理解できない奇妙な教えがあっても「エホバを待つ」などという姿勢を取るしかないわけです。
公然と非難したり反抗したりする人は、一度バプテスマの際に宣誓したその誓いを破っていると見なされ(残念ながら実際に破っていることになるでしょう)、背教やら排斥やら断絶やらと理由をつけて徹底して排除されてきたのです。そこに「聖書的な裏付け」などほとんど関係ありません。
なぜこの質問のおかしさに気付けなかったのか、今でも後悔しています。
- 聖書についての質問
- 2025年05月09日 14:26:27
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“バプテスマを受けるのをためらわないでください(9)”で、さっさとバプテスマを受けて、組織のためにタダで働け、という内容です。」
「今どきバプテスマを受ける人といえば、周囲の圧力に負けたJWの子どもでしょう。今以上に圧力をかけろということだね。その圧力に負けることなく、バプテスマは受けないで欲しい。」
「1節で“バプテスマを受けると,エホバの家族の1人になり,エホバのものになります。”とありますが、意味するところは、バプテスマを受けると、カルトの一員となり、カルトの所有物になるということですね。」
「英文では“エホバのものになります。”とカルト的なことは書いていない。神に属するものとなる、と言っているだけ。その根拠として旧約聖書からの引照聖句が2つ出ているけれど、全く無関係。旧約聖書にはバプテスマは出てこない。」
「3から6節が“サマリア人”です。 使徒8章にあるサマリア人のバプテスマの話です。4節が“バプテスマを受けるためにサマリア人はどのように問題を乗り越えたか。”で、フィリッポによるサマリア人への伝道の話を取り上げています。」
「使徒8章の始まりはエルサレムで迫害がおこり、使徒たちが各地に散っていったというもの。まずサマリアの話が出てきて、次にガザでエチオピアの宦官がバプテスマを受けるという話が出てくる。福音が広まる様子を描いた章。」
「4節にはサマリア人が“フィリポが病気を治したり邪悪な天使を追い出したりするのを見て,確かにエホバから力を与えられているということを認めました。(使徒 8:7)”とあります。“邪悪な天使”は間違いですよ。」
「英文ではdemonsで、悪霊でしょう。翻訳者は霊が嫌いなので、邪悪な天使に変えている。天使は人間に乗り移るなんて聖書のどこかにかいてあった?日本版JWは非常に奇妙な宗教だ。」
「5節では、サマリア人が“男性も女性もバプテスマを受けた”とあります。病気がたちどころに治るという奇跡をみたら、すぐ信じますよ。なぜエホバは今もそういうことをしないのか不思議です。」
「JWは輸血を禁止して、病気の人を治すどころか死なせているから、新しくバプテスマを受ける人が少ないわけだね。」
「5節では、まだバプテスマを受けていない人に対して問いかけています。“あなたは聖書に書かれていることが真理だと確信していますか。エホバの証人が偏見を持つことなく,誠実に愛し合っている様子を見てきましたか。本物のクリスチャンの証拠である,心からの愛を表そうと努力していることを確信していますか。”です。答えは全て“いいえ”ですね。JWは律法主義的な愛のない組織として知られていますよ。」
「JWでは聖書について学ぶことはない。組織の教えを学ぶだけ。それを聖書の教えと呼んでいるだけ。しかも組織が引用する聖書は組織の都合に合わせて訳された聖書。」
「JWの間には偏見はありますよ。アメリカではJWは白人の宗教で、アフリカ系や中南米からの移民に対する偏見が公然と示されることがあるとされています。」
「アフリカ系のJWは髪形などを白人風にすることを求められて、それに従わないとイジメられる。」
「6節がドイツのルベンの体験談です。“ルベンは「あなたのことを気づかう創造者がおられますか」の本を使って学ぶことにしました。その本を読んで衝撃を受け,「エホバは本当にいるんだ!」と思いました。世界本部に見学に行ったことからも良い感化を受けました。世界中の兄弟姉妹が心を一つにしてエホバに仕えている様子に感動し,本当にすごいと思いました。ルベンはドイツに帰ってから17歳でバプテスマを受けました。”というものです。今頃は開拓者で長老になっているはずですね。」
「だまされやすい若者だね。組織はこういう単純な若者を望んでいるということだ。20歳になったらJWのおかしさに気づくでしょう。」
「“あなたのことを気づかう創造者がおられますか”は一見科学的なことが書かれているだけで中身はいいかげんなものです。」
「そうだね。例えば、その本の第2章に“もう一つ重要な点は,太陽を回る地球の道筋です。彗星は横長の楕円状に動きます。幸いなことに,地球はそうではありません。その軌道はほぼ円形です。ここでもわたしたちは,致命的な甚だしい寒暖の差を免れているのです。”とある。爆笑もの。中学生以下のレベル。」
「地球の周回軌道は楕円です。近いときと遠いときでは500万キロも違います。10万年周期で楕円は伸び縮みを繰り返し、長い楕円のときは氷期になるわけです。そのときは人間にとって最適な環境じゃありません。人間を愛する創造者が地球を造ったとは思えません。」
「軌道が円形だから甚だしい寒暖の差がないわけじゃないよ。この本の作者は、地球が太陽に近づくと夏、離れると冬になると思っているようだけど、地球が太陽から最も離れるのは7月ごろで北半球では夏だ。寒暖の差があるのは地球が傾いているから。現在は23.4度ほど傾いているけれど、少しずつ動いていて13000年後には反対側に傾き、季節が入れ替わる。JWは科学的なことには滑稽なくらい無知だね。」
「6節には“あなたも聖書や神について学んだことを信じ切れないでいるなら,そのままにせず,調査してください。”とありますが、英文ではface them by doing research in our publications.(私たちの出版物を調べてその疑問と向き合ってください。)です。調査してよいのは、組織の出版物限定なのに、日本語訳ではごまかしています。」
「カルトらしさを薄めたかったんだろう。カルトの特徴は情報の制限だからね。広くいろいろな資料をしらべれば、組織の言っていることはたいてい間違いだと気づく。」
「7から10節が“タルソスのサウロ”です。 サウロことパウロがバプテスマを受けた話です。7節にいいことが書いています。“サウロはクリスチャンを激しく迫害しました。しかも,自分のしていることは神の考えに沿っている,と思い込んでいました。”とあります。今のJWみたいですよ。」
「JWは排斥とか忌避とかしているけれど、神の考えに沿っていると思い込んでいる。自分たちはサウロと同じことをしているかもしれないと、少しは反省して欲しいね。」
「8節は“バプテスマを受けるためにサウロはどのように問題を乗り越えたか。”です。“使徒 22:12-16を読む。”とあり、そこには、サウロは失明したのですが、アナニアという人が現れて、目を見えるようにしたあと、バプテスマを受けたということが書かれています。アナニアのおかげですね。」
「このアナニアは、使徒22:12では“神を畏れて律法を守る人で,そこに住む全てのユダヤ人から良い評判を得ていました。”とある。ユダヤ的な意味で尊敬できる良い人ということ。そういう人だったのでユダヤ的信念に基づいてイエスの弟子たちを迫害していたサウロもアナニアの言うことを受け入れることができた。」
「得体の知れない怪しげなカルト信者にバプテスマを受けるように言われても、受ける気がしませんからね。」
「JWも普通の人からみて尊敬できる良い人にならないと、新しくバプテスマを受ける人を見つけるのは困難だということを学び取って欲しいね。」
「8節の下に、パウロがバプテスマを受けるというイラストがあるのですが、服を着たまま水に入っています。これはヘンですよ。」
「2世紀に書かれた本によると、女性と男性が分かれて、裸で水の中へ歩いて行って、水の中でひざまずき3度水をかけられたようだ。水の中に入るのだから服は脱ぐよ。」
「水をかけるだけになったのはどういう理由ですか?」
「キリスト教は北方にも伝わって行ったけれど、北ヨーロッパでは水が冷たすぎて、水の中に入るのが危険視されて、水をかけるだけの灌水礼が普及した。その辺は柔軟に対応したということでしょう。」
「9節に“バプテスマを受けてエホバの証人になると,あなたも大変なことや試練にぶつかるかもしれません。でも大丈夫です。どんなときでもエホバとイエスが必ず支えてくれます。(フィリ 4:13)”とありますが、違和感だらけの文です。引照聖句では“力を与えてくださる方のおかげで,私は強くなり,どんなことも乗り越えられます。”とありますが、これはイエスのことを言っています。またパウロは自分のことをエホバの証人だと言ったことは一度もありません。パウロはエホバの証人ではないです。」
「使徒22:15で、パウロはアナニアから“あなたはイエスの証人となり,見聞きした事柄を全ての人に伝えるからです。”とある。パウロはイエスの証人でエホバなんか知らないよ。」
「使徒22:16には“バプテスマを受け,イエスの名を呼んであなたの罪を洗い去りなさい。”とあります。バプテスマは罪を洗い流す効果があると信じられていたということですか?」
「そのとおり。バプテスマはそれ以前の罪を洗い流すと信じられてので、初期の頃はバプテスマをできる限り先延ばしにして、それまでにあらゆる罪を犯したり、死ぬ直前までバプテスマを延期するズルい人がけっこういたようだ。JWも倣ってもいいかも。」
「10節が体験談です。アンナはバプテスマを受けたのですが、“アンナは親戚からばかにされたり,ひどい扱いを受けたりしました。”というものです。アンナは“エホバが私を強くしてくれました。お父さんとお母さんもいつも支えてくれました。”と言っています。もっとインパクトのある話はなかったのですか?両親が支えてくれるのなら、親戚の嫌がらせなんか大したことないですよ。」
「これでも相当盛っているよ。親戚から嫌味を1回言われたことを“ばかにされたり,ひどい扱いを受けたりしました。”と被害者ぶって言っているような気がする。」
「11から14節は“コルネリオ”です。 11節に“コルネリオはローマの軍隊で約100人の兵士を率いる「百人隊長」でした。(使徒 10:1,脚注)”とあります。そして“コルネリオは自分の高い地位を失うことを恐れてバプテスマをためらったでしょうか。”とあります。これはヘンですね。ローマ軍はJWみたいな排他的な組織じゃありませんよ。」
「異邦人でクリスチャンになったのはコルネリオが最初。コルネリオの前にバプテスマを受けてローマ軍をクビになったという人はいない。だからコルネリオがそんなことを恐れる理由もないよ。」
「12節は“バプテスマを受けるためにコルネリオはどのように問題を乗り越えたか。”で、めでたく“コルネリオも家族もキリストに信仰を持ち,すぐにバプテスマを受けました。(使徒 10:47,48)”とあります。」
「バプテスマの前に奇妙な出版物を学べとか集会に参加して伝道しなさいといわれなかったことをJWとしてはどう思うのか知りたいね。」
「13節では“あなたも生き方を大きく変えなければいけないでしょうか。そうだとしても,エホバが必ず助けてくれます。”とあります。コルネリオはその後生き方を変えたのですか?」
「コルネリオの話はバプテスマを受けたところで終わる。その後については何も書かれていない。またバプテスマを受けるために,生き方が変わってもエホバが助けるなんて、引照聖句がないことからわかるけれど、聖書のどこにも書いていない。」
「14節が日本人の強の体験談です。“日本の強がバプテスマを受けるのにネックになっていたのは,仕事でした。強は生け花の流派の1つ,池坊の家元の助手として働いていました。家元の代わりに強が仏式の葬儀に参列することもよくありました。”とあります。これは事実をゆがめていませんか?」
「強のバプテスマを妨げているのは仕事じゃなくて、会衆の長老でしょう。仕事に難癖をつけて、バプテスマを受けさせなかったんじゃないの?」
「その後“死に関する聖書の教えを知って,そのような式に出席し続けることはできないと気付きました。(コリ二 6:15,16)”とあります。葬式に花が飾られることは普通ですけれど、花を飾った人が葬式に参列しなくてはならない、なんて聞いたことはありません。」
「花を飾ったら、それで仕事は終わりじゃないの?葬式の花を飾るのに特別な資格は必要ないから、わざわざ生け花の家元に葬式の花飾りを頼む人は少数じゃないの?他のJWの体験談と同じようにウソくさい。」
「引照聖句のコリント二6:15,16には異教の葬式に出るなとは書いていません。」
「そこには“クリスチャンはクリスチャンではない人と何を共有するのでしょうか。”とあるけれど、元のギリシャ語にはクリスチャンなんて言葉は出てこない。協会共同訳では“信者と不信者とにどんな関係がありますか。”となっている。これを拡大解釈して、あれもこれもダメとして、信者に負担を強いるのがJW。」
「この体験談の結論は“あなたも仕事がネックになってバプテスマをためらっていますか。もしそうなら,エホバがあなたと家族を養ってくれるということを忘れないでください。(詩 127:2。マタ 6:33)”というものです。これはウソですね。」
「多くのJWが生活保護をもらっているとか、極貧のうちに死んだ、という話をよく聞くけれど、エホバが養ってくれたという話は聞いたことないね。アメリカのベテルを解雇されて、無一文で追い出され、ベテルの近くの公園のベンチで凍死したJW だっていたはず。エホバは何もしてくれない。」
「15から18節が“コリントの人たち”です。 15節にはコリントの人たちは“お金を愛し,道徳的に乱れた生活をしていました。”とあり、16節は“バプテスマを受けるためにコリントの人たちはどのように問題を乗り越えたか。(コリント第二 10:4,5を読む。)”で、この答えは“コリントの人たちは神の言葉と聖なる力によって,生き方を大きく変えることができました。”です。JWにはその両方ないので、生き方は変えられないということですね。」
「JWには無意味な禁止事項が色々あるから、それを守れそうもない人はバプテスマを受けるはやめよう、ということだね。その方がよい人生を送れるよ。」
「17節がモニカの体験談です。“バプテスマを受けるためにやめなければいけないことがありました。汚い言葉遣いや良くないエンターテインメントです。”とあります。“祈ることが大きな力になりました。”とあります。祈れば解決するようです。もっとインパクトのある悪い習慣についての体験談はなかったのでしょうか?」
「JWが話題にするのが大好きな性的な悪い習慣を取り上げて欲しかったね。毎日○○をしていましたが、祈ることでやめることができましたとあればインパクトは大きいのに、残念。」
「最後の19,20節が“あなたの信仰は山も動かせる”です。 19節にはマタイ17:20を取り上げて“弟子たちが信仰を育んでいけば,山のように大きな問題も動かせるようエホバが助けてくれることを保証しました。”とあります。信仰があればどんな問題も解決するようです。」
「それは文脈無視だね。これはマタイ17:19で弟子たちが“なぜ私たちは[悪霊を]追い出せなかったのでしょうか”とイエスに質問したことの答え。同じ弟子たちの質問に対してマルコ9:29では“この種のものは,祈らなければ追い出せません”と答えている。」
「悪魔祓いを弟子たちはうまく行ってきたのに、なぜか失敗した。それでその理由をイエスに尋ねたという話の流れですね。」
「その能力はマタイ10:1で“イエスは12弟子を呼び寄せ,邪悪な天使に対する権威を与えた。それらを追い出し,あらゆる病気や不調を治すためである。”とあるように、イエスによって与えられたもの。それなのにうまくいくことが続くと、それは自分自身の力だと誤解するようになり、失敗すると驚くわけだ。そういう弟子たちに与えられた言葉。バプテスマとは関係ない。」
「最後の20節では“エホバに献身しバプテスマを受けるという,人生で最高の決定ができる”とあります。「最高の決定」とか「最高の人生」という言葉を根拠なく安易に使う人はまず詐欺師ですよ。」
「この記事全体が詐欺的なことは間違いないね。」
- 聖書についての質問
- 2025年05月02日 14:33:27
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバに倣って人を許す(8)”で、自分のことを傷つけた人を許そう、という内容です。」
「許しの3つのステップが出ている。許すことに熱心だけれど、犯罪を防ぐことや犯人を処罰することには無関心なのがJWで、犯罪者には居心地の良い宗教だね。」
「1、2節はデニース姉妹の話です。“2017年にデニース姉妹と家族は新しく完成したエホバの証人の世界本部を訪れました。そこから車で家に帰る途中,事故に遭ってしまいました。コントロールを失った車が姉妹たちの車にぶつかってきたのです。”というものです。エホバはまじめな信者を守ってくれないということです。」
「子どもは重傷を負い、夫は死亡したとあるね。悲惨な事故だ。天使は何をしていたの?」
「1節には“ぶつかってきた車の運転手は酔っていたわけでも不注意だったわけでもありませんでした。”とあります。ということはこの人は悪くないということですよ。」
「事故を起こしておきながら、不注意ではなかったというのは通常無理だ。事故が起きたのは車に欠陥があったと証明されたのかな?そうなら大ニュースになるはず。運転手は悪い人ではないと読者に思わせたいのだろう。」
「2節では“その運転手は,意図せずに人を死なせてしまった罪に問われました。”とあります。過失致死罪に問われたわけですが、1節では不注意ではないとありますので、判決は無罪じゃないですか?」
「そう思うよね。でも“姉妹は裁判所から,その人がどんな判決を受けるかは姉妹の証言に懸かっていると伝えられました。”とあるから、この姉妹が厳しく罰してくださいというと有罪になるようだよ。話がよくわからない。」
「2節で“わずか数週間後,デニース姉妹は法廷に行き,自分たち家族の人生を狂わせた男性の前で証言することになりました。姉妹はどんなことを言ったでしょうか。寛容な判決を願っていることを裁判官に伝えました。”とあります。」
「普通は“寛容な判決”じゃなくて“寛大な判決”じゃないの。」
「すると“裁判官は涙をこらえ切れない様子でこう言いました。法廷でこのようなことを聞いたのは初めてです。被害者の家族が被告のために寛容な判決を願うことなど普通ありません。人を許す温かい言葉を聞くこともまずありません。”と言ったそうです。本当ですか?ウソくさいですね。」
「英文では the judge broke down in tearsで、裁判官は泣き崩れた、という意味。でも日本語訳は” 裁判官は涙をこらえ切れない様子でこう言いました。”とある。翻訳者は英文の表現があまりにも大げさでウソくさいと思ったということだ。」
「結局判決は何だったんですか?何も書かれていません。“その人がどんな判決を受けるかは姉妹の証言に懸かっている”とあり、この姉妹が寛大な判決を求めたわけですから、極めて軽い判決ですんだという結論じゃないとおかしいですよ。」
「厳しい判決だったんじゃないの?この話はJWは裁判官も泣かすほど、すごい人たちと言いたいだけ。こうやってJWの自尊心を高めていくわけだね。」
「これが殺人事件だったらどうだったんですか?それでも寛大な処置をお願いしたのでしょうか?」
「それはまずいね。殺人犯を野放しにしていいのか、と言われてしまう。それで自動車事故の話を持って来た。しかもこの場合、加害者の過失を否定し、やむをえない事故であるかのように言っている。これは加害者が許されるべき人間と読者に思わせるためだろうけれど、それなら過失致死罪で起訴されたりしないよ。つじつまが合わない話だ。」
「4節には“エホバは,私たちがご自分に倣って人を寛大に許すことを願っています。”とあり、許すよう圧力をかけています。」
「許した方がいい場合と厳しく処罰するべき場合があるのに、許すべきという主張だね。それで統治体はバカげた預言や教義によって多くの信者を不幸に陥れても、責任を問われることなく、謝罪もしないで居られる。」
「4節では3つの引照聖句があるのですが、恣意的ですよ。」
「ルカ17:4が出ている。そこには“その人が1日に7回あなたに罪を犯し,7回戻ってきて『悔い改めます』と言うとしても,許さなければなりません。”とある。でもその一つ前の17:3には“注意していなさい。仲間が罪を犯すなら強く警告し,悔い改めるなら許してあげなさい。”とあるのに、こちらは無視している。17:3では罪を犯している人に対して警告する事、悔い改めが許す条件であることが書かれているけれど、とにかく許せというこの記事と矛盾するから無視だね。」
「パウロはコリント二7:9、10で“今は喜んでいます。皆さんがただ悲しんだのではなく,悲しんで悔い改めたからです。・・・神の意志に沿った悲しみは,救いにつながる悔い改めを生じさせるので”と言っています。救われるためには悔い改めることを言っています。」
「この記事では悔い改めという言葉は出てこない。エホバ教はキリスト教とは違うよね。」
「5から9節は“自分の気持ちを無視しない”です。 許すための第1ステップです。6節に“次の点を覚えておきましょう。怒りを感じるのは自然な反応ですが,怒ったままでいるかは自分で決められます。”とあります。そうなんですか?」
「この記事では人間は感情をコントロールできると根拠もなく想定している。怒ったままか怒るのをやめるかは個人の選択だと思っている。現実の人間は違うよ。感情がその人間を支配することだってある。」
「恐怖症は感情がその人間を乗っ取ってしまう例ですよ。」
「恐怖症は特定の物や状況に過剰な恐怖感を感じてしまい日常生活に支障が出てしまう障害だけど、本人はそんなに怖がらなくてもいいことは十分理解しても、やはり怖いわけだ。怖がるのは個人の選択ではないよ。他の感情も同じだ。」
「7節には3人の被害者が出てきます。全員女性です。女性は被害を受けても特に許すことが期待されているようです。」
「立場の弱い信者に過酷なのがカルトの特徴。」
「アン姉妹は“私が小さい時,父は母を捨てて私のベビーシッターと再婚しました。見放されたように感じました。2人に子供が生まれた時,自分の居場所がなくなったように思いました。自分は邪魔者なんだと思いながら大きくなりました。”といっています。」
「ということはアンは父親のもとに留まったということ?離婚の原因は父親にあるわけでしょう。普通は母親が親権を持ち、母親と暮らすよ。かなり不自然な話だ。」
「あとの話は、ジョルジェット姉妹は夫が不倫をし、ナオミ姉妹は夫がポルノを見ていたというものです。」
「不倫とポルノが同一に扱われているのがJWらしいね。JW的には不倫よりもポルノを見る方が悪いことなんじゃないの?」
「8節では“大抵の場合,一番良いのは許すことです。”とあります。そういう訳でJWの間では不倫がはびこるわけですよ。」
「妻がJWの場合、その夫は不倫がばれても、許すのが一番よいことだとものみの塔に書いてあったよ、と妻に言えばいいわけだ。男性にとってはいい宗教だね。」
「8節の下に“トラウマになるような経験をした場合”という記事が出ています。許すというのは“憤りや怒りの気持ちを捨てるようにするということです。”と説明しています。」
「過大な要求だね。JWなら、エホバは人間を自由に感情をコントロールできるようには造られませんでした、と言って欲しいね。」
「そして、“私たちを深く傷つけた人のことをエホバが裁いてくださることを信じ,エホバにお任せしましょう。”とあります。JWの決まり文句のエホバを待つ、ですね。」
「それなら結局許さないということだね。復讐願望を抱きつつ、じっと耐えるということだ。だからJWは精神的に病んでくる。」
「9節はジョルジェット姉妹のお言葉です。“別れた夫への怒りや憤りを捨てるようにしました。そうすると,とても穏やかな気持ちになりました。”といっています。よかったじゃないですか。」
「不倫して離婚した夫も、それはエホバのおかげだね、よかったね、と喜んでいるよ。夫はそれで元の妻のことは忘れ去り、新しい女性と心置きなく楽しく暮らすことができる。男性にとってはいい宗教だね。」
「10から12節が“感情をコントロールする”です。 許すための第2ステップです。10節には“心の傷が癒えるには時間がかかる”とあります。11節では“相手を許すことができるようエホバに祈って助けを求めることは大切です。”とあります。何にでも魔法のように効果があるのが祈りです。」
「心の傷が癒えるように、専門家に相談しましょうとは絶対に言わない。だからJWは精神的に病んでくる。」
「12節では“エホバに頼りましょう。”とJWの決まり文句が出てきます。エホバが頼りにならないからいろいろな問題が生じているのですよ。」
「決まり文句を繰り返すということは、執筆者はそれ以上の知恵がないということだね。被害者に許すことを押し付ける理由やそれが良い結果をもたらす根拠が思いつかないから、決まり文句でごまかすわけ。」
「12節にはナオミ姉妹のお言葉があります。“最初は,ポルノを見た主人を許せなくても仕方がないと思っていました。・・・エホバは私がどう感じているかや,心の傷が癒えるのに時間がかかるということを分かった上で,許すことを望んでいます。”とあります。ポルノを見ることを重大犯罪並みに非難する聖書的根拠はありません。ただJWが嫌っているだけです。」
「それなのに、エホバを持ち出すのが滑稽だね。ポルノを見たくらい許せないのかな?自分は被害者だとしつこく周囲の人間に訴えるのを“被害者ポルノ”ということを知らないのかな。」
「13から16節が“前向きな気持ちを持つ”です。 許すための3つ目のステップです。13節では“兄弟姉妹に傷つけられた場合は特に,仲直りすることを目指しましょう。”と言っています。家庭の問題から会衆内の問題に移行します。ここでも被害者は加害者を許して、仲直りしなくてはいけないようです。」
「JWという宗教は、加害者に優しく、被害者に厳しい。被害者になりやすい子どもや女性はJWにならないように。」
「14節では“エホバは人の良いところに注目しようとする方です。(代二 16:9。詩 130:3)”とありますが、引照聖句はそんなことを言っていません。」
「旧約聖書を見る限り、エホバは血統重視で個人の特徴など重視しない。集団主義で、どの民族に属しているかで人間を判断する。能力にかかわらず女性より男性を重視する。同性愛者というだけで死刑。個人の良いところに注目するなんてことはない。」
「サムエル一6:19に“神はベト・シェメシュの人たちを打った。彼らがエホバの箱を見たからである。民のうち5万70人が打たれて死んだ。エホバが大勢の人を死なせたので,民は嘆き悲しんだ。”とあります。箱を見ただけで死刑です。この出来事の前の6:15では“ベト・シェメシュの人たちは全焼の捧げ物を捧げ,その日,ほかの犠牲もエホバに捧げた。”とあります。良い点に注目していません。」
「サムエル二6:6、7には“ナコンの脱穀場まで来た時,牛が真の神の箱をひっくり返しそうになったため,ウザは手を出してそれをつかんだ。 するとウザに対してエホバの怒りが燃え,真の神はその場でウザを打った。”とある。ウザの良いところに注目などせず、ささいな行為をとがめて死刑にしている。」
「14節には“良い点に 注目しようとするなら,その人を許しやすくなります。”とあります。そんなことないでしょう。」
「嫌な点を考えると相手の評価はマイナス10点だけど、よい点がプラス15点あるから、総合得点はプラス5点になると計算しなさいといっているかのよう。人間の評価はそんなもんじゃないよ。」
「15節では“許したことを相手に伝えることもできるかもしれません。”とあります。被害者に過大な要求です。再びナオミ姉妹の登場です。“許していることをきちんと言葉にして伝えられた時,主人は安心して涙を流しました。そして私も,自分でもびっくりするほど晴れやかな気持ちになりました。主人のことをまた信じられるようになり,以前のように仲良くなりました。”というものです。これでポルノ問題解決です。」
「どうしてこれで“主人のことをまた信じられる”ようになるのか不思議だ。ウソ泣きにだまされているようにしか見えないけれど、悔い改めて、ポルノ撲滅運動に参加するとでも誓ったのかな?」
「ただ涙ぐんでみじめたらしく詫びただけですよ。今度は妻に見つからないようにポルノを楽しもうと心の中で思っています。」
「それにしてもポルノを見たことで夫婦間の大問題になるのはJWだけじゃないの?宇宙の創造者はポルノを憎むと断言するのはJWだけかも。」
「17、18節が“許すとどんな良い結果になるかを考える”です。 ご利益があるそうです。許すとエホバが喜ぶそうです。17節には“健康にも人間関係にも良い影響があります。”と断言しています。許すことを強要されて、そんなことありますか?」
「根拠を示して欲しいね。本当に健康に良い影響があるの?根拠もなく断定ばかりしていると、カルトのプロパガンダ雑誌としても、ますます信用を無くすよ。」
「18節に、最初に出てきたデニース姉妹の話の続きが出てきます。“事故を起こした運転手の男性は裁判が終わったら自殺しようと考えていました。でも,その男性はデニース姉妹が自分を許してくれたことに心を打たれました。そして,エホバの証人と聖書を学び始めました。”とあります。許すと信者が一人増えるというご利益があったということです。」
「バプテスマを受けて、開拓者になりましたとか、いまでは長老ですという決まりきったことを書いていないところを見ると、学び始めたけれど、すぐやめたんじゃないの。学び始めたのも、被害者家族がJWだったので、勧誘された時断りにくかっただけじゃないかな。」
- 許し
- 2025年04月25日 17:20:01
そもそも、イエスの贖いと血を根拠にして神に許していただくためには、新しい契約の当事者でなければなりません。
これは律法契約下で罪の一時的な許しを得るために、外国人も割礼を受けた改宗者となって律法の当事者となる必要があったことと同じです。
大群衆は新しい契約の当事者ではないらしいので、贖いの益は及ばず、ゆえに彼らの罪は神に許されていないことになります。
彼らの罪が許される法的な根拠は一切示されていません。おかしな教えですね。
- 聖書についての質問
- 2025年04月25日 14:19:40
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバは私たちを本当に許してくださる(7)”で、エホバは許してくれるので、JWからひどいことをされても、許してJWを続けなさい、という内容です。」
「数行で済む内容を無駄に膨らませているだけの記事だね。」
「2節に” 「あなたは本当に許す方。それで人はあなたに畏敬の気持ちを抱く」。 *(詩 130:4)エホバは「本当に許す方」です。”とあります。注を見ますと” 元のヘブライ語では,「許す」に当たる語に定冠詞が付いていて,それがほかのものとは異なる唯一本当の許しであることを示しています。多くの聖書翻訳ではこの重要な違いが見過ごされていますが,「新世界訳聖書」では詩編 130編4節でその違いが分かるように訳されています。”と自慢していますが、正しいですか?JWにはいかなる専門家もいないと思いますが。」
「古代ヘブライ語に定冠詞があるかな?慣習的に冠詞と呼ばれるけれど、本当は接頭辞。定冠詞が付くと“ほかのものとは異なる唯一本当の”という意味になると主張しているけれど、そうとは決まっていない。英語のtheと混同していると思うよ。」
「詩編130:4を“本当に許す方”と訳している翻訳はないということですか?」
「協会共同訳では“赦しはあなたのもとにあります。”だね。英語だとJW訳はthere is true forgivenessだけど、そんなふうに訳しているものはなく、単にthere is forgivenessだね。」
「3節に“エホバが誰かを許すとき,その人の罪は完全に消し去られます。”とありますが、エホバはどちらかといえば許さない神ですよ。」
「アダムとエバを許さなかったために、全ての子孫(約1000億人)が死ぬことになったというのが、JWの教義でしょう。罪に対して刑罰のバランスが取れていない。許さない神。」
「申命記23:2の“嫡出ではない子はエホバの会衆に入ることはできません。その人の子孫は10代目でも,エホバの会衆に入ることはできません。”も、なかなか許さない神ということがわかります。」
「嫡出でなくても子どもに罪はないでしょう。子どもは選択できない。それなのに10世代経つまで、仲間外れにするとは。どう考えても許さない神だね。」
「JWが大好きな旧約聖書には許す話はほとんど出てきません。虐殺の話はたくさんありますけれど。」
「旧約聖書の世界では許すことは弱さの現れと考えられているようだ。仲間である隣人を愛し、敵を徹底的に憎み、殺すという世界。許す話と言えば兄弟たちの罪を許したヨセフの話くらいだね。創世記50:17に“あなたの父の神に仕える者たちの違反をどうか許してください」。ヨセフはそれを聞くと,涙を流した。”とある。」
「旧約聖書を読めば、エホバは許す神ではなく、すぐ死刑にする神としか思えません。律法では死刑がやたらと多いです。」
「出エジプト21:17では“父や母をののしる人は必ず死刑にされる。”とある。謝っても死刑なんだろうね。出エジプト31:15では“安息日に仕事をする人は必ず死刑にされる。”とある。飢えた子どもの食料を探していただけでも安息日なら死刑なんだろうね。許す神とは程遠い。」
「5から8節は“エホバは罪を取り除く”です。 エホバは罪を取り去ってくれると言っています。罪を遠くに放し、後ろに投げ捨てる、海の中に投げ捨てると、聖書から引用しています。都合の良い聖句のつまみ食いですね。挿絵が4つもあって、幼児向けの絵本のようです。」
「それならヨシュア24:19、20には“この方は聖なる神,全くの専心を要求する神なのです。皆さんの違反と罪を容赦しません。 皆さんがエホバを捨てて外国の神々に仕えるなら,神は皆さんに良いことをした後でも,皆さんを退けて根絶やしにします。”とあるよ。違反と罪は容赦しない神じゃないの?」
「エルサレムの滅亡について、列王二24:3,4に“マナセが犯したさまざまな罪のゆえ, マナセが流した無実の人の血のゆえである。マナセは無実の人の血でエルサレムを満たした。エホバは許そうとはしなかった。”とあります。マナセ王の罪のせいでエルサレムの住人が苦しむことになったようです。許す神ではなく、無関係な一般人を処罰するのが大好きな神ですよ。」
「時には許し、時には許さない気まぐれな暴君が神でしょう。」
「9から13節は“エホバは罪を拭い去る”です。 エホバは罪を洗い流し、洗い落とし、負債を取り消し、覆い隠すと、聖書から引用しています。これも都合の良い聖句のつまみ食いです。挿絵は4つあります。幼児にもわかるようにという統治体による温かい配慮ですね。」
「それなら申命記29:20に神に従わない人に対して“エホバはその人を許そうとはしません。かえって,エホバの大きな怒りがその人に対して燃え,この書に記された災い全てが必ずその人にもたらされ,エホバはその人の名前を天の下から確実に消し去ります。”とある。罪も消し去ってくれるかもしれないけれど、その人自身も消し去るのがエホバだね。」
「哀歌3:43,44には“あなたは怒り,私たちが近づけないようにしました。私たちを追って,容赦なく殺しました。 ご自分に近づくものを雲で阻み,私たちの祈りが届かないようにしました。”とあります。罪を覆い隠すだけでなく、近づくものを雲ではばみ、祈りを聞かないのがエホバです。」
「イザヤ2:6、9には“あなたはご自分の民,ヤコブの子孫を見捨てました。・・・あなたが彼らを許すことはあり得ません。”とあり、許さない神とイザヤも言っているよ。」
「11節に“古代に使われていたインクは,すすと樹脂と水を混ぜて作られたもので,水を含ませた海綿で拭えば文字を消すことができました。”とありますが、本当ですか?」
「誤訳がある。gumを樹脂と訳しているけれど、樹脂ならresinだね。それに樹脂は水に溶けない。ここでいうgumは糊みたいなものでしょう。糊なら水に溶ける。」
「14から17節が“エホバは良い関係を回復させる”です。 14節に“エホバは罪を本当に許してくださる方なので,私たちはエホバとの良い関係を築くことができます。”とあります。エホバは“「私は彼らの過ちを許し,彼らの罪をもはや思い出さない」。(エレ 31:34)”そうです。」
「引照聖句はイスラエルとの新しい契約のことを言っている部分。エレミヤ31:33で“これが,そうした時代の後に私がイスラエル国民と結ぶ契約である。私は,私の律法を彼らの奥深くに入れ,彼らの心の中に書き記す。”とあり、そして31:34で“私は彼らの過ちを許し,彼らの罪をもはや思い出さない。”と言う。今のJWと何の関係もないよ。」
「16節で“でも,エホバが許してくださっているおかげで「罪から自由に」なることができました。(ロマ 6:17,18。啓 1:5)”とあります。引照聖句はエホバのおかげといっていません。」
「ローマ6:17,18は“かつて罪の奴隷だった皆さんは,今では神から与えられた教えの型に心から従順になりました。 皆さんは罪から自由にされたので,正しいことの奴隷になったのです。”とある。“神から与えられた教えの型に心から従順”になったので罪から自由になったと言っている。エホバは出てこないよ。」
「啓示1:5には“私たちを愛し,自分の血によって私たちを罪から解放してくださった方”とあり、これはキリストのことを指しています。エホバは出てきません。」
「新約になると、キリストが中心でエホバなる神は重要でなくなるので、新約聖書から引用するのはやめた方がいいと思うよ。」
「最後の18,19節が“エホバが許してくださるおかげで可能になること”です。 ここがこの記事の要点です。19節に“でも,許していただきたいと思うなら,私たちの側にもしなければいけないことがあります。イエスはこう言っています。「人の過ちを許さないなら,父もあなたたちの過ちを許されません」。(マタ 6:14,15)私たちはエホバに倣って人を許す必要があるということです。”とあります。この記事は、ひたすらエホバは許して下さる、と連呼してきたのですが、それも条件付きということです。」
「エホバという神様はそういうけち臭い神様でしょう。」
「エホバは許して下さる方なので、JWも許す人になろうということで、JWから性的虐待を受けても許しなさいということですよ。来週は“エホバに倣って人を許す”です。」
「こうやって組織内の犯罪は隠ぺいされるというわけだ。許すことは何度も強調されるけれど、過ちを犯さないようにすることはあまり強調されないのが、JWという宗教の特徴だね。」
- 聖書についての質問
- 2025年04月18日 14:37:01
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバが許してくださることに心から感謝する(6)”で、罪や和解,贖罪,贖い,買い戻し,正しいと認めるといった言葉のJW的な意味を学ぶという内容です。」
「お勉強といった感じだね。ほとんどのJWにとっては興味もないし、やる気も出ないよ。」
「1節はたとえ話です。“想像してみてください。裕福な家庭で育ったある青年が突然悲劇に見舞われます。両親が事故で亡くなってしまったのです。”とあります。そして“両親が財産を使い果たし,多額の借金を残していたのです。青年は財産どころか負債を受け継ぐことになり,返済を求められます。”というのですが、へんな話ですね。」
「日本の法律ではその場合遺産を放棄すれば、負債を受け継ぐことはない。」
「アメリカは違うのですか?」
「アメリカの各州は、相続に関して「管理清算主義」を採用しており、プロベイトという相続財産の管理清算手続を通して、亡くなった人の債権・債務を整理してから法定相続人に引き渡す。債務だけが残った場合、法定相続人がこれを相続することはない。」
「となると、法律を多少知っている人は1節の話を読んだ時点で、バカバカしい話だと気づき、ついていけませんね。」
「JWにはそういう知識のある人はいないということだね。高等教育を敵視しているから。この記事の執筆者も法的なことには全く無知だね。」
「2節では“私たちもこの青年と同じような状況にいます。”とあります。“私たちはアダムから罪を受け継ぎ,死ぬようになりました。この罪は,誰も支払うことのできない巨額の負債のようです。”と説明しています。つまり、神のルールは現行法では考えられないぐらい不公平で過酷なものということですね。」
「現行法では親の借金を子どもに強制的に払わせるのは正義に反する不法な行為だね。キリスト教的な原罪思想が現代人に説得力を持たないのは仕方ないね。それが神のすることですか?おかしいじゃないですか?と聞かれたらJWはどう答えるのか知りたいね。」
「アダムがどうのこうのとか、しゃべるヘビがどうのこうのなんて、真面目に受け止める話ですか?こんな話を歴史上の事実としている点でJWに入る人はいなくなりますね。」
「エデンの話には罪という言葉は出てこない。旧約聖書にはいかなる人間も生まれながらに罪びとであるという思想はない。そういう思想はパウロの発明。」
「でも出エジプト20:5には“私を憎む人については,父の過ちに対する処罰を子や孫やひ孫に及ぼす。”とあります。これは偶像崇拝をする人についていっているのですが、偶像崇拝者の子や孫は生まれつき罪人ということですね。」
「それに対して申命記24:16では“父親は子供がすることのゆえに死刑にされるべきではなく,子供も父親がすることのゆえに死刑にされるべきではありません。人はそれぞれ自分の罪のゆえに死刑にされるべきです。”とあり、親子だから連帯責任があるという思想を批判している。アダムの罪のせいでその子孫が死ななくてはならないことになったというのは間違ったことだね。」
「3節に“聖書で罪は「負債」に例えられています。(マタ 18:32-35)”とありますが、それは新約聖書です。訳がヘンですね。英文を大きく変えていますね。」
「元の英文はJesus likened sins to “debts.” (Matt. 6:12; Luke 11:4)で、イエスは罪を「負債」に例えました、とある。イエスを聖書に変えている。イエスのことが嫌いなようだね。それから引照聖句も変えている。ひどい改変。」
「この改変は聖書の日本語訳がいい加減だからです。英文の引照聖句は日本語訳では“私たちに罪を犯した人たちを私たちが許しましたように,私たちの罪をお許しください。”ですが、英文では罪ではなく“debts.”(借金、負債)です。借金を許してくださいを、勝手に罪を許してくださいに変えたので、本文と合わないのですよ。ルカ11:4の日本語訳も借金の部分を省略しています。」
「引照聖句の借金は文字通り借金で、罪の例えじゃないよ。イエスは当時の最下層の人にむけて話しているわけで、そういった人にとって借金は深刻な問題だった。イエスは単なる宗教家ではなく社会改革を目指していたと考えられている。それで借金にも触れるわけだ。」
「3節に“それで,その負債を返済しなければいけない状況にいます。それができなければ,死という代償を払うしかありません。(ロマ 6:7,23)”とあります。あいまいな訳ですね。英文ではit would be canceled only when we die.なので、死によってのみ帳消しになる、と言っています。死ねば罪が許されるわけですよ。」
「引照聖句のローマ6:7に“死んだ人は自分の罪から放免されているのです。”とあるからね。でもこの記事は罪を許してくれたエホバに感謝しましょうと言い続けている。死ねば罪から許されるって、感謝するようなことじゃないよ。」
「罪が借金なら、借りた人が死んだ時点で帳消しになるのは当然です。」
「エホバは借金を無理やり子孫に押し付けて、払わせている悪徳金融業者だね。」
「4節の下に罪の3つの意味が出ています。①原罪、②良くないことを考えたり行ったりしてしまう傾向、③受け継いだ傾向のせいでしてしまうことがある悪い行い、とあります。これがJWの罪です。原罪という言葉はアウグスティヌスがつくった言葉で聖書にはないですよ。」
「記事では“原罪,つまりアダムがエホバ神に対して犯した最初の違反。”とあるけれど、普通のキリスト教の理解とは違うね。」
「原罪は特定の違反のことじゃないですよ。」
「全ての人間がその中に生まれ、その中に生きる、罪を不可避的に犯さざるを得ない状態のことというのが普通の理解。アウグスティヌスは罪を犯さないことができない状態に人間はいると言っている。このようなことはJWには難しすぎるのかも。」
「聖書を読むと罪は一種のウィルスのようなもので、人から人へ移ると想定されていませんか?聖書の罪は現代人の考える罪とはだいぶ意味が違いますよ。」
「罪は伝染力があると想定されているね。レビ16:21,22に“アロンはヤギの頭に両手を置き,イスラエル人の全ての過ちと違反と罪をその上に告白して,それら全てをヤギの頭に置き,指定された人がヤギを荒野に送り出す。ヤギは民の全ての過ちを担って砂漠の地に行く。ヤギを荒野に送り出すのである。”とある。これは贖罪のヤギと言われるもので、全イスラエルの罪を移されて、荒野に放たれる。これによってイスラエルから罪が取り除かれるというわけだね。現代人の発想とは違う。」
「罪はこの3つ以外の意味がありますよ。パウロは罪を神に対抗する、神と対等な力を持つものとして扱っています。ローマ6:12には“死んでいく体の中で罪が王として支配する”とありますし、ローマ6:14では“罪を主人としてはならないのです。”とあります。」
「JWはそのことが理解できないので聖書の翻訳もヘンなものになっている。協会共同訳ではローマ6:12は“あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて”となっている。体を罪が支配するとあるのに、JW訳では、体の中で罪が王として支配するとしている。誤訳だね。“王として”というのは聖書本文にはない。」
「協会共同訳では、ローマ6:14は“罪があなたがたを支配することはありません。”ですね。それを“罪を主人としてはならないのです。”という道徳的な教訓に変えています。」
「罪はもはやあなたがたの主人ではありません、ぐらいに訳して欲しい。」
「7から19節が、和解,贖罪,贖い,買い戻し,正しいと認めるという語の意味の説明です。」
「JWも終末カルトから普通のキリスト教になろうとしているかのようだね。」
「7節は“和解”で“2人の子孫である私たちはエホバと和解する必要があります。(ローマ 5:10,11を読む。)エホバとの関係を修復する必要があるということです。”とあります。」
「引照聖句には“キリストを通して神と和解したからです。”とある。人類はもうすでに神と和解したんだよ。」
「8から10節は“方法: 贖罪”です。8節に“贖罪には,あるものをそれと同じ価値の別のものと交換することが関係しています。そのようにして,失われたものを取り戻したり,壊れたものを取り換えたりすることができます。”とあります。」
「贖罪にもっと関係しているのは“いけにえ”でしょう。動物を殺して神に捧げる。イサクの話にあるように人間だって殺されて神に捧げられた。イエスは宇宙的ないけにえというのがJWの理解でしょう。」
「9節に“でもイスラエル人が悔い改めて,エホバから求められている犠牲を捧げる限り,エホバは進んでイスラエル人の罪を許しました。”とありますが、そんなことはないですよ。代価なしに贖うことをしましたよ。それが出エジプトじゃないですか?大量の犠牲をささげたから、エジプトの奴隷状態から脱出できたわけじゃありありません。」
「旧約では神はイスラエルを贖うという表現が出てくるけれど、代価なしだよ。出エジプト6:6では“私はエホバである。私は,エジプト人が課す強制労働からあなたたちを解放し,奴隷状態から救い出す。エジプト人に重い処罰を下し,腕を伸ばしてあなたたちを取り戻す。”とあるけれど、正しくは“取り戻す”ではなく“贖う”だ。代金なんか請求しない。」
「イザヤ6:6に“エホバ,イスラエルの王,イスラエルを救う者”とありますが、正しくは“贖う者”ですよ。これも代金を請求していません。」
「代金を払わないと神によって救われないというルールは存在しない。イエスの死の意味を考えるなかで、人類が救われるためには代金を払わないとダメだから、イエスの命で払う必要があったという理屈が後からつくられただけ。」
「11から13節が“代価:贖い”です。11節には“聖書によると,贖いは贖罪や和解のために支払われる代価のことです。”とあります。身代金のことですね。要するにイエスの命で支払われたのですね。」
「12節に“イエスは自分の命を犠牲にすることによってアダムの罪を贖い,アダムが失ったものを取り戻すことができました。(ロマ 5:19)”とある。それがJWの理解なんだろうけれど、引照聖句はそんなことは言っていない。ただ“1人の人の従順によって多くの人が正しい人になるのです。”とあるだけ。」
「14から18節は“結果: 買い戻され,正しいと認められる”です。 15節で“聖書の中で買い戻しという言葉は,贖いが支払われることによって解放されたり無罪とされたりすることを指しています。”と、“買戻し”の説明をしています。17節では“正しいと認めるとは,負債の請求を取り下げ,その記録を消し去って,なかったことにすることを意味しています。”と“正しいと認める”の説明をしています。」
「正しいと認めるというのは義と認めるということでしょう。これは裁判用語で、訴えられた人が無罪だという意味。借金の返済に限定されるわけじゃないけれど、この記事ではなんでも借金問題に限定しているね。」
「17節の後半にある“私たちが贖罪に対して信仰を持っていることと,贖いの 代価が支払われたことに基づいて,負債を取り消してくださるのです。(ロマ 3:24。ガラ 2:16)”は引照聖句と合っていないです。」
「ガラテア2:16は“人が正しいと認められるのは律法に従った行いによるのではなく,イエス・キリストへの信仰による,ということを知っています。”だよ。それを“贖罪に対して信仰を持っていること”に変えている。イエスが嫌いということがよくわかるね。なるべくイエスを出さないようにするのがJWの特徴だ。」
「18節がJWの教義の説明です。“死の眠りに就いている人たちは,「正しい人」も「正しくない人」も復活します。”とあります。ということは、ハルマゲドンが起きた時、たまたま生きていたJWでない人(全人口の99.9%)だけはそのまま滅ぼされて、楽園を体験できないということです。おかしな教義です。」
「死ぬ時期によって扱いが全く異なるわけだ。ハルマゲドン前に死んだら、どんな悪人でも復活し楽園を体験するけれど、ハルマゲドンのときにまだ死んでいないと赤ちゃんでもそのまま滅ぼされる。不公平な神様だね。」
「ハルマゲドンで滅ぼされた人も復活することにすれば、全人類を平等に扱うことになりますけど。」
「平等じゃないよ。ハルマゲドンで死ぬ人はひどい苦しみを味わうわけだ。それから復活させるのであれば滅ぼす必要はないよ。無駄な残酷ショーということになる。」
「最後の19節はまとめです。“この記事の冒頭に出てきた青年のことを思い出してください。その青年は全てのものを失い,決して返すことのできない巨額の負債を受け継ぎました。私たち人類の状況もそれと似ていました。でも,エホバが助けを差し伸べてくれました。”とあります。子孫にまで借金を押し付けるのは人間社会では悪徳金融業者です。エホバも同じということですね。」
「もうすでに死んだ人は罪は許された、つまり借金は無効になったはずじゃなかった?いま生きている人もいずれ死ぬわけで、何が問題なのか理解できなかったね。」
- 聖書についての質問
- 2025年04月04日 14:16:23
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバの愛は私たちを幸せにする(5)”で、記念式に向けて今以上に信者集めに努力しなさい、という内容です。」
「そうしないとハルマゲドンで滅ぼされる!と脅せば、やる気が出たのに。」
「そうは書けないようで、エホバに感謝しているなら、それを行動に移せ、と書いています。」
「それでは効果ないね。カルトらしく恐怖をあおる方が効果的でしょう。」
「1節には“私たちが,エホバの愛や贖いという貴重な贈り物に感謝を表す時,エホバはうれしく思うに違いありません。(ヨハ 3:16。ロマ 5:7,8)”と感謝をすることを強要していますが、引照聖句にはそんなことは書いていません。」
「“違いありません。”と言う表現が出てくるときは、単なる推測にすぎないね。引照聖句は関係しそうなものを適当に選んでいるだけ。」
「新約聖書を読んでも、イエスの弟子たちは感謝することはほとんどないですよ。でもJWは感謝を強要されます。これは信者の感情操作ですよ。」
「福音書では神に感謝するのは主にイエスだね。主の晩餐の時、パンを裂き、神に感謝したというのは何度も出てくる。弟子たちで神に感謝したことが示されるのは、使徒28:15の“パウロは兄弟たちを見ると,神に感謝し,勇気づけられた。”ぐらいかな。イエスの弟子たちは感謝というものをほとんどしない。」
「3から8節が“今の幸せにどう関係しているか”です。 3節に“贖いに基づいて,エホバが私たちの罪を許してくださることです。”とあります。罪が許されて幸せだ、といいうことです。4節では“自分はエホバに許してもらえるような者ではないと感じる人がいるかもしれません。”と、幸せではない人が出てきます。5節では“長年エホバに仕えているからといって,自分にはエホバの憐れみを受ける資格があると考えるのは正しくありません。”と、自分は救われる資格があると信じて幸福感に浸っているJWに冷や水を浴びせます。一気に幸福感が下がりますね。」
「結局、幸せなJWは滅多にいないようだね。カルト信者は罪悪感、恐怖、不安にさいなまれる人が多い。」
「6節に“では,なぜパウロはエホバへの奉仕に打ち込んだのでしょうか。それは,エホバの惜しみない親切に感謝していたからです。(エフェ 3:7)”とあり、パウロに倣って奉仕に打ち込むことが強要されます。感謝だけではダメなんですよ。」
「引照聖句には感謝したから奉仕に打ち込んだとは書いていない。そこには“それは,神が力を用いて,惜しみない親切という無償の贈り物を下さったおかげです。”とある。神の恵みのおかげで奉仕者になれたと言っているよ。」
「7節には“贖いのおかげで今も幸せでいられるもう1つの理由は,エホバとの強い絆を持てることです。”とあります。エホバとの強い絆があるから幸せだ、ということようです。7節には“贖いのおかげで私たちは「神との平和」な関係を楽しみ,神と親しくなることができます。(ローマ 5:1,ヤコブ 2:23を読む。)”とありますが、引照聖句はそんなことを言っていません。」
「ローマ5:1は“私たちは信仰のゆえに正しいと認められたのですから,主イエス・キリストを通して神との平和を楽しみましょう。”とある。贖いは出てこないね。ヤコブ2:23には“「アブラハムはエホバに信仰を持ち,そのことは正しいと見なされた」という聖句の通りになり,アブラハムはエホバの友と呼ばれるようになったのです。”とある。贖いは出てこないね。それから神の友と呼ばれたのはアブラハムだけ。」
「8節には“エホバとの強い絆があるからこそできることの1つは,祈りでエホバに近づくことです。”とありますが、違うでしょう。祈りは誰でもできるはずですよ。」
「祈りもJWだけの特権と考えたいのだろう。問題はエホバなる神は祈りに滅多にこたえないことだね。」
「9から12節が“将来の幸せにどう関係するか”です。 バカバカしい楽園幻想の話が続きますが、その幻想をまじめに受け取れないとJWは続けられないということですね。9節に“エホバは最初,人間が永遠に生きることを意図していました。”とありますが、それを示す聖句はありません。」
「人間が永遠に生きるように造られたなんて聖書のどこにも書いていない。エデンの話はなぜ人間は死ぬのかを説明したお話。永遠に生きるチャンスがあったけれど逃してしまったというわけだね。古代にはその種の話は結構ある。」
「人間以外の動物は病気にもなりますし、皆老いて死ぬわけです。エホバはなぜそうしたんですか?」
「聖書は何もいっていない。楽園では人間は永遠に生きるかもしれないけれど、動物は死ぬわけだ。かわいい動物が死んだら泣くでしょう。楽園でも涙はあるね。そういう病気や死があるところを楽園とは呼べないね。JWの想定する楽園は問題だらけ。」
「10節が笑えます。“永遠に生きられるようになるのは将来のことですが,エホバは私たちに今そのことをよく考えてほしいと思っています。”とあります。そのことをよく考えて欲しいのは組織ですよ。そうすればJWをやめる人が減ると思っているのです。」
「組織は神の考えていることは何でもわかるんだよ。驚きだね。」
「11節は“楽園になった地球での生活をイメージしてみましょう。”と空しい空想ごっこを勧めています。」
「イザヤ書が引照聖句として使われているけれど、そこで描かれているのはJWが想定しているハルマゲドン後の地上の楽園ではないよ。」
「例えばイザヤ65章には、JWの好きな“私は新しい天と新しい地を創造している”と言う聖句がありますが、そこにはエルサレムが神の都市として世界の中心となること、永遠の命ではなく長寿、自分の財産である家とブドウ畑の保全、子孫繁栄、平和的な自然が描かれています。ハルマゲドン後の楽園じゃないです。」
「これは新しいイスラエルだね。古代のイスラエル人の理想の世界を描いたもの。JWみたいに永遠の命ではなく長寿にとどめているのが奥ゆかしいね。」
「12節では楽園で永遠に生きるという幻想を“今どんな犠牲を払うことになるとしても,決して手放したくはないと思うはずです。楽園になった地球で生きるという希望は必ず実現します。”とあります。JWになると犠牲を払うのは確実ですが、楽園は全く不確実です。」
「あるのは選挙公約みたいな“必ず実現します。”と言う言葉だけ。」
「12節の下に、楽園での生活として、陶芸、楽器の演奏、建設、ブドウの収穫、動物の観察などが描かれています。これって多くの人が今やっていることですよ。楽園なんか待つ必要ありません。」
「JWの想像する楽園は、JW活動に追いまくられて、好きなことは何もできず、貧乏なので好きなものもあまり食べられないみじめな生活をしているJWなら楽園と感じられるものにすぎないね。普通の人にはあまり魅力的ではないでしょう。」
「13から16節が“エホバの愛にどのように感謝を表せるか”です。 ここから信者に対する要求事項が並びます。13節は“エホバに仕えることを生活の中で第一にする”です。14節は“信仰を持ってエホバの指示に従う”です。具体的には“例えば,どれほどの教育を受けるかやどんな仕事に就くかなどを決めるとき,エホバが私たちに望んでいることをよく考える必要があります。”とあり、進学、就職を勝手に決めるな、組織の指示に従えということです。カルト的ですね。」
「エホバの望んでいること=組織の望んでいること、という公式があるわけだね。」
「15節は“贖いにどれほど感謝しているかを記念式の時期に表す”です。記念式に大勢の人を連れてこいという指示です。長老には“集会や奉仕を休んでいる兄弟姉妹を忘れずに招待してください。”という指示が出ています。」
「英文では“不活発な人”だ。伝道時間を報告する必要はなくなり、ただチェックするだけに変更されたから、不活発な人は減ったんじゃないの?それでも不活発な人が増えているとなると、大変なことだね。」
「それから“初めて来た人や久しぶりに来た人にもあいさつし,歓迎していることが伝わるようにしましょう。”とあります。排斥された人が来ても、無視せずにあいさつくらいはしなさいという指示ですね。」
「どれくらいのJWが本当に挨拶するか、排斥された人は確かめるためだけに、記念式に出席するかも。ちゃんと挨拶しよう。」
「どうしてJWの記念式に一般の人を来させようとするのか、理解できません。誰も口にしないパンとワインをただ回すだけという奇妙な儀式はとてもカルト的ですよ。JWのことを知らない人が初めて記念式に来て、その奇妙な儀式を見たら、JWになろうなんて絶対思わないですよ。」
「組織が気にしているのは数字。全世界で記念式にこんなに大勢の人が来ました、と毎年自慢したいだけ。それがどのような効果をもたらすかなんて考えていない。」
「16節では“記念式の時期に,クリスチャンの活動をいつも以上に行えますか。”と問いかけています。信者獲得をもっと熱心にやれ!ということですね。」
「“クリスチャンの活動”とあいまいにいう所がズルいね。いつも以上に行えますかなんて、無給のボランティアに対してよく言えるね。」
「そのあと“エホバへの奉仕をすればするほど,エホバの支えをもっと感じ,エホバへの信頼が強まります。(コリ一 3:9)”とありますが、ウソですよ。引照聖句もそんなことは言っていません。奉仕をすればするほど、JWに対して嫌気が増すだけです。」
「組織は時間の報告をやめたことによって、伝道活動を実質的には終了させたようなもの。でもカート奉仕は続けるようだから、一応奉仕は大事とは言い続ける。」
「17節には” エホバはあなたの心を見ています。”とありますが、見ていませんよ。」
「エホバが見ているのは数字でしょう。アメリカの経営者と同じで、数字で表されないものには興味がないようだよ。」
「最後の18節ではエホバとイエスに感謝しようと言っています。」
「無給で一生懸命働いている信者に感謝しようとなぜ言わないのか不思議だね。こんな感謝知らずの宗教はすぐにやめよう。」
- 聖書についての質問
- 2025年03月28日 13:20:15
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“贖いから学べること(4)”で、恒例の記念式むけの記事で、贖いからエホバとイエスについて学べることを考えます、という内容です。」
「記念式は信者の新規獲得の機会でもあるので、記念式に向けて少しでもやる気を出させようということだね。今頃から元JWに記念式のお誘いの電話やメールが来るわけだ。迷惑だね。」
「1節に“イエスは,年に1度,ご自分の死を思い起こす記念式を行うよう命じました。(ルカ 22:19,20)”とありますが、引照聖句には“年に1度”とは書いていません。これはJWの教義ですよ。」
「聖書のどこにも1年に1回しかしてはいけないとは書いていない。初期のころは頻繁に行っていたと推測されている。使徒2:42に“弟子たちはひたすら使徒たちから学び,交友を深め,食事を取り,祈った。”とあるけれど、“食事をとり”は元のギリシャ語では“パンを裂き”でパンを裂くというのは食事をしましたという意味ではなく、後に主の晩餐と呼ばれるようになった宗教儀式を指している。協会共同訳ではちゃんと“パンを裂き”となっている。」
「使徒24:2はJWにとって不都合なので“食事をとり”と意図的に誤訳しているわけですね。そのため、学び、交わり、祈ったとあるのに、食事をとったという非宗教的なことが弟子たちの活動の中に入ってしまったわけですね。」
「使徒20:7には“週の最初の日,私たちが食事をするために集まっていた時”となっているけれど、正しくは“パンを裂くために集まっていた時”で、これも主の晩餐の儀式を指している。この時のパンは非常に小さいもので食事用ではない。それなのにJWは通常の食事に変えている。改ざんだらけなのがJW訳。」
「3から9節が“贖いからエホバについて学べること”です。 エホバ教らしくエホバがまず取り上げられます。3節では“贖いからエホバの公正について学べます。”とあります。“考えてみると,私たちは1人の完全な人間の不従順のせいで,罪と死に捕らわれるようになりました。それで,1人の完全な人間の従順のおかげで,罪と死から自由になることができます。”とあり、これが公正の根拠のようです。アダムの罪に対してイエスの犠牲を必要としたから公正みたいです。」
「そういうことを言いだしたのはパウロ。パウロの神学だね。パウロがイエスの死の意味を考えているうちに、そういう理屈を思いついたということ。」
「4節では“イエスは私たちを救うために本当に死ななければならなかったのでしょうか。”と問いかけています。その答えは“エホバは完全に公正な方なので,アダムのひどい不従順を単に見過ごすというのはあり得ないことでした。”というものです。エホバは自由ではなく、エホバ憲法みたいのものに拘束されているようです。」
「JWは一神教ではないようだ。宇宙にただ一人の神は完全に自由なはず。罪を許したければ、許すと宣言すればいいだけ。でもJWの神はそうできない不自由な存在なわけだ。」
「JWの教義ではサタンは事実上の神です。二人の神が戦っているわけで、その戦いには誰かが決めたルールがあって、エホバもサタンもそれに従わなくてはいけないのです。そうでなければ、サタンはすぐに消滅したはずです。」
「JWの宇宙主権論争がそんな感じだよね。いまのところサタンが優勢だね。このまま行くと、エホバ教は衰退し、20年ほどたったら信者数は激減するのが見えている。」
「5節では“エホバが公正を無視して贖いなしでアダムの不完全な子孫が永遠に生きるようにしていたら,どうなっていたでしょうか。神は別の時にも公正を曲げて正しくないことをするのではないかと思う人が出てくることでしょう。”と、エホバが一方的に罪を許すことに反対しています。」
「すぐ極論を言うね。楽園追放で許すとか、アダムは罰するけれど、アダムの罪は子孫に伝わらないようにするとか、選択肢はいろいろあるわけで、あたかもアダムの罪を無視して永遠に生きるようにするという選択肢しかないかのようにいうのは詭弁だね。」
「キリスト教はイエスの死という現実から出発していて、イエスの死は無駄死にではないと思いたい人たちがあれこれ考えたものです。そして思いついたのがイエスの死は贖いの死であるというアイデアですよ。」
「アダムの罪に対してイエスの犠牲が必要というルールは後付けで、エホバは公正だからイエスの死が必要だったというのは説得力ないね。」
「6節は公正から愛に変わります。“何よりもエホバの愛の深さについて理解することができます。(ヨハ 3:16。ヨハネ第一 4:9,10を読む。)”とあります。でもJWの神様に愛の深さは感じません。引照聖句には“神は独り子を世に遣わし,その方によって私たちが命を得られるようにしてくださいました。”とありますが、JWの教義では死ぬまで伝道、集会、建設工事、寄付などを行い、輸血禁止といった細々とした規則に従い続けたら、楽園で永遠に生きる可能性が出てくるというものですよ。イエスによって命は得られません。」
「JWの教義では愛は出番がない。困っている人がいてもJW以外の人は無視だし、JWでも直接助けるのは好まれない。またそういう行為に何の価値も見出さない。そんなことより伝道が優先される。」
「6節で“私たちは今でも,エホバと仲間のクリスチャンとの温かい関係を楽しむことができています。本当にエホバの優しい愛情に包まれています。”とウソを言っています。“本当に”という表現を付け加える時は、執筆者も本当ではない、つまりウソだと感じているというサインです。」
「単なるプロパガンダ。独裁国家が自分たちの国のすばらしさを宣伝しているようなもの。誰も本気にはしない。」
「7節が宇宙神権論争です。“サタンは,人は神に仕えるのが難しくなると神から離れると主張しています。それが間違っていることを示すため,エホバはイエスが死の前に苦しみに遭うことを許しました。(ヨブ 2:1-5。ペテ一 2:21)”とあります。エホバはサタンの挑発にのせられたということですね。単純でバカな神ですね。でもそんなことは引照聖句には書いていません。」
「本来無関係なヨブ記とペテロ一を組み合わせて作ったJW独自の教義ということかな?ヨブ記はイエスとは関係ないよ。」
「7節にはイエスの苦しみや死に関して“エホバは止めようと思えば,いつでもそうする力がありました。”とありますが、違いますよ。止められません。」
「マタイを読めばわかるけれど、イエスの死に至る一連の出来事は旧約聖書に預言されていて、そのとおりになったことになっている。神は止められないよ。神は無力。」
「8節は“神は全能だから感情を持っていない,とは考えないでください。”とあります。誰もそんなこと考えませんよ。旧約聖書を読めば、神は感情的な暴君と誰もが思いますよ。」
「誰も思っていないことを持ち出して、そのあと否定し、自分が正しいかのような印象を与える。詭弁のテクニックでしょう。」
「8節ではアブラハムがイサクを犠牲として捧げるよう命令を受けた話が出てきます。こんな命令を出す神を非難するわけでもなく、“短刀でイサクを殺そうとしていた時に,アブラハムがどんな気持ちだったか想像してみてください。”とあるだけです。結論は残酷で野蛮なひどい神だ!!以外ありませんよ。」
「それはJWとしては言えない。神のすることは全て愛であり正しいというのがJWの教義。」
「9節では“贖いから分かるように,エホバ以上に私たちを愛している人はいません。家族や親友もかないません。”とあります。これは家族や親友よりもJWを優先しなさいということですね。その結果、信者の人間関係が破壊されてしまうのがエホバ教です。」
「エホバは無慈悲な破壊の神ではなく、愛の神と宣伝したいだけ。誰もそう思っていないよ。」
「10から12節が“贖いからイエスについて学べること”です。 一応イエスについても触れるようです。10節は“イエスはお父さんエホバの評判を気に掛けている。”です。11節は“贖いから,イエスが人々のことを深く気に掛けていることも分かります。”です。12節では、キリストは現在“本当に忙しく活動しています。王,大祭司,会衆の頭として奉仕しています。”とあります。これはJWの独自の教義ですね。」
「具体的に何をしているのかというと、“天に行く人と大群衆を集める活動を担当し,それは大患難が終わる前に完了します。”とある。信者募集係なんだね。驚いた。それ以外の仕事は誰が担当しているのか気になるね。」
「JWの教義では天に行く人はきっかり144000人です。いまだにその数に達していないというのはヘンですよ。イエスは何をしているんですか?使徒たちの活動を読めば、たった一日で何千人もクリスチャンになっています。」
「使徒2:41では1日で3000人が信者になった。2:47には“救われる人を毎日加えていった。”とある。4:4では男性約5000人が信者になった。9:42では多くの人が信者になったとある。同様の表現は17:12と19:18にもある。13:48には“永遠の命を得るための正しい態度を持つ人は皆,信者となった。”とある。21:20には“ユダヤ人の中には何万人もの信者がいて”とある。」
「使徒たちの活動に出てくるだけでも10万人以上クリスチャンになっていますよ。この人たちは皆天に行く人たちというのがJWの教義です。」
「使徒たちの活動で主に描かれているのはペテロとパウロの活動。それ以外の使徒たちだって各地で活動して、信者を増やしていたはず。となると、使徒たちの世代で2,30万人以上になっていて、使徒の弟子の世代でも、信者数はさらに増えて行ったでしょう。1世紀の時点で144000人を超えていて、今の統治体のような自称・天に行く人たちは全てインチキというのが妥当な結論でしょう。」
「ということは、いずれ144000人しか天に行かないという教義は放棄するしかないですね。」
「まずは、144000人には触れないようにするだろうね。そして信者がそのことを忘れたころに、あれは象徴的な数ですという新しい光がでてくるという手順じゃないの。この記事だって144000は出てこない。」
「13から16節が“学ぶのを決してやめない”です。 13節では“今年の記念式の時期に,福音書を丁寧に読むのはどうでしょうか。”とあります。14節では“エホバの証人の出版物にあるたくさんの資料を十分に活用してください。”とあります。JW以外の出版物は見ないでくださいということですね。」
「JW以外の本を読むとJWの程度の低さやおかしさがわかってしまうからね。外部の情報から信者を隔離するのがカルトのやり方。」
「14節では“詩編 119:97と脚注を読む。”とあります。そこには“私はあなたの律法を愛してやまない!一日中じっくり考える。”とあります。JWとして旧約聖書の律法を学べばいいみたいです。」
「詩編119の作者は律法を守ることが人間が救われる道だという思想の持主なのだろう。JWとよく似ている。でもイエスの贖いとは相いれない思想だね。」
「15節では“それで,毎日聖書を読んで,根気強く宝を探しましょう。(詩 1:2)”と、毎日聖書を読むことを勧めています。」
「英文ではstick to your Bible reading schedule(聖書通読のスケジュールを守ってください)だから、毎日読めとは言っていない。聖書通読の計画を作って、それに従って聖書を読みなさいという指示だね。こうなると聖書を読むのが苦痛でしかなくなる。」
「組織は信者が聖書を読むことを本当は望んでいません。聖書に無知なほうが操作しやすいですから。」
「そういうわけで、信者が独自の聖書勉強会を立ち上げると、長老たちからすぐにやめるように言われる。」
「16節は信者がすべきことを列挙しています。もちろんJWが嫌いな伝道もあります。“また,イエスに倣って伝道するなら,贖いというエホバからの最高の贈り物を受ける機会を人々に与えることができます。”とあります。JWだけが贖いという贈り物を人々に届けることができると想定しているのがおかしいですね。非聖書的です。」
「ガラテア3:13に“キリストは私たちを買い取ってくださいました。”とあるように、贖いは誰かに届ける贈り物ではないよ。」
「最後の17節には“次の記事では,贖いが私たちの幸せとどう関係しているか,エホバの愛にどのように感謝を表せるかを考えます。”とあります。またもや幸せと感謝の強要ですね。」
「毎年、同じようなことを学ばされるのにうんざりしたなら、さっさとやめよう、JW!」
- 聖書についての質問
- 2025年03月21日 13:26:02
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバに喜ばれる決定をするには(3)”で、主に若いJWが組織の意向に沿った決定をするように誘導する、という内容です。」
「具体的な例として出てくるのは、パーティー、結婚、就職、身だしなみだ。信者の生活の細部までコントロールするのがカルトの特徴。若い人から反発を受けるから、進学問題は意図的に避けたと思うね。」
「そのような日々の生活の細部に宇宙の創造者がいちいち喜んだり悲しんだりするという想定は納得できません。本当は関心ありませんよ。」
「JWの考えでは演台で話をする人はネクタイをしないと、宇宙の創造者は悲しむことになっている。そういう感情的に不安定な神のご機嫌を取るのが信者に課せられた使命とするのがJWという宗教のようだ。」
「2節に要点が出ています。“賢い決定をするには,(1)情報を集め,(2)エホバの見方を考え,(3)選択肢を比較することが役立ちます。”とあります。選択した結果の評価が抜けていますよ。結果が好ましくなければ賢い決定とは言えませんからね。」
「組織に忠実な年老いたJWを見て欲しいね。組織に言われるとおりの決定をしていると、高い確率で悲惨な老後を迎えるという結果になるのは明らかだから、結果の評価は省略するしかないね。」
「3から5節が“情報を集める”です。 英文ではGET THE FACTS(事実を知る)です。微妙に違います。」
「ここにでてくるのは事実を知るというようなものではないので、事実を知るとは訳しにくかったのだろう。」
「4節に“情報を集めるのに役立つのは質問することです。”とあります。英文では事実を知るには質問することですとなっています。質問したら全ての人が正直に答えると思っているようです。バカですね。」
「ネットで調べましょう、とは言えないようだから、誰かに質問しましょうということになる。」
「そのあと“例えばあるパーティーに誘われたとします。どうしますか。”と尋ねます。主催者にあれこれ質問することを指示しています。“こうした質問をすれば,賢い決定をするのに役立つ情報を得られます。(格言 18:13を読む。)”とありますが、引照聖句はそんなことを言っていません。いつもの聖句の誤用です。」
「そこには“聞かないうちに返事をする人は,愚かであり,辱められる。”とある。相手の言うことをよく聞いてから発言しなさい、と言っているだけで、相手にあれこれ質問しなさいとは言っていない。」
「5節に“例えば,聖書の教えに従わない人が参加したり,見守る人がいないのにお酒が出されたりするならどうでしょうか。その場の収拾がつかなくなる可能性はありますか。(ペテ一 4:3)パーティーの時間と集会や伝道の時間が重なる場合はどうですか。”とあります。JW以外の人が来る集まりは参加するな、集会や伝道が最優先だ、ということですね。」
「信者以外の人との接触をなるべく制限するのがカルトの特徴。」
「6から10節が“エホバの見方を考える”です。 エホバの見方というのはよく変わる組織の見方のことです。6節では“エホバの考えが理解できるよう助けてくださいと祈りましょう。”とあります。」
「そう祈ったら、どのようなことが起きたのか、誰かの体験談でも出てくるのかと思ったら何もない。そんなことでは説得力がないよ。」
「以前のものみの塔なら、高校生のアンドレは友人からパーティーに誘われましたが、友人にそのパーティーのことを詳しく尋ねたところ、酒・麻薬やりたい放題、セックスし放題のパーティーで、しかもそれは集会の時間と重なるのです。アンドレはエホバにどうしたらよいのでしょうかと祈りました。そしてきっぱりと断ったのです。驚くことに、そのパーティーの最中に出火し、参加者全員は焼け死にました。アンドレは今では長老として開拓奉仕を楽しんでいます・・・、という話が出てきたものですよ。」
「そんなパーティーはあり得ないことぐらい、世間知らずのJWでもわかるようになったんだよ。」
「7節には“エホバに知恵を求めたなら,聖書のどんな命令や原則が自分の状況に当てはまるかを考えて,エホバの答えを見極めるようにしましょう。”とあります。」
「英文ではBible laws and principles(聖書の律法や原則)を当てはめようとある。JWは律法を守らなくてはならないようだけど、それはおかしいと思った翻訳者は”命令”と変えたね。」
「8節では“経験ある兄弟姉妹から参考になるアドバイスをもらうことができます。でも,自分で調査することも役立ちます。「エホバの証人のためのリサーチガイド」や「クリスチャンのための聖句ガイド」などの調査ツールには,役立つ情報がたくさん載せられています。”とあります。どんな結果になるかはわかります。あれもダメ、これもダメ、王国最優先というアドバイスですよ。」
「それによって組織に自分の人生を決められることに抵抗感が薄れてゆく。そして気づいたら、自分の人生ではなく、組織が望む人生を歩んでいるだけということになる。若い人は気を付けよう。」
「9節には“では,どうすればエホバに喜んでもらえる決定ができるでしょうか。”とあります。この場合はエホバは組織のことです。組織の偉い人を喜ばそうなんて思わなくていいよ、と愛ある神なら言うと思います。」
「9節で“エフェソス 5:17を読む。”とあり、そこには“いつでも,エホバが何を望んでいるかを見極めましょう。”とあるけれど、新約聖書にはエホバなんか出てこない。神の名前が書かれている写本はないよ。ここでは単に“主”とあるだけで、キリストのことを言っている。JW訳はひどい改ざん聖書。」
「10節では“例えば,親は娘のことを思って,信仰がそれほど強くなくても裕福な男性と結婚してほしいと考えるかもしれません。”とあります。もちろんこれはダメな決定で、貧乏でも長老か援助奉仕者という肩書がある男との結婚が正しい決定のようです。」
「カルトらしい価値観の押し付け。結婚したい人と結婚するのがよい決定だよ。JWの言うことを聞いていたら不幸な結婚をするか、一生独身かのどちらかになる確率が高い。」
「11節から15節は“選択肢を比較する”です。 11節に“でも識別力があれば,いろんなことが関係している場合でも,賢い決定を下すことができます。”とありますが、これは同語反復ですよ。当たり前のことを言っているだけです。」
「賢ければ賢い決定を下せます、と言っているのと同じ。駄文だね。」
「12、13節は仕事を探す話です。賢い決定のためには“例えば,その仕事は会衆の集会の予定に影響しそうでしょうか。家族を感情面でケアしたり信仰面で養ったりするのに必要な時間を 奪われないでしょうか。”と考える必要があるようです。正しいJWは宗教熱心、仕事不熱心で行こう、ということです。」
「その結果、悲惨な貧乏暮らしを強いられるのがJWの子どもたちということになる。不幸の連鎖を止めるためにもJWは子どもは作らないで欲しいね。そうすればJWという宗教はいずれ消滅する。」
「14節は問題ですよ。“例えば,自分の好きな服装や髪形があるかもしれません。でも,一般の人や会衆の人がそれを見てよく思わないとしたらどうでしょうか。識別力があれば,周りの人の気持ちを尊重します。また愛があれば,「人」のためになることを優先し,慎みを示します。”とあります。要するに外見に関して周りのJWの意見に従えということです。信者には自己決定権がないようです。」
「周りの人の気持ちを尊重すると言えば聞こえはいいけれど、JWの要求に従えということにすぎない。JWは自分たちの考えを主張するだけで、JW以外の人の気持ちは尊重しないのにおかしいね。」
「14節では識別力があれば“「人の信仰を妨げる」ことを避けられます。(フィリ 1:10)”とあるのですが、英訳ではnot stumbling others(他の人をつまずかせることがないよう)です。一方、協会共同訳では” 責められるところのない者となり”です。だいぶ違いますね。」
「引照聖句はまず“キリストの日までずっと純粋でいて”とあり、次にaproskopoiという形容詞が続く。これは能動的に危害を加えないとも訳せるし、受動的に非難されないとも訳せる。」
「JWのような立場は救われるためには積極的に伝道したり集会に参加したり奮闘努力する必要があるというものなので、能動的に人をつまずかせるな、と訳すのを好むわけですね。」
「通常のパウロ理解では、パウロはJWと違って自力救済を否定している。純粋というのは周囲の影響による汚染を免れているという意味だけど、それとペアになっている単語なので、受動的な非難されない、責められるところがないという意味と理解するとつり合いが取れる。」
「15節では“場合によっては家族に相談して,そのために一人一人がどのように協力できるかを話し合っておくこともできます。”とあります。JWの家族を相当美化していますね。JWの教義に反する決定をした場合、家族全員で無視し追い出しにかかりますよ。」
「JWの教義に反する決定は自動的に正しくない決定となるので、子どもでも家から追い出して、野たれ死にしても仕方がないというのが、正しいJW家族の在り方。子どもの命よりも教義優先がJW。恐ろしいね。」
「16,17節は“うまくいく決定をする”です。 まとめです。“これまでに考えてきたステップを全て実行すれば,賢い決定が下せます。”とありますが、説得力ゼロです。この記事に従えば、自己決定権を放棄し、絶えずJWの言うことを聞いて、自分の人生を決して責任を取らない他人に決めてもらうのが正しい決定といっているだけです。」
「それがJW的には正しい決定かもしれないけれど、“うまくいく決定”ではないよ。うまくいったかどうかは結果しだい。JWの言うことを聞いていたらうまくいきましたというアンドレやアンジェラの真偽不明の体験談が一つもなかったところを見ると、本当はうまくいかないようだね。」
「最も賢い決定は言うまでもなくJWをやめるという決定ですよ。」
「口には出さないけれど、JWの多くがそう思っているよ。」
- 聖書についての質問
- 2025年03月14日 13:54:09
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“夫の皆さん,妻を大切にしましょう(2)”で、女性を蔑視し妻に暴力をふるうJWの夫の皆さん、少しはましな夫になりましょう、という内容です。」
「妻を大切にするよう注意しなければならないなんて、おかしいね。JWにはまともな男が少ないということかな?」
「アメリカやヨーロッパでは若くして結婚する人が多いのですよ。結婚前なのに愛情表現が過度になりすぎて排斥されることを防ぐためです。ですから非常に未熟な若い男性むけの記事なんですよ。」
「本来結婚すべきでないような人間がJWの規則のせいで、早々と結婚して、お互いに不幸になることが多いので、こんな記事が書かれたわけだ。」
「この記事ではやたらとポルノという言葉が出てきます。ポルノに執着するのはJWの特徴ですね。ポルノを見ることは諸悪の根源であるというのがJWの見解のようです。」
「この記事は子どもに対する配慮は全くないけれど、子どもも集会に参加して、“エホバはポルノを憎みます。”なんてコメントするのかな?」
「1節に“エホバは「幸福な神」です。私たちにも幸せになってほしいと思っています。(テモ一 1:11)”とあります。幸福な神と訳している聖書はありますか?協会共同訳では“祝福に満ちた神”です。」
「JWの英語訳ではthe happy Godだけど、そんな英語の聖書はないでしょう。幸福な神とはどのような意味かJWに質問したいね。人類の不幸を目にしても少しも気にしない能天気な神と言う意味かな?」
「2節にはさっそく、“夫がポルノを見ているために,夫婦関係にひびが入っているケースも少なくありません。”と根拠もなく断定しています。」
「ポルノを見ることで夫婦関係が悪化する夫婦は元々うまくいっていない夫婦じゃないの?夫婦関係が悪くなる原因はいろいろあるのに、わざわざポルノを取り上げるところがJWらしくていいね。」
「3節は夫が妻を虐待する原因を色々あげていますが、もちろんポルノもその一つです。“いつもポルノを見ているために女性や性に対する見方がゆがんでいる人もいます。”とあります。」
「英文ではregularly viewing pornographyで、いつもポルノを見ているとは言っていないよ。定期的に見るということ。いつも見ている人なんていないと思うけど、JWにはいるのかも。」
「本当にポルノが妻への虐待を引き起こしているという根拠はあるのですか?」
「ポルノと虐待との関係は知らないね。ポルノと性犯罪の関係もはっきりしないけれど、性的な表現が強く規制されている国ほど性犯罪が多い。JWのようにポルノを規制すると性犯罪はむしろ増えるかも?」
「JWはポルノとひとくくりしていますが、内容は様々ですよ。」
「有害なポルノとそうでないものがある。有害なポルノの代表は暴力的なもの。暴力的な性描写のあるポルノは犯罪を誘発しやすいとされる。でも、そんなポルノを見たからと言って性犯罪に走る人はごくわずか。ポルノは性犯罪の原因の一つにすぎない。」
「もともと性犯罪傾向の強い人がその種のポルノを好んで見るのでは?」
「それは言えるね。性犯罪と有害なポルノを見ることは、どっちが原因でどっちが結果かははっきりしない。とにかくこの記事のポルノに関する内容は根拠の乏しい、いい加減なものということ。」
「5節では“ペテロ第一 3:7を読む。エホバは夫たちに,妻を大切にするように命じています。”とあります。でも、妻を大切にするようにという聖句はこれ以外にほとんどないですよ。それに対して、妻は夫に従えということは何度も出てきます。」
「たとえば、コロサイ3:18,19に“妻の皆さん,夫に従ってください。それは主に従う人にふさわしいことです。 夫の皆さん,妻を愛し続けてください。ひどく怒ってはなりません。”が典型的だね。妻は夫に服従し、そういう服従的な妻を夫は大切にするという関係が、聖書が想定している夫婦関係でしょう。JWもそういう夫婦を理想の夫婦と見ている。時代遅れだね。」
「6から9節が“妻を傷つけるようなことを決してしない”です。 してはいけない4つのことが出てきます。もちろんポルノも出てきます。6節は“暴力を振るうこと。”で、7節は“言葉の暴力。”で、8節が“ポルノを見ること。”、9節が“妻を性的に辱めること。”です。」
「この中で一番害が少ないのはポルノを見るでしょう。それなのに一番悪いことのように書かれているのがJWらしい。」
「6節には“主題の聖句のペテロ第一 3章7節によると,夫は妻を大切にしないならエホバとの友情を壊してしまう危険があります。エホバに祈りを聞いてもらえなくなる可能性さえあります。”とあります。祈りを聞いてもらえなくなるから妻を虐待してはいけないようです。そういう心配がなければ妻を虐待してもいいのですか?」
「“エホバとの友情を壊してしまう危険”なんて、元の英文にないよ。his relationship with God will be affected.(神との関係は影響を受けるでしょう)とあるだけ。神との友情というくだらないことを言っているのは日本語の翻訳者ということだね。」
「7節では“エホバは全部聞いています。誰も見ていない家の中にいる時を含め,夫が妻にどのような話し方をしているかをエホバは気に掛けています。”とあります。エホバって盗聴しているということですね。でも聞くだけですよ。なにもしませんね。」
「言葉に気を付けろということだけど、もっとましな理由を思いつかなかったのかな?」
「8節では” エホバはポルノを憎んでいます。”と断言しています。宇宙の創造者がそんな小さなことにいちいち腹を立てているとは意外です。地球には愛ある創造者がポルノ以上に憎むべきことがたくさんありますよ。」
「宇宙の創造者にとって、幼い子どもが飢え死にすることよりも、おとながポルノを見ることの方が憎むべきことなんだろう。」
「JWの想定する神は人間の日常生活の隅々まで口を挟まずにはいられない支配的で口うるさい偏狭で嫌な神ということですね。」
「格言5:19に“あなたの妻はかわいい雌鹿,優雅な山ヤギである。いつも彼女の乳房から満足を得るようにしなさい。あなたは妻の愛に絶えず夢中になるように。”とあるよ。JW的には、これって神の言葉なんだよね。こういうことを言う神がポルノを憎んでいるとは思えないけど。」
「9節は18歳以下は読み飛ばすところですよ。“夫の中には性関係において,妻を辱めたり,汚れているとか愛されていないと感じさせたりする人がいます。”とあります。どういうことなのか、抽象的すぎてよくわかりません。なぜイラスト入りで具体的に示さないのでしょうか?」
「英文よりかなりあいまいに訳している。昔は露骨に書いていたのにね。多少常識を身に着けたのかも。」
「10から14節が“妻を傷つける行いをやめる”です。 10節に“夫は妻に対するひどい行いをやめるためにどんなことができるでしょうか。イエスに倣うよう努力することが助けになります。”とありまして、イエスに倣おう、という話が続きます。イエスを持ち出すなんて珍しいですね。普通のキリスト教になろうとしているかのようです。」
「イエスは結婚していないよ。なんかズレてるよね。聖書にはよい夫の話がないということかな。JWの好きな旧約聖書は一夫多妻制の社会を背景としているから、現代人が模範とするような夫は登場しない。」
「よい夫というとイサクはどうですか?妻はリベカ一人だけですよ。」
「イサクも創世記26章に、自己保身のために妻のリベカを妹ですとウソを言って、いろいろ問題を起こしたという話が出ている。模範的じゃないね。」
「ダメな夫に対してイエスに倣えというアドバイスはあまり役に立ちません。下手な野球選手に大谷選手を倣えというだけではうまくならないのと同じです。」
「JWのアドバイスはほとんど役に立たない。JWは聖書を神の知恵の宝庫と信じて、聖書に基づくアドバイスをしようとするけれど、聖書は古代の知恵しかなくて、現代には適用できないものが多い。」
「13節では“夫婦の絆を大切にしている夫は,どんなものであれポルノに当たるものを退けます。”とあります。ポルノ追放で夫婦円満のようです。ポルノにこだわっていますね。」
「そのあとに“ヨブのように自分の目と契約を結び,ふさわしくない関心を持って妻以外の女性を見ないことを決意”するとある。自分の目と契約するというのは詩的表現だよ。それをまじめに受け取って、自分の目と法的拘束力のある契約文書を作るの?聖書に基づくアドバイスがいかにヘンなものかがよくわかる。」
「13節の下に、自動車修理工場ではたらいているJWが仕事仲間からポルノ雑誌を見るよう誘われたけれど、断っているという写真が出ています。今どきポルノ雑誌を持ち込んで回し読みする職場がありますか?」
「ポルノ雑誌自体が時代遅れでしょう。多くの人は自分のケイタイやパソコンで見ていると思うよ。ものみの塔という雑誌を作っている人間がいかに時代遅れかということがわかる。」
「14節は虐待した夫が妻との関係修復するための具体的な手順です。6つ出ています。基本的には、問題を認め、態度を変え、謝罪し、祈り、長老に助けを求めるという流れです。これができるようだと、そもそも問題を起こしていません。なんでも自力で解決できると思っている所が怖いです。」
「たいていの問題は、悔い改めて、祈り、長老に相談すれば、解決するというのがJWの考え方。もし21歳の女性経験ゼロ社会経験ゼロで親と同居している長老がいたら、専門家よりも、その長老に相談することを勧めるのがJWなわけだね。」
「ここでは妻は一方的な被害者として想定されています。悪いのは夫だけとは言えないケースだってありますよ。」
「JWの夫婦観は夫が主導権を握り、妻は従順に従うだけという非現実的なもの。その夫婦観に基づいたJWのアドバイスはほとんど役に立たない。」
「それから家庭内暴力は犯罪だという視点が全くないのが気になりますね。被害にあった妻は警察に相談すべきです。」
「そういうことをして欲しくないから、こんな記事を書いているんだよ。」
「15から17節が“妻を大切にする”です。 3つのことが出ています。15節は“愛していることを伝える。”です。妻を殴っておいて、愛しているも何もないですよ。」
「具体的には“手を握ったり,優しくハグしたりすることができるかもしれません。また,「今何してる?」とか「ご飯食べた?」といったメッセージを送ること もできるでしょう。”と勧めている。殴っておいて、この程度で妻を大切にしていることになるわけないだろう。こんなことを書くから、人を傷つけても簡単に許してもらえるという甘い考えのJWが増えてくる。」
「16節は“感謝を伝える。”で、17節は“妻の尊厳を大切にし,優しく接する。”です。」
「17節には、再び“性関係において,妻を辱めたり不快に感じさせたり良心にとがめを感じさせたりするようなことはしません。”と性行為の問題を取り上げている。でも英文ではHe will not pressure her to engage in sexual acts・・・とあり、妻の嫌がるような性行為を強要するなと言っているのに、それがこの翻訳ではぼかされている。夫婦であっても性関係の強要は犯罪ということを教えるべきだよ。」
「脚注(+)には“聖書には,夫婦間の性行為について何が清くて何が汚れているか,詳しくは書かれていません。クリスチャンの夫婦はこの点で,エホバへの敬意が表れていて,お互いが喜ぶことができ,清い良心を保てるような決定をする必要があります。多くの場合,夫婦は結婚のこのプライベートな面についてほかの人と話し合うことはしないでしょう。”とあります。多少まともになったようですよ。」
「ポイントは最後の部分だよ。夫婦の性関係を長老などに相談するなということ。こういうことをしてはいいのでしょうかと支部や本部に手紙で質問するおバカなJWがいたんだよ。そのJWの質問にいいとか悪いとか言って、後で何か責任を問われるようなことがあると嫌なんだよ。これは本部の弁護士のアドバイスじゃないの。」
「最後の18節はまとめです。“妻を傷つけるようなことをせず,尊厳を大切にし,優しく愛情を込めて接するようにしてください。”とあります。JWの夫にはこんな基本的なことから教えないとダメというわけですね。」
「JWの両親に育てられると、自然な愛情を持たない、性的に歪んだ、不満や怒りを発散できず内側に貯め込み突然暴力をふるい出す最低の男が出来上がるということじゃないの?結婚するならJWの男だけはやめよう!」
- 聖書についての質問
- 2025年03月07日 14:40:01
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバをたたえましょう(1)”で、2025年の年句「エホバをたたえよ。輝かしい名を持つ方を」(詩編 96:8)についての説明です。」
「終わりがクルクルと言いながら、また新しいJW年度を迎えるわけだけど、また1年、組織の奴隷として頑張りなさいということだね。」
「1節はいきなりヘイトスピーチです。” 私たちの周りには自分のことばかり考えている人がたくさんいます。”と根拠も示さず断定しています。」
「自分たち以外の人間を悪人に仕立て上げるのはカルトのよくやること。そうやって自分たちが特別優れた存在と思うわけだね。」
「でも1節では“エホバ神をたたえている人はあまり多くありません。”と珍しく正しいことを言っています。」
「100年以上伝道に励んできたけれど、信者の数はそれほど増えなかったことは正しく認識しているわけだ。」
「2から4節が“エホバをたたえるとはどういうことか”です。 日本語訳では重要なことを省略していますね。英語版では2節にWhat is glory? In the Bible, the word “glory” can refer to anything that makes someone impressive.とあるのに、まるごと飛ばしています。」
「栄光とは何かを定義してある部分だけど、誰かを印象的にするものなら何でも指す言葉と言っている。これはちょっとへんだね。日本語訳では“栄光”を省略しているから、まるごと削除したのだろう。」
「2節の下に、シナイ山のイラストがありますが、シナイ山はこんな山ではないですよ。いいかげんな創作ですね。」
「空想のシナイ山だね。JWとしてはシナイ山は実在すると思っているのだから、実際にどの山が聖書に出てくるシナイ山かを突き止めて欲しいね。でもそういうことはしないのがJWだ。」
「3節に“例えば,エホバの力強さや,温かくて魅力的な性格について他の人に語ることができます。”とあります。伝道すすめですね。伝道するとエホバをたたえることになるようです。」
「伝道時間の報告を廃止したから、ひと月に1回公園で遊んでいる子どもに“エホバは偉大なり!”と話しかければ、伝道したことになる。それで十分ということ。」
「3節に“また, 何かがうまくできた時,エホバのおかげだと考えることができます。”とありますが、これがエホバをたたえる方法だそうです。テストでよい点数を取ったら、エホバのおかげだと考えればいいわけですね。」
「英文ではWe also glorify God when we give him credit for things we accomplish in his strength.(神の力によって成し遂げた事を神の功績と認めることによって、神に栄光を捧げることができる)と言っている。翻訳者はよく意味が分からなかったので、適当に訳したね。」
「4節にルカ13章にあるイエスが病人を癒したという話が出ていて、“イエスが両手を置くと,その女性はすぐに真っすぐに立ち,「神をたたえ始め」ます。”とあるのですが、英文では“神の栄光”です。」
「日本語版では“栄光”は抹殺した。」
「5から7節が“エホバをたたえたいと思うのはどうしてか”です。 3つの答えが出ています。模範回答ですね。5節では“私たちはエホバに深い敬意を抱いている。”、6節では“私たちはエホバを心から愛している。”、7節では“私たちは他の人にもエホバについて知ってほしいと思っている。”とあります。たたえないと滅ぼされると脅かされたからという理由はダメなようです。」
「ポイントは7節だね。要するに伝道しなさい、という話に持って行くわけだ。エホバを愛しているなら伝道する、エホバをたたえたいのなら伝道する、と全ては伝道へとつながるのがJWの論理。」
「7節には“エホバについて本当のことを知らない人はたくさんいます。サタンがエホバについてのひどいうそを広めて,人々の思考を遮っているからです。(コリ二 4:4)”とあるのですが、引照聖句はそんなことを言っていません。」
「一般論としては、まず新約聖書ではキリストが主人公だからね、神はあまり関係ないことが多い。それから新約聖書にはエホバは出てこない。エホバが出てくるのはJWの改ざん聖書だけ。」
「引照聖句は“神に似た者であるキリストについての素晴らしい良い知らせの光が輝き渡らないようにしているのです。”とあります。エホバなんか出てきません。」
「キリストに関する良い知らせを妨げているのはJWでしょう。エホバ、エホバと連呼し、キリストについて書かれた聖句をエホバと勝手に読み替えて、キリストを無視しようとしている。」
「“神に似た者であるキリスト”という訳はへんです。協会共同訳では“神のかたちであるキリスト”となっています。」
「日本語訳の問題だね。英語版ではちゃんとthe image of Godとなっている。神に似たものと訳するのはダメだね。これはキリストは見えない神を可視化した完全な表現であるという思想を言っている。JWではキリストの地位は低いので、翻訳者は“似た者”がふさわしいと思ったのだろう。」
「7節には“サタンは人々に,エホバは恐ろしい神だとか,人間のことを気に掛けていないとか,世の中に苦しみが多いのは神のせいだと思い込ませています。”とカルト丸出しの妄想を言っています。大多数の人はエホバなんて知りません。」
「大多数の人はエホバというのは時々家に作り笑いをしながらやって来る二人組のおばさんのことと思っているよ。そういう人が来ると、家の中ではエホバが来たと言っている。」
「8から14節が“エホバをたたえるためにどんなことができるか”です。 8節に“詩編 96:1-3を読む。言葉によってエホバをたたえることができる。”とあります。引照聖句では“歌え”が3回でてきます。歌うことを勧めるのかと思ったら、8節では“忠実なユダヤ人や1世紀のクリスチャンもそうしました。エホバがしてくださった良いことについてためらわずに話し,エホバの評判を守りました。”とあります。またもや伝道の勧めです。聖句の誤用ですね。」
「聖句なんてどうでもいいんだよ。聖書を学んでいるという幻想を維持するための小道具にすぎない。次の節の体験談が面白いよ。」
「9節にはアンジェリーナ姉妹の体験談です。“姉妹は仕事を始めた頃,同じように新しく会社に入った人たちと一緒にミーティングに参加するようにと言われました。そこでは,それぞれ自分のことを話す機会が与えられました。”とあります。」
「JWの女性が会社に入ったの?正社員じゃないでしょう。掃除の仕事か何かじゃないの?それなのにそんなことを求められるの?作り話としても無理な設定じゃないか。」
「その姉妹は“自分がエホバの証人で,幸せな生活を送っていることをスライドショーにして紹介しようと思っていました。”とあります。ウソでしょう。こんなJWはいませんよ。JWであることはとても恥ずかしいことなので、なるべく隠すのが普通のJWです。無理な設定です。」
「職場に宗教をもち込むのは非常識だね。JWとして幸せな生活を送っているなんて、宗教宣伝以外の何物でもない。この姉妹は世間知らずの非常識なカルト信者なわけで、そんな人がちゃんとした会社に就職できるわけないよ。」
「会社で自己紹介を求められたら、話すべきことは仕事に関連したことじゃないですか?」
「話すべきことと言えば、学歴、職歴、過去に職場でどのようなことを成し遂げてきたか、などでしょう。宗教の話をするなんてありえない。JWの場合はそれしか話すことがないからだろうね。」
「ところが思わぬことが起こります。“でも自分の番が来る直前に,ある男性が,自分はエホバの証人の親に育てられたと言いました。そしてエホバの証人の信条をばかにするようなことを言い始めました。”とあります。こいつもバカですね。そんな話をする場ではないということがわからないようです。どういう会社なんですか?JWや元JWがたくさんいるみたいです。」
「清掃会社でしょう。この人はJWからすれば憎たらしい“背教者”なわけだ。JWが背教者相手に負けるわけにはいかないよね。」
「そして10節です。“とても緊張した空気が流れましたが,姉妹は落ち着いて話しました。自分がエホバの証人のイベントに参加して楽しんでいる写真をみんなに見せて,信じていることを敬意を込めて話しました。(ペテ一 3:15)姉妹が話し終える頃には,その男性の態度は和らいでいました。”とあります。そんなことで態度がやわらぎませんよ。」
「翻訳もおかしい。“エホバの証人のイベント”ではなくspiritual events(霊的行事)。” 信じていることを敬意を込めて話しました”はshe tactfully defended her beliefs(信じていることを巧みに擁護しました)。カルト色を薄めようとしているけれど、やっていることはカルトの宣伝そのもの。」
「10節の下にはその様子を示した写真があります。写真付きとは驚きです。」
「写真では、その姉妹の話を6人が聞いているという設定だけど、みんな熱心に画面を見ている。カルト信者の話にそんな反応するわけないよ。そんな時は、大多数は目を合わせないように下を向いて自分のスマートフォンを見ているよ。」
「10節の結論は“姉妹のように私たちも,誰かがエホバのことを悪く言うとき,エホバをたたえることができます。”というものです。JWは何か言われたらコソコソ逃げないで、天を見上げて、エホバは偉大なり、エホバは偉大なり、と連呼しなさいということのようです。」
「それは狂信度200%以上のJW以外には無理だね。この話は実社会の経験がほとんどない人が1%の事実をもとに99%創作したものだね。この姉妹は周囲の人を不快にさせる独善的な狂信者として、その日のうちにクビになったよ。働きたいなら職場では宗教の話はやめよう。」
「恐らく、この姉妹はどこかの会社に派遣されたのですよ。常識の欠けた人間なのでJWのたわごとを職場の人間に仕事中にダラダラ話して、解雇されただけです。それをこの姉妹はエホバを擁護するために勇敢に立ち上がったという話にでっちあげたんですよ。」
「それを聞いた長老が、元JWの嫌な同僚がいたことにしたほうがインパクトがあると思い、元JWの同僚の話を付け加えたのかもね。こうやって話はふくらんでいくわけだ。」
「その後アンジェリーナ姉妹がどうなったかを書いてくれると、完璧な体験談だったのに、それはありませんね。残念です。」
「その後アンジェリーナ姉妹は会社から高給のポストに就くように頼まれましたが、開拓者になるために断りました。今では開拓者をしながらベテルでの掃除の仕事も楽しんでいます、というものだと思うよ。」
「11節は“詩編 96:8を読む。持っている物を活用してエホバをたたえることができる。”です。引照聖句には“供え物を持って神の庭に入れ。”とあるのですが、結論は“私たちも自発的な寄付によってエホバをたたえることができます。”と言うものです。露骨な寄付のおねだりです。JWも落ちぶれたということですね。」
「寄付でエホバをたたえるなんてバカげた理屈をこねるのをやめて、金がないから、金をくれ、と率直に書いた方が寄付が集まるよ。」
「12節は体験談です。干ばつが続き食糧不足のジンバブエでプリスカ姉妹が一生懸命JW活動をしていたら、“姉妹はエホバの証人の組織を通して救援物資を受け取ることができました。それは兄弟姉妹の寄付によって準備されたものでした。そのことを知った近所の人たちは感銘を受け,「確かに神は見捨てなかった。その神について自分たちも知りたい」と言いました。こうして7人が集会に出席するようになりました。”というものです。この話の要点は何ですか?飢え死にしそうでもJW活動をやれば、食料が得られると言いたいのでしょうか?」
「それを暗示しているけれど、そうは言っていない。それがカルトのズルいところだね。この話の要点はもっと寄付をしたら、苦しんでいるJWを助けられる。もっと寄付をしなさい、というもの。」
「7人が集会に参加するようになったそうですが、救援物資目当てなのはミエミエですよ。」
「その7人は恐らくJWをすぐに見捨てて、もっと資金力のある教会組織の方に移っていったと思うよ。」
「13節が“詩編 96:9を読む。行いによってエホバをたたえることができる。”です。引照聖句は“聖なる装いをしてエホバにひれ伏せ。”とあるだけで、行いでエホバをたたえるとは言っていません。」
「協会共同訳では“聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。”となっている。“聖なる装いをして”というのは、服装にこだわるJWが好みそうな訳だけど、“装い”に相当する言葉は元のヘブライ語にはないよ。」
「14節は囚人の体験談です。ジャックという死刑囚が“収監されていた刑務所を訪問してきたある兄弟と聖書レッスンをすることになりました。ジャックはこれまでたくさん悪いことをしてきましたが,古い人格を脱ぎ捨て,やがてバプテスマを受ける資格を満たすほどになりました。”とあります。そして、“ジャックが処刑された次の週,兄弟たちがこれまで通り集会を刑務所で開くと,そこには初めて集会に来た囚人がいました。”というものです。この種の話は聞き飽きました。」
「どの宗教でも似たような話しがあるよ。死刑囚が敬虔なカトリック教徒になったとか熱心な仏教徒になったとか。」
「14節に“その刑務所で働いていたある軍曹”とあるのですが、誤訳です。刑務所に軍曹はいません。翻訳者は常識がないですね。」
「元の英文ではsergeantで、軍隊なら軍曹と訳されるけれど、ここでは刑務官のある階級を指すのだろう。適切な訳語はないから刑務官と訳するしかないね。」
「最後の15,16節が“近い将来,エホバはどのようにしてご自分の名がたたえられるようにするか”です。 15節は“詩編 96:10-13を読む。”で、そこには“近い将来,エホバはどのようにしてご自分の名がたたえられるようにするでしょうか。裁きを行うことによってです。”とあります。引照聖句の誤用ですね。」
「詩編96は預言じゃないよ。神を賛美している詩だね。詩編96と同じものが歴代一16:23以下にあるけれど、そこでは神の箱がエルサレムに運び込まれたことを祝って、ダビデがつくったことになっている。でもこの詩はバビロン捕囚後のものと考えられている。」
「そのあと、“間もなくエホバは,ご自分の聖なる名を非難している大いなるバビロンを処罰します。”とあり、JWが大好きな啓示に飛びます。」
「英文ではSoon he will execute Babylon the Greatで、executeは処刑する、死刑執行する、という意味。すごいヘイトスピーチ。敵意があふれているね。」
「16節では“今でも私たちは言葉や行いによっていろいろな機会にエホバをたたえることができます。”と夢物語から現実に戻ります。信者は伝道、寄付、JW規則に則った行いに励まないと、エホバをたたえてない、といじめられるわけです。」
「今年の年句の話だったけれど、年句なんて決めなくてはいけないものなの?それは異教の習慣と言って、もうやめたらいいよ。」
- 聖書についての質問
- 2025年02月28日 14:20:32
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバはあなたの涙を見過ごしません(51)”で、悲しい時、つらい時は集会に来て、祈り、聖書を読めばよいのだ、という内容です。」
「何の役にも立たない記事。旧約聖書の話に、体験談を付け加え、教訓をたれるというもので、文章のレベルは小学生程度で何の深みもなく、飽き飽きした、もう勘弁してくれという感想を抱く人が多いよ。」
「聖書を読み、祈り、集会に来るというのがJWのあらゆることの解決策です。この記事でも同じです。」
「少しは何か新しいことでも書いてくれたら面白いのに、そういうことはないよね。この記事でもイエスは出てこない。JWは真のクリスチャンというけれど、イエスには興味がないようだね。」
「この記事ではハンナ、ダビデ、ヒゼキヤ王の三人が登場します。二人に減らしたらいけないのですか?そうすれば早く終わります。」
「3はJWの完全数のようで、3という数字にこだわりがあるようだ。」
「3節で、エホバは“愛情深い親のように,子である私たちが泣いているのを見ると,つらく感じ,助けるために行動してくださいます。(イザヤ 63:9を読む。)”とあるのですが、引照聖句は古代イスラエルの話で、今のJWと関係ないですよ。」
「イザヤ63:7に“私は,エホバの揺るぎない愛の行い,エホバの素晴らしい行いについて語る。エホバは憐れみと大きくて揺るぎない愛により,私たちのために,イスラエル国民のために,多くの良いことを行ってくださったからだ。”とある。神が過去にイスラエル国民示された憐れみと愛を褒めたたえている部分が63:7-9だね。今のJWとは無関係。」
「4節に“聖書には,エホバがご自分に仕える人たちが涙を流した時にどのように助けたかが書かれています。”とありますが、何もしないことの方が圧倒的に多いですよ。」
「伝道4:1に“さらに私はこの地上で行われている虐げの行為全てに注意を向けた。私は虐げられている人たちの涙を見た。彼らには慰めてくれる人がいなかった。”とある。神はなにをしているのかな?」
「5から10節が“悲しい時に流す涙”です。 ハンナが取り上げられます。5節に“問題の1つは,夫にペニンナというもう1人の妻がいて,そのペニンナから見下されていたことです。それだけでなく,ペニンナには何人も子供がいたのに,ハンナには子供ができませんでした。(サム一 1:1,2)”とあります。これって社会制度の問題ですよ。なぜ愛ある神はそういう社会制度を許しているのか小学生でも疑問に思います。」
「一夫多妻制が生み出す問題だね。子どもがいないことが女性にとって大問題になるのは、女性を子どもを産むための道具としか見ない女性蔑視の家父長制度があるから。これらの問題を放置し、時々恣意的に手助けするだけの神は、どう見てもダメな神。」
「独裁者がおかしな社会制度を作り、様々な不幸を生み出しているのに、時々困った人を助けるから、その独裁者を偉大な指導者とほめたたえるようなものですね。」
「JWのように古代中東で書かれた旧約聖書を模範とすると、現代社会ではおかしなことになるからやめよう。」
「英文ではa bigamous marriageという言葉が使われています。重婚という意味ですが、これは間違いです。それで翻訳しなかったのでしょうか?」
「重婚は違法行為を指す言葉。法律上結婚している人がさらに結婚すると重婚罪にとわれる。古代イスラエルでは複数の女性と結婚しても犯罪ではないので重婚という言葉を使うのは間違い。翻訳者はその点を理解していたというより、重婚の意味が分からなかったので翻訳を飛ばしたのだろう。」
「6節で“ハンナが悲しみを和らげるのに役立ったことの1つは,真の崇拝の中心地である幕屋に行ったことです。”とあります。ハンナは祈るわけですが、祈りの効果は祈る場所によって違うということですか?」
「サムエル記を書いた人はそういう思想の持主。神殿で祈らないとダメと思っている。」
「それならJWも年に一回ニューヨークの本部に来て祈らないといけないとなぜしないのか不思議ですね。」
「組織はそんな旅費があれば寄付をしなさいという思想だからだよ。」
「8節が“学べること”で、“私たちも,たとえ気分が優れないとしても クリスチャンの集会に出席するなら,悲しい気持ちが和らぎます。(ヘブライ 10:24,25を読む。)”と、集会に来るよう圧力をかけています。つらいことや悲しいことがあっても、集会を休むなということですね。でもハンナは幕屋に行ったのは年に1回です。JWもそれを見倣って集会に行くのは年に1回だけでいいはずです。」
「JWは不都合なことは無視する。そもそもJWの集会は悲しい気持ちが和らぐようなものではないでしょう。信者にあれこれ要求し、もっと頑張らなくてはダメだ、と罪悪感や無力感を生じさせるもの。」
「9節では“妻を亡くしたある特別開拓者の兄弟”の話が出てきます。“でも集会に行くことで,本当にたくさんの力をもらってきました。兄弟姉妹が掛けてくれる温かい言葉のおかげで,気持ちがすっと軽くなります。”とあります。元気のない人がいたら温かい言葉をかけてあげなさいという指令です。」
「この特別開拓者の人はJWの集会以外に行くところがないんだよ。だから集会にやってくるわけだ。でも集会に来られなくなるほど精神的に落ち込んだら、忘れ去られるだけ。」
「10節は“夫を強盗に殺されるという経験をしたある姉妹”の話です。“でも愛情深いお父さんエホバに祈ると,心が安らぎました。何と祈ったらよいか分からないこともありましたが,エホバは私の気持ちを分かってくださいました。心がひどく乱れる時には,穏やかな気持ちになれるよう祈りました。そうしたら本当に心が落ち着いて,前に進む力が出てきました。”とあります。とにかく祈りなさいという指令ですね。」
「エホバは強盗を防いではくれないけれど、穏やかな気持ちにしてくれるというわけだ。でもエホバ以外の神に祈っても同じ効果は得られるよ。祈りという行為そのものが気持ちを穏やかにする。」
「10節では“苦しい状況そのものは変わらないとしても,エホバはあなたの心を落ち着かせ,穏やかな気持ちを持てるように助けてくださいます。”とあります。エホバは精神病の薬のかわりということですね。」
「宗教は昔からそういう抗うつ剤の役割を果たしてきた。でも今は副作用の少ない抗うつ剤があるから、そちらを利用した方が確実だよ。」
「この記事でも、落ち込んだときは専門家に相談しましょうとは書かれていません。信者の治療の機会を奪う有害な宗教です。」
「集会に来て、祈れとしか書かれていない。これではJWの精神状態は悪化するだけだ。精神症状が進んで集会に来られなくなった信者のなかには冷淡で残酷なJWを恨んでとんでもない事件を引き起こす人も現れる。組織は信者の精神状態の改善を真剣に考慮して欲しいね。」
「11から14節は“裏切られた時に流す涙”です。 JWの人気男ダビデが取り上げられます。ここでは裏切られた男として登場しています。ダビデは被害者のようです。」
「自分と対立する人を裏切り者と呼ぶことによって、自分は悪くない、悪いのは相手だ、と考えるわけだ。JWも自分と対立する人を背教者と呼んで一方的に断罪し、被害者ぶる。」
「12節に“また別の時にダビデが書いた印象的な言葉が詩編 56編8節に収められています。(読む。)そこにはエホバの優しい気遣いが美しく表現されています。”とあります。引照聖句には“私の涙をあなたの革袋に集めてください。あなたの書に記されている私の涙を。”とあるのですが、優しい気遣いなんて全く感じませんよ。」
「苦しんで涙を流している人がいる時に、助けもしないで、その涙を集めている人がいたら異常者だね。詩編56の作者はいい詩的表現と思ったのだろうけれど、いまいちかな。」
「13節が“学べること”で、妻に逃げられた兄弟の話が出てきます。“人間同士の関係は終わってしまうことがあっても,エホバは岩のように変わらない方だということが分かりました。どんなことが起ころうと,エホバはそばにいてくださいます。ご自分に尽くす人を見捨てることはありません。”というものです。エホバへの信仰心があれば、妻に逃げられても耐えることができるようです。」
「別の神様への信仰でも同じ効果が期待できるよ。無理にJWでいる必要はないよ。」
「13節には“あなたが人からどんな扱いを受けようと,天のお父さんはあなたを愛しているのです。”とあるのですが、これって慰めになりますか?ならないですよ。」
「神様に愛されていても、妻に逃げられたという事実は変わらないからね。その事実がその人を苦しめる。」
「これは、奥さんに逃げられた人に向かって、奥さんは逃げても、あなたにはまだ忠実な飼い犬がいるからいいじゃないですかというようなものです。」
「この辺の鈍感さはJWの特徴だ。苦しんでいる人は聖句の一つか二つを読めばいいという程度の思考しかできない。」
「14節には“誰かに裏切られたとき,詩編 34編18節に書かれているダビデの言葉も心の癒やしになります。(読む。)”とあります。その聖句は“エホバは心が傷ついた人のそばにいる。打ちのめされた人を救ってくださる。”です。この聖句を読むと、エホバは傷ついた人に寄り添い、救ってくれると確信できるようです。」
「JWによると、妻に逃げられた人もこの聖句を読めば癒されるわけだ。詩編34は個人的な神への感謝の気持ちを詩にしたもので、神の約束ではない。例えば詩編34:20に“神はその人の骨を全て守る。1本も折られることはなかった。”とあるけれど、これを神の約束と思う人はいないでしょう。」
「15から18節が“先のことが不安になる時に流す涙”です。 今度はヒゼキヤ王の話です。病気で死にそうになったけれど、涙を流したら、回復したことを取り上げています。」
「引照聖句の列王二20:6に“私はあなたの寿命を15年延ばし,アッシリアの王の手からあなたとこの都市を救う。”とあるけれど、これは事後預言だね。ある出来事があった後に、あたかもそれを予言されていたかのように書くというもの。アッシリアの文献にもこのような預言はある。」
「17節が“学べること”で、“あなたも回復の見込みが薄い健康上の問題と闘っていますか。そうであれば,涙を流しながらであっても,祈りでエホバに心を向けてください。” とあります。病気で死にそうになったら祈ればいいようです。」
「しかし、そのあとに“今は,エホバが私たちの抱える問題を全てなくしてくださると期待することはできませんが,エホバが支えてくださると信じて頼ることができます。(詩編 41:3を読む。)”とある。祈っても病気は治らないが、支えてくれると信じて頼ることができるようだね。」
「最後の“エホバが支えてくださると信じて頼ることができます。”は意味不明です。」
「英文ではwe can count on him to sustain us.なので、私たちを支えてくださるのは確かです、と言っている。翻訳者はそんなことはないと知っているので、“エホバが支えてくださると信じて頼ることができます。”と何を言いたいのかよくわからない文章でごまかしたね。」
「引照聖句には“エホバは病に伏せる彼を支える。病気の間,あなたは彼の世話をする。”とありますから、JWはこれを神の約束として信じればいいわけです。病気など問題ではありません、となぜ書かないのか不思議です。」
「JW流に詩編を読めば、神はいろいろなことを約束していることになる。土地は守られ、敵は打倒され、健康で長生きし、豊かに繫栄する。しかし、それがいつまでも実現しないので、死後の世界で実現するとか、JWのように楽園で実現するという思想が後の時代に出てきたわけだね。」
「18節は癌と診断された姉妹の話です。“私にとって特に心の支えになったのは,イザヤ 26章3節です。状況を良くするためにできることはあまりないとしても,その状況にどう反応するかはコントロールできるということを学べました。エホバが平和を与え,穏やかな気持ちにさせてくれるからです。”というものです。その聖句には“あなたに全く頼る人たちを,あなたは守り,絶え間ない平和を与えます。彼らがあなたを信頼するからです。”というものです。」
「長老は会衆に癌になった信者がいたらこの聖句を使って、あなたには平和が与えられます、穏やかに死ぬことができますよ、だから組織に騙された一生だと文句を言うな、と言えいう指示だね。」
「最後の19節はまとめですが、“今は終わりの時代の最終部分で,涙が出るような状況は今後も増えていくことでしょう。”とあります。終末カルトらしい文章です。不安をあおりつつ、間もなくこの世界が終わり、楽園がくるという希望を抱かせています。」
「本気でそう思うなら、病気の人には治療などにお金をかけるのは止めましょう、間もなく楽園が来て病気はなくなるからです、くらいのことを書いて欲しかった。でもそこまで書くと治療を拒否して死んだJWの遺族から訴えられる可能性があるから書けないね。」
- ジョエル
- 2025年02月25日 08:52:03
数学では、フラクタルの一例として、複素平面上の多項式の根に対して、任意の点にニュートン法(線形近似)を施すといずれかの根に収束するので、それを元の位置に戻してどの根に収束したかで色付けする(3次なら3色)と、無限の入れ子構造(フラクタル)となって現れます。
多項式の次数や定数を変えるだけで多様な幾何学パターンが勝手に(自然に笑)生成されます。デザインの知識もセンスも関係ありません。
ニュートンの頃は西洋キリスト教圏の数学者はほぼ、創造者の存在を信じるキリスト教徒だったはずですが、現代の純粋数学者に「聖書の創造者」をそのまま書いてある通りに信じるタイプの人はまずいないと思います。
- ジョエル
- 2025年02月25日 08:35:46
JWが今でも使い続ける粗雑な論理の元ネタは、今から200年以上も前にヒースの荒野をお散歩していた牧師さんが靴にコツンとあたったのが誰かが落とした時計で、こんな人里離れた荒野でも、時計が落ちていれば「自然に」できるはずはなく、それを作った時計職人がいる証拠だと、ごくあたりまえの因果に気づいただけのお話です。スズメバチの巣があれば、それを作ったスズメバチの群れがいたことの証拠だと言うのと同じで、それ以上でもそれ以下でもありません。
この話をJW文書で見た記憶がないのは、200年以上も前の、しかもキリスト教の牧師さんが言ったのと同じロジックを使い回しているだけと思われたくないのか、執筆者がそんなことも知らずとにかく自宗教の文書で何十年も昔から書かれ続けていることをそのまま繰り返しているだけなのか、でしょうか。
その牧師さんの時代から自然科学の知見は飛躍的に進歩していて、今では「自然に」起きる自己組織化現象や、自発的な秩序形成プロセスが知られていて、雪の結晶はその例です。