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- 聖書についての質問
- 2025年01月17日 14:24:28
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“神に仕えた人たちが残した言葉から学ぶ(45)”で、組織に服従していれば成功し、永遠の命がもらえるという、誰もまじめに受け取らない内容です。」
「エホバに従うといっているけれど、実質的には組織に従うということだからね。永遠の命とは関係ないね。」
「2節に、モーセ、ダビデ、使徒ヨハネの“3人が残した言葉について調べ,そこからどんなことを学べるかを考えます。”とあります。どんな言葉を残したのか楽しみです。」
「この記事はかなり幼稚な内容で小学3年生程度のレベル。面白そうなものと言えば、体験談かな。」
「3から8節が“長く生きていける”です。 モーセの話です。3節に“ヨブ記もモーセが書いたと思われます。”とありますが、違うでしょう。」
「“洞察”には“ユダヤ人の学者たち,および初期クリスチャンの学者たちによると,筆者はモーセ。”とある。大昔の学者の意見を取り入れただけ。学問は進歩するということを知らないようだ。現在でヨブ記の著者はモーセだという学者はいない。」
「モーセは実在したかどうかも不明の人です。」
「実在したとしても、聖書の著者ではない。旧約聖書は主にヘブライ語で書かれているけれど、ヘブライ語はカナン地方の方言のようなもので、カナン定着後の時代に書かれたもの。」
「5節が“モーセは何と言ったか。(申命記 30:19,20を読む。)”です。その中では“あなたは生きるために,命を選ばなければなりません。あなたもあなたの子孫もです。すなわち,あなたの神エホバを愛し,神の言うことを聞き,神にしっかり付くのです。”とあります。神から神を愛するよう命令されるという奇妙な状況ですね。」
「奇妙じゃないよ。ここで言う“愛する”とは、服従するということだから。」
「申命記が書かれたのは相当後の時代で、もちろんモーセが作者ではありませんよ。」
「申命記のヘブライ語は前7から6世紀のもので、その時代に書かれたのだろう。古代イスラエルでは、律法は神がモーセに与えたものという建前があったから、新しい律法もモーセが書いたことにする必要があったわけだ。」
「申命記は全体がモーセの遺言として編纂されていますね。」
「申命記はモーセが死ぬその日に起きた出来事が書かれているというありえない設定だけど、それによって、モーセの別れの言葉としての重みを申命記にもたせているわけだ。」
「5節には“イスラエル人はエホバから素晴らしい見込みを与えられていました。エホバが約束していた土地で長く生きることができるのです。しかも,そこは美しくて肥沃な土地でした。”とありますが、そんなに素晴らしい見込みでしたか?その土地は既に人が住んでいて、その人々を殺戮し、土地を暴力的に奪わなくてはならないというものですよ。単なる侵略行為です。」
「神様なら、海の中に新しい島をつくり、そこにイスラエル人を住まわせることぐらいできるはず。そうしないのは人間を殺すのが大好きだからじゃないの。イスラエル人がカナンの住民を殺すのをゲーム感覚で楽しんでいたのかも。」
「過去のキリスト教国はこの旧約聖書の話を持ち出して、自分たちの侵略行為を正当化してきました。イスラエル人の侵略行為を褒めたたえるJWの倫理観は狂っています。」
「アメリカ人は先住民を殺しまくったけれど、それをイスラエル人のカナン征服になぞらえて正当化してきた。JWもアメリカの歴史を美化する右翼的な歴史観の持ち主ということ。」
「6節に“でも,イスラエル人はエホバに従いませんでした。それで,アッシリア人やバビロニア人に征服され,捕囚にされました。”と、歴史を単純化していますが、因果関係は反対ですよ。」
「イスラエルの宗教指導者は自分たちの悲惨な運命の原因を自分なりに考えた。その結論は、自分たちは神の言うことを聞かなかったから神に罰せられたのだというもの。そういう歴史観を申命記史観という。それは申命記から列王記まで貫く歴史観となっている。国家の盛衰に対する政治的経済的軍事的分析は古代の宗教指導者にはできないからね。」
「7節が結論です。“どんなことを学べますか。従うことは命につながるということです。”とあります。服従こそ最大の美徳というわけです。そして“エホバに従うなら,パラダイスとなった地球で,たった数百年ではなく永遠に生きることができるのです。(詩 37:29。ヨハ 3:16)”と楽園幻想の大安売りです。」
「楽園幻想の根拠としている聖句はJWの言うような楽園の約束じゃないよ。詩編37:29には“正しい人は地上に住み続け,そこで永遠に暮らす。”とあるだけで、JWのバプテスマを受けて、JWの雑多な規則に従い、伝道・集会・建設工事・寄付などなどを死ぬまで行ったら、楽園に行けるとは全く言っていない。」
「訳もヘンです。“地上に住み続け”ではなく“土地を受け継ぎ”ですよ。土地を受け継ぎ、所有すると言っているだけです。JWは天に行く人を想定しているから、その対比で“地上に住み続け”という珍訳になるわけですよ。」
「JWの英語訳では“The righteous will possess the earth”で、土地を所有するという意味。“地上に住み続け”と言う意味ではない。またthe earthは不適切で、the landとするのが普通。JWの教義に合うように改変している。」
「“永遠”も問題です。無限の時間という概念は古代イスラエルにありません。非常に長い時間をさすだけです。」
「“永遠に暮らす。”ではなく、ずっと暮らす、程度の意味。おとぎ話の最後の決まり文句に、二人はいつまでも幸せに暮らしました、というのがあるけれど、そんなニュアンス。JW訳にだまされるな、ということ。」
「もう一つの根拠としている聖句はヨハネ3:16ですが、“独り子に信仰を抱く人が皆,滅ぼされないで永遠の命を受けられるようにしました。”とあるだけで、地上の楽園なんか出てきません。」
「結局、JWの楽園を根拠づける聖句はないね。」
「9から14節が“あなたは成功する”です。 ダビデの話です。11節に“ダビデは何と言ったか。(列王第一 2:2,3を読む。)ダビデはソロモンに,エホバに従うなら成功すると言いました。”とあります。12節が結論で、“従うことは成功につながるということです。”とありまして、服従こそ最高の美徳というものです。」
「ダビデの言葉はソロモンに向けられたもので、現代のJWとは何の関係もないけれど、JWという宗教では、とにかく従っていれば、永遠の命と成功が手に入ると主張しているということはわかった。」
「13節が体験談です。反高等教育のプロパガンダです。まず“モザンビークに住むカルメン姉妹は,高い教育を受けることが成功の鍵だと考えていました。それで,建築を学ぶために大学へ行きました。”とあります。“朝の7時半から夕方の6時まで学校にいました。”と言っていますが、そんな大学がありますか?」
「10時間半も大学にいるの?通学時間を含めると12時間以上になるでしょう。そんな大学あるかな?」
「それで、“長老たちや母親から良いアドバイスをもらい,エホバに全時間仕えるために大学をやめることにしました。人生の中でも本当に良い決定ができたと思います。後悔はまったくありません。”というものです。こんな過酷な大学では誰も卒業できませんよ。」
「組織は信者が大学に行くのを嫌っているようだけど、低学歴の統治体が大卒の人間から内心バカにされていると被害妄想に陥っているせいかな?」
「40年後はどうなるかというと、大学時代の友人たちは建築家として活躍し、家族にもお金にも恵まれ、老後についても何の心配もなく暮らしているのに対し、カルメンは開拓者として結婚もせず、子ども持つこともなく、低賃金のパート労働を長時間し続けたおかげで体はボロボロですが、病院に行くお金もなく、これからどうやって生活していこうかと不安におびえて暮らしています、ということになりますよ。」
「今の高齢JWがそうでしょう。JWの生き方は、間もなく終わりがくることを前提とした極めて短期的な見通しのもとに成り立っている。ところが、終わりは来ないわけで、40年後のことを考えると悲惨な結果しか待っていない。」
「15から19節が“[これ]ほど,うれしいことはありません”です。 使徒ヨハネの話です。17節に“ヨハネは何と書いたか。(ヨハネ第三 4を読む。)ヨハネはエホバに従うことから味わえる喜びについて書きました。”とあります。ヨハネ三4は“私の子供たちが真理に従って歩み続けているのを聞くことほど,うれしいことはありません。”というものです。」
「ヨハネ三は“年長の者から,愛するガイオへ。”で始まる。使徒ヨハネとは名のっていない。作者が使徒ヨハネという根拠はないよ。」
「18節が結論で“どんなことを学べますか。忠実でいることは喜びにつながるということです。(ヨハ一 5:3)”というものです。」
「今度は忠実ね。ヨハネ三の作者はガイオが自分に忠実だから喜んでいるだけで、そのことから忠実であれば喜びにつながるという結論はでてこない。」
「19節が体験談です。“ドミニカ共和国に住むレイチェル姉妹は,エホバという魅力的な神について他の人に教えられるのは本当に素晴らしいことだと感じています。”とあります。そして“この喜びは言葉では言い表せません。どんな努力や犠牲も払う価値があります。”と言っています。こんなウソくさい話をわざわざ持ち出してくるということは、レイチェルみたいな人がほとんどいないからですよ。」
「エホバが輸血を禁じていることを教えるのも喜びなのかな? 輸血をしたら長生きできる人を死なせる教えだよ。それでも“この喜びは言葉では言い表せません。”なの?危険な宗教だ。」
「最後の20、21節が“神に仕えた人たちの最後の言葉から学ぶ”です。 まとめです。この記事も、いつものように組織が言いたいことに使える聖句を選んで並べて、ウソくさい体験談を加えて、もっともらしい話をつくったというものでしたね。」
「最後の21節は景気がいいよ。“そうするなら,私たちの行うことは全て成功します。そして,命を得て「長く生きていけ[ます]」。しかも永遠にです。(申 30:20)また,愛する天のお父さんエホバに喜んでもらうことができ,喜びを味わえます。”というもの。組織に従っていると、成功、永遠の命、喜びが得られるのだそうだ。景気のいい話だね。」
「子どもでもおとぎ話と思いますよ。」
「だからエンディングは、JWはいつまでも、いつまでも幸せにくらしました、となる。」
- 聖書についての質問
- 2025年01月10日 14:22:42
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“不当な扱いを受けた時に心に留めておきたいこと(44)”で、不当な扱いを受けた時の対処法を学ぶ、という内容です。」
「JWは組織からも、仲間からも不当な扱いを受けることが多いからね。対処法といっても、我慢して、耐えて、祈るくらいでしょう。読まなくてもわかるよ。」
「2節に“今の世の中では偏見や不平等や抑圧がよく見られるので,不当な扱いを受けても私たちは驚きません。(伝 5:8)”とあります。“偏見や不平等や抑圧がよく見られる”のはJWの方ですよ。女性差別、性的少数者差別、奇妙な階級制度、信者を抑圧する様々な禁止事項の多さはJWの特徴です。」
「この引照聖句は場違いだね。そこには“もし,貧しい人が虐げられ,辺りで公正や正義が侵されているのを見ても,そのことで当惑してはならない。高官は,さらに位の高い者の監視下にあり,その位の高い者の上にはさらに位の高い者がいるからだ。”とあるけれど、これは政府の役人の腐敗をいっているもの。官僚制度がいかに腐敗しやすいかを言っているわけで、世の中全般のことを言っているわけではない。」
「2節では“兄弟姉妹から不当なことをされると深く傷つくかもしれません。もちろん,反対者たちとは違い,兄弟姉妹はわざとひどいことをしようとは思っていません。でも,完璧ではないので失敗してしまうことがあります。”とあります。わざとではないがひどいことをしてしまう兄弟姉妹の方が問題ですよ。自然にふるまうと他人を傷つけるということじゃないですか?」
「いつも正しいことをしていると確信している独善的なバカはJWに多いのだろうね。でも“完璧ではない”から仕方がないということのようだね。その理屈が正しいなら全ての人は完璧じゃないから、殺人も性犯罪も仕方がないのだろうね。」
「4節に“私たちは正しいことが行き渡る時代が来るまで待つ必要があります。でもそれまでの間,エホバは私たちが不公正なことを経験するとしても上手に対処できるよう助けてくれています。”とありますから、楽園が来るまで仕方がないというのがJWの基本的な態度のようです。」
「問題に直面した時のJWの正しい態度は、エホバを待つ、でしょう。なにもしないで耐えるだけ。でも統治体は裁判闘争を繰り返し、エホバを待つことはないけれどね。」
「5から8節が“不当な扱いにどう反応するかに注意する”です。 エホバを待つのが正しいJWの態度ですから、自分で何とかするのはいけないみたいです。6節に“私たちは不当な扱いを受けた時,自分の力でなんとかしようとして,間違ったことをしてしまうことがあります。”と警告しています。」
「裁判に訴えていいのは統治体だけで、それ以外の信者は泣き寝入りするべきということのようだね。」
「6節にはアブサロムの話が出てきます。“アブサロムは妹のタマルが異母兄弟のアムノンにレイプされた時,激怒しました。”とあります。そして、“だが,自分の力でなんとかしようとするべきではありませんでした。アブサロムにはそうする権限はありませんでした。”と言います。ではどうすればよかったのかは、この記事では何も言いません。」
「サムエル二13:21に“ダビデ王は一部始終を聞き,非常に怒ったが,アムノンを責めるようなことはしなかった。長男であるアムノンを愛していたからである。”とある。ダビデのダメっぷりがここでも炸裂だ。こんな男をなぜ王にしたのか理解できない。エホバって最低だね。」
「最高権力者の王が何の処罰もしないのなら、アブサロムは泣き寝入りするしかないというのがJWの見解でしょうか。」
「これはJWに多い性犯罪の犠牲者に向けられた文章でしょう。被害に遭っても、自分の力で何とかしないでください、逮捕・処罰する権限のある警察に直ちに通報してください、と読めるよ。」
「ダビデが何もしなかったせいで、アブサロムはアムノンを殺します。アブサロムは後にダビデに反逆し、戦死します。エホバを待っているとろくなことにはなりませんね。」
「長老なんかはダビデ以上に無能だろうから、会衆内でなにかあったら逮捕・処罰する権限のある警察に通報しよう。」
「7節では“不公正なことをしている人が罰を受けていないように見えると,正しいことを行うことに意味があるのだろうか,と感じるかもしれません。”と、悪事を犯しても罰を受けない人がいることを認めています。表面的には善人ぶることが上手なJWですから、JWにはそういう人は多いでしょう。」
「性犯罪者の長老が何の処罰も受けず、長老として偉そうに振舞っているのを見ると、被害者は絶望するよね。そういう悪人は間もなく滅ぼされると信じて我慢するのがJWなのだろう。」
「7節では詩編73が出てきますが、詩編73の作者は“悪人は急に破滅する。突然に終わりを迎える。恐ろしい結末を。”と言っています。JWもそれを信じて、我慢するわけですね。」
「詩編73は悪が栄えるのを見て、信仰の試練を受けている人の詩だけれど、そう思う以外の解決策は思いつかなかったようだね。」
「8節はアルベルト兄弟の体験談です。“アルベルト兄弟は,会衆の基金からお金を盗んだと誤解され,非難されました。その結果,長老ではなくなり,会衆の多くの人からも誤解され,敬意を失いました。”とあります。JWによくある冤罪事件ですね。」
「アルベルト兄弟は“怒りが込み上げ,がっかりしました。”と言っている。当然の反応だ。このときJWを去るべきだったね。ところがなぜかそうしなかったようだ。」
「この話の結論は“兄弟の例から,ひどい扱いを受けた時に怒りの気持ちを放っておくなら,どんな危険があるかがよく分かります。”という奇妙なものです。ひどい扱いをした人に対する非難は一切なく、被害者を責めています。」
「性犯罪でも、犯人より被害者を責めるのがJWだからね。その点は一貫している。」
「9から13節が“イエスの手本に倣う”です。 9節に“イエスはこのように本当にひどい扱いを受けましたが,仕返しをしたりせず,忍耐しました。”とあります。要するに、耐えろということですね。」
「無力な立場であれば、それ以外の選択肢はないからね。でも今のJWは耐える以外の選択肢はあるよ。」
「10節では“ペテロ第一 2:21-23を読む。イエスが残してくれた完璧な手本は,私たちが不公正に対処する上で役立ちます。”とあります。引照聖句に“キリストは罪を犯さず,欺きを語ったこともありませんでした。”とあるのですが、この訳はヘンですよ。」
「JWの英語訳ではHe committed no sin nor was deception found in his mouth. で主語はキリストではない。これはイザヤ53:9の“何も間違ったことをしておらず,欺きを語ったこともないのに”の引用だから。でも翻訳者はそのことを知らないので、Heをキリストと訳してしまったのだろう。」
「11節では“ちょっとしたことであれば見過ごしましょう。”とあります。また“でも,ひどい扱いを受けている人を守ったり,私たちの信条や真理について正しく伝えたりするために,話す必要がある場合もあります。”とも言っています。」
「でもマスコミには“私たちの信条や真理について正しく伝えたりする”ことをしていないよ。女性JWがグアテマラで殺された時、日本支部は本人が勝手に行ったと語ったよ。体罰について質問された時は、体罰を推奨したことはないと言ったよ。非難されたらウソを言って、その場をごまかしましょう、となぜ言わないのかな?」
「11節の下には逮捕され、裁判を受け、刑務所にいるという3枚の写真がありますが、国家的な迫害を想定しているようでおかしいです。」
「JWゆえに刑務所送りになるような国にいるJWはJWの1%にもならないでしょう。不必要に恐怖心と危機意識をあおっている。無知無学な信者はこの写真を真に受けて、脅えながら暮らすのだろうね。」
「12節が結論です。“イエスのように,「正しく裁く方に自分を委ね」ましょう。”とあります。JWらしくていいですね。簡単に言えば何もせず、エホバを待つと言って済ますわけです。」
「“全てをエホバにお任せするなら,怒りや憤りの気持ちを募らせずに済みます。”とあるけど、統治体はあちこちで裁判を起こしているから、怒りや憤りの気持ちを募らせて毎日を過ごしているということかな?」
「14,15節は“神の憤りに任せましょう”です。 14節に“ローマ 12:19を読む。”とあります。その聖句は“愛する皆さん,復讐してはなりません。神の憤りに任せましょう。「『復讐は私がすることであり,私が報復する』とエホバは言う」と書いてあるからです。”というものです。」
「15節がその解説だけど、“「私が報復する」というエホバの約束を信じているなら,エホバが一番良い方法で問題を扱ってくれるという確信を持ってエホバに任せることができます。”とある。エホバを待つという一見無気力な態度の背後には、エホバの報復を信じるという復讐感情があるとは知らなかった。JWは恐ろしいね。」
「エホバは復讐してくれるかもしれませんが、被害者は被害の回復、補償、謝罪を求めているわけです。それについてはエホバには何もしてくれないということですね。あまり役に立ちませんね。」
「復讐してくれると言っても、いつとは書いていないからね。もしそれが自分の死後だとすれば、何もしてくれないのと同じだ。」
「16から19節が“善によって悪を征服し続けましょう”です。 これはローマ12:21からの引用です。その後、“山上 の垂訓の中でイエスも,「敵を愛し続け,迫害する人のために祈り続けなさい」と言っていました。(マタ 5:44)”とあります。“迫害する人のために祈り続けなさい”は太字になっていて、この部分を強調したいようです。敵を愛するのは難しいですが、祈るくらいならできますからね。」
「敵を愛し、迫害する人のために祈れ、という部分の結論は、マタイ5:48で“ですから,あなたたちは,天の父が完全であるように完全でなければなりません。”というもの。マタイの解釈によれば、敵を愛し迫害する人のために祈れ、というのは、それができたら完全だ、つまり倫理的に完成するという究極の目標ということ。」
「不完全な人間にそれを要求するのは無理がありますね。」
「でもJWはできるのだろう。」
「17節にイエスは“ローマの兵士たちに罰が与えられることを願うのではなく,こう祈りました。「父よ,彼らをお許しください。自分たちが何をしているのか知らないのです」。(ルカ 23:34)”とあるのですが、この祈りの部分は初期の重要な写本にはなく、後から書き加えられたという疑いの強い部分ですよね。」
「例えば協会共同訳では、この部分は〔 〕でくくられている。この意味は、“新約聖書においては、後代の加筆と見られているが年代的に古く重要な個所を示します。”と説明されている。つまりこの祈りは後代の加筆と見ている。」
「JWではローマ兵のためにイエスは祈ったと解釈しているようですが、ローマ兵に責任はないですよ。」
「ルカ23章では、ピラトは“この男がどんな悪事をしたというのか。死に値することは何も見つからなかった。それで,彼を懲らしめてから釈放する。”という。しかし、“それでも群衆は引き下がらず,イエスを処刑するよう大声で要求した。”とある。イエスの処刑に責任があるのはローマ人ではなく、ユダヤ人というのがルカの立場。この祈りは文脈に合わないね。」
「18節は体験談で“祈ることが助けになりました。”というものです。そうやって被害者は許すことを強要されるわけです。」
「何を祈ったかというと、“怒りの気持ちを捨てられるよう助けてください”というもの。加害者を早く罰してください、とは祈れないようだね。祈りは許し専門のようだ。」
「最後の19節でも” でもどんなときも,祈ってエホバに頼ることをやめないでください。”と言っています。それ以外に不当な扱いに対する対処法はないようで、悲しいです。」
「そんなわけで、JWに相談しても、祈ってください、以外の助言は期待できないということ。全く役立たずだね。」
- 聖書についての質問
- 2025年01月03日 14:24:34
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回の2025年最初のものみの塔は、“疑いの気持ちに負けないために(43)”で、JWであることに後悔や疑問を持っても、楽園を夢見て貧乏JWを続けなさい、という内容です。」
「この記事によく出てくる言葉は“穏やかな気持ち”。必要なものはエホバが備えてくれるとは言わず、エホバに頼れば“穏やかな気持ち”になれると言っている。これでは信者は励まされないね。」
「1節に“中年の兄弟の中には若い時に,世の中でキャリアを積むのではなく王国の活動を優先するという生き方を選んだ人がいます。でも家族を養うのに苦労していて,自分の選択は本当に正しかったんだろうかという考えがよぎるかもしれません。”とあります。組織も信者のキビシイ現実を理解しているようですが、具体的な援助については何も言っていません。」
「英文ではWith the family budget now stretched to the limitで、家計が限界に達している、という意味。”苦労していて”はJWの窮状をかなりごまかした言い方。物価上昇と景気後退に苦しむ国が増えて、生活が破綻しつつあるJWは増えているよ。」
「1節では、あなたも“これまでエホバのために頑張ってきたことに意味があるんだろうか”と考えたことがあるかもしれません、と言っています。英文ではHave the sacrifices that I have made for Jehovah been worth it?で、エホバのために払ってきた犠牲は価値があっただろうか?ですよ。犠牲という言葉を避けていますね。」
「進学をあきらめ、安定した給料の良い仕事をあきらめ、結婚をあきらめ、子どもを持つことをあきらめ、自分のしたいことをあきらめてきたのがJW人生。払った犠牲に見合ったものは得られていないよ。そう思わせないために楽園幻想を振りまくわけだ。」
「3から6節が“疑いの気持ちを取り除くためにできること”です。 3節では“疑いの気持ちを取り除く1つの方法は,聖書から答えを見つけることです。”と言っています。答えは聖書にあるようです。」
「4節で“テサロニケ第一 5:21を読む。聖書には「全てのことを確かめ」るようにと書かれています。”とあるけれど、5節では“そして,エホバが用意してくださっているいろいろな調査ツールを使って詳しく調べることができます。”とあるわけで、結局組織に誘導されて、組織に都合の良い結論にたどり着くだけだね。」
「“エホバが用意してくださっている”はおかしいですよ。エホバは何もしません。」
「英文ではthe extensive study tools that Jehovah’s organization provides.で、エホバの組織が用意したツールと言っている。それをエホバが用意したというのは誤訳だけど、翻訳者にとってエホバの組織=エホバなんだろう。」
「引照聖句には“全てのことを確かめてください。立派なことを行い続けてください。”とありますが、文字通りすべてのことを確かめろという意味ではありませんよ。JWは文脈を無視して聖書を引用することをやめられないようです。」
「テサロニケ一5:19,20に“聖なる力の働きを妨げてはなりません。預言を軽く扱ってはなりません。”とありその後に“全てのことを確かめてください。”と来る。霊的な賜物に対して確かめなさいと言っている。霊感を受けていないJWには関係ない聖句。」
「引照聖句の後半の“立派なことを行い続けてください。”は誤訳ですよ。笑ってしまいます。」
「英語のJW訳では“hold fast to what is fine.”で、良いものを堅持しなさい、という意味。全てのことを確かめた後、良いものは大事にしましょうと言っている。日本語翻訳者は文のつながりがわかっていない。協会共同訳では“すべてを吟味し、良いものを大切にしなさい。”となっている。」
「6節では“エホバが語り掛けてくれている言葉を集会で聞くこともできます。集会に毎回出席するなら,話やコメントを通して,疑問に思っていたことの答えを見つけられるかもしれません。”とあり、集会に毎回出席することを求めています。」
「これも英文とは違うね。We also “hear” Jehovah speaking to us at our meetings.だから、集会でエホバが語り掛けるのを”聞きます。”だよ。集会で語られることは神の声なんだね。カルトそのもので驚いたね。翻訳者は英語力はないけれど、多少常識があるので、”聞くこともできます”に変えたね。」
「7から9節が“エホバは本当に気に掛けてくれているんだろうか”です。 7節に“エホバは自分のことを本当に気に留めてくれているのだろうかと思ったことがありますか。”とあり、この問題を扱います。8節に“サムエル第一 16:6,7,10-12を読む。”とあり、そこはエッサイの8人の息子の中から末っ子のダビデが選ばれたという場面です。選ばれた理由として“ダビデの心の中を見ていて,エホバを本当に愛する人であることを知っていたからです。”と言っています。」
「サムエル一16:12には“その子は血色が良く,美しい目をしていて,姿がりりしかった。”とあるので、ダビデは見た目もよかった。一方後に様々な問題を起こすわけで、神が本当に心の中を見て選んだのか、疑問だね。」
「エホバは心の中を見るかもしれませんが、組織は外見を見て判断します。」
「建設奉仕に申し込む際に全身写真を送れ、と要求する支部があるそうだ。これって見た目で判断するということだよ。組織が特に嫌うのは太りすぎの人らしい。JWで太っていいのは統治体だけ。」
「9節では“エホバがぴったりのアドバイスをくれた,と感じたことがきっとあるでしょう。”とあり、“はい”と言う答えを誘導しています。」
「そんな経験は一度もなくても、ありませんとは言ってはダメということね。それでJW全員がピッタリのアドバイスをもらった経験があることになってしまう。」
「9節では“エホバのアドバイスに従って行動し,良い結果になるのを経験すると,エホバが本当に気に掛けてくれているということを確信できるようになります。”とあります。JWの多くはエホバのアドバイスなるものに従った結果、貧困、離婚、親子の断絶、様々な病気や怪我等々という問題を抱えているわけです。その人たちは良い結果を経験していないので、確信できないわけです。」
「1節にあるように犠牲は大きく、得たものは少ないのがJW人生なので、確信など持ちようがない。当然やめる人が増える。」
「10から13節が“以前の決定は正しかったんだろうか”です。 この記事の中心部分ですね。10節に“あの時チャンスをつかんでいたら,もっと余裕のある暮らしができたんじゃないか」と考えるようになるかもしれません。”とあります。経済問題がJWの信仰を揺るがす問題のようです。多くの国では物価も上昇して生活が苦しくなって、奉仕や集会どころじゃない信者が増えているのでしょうね。」
「特に組織の言いなりになって、たいして働かず、困ればエホバが助けてくれると信じてきたJWにはお金の問題で行き詰まる人が多いのだろう。当然、以前の決定は正しくなかったと言いうことだね。」
「11節は、詩編73の話になります。“一見成功しているような人たちを見て,エホバに一生懸命仕える生き方をむなしく感じました。ネガティブな思考になって「一日中思い悩」みました。(詩 73:13,14)”とあります。“思い悩む”という訳はおかしいのでは?」
「協会共同訳では“日ごと、私は打たれ/朝ごとに懲らしめを受けた。”だね。元のヘブライ語に思い悩むという意味はないよ。」
「12節で“詩編 73:16-18を読む。詩編作者はエホバの聖なる所に行き,その穏やかな場所で物事を冷静に考えることができました。”とあります。そこには“あなたは確実に悪人を滑りやすい土地に置く。滅びに陥れる。”とあります。悪人は滅びると思って慰めを得たということですね。嫌な奴です。」
「なぜ詩編73:19まで読むことにしないのかな?“悪人は急に破滅する。突然に終わりを迎える。恐ろしい結末を。”とあるよ。でも現実は違うことがすぐわかるね。」
「伝道の書7:15に“私はむなしい生涯の間に全てを見た。正しい人が,正しいことを行っていても死んでいき,悪人が,悪いことを行うにもかかわらず長生きする。”とあります。必ずしも善人が報いられ、悪人が罰せられるわけではないことを認めています。」
「伝道の書では、詩編や格言にあるような善行には良い結果、悪行には悪い結果という通俗道徳を否定している。旧約の中でも相当後期の作品だね。JWの思想は伝道の書より昔の思想だね。」
「12節では“エホバに仕えることを優先する生き方が一番良いということを理解し,穏やかな気持ちになりました。”と詩編73を説明しています。穏やかな気持ちの元の英語はpeace of mindで、心の平和です。」
「詩編73は悪人が栄え、善人が苦しむのはなぜか、と問うわけだけど、答えは出ず、ただ悪人は滅びると考えて慰めを得、自分は神と共にいると考えて心の平和を得るという内容。穏やかな気持ちではなく心の平和として欲しかったね。」
「13節は現在のJWに向けてのメッセージです。“神に仕えていない人たちは,そうした宝を持っていません。あるのは,この世の中で得られるものだけです。将来の希望がないので,今の生活で成功するしかありません。一方,エホバは私たちの想像をはるかに超える素晴らしい将来を約束してくれています。”とあります。JWはこの世ではみじめな一生だけれど、想像上の未来では素晴らしい人生を約束されているから、穏やかな気持ちになれるというわけですね。」
「それを説明したのが13節の下にある窓ふきの老人が楽園の生活を想像しているという写真だね。この写真は多くのJWを暗い気持ちにさせると思うよ。生活の困難さに対して組織が示す解決策は、楽園を思え、しかないわけだからね。空想への逃避。」
「アメリカではJWの代表的な職業は窓ふきのようです。以前もJWがレストランの窓ふきしながら、窓越しに贅沢な食事をしている人をうらやましそうに見るという写真がありました。」
「この窓ふきの老人の楽園の想像図というのが、夫婦で手押し車いっぱいの果物を運んでいるというものなの。本当にそういう生活を望んでいるなら、今でも田舎で農業を始めれば実現するよ。」
「ヘンなのは服装です。妻はブラウスに長めのスカートです。農業をするのにこの服装ですか?楽園では誰がこの服を作っているのですか?」
「JWの楽園ではそういう服装に関する規則があるんだよ。それを破ると石打の刑。」
「14から17節が“自分はエホバの役に立てているんだろうか”です。 エホバではなく、組織に役立っているだろうかという疑問ですね。エホバは誰の助けも必要としません。」
「組織にとって役立たずの人は、霊性が低いとかいちゃもん付けられて、会衆から見捨てられるから、それは切実な問題だね。」
「14節では“エホバに仕えている人たちの中には,高齢だったり,体調が優れなかったり,体が不自由だったりして,思うようにエホバに奉仕できないと感じている兄弟姉妹がいます。”とあります。間もなく組織から使い捨てにされる人たちです。」
「本当は今ごろ楽園で元気に暮らしているはずだった人だよね。カルトに騙された人生だったけれど、人生をやり直すには遅すぎるということはないよ。」
「15節に“エホバは,できることが限られているとしても,ベストを尽くしてご自分に仕える姿を見て喜ぶ,ということを詩編作者は知っていました。(詩 37:23-25)”とありますが、引照聖句にはそんなことは書かれていません。ベストを尽くすことが大事というのは聖書の思想ではありません。アメリカ人の思想です。」
「引照聖句には“正しい人が見捨てられるのを見たことも,その子供たちがパンを探すのを見たこともない。”とあるよ。その聖句が正しいのなら、正しいJWは老後のことや子どものことを心配する必要は全くありません、となぜ書かないのかな?」
「16節では“体が思うように動かなかったとしても,忠実に仕えることができるようエホバは助けてくれます。(詩編 92:12-15を読む。)”とありますが、引照聖句はそんなことを言っていません。」
「詩編92:12に“正しい人は”とある。正しい人が主語で、“年を取っても衰えない。元気ではつらつとし”とある。正しい人は“体が思うように動かなかった”ということはない、と言っている。聖句の誤用だね。」
「英文ではHe can help you to thrive spiritually even though you may be struggling physically.ですから、肉体的に苦労しているとしても、霊的に成長できるよう助けてくれます、と言っているわけで、日本語訳とだいぶ違います。」
「spirituallyとphysicallyを比べて、後者が衰えても、前者は成長し続けると言いたいようだけど、翻訳者は霊が嫌いだからね。」
「17節では他の人と比べるな、と言っています。“マリアはとても高価な香油をイエスの足に注ぎました。(ヨハ 12:3-5)一方で,貧乏なやもめはごく小額の小さな硬貨2枚を神殿に寄付しました。(ルカ 21:1-4)イエスは信仰を表したどちらの女性のことも褒めました。”とあります。これはへんですね。イエスはマリアをほめていません。“マリアをそのままにしておきなさい。”とイエスは言っていますが、マリアは偉いとか見倣えとは言っていません。貧乏なやもめに対しても同じです。」
「貧乏なやもめに対してイエスは何も言わず、弟子たちに“はっきり言いますが,この貧しいやもめは,彼ら全てよりたくさん入れました。”というだけ。ほめたりしていないよ。ほめたとするとイエスはJWのように貧乏人からも金を巻き上げる悪徳宗教家に過ぎないことになる。」
「最後の18節で“疑いの気持ちを取り除くように努力していきましょう。”と言っていますが、まともな知性がある人ならそれは無理ですね。」
「JWが正しければ、今頃楽園で暮らしているはずで、生活の苦労なんか味わうこともなかったはず。年老いたJWの多くは、今JWをやめると、今までの人生を全否定することになるから、騙された!と苦い思いを抱えながら、JWを続けているだけでしょう。」
- 聖書についての質問
- 2024年12月27日 14:13:23
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“「人々という贈り物」に感謝を表す(42)”で、平信者は組織内の役職者に感謝を示せという、内容です。」
「役職者に感謝を示せという記事がないと誰も感謝しないということかな?役職者不足の組織だから、役職者になれば感謝されて、承認欲求が満足されますよ、長老を目指しましょう、と言いたいのかも。」
「2節に“パウロによると,イエスは天に行った後,「人々という贈り物」を与えてくれました。(エフェソス 4:7,8を読む。)パウロが説明しているように,それは会衆をいろいろな面でサポートするためです。(エフェ 1:22,23; 4:11-13)現代,「人々という贈り物」には,援助奉仕者や会衆の長老や巡回監督が含まれています。”とあります。先週もありましたが、“人々という贈り物”は誤訳です。恥ずかしいです。」
「正しくは“人々に贈り物を分け与えられた。”で、詩編68:18の誤った引用に基づくもの。キリストは信者に様々な贈り物をくださったという主旨の聖句。」
「エフェソスの作者はパウロではないですよ。エフェソスはパウロの名をかたった偽名文書です。」
「コロサイ書を基に、その内容を改変したもの。でもコロサイも偽名文書なんだよね。エフェソスの作者はそれを知らず、コロサイの語句や表現を真似している。コロサイの作者にだまされた。」
「コロサイの書き出しは“神の意志によってキリスト・イエスの使徒となったパウロと,私たちの兄弟テモテから,コロサイにいる,キリストと結ばれた聖なる人たち,忠実な兄弟たちへ。”ですが、エフェソスの書き出しは“神の意志によってキリスト・イエスの使徒となったパウロから,エフェソスにいる,キリスト・イエスと結ばれた忠実な聖なる人たちへ。”です。そっくりです。」
「エフェソスでは発信者はパウロ一人にしている。これはエフェソスこそパウロの考えを反映していると思わせるためだろう。その他に二つの書簡には似た部分はたくさんある。」
「3節に” 私たちはみんな,そうした兄弟たちが大切な責任を果たせるようにサポートすることができます。”とあります。平信者は援助奉仕者や長老や巡回監督をサポートしなくてはならないようです。平信者は要求が多すぎて、疲れ切っていますよ。」
「3節にはさらに“また,そうした兄弟たちや「人々という贈り物」を与えてくれたイエスにどのように感謝を表せるかを考えます。”とあって、サポートするだけでなく、感謝することも平信者には強要されている。カルトらしいね。」
「4から7節が“「役立つ仕事を行う」援助奉仕者”です。 援助奉仕者の仕事を列挙し、その重要性を強調しています。6節には“ボリビアのベバリー姉妹はこう言っています。「集会を十分に楽しむことができるのは,援助奉仕者の兄弟たちのおかげです。集会中に歌ったりコメントをしたり話を聞いたりビデオや画像から学んだりできるのは,援助奉仕者たちが働いてくれているからです。兄弟たちは集会の安全を見守り,ビデオ会議システムでつながっている人たちを気に掛けています。集会後には率先して清掃を行い,会計をまとめるのを手伝ったり,必要な文書を手に入れられるように手配してくれたりします。本当にありがたいです」。”とあります。これらの仕事を援助奉仕者は率先してしなさいという指示ですね。疲れ切ってしまいます。」
「若い人なら集会が終わったらさっさと帰りたいよ。女性蔑視のJWだから、清掃などは女の仕事で、男はしなくてよいと言えばいいのに。男性信者は喜ぶよ。」
「7節で“私たちは援助奉仕者の働きをありがたいと感じているかもしれません。でも,聖書は「感謝を表しましょう」と勧めています。(コロ 3:15)”とあります。引照聖句は援助奉仕者とは何の関係もありません。」
「それはいつものこと。聖句は本当はどうでもいい。」
「7節で、クシシュトフ兄弟は“カードやメールを送る ようにしています。聖句を書いて,自分にとって兄弟の働きがどのように力になっているか,またどんなところに感謝しているかを伝えるようにしています”と言っています。パスカル兄弟は“最近,私たちは祈りの中で,会衆の援助奉仕者の兄弟たちへの感謝を伝えたり,兄弟たちを助けてくれるようにお願いしたりするようにしています。”と言っています。こういうふうに書かないと感謝の表し方がわからない信者がいるのでしょうね。現金を渡して感謝を表すのはだめなのでしょうか?現金が一番喜ぶでしょう。」
「援助奉仕者ごときにはカード、メール、祈りで十分ということ。」
「8から11節が“「皆さんの中で一生懸命に働[く]」長老たち”です。 今度は長老に感謝ですね。8節に“1世紀において,長老たちは会衆のために一生懸命働きました。(テサロニケ第一 5:12,13を読む。テモ一 5:17)”とあります。読むように指定されている聖句には“兄弟たち,次のことをお願いします。皆さんの中で一生懸命に働き,主に仕えつつ皆さんを監督し助言を与えている人たちに,敬意を払ってください。”とありますが、この訳はヘンじゃないですか?」
「問題となるのは“監督し”でしょう。協会共同訳では“導き”だね。元のギリシャ語には両方の意味がある。どちらが良いかは辞書的には決められず、テサロニケ一が書かれた当時の信者の組織がどうだったかを知る必要がある。」
「JWみたいに中央集権的な命令系統が出来上がった組織なら、監督がよいですし、もっと緩やかな組織なら導くがよいというわけですね。」
「テサロニケ一が書かれたのは50年前後で、新訳の中では最も古く、初期のキリスト教の様子がわかる手紙。パウロが会衆を創設したばかりのころで、きちんとした組織などなかった時代。この頃は信者を監督をするための人材も規則も整備されていない。」
「9節には長老の仕事が出ていまして、“伝道を熱心に行い”、“裁く”、“神の羊を世話する”とあります。長老は伝道を熱心に行わないといけないとは知りませんでした。伝道など平信者のすることという態度の長老がいますけど。」
「タテマエとして書いているだけ。巡回監督が来た時だけ真面目にやっているふりさえすればよい。」
「10節に“エホバは,私たちが牧者の手厚い世話を受け,「もはや恐れることもおびえることもなくな[る]」と預言していました。(エレ 23:4)”とありますが、聖書の誤用ですね。」
「現代のJWのことを言っているのではないよ。」
「10節で、母親が重病になったヨハンナ姉妹が“私は自分の気持ちを伝えるのが得意ではありません。でも,ある長老が辛抱強く私の話を聞いてくれました。その長老とはまだあまりよく知り合っていなかったのですが,一緒に祈ってくれて,エホバに愛されていることを確信させてくれました。兄弟が何を言ったかはあまり覚えていませんが,とても安心したことは覚えています。エホバは本当にぴったりのタイミングで兄弟を遣わして私を助けてくれました。”と言っています。長老ならこうしなさいという指示ですね。」
「このケースでは長老が話を聞いて、祈るだけで効果があったようだけど、いつもうまくいくわけじゃないよね。でも長老にできるのはその程度だからそれ以上は期待するな、ということかな。」
「11節では長老に感謝しなさいと言っています。ヘンリエッタ姉妹は“兄弟は本当にいい長老だと思います。兄弟のような長老がいてくれて,本当にうれしいです。いつもありがとうございます。”と言い、セラ姉妹は“それで感謝を伝えるために,カードを書いたり,食事に呼んだり,一緒に奉仕に出掛けたりできます。”と言っています。」
「援助奉仕者とは違って、食事に誘えとある。長老になるとタダ飯にありつけるようだ。」
「12から15節が“会衆を力づける巡回監督”です。 12節に“エルサレムにいる長老たちはイエスの指導の下,パウロやバルナバなどの兄弟たちを旅行する監督として遣わしました。(使徒 11:22)”とあります。これはウソですね。巡回監督なんか聖書的根拠はありませんよ。単なるJWの制度です。」
「引照聖句は“その話がエルサレムの会衆に伝わり,バルナバがアンティオキアにまで遣わされた。”とあるだけ。バルナバが監督として遣わされたなんて書いていない。この聖句を巡回監督の根拠とするのは、無理があるね。パウロが巡回監督だなんて、何を根拠にそんなことを言うの?パウロは使徒なんじゃないの?」
「出エジプト1:6の“やがてヨセフは死に,兄弟たちとその世代の人々も皆死んだ。”という聖句を重なる世代の根拠としたJWですから、自分たちに都合が良ければどんな聖句でも自分たちの主張の根拠にしてしまうのですよ。」
「JWに言わせれば、パウロとバルナバが史上初の巡回監督なわけだ。パウロがウソはやめろと怒っているよ。」
「14節で“巡回監督が訪問すると,会衆はどのように力づけられますか。”と誘導的な質問をしています。力づけられない会衆だってありますよ。」
「おそらく報告書には、巡回監督の訪問で全ての会衆が力づけられ、奉仕活動が150%増加したとあるんだよ。執筆者は実際の会衆のことなど知らない。」
「14節で、トルコのある兄弟が“今までたくさんの巡回監督が訪問してくれましたが,近づきにくいとか忙し過ぎるという印象を持ったことはありません。”と個人の感想を述べています。“このように,巡回監督たちに親しみや愛情を感じている兄弟姉妹は少なくありません。”とありますが、これは何の根拠にもなりません。」
「巡回監督とその妻の悪口なら良い評判の100倍もあるよ。それを無視しているだけ。」
「15節には“巡回監督を食事に招待したり,巡回訪問中の野外奉仕に参加したりすることも良い方法です。”とあります。食事を平信者に強制的に割り当てる会衆が多いと思いますよ。そうしないと巡回監督を食事に招待する人がいないからです。」
「強制しておいて、あなたの自由意志で決めましたというのがJW。」
「さらに“あなたが優しい言葉を掛けたり,ちょっとしたプレゼントをしたりする時,巡回監督は自分の祈りが聞かれたと感じることがあるかもしれません。”とあります。言葉だけでなく、ちょっとしたプレゼントが必要なようです。」
「現金のことかな?巡回監督は定年があるから、それまでせっせとお金を貯めないと悲惨な老後になる。組織の衰退が進むと、巡回監督という制度が突然廃止されるかもしれないしね。」
「15節の下には“奥さんたちのことも忘れないでください”と言う囲み記事があります。奥さんたちに感謝せよと言っています。女性に対する配慮とは珍しいです。」
「平信者は援助奉仕者、長老、巡回監督とそれらの妻に感謝しなくてはならないわけだ。こんなに感謝ばかりさせられる平信者はつらいね。さっさとやめよう。」
「そこには、ある姉妹の発言が出ていて、“奥さんたちは,自分の夫をエホバに貸しているようなものです。エホバはそうした姉妹たちのことを娘のように大切に見ていると思います。”とあるのですが、これこそ個人の感想です。何の意味もありません。こういうふうに思えという指示なんでしょうね。」
「別の姉妹は、“奥さんたちは、自分の夫を組織に貸しているようなものです。組織はそうした姉妹たちのことを夫の人質として大切に監視していると思います。”と言っているよ。」
「最後の16,17節は“私たちには「人々という贈り物」が必要”です。 16節に組織の本音が出ています。“「人々という贈り物」として奉仕できる兄弟たちが世界中でもっと必要とされています。”とあります。これを第1節に持ってくるべきでした。16節までまじめに読むJWはほとんどいません。」
「でも、17節には“イエスが「人々という贈り物」である兄弟たちを与えてくれたことは,終わりの時代に私たちのことを導いてくれている証拠です。”と力強く言っている。イエスが必要な兄弟を与えてくれるようだから、間違っても援助奉仕者や長老になろうなんて考える必要はないよ。」
- 聖書についての質問
- 2024年12月20日 14:26:33
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“イエスが天に戻るまでの最後の40日間(41)”で、イエスに倣ってJW活動を熱心にやりなさい、という内容です。」
「最後の19節に“イエスは天に戻る前の40日間を,弟子たちを力づけ,教え,訓練するために使いました。私たちもぜひその手本に倣いましょう。”とこの記事を要約している。イエスを中心にした記事とはエホバ教らしくないね。」
「1、2節はルカ24章にあるエマオへの道という話です。1節に“西暦33年”とありますが、普通は西暦30年ですよ。」
「JWの年代計算はたいてい間違い。JWには聖書に関するいかなる専門家もいない。いるのは素人聖書研究だけ。」
「エマオへの道というのは、旅をしていた二人に見知らぬ人物が現れて、一緒に時を過ごし、後でその人物がすごい人だったと気づくというストーリーですが、こんな話はどこかで聞いたことがあるような気がするのですが。」
「古代のギリシャ・ローマ世界で類似した話はある。日本では“鉢の木物語”がそういう話だね。そういう慣れ親しんだ話の枠組みを使って、イエスの復活を“証明”しようとしたのがエマオへの道の話だね。」
「3節に“イエスは天に戻るまでの40日間に,弟子たちの前に何度も現れました。(使徒 1:3を読む。)”とあります。引照聖句には“イエスは苦難を味わった後,自分が生きていることを多くの確かな証拠によって使徒たちに示しました。40日にわたって現れ,神の王国について話しました。”とあります。死後40日間に地上にいたというのは福音書とは違いますよ。」
「先ほどのルカ24章では、エマオの話のあと、イエスはエルサレムの弟子たちに現れて、焼き魚を食べて、ベタニヤに行き、24:51で、“そして祝福を願っているうちに彼らから離れ,天に上げられた。”というもの。復活して数日で天に行ったとしか読めない。」
「使徒13:31では“そしてこの方は,ガリラヤからエルサレムに一緒に来ていた人たちに何日もの間姿を見せました。”とあります。同じ使徒なのにここではイエスが地上にいたのは“何日”ですよ。」
「マルコ、マタイ、ヨハネにはイエスが天に行ったという話は出てこない。いつ天に行ったかは不明だね。」
「ルカ24章では復活したイエスが使徒たちと初めて会うのはエルサレムですが、マタイではガリラヤです。マタイ28:16に“ところで,11人の弟子はガリラヤに向かい,イエスが会うために指定していた山に行った。”とあります。」
「ヨハネ20:19では“週の最初であるその日の遅く,弟子たちがユダヤ人たちへの恐れのために戸に鍵を掛けていたのに,イエスが現れて皆の真ん中に立ち,「あなたたちに平和がありますように」と言った。”とあるから、イエスが使徒たちと会ったのはエルサレムだね。イエスの復活に関する話は福音書によってみな違う。」
「5から8節が“他の人を力づける”です。 イエスに倣って他のJWを力づけて、JW活動をもっとやるように仕向けなさいという話です。7節では“ヨハネ 20:11-16を読む。”とあり、マリア・マグダレネが取り上げられます。」
「Mary Magdaleneを“マリア・マグダレネ”と訳しているけれど誤訳。これだとマグダレネが名字になってしまう。これは“マグダラのマリア”と訳する。」
「マグダラのマリアは空になった墓を見て泣くわけですが、そこへイエスが現れ、7節には“イエスはその涙を見ていて,慰めてあげたいと思いました。それでマリアの前に姿を現し,話し掛けます。”とありますが、正しくないです。イエスがなんていうかというと、“なぜ泣いているのですか。誰を捜しているのですか。”です。これは慰めてあげたいと思っている人の言葉ですか?」
「ヨハネのイエスはぶっきらぼうなんだよ。JW訳では省略しているけれど、イエスはマグダラのマリアに“女よ”とまず話しかけている。協会共同訳では“女よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。”となっている。人間的なイエスではなく、神格化されたイエスが描かれている。ここではイエスは慰めるなんてことはせず、任務を与えて、消える。」
「ヨハネ20:11、12には“泣きながら前かがみになって墓の中をのぞくと,イエスの体が置いてあった所に,白い衣服をまとった天使2人が座っていた。”と描かれていますが、ルカ24:3,4では“中に入ってみると,主イエスの体が見当たらなかった。 当惑していると,何と,光り輝く衣服を着た2人の人が現れた。”とあります。かなり違いますね。どちらが正しいのですか?」
「ルカ24:4のJW訳に問題がある。そこで使われている動詞の第一の意味は“立つ”。それを“現れた”と訳するのはダメだ。協会共同訳では“輝く衣を着た二人の人がそばに立った。”となっている。」
「これは“立った”と訳すると、ヨハネ20:12の“座っていた”と矛盾するからじゃないですか。それで訳でごまかした。」
「JWの英語訳ではstood by(そばに立った)となっている。ごまかしたのは日本語の翻訳者だね。」
「復活に関して異なった言い伝えがあったということですね。誰も真実を知らないわけですね。」
「聖書の細部の矛盾を気にしなくてはいけないのはJWみたいに聖書は神の言葉ですべて真実という思想の持主だけ。でもJWはこの問題を無視しているね。」
「8節は“イエスにどのように倣えるか。”で、“イエスのように周りの人の様子によく気を配り,誰かが気落ちしていることに気付いたなら,相手の気持ちを思いやりながら話し掛けましょう。”とあります。」
「泣いている女性JWがいたら、イエスに倣って“女よ、なぜ泣いているのか。”と話しかければいいわけね。」
「8節には“妹を事故で亡くすというつらい経験をしたジャスラン姉妹”の体験談が出ています。“「何カ月もの間,悲しみのどん底にいました」。そんな時,ある夫婦が家に呼んで親身になって話を聞いてくれました。”とあります。すると“まるでエホバが兄弟姉妹を使って,荒れ狂う海の中から私を救命ボートに引き上げてくれたように感じました。”というものです。」
「この話の問題点はまず“何カ月もの間”この姉妹は放置されていたこと。JWというのは実に愛のない人達だということがわかる。それからエホバなる神は交通事故を防いではくれないけれど、話を聞いてくれる人を手配してくれるというひどくずれた仕方で介入すると想定していること。」
「9から12節が“聖書を正しく理解できるよう助ける”です。 再びエマオへの道の話です。10節に“ルカ 24:18-27を読む。”とあり、“イエスは自分が誰であるかをすぐには言いませんでした。その代わりに質問をしました。”、そして“それまで起きたことについて正しく理解できるよう聖書を使って助けました。”とあります。ちょっと違いますね。」
「イエスはルカ24:25で“ああ,無分別で心が鈍い人たち! どうして預言者たちが語った全てのことを信じないのですか。”と言っている。これが“理解できるよう聖書を使って助けました。”と言うものなの?単に叱っているだけ。」
「福音書のテーマの一つに弟子たちの無理解というものがあります。弟子たちはダメなできの悪い人間と繰り返し描かれます。このエマオへの道の二人もその基本的なテーマに合うように描かれているわけですね。」
「イエスはそういうダメな弟子を時々しかりつける。でも見放すことはない。」
「11節は“イエスにどのように倣えるか。”で、“聖書レッスンをするときには上手に質問をして,学んでいる人の考えや気持ちを引き出すようにしましょう。(格 20:5)相手の気持ちが分かったなら,その人の状況にぴったり合う聖句をどうすれば見つけられるかを教えてあげてください。”とあります。これってイエスに倣うことになりますか?またもや格言20:5が登場しています。」
「ルカ24:27でイエスは“聖書全巻にある自分に関連した事柄を2人に解き明かした。”とある。JWのように都合の良い聖句をつまみ食いしなさい、と言っていないよ。全巻を読め、だね。」
「12節は家族の反対にあったノーティ兄弟の体験談です。“ノーテイ兄弟と聖書レッスンをしていた兄弟は,本物のクリスチャンは迫害されるということをマタイ 10章から前もって教えていました。ノーテイ兄弟はこう言っています。「それで,反対が始まった時,やっぱりこれが真理なんだと確信しました」。”とあります。これはJWによくある話です。」
「あらかじめ家族の反対があることを告げ、実際に反対があると真の宗教だからと思わせて、聖書の勉強と称するカルトの勉強を続けさせる。なければ何事もなかったかのように聖書の勉強と称するカルトの勉強を続ける。どっちでもカルトの勉強をやめさせない。」
「ノーティ兄弟は論理的誤謬を犯しています。反対があることは真の宗教ということの証明にはなりません。歴史上様々な宗教が迫害にあってきました。」
「そんなことを考えられるほどの知性がある人はJWにならないよ。」
「そのあと“聖書を教えていた兄弟は,何をすべきかを言う代わりに,質問をして,聖書の教えに基づいて考えるよう助けました。どうなったでしょうか。ノーテイ兄弟は開拓奉仕を始めることにしました。その結果,父親から家を出るように言われました。”とあります。JW流誘導術ですね。大学進学をあきらめて、開拓者というカルトの奴隷になるよう指示するのではなく、エホバが喜ぶのはどちらでしょうか、とか何とか言って自分で選択させたように誘導するわけです。」
「純真な世間知らずの未成年をだますことなど簡単なことでしょう。ノーティ兄弟はこのままJWを続けたら、窓ふきの仕事を30年続けた後、あのときJWにさえ会わなければとか、あの時父親の言葉に従っていればと後悔することになるだろうね。」
「でも12節では“正しい決定ができたと思うので,後悔は全くありません。”とノーティ兄弟は言っています。完全に洗脳されています。」
「英文ではI am convinced that I made the right choiceで、後悔は全くありません、なんて言っていない。翻訳者が勝手に付け加えている。翻訳者はきっと後悔でいっぱいの人なんだよ。組織内で翻訳の仕事をしているけれど、恐らく真面目なJWで大学に行っていないね。本心は大学に行ってもっと勉強したかったはず。それでこの場を借りて“後悔は全くありません”と負け惜しみを付け加えたくなったんだよ。」
「12節の下には、2枚の写真があって、JWの出版物を学んだ人がクリスマスの飾りつけを捨てているというものです。この記事はクリスマス嫌いのJWの保守強硬派が書いていますね。」
「みんなが楽しんでいる無害なものに難癖をつけて捨てさせるのがJW。こうして少しずつその人の人生を支配していくわけだ。」
「13から18節が“「人々という贈り物」になれるよう兄弟たちを訓練する”です。 組織に忠実なJWになるように訓練しなさいという内容です。13節に“イエスは天に戻る前,エホバの大切な羊を世話し,伝道して教える活動で率先するという責任を弟子たちに委ねました。その中には20代の人もいたかもしれません。(エフェソス 4:8を読む。)”とありまして、引照聖句には“こう述べられています。「その方は高い所に昇った時,捕虜を連れ去り,人々という贈り物を与えました」。”とあります。よく意味が分かりません。」
「訳がヘンだね。協会共同訳では“高い所に昇るとき/捕らえた者を引いて行き/人々に贈り物を分け与えられた。”とあるように、“人々という贈り物”ではなく、“人々に贈り物を”という意味。JW訳は間違いだらけでひどいね。」
「これは詩編68:18の“神ヤハよ,あなたは高い所に昇り,捕虜を連れ去りました。人々という贈り物を取りました。意地を張る人たちをも取りました。彼らの中に住むためです。”の引用ですよね。でも、引用としてはかなり不正確です。詩編には“人々という贈り物を取りました。”とあるのに、エフェソスでは“人々という贈り物を与えました”と逆の意味になっています。」
「詩編68:18は神がシオン山に上って、捕虜を含めた戦利品を受け取るという内容。それをエフェソスでは戦利品を神ではなく人間が受け取るように改変している。それをJWがさらに改変している。」
「エフェソス4:8の“その方”とはキリストのことですよね。詩編では“神ヤハ”とあるのに、キリストに読み替えるわけですね。」
「それがキリスト教。神ではなくキリストが中心となる。JWは違うけどね。」
「15節は“長老たちはイエスにどのように倣えるか。”です。 イエスとは関係ない内容です。“長老たちは,比較的若い人たちを含め兄弟たちがさらに大きな責任を担えるよう訓練し,サポートする必要があります。”と断定しています。」
「若者を育てよ、ということだけど、高齢化が進んで役職者のなり手がいないから、とは言えないみたいだね。」
「脚注には“資格を満たした兄弟が,20代半ばから後半で巡回監督に任命される場合もあります。”とあります。21歳で長老、25歳で巡回監督ですか。そうなったらもう組織も終わりですね。」
「それは組織内に人材がいないということを世間に知らしめるだけの愚行。人材難なら女性の活用を図るべきだけど、JWはそれができない。行き詰まりだね。」
「16節はパトリック兄弟の体験談です。“その長老のアドバイスのおかげで,会衆での奉仕の立場や機会よりも,仲間に謙遜に仕えることに注意を向ける大切さに 気付くことができました。”と心にもないことを言っています。その結果どうなったかというと、“パトリック兄弟は20代前半の時に長老として奉仕するよう任命されました。”というものです。ちゃんと長老になっています。メデタイですね。」
「若い人にやる気を出させるには長老という地位をちらつかせるしかない。それを露骨に示していているだけ。組織の言うことを聞いていると20代前半で長老ですよ、すごいですよ、と言っている。」
「18節では“経験豊かな長老たちは,ほかの兄弟たちに責任を委ねます。”とあり、具体的には“例えば,若い人たちに王国会館の清掃やメンテナンスに加わってもらうことができます。”とあります。若い人を無償でこき使うつもりです。若い人がいなくなるのも無理はありません。」
「これこそ机上のプラン。若い人がそもそもいないのに、若い人に清掃やメンテナンスをさせるなんて無理。必要な仕事はお金を出して専門家を雇えばいい。組織はお金をかけてつまらない動画を作っていないで、各会衆に必要な資金を与えたらいいよ。」
「最後の19節はまとめで、なぜかイエスの最後の40日間だけを取り上げて、“私たちもぜひその手本に倣いましょう。”と締めくくっています。そういう動画を作るという予告ですか?」
「来年の大会で繰り返し見せられるかも。最後の40日間にイエスが何をしたのかよくわからなかったけれど、焼き魚を食べたようだから、今夜はそれを倣うのはどうかな。」
- 聖書についての質問
- 2024年12月13日 14:23:14
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバは「心が傷ついた人を癒やす」(40)”で、辛い人生を送っているJWの癒し方を学ぶという内容です。」
「癒し方といっても、実際に役立つ癒し方は出てこないね。執筆者は聖句をいくつか読めば魔法のように傷ついた人が癒されると思っているようだ。」
「2節に“詩編 147編3節には,エホバは心の「傷を包んでくださる」と書かれています。この言葉から,心が傷ついた人をエホバが優しく世話してくださることが分かります。”とありますが、すこしもわかりませんね。そう言っているのは詩編作者です。」
「詩編147は神を賛美する詩で、その中でそう書かれているというだけ。神の保証でも約束でもない。」
「申命記7:15には“あなたは,エホバ神が与えるどの民も滅ぼさなければなりません。彼らを哀れに思ってはなりません。”とあります。異民族絶滅計画です。傷ついた人を優しく世話するつもりなんかありません。」
「イスラエル人に対しても、エレミヤ11:11では“それでエホバはこう言う。『私は彼らに,逃れることができない災いをもたらす。彼らが助けを求めても,私は耳を傾けない。”とあるよ。優しく世話なんかしないよ。」
「2節には“でもエホバに助けてもらうためには,私たちにもしなければいけないことがあります。”とありまして、エホバの援助は条件付きのけち臭いものと言ってます。」
「エホバは何もしてくれないと文句を言う信者には、それはあなたに問題があるからだというために、エホバの援助を条件付きにしておく必要がある。」
「3から7節が“エホバは私たちを大切に思っている”です。 そんなことないですよ。英文ではJEHOVAH ASSURES US OF OUR WORTHで、エホバは私たちの価値を保証してくれる、ですよ。お店の主人が商品の価値を保証するようなものじゃないですか。」
「JWの教義では、エホバはナントカ主権論争のために人類の不幸を放置しているんじゃなかった?自分の正しさを証明することを最優先しているナルシストじゃなかった?人類を大切に思ってなんかいないでしょう。」
「3節に“今は愛の欠けた冷たい世の中なので,自分には価値がないと感じている人は少なくありません。”と根拠もなく否定的なことを言っています。」
「これはJWのことでしょう。JWが愛の欠けた冷たい組織だから、自分たち以外もそうだと思い込む。」
「その後体験談です。“ヘレン姉妹はこう言っています。 「家族から愛情を受けずに育ちました。父からは暴力を振るわれ,ひどいことを毎日のように言われ,自分には何の価値もないんだと思うようになりました」。”とあります。JWらしいひどい家族ですね。」
「体罰推奨、女性差別、ハルマゲドンで滅ぼされると恐怖をあおる、といった子育てをしているのがJW 。悲しいことに、JWの子どもの中には、どうせ自分はハルマゲドンで滅ぼされるのだ、何の価値もない、と思い込む子どもが結構いるでしょう。」
「4節では“ほかの人からひどいことを言われたりされたりしたとしても,エホバから愛され,大切にされていることを忘れないでください。”と言ってから、“詩編 34:18を読む。”とあります。それは“エホバは心が傷ついた人のそばにいる。打ちのめされた人を救ってくださる。”というものです。」
「詩編34も賛美の詩で、そのように賛美しているというだけ。34:19には“正しい人は多くの苦難に遭う。しかし,エホバがその全てから助け出してくださる。”とあるけど、それが事実でないことは子どもでもわかる。単なる願望だね。」
「5節では“イエスの人への接し方からも,エホバの気持ちについて知ることができます。”とイエス登場です。“イエスの性格はお父さんエホバとそっくりです。(ヨハ 14:9)”とありますが、聖句の誤用ですね。」
「そこには“私を見た人は,父をも見たのです。”とあるけれど、これはイエスの性格のことを言っていると珍解釈をするわけね。ヨハネではイエス=神という思想なんだけど、JWはそれを認められないから、そういう珍解釈をせざるを得ない。」
「6節では“自分には価値がないという気持ちがなかなか消えない場合はどうしたらいいでしょうか。エホバが大切に思ってくださっていることが分かる聖句を読んで,じっくり考えましょう。”とあります。囲み記事には3つの聖句が出ています。これを読めば解決するようです。」
「そういう人もいるかもよ。そういう人は何年か後に、自分には価値がないと落ち込んでいた時に、この聖句を読んだらたちまち元気が出て、いまでは開拓者として奉仕しています、というような話を大会で披露してくれるはず。」
「6節ではさらに“自分に厳しくなり過ぎないようにしましょう。”、また“自分を責めたりしないでください。”とあります。」
「自分に価値がないという感覚と過剰な罪悪感を抱いている人は心の病気かその一歩手前だよ。放置すると自殺にもつながる。本来なら精神科の治療を強く勧めるべきだよ。」
「6節では“子供の頃に虐待を受けていたサンドラ姉妹はこう言っています。”と再び児童虐待の話が出てきます。こうして児童虐待の話題に慣れてもらうつもりですか?」
「アメリカでは何人ものJWが児童性的虐待で逮捕され有罪になっている。隠ぺいしきれなくなったことから、さりげなく話題に出して、組織は児童虐待のことを気にしているということを示したいのだろう。」
「7節は自分が無価値と感じている人に対して具体的なアドバイスです。“エホバは私たちに宣教という仕事を与えてくれています。エホバと共に働く素晴らしい機会です。”とあります。伝道しなさいということです。ただ断られるだけの伝道を繰り返したら、ますます自分は価値がないと感じますよ。精神的に有害です。信者のことを何も考えていません。」
「“素晴らしい機会です。”とあるけれど、英文ではthe honorで”名誉”だよ。伝道は名誉なことなんだよ。でも翻訳者はバカバカしいと思って変えたのだろう。英文では特権とか名誉とかを乱発して、なんとかやる気を出させようとしている。」
「7節には、3節に出てきたヘレン姉妹が再び登場します。“「自分には価値がないと思っていましたが,エホバのおかげで,自分は愛されていて人の役に立てるんだ,と思えるようになりました」。姉妹は今,正規開拓者として楽しく奉仕しています。”とあります。子どもの時から虐待されてきた姉妹もエホバのおかげで、正規開拓者です、という決まりきった終わり方です。」
「“エホバのおかげで”と言うのは曖昧だね。伝道したら、自分の無価値感を克服できたということ?伝道を勧めるという結論ありきのお話だね。」
「8から11節は“エホバは私たちが許されていることを信じてほしいと思っている”です。 8節は“バプテスマを受ける前や受けた後にしてしまった良くないことを思い出して,自分を責めてしまうということがあるかもしれません。”と、過去に過ちを起こした人向けです。“私たちがエホバとの間で「物事を正」したなら,エホバは私たちの罪を完全に許してくださいます。(イザヤ 1:18を読む。)”とありまして、そこには“来なさい。私たちの間で物事を正そう。あなたたちの罪は緋のようだが,雪のように白くされる。”と書かれています。訳がヘンですね。」
「“物事を正そう。”がへんだね。協会共同訳では“さあ、論じ合おう。”だけど、こちらが標準的な訳。ここでは裁判での言い方が用いられていて、各当事者が自分の主張を論じ合おうという意味。」
「訳がヘンなので解釈もヘンです。これは古代のイスラエル人に向けられた言葉です。今のJWとは関係ないですよ。」
「エルサレム滅亡に関して、列王二24:3,4に“エホバは,ユダをご自分の前から取りのけるため,こうしたことがユダに起きるよう命じたのだった。マナセが犯したさまざまな罪のゆえ, マナセが流した無実の人の血のゆえである。マナセは無実の人の血でエルサレムを満たした。エホバは許そうとはしなかった。”とある。何代か前の王の罪のおかげでエルサレムが滅亡して大勢の人が奴隷になったり死んだりしたようだ。それは“許そうとしなかった。”から。JWも何代か前の会長のおかげで滅ぼされるかもよ。そう簡単に許さない神のようだよ。」
「JWは旧約聖書が大好きで、よく引用しますが、旧約では罪の許され方がちゃんと明記されています。なぜそれを引用しないのですか?」
「たとえば、“民の誰かが意図せずに罪を犯し,エホバに禁じられていることを行ったとして有罪になった”場合は、雌の子ヤギを祭司の所に連れて行って、レビ4:31には“共食の犠牲から脂肪を取るのと同じように,脂肪を全て取る。祭司はそれを祭壇で焼いて煙にする。それはエホバにとって心地よい香りとなる。こうして祭司はその人のために贖罪を行い,その人は許される。”とある。罪を犯したJWがこれを実行するのはダメなの?」
「9節には“以前にしてしまったことのために心が痛んでいるなら,過去にではなく今と将来に目を向けるように努力しましょう。”とあります。パウロに倣えと言って、“パウロは伝道に打ち込み,将来に目を向けました。”とあります。結局伝道をやりなさいという結論です。」
「楽園が間もなく来ることを一軒一軒宣べ伝えていけば、どんな心の痛みも消えるというのがJW理論のようだ。」
「10節に“以前に誰かを傷つけてしまったことで,心が痛む場合はどうしたらいいでしょうか。相手のためにできる限りのことを行い,誠実に謝りましょう。”とあります。子どもを性的虐待した人でも謝れば済むようです。」
「しかもそれは“心が痛む場合”だ。何も感じない人は謝る必要はないようだ。謝罪は相手のためではなく、自分の罪悪感を減らすために行うというのがJW理論のようだね。JWの倫理水準がよくわかる。」
「11節はヨナの話です。イラスト付きです。“間違いから学び,エホバがあなたにしてほしいと思っていることを進んで行いましょう。”とあります。やっぱり“エホバがあなたにしてほしいと思っていること”とは伝道のことですね。」
「ヨナの任務はニネベの町に滅びのメッセージを伝えることだった。JWもおなじようにしなさいということでしょう。はっきり書かないのがズルいね。」
「12から14節が“エホバは聖なる力によって慰めてくださる”です。 聖霊のことですね。12節ではロン兄弟とキャロル姉妹の話が出てきます。“2人は,息子が自分で命を絶つというとてもつらい出来事を経験しました。こう言っています。「それまでも大変なことはいろいろありましたが,その中でも一番つらい出来事でした。眠れない日が続きました。でもエホバに祈ると,フィリピ 4章6,7節の言葉の通り,本当に心が落ち着きました」。”とあります。伝道の次は祈りですね。」
「息子が自殺した理由を知りたいね。JWによくあるような排斥されて孤立無援になって、精神的に病んでの自殺じゃないことを望むね。」
「12節では“聖なる力を与えてください,とエホバに繰り返しお願いしましょう。エホバはいつでも助けてくださいます。”とある。聖霊を求めなさい、というのは今まであまり聞いたことがない教えですよ。」
「JWも普通のキリスト教の真似をしようとしているということかな。」
「13節はフローラ姉妹の話です。“姉妹は夫と2人で宣教者として奉仕していました。でも夫は姉妹を裏切り,2人は離婚しました。”とあります。この姉妹は“夫に裏切られて,苦しくて何も考えられませんでした。このつらい状況を耐えられるように聖なる力を与えてください,とエホバに祈りました。エホバは私の祈りに答えて心の傷を癒やしてくださいました。”というものです。」
「JWの離婚率は相当高そうだね。でも夫婦で宣教活動しているのに、妻の目を盗みながら、しっかり浮気するというのは非常にまめな男だね。でもすぐばれて離婚だから単なる女好きのバカなのかも。」
「この種の離婚問題はJWでなくてもたくさんあって、聖霊の力に頼らず皆耐えていますよ。」
「この姉妹はJWでなくても、離婚に耐えたと思うよ。神秘的な力が働かなくても、時間の経過とともに苦しみはまぎれるものでしょう。この話は説得力ゼロだ。」
「14節は行動の必要性です。祈るだけではダメです。“集会に出席したり,伝道に参加したりすることは欠かせません。毎日聖書を読んでエホバの考えを知るようにしましょう。”とあります。過酷ですね。」
「子どもが自殺したり、夫が浮気して離婚したりしても、集会や伝道は休むな、という指令だね。精神を病むJWが増えるのも理解できる。つらいときには休息が必要。信者をただでこき使うことしか考えていないね。」
「15から17節が“エホバは仲間の兄弟姉妹によって慰めてくださる”です。 JW仲間で慰め合いなさいと言っています。16節では“仲間に支えてもらうためには,自分の方から助けを求める必要があるかもしれません。”と、積極的に助けを求めることを勧めています。」
「そうしないと誰も助けないからだよ。孤独死して、腐敗した状態で発見されたというJWが結構いるんじゃないの。貧しい老いたJWは集会に来なくなったら忘れ去られるだけ。」
「17節では“人と関わりたくないという気持ちに負けないようにしましょう。つらい気持ちの時には人と話す気になれないと感じることがあるものです。”とあります。うつ病の人を想定しているようです。“うつ病と闘っている長老のガビン兄弟はこう言っています。「友達と話したり,一緒に時間を過ごしたりする気になれないことがよくあります」。でも,兄弟はその気持ちに負けないようにしていて,仲間から力をもらっています。”とあります。」
「それはウソだろう。うつ病なら長老をやめるべき。うつ病のJWがまずすべきはJW活動から離れて、休息をとること。JWが励ましと称してつきまとうのは症状を悪化させるだけ。」
「うつ病患者の扱い方をJWは全く知りませんよね。」
「急性期には、励ましは逆効果になる、といった基本的な知識もないでしょう。周囲から励まされても、何を頑張ればよいのかわからないし、励まされると、周囲の期待に応えられない自分はダメだと自分を責めてしまう。」
「最後の18節は“将来に関するエホバの約束によって慰められる”です。 決まりきった最後の節の内容です、楽園幻想を振りまいておしまいです。」
「そうでもないよ。“でも,エホバは今でも私たちの「傷を包んで」くださいます。”とあって、“今でも”エホバは役立つと言っている。でもその根拠が真偽不明の体験談だけだったから説得力ゼロだったね。」
- 聖書についての質問
- 2024年12月06日 14:27:37
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“与えるならもっと幸せになれます(39)”で、組織は何もするつもりはないから仲間の信者同士で助け合え、という内容です。」
「もっと組織に寄付をすると幸せになります、という内容かと思ったけれど違うのね。」
「1節は“エホバは人間を受けるよりも与えることによって幸せになれるよう創造しました。(使徒 20:35)”と断定しています。受ける方が幸せという人はサタンが創造したと言わんばかりです。」
「聖句の誤用だけど、ある一つの考えをこうやって押し付けるのがカルトなわけだ。」
「そう造られているのなら、人類はすすんで与え続けるはずです。でもそうなっていませんよ。」
「そう造られていないからだよ。」
「3節に、“聖書に与えることが幸せにつながると書かれている”とあるのですが、英文ではThe Scriptures assure us that giving brings happinessとあり、聖書は与えることが幸福をもたらすことを保証している、と書かれていますよ。単に”つながる”ではありません。」
「翻訳者は、聖書がそんなことを保証している?ウソだろう、と思って、弱い表現に変えて、カルトらしさを減らしたわけだ。」
「5から13節が“気前よく与えるエホバに倣う”です。 エホバは気前のいい神だといっています。5節では“エホバは生活に必要な物を与えてくださっています。”とあります。そうですか?世界にはきれいな水を飲めない人が10億人はいるといわれています。」
「国連の統計では2022年に飢餓に直面している人は7億3500万人だよ。様々な理由で家を失った人は1億人以上いる。そういった人は考慮せず、お気楽なことを言うのがJWということね。」
「JWと言えばほとんどが貧困ライン以下と推定されています。生活保護受給者も結構いますよ。貧乏なため必要な医療を受けられず、怪しげな民間療法にたよるしかなくて、早死にする人はけっこういます。エホバは気前のいい神と実感できる人はどれほどいるか疑問です。」
「現実とは無関係のお話を長々と書くのがJW流の文書作成術。どんなウソでも信者は異議を唱えてはいけないのがルール。」
「6節では“マタイ 6章25,26節のイエスの言葉を考えてみましょう。(読む。)イエスは鳥を例に挙げて次のように言いました。「[鳥は]種をまいたり,刈り取ったり,倉に集めたりはしません。それでも天の父は鳥を養っています」。そしてイエスは,「あなたたちはそれよりも価値があるのではありませんか」と問い掛けました。”とあります。そして“エホバは動物を養っているのですから,私たちにも必要な物を必ず与えてくれると確信できます。”といっています。そう確信しても、そうならないケースがたくさんあります。」
「エホバは動物を養っていないでしょう。卵からかえったひな鳥のうち1年後に生きているのはどれくらいいるの?ほとんどは死んでいる。たいていの生物は多産多死。」
「自然界は食物連鎖で成り立っています。ある生物は他の生物の食糧となる、つまり食べられることを前提に自然界は成り立っています。こうことをエホバが養っているというのですか?」
「この記事の執筆者はJWの出版物しか読んだことのない人間なんだよ。自然界のことは何も知らない。」
「7節が具体的な指令です。“例えば,食べる物や着る物を必要としている兄弟姉妹が身近にいますか。エホバはあなたを通してその人を助けたいと思っているかもしれません。”とあります。その場合は、貧乏な私を通してではなく、エホバが直接助けたらどうですかと祈ればいいですね。」
「エホバは直接は何もしないということと、助けるのは仲間の信者限定というのがよくわかる。けちな神だ。」
「カート奉仕しているすぐそばでホームレスの人が倒れているのに見向きもしなJWという写真を見たことがあります。」
「食べるものや着るものを必要としているJW以外の人は無視するのがJWだね。どうせ間もなく滅ぼされる、助けるのは無意味と冷酷に判断する。」
「8節が“エホバは力を与えてくださいます。”で、“エホバはご自分の持っている無限の力を喜んで私たちに与えてくださいます。(フィリピ 2:13を読む。)”とありますが、引照聖句はそんなことは言っていません。」
「そこでは“神はご自分の望みを実現させるために皆さんを力づけてくださいます。”とあるだけ。この聖句から、どうして“無限の力を喜んで私たちに与えてくださいます。”という結論になるのか不思議だね。」
「9節にすべきことが出ています。“例えば,高齢や病気の兄弟姉妹のために用事をしたり家事を手伝ったりすることができるかもしれません。また状況が許すなら,王国会館の清掃やメンテナンスを手伝うこともできます。”とあります。つまり、こういうことをするJWがもはやいなくなったわけですよ。」
「高齢や病気のJWはどうでもいいけれど、王国会館の清掃やメンテナンスは大事だよね。いずれ売却するときに安く買いたたかれるとイタイからね。タダでこき使える人間は徹底的に利用するのがJWビジネス。」
「10節では、言葉がけをしなさいと言っています。“心からの褒め言葉を掛けたい人が誰かいますか。慰めの言葉を必要としている人がいるでしょうか。もしそうなら,自分から行動しましょう。”とあります。言葉をかけるだけならお金はかかりませんしね。」
「その後に“それは兄弟姉妹にとって,一日頑張ってエホバに仕える力になり”とある。JW活動をやらせるための言葉がけのようだね。あくまでタダでこき使うための慰めであり、励まし。」
「11節は“エホバは知恵を与えてくださいます。”で、ヤコブ1:5からの引用がなされ、そこには“皆さんの中に知恵の欠けた人がいるなら,その人は神に求め続けてください。”とあります。ここで言う知恵とはどのようなことですか?JWは誤解していると思いますよ。」
「ヤコブ3:17に“一方,天からの知恵を持つ人は,第一に清く,次いで平和を求め,分別があり,進んで従い,憐れみと良い実に満ち,差別をせず,偽善的ではありません。”とある。このような神が求める生き方をするのが知恵のある人ということだね。JW活動を上手にやるための知恵とは全く違う。」
「12節は具体的に知恵を与えることが書かれています。“例えば,伝道を始めて間もない人を訓練することがあります。長老たちは,援助奉仕者やバプテスマを受けた兄弟たちが会衆内で割り当てられたことを上手に果たせるように辛抱強く助けます。また,建設やメンテナンスの分野で技術を持っている人たちは,経験の少ない人たちが支部や王国会館の建設プロジェクトで働けるようトレーニングしています。”とあります。JW活動をうまくやれるように指導・訓練しなさいということです。ヤコブ書に書かれていることとは違いますね。」
「タダの労働者に要求が多すぎるよ。経験の少ない人が建設工事をしてはダメだろう。そんな建物は高く売れないよ。」
「13節では、“私たちも自分が持っている知識や経験を喜んで共有することができます。自分の仕事がなくなることを恐れて教えるのを控えるようなことがないようにしましょう。”とあります。自分の特権を守ることを優先して、他の人に何も教えないJWが多いということですか?」
「教えるのを控えるような貴重な知識や経験などJWにないよ。何度教えられても理解できない頭の悪いJWが、あの人は教えるのを惜しんでいると文句を言っているだけだよ。責任転嫁しているだけ。それがJWの知恵。」
「14から20節が“与えても感謝されていないように思えるとき”です。 感謝しない相手との接し方です。3つ出ています。16節が①“エホバの手本に目を向けましょう。”です。そこでは“エホバは感謝されるかどうかに関わりなく,みんなに良い ものを与えています。(マタ 5:43-48)”とあります。JWはぜひ見倣って欲しいです。」
「引照聖句には“父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ,正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるのです。 愛してくれる人を愛したからといって,どんな報いがあるでしょうか。”とある。それなら、JWしか助けないJWには“どんな報いがあるでしょうか”。と聞きたいね。なにもないよ。」
「17節に“与えることについて正しい見方を保つ上で,ルカ 14章12-14節でイエスが教えたことは役に立ちます。(読む。)”とあります。そこには“宴会を設けるときには,貧しい人,体が不自由な人,足が不自由な人,目が見えない人などを招きなさい。そうするなら幸せです。その人たちにはあなたに報いるものが何もないからです。あなたは,正しい人たちが復活する時に報われます。”とあります。善いことをする際に見返りを求めるな、ということですね。」
「JWは長老や巡回監督など権力者をもてなすのは熱心だけれど、それは見返りをもとめてだよね。弱い立場のJWには無関心でしょう。聖書の教えとは一致しないよ。」
「18節が②“相手の反応を悪く解釈しないようにしましょう。(コリ一 13:7)”です。感謝知らずの行為をなるべくよく解釈しなさいという指示です。“兄弟姉妹を本当に愛しているなら,相手の反応を広い心で受け止め,これからも喜んで与えることができるでしょう。”とあります。兄弟姉妹限定の親切ということがわかります。感謝しない相手でも広い心で受け止めるようです。」
「巡回監督とその妻の中には、さんざん食事の世話を受けても感謝なんかしない人もいるでしょう。統治体の中にも、日本に来た時に、もてなし方に文句を言っていた人がいたでしょう。そういうクズみたいな人でも広い心で受け止め、与え続けるのが正しいJWなわけだ。」
「19節が③“すぐに反応があることを期待しないようにしましょう。”です。“「あなたのパンを水の上に投げなさい。月日がたてば,あなたはそれを再び得ることになる」。(伝 11:1)この言葉の通り,何かをしてかなり「月日がた[って]」から感謝されるということがあります。”と書いていますが、聖句の誤用です。月日がたって感謝されるとは書いていません。」
「この聖句は、慈善行為を言っているのではなく、貿易による投資を言っている。伝道の書はエリート主義的で、貧しい人に対して極めて冷淡。」
「20節が体験談です。“ある巡回監督の妻は,バプテスマを受けて間もない姉妹に手紙を送り,エホバに仕え続けるよう励ましました。それから8年たって次のような返事を受け取りました。”というものです。その返事には“時々,真理からも種々の責任からも,あらゆることから逃げ出してしまいたいと思いました。けれども姉妹の書いてくださった聖句がいつも私の心の中にあったので,……歩み続けることができました。”とあります。手紙のせいで、カルトから脱出するチャンスを失ったようです。」
「20節には“巡回監督の妻は「月日がた[って]」からこの手紙を受け取り,本当にうれしかったことでしょう。”とあるけれど、この出来事と伝道11:1は全く無関係。」
「巡回監督の妻が送った手紙のことを“この8年間でこんなに自分に影響を与えた事柄はありませんでした。”と、この姉妹は言っています。会衆によくいる、誰からも相手にしてもらえない孤独な姉妹なんですね。」
「巡回監督の妻は夫が話す同じ講演を何回も聞かざるを得ないけれど、その退屈な話のあいだによくメモをするふりをして手紙を書いている人がいるよ。その手紙が孤独な姉妹の心にたまたま響いたというわけだね。」
「最後の21節がまとめで、“では,気前よく与えてくださる天のお父さんエホバにこれからも倣っていきましょう。”とありますが、エホバがそんなに気前良いとは実感できませんね。それから21節もあるのは長すぎます。」
「コロナの時、サタンの政府が一人10万円気前よく与えてくださったのに比べると、エホバは何をしたの?何もしてないよ。エホバに倣うとすれば、口先では立派なことを言いつつ、実際は何もしない、とういことかな。」
- 最も目立たない人
- 2024年11月30日 07:32:18
聖書についての質問さんのコメントを読んで、以前私も同じようなことをまとめていたことを思い出したので、この機会に共有します。
キリストの兄弟たちを手助けするとは?
「キリストの兄弟たちを手助けする」根拠とされている聖句に注目してみよう。
それから王は,右にいる人たちに言います。『さあ,私の父に祝福された人たち,世が始まって以来あなたたちのために用意されている王国を受けなさい。 私が飢えると食べ物を与え,喉が渇くと飲み物を与えてくれたからです。よそから来ると温かく迎え, 裸でいると服を与えてくれました。病気になると世話をし,牢屋にいると訪問してくれました』。 その時,正しい人たちはこう答えます。『主よ,いつ,あなたが飢えているのを見て食べ物を差し上げ,喉が渇いているのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 いつ,よそから来たのを見て温かく迎え,裸なのを見て服を差し上げたでしょうか。 いつ,病気であったり牢屋にいたりするのを知って訪問しましたか』。 王は答えます。『実のところ,これら私の兄弟のうち最も目立たない人の1人にしたのは,それだけ私にしたのです』。
それから王は,左にいる人たちに言います。『災いを宣告された人たち,私から離れ,悪魔と邪悪な天使たちのために用意された永遠の火に入りなさい。 私が飢えても食べ物を与えず,喉が渇いても飲み物を与えてくれなかったからです。 よそから来ても温かく迎えず,裸でいても服を与えず,病気であったり牢屋にいたりしても世話をしてくれませんでした』。 その時,その人たちもこう答えます。『主よ,いつ,あなたが飢え,喉が渇き,よそから来ており,裸であり,病気であり,牢屋にいるのを見て,仕えませんでしたか』。 その時,王は答えます。『実のところ,これら最も目立たない人の1人にしなかったのは,それだけ私にしなかったのです』。 この人たちは永遠の死を迎え,正しい人たちは永遠の命を受けます」。(マタ25:34-46)
エホバの証人はこの聖句を引き合いに出し、キリストの兄弟である「統治体」を支援する人が「父に祝福された人たち」となる、だからこそ伝道活動に参加して支援するようにと教えている。
ここで注目したいのは、祝福される人たちと災いを宣告される人たちの「反応」である。
「祝福される人たち」は、目に見えないキリストをいつまたどのように支援し、祝福を受けるまでの恵みを受けられるようになったのか、まるで認識していない。
一方で「災いを宣告される人たち」も同様に、なぜ自分たちがキリストを支援せず、裁かれる立場になったのかをやはり認識していない。
祝福の鍵は、キリスト本人ではなく「キリストの兄弟たち」を手助けしたかどうかであることを示しているが、その答えが与えられるのはそれぞれに裁きが宣告されるときである。
さて、ここで良く考えてみて欲しい。
仮にエホバの証人が主張する通り、「統治体」を支援することが祝福につながるのだとしたら、一生懸命に伝道しているエホバの証人はその業を通して、まさに自分たちこそが祝福を受けるべく「キリストの兄弟たち」を支援しているのだ、と考えていることだろう。何しろ統治体がそう教えているのだし、実際私もそう思っていた。まさに「ご利益信仰」である。
しかしそうだとするなら、彼らはその業により「自分たちこそが祝福を受ける人たちとして、キリストに親切を示しているのだ」とすでに認識していることになる。
「私がいつあなたを支援したでしょうか」と口では言いながら、内心では「自分は統治体を支援するためにあれだけ伝道し寄付してきたのだから、この報いは当然だろう」などと考えているとしたら、心を読まれるキリストはそんな利己的な人に報いを果たしてお与えになるだろうか?
この態度はむしろ、「あれだけ統治体を支援してきたのに、なぜあなたを支援しなかった者とされるのか」と言い訳をする、「災いを宣告される人たち」の描写の方がしっくりくるのではないか?
イエスは、「祝福を受ける人たち」と「災いを宣告される人たち」とは、いずれも思いがけずそれぞれの報いを受けるということを示しているのであり、そうであれば「統治体」への支援を通して祝福を受けるなどという考えが出てくる時点で、そもそも聖書の教えている真意からは的が外れてしまっているのだ。
つまり、具体的に「誰に何をすることが救いにつながるのか」ということを知ることなど誰にもできず、キリストの足跡に倣ったアガペー愛を示す生き方を通して気付かぬうちに「キリストの兄弟たち」に親切を示すということ、これがイエスの教えようとされていた主旨だろう。
しかもイエスが仰っていたように、「最も目立たない人の1人」に対する態度が問われているのであり、目立たないからこそすぐには気づけないような人に対する親切が求められているのである。
統治体は組織内で一番目立っているではないか。しかも自分たちを活動面で支援するようにと教えてすらいるのに、この描写に当てはまる「最も目立たない人」であると本気で考えているのだろうか。
この理解は、「キリストの兄弟たち」が実際には誰を指すのかをも再考すべき理由を示すことになるだろう。
- 聖書についての質問
- 2024年11月29日 14:29:47
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“警告に注意を払っていますか(38)”で、JWが大好きな終末論もので、イエスの3つのたとえ話のJW流の解釈を並べたという内容です。」
「羊とヤギ、思慮深い乙女と愚かな乙女、タラントの3つ。今までの解釈が変更になったのかな?」
「1節は“私たちはとても重要な時代に生きています。間もなくイエスは地球にいる一人一人を裁きます。”で始まります。“間もなく”と言う言葉にはワクワクしますね。終末論カルトの本領発揮です。」
「英文の方がすごいよ。WE LIVE in a climactic time!で、最高潮の時代に生きている、と言っている。終わりの時の終わりの終わりといった意味だよ。翻訳者は恥ずかしくて、そうは訳せなかったのだろうね。」
「3から5節が“羊とヤギ”です。 3節では、いきなり“イエスは人を羊とヤギに分ける時,良い知らせに応じ,天に行くよう選ばれた兄弟たちをサポートしたかどうかに基づいて裁きます。(マタ 25:31-46)”と断定しています。これは無理がありますね。」
「引照聖句には“実のところ,これら私の兄弟のうち最も目立たない人の1人にしたのは,それだけ私にしたのです。”とあるけれど、統治体の老人たちは最も目立つひとでしょう。統治体は当てはまりませんと言うべきだね。」
「イエスは名もなき弱い立場にある兄弟たちを世話をしなさいと言っているわけですよ。信者の間で王様のように振る舞う愚か者の世話をしなさいなんて言っていません。」
「JWはイエスの話を完全にひっくり返している。ここまで曲解ができるとは、ほめてあげたい。」
「しかも少数の天に行く特権階級が存在し、その他大勢がその特権階級を援助するということはイエスは全く言っていません。」
「JWという宗教は統治体のためにある宗教としか見えないね。」
「イエスの話では、羊とヤギに分けられた後、それぞれの人たちは、驚くわけです。羊の人は“主よ,いつ,あなたが飢えているのを見て食べ物を差し上げ,喉が渇いているのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。・・・”といい、ヤギのひとは“主よ,いつ,あなたが飢え,喉が渇き,よそから来ており,裸であり,病気であり,牢屋にいるのを見て,仕えませんでしたか。”と言います。統治体をサポートしたかどうかで決まるのなら、こんな驚きは示しませんよ。」
「そうだろうね。JWの解釈では、統治たちと一緒に写真を撮り、統治体の一人に高級時計をプレゼントした信者は、当然羊だ、ヤギのはずはないということになり、驚きはない。」
「その後に“イエスは「大患難」の期間中,ハルマゲドンの少し前にこの裁きを行います。(マタ 24:21)”とあります。大患難が始まってから羊とヤギに分けるというのが今のJWの教義です。でも引照聖句はそんなことは言っていません。」
「マタイ24章では、“その時,ユダヤにいる人は山に逃げ始めなさい。 屋上にいる人は,家から物を持ち出そうとして下りてはならず, 畑にいる人は,外衣を取りに帰ってはなりません。 その期間,妊娠している女性と赤ん坊に乳を飲ませている人にとっては悲惨なことになります! 逃げるのが冬や安息日にならないように祈っていなさい。”とある。これはパレスチナのユダヤ人に起こる出来事をいっているとしか読めない。マタイ24:21の“大患難”はJWの考えるハルマゲドンの前の世界的な大患難ではないよ。」
「そういえば、大患難の最中に統治体は天に行くはずですよ。天に行ってしまった統治体をサポートしたくてもできませんね。どうするんですか?」
「塔2019/10 の“「大患難」の間もエホバに忠実でいましょう”には“大患難の間に,エホバの民全体を教え導いてきた兄弟たちの交代があります。天に行くよう選ばれ,まだ地上に残っている人たちが,ある時点で天に集められるからです。ハルマゲドンの戦いに加わるためです。(マタ 24:31。啓 2:26,27)ですから,統治体は地上に存在しなくなります。”とある。油注がれた人は全員天に行く。その後は“天に行くよう選ばれた兄弟たちをサポート”したくてもできないので、全員ヤギになるわけだ。奇妙な教義だね。いずれ新しい光が差すよ。」
「4節は聖書から完全に外れます。“選ばれたキリストの兄弟たちをサポートする上で特に大切なのは,伝道活動を行うことです。そのようにする人たちは「正しい」人として裁かれ,地球での「永遠の命」を受けます。(マタ 25:46。啓 7:16,17)”とありますが、伝道したら永遠の命がもらえますなんて、聖書のどこにも書かれていません。」
「信者を宗教拡張員として無給で働かせるためのウソだね。それを無邪気に信じているのが一部のJW。大多数のJWは伝道活動などやる気がないよ。」
「5節は“ずっと忠実でいる。”です。“イエスによって選ばれた「忠実で思慮深い奴隷」の指導に忠実に従います。そのようにして信仰を表します。(マタ 24:45)”と、統治体崇拝を指示しています。カルト丸出しです。もちろん引照聖句はそんなことは言っていません。」
「忠実で思慮深い奴隷が統治体のことで、平信者は統治体に従わなければならないというのは、統治体が作ったお話だよ。それを無邪気に信じているのが一部のJW。」
「6から9節が“思慮深い乙女と愚かな乙女”です。 6節では“花婿が到着すると,思慮深い乙女たちは披露宴のために花婿と一緒に中に入りました。同じように,天に行くよう選ばれたクリスチャンたちは,キリストが来るまでずっと注意を怠らず,準備ができている状態でいるなら,花婿であるイエスと一緒に天の王国に入ることができます。”とあります。そういうたとえじゃないですよ。」
「マタイ25:5には“花婿が遅れている間に,皆,眠くなって眠り込んでしまいました。”とある。全員眠り込むわけで、注意を怠らず警戒していたわけではないし、眠り込んだことは非難もされていない。問題は予備の油を持っていたか否かという点。」
「マタイ25:13には“ですから,ずっと見張っていなさい。あなたたちは,その日も時刻も知らないからです。”とあるのですが、これは例えの内容に一致していないということですね。」
「全員寝ていたのに“ですから、ずっと見張っていなさい。”はおかしいよね。それでこの部分は元のたとえ話にはなく、後から付け加えられたものと考えられる。」
「7節には“思慮深い乙女たちとは違い,5人の愚かな乙女たちは,花婿が到着した時に準備ができていませんでした。”とありますが、これも論点がずれています。準備できていなかったのは、花婿が遅れてきた場合に必要な予備の油です。」
「花婿の遅れに備えよ、というのがこのたとえのポイントでしょう。」
「JWはすぐに終わりが来る、来るといって、終わりが来るのが遅れた場合の備えがない人が多いです。このたとえの愚かな乙女はJWのことですね。」
「貯金もなく、年金もほとんどもらえないという状態で、老後をお迎えになるエホバの方々が多いと聞くね。その場合、カルトに騙された愚かな老人ですと涙ながらに語って、周囲の人の同情を引くようにしたらいいかも。」
「8節は“注意を怠らず,準備をしている。”で、結論は“私たちは皆,この例え話から学べる教訓を心に刻む必要があります。終わりまで耐え忍ぶための準備をして,ずっと見張っていましょう。”です。いつ来るかわからない終わりの時まで耐え忍ぶためには、十分なお金と健康が必要ということですね。」
「シンプルな生活をして、100歳になってもゆとりある生活ができるよう、宗教はほどほどにして、まじめに働きお金を十分貯めよう、というメッセージかな?」
「10から14節が“タラント”です。 このたとえ話には3人の奴隷が出てきて、二人はお金を増やし、ひとりは増やさなかったというものです。増やさなかった奴隷はお金を取り上げられて、追放されます。12節で“2人の忠実な奴隷は,天に行くよう選ばれた忠実なクリスチャンを表しています。その人たちはイエスから,「主人である私と共に喜びなさい」と言われます。そして第一の復活を経験し,天に行きます。”と解説しています。もとのたとえになかったことを勝手に付け加えていますね。」
「第一の復活とか天に行くなんてことはこのたとえと関係ないね。別の聖句を勝手に結び付けているだけ。」
「13節は“一生懸命働く。”で、“イエスが言いたかったのは,選ばれた人たちが熱意を失うならどうなってしまうかということです。”とあります。持っているものも奪われ、追放されるようです。でも、タラントのたとえには熱意という単語は出てきません。」
「JWの解釈は、イエスのたとえは油注がれた天に行く144000人だけに向けられたものというもの。大多数の人には無関係のようだからどうでもいいんじゃないの。」
「15から17節が“誰が「連れていかれ」るか”です。 15節に“畑で働く2人の男性と,引き臼を回す2人の女性の話をしました。どちらの場合も,2人の人が同じ仕事をしているように見えますが,イエスは,「一方は連れていかれ,他方は捨てられ[る]」と言いました。(マタイ 24:40,41を読む。)”とあります。この解釈は“本当に選ばれ,最後まで忠実を貫いた人たちだけが「連れていかれ」,イエスによって天の王国に迎えられるのです。(ヨハ 14:3)”というものです。」
「天に行って、支配者になると言っているJWのうち、捨てられる人が結構いると言いたいわけね。“連れていかれ”とあるけれど、連れていかれて裁かれるのか、天に行くのかは何も書かれていないよ。それはあいまいなまま。」
「“捨てられる”という訳はへんですよ。そのまま残されるだけじゃないですか?」
「普通はそう訳するね。協会共同訳では“一人は取られ、一人は残される。”となっている。この話の要点は、一人が天に行き、もう一人は滅ぼされるということではなく、人の子の到来によって人間の運命が大きく分かれるということ。」
「一緒に働いている人はたいていは家族ですよ。ということは、どんなに親しい間柄でも人の子の到来によって、一人は取られ、一人は残されることになる。」
「人の子の到来とはそういう事態を生み出すもののようだ。」
「16節は“ずっと見張っている。”で、“天に行く希望を持つクリスチャンであっても,ずっと見張っていないなら,「選ばれた者たち」と一緒に集められることはありません。”と言っています。」
「これほど自称・天に行く人のことにこだわるのは不思議だね。本部にいる自称・天に行く人同士で何か対立でもあったのかな?非主流派を追い出そうとしているのかも。」
「17節では“最近になって誰かが天に行くよう選ばれるとしても心配しません。”とあります。これはこれから自称・天に行く人がたくさん現れる前触れですよ。」
「天に行く人は144000人だけという奇妙な教義を変更したいのかも。この教義ではもうとっくに天に行く人の定員は満たされたはずで、新たに油注がれた人があらわれるとニセモノと判断せざるを得ない。そうなると統治体の補充も難しくなる。」
「18,19節が“警告に注意を払う”です。 今までのことの繰り返しです。太字にしている強調点は、“ずっと忠実でいる”、“注意を怠らず,準備をしていた”、“一生懸命働いた”、“ずっと見張っている”です。これらを言いたかったようですね。」
「これらが3つのたとえ話の要点というのがJWの解釈なわけだ。組織に忠実で、死ぬまで組織の言いなりになって働けということだけど、天に行く人限定の話なので、大多数は無関係ということね。」
「最後の20節で“裁きの時が近づいていますが,心配する必要はありません。”と言っています。さんざん信者に要求し、最後に希望を持たせて終わるというのがよくあるパターンです。」
「英文ではjudgment is fast approachingで、単に近づいているのではなく、急速に近づいていると言っている。翻訳者もそんなことは信じていないので、単に近づいていますが、と訳したのだろう。裁きの時が急速に近づいているという根拠は何かな?たまにはそれについても教えて欲しい。説得力のある根拠を示されたら、平信者も多少やる気が出るよ。」
- 聖書についての質問
- 2024年11月22日 14:17:34
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“終わりまで忍耐し続ける助けになる手紙(37)”で、ヘブライ書をとりあげ、終わりが近いから統治体の命令に従い、耐えろ、という内容です。」
「最近ヘブライ書はよく取り上げられるね。結論はいつも統治体に従え。」
「1節に“でも西暦61年ごろからしばらくの間,比較的平和な時期が続きます。当時のクリスチャンはこの時期に,パウロから手紙を受け取りました。”とあります。ヘブライ書は西暦61年にパウロが書いたとJWは決めつけていますが、根拠はありません。実際は作者も書かれた年代も不明です。」
「信者向けの記事だからね。根拠などいらないよ。自信たっぷりに断定すれば、信者の方で、偉い統治体様がおっしゃるのだから間違いない、と勝手に思ってくれる。カルトの指導者は楽なもんだね。」
「それから手紙でもありません。」
「手紙なら必ずある冒頭のあいさつがない。ヘブライ1:1は“神は昔,預言者たちにより,いろいろな時に,いろいろな方法で,私たちの父祖に語りました。”とあるだけ。冒頭のあいさつでは、手紙の送り主、受け手、型にはまった挨拶、祈りあるいは感謝の言葉が来るけれど、それらが一切ない。」
「でも、最後の挨拶があります。それはパウロの手紙を真似ています。パウロと関係の深いテモテの名前さえ出てきます。」
「最後の部分はヘブライ書が聖書に加えられやすいようにと、後の時代に付け加えられたという説がある。それをしたのは著者がパウロなら受け入れやすいことを知っている人だね。ヘブライ書については最後まで聖書に入れるかどうかもめた。」
「4から8節が“十分に成長するように努力しましょう”です。 4節で“ユダヤ教の背景を持つクリスチャンたちには乗り越えなければいけない壁がありました。”と、ユダヤ人クリスチャンが困難な状況にあったことを言っています。」
「ユダヤ人クリスチャンはイエスこそ約束されたメシアだと初めは感激していたのだろうけれど、イエスをそうは考えないユダヤ人からは祖先の教えや伝統を汚す愚か者と非難され続けただろうね。それと同じ状況にいるのが今のJWと言いたいようだ。」
「統治体こそ現代の神の代理人と信じているのがJWです。大多数のクリスチャンからすればキリスト教の教えや伝統を汚す愚か者ですからね。」
「それで、ユダヤ人クリスチャンに向けられた言葉を、無理やり現代のJWに適用しようというのがこの記事だ。」
「7節に“ヘブライ人のクリスチャンのように,私たちもエホバの正しい基準に沿わない情報や考え方にさらされています。反対者たちは,聖書に基づく道徳基準は厳し過ぎるとか,冷た過ぎると非難します。”とあります。迫害に苦しむ被害者のふりをしています。」
「排斥制度が非難されていることを念頭に置いているね。排斥されると未成年の子供でも家から追い出し、一切連絡を絶ち、家族の葬式にさえも呼ばないなどの慣行を世界のあちらこちらで非難されている。」
「排斥という言葉は聖書に出てきません。JWの排斥制度は聖書的ではありません。喫煙、ギャンブル、輸血など、聖書では決して触れられていない行為を理由に信者を排斥しています。恣意的な人間のルールです。」
「それに一見聖書に基づいているようでも実は違うというのも多い。ヨハネ二10に“キリストの教えに従わない人があなたたちの所に来たら,家に迎え入れてはなりませんし,あいさつの言葉を掛けてもなりません。”とあり、これを根拠に排斥者には挨拶も禁止とJWはしているけれど、訳がおかしいし、排斥者を対象にしたものでないことはヨハネ二を読めば誰でもわかる。わからないのはJWだけ。」
「コリント一5章も排斥と関連付けられますが、排斥という言葉はもちろん出てきません。」
「そこには“そのような人とは接するのをやめなさい。一緒に食事をしてもなりません。”とあるけれど、危険なウイルス感染者かのように厳格な隔離を想定したものではないし、それが家族にまで適用されるなんてことは書かれていない。“接する”と訳されているけれど、正しくは“交際する”。共に食事をするといった社交的な関係を絶てと言っているだけ。」
「JWの英語訳ではstop keeping companyで、仲間でいるのをやめるという意味ですよ。」
「それを“接するのをやめなさい”と訳したわけだ。翻訳者はJWをやめた人を相当憎んでいるね。」
「9から14節は“信仰を抱いて生き続ける”です。 9節で“ユダヤにいるヘブライ人のクリスチャンが近づく患難を生き残るためには,強い信仰が必要でした。(ヘブ 10:37-39)イエスは弟子たちに,エルサレムが陣営を張った軍隊に囲まれるのを見たなら山に逃げるようにと言っていました。”とありますが、聖句を誤解していますね。」
「そこには“あと「ほんのしばらく」すれば,「来ることになっている方は到着します。遅れることはありません」。”とある。これはキリストの再臨のこと。ローマ軍によるエルサレム攻撃ではない。」
「その後“当時の人たちは大抵,軍隊が攻めてくると聞くと,エルサレムのように城壁のある町に避難しました。それで,山に逃げるようにという指示は普通ではあり得ないものに思えたことでしょう。それに従うには大きな信仰が要りました。”と断定していますが、そうなんですか?」
「この主張の根拠を知りたいね。攻撃目標はエルサレムとわかっているなら、エルサレムから脱出し、ローマ軍が来そうもないところに逃げるのは普通じゃないの?」
「10節では、ローマ軍のエルサレム攻撃のことをヘブライ書が言っているという誤解に基づいて、根拠のない推論を述べています。“教え導く責任を委ねられた人たちは,山に逃げるようにというイエスの命令に,会衆のみんなが適切なタイミングで秩序正しく従えるように具体的な指示を与えたと思われます。(ヘブライ 13:17を読む。)”と言っています。引照聖句には山に逃げることなど出てきません。」
「そこには“皆さんを教え導いている人たちに従い,進んで応じてください。”とあるだけ。山に逃げる話はルカ21章でしょう。無関係な聖句を勝手に結び付けて、JWに都合の良い物語を創作するのがJW流の聖書読解だよね。」
「その後“ヘブライ 13章17節で使われている「従う」という意味のギリシャ語は,指示を与えている人のことを信頼しているので納得して従う,という考えを含んでいます。それは,単に権威を与えられている人からの指示なので従う,ということではありません。”と断言していますが、根拠が示されていません。どこかの辞書を見たのでしょうから、その辞書を教えて欲しいです。」
「翻訳に問題がある。“納得して従う”とあるけれど、英文はsomeone is persuaded to obeyで、“従うよう説得される”と言う意味。これならそれほど問題ではない。従うと訳されているギリシャ語の意味は、“説得する、促す”とたいていの辞書に書いている。」
「ギリシャ語についての怪しげな話を持ち出していますが、要するに統治体をはじめとした指導者に従えということですね。」
「JWの最大の美徳は盲目的な服従だからね。それに多少なりとも抵抗を感じるほど知性がある人はJWを続けられない。」
「11節は現代の話です。“多くの人は今の体制の終わりについての聖書の警告に聞く耳を持ちません。ばかにすることさえあります。(ペテ二 3:3,4)”とありますが、引照聖句は1世紀からそうだと言っています。」
「ペテロ二3章はイエスの再臨が遅れていることに対する言い訳の部分。神にとって千年は1日なんて言ってごまかしている。」
「JWがバカにされるのは当然です。150年くらい間もなく終わりが来る、来るといって、適当な日付をでっち上げ、すべて外してきたわけですから。」
「多くのJWは終わりが来るなんて信じていないよ。惰性でJWをやっているだけ。それで11節で“終わりが時間通りに来ることやエホバがずっと世話してくださることへの強い信仰を持つ必要があります。”と言っているわけだけど、何の効果もないでしょう。」
「12節で“私たちは,エホバが「忠実で思慮深い奴隷」を通して導いてくださっていることへの信仰を強める必要もあります。”と、統治体信仰を推し進めています。カルト的でいいですね。」
「“エホバが責任を委ねている人たちからの指示に対する信頼や確信を今強める必要があります。”とあるけれど、責任をゆだねている人=統治体というのは、何の根拠もないでしょう。自分たちでそう言っているだけ。そんな人に自分の人生をゆだねていいのかな?」
「14節で“今の体制の終わりがすぐそこまで来ていることに強い信仰を持っているなら,お金や物を愛する考え方を避けたいと思うでしょう。大患難の時,お金には何の価値もありません。”と、アブナイことを言っています。大患難が間もなく来ると信じて、仕事をやめたり、家を売ったりする愚か者はもはやいないと思いますが。」
「大患難のときでもお金は役に立つよ。しつこく貧乏暮らしを強要するのはなぜなのかな?寄付を集めるためとしか思えない。」
「15から18節が“皆さんには忍耐が必要です”。 迫害の恐怖をあおっています。16節で“神はクリスチャンが経験する試練を訓練の一部として許すことがある,と説明しました。(ヘブライ 12:7を読む。)そうした訓練によって,クリスチャンとしての人格を身に着けたり,さらに磨いたりすることができます。”とあります。そんなことは滅多に起こりません。ひどい神ですね。」
「引照聖句には“皆さんは矯正の一環として忍耐する必要があります。神は皆さんを子として扱っています。父親から矯正を受けない子がいるでしょうか。”とある。ここにあるのは子に対する体罰を父による教育として無条件に肯定する古代の野蛮な教育観だ。現代では受け入れられないね。にもかかわらず、それをJWは無批判に受け入れているのがダメだね。」
「この聖句によれば、迫害は神から来ることになります。それも問題ですよ。」
「ヘブライ書の著者は神がこの宇宙を支配しているという神学をもっている。そうであれば、苦しみも不幸も神のせいということになり、その苦しみには意味があると強弁して神を弁護するしかなくなる。でも苦しみも不幸も教育的価値より害の方が多いよ。」
「17節に“パウロもそうやって勇気を得ていたので,「エホバは私を助けてくださる。私は恐れない」と言うことができました。(ヘブ 13:6)”とあるのですが、そのセリフはパウロが詩編118:6の70人訳から引用しているだけです。」
「ヘブライ語聖書では“エホバは私の側にいてくださる。私は恐れない。人が私に何を行えるだろう。”なんだけど、70人訳とは少し違う。新約聖書で旧約聖書が引用される場合はたいてい70人訳からで、ヘブライ語本文より70人訳の方が権威があるみたいだ。それはヘンなことだけど、JWでは誰も気にしないようだね。」
「18節で再び迫害の恐怖をあおります。“聖書にはっきり書かれている通り,「神への専心を貫き,キリスト・イエスに従って生きようとする人は皆,同じように迫害を受けます」。(テモ二 3:12)ですから,私たち皆がこれから起きることに備えておく必要があります。”とあります。でも迫害されているJWは全体のほんの一部ですよ。」
「引照聖句の訳がヘンだね。“神への専心を貫き”なんて本文にないよ。協会共同訳では“キリスト・イエスにあって敬虔に生きようとする者は皆、迫害を受けます。”だけど、これが普通の訳。」
「最後の19節はまとめです。“パウロがヘブライ人のクリスチャンに宛てて書いた手紙は,1世紀の兄弟たちが患難に備えるのに確かに役立ちました。”とあります。今のJWも見倣え、と言いたいようです。」
「状況が違う。今のJWの多くは信教の自由が保証された国に住んで、1世紀のような暴力的な迫害など無縁。でも、カルトの被害からいかに身を守るか、これ以上無給の労働力としていかに搾取されないようにするか、寄付の要求をいかにうまく断るか、と言った艱難に備える必要があるわけだ。これはヘブライ書を読んでも役に立たないね。」
- 聖書についての質問
- 2024年11月15日 14:25:52
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“神の言葉を実践する人になってください(36)”で、JW流の聖書の学び方を学ぶ、という内容です。」
「最近のJWはほとんど聖書を知らないし、JWの教義も、まもなく終わりが来ること以外ほとんど知らないからね。もっと知識レベルを上げたいということでしょう。」
「2節がいいです。“エホバに仕えている私たちは幸せです。”と久しぶりの幸せ宣言です。本当に幸せな人はそんなことを何度も言いませんよ。」
「JWは不幸な人が多いでしょう。家庭崩壊、貧困、各種の病気で苦しんでいる割合はJW以外の人より多いよ。」
「2節にはJWが幸せな理由が出ています。“私たちは聖書を毎日読み,学んだことを実践するように努力しているからこそ,幸せでいることができています。(ヤコブ 1:22-25を読む。)”とあります。引照聖句には“聖書を毎日読み”なんてことは書かれていません。」
「まず、英文ではwe regularly read God’s Wordとあり、定期的に読むように言っているけれど、毎日読むとは言っていない。日本のJWだけは毎日読まないといけないようだね。」
「ヤコブ書は“神の言葉を実践する人になってください。”と言っています。具体的にはヤコブ1:27には“困っている孤児ややもめを世話すること”とあります。JWは孤児ややもめに何もしていません。統治体は口先だけで、みなさーん、愛してます、と言うだけです。」
「JWは雑誌の販売会社としてスタートしたからね。慈善活動など全く無関心。キリスト教らしさはないよ。」
「3節は神の言葉を実践するとご利益があると言っています。まず、“私たちはエホバが喜んでくれていることを実感すると,幸せな気持ちになれます。(伝 12:13)”とあります。でも、引照聖句は幸せになるとは言っていません。」
「聖書は個人の幸福にはほとんど関心がないからね。」
「ここで伝道の書を引照聖句に使うのは不適切ですよ。伝道の書の幸福観はJW的じゃないですから。例えば、伝道8:15には“食べ,飲み,喜ぶこと,この地上で人にとってこれ以上の幸せはないからだ。”とあります。JWは飲まず食わずで、ひたすら無意味なJW活動を押し付けられて何の喜びもなく一生を終えます。伝道の書の作者がいう空しい生き方そのものです。」
「伝道6:6には“1000年,さらに1000年生きたとしても,楽しみを経験しなかったなら,何の意味があるというのだろう。”とある。人生を楽しまなければ意味がない、ということ。JWは楽園が来ても、1000年間ひたすら働く生活を送るようだけど、そんな人生に何の意味があるのだろうかと、伝道の書の作者は言っているよ。」
「3節では、“また,神の言葉を読んで実践することで,家族との絆も,仲間の兄弟姉妹との友情も強まってきたことでしょう。”と、ご利益を並べていますが、事実に反します。」
「JWの家族はバラバラになり、音信不通で、JW同士の関係は、友情などというものとは程遠いことが多いでしょう。」
「5,6節が“聖書を読む時間を確保する”です。 5節では“エホバの証人は大抵とても忙しい生活を送っています。”とあります。そうさせているのは組織ですよ。無責任な言い方です。」
「信者を忙しくさせて、考えさせないようにするのがカルト。コロナ問題の時は暇ができて、考える時間が増えて、JWのバカバカしさに気づいた人はけっこういたようだよ。」
「6節に“聖書を読むことは,クリスチャンにとって「より重要なこと」なので優先する必要があります。(フィリ 1:10)”とありますが、引照聖句には聖書を読むことは、“より重要なこと”とは書かれていません。」
「新約聖書には聖書を読め、なんて書かれていないよ。新約聖書に収められている福音書やパウロの書簡はまだ聖典の地位を得ていなかった。」
「聖書を読むことが強調されたのはルターたちの宗教改革の時代からですよ。」
「“聖書のみ Sola scriptura”は、信仰義認、万人祭司と並ぶ、宗教改革におけるプロテスタントの三大原理の一つだね。JWもその流れの末端に位置するわけだけど、信仰義認はJWとは無縁だね。」
「6節に“詩編 1編には,幸せな人についてこう書かれています。「その人はエホバの律法を喜び,昼も夜も小声で読む」。(詩 1:1,2)この聖句は,聖書を読む時間を確保する大切さを教えています。”とありますが、聖句の誤用です。そんなことを言っていません。恥ずかしいですね。」
「“小声で読む”は誤訳。使われているヘブライ語の動詞に“読む”という意味はなく、“呻く、唸る、話す、黙想する”と言う意味。協会共同訳では“主の教えを喜びとし/その教えを昼も夜も唱える人”となっている。」
「7から10節は“読んだことについてじっくり考える”です。 8節に“急いで読んでしまうと,読んだ内容を十分に理解することも,学んだことを活用することもできないでしょう。(ヤコ 1:24)”とあり、急いで読むなと指示しています。でも引照聖句とは何の関係もありません。」
「聖書には聖書の読み方について何も書かれていないよ。無理に聖句を引用するからおかしなことになる。」
「9節の下に“聖書を読む時に考えたいこと”と言う囲み記事があります。そこには“ここからエホバ神についてどんなことが分かるか。この部分は聖書の中心テーマとどう関係しているか。これを自分の生活でどのように役立てられるか。誰かを助けたり力づけたりするために,この言葉をどのように使えるか。”を考えて読むよう指示しています。」
「エリシャをハゲ頭とからかった子どもたち42人が2頭のクマに殺される列王記二2章を読んだときは、エホバは残酷で暴力的な神だな、とか、エホバに比べて自分は子どもに優しすぎる、もっと体罰を加えた方がいいのでは、と考えればいいわけだね。」
「詩編137:8,9には“バビロン,おまえはもうすぐ壊滅させられる。おまえが私たちに加えた仕打ちで,おまえに報いる者は幸せだ。 おまえの子供たちを捕まえて,岩にたたきつける者は幸せだ。”とあります。これはエホバは子供を殺すのが大好きなんだな、とかハルマゲドンでは赤ん坊だって皆殺しするんだろうな、と思えばいいわけですね。」
「赤ん坊はバビロン捕囚に何の責任もないのに、虐殺しようとしている。神には正義の感覚が欠落している、と考えが及べば、よく考えて聖書を読んだと言えるでしょう。」
「10節では“聖書を読む時は,「この情報を今または近い将来にどのように活用できるだろうか」と考えます。”と指示しています。例えば、エリシャのハゲをからかった話を、生意気なJWの子どもを懲らしめるのに、どのように活用できるかを考えるわけですね。」
「JWが聖書の活用というと、誰かを管理統制するための道具として聖書を活用するという意味にすぎないわけだ。それから、孤児ややもめの世話のように、自分たちがしたくないことは聖書に書かれていても無視するのがJWの聖書の読み方。」
「11から14節が“無理のない目標を立てる”です。 さんざん聖書を一生懸命読むように指示してから、少しだけ優しいことを言っています。11節で“聖書を読んで学んだことを実践しようとすると,圧倒されるように感じることがあるかもしれません。”とあります。」
「JWなんだから、統治体に見倣って、聖書に書いてあってもやりたくないことはしなくていいよ。」
「13節では“取り組む必要のあることをリストにします。そこから1つか2つを選びましょう。残りは後で取り組むことにします。”と指示しています。この程度のことがわからないのがJWなのですね。」
「14節で“目標を決めたなら,「ものみの塔出版物索引」や「エホバの証人のためのリサーチガイド」などのツールを使って調査しましょう。”とある。結局JWの情報だけを調べるわけだ。そうやってカルトに取り込まれていく。」
「最後の15,16節が“神の言葉から「良い感化」を受ける”です。 この記事は16節で終わるわけで、あまり書くことがなかったようです。15節に“エホバの証人はどうでしょうか。1世紀のクリスチャンと同じように,聖書を「まさしく神の言葉として」受け入れています。”とあるのですが、これは聖書の誤読ですね。」
「引照聖句はテサロニケ一2:13で、“皆さんが私たちから神の言葉を聞いた時,それを人間の言葉としてではなく,まさしく神の言葉として受け入れたからです。”とある。ここでいう“神の言葉”は聖書のことではないよ。パウロはテサロニケの人々の前で旧約聖書を読んだなんて言う記録はないよ。」
「テサロニケ一2:2で“ご存じのように,私たちはまずフィリピで苦しめられ,侮辱を受けましたが,神の助けにより勇気を奮い起こし,厳しい反対に遭いながらも皆さんに神の良い知らせを伝えました。”とあります。パウロが伝えたのは旧約聖書の一節ではなくて、いわゆる福音のことですよ。」
「パウロが伝えた主なことはキリストのことでしょう。だからクリスチャンと呼ばれるようになった。書かれた書物こそが信仰の中心だ、という思想はJWの思想でパウロにはない。」
「16節では“神の言葉を読んで実践するのは,いつも簡単なわけではありません。”とありますが、JWの聖書に基づかないばかげた命令に比べれば実践しやすいですよ。」
「輸血をしないと死ぬ状況でも輸血をするな、というJWの教えに比べれば、確かにそうだね。」
- 聖書についての質問
- 2024年11月08日 14:08:49
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“会衆から除かれた人を助ける(35)”で、排斥しても戻ってくるよう配慮しなさいという内容です。」
「排斥された人には挨拶もしないという反社会的なカルト的行動を少しは改めるようだけど、本質は変わらないね。」
「3から5節が“悪い人を除きなさい”です。 JWには悪い人が多いということですね。4節に“悔い改めようとしない人が会衆から除かれた場合,その人がエホバの証人ではなくなったことが会衆に知らされます。”とあります。注には“今後はそのような人のことを,排斥されたとは言いません。コリント第一 5章13節の表現に合わせて,会衆から除かれたと言います。”とあります。」
「そういうわけで、JWから除かれた人はいても、JWから排斥された人はいなくなるわけだ。これからJWは仲間の信者を排斥することはありません、と堂々とマスコミに言える。メデタイね。」
「5節では“会衆から兄弟か姉妹が除かれた場合,その人のことをどう見るべきでしょうか。交友を持つことはしませんが,救われる見込みがない人とではなく,迷い出た羊と見ます。羊は群れから迷い出たとしても,戻ってくる可能性があります。”とあります。排斥された人を将来戻ってくるかもしれない人と見なさいという指示ですが、それなら集団絶交は止めるべきですが、それは堅持します。」
「信者の新規獲得は難しいから、逃げた信者の復帰に期待するわけだ。でもみんなで絶交するのは止められない。ドン詰まりだね。」
「6から12節が“長老たちは会衆から除かれた人をどのように助けるか”です。 排斥後の手順についての説明です。6節に“長老たちから成る委員会は,悔い改めない人に会衆から除かれることを伝える時,戻ってくるためにどうしたらいいかも伝えます。それだけではなく,多くの場合,長老たちは罪を犯した人の考えが変化しているかどうかを確かめるために,数カ月後にまた話し合う機会をつくりたい,と思っていることを伝えます。”とあります。排斥から数か月後に面接するようですね。」
「6節の最後に“長老たちはその人と周期的に会うよう努力を続けます。”とある。無給の長老に対して要求が多すぎる。会いに行く際の交通費や手土産代を組織が負担してくれたら、長老は喜んで会いに行くよ。タダで働かせようとするのが間違い。」
「7節に“クリスチャンの長老たちもエホバのように,罪を犯した人が戻ってくることを心から願っているので,その人に戻りにくいと感じさせるようなことは決してしません。(エレミヤ 3:12を読む。)”とあります。長老は戻りやすい環境を作れという指示ですね。」
「読むように指示されているエレミヤ3:12は“行って,北に次の言葉を伝えなさい。『「背信のイスラエルよ,戻りなさい」と,エホバは言う』。”とあるように、特定の歴史を背景にしたもので、今のJWとは関係ないよ。」
「8節には“長老たちも,迷い出た人たちに対して愛情深い父親のような態度を示すようにします。ぜひ戻ってきてほしいと思っているからです。”とありますが、現実は戻ってきてほしくない人もいますよ。」
「排斥された人に対する長老の態度は犯罪者扱いでひどいもの。ここはタテマエを書いただけ。本音はこの後に出てくるよ。」
「9節に“長老たちはこのようなエホバの気持ちについて考えると,悔い改めていることが分かるどんな小さなサインにも気付けるようでありたいと思うはずです。”とあり、復帰したそうな人を見逃すなという指示ですが、復帰したくないのに復帰したがっていると誤解されて、しつこく付きまとわれそうで嫌ですね。」
「組織の指示には何でも盲目的に従う長老だと、ストーカーのようにつきまとうかも。」
「10節は多くの元JWを怒らせた問題の箇所です。“以前に会衆から除かれた人たちについてはどうでしょうか。そうした人の中には,何年も前に会衆から除かれ,今はその原因となった悪いことをもう行っていない人や,自分がどうして会衆から除かれたのかを覚えていない人さえいるかもしれません。”とあります。インチキ宗教裁判で排斥されたのに、“自分がどうして会衆から除かれたのかを覚えていない人”なんかいませんよ。」
「排斥した理由をすぐに忘れるのは、排斥した長老でしょう。気楽に排斥しているから、すぐ忘れる。排斥された側は何年たっても昨日のことのように鮮明に覚えているよ。」
「さらに“長老たちはそうした人がどこに住んでいるかを把握して訪問するように努力します。”とあります。しつこいですね。そして“本人が会衆に戻ることを望んでいるなら,長老たちは誰かがその人と聖書レッスンをするよう取り決めることができます。”とあります。」
「何年も前に排斥した人の住所を探し当てて、訪問するのね。そんな面倒なことをする長老はまずいないでしょう。」
「12節には復帰させる際に注意が必要な人がでてきます。“例えば,児童虐待をした人,背教した人,結婚を終わらせようと画策して姦淫などの罪を犯した人の場合,その人が本当に悔い改めているかどうかをしっかり確かめる必要があります。”とあります。最初に“児童虐待”が出てくるのが組織の実情を物語っていますね。」
「アメリカでは大勢のJWが児童性的虐待とその隠蔽で逮捕されて、有罪となっている。そういう人でも安易に復帰させてきたのがJWだけど、これからは少し考えようということだね。」
「12節の最後に“こうした罪を犯した人に対してエホバが憐れみを示すことは絶対にない,などと決め付けるべきではありません。”とありますから、子どもを性的に虐待した人でもJWに復帰できるようです。」
「注をみると、“聖書には,許されない罪があることが書かれています。でもそれはどんな罪を犯したかで決まるのではなく,心の状態が関係しています。”と聖書に書いていないことを勝手に書いている。聖書以上に権威があるのが執筆者なわけだ。」
「13から15節が“会衆の人たちには何ができるか”です。 ヒラの信者への指示です。13節は戒めを受けたと発表された人に対してどうするかです。“引き続きその人と交友を持つことができます。”とあります。」
「戒めを受けたという発表があったということは、一応悔い改めたという意味なんだね。」
「14節は排斥された人への対応です。“交友を持つことはしません。”とあります。でも“会衆から除かれた人を集会に招待するかどうかは,聖書によって整えられた良心に基づいて,各自で決めることができます。もしかすると,その中には 親族や親しかった人が含まれるかもしれません。”とあります。」
「親族と会ってはいけないけれど、集会に招待し、集会で会うのはOKということだね。」
「ということは、排斥されて家族と20年以上会ったことも、話したこともない人に、突然、今度の集会に来ない?という電話なりメールが来るかもしれないということですね。ふざけていますね。」
「その場合、申し訳ありませんが、あなたのことは知りません、と答えればいい。」
「そして“以前はあいさつをすることはありませんでした。でもこの点に関しても,私たち一人一人は聖書によって整えられた良心に基づいて判断する必要があります。”とあります。完全無視からあいさつはよいという新しい光です。素晴らしいですね。多少人間的にふるまってよくなりました。」
「JWらしいごまかしがある。“以前はあいさつをすることはありませんでした。”ではなく、カルトの指導者から、あいさつすることを禁じられていました、でしょう。正直に書いて欲しいね。」
「今までは、排斥された人は集会に来ても、全員から無視され、一番後ろの席に目立たないように座り、祈りが終わるとすぐに帰っていきました。これからは、挨拶だけされるけれど、それ以外は同じとなるわけですね。」
「あいさつが許可されるまですごい時間がかかった。挨拶するかどうかといった細かなことまでコントロールするのがカルトらしくて素晴らしい。」
「でも14節では“その人と長く会話を続けたり,別の機会に一緒に時間を過ごしたりするようなことはしません。”と指示をしています。どの程度の会話がダメなのかも良心に基づいて判断するのではなく、長老の考え次第なんでしょうね。」
「あいさつしてもいいという変更はJWは非人道的な過激な宗教ではないと政府に示すためのものだからね。ノルウェーでの敗訴を受けて、JWの弁護士が排斥のルールを変えるように要求したのだろう。統治体はイヤイヤ少しだけ変えたわけだ。」
「15節はヨハネ二9-11の解釈です。“キリストの教えに従わない人があなたたちの所に来たら,家に迎え入れてはなりませんし,あいさつの言葉を掛けてもなりません。”と言う聖句です。これは“でも聖句の文脈を見てみると,この指示は背教者や間違った行いを広めようとしている人たちについて書かれていることが分かります。”と説明しています。」
「単にタバコを吸ったとか、単に未成年者と性行為をしたとか、単にアル中で妻子に暴力をふるったとかは当てはまらないと言いたいわけだね。」
「15節の下に“ヨハネとパウロは同じ罪について書いていましたか”と言う囲み記事があります。“パウロは,性的不道徳の罪を犯した人について書きました。それから43年後にヨハネが書いたのは,背教者や間違った教えや行いを広めている人たちについてでした。”とあります。あいさつをしてはいけないのは“背教者や間違った教えや行いを広めている人たち”だけのようです。悪いことをしても黙っている人ならあいさつしてもいいようです。」
「子どもに性的虐待した人はそのことについて黙っているから、集会に来るとあいさつされる。でも別の人が組織は性的虐待者を保護しているというと組織を批判すると、背教者とされてあいさつされないわけだ。奇妙だね。」
「以前のヨハネ二9-11の解釈は違っていましたよ。こっそり変えたわけですね。」
「例えば、1985/7/15のものみの塔の“読者からの質問”に“ある人物を自分の家に迎え入れたりあいさつをしたりしないようにと述べるヨハネ第二 10節の言葉は,偽りの教理を広めようとした人々だけに当てはまるのですか。”というのがあって、その回答は“聖書のほかの箇所を見ると,これが適用される範囲はもっと広いことが分かります。”と勝手に拡大解釈していた。JWのいい加減さがよくわかる。」
「最後の16,17節が“思いやり深いエホバに倣う”です。 8月号にある5つの記事のまとめです。“長老たちには,悔い改めるよう罪を犯した人を助けるためにエホバと一緒に働けるという素晴らしい機会があります。”とありますが、要するに長老たちの仕事が今まで以上に増えて、負担が増すわけですね。」
「英文では“素晴らしい機会があります”ではなく“特権にあずかっています”だよ。“特権”とは訳さない方針のようだね。“特権”もバカバカしいJW用語の一つだからね。」
「8月号は発表が遅れて9月号の後でした。排斥に関するルール変更でもめたんでしょうね。」
「最終的にものごとを決めるのは統治体ではなく弁護士といわれている。最初の8月号の記事を弁護士に見せたら、ダメといわれたんだよ。統治体が承認しても、弁護士がこれでは裁判に勝てないと言われて、大慌てで書き直したのだろう。」
- 聖書についての質問
- 2024年11月01日 14:26:48
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“長老の皆さん,罪を犯した人に愛を込めて憐れみ深く接してください(34)”で、排斥の手順が少し変わったから、それを守るようにという内容です。」
「名称も変えるようだよ。老人は新しい名前がなかなか覚えられなくて苦労しそう。」
「4から15節が“長老たちは重大な罪を犯した人をどのように助けるか”です。 長老は罪を犯した人を助けてくれる人とは知りませんでした。」
「長老の責任で排斥処分を決めろということ。もし不服で訴えるなら長老を訴えて、間違っても組織を訴えるなということだね。」
「4節では“会衆の誰かが重大な罪を犯した場合,長老団はその件を扱うための委員会を設け,その委員会で奉仕する3人のふさわしい長老を選びます。”とあります。注を見ると、“これまで,こうした長老たちから成る委員会は審理委員会と呼ばれていました。とはいえ審理することは委員会の役割の一部にすぎないため,この表現は使われなくなりました。今後は単に委員会と呼ばれます。”とあります。残念なことに伝統ある“審理委員会”という名称の取りやめです。」
「人権無視の素人の裁判ごっこ、とバカにされてきたからね。せめて名前でも変えようということだね。」
「4節に“罪を犯した人を助けようとする時にも,変化するよう相手に強制することはできない,ということを認める必要があります。(申 30:19)”と、あるのですが引照聖句は何かの間違いじゃないですか?神は強制していますよ。」
「そこには“私は今日,天と地を証人にして,あなたの前に,命と死,祝福と災いを置きました。あなたは生きるために,命を選ばなければなりません。あなたもあなたの子孫もです。”とある。これは強制だよ。命か死かといわれれば、命を選ぶしかないよ。他の選択肢はないのですか、と神様に言いたくなるね。」
「5節以降は長老に対する指示です。まず5節では“罪を犯した人を迷い出た大切な羊と見る。”で、“長老たちは温和に,優しく親切に接し,罪を犯した人の心が動くように努力します。”とあります。今までは、極悪人を裁く冷酷で無礼でおごり高ぶった裁判官ようにふるまってきたということですね。」
「審理委員会での長老の態度はひどいものということは、経験者が口をそろえて言うね。それが組織にいかにマイナスになっているかようやく気づいたのだろう。」
「6節は“心を整える。”で、“委員会の長老たちは罪を犯した人と話し合う前にエホバに祈り,自分たちが目指すのは悔い改めるようその人を導くことであるという点をじっくり考えます。そして,聖書や出版物を調べ,その人や状況についてよく理解できるように助けを求めて祈ります。その人の考え方,態度,行動に影響を与えているかもしれない生い立ちや今の状況についても考慮するようにします。”とあります。祈りは別にして、少年犯罪を扱う家庭裁判所の裁判官のようになれと言っているようです。」
「その人の生い立ちや状況を考慮するのはいいけれど、それをどうやって知るの?個人のプライバシーは配慮しないの?心配だね。」
「7節は“エホバの辛抱強さに倣う。”で、“エホバは人々が悔い改めるまでは助けないというような方ではありません。エホバの側から,悔い改めるようにと積極的に勧めました。”とあります。長老もそうしなさいということのようです。」
「旧約の神は辛抱強い?大抵は違うよ。」
「8節で“長老がいらいらしたり怒ったりするなら,罪を犯した人はのけ者にされたように感じたり,悔い改める意欲を失ったりするかもしれません。”とありますが、無理な要求です。」
「審理委員会で信者をいじめるのを楽しみしている長老もいるでしょう。それができなくなったら長老をやめるかもよ。」
「9節は“どんなことが罪を犯す原因になったのかを知るようにする。”で、“悪い欲望に従ってしまったのでしょうか。良くない友達と付き合ったり,エホバに喜ばれないものを楽しんだりしていたのでしょうか。”とあり、信者のプライバシーを詮索して回るようです。」
「もちろんそんな法的権限はないよ。そんなことはやめた方が自分のためだよ、と長老に言いたいね。」
「それを知ってでしょうが、10節では“そうする時も親切に接するようにし,必要以上に個人的なことを尋ねないようにします。(格 20:5)”とあります。」
「長老のすることは全て必要以上に個人に干渉しているよ。素人裁判ごっこをやめる気はないようだね。」
「引照聖句の格言20:5は6節にもあります。“人の心の考えは深い所にある水のようだ。識別力のある人はそれをくみ上げる。”ですが、この聖句が乱用されています。」
「両方とも本文とはあまり関係ないけれど、JW的には使い勝手のいい聖句なんだろう。それで乱用される。」
「11節は“イエスに倣うよう努力する。”で、“天に復活したイエスはタルソスのサウロに対し,次のような質問を投げ掛けて考えさせました。「サウロ,サウロ,なぜ私を迫害しているのですか」。そのようにして,サウロが間違った行動をしているということに気付けるようにしました。(使徒 9:3-6)”とあります。長老も考えさせるような質問をしなさいということのようですが、この出来事はパウロ自身は何も語っていませんよね。使徒の作者の創作じゃないですか?」
「使徒では、強い光に照らされて倒れた後、イエスの声を聞いたことになっている。すごい体験だけど、パウロは何も語っていない。使徒の作者の創作かそういう伝承があったということでしょう。」
「使徒によるとサウロことパウロはエルサレム近辺でクリスチャンを迫害したことになっていますが、ガラテア1:22では“しかし,キリストと結ばれたユダヤの諸会衆の人たちに顔を知られていませんでした。”とパウロは書いています。本当はエルサレムで迫害などしていないのでは?」
「使徒では、パウロはエルサレムからダマスカスへ行く途中にイエスの声を聞くという設定だから、エルサレムで暴れまわったことにする必要があるんだよ。実際はパウロはエルサレムとほとんど関係ないよ。」
「12節に“長老たちは罪を犯した人と話し合う機会を1度だけでなく何度かつくることもできます。”とあります。1回の委員会で排斥と決めるな、複数回委員会を開けということのようです。」
「どうしてそれがイエスに倣うことになるのかわからないね。こじつけだね。複数回の委員会を開くとなると長老の負担は増すよね。どうせ結論は決まっているのに。」
「13節の下に2枚の写真がありまして、その説明には“悔い改めるのに時間がかかる人もいる。長老たちは話し合う機会を1度だけでなく何度かつくることができる。”とあります。1度だけではダメだと強調しています。」
「複数回委員会を開いて慎重に審議したと言えるようにしたいのだろう。訴えられた時に対する備えだね。」
「15節で“罪を犯した人が悔い改めた場合,委員会の長老たちは牧羊を取り決め”とあります。」
「そうやって組織に対して従順かどうかを見るわけだね。」
「16から18節が“皆の前で戒めてください”です。 16節に“テモテ第一 5:20を読む。”とあります。そこには“罪深い行いをやめない人を,皆の前で戒めてください。それは他の人への警告となります。”とあります。この“罪深い行いをやめない人”は一般の人を指すのですか?文脈から言うと長老のことじゃないですか?問題を起こした長老への聖句を全ての信者に当てはめようとしていますよ。」
「普通は長老の中の“罪深い行いをやめない人”と解釈する。テモテ一5:17-25はひとまとまりで、長老に関する問題を扱っている部分。5:17で“立派に監督している長老たち,とりわけ一生懸命に話したり教えたりしている人たちは,深い敬意を受けるに値します。”と、まず立派な長老について触れる。5:19から“年長の男性についての訴えは,2人か3人の証人がいない限り受け付けてはなりません。”と今度は問題のある長老に話題が変わる。“年長の男性”という訳はもちろん意図的な誤訳で、長老のこと。」
「それで、5:20の“罪深い行いをやめない人”とは長老のことを言っていることになるわけですね。」
「長老で罪深い行いをやめない人は、“皆の前で戒めてください。それは他の人への警告となります。”と言っている。この場合、“他の人”とは他の長老のことだね。」
「16節では“では,この聖句の「皆」とは会衆の全員を指すのでしょうか。必ずしもそうではありません。パウロは,その罪について知っていた人たちのことを言っていました。”とありますが、この主張の根拠はありません。」
「“皆”と書いてあるのになぜ“その罪について知っていた人たち”に限定するの?JWとしてはそう解釈したいから、そう解釈したというだけ。自分たちの考えがまずあって、それに合わせて聖書を解釈するのがJWということ。」
「17節では、その人のことがうわさになっている場合の対応です。“罪を犯した人の悪い行いが,会衆の多くの人に知られている場合や知られそうな場合はどうでしょうか。この場合,「皆」には,会衆全体が含まれることになります。それで会衆に対して,その兄弟または姉妹が戒めを受けたことを1人の長老が発表します。”とあります。結局皆に知らせるわけです。」
「皆に知らせるかどうかの基準があいまいだね。秘密主義の長老の多い会衆は公表せず、そうでない会衆は何でも公表しそうだよ。会衆ごとに対応が違うことになりそう。」
「18節が未成年への対応です。“長老団は,2人の長老が本人とクリスチャンの親と話し合うようにします。”とあります。本人が悔い改めているようだと、長老はそれ以上何もしないようです。親に任せます。悔い改めていないようだと、“その場合,長老たちから成る委員会が,本人とクリスチャンの親と話し合います。”とあります。」
「親権を考慮して、そういう手順で、未成年者を排斥処分にしなさいということだね。このようなことはパウロだって何も言っていない。JW独自のルールで、宗教による家族の破壊だ。」
「19、20節が“エホバは優しい愛情にあふれ,憐れみ深い方”です。 エホバは憐れみ深い神と言いたいようですが、引照聖句はヤコブ5:11で“皆さんはヨブの忍耐について聞き,ヨブがエホバのおかげでどんな結末を迎えたかを知っています。エホバは優しい愛情にあふれ,憐れみ深い方なのです。”とあるのですが、ヨブの結末は憐れみ深い神とは程遠いものですよ。」
「ヨブは神の承認のもとサタンによって子どもたちを殺される。その子どもたちは忘れ去られ、代わりに新しい子どもがたくさん生まれました、メデタシ、メデタシという酷い結末。神は一人一人の人間をかけがえのない存在とは考えずに、子どもの数は以前と同じ男7人、女3人だから問題ないという考えのよう。」
「憐れみ深い神なら、死んだ子どもをなぜ復活させないのでしょうか?」
「ヨブ記が書かれた頃は、そのような復活思想はなかったからじゃないの。」
「19節で引用されている聖句はエホバとは関係ないです。」
「ヨハネ一2:1で“もし誰かが罪を犯したとしても,私たちを助けてくださる方が父のもとにいます。正しい方であるイエス・キリストです。”とあるね。なぜこの聖句が引用されるのか不思議だ。JWはイエスの役割を最小にしようとしているのからね。他に適当な聖句を探すのが面倒くさかったのだろう。」
「20節は来週の予告で、排斥問題を取り扱います。」
「排斥された人に挨拶くらいならOKとか、排斥された者とは呼ばずに除かれた者と呼ぶなどちょっとした変更あるようだ。小手先の変更で排斥問題に関する非難をかわそうという浅知恵だね。」
- 聖書についての質問
- 2024年10月25日 14:10:49
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“罪を犯した人に対してエホバと同じ見方をする(33)”で、コリント一と二を使って、排斥した人をどう扱うかを教えるという内容です。」
「少しソフトにするつもりのようだけど、本質的には以前と同じだね。」
「4から6節が“1世紀の会衆は重大な罪をどのように扱ったか”です。 コリント一5章の話が取り上げられます。“ある兄弟が自分の父親の妻と性関係を持った,というのです。その行いは「異国の人々の間にさえ見られない」ほどひどいものでした。コリントの会衆はその行いを容認していました。それだけでなく,自分たちはエホバに倣った憐れみ深い見方をしていると考えて,誇っていたようです。”とあります。誇っている理由はこんなことではないですよ。」
「なぜ誇っているかは書かれていないけれど、憐み深いことを誇っていたとは考えにくい。少なくともコリントの人は性的なことについて現代人や古代のユダヤ人とはかなり違った考えを持っていて、義理の母と性的関係を持っても罪とは見なさなかったということはわかる。」
「コリントはギリシャですから、コリントの人たちは人間は魂と肉体からなるという二元論の持ち主ですよ。体の罪は霊的なことには影響しない、という思想が背後にあるのでは?」
「コリント一6:15で“皆さんは,自分の体がキリストの体の一部であることを知らないのですか。では,私はキリストの体の一部を取って,それを娼婦と結び付けてよいのでしょうか。決してそうではありません!”とパウロは言っている。コリントのクリスチャンは気軽に娼婦と関係を持っていたようだけど、体のすることは罪にはならないという思想があったとすると説明がつく。それでパウロは体もキリストの一部で、体の罪を犯すな、と強調していると思われる。」
「5節では“コリント第一 5:13を読む。”とあり、そこには“神が外部の人たちを裁くのではありませんか。「皆さんの中から悪い人を除きなさい」。”とあります。そして“パウロは「そのような人とは交友するのをやめなさい。一緒に食事をしてもなりません」と言いました。(コリ一 5:11)”と続けます。これは家族でも一緒に食事をするなという意味ではないですよね。」
「当時のクリスチャンは集まって食事を共にするということを重視していた。そういう食事の集まりには招くな、ということ。」
「6節に“パウロが手紙を送ってから数カ月の間に,以前に悪いことを行った人が罪を悔い改めました。”とあります。コリント二7:9に“今は喜んでいます。皆さんがただ悲しんだのではなく,悲しんで悔い改めたからです。”とあり、それが根拠のようです。本当ですか?」
「コリント二7:8に“前の手紙によって私は皆さんを悲しませましたが”とあるから、コリント一のことを言っているように誤解される。英文ではmy letterで“前の手紙”ではない。意図的な改変だね。パウロはコリントに何通もの手紙を出していて、ここで言う手紙はコリント一の後に出した手紙を指している。コリント二も一つの手紙ではなく4から5つの手紙をまとめたものという説がある。」
「コリント二9章と10章の続きは不自然ですよ。9章の最後は“そして,皆さんに示される神の際立った惜しみない親切のゆえに,彼らは皆さんに愛情を表し,皆さんのために祈願します。 言葉にできないほど素晴らしい無償の贈り物を下さる神に感謝しましょう。”です。これは手紙の最後の挨拶ですよ。」
「10章は、“私はそちらの一部の人たちから,顔を合わせている時には弱々しいものの,離れている時には断固とした態度を取る,と思われているようです。”で始まり、パウロの自己弁護が延々と続く。9章のテーマは献金問題でパウロは相手の自尊心を傷つけず、機嫌を損ねないようにしてきたのに、10章では攻撃的で相手の気持ちなど少しも考慮していない。あまりにも文章や調子が変わりすぎる。」
「10から13章の4章は元々は別の手紙だったという仮説が、4章仮説とよばれるものですね。」
「最後の4章が先に書かれたのか、後に書かれたのかで論争があるけれど、先に書かれたと思うね。」
「要するに、コリント二7:9で言っていることが、コリント一5章の性的問題を言っているかどうかは疑わしいということですね。」
「多分違う問題を言っている。コリント二11:4に“実際,誰かが来て,私たちが伝えたのとは別のイエスを伝えたり,皆さんが持つようになったのとは別の精神を持たせようとしたり,皆さんが受け入れたのとは別の良い知らせを告げたりすると,皆さんはすぐに許容してしまいます。”とある。これはパウロの後に誰かがコリントに来て、別の教えを広めたことを言っている。それを知ってパウロは悲しみの手紙を書いた。ところが、コリントの人たちは悔い改めたといっている。悔い改めたのは教義上の対立のことでしょう。それからコリント一とコリント二7:9の間隔が数か月というのも根拠は乏しい。」
「7から13節が“会衆は悔い改めた人にどう接する必要があったか”です。 7節には“コリント第二 2:5-8を読む。”とあります。そこには“その人には多数の人からすでに叱責が与えられており,それで十分です。 今は優しく許して慰めるべきです。”とあります。性的な問題のことではないですね。」
「反パウロ的な立場に立つ人がいて、それが多数の人から叱責を与えられたという意味。強硬な処分を要求した人たちがいたんだろね。」
「9節には“戻ってきたこの人を温かく迎えることに抵抗を感じた人もいたでしょうか。聖書には何も書かれていませんが,その可能性はあります。”と言っています。現代の心の狭いJWに向けて書かれていますね。それは間違いだと言いたいようです。」
「JWの排斥制度が非人間的とか人権無視と言われているからね。それを多少ソフトにしたいわけだね。」
「10節では“もし長老たちが,本当に悔い改めた人を会衆に復帰させなかったなら,どうなっていたと思いますか。”と問いかけています。どうなるか、JWならわかりますよ。さんざんそういうことをしてきたわけですから。」
「11節では面白い理屈がでている。“悔い改めた人を許そうとしないなら,会衆の兄弟姉妹はエホバとの友情を失ってしまう危険がありました。快く許すエホバではなく,厳しくて憐れみを示そうとしないサタンの態度に倣うことになったからです。”とある。JW得意のエホバvsサタンの二元論だね。許さない人は、エホバじゃなくサタンだ!!というわかりやすい白か黒の思考。」
「12節は旧約聖書に飛びます。旧約からエホバは憐み深い、寛大だと言っている聖句をつまみ食いします。例えば、“ミカはこう言いました。「あなたのような神がいるでしょうか。……過ちを許し,違反を見過ごす方」。(ミカ 7:18)”とあります。」
「それなら、アモス2:4、5に“ユダの3つの反抗,4つの反抗のゆえに,私は撤回しない。・・・私はユダに火を放つ。火はエルサレムの防備された塔を焼き尽くす。”とあり、アモス9:10には“彼らは剣によって死ぬ。私の民の全ての罪人たち”とあるよ。反抗したり、罪のある人は許されないようだけど。」
「13節で“罪を犯した人は会衆から除かれて数カ月しかたっていませんでしたが,矯正によって悔い改めることができていました。”と、根拠のないことを繰り返しています。13節の下には“罪を犯したコリントの兄弟が会衆に復帰したのはいつか”と言う囲み記事があります。直ぐに復帰したことを強調しています。」
「JWも排斥した人を早く復帰させろ、と言いたいんだろう。」
「数か月で復帰したという根拠は“パウロは1通目の手紙を3回目の宣教旅行の途中に書きました。それは西暦55年の初めごろだったと思われます。そして2通目の手紙を同じ年の夏の終わりか秋の初めに書いたと思われます。”というものです。一通目で排斥して、2通目で復帰していたと考えると、排斥期間はせいぜい数か月となるわけです。」
「これは全てJW流の誤読に基づいた推論だね。」
「コリント一が書かれたのは55年とするのはいいとして、コリント二は55年じゃないですよ。」
「パウロは55年の初め頃にコリントにつき、そこで冬を過ごした。その間にパウロとコリントの人たちの関係は悪くなる。パウロはコリントを発ち、その後悲しみの手紙を書く。その後パウロはエフェソスでひどい目に遭う一方、ティトスをコリントに派遣する。ティトスは問題をうまく処理した後、パウロとマケドニアであう。その後パウロはコリント二を書くという時系列。そういうわけで早くても56年の秋だね。」
「パウロは復帰ということは一言も言っていません。執筆者が復帰したと思い込んでいるだけです。」
「囲み記事に“パウロはその男性が悔い改めたという報告を受け取っていました。”と書いているけれど、悔い改めたのは性的問題を引き起こした人だと、コリント二に書かれていない。単なる思い込み。」
「囲み記事の結論は“罪を犯した人が会衆から除かれた後,短期間のうちに,おそらく数カ月後に,パウロはその人を会衆に復帰させるように伝えたと考えることができます。”というものですが、最初から結論ありきで、その理由を適当にでっち上げたという印象ですね。」
「会衆から取り除かれたのは正しいのだろうけれど、その後どうなったかは不明。排斥した人を短時間で復帰させたいという組織の意図は伝わってきたね。」
「14から16節が“公正で憐れみ深いエホバに倣う”です。 いままでの組織は公正でも憐み深くもなかったということですね。14節に“1世紀のコリントで扱われた問題は「私たちを教えるために」書かれました。(ロマ 15:4)”とありますが、今のJWに向けてではないですよ。コリントの人たちに向けてですよ。」
「引照聖句には“以前に書かれた事柄は皆,私たちを教えるために書かれました。”とあるけれど、パウロが自分の手紙までそれに含めてはいないでしょう。いわゆる旧約聖書のことを言っているだけだよ。」
「14節に“ある人は,エホバは憐れみ深いので,罪を悔い改めなくても兄弟姉妹と交友を持ち続けられるようにしてくださると考えるかもしれません。でも,それはエホバの見方ではありません。”とあります。相変わらず集団絶交制度を維持するようですね。」
「15節では、またもやペテロ二3:9を読む。そこには“神は,一人も滅ぼされることなく,全ての人が悔い改めることを望んでいる”とある。この聖句が大好きなのはわかるけれど、これは終わりの日が来ないことに対する言い訳だからね。JWも信者に言い訳をしなくてはならない状況に追い込まれているということだね。」
「16節には“私たちは皆どんなに頑張っても罪人で,エホバに許してもらう必要があります。それで,エホバが贖いによって罪を許してくださることを考えると,本当に感謝の気持ちでいっぱいになります。”とあります。感謝の強要です。」
「JWの場合は、罪を許してもらうことには興味はなくて、ハルマゲドンを生き残りたいだけ。でも、生き残るという保証は与えられないので感謝の気持ちは生じないでしょう。あるのは滅ぼされるという恐怖心。」
「17節は予告です。“現代では,重大な罪はどのように扱われるでしょうか。”とあります。この問題を“続く2つの記事でこうした点を考えます。”とあります。」
「大きな変更はないけれど、審理委員会を長老委員会と呼ぶ、という話が出てくるね。魔女裁判のようなことをやっていると思われているから、名称は変えようということだね。小手先でJWに対する非難をかわそうとして、無い知恵を絞ったというところだね。」
- 聖書についての質問
- 2024年10月18日 14:29:42
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバは全ての人に悔い改めてほしいと思っている(32)”で、お前たちは全員罪人だから、死ぬまで悔い改め続けなさい、という内容です。」
「もっと明るく元気が出るようなことは言えないのかな。信者を罪人とし、宗教に頼る以外救われる方法はないと思わせるのがカルトのやり方だ。」
「2節に“全ての人は悔い改めについて学ぶ必要があります。誰でも毎日罪を犯すからです。”とありますが、本当ですか?パウロは人間全員罪人だ、とは言っていますが、毎日罪を犯すとは言っていませんよ。」
「ついつい調子の乗りすぎたという所でしょう。深く考えて記事を書いているわけじゃない。でも赤ちゃんも毎日罪を犯すから、ハルマゲドンで殺されても仕方がないというのがJWの思想なのかも。」
「2節ではなぜがネヘミヤの時代に跳びます。“(ネヘミヤ 8:9-11を読む。)エホバは,人々が過去の罪によって打ちのめされてしまうのではなく,喜んでご自分に仕えることを願っていました。エホバは悔い改めることが幸せにつながることを知っています。”とあります。これって誤読ですよ。文脈無視ですよ。」
「JWは文脈を無視して、聖書の中の都合の良いところを切り取って、自分たちの教義の根拠とするという滅茶苦茶なやり方を得意とする。今さら変えられないのだろう。」
「ネヘミヤ8:9-11は律法公布の場面です。人々は律法の詳細を聞いて、自分はこんな違反をしていたと知って落ち込んだわけです。それに対して” 今日はエホバ神にとって聖なる日です。嘆き悲しんだり,泣いたりしてはいけません。”と言ったというものです。” 悔い改めることが幸せにつながる”などとは書かれていません。」
「これも、ついつい調子に乗りすぎたね。律法公布のメデタイ日だから、落ち込んでいないで、ごちそうを食べて楽しく過ごそうと言っている場面を、陰気な教訓話に変えたわけだ。」
「ネヘミヤ8:9に“総督ネヘミヤ,写字生である祭司エズラ,民を教えていたレビ族たちは民に言った。”とありますが、ネヘミヤとエズラは同じときにエルサレムにいましたか?」
「ネヘミヤとエズラの歴史的関係は論争が多い問題。エズラ7:7によれば、エズラがエルサレムに来たのは“アルタクセルクセス王の治世の第7年”で、ネヘミヤがエルサレムに派遣されたのは、ネヘミヤ2:1によると“アルタクセルクセス王の治世の第20年”となっている。」
「これが正しいとすると、エズラはネヘミヤの13年前にエルサレムに来ているのに、律法の交付という最も重要な仕事をネヘミヤが来るまでしなかったことになり、非常に不自然です。」
「エズラの最初の仕事は異民族との結婚の解消を徹底的にやったこと。ところがネヘミヤ13:23、24には“その頃,私はまた,ユダヤ人がアシュドドの女性やアンモン人やモアブ人の女性と結婚しているのを知った。 彼らの子たちの半分はアシュドドの言語を話し,半分は別の民の言語を話していた。ユダヤ人の言語を話せる人は一人もいなかった。”とある。つまり異民族との結婚が普通に行われていて、言語も失われつつあるという状態になっている。これは順序がおかしいということになった。」
「つまり、まずネヘミヤが来て、異民族との結婚を問題視し、その後にエズラがやって来て、強引に異民族との結婚を解消させたというのが歴史上の順序ということですね。」
「そうだとすると、エズラがエルサレムに来たのは“アルタクセルクセス王の治世の第7年”ではなく、その後の王である“アルタクセルクセス二世王の治世の第7年”に来たと読む。これが一番自然な解釈。」
「ネヘミヤ8:9のエズラとネヘミヤが一緒に律法の公布を行ったというのはフィクションということですね。」
「ネヘミヤとエズラを意図的に同時代の人にして、二人が協力して改革したかのように見せかけたのだろう。」
「4から7節が“エホバは悔い改めについてイスラエル人にどんなことを教えたか”です。
4節では“イスラエル人は律法に従う限り,繁栄し,エホバに守ってもらうことができました。律法に従うことについて,エホバはこう言いました。「私が今日命じるこのおきては,あなたにとって難し過ぎるものでも,遠くにあるものでもありません」。(申 30:11,16)”とありますが、冗談ですか?と言いたくなります。律法は誰も守れないほど数が多すぎます。数え方にもよりますが600以上ありますよ。」
「しかもヘンなものが多い。例えば、申命記22:20,21には“しかし,もし訴えが真実で,女性が処女である証拠がないなら, 女性を父親の家の入り口の所に連れ出し,町の人々が石打ちにすべきです。”とある。女性が結婚したときに処女でなかったら、わざわざその女性の父親の家の前に連れて行き、町の人が寄ってたかって女性に石をぶつけて殺すというもの。異常だね。しかも男にはこれに相当するルールはない。」
「律法は古代の家父長制、奴隷制、男女差別をもとにしています。神が定めたとしたら、ひどい神ですよ。」
「しかも、矛盾しているものもあるよ。例えば、出エジプト20:5では“私を憎む人については,父の過ちに対する処罰を子や孫やひ孫に及ぼす。”と連帯責任を言いながら、申命記24:6では“父親は子供がすることのゆえに死刑にされるべきではなく,子供も父親がすることのゆえに死刑にされるべきではありません。人はそれぞれ自分の罪のゆえに死刑にされるべきです。”と連帯責任を否定する。この両方を守ることは不可能だよ。」
「5節では“でも,エホバは不従順なご自分の民を見捨てませんでした。何度も預言者を遣わし,悔い改めてご自分のもとに戻ってくるよう勧めました。(列王第二 17:13,14を読む。)”とあります。引照聖句には“私に仕える預言者を通してあなたたちに伝えた律法全てに従って,私のおきてと法令を守りなさい。”とあります。律法を守れと言っているだけですよ。でも、それは無理です。無理な要求をして、罪人を作ろうとしているようにしか思えません。」
「引照聖句は、北王国が滅亡した理由を述べている部分。国が滅びたのは、律法を守らず、神を怒らせたからだと説明している。宗教原理主義者の見解だね。北王国はアッシリアによって滅ぼされたけれど、宗教ではなく政治軍事的な理由で滅んだ。」
「6節には、“エホバは預言者たちによって警告を与え,イスラエル人を正そうとしました。”とあり、預言者としてエレミヤ、ヨエル、イザヤ、エゼキエルが出てきます。7節はホセアが取り上げられます。」
「6節の下にその5人の顔と活躍した年が書かれている。顔のイラストがあるのは、子ども向けの記事だからなの?どんな顔をしていたなんか誰も知らないよ。」
「ヨエルは“前820年ごろ”とあります。これは正しいですか?ヨエル書には具体的な日付を示すものはないですよ。」
「前820年は数多くある書かれた可能性のある年代の一つにすぎない。昔はヨエル書はホセア書の次にあるので早い年代に書かれたと考えられていた。しかし、聖書の中の順番は年代順ではない。年代を決める決定的な証拠はなくても、適当に年代を決めるのがJWの習慣なんだよ。」
「8から10節が“エホバは罪を犯した人が悔い改めるようどのように助けるか”です。 8節はカインが取り上げられます。“聖書にはカインについて「行いが悪[かった]」と書かれています。(ヨハ一 3:12)”とあります。引照聖句には“カインは邪悪な者から出て,弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く,弟の行いが正しかったからです。”とあります。こんなことは創世記には書いていません。」
「初期のクリスチャンは自分たちが迫害されることを、カインとアベルの物語を使って説明していたようなんだ。悪い人間(カイン)は神から拒絶されて、正しいクリスチャン(アベル)が神から受け入れられるのを嫉妬し、迫害するという理解だね。次のヨハネ一 3:13は“兄弟たち,世の人々に憎まれても,驚くことはありません。”とある。」
「ヘブライ11:4には“信仰によってアベルは,カインの犠牲よりも価値のある犠牲を神に捧げ,その信仰のゆえに正しい人と評価されました。神はアベルの供え物を良いと認めたのです。”とありますが、同じ思想ですね。」
「これも創世記には書かれていないことを述べている。1世紀のクリスチャンの間に広がっていた理解なのだろう。」
「8節では“創世記 4:3-7を読む。”とあります。創世記4:4,5に“エホバはアベルとその捧げ物を好意的に見たが,カインとその捧げ物は好意的には見なかった。するとカインは激しく怒り,ふさぎ込んだ。”とあるのですが、これは誤訳ですよ。」
「協会共同訳では“主はアベルとその供え物に目を留められたが、カインとその供え物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。”だね。単に“見た”だけ。“好意的に見た”はおかしい。」
「“激しく怒り,ふさぎ込んだ。”もへんです。激しく怒っている人はふさぎこまないです。怒った人は攻撃的になるわけで、カインも実際にアベルを殺しました。ふさぎ込んでいません。」
「動詞の元の意味は“落ちる”。普通は視線を落とした、顔を伏せたという意味にとる。JWは気分が落ち込んだと解釈したのだろう。文脈に合わないし、間違い。」
「カインの殺人は神のえこひいきが原因ですよ。なぜ平等に扱えないのでしょうか?」
「神のすることには理由はない。出エジプト33:19に“私は,好意を示したい者に好意を示し,憐れみを示したい者に憐れみを示す。”とある。カインのように神の不公平にいちいち怒ってはいけないということだ。神はそういう奴なんだよ。」
「9節には常連のダビデが登場します。ダビデはいろいろ罪を犯したけれど、” ダビデが悔い改められるようエホバが愛情深く助けたことを考えると,うれしく思うのではないでしょうか。”、とあります。寝ぼけたことを言っています。ダビデの罪のおかげでどれだけ無関係な人がエホバに殺されかと思うと、少しもうれしくないです。」
「ダビデとバテシバの間に生まれた赤ちゃんは神によって殺されたね。赤ちゃんに何の罪があるの?ダビデが人口調査したら、サムエル二24:15に“するとエホバは,その朝から,決められた時まで,イスラエルに疫病を広めたので,ダンからベエル・シェバにかけて7万人の民が死んだ。”とある。これもひどい話。ダビデはクマに襲われるくらいひどい目に遭ってもいいはずなのになにもない。ダビデに対するえこひいきが酷すぎるけれど、神はそういう奴なんだよ。」
「10節に“エホバは罪を憎んでいて,どんな罪も大目に見ることはありません。(詩 5:4,5)”とありますが、サタンのことは大目に見ていますよ。」
「神が悪を罰するのは、聖書の中だけ。実際は単なる傍観者。」
「10節には“どんなに重い罪を犯した人であっても,悔い改めてご自分との絆を持てるよう助けたいといつも思っています。”といいかげんなことを言っています。根拠となる聖句はありません。」
「実際は助けるどころか、赤ちゃんや無関係な人を万単位で殺しまくる。」
「11から15節が“イエスの弟子たちは悔い改めについてどんなことを学んだか”です。 12節ではルカ15章にある“失われた息子の話”が出てきます。イエスは“天のお父さんエホバが進んで許してくださる方であることを教えました。そのことを際立たせるために,いなくなっていた息子の例え話をしました。”と説明しています。こんな理解でいいのですか?」
「この話は後半が重要。兄は父のことを非難するよ。兄は一見悪役のようだけれど、極めて律儀な、ユダヤ教的モラルに従順な人間。統治体に従順なJWのような存在だね。」
「イエスはイエスの話を聞いていた人にあなたは父親のように息子を受け入れるのですか、それとも兄のように拒絶するのですか、と問いかけているわけですね。」
「弟の方は異邦の国へ行き、異邦人に雇われて、豚を飼う仕事をしている。豚は汚れた動物なので、弟は宗教的な罪を犯したことになる。それで“お父さん,私は天に対しても,あなたに対しても罪を犯しました。”と言うわけだね。でも父は息子を受け入れる。これは宗教的には重大な問題行為。レビ記4章によれば犯した罪のために捧げ物をしなくてはいけない。父は祭司にいかなる贖罪の儀式を依頼していない。」
「イエスは聴衆に向かって律法に違反してまで息子を受け入れた父を支持するのか、律法に従い弟を拒絶する兄を支持するのか、と問いかけているのですね。」
「JWは当然兄を支持するよ。JWなら弟を背教者として拒絶し、父や弟と話すこともなく、自分こそ正しいと自己満足に浸りながら孤独で惨めな人生を送ることになるだろうね。」
「13節はペテロの否認の話が出てきます。そんなペテロをイエスは許したわけです。その根拠はマルコ16:7で“さあ,行って,弟子たちとペテロに言いなさい。『イエスは先にガリラヤに行っています。”と言う天使のセリフだそうです。わざわざペテロの名前を出してペテロが許されていることを示したのだそうです。』
「復活の話は福音書で違いすぎる。ここでペテロの名前が出てくるのはマルコだけ。マタイではイエスが“私の兄弟たちに報告しなさい。そうすれば彼らはガリラヤに行き,そこで私に会えます。”という。ルカではガリラヤに行きなさいという話自体が出てこない。ヨハネではイエス自身が“私の兄弟たちの所に行って,こう伝えなさい。『私は,私の父であなたたちの父である方,私の神であなたたちの神である方のもとへ上る』」”という。状況も話の内容もみな違う。」
「14節では、ペテロ二3:9の“エホバは……一人も滅ぼされることなく,全ての人が悔い改めることを望んでいるので,皆さんのことを辛抱しているのです。”が引用されます。JWではこれはペテロが書いたことになっています。」
「書いたのは偽ペテロ。神は滅ぼされることを望んでいないなら、滅ぼさなければいいだけ。神なんだから。でもJWは人類大虐殺の日を楽しみにしているわけで、神とは正反対だ。」
「14節には“悔い改めるなら,たとえ重大な罪であったとしてもエホバは許してくださいます。エホバの優しさに本当に心が温まります。”とありますが、元の英文はそんなこと書いていません。
「英文ではWhat a beautiful hope for Christians when they commit sins—even serious ones!だから、クリスチャンが罪を―それも重大な罪を犯したとき、それは何と素晴らしい希望なのでしょう、と言っている。滅茶苦茶改変しているね。日本の信者には裁きの神ではなく、エホバ=やさしい神というイメージを与えたようだね。」
「15節はサウロことパウロが出てきます。迫害者だったけれど悔い改めて、使徒パウロになったようです。」
「これは来週の記事へのつなぎだね。16節には“ある時パウロは,コリントのクリスチャン会衆で性的不道徳に関する重大な問題が起きていることを聞きます。パウロはこの問題をどのように扱ったでしょうか。”とある。」
「来週からの記事が重要で、この記事はそれの導入ですよ。」
「排斥問題が次週のテーマだね。これをどう書くかでもめて、8月号は発行が遅れたのだろう。ゴタゴタが多いのが統治体のようだ。」