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聖書についての質問
2024年12月06日 14:27:37

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“与えるならもっと幸せになれます(39)”で、組織は何もするつもりはないから仲間の信者同士で助け合え、という内容です。」
「もっと組織に寄付をすると幸せになります、という内容かと思ったけれど違うのね。」

「1節は“エホバは人間を受けるよりも与えることによって幸せになれるよう創造しました。(使徒 20:35)”と断定しています。受ける方が幸せという人はサタンが創造したと言わんばかりです。」
「聖句の誤用だけど、ある一つの考えをこうやって押し付けるのがカルトなわけだ。」

「そう造られているのなら、人類はすすんで与え続けるはずです。でもそうなっていませんよ。」
「そう造られていないからだよ。」

「3節に、“聖書に与えることが幸せにつながると書かれている”とあるのですが、英文ではThe Scriptures assure us that giving brings happinessとあり、聖書は与えることが幸福をもたらすことを保証している、と書かれていますよ。単に”つながる”ではありません。」
「翻訳者は、聖書がそんなことを保証している?ウソだろう、と思って、弱い表現に変えて、カルトらしさを減らしたわけだ。」

「5から13節が“気前よく与えるエホバに倣う”です。 エホバは気前のいい神だといっています。5節では“エホバは生活に必要な物を与えてくださっています。”とあります。そうですか?世界にはきれいな水を飲めない人が10億人はいるといわれています。」
「国連の統計では2022年に飢餓に直面している人は7億3500万人だよ。様々な理由で家を失った人は1億人以上いる。そういった人は考慮せず、お気楽なことを言うのがJWということね。」

「JWと言えばほとんどが貧困ライン以下と推定されています。生活保護受給者も結構いますよ。貧乏なため必要な医療を受けられず、怪しげな民間療法にたよるしかなくて、早死にする人はけっこういます。エホバは気前のいい神と実感できる人はどれほどいるか疑問です。」
「現実とは無関係のお話を長々と書くのがJW流の文書作成術。どんなウソでも信者は異議を唱えてはいけないのがルール。」

「6節では“マタイ 6章25,26節のイエスの言葉を考えてみましょう。(読む。)イエスは鳥を例に挙げて次のように言いました。「[鳥は]種をまいたり,刈り取ったり,倉に集めたりはしません。それでも天の父は鳥を養っています」。そしてイエスは,「あなたたちはそれよりも価値があるのではありませんか」と問い掛けました。”とあります。そして“エホバは動物を養っているのですから,私たちにも必要な物を必ず与えてくれると確信できます。”といっています。そう確信しても、そうならないケースがたくさんあります。」
「エホバは動物を養っていないでしょう。卵からかえったひな鳥のうち1年後に生きているのはどれくらいいるの?ほとんどは死んでいる。たいていの生物は多産多死。」

「自然界は食物連鎖で成り立っています。ある生物は他の生物の食糧となる、つまり食べられることを前提に自然界は成り立っています。こうことをエホバが養っているというのですか?」
「この記事の執筆者はJWの出版物しか読んだことのない人間なんだよ。自然界のことは何も知らない。」

「7節が具体的な指令です。“例えば,食べる物や着る物を必要としている兄弟姉妹が身近にいますか。エホバはあなたを通してその人を助けたいと思っているかもしれません。”とあります。その場合は、貧乏な私を通してではなく、エホバが直接助けたらどうですかと祈ればいいですね。」
「エホバは直接は何もしないということと、助けるのは仲間の信者限定というのがよくわかる。けちな神だ。」

「カート奉仕しているすぐそばでホームレスの人が倒れているのに見向きもしなJWという写真を見たことがあります。」
「食べるものや着るものを必要としているJW以外の人は無視するのがJWだね。どうせ間もなく滅ぼされる、助けるのは無意味と冷酷に判断する。」

「8節が“エホバは力を与えてくださいます。”で、“エホバはご自分の持っている無限の力を喜んで私たちに与えてくださいます。(フィリピ 2:13を読む。)”とありますが、引照聖句はそんなことは言っていません。」
「そこでは“神はご自分の望みを実現させるために皆さんを力づけてくださいます。”とあるだけ。この聖句から、どうして“無限の力を喜んで私たちに与えてくださいます。”という結論になるのか不思議だね。」

「9節にすべきことが出ています。“例えば,高齢や病気の兄弟姉妹のために用事をしたり家事を手伝ったりすることができるかもしれません。また状況が許すなら,王国会館の清掃やメンテナンスを手伝うこともできます。”とあります。つまり、こういうことをするJWがもはやいなくなったわけですよ。」
「高齢や病気のJWはどうでもいいけれど、王国会館の清掃やメンテナンスは大事だよね。いずれ売却するときに安く買いたたかれるとイタイからね。タダでこき使える人間は徹底的に利用するのがJWビジネス。」

「10節では、言葉がけをしなさいと言っています。“心からの褒め言葉を掛けたい人が誰かいますか。慰めの言葉を必要としている人がいるでしょうか。もしそうなら,自分から行動しましょう。”とあります。言葉をかけるだけならお金はかかりませんしね。」
「その後に“それは兄弟姉妹にとって,一日頑張ってエホバに仕える力になり”とある。JW活動をやらせるための言葉がけのようだね。あくまでタダでこき使うための慰めであり、励まし。」

「11節は“エホバは知恵を与えてくださいます。”で、ヤコブ1:5からの引用がなされ、そこには“皆さんの中に知恵の欠けた人がいるなら,その人は神に求め続けてください。”とあります。ここで言う知恵とはどのようなことですか?JWは誤解していると思いますよ。」
「ヤコブ3:17に“一方,天からの知恵を持つ人は,第一に清く,次いで平和を求め,分別があり,進んで従い,憐れみと良い実に満ち,差別をせず,偽善的ではありません。”とある。このような神が求める生き方をするのが知恵のある人ということだね。JW活動を上手にやるための知恵とは全く違う。」

「12節は具体的に知恵を与えることが書かれています。“例えば,伝道を始めて間もない人を訓練することがあります。長老たちは,援助奉仕者やバプテスマを受けた兄弟たちが会衆内で割り当てられたことを上手に果たせるように辛抱強く助けます。また,建設やメンテナンスの分野で技術を持っている人たちは,経験の少ない人たちが支部や王国会館の建設プロジェクトで働けるようトレーニングしています。”とあります。JW活動をうまくやれるように指導・訓練しなさいということです。ヤコブ書に書かれていることとは違いますね。」
「タダの労働者に要求が多すぎるよ。経験の少ない人が建設工事をしてはダメだろう。そんな建物は高く売れないよ。」

「13節では、“私たちも自分が持っている知識や経験を喜んで共有することができます。自分の仕事がなくなることを恐れて教えるのを控えるようなことがないようにしましょう。”とあります。自分の特権を守ることを優先して、他の人に何も教えないJWが多いということですか?」
「教えるのを控えるような貴重な知識や経験などJWにないよ。何度教えられても理解できない頭の悪いJWが、あの人は教えるのを惜しんでいると文句を言っているだけだよ。責任転嫁しているだけ。それがJWの知恵。」

「14から20節が“与えても感謝されていないように思えるとき”です。 感謝しない相手との接し方です。3つ出ています。16節が①“エホバの手本に目を向けましょう。”です。そこでは“エホバは感謝されるかどうかに関わりなく,みんなに良い ものを与えています。(マタ 5:43-48)”とあります。JWはぜひ見倣って欲しいです。」
「引照聖句には“父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ,正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるのです。 愛してくれる人を愛したからといって,どんな報いがあるでしょうか。”とある。それなら、JWしか助けないJWには“どんな報いがあるでしょうか”。と聞きたいね。なにもないよ。」

「17節に“与えることについて正しい見方を保つ上で,ルカ 14章12-14節でイエスが教えたことは役に立ちます。(読む。)”とあります。そこには“宴会を設けるときには,貧しい人,体が不自由な人,足が不自由な人,目が見えない人などを招きなさい。そうするなら幸せです。その人たちにはあなたに報いるものが何もないからです。あなたは,正しい人たちが復活する時に報われます。”とあります。善いことをする際に見返りを求めるな、ということですね。」
「JWは長老や巡回監督など権力者をもてなすのは熱心だけれど、それは見返りをもとめてだよね。弱い立場のJWには無関心でしょう。聖書の教えとは一致しないよ。」

「18節が②“相手の反応を悪く解釈しないようにしましょう。(コリ一 13:7)”です。感謝知らずの行為をなるべくよく解釈しなさいという指示です。“兄弟姉妹を本当に愛しているなら,相手の反応を広い心で受け止め,これからも喜んで与えることができるでしょう。”とあります。兄弟姉妹限定の親切ということがわかります。感謝しない相手でも広い心で受け止めるようです。」
「巡回監督とその妻の中には、さんざん食事の世話を受けても感謝なんかしない人もいるでしょう。統治体の中にも、日本に来た時に、もてなし方に文句を言っていた人がいたでしょう。そういうクズみたいな人でも広い心で受け止め、与え続けるのが正しいJWなわけだ。」

「19節が③“すぐに反応があることを期待しないようにしましょう。”です。“「あなたのパンを水の上に投げなさい。月日がたてば,あなたはそれを再び得ることになる」。(伝 11:1)この言葉の通り,何かをしてかなり「月日がた[って]」から感謝されるということがあります。”と書いていますが、聖句の誤用です。月日がたって感謝されるとは書いていません。」
「この聖句は、慈善行為を言っているのではなく、貿易による投資を言っている。伝道の書はエリート主義的で、貧しい人に対して極めて冷淡。」

「20節が体験談です。“ある巡回監督の妻は,バプテスマを受けて間もない姉妹に手紙を送り,エホバに仕え続けるよう励ましました。それから8年たって次のような返事を受け取りました。”というものです。その返事には“時々,真理からも種々の責任からも,あらゆることから逃げ出してしまいたいと思いました。けれども姉妹の書いてくださった聖句がいつも私の心の中にあったので,……歩み続けることができました。”とあります。手紙のせいで、カルトから脱出するチャンスを失ったようです。」
「20節には“巡回監督の妻は「月日がた[って]」からこの手紙を受け取り,本当にうれしかったことでしょう。”とあるけれど、この出来事と伝道11:1は全く無関係。」

「巡回監督の妻が送った手紙のことを“この8年間でこんなに自分に影響を与えた事柄はありませんでした。”と、この姉妹は言っています。会衆によくいる、誰からも相手にしてもらえない孤独な姉妹なんですね。」
「巡回監督の妻は夫が話す同じ講演を何回も聞かざるを得ないけれど、その退屈な話のあいだによくメモをするふりをして手紙を書いている人がいるよ。その手紙が孤独な姉妹の心にたまたま響いたというわけだね。」

「最後の21節がまとめで、“では,気前よく与えてくださる天のお父さんエホバにこれからも倣っていきましょう。”とありますが、エホバがそんなに気前良いとは実感できませんね。それから21節もあるのは長すぎます。」
「コロナの時、サタンの政府が一人10万円気前よく与えてくださったのに比べると、エホバは何をしたの?何もしてないよ。エホバに倣うとすれば、口先では立派なことを言いつつ、実際は何もしない、とういことかな。」

最も目立たない人
2024年11月30日 07:32:18

聖書についての質問さんのコメントを読んで、以前私も同じようなことをまとめていたことを思い出したので、この機会に共有します。


キリストの兄弟たちを手助けするとは?

「キリストの兄弟たちを手助けする」根拠とされている聖句に注目してみよう。

それから王は,右にいる人たちに言います。『さあ,私の父に祝福された人たち,世が始まって以来あなたたちのために用意されている王国を受けなさい。 私が飢えると食べ物を与え,喉が渇くと飲み物を与えてくれたからです。よそから来ると温かく迎え, 裸でいると服を与えてくれました。病気になると世話をし,牢屋にいると訪問してくれました』。 その時,正しい人たちはこう答えます。『主よ,いつ,あなたが飢えているのを見て食べ物を差し上げ,喉が渇いているのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 いつ,よそから来たのを見て温かく迎え,裸なのを見て服を差し上げたでしょうか。 いつ,病気であったり牢屋にいたりするのを知って訪問しましたか』。 王は答えます。『実のところ,これら私の兄弟のうち最も目立たない人の1人にしたのは,それだけ私にしたのです』。
それから王は,左にいる人たちに言います。『災いを宣告された人たち,私から離れ,悪魔と邪悪な天使たちのために用意された永遠の火に入りなさい。 私が飢えても食べ物を与えず,喉が渇いても飲み物を与えてくれなかったからです。 よそから来ても温かく迎えず,裸でいても服を与えず,病気であったり牢屋にいたりしても世話をしてくれませんでした』。 その時,その人たちもこう答えます。『主よ,いつ,あなたが飢え,喉が渇き,よそから来ており,裸であり,病気であり,牢屋にいるのを見て,仕えませんでしたか』。 その時,王は答えます。『実のところ,これら最も目立たない人の1人にしなかったのは,それだけ私にしなかったのです』。 この人たちは永遠の死を迎え,正しい人たちは永遠の命を受けます」。(マタ25:34-46)

エホバの証人はこの聖句を引き合いに出し、キリストの兄弟である「統治体」を支援する人が「父に祝福された人たち」となる、だからこそ伝道活動に参加して支援するようにと教えている。

ここで注目したいのは、祝福される人たちと災いを宣告される人たちの「反応」である。

「祝福される人たち」は、目に見えないキリストをいつまたどのように支援し、祝福を受けるまでの恵みを受けられるようになったのか、まるで認識していない
一方で「災いを宣告される人たち」も同様に、なぜ自分たちがキリストを支援せず、裁かれる立場になったのかをやはり認識していない

祝福の鍵は、キリスト本人ではなく「キリストの兄弟たち」を手助けしたかどうかであることを示しているが、その答えが与えられるのはそれぞれに裁きが宣告されるときである。

さて、ここで良く考えてみて欲しい。

仮にエホバの証人が主張する通り、「統治体」を支援することが祝福につながるのだとしたら、一生懸命に伝道しているエホバの証人はその業を通して、まさに自分たちこそが祝福を受けるべく「キリストの兄弟たち」を支援しているのだ、と考えていることだろう。何しろ統治体がそう教えているのだし、実際私もそう思っていた。まさに「ご利益信仰」である。

しかしそうだとするなら、彼らはその業により「自分たちこそが祝福を受ける人たちとして、キリストに親切を示しているのだ」とすでに認識していることになる。
「私がいつあなたを支援したでしょうか」と口では言いながら、内心では「自分は統治体を支援するためにあれだけ伝道し寄付してきたのだから、この報いは当然だろう」などと考えているとしたら、心を読まれるキリストはそんな利己的な人に報いを果たしてお与えになるだろうか?
この態度はむしろ、「あれだけ統治体を支援してきたのに、なぜあなたを支援しなかった者とされるのか」と言い訳をする、「災いを宣告される人たち」の描写の方がしっくりくるのではないか?

イエスは、「祝福を受ける人たち」と「災いを宣告される人たち」とは、いずれも思いがけずそれぞれの報いを受けるということを示しているのであり、そうであれば「統治体」への支援を通して祝福を受けるなどという考えが出てくる時点で、そもそも聖書の教えている真意からは的が外れてしまっているのだ。
つまり、具体的に「誰に何をすることが救いにつながるのか」ということを知ることなど誰にもできず、キリストの足跡に倣ったアガペー愛を示す生き方を通して気付かぬうちに「キリストの兄弟たち」に親切を示すということ、これがイエスの教えようとされていた主旨だろう。
しかもイエスが仰っていたように、「最も目立たない人の1人」に対する態度が問われているのであり、目立たないからこそすぐには気づけないような人に対する親切が求められているのである。

統治体は組織内で一番目立っているではないか。しかも自分たちを活動面で支援するようにと教えてすらいるのに、この描写に当てはまる「最も目立たない人」であると本気で考えているのだろうか。

この理解は、「キリストの兄弟たち」が実際には誰を指すのかをも再考すべき理由を示すことになるだろう。

聖書についての質問
2024年11月29日 14:29:47

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“警告に注意を払っていますか(38)”で、JWが大好きな終末論もので、イエスの3つのたとえ話のJW流の解釈を並べたという内容です。」
「羊とヤギ、思慮深い乙女と愚かな乙女、タラントの3つ。今までの解釈が変更になったのかな?」

「1節は“私たちはとても重要な時代に生きています。間もなくイエスは地球にいる一人一人を裁きます。”で始まります。“間もなく”と言う言葉にはワクワクしますね。終末論カルトの本領発揮です。」
「英文の方がすごいよ。WE LIVE in a climactic time!で、最高潮の時代に生きている、と言っている。終わりの時の終わりの終わりといった意味だよ。翻訳者は恥ずかしくて、そうは訳せなかったのだろうね。」

「3から5節が“羊とヤギ”です。 3節では、いきなり“イエスは人を羊とヤギに分ける時,良い知らせに応じ,天に行くよう選ばれた兄弟たちをサポートしたかどうかに基づいて裁きます。(マタ 25:31-46)”と断定しています。これは無理がありますね。」
「引照聖句には“実のところ,これら私の兄弟のうち最も目立たない人の1人にしたのは,それだけ私にしたのです。”とあるけれど、統治体の老人たちは最も目立つひとでしょう。統治体は当てはまりませんと言うべきだね。」

「イエスは名もなき弱い立場にある兄弟たちを世話をしなさいと言っているわけですよ。信者の間で王様のように振る舞う愚か者の世話をしなさいなんて言っていません。」
「JWはイエスの話を完全にひっくり返している。ここまで曲解ができるとは、ほめてあげたい。」

「しかも少数の天に行く特権階級が存在し、その他大勢がその特権階級を援助するということはイエスは全く言っていません。」
「JWという宗教は統治体のためにある宗教としか見えないね。」

「イエスの話では、羊とヤギに分けられた後、それぞれの人たちは、驚くわけです。羊の人は“主よ,いつ,あなたが飢えているのを見て食べ物を差し上げ,喉が渇いているのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。・・・”といい、ヤギのひとは“主よ,いつ,あなたが飢え,喉が渇き,よそから来ており,裸であり,病気であり,牢屋にいるのを見て,仕えませんでしたか。”と言います。統治体をサポートしたかどうかで決まるのなら、こんな驚きは示しませんよ。」
「そうだろうね。JWの解釈では、統治たちと一緒に写真を撮り、統治体の一人に高級時計をプレゼントした信者は、当然羊だ、ヤギのはずはないということになり、驚きはない。」

「その後に“イエスは「大患難」の期間中,ハルマゲドンの少し前にこの裁きを行います。(マタ 24:21)”とあります。大患難が始まってから羊とヤギに分けるというのが今のJWの教義です。でも引照聖句はそんなことは言っていません。」
「マタイ24章では、“その時,ユダヤにいる人は山に逃げ始めなさい。 屋上にいる人は,家から物を持ち出そうとして下りてはならず, 畑にいる人は,外衣を取りに帰ってはなりません。 その期間,妊娠している女性と赤ん坊に乳を飲ませている人にとっては悲惨なことになります!  逃げるのが冬や安息日にならないように祈っていなさい。”とある。これはパレスチナのユダヤ人に起こる出来事をいっているとしか読めない。マタイ24:21の“大患難”はJWの考えるハルマゲドンの前の世界的な大患難ではないよ。」

「そういえば、大患難の最中に統治体は天に行くはずですよ。天に行ってしまった統治体をサポートしたくてもできませんね。どうするんですか?」
「塔2019/10 の“「大患難」の間もエホバに忠実でいましょう”には“大患難の間に,エホバの民全体を教え導いてきた兄弟たちの交代があります。天に行くよう選ばれ,まだ地上に残っている人たちが,ある時点で天に集められるからです。ハルマゲドンの戦いに加わるためです。(マタ 24:31。啓 2:26,27)ですから,統治体は地上に存在しなくなります。”とある。油注がれた人は全員天に行く。その後は“天に行くよう選ばれた兄弟たちをサポート”したくてもできないので、全員ヤギになるわけだ。奇妙な教義だね。いずれ新しい光が差すよ。」

「4節は聖書から完全に外れます。“選ばれたキリストの兄弟たちをサポートする上で特に大切なのは,伝道活動を行うことです。そのようにする人たちは「正しい」人として裁かれ,地球での「永遠の命」を受けます。(マタ 25:46。啓 7:16,17)”とありますが、伝道したら永遠の命がもらえますなんて、聖書のどこにも書かれていません。」
「信者を宗教拡張員として無給で働かせるためのウソだね。それを無邪気に信じているのが一部のJW。大多数のJWは伝道活動などやる気がないよ。」

「5節は“ずっと忠実でいる。”です。“イエスによって選ばれた「忠実で思慮深い奴隷」の指導に忠実に従います。そのようにして信仰を表します。(マタ 24:45)”と、統治体崇拝を指示しています。カルト丸出しです。もちろん引照聖句はそんなことは言っていません。」
「忠実で思慮深い奴隷が統治体のことで、平信者は統治体に従わなければならないというのは、統治体が作ったお話だよ。それを無邪気に信じているのが一部のJW。」

「6から9節が“思慮深い乙女と愚かな乙女”です。 6節では“花婿が到着すると,思慮深い乙女たちは披露宴のために花婿と一緒に中に入りました。同じように,天に行くよう選ばれたクリスチャンたちは,キリストが来るまでずっと注意を怠らず,準備ができている状態でいるなら,花婿であるイエスと一緒に天の王国に入ることができます。”とあります。そういうたとえじゃないですよ。」
「マタイ25:5には“花婿が遅れている間に,皆,眠くなって眠り込んでしまいました。”とある。全員眠り込むわけで、注意を怠らず警戒していたわけではないし、眠り込んだことは非難もされていない。問題は予備の油を持っていたか否かという点。」

「マタイ25:13には“ですから,ずっと見張っていなさい。あなたたちは,その日も時刻も知らないからです。”とあるのですが、これは例えの内容に一致していないということですね。」
「全員寝ていたのに“ですから、ずっと見張っていなさい。”はおかしいよね。それでこの部分は元のたとえ話にはなく、後から付け加えられたものと考えられる。」

「7節には“思慮深い乙女たちとは違い,5人の愚かな乙女たちは,花婿が到着した時に準備ができていませんでした。”とありますが、これも論点がずれています。準備できていなかったのは、花婿が遅れてきた場合に必要な予備の油です。」
「花婿の遅れに備えよ、というのがこのたとえのポイントでしょう。」

「JWはすぐに終わりが来る、来るといって、終わりが来るのが遅れた場合の備えがない人が多いです。このたとえの愚かな乙女はJWのことですね。」
「貯金もなく、年金もほとんどもらえないという状態で、老後をお迎えになるエホバの方々が多いと聞くね。その場合、カルトに騙された愚かな老人ですと涙ながらに語って、周囲の人の同情を引くようにしたらいいかも。」

「8節は“注意を怠らず,準備をしている。”で、結論は“私たちは皆,この例え話から学べる教訓を心に刻む必要があります。終わりまで耐え忍ぶための準備をして,ずっと見張っていましょう。”です。いつ来るかわからない終わりの時まで耐え忍ぶためには、十分なお金と健康が必要ということですね。」
「シンプルな生活をして、100歳になってもゆとりある生活ができるよう、宗教はほどほどにして、まじめに働きお金を十分貯めよう、というメッセージかな?」

「10から14節が“タラント”です。 このたとえ話には3人の奴隷が出てきて、二人はお金を増やし、ひとりは増やさなかったというものです。増やさなかった奴隷はお金を取り上げられて、追放されます。12節で“2人の忠実な奴隷は,天に行くよう選ばれた忠実なクリスチャンを表しています。その人たちはイエスから,「主人である私と共に喜びなさい」と言われます。そして第一の復活を経験し,天に行きます。”と解説しています。もとのたとえになかったことを勝手に付け加えていますね。」
「第一の復活とか天に行くなんてことはこのたとえと関係ないね。別の聖句を勝手に結び付けているだけ。」

「13節は“一生懸命働く。”で、“イエスが言いたかったのは,選ばれた人たちが熱意を失うならどうなってしまうかということです。”とあります。持っているものも奪われ、追放されるようです。でも、タラントのたとえには熱意という単語は出てきません。」
「JWの解釈は、イエスのたとえは油注がれた天に行く144000人だけに向けられたものというもの。大多数の人には無関係のようだからどうでもいいんじゃないの。」

「15から17節が“誰が「連れていかれ」るか”です。 15節に“畑で働く2人の男性と,引き臼を回す2人の女性の話をしました。どちらの場合も,2人の人が同じ仕事をしているように見えますが,イエスは,「一方は連れていかれ,他方は捨てられ[る]」と言いました。(マタイ 24:40,41を読む。)”とあります。この解釈は“本当に選ばれ,最後まで忠実を貫いた人たちだけが「連れていかれ」,イエスによって天の王国に迎えられるのです。(ヨハ 14:3)”というものです。」
「天に行って、支配者になると言っているJWのうち、捨てられる人が結構いると言いたいわけね。“連れていかれ”とあるけれど、連れていかれて裁かれるのか、天に行くのかは何も書かれていないよ。それはあいまいなまま。」

「“捨てられる”という訳はへんですよ。そのまま残されるだけじゃないですか?」
「普通はそう訳するね。協会共同訳では“一人は取られ、一人は残される。”となっている。この話の要点は、一人が天に行き、もう一人は滅ぼされるということではなく、人の子の到来によって人間の運命が大きく分かれるということ。」

「一緒に働いている人はたいていは家族ですよ。ということは、どんなに親しい間柄でも人の子の到来によって、一人は取られ、一人は残されることになる。」
「人の子の到来とはそういう事態を生み出すもののようだ。」

「16節は“ずっと見張っている。”で、“天に行く希望を持つクリスチャンであっても,ずっと見張っていないなら,「選ばれた者たち」と一緒に集められることはありません。”と言っています。」
「これほど自称・天に行く人のことにこだわるのは不思議だね。本部にいる自称・天に行く人同士で何か対立でもあったのかな?非主流派を追い出そうとしているのかも。」

「17節では“最近になって誰かが天に行くよう選ばれるとしても心配しません。”とあります。これはこれから自称・天に行く人がたくさん現れる前触れですよ。」
「天に行く人は144000人だけという奇妙な教義を変更したいのかも。この教義ではもうとっくに天に行く人の定員は満たされたはずで、新たに油注がれた人があらわれるとニセモノと判断せざるを得ない。そうなると統治体の補充も難しくなる。」

「18,19節が“警告に注意を払う”です。 今までのことの繰り返しです。太字にしている強調点は、“ずっと忠実でいる”、“注意を怠らず,準備をしていた”、“一生懸命働いた”、“ずっと見張っている”です。これらを言いたかったようですね。」
「これらが3つのたとえ話の要点というのがJWの解釈なわけだ。組織に忠実で、死ぬまで組織の言いなりになって働けということだけど、天に行く人限定の話なので、大多数は無関係ということね。」

「最後の20節で“裁きの時が近づいていますが,心配する必要はありません。”と言っています。さんざん信者に要求し、最後に希望を持たせて終わるというのがよくあるパターンです。」
「英文ではjudgment is fast approachingで、単に近づいているのではなく、急速に近づいていると言っている。翻訳者もそんなことは信じていないので、単に近づいていますが、と訳したのだろう。裁きの時が急速に近づいているという根拠は何かな?たまにはそれについても教えて欲しい。説得力のある根拠を示されたら、平信者も多少やる気が出るよ。」

聖書についての質問
2024年11月22日 14:17:34

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“終わりまで忍耐し続ける助けになる手紙(37)”で、ヘブライ書をとりあげ、終わりが近いから統治体の命令に従い、耐えろ、という内容です。」
「最近ヘブライ書はよく取り上げられるね。結論はいつも統治体に従え。」

「1節に“でも西暦61年ごろからしばらくの間,比較的平和な時期が続きます。当時のクリスチャンはこの時期に,パウロから手紙を受け取りました。”とあります。ヘブライ書は西暦61年にパウロが書いたとJWは決めつけていますが、根拠はありません。実際は作者も書かれた年代も不明です。」
「信者向けの記事だからね。根拠などいらないよ。自信たっぷりに断定すれば、信者の方で、偉い統治体様がおっしゃるのだから間違いない、と勝手に思ってくれる。カルトの指導者は楽なもんだね。」

「それから手紙でもありません。」
「手紙なら必ずある冒頭のあいさつがない。ヘブライ1:1は“神は昔,預言者たちにより,いろいろな時に,いろいろな方法で,私たちの父祖に語りました。”とあるだけ。冒頭のあいさつでは、手紙の送り主、受け手、型にはまった挨拶、祈りあるいは感謝の言葉が来るけれど、それらが一切ない。」

「でも、最後の挨拶があります。それはパウロの手紙を真似ています。パウロと関係の深いテモテの名前さえ出てきます。」
「最後の部分はヘブライ書が聖書に加えられやすいようにと、後の時代に付け加えられたという説がある。それをしたのは著者がパウロなら受け入れやすいことを知っている人だね。ヘブライ書については最後まで聖書に入れるかどうかもめた。」

「4から8節が“十分に成長するように努力しましょう”です。 4節で“ユダヤ教の背景を持つクリスチャンたちには乗り越えなければいけない壁がありました。”と、ユダヤ人クリスチャンが困難な状況にあったことを言っています。」
「ユダヤ人クリスチャンはイエスこそ約束されたメシアだと初めは感激していたのだろうけれど、イエスをそうは考えないユダヤ人からは祖先の教えや伝統を汚す愚か者と非難され続けただろうね。それと同じ状況にいるのが今のJWと言いたいようだ。」

「統治体こそ現代の神の代理人と信じているのがJWです。大多数のクリスチャンからすればキリスト教の教えや伝統を汚す愚か者ですからね。」
「それで、ユダヤ人クリスチャンに向けられた言葉を、無理やり現代のJWに適用しようというのがこの記事だ。」

「7節に“ヘブライ人のクリスチャンのように,私たちもエホバの正しい基準に沿わない情報や考え方にさらされています。反対者たちは,聖書に基づく道徳基準は厳し過ぎるとか,冷た過ぎると非難します。”とあります。迫害に苦しむ被害者のふりをしています。」
「排斥制度が非難されていることを念頭に置いているね。排斥されると未成年の子供でも家から追い出し、一切連絡を絶ち、家族の葬式にさえも呼ばないなどの慣行を世界のあちらこちらで非難されている。」

「排斥という言葉は聖書に出てきません。JWの排斥制度は聖書的ではありません。喫煙、ギャンブル、輸血など、聖書では決して触れられていない行為を理由に信者を排斥しています。恣意的な人間のルールです。」
「それに一見聖書に基づいているようでも実は違うというのも多い。ヨハネ二10に“キリストの教えに従わない人があなたたちの所に来たら,家に迎え入れてはなりませんし,あいさつの言葉を掛けてもなりません。”とあり、これを根拠に排斥者には挨拶も禁止とJWはしているけれど、訳がおかしいし、排斥者を対象にしたものでないことはヨハネ二を読めば誰でもわかる。わからないのはJWだけ。」

「コリント一5章も排斥と関連付けられますが、排斥という言葉はもちろん出てきません。」
「そこには“そのような人とは接するのをやめなさい。一緒に食事をしてもなりません。”とあるけれど、危険なウイルス感染者かのように厳格な隔離を想定したものではないし、それが家族にまで適用されるなんてことは書かれていない。“接する”と訳されているけれど、正しくは“交際する”。共に食事をするといった社交的な関係を絶てと言っているだけ。」

「JWの英語訳ではstop keeping companyで、仲間でいるのをやめるという意味ですよ。」
「それを“接するのをやめなさい”と訳したわけだ。翻訳者はJWをやめた人を相当憎んでいるね。」

「9から14節は“信仰を抱いて生き続ける”です。 9節で“ユダヤにいるヘブライ人のクリスチャンが近づく患難を生き残るためには,強い信仰が必要でした。(ヘブ 10:37-39)イエスは弟子たちに,エルサレムが陣営を張った軍隊に囲まれるのを見たなら山に逃げるようにと言っていました。”とありますが、聖句を誤解していますね。」
「そこには“あと「ほんのしばらく」すれば,「来ることになっている方は到着します。遅れることはありません」。”とある。これはキリストの再臨のこと。ローマ軍によるエルサレム攻撃ではない。」

「その後“当時の人たちは大抵,軍隊が攻めてくると聞くと,エルサレムのように城壁のある町に避難しました。それで,山に逃げるようにという指示は普通ではあり得ないものに思えたことでしょう。それに従うには大きな信仰が要りました。”と断定していますが、そうなんですか?」
「この主張の根拠を知りたいね。攻撃目標はエルサレムとわかっているなら、エルサレムから脱出し、ローマ軍が来そうもないところに逃げるのは普通じゃないの?」

「10節では、ローマ軍のエルサレム攻撃のことをヘブライ書が言っているという誤解に基づいて、根拠のない推論を述べています。“教え導く責任を委ねられた人たちは,山に逃げるようにというイエスの命令に,会衆のみんなが適切なタイミングで秩序正しく従えるように具体的な指示を与えたと思われます。(ヘブライ 13:17を読む。)”と言っています。引照聖句には山に逃げることなど出てきません。」
「そこには“皆さんを教え導いている人たちに従い,進んで応じてください。”とあるだけ。山に逃げる話はルカ21章でしょう。無関係な聖句を勝手に結び付けて、JWに都合の良い物語を創作するのがJW流の聖書読解だよね。」

「その後“ヘブライ 13章17節で使われている「従う」という意味のギリシャ語は,指示を与えている人のことを信頼しているので納得して従う,という考えを含んでいます。それは,単に権威を与えられている人からの指示なので従う,ということではありません。”と断言していますが、根拠が示されていません。どこかの辞書を見たのでしょうから、その辞書を教えて欲しいです。」
「翻訳に問題がある。“納得して従う”とあるけれど、英文はsomeone is persuaded to obeyで、“従うよう説得される”と言う意味。これならそれほど問題ではない。従うと訳されているギリシャ語の意味は、“説得する、促す”とたいていの辞書に書いている。」

「ギリシャ語についての怪しげな話を持ち出していますが、要するに統治体をはじめとした指導者に従えということですね。」
「JWの最大の美徳は盲目的な服従だからね。それに多少なりとも抵抗を感じるほど知性がある人はJWを続けられない。」

「11節は現代の話です。“多くの人は今の体制の終わりについての聖書の警告に聞く耳を持ちません。ばかにすることさえあります。(ペテ二 3:3,4)”とありますが、引照聖句は1世紀からそうだと言っています。」
「ペテロ二3章はイエスの再臨が遅れていることに対する言い訳の部分。神にとって千年は1日なんて言ってごまかしている。」

「JWがバカにされるのは当然です。150年くらい間もなく終わりが来る、来るといって、適当な日付をでっち上げ、すべて外してきたわけですから。」
「多くのJWは終わりが来るなんて信じていないよ。惰性でJWをやっているだけ。それで11節で“終わりが時間通りに来ることやエホバがずっと世話してくださることへの強い信仰を持つ必要があります。”と言っているわけだけど、何の効果もないでしょう。」

「12節で“私たちは,エホバが「忠実で思慮深い奴隷」を通して導いてくださっていることへの信仰を強める必要もあります。”と、統治体信仰を推し進めています。カルト的でいいですね。」
「“エホバが責任を委ねている人たちからの指示に対する信頼や確信を今強める必要があります。”とあるけれど、責任をゆだねている人=統治体というのは、何の根拠もないでしょう。自分たちでそう言っているだけ。そんな人に自分の人生をゆだねていいのかな?」

「14節で“今の体制の終わりがすぐそこまで来ていることに強い信仰を持っているなら,お金や物を愛する考え方を避けたいと思うでしょう。大患難の時,お金には何の価値もありません。”と、アブナイことを言っています。大患難が間もなく来ると信じて、仕事をやめたり、家を売ったりする愚か者はもはやいないと思いますが。」
「大患難のときでもお金は役に立つよ。しつこく貧乏暮らしを強要するのはなぜなのかな?寄付を集めるためとしか思えない。」

「15から18節が“皆さんには忍耐が必要です”。 迫害の恐怖をあおっています。16節で“神はクリスチャンが経験する試練を訓練の一部として許すことがある,と説明しました。(ヘブライ 12:7を読む。)そうした訓練によって,クリスチャンとしての人格を身に着けたり,さらに磨いたりすることができます。”とあります。そんなことは滅多に起こりません。ひどい神ですね。」
「引照聖句には“皆さんは矯正の一環として忍耐する必要があります。神は皆さんを子として扱っています。父親から矯正を受けない子がいるでしょうか。”とある。ここにあるのは子に対する体罰を父による教育として無条件に肯定する古代の野蛮な教育観だ。現代では受け入れられないね。にもかかわらず、それをJWは無批判に受け入れているのがダメだね。」

「この聖句によれば、迫害は神から来ることになります。それも問題ですよ。」
「ヘブライ書の著者は神がこの宇宙を支配しているという神学をもっている。そうであれば、苦しみも不幸も神のせいということになり、その苦しみには意味があると強弁して神を弁護するしかなくなる。でも苦しみも不幸も教育的価値より害の方が多いよ。」

「17節に“パウロもそうやって勇気を得ていたので,「エホバは私を助けてくださる。私は恐れない」と言うことができました。(ヘブ 13:6)”とあるのですが、そのセリフはパウロが詩編118:6の70人訳から引用しているだけです。」
「ヘブライ語聖書では“エホバは私の側にいてくださる。私は恐れない。人が私に何を行えるだろう。”なんだけど、70人訳とは少し違う。新約聖書で旧約聖書が引用される場合はたいてい70人訳からで、ヘブライ語本文より70人訳の方が権威があるみたいだ。それはヘンなことだけど、JWでは誰も気にしないようだね。」

「18節で再び迫害の恐怖をあおります。“聖書にはっきり書かれている通り,「神への専心を貫き,キリスト・イエスに従って生きようとする人は皆,同じように迫害を受けます」。(テモ二 3:12)ですから,私たち皆がこれから起きることに備えておく必要があります。”とあります。でも迫害されているJWは全体のほんの一部ですよ。」
「引照聖句の訳がヘンだね。“神への専心を貫き”なんて本文にないよ。協会共同訳では“キリスト・イエスにあって敬虔に生きようとする者は皆、迫害を受けます。”だけど、これが普通の訳。」

「最後の19節はまとめです。“パウロがヘブライ人のクリスチャンに宛てて書いた手紙は,1世紀の兄弟たちが患難に備えるのに確かに役立ちました。”とあります。今のJWも見倣え、と言いたいようです。」
「状況が違う。今のJWの多くは信教の自由が保証された国に住んで、1世紀のような暴力的な迫害など無縁。でも、カルトの被害からいかに身を守るか、これ以上無給の労働力としていかに搾取されないようにするか、寄付の要求をいかにうまく断るか、と言った艱難に備える必要があるわけだ。これはヘブライ書を読んでも役に立たないね。」

聖書についての質問
2024年11月15日 14:25:52

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“神の言葉を実践する人になってください(36)”で、JW流の聖書の学び方を学ぶ、という内容です。」
「最近のJWはほとんど聖書を知らないし、JWの教義も、まもなく終わりが来ること以外ほとんど知らないからね。もっと知識レベルを上げたいということでしょう。」

「2節がいいです。“エホバに仕えている私たちは幸せです。”と久しぶりの幸せ宣言です。本当に幸せな人はそんなことを何度も言いませんよ。」
「JWは不幸な人が多いでしょう。家庭崩壊、貧困、各種の病気で苦しんでいる割合はJW以外の人より多いよ。」

「2節にはJWが幸せな理由が出ています。“私たちは聖書を毎日読み,学んだことを実践するように努力しているからこそ,幸せでいることができています。(ヤコブ 1:22-25を読む。)”とあります。引照聖句には“聖書を毎日読み”なんてことは書かれていません。」
「まず、英文ではwe regularly read God’s Wordとあり、定期的に読むように言っているけれど、毎日読むとは言っていない。日本のJWだけは毎日読まないといけないようだね。」

「ヤコブ書は“神の言葉を実践する人になってください。”と言っています。具体的にはヤコブ1:27には“困っている孤児ややもめを世話すること”とあります。JWは孤児ややもめに何もしていません。統治体は口先だけで、みなさーん、愛してます、と言うだけです。」
「JWは雑誌の販売会社としてスタートしたからね。慈善活動など全く無関心。キリスト教らしさはないよ。」

「3節は神の言葉を実践するとご利益があると言っています。まず、“私たちはエホバが喜んでくれていることを実感すると,幸せな気持ちになれます。(伝 12:13)”とあります。でも、引照聖句は幸せになるとは言っていません。」
「聖書は個人の幸福にはほとんど関心がないからね。」

「ここで伝道の書を引照聖句に使うのは不適切ですよ。伝道の書の幸福観はJW的じゃないですから。例えば、伝道8:15には“食べ,飲み,喜ぶこと,この地上で人にとってこれ以上の幸せはないからだ。”とあります。JWは飲まず食わずで、ひたすら無意味なJW活動を押し付けられて何の喜びもなく一生を終えます。伝道の書の作者がいう空しい生き方そのものです。」
「伝道6:6には“1000年,さらに1000年生きたとしても,楽しみを経験しなかったなら,何の意味があるというのだろう。”とある。人生を楽しまなければ意味がない、ということ。JWは楽園が来ても、1000年間ひたすら働く生活を送るようだけど、そんな人生に何の意味があるのだろうかと、伝道の書の作者は言っているよ。」

「3節では、“また,神の言葉を読んで実践することで,家族との絆も,仲間の兄弟姉妹との友情も強まってきたことでしょう。”と、ご利益を並べていますが、事実に反します。」
「JWの家族はバラバラになり、音信不通で、JW同士の関係は、友情などというものとは程遠いことが多いでしょう。」

「5,6節が“聖書を読む時間を確保する”です。 5節では“エホバの証人は大抵とても忙しい生活を送っています。”とあります。そうさせているのは組織ですよ。無責任な言い方です。」
「信者を忙しくさせて、考えさせないようにするのがカルト。コロナ問題の時は暇ができて、考える時間が増えて、JWのバカバカしさに気づいた人はけっこういたようだよ。」

「6節に“聖書を読むことは,クリスチャンにとって「より重要なこと」なので優先する必要があります。(フィリ 1:10)”とありますが、引照聖句には聖書を読むことは、“より重要なこと”とは書かれていません。」
「新約聖書には聖書を読め、なんて書かれていないよ。新約聖書に収められている福音書やパウロの書簡はまだ聖典の地位を得ていなかった。」

「聖書を読むことが強調されたのはルターたちの宗教改革の時代からですよ。」
「“聖書のみ Sola scriptura”は、信仰義認、万人祭司と並ぶ、宗教改革におけるプロテスタントの三大原理の一つだね。JWもその流れの末端に位置するわけだけど、信仰義認はJWとは無縁だね。」

「6節に“詩編 1編には,幸せな人についてこう書かれています。「その人はエホバの律法を喜び,昼も夜も小声で読む」。(詩 1:1,2)この聖句は,聖書を読む時間を確保する大切さを教えています。”とありますが、聖句の誤用です。そんなことを言っていません。恥ずかしいですね。」
「“小声で読む”は誤訳。使われているヘブライ語の動詞に“読む”という意味はなく、“呻く、唸る、話す、黙想する”と言う意味。協会共同訳では“主の教えを喜びとし/その教えを昼も夜も唱える人”となっている。」

「7から10節は“読んだことについてじっくり考える”です。 8節に“急いで読んでしまうと,読んだ内容を十分に理解することも,学んだことを活用することもできないでしょう。(ヤコ 1:24)”とあり、急いで読むなと指示しています。でも引照聖句とは何の関係もありません。」
「聖書には聖書の読み方について何も書かれていないよ。無理に聖句を引用するからおかしなことになる。」

「9節の下に“聖書を読む時に考えたいこと”と言う囲み記事があります。そこには“ここからエホバ神についてどんなことが分かるか。この部分は聖書の中心テーマとどう関係しているか。これを自分の生活でどのように役立てられるか。誰かを助けたり力づけたりするために,この言葉をどのように使えるか。”を考えて読むよう指示しています。」
「エリシャをハゲ頭とからかった子どもたち42人が2頭のクマに殺される列王記二2章を読んだときは、エホバは残酷で暴力的な神だな、とか、エホバに比べて自分は子どもに優しすぎる、もっと体罰を加えた方がいいのでは、と考えればいいわけだね。」

「詩編137:8,9には“バビロン,おまえはもうすぐ壊滅させられる。おまえが私たちに加えた仕打ちで,おまえに報いる者は幸せだ。 おまえの子供たちを捕まえて,岩にたたきつける者は幸せだ。”とあります。これはエホバは子供を殺すのが大好きなんだな、とかハルマゲドンでは赤ん坊だって皆殺しするんだろうな、と思えばいいわけですね。」
「赤ん坊はバビロン捕囚に何の責任もないのに、虐殺しようとしている。神には正義の感覚が欠落している、と考えが及べば、よく考えて聖書を読んだと言えるでしょう。」

「10節では“聖書を読む時は,「この情報を今または近い将来にどのように活用できるだろうか」と考えます。”と指示しています。例えば、エリシャのハゲをからかった話を、生意気なJWの子どもを懲らしめるのに、どのように活用できるかを考えるわけですね。」
「JWが聖書の活用というと、誰かを管理統制するための道具として聖書を活用するという意味にすぎないわけだ。それから、孤児ややもめの世話のように、自分たちがしたくないことは聖書に書かれていても無視するのがJWの聖書の読み方。」

「11から14節が“無理のない目標を立てる”です。 さんざん聖書を一生懸命読むように指示してから、少しだけ優しいことを言っています。11節で“聖書を読んで学んだことを実践しようとすると,圧倒されるように感じることがあるかもしれません。”とあります。」
「JWなんだから、統治体に見倣って、聖書に書いてあってもやりたくないことはしなくていいよ。」

「13節では“取り組む必要のあることをリストにします。そこから1つか2つを選びましょう。残りは後で取り組むことにします。”と指示しています。この程度のことがわからないのがJWなのですね。」
「14節で“目標を決めたなら,「ものみの塔出版物索引」や「エホバの証人のためのリサーチガイド」などのツールを使って調査しましょう。”とある。結局JWの情報だけを調べるわけだ。そうやってカルトに取り込まれていく。」

「最後の15,16節が“神の言葉から「良い感化」を受ける”です。 この記事は16節で終わるわけで、あまり書くことがなかったようです。15節に“エホバの証人はどうでしょうか。1世紀のクリスチャンと同じように,聖書を「まさしく神の言葉として」受け入れています。”とあるのですが、これは聖書の誤読ですね。」
「引照聖句はテサロニケ一2:13で、“皆さんが私たちから神の言葉を聞いた時,それを人間の言葉としてではなく,まさしく神の言葉として受け入れたからです。”とある。ここでいう“神の言葉”は聖書のことではないよ。パウロはテサロニケの人々の前で旧約聖書を読んだなんて言う記録はないよ。」

「テサロニケ一2:2で“ご存じのように,私たちはまずフィリピで苦しめられ,侮辱を受けましたが,神の助けにより勇気を奮い起こし,厳しい反対に遭いながらも皆さんに神の良い知らせを伝えました。”とあります。パウロが伝えたのは旧約聖書の一節ではなくて、いわゆる福音のことですよ。」
「パウロが伝えた主なことはキリストのことでしょう。だからクリスチャンと呼ばれるようになった。書かれた書物こそが信仰の中心だ、という思想はJWの思想でパウロにはない。」

「16節では“神の言葉を読んで実践するのは,いつも簡単なわけではありません。”とありますが、JWの聖書に基づかないばかげた命令に比べれば実践しやすいですよ。」
「輸血をしないと死ぬ状況でも輸血をするな、というJWの教えに比べれば、確かにそうだね。」

聖書についての質問
2024年11月08日 14:08:49

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“会衆から除かれた人を助ける(35)”で、排斥しても戻ってくるよう配慮しなさいという内容です。」
「排斥された人には挨拶もしないという反社会的なカルト的行動を少しは改めるようだけど、本質は変わらないね。」

「3から5節が“悪い人を除きなさい”です。 JWには悪い人が多いということですね。4節に“悔い改めようとしない人が会衆から除かれた場合,その人がエホバの証人ではなくなったことが会衆に知らされます。”とあります。注には“今後はそのような人のことを,排斥されたとは言いません。コリント第一 5章13節の表現に合わせて,会衆から除かれたと言います。”とあります。」
「そういうわけで、JWから除かれた人はいても、JWから排斥された人はいなくなるわけだ。これからJWは仲間の信者を排斥することはありません、と堂々とマスコミに言える。メデタイね。」

「5節では“会衆から兄弟か姉妹が除かれた場合,その人のことをどう見るべきでしょうか。交友を持つことはしませんが,救われる見込みがない人とではなく,迷い出た羊と見ます。羊は群れから迷い出たとしても,戻ってくる可能性があります。”とあります。排斥された人を将来戻ってくるかもしれない人と見なさいという指示ですが、それなら集団絶交は止めるべきですが、それは堅持します。」
「信者の新規獲得は難しいから、逃げた信者の復帰に期待するわけだ。でもみんなで絶交するのは止められない。ドン詰まりだね。」

「6から12節が“長老たちは会衆から除かれた人をどのように助けるか”です。 排斥後の手順についての説明です。6節に“長老たちから成る委員会は,悔い改めない人に会衆から除かれることを伝える時,戻ってくるためにどうしたらいいかも伝えます。それだけではなく,多くの場合,長老たちは罪を犯した人の考えが変化しているかどうかを確かめるために,数カ月後にまた話し合う機会をつくりたい,と思っていることを伝えます。”とあります。排斥から数か月後に面接するようですね。」
「6節の最後に“長老たちはその人と周期的に会うよう努力を続けます。”とある。無給の長老に対して要求が多すぎる。会いに行く際の交通費や手土産代を組織が負担してくれたら、長老は喜んで会いに行くよ。タダで働かせようとするのが間違い。」

「7節に“クリスチャンの長老たちもエホバのように,罪を犯した人が戻ってくることを心から願っているので,その人に戻りにくいと感じさせるようなことは決してしません。(エレミヤ 3:12を読む。)”とあります。長老は戻りやすい環境を作れという指示ですね。」
「読むように指示されているエレミヤ3:12は“行って,北に次の言葉を伝えなさい。『「背信のイスラエルよ,戻りなさい」と,エホバは言う』。”とあるように、特定の歴史を背景にしたもので、今のJWとは関係ないよ。」

「8節には“長老たちも,迷い出た人たちに対して愛情深い父親のような態度を示すようにします。ぜひ戻ってきてほしいと思っているからです。”とありますが、現実は戻ってきてほしくない人もいますよ。」
「排斥された人に対する長老の態度は犯罪者扱いでひどいもの。ここはタテマエを書いただけ。本音はこの後に出てくるよ。」

「9節に“長老たちはこのようなエホバの気持ちについて考えると,悔い改めていることが分かるどんな小さなサインにも気付けるようでありたいと思うはずです。”とあり、復帰したそうな人を見逃すなという指示ですが、復帰したくないのに復帰したがっていると誤解されて、しつこく付きまとわれそうで嫌ですね。」
「組織の指示には何でも盲目的に従う長老だと、ストーカーのようにつきまとうかも。」

「10節は多くの元JWを怒らせた問題の箇所です。“以前に会衆から除かれた人たちについてはどうでしょうか。そうした人の中には,何年も前に会衆から除かれ,今はその原因となった悪いことをもう行っていない人や,自分がどうして会衆から除かれたのかを覚えていない人さえいるかもしれません。”とあります。インチキ宗教裁判で排斥されたのに、“自分がどうして会衆から除かれたのかを覚えていない人”なんかいませんよ。」
「排斥した理由をすぐに忘れるのは、排斥した長老でしょう。気楽に排斥しているから、すぐ忘れる。排斥された側は何年たっても昨日のことのように鮮明に覚えているよ。」

「さらに“長老たちはそうした人がどこに住んでいるかを把握して訪問するように努力します。”とあります。しつこいですね。そして“本人が会衆に戻ることを望んでいるなら,長老たちは誰かがその人と聖書レッスンをするよう取り決めることができます。”とあります。」
「何年も前に排斥した人の住所を探し当てて、訪問するのね。そんな面倒なことをする長老はまずいないでしょう。」

「12節には復帰させる際に注意が必要な人がでてきます。“例えば,児童虐待をした人,背教した人,結婚を終わらせようと画策して姦淫などの罪を犯した人の場合,その人が本当に悔い改めているかどうかをしっかり確かめる必要があります。”とあります。最初に“児童虐待”が出てくるのが組織の実情を物語っていますね。」
「アメリカでは大勢のJWが児童性的虐待とその隠蔽で逮捕されて、有罪となっている。そういう人でも安易に復帰させてきたのがJWだけど、これからは少し考えようということだね。」

「12節の最後に“こうした罪を犯した人に対してエホバが憐れみを示すことは絶対にない,などと決め付けるべきではありません。”とありますから、子どもを性的に虐待した人でもJWに復帰できるようです。」
「注をみると、“聖書には,許されない罪があることが書かれています。でもそれはどんな罪を犯したかで決まるのではなく,心の状態が関係しています。”と聖書に書いていないことを勝手に書いている。聖書以上に権威があるのが執筆者なわけだ。」

「13から15節が“会衆の人たちには何ができるか”です。 ヒラの信者への指示です。13節は戒めを受けたと発表された人に対してどうするかです。“引き続きその人と交友を持つことができます。”とあります。」
「戒めを受けたという発表があったということは、一応悔い改めたという意味なんだね。」

「14節は排斥された人への対応です。“交友を持つことはしません。”とあります。でも“会衆から除かれた人を集会に招待するかどうかは,聖書によって整えられた良心に基づいて,各自で決めることができます。もしかすると,その中には 親族や親しかった人が含まれるかもしれません。”とあります。」
「親族と会ってはいけないけれど、集会に招待し、集会で会うのはOKということだね。」

「ということは、排斥されて家族と20年以上会ったことも、話したこともない人に、突然、今度の集会に来ない?という電話なりメールが来るかもしれないということですね。ふざけていますね。」
「その場合、申し訳ありませんが、あなたのことは知りません、と答えればいい。」

「そして“以前はあいさつをすることはありませんでした。でもこの点に関しても,私たち一人一人は聖書によって整えられた良心に基づいて判断する必要があります。”とあります。完全無視からあいさつはよいという新しい光です。素晴らしいですね。多少人間的にふるまってよくなりました。」
「JWらしいごまかしがある。“以前はあいさつをすることはありませんでした。”ではなく、カルトの指導者から、あいさつすることを禁じられていました、でしょう。正直に書いて欲しいね。」

「今までは、排斥された人は集会に来ても、全員から無視され、一番後ろの席に目立たないように座り、祈りが終わるとすぐに帰っていきました。これからは、挨拶だけされるけれど、それ以外は同じとなるわけですね。」
「あいさつが許可されるまですごい時間がかかった。挨拶するかどうかといった細かなことまでコントロールするのがカルトらしくて素晴らしい。」

「でも14節では“その人と長く会話を続けたり,別の機会に一緒に時間を過ごしたりするようなことはしません。”と指示をしています。どの程度の会話がダメなのかも良心に基づいて判断するのではなく、長老の考え次第なんでしょうね。」
「あいさつしてもいいという変更はJWは非人道的な過激な宗教ではないと政府に示すためのものだからね。ノルウェーでの敗訴を受けて、JWの弁護士が排斥のルールを変えるように要求したのだろう。統治体はイヤイヤ少しだけ変えたわけだ。」

「15節はヨハネ二9-11の解釈です。“キリストの教えに従わない人があなたたちの所に来たら,家に迎え入れてはなりませんし,あいさつの言葉を掛けてもなりません。”と言う聖句です。これは“でも聖句の文脈を見てみると,この指示は背教者や間違った行いを広めようとしている人たちについて書かれていることが分かります。”と説明しています。」
「単にタバコを吸ったとか、単に未成年者と性行為をしたとか、単にアル中で妻子に暴力をふるったとかは当てはまらないと言いたいわけだね。」

「15節の下に“ヨハネとパウロは同じ罪について書いていましたか”と言う囲み記事があります。“パウロは,性的不道徳の罪を犯した人について書きました。それから43年後にヨハネが書いたのは,背教者や間違った教えや行いを広めている人たちについてでした。”とあります。あいさつをしてはいけないのは“背教者や間違った教えや行いを広めている人たち”だけのようです。悪いことをしても黙っている人ならあいさつしてもいいようです。」
「子どもに性的虐待した人はそのことについて黙っているから、集会に来るとあいさつされる。でも別の人が組織は性的虐待者を保護しているというと組織を批判すると、背教者とされてあいさつされないわけだ。奇妙だね。」

「以前のヨハネ二9-11の解釈は違っていましたよ。こっそり変えたわけですね。」
「例えば、1985/7/15のものみの塔の“読者からの質問”に“ある人物を自分の家に迎え入れたりあいさつをしたりしないようにと述べるヨハネ第二 10節の言葉は,偽りの教理を広めようとした人々だけに当てはまるのですか。”というのがあって、その回答は“聖書のほかの箇所を見ると,これが適用される範囲はもっと広いことが分かります。”と勝手に拡大解釈していた。JWのいい加減さがよくわかる。」

「最後の16,17節が“思いやり深いエホバに倣う”です。 8月号にある5つの記事のまとめです。“長老たちには,悔い改めるよう罪を犯した人を助けるためにエホバと一緒に働けるという素晴らしい機会があります。”とありますが、要するに長老たちの仕事が今まで以上に増えて、負担が増すわけですね。」
「英文では“素晴らしい機会があります”ではなく“特権にあずかっています”だよ。“特権”とは訳さない方針のようだね。“特権”もバカバカしいJW用語の一つだからね。」

「8月号は発表が遅れて9月号の後でした。排斥に関するルール変更でもめたんでしょうね。」
「最終的にものごとを決めるのは統治体ではなく弁護士といわれている。最初の8月号の記事を弁護士に見せたら、ダメといわれたんだよ。統治体が承認しても、弁護士がこれでは裁判に勝てないと言われて、大慌てで書き直したのだろう。」

聖書についての質問
2024年11月01日 14:26:48

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“長老の皆さん,罪を犯した人に愛を込めて憐れみ深く接してください(34)”で、排斥の手順が少し変わったから、それを守るようにという内容です。」
「名称も変えるようだよ。老人は新しい名前がなかなか覚えられなくて苦労しそう。」

「4から15節が“長老たちは重大な罪を犯した人をどのように助けるか”です。 長老は罪を犯した人を助けてくれる人とは知りませんでした。」
「長老の責任で排斥処分を決めろということ。もし不服で訴えるなら長老を訴えて、間違っても組織を訴えるなということだね。」

「4節では“会衆の誰かが重大な罪を犯した場合,長老団はその件を扱うための委員会を設け,その委員会で奉仕する3人のふさわしい長老を選びます。”とあります。注を見ると、“これまで,こうした長老たちから成る委員会は審理委員会と呼ばれていました。とはいえ審理することは委員会の役割の一部にすぎないため,この表現は使われなくなりました。今後は単に委員会と呼ばれます。”とあります。残念なことに伝統ある“審理委員会”という名称の取りやめです。」
「人権無視の素人の裁判ごっこ、とバカにされてきたからね。せめて名前でも変えようということだね。」

「4節に“罪を犯した人を助けようとする時にも,変化するよう相手に強制することはできない,ということを認める必要があります。(申 30:19)”と、あるのですが引照聖句は何かの間違いじゃないですか?神は強制していますよ。」
「そこには“私は今日,天と地を証人にして,あなたの前に,命と死,祝福と災いを置きました。あなたは生きるために,命を選ばなければなりません。あなたもあなたの子孫もです。”とある。これは強制だよ。命か死かといわれれば、命を選ぶしかないよ。他の選択肢はないのですか、と神様に言いたくなるね。」

「5節以降は長老に対する指示です。まず5節では“罪を犯した人を迷い出た大切な羊と見る。”で、“長老たちは温和に,優しく親切に接し,罪を犯した人の心が動くように努力します。”とあります。今までは、極悪人を裁く冷酷で無礼でおごり高ぶった裁判官ようにふるまってきたということですね。」
「審理委員会での長老の態度はひどいものということは、経験者が口をそろえて言うね。それが組織にいかにマイナスになっているかようやく気づいたのだろう。」

「6節は“心を整える。”で、“委員会の長老たちは罪を犯した人と話し合う前にエホバに祈り,自分たちが目指すのは悔い改めるようその人を導くことであるという点をじっくり考えます。そして,聖書や出版物を調べ,その人や状況についてよく理解できるように助けを求めて祈ります。その人の考え方,態度,行動に影響を与えているかもしれない生い立ちや今の状況についても考慮するようにします。”とあります。祈りは別にして、少年犯罪を扱う家庭裁判所の裁判官のようになれと言っているようです。」
「その人の生い立ちや状況を考慮するのはいいけれど、それをどうやって知るの?個人のプライバシーは配慮しないの?心配だね。」

「7節は“エホバの辛抱強さに倣う。”で、“エホバは人々が悔い改めるまでは助けないというような方ではありません。エホバの側から,悔い改めるようにと積極的に勧めました。”とあります。長老もそうしなさいということのようです。」
「旧約の神は辛抱強い?大抵は違うよ。」

「8節で“長老がいらいらしたり怒ったりするなら,罪を犯した人はのけ者にされたように感じたり,悔い改める意欲を失ったりするかもしれません。”とありますが、無理な要求です。」
「審理委員会で信者をいじめるのを楽しみしている長老もいるでしょう。それができなくなったら長老をやめるかもよ。」

「9節は“どんなことが罪を犯す原因になったのかを知るようにする。”で、“悪い欲望に従ってしまったのでしょうか。良くない友達と付き合ったり,エホバに喜ばれないものを楽しんだりしていたのでしょうか。”とあり、信者のプライバシーを詮索して回るようです。」
「もちろんそんな法的権限はないよ。そんなことはやめた方が自分のためだよ、と長老に言いたいね。」

「それを知ってでしょうが、10節では“そうする時も親切に接するようにし,必要以上に個人的なことを尋ねないようにします。(格 20:5)”とあります。」
「長老のすることは全て必要以上に個人に干渉しているよ。素人裁判ごっこをやめる気はないようだね。」

「引照聖句の格言20:5は6節にもあります。“人の心の考えは深い所にある水のようだ。識別力のある人はそれをくみ上げる。”ですが、この聖句が乱用されています。」
「両方とも本文とはあまり関係ないけれど、JW的には使い勝手のいい聖句なんだろう。それで乱用される。」

「11節は“イエスに倣うよう努力する。”で、“天に復活したイエスはタルソスのサウロに対し,次のような質問を投げ掛けて考えさせました。「サウロ,サウロ,なぜ私を迫害しているのですか」。そのようにして,サウロが間違った行動をしているということに気付けるようにしました。(使徒 9:3-6)”とあります。長老も考えさせるような質問をしなさいということのようですが、この出来事はパウロ自身は何も語っていませんよね。使徒の作者の創作じゃないですか?」
「使徒では、強い光に照らされて倒れた後、イエスの声を聞いたことになっている。すごい体験だけど、パウロは何も語っていない。使徒の作者の創作かそういう伝承があったということでしょう。」

「使徒によるとサウロことパウロはエルサレム近辺でクリスチャンを迫害したことになっていますが、ガラテア1:22では“しかし,キリストと結ばれたユダヤの諸会衆の人たちに顔を知られていませんでした。”とパウロは書いています。本当はエルサレムで迫害などしていないのでは?」
「使徒では、パウロはエルサレムからダマスカスへ行く途中にイエスの声を聞くという設定だから、エルサレムで暴れまわったことにする必要があるんだよ。実際はパウロはエルサレムとほとんど関係ないよ。」

「12節に“長老たちは罪を犯した人と話し合う機会を1度だけでなく何度かつくることもできます。”とあります。1回の委員会で排斥と決めるな、複数回委員会を開けということのようです。」
「どうしてそれがイエスに倣うことになるのかわからないね。こじつけだね。複数回の委員会を開くとなると長老の負担は増すよね。どうせ結論は決まっているのに。」

「13節の下に2枚の写真がありまして、その説明には“悔い改めるのに時間がかかる人もいる。長老たちは話し合う機会を1度だけでなく何度かつくることができる。”とあります。1度だけではダメだと強調しています。」
「複数回委員会を開いて慎重に審議したと言えるようにしたいのだろう。訴えられた時に対する備えだね。」

「15節で“罪を犯した人が悔い改めた場合,委員会の長老たちは牧羊を取り決め”とあります。」
「そうやって組織に対して従順かどうかを見るわけだね。」

「16から18節が“皆の前で戒めてください”です。 16節に“テモテ第一 5:20を読む。”とあります。そこには“罪深い行いをやめない人を,皆の前で戒めてください。それは他の人への警告となります。”とあります。この“罪深い行いをやめない人”は一般の人を指すのですか?文脈から言うと長老のことじゃないですか?問題を起こした長老への聖句を全ての信者に当てはめようとしていますよ。」
「普通は長老の中の“罪深い行いをやめない人”と解釈する。テモテ一5:17-25はひとまとまりで、長老に関する問題を扱っている部分。5:17で“立派に監督している長老たち,とりわけ一生懸命に話したり教えたりしている人たちは,深い敬意を受けるに値します。”と、まず立派な長老について触れる。5:19から“年長の男性についての訴えは,2人か3人の証人がいない限り受け付けてはなりません。”と今度は問題のある長老に話題が変わる。“年長の男性”という訳はもちろん意図的な誤訳で、長老のこと。」

「それで、5:20の“罪深い行いをやめない人”とは長老のことを言っていることになるわけですね。」
「長老で罪深い行いをやめない人は、“皆の前で戒めてください。それは他の人への警告となります。”と言っている。この場合、“他の人”とは他の長老のことだね。」

「16節では“では,この聖句の「皆」とは会衆の全員を指すのでしょうか。必ずしもそうではありません。パウロは,その罪について知っていた人たちのことを言っていました。”とありますが、この主張の根拠はありません。」
「“皆”と書いてあるのになぜ“その罪について知っていた人たち”に限定するの?JWとしてはそう解釈したいから、そう解釈したというだけ。自分たちの考えがまずあって、それに合わせて聖書を解釈するのがJWということ。」

「17節では、その人のことがうわさになっている場合の対応です。“罪を犯した人の悪い行いが,会衆の多くの人に知られている場合や知られそうな場合はどうでしょうか。この場合,「皆」には,会衆全体が含まれることになります。それで会衆に対して,その兄弟または姉妹が戒めを受けたことを1人の長老が発表します。”とあります。結局皆に知らせるわけです。」
「皆に知らせるかどうかの基準があいまいだね。秘密主義の長老の多い会衆は公表せず、そうでない会衆は何でも公表しそうだよ。会衆ごとに対応が違うことになりそう。」

「18節が未成年への対応です。“長老団は,2人の長老が本人とクリスチャンの親と話し合うようにします。”とあります。本人が悔い改めているようだと、長老はそれ以上何もしないようです。親に任せます。悔い改めていないようだと、“その場合,長老たちから成る委員会が,本人とクリスチャンの親と話し合います。”とあります。」
「親権を考慮して、そういう手順で、未成年者を排斥処分にしなさいということだね。このようなことはパウロだって何も言っていない。JW独自のルールで、宗教による家族の破壊だ。」

「19、20節が“エホバは優しい愛情にあふれ,憐れみ深い方”です。 エホバは憐れみ深い神と言いたいようですが、引照聖句はヤコブ5:11で“皆さんはヨブの忍耐について聞き,ヨブがエホバのおかげでどんな結末を迎えたかを知っています。エホバは優しい愛情にあふれ,憐れみ深い方なのです。”とあるのですが、ヨブの結末は憐れみ深い神とは程遠いものですよ。」
「ヨブは神の承認のもとサタンによって子どもたちを殺される。その子どもたちは忘れ去られ、代わりに新しい子どもがたくさん生まれました、メデタシ、メデタシという酷い結末。神は一人一人の人間をかけがえのない存在とは考えずに、子どもの数は以前と同じ男7人、女3人だから問題ないという考えのよう。」

「憐れみ深い神なら、死んだ子どもをなぜ復活させないのでしょうか?」
「ヨブ記が書かれた頃は、そのような復活思想はなかったからじゃないの。」

「19節で引用されている聖句はエホバとは関係ないです。」
「ヨハネ一2:1で“もし誰かが罪を犯したとしても,私たちを助けてくださる方が父のもとにいます。正しい方であるイエス・キリストです。”とあるね。なぜこの聖句が引用されるのか不思議だ。JWはイエスの役割を最小にしようとしているのからね。他に適当な聖句を探すのが面倒くさかったのだろう。」

「20節は来週の予告で、排斥問題を取り扱います。」
「排斥された人に挨拶くらいならOKとか、排斥された者とは呼ばずに除かれた者と呼ぶなどちょっとした変更あるようだ。小手先の変更で排斥問題に関する非難をかわそうという浅知恵だね。」

聖書についての質問
2024年10月25日 14:10:49

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“罪を犯した人に対してエホバと同じ見方をする(33)”で、コリント一と二を使って、排斥した人をどう扱うかを教えるという内容です。」
「少しソフトにするつもりのようだけど、本質的には以前と同じだね。」

「4から6節が“1世紀の会衆は重大な罪をどのように扱ったか”です。 コリント一5章の話が取り上げられます。“ある兄弟が自分の父親の妻と性関係を持った,というのです。その行いは「異国の人々の間にさえ見られない」ほどひどいものでした。コリントの会衆はその行いを容認していました。それだけでなく,自分たちはエホバに倣った憐れみ深い見方をしていると考えて,誇っていたようです。”とあります。誇っている理由はこんなことではないですよ。」
「なぜ誇っているかは書かれていないけれど、憐み深いことを誇っていたとは考えにくい。少なくともコリントの人は性的なことについて現代人や古代のユダヤ人とはかなり違った考えを持っていて、義理の母と性的関係を持っても罪とは見なさなかったということはわかる。」

「コリントはギリシャですから、コリントの人たちは人間は魂と肉体からなるという二元論の持ち主ですよ。体の罪は霊的なことには影響しない、という思想が背後にあるのでは?」
「コリント一6:15で“皆さんは,自分の体がキリストの体の一部であることを知らないのですか。では,私はキリストの体の一部を取って,それを娼婦と結び付けてよいのでしょうか。決してそうではありません!”とパウロは言っている。コリントのクリスチャンは気軽に娼婦と関係を持っていたようだけど、体のすることは罪にはならないという思想があったとすると説明がつく。それでパウロは体もキリストの一部で、体の罪を犯すな、と強調していると思われる。」

「5節では“コリント第一 5:13を読む。”とあり、そこには“神が外部の人たちを裁くのではありませんか。「皆さんの中から悪い人を除きなさい」。”とあります。そして“パウロは「そのような人とは交友するのをやめなさい。一緒に食事をしてもなりません」と言いました。(コリ一 5:11)”と続けます。これは家族でも一緒に食事をするなという意味ではないですよね。」
「当時のクリスチャンは集まって食事を共にするということを重視していた。そういう食事の集まりには招くな、ということ。」

「6節に“パウロが手紙を送ってから数カ月の間に,以前に悪いことを行った人が罪を悔い改めました。”とあります。コリント二7:9に“今は喜んでいます。皆さんがただ悲しんだのではなく,悲しんで悔い改めたからです。”とあり、それが根拠のようです。本当ですか?」
「コリント二7:8に“前の手紙によって私は皆さんを悲しませましたが”とあるから、コリント一のことを言っているように誤解される。英文ではmy letterで“前の手紙”ではない。意図的な改変だね。パウロはコリントに何通もの手紙を出していて、ここで言う手紙はコリント一の後に出した手紙を指している。コリント二も一つの手紙ではなく4から5つの手紙をまとめたものという説がある。」

「コリント二9章と10章の続きは不自然ですよ。9章の最後は“そして,皆さんに示される神の際立った惜しみない親切のゆえに,彼らは皆さんに愛情を表し,皆さんのために祈願します。 言葉にできないほど素晴らしい無償の贈り物を下さる神に感謝しましょう。”です。これは手紙の最後の挨拶ですよ。」
「10章は、“私はそちらの一部の人たちから,顔を合わせている時には弱々しいものの,離れている時には断固とした態度を取る,と思われているようです。”で始まり、パウロの自己弁護が延々と続く。9章のテーマは献金問題でパウロは相手の自尊心を傷つけず、機嫌を損ねないようにしてきたのに、10章では攻撃的で相手の気持ちなど少しも考慮していない。あまりにも文章や調子が変わりすぎる。」

「10から13章の4章は元々は別の手紙だったという仮説が、4章仮説とよばれるものですね。」
「最後の4章が先に書かれたのか、後に書かれたのかで論争があるけれど、先に書かれたと思うね。」

「要するに、コリント二7:9で言っていることが、コリント一5章の性的問題を言っているかどうかは疑わしいということですね。」
「多分違う問題を言っている。コリント二11:4に“実際,誰かが来て,私たちが伝えたのとは別のイエスを伝えたり,皆さんが持つようになったのとは別の精神を持たせようとしたり,皆さんが受け入れたのとは別の良い知らせを告げたりすると,皆さんはすぐに許容してしまいます。”とある。これはパウロの後に誰かがコリントに来て、別の教えを広めたことを言っている。それを知ってパウロは悲しみの手紙を書いた。ところが、コリントの人たちは悔い改めたといっている。悔い改めたのは教義上の対立のことでしょう。それからコリント一とコリント二7:9の間隔が数か月というのも根拠は乏しい。」

「7から13節が“会衆は悔い改めた人にどう接する必要があったか”です。 7節には“コリント第二 2:5-8を読む。”とあります。そこには“その人には多数の人からすでに叱責が与えられており,それで十分です。 今は優しく許して慰めるべきです。”とあります。性的な問題のことではないですね。」
「反パウロ的な立場に立つ人がいて、それが多数の人から叱責を与えられたという意味。強硬な処分を要求した人たちがいたんだろね。」

「9節には“戻ってきたこの人を温かく迎えることに抵抗を感じた人もいたでしょうか。聖書には何も書かれていませんが,その可能性はあります。”と言っています。現代の心の狭いJWに向けて書かれていますね。それは間違いだと言いたいようです。」
「JWの排斥制度が非人間的とか人権無視と言われているからね。それを多少ソフトにしたいわけだね。」

「10節では“もし長老たちが,本当に悔い改めた人を会衆に復帰させなかったなら,どうなっていたと思いますか。”と問いかけています。どうなるか、JWならわかりますよ。さんざんそういうことをしてきたわけですから。」
「11節では面白い理屈がでている。“悔い改めた人を許そうとしないなら,会衆の兄弟姉妹はエホバとの友情を失ってしまう危険がありました。快く許すエホバではなく,厳しくて憐れみを示そうとしないサタンの態度に倣うことになったからです。”とある。JW得意のエホバvsサタンの二元論だね。許さない人は、エホバじゃなくサタンだ!!というわかりやすい白か黒の思考。」

「12節は旧約聖書に飛びます。旧約からエホバは憐み深い、寛大だと言っている聖句をつまみ食いします。例えば、“ミカはこう言いました。「あなたのような神がいるでしょうか。……過ちを許し,違反を見過ごす方」。(ミカ 7:18)”とあります。」
「それなら、アモス2:4、5に“ユダの3つの反抗,4つの反抗のゆえに,私は撤回しない。・・・私はユダに火を放つ。火はエルサレムの防備された塔を焼き尽くす。”とあり、アモス9:10には“彼らは剣によって死ぬ。私の民の全ての罪人たち”とあるよ。反抗したり、罪のある人は許されないようだけど。」

「13節で“罪を犯した人は会衆から除かれて数カ月しかたっていませんでしたが,矯正によって悔い改めることができていました。”と、根拠のないことを繰り返しています。13節の下には“罪を犯したコリントの兄弟が会衆に復帰したのはいつか”と言う囲み記事があります。直ぐに復帰したことを強調しています。」
「JWも排斥した人を早く復帰させろ、と言いたいんだろう。」

「数か月で復帰したという根拠は“パウロは1通目の手紙を3回目の宣教旅行の途中に書きました。それは西暦55年の初めごろだったと思われます。そして2通目の手紙を同じ年の夏の終わりか秋の初めに書いたと思われます。”というものです。一通目で排斥して、2通目で復帰していたと考えると、排斥期間はせいぜい数か月となるわけです。」
「これは全てJW流の誤読に基づいた推論だね。」

「コリント一が書かれたのは55年とするのはいいとして、コリント二は55年じゃないですよ。」
「パウロは55年の初め頃にコリントにつき、そこで冬を過ごした。その間にパウロとコリントの人たちの関係は悪くなる。パウロはコリントを発ち、その後悲しみの手紙を書く。その後パウロはエフェソスでひどい目に遭う一方、ティトスをコリントに派遣する。ティトスは問題をうまく処理した後、パウロとマケドニアであう。その後パウロはコリント二を書くという時系列。そういうわけで早くても56年の秋だね。」

「パウロは復帰ということは一言も言っていません。執筆者が復帰したと思い込んでいるだけです。」
「囲み記事に“パウロはその男性が悔い改めたという報告を受け取っていました。”と書いているけれど、悔い改めたのは性的問題を引き起こした人だと、コリント二に書かれていない。単なる思い込み。」

「囲み記事の結論は“罪を犯した人が会衆から除かれた後,短期間のうちに,おそらく数カ月後に,パウロはその人を会衆に復帰させるように伝えたと考えることができます。”というものですが、最初から結論ありきで、その理由を適当にでっち上げたという印象ですね。」
「会衆から取り除かれたのは正しいのだろうけれど、その後どうなったかは不明。排斥した人を短時間で復帰させたいという組織の意図は伝わってきたね。」

「14から16節が“公正で憐れみ深いエホバに倣う”です。 いままでの組織は公正でも憐み深くもなかったということですね。14節に“1世紀のコリントで扱われた問題は「私たちを教えるために」書かれました。(ロマ 15:4)”とありますが、今のJWに向けてではないですよ。コリントの人たちに向けてですよ。」
「引照聖句には“以前に書かれた事柄は皆,私たちを教えるために書かれました。”とあるけれど、パウロが自分の手紙までそれに含めてはいないでしょう。いわゆる旧約聖書のことを言っているだけだよ。」

「14節に“ある人は,エホバは憐れみ深いので,罪を悔い改めなくても兄弟姉妹と交友を持ち続けられるようにしてくださると考えるかもしれません。でも,それはエホバの見方ではありません。”とあります。相変わらず集団絶交制度を維持するようですね。」
「15節では、またもやペテロ二3:9を読む。そこには“神は,一人も滅ぼされることなく,全ての人が悔い改めることを望んでいる”とある。この聖句が大好きなのはわかるけれど、これは終わりの日が来ないことに対する言い訳だからね。JWも信者に言い訳をしなくてはならない状況に追い込まれているということだね。」

「16節には“私たちは皆どんなに頑張っても罪人で,エホバに許してもらう必要があります。それで,エホバが贖いによって罪を許してくださることを考えると,本当に感謝の気持ちでいっぱいになります。”とあります。感謝の強要です。」
「JWの場合は、罪を許してもらうことには興味はなくて、ハルマゲドンを生き残りたいだけ。でも、生き残るという保証は与えられないので感謝の気持ちは生じないでしょう。あるのは滅ぼされるという恐怖心。」

「17節は予告です。“現代では,重大な罪はどのように扱われるでしょうか。”とあります。この問題を“続く2つの記事でこうした点を考えます。”とあります。」
「大きな変更はないけれど、審理委員会を長老委員会と呼ぶ、という話が出てくるね。魔女裁判のようなことをやっていると思われているから、名称は変えようということだね。小手先でJWに対する非難をかわそうとして、無い知恵を絞ったというところだね。」

聖書についての質問
2024年10月18日 14:29:42

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバは全ての人に悔い改めてほしいと思っている(32)”で、お前たちは全員罪人だから、死ぬまで悔い改め続けなさい、という内容です。」
「もっと明るく元気が出るようなことは言えないのかな。信者を罪人とし、宗教に頼る以外救われる方法はないと思わせるのがカルトのやり方だ。」

「2節に“全ての人は悔い改めについて学ぶ必要があります。誰でも毎日罪を犯すからです。”とありますが、本当ですか?パウロは人間全員罪人だ、とは言っていますが、毎日罪を犯すとは言っていませんよ。」
「ついつい調子の乗りすぎたという所でしょう。深く考えて記事を書いているわけじゃない。でも赤ちゃんも毎日罪を犯すから、ハルマゲドンで殺されても仕方がないというのがJWの思想なのかも。」

「2節ではなぜがネヘミヤの時代に跳びます。“(ネヘミヤ 8:9-11を読む。)エホバは,人々が過去の罪によって打ちのめされてしまうのではなく,喜んでご自分に仕えることを願っていました。エホバは悔い改めることが幸せにつながることを知っています。”とあります。これって誤読ですよ。文脈無視ですよ。」
「JWは文脈を無視して、聖書の中の都合の良いところを切り取って、自分たちの教義の根拠とするという滅茶苦茶なやり方を得意とする。今さら変えられないのだろう。」

「ネヘミヤ8:9-11は律法公布の場面です。人々は律法の詳細を聞いて、自分はこんな違反をしていたと知って落ち込んだわけです。それに対して” 今日はエホバ神にとって聖なる日です。嘆き悲しんだり,泣いたりしてはいけません。”と言ったというものです。” 悔い改めることが幸せにつながる”などとは書かれていません。」
「これも、ついつい調子に乗りすぎたね。律法公布のメデタイ日だから、落ち込んでいないで、ごちそうを食べて楽しく過ごそうと言っている場面を、陰気な教訓話に変えたわけだ。」

「ネヘミヤ8:9に“総督ネヘミヤ,写字生である祭司エズラ,民を教えていたレビ族たちは民に言った。”とありますが、ネヘミヤとエズラは同じときにエルサレムにいましたか?」
「ネヘミヤとエズラの歴史的関係は論争が多い問題。エズラ7:7によれば、エズラがエルサレムに来たのは“アルタクセルクセス王の治世の第7年”で、ネヘミヤがエルサレムに派遣されたのは、ネヘミヤ2:1によると“アルタクセルクセス王の治世の第20年”となっている。」

「これが正しいとすると、エズラはネヘミヤの13年前にエルサレムに来ているのに、律法の交付という最も重要な仕事をネヘミヤが来るまでしなかったことになり、非常に不自然です。」
「エズラの最初の仕事は異民族との結婚の解消を徹底的にやったこと。ところがネヘミヤ13:23、24には“その頃,私はまた,ユダヤ人がアシュドドの女性やアンモン人やモアブ人の女性と結婚しているのを知った。 彼らの子たちの半分はアシュドドの言語を話し,半分は別の民の言語を話していた。ユダヤ人の言語を話せる人は一人もいなかった。”とある。つまり異民族との結婚が普通に行われていて、言語も失われつつあるという状態になっている。これは順序がおかしいということになった。」

「つまり、まずネヘミヤが来て、異民族との結婚を問題視し、その後にエズラがやって来て、強引に異民族との結婚を解消させたというのが歴史上の順序ということですね。」
「そうだとすると、エズラがエルサレムに来たのは“アルタクセルクセス王の治世の第7年”ではなく、その後の王である“アルタクセルクセス二世王の治世の第7年”に来たと読む。これが一番自然な解釈。」

「ネヘミヤ8:9のエズラとネヘミヤが一緒に律法の公布を行ったというのはフィクションということですね。」
「ネヘミヤとエズラを意図的に同時代の人にして、二人が協力して改革したかのように見せかけたのだろう。」

「4から7節が“エホバは悔い改めについてイスラエル人にどんなことを教えたか”です。 
4節では“イスラエル人は律法に従う限り,繁栄し,エホバに守ってもらうことができました。律法に従うことについて,エホバはこう言いました。「私が今日命じるこのおきては,あなたにとって難し過ぎるものでも,遠くにあるものでもありません」。(申 30:11,16)”とありますが、冗談ですか?と言いたくなります。律法は誰も守れないほど数が多すぎます。数え方にもよりますが600以上ありますよ。」
「しかもヘンなものが多い。例えば、申命記22:20,21には“しかし,もし訴えが真実で,女性が処女である証拠がないなら, 女性を父親の家の入り口の所に連れ出し,町の人々が石打ちにすべきです。”とある。女性が結婚したときに処女でなかったら、わざわざその女性の父親の家の前に連れて行き、町の人が寄ってたかって女性に石をぶつけて殺すというもの。異常だね。しかも男にはこれに相当するルールはない。」

「律法は古代の家父長制、奴隷制、男女差別をもとにしています。神が定めたとしたら、ひどい神ですよ。」
「しかも、矛盾しているものもあるよ。例えば、出エジプト20:5では“私を憎む人については,父の過ちに対する処罰を子や孫やひ孫に及ぼす。”と連帯責任を言いながら、申命記24:6では“父親は子供がすることのゆえに死刑にされるべきではなく,子供も父親がすることのゆえに死刑にされるべきではありません。人はそれぞれ自分の罪のゆえに死刑にされるべきです。”と連帯責任を否定する。この両方を守ることは不可能だよ。」

「5節では“でも,エホバは不従順なご自分の民を見捨てませんでした。何度も預言者を遣わし,悔い改めてご自分のもとに戻ってくるよう勧めました。(列王第二 17:13,14を読む。)”とあります。引照聖句には“私に仕える預言者を通してあなたたちに伝えた律法全てに従って,私のおきてと法令を守りなさい。”とあります。律法を守れと言っているだけですよ。でも、それは無理です。無理な要求をして、罪人を作ろうとしているようにしか思えません。」
「引照聖句は、北王国が滅亡した理由を述べている部分。国が滅びたのは、律法を守らず、神を怒らせたからだと説明している。宗教原理主義者の見解だね。北王国はアッシリアによって滅ぼされたけれど、宗教ではなく政治軍事的な理由で滅んだ。」

「6節には、“エホバは預言者たちによって警告を与え,イスラエル人を正そうとしました。”とあり、預言者としてエレミヤ、ヨエル、イザヤ、エゼキエルが出てきます。7節はホセアが取り上げられます。」
「6節の下にその5人の顔と活躍した年が書かれている。顔のイラストがあるのは、子ども向けの記事だからなの?どんな顔をしていたなんか誰も知らないよ。」

「ヨエルは“前820年ごろ”とあります。これは正しいですか?ヨエル書には具体的な日付を示すものはないですよ。」
「前820年は数多くある書かれた可能性のある年代の一つにすぎない。昔はヨエル書はホセア書の次にあるので早い年代に書かれたと考えられていた。しかし、聖書の中の順番は年代順ではない。年代を決める決定的な証拠はなくても、適当に年代を決めるのがJWの習慣なんだよ。」

「8から10節が“エホバは罪を犯した人が悔い改めるようどのように助けるか”です。  8節はカインが取り上げられます。“聖書にはカインについて「行いが悪[かった]」と書かれています。(ヨハ一 3:12)”とあります。引照聖句には“カインは邪悪な者から出て,弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く,弟の行いが正しかったからです。”とあります。こんなことは創世記には書いていません。」
「初期のクリスチャンは自分たちが迫害されることを、カインとアベルの物語を使って説明していたようなんだ。悪い人間(カイン)は神から拒絶されて、正しいクリスチャン(アベル)が神から受け入れられるのを嫉妬し、迫害するという理解だね。次のヨハネ一 3:13は“兄弟たち,世の人々に憎まれても,驚くことはありません。”とある。」

「ヘブライ11:4には“信仰によってアベルは,カインの犠牲よりも価値のある犠牲を神に捧げ,その信仰のゆえに正しい人と評価されました。神はアベルの供え物を良いと認めたのです。”とありますが、同じ思想ですね。」
「これも創世記には書かれていないことを述べている。1世紀のクリスチャンの間に広がっていた理解なのだろう。」

「8節では“創世記 4:3-7を読む。”とあります。創世記4:4,5に“エホバはアベルとその捧げ物を好意的に見たが,カインとその捧げ物は好意的には見なかった。するとカインは激しく怒り,ふさぎ込んだ。”とあるのですが、これは誤訳ですよ。」
「協会共同訳では“主はアベルとその供え物に目を留められたが、カインとその供え物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。”だね。単に“見た”だけ。“好意的に見た”はおかしい。」

「“激しく怒り,ふさぎ込んだ。”もへんです。激しく怒っている人はふさぎこまないです。怒った人は攻撃的になるわけで、カインも実際にアベルを殺しました。ふさぎ込んでいません。」
「動詞の元の意味は“落ちる”。普通は視線を落とした、顔を伏せたという意味にとる。JWは気分が落ち込んだと解釈したのだろう。文脈に合わないし、間違い。」

「カインの殺人は神のえこひいきが原因ですよ。なぜ平等に扱えないのでしょうか?」
「神のすることには理由はない。出エジプト33:19に“私は,好意を示したい者に好意を示し,憐れみを示したい者に憐れみを示す。”とある。カインのように神の不公平にいちいち怒ってはいけないということだ。神はそういう奴なんだよ。」

「9節には常連のダビデが登場します。ダビデはいろいろ罪を犯したけれど、” ダビデが悔い改められるようエホバが愛情深く助けたことを考えると,うれしく思うのではないでしょうか。”、とあります。寝ぼけたことを言っています。ダビデの罪のおかげでどれだけ無関係な人がエホバに殺されかと思うと、少しもうれしくないです。」
「ダビデとバテシバの間に生まれた赤ちゃんは神によって殺されたね。赤ちゃんに何の罪があるの?ダビデが人口調査したら、サムエル二24:15に“するとエホバは,その朝から,決められた時まで,イスラエルに疫病を広めたので,ダンからベエル・シェバにかけて7万人の民が死んだ。”とある。これもひどい話。ダビデはクマに襲われるくらいひどい目に遭ってもいいはずなのになにもない。ダビデに対するえこひいきが酷すぎるけれど、神はそういう奴なんだよ。」

「10節に“エホバは罪を憎んでいて,どんな罪も大目に見ることはありません。(詩 5:4,5)”とありますが、サタンのことは大目に見ていますよ。」
「神が悪を罰するのは、聖書の中だけ。実際は単なる傍観者。」

「10節には“どんなに重い罪を犯した人であっても,悔い改めてご自分との絆を持てるよう助けたいといつも思っています。”といいかげんなことを言っています。根拠となる聖句はありません。」
「実際は助けるどころか、赤ちゃんや無関係な人を万単位で殺しまくる。」

「11から15節が“イエスの弟子たちは悔い改めについてどんなことを学んだか”です。 12節ではルカ15章にある“失われた息子の話”が出てきます。イエスは“天のお父さんエホバが進んで許してくださる方であることを教えました。そのことを際立たせるために,いなくなっていた息子の例え話をしました。”と説明しています。こんな理解でいいのですか?」
「この話は後半が重要。兄は父のことを非難するよ。兄は一見悪役のようだけれど、極めて律儀な、ユダヤ教的モラルに従順な人間。統治体に従順なJWのような存在だね。」

「イエスはイエスの話を聞いていた人にあなたは父親のように息子を受け入れるのですか、それとも兄のように拒絶するのですか、と問いかけているわけですね。」
「弟の方は異邦の国へ行き、異邦人に雇われて、豚を飼う仕事をしている。豚は汚れた動物なので、弟は宗教的な罪を犯したことになる。それで“お父さん,私は天に対しても,あなたに対しても罪を犯しました。”と言うわけだね。でも父は息子を受け入れる。これは宗教的には重大な問題行為。レビ記4章によれば犯した罪のために捧げ物をしなくてはいけない。父は祭司にいかなる贖罪の儀式を依頼していない。」

「イエスは聴衆に向かって律法に違反してまで息子を受け入れた父を支持するのか、律法に従い弟を拒絶する兄を支持するのか、と問いかけているのですね。」
「JWは当然兄を支持するよ。JWなら弟を背教者として拒絶し、父や弟と話すこともなく、自分こそ正しいと自己満足に浸りながら孤独で惨めな人生を送ることになるだろうね。」

「13節はペテロの否認の話が出てきます。そんなペテロをイエスは許したわけです。その根拠はマルコ16:7で“さあ,行って,弟子たちとペテロに言いなさい。『イエスは先にガリラヤに行っています。”と言う天使のセリフだそうです。わざわざペテロの名前を出してペテロが許されていることを示したのだそうです。』
「復活の話は福音書で違いすぎる。ここでペテロの名前が出てくるのはマルコだけ。マタイではイエスが“私の兄弟たちに報告しなさい。そうすれば彼らはガリラヤに行き,そこで私に会えます。”という。ルカではガリラヤに行きなさいという話自体が出てこない。ヨハネではイエス自身が“私の兄弟たちの所に行って,こう伝えなさい。『私は,私の父であなたたちの父である方,私の神であなたたちの神である方のもとへ上る』」”という。状況も話の内容もみな違う。」

「14節では、ペテロ二3:9の“エホバは……一人も滅ぼされることなく,全ての人が悔い改めることを望んでいるので,皆さんのことを辛抱しているのです。”が引用されます。JWではこれはペテロが書いたことになっています。」
「書いたのは偽ペテロ。神は滅ぼされることを望んでいないなら、滅ぼさなければいいだけ。神なんだから。でもJWは人類大虐殺の日を楽しみにしているわけで、神とは正反対だ。」

「14節には“悔い改めるなら,たとえ重大な罪であったとしてもエホバは許してくださいます。エホバの優しさに本当に心が温まります。”とありますが、元の英文はそんなこと書いていません。
「英文ではWhat a beautiful hope for Christians when they commit sins—even serious ones!だから、クリスチャンが罪を―それも重大な罪を犯したとき、それは何と素晴らしい希望なのでしょう、と言っている。滅茶苦茶改変しているね。日本の信者には裁きの神ではなく、エホバ=やさしい神というイメージを与えたようだね。」

「15節はサウロことパウロが出てきます。迫害者だったけれど悔い改めて、使徒パウロになったようです。」
「これは来週の記事へのつなぎだね。16節には“ある時パウロは,コリントのクリスチャン会衆で性的不道徳に関する重大な問題が起きていることを聞きます。パウロはこの問題をどのように扱ったでしょうか。”とある。」

「来週からの記事が重要で、この記事はそれの導入ですよ。」
「排斥問題が次週のテーマだね。これをどう書くかでもめて、8月号は発行が遅れたのだろう。ゴタゴタが多いのが統治体のようだ。」

聖書についての質問
2024年10月11日 15:05:44

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“私たちを救うためにエホバがしてくれたこと(31)”で、組織の言うことに従えば永遠の命がもらえる、という内容です。」
「これは8月号だけど、公表されたのは9月号の後だった。異例の事態。予定されていた原稿にまずい点があり、その修正に時間がかかったのだろう。」

「研究34では、審理委員会を“長老委員会”に名称変更し、研究35では、排斥されたとは言わずに“除かれ”た、と変更することが書かれています。排斥と復帰に関する名称とルールの変更が8月号の主な内容です。」
「研究31から33では神は罪人を許す神と強調し、34と35で排斥と復帰の方法とを説明している。排斥はより慎重に、復帰はより簡単に、という変更のようだけど、本質は変わらない。」

「ノルウェーで排斥問題のため、政府から補助金を貰えなくなったことで、このような小手先の変更をしたわけですね。」
「組織は不当だ、金くれ、とノルウェー政府を裁判に訴えたけれど、あえなく敗訴。恐らく本部の法務部の助言に基づいて、8月号の内容を修正をしたので、公表が9月号の後になったのだろう。」

「1節は“エホバ神はあなたのことをどれほど愛していると思いますか。”で始まります。2節には“エホバは,罪深い人間がご自分と友情を築けるよう約6000年にわたって助けてくれています。 どうしてでしょうか。 私たちを愛しているからです。”とあり、エホバ=愛と強調しています。」
「エホバは大虐殺の張本人ということは忘れたわけだね。“ご自分と友情を築けるよう”は英文にはない翻訳者の勝手な追加。聖書に神と友情を築くという思想はないよ。」

「3から5節が“エホバは罪を負った人類にどのような希望を与えたか”です。 3節はエデンの園の話です。“エホバは, 2人が故意にその命令を破って罪を犯すなら死ぬことになると警告しました。 ”とありますが、正確ではありませんね。」
「正確には“善悪の知識の木の実は,食べてはならない。それを食べた日にあなたは必ず死ぬからである。”と言った。アダムはその日に死ぬことはなく900年以上も生きたことになっている。“その日に”を意図的に省略しているね。」

「3節では“邪悪な天使が,罪を犯すよう2人を誘惑しました。”とありますが、英文ではAn invisible spirit(見えない霊)です。翻訳者は霊が嫌いですからね。」
「創世記では邪悪な天使とも見えない霊とも書いていない。野生動物のヘビとあるだけ。エデンの話が書かれた頃は天使とか悪魔サタンという思想はない。それはずっと後の時代に考え出されたもの。」

「3節に“その日から2人は罪の結果として老いていき,やがて死にました。”とありますが、これも正しくありません。死んだのは命の木の実を食べ損なったからです。」
「創世3:24に“こうして神は人を追い出し,ケルブたちと,回転し続ける炎の剣とをエデンの園の東に配置して,命の木への道を守らせた。”とある。これは命の木の実を食べられないように意地悪をしているわけだけど、そんな意地悪をしたのは命の木の実を食べたら永遠に生きるからでしょう。それは絶対阻止するぞ、という神の悪意を感じるね。」

「4節に“エホバはアダムとエバの子孫の将来について思い描いていたことを諦めてしまうのではなく,愛する人間のためにすぐに希望を差し伸べました。(ローマ 8:20,21を読む。)”とあるのですが、引照聖句はそんなことを言っていません。」
「そこには“創造物はむなしい状態に置かれましたが,自分の意志でそうなったのではなく,神によってそのようにされ,同時に希望を与えられたからです。”とある。この希望とは何かというと、ローマ8:23,24では“心の中でうめきつつ,贖いによって自分の体から解放されて養子になることを一心に待っています。 私たちはこの希望を抱いて救われました。”とある。単純に言うと、キリストの犠牲によって罪から解放されるという希望だね。」

「この場合、罪というのはアダム以来の神への不服従という意味ではないですよ。」
「ローマ書でパウロは罪を2通りの意味で使っている。一つは神のルールに違反したので有罪だ、というような罪。もうひとつは、ローマ5:21に“罪が死と共に王として支配したように”とある。6:11では“同じように皆さんも,罪に関しては死んだものの”、6:18では“皆さんは罪から自由にされたので”とある。ここで言う罪は人間支配し、神に背かせるような超自然的な力のこと。死も同じで、普通の意味の死のほかに人間を支配する超自然的な力という意味で使われている。」

「ローマのクリスチャンはそういう超自然的、あるいは悪魔的な力から自由になったという意味で、罪から自由になった、罪関して死んだ、とパウロは言っているわけですね。」
「そうなんだけど、JWはそう言うことは全く理解してないよね。」

「5節では“創世記 3:15を読む。 エホバがサタンに刑を宣告した時,人類に希望の光が差し込みました。エホバは 「子孫」 と呼ばれる者が希望の鍵となることを予告しました。 ”とあります。創世3:15は“彼はあなたの頭を砕き,あなたは彼のかかとに傷を負わせる。”というものですが、これがどうして希望なのか理解できません。相互に傷つけあうといっているだけです。」
「彼とはキリストを指すと後の時代の人が解釈して、希望のメッセージと読んだというだけ。」

「善悪の木の実を食べたらその日に死ぬと言っておきながら、アダムにもエバにも違うことを言って、エデンから追放しただけです。いいかげんな神です。」
「複数の話を一つにまとめたから矛盾する話になっている。例えば、創世2:23で“これは女と呼ばれる。”と、名前を付けたのに、3:20では“アダムは妻をエバと名付けた。”と2回目の名前を付ける話が出てくる。これは2つのストーリーを一つにまとめたので、2回も名づけが行われた。アダムたちの服も、イチジクの葉で作ったという話と神が皮で服を作ったという話が2回出てくる。」

「6から8節が“罪を負っていた聖書時代の人たちは,どのようにしてエホバから正しいと認められたか”です。 最初に登場するのはアベルです。6節では“エホバはそのような犠牲を受け入れ,罪を負った人間も正しいと認められてご自分との絆を深めることができるということを示しました。”と、犠牲を捧げる=罪の許しという公式があるようです。この理屈は理解できません。動物を殺して、その脂肪を焼くといい匂いがして、神の怒りが鎮まるので罪が許されるわけですか?」
「創世8:20,21には“それからノアはエホバのために祭壇を作り,清い動物と清い飛ぶ生き物の幾らかを祭壇に載せ,全焼の捧げ物にした。 エホバは心地よい香りを嗅ぎ始めた。それでエホバは心の中でこう言った。「私は二度と,人がしたことを理由に地面に災いを下したりはしない。・・・”とある。肉の焼ける匂いで神の怒りを鎮めるという発想があるね。」

「その他には肉を食べられるのは神のおかげだから、感謝して肉の一部を神に返すという思想もありますよね。それがルール化されて、そうしないと罪になるわけです。罪がどんどん増えて行きます。」
「神は宇宙の支配者だから、一方的に罪を許すと宣言すればそれで済むはず。でもそうしたくないようで、罪を許すための複雑なルールを設定した。それが律法だけれど、それが成立したのはだいぶ後の時代。初期のころは犠牲を捧げるはそれほど重視されていなかった。」

「創世18章に、アブラハムの所に3人の人が訪問するという話があって、若い牛を屠って肉を食べるわけですが、これは食事のためで宗教色は全くありません。19章ではソドムの町にいるロトを二人の天使が訪れるのですが、ごちそうを食べたとあるだけです。」
「まず神に感謝して動物の犠牲を捧げましょうとはなっていない。ただ食べるだけ。アブラハムの時代では動物の犠牲がそれほど重視されていなかったと推測できる。」

「7節はアブラハムに息子のイサクを犠牲にするように命令した話がでてきます。これについて“この出来事から,信仰を持つ全ての人は大切な点を学べます。エホバは,愛する独り子を犠牲として進んで差し出してくださいました。”とあります。これって訳がヘンですね。」
「Jehovah would be willing to offer his own beloved Son as a sacrifice.だから、エホバはご自分の愛する息子を犠牲として捧げることをいとわない、という重要な真理を教えていますと書いてある。イサクを犠牲に捧げる話はそんなことを教えていないよ。」

「創世22:1には“真の神はアブラハムを試した。”とあります。それで息子を殺すように命じたわけです。残酷で頭がおかしい神です。」
「それに文句も言わずに従うアブラハムも頭がおかしいと現代人なら思うね。子どもを犠牲に捧げることがごく普通に行われた時代の話なんだろうね。」

「8節に“エホバは愛する子を犠牲にしてまでも,人類を罪と死から救うと決めたのです。 それはあなたを救うためでもあります。”とあるのですが、宇宙のルールを決める神なのになぜ、そんな面倒くさいことをしなくてはいけないのか理解できません。」
「人類の罪を許すと宣言すればいいだけのこと。それからイエスはJWの教義では天使ミカエルじゃないの?無数にいる天使の一人じゃないの?」

「9から14節が“イエスは人類を救うために何をしたか”です。 9節には“ヘブライ 9:22; 10:1-4,12を読む”とあります。そこには“キリストは,永遠に罪を取り去る1つの犠牲を捧げて神の右に座り”とあり、キリストの犠牲で永遠に罪が取り去られたようです。」
「9節に“バプテスマを施す人ヨハネは, ナザレから来たイエスについて 「見なさい,人類の罪を取り去る,神の子羊です!」 と言いました。 (ヨハ1:29)”とあるけれど、他の福音書では違うよ。」

「マタイ11:2,3には“ところで,ヨハネは牢屋の中でキリストの活動について聞き,自分の弟子たちを遣わし,イエスに尋ねた。「あなたが,来ることになっている方ですか。それとも,ほかの方を待つべきでしょうか」。”とあります。ここではバプテスマのヨハネはイエスについてよくわかっていないことになっています。」
「マタイは酷いよね。マタイ3:14に“しかし,ヨハネはとどめようとして言った。「私こそあなたからバプテスマを受ける必要があるのに,あなたが私の所に来られるのですか」。”とあるようにイエスこそ来ることになっている人と認めているのに、マタイ11章では、そのことを忘れたかのようにイエスに尋ねている。不自然な物語構成。」

「ルカ7章にも同じようにイエスに尋ねる場面があるのですが、マタイ3:14のような場面はありませんから、不自然さは少ないです。」
「マタイは話の不自然さに気づいていたと思うけれど、マタイ3:14の場面を削りたくなかったのだろう。聖書作者は話の矛盾とか不一致をあまり気にしない。」

「10節はイエスが“罪人として知られていた男性や女性を進んで助けました。”とあり、そのいくつかの例が出ています。」
「13節までがイエスの話が続く。イエスをこんなに取り上げるのは珍しいね。エホバ教をやめてキリスト教になるつもりなのか?」

「13節には“神は,自分の独り子を与えるほどに人類を愛したのです。”とヨハネ3:16を引用していますが、これは意図的な誤訳です。」
「JWの英訳ではGod loved the worldで、神が愛したのはこの世。でも翻訳者はそれが気に入らなくて、人類に変えたわけだ。改ざんだね。」

「13節の下に、イエスが杭を背負っているイラストがあるのですが、それがとてつもなく長いもので、背負えるようなものではないことをきちんと書いて欲しいです。」
「JWは一本の長い杭に両手を伸ばした状態で釘付けになっていると想定し、そういうイラストを描いている。そうすると地上に出ているだけでも杭の長さは身長より相当長いことになるし、地面に埋まっている部分を加えると杭の長さは身長の2倍以上で、引きずるように持つしかない。むち打たれて相当傷ついて状態のイエスには無理だね。」

「本当は十字架の横木を持って行ったわけですね。」
「それだと自分の身長程度の長さにおさまる。」

「14節では“イエスの犠牲ほど,エホバがアダムとエバの子孫を愛していることを示すものはありません。それは,エホバがあなたのことを本当に愛している証拠でもあります。 ”と、イエスの犠牲=あなたへの愛としていますが、納得できません。“あなた”をわざわざ太字にして信者の感情に訴えようとしています。」
「全人類のために死んだというだけでは全然個人に響かないと思って、あなたのことを愛している証拠です、としたのだろう。イエスの死をイエスが死んだ当時存在もしていない個人を愛している証拠とするのは無理があるね。」

「最後の15節は“罪と闘い,優しいお父さんエホバとの絆を深めたいと本当に思っているなら,悔い改めることが必要です。”と悔い改めの要求です。エホバは少しも愛情深くないことがわかります。徹底的に悔い改め土下座して謝罪をしないと絆を深められないわけです。」
「そんな神様とは縁を切ろう。」

ジョエル
2024年10月04日 23:14:32

旧約は亡国の歴史を歴史家ではなく宗教者が事後にまとめた資料なので大抵の王は悪く書かれますよね。

ユダ王朝滅亡の流れを決定づけたとされる、ヤハウェ崇拝の宗教改革者でもあったはずのヨシヤの敗死(このあたりから旧約と古代オリエント史の整合性がほぼ取れていますが、JW歴史はエルサレム陥落をBC607にしているのでカルケミシュの戦いやらニネベ陥落やら何から何まですべて20年ずれている)も「神の口から出たネコの言葉を聞かなかった」からだと、意味不明の苦しい理由が挿入されています。

十字軍にエルサレムを奪還されてアラーの加護があるはずなのになぜキリスト教徒に負け続けるのかと問われれば、宗教者は王たちがツミブカイからだと、神が無力なのではなく指導者を悪者にするしかない、一神教の思想は同じです。

聖書についての質問
2024年10月04日 14:25:30

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“イスラエルの王たちから学べること(30)”で、古代の王様の話を取り上げて、組織に従えと信者に強要する内容です。」
「聖書によると古代のイスラエルの王たちにはろくな人がいないことになっている。これは宗教原理主義者の評価だから、相当偏った評価。今だと、JWの統治体がアメリカ大統領を評価するようなもの。」

「3節に“この記事では,エホバがイスラエルの王たちのどんな点に注目していたかを考えます。心の全てがエホバに向いていたか,罪を心 から悔い改めていたか,真の崇拝をしっかり支持していたかという3つの点です。”と要約してくれています。」
「英文ではthree factors that Jehovah evidently took into considerationで、エホバが明らかに考慮された3つの要素と言っている。”明らかに”が出てくるときは根拠がない時なんだよね。この3つを注目していたなんて言う聖句はない。」

「4から7節が“心の全てがエホバに向いていたか”です。 4節では“良い王だったエホシャファトは「心を尽くしてエホバに仕え」ました。(代二 22:9)また,ヨシヤについては聖書にこうあります。「ヨシヤのように……心を尽くし[て]エホバのもとに戻ろうとした王は後にも先にもいなかった」。(王二 23:25)”とあります。」
「エホシャファトについては、列王一22:43では、“しかし高い場所は取り除かれなかった。民は依然として高い場所で犠牲を捧げたり,犠牲の煙を立ち上らせたりしていた。”とあるよ。これは問題ないわけね。」

「“高い場所”とはどんなものですか?」
「山の頂上など高い場所にある宗教施設で、多くは柱のような石が置かれていた。その石に神が宿るとされていたようだね。そばに祭壇があり、そこで犠牲を捧げていたと思われる。」

「歴代二17:6には“彼は意欲的にエホバの道を歩み,高い場所と聖木をユダから取り除いた。”とあります。“高い場所”は問題なので、後の時代に書かれた歴代誌では修正したわけですね。」
「列王記ではエホシャファトは一の22:1-36、41-50に書かれているにすぎないけれど、歴代誌では二の17:1から20:37までとなんと4章も費やして書かれている。歴代誌ではエホシャファトは理想化された王になっているけれど、史実性はほとんどないでしょう。」

「歴代二17章によると、エホシャファトの軍勢は116万人です。サムエル二24:9にはダビデ時代の人口調査でユダには50万人いたことになっています。100年もしないうちに2.3倍以上になっていることはあり得ません。それだけの人口増加に伴う食食糧生産の伸びがなければ大多数は飢え死にします。」
「ダビデ時代にユダに50万人の男性がいたことさえありえない。それをさらに誇張したのが歴代誌。古代では農業の生産性の伸びはほとんどないわけで、人口増加の余地もほとんどない。人類の人口が急激に伸びるのは産業革命以降。」

「ヨシヤ王は良い王の代表ですが、その最後は列王二23:29に“ヨシヤ王はネコに立ち向かおうと出ていった。ヨシヤを見たネコは,メギドでヨシヤを殺した。”と言うものです。良い王でもエホバは何もしてくれません。」
「歴代二34:28では“私はあなたを先祖たちと共に横たわらせ,あなたは安らかに自分の墓に入る。”と女預言者フルダが神の言葉を伝えている。ここで言う“あなた”とはヨシヤ王のこと。ヨシヤ王の死は安らかじゃなかったよ。良い王に対する約束も守っていないよ。」

「6節が現代のJW向けの指示です。“例えば,息抜きをする時に不健全なものを見たり聞いたりするなら,心がエホバからそらされることがあります。良くない交友や,お金や物を愛する考え方にも注意が必要です。”というものです。これはイスラエルの王とは無関係ですよ。」
「イスラエルの王の話は、聖書を学んでいるという幻想を維持するためにあるだけだね。信者を管理統制するというのがこの記事の主旨。」

「7節も現代のJW向けの指示です。” 世の中には,冷たい「空気」のような,神を敬わない態度が広まっています。それで,良くない影響が入り込んで心がエホバからそれてしまうことがないように,いわばドアを閉める必要があります。(エフェ 2:2)”というものです。JW以外の人と付き合うな、JW以外の情報を締め出せ、というカルトらしい指示です。」
「JWをやめた人にはドアを閉めて付き合うなということでしょう。そうしないと信仰が維持できないほどJWの信仰はもろくて崩れやすいからだね。」

「引照聖句に“人々に影響を及ぼしている空気の支配者に従って歩んでいたのです。その空気つまり精神は,不従順な人たちに行き渡っています。”とありますが、誤訳ですよ。“空気の支配者”ってなんですか?酸素の量を調整しているのですか?“空気つまり精神は”は翻訳者が付け加えた説明ですよ。」
「JW訳の英文はthe ruler of the authority of the air, the spirit that is now at work in the sons of disobedience.となっている。the airは空気ではなく、空、空中でしょう。空気なら単なるairだよ。the spiritは精神ではなく霊。」

「空気の支配者ではなく、空中という領域にある権力という意味なわけですね。つまり悪魔のことです。」
「協会共同訳では“空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な子らに今も働く霊に従って歩んでいたのです。”だね。JWの日本語訳は“霊”を嫌って、勝手に“精神”に変えているのがおかしいね。」

「8から11節は“罪を心から悔い改めていたか”です。 ダビデとヒゼキヤが出てきます。二人とも心から悔い改めたそうです。ダビデの場合、その根拠が“詩編 51編の表現を見ると,心から悔い改めていたことが分かります。”というものですが、詩編51はダビデが作者ではないですよ。」
「表題にダビデの歌とあるけれど、それは後の時代に付け加えられたもの。内容からして、ダビデの時代でない。」

「詩編51:18,19は“憐れみを掛け,シオンに善いことを行ってください。エルサレムの城壁を築いてください。 その時,あなたは正しく捧げられる犠牲を喜びます。”とあります。これはエルサレムの城壁が壊され、犠牲を捧げる儀式が正しく行われていない時代のことですよ。」
「詩編51はバビロン捕囚後につくられたもので、個人の懺悔ではなく集団の懺悔だね。」

「10節がアマジヤ王の話です。“ユダのアマジヤ王は正しいことを行いましたが,「心を尽くしてはい」ませんでした。(代二 25:2)”とあります。11節が現代のJWへの教訓ですが、これまたほとんどそれまでの話と関係ありません。」
「11節には“もし,ささいに思えるような点について会衆の長老たちから助言を受けたならどうでしょうか。”と問いかけているけれど、3人の王は些細なことで助言を受けたわけじゃないよ。長老は古代の預言者に相当する人物でもないでしょう。」

「11節の教訓は“間違いを正された時,(1)謙遜に受け入れ,(2)必要な調整を行い,(3)心を込めてエホバへの奉仕を続けてください。”というものです。なにがあっても奉仕を続けなくてはいけないわけです。」
「間違いを正された時、反省の意を表すために、1年ほど集会に行かず自宅に謹慎するというのもありだと思うよ。JWは集会が大好きだから本当につらいだろうけどね。。」

「12から19節が” 真の崇拝をしっかり支持していたか”です。 12節に” エホバは真の崇拝をしっかり支持した王たちを忠実な人と見ました。”とあります。王の評価は宗教政策だけで決まるというようです。」
「それは列王記や歴代誌を書いた人が宗教原理主義者でそれ以外の尺度を持っていない偏った人だったということ。」

「13節は“邪悪な王アハブ”が取り上げられています。“よく知ら れている通り,妻の影響を受けて間違った崇拝を広めました。”とありますが、現代風に言えば寛容な宗教政策をとったということじゃないですか?」
「アハブの支配した地域にはかなりの数のカナン系の人がいた。彼らの宗教を否定し、イスラエルの宗教を強要すれば国の安定が損なわれる。それは今でいえばイスラム教の人が相当いる国でキリスト教を押し付けるようなもの。」

「アハブは賢明な王ということですね。でも宗教原理主義者から見ると、なぜイスラエルの宗教をカナン人に押し付けないのか、と憎まれたわけですね。」
「聖書の作者は宗教にしか関心がない人。前853年に、アハブはアッシリア軍とシリアのカルカルで、シリア・パレスチナ連合軍の一員として戦って、アッシリア軍を退けたことが、アッシリアの年代記に記録されている。当時の大戦争だったはずだけれど、聖書は全く無視している。悪役としてアハブを描くことしか関心がない。」

「16節が現代のJWへの教訓です。“どんなことを学べるでしょうか。私たちは間違った崇拝を避けることを決意していなければなりません。それだけでなく,真の崇拝をしっかり支持し,それに励む必要もあります。”とあります。JW活動に励む必要があるようです。」
「16節の最後では、“エホバに仕えるのをやめるなら,それは重大な罪になってしまいます。”と脅迫している。カルトらしいね。JWをやめると間もなく滅ぼされるわけだ。」

「17節で突然結婚相手の話になります。“ある人に魅力的なところがあるとしても,エホバに仕えていないなら,今その人はエホバから見て正しい人といえるでしょうか。”と言っています。つまりJW以外の人と結婚するなということですね。」
「となると、女性の多いJWでは、半分くらいの女性JWは結婚できないということになる。誰と結婚するかも自分で決められない宗教はさっさとやめよう。」

「18節は親に向けてです。“聖書を学ぶこと,集会や伝道に参加することなど,エホバとの絆を強める活動を何よりも優先させてください。そのようにする大切さを言葉や手本によって教えましょう。(マタ 6:33)そうしないなら,子供たちは「自分がエホバの証人なのは家の宗教だから」と考えるようになるかもしれません。”とあります。JWの子どもがJWをやっているのは親がJWだからなのは当たり前じゃないですか?」
「その当たり前のことを否定しようという訳だ。子どもがJWなのはエホバが大好きだからです、と思わせたいようだね。でも、JW以外の家に生まれたらJWになんか絶対ならない。家から出られるような年齢になったら、さっさと家を飛び出し、JWと縁を切るのが大多数だよ。」

「19節は、JWをやめた人に向けてです。“悔い改めてもう一度エホバのもとに帰ることは可能です。でも,そのためには長老たちの助けを謙遜に受け入れなければなりません。”とあります。」
「JWに戻るのなら、JWの言う“大患難”が始まってからの方がいいよ。それでも楽園に行けるというのが現在の教義。焦ってJWに戻って、長老にこき使われる必要はないよ。」

「19節の下に“あなたもエホバのもとに帰ることができます”という囲み記事があります。マナセ王の話です。マナセ王は悪いことを色々し、“捕らえられてバビロンに連れていかれた時”に“苦難の中,「謙遜にな」って「祈り続け」ました。その結果どうなったでしょうか。エホバはマナセの祈りを聞いて,「その懇願に心を動かされ」ました。そしてマナセを許し,エルサレムに帰らせ,王位に復帰させました。(代二 33:12,13)”とあります。すぐに諦めず、しつこく祈ることが大事のようですが、このマナセの話は史実性ゼロですよ。」
「マナセはアッシリアが全盛期だったころの王で、アッシリアの忠実な臣下だった。アッシリアの宗教も積極的に取り入れた。そうしなければちっぽけなユダ王国はたちまち滅ぼされたよ。マナセは50年以上も君臨し、平和を保った。宗教原理主義者から見れば悪い王だけど、一般のイスラエル人からみればとてもいい王。」

「アッシリアが捕らえたマナセ王をなぜアッシリアではなくバビロンに連れて行くのですか?これは歴代誌にしか書かれていないことですが、バビロン捕囚と混同していますよ。」
「歴代誌二33章には、マナセがバビロンに連れていかれて、回心し、帰国後異教崇拝を排除したことが書かれているけれど、これは最も悪い王が50年以上平安の内に君臨したという不都合な真実を、宗教原理主義の立場から合理化するための創作と見るべきで、アッシリアの記録にもないし、史実性はない。」

「最後の20節の結論は“大切なのは,忠実な王たちのようにエホバだけに心を向けて仕え続けることです。”というものです。でも、最も忠実な王はヨシヤ王ですよ。列王二23:25では“ヨシヤのように,モーセの律法全てに従って,心を尽くし,力を尽くし,自分の全てを尽くして,エホバのもとに戻ろうとした王は後にも先にもいなかった。”と絶賛しています。でもその最後はエジプトの王によって殺されるという悲惨なものです。」
「そういう訳で、この記事ではヨシヤ王のことは軽く触れる程度。不都合だからだね。まあ、エホバに使え続けても、ろくなことにはならない。これが古代イスラエルの王から学べることだね。」

聖書についての質問
2024年09月27日 14:50:19

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“誘惑に負けないように用心する(29)”で、ポルノを避けるようにという内容です。」
「ポルノはJWのお気に入りのテーマだね。ポルノを見ている人は間もなくハルマゲドンで殺されます、とはっきり書いてくれたら、ポルノ大好きなJWも多少控えるかも。」

「JWにとってポルノはあたかも人類最大の問題のようです。」
「ポルノ好きのJWを誘惑に弱いダメな人間と思わせて、組織に依存するよう仕向ければ組織としては満足なのだろう。」

「1節に“「もっとも,心は強く願っていても,肉体は弱いのです」。*(マタ 26:41後半)この言葉から,イエスが私たちの弱さを理解してくれていることが分かります。さらに,自信過剰に気を付けなければいけないということも学べます。”とあります。脚注を見ると“正しいことをしたいという気持ちを指して「心」という表現を使いました。そして,「肉体」という表現を使って,人間は罪深くて完璧ではないので,悪いことを考えたり行ったりすることがある,ということを強調しました。”とあります。違いますよ。そこに書かれている通りの意味ですよ。」
「まず英文ではspirit(霊)で、それを“心”に変えている。霊は心ではない。このイエスの発言は、精神は気高くとも肉体的な弱さを抱えているのが人間だと言っている。」

「さらに1節では“でも,恐れを感じると,その決意が簡単に揺らいでしまうということに弟子たちは気付いていませんでした。それでイエスは,「ずっと見張っていて絶えず祈り,誘惑に負けないようにしていなさい」と言いました。(マタ 26:41前半)”と言っていますが、違うでしょう。」
「“誘惑に負けないように”と言うのは、イエスが弟子たちが寝ているのを見てペテロに向かって言ったもの。眠ってしまいたいという誘惑に負けないようにという意味。でも、弟子たちは26:43で再び眠ってしまう。眠たさに負けてしまった。肉体は弱いね。」

「4から7節が“どんな分野で用心するか”です。 具体例として出てくるのが、“また,マスターベーションをすることやポルノを見ることなど,汚れた行いに強く引かれる人もいます。”です。小さな子どもに対する配慮が全くないのがJWです。」
「集会中に子どもが、“お母さん、マスターベーションってなあに?”と聞いたら、どう教えるのか知りたいね。」

「マスターベーションを禁じる聖書的根拠はありませんよね。」
「誕生日はダメとか、ヒゲはダメというのと同じで、聖書的根拠はない。でも、塔11/11の“性に関する10の質問とその答え”と言う記事に、“しかし,クリスチャンに対して,「淫行,汚れ,[みだらな]性的欲情……に関して,地上にあるあなた方の肢体を死んだものとしなさい」と命じています。―コロサイ 3:5。”とあり、コロサイ3:5がマスターベーション禁止の根拠のようだ。でもこれは拡大解釈だね。」

「その記事のその次に“マスターベーションは,性に対する歪んだ自己中心的な見方を助長します。”とありますが、根拠はありませんね。単なる決めつけです。」
「“あなたの若い時代,それから最善のものを得る”と言う本の第5章“マスターベーションと同性愛”には、“実際,マスターベーションは同性愛に至ることがあるのです。”と、見てきたようなウソを書いている。性に関して根拠のないデタラメを言うのがJW。」

「これほどマスターベーションとポルノを取り上げるのに、児童性的虐待は取り上げません。優先順位がおかしいです。」
「性の問題を取り上げるのは、組織は個人の私生活に対して無制限に介入できることを示すためで、性犯罪をなくしたいわけじゃない。」

「8から16節が“どうすれば誘惑から自分を守れるか”です。 8節で“格言 7章に出てくる若者の例から学びましょう。その若者は不道徳な女性と性的不道徳を犯しました。”とあります。性的な問題がしつこく取り上げられます。」
「格言7章は若者が女性に誘惑されるという話だけれど、JWなら若者に焦点を当てるのではなく、誘惑する女性に焦点を当てるべきだよ。」

「独身中年の不気味な姉妹が同じ会衆の少年に手を出すという話はありますからね。そういうことはやめろとこの記事ではっきり書いて欲しかったです。」
「楽園が来たらみな若くなるから年の差なんて関係ないというJW特有のトンデモ理論がそういうことを助長させている。それは少年に対する性的虐待。そういうことに厳しく対処しないと、若い人はますますいなくなるよ。」

「8節に“22節には「突然」その女性に付いていったとあります。でも,前の部分を見ると,若者が幾つかの段階を踏んで徐々に罪に近づいていったことが分かります。”とあります。格言7:22は “突然,彼はその女性に付いていく。ほふられに行く雄牛のように。足かせ台に行って罰せられる愚かな人のように。”ですが、後半の訳がヘンですよ。」
「協会共同訳では“屠り場に行く雄牛のように/罠に急ぐ鹿のように。”となっている。JW訳のもとになっているヘブライ語の読み方は古い昔の読み方。“足かせ台”と訳されているヘブライ語にはそのような意味はない。ヘブライ語の本文が破損しているということだね。ここは若者を動物にたとえているところなので、JW訳はおかしい。」

「10節に“ソロモンが書いたことは,エホバを崇拝している人の誰にでも起き得ることです。”とあり、格言の作者をソロモンとしていますが、違うでしょう。」
「仮にソロモンが作者だとしても、ソロモンは1000人の女性を抱えていた王だよ。そんな人が性道徳を説くこと自体バカバカしい。お前がゆうな、と言われるだけ。」

「11節で“どんなことを学べるでしょうか。罪を犯すことだけでなく,それにつながる行動も避ける必要があります。”と言っています。また、“罪につながる状況から遠く離れているようにしましょう。”と言っています。これはポルノ禁止を正当化するための詭弁ですね。」
「滑りやすい坂の詭弁というもの。JWがよく使うね。滑りやすい坂では一歩でも踏み出したら、滑って坂道を転げ落ちて死んでしまうから、一歩も近づくなと禁止を正当化する。ポルノを一度見ると、そのままずるずる進んで性犯罪者になるから、ポルノは一切ダメといっているようなもの。」

「11節では“また,「彼女から遠く離れていよ。彼女の家の入り口に近づいてはならない」とも書きました。(格 5:3,8)”とあります。そういうことなら、集会でも男女別に分けるのはどうでしょうか?男性席と女性席を指定するのです。」
「それでもまだ危険だ。女性は全員ズームで参加することにしたらいいよ。集会参加は男性だけの特権とする。イスラム教を見倣おう。完全に男女が一緒になることがないようにしないと会衆の全員が淫行の罪を犯して、間もなく滅ぼされることになる。命を守るために、直ちに完全に男女を分離しよう。」

「12節にはヨブが登場です。“ヨブは女性をみだらな目で見たりしないように,「自分の目と契約を結」びま した。(ヨブ 31:1を読む。)そのような強い決意を持っていたので,姦淫を犯す危険から遠く離れていることができました。”とあります。しかし、ヨブの時代は一夫多妻が認められていたわけですよ。このヨブの態度はその時代にそぐわないですよ。」
「ヨブは子どもたちを全員殺されてしまうけれど、新たに10人の子どもをもうけたことがヨブ記42章にある。この10人をヨブの妻一人で産んだとは考えにくい。この物語の初めの時点でヨブの妻はそれほど若くないよ。ということは、ヨブは病気が快復した後、好みの若い女性を何人か妻に迎え、それぞれに子どもを産ませたというのがもっともありそうなこと。」

「ヨブ31:1には“私は自分の目と契約を結んだ。だから若い女性に対して不適切な関心を向けることなどできない。”とありますが、第2、第3の妻にするためなら、若い女性に関心を持っても、それは不適切な関心を向けたことにはならないわけですね。」
「訳がヘンだよね。“不適切な関心”なんてJW用語みたい。そんなことをヨブは言わないよ。協会共同訳では“どうしておとめに目を注ぐことがあろうか。”となっている。」

「13節には“私たちはどんなことを考えるかにも注意を払う必要があります。(出 20:17)良くない空想にふけっても,実際に行動に移さなければ問題ないと考える人もいます。でもそれは間違っています。”とあり、信者の空想まで管理するつもりです。」
「性的な空想をしていると、性犯罪者になる、というのがJWの理論なんだよ。もしそれが本当ならこの世は性犯罪者だらけになっている。」

「14節では“エホバのおきてを守ることは必ず自分のためになる,という強い確信を持つことが大切です。”とあります。ここでいう“エホバのおきて”とは組織が決める恣意的なルールのことですよ。それが必ず自分のためになるなんてことはありません。女性はスカートでなくてはいけないというルールは女性のためになりましたか?なりませんよ。」
「何と言っても輸血に関するルールは自分のためにならないことは明白。自分を大事にする人はJWをやめよう。」

「16節では“クリスチャンの活動にできる限り打ち込むことです。集会や宣教に参加している時には,悪いことをしたいという誘惑は感じにくくなり,エホバに喜んでもらいたいという気持ちが強くなります。”とあります。それはウソでしょう。集会中に良からぬことを考えるJWはたくさんいますよ。」
「JW活動のことを“クリスチャンの活動”と呼ぶのはヘンだよ。教会ではなく王国会館、十字架ではなく杭と変更し、クリスマスは絶対祝わないくせに、なぜかクリスチャンとは呼ばれたがる。エホバの人でいいでしょう。」

「悪いことをしないように、誘惑に会わないように、JW活動をするというのはヘンな理屈です。」
「それぐらいしかJW活動の意義はないのかも。」

「17から19節が“いつも用心している”です。 16節で終わっていいのに、この記事は無駄に長いです。17節ではペテロがダメな例として取り上げられています。」
「でもペテロはポルノの話とは関係ないよ。おかしいよ。」

「18節が体験談です。やっと出てきました。“10年間ポルノを見なかったので,もう大丈夫だと思っていました。でも,ふとした時にポルノを見たいという衝動に駆られることがあるので,油断できません。”とあります。ポルノの怖さを誇張していませんか?」
「誇張しているね。ポルノは麻薬と同じです、と言っているようなもの。」

「宗教とポルノ依存に対する自己認識に関連性があるんですよね。」
「信心深い人々ほどその実体に関わらず、自らをポルノに依存していると信じ込む傾向にあるようだ。宗教は人間の罪悪感を増幅させるということだね。」

「19節に“格言 28章14節にある通り,「いつも用心している人は幸福」です。”とありますが、この訳はヘンじゃないですか?」
「“用心している”が問題だね。“恐れる”でしょう。同じ単語が格言3:24で使われているけれど、JW訳でも“横になる時,恐れを感じることはない。”と訳しているよ。協会共同訳では“幸いな者とは常に主を畏れる人。”となっている。これが妥当な訳でしょう。」

「JW訳は簡単な文でも信用できないことがよくわかりますね。」
「JWにとって聖書は自分たちの教義を裏付ける道具だから、しばしば教義に合わせて訳も変える。“いつも用心”はJWのお説教に使えるからね。」

「最後の20,21節は“いつも用心していることには大きな価値がある”です。 20節で“罪に伴うどんな「つかの間の快楽」も,エホバの基準に沿って生きることから来る幸せとは比べものになりません。”と根拠のないことを言っています。エホバの基準に従って生きることは少しも幸せではないので、基準自体が時々変わるわけですよ。幸せなら基準を変える必要はありません。」
「JWがいうエホバの基準って具体的にどんなことか書いて欲しいね。そうしないのは、具体的に書けば幸福とは無関係だということがはっきりわかるから。それで、いつも抽象的に言うだけ。」

「その後に“私たちはエホバに従って生きることで幸せになるように造られているからです。(創 1:27)”と言っていますが、引照聖句はそんなことを言っていません。“それから神は人を自分に似た者,神に似た者として創造した。”とあるだけです。」
「その聖句からは、少なくとも人間は奇妙なカルト組織に従って生きるようには作られていないということは言える。幸せになりたいなら、さっさとやめようJW。」

聖書についての質問
2024年09月20日 15:58:38

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“真理を見分けていますか(28)”で、JWにとってよくない情報はニセ情報だから信じるな、統治体は頼りなく見えても信じろ、という内容です。」
「裁判で組織が負けたり、長老が性犯罪でつかまったりというニュースが続くと組織は予想していて、それに対するダメージコントロールを予めしておこうということだね。」

「1節で、いきなり“私たちは,「教え導いている人たち」が聖書の真理を説明したり,神の意志に沿って指示を与えたりする時,喜んで従います。(ヘブ 13:17)”と、上からの指示に従えという命令です。」
「命令文ではないけれど、そうしないと虐められたり排斥されるわけで、実質的には命令だ。この種のずる賢い文章表現はカルト特有だよ。」

「3節では“間もなく,悪魔サタンは全世界で間違った情報を大々的に広め,人々がエホバに逆らうように仕向けます。(啓 16:13,14)私たちは,サタンがますます必死になって私たちを惑わし,エホバから引き離そうとすることも予期しています。(啓 12:9)”と言っています。組織の悪事がばれても、信者が動揺しないようにあらかじめ、それはサタンの攻撃だから信じるなと言ってごまかすつもりですね。」
「多くの信者は何か変だと感じつつも、組織のウソを信じるから大丈夫と統治体に言いたいね。」

「エルサレム滅亡の年を前607年とウソを言い続けていますが、信者は疑ったりしませんし、世代の解釈がコロコロ変わり、重なる世代なんて誰も理解できませんが、気にしていません。どんなデタラメでも信者はついてきますね。」
「統治体の長年の教育のおかげで、信者は不都合なことは無視し、信じたいことだけを信じるようになっている。」

「5から9節が“真理を見分けるために必要なこと”です。 JWに真理は見分けられないと思いますが、2つの必要なことが出ています。」
「たいていは3つなんだけどね。3つ目が思いつかなかったのだろう。」

「5節では①“エホバを畏れること。”とあります。エホバを畏れることは真理を見分けるのに必須のようです。“エホバへの愛よりも人を恐れる気持ちが強くなってしまわないように気を付ける必要があります。人を喜ばせようとすると,エホバを悲しませてしまうことがよくあるからです。”といっていますから、エホバを恐れて、必要なら自分の愛する家族を捨てろということですね。そうするとエホバはにんまりするようです。」
「エホバ=組織だからね。この節の意味は、組織を恐れ、一度もあったことのない統治体の老人を恐れて、服従しなさいということ。」

「6節が聖書からの例です。民数記12,14章の話です。“イスラエルの部族の12人の長は,エホバがイスラエル人に与えると約束した土地に偵察に行きました。そのうちの10人は,エホバへの愛よりカナン人を恐れる気持ちの方が強くなってしまいました。”とあります。一方、ヨシュアとカレブはカナン人を恐れなかったという話です。」
「こんな話を今どき模範的な例として出すなんて、JWは倫理性が欠落している。神が約束した土地だからと言って、他人の土地を奪っていいの?宗教の名の下に行われる侵略戦争でしょう。奪われる方は、そうですか、と言っておとなしく土地を譲るの?自分たちの生活を守るために戦うしかないでしょう。戦争が続くのはサタンのせいじゃなくて神のせいだね。」

「カナン侵略は作り話ですよ。プロパガンダです。イスラエル人は外部からカナンに来たのではなく、もともとカナンにいた人たちが作った集団です。ヘブライ語なんてカナン地域の言語の方言のようなものなんですから。同族ですよ。」
「神を畏れて、人を恐れるな、というのは一見もっともらしいけれど、信者に非常識で反社会的なことをさせようとする宗教が使う悪質なスローガンであることが多い。」

「7節に“その世代のイスラエル人は,ヨシュアとカレブが語った真理を見分けることができませんでした。結果として,約束の地に入る機会を失ってしまいました。”とあります。“世代”と言う言葉が出てくると、ドキッとしますよ。世代の話はなかったことにした方がいいと思います。」
「JWの最新教義では重なる世代は同一の世代と見なす。ヨシュアとカレブが生きていた時、1歳の人も同じ世代なんだよ。そうなると、“その世代”の中には約束の地に入った人もいたことになる。7節に書いてあることは間違いでしょう。」

「8節が真理の見分けるのに必要なこと②で“謙虚であること。”です。謙虚だと真理が見分けられるようです。“誇り高くなると,自分の意見を聖書の教えやエホバの組織からの指示と同じくらい重視するようになってしまうかもしれません。”とありますが、一番誇り高い人は統治体の老人ですよ。間違っても絶対に謝りません。」
「統治体は間違っても謝罪する必要はないし、間違いを時々調整すればよいのだというのがJWの公式見解。しかし、謙虚であることを一番学ぶ必要があるのは、神に選ばれていると主張する統治体なのは間違いないね。謙虚じゃない統治体が真理を見分けられなくても無理はないという言い訳かな?」

「9節には“もっと謙遜な人になって,教えられることを素直に受け入れられるよう助けてください,と祈ることができます。”とあります。組織のいいかげんな指示を素直に受け入れられないのは謙遜さが足りないからというのがこの節の主張です。こうやって盲目的服従を押し付けるのですね。」
「神の代理人である統治体様が言ったことを受け入れないのは謙遜じゃない、と言う方が少しも謙遜じゃないだろう。どんな組織も地位が上がると謙遜な人は珍しくなるけど、JWも同じ。」

「10から16節は“どうすれば真理にしっかり従うことができるか”です。 ここで言う真理とはよく変わる組織の教えのことですよ。少しも謙遜じゃないですね。3つのことが出ています。10節には①“エホバが導く組織からの指示を信頼する。”とあります。やっと“組織”がでてきました。これがこの記事の中で一番言いたいことですね。組織に服従しろ!です。」
「英文には“組織”という言葉は使っていないけどね。theocratic direction(神権的な指示)とある。でも言っていることは組織に従えだね。」

「10節に“現代でも,エホバが導く組織からの指示に従うなら,物事はうまくいきます。”とありますが、うまく言っていませんよ。事実に反します。そもそもJWが神に導かれているという証拠はありますか?自称・神の組織というだけです。」
「その後に“でも責任を委ねられた人たちのことを認めようとしないなら,エホバはどう感じるでしょうか。”と続く。これは感情的な脅迫だね。エホバを悲しませてもいいのか、エホバを怒らせてもいいのか、と信者を脅している。カルトらしいね。」

「11節は民数記16章の話です。“主立った人たちが,エホバから役割を与えられていたモーセに反抗するようになりました。”とあります。その後どうなったかというと、“エホバはその反逆を先導した人たちや,それに同調した大勢の人たちを処罰しました。(民 16:30-35,41,49)”とあります。」
「英文ではちゃんとGod struck down the leaders of the rebellion as well as thousands more who sympathized with them.と、数千人以上をぶち殺したと書いてあるのに、“処罰しました”と胡麻化している。神の恐ろしさをなぜわからせようとしないのか不思議だね。」

「引照聖句には“この神罰で死んだ人は1万4700人で,ほかにコラの件で死んだ人たちがいた。”とありますから、英文でも死亡者数を過小にしています。」
「人間をいっぱい殺しているのは神であって、サタンじゃないことは聖書を読めば誰でもわかることなんだけどね。」

「11節の結論は“今でも,エホバの組織の指示や取り決めに従わない人たちがエホバに認められることはありません。”というものですが、根拠が示されていません。JW=神の組織と根拠もなく決めつけて、旧約聖書にある一つの出来事を持ち出して、今でもそうだと言っているだけです。」
「聖書を読むと、指導者に従わなかった事例は他にもあるけれど。直ちに神罰が下ったということはあるかな?聖書の神はダビデの人口調査の時のように無関係な人を殺すことはよくやるけどね。神が何を考えているのかは、神のみぞ知る。統治体が知るわけがない。」

「12節では過去の失敗を美化しています。“特定の聖書の理解やさまざまな活動に調整が必要となったとき,統治体は進んで調整を加えます。(格 4:18)”と言っています。引照聖句は、例の明るさが増す、という教義変更とは本来何の関係もないものです。」
「教義の変更は明るさが増すというものとは全然違うね。例えば、滅ぼされたソドムの住民は復活するのかについては、“はい”と“いいえ”が何度も入れ替わり、最新の教義では“わからない”というもの。光が増したなんて言うものではない。」

「12節では“そうするのは,何よりもエホバに喜ばれることをしたいと思っているからです。”とありますが、ウソでしょう。伝道時間を報告しなくてよくなりましたが、エホバはあれを嫌っていたわけですか?排斥された人に挨拶をしてよくなり、あごひげが許可され、女性はスカートでなくてもよくなりましたが、これもエホバを喜ばすためですか?違いますよ。」
「裁判に負けたことと信者の減少を防ぐためでしょう。それをエホバを喜ばすためと言って信者をだましているだけ。洗脳されている信者でもおかしいことはなんとなく感じているよ。」

「13節が②“健全な言葉の型に絶えず従[う] (テモ二 1:13)”です。これで真理にしっかり従えます。“「健全な言葉の型」とは,聖書に収められているクリスチャンの教えを指しています。(ヨハ 17:17)”と説明していますが、翻訳がおかしですよ。」
「テモテ二1:13は“私から聞いた健全な言葉の型に絶えず従い,キリスト・イエスと結ばれた人として信仰と愛を示しなさい。”だね。問題は“言葉の型”。英語版はthe standard of wholesome wordsで、言葉の“基準”だ。それを“型”に変えたわけだ。“型pattern、form”と訳している他の翻訳は幾つかあるので、日本語翻訳者は無学な人間が訳したJW訳より、そちらの翻訳を正しいと考えたのか?」

「協会共同訳では“キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全な言葉を手本としなさい。”です。これが普通の訳ですよ。」
「元のギリシャ語には“型”と言う意味もあるけれど、ここでは“手本”だろうね。同じ単語はテモテ一1:16に使われて、“私を,永遠の命を求めてキリストに信仰を持とうとしている人たちの見本とするためでした。”となっている。JW訳でもここは“型”ではなく“見本”だ。」

「この単語はhupotupósisですが、聖書ではテモテに2回出てくるだけですね。」
「パウロは使わない単語。テモテの作者がパウロではないとされる理由の一つは単語が他のパウロの手紙で使われる単語と異なるというもの。これもそのひとつ。」

「14節はテサロニケ二2章に出てくる話です。“当時,エホバの日がすでに来ているといううわさが,一部のクリスチャンの間で広まっていたようです。”とあります。そして“パウロは,聞いたことを何でも信じたりしないようにと助言を与えました。(テサ二 2:1-5)”とあります。これってJWにぴったり当てはまりますね。違いは、組織の方が終わりが○○年頃に来るという話を作ったことです。」
「終末論を戒めるのか、それとも、まもなくすぐそこに終わりの日が来る来ると信者をあおるのかで、カルトかどうか判断できる。」

「15節ではJWの敵が行う工作活動を取り上げます。“以前,旧ソ連の兄弟たちの間で,世界本部から来ているように見せ掛けた手紙が出回ったことがありました。その手紙は反対者たちが偽造したもので,兄弟たちに独立した別の組織をつくるよう促す内容でした。”とあります。偽手紙作戦ですか?すぐばれると思いますよ。素人のいたずらじゃないですか?」
「15節に“それは本物らしく見えましたが,エホバを愛する兄弟たちはだまされませんでした。”とあるように、間抜けなJWでさえ偽物と気付いたわけで、まともな情報機関の作戦ではないでしょう。」

「15節には“今でも,真理に反対する人たちは,インターネットやソーシャルメディアを使って私たちを 混乱させ,分裂させようとすることがあります。”とあります。インターネット上にあるJWに不都合な情報は背教者が作った偽物と信者に思わせようとしていますね。」
「そういうわけで、JWにどんなニュースを見せても、不都合であればフェイクだ、AIで作ったものだ、とか言って拒否する。そうやってカルトの檻に一生閉じ込められるわけだ。」

「16節が③“エホバに揺るぎない愛を示す人たちと一緒にいるようにする。”です。これで真理にしっかり従えるようです。“エホバは,真理からそれて会衆の中に分裂をつくり出す人を「避ける」ようにと警告しています。”とあり、排斥、忌避をきちんと実行することをエホバは望んでいるようです。」
「“避ける”ことを扱っているのは、この節だけ。なぜもっと扱わないの?この話題は軽く触れるだけで済ませたいようだ。組織は自信を失っているね。」

「最後の17節です。結論は“真理から決して離れないようにしましょう。「そうすれば,平和の神が共にいてくださいます」。(フィリ 4:8,9)”です。真理=組織ですね。組織から出たほうが、はるかに平和に過ごせますよ。」
「“避ける”ことについての話題を避けたので、17節で終わりだ。いつもより短くてよかったね。」

ジョエル
2024年09月17日 21:21:17

このあたりの物語伝承って、ハンターハンターの王位継承戦みたいな、勝ち組の視点で語られるただの骨肉の権力闘争ですよね。

ヤハウェもソロモンを選んでいたのなら、後でどうにでも創作加筆できるようなシチュエーションでひっそりこっそり伝えるんじゃなくてもっと大々的に啓示してあげれば血なまぐさい権力争いを止められたんじゃないの、くらいの読書感想文が中学生でも書けそうですが、アムノンもアブサロムもアドニヤもそんな話聞いてないよどころかそんな話があったことすら知らないのか、まったく話題にもならない様子。


第4王子(子ども何十人もいて第何王子かも知らんけど)のアドニヤが勝っていれば、実はこっそりヤハウェに選ばれていたエピソードを挿入して、アビヤタルが救国の祭司、ザドクは狡猾で卑劣な敵側の人間、て感じでしょうか。

この組織もラザフォードに始まり盾突く人間を排除して権力を握ってきた側が支配している「ごく普通の組織」ともいえるので、勝てば官軍、勝ち組につけ、という人類普遍の教訓はその通りですね。

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