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証拠に基づいた確信
2025年11月07日 21:43:53

彼らの言うその「証拠」が、実際には証拠でも何でもないということに気付けないようにされているカルト性に、ため息を禁じえません。

「彼らは盲目の案内人なのです。それで,盲人が盲人を案内するなら,二人とも穴に落ち込むのです」― マタイ 15:14。

この聖句が自分たちに当てはまることに、いつになったら気付くのでしょうか…

ジョエル
2025年11月07日 19:13:35

今年、日本で公開された映画コンクラーベ(教皇選挙)では教皇に選ばれた枢機卿が「神がわたしをこのように造られたのだからありのままを受け入れる」と選挙を取り仕切る首席枢機卿に告白するラストでした(多少のネタバレすみません)。

その首席枢機卿は選挙前に、「長年、教会に仕えて怖れるようになった最大の罪とは“確信”である」と語り、確信こそが人を多様性に対して不寛容にならせ、分裂を招く、それで「疑う者を神が教皇に選ばれるように」と祈っています。


これは新しい“リベラルな思想”ではなく、200年近く前にキルケゴールが、信仰とは疑いであり、迷いである、のような思想を伝えています。

彼によれば、客観的確かさが保証されている(例えば、数学上の)真理は主体的にはどうでもいい真理であり、神を見出そうと森羅万象をさまよいそのすべてを煎じて残る客観的不確かさという残滓を、疑いと迷いを伴いながらも「無限性の情熱の全てをかけて」包容する主体的なプロセスこそが信仰ということになります。


確信ほど、人を不寛容にならせ、互いに争わせるものはない、このあたりがキリスト教の人たちに向けたメッセージなのかな、と思いましたが、「何を言ってるのか?信仰とは証拠に基づいた確信だ!」としか教わらないJWには三位一体と同じくらい一生理解できない思想でしょうね...

聖書についての質問
2025年11月07日 14:31:23

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“欲望に負けないためには(35)”で、同性愛、ポルノはやめられるし、やめろという内容です。」
「同性愛差別はJWとしてはやめられないけれど、これからは差別主義者として非難されるリスクが高い。同性愛者の扱いはJWにとって厄介な問題になるよ。」

「欲望に負けないという話だと、ヨセフが出てくると思ったら、17節にやっぱり出ていました。」
「タイトルを聞いただけで、中身が予想できるほど、ものみの塔の記事は同じことの繰り返し。」

「2節に具体的な欲望が出ています。“性的な欲求に駆られる人がいます。異性に引かれる人も,同性に引かれる人もいます。ポルノを見るのをやめたのに,また見たくて仕方がなくなる人もいます。ドラッグやお酒への依存をせっかく乗り越えたのに,逆戻りしそうになっている人もいます。”とあります。」
「JWにとって、性と薬物が重大問題ということなんだろうけれど、世界一幸福な人々なのにどうしてこうなったのかな。児童性的虐待で何人も逮捕者が出ているのに、児童性愛はなぜとりあげないのかな?本当に扱うべきことは扱わないね。」

「4から7節が“「邪悪な者」はどう思わせようとしているか”です。  またサタンの登場です。4節には“私たちに無力感を感じさせ,誘惑に勝てるはずがないと思わせようとしているのは,サタンです。”とあります。無力感はサタンのせいと言いたいようです。」
「よくないことは全てサタンのせいなんだよ。それで信者の思考停止させるのがカルトだね。その結果操作しやすい従順な信者が出来上がる。」

「4節にマタイ6:13が引用されていて、“私たちを誘惑に陥らせないで,邪悪な者から救い出してください。”とあるのですが、訳はこれでいいのですか?」
「協会共同訳では“悪からお救いください。”だね。悪者から救うのか、悪そのものから救うのかという2つの解釈が可能で、JWはサタンが大好きだから、悪者から救うという解釈になるわけだ。」

「聖書の中で、サタンはほとんど出てきません。それ比べてJWではあまりにも頻繁に取り上げられます。これってへんじゃないですか?」
「カルトは敵を必要とするということでしょう。敵に気を付けろ、敵に負けるな、そういうことを絶えず言って信者の恐怖と不安をあおり、信者を支配する。それでサタンは毎週、登場させたいJWにとって不可欠のキャラクター。」

「6節では“サタンは無力感だけでなく,絶望感も味わわせようとしています。良くないことに引かれてしまう自分は,エホバに喜ばれてはいないんだと思わせようとしてきます。”とあります。絶望感もサタンのせいです。でも聖句の引用はありませんね。執筆者の想像でしょうか?」
「無力感、絶望感にとらわれている人はJWとJW以外の人で比べたら、どちらの方が割合が高いかというと、JWじゃないの?JWの方がサタンの影響力が強いということかな?」

「7節では“それで欲望と闘っている時,自分には勝ち目がないとか,何の希望もないと感じてしまうとしたら,サタンの狙い通りになっていることになります。”とあります。JWはサタンの罠にはまっている人が多いということですよ。」
「サタンの罠というより、組織の罠でしょう。禁止事項をたくさん設ければ、当然違反することが多くなる。そして違反した人に罪悪感を持たせるように誘導する。それが繰り返されれば、無力感や絶望感に陥るよ。その方が操作しやすいので、組織は内心歓迎しているはず。」

「8から14節が“受け継いだ罪のせいでどんな気持ちになるか”です。  人間は罪深い存在だということを強調しています。無力感、絶望感に誘導していますね。8節に“無力感や絶望感を感じてしまうのはサタンのせいだけではありません。アダムとエバから罪を受け継いでいるせいでもあります。”と言っています。この根拠としているのが詩編51:5で、“私は過ちのある者として生まれ,母は罪のうちに私を身ごもりました。”です。これってアダムとエバから受け継いだ罪のことを言っていませんよ。」
「旧約聖書に人間はアダムとエバから罪を受け継いでいるという原罪思想はないよ。それはずっと後の時代に作られる思想。」

「詩編51:4で“あなたに,ほかでもなくあなたに対して罪を犯しました。あなたから見て悪いことを行いました。”とあるように、悪いことを行ったと言っている。その後に51:5がくる。抽象的な罪を犯す傾向を問題にしているのではなく、具体的な違反行為について語っている。」

「9節では“アダムとエバは罪を犯した後,どんな気持ちになったでしょうか。”と問いかけます。答えは“「聖書に対する洞察」にはこう書かれています。「両人は罪のゆえに罪悪感を抱き,心配や不安や恥ずかしさを感じました」。”というものです。答えはJWの出版物にあるというわけですね。ウソでしょう?」
「アダムとエバの話には罪という言葉は出てこない。聖書を引用できないので、JWの出版物を引用しただけだね。JWの出版物はJW以外の人には全く評価されないし、時間が経つと廃棄処分になる程度のもの。」

「JWはアダムとエバのお話に頼りすぎです。サタンと同じように毎回のように出てきます。でも、アダムとエバの話を真実と思うのは、聖書を狂信的に信じている人だけです。単なる大昔のお話です。まじめにアダムとエバがどうのこうのと論じている文章を読むたびに、この人たちはどういう知的レベルの人なのだろうかとあきれ返ります。」
「聖書を狂信的に信じられる程度の知的レベルの人だよ。アダムとエバの話はJWの教義の重要な部分を占めているから、毎週のように登場する。こんな非科学的な神話に頼らなくてはいけない宗教に未来はないね。人類の教育水準が上がるとともに衰退するしかないね。」

「11節では“エホバは,誘惑に立ち向かうようにと言っています。”とあり、12節では“悪いことをしないよう,欲望と闘い続けるなら,エホバは私たちを清い人と見てくれます。”とあります。」
「もっともらしいことを長々と書いているけれど、要するに、ここで言いたいのは、性的な問題と薬物や酒の問題を起こして組織に迷惑をかけるな、ということだね。」

「やっと13節で具体的な話が出てきます。まず“聖書は,間違った行動と間違った欲望を区別しています。”と言ってから、“例えば1世紀のコリント会衆には,以前同性愛者だった人がいました。パウロは「皆さんの中には,以前そのような人もいました」と書いています。”と、さりげなく同性愛の問題を持ち出してきます。」
「同性愛者でも同性愛的行動をとらなければ問題ないと言いたいわけだね。JWは同性愛に反対ではありません、同性愛的行動に反対しているだけですと言って、同性愛差別を正当化しようとするのが今のやり方。同性愛者よりも児童性愛者をももっと取り上げて欲しいね。」

「13節では、同性愛者でも“欲望を抑えて行動をコントロールすることはできました。諦めずに闘うクリスチャンのことをエホバは喜び,「洗われて清く」なったと見ていました。(コリ一 6:9-11)”とありますから、行動をコントロールさえすれば、問題ないというタテマエですね。」
「JWの同性愛嫌悪は激しいからね。JWの誰かが同性愛者を侮辱して、何か事件でも起こしたら大問題になりかねない。同性愛者に対する差別的発言をやめるようにはっきりと指示を出した方がいいよ。2014年にアメリカで行われた調査ではJWが一番同性愛嫌悪が強い宗教という結果だったのは統治体の老人は知らないのかな?」

「2023/8のものみの塔の“ダニエルの手本から学べること”の13節には“兄弟はこう言います。「クラスの中で同性愛を支持しなかったのは,私ともう1人のエホバの証人の子だけでした」。”とあります。オーストラリアの高校での出来事となっていますが、JWは同性愛を支持しないわけですよ。この記事ではこのJWの高校生を信仰をしっかり貫いた人と称賛しています。同性愛嫌悪丸出しです。」
「学校で、同性愛を支持するか、しないかを生徒一人一人に聞くなんてことはあり得ない。JWの創作だ。」

「それから“あなたの若い時代,それから最善のものを得る”と言う書籍の第5章には“実際,マスターベーションは同性愛に至ることがあるのです。(中略)多くの人の考えに反して,同性愛者はそのように生まれついているのではありません。同性愛行為は後天的なものです。そしてしばしば,人は非常に幼い時に別の子供の陰部をもて遊ぶことからそれを覚え,やがて同性愛行為にふけるようになります。”と、でたらめを書いています。」
「JWが同性愛について全く無知だったことがよくわかる。」

「15から17節が“闘いに勝つためには”です。  15節では“闘いに勝つには,自分の弱さを正直に認める必要があります。「間違った考え方」をして自分の心を欺こうとしてはいけません。(ヤコ  1:22)”とあります。16節では“弱さに屈しないという固い決意を持つことも大切です。”とあります。」
「決意したら、その通り実行できるように、人間は造られていないよ。今回は祈りが出てこないのが不思議だね。なんにでも効果があるのが祈りじゃなかったの?闘いに勝つには、まず祈りましょうとなぜ書かないのかな?効果がないからかな?」

「17節で待ちに待ったヨセフが登場します。うれしいですね。“ヨセフがポテパルの妻から誘惑された時にどうしたかを思い出してください。すぐにきっぱりと断りました。(創世記 39:7-9を読む。)”とあります。ヨセフの話は物語です。物語の人物なのでどんな誘惑にもどんな試練にも耐えられます。」
「読むように指定されている個所には“こうしたことの後,主人の妻がヨセフに目を留め,「私と寝て」と言うようになった。”とある。こんな文章をみんなの前で読むの?子どもには配慮しないのかな?ひどい宗教だ。」

「17節では“どうしてそうできたのでしょうか。誘惑される前から,正しいことをしようと心に決めていたからです。私たちもヨセフと同じようにできます。”とあります。準備が大事なようですが、ヨセフがそう考えていたなんて言う根拠はありません。ポテパルの妻は薄汚い病気もちの中年女で、ヨセフが嫌っていただけかもしれませんよ。」
「架空の人物のお話を基に、誘惑に負けないぞと決意すれば、その通り実行できます、と繰り返しているだけ。説得力ゼロだね。」

「18、19節は“いつも確かめてください”です。  18節には“自分の考えや行動を見つめ直し,必要なところを調整しましょう。”とあります。誘惑を単に拒絶するだけでは不十分で、“すぐにきっぱりとはねのけられただろうか,と考えてみてください。”とあります。こうやって信者を追い込んでいくわけですね。」
「JWは絶えず誘惑されると警戒し、何秒で誘惑をきっぱりはねのけたかどうか調べるためにストップウォッチを持つ必要があるわけだね。」

「19節では“そうやって自分を確かめる時,言い訳したくなる気持ちを抑えましょう。聖書には「心はほかのどんなものよりも信用できず,必死になる」とあります。(エレ 17:9)”とあります。引照聖句の訳がヘンですし、この聖句の使い方もヘンです。」
「まず、心が“必死になる”とはどういうこと?協会共同訳では“治ることもない。”だけど、これが標準的な訳。」

「これはエレミヤのセリフですよ、エレミヤは自分の心の中を調べたら、治癒不可能な罪深さがわかったと言っている箇所です。」
「それを受けて17:10で、“私エホバは,心を探り,奥底の考えを調べている。”と、神は人の心がわかっているよ、と答えるという展開だね。対話形式になっている。」

「そして、エレミヤ17:14で“エホバ,癒やしてください。そうすれば私は癒やされます。救ってください。そうすれば私は救われます。”とエレミヤは言うわけですね。」
「そういうわけで、エレミヤ17:12を“必死になる”ではなく、“治ることもない。”と訳さないと、全体の流れに合わない。その程度のこともわからないのがJWの翻訳者たち。」

「最後の20節で“たとえ失敗してもエホバは許してくれるので,新しい世界でずっと生きるという希望を持ち続けられます。”とあります。エホバは許しても、組織は許しません。永久に推定有罪です。」
「JWなんかやめて、大患難が来てからまたJWになればいい。それでも楽園に行けるというのが今の教義だから、JWを今やめても“新しい世界でずっと生きるという希望を持ち続けられます。”」

聖書についての質問
2025年10月31日 14:24:04

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバから許されていることを信じてください(34)”で、エホバは許してくれるので、多少問題のある人でも今のまま組織に仕えなさい、という内容です。」
「排斥制度の被害者をまた復帰させて、タダで働く労働力を確保しようという狙いかな?」

「1節ではダビデを取り上げ、“でも深く後悔し,心を入れ替えたので,エホバから許されました。(サム二 12:13)”とありますが、事実の半分しか言っていません。」
「これはバテシバとの出来事について言っている。ダビデは許されたけれど、その後どうなったかというと、サムエル二12:15に“エホバはウリヤの妻が産んだダビデの子を打ち,その子は病気になった。”とある。この赤ちゃんは7日間病気で苦しんだ後死ぬ。ダビデの代わりに赤ちゃんを殺すのがエホバだね。まともな正義の感覚がない。」

「2節では“罪を心から悔いて告白し,同じ過ちを繰り返さないようにするなら,エホバは許してくれます。たとえ重大な罪であってもです。(格 28:13。使徒 26:20。ヨハ一 1:9)”とあります。許すことを強調したのはイエスであって、エホバはそうではないですよ。」
「引照聖句の格言28:13に“自分の違反を隠す人は成功しないが,それを告白して捨てる人は憐れみを示される。”とあるけれど、罪を告白して捨てれば憐みを受けられると言っているのは格言ではここだけ。旧約聖書の思想はそういうものではないね。」

「2節では“まるで罪などなかったかのように,すっかり許してくれます。そう考えると,本当にほっとします。(エゼ 33:16)”と、エゼキエル33:16を引照聖句にしていますが、そんなことは言っていません。聖句の誤用です。」
「エゼキエル33:14,15に“もしその人が罪から離れて公正で正しいことを行い,担保を返し,奪った物を弁償し,間違ったことを行わずに命の法令に従って歩むなら,その人は必ず生き続ける。死ぬことはない。”とたくさんの条件を示してから、33:16で“その人は,犯したどの罪についても責められることはない。”とあるだけ。現代風に言えば、損害を賠償し反省しているようなので実刑ではなく執行猶予になったということで、すっかり許すということとは全く違う。」

「5、6節は“エホバから許されていると信じるのが大切なのはどうしてか”です。 2つの理由が出ています。5節は①“サタンにだまされずに済む。”です。サタンはJWを狙っていると信者に思い込ませようとしていますね。“サタンが使う手口の1つは,自分の罪は許されない,と思い込ませることです。”と断定していますが、引照聖句はありません。そんなことは聖書のどこにも書いていないからですね。」
「英文ではSatan may try to get us to believe that our sins are unforgivable.(サタンは私たちの罪は許されないと信じ込ませようとするかもしれません)で、○○しようとするかもしれません、といった非常にあいまいな言い方をしている。それは何の根拠もないことを執筆者が知っているからだよ。それなのに翻訳では断定している。無茶苦茶だ。」

「5節では、サタンが許されないとだますことの根拠らしいものとして、コリント一5章の話を持ち出しているのですが、全くでたらめです。性的不道徳を犯した男性について、“でもサタンは,会衆の兄弟姉妹がその人を許さず,温かく迎え入れないことを望んでいました。また,悔い改めたその人自身にも,自分は許されていないと思い込ませようとしていました。”と見てきたようなことを書いています。執筆者はサタンの考えていることが何でもわかるかのようです。」
「コリント一5:5では“そのような人をサタンに引き渡して悪い影響力を除き去らなければなりません。”とあるよ。パウロはサタンに引き渡せと言っている。パウロはサタンの手先ということ?」

「先週と今週の記事の執筆者は同じ人だと思うのですが、この人は創作が多すぎます。」
「ものみの塔の記事と言えば過去の記事のリサイクルばかりで、つまらないから、創作意欲のある人物が抜擢されたのかもね。」

「6節には②“自分を責め続けなくて済む。”とあります。“いつまでも自分を責めていると,エホバに仕える力が奪われてしまうかもしれません。”とあるのが面白いです。罪悪感に浸って、組織への奉仕が減ることを心配しているわけですよ。」
「“エホバに仕える”というのは組織が指示する様々なつまらない仕事を無給でやるという意味なのは長年JWをやっている人ならわかるよね。王国会館のトイレ掃除を押し付けられている人は、罪悪感のせいでエホバに仕える力が奪われたようで、どうしてもできませんと言って、断ったらいいよ。」

「7から11節が“エホバから許されていると信じるためにできること”です。  2つのことが出ています。7節は①“エホバが自分の性格について言ったことをよく考える。”です。“出エジプト記 34:6,7を読む。”とありまして、そこには“憐れみ深く,思いやりがある神”と言っているそうです。」
「どんな性格かを知るには、何を言ったかではなく、何をしたかが重要。エホバのしたことの代表的なものは、大虐殺。これからする予定のことも大虐殺。どんな性格かよくわかるね。」

「エホバは他の人の罪で関係ない人を罰するということをよくやります。これはどういう性格なんですか?」
「例えば、サムエル二21:1には“ダビデの時代に3年連続で飢饉が起き,ダビデはエホバに相談した。するとエホバは言った。「サウルとその一家には流血の罪がある。サウルがギベオンの人たちを殺したからである」。”とある。サウルを罰すればいいのに、無関係な一般人を飢饉で苦しめている。どれほどの人が餓死したのかな?さらに、サムエル二24:15には、ダビデが人口調査したせいで、“エホバは,その朝から,決められた時まで,イスラエルに疫病を広めたので,ダンからベエル・シェバにかけて7万人の民が死んだ。”とある。ダビデはなぜ罰しない?」

「このことからは権力者に甘く、無名の一般人の命など全く無関心という神の性格がわかりますね。」
「正義の感覚のない残虐で野蛮な神としか言いようがない。」

「9節が②“エホバの許し方について聖書に書かれていることをよく考える。”です。“詩編 32:5を読む。”とあり、そこには“あなたは過ちと罪を許してくださった。”とあります。10節では“詩編 86:5を読む。”とあり、そこには“エホバ,あなたは善い方で,快く許してくださいます。”とあります。いずれもダビデ作といわれる詩で、エホバを賛美した詩にそう書いてあるというだけですよ。」
「エホバはダビデに滅茶苦茶甘いだけでしょう。エホバは快く許す方ではない。アダムとエバの罪を許さず、その子孫全員を死ぬことにしたというのがJWの教義。1000億人以上の人類を罰し続けていることになる。申命記32:2には“嫡出ではない子はエホバの会衆に入ることはできません。その人の子孫は10代目でも,エホバの会衆に入ることはできません。”とある。嫡出でない子どもに何の罪があるのかな?しかも10代たってもダメなんて、許さない神としかいいようがない。」

「12から16節は“エホバは覚えている”です。  12節に“詩編 103:14を読む。ダビデはエホバが,「私たちが土でできているにすぎないことを覚えている」と書いています。エホバは,私たちが罪を受け継いでいて,よく失敗してしまうことを覚えています。”とあります。違うでしょう。アダムは土で作られましたが、それとアダムの罪は無関係です。」
「まず“土”と言う日本語訳がおかしい。JW英訳ではdust(ちり)。ちりはすぐにばらばらに崩れてしまう。これは人間のはかなさ、もろさを言っているわけで、罪を犯しやすさを言っているわけではない。」

「13節には“でもアダムとエバが罪を犯した後,人間が土でできているということは別の意味を持つようにもなりました。生まれつき罪を負っていて,悪いことをしてしまいがちだということです。”と強弁しています。でもその根拠は何も示されていません。」
「この記事の執筆者は根拠も示さず、勝手なことを主張するね。JWの組織の中では非常に偉い人で、この人の書いたものには誰も文句を言わないので、奇妙な独断癖が生じたのかも。」

「13節には“ここで「覚えている」と訳されているヘブライ語には,行動を起こすという意味合いがあります。”とあるのですが、このような元のヘブライ語には○○という意味があります、という表現は9節にもありました。学者ぶった表現は、この執筆者の特徴ですね。この人はカルト雑誌の退屈な記事を書くのではなく、本当の聖書学者になりたかったんじゃないですか?」
「そうかもね。10と14節には“ある参考文献はこう説明しています。”と言う表現が出てくる。平信者には組織の出版物だけを読むように指示しながら、この執筆者は外部の聖書学者の文献を出典も明記せずに不正に利用し、平信者はこんなことは知らないだろう、という優越感に浸っている。こうやって日頃のうっ憤を晴らしているのかも。」

「14節では“詩編 103:12を読む。”とあり、“ダビデによると,エホバが許す時,「日の出[東]は日の入り[西]から遠く離れている」のと同じように,私たちの罪を遠くに離してくれます。”とあります。そして15節で“エホバから許されているとなかなか思えないとき,詩編 103編のダビデの言葉はどのように役立ちますか。”と、問いかけます。」
「JWが許されていると思えないのは、エホバではなく組織のせいでしょう。信者を罰するのは組織から与えられたマニュアルに忠実な長老なわけで、その組織のルールが冷酷でなかなか許さないものだからだよ。エホバが許し、忘れるのなら、なぜ組織はそうできないのかな?」

「長老たちは、たとえ何年も前のことであっても、過去の罪について詳細な記録を残すように指示されています。会衆を移るときには、移動先の会衆の長老にその信者の記録が送られるわけです。そこには過去に犯した罪や受けた懲戒処分、離婚したかどうか、聖書的に結婚の自由があるかなどが書かれていて、永久に保存されます。組織は許さず、忘れず、永遠に推定有罪という態度です。」
「カルトには強固な内部監視システムが必要なの。でも罪を犯したのが有力な長老の息子ならうまく隠蔽されるのがJW。」

「14節の下に“エホバはどのように許し,忘れるか”と言う囲み記事がありまして、その中でヘブライ11:6を引照聖句としているのですが、その訳がヘンじゃないですか?」
「JW訳では“神に近づく人は,神が存在し,熱心に仕えようと努める人たちに報いてくださる,ということを信じなければなりません。”となっている。“熱心に仕えようと努める人たち”はJW英語訳ではthose earnestly seeking him(神を切に求める者たち)だよ。seekには仕えるという意味はないよ。信者を仕えさせようとする意図に沿った誤訳だね。」

「16節はたとえ話です。“過去の間違いについて考え続けることは,バックミラーばかり見 ながら車を運転するようなものです。”とあります。それがなぜいけないかというと“過去をいつまでも引きずっていると,罪悪感のせいでエホバへの奉仕に打ち込めなくなってしまうかもしれません。それで,前にある道に目を向け続けましょう。”と、説明しています。罪悪感のせいでエホバへの奉仕という組織への奉仕に差し障りがあることを気にしているだけですね。」
「信者が後ろばかり見るのは、前を見ても、見えるのは“まもなく楽園”と言うウソ臭い看板だけなので、道を間違えたのではないかと不安になっているからじゃないの?」

「17、18節は“何度も自分に言い聞かせる”です。  まとめです。17節に“エホバから愛され,許されていることを,自分に何度も言い聞かせるようにしましょう。”とあります。結論としてはこの程度のことしか言えないわけですね。ダメですね。」
「愛がない、許さない、という組織の在り方を変える必要があるけれど、組織の利益最優先だから、それは無理。サタンがどうの、エホバがどうの、といった与太話を並べて、あとは自分は愛されている、許されていると念仏のように唱えなさいという情けない内容の記事だったね。」

エッヘン
2025年10月29日 05:50:18

久しぶりに覗いてみましたが、あいかわらずのエホバの教えはひどく人を束縛する教えですね

やめてよかったとほんとに思います。正直エホバの組織の教えは英語を日本語に訳してるからか、日本語としてまぁまぁでたらめな所が多いです。

組織にいるときは気づけなかったですが、外に出ていろいろ学びをしたら読めたものではないと思うようになりました。

聖書についての質問
2025年10月24日 14:18:22

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバから愛されていることを信じてください(33)”で、エホバから愛されていると信じて、組織のために働けという内容です。」
「エホバという神があまりにも不人気なので、少しでもイメージアップをはかろうとしているようだ。」

「JW以外の人を間もなく皆殺しにする神ですよ。愛の神ではなく、残虐な破壊神そのものです。」
「聖書を読めば、ノアの大洪水をはじめとして神はやたらと人を殺している。律法ではやたらと死刑が多い。愛の神と思えるようなことはほとんどない。」

「1節で、“エホバに献身した時のことを覚えていますか。”と、問いかけます。そして“その時からエホバへの愛はどんどん強くなってきたはずです。”と決めつけます。これ以外の答えは許されないわけですね。」
「バプテスマは人生最大の過ちだったという人も結構いるでしょう。でもそんなことはこのカルトでは言えないだけ。」

「さらに“もし「エホバを本当に愛していますか」と尋ねられたら,ためらわずにこう答えることでしょう。「もちろんです。ほかのどんなものよりも,誰よりも愛しています」。”とあります。こう質問されたら、こう答えなさいと教えています。マインドコントロールそのものです。」
「このような質疑応答を何度も繰り返せば、完全に洗脳されたJWが出来上がると組織は信じているのだろう。模範解答通りに答えない信者は信仰心がないとしていじめられるのかな?」

「北朝鮮国民にキム・ジョンウン総書記のことを本当に愛していますかと尋ねたら、全員“もちろんです。ほかのどんなものよりも,誰よりも愛しています。”と答えますよ。JWは北朝鮮を模範としているということですね。」
「JWの楽園というのは北朝鮮でしょう。違いは果物と動物が豊富なところかな。」

「3節に“エホバはあなたのことを愛しています。そのことを確信してほしいと思っています。(エレミヤ 31:3を読む。)”とありますが、引照聖句にはそんなことは書いていません。“私は永遠の愛をもってあなたを愛してきた。”とありますが、これはイスラエル国民に向かって言った言葉で、今のJWとは何の関係もありません。」
「旧約聖書の宗教は基本的に古代のイスラエル民族によるイスラエル民族のためのイスラエル民族の宗教で、アメリカに本部を置く新興宗教の信者とは何の関係もないと思ったほうがいいよ。」

「4、5節が“エホバから愛されていると信じるのが大切なのはどうしてか”です。  4節では“エホバの愛を信じていれば,サタンの「策略」にはまらずに済む。(エフェ 6:11)”と、JWが大好きで便利なキャラクター、サタンが登場します。“そういう策略の1つは,エホバが私たちを愛してなんかいない,といううそを信じ込ませることです。”とあります。」
「それならエホバなる神がJWを愛しているという反論しようのない明確な証拠を示せばいいだけ。神ならできるでしょう。でもそれができないから、無関係な聖句を持ち出してくるわけだ。」

「5節では“エホバの愛を信じていれば,エホバともっと親しくなれる。”と言っています。それは“どうしてそういえるでしょうか。人は,愛し愛されたいと思うものです。エホバがそう造ったからです。”と説明しています。」
「それはなんにでも使える理屈だね。それなら、見たことも話をしたこともないエホバを愛するのは無理です。なぜならエホバがそう造ったからです、と言えるね。」

「6から11節が“エホバの愛を信じるためにできること”です。  エホバの愛など信じるのが困難ですからね。何をすればよいかというと、4つのことをすればよいようです。まず6節には①“祈って自分の気持ちを何度も伝える。”です。祈りは何にでも役に立ちます。」
「6節に“自分を責める気持ちが強過ぎて,エホバの愛を信じ切れないかもしれません。”とある。信者に無理な要求をあれこれして、罪悪感を抱くように仕向けている張本人が組織なのに、白々しいことを言うね。」

「クスリが効きすぎた、という人がけっこういるんですよ。精神を病んでしまうわけです。そうなると単なるお荷物ですから、組織としても何とかしたいわけですよ。」
「罪悪感と恐怖で信者を縛るのがカルト。精神を病むのは仕方ないと割り切るのが有能なカルト指導者じゃないの?」

「7節は②“エホバが言っていることをそのまま受け止める。”です。“聖書には,エホバがどんな方かが正確に描き出されています。”とありまして、聖書の中ではエホバは愛に満ちた素晴らしい神と描かれているので、そのまま信じなさいという指示です。」
「聖書には、エホバがいかに残虐で理不尽な神かも描かれているよ。それは無視するわけね。」

「8節はエホバの言葉の創作です。“そういう温かい聖書の言葉から,エホバの優しい気持ちが伝わってきませんか。まるでこう言ってくれているかのようです。「あなたのことを本当に愛している。とても大切に思っているんだよ」。”とあります。子供向けのアニメのセリフですか?理屈はなく、感情に訴えているだけです。JWの幼児化が進んでいます。」
「誰かを評価する場合、何を言ったかではなく、何をしたかで評価すべき。美辞麗句ではなく、行動を見るべき。エホバのしたことと言えば、大洪水でパンダや赤ちゃんまで溺死させたこと、バベルの塔の建設の際言語を乱して人類を分裂させたこと、出エジプトでは不必要にエジプト人やエジプトの家畜を苦しめ、シナイの荒野では不平を言ったイスラエル人を容赦なくぶち殺し、・・・(以下省略)ということをしている。神は愛という言葉が100回書かれていても、一つの残虐な行動でぶち壊しだね。」

「エホバが愛を行動で示した例というとなんですか?」
「出エジプト後、荒野をさまよったイスラエル人に、申命記29:5で“私が荒野であなたたちを導いた40年間,あなたたちが着ていた服は擦り切れず,履いていたサンダルはすり減らなかった。”と言っている。同じ服やサンダルを40年間使用できるようにしてくれたなんて、素晴らしい愛の行いだ。今のJWにも同じことをして欲しいね。」

「でもその後に“あなたたちはパンを食べず,ぶどう酒などの酒も飲まなかった。私があなたたちの神エホバであることをあなたたちが知るためである。”とあります。これって愛に欠けたエホバの性質をよく示しています。」
「神はイスラエル人が自分に服従することを最優先している。そのためにはイスラエル人が欲しがっているパンとワインをわざと与えないという意地悪をしたということだね。愛はどこにあるのかな?」

「8節の最後に“それでエホバに愛されているか不安になる時は,立ち止まってこう考えてみてください。「『うその父』と『真理の神』,どちらを信じたらいいだろうか」。”とあります。カルトらしい二分法、白黒思考です。サタンとエホバどっちを選ぶのですか、と選択を強要しています。」
「どっちも選ばないという選択肢があるはずだよね。」

「9節が③“エホバが愛にどう応えてくれるか,じっくり考える。”で、“出エジプト記 20:5,6を読む。”とあります。そこには“私を憎む人については,父の過ちに対する処罰を子や孫やひ孫に及ぼす。私を愛して私のおきてを守る人については,子孫千代にまで揺るぎない愛を示す。”とあります。この聖句は問題ありますよ。こんな聖句を読ませるなんて、JWは鈍感ですね。」
「父の過ちのせいで子孫を罰するなんて、最低の神。まともな正義の感覚が欠如している。申命記24:16では“父親は子供がすることのゆえに死刑にされるべきではなく,子供も父親がすることのゆえに死刑にされるべきではありません。人はそれぞれ自分の罪のゆえに死刑にされるべきです。”と連帯責任を否定しているけどね。」

「それに“子孫千代にまで揺るぎない愛を示す。”と言うのは実行していません。文字通り口だけ。」
「その中にある“私を愛して私のおきてを守る人”というのは、神に服従する人という意味。旧約聖書では“愛する”は“服従する”とほぼ同義語だよ。」

「10節が④“贖いという贈り物について考える。”です。以上4つのことを実行すると、エホバへの愛を信じることができるらしいですね。」
「10節で、“そんなパウロも,エホバが自分のために贖いという贈り物を与えてくれたと思えるようになりました。(ガラテア 2:20を読む。)”とあるけれど、引照聖句でそんなことを言っていないよ。“神の子は私を愛し,私のために自分を差し出してくださいました。”とあり、キリストのことを言っているわけで、エホバなんか出てこないよ。」

「“贖いという贈り物”と言う表現は聖書にありますか?ないですよ。パウロがそんなことを思うわけがありません。」
「JWの作った言葉。イエスは単なる贈り物にすぎないわけだ。そして、贖いという贈り物を受け取るには、主の記念式に出て、伝道など組織の言うことを実行しなくてはいけないと、信者に教えている。気楽に受け取れる贈り物ではないようだよ。」

「12から16節が“エホバの愛を信じられるよう,イエスが教えたこと”です。  イエスの登場です。13節で“福音書でエホバのことを「父」と160回以上呼んでいます。”とあります。エホバとは呼んでいません。“イエスは私たちにも,エホバを子供思いの優しいお父さんと見てほしいと思っています。”とあります。これはヘンですね。」
「エホバは友達と、ちょっと前の記事で言っていたよ。友と父、どっちなの?一貫性がないよね。」

「14節は“まず,マタイ 10章29-31節にあるイエスの言葉について考えましょう。(読む。)”とあります。そこには“スズメ2羽は小額の硬貨1枚で売っていませんか。それでも,その1羽でさえ,天の父が知らないうちに地面に落ちることはありません。”とあります。この訳はヘンですよ。」
「まず“天の父”ではないね。“あなたがたの父”。JW英語訳でもyour Fatherとなっている。神は弟子たちの父でもあるというイエスのメッセージが翻訳者は気に入らないのかも。」

「“知らないうちに”というのはどうですか?協会共同訳では“あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。”となっています。」
「元のギリシャ語を直訳すれば“あなたがたの神なしに”というもの。これでは意味が分かりにくいので、あなたがたの神の許可なしにと言葉を付け加えている。JW訳はあなた方の神が知ることなしにと解釈した。JW訳では神は知るだけの無力な存在のようになっている。」

「15節では“イエスが「父」という言葉を使った別の例にも注目してみましょう。(ヨハネ 6:44を読む。)”とあります。そこには“私を遣わした父が引き寄せてくださらない限り,誰も私のもとに来ることはできません。”とあり、それに基づいてJW=神によって引き寄せられた特別な人たち、という説を展開しています。」
「そうすると神はあまり有能なリクルーターじゃないね。油注がれた人には奇人変人が多いし、JWの子どもがバプテスマを受けてもほとんどはJWをやめるし、多くの国ではコロナ以降JWを辞める人が増えているらしいよ。エホバの”引き寄せ”方が悪いんじゃないの?」

「16節ではイエスの言葉の創作です。“エホバを父と呼ぶことで,イエスは私たちにこう言っているかのようです。「エホバは私のお父さんですが,あなたのお父さんでもあります。お父さんはあなたのことを愛し,気に掛けています。私は自信を持ってそう言えます」。”とあります。この記事は子ども向けのイエス物語ではなく、“研究用”なんですけれど、これはなんですか。」
「適当に引用できそうな聖句がないので、自分で作った方が簡単だということに気付いたのだろう。」

「17、18節は“エホバから愛されていることを信じ続けてください”です。  今までの繰り返しです。それで何とか18節まで来たという感じです。この記事はあまりやる気が感じられませんね。」
「JWにとって、エホバ=統治体でしょう。エホバに愛されていると信じて欲しければ、統治体のメンバーが全員集まって、“皆さん、愛してまーーす。”と笑顔で言う動画をつくればいいんじゃないのかな。」

聖書についての質問
2025年10月17日 14:04:02

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“忍耐できるようにエホバは助けてくれている(32)”で、JWはどんなつらいことがあっても楽園を夢見て、忍耐し、伝道をしなさい、という内容です。」
「生きるのがつらいとしたら、その主な原因はJWだから、とりあえず伝道や集会をやめれば、生きるのが相当楽になるよ。」

「この記事で言うエホバの助けというのは、祈り、聖書、仲間、希望です。大した助けじゃないです。」
「祈り、聖書、仲間、希望なら、他のキリスト教の方がいいかも。」

「1節に“終わりの時代の今,私たちはみんな忍耐しなければいけません。”とあります。終末カルトらしい出だしです。」
「英文ではdifficult last days(困難な終わりの日)とある。”困難な”を省略したのは、今が100年前、200年前と比べて”困難な”日とは言えないことを知っているからだろう。生活は昔より楽になったよ。掃除だって洗濯だって機械がやってくれる。」

「1節で、忍耐すべきものとして、具体的には“長い間病気と闘っていたり,愛する人との死別を経験したり,家族や政府から反対されたりしています。”とあります。これって、いつの時代でもあるものですよ。終わりの日と無関係です。」
「今が終わりの日という特別な時代だという明確な証拠を思いつかなかった、ということだね。」

「1節では“ペテロ第一 5:10を読む。”とあり、そこには“皆さんが少しの間苦しんだ後,惜しみない親切に満ちる神は,皆さんの訓練を終えます。”とあるのですが、訳がおかしいですよ。」
「“訓練を終えます”というのが笑える。元のギリシャ語では、4つの動詞が並んだ文になっているので、それに合わせて、協会共同訳では“癒やし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。”としている。」

「JWが“訓練を終える”と珍訳している語にはそんな意味はないですよ。完全なものにするとか回復する、修理してもとに戻すという意味です。」
「JWはクリスチャンというより、無給の拡張販売員だから、企業で使うような言葉に変えるわけだ。」

「3から6節が“祈り”です。  祈りはエホバからの贈り物だそうです。3節に“エホバは私たちが忍耐できるように素晴らしい贈り物をくれました。それは祈りです。”とあります。」
「英文では“素晴らしい”ではなくmiraculous(奇跡的な)となっている。翻訳者はカルト的な大げさな表現を和らげるようにしているね。」

「5節で瞑想を攻撃しています。“例えば,瞑想をして頭を空っぽにし,心配事を全部忘れようとします。でも聖書によると,それは危険なことです。(マタイ 12:43-45と比較。)”とあります。瞑想は頭を空っぽにすることですか?」
「JW特有の知ったかぶりでしょう。瞑想の目的や方法は様々なものがあるのに、攻撃しやすいものに勝手に決めつけて、瞑想は危険だといっているだけ。ストローマン論法だね。」

「引照聖句は瞑想と無関係です。邪悪な天使たちの話ですよ。」
「英文ではan unclean spirit(汚れた霊)とあるのに、いつものように”邪悪な天使”に変えている。元のJWと日本のJWは異なる宗教だね。」

「6節は“できること”で、具体的な指示が出ています。おもしろいのは“苦しい中でもエホバがどんなふうに支えてくれているかをよく考えると,祈って感謝を伝えたいという気持ちになります。”という部分です。これはエホバが支えてくれるということを前提にして、その証拠を探せということですよ。ひとつでも証拠が見つかると、エホバね!というわけです。」
「これは確証バイアスというものだ。神は何もしてくれなかったということは無数にあるのに、それは全く無視して、何かしてくれたことを探させる。ひとつでもそれらしきものがあると、神は支えてくれるというのは正しいと証明された、と思い込むわけだ。」

「7から10節が“聖書”です。  7節に“エホバは私たちが忍耐できるよう聖書をくれました。”とあります。聖書がそんなものとは知りませんでした。」
「聖書を読めば何でも解決するというのがJWの教え。」

「7節に“例えばマタイ 6章8節には,「天の父は,あなたたちが求める前から,必要とするものを知っている」とあります。(中略)エホバは逆境と闘う私たちがどんなものを必要とするかよく知っていて,ぴったりの助けを差し伸べてくれるということです。”とありますが、違いますよ。」
「まず、マタイ6:7に“祈るとき,異国の人々のように同じことを何度も言ってはなりません。その人たちは,多くの言葉を並べれば聞かれると思っています。”とあり、祈りの仕方について述べている。そして天の父は必要としているものを知っていると続く。ピッタリの助けを差し伸べてくれるとは言っていない。」

「JWの長老などが良くするように長々と祈ったりするな、それはみっともないことだ、と言っているわけですね。」
「イエスの時代でも、人前で祈る時、自分の敬虔さを見せびらかすようなことをする人がいたけれど、イエスは神は何でも知っているんだから、なんでそんなに言葉を長々と並べる必要があるの?と皮肉っているわけだね。その後イエスは祈りのお手本を示すけれど、きわめて簡潔なもの。」

「8節で“聖書は良い判断をするための知恵の宝庫です。”とあります。そんなことないでしょう。格言22:15には“愚かさが少年の心に深く根差している。懲らしめのむちがそれを取り除く。”とあります。格言23:13,14には“少年を懲らしめるのを控えてはならない。むちで打つ場合,彼は死なない。 彼をむちで打つべきである。彼を墓から救うためである。”とあります。体罰推奨です。これは良い判断ですか?」
「聖書のおかげでどれほどの数の子どもが暴力的で野蛮な育てられ方をしたのかと思うと、聖書って有害だよね。」

「格言21:14には“ひそかな贈り物は怒りをなだめ,秘密の賄賂はすさまじい怒りをなだめる。”とあります。これはよい判断ですか?」
「相手によるでしょう。でも相手がJWなら贈り物や賄賂を渡すというのはいい判断なんじゃないの?こんなことは真面目な人には思いつかないから、聖書は本当に知恵の宝庫だね。」

「9節に“聖書には,私たちと同じような普通の人たちがエホバに頼って支えてもらったという記録がたくさんあります。(ヘブ 11:32-34。ヤコ 5:17)”とありますが、引照聖句に出てくる人は、“ギデオン,バラク,サムソン,エフタ,ダビデ,またサムエルやほかの預言者”ですよ。“普通の人たち”というより特別に選ばれた人たちですよ。」
「将来、天の支配者となる統治体の老人から見れば、旧約聖書に出てくる人たちなど普通の人に過ぎないということでしょう。」

「英文ではtrue-life accounts (実話に基づいた記録)とあるのに、単に“記録”と訳しています。翻訳者は旧約聖書の話を実話と思っていないということですね。」
「サムソンがロバの骨で1000人を打ち殺した話を実話と信じるには知性がありすぎるのだろう。」

「10節は“できること”で、“聖書を毎日読み,自分にとって力になる聖句のリストを作りましょう。”とあります。サムソンの話なんか読んだ方がいいですか?」
「組織としては、組織の出版物さえ読んでいればいいとは、言えないから、一応聖書を読みましょうと言っているだけ。本当は聖書など読まなくてもよいと思っているよ。」

「11から14節が“仲間”です。  11節に“エホバは私たちが忍耐できるよう,仲間も与えてくれています。”とあります。はじめは嫌なJWと付き合うことで、嫌な人間に対して忍耐力がつく、という意味と思ったのですが、違うようです。」
「11節で“今どんな問題にぶつかっているとしても,似たような経験をし,頑張ってきた仲間がいるということです。そうであれば,自分も耐えられると思えるのではないでしょうか。”とある。あんな間抜けなJWでも耐えているんだから、自分も耐えられると自信が持てるということじゃないかな?」

「13節はロシアのマヤ姉妹の話です。裁判にかけられるのですが、“兄弟姉妹から電話や手紙をもらいました。愛されているんだと実感しました。”と言っています。仲間が裁判にかけられているときは、電話や手紙くらいしなさいという指示ですね。」
「大多数はかかわりになるのを恐れて、知らんぷりなんだろう。ここでロシアの話を持ってきたね。迫害の恐怖をあおるのに都合がいいからね。」

「英文ではthe brothers and sisters called and wrote, assuring me of their love(兄弟姉妹たちは電話や手紙で、愛を伝えてくれました)ですよ。“愛されているんだと実感しました。”とは書いていません。」
「話をそうとう盛っているね。」

「14節は“できること”で、“つらい時,仲間のそばにいるようにしましょう。長老に相談することをためらわないでください。”とありますが、無能な長老に相談しても時間の無駄ですよ。JWの長老は無知無学で社会的経験ゼロで親と同居している21歳の若造でもなれる中間管理職に過ぎません。」
「14節で“聖書の中で長老たちは,「風から逃れるための場所,暴風雨から避難する ための場所」と呼ばれています。(イザ 32:2)”とあるけれど、でたらめだね。イザヤ32:2がJWの長老のことを言っているわけがないよ。」

「15から18節が“希望”です。  15節には“エホバは私たちが忍耐できるように希望を与えてくれています。”とあります。そしてイエスの話が出てきます。JWらしくないですね。」
「15節に“イエスは希望を持っていたので,人生で一番大変な日にも忍耐できました。(ヘブライ 12:2を読む。)”とあるけれど、引照聖句には“希望”は出てこないよ。“イエスは,前途にある喜びのために”とあるだけ。」

「15節には、イエスは“天の王国で14万4000人と一緒に王になることも楽しみにしていました。”とあります。イエスにそんな楽しみがあったなんか知りませんでした。」
「JWにとって、イエスは144000人の一人と同格な存在に過ぎないということのようだね。イエスより偉いのは統治体というのがJWの教義のようだね。」

「16節では再びロシアの話です。アラ姉妹は“将来の希望について祈り,じっくり考えることによって,絶望的な気持ちにならないように守られています。”といっていますが、“将来の希望”とは何か、もっと具体的に言って欲しかったです。」
「英文ではthe Kingdom hope(王国の希望)とあるよ。ハルマゲドンが来て、JW以外が皆殺しになって、新しい体制でJWだけが楽しく暮らすという希望のことじゃないの?こうやって耐えているのがJWなわけだ。」

「17節が“できること”で、“エホバが約束している素晴らしい将来について,じっくり考えてください。新しい世界に自分がいて,どれほど幸せな生活をしているかをイメージしてみてください。”とあります。これって希望と言っていいものですか?」
「希望というからには、ある程度の実現可能性がないとダメだろう。JWの自然豊かな環境で果物を食べながらパンダと遊ぶ楽園はJWが聖書の2.3の部分から思いついた実現可能性ゼロの楽園だから、希望というよりは楽園願望とか楽園幻想と呼ぶべきもの。」

「イメージしなさいと言っているのに、この記事には楽園想像図がありません。パンダの絵くらい簡単に書けるでしょう。」
「組織は従来型の楽園想像図をAIをつかった未来的な想像図に変えようと思っているのかも。」

「17節ではさらに“また,自分の信じていることを周りの人に伝えるためにベストを尽くしましょう。エホバに仕えていない人たちがどんな毎日を送っているか考えてみてください。いろいろな問題にぶつかっていても,明るい将来が待っていることは知りません。”とあります。伝道に励めという指示です。」
「誰もまじめに受け取らないからだいじょうぶ。でもJW以外の人は“明るい将来が待っていることは知りません。”と断定しているのは滑稽だね。JWのほうが老後を思って暗い気持ちになっているでしょう。」

「18節はたとえ話が出てきます。重い病気で苦しんでいる人の治療法が見つかったという設定です。“医師の話を聞いて,その人は安心します。しばらく時間がかかるとはいえ,病気が必ず良くなるということが分かったからです。それで,頑張って病気と闘っていこうと思えるようになります。私たちにも,パラダイスが必ず来るという希望があるので,今つらくても忍耐し続けることができます。”というものです。JWは重い病気に苦しんでいる人のようだ、ということですね。気の毒です。治療法は楽園の希望と言うインチキ療法ですか?絶望的になりますよ。」
「終末カルトはそういうもの。具体的な改善など考えない。終末が来て全て解決してくれると信じて、何もせず、耐えるだけ。さっさとやめよう、JW。」

聖書についての質問
2025年10月10日 14:21:06

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“満足する「秘訣を学び」ましょう(31)”で、不満だらけのJW人生なので、満足する秘訣を学ぶ、という内容です。」
「具体的に取り上げられている問題は食べ物と特権。JWの代表的な不満の種がその二つなのだろう。JWは本当に情けない人生を送っているね。」

「1節に“今の自分に満足することは大切です。”とありますが、そのあとに“とはいえ,現状に甘んじて自己満足に浸るのは良くありません。”とあります。矛盾していませんか?」
「英文ではa Christian rightly reaches out for opportunities to expand his service.(クリスチャンは奉仕を拡大する機会を積極的に求めます)とあり、JWは生活全般には満足すべきだけど、奉仕活動だけは現状に満足するな、もっとやれということ。厳しいね。」

「日本語版では、そこは文章を変えていますよね。“エホバのためにもっとしたいという気持ちで,できることに取り組みます。”とあいまいな内容になっています。」
「狂信度を減らしているね。これ以上信者をムチ打つようなことを言いたくなかったのかも。」

「2節では珍しくJWの犯罪を明らかにしています。“お金や物を盗んでしまったクリスチャンもいます。”とあります。」
「生活苦のJWが多いからね。でもこういう時は“クリスチャン”という言葉をつかうのがずるいね。エホバの民とかエホバの証人と言って欲しい。」

「4から7節が“感謝の気持ちを持つ”です。  満足するための秘訣①です。4節に“満足するためには感謝の気持ちを持つことが大切です。(テサロニケ第一 5:18を読む。)”とありますが、引照聖句には“全てのことに感謝してください。”とあるだけで、感謝すると満足感が生まれるとは書いていません。」
「これは不満を言う信者には、感謝の気持ちが足りない!と叱りつけていい、というメッセージだね。そうやって罪悪感を覚えさせるわけだ。恐怖と罪悪感はカルトが信者を操縦するためのよく使う道具。」

「5節は旧約聖書の話です。“イスラエル人は何度もエジプトで食べて いたものを思い出してはエホバに文句を言いました。(民 11:4-6)”とあります。そして“では,イスラエル人はどうして文句を言ってしまったのでしょうか。食べ物がなかったからではありません。今あるものに感謝していなかったからです。”と解説しています。違うでしょう。」
「食べ物に不満なのは食べ物に感謝していなかったから、というのは説明になっていない。同語反復だね。同じことを別の表現で言っているだけ。」

「引照聖句には“それが今,私たちは痩せ衰えている。目にするのはこのマナばかりだ。”と不満の原因をはっきり書いていますよ。」
「人間は同じものばかり食べさせられれば嫌気がする。そういうように創造されたんじゃないの?神ならそれがわかっているはずだから、なぜ多様な味のマナをつくらなかったのか不思議だね。」

「神は出エジプトしたイスラエル人をそう大切に思っていないからですよ。」
「そうだろうね。荒野で野たれ死にさせるつもり。約束の地に行くのは次の世代。愛ある神だね。」

「民数記11章では、神はそのあと“丸1カ月,肉が鼻から出て,肉にうんざりするまでである。”と肉を大量に与える約束をして、イスラエル人を喜ばせますが、どうなったかというと“しかし,肉を口に入れて食べている間に,民に対してエホバの怒りが燃え,エホバは民を打ち始め,非常に大勢の人を滅ぼした。”という結末です。無茶苦茶な話です。神は信用できません。」
「聖書の神は気まぐれな暴君にすぎない。だから不満を言ってはいけないというありがたい教訓だよ。死にたくなかったら文句を言うな!!!」

「6節は感謝の気持ち強化法です。3つあります。” まず,毎日時間を取って,その日あった良いことについて考えるようにします。感謝できる2つか3つのことを書き出してみるのはどうでしょうか。”、”2つ目に,感謝をきちんと言葉で伝えるようにしましょう。”、” 3つ目に,感謝の気持ちが厚い人たちと友達になりましょう。”です。これを実行すれば感謝の気持ちが強まるようです。」
「感謝の気持ちというのは自然に生まれるものではないの?こんな手の込んだ方法を実行しないといけないJWは感謝の気持ちに欠けた人ばかりということね。」

「6節には“誰よりもまずエホバに感謝しましょう。”とあります。朝が来るのも、夜になるのもみなエホバのおかげと感謝するわけですね。」
「そういうわけで、会話の端々に“エホバのおかげで”という単語を挟むと、模範的なJWと思われるよ。」

「7節はアチー姉妹の話です。“毎日,エホバのおかげで味わえた幸せを一つ一つかみしめました。エホバの家族の1人だからこそできているうれしい経験を思い出すようにもしました。そして,感謝の気持ちをエホバに伝えました。そうすると,自分はなんて恵まれているんだろうと思えるようになりました。”とあります。ウソ臭い話ですね。JWがそんなに幸せな経験をするとは思えません。」
「伝道先では怒鳴られ、集会や大会では退屈な話にうんざりし、職場や学校ではカルト信者とバカにされ、会衆内では些細なことで批判され、そのうえ低賃金の仕事で消耗し、毎日がつらくて苦しいのがJWじゃないの。」

「8から11節は“エホバに目を向け,謙虚でいる”です。  満足するための秘訣②です。特権がもらえないという不満を扱っています。」
「特権の有無はJW人生の満足度に大きく影響するからね。」

「8節は“預言者エレミヤの秘書官バルク”の話です。“ある時,バルクは大切なことを見失ってしまいました。エホバが期待していることではなく,自分のことばかり考えてしまい,自分のしたいことをするようになりました。”とありますが、聖書のどこにそんなことが書かれていますか?勝手な推測です。」
「バラクが最初に登場するのはエレミヤ32:12で“マフセヤの子ネリヤの子バルク”とある。エレミヤ51:59には“預言者エレミヤが,マフセヤの子ネリヤの子セラヤに命じた言葉。(中略)セラヤは補給係の長だった。”とある。それでバルクはセラヤの兄弟で、セラヤは高い地位にあることから、バルクは高貴な家柄の出身で本来なら高い地位につけたと思われている。古代の歴史家のヨセフスによると、非常に有能な人だったらしい。当然野心もあったはずだけれども、それを抑えて、エレミヤという預言者に仕えて、苦難の道を選んだ人。」

「9節は現代のJWの話です。” もし自分がしたいと思っている奉仕をほかの人がすることになって納得がいかない場合,どうすればいいですか。”とあります。英文では”奉仕”ではなく、privilege(特権)ですよ。特権を他人に取られたらどうすべきか、と尋ねているのです。マイク係という特権を11歳の子どもに奪われるなんてことがありますからね。」
「日本語翻訳者は特権というばかげた言葉を使いたくないようで、別の言葉に変えることが多いね。」

「9節には“パウロがコリント第一 4章6,7節で書いていることをじっくり考えることが大切です。(読む。)どんな奉仕の機会もどんな才能も,全てエホバからもらったものです。自力で手に入れたものでも,もらって当然のものでもありません。”とあります。特権とはいつ奪われても仕方がないものと考えろ!ということですね。」
「引照聖句には“あなたの何が他の人より優れているのですか。あなたが持っているもので,もらったのではないものがあるのですか。”とあるけれど、これはJWの特権のことを言っているわけではない。他人より優れていると感じさせる高い知性や性格の強さなどを言っている。聖句の誤用だね。」

「10節では珍しくイエスが登場します。“もっと謙虚な人になるには,イエスの手本をじっくり考え,イエスに倣うことが大切です。”とあります。使徒たちの足を洗った話が出てきます。」
「JWではイエスは謙虚さのお手本程度の存在だね。聖書の中では他に謙虚さのお手本になるような人が少ないからね。」

「11節はデニス兄弟の話です。“例えばほかの人が何かの奉仕をすることになると,どうして自分じゃなかったんだろうと思ってしまいます。そういう 時は謙虚さをテーマに勉強するようにしています。JW Library®で謙虚さに関係した聖句にタグを付けて,すぐ見返せるようにしています。スマホに謙虚さについての話の動画をダウンロードして,ちょくちょく聞き直すようにしています。”とあります。これが謙虚さ獲得法のようです。他人に特権を取られることがそんなに悔しいとは珍しい人ですね。架空の人物ですか?」
「つまらない雑用を特権と呼んで、バカな誰かにやらせようとしているだけなのに、そんなこともわからないなんて。ひょっとしたら10歳なのかも。」

「12から15節が“希望を見つめる”です。  満足するための秘訣③です。JWらしいたわごとが続きます。12節では“(イザヤ 65:21-25を読む。)新しい世界では,みんなが居心地のいい家に住み,やりがいのある仕事を持ち,おいしくて健康に良い食べ物を楽しめます。自分や子供たちが危険な目に遭うのではないかと心配することはありません。”とあります。定番の聖句ですね。」
「いつも言っているけれど、そこに描かれているのはハルマゲドン後の楽園ではない。イザヤ65:20には“寿命を全うしない老人もいなくなる。罪人は100歳であっても災いを受け,100歳で死んだ者も少年と見なされるのである。”とある。ただ長生きするだけで、永遠の命があるわけじゃない。この部分は引用しないよね。引用されている部分でも“私の民の寿命は木の寿命のようになり”とあり、木のように長生きすると言っているだけ。永遠に生きるわけではない。」

「イザヤ65:21には“人々は家を建てて住み”とあります。家の建て方なんかほとんどの人は知りませんし、必要な技術も道具も持っていません。」
「粗雑な掘っ立て小屋みたいなところに住むということでしょう。夏は熱中症で死ぬほど暑く、冬は凍死するほど寒い。」

「13節は楽園幻想です。” エホバはパラダイスで単に必要なものだけではなく,良いものをあふれるほど与えると約束しています。(詩 9:18; 72:12-14)”とあります。しかし、引照聖句はハルマゲドン後の楽園のことを言っていません。それから” 神は新しい世界で病気も死もなくしてくれます。(啓 21:3,4)”とあります。でもペットなどの動物は死ぬというのがJWの教義ですから、死はあるわけですよ。動物の死体は誰が片付けるのですか?動物たちは皆草食に変えられているわけですよ。」
「死体処理は特権と称して、一番トロイ奴にやらせるんだよ。」

「パラダイスという言葉自体聖書の中にほとんど出てきません。そもそも地上の楽園などという思想はありませんよ。」
「旧約聖書ではパラダイスは3回出てくるけれど、いずれも楽園ではない。例えばネヘミア2:8に“『王の公園』の管理人アサフへの手紙もお願いいたします。”とあるけれど、パラダイスは公園と訳されている。新約でもJW的な未来の楽園としてパラダイスが用いられているのは啓示2:7の“私は,征服する人に,神のパラダイスにある命の木の実を食べることを許します。”だけ。」

「14節は奇妙なことが書かれています。“遠くの物をはっきり見るために眼鏡が必要なように,将来のパラダイスをはっきりイメージするためには,意識的な努力が必要です。”とあります。楽園メガネをかけて、現実逃避しなさいといっています。」
「日本語には“色眼鏡で見る”という慣用句があるけれど、英語ではそんな慣用句は知られていないようだ。だからメガネのたとえを使ったのだろうけれど、日本人にはこっけいに聞こえる。“色眼鏡で見る”とは、先入観や偏見にとらわれて物事を公平に、または客観的に見られない状態を比喩的に表す表現。それを実行しなさいということだ。」

「そのあとには“経済的な心配で頭がいっぱいになったら,お金も借金も経済格差も全くなくなる,将来の生活を思い描いてください。やりたい奉仕ができなくてもどかしく思っているなら,完全になってずっとエホバに仕えられる将来を思い描いてください。”とあります。もっとましなアドバイスは思いつかないのでしょうか?こんなことを言っているからJWはバカにされる。」
「“奉仕”とあるけれど、本当は“特権”だからね。ここでも貧困と特権が取り上げられている。JWにとってこれらが人生最大の問題なんだね。」

「おなかのすいている人に、おいしいごちそうを思い描いてください、そうすれば空腹に耐えられます、と言っているようなものです。」
「組織はお金は結構あるはず。空腹な人に食べ物をあげることぐらいはできるはず。でもそれはする気がない。ヤコブ2:15,16に“兄弟や姉妹が,着る物を持っておらず,その日に食べる物も十分にないとします。それなのに,皆さんのうちの誰かが,「安心して過ごしてください。温かくして,たくさん食べてください」と言うだけで,体に必要な物をその人に与えないなら,何の価値があるでしょうか。”とあるよ。まるでJWのことを言っているようだ。」

「不思議なのはここに楽園の想像図がないことです。楽園を思い描けといっているわけですから、素敵な想像図をここに挿入すべきですよ。」
「山があって、滝があって、湖があって、果物を食べながら、パンダの頭を撫ぜるというような想像図はもはや受けないんだよ。それって地球のどこにあるんですか、今年の夏に行きたいと思います、と質問が来るんだよ。組織も冗談のネタにされないような楽園を思い描くことが困難になっている。」

「15節がクリスタルの話です。“私は進行性の筋肉の病気を抱えていて,ほぼ一日中寝たきりで,移動する時には車椅子を使っています。毎日,痛みと闘っています。最近,お医者さんから回復の見込みは薄いと言われました。”とあります。深刻な状態ですが“私は将来の希望に目を向けていて,穏やかな心でいられます。”と言っています。良かったですね。でも、こういう難病の人でも伝道をし、集会に参加しなくてはいけないのがJWです。それをさぼるとハルマゲドンで滅ぼされます。病気は奉仕や集会を休む言い訳になりません。」
「こういう難病の人をターゲットに、楽園幻想を振りまいて伝道活動しなさいというメッセージかな?難病の人は危険なカルトにだまされないようにね。」

「16、17節は“神を畏れる人は何も不足しない”です。  この表題は詩編34:9からの引用です。“どういう意味でしょうか。エホバに仕える人がいろいろ大変な思いをするとしても,本当に必要なものに不足することはないということです。(詩 145:16)”とありますが、違います。“何も不足しない”といっていますから、何も不足しないという意味です。引照聖句には“あなたは手を開いて,生きている全てのものの願いをかなえる。”とありますから、全ての願いをかなえてくれるはずです。聖書って嘘ばかりですね。」
「詩編に書かれているのは神の約束じゃないよ。神への賛美や祈りや嘆き、訴え等々。神の約束や保証と理解するJWがおかしいの。」

「17節がまとめで、“これからも満足する秘訣を学ぶようにしましょう。感謝の気持ちを持ち,エホバに目を向け謙虚であり,希望を見つめるなら”満足できると言っています。説得力ゼロでした。」
「より満足できる人生を歩みたければ、まずJWをやめること。これが秘訣。」

聖書についての質問
2025年10月03日 13:49:35

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“聖書の基本的な教えから学び続ける(30)”で、JWの教義の基本を教え、組織に服従することを学ぶという 内容です。」
「この記事では、今は終わりの時代と強調している。そして、終わりの時代だから伝道に励めという話になる。JWは大変だ。」

「1節に“聖書の基本的な教えを学んで,私たちの人生は大きく変わりました。神にエホバという名前があることを知って,エホバとの友情が芽生えました。(イザ 42:8)”とあります。ウソでも繰り返すと本当になると信じているようです。」
「聖書の神の名前はエホバではない。それから神と友だちになるというのも聖書的ではない。聖書のどこに神の名前を知ると、神と友情が芽生えると書いてあるの?引照聖句には“私はエホバ。それが私の名。”とあるけれど、JWが“エホバ”と勝手に決めつけているだけ。」

「1節には、そのほかに“死んだらどうなるか”、“地球がパラダイスになる”、“人生はたった70年や80年で終わるのではなく,いつまでも続いていく”とあり、これがJWにとって聖書の基本的な教えのようです。ずいぶんわかりやすい単純な教えです。」
「神の名はエホバで、死んだら眠っているようになるだけで、地上の楽園で永遠に暮らす。これが聖書の基本的教え?伝道という新規の信者集めの時の宣伝文句の基本でしょう。」

「前607、1914、1919という数字は?重なる世代の教えは?北の王とか南の王の話は?ダニエル書とか啓示の書の預言の話が聖書の基本的な教えと思っているJWは多いと思いますよ。それから宇宙主権論争は聖書の基本的な教えではないのですか?」
「1914などはすっかり見ることが減ったね。不都合なので、なるべく触れずにいこうということでしょう。」

「3節では“クリスチャンとして成長しても,聖書の基本的な教えから学べる新しいポイントがあるものです。例えで考えてみましょう。”と、またへんな例えが出てきます。“経験を積んだシェフと新人のシェフが同じ食材を使って料理を作るとします。経験を積んだシェフは,素材の魅力の引き出し方を学んできたので,同じ食材でも新しい料理や独創的な料理を作ることができます。”とありますが、学ぶことと関係ないですよ。経験のある人は同じ素材でも新しい料理を作れるというだけです。」
「JWにとって、聖書を学ぶということは、聖書を素材にして、新しいヘンテコな教義を作り出すことなんだよ。そういうわけで、執筆者はこれはよいたとえだ!と自己満足に浸っているよ。」

「3節には“私たちの状況や奉仕の種類は変化するものです。それで以前に学んでよく知っている教えでも,今の自分の状況に照らして考えると,役立つ新しいことをいろいろ学べます。”とあります。もっともらし表現をしていますが、要するに、時代と共に教義が変化して、昔と今では反対のことを教えていることさえあるけれど、それについて文句を言うなというわけですね。」
「後でヒゲのことがでてくるけれど、そういうことだね。JWは自分は思考力ゼロの愚か者と謙虚に考え、組織の決定がどんなにヘンテコでも、神の決定として黙って受け入れろというのがこの記事の主旨。」

「4から7節が“エホバは全てのものを造った方”です。  5節に“エホバが全てのものを造ったことを考えると,謙虚な気持ちにさせられます。”と、謙虚さが押し付けられます。」
「いくつか聖句が引用されているけれど、これは神に対して謙虚でありなさいということで、ニューヨークに居る統治体の老人たちを神のごとく扱って、服従しなさいということではない。」

「5節で“預言者イザヤも後の時代にこう書いています。「粘土が陶芸家に向かって,『何を作っているのか』などと言うだろうか」。(イザヤ 45:9-12を読む。)”とあります。人間のことを粘土と言っているわけですが、これを信者に読ませるのは、組織のために無給で働いてくれる信者に対する敬意を欠いていますよ。」
「これから平信者は何か仕事を押し付けられたら、私たちは粘土ですから、できません、と言って断ればいい。もちろん粘土だから寄付もしない。」

「6節に“経験を積んでいくと,エホバや聖書の教えに頼るのではなく,自分の考えにこだわるようになるかもしれません。”とあります。自分で考えるな、組織に盲従せよ、というメッセージです。カルト信者に思考力は不要です。」
「昔からの古い信者には最近のJWの在り方に批判的になっている人が増えている。年寄りのJWの中には、これは自分が若いころの宗教とは違う、という意見を持つ人は多い。そう言う老人を粘土のくせに生意気だと怒っているわけだ。」

「7節でヒゲのことが取り上げられます。JWにとってヒゲを許可したことが大きな問題となっているようです。終わりが近いと叫んでいる組織のくせにこんな問題が重要テーマなんて笑えます。」
「ヒゲと女性の服装は終わりの終わりの時代における緊急の大問題というのがJWの見解なのでしょう。」

「7節はラヘラ姉妹の話です。“顎ひげの兄弟が話をするのを見て,気持ちがざわざわしました。それでこの変化に付いていけるよう助けてください,とエホバにお願いしました。”とあります。この姉妹はヒゲを生やした男性を見たことがなかったのでしょうか?」
「英文ではI was shocked(ショックを受けました)とある。それまで髭を生やした男性を見たことがなかったんだよ。それを“気持ちがざわざわしました。”と訳してごまかしているのはいただけないね。」

「ヒゲのことを巡回監督に文句を言う信者が結構いて、巡回監督からさらに上に伝わったんでしょう。統治体はヒゲ問題に何か手を打たなくてはと考え、ラヘラ姉妹の話を創作したんじゃないですか?」
「創作は後半部分でしょう。“姉妹は,全てのものを造ったエホバなら必ず良い方向に組織を導いていけると思えるようになりました。”とある。これは組織が信者に思わせたいことそのもの。統治体の決定をエホバの決定と思わせるわけだ。」

「ということは、宇宙の創造者は、世界にはいろいろな問題があるのに、ヒゲを生やしていいとか、悪いとかといった問題を非常に重大視していて、最近になってヒゲを生やしていいと考えを変えたということですか?神を滅茶苦茶マンガ的な存在として想定しています。」
「JWではエホバは服装や身だしなみを細かく管理することに熱心な風紀取り締まり係程度の存在にすぎないということだね。」

「ヒゲの解禁は、信者を細かく管理する宗教が嫌われるようになったので、管理を少し緩めて、信者数を増やそうという、顧客獲得戦術の変更に過ぎません。そんなことに、いちいち神を持ち出すJWにはうんざりします。」
「そう感じないように組織は信者を何でもエホバのおかげと思い込むように訓練している。朝ごはんが食べられたのはエホバのおかげ、トイレットペーパーがあったのはエホバのおかげ、天気がいいのはエホバのおかげ・・・、と言ったように教え込んでいる。」

「8から11節が“つらいことが起きるのを神が止めない理由”です。  8節に“つらいことが起きるのを神が止めないのはどうしてか,理由を知らない人たちは,神に腹を立てたり,神なんていないと思ったりします。”とあります。こういう不満がJWの中に増えているということですね。それでこの問題を取り上げたのでしょう。」
「祈っても無視するだけの神だと、嫌気がするし、何の役にも立たないのにあれこれ要求だけはしっかりする神には敵意すら感じるでしょう。ハルマゲドンの恐怖で脅かすのは、今では批判を受けるのであまり使えないのが組織としてはイタイね。残るのは楽園幻想だけど、あまり効果的じゃないようだ。」

「8節では“悪いことが起きるのはエホバのせいではないと知っています。人間が罪と不完全さを受け継いでいるせいです。”と断定しています。宇宙の創造者はエホバなのですから究極的な責任はエホバにあるに決まっています。エホバを擁護しようとして、人間のせいだと決めつけているだけです。」
「自然災害は誰のせいなの?自然災害で毎年多くの人が苦しみ、亡くなっている。台風や地震も人間の罪と不完全さのせいなのか?地球の設計に問題があるんじゃないの?」

「9節が信者に対する指令です。“私たちはエホバが悪いことを終わらせるのを辛抱して待たなければいけません。”とあります。要するに、楽園を夢見て耐えろ、我慢しろ、です。」
「こんなたわごとは説得力ないよ。組織は今苦しんでいる信者を救うことに積極的にならないと、この組織の未来はない。とりあえず長年JWのために働いた生活苦の老人たちに現金給付したら。」

「10節が母親を亡くしたアン姉妹の話です。“こういうつらいことが起きるのはエホバのせいじゃない,と繰り返し自分に言い聞かせる必要がありました。エホバは悪いことを全部終わらせ,亡くなった人たちを生き返らせたいと思っています。”とあります。人間の苦しみに何の役にも立たない宗教ということがわかります。この姉妹は母親の死という苦しみを結局一人で乗り越えたのですよ。」
「“エホバのせいじゃない,と繰り返し自分に言い聞かせる必要がありました。”と言う言葉は痛々しいね。この姉妹はあれだけエホバに仕えてきたのに、あれだけエホバに祈ったのに、何の意味もなかったという事実を否定するために、何度もこれはエホバのせいじゃないと自分に言い聞かせたわけだ。その時誰も助けてくれないのがJW。」

「11節はこの組織の残酷さがよくわかります。“神がつらいことをすぐになくさない理由について考えると,頑張って伝道を続けようという気持ちになります。”とあります。もっと伝道しろという要求です。ペテロ二3:11を引用し“「神への専心を行動に表[す]」1つの方法は伝道することです。”と言っています。ウソですよ。」
「それはJWの思想だね。ペテロの手紙二に伝道のことなど出てこない。旧約聖書には伝道するという思想はないし、新約聖書でも伝道することを信者に求める箇所はほとんどない。」

「11節の最後には“終わりが来る前に,できるだけ多くの人がエホバについて学べるよう助けていきましょう。(コリ一 3:9)”とありますが、いつものことですが引照聖句の誤用です。そこには“私たちは神と共に働く者だからです。皆さんは,神が耕している畑,神の建物です。”とありますが、ここでいう“私たち”とはアポロとパウロのことです。一般の信者は“神が耕している畑,神の建物”ですよ。」
「終わりが近いと言って、信者にタダ働きをさせようというのが組織の方針だからね。フィリッピ1:15に“確かに,ねたみや競争心からキリストについて伝道している人もいますが”とあるけれど、まるでJWのことを言っているよう。もっともJWはキリストのことは伝道していないけれどね。」

「12から15節が“今は「終わりの時代」”です。  やはりJWは終末論が基本の基本です。12節には“聖書は「終わりの時代」にどんな人たちが多くなるか予告していました。(テモ二 3:1-5)世の中の様子を見ると,確かにその通りになっています。人々の考え方や行動がどんどん悪くなるにつれて,聖書の言葉への信頼は強まっていきます。”と、いつものことですが、根拠のないことを言っています。」
「奴隷制のある19世紀より奴隷制のない現代のほうが悪い時代と、アメリカの黒人に伝えているのか知りたいね?JWの教えは無知無学な人向けということがよくわかる。」

「13節では“今は終わりの時代なので,何を一番大切にして生きるべきか,よく考えなければいけません。”とありますが、英文ではそんなことを言っていません。」
「We respond to the truth that we are living in the last days with a sense of urgency.(終わりの時代を生きているという真理に緊急感を抱いて行動します)で、ポイントは“緊急感a sense of urgency”だ。それを優先順位の話にすりかえたのは、緊急感なんて誰も感じていないからだろうけれど、後の文と整合性を持たせるためかも。」

「13節ではルカ12:15-21のたとえ話が取り上げられます。裕福な人がたくさん農作物を収穫し、それを入れる倉を新たに作ろうと考えます。そして“おまえはたくさんの良い物を何年分も蓄えることができた。楽にして,食べて,飲んで,楽しめ。”と自分に言い聞かせると、神によって“無分別な者よ,今夜,あなたの命は取り上げられる。”と言われるわけです。この人の何がいけないのですか?13節では“優先順位を間違えていたからです。”とありますけど違いますよ。」
「この人に新たに倉を作らなくてはいけないほど収穫があったというのは、奇跡的な収穫があったということ。つまり神の働きがある。これはヨセフの話を思い起こさせる。そこでは奇跡的な収穫の後に飢饉が起こる。倉にある食料を飢饉で飢えた人に使うために神は奇跡的な収穫をもたらした。ところが、この裕福な人は蓄えた収穫を自分のためにつかうと言っている。ここで神の怒り爆発。今夜死ね!!!となった。自分の持てる者をどう使うかという問題。持てる物を多くの人に役立つような賢明な使い方をすることが愛の実践という思想が背景にある。」

「13節にあるJWの結論は“自分の体力,時間,お金を何のために使っているだろうか。自分のために宝を蓄えているだろうか,それとも天に宝を蓄えているだろうか。”と自問せよ、です。もとのたとえ話とだいぶずれていますね。まじめに働くよりも組織のために無償で奉仕することを優先せよと言いたいわけです。でも“天に宝を蓄えよ”なんて書かれていません。それは別のたとえ話です。」
「そういう細かいことを気にしないのがJWだ。このたとえ話を統治体こそ自分たちに当てはめて、反省した欲しいね。世界中の信者からお金を集めて、新しい本部やスタジオを建設し、これからは楽にして、食べて、飲んで、楽しもうと考えているようにみえるよ。寝ている間に心臓発作が起きるかも。」

「14節が獣医になりたかったミキ姉妹の話です。反高等教育のプロパガンダです。“終わりが近いし,新しい世界では好きなだけ動物について勉強できるよ,とも言ってくれました。それで,大学に行くのではなく,自活するのに役立つ技術を短期コースで学ぶことにしました。その後,開拓をするのにちょうど良い仕事が見つかり,伝道者がもっと必要なエクアドルに引っ越して奉仕することになりました」。姉妹は今もエクアドルにいて,夫婦で巡回奉仕をしています。”というものです。気になるのはこのミキ姉妹は今は何歳なのかということです。けっこうな年齢じゃないですか?大学に行って、獣医師になってからでも、十分開拓奉仕を楽しめたんじゃないですか?」
「これも本人がそう言っているというだけで、本当は獣医師になれる可能性はほとんどなかったのかもよ。自分はこんなすごい未来があったけれど、エホバに仕える道を優先して、それをあきらめ、今では長老ですとか開拓者ですというのは何度も聞いた定型化した話だ。」

「15節は親族に伝道するようにという指令です。イエスの弟ヤコブの例を持ち出した後、“それで,今は聖書に興味がなさそうな家族や,良い知らせを聞こうとしない人たちにも,繰り返し伝えるのは大切です。”とあります。そんなことをしても無駄どころか、反感を買うだけというのはJWなら知っていますよ。」
「そのあと“今は終わりの時代なので,伝道できる時間はあとわずかです。”とあるのには安心した。JWはこれからも終末論で行くつもりのようだ。10年後も、20年後も、今のJWが死に絶えた後も、そういい続けて欲しい。」

「最後の16、17節は“聖書の基本的な教えから学び続ける”です。  16節では“エホバの証人が提供する情報の中には,主に聖書の基本的な教えを知らない人を対象にしたものもあります。”と、JWの情報のレベルが素人向けと認めています。」
「昔は雑誌が頻繁に発行され、量的にも、中身も、今より充実していたという感想はよく聞くね。このレベルの低下は教育水準のより低い層をターゲットにするマーケティング戦略の産物なのか、それともある程度のレベルの記事を書ける執筆者はみな辞めてしまったせいなのかな?」

「17節はまとめです。謙虚であれ、辛抱せよ、終わりの時代ということを忘れるな、そんなことを言いたかったようです。聖書の基本はどうでもいいようです。」
「その結果、統治体には謙虚で、盲目的に服従し、どんなつらい目に会ってもひたすら辛抱し、間もなく終わりが来ると信じて数年後のことまでしか考えない人間が出来上がるわけだ。」

聖書についての質問
2025年09月26日 14:19:55

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“上手にアドバイスするには?(29)”で、主に長老たちにアドバイスの仕方を教えるという内容です。」
「どこかの企業の中間管理職向けの研修会で使った古い資料を借りてきて、この記事を書いたかのように思えるね。無知無学で社会的経験ゼロの21歳の長老には、もっとしっかりした信者対応マニュアルが必要だよ。」

「JWは宗教を装った企業ですからね。企業のやり方を真似するのは自然なことですよ。」
「この記事は企業のマニュアルに愛とか聖書の話を混ぜて、宗教らしくしているだけのよう見えるね。」

「1節から愛が出てきます。“兄弟姉妹を心から愛しているなら,必要な時ためらわずにアドバイスを与えます。”とあります。違いますよ。組織の定めた規則に対する些細な違反を見逃さず、無給の従業員である信者をしっかり管理・矯正するためにアドバイスするだけです。」
「愛は関係ないでしょう。気軽に愛という言葉を使う組織は詐欺組織だから警戒しよう。ここで言うアドバイスというのは、JW的な言い回しで、実体は、このままでは排斥だぞ、という脅迫であり心理操作。」

「2節に“特に長老たちは上手にアドバイスしなければいけません。エホバとイエスから会衆の兄弟姉妹を世話する責任を与えられているからです。”とありますが、違いますよ。長老は巡回監督によって任命されているだけです。エホバもイエスも無関係です。」
「アメリカでは数多くの長老が犯罪者として逮捕され、刑務所に行ったよ。エホバもイエスも人事に関しては無能ということかな?」

「2節の下の囲みには“週日の集会でのアドバイス”という記事があります。そこには“話や実演の後,司会者は良かったところを褒めます。でも,指定された課やポイントの内容をどうすればもっと生かせるか,温かく具体的に伝えるとよい場合もあります。”とあります。まず、ほめてから、アドバイスしなさいというマニュアルですね。」
「これは全く役に立たないアドバイス。多くの人はそういうマニュアルがあることを知っている。最初の誉め言葉なんか、単なる社交辞令で、何の意味のないことぐらいおとなならわかるよ。回りくどい言い方をするよりも率直に言ってくれた方がいいという人もいるでしょう。」

「3節に“イエスは「素晴らしい助言者」と呼ばれています。(イザヤ 9:6を読む。)”とありますが、イザヤ9章はイエスのことを言っていません。理想の王が軍事的に敵を打ち破り、平和と正義の新しい時代が来ると言っているだけです。実現しませんでしたが。」
「例えばイザヤ9:4は“あなたは,彼らが負っていたてんびん棒や,肩を打つ棒や,仕事を割り当てる者のつえを粉々に砕いた。ミディアンの時と同じように。”とある。 “ミディアンの時”というのは、裁き人6から8章にある、ギデオンが侵略してきたミディオン人に対して決定的な勝利をおさめた日のことをいっている。この聖句はイスラエルを虐げるものが征服されるだろう、と言っている。イエスと関係ないよ。」

「3節の下に” アドバイスするときにイエスに倣う”という囲み記事があります。3つの”学べること”が出ています。その中に、イエスは” いつも敬意を込めて穏やかに話しました。”とありますが、違いますよ。」
「例えば、マタイ16:23には“しかし,イエスはペテロに背を向けて言った。「私の後ろに下がれ,サタン!・・・”と言っているよ。これも“敬意をこめて穏やかに” 話したといえるのかな?」

「4から8節が“アドバイスを求められたとき”です。  けっこうまともなことが書かれています。4節では“その分野に詳しい人に相談するよう勧める方がよい場合もあります。”と言っています。5節では病気の話を取り上げ、“あなたは医療の専門家ではありませんし,その分野の教育を受けたわけでもありません。そういう時はきちんと専門家にアドバイスを求めるよう勧めるのがベストです。”とあります。」
「医療に宗教がかかわることをだいぶ気にしているね。医療の全くの素人が医者に輸血はどうのこうの、輸血に変わる治療法がどうのこうのと説教するのがJWと思われている。そういうことは品の悪い冗談だからやめて欲しいね。」

「6節では“この分野なら自分にはアドバイスができると感じる時も,まず時間を取って,何を言うか考えるのは大切です。”とあります。すぐにアドバイスするな、少し待てということのようです。」
「JWが詳しい分野なんてあるの?高卒で開拓者の長老なんて、詳しいのはJWの教えだけでしょう。アドバイスを求められても、他の人に頼むのがベストということだね。」

「7節には預言者ナタンが登場します。“ダビデ王がエホバのために神殿を建てたいと言った時,預言者ナタンはぜひそうするようにとすぐに勧めました。でも,ナタンはまずエホバに尋ねるべきでした。エホバはダビデが神殿を建てることを望んではいなかったからです。(代一 17:1-4)”とあります。ナタンがエホバに尋ねるとエホバはすぐ答えてくれるのですか?もしそうならナタンって凄すぎます。」
「歴代一17:3では“その夜,神はナタンに言った。”とある。“私が住む家を建てるのはあなたではない”と神は言うわけだ。そして17:15では“ナタンは,この言葉全てとこの幻全体をダビデに話した。”とある。ナタンが神に尋ねたのではなく、神が幻という形で意思を伝えたことになっている。」

「歴代一17章のこの部分はサムエル二7章をもとにしたものですよね。ほとんど同じです。」
「違いもあるよ。サムエル二では“エホバのおかげで周囲の敵から守られ,安心できるようになった時”にダビデが神殿建設の話を言い出したことになっている。しかし、歴代一ではこれは削除されている。」

「サムエル二8章では周囲の国との戦争の話が延々続きますからね。“エホバのおかげで周囲の敵から守られ,安心できるようになった時”というのが全くおかしいわけです。それに気づいた歴代誌の作者はその部分を削除したのですよ。」
「そのほかに、サムエル二7章には“彼が間違ったことをするとき,私は人のつえ,人の子たちの殴打によって彼を戒める。”とあるけれど、歴代誌一ではこれも省略している。歴代誌ではイスラエルにとってよくないことは削除するね。」

「8節に“自分が良くないアドバイスをしたせいで相手がつらい目に遭うなら,アドバイスした側にも責任があるといえます。”とあります。意外です。組織はあれこれと信者に要求しますが、その結果信者がつらい目に遭っても、何の責任も取りません。」
「間もなく終わりが来るから、進学するな、貯金をするな、年金を払うな・・・などのアドバイスをした人はどう責任を取るべきか書いて欲しかったね。そういう問題が生じるから、余計なアドバイスはするなと言いたいのでしょう。」

「9から13節が“求められていなくてもアドバイスするとき”です。  信者の管理統制のために、アドバイスという名の脅迫をするわけです。9節には“長老たちは「道を踏み外した」兄弟姉妹にアドバイスしなければいけないことがあります。(ガラテア 6:1を読む。)”とあります。ガラテア6:1には“クリスチャンとして十分に資格がある皆さんは”とあるのですが、これは長老のことですか?」
「違うよ。訳がおかしい。単に“霊的な”とあるだけ。協会共同訳では“霊の人であるあなたがたは”となっている。ガラテアの会衆の人全員のこと。」

「ガラテアはパウロの初期の手紙で、組織宗教となる前の段階の会衆にあてられたものです。その初期段階で資格がどうのこうのなんてありえません。」
「JWでは階級制度を設けて、長老だけがアドバイスするというようにしたいので、それに合わせて聖書も変えるわけだ。聖書の改ざんはJWの得意技。」

「11節では“求められていないのにアドバイスを与えることは硬い土で植物を育てようとすることに似ています。”と言って、“まず土を耕して柔らかくします。そうやってふかふかになった土に種をまきます。それから,成長に欠かせない水を注ぎます。”と説明します。いきなり種をまくのではなく、土を軟かくしてから、種をまき、水をやりなさいと言っています。」
「12節で具体的に書いている。“長老は誰もが時には間違いをしてアドバイスを必要とするということを話して,いわば土を柔らかくします。(ロマ 3:23)”とある。引照聖句には“全ての人は罪人”とあるけれど、この聖句を長老が読み始めたら、何か文句を言われる前触れということだね。」

「次にアドバイスをし、“それから相手の頑張っているところを心から褒め,一緒に祈ることで,水を注ぎます。(ヤコ 5:15)”とあります。」
「これは昔からあるテクニックで、“ほめる→改善点を告げる→ほめる”というもの。別名“称賛サンドイッチ”。ほめ言葉の間に本当に言いたいことを挟むからサンドイッチ。どこかの企業の人事担当者に教えてもらったのかも。」

「つまり、これは企業のやり方で、宗教組織のやり方じゃないということですね。」
「JWは宗教に関する書籍と雑誌を売る企業として出発したことを忘れないように。」

「無知無学で社会経験ゼロの21歳の長老なら、ここに書かれているのは古臭い企業マニュアルに書いてあることと知らずに、この通りに平信者にアドバイスという名の脅迫をするのでしょうね。」
「長老がこのマニュアル通りにすると、平信者からは、おバカな長老と思われるだけ。そしてますます信頼されなくなる。」

「くだらないことを長々と言われるのが嫌な平信者は、お世辞か何かを言われた時点で、“さあ、はやく本題に入りましょう。”と言えばいいわけですね。」
「長老は平信者から指示されたり、抵抗されるのに慣れていないので、そういわれると混乱するだろうね。」

「くだらないアドバイスをまじめに聞く必要なんかないですよ。」
「アドバイスをうけたら、“聖書のどこにそれが間違っていると書いてあるか教えてください。”などと尋ねればいい。それから、“これはあなたの個人的な意見ですか、それとも誰かから指示されたことですか?”などと意表を突く質問をするのもいいよ。マニュアルしか知らない長老は答えに詰まって、アドバイスは中止せざるをえなくなる。」

「さんざんくだらないことを言われて、最後に長老と一緒に祈るなんて、たいていの人は嫌ですよ。」
「断ればいいよ。“今日言われたことをこれから自分なりにじっくり考えてから、祈りの中で自分の気持ちをエホバに伝えたいと思います。”などと言えばいい。」

「13節では“上手に質問して,アドバイスの内容をしっかり理解しているかを確かめます。”とあり、相手がアドバイスを正しく理解したかどうかを質問して確かめるように言っています。長老のアドバイスというのは組織から言われたことを繰り返しているだけですから、長老自身だって、自分が何を言っているかよくわからないことがありますよ。」
「そういう滑稽なことが繰り返されるのがJWだ。その答え合わせの質問にだって、“まだ100%理解できていませんので、自分なりにじっくり考えてみます。”と答えるのを断ればいい。JWのゲームに付き合う義務はないよ。」

「14、15節は“良いタイミングで,受け入れやすい仕方で”です。  14節に“怒りに任せてアドバイスすると,良い結果になるどころか,相手は心を閉ざしてしまうでしょう。”とありますが、“怒りに任せてアドバイス”なんて、典型的なパワハラです。最低です。」
「そういうことをした長老はどうなるのか、JWの人事マニュアルを知りたいね。そういう人物は管理職に不適格。何も処分されないようだと、また同じことを繰り返し、信者数の減少と寄付の減少を招くよ。宗教を装った企業としては重大な損失だ。」

「15節はヨブ記に出てくるエリフを取り上げて、“エリフは話すべきタイミングを待ち,優しく敬意を込めてヨブに助言しました。”とあります。それを見倣えということです。」
「その程度のことを言うために聖書を持ち出す必要はないよ。JWの教えは企業マニュアルではなく、聖書に基づいているという幻想を与えるためだね。」

「16、17節は“これからもアドバイスを求め,受け入れる”です。  16節で“エホバは,これからもアドバイスを与えるだけでなく,アドバイスの通りにできるよう助けてくれます。”とウソを言っています。アドバイスするのは統治体など組織の人間ですよ。エホバは関係ありません。」
「そんなことはそうとう間抜けなJWでも知っている。ネクタイとかヒゲについて、本当に宇宙の創造者からのアドバイスと思っているJWはいないよ。」

「17節に“アドバイスを与えることも受けることも,私たちにとって大切です。今は終わりの時代なので特にそうです。(テモ二 3:1)”とありますが、英文には“今は終わりの時代なので特にそうです。”に当たる文はありません。翻訳者が付け加えたものです。勝手に付け加えるのはよくないですよ。」
「統治体は、もはや、今は終わりの時代などというウソ話は言いたくないのかもよ。前607年とか重なる世代の教義で、平信者からさんざんバカにされているからね。」

聖書についての質問
2025年09月19日 14:32:07

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“アドバイスを求めるといいのはどうして?(28)”で、組織の与える助言には文句を言わずに従え、でも決めるのは信者自身だ、責任は信者自身にある、という内容です。」
「JWに一番求められるのは服従だけど、それが組織の責任問題になるのは避けたいから、組織はアドバイスしただけで、それに従ったのは個人の決定・責任だよ、間違っても組織を訴えるなよ、ということだね。」

「4から7節が“どんな人になることが大切?”です。  4節に“アドバイスを受け止めるためには,謙虚でいることが大切です。”とあります。JWは謙虚さを最も求められる人たちです。」
「そのあとに“自分が何でも知っているわけではなく,いつも自分一人で良い判断ができるわけではない,と認めることが必要です。”とあるけれど、この程度のことで謙虚というのはヘンだよ。なんでも知っているという人なんかいないよ。謙虚さからほど遠い統治体の老人だって、そんなことは言わないでしょう。」

「4節で“謙虚でないとエホバに助けてもらえません。”とあります。そうですか?それを裏付ける聖句はないですよ。」
「創世記45:9でヨセフは“神は私をエジプト全土の主人としました。私の所に来てください。すぐに来てください。”という。ヨセフは自分は神によってエジプト全土の主人に選ばれたと宣言しているよ。どこに謙虚さがあるのかな?でもヨセフはエホバに助けられたんだよね。宇宙の創造者が謙虚じゃないと助けないなんてケチなことをいうかな?」

「5節からダビデ登場です。ダビデはJWの大のお気に入りです。6節に“ダビデは王になる前からアドバイスを聞き入れる姿勢を持っていました。男性だけではなく,女性からのアドバイスもです。”とあります。ダビデはJWの模範ですね。」
「女性からのアドバイスを受け入れた例としてアビガイルが出てきて、6節に“ダビデは謙虚にアビガイルのアドバイスを聞き入れ”とあるけれど、アビガイルはアドバイスをしたのではないよ。殺さないように懸命にお願いしただけ。」

「サムエル一25:24には“そしてダビデの足元に伏して,こう言った。「悪いのはこの私でございます。どうか,申し上げさせてください。私の言葉をお聞きください。”とありますね。アドバイスしているようには見えませんね。」
「ダビデは謙虚にアドバイスを受け入れたという結論に合うように、いい加減なことを言っているというのがよくわかる。」

「7節が教訓で、“ダビデのように,誰からのアドバイスかにかかわらず,きちんと耳を傾けることが大切です。”とあります。へんですね。JWのアドバイスしか聞かないのがJWですよ。」
「訳に問題がある。英文ではwe should be willing to listen to good advice(良いアドバイスには喜んで耳を傾けるべきです)とあり、耳を傾けるのはあくまでも”良いアドバイス”限定。JW以外のアドバイスは基本的に悪いアドバイスだから、無視するのがJW。」

「8から10節が“誰にアドバイスを求めるといい?”です。  ヨナタンの登場です。ヨナタンはサウル王の息子でダビデの親友です。8節に“ダビデはサウルの息子ヨナタンに相談しました。どうしてでしょうか。ヨナタンはエホバとの強い絆を持ち,しかもサウルという人をよく知っていたからです。”とあります。ダビデはサウル王のことを知りたかったから、その息子のヨナタンに相談しただけですよ。」
「ヨナタンは基本的には戦士だね。ヨナタンがエホバとの強い絆を持っているかどうかについて聖書は何も言っていない。この記事の執筆者はここでもいいかげんなことを書いている。」

「9節では“エホバとの強い絆を持っていて,しかも似たような経験をしたことがある人に相談すると,良いアドバイスをもらえます。”とあり、相談相手はJW限定のようです。」
「そこには脚注があって、“クリスチャンがお金や医療などの専門分野について,エホバの証人ではない人に相談することもあります。”とある。お金と医療に関してはJW以外の人に相談しても良いみたいだ。長老にお金や医療のことを相談して、ひどい目に遭ったJWがたくさんいるのだろう。」

「JWに相談することはやめた方がいいですよ。相談しても、聖句の2つ3つを読んでくれるだけ。それ以上の知恵はありません。」
「無知無学で社会的経験ゼロの21歳の男でも長老という肩書さえあれば、立派な相談相手になるというのが真の神の組織の見解だ。ぜいたくを言ってはいけない。」

「9節で“格言 13:20を読む。”とあり、そこには“賢い人たちと共に歩むと賢くなり,愚かな人たちと関わり合うと苦しい目に遭う。”とあるのですが、JWはどちらかと言えば、ここで言う“愚かな人たち”ですよ。関わるのはやめた方がいいです。」
「JWの自己評価としては、JWは“賢い人たち”なんだよ。だからここでこの聖句を読ませる。JWは少しも謙虚じゃないね。」

「9節に“若い兄弟が結婚相手を探しているとします。誰にアドバイスを求めるとよいでしょうか。”とあります。答えは“その兄弟のことをよく知っていて,すでに幸せな結婚生活を送っている信頼できる夫婦に相談する”です。問題は幸せな結婚生活を送っているJWなど滅多にいないことですよ。」
「JWは若い男が少ないから、結婚相手選びでは有利なんじゃないの?JWであることの数少ないお得な点。JW以外の世界では到底結婚なんか望めないダメ男でもJWであればなんとかなるんだよね。」

「11から14節が“素直な心でアドバイスを求めるにはどうしたらいい?”です。  11節では“アドバイスを求めているように見えても,実はすでにどうするか決めていて同意が欲しいだけ,という人もいます。”とあります。これはいけないことのようですが、なぜいけないのか理解できません。」
「周りのJWに相談してから決めなくてはいけないんだよ。自分で決めてはいけない。そんな権利はないのがJW。人生を組織にゆだねているのがJWだからだよ。大学進学も組織がダメと言ったら、どんなに進学したくても素直にあきらめるのがよいJWだ。」

「相談というのは、たいていは答えを決めているもんですよ。全く白紙の状態で相談する人はいません。」
「白紙の状態で相談して、どんなことを言われても、喜んで従う。それが理想のJWということ。JWを普通の宗教と思っては間違いだ。」

「12節からレハベアムが登場します。レハベアムはソロモンの息子です。“まず,ソロモンに仕えていた年長者たちに相談します。(王一 12:2-7)でもレハベアムはそのアドバイスに耳を貸さず,同年代の友達に相談しました。”とあります。その理由については“もしかすると,どうするかすでに決めていて,単に自分の意見に同意してくれる人を探していただけなのかもしれません。”と説明しています。これも単なる推測です。」
「言いたいことにぴったりの例を探したけれど、見つからないので、推測でごまかしたね。」

「12節では“同年代の友達に相談しました。”とありますが、列王一12:8には“共に成長して今は自分の従者となっている若者たちに相談した。”とあります。要するに若者に相談したということですね。」
「レハベアムはこの時41歳だよ。JWの洞察には“西暦前997年に41歳で父の後を継いで王位に就き,17年間治めました。”とある。古代で41歳は若者じゃない。むしろ老人に近い年齢。聖書の作者は数字に弱いから、この時レハベアムが何歳なのか忘れて、若者と思い込んでしまったのだろう。」

「列王一12章にある、レハベアムが老人の言うことを聞かず、若者の意見に従ったから国が分裂したというお話は成立しないということですね。」
「そういう単純な教訓話にしたかったのだろうけれど、ミスったね。レハベアムは老境に差し掛かっているという年代で、その同年代の人たちは若者じゃない。老若対立じゃなくて、老老対立。」

「13節は教訓です。“素直な心でアドバイスを求めることの大切さです。”とあります。レハベアムの話とは何にも関係ないです。」
「アドバイスされたことに逆らったり、拒絶することはダメだといいたいだけ。それを直接的に言えないので、“素直な心で”なんて耳障りの言い表現を使っている。」

「14節が具体例です。“ある兄弟が新しい仕事の話を持ち掛けられたとします。給料が良いものの家族と長い間離れて暮らすことになるような仕事です。それでその話を受け入れる前に長老にアドバイスを求めます。”というものです。長老は、ダメだと言います。“でも兄弟は納得せず,自分の聞きたいことを言ってもらえるまで何人もの人に聞いて回ります。”というものです。この兄弟はいけないことをしているみたいです。理解できません。」
「長老の言うことを聞かないからでしょう。長老には納得がいかなくても、奇妙なものでも、とにかく無条件で従うのがよいJW。それが嫌なので多くの人がJWを辞める。」

「長老のアドバイスに従った結果、その兄弟の生活が経済的に行き詰っても、長老は責任を取らないし、経済的に援助してくれるわけでもありません。エホバに任せるとか、エホバを待つとかといったたわごとを言うだけです。」
「現実問題としては、長老に相談しないのがよいということだね。そうすれば長老の逆らわずに済む。」

「15から17節が“ほかの人に決めてもらってもいい?”です。  さんざん相談しろと言いながら、15節には“私たちはみんな,自分のことを自分で決めなければいけません。”とあります。他の人に決めてもらうのはダメなようです。」
「これは組織の責任逃れのための文章だね。組織の指示が後で問題になったら、そんなことは指示していないと否定し、一部の信者が勝手に曲解して暴走しただけと責任逃れをしてきたのがJWの歴史。」

「16節はコリント一にある偶像にささげられた肉を食べてよいかという問題が出てきます。“それは自分で決めることでした。”とあります。だから、自分で決めろと言いたいようですが、これはヘンですよ。これは特殊な例にすぎません。」
「偶像にささげられた肉を食べるのが自分で決めることだとしても、だから全てがそうだという結論にはならないよね。ダメなものの方が多いのがJWでしょう。」

「17節が現代の例です。“例えば,血液分画を使用するかどうかは,クリスチャン一人一人が決めるべきことです。”とあります。JWの奇妙な血液理論によると、主要な4成分以外は使用してもよいわけです。個人の決定に任されているわけですね。」
「でも全血輸血はダメということね。これは個人の決定に任せられない問題なわけだ。おかしいよ。」

「17節の最後には“それでも聖書の教えが自分にどう当てはまるかがよく分からないなら,相談できます。”とあります。これは笑えますね。血液分画なんて聖書に全く出てきません。聖書の教えをどう当てはめるというのですか?あてはめようがないです。」
「全血はダメだけど、成分に分けたらいいなんていうのは、聖書に基づかない、あまり頭が良いとは言えないJWが考えた教えに過ぎないことを、信者に知られたくないからそういっているだけ。」

「英文ではBible principles(聖書の原則)とあり、“聖書の教え”ではないです。」
「血液の問題は聖書の原則とは無関係ということを翻訳者は知っているので、よりあいまいな“聖書の教え”に変えたね。」

「18、19節は“アドバイスを求め続けましょう”です。  まとめです。この記事も中身は薄いものでしたね。18節で“エホバは優しいお父さんとして,私たちが良い判断をするのを願い,そのために必要なものを与えてくれています。聖書があります。聖書から役立つアドバイスをしてくれる友達がいます。”とあります。これだけです。つまりエホバがしてくれることは何もないということです。」
「役立たずの神だね。聖書とJWの友達が神が与えてくれる全てなの?JWの友達なんか聖句を2,3読んで、何かアドバイスしたつもりになる程度の人物だよ。絶望的だ。さっさとやめよう、JW!」

サタン姉さん
2025年09月14日 19:52:11

そう、ものみの塔2025年6月号研究記事27はどう考えても研究生ををどうすれば信者に引っ張れるかの教えにしか思えません。聖書研究ではないよね。信者を増やす方法を教え込む教育記事。信者を増やす=資金を増やす金目当て。こんな宗教、神は必ず滅ぼされます。

聖書についての質問
2025年09月12日 14:19:04

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“聖書レッスン生がエホバのために生きていきたいと思えるよう助ける(27)”で、聖書レッスン生をいかにして伝道者に仕立て上げるか、という内容です。」
「聖書レッスン生とは変な言い方だね。JWが教えるのは聖書を素材にしたエホバ教の教えでしょう。今どきJWの子供以外でレッスン生なんかいないでしょう。情報弱者の中には、JWと聖書の勉強してみようという人がまだいるのかな?」

「2節に、この記事で学ぶことが出ています。“(1)どんなことが成長を妨げる壁になっているかを知る,(2)エホバへの愛を深める,(3)優先順位を見直す,(4)反対されても上手に対応する。”です。」
「壁になっているものといえば、JWの教えそのものじゃないの?エデンの園で蛇がどうしたこうしたとか、ノアの大洪水でノアの家族以外は全て溺死しましたとか、まともな大人がまじめに受け止めるようなものじゃないでしょう。」

「3から6節が“どんなことが壁になっているかを知る”です。  まずニコデモが取り上げられます。3節に“すでにニコデモはイエスが神から遣わされたことを認めていました。(ヨハ 3:1,2)でも,人目を避けてイエスに会いに行きました。「ユダヤ人たちを恐れていた」からです。”とあります。4節で“イエスはニコデモをどのように助けましたか。夜にやって来たニコデモとゆっくり話し合い,弟子になるために何をする必要があるかをはっきり教えました。”とあります。このイエスのやり方を学びましょうということですね。」
「こういうことぐらいだね。イエスを取り上げるのは。」

「4節の引照聖句にヨハネ3:5がありまして、そこには“水と聖なる力によって生まれなければ,誰も神の王国に入ることはできません。”とあるのですが、イエスはこんなことは言っていません。」
「JW英語訳ではborn from water and spirit(水と霊から生まれる)となっている。日本語訳は霊と聖霊の区別もなくし、みな聖なる力にしているわけだ。」

「次のヨハネ3:6もひどいですよ。JW英語訳ではWhat has been born from the flesh is flesh, and what has been born from the spirit is spirit.(肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。)なのに、日本語訳では“人間の親によって生まれるのは人間の子供であり,神の聖なる力によって生まれるのは神の子供です。”となっています。霊とは神の子供という意味ですか?勝手な解釈を加えています。」
「日本語の翻訳者風に訳すれば、聖なる力によって生まれるのは聖なる力です、となるはずだけど、これはヘンだと思い、勝手に“神の子供”に変えたね。聖書の改ざんを何とも思っていない邪悪な人間だ。」

「5節では“聖書をよく理解しているレッスン生でも,なかなか成長していないように見えることがあります。仕事や家族からの反対がネックになっているのでしょうか。”とあります。そういうときには“お茶をしたり散歩したりして一緒に時間を過ごしましょう。”とあります。これって効果ありますか?」
「JWに大事なのは結果じゃない。開拓者なら時間が入ればいいわけだ。それから、レッスン生と親しくなれば、相手もJWの言うことを断りにくくなるということはあるね。」

「レッスン生がなかなか成長しないように見えるのは、“エホバ”で検索するからじゃないですか?検索すると、JWはキリスト教とは認められていないとか、輸血禁止とか、クリスマス禁止などと出てきて、これはあまり関わらない方がいいと思うわけですよ。」
「そういうことはこの記事では一切触れられていない。楽園でパンダと遊ぶというJWの素晴らしい教えに一度でもふれた人は、周囲の反対さえなければ自動的にJWになると思っているようでおかしいね。」

「6節では自信を持たせろと指示しています。“単にエホバが何を望んでいるかを教えるだけではなく,エホバがいれば必ず壁を乗り越えられるという自信をレッスン生が持てるようにしましょう。”とあります。」
「あなたならできる、と強調するわけね。そうやってカルトに引きずり込むわけだ。」

「7から9節が“エホバへの愛を深める”です。  エホバへの強い愛を育てろと指示しています。8節で“エホバの素晴らしさや魅力的な性格についてよく話すようにしましょう。”とあります。具体例としては“例えば,贖いについて教える時,それが自分への贈り物だと思えるよう助けましょう。”とあります。」
「8節の最後にある引照聖句のガラテア5:20には“人間としての今の命を,神の子への信仰によって生きているのです。神の子は私を愛し,私のために自分を差し出してくださいました。”とあるよ。キリスト教というのは神の子であるキリストを中心にした宗教。エホバ、エホバと連呼するとキリスト教ではなく、改ざん聖書に基づくエホバ教の教えにしか聞こえないよ。」

「聖書レッスン生と呼ぶくらいですから、JWのたわごとではなく聖書を学んでいるのだと思わせる必要があるわけです。エホバ教的なことは最初はなるべく避けた方がいいと思いますけど。」
「基本的には聖書に無知だけど、聖書に関心のある人が聖書レッスンの対象ということだね。エホバが神の名前ですと言われたら、違和感なく受け入れられる人だね。エホバなんてインチキネームで、JWしか言わない名前だ、という程度の知識がある人は対象外。」

「9節が体験談です。マイケルは“「いつまでも幸せに暮らせます」のレッスン27の「もっと調べよう」を学んだ時,マイケルは心を揺さぶられました。”とあります。そして“贖いに深く感謝するようになったマイケルは,ぜひ生き方を変えたいと思えるようになり,バプテスマを受けました。”とあります。今ごろは長老として奉仕活動を楽しんでいますね。」
「どうも“贖い”の話をセールスポイントにしたいようだ。“いつまでも幸せに暮らせます”というのは薄っぺらな内容だけど、心揺さぶられる人もいるわけだ。驚いた。」

「10から12節が“優先順位を見直す”です。  10節はペテロとアンデレがイエスの弟子になった時の話です。“でもペテロ とアンデレは「網を捨て」,漁業を後にしました。家族をきちんと養えるような計画を立てた上でそうしたようです。”とあります。そんなこと聖書に書いていません。何を根拠にイエスの弟子と家族の扶養を両立する計画があったなんていうのですか?あきれます。」
「今のレッスン生に仕事をやめてJWになりなさいとは言えないから、イエスの弟子たちも宗教と家族の扶養の両方を考えて行動していたんですよ、とウソを教えるつもりなんでしょう。」

「10節では“イエスが起こした奇跡を見て,エホバが必ず養ってくれるという確信を持てるようになったからです。(ルカ 5:5-11を読む。)”とあります。引照聖句には奇跡的な大漁の話が出ているのですが、それを見てからイエスの弟子になったとしたら、結構計算高い男だったんですね。」
「ペテロとアンデレが弟子になった経緯はヨハネ1章では全く違う。アンデレはバプテスマのヨハネの弟子でイエスを発見する。そのあとペテロに“私たちはメシア(「キリスト」という意味)を見つけた。”といい、イエスの所に連れて行く。イエスは“ヨハネの子シモン,あなたはケファ(「ペテロ」と訳される)と呼ばれます。”という。その後ガリラヤへ向かう。どっちが本当なんだろうね?レッスン生にはどう説明するのか知りたいね。」

「ヨハネは福音書の中では最後に書かれたものです。ルカの福音書も知っていたと思います。ヨハネはルカの奴、でたらめを書きやがって、俺が本当のことを書いてやる、と思ってペテロとアンデレが弟子になる場面を書いたんじゃないですか?」
「そうかもしれないし、何か神学的な理由があってそう書いたのかもしれない。矛盾など気にするのは近代人の特徴で、古代人は気にしなかったのかもしれない。」

「11節では“レッスン生に,エホバへの崇拝を優先するとエホバがどのように支えてくれるかを話すことはできます。”とあります。具体例として“集会に行きたいので残業できないと上司に伝える必要があったかもしれません。エホバのために一歩踏み出した時,どのようにエホバがサポートしてくれたか,そしてその経験を通してどれほど信仰が強くなったかを話してあげてください。”とあります。要するに適当な作り話をしてレッスン生をだましなさいということですね。詐欺的な宗教です。」
「そこまでは言っていないけれど、そうするように誘導しているよね。具体例を書いて欲しかったね。例えば、アンドレは集会に行くので残業できませんと言ったところ、それならクビだと上司に言われたのですが、エホバを優先して集会に行きました。いったい何が起きたでしょう。集会中に勤め先で火事が起きて上司が焼け死んだのです。クビの話はうやむやになりました。エホバが助けてくれたのです。アンドレは今では長老として奉仕活動を楽しんでいます。というのはどうかな?」

「12節では“レッスン生にとって,兄弟姉妹がどのように優先順位を見直したかを知るのは良いことです。それで,いろいろなバックグラウンドの兄弟姉妹にレッスンに参加してもらいましょう。”とあります。複数の人間の作り話を聞かせるわけですね。」
「エホバを第一に生きてきたお年寄りなんかがいいね。必要とされる所に行って奉仕活動を長年してきたけれど、苦労ばかりであんなことはするもんじゃなかった、と言ってくれたら励みになる。」

「ベテルで長年働いたあと、高齢で追い出されたJWもいいですよ。さっさとJWをやめた知り合いは快適な家に住み退職金と年金でのんびり暮らしているのに、自分はエホバを第一にしたせいでボロアパート暮らしで75歳になっても朝から夕方まで痛む背中と腰に湿布薬を張りながら毎日のように働かなくてはいけない、と言ってくれたら励みになると思います。」
「そういうわけで“いろいろなバックグラウンドの兄弟姉妹にレッスンに参加してもらいましょう。”だね。」

「13から18が“反対されても上手に対応する”です。  JWには周囲の反対がつきものですからね。反対されることをあらかじめレッスン生に伝えるわけですね。14節には“反対に遭った時どうすればよいか,できるだけ早く考えておけば,実際そうなった時にうまく対応できるようになります。”とあります。」
「そうやって、反対する人はサタンの手先と教え込むわけだね。自分は善で正義、反対する人は悪で不正義という単純な二分法、白黒思考に誘導する。そう信じ込ませれば迫害されてもそう簡単には考えを変えない。」

「15節では“レッスン生が家族から反対されているなら,家族の身になって考えてみるよう勧めることができます。だまされているのではないかと心配しているのかもしれませんし,エホバの証人に偏見を持っているのかもしれません。”とあります。家族が反対するのはJWが反社会的なカルトだからですよ。」
「輸血禁止の教義はいつ教えるのかな?それを家族が知ったら、JWにならないように言うよ。輸血をすれば助かるのに、輸血を拒否して死を選ばせるという宗教には絶対入ってはいけないとしかいいようがないよ。」

「16節では“jw orgを紹介するのも一つの手です。”と言っています。17説では“そういう時に備えてjw orgの「よくある質問」を使って,どんなふうに答えられるか一緒に考えることができます。”とあります。“よくある質問”に書かれていることはJWのことをよく知らない一般人を誤解させるような内容のことが多いですよ。」
「例えば“エホバの証人は自分たちだけが救われると考えていますか”の答えは“いいえ”となっている。“救われる”はあいまいで多義的だから、いいえと言ってごまかせるかもしれない。しかし、JWにとって“救われる”とはハルマゲドンを生きて通過すること。そのように意味をはっきりさせると、“救われる”のはJWだけ。」

「“エホバの証人ではなくなった人を避けますか”も面白いです。1段落目の答えは“バプテスマを受けてエホバの証人になったものの伝道をやめ,仲間との交友から遠のいている人たちを避けることはしません。”です。“しません”は太字で強調しています。これだけ読むと避けないのかと思いますが、2段落目では“バプテスマを受けたエホバの証人が聖書の道徳規準を破って悔い改めないなら,排斥されます。”とあります。排斥された人は避けられるわけですよ。でもそれは書いていません。」
「質問に率直に答えず、カルト的言葉遣いで誤解するように書かれている。ハイはハイではないし、イイエはイイエではない。様々な留保条件を付けて、そのうえでイイエといったり、カルト特有の特殊用語をちりばめて一般人に誤解させるように書く。」

「18節では伝道者にさせる方法です。“伝道者になれるようにレッスン生をどんなふうに助けられますか。記念式や地区大会の招待キャンペーンについて会衆で知らされたら,レッスン生に伝道者になるよう勧めましょう。”とあります。記念式や招待キャンペーンにはこういう目的があったのですね。」
「まず参加しやすいことから参加させて、それからは後戻りできないようにほめたり、脅したりするわけだね。そうやって新しいJWが出来上がるわけだ。」

「19,20節が“レッスン生を信じる”です。  19節ではイエスが弟子たちを信じたように信じなさいとあります。20節が体験談です。カトリックを攻撃しています。“アリナフェーという若いカトリック教徒の女性と聖書レッスンをしていました。姉妹はレッスン14を学び終えた時に,像を使って崇拝することについてどう思うか質問しました。アリナフェーは感情的になって,「それは私が決めることです」と言いました。”とあります。この女性を信じて教え続けた結果、“しばらくしてアリナフェーは像を使うのをやめ,バプテスマを受けました。”とあります。今では巡回監督の妻として奉仕を楽しんでいるかもしれませんね。」
「カトリック教徒は世界で12億人以上いて、JWの主なターゲット。それでこんな記事が出るのだろう。」

「カトリックの側はどう反論するのですか?」
「カトリックは偶像崇拝を認めていない。カトリック教会にはマリア像やイエスが十字架にかかっている彫刻などが飾られているけれど、それは像を崇拝するのではなく、像が思い出させる聖なる者に祈っているだけ。」

「カトリックは聖書の権威をあまり認めませんよね。」
「それはそうだよ。今の聖書を決めたのは神ではない。カトリック教会だよ。福音書なんかいっぱいあるけれど結局4つに限定した。聖書より聖書を決めたカトリック教会の方が上なんだよ。プロテスタントはカトリックに対抗するために“聖書のみ”という主張をした。」

「最後の21節はまとめです。“単に,神が何を望んでいるかを教えるだけではありません。エホバへの愛が深まるように助けます。その愛に動かされて優先順位を見直すよう勧めます。反対された時にどのようにエホバに頼って対応できるかを教えます。レッスン生を信じていることを伝え,やる気を引き出しましょう。”とあります。これがカルトの新しいメンバーの作り方です。」
「そうやってJWになる人って、精神的に病んでいたり、社会から落ちこぼれていたりしているような人が多いような気がするけれど、大丈夫なのかな?そういう人は排斥されやすい。排斥されてJWにうらみを抱いて、とんでもない事件を引き起すことだってあるよ。無理な信者獲得はやめよう、JW!」

聖書についての質問
2025年09月04日 08:23:16

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“全てを知らないことを謙虚に認めましょう(26)”で、終わりがいつ来るか知らないけれど、明日かもしれないので、組織に服従しなさい、という内容です。」
「統治体の一人のレットが今は終わりの終わりの終わりと言ったのが5年前。コロナ問題でいよいよ終わりの時が来たと早とちりしたわけだけど何も起こらず、多くの信者は失望している。そういう失敗に対するダメージコントロールを狙った記事だね。」

「3節で“この記事では,私たちがどんなことを知らないか,知らないとどんな気持ちになることがあるかを考えます。”とあります。“私たち”じゃないですよ。統治体がどんなことを知らないか、ですよ。」
「“私たち”という言葉がやたらと出てくる。統治体が指導して、“私たち”は盲目的に従っているだけなのを忘れたのかな?統治体の失敗なのに、あたかも“私たち”の失敗かのようにごまかしているのが不誠実だ。」

「4から7節が“終わりがいつ来るかを知らない”です。  いつ来るか知らないのに、今は終わりの終わりなどと言っていたわけですか?謝罪と賠償を求めます。」
「謝罪など一切しない。都合の悪いことは黙り込んで、忘れ去られるのを待つのが組織のやり方。」

「4節では“マタイ 24:36を読む。私たちは今の世界がいつ終わるのかを知りません。イエスでさえ,地球にいた時はその「日と時刻」を知りませんでした。”とあります。今ごろになってやっとわかったんですか?無能の極みです。」
「そこには“その日と時刻については誰も知りません。天使たちも子も知らず,父だけが知っています。”とあるけれど、こんな聖句があることに統治体は今まで気づかなかったようだね。組織にとっては驚異の大発見なのかも?」

「ヘンな注があります。“イエスは,サタンの世界を終わらせるために先頭に立って戦うことになっています。それで,いつハルマゲドンで「征服を完了する」かを今は知っているはずです。”とあります。イエスは2000年前は終わりの日を知らなかったけれど、今は知っていると主張しています。何を根拠に?イエスに聞いたのですか?」
「統治体はエホバの気持ちもイエスの気持ちも何でも知っているんだよ。エホバはポルノを憎むと断言しているぐらいだから、イエスが何を知っているかもわかるのだろう。」

「5節に“家族や周りの人から終わりはいつ来るのかと,ばかにされることもあるでしょう。”と他人事のように書いています。信者をバカにされるようにしたのは終わりがクルクルとあおってきた統治体のせいです。それなのに責任感ゼロです。」
「キリスト教は終末論から離れていくことで宗教として成熟していった。JWは100年以上たっても終末カルトのまま。成熟しようがない。」

「6節では“エホバが,終わりが来る日付を知らせていないことには良い面があります。私たちは日付を知らないからこそ,エホバを心から愛し,信頼していることを証明できます。”とあります。良い面を見なさいということのようです。とんでもない詭弁です。」
「学校の先生がテストの日にちを教えないのは、君たちはテストのために勉強するのではなく、本当に勉強が好きということを証明するためだと言っているようなもの。こんな教師は生徒を精神的に虐待していると言われるよ。」

「JWは“間もなく”とか、“すぐに”とかいう言葉を乱発して、期待をあおってきました。そのことに対する謝罪も反省もないですね。」
「間もなく終わりが来ると宣伝すると、信者が増えるからね。組織の主な関心は信者を増やし、寄付を増やし、立派な本部を作ることなので、信者集めに有効なことはウソでも何でもするということだろう。それで信者をさらに増やそうと20世紀末まで終末論をエスカレートさせてきたわけだ。」

「でもその終末論も期限切れになったわけですね。」
「世代の解釈があまりにもバカバカしいものになったからね。1914年を見た世代は決して過ぎ去らないと言ってきたのに、過ぎ去ってしまって、それに対処するために“重なる世代”という訳の分からないことを言い出して、完全に失敗した。世代のことはもう触れないようにしている。」

「7節は“今,知っていること”です。“例えば,私たちは1914年に終わりの時代が始まったことを知っています。”とあります。“私たち”は知らないですよ。そんなこと。統治体の老人がそう言い張っているだけです。」
「今のJWで1914年の計算方法を説明できる人はどれだけいるのかな?起点となっている前607年がインチキ年代ということはどれだけ知っているのかな?607ことは最近ほとんど触れないね。」

「JWの教義では終わりの日が始まったのは1914年の10月です。たとえば塔2014/7/15の“あなた方は……わたしの証人となるでしょう”には“しかしエホバは,イエスを人類に対する王として即位させます。1914年10月のことです。”とあります。でも第一次世界大戦は6月28日のオーストリア皇太子の暗殺事件をきっかけに始まったわけで、そうすると第一次世界大戦は終わりの日の前の出来事ですよ。」
「JWの教義では天で神の王国設立に伴って、サタンが地に投げ落とされ、その結果“地に災い”がもたらされるというシナリオ。1914年が終わりの時代の始まりという根拠となっているのは第一次世界大戦の開始だけれど、JWの教義からするとそれはおかしい。戦争の始まる時期が早すぎだね。」

「7節では“さらに エホバが今,私たちに何をしてほしいと思っているのかも知っています。できるだけ多くの人に「王国の良い知らせ」を伝えることです。(マタ 24:14)”とあります。知りませんでした。組織が信者集めのために伝道して欲しいだけかと思っていました。」
「JWとして知っているのは、今は終わりの時代で、王国の良いたよりを伝道するのがエホバなる神の意志であるということだけなの?輸血は禁止というのはどうなの?排斥に関するルールとか誕生祝い禁止とかはどうなの?それらはエホバが私たちにして欲しことだと自信を持って言えないの?」

「7節の最後に“その「日と時刻」を知らなければ,熱意を持って伝道できないわけではありません。”とありますが、そんなことはないです。終わりの日が迫っていると言われてきたから、自分の人生を投げ捨てて、伝道に打ち込んだ信者がたくさんいますよ。そういう信者はいまごろ騙されたと心の中で思っています。」
「終わりがクルクル詐欺で信者を働かせてきたのがJWでしょう。そうしないと信者は熱意をもって伝道しないことを組織は知っているよ。高校を卒業するまでにハルマゲドンが来ると言われて、小学生の時から伝道をやらせられた人もいるよ。高校を卒業してから40年たっても終わりの日が来ないことをはじめから知っていたらそんなことしなかったよ。」

「8から11節が“エホバがどんなことをするか,全ては分からない”です。  聖書の神は情緒不安定で何をやらかすか予測しがたい神であることは間違いないです。8節には“私たちは「真の神の行い」をいつも理解できるわけではありません。(伝道の書 11:5を読む。)”とあります。“真の神の行い”と言う訳はヘンですよ。」
「協会共同訳では“すべてをなす神の業は知りえない。”で“真の”はないね。もとのヘブライ語にもない。JWが勝手に付け加えた。」

「人間は神のすることは知らないわけです。でも、JWの教義ではそうではないですよ。」
「統治体は神の喜怒哀楽をよく知っていることになっている。それで信者の生活の細部に至るまで、あれはエホバが喜ばれないとか、悲しむとか言って制限したり禁止したりしてきた。」

「9節で“エホバが私たちを助けるために何をしてくれるかが分からないと,不安になってしまうことがあります。”と信者の不安感に理解を示しています。不安感を持つのは当然です、なぜならエホバは何もしてくれないからです、と断言したらどうですか?」
「そんなことないでしょう。食べ物がなくて祈ったら誰かが食べきれないほどの食糧を持ってきてくれた、なんていう話は、よくものみの塔の記事に出ているよ。エホバは決して信者を見捨てない、不安を持つのは信仰が足りないからです、と断言したらいいね。」

「10節では“エホバの行いを全て理解することはできないと認めると,もっと謙虚になれます。”とあります。具体的には“宣教や何かのプロジェクトで成果を上げたときも,エホバのおかげだと考えます。(詩 127:1。コリ一 3:7)自分の期待通りにいっていないように感じるときも,物事を動かしているのがエホバだと思い出すと,穏やかな気持ちでいられます。”とあります。これって謙虚な態度ですか?単に無責任なだけじゃないですか?開拓者なら時間が入ればそれでいい、結果なんか気にしない、という態度です。」
「無責任というより、傍観者的だね。何事もどうでもいいという投げやりな態度に見える。JWってそんな人たちでしょう。」

「11節はエホバについて知っていることで、“エホバはいつも優しく,正しいことを行う賢い方です。また,私たちがエホバや兄弟姉妹のためにすることを何一つ見逃したりせず,喜んでくれます。エホバを深く愛する人たちに必ず報いてくれます。”とありますが、そんな神とは知りませんね。それは単なるJWの宣伝じゃないですか?」
「神は人間の理解を超えた存在なはず。でもJWの宣伝する神は優しくて気の利く金持ちのお父さん程度の便利な存在に過ぎないようだ。」

「12から15節は“明日がどうなるかは分からない”です。  12節には“現実として,この世界では「思いも寄らないことがいつ誰にでも起き」ます。(伝 9:11)”とあります。それでどうすべきかというと、14節で“でも大変な時こそ,自分がエホバに仕えているのはエホバを愛しているからだということを証明できます。”とあります。思いもよらない不幸にあったら、エホバへの愛を証明できる良い機会なので、JW活動をこれまで以上に熱心にしなさい、と言っているようです。過酷な宗教ですね。」
「信者はやたらと○○を証明することが求められているようだけど、神ではなく組織の他のメンバーに対して、私は立派なJWです、と証明する必要があるだけ。周りからどう見えるかが重要な宗教というだけで、神とは無関係。」

「14節では“本当の幸せは,エホバに導いてもらい,エホバの言う通りにすることに懸かっています。”と断言しています。エホバ=組織ですから、要するに組織の言うとおりにすれば幸せになれるわけです。」
「14節の下に、災害にあってテント暮らしをしているという写真が2枚あって、その説明は“エホバに導いてもらい,エホバの言う通りにするなら,守られる。”とある。エホバが実際に災害にあったJWにあれこれ指示をしたという話はものみの塔にも出ていないので、実際は組織の指示に従えば守られるということだけど、ウソだろう。」

「コロナの時でも、統治体は感染を防いだり、感染した信者の治療をしたりする点で、特別何も貢献していません。」
「組織の言うことを聞くより、専門家の言うことを聞こう。その方が守られるよ。」

「15節が将来について知っていることで、“将来いつまでも生きられるとエホバが約束していることです。”とあります。そして、“エホバは偽ることができず,どんなことがあっても必ず約束を守る方だと知っています。(テト 1:2)”とあります。でも、偽ることができないというのは神らしくないですよ。正しいことしか言えない論理ロボットみたいな存在ということですか?」
「訳がおかしい。JW訳では“神は偽ることができません”だけど、協会共同訳では“偽ることのない神は”となっている。“偽ることができない”というのは古い聖書にはあるけれど、最近の訳は“偽らない”が多い。」

「アダムに善悪の知識の木の実を食べたらその日のうちに死ぬとウソを言ったのはエホバですよ。偽る神ですよ。」
「アダムは930歳まで生き、聖書の中では4番目の長寿者。」

「16から19節が“エホバが私たちのことをどれほどよく分かっているかは理解できない”です。  16節では“詩編 139:1-6を読む。人間を創造したエホバは私たちのことを誰よりもよく分かっています。そして私たちをいつも見守ってくれています。”とあります。エホバは優しく見守ってくれる神というイメージを植え付けようという宣伝ですね。でも詩編139全体からはそんなイメージは浮かびません。」
「詩編139の後半がすごいよ。139:19では“神よ,どうか悪人を殺してください。”とある。139:22,23では“その人たちに対して感じるのは憎しみだけです。紛れもない敵だからです。神よ,私の全てを探り,私の心を知ってください。私を調べ,不安な気持ちを知ってください。”とある。優しく見守る神じゃないよ。」

「私のことを知っているなら、私が嫌っている人を殺してください。あいつらのせいで私は不安なのですから、と言っているわけですね。」
「私のことをよく知っているなら、私の敵を殺すぐらいして欲しい、という祈りだね。見守るだけの神なんかいらない。」

「17節では“エホバのことをいつも温かく見守ってくれるお父さんと見るのが難しい人もいます。”と、組織のイメージ戦略があまりうまく言っていないことを認めています。JWが求めているのは1日も早くハルマゲドンで、自分の嫌いな連中を皆殺しにしてくれる神です。見守る神じゃないです。信者のニーズに合っていません。」
「組織の描く神は優しく見守るのではなく、信者の生活の細部にまであれこれ干渉し、過度に要求的で余計な重荷を背負わす不快で搾取的な神。信者が増えないのも無理はない。」

「医療にまで口出しし、信者を死なせ、排斥制度を振りかざし家族は破壊する神です。なぜ温かく見守れないのでしょうね。」
「7節に“どうしてありのままの自分を受け入れてくれないんだろう。どうして,ここまで大変なことを要求するんだろう。”と感じる人がいるとあるけれど、これはLGBTの人のことじゃないの?性的志向にも干渉する神だから、温かく見守ることが苦手なのかも。」

「18節では“エホバは私たちの成長の可能性を見ています。そう考えると,前向きな気持ちでエホバのために一生懸命頑張っていく力が湧いてきます。”とあります。“成長の可能性”と言っていますが、結局、組織の望むように一生懸命頑張って変わらなければいけないということですね。」
「温かく見守る神というのはウソで、組織が気に入るように変わらなければ、ハルマゲドンで殺されるというのがJWの教え。でも、そのハルマゲドンもいつかは知らないというわけで、力が全く湧いてこないね。」

「18節の下にイラストがあって、“今,先行きに不安を感じるとしても,エホバが約束している明るい将来について考えると,前向きになれる。”と言う説明文がついています。結局楽園幻想しか信者がすがるものはないということですね。」
「組織の言いなりの人生だと、そうなる。先行きに不安を感じたら、まじめに働いてお金を貯める、自分を支えてくれる人間とよい関係を築く、宗教ではなく社会のことを勉強するなどなどしたほうが、幻想にすがるよりまし。」

「19節ではエホバについて知っていることです。“エホバは愛です。これは疑いようのない事実です。(ヨハ一 4:8)エホバは私たちを愛していて,私たちのことを思っているからこそ,はっきりした基準を設けています。”と、組織の細々した規則を擁護しています。組織のすることは全て愛に基づくという宣伝です。」
「“はっきりした基準”は誤訳。his righteous standards(義の基準)だ。とても義の基準とは恥ずかしくて訳せなかったのだろう。」

「輸血禁止も排斥制度も誕生日祝いの禁止も同性愛嫌悪も貧乏暮らしの開拓者生活推奨もエホバの義の基準とは思えませんからね。」
「ネクタイや髭やスカート、高等教育に関する基準みたいにいつ変わるかもしれない、いい加減な基準でしょう。」

「最後の20節では“エホバは私たちが本当に知るべきことは全て教えてくれています。大切なのは,それを謙虚に認めることです。そうすると,知らないことについてあれこれ考えて心配し過ぎたりせず,知っている大切なことに注意を集中していられます。”とあります。要するに、組織にあれこれ質問をして困らせるなということですね。エルサレムは本当に前607年に滅亡したのですかとか、楽園では電力はどうするのかとか携帯電話は使えるのかといったことは誰も知らないから質問するなということです。組織が与える情報だけを感謝して暗記しなさいというわけです。」
「結局、組織は偉そうなことを言うけれど、何も知らないわけだ。こんな頼りない宗教は早くやめよう。」

聖書についての質問
2025年08月29日 13:33:11

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“ヤコブの臨終の預言から学べること パート2(25)”で、創世記49章にあるヤコブが12人の息子たちに残した言葉から教訓を得るという内容です。パート2では8人を取り上げます。」
「先週の続きで、8人を取り上げて、いちいち“学べること”と言ってヘンテコな教訓を垂れる。ものすごく退屈。なぜこんなことを取り上げるのか理解できない。」

「2、3節が“ゼブルン”です。  全く聞いたことないです。ヤコブの第10子です。ヤコブの言葉は“ゼブルンは海辺に,船が止まる岸辺に住む。遠い側はシドンの方に向く。”です。2節には“その預言通り,200年以上後にゼブルン族はガリラヤ湖と地中海の間にある土地を与えられました。”とあります。ゼブルンの割り当てられた町は海辺ではありません。預言は実現していません。そして訳がヘンですよ。」
「協会共同訳では“その境はシドンに至る。”となっている。シドンはフェニキアの都市で、今のサイダ。レバノンにある。ゼブルン族の土地がシドンにまで広がらなかったことを翻訳者は知っているので、“シドンの方を向く”と訳したのだろう。」

「3節は“学べること”で、“持っているもので満足することが大切です。”とあります。ゼブルンとどう関係するのですか?」
「関係ないけれど、何か教訓めいたことを書かなくてはならないから、ひねり出しただけ。」

「4、5節は“イッサカル”です。 第9子です。ヤコブの言葉は“イッサカルは骨太なロバ,2つの荷物の間で身を伏せる。彼にとって,休み場は良く,土地は好ましい。彼は肩を下げて重い荷を担い,強制労働に服する。”です。4節で“イッサカルがよく働くことを褒めました。”と説明しています。本当ですか?」
「これは言葉遊びと考えられている。イッサカルという名前を二つに分けると、雇われた働く男という意味が出てくる。それでイッサカルを働き手として描いている。」

「5節は“学べること”で、“エホバはイッサカル族がよく働くことを喜びました。同じように,私たちがエホバのためによく働くときに喜んでくれます。”とあります。イッサカル族がよく働くのでエホバが喜んだなんてことは聖書のどこにも書いていません。」
「エホバのために働くというのは、事実上組織のために無給で働くという意味だね。そんなことは学びたくないね。」

「6、7節は“ダン”です。  第5子です。ヤコブの言葉は“ダンはイスラエルの1部族として民を裁く。ダンは道端の蛇,道沿いの角蛇となれ。馬のかかとをかんで乗り手を後ろへ落とすのだ。”ですが、6節では民を裁くという部分を飛ばしています。」
「ダンは裁くという意味がある。これも言葉遊びだね。“まもる”と言う名前の子供に、将来家族をまもるだろうといっているようなもの。でもダン族が裁くなんてことをしていないのでこの記事では無視した。」

「6節では民数10:25に飛んで、“約束の地に向かう途中,ダン族は「後衛」を務めてイスラエルを守りました。”とあります。これが予言の成就だそうです。無理がありますね。ダン族と言えばもっと有名な話がありますよ。」
「裁き人18章だね。ライシュという町を襲って、住民を殺し町を焼いた後、町を再建しダンと名付けた。そして彫像をたてた。とんでもない悪いことをしている。どうせならこちらの方を予言して欲しかったね。」

「啓示7章にJWの大好きな144000人の話が出てきます。12部族それぞれ120000人選ばれるわけで、部族名が列挙されていますが、その中にダンは含まれていません。これは裁き人18章にある偶像崇拝ゆえに排除されたわけですね。」
「そう言われているけれど、12部族の中身は一定しない。どれが12部族に当たるかは聖書の中でも変わっている。」

「7節が“学べること”で、“ほかの人からはほとんど気付かれないような奉仕をしたことがありますか。王国会館の掃除やメンテナンス,大会での奉仕を手伝ったことがあるかもしれません。それはとても立派なことです。”とあります。タダ働きの勧めですが、ダンとどう関係あるのですか?」
「ダンは後衛を務めたということから、思いついた教訓でしょう。」

「8、9節が“ガド”です。  第7子です。ヤコブの言葉は“ガドは略奪隊に襲われる。だが,彼らのかかとに襲い掛かる。”です。短いですね。8節では“200年以上後にガド族に与えられたヨルダン川東側の領地 は,敵の国々と境界を接していました。敵の襲撃を受けやすい場所でした。”と解説しています。これで預言が成就したようです。」
「これも言葉遊び。略奪隊、襲い掛かるというヘブライ語はガドという音が含まれる。ガドという音が含まれる単語を並べて文を作ったわけだ。」

「9節が“学べること”で“今でも,エホバを信頼して献身的に働いている兄弟姉妹がいます。建設プロジェクトに参加したり,もっと奉仕者が必要な場所に引っ越したり,ほかにもいろいろな奉仕に取り組んだりしている人がいます。”と、またもやタダ働きの勧めです。しつこいです。」
「ここまでくると、JWは宗教ではなく、タダの労働者に依存する悪徳企業だね。」

「10、11節が“アシェル”です。 第8子です。ヤコブの言葉は“アシェルのパンは豊かになる。彼は王にふさわしい食事を出す。”です。10節で“裕福になったことと,カナン人の悪い影響を受けたことが原因で,エホバの望むことをしたいという気持ちは弱くなっていったようです。”とあります。単なる推測ですね。」
「アシェル族は戦争をしていない。平和的にカナンに浸透して行ったようだ。現地の人と仲良く共存していたわけで、異民族排除・民族浄化を強硬に主張する狂信的なエホバにはついていけなかったのかも。」

「11節は“学べること”で、“世の中の多くの人のように,お金や物が一番大切という考え方をしてはいけません。(格 18:11)”また、“本当に必要ではないものを手に入れるために一生懸命働いて,エホバへの奉仕がおろそかになってしまわないようにしましょう。”とあります。何度も出てきますが、貧乏に耐え、組織のためにタダで働け、です。」
「英文では世の中の多くの人はお金や物が一番大切と思っているとは書いていない。そういうウソはやめよう。」

「引照聖句には“裕福な人の富はその人の要塞。その人の想像の中では防壁である。”とあるのですが、訳がヘンです。これでは富が想像上の防壁に過ぎないと、富に対する否定的な意見を言っているかのように読めますが、そんなことは言っていません。」
「協会共同訳では“富める者は財産を/砦の町、高くそびえる城壁と考える。”とある。その考えが間違っているとは言っていない。ここでは格言10:15を引用して欲しかったね。“裕福な人の富はその人の要塞。貧しい人たちの破滅は貧しさによる。”とあるよ。貧しいことはよくないことで破滅につながると言っているよ。」

「12、13節は“ナフタリ”です。  第8子です。ヤコブの言葉は“ナフタリはすらりとした雌鹿。優美な言葉を話す。”です。12節で“ヤコブはナフタリが「優美な言葉」を話すと言いました。イエスが宣教期間中,どんな話し方をするかを預言していたのかもしれません。”と無理のある解釈をしています。ヤコブの言葉を預言とみなすからヘンなことになるのです。預言じゃありません。」
「バカバカしい解釈。訳も問題がある。協会共同訳では“ナフタリは放たれた雌鹿。/美しい子鹿を産む。”となっている。これは雌鹿が一行目にきているのに、二行目で言葉へと話題が変わるのは詩の構成上おかしいという判断からきている。それで二行目は言葉ではなく小鹿と読むわけだ。最近の訳は小鹿になっている。JW訳は古い聖書を参考にしている。」

「13節が“学べること”で、“うそをついたりせず,いつも本当のことを話すことです。(詩 15:1,2)”とあります。うそをつかず、本当のことを言って欲しいのは組織の方ですよ。都合の悪いことを隠ぺいせず、信者に率直に語ってほしいものです。裁判など勝った場合はカッタカッタ宣伝しますが、負けた場合は沈黙するだけです。」
「そういう情報隠蔽体質だからカルトと呼ばれる。」

「14、15節が“ヨセフ”です。  第11子です。ヤコブの言葉は“ヨセフは実を結ぶ木の枝,泉のそばで実を結ぶ木の枝。その木の枝は塀を越えて伸びる。・・・”と続き、とても長いです。14節に“ヨセフの息子エフライムとマナセはそれぞれの子孫が部族になり,こうして2つの部族が領地を受けました。(創 49:25。ヨシュ 14:4)”とあります。これで予言実現だそうです。」
「ヨセフに対する言葉はユダへの言葉と内容はそう変わらない。しかし詩的表現のため具体的に何を言っているのかはよくわからない。」

「15節で“ヤコブは「弓を射る人たちが[ヨセフ]を……狙い撃ち,敵意を抱き続けた」とも言いました。(創 49:23)「弓を射る人たち」とはヨセフをねたんだ兄たちのことで,”とありますが、何の根拠もありません。ヨセフの兄弟たちが弓を射る人と聖書のどこに書いていますか?書かれていませんよ。」
「JW流の聖書解釈は根拠などいらないということでしょう。組織の偉い人がそう言ったら、それが正しいとして、信者は盲従するだけ。」

「16節が“学べること”で、“つらい目に遭っても,エホバや仲間の兄弟姉妹から離れてしまわないようにしましょう。”とあります。会衆の中でいじめられても我慢して、JWを続けなさいということですね。」
「ヨセフはエジプトに売られてから成功した人物。どうして仲間から離れてしまわないようにしましょうという教訓になるのか理解できない。ヨセフから学べるとしたら、嫌な家族とはさっさと縁を切って、自力で生きてみよう、ということじゃないの。」

「17、18節が“ベニヤミン”です。 第12子です。末っ子です。ヤコブの言葉は“ベニヤミンはオオカミのようにかみ裂く。朝には獲物を食い,晩には奪った物を分ける。”です。17節で“ヤコブは,ベニヤミン族がオオカミのような強い戦士になることを預言しました。”とあります。ベニヤミン族からサウルとエステル、モルデカイが出たことにより予言成就したそうです。」
「JWの予言成就の基準が甘すぎる。」

「ベニヤミンについて創世記に書かれていることは混乱がありますよね。」
「創世記35:16に“それから一行はベテルを出発した。エフラトまでまだ距離がある場所で,ラケルが産気づいて出産し始めたが,ひどい難産だった。”とある。この時生まれたのがベニヤミン。ラケルは死ぬ。ところが、その10節後の創世記35:26でベニヤミンを含めた12人の息子達について“これらの人たちが,パダン・アラムで生まれた,ヤコブの息子である。”と言っている。ベニヤミンはパダン・アラムで生まれていない。」

「創世記44章の話もへんです。エジプトで偉くなったヨセフは兄弟たちに自分の正体を明かさず会うわけです。ヨセフはある策略でベニヤミンをエジプトにとどめようとするのですが、兄弟たちはヤコブのセリフとして“この子まで私の前から連れていかれ,この子にもしものことがあれば,白髪の私はあなたたちのせいで苦しみながら墓に入ることになる。”というのです。まるでベニヤミンが小さな子供のようですが、この時ヨセフはエジプトに来てから相当立っていますので40歳前後で、ベニヤミンはその数歳下です。つまり30代の立派な大人です。極めて不自然です。」
「創世記の作者はこの時ベニヤミンの年齢を忘れているね。生まれた場所も忘れるくらいだから。この辺のいい加減さは創世記によくある。」

「ソロモンの死後、国が南北に分裂します。列王一12:20に“ユダ族以外は,誰もダビデ家に従わなかった。”とあります。ところが次の節の12:21では“ソロモンの子レハベアムはエルサレムに着くと,直ちにユダ族全体とベニヤミン族の中から訓練された戦士18万人を集めた。”とあります。ベニヤミン族は立場をころりと変えたということですか?」
「ベニヤミンはユダの一部と考えられて頭数に入っていなかったのかも。“ベニヤミンはオオカミのようにかみ裂く。”と言う予言が実現するならこの時でしょう。でもそんなことはなかったね。ユダとベニヤミンの南の王国はパレスチナの弱小王国として大国から無視されることで命を細々と永らえる。」

「18節が“学べること”で、“何十年も後にイスラエルの10部族が反逆した時も,ユダ族と,エホバが選んだ王にしっかり付きました。(中略)私たちも,エホバが教え導くために選んだ人たちに心から協力したいと思います。”とあります。指導者に服従せよといういつもの教訓です。」
「“オオカミのようにかみ裂く”はどうなったの?それが羊のように従順に従う、にいつの間にか変わっている。いいかげんすぎる。」

「やっと最後の19説です。“ヤコブの臨終の預言からたくさんのことを学べます。その預言がどのように実現したかを考えると,聖書の預言は全てその通りになるという信仰が深まります。”とあります。でもヤコブの預言じゃないですよ。」
「ヤコブが12人の息子に最後の言葉をかけた後、創世記49:28には“イスラエルの12部族がこれらの人から生まれた。父は彼らのために祝福を願い求めた時に以上の事柄を語った。一人一人にふさわしい祝福だった。”とあるよ。ヤコブの言葉は“祝福”というもので、“預言”ではない。」

「JWにとって聖書に書かれていることは基本的に預言なのですね。そして自分たちに無理やり当てはめる傾向があります。予言成就の基準はあってなきが如くで、必ず成就したことにします。」
「聖書ってそういうものじゃないけれど、そういう風に終末論カルトに悪用されてきたし、これからも悪用されるのでしょうね。」

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