#1601 2025年09月19日 14:32:07
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“アドバイスを求めるといいのはどうして?(28)”で、組織の与える助言には文句を言わずに従え、でも決めるのは信者自身だ、責任は信者自身にある、という内容です。」
「JWに一番求められるのは服従だけど、それが組織の責任問題になるのは避けたいから、組織はアドバイスしただけで、それに従ったのは個人の決定・責任だよ、間違っても組織を訴えるなよ、ということだね。」
「4から7節が“どんな人になることが大切?”です。 4節に“アドバイスを受け止めるためには,謙虚でいることが大切です。”とあります。JWは謙虚さを最も求められる人たちです。」
「そのあとに“自分が何でも知っているわけではなく,いつも自分一人で良い判断ができるわけではない,と認めることが必要です。”とあるけれど、この程度のことで謙虚というのはヘンだよ。なんでも知っているという人なんかいないよ。謙虚さからほど遠い統治体の老人だって、そんなことは言わないでしょう。」
「4節で“謙虚でないとエホバに助けてもらえません。”とあります。そうですか?それを裏付ける聖句はないですよ。」
「創世記45:9でヨセフは“神は私をエジプト全土の主人としました。私の所に来てください。すぐに来てください。”という。ヨセフは自分は神によってエジプト全土の主人に選ばれたと宣言しているよ。どこに謙虚さがあるのかな?でもヨセフはエホバに助けられたんだよね。宇宙の創造者が謙虚じゃないと助けないなんてケチなことをいうかな?」
「5節からダビデ登場です。ダビデはJWの大のお気に入りです。6節に“ダビデは王になる前からアドバイスを聞き入れる姿勢を持っていました。男性だけではなく,女性からのアドバイスもです。”とあります。ダビデはJWの模範ですね。」
「女性からのアドバイスを受け入れた例としてアビガイルが出てきて、6節に“ダビデは謙虚にアビガイルのアドバイスを聞き入れ”とあるけれど、アビガイルはアドバイスをしたのではないよ。殺さないように懸命にお願いしただけ。」
「サムエル一25:24には“そしてダビデの足元に伏して,こう言った。「悪いのはこの私でございます。どうか,申し上げさせてください。私の言葉をお聞きください。”とありますね。アドバイスしているようには見えませんね。」
「ダビデは謙虚にアドバイスを受け入れたという結論に合うように、いい加減なことを言っているというのがよくわかる。」
「7節が教訓で、“ダビデのように,誰からのアドバイスかにかかわらず,きちんと耳を傾けることが大切です。”とあります。へんですね。JWのアドバイスしか聞かないのがJWですよ。」
「訳に問題がある。英文ではwe should be willing to listen to good advice(良いアドバイスには喜んで耳を傾けるべきです)とあり、耳を傾けるのはあくまでも”良いアドバイス”限定。JW以外のアドバイスは基本的に悪いアドバイスだから、無視するのがJW。」
「8から10節が“誰にアドバイスを求めるといい?”です。 ヨナタンの登場です。ヨナタンはサウル王の息子でダビデの親友です。8節に“ダビデはサウルの息子ヨナタンに相談しました。どうしてでしょうか。ヨナタンはエホバとの強い絆を持ち,しかもサウルという人をよく知っていたからです。”とあります。ダビデはサウル王のことを知りたかったから、その息子のヨナタンに相談しただけですよ。」
「ヨナタンは基本的には戦士だね。ヨナタンがエホバとの強い絆を持っているかどうかについて聖書は何も言っていない。この記事の執筆者はここでもいいかげんなことを書いている。」
「9節では“エホバとの強い絆を持っていて,しかも似たような経験をしたことがある人に相談すると,良いアドバイスをもらえます。”とあり、相談相手はJW限定のようです。」
「そこには脚注があって、“クリスチャンがお金や医療などの専門分野について,エホバの証人ではない人に相談することもあります。”とある。お金と医療に関してはJW以外の人に相談しても良いみたいだ。長老にお金や医療のことを相談して、ひどい目に遭ったJWがたくさんいるのだろう。」
「JWに相談することはやめた方がいいですよ。相談しても、聖句の2つ3つを読んでくれるだけ。それ以上の知恵はありません。」
「無知無学で社会的経験ゼロの21歳の男でも長老という肩書さえあれば、立派な相談相手になるというのが真の神の組織の見解だ。ぜいたくを言ってはいけない。」
「9節で“格言 13:20を読む。”とあり、そこには“賢い人たちと共に歩むと賢くなり,愚かな人たちと関わり合うと苦しい目に遭う。”とあるのですが、JWはどちらかと言えば、ここで言う“愚かな人たち”ですよ。関わるのはやめた方がいいです。」
「JWの自己評価としては、JWは“賢い人たち”なんだよ。だからここでこの聖句を読ませる。JWは少しも謙虚じゃないね。」
「9節に“若い兄弟が結婚相手を探しているとします。誰にアドバイスを求めるとよいでしょうか。”とあります。答えは“その兄弟のことをよく知っていて,すでに幸せな結婚生活を送っている信頼できる夫婦に相談する”です。問題は幸せな結婚生活を送っているJWなど滅多にいないことですよ。」
「JWは若い男が少ないから、結婚相手選びでは有利なんじゃないの?JWであることの数少ないお得な点。JW以外の世界では到底結婚なんか望めないダメ男でもJWであればなんとかなるんだよね。」
「11から14節が“素直な心でアドバイスを求めるにはどうしたらいい?”です。 11節では“アドバイスを求めているように見えても,実はすでにどうするか決めていて同意が欲しいだけ,という人もいます。”とあります。これはいけないことのようですが、なぜいけないのか理解できません。」
「周りのJWに相談してから決めなくてはいけないんだよ。自分で決めてはいけない。そんな権利はないのがJW。人生を組織にゆだねているのがJWだからだよ。大学進学も組織がダメと言ったら、どんなに進学したくても素直にあきらめるのがよいJWだ。」
「相談というのは、たいていは答えを決めているもんですよ。全く白紙の状態で相談する人はいません。」
「白紙の状態で相談して、どんなことを言われても、喜んで従う。それが理想のJWということ。JWを普通の宗教と思っては間違いだ。」
「12節からレハベアムが登場します。レハベアムはソロモンの息子です。“まず,ソロモンに仕えていた年長者たちに相談します。(王一 12:2-7)でもレハベアムはそのアドバイスに耳を貸さず,同年代の友達に相談しました。”とあります。その理由については“もしかすると,どうするかすでに決めていて,単に自分の意見に同意してくれる人を探していただけなのかもしれません。”と説明しています。これも単なる推測です。」
「言いたいことにぴったりの例を探したけれど、見つからないので、推測でごまかしたね。」
「12節では“同年代の友達に相談しました。”とありますが、列王一12:8には“共に成長して今は自分の従者となっている若者たちに相談した。”とあります。要するに若者に相談したということですね。」
「レハベアムはこの時41歳だよ。JWの洞察には“西暦前997年に41歳で父の後を継いで王位に就き,17年間治めました。”とある。古代で41歳は若者じゃない。むしろ老人に近い年齢。聖書の作者は数字に弱いから、この時レハベアムが何歳なのか忘れて、若者と思い込んでしまったのだろう。」
「列王一12章にある、レハベアムが老人の言うことを聞かず、若者の意見に従ったから国が分裂したというお話は成立しないということですね。」
「そういう単純な教訓話にしたかったのだろうけれど、ミスったね。レハベアムは老境に差し掛かっているという年代で、その同年代の人たちは若者じゃない。老若対立じゃなくて、老老対立。」
「13節は教訓です。“素直な心でアドバイスを求めることの大切さです。”とあります。レハベアムの話とは何にも関係ないです。」
「アドバイスされたことに逆らったり、拒絶することはダメだといいたいだけ。それを直接的に言えないので、“素直な心で”なんて耳障りの言い表現を使っている。」
「14節が具体例です。“ある兄弟が新しい仕事の話を持ち掛けられたとします。給料が良いものの家族と長い間離れて暮らすことになるような仕事です。それでその話を受け入れる前に長老にアドバイスを求めます。”というものです。長老は、ダメだと言います。“でも兄弟は納得せず,自分の聞きたいことを言ってもらえるまで何人もの人に聞いて回ります。”というものです。この兄弟はいけないことをしているみたいです。理解できません。」
「長老の言うことを聞かないからでしょう。長老には納得がいかなくても、奇妙なものでも、とにかく無条件で従うのがよいJW。それが嫌なので多くの人がJWを辞める。」
「長老のアドバイスに従った結果、その兄弟の生活が経済的に行き詰っても、長老は責任を取らないし、経済的に援助してくれるわけでもありません。エホバに任せるとか、エホバを待つとかといったたわごとを言うだけです。」
「現実問題としては、長老に相談しないのがよいということだね。そうすれば長老の逆らわずに済む。」
「15から17節が“ほかの人に決めてもらってもいい?”です。 さんざん相談しろと言いながら、15節には“私たちはみんな,自分のことを自分で決めなければいけません。”とあります。他の人に決めてもらうのはダメなようです。」
「これは組織の責任逃れのための文章だね。組織の指示が後で問題になったら、そんなことは指示していないと否定し、一部の信者が勝手に曲解して暴走しただけと責任逃れをしてきたのがJWの歴史。」
「16節はコリント一にある偶像にささげられた肉を食べてよいかという問題が出てきます。“それは自分で決めることでした。”とあります。だから、自分で決めろと言いたいようですが、これはヘンですよ。これは特殊な例にすぎません。」
「偶像にささげられた肉を食べるのが自分で決めることだとしても、だから全てがそうだという結論にはならないよね。ダメなものの方が多いのがJWでしょう。」
「17節が現代の例です。“例えば,血液分画を使用するかどうかは,クリスチャン一人一人が決めるべきことです。”とあります。JWの奇妙な血液理論によると、主要な4成分以外は使用してもよいわけです。個人の決定に任されているわけですね。」
「でも全血輸血はダメということね。これは個人の決定に任せられない問題なわけだ。おかしいよ。」
「17節の最後には“それでも聖書の教えが自分にどう当てはまるかがよく分からないなら,相談できます。”とあります。これは笑えますね。血液分画なんて聖書に全く出てきません。聖書の教えをどう当てはめるというのですか?あてはめようがないです。」
「全血はダメだけど、成分に分けたらいいなんていうのは、聖書に基づかない、あまり頭が良いとは言えないJWが考えた教えに過ぎないことを、信者に知られたくないからそういっているだけ。」
「英文ではBible principles(聖書の原則)とあり、“聖書の教え”ではないです。」
「血液の問題は聖書の原則とは無関係ということを翻訳者は知っているので、よりあいまいな“聖書の教え”に変えたね。」
「18、19節は“アドバイスを求め続けましょう”です。 まとめです。この記事も中身は薄いものでしたね。18節で“エホバは優しいお父さんとして,私たちが良い判断をするのを願い,そのために必要なものを与えてくれています。聖書があります。聖書から役立つアドバイスをしてくれる友達がいます。”とあります。これだけです。つまりエホバがしてくれることは何もないということです。」
「役立たずの神だね。聖書とJWの友達が神が与えてくれる全てなの?JWの友達なんか聖句を2,3読んで、何かアドバイスしたつもりになる程度の人物だよ。絶望的だ。さっさとやめよう、JW!」
#1602 2025年09月26日 14:19:55
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“上手にアドバイスするには?(29)”で、主に長老たちにアドバイスの仕方を教えるという内容です。」
「どこかの企業の中間管理職向けの研修会で使った古い資料を借りてきて、この記事を書いたかのように思えるね。無知無学で社会的経験ゼロの21歳の長老には、もっとしっかりした信者対応マニュアルが必要だよ。」
「JWは宗教を装った企業ですからね。企業のやり方を真似するのは自然なことですよ。」
「この記事は企業のマニュアルに愛とか聖書の話を混ぜて、宗教らしくしているだけのよう見えるね。」
「1節から愛が出てきます。“兄弟姉妹を心から愛しているなら,必要な時ためらわずにアドバイスを与えます。”とあります。違いますよ。組織の定めた規則に対する些細な違反を見逃さず、無給の従業員である信者をしっかり管理・矯正するためにアドバイスするだけです。」
「愛は関係ないでしょう。気軽に愛という言葉を使う組織は詐欺組織だから警戒しよう。ここで言うアドバイスというのは、JW的な言い回しで、実体は、このままでは排斥だぞ、という脅迫であり心理操作。」
「2節に“特に長老たちは上手にアドバイスしなければいけません。エホバとイエスから会衆の兄弟姉妹を世話する責任を与えられているからです。”とありますが、違いますよ。長老は巡回監督によって任命されているだけです。エホバもイエスも無関係です。」
「アメリカでは数多くの長老が犯罪者として逮捕され、刑務所に行ったよ。エホバもイエスも人事に関しては無能ということかな?」
「2節の下の囲みには“週日の集会でのアドバイス”という記事があります。そこには“話や実演の後,司会者は良かったところを褒めます。でも,指定された課やポイントの内容をどうすればもっと生かせるか,温かく具体的に伝えるとよい場合もあります。”とあります。まず、ほめてから、アドバイスしなさいというマニュアルですね。」
「これは全く役に立たないアドバイス。多くの人はそういうマニュアルがあることを知っている。最初の誉め言葉なんか、単なる社交辞令で、何の意味のないことぐらいおとなならわかるよ。回りくどい言い方をするよりも率直に言ってくれた方がいいという人もいるでしょう。」
「3節に“イエスは「素晴らしい助言者」と呼ばれています。(イザヤ 9:6を読む。)”とありますが、イザヤ9章はイエスのことを言っていません。理想の王が軍事的に敵を打ち破り、平和と正義の新しい時代が来ると言っているだけです。実現しませんでしたが。」
「例えばイザヤ9:4は“あなたは,彼らが負っていたてんびん棒や,肩を打つ棒や,仕事を割り当てる者のつえを粉々に砕いた。ミディアンの時と同じように。”とある。 “ミディアンの時”というのは、裁き人6から8章にある、ギデオンが侵略してきたミディオン人に対して決定的な勝利をおさめた日のことをいっている。この聖句はイスラエルを虐げるものが征服されるだろう、と言っている。イエスと関係ないよ。」
「3節の下に” アドバイスするときにイエスに倣う”という囲み記事があります。3つの”学べること”が出ています。その中に、イエスは” いつも敬意を込めて穏やかに話しました。”とありますが、違いますよ。」
「例えば、マタイ16:23には“しかし,イエスはペテロに背を向けて言った。「私の後ろに下がれ,サタン!・・・”と言っているよ。これも“敬意をこめて穏やかに” 話したといえるのかな?」
「4から8節が“アドバイスを求められたとき”です。 けっこうまともなことが書かれています。4節では“その分野に詳しい人に相談するよう勧める方がよい場合もあります。”と言っています。5節では病気の話を取り上げ、“あなたは医療の専門家ではありませんし,その分野の教育を受けたわけでもありません。そういう時はきちんと専門家にアドバイスを求めるよう勧めるのがベストです。”とあります。」
「医療に宗教がかかわることをだいぶ気にしているね。医療の全くの素人が医者に輸血はどうのこうの、輸血に変わる治療法がどうのこうのと説教するのがJWと思われている。そういうことは品の悪い冗談だからやめて欲しいね。」
「6節では“この分野なら自分にはアドバイスができると感じる時も,まず時間を取って,何を言うか考えるのは大切です。”とあります。すぐにアドバイスするな、少し待てということのようです。」
「JWが詳しい分野なんてあるの?高卒で開拓者の長老なんて、詳しいのはJWの教えだけでしょう。アドバイスを求められても、他の人に頼むのがベストということだね。」
「7節には預言者ナタンが登場します。“ダビデ王がエホバのために神殿を建てたいと言った時,預言者ナタンはぜひそうするようにとすぐに勧めました。でも,ナタンはまずエホバに尋ねるべきでした。エホバはダビデが神殿を建てることを望んではいなかったからです。(代一 17:1-4)”とあります。ナタンがエホバに尋ねるとエホバはすぐ答えてくれるのですか?もしそうならナタンって凄すぎます。」
「歴代一17:3では“その夜,神はナタンに言った。”とある。“私が住む家を建てるのはあなたではない”と神は言うわけだ。そして17:15では“ナタンは,この言葉全てとこの幻全体をダビデに話した。”とある。ナタンが神に尋ねたのではなく、神が幻という形で意思を伝えたことになっている。」
「歴代一17章のこの部分はサムエル二7章をもとにしたものですよね。ほとんど同じです。」
「違いもあるよ。サムエル二では“エホバのおかげで周囲の敵から守られ,安心できるようになった時”にダビデが神殿建設の話を言い出したことになっている。しかし、歴代一ではこれは削除されている。」
「サムエル二8章では周囲の国との戦争の話が延々続きますからね。“エホバのおかげで周囲の敵から守られ,安心できるようになった時”というのが全くおかしいわけです。それに気づいた歴代誌の作者はその部分を削除したのですよ。」
「そのほかに、サムエル二7章には“彼が間違ったことをするとき,私は人のつえ,人の子たちの殴打によって彼を戒める。”とあるけれど、歴代誌一ではこれも省略している。歴代誌ではイスラエルにとってよくないことは削除するね。」
「8節に“自分が良くないアドバイスをしたせいで相手がつらい目に遭うなら,アドバイスした側にも責任があるといえます。”とあります。意外です。組織はあれこれと信者に要求しますが、その結果信者がつらい目に遭っても、何の責任も取りません。」
「間もなく終わりが来るから、進学するな、貯金をするな、年金を払うな・・・などのアドバイスをした人はどう責任を取るべきか書いて欲しかったね。そういう問題が生じるから、余計なアドバイスはするなと言いたいのでしょう。」
「9から13節が“求められていなくてもアドバイスするとき”です。 信者の管理統制のために、アドバイスという名の脅迫をするわけです。9節には“長老たちは「道を踏み外した」兄弟姉妹にアドバイスしなければいけないことがあります。(ガラテア 6:1を読む。)”とあります。ガラテア6:1には“クリスチャンとして十分に資格がある皆さんは”とあるのですが、これは長老のことですか?」
「違うよ。訳がおかしい。単に“霊的な”とあるだけ。協会共同訳では“霊の人であるあなたがたは”となっている。ガラテアの会衆の人全員のこと。」
「ガラテアはパウロの初期の手紙で、組織宗教となる前の段階の会衆にあてられたものです。その初期段階で資格がどうのこうのなんてありえません。」
「JWでは階級制度を設けて、長老だけがアドバイスするというようにしたいので、それに合わせて聖書も変えるわけだ。聖書の改ざんはJWの得意技。」
「11節では“求められていないのにアドバイスを与えることは硬い土で植物を育てようとすることに似ています。”と言って、“まず土を耕して柔らかくします。そうやってふかふかになった土に種をまきます。それから,成長に欠かせない水を注ぎます。”と説明します。いきなり種をまくのではなく、土を軟かくしてから、種をまき、水をやりなさいと言っています。」
「12節で具体的に書いている。“長老は誰もが時には間違いをしてアドバイスを必要とするということを話して,いわば土を柔らかくします。(ロマ 3:23)”とある。引照聖句には“全ての人は罪人”とあるけれど、この聖句を長老が読み始めたら、何か文句を言われる前触れということだね。」
「次にアドバイスをし、“それから相手の頑張っているところを心から褒め,一緒に祈ることで,水を注ぎます。(ヤコ 5:15)”とあります。」
「これは昔からあるテクニックで、“ほめる→改善点を告げる→ほめる”というもの。別名“称賛サンドイッチ”。ほめ言葉の間に本当に言いたいことを挟むからサンドイッチ。どこかの企業の人事担当者に教えてもらったのかも。」
「つまり、これは企業のやり方で、宗教組織のやり方じゃないということですね。」
「JWは宗教に関する書籍と雑誌を売る企業として出発したことを忘れないように。」
「無知無学で社会経験ゼロの21歳の長老なら、ここに書かれているのは古臭い企業マニュアルに書いてあることと知らずに、この通りに平信者にアドバイスという名の脅迫をするのでしょうね。」
「長老がこのマニュアル通りにすると、平信者からは、おバカな長老と思われるだけ。そしてますます信頼されなくなる。」
「くだらないことを長々と言われるのが嫌な平信者は、お世辞か何かを言われた時点で、“さあ、はやく本題に入りましょう。”と言えばいいわけですね。」
「長老は平信者から指示されたり、抵抗されるのに慣れていないので、そういわれると混乱するだろうね。」
「くだらないアドバイスをまじめに聞く必要なんかないですよ。」
「アドバイスをうけたら、“聖書のどこにそれが間違っていると書いてあるか教えてください。”などと尋ねればいい。それから、“これはあなたの個人的な意見ですか、それとも誰かから指示されたことですか?”などと意表を突く質問をするのもいいよ。マニュアルしか知らない長老は答えに詰まって、アドバイスは中止せざるをえなくなる。」
「さんざんくだらないことを言われて、最後に長老と一緒に祈るなんて、たいていの人は嫌ですよ。」
「断ればいいよ。“今日言われたことをこれから自分なりにじっくり考えてから、祈りの中で自分の気持ちをエホバに伝えたいと思います。”などと言えばいい。」
「13節では“上手に質問して,アドバイスの内容をしっかり理解しているかを確かめます。”とあり、相手がアドバイスを正しく理解したかどうかを質問して確かめるように言っています。長老のアドバイスというのは組織から言われたことを繰り返しているだけですから、長老自身だって、自分が何を言っているかよくわからないことがありますよ。」
「そういう滑稽なことが繰り返されるのがJWだ。その答え合わせの質問にだって、“まだ100%理解できていませんので、自分なりにじっくり考えてみます。”と答えるのを断ればいい。JWのゲームに付き合う義務はないよ。」
「14、15節は“良いタイミングで,受け入れやすい仕方で”です。 14節に“怒りに任せてアドバイスすると,良い結果になるどころか,相手は心を閉ざしてしまうでしょう。”とありますが、“怒りに任せてアドバイス”なんて、典型的なパワハラです。最低です。」
「そういうことをした長老はどうなるのか、JWの人事マニュアルを知りたいね。そういう人物は管理職に不適格。何も処分されないようだと、また同じことを繰り返し、信者数の減少と寄付の減少を招くよ。宗教を装った企業としては重大な損失だ。」
「15節はヨブ記に出てくるエリフを取り上げて、“エリフは話すべきタイミングを待ち,優しく敬意を込めてヨブに助言しました。”とあります。それを見倣えということです。」
「その程度のことを言うために聖書を持ち出す必要はないよ。JWの教えは企業マニュアルではなく、聖書に基づいているという幻想を与えるためだね。」
「16、17節は“これからもアドバイスを求め,受け入れる”です。 16節で“エホバは,これからもアドバイスを与えるだけでなく,アドバイスの通りにできるよう助けてくれます。”とウソを言っています。アドバイスするのは統治体など組織の人間ですよ。エホバは関係ありません。」
「そんなことはそうとう間抜けなJWでも知っている。ネクタイとかヒゲについて、本当に宇宙の創造者からのアドバイスと思っているJWはいないよ。」
「17節に“アドバイスを与えることも受けることも,私たちにとって大切です。今は終わりの時代なので特にそうです。(テモ二 3:1)”とありますが、英文には“今は終わりの時代なので特にそうです。”に当たる文はありません。翻訳者が付け加えたものです。勝手に付け加えるのはよくないですよ。」
「統治体は、もはや、今は終わりの時代などというウソ話は言いたくないのかもよ。前607年とか重なる世代の教義で、平信者からさんざんバカにされているからね。」
#1603 2025年10月03日 13:49:35
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#1604 2025年10月10日 14:21:06
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“満足する「秘訣を学び」ましょう(31)”で、不満だらけのJW人生なので、満足する秘訣を学ぶ、という内容です。」
「具体的に取り上げられている問題は食べ物と特権。JWの代表的な不満の種がその二つなのだろう。JWは本当に情けない人生を送っているね。」
「1節に“今の自分に満足することは大切です。”とありますが、そのあとに“とはいえ,現状に甘んじて自己満足に浸るのは良くありません。”とあります。矛盾していませんか?」
「英文ではa Christian rightly reaches out for opportunities to expand his service.(クリスチャンは奉仕を拡大する機会を積極的に求めます)とあり、JWは生活全般には満足すべきだけど、奉仕活動だけは現状に満足するな、もっとやれということ。厳しいね。」
「日本語版では、そこは文章を変えていますよね。“エホバのためにもっとしたいという気持ちで,できることに取り組みます。”とあいまいな内容になっています。」
「狂信度を減らしているね。これ以上信者をムチ打つようなことを言いたくなかったのかも。」
「2節では珍しくJWの犯罪を明らかにしています。“お金や物を盗んでしまったクリスチャンもいます。”とあります。」
「生活苦のJWが多いからね。でもこういう時は“クリスチャン”という言葉をつかうのがずるいね。エホバの民とかエホバの証人と言って欲しい。」
「4から7節が“感謝の気持ちを持つ”です。 満足するための秘訣①です。4節に“満足するためには感謝の気持ちを持つことが大切です。(テサロニケ第一 5:18を読む。)”とありますが、引照聖句には“全てのことに感謝してください。”とあるだけで、感謝すると満足感が生まれるとは書いていません。」
「これは不満を言う信者には、感謝の気持ちが足りない!と叱りつけていい、というメッセージだね。そうやって罪悪感を覚えさせるわけだ。恐怖と罪悪感はカルトが信者を操縦するためのよく使う道具。」
「5節は旧約聖書の話です。“イスラエル人は何度もエジプトで食べて いたものを思い出してはエホバに文句を言いました。(民 11:4-6)”とあります。そして“では,イスラエル人はどうして文句を言ってしまったのでしょうか。食べ物がなかったからではありません。今あるものに感謝していなかったからです。”と解説しています。違うでしょう。」
「食べ物に不満なのは食べ物に感謝していなかったから、というのは説明になっていない。同語反復だね。同じことを別の表現で言っているだけ。」
「引照聖句には“それが今,私たちは痩せ衰えている。目にするのはこのマナばかりだ。”と不満の原因をはっきり書いていますよ。」
「人間は同じものばかり食べさせられれば嫌気がする。そういうように創造されたんじゃないの?神ならそれがわかっているはずだから、なぜ多様な味のマナをつくらなかったのか不思議だね。」
「神は出エジプトしたイスラエル人をそう大切に思っていないからですよ。」
「そうだろうね。荒野で野たれ死にさせるつもり。約束の地に行くのは次の世代。愛ある神だね。」
「民数記11章では、神はそのあと“丸1カ月,肉が鼻から出て,肉にうんざりするまでである。”と肉を大量に与える約束をして、イスラエル人を喜ばせますが、どうなったかというと“しかし,肉を口に入れて食べている間に,民に対してエホバの怒りが燃え,エホバは民を打ち始め,非常に大勢の人を滅ぼした。”という結末です。無茶苦茶な話です。神は信用できません。」
「聖書の神は気まぐれな暴君にすぎない。だから不満を言ってはいけないというありがたい教訓だよ。死にたくなかったら文句を言うな!!!」
「6節は感謝の気持ち強化法です。3つあります。” まず,毎日時間を取って,その日あった良いことについて考えるようにします。感謝できる2つか3つのことを書き出してみるのはどうでしょうか。”、”2つ目に,感謝をきちんと言葉で伝えるようにしましょう。”、” 3つ目に,感謝の気持ちが厚い人たちと友達になりましょう。”です。これを実行すれば感謝の気持ちが強まるようです。」
「感謝の気持ちというのは自然に生まれるものではないの?こんな手の込んだ方法を実行しないといけないJWは感謝の気持ちに欠けた人ばかりということね。」
「6節には“誰よりもまずエホバに感謝しましょう。”とあります。朝が来るのも、夜になるのもみなエホバのおかげと感謝するわけですね。」
「そういうわけで、会話の端々に“エホバのおかげで”という単語を挟むと、模範的なJWと思われるよ。」
「7節はアチー姉妹の話です。“毎日,エホバのおかげで味わえた幸せを一つ一つかみしめました。エホバの家族の1人だからこそできているうれしい経験を思い出すようにもしました。そして,感謝の気持ちをエホバに伝えました。そうすると,自分はなんて恵まれているんだろうと思えるようになりました。”とあります。ウソ臭い話ですね。JWがそんなに幸せな経験をするとは思えません。」
「伝道先では怒鳴られ、集会や大会では退屈な話にうんざりし、職場や学校ではカルト信者とバカにされ、会衆内では些細なことで批判され、そのうえ低賃金の仕事で消耗し、毎日がつらくて苦しいのがJWじゃないの。」
「8から11節は“エホバに目を向け,謙虚でいる”です。 満足するための秘訣②です。特権がもらえないという不満を扱っています。」
「特権の有無はJW人生の満足度に大きく影響するからね。」
「8節は“預言者エレミヤの秘書官バルク”の話です。“ある時,バルクは大切なことを見失ってしまいました。エホバが期待していることではなく,自分のことばかり考えてしまい,自分のしたいことをするようになりました。”とありますが、聖書のどこにそんなことが書かれていますか?勝手な推測です。」
「バラクが最初に登場するのはエレミヤ32:12で“マフセヤの子ネリヤの子バルク”とある。エレミヤ51:59には“預言者エレミヤが,マフセヤの子ネリヤの子セラヤに命じた言葉。(中略)セラヤは補給係の長だった。”とある。それでバルクはセラヤの兄弟で、セラヤは高い地位にあることから、バルクは高貴な家柄の出身で本来なら高い地位につけたと思われている。古代の歴史家のヨセフスによると、非常に有能な人だったらしい。当然野心もあったはずだけれども、それを抑えて、エレミヤという預言者に仕えて、苦難の道を選んだ人。」
「9節は現代のJWの話です。” もし自分がしたいと思っている奉仕をほかの人がすることになって納得がいかない場合,どうすればいいですか。”とあります。英文では”奉仕”ではなく、privilege(特権)ですよ。特権を他人に取られたらどうすべきか、と尋ねているのです。マイク係という特権を11歳の子どもに奪われるなんてことがありますからね。」
「日本語翻訳者は特権というばかげた言葉を使いたくないようで、別の言葉に変えることが多いね。」
「9節には“パウロがコリント第一 4章6,7節で書いていることをじっくり考えることが大切です。(読む。)どんな奉仕の機会もどんな才能も,全てエホバからもらったものです。自力で手に入れたものでも,もらって当然のものでもありません。”とあります。特権とはいつ奪われても仕方がないものと考えろ!ということですね。」
「引照聖句には“あなたの何が他の人より優れているのですか。あなたが持っているもので,もらったのではないものがあるのですか。”とあるけれど、これはJWの特権のことを言っているわけではない。他人より優れていると感じさせる高い知性や性格の強さなどを言っている。聖句の誤用だね。」
「10節では珍しくイエスが登場します。“もっと謙虚な人になるには,イエスの手本をじっくり考え,イエスに倣うことが大切です。”とあります。使徒たちの足を洗った話が出てきます。」
「JWではイエスは謙虚さのお手本程度の存在だね。聖書の中では他に謙虚さのお手本になるような人が少ないからね。」
「11節はデニス兄弟の話です。“例えばほかの人が何かの奉仕をすることになると,どうして自分じゃなかったんだろうと思ってしまいます。そういう 時は謙虚さをテーマに勉強するようにしています。JW Library®で謙虚さに関係した聖句にタグを付けて,すぐ見返せるようにしています。スマホに謙虚さについての話の動画をダウンロードして,ちょくちょく聞き直すようにしています。”とあります。これが謙虚さ獲得法のようです。他人に特権を取られることがそんなに悔しいとは珍しい人ですね。架空の人物ですか?」
「つまらない雑用を特権と呼んで、バカな誰かにやらせようとしているだけなのに、そんなこともわからないなんて。ひょっとしたら10歳なのかも。」
「12から15節が“希望を見つめる”です。 満足するための秘訣③です。JWらしいたわごとが続きます。12節では“(イザヤ 65:21-25を読む。)新しい世界では,みんなが居心地のいい家に住み,やりがいのある仕事を持ち,おいしくて健康に良い食べ物を楽しめます。自分や子供たちが危険な目に遭うのではないかと心配することはありません。”とあります。定番の聖句ですね。」
「いつも言っているけれど、そこに描かれているのはハルマゲドン後の楽園ではない。イザヤ65:20には“寿命を全うしない老人もいなくなる。罪人は100歳であっても災いを受け,100歳で死んだ者も少年と見なされるのである。”とある。ただ長生きするだけで、永遠の命があるわけじゃない。この部分は引用しないよね。引用されている部分でも“私の民の寿命は木の寿命のようになり”とあり、木のように長生きすると言っているだけ。永遠に生きるわけではない。」
「イザヤ65:21には“人々は家を建てて住み”とあります。家の建て方なんかほとんどの人は知りませんし、必要な技術も道具も持っていません。」
「粗雑な掘っ立て小屋みたいなところに住むということでしょう。夏は熱中症で死ぬほど暑く、冬は凍死するほど寒い。」
「13節は楽園幻想です。” エホバはパラダイスで単に必要なものだけではなく,良いものをあふれるほど与えると約束しています。(詩 9:18; 72:12-14)”とあります。しかし、引照聖句はハルマゲドン後の楽園のことを言っていません。それから” 神は新しい世界で病気も死もなくしてくれます。(啓 21:3,4)”とあります。でもペットなどの動物は死ぬというのがJWの教義ですから、死はあるわけですよ。動物の死体は誰が片付けるのですか?動物たちは皆草食に変えられているわけですよ。」
「死体処理は特権と称して、一番トロイ奴にやらせるんだよ。」
「パラダイスという言葉自体聖書の中にほとんど出てきません。そもそも地上の楽園などという思想はありませんよ。」
「旧約聖書ではパラダイスは3回出てくるけれど、いずれも楽園ではない。例えばネヘミア2:8に“『王の公園』の管理人アサフへの手紙もお願いいたします。”とあるけれど、パラダイスは公園と訳されている。新約でもJW的な未来の楽園としてパラダイスが用いられているのは啓示2:7の“私は,征服する人に,神のパラダイスにある命の木の実を食べることを許します。”だけ。」
「14節は奇妙なことが書かれています。“遠くの物をはっきり見るために眼鏡が必要なように,将来のパラダイスをはっきりイメージするためには,意識的な努力が必要です。”とあります。楽園メガネをかけて、現実逃避しなさいといっています。」
「日本語には“色眼鏡で見る”という慣用句があるけれど、英語ではそんな慣用句は知られていないようだ。だからメガネのたとえを使ったのだろうけれど、日本人にはこっけいに聞こえる。“色眼鏡で見る”とは、先入観や偏見にとらわれて物事を公平に、または客観的に見られない状態を比喩的に表す表現。それを実行しなさいということだ。」
「そのあとには“経済的な心配で頭がいっぱいになったら,お金も借金も経済格差も全くなくなる,将来の生活を思い描いてください。やりたい奉仕ができなくてもどかしく思っているなら,完全になってずっとエホバに仕えられる将来を思い描いてください。”とあります。もっとましなアドバイスは思いつかないのでしょうか?こんなことを言っているからJWはバカにされる。」
「“奉仕”とあるけれど、本当は“特権”だからね。ここでも貧困と特権が取り上げられている。JWにとってこれらが人生最大の問題なんだね。」
「おなかのすいている人に、おいしいごちそうを思い描いてください、そうすれば空腹に耐えられます、と言っているようなものです。」
「組織はお金は結構あるはず。空腹な人に食べ物をあげることぐらいはできるはず。でもそれはする気がない。ヤコブ2:15,16に“兄弟や姉妹が,着る物を持っておらず,その日に食べる物も十分にないとします。それなのに,皆さんのうちの誰かが,「安心して過ごしてください。温かくして,たくさん食べてください」と言うだけで,体に必要な物をその人に与えないなら,何の価値があるでしょうか。”とあるよ。まるでJWのことを言っているようだ。」
「不思議なのはここに楽園の想像図がないことです。楽園を思い描けといっているわけですから、素敵な想像図をここに挿入すべきですよ。」
「山があって、滝があって、湖があって、果物を食べながら、パンダの頭を撫ぜるというような想像図はもはや受けないんだよ。それって地球のどこにあるんですか、今年の夏に行きたいと思います、と質問が来るんだよ。組織も冗談のネタにされないような楽園を思い描くことが困難になっている。」
「15節がクリスタルの話です。“私は進行性の筋肉の病気を抱えていて,ほぼ一日中寝たきりで,移動する時には車椅子を使っています。毎日,痛みと闘っています。最近,お医者さんから回復の見込みは薄いと言われました。”とあります。深刻な状態ですが“私は将来の希望に目を向けていて,穏やかな心でいられます。”と言っています。良かったですね。でも、こういう難病の人でも伝道をし、集会に参加しなくてはいけないのがJWです。それをさぼるとハルマゲドンで滅ぼされます。病気は奉仕や集会を休む言い訳になりません。」
「こういう難病の人をターゲットに、楽園幻想を振りまいて伝道活動しなさいというメッセージかな?難病の人は危険なカルトにだまされないようにね。」
「16、17節は“神を畏れる人は何も不足しない”です。 この表題は詩編34:9からの引用です。“どういう意味でしょうか。エホバに仕える人がいろいろ大変な思いをするとしても,本当に必要なものに不足することはないということです。(詩 145:16)”とありますが、違います。“何も不足しない”といっていますから、何も不足しないという意味です。引照聖句には“あなたは手を開いて,生きている全てのものの願いをかなえる。”とありますから、全ての願いをかなえてくれるはずです。聖書って嘘ばかりですね。」
「詩編に書かれているのは神の約束じゃないよ。神への賛美や祈りや嘆き、訴え等々。神の約束や保証と理解するJWがおかしいの。」
「17節がまとめで、“これからも満足する秘訣を学ぶようにしましょう。感謝の気持ちを持ち,エホバに目を向け謙虚であり,希望を見つめるなら”満足できると言っています。説得力ゼロでした。」
「より満足できる人生を歩みたければ、まずJWをやめること。これが秘訣。」
#1605 2025年10月17日 14:04:02
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Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“忍耐できるようにエホバは助けてくれている(32)”で、JWはどんなつらいことがあっても楽園を夢見て、忍耐し、伝道をしなさい、という内容です。」
「生きるのがつらいとしたら、その主な原因はJWだから、とりあえず伝道や集会をやめれば、生きるのが相当楽になるよ。」
「この記事で言うエホバの助けというのは、祈り、聖書、仲間、希望です。大した助けじゃないです。」
「祈り、聖書、仲間、希望なら、他のキリスト教の方がいいかも。」
「1節に“終わりの時代の今,私たちはみんな忍耐しなければいけません。”とあります。終末カルトらしい出だしです。」
「英文ではdifficult last days(困難な終わりの日)とある。”困難な”を省略したのは、今が100年前、200年前と比べて”困難な”日とは言えないことを知っているからだろう。生活は昔より楽になったよ。掃除だって洗濯だって機械がやってくれる。」
「1節で、忍耐すべきものとして、具体的には“長い間病気と闘っていたり,愛する人との死別を経験したり,家族や政府から反対されたりしています。”とあります。これって、いつの時代でもあるものですよ。終わりの日と無関係です。」
「今が終わりの日という特別な時代だという明確な証拠を思いつかなかった、ということだね。」
「1節では“ペテロ第一 5:10を読む。”とあり、そこには“皆さんが少しの間苦しんだ後,惜しみない親切に満ちる神は,皆さんの訓練を終えます。”とあるのですが、訳がおかしいですよ。」
「“訓練を終えます”というのが笑える。元のギリシャ語では、4つの動詞が並んだ文になっているので、それに合わせて、協会共同訳では“癒やし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。”としている。」
「JWが“訓練を終える”と珍訳している語にはそんな意味はないですよ。完全なものにするとか回復する、修理してもとに戻すという意味です。」
「JWはクリスチャンというより、無給の拡張販売員だから、企業で使うような言葉に変えるわけだ。」
「3から6節が“祈り”です。 祈りはエホバからの贈り物だそうです。3節に“エホバは私たちが忍耐できるように素晴らしい贈り物をくれました。それは祈りです。”とあります。」
「英文では“素晴らしい”ではなくmiraculous(奇跡的な)となっている。翻訳者はカルト的な大げさな表現を和らげるようにしているね。」
「5節で瞑想を攻撃しています。“例えば,瞑想をして頭を空っぽにし,心配事を全部忘れようとします。でも聖書によると,それは危険なことです。(マタイ 12:43-45と比較。)”とあります。瞑想は頭を空っぽにすることですか?」
「JW特有の知ったかぶりでしょう。瞑想の目的や方法は様々なものがあるのに、攻撃しやすいものに勝手に決めつけて、瞑想は危険だといっているだけ。ストローマン論法だね。」
「引照聖句は瞑想と無関係です。邪悪な天使たちの話ですよ。」
「英文ではan unclean spirit(汚れた霊)とあるのに、いつものように”邪悪な天使”に変えている。元のJWと日本のJWは異なる宗教だね。」
「6節は“できること”で、具体的な指示が出ています。おもしろいのは“苦しい中でもエホバがどんなふうに支えてくれているかをよく考えると,祈って感謝を伝えたいという気持ちになります。”という部分です。これはエホバが支えてくれるということを前提にして、その証拠を探せということですよ。ひとつでも証拠が見つかると、エホバね!というわけです。」
「これは確証バイアスというものだ。神は何もしてくれなかったということは無数にあるのに、それは全く無視して、何かしてくれたことを探させる。ひとつでもそれらしきものがあると、神は支えてくれるというのは正しいと証明された、と思い込むわけだ。」
「7から10節が“聖書”です。 7節に“エホバは私たちが忍耐できるよう聖書をくれました。”とあります。聖書がそんなものとは知りませんでした。」
「聖書を読めば何でも解決するというのがJWの教え。」
「7節に“例えばマタイ 6章8節には,「天の父は,あなたたちが求める前から,必要とするものを知っている」とあります。(中略)エホバは逆境と闘う私たちがどんなものを必要とするかよく知っていて,ぴったりの助けを差し伸べてくれるということです。”とありますが、違いますよ。」
「まず、マタイ6:7に“祈るとき,異国の人々のように同じことを何度も言ってはなりません。その人たちは,多くの言葉を並べれば聞かれると思っています。”とあり、祈りの仕方について述べている。そして天の父は必要としているものを知っていると続く。ピッタリの助けを差し伸べてくれるとは言っていない。」
「JWの長老などが良くするように長々と祈ったりするな、それはみっともないことだ、と言っているわけですね。」
「イエスの時代でも、人前で祈る時、自分の敬虔さを見せびらかすようなことをする人がいたけれど、イエスは神は何でも知っているんだから、なんでそんなに言葉を長々と並べる必要があるの?と皮肉っているわけだね。その後イエスは祈りのお手本を示すけれど、きわめて簡潔なもの。」
「8節で“聖書は良い判断をするための知恵の宝庫です。”とあります。そんなことないでしょう。格言22:15には“愚かさが少年の心に深く根差している。懲らしめのむちがそれを取り除く。”とあります。格言23:13,14には“少年を懲らしめるのを控えてはならない。むちで打つ場合,彼は死なない。 彼をむちで打つべきである。彼を墓から救うためである。”とあります。体罰推奨です。これは良い判断ですか?」
「聖書のおかげでどれほどの数の子どもが暴力的で野蛮な育てられ方をしたのかと思うと、聖書って有害だよね。」
「格言21:14には“ひそかな贈り物は怒りをなだめ,秘密の賄賂はすさまじい怒りをなだめる。”とあります。これはよい判断ですか?」
「相手によるでしょう。でも相手がJWなら贈り物や賄賂を渡すというのはいい判断なんじゃないの?こんなことは真面目な人には思いつかないから、聖書は本当に知恵の宝庫だね。」
「9節に“聖書には,私たちと同じような普通の人たちがエホバに頼って支えてもらったという記録がたくさんあります。(ヘブ 11:32-34。ヤコ 5:17)”とありますが、引照聖句に出てくる人は、“ギデオン,バラク,サムソン,エフタ,ダビデ,またサムエルやほかの預言者”ですよ。“普通の人たち”というより特別に選ばれた人たちですよ。」
「将来、天の支配者となる統治体の老人から見れば、旧約聖書に出てくる人たちなど普通の人に過ぎないということでしょう。」
「英文ではtrue-life accounts (実話に基づいた記録)とあるのに、単に“記録”と訳しています。翻訳者は旧約聖書の話を実話と思っていないということですね。」
「サムソンがロバの骨で1000人を打ち殺した話を実話と信じるには知性がありすぎるのだろう。」
「10節は“できること”で、“聖書を毎日読み,自分にとって力になる聖句のリストを作りましょう。”とあります。サムソンの話なんか読んだ方がいいですか?」
「組織としては、組織の出版物さえ読んでいればいいとは、言えないから、一応聖書を読みましょうと言っているだけ。本当は聖書など読まなくてもよいと思っているよ。」
「11から14節が“仲間”です。 11節に“エホバは私たちが忍耐できるよう,仲間も与えてくれています。”とあります。はじめは嫌なJWと付き合うことで、嫌な人間に対して忍耐力がつく、という意味と思ったのですが、違うようです。」
「11節で“今どんな問題にぶつかっているとしても,似たような経験をし,頑張ってきた仲間がいるということです。そうであれば,自分も耐えられると思えるのではないでしょうか。”とある。あんな間抜けなJWでも耐えているんだから、自分も耐えられると自信が持てるということじゃないかな?」
「13節はロシアのマヤ姉妹の話です。裁判にかけられるのですが、“兄弟姉妹から電話や手紙をもらいました。愛されているんだと実感しました。”と言っています。仲間が裁判にかけられているときは、電話や手紙くらいしなさいという指示ですね。」
「大多数はかかわりになるのを恐れて、知らんぷりなんだろう。ここでロシアの話を持ってきたね。迫害の恐怖をあおるのに都合がいいからね。」
「英文ではthe brothers and sisters called and wrote, assuring me of their love(兄弟姉妹たちは電話や手紙で、愛を伝えてくれました)ですよ。“愛されているんだと実感しました。”とは書いていません。」
「話をそうとう盛っているね。」
「14節は“できること”で、“つらい時,仲間のそばにいるようにしましょう。長老に相談することをためらわないでください。”とありますが、無能な長老に相談しても時間の無駄ですよ。JWの長老は無知無学で社会的経験ゼロで親と同居している21歳の若造でもなれる中間管理職に過ぎません。」
「14節で“聖書の中で長老たちは,「風から逃れるための場所,暴風雨から避難する ための場所」と呼ばれています。(イザ 32:2)”とあるけれど、でたらめだね。イザヤ32:2がJWの長老のことを言っているわけがないよ。」
「15から18節が“希望”です。 15節には“エホバは私たちが忍耐できるように希望を与えてくれています。”とあります。そしてイエスの話が出てきます。JWらしくないですね。」
「15節に“イエスは希望を持っていたので,人生で一番大変な日にも忍耐できました。(ヘブライ 12:2を読む。)”とあるけれど、引照聖句には“希望”は出てこないよ。“イエスは,前途にある喜びのために”とあるだけ。」
「15節には、イエスは“天の王国で14万4000人と一緒に王になることも楽しみにしていました。”とあります。イエスにそんな楽しみがあったなんか知りませんでした。」
「JWにとって、イエスは144000人の一人と同格な存在に過ぎないということのようだね。イエスより偉いのは統治体というのがJWの教義のようだね。」
「16節では再びロシアの話です。アラ姉妹は“将来の希望について祈り,じっくり考えることによって,絶望的な気持ちにならないように守られています。”といっていますが、“将来の希望”とは何か、もっと具体的に言って欲しかったです。」
「英文ではthe Kingdom hope(王国の希望)とあるよ。ハルマゲドンが来て、JW以外が皆殺しになって、新しい体制でJWだけが楽しく暮らすという希望のことじゃないの?こうやって耐えているのがJWなわけだ。」
「17節が“できること”で、“エホバが約束している素晴らしい将来について,じっくり考えてください。新しい世界に自分がいて,どれほど幸せな生活をしているかをイメージしてみてください。”とあります。これって希望と言っていいものですか?」
「希望というからには、ある程度の実現可能性がないとダメだろう。JWの自然豊かな環境で果物を食べながらパンダと遊ぶ楽園はJWが聖書の2.3の部分から思いついた実現可能性ゼロの楽園だから、希望というよりは楽園願望とか楽園幻想と呼ぶべきもの。」
「イメージしなさいと言っているのに、この記事には楽園想像図がありません。パンダの絵くらい簡単に書けるでしょう。」
「組織は従来型の楽園想像図をAIをつかった未来的な想像図に変えようと思っているのかも。」
「17節ではさらに“また,自分の信じていることを周りの人に伝えるためにベストを尽くしましょう。エホバに仕えていない人たちがどんな毎日を送っているか考えてみてください。いろいろな問題にぶつかっていても,明るい将来が待っていることは知りません。”とあります。伝道に励めという指示です。」
「誰もまじめに受け取らないからだいじょうぶ。でもJW以外の人は“明るい将来が待っていることは知りません。”と断定しているのは滑稽だね。JWのほうが老後を思って暗い気持ちになっているでしょう。」
「18節はたとえ話が出てきます。重い病気で苦しんでいる人の治療法が見つかったという設定です。“医師の話を聞いて,その人は安心します。しばらく時間がかかるとはいえ,病気が必ず良くなるということが分かったからです。それで,頑張って病気と闘っていこうと思えるようになります。私たちにも,パラダイスが必ず来るという希望があるので,今つらくても忍耐し続けることができます。”というものです。JWは重い病気に苦しんでいる人のようだ、ということですね。気の毒です。治療法は楽園の希望と言うインチキ療法ですか?絶望的になりますよ。」
「終末カルトはそういうもの。具体的な改善など考えない。終末が来て全て解決してくれると信じて、何もせず、耐えるだけ。さっさとやめよう、JW。」
#1606 2025年10月24日 14:18:22
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Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバから愛されていることを信じてください(33)”で、エホバから愛されていると信じて、組織のために働けという内容です。」
「エホバという神があまりにも不人気なので、少しでもイメージアップをはかろうとしているようだ。」
「JW以外の人を間もなく皆殺しにする神ですよ。愛の神ではなく、残虐な破壊神そのものです。」
「聖書を読めば、ノアの大洪水をはじめとして神はやたらと人を殺している。律法ではやたらと死刑が多い。愛の神と思えるようなことはほとんどない。」
「1節で、“エホバに献身した時のことを覚えていますか。”と、問いかけます。そして“その時からエホバへの愛はどんどん強くなってきたはずです。”と決めつけます。これ以外の答えは許されないわけですね。」
「バプテスマは人生最大の過ちだったという人も結構いるでしょう。でもそんなことはこのカルトでは言えないだけ。」
「さらに“もし「エホバを本当に愛していますか」と尋ねられたら,ためらわずにこう答えることでしょう。「もちろんです。ほかのどんなものよりも,誰よりも愛しています」。”とあります。こう質問されたら、こう答えなさいと教えています。マインドコントロールそのものです。」
「このような質疑応答を何度も繰り返せば、完全に洗脳されたJWが出来上がると組織は信じているのだろう。模範解答通りに答えない信者は信仰心がないとしていじめられるのかな?」
「北朝鮮国民にキム・ジョンウン総書記のことを本当に愛していますかと尋ねたら、全員“もちろんです。ほかのどんなものよりも,誰よりも愛しています。”と答えますよ。JWは北朝鮮を模範としているということですね。」
「JWの楽園というのは北朝鮮でしょう。違いは果物と動物が豊富なところかな。」
「3節に“エホバはあなたのことを愛しています。そのことを確信してほしいと思っています。(エレミヤ 31:3を読む。)”とありますが、引照聖句にはそんなことは書いていません。“私は永遠の愛をもってあなたを愛してきた。”とありますが、これはイスラエル国民に向かって言った言葉で、今のJWとは何の関係もありません。」
「旧約聖書の宗教は基本的に古代のイスラエル民族によるイスラエル民族のためのイスラエル民族の宗教で、アメリカに本部を置く新興宗教の信者とは何の関係もないと思ったほうがいいよ。」
「4、5節が“エホバから愛されていると信じるのが大切なのはどうしてか”です。 4節では“エホバの愛を信じていれば,サタンの「策略」にはまらずに済む。(エフェ 6:11)”と、JWが大好きで便利なキャラクター、サタンが登場します。“そういう策略の1つは,エホバが私たちを愛してなんかいない,といううそを信じ込ませることです。”とあります。」
「それならエホバなる神がJWを愛しているという反論しようのない明確な証拠を示せばいいだけ。神ならできるでしょう。でもそれができないから、無関係な聖句を持ち出してくるわけだ。」
「5節では“エホバの愛を信じていれば,エホバともっと親しくなれる。”と言っています。それは“どうしてそういえるでしょうか。人は,愛し愛されたいと思うものです。エホバがそう造ったからです。”と説明しています。」
「それはなんにでも使える理屈だね。それなら、見たことも話をしたこともないエホバを愛するのは無理です。なぜならエホバがそう造ったからです、と言えるね。」
「6から11節が“エホバの愛を信じるためにできること”です。 エホバの愛など信じるのが困難ですからね。何をすればよいかというと、4つのことをすればよいようです。まず6節には①“祈って自分の気持ちを何度も伝える。”です。祈りは何にでも役に立ちます。」
「6節に“自分を責める気持ちが強過ぎて,エホバの愛を信じ切れないかもしれません。”とある。信者に無理な要求をあれこれして、罪悪感を抱くように仕向けている張本人が組織なのに、白々しいことを言うね。」
「クスリが効きすぎた、という人がけっこういるんですよ。精神を病んでしまうわけです。そうなると単なるお荷物ですから、組織としても何とかしたいわけですよ。」
「罪悪感と恐怖で信者を縛るのがカルト。精神を病むのは仕方ないと割り切るのが有能なカルト指導者じゃないの?」
「7節は②“エホバが言っていることをそのまま受け止める。”です。“聖書には,エホバがどんな方かが正確に描き出されています。”とありまして、聖書の中ではエホバは愛に満ちた素晴らしい神と描かれているので、そのまま信じなさいという指示です。」
「聖書には、エホバがいかに残虐で理不尽な神かも描かれているよ。それは無視するわけね。」
「8節はエホバの言葉の創作です。“そういう温かい聖書の言葉から,エホバの優しい気持ちが伝わってきませんか。まるでこう言ってくれているかのようです。「あなたのことを本当に愛している。とても大切に思っているんだよ」。”とあります。子供向けのアニメのセリフですか?理屈はなく、感情に訴えているだけです。JWの幼児化が進んでいます。」
「誰かを評価する場合、何を言ったかではなく、何をしたかで評価すべき。美辞麗句ではなく、行動を見るべき。エホバのしたことと言えば、大洪水でパンダや赤ちゃんまで溺死させたこと、バベルの塔の建設の際言語を乱して人類を分裂させたこと、出エジプトでは不必要にエジプト人やエジプトの家畜を苦しめ、シナイの荒野では不平を言ったイスラエル人を容赦なくぶち殺し、・・・(以下省略)ということをしている。神は愛という言葉が100回書かれていても、一つの残虐な行動でぶち壊しだね。」
「エホバが愛を行動で示した例というとなんですか?」
「出エジプト後、荒野をさまよったイスラエル人に、申命記29:5で“私が荒野であなたたちを導いた40年間,あなたたちが着ていた服は擦り切れず,履いていたサンダルはすり減らなかった。”と言っている。同じ服やサンダルを40年間使用できるようにしてくれたなんて、素晴らしい愛の行いだ。今のJWにも同じことをして欲しいね。」
「でもその後に“あなたたちはパンを食べず,ぶどう酒などの酒も飲まなかった。私があなたたちの神エホバであることをあなたたちが知るためである。”とあります。これって愛に欠けたエホバの性質をよく示しています。」
「神はイスラエル人が自分に服従することを最優先している。そのためにはイスラエル人が欲しがっているパンとワインをわざと与えないという意地悪をしたということだね。愛はどこにあるのかな?」
「8節の最後に“それでエホバに愛されているか不安になる時は,立ち止まってこう考えてみてください。「『うその父』と『真理の神』,どちらを信じたらいいだろうか」。”とあります。カルトらしい二分法、白黒思考です。サタンとエホバどっちを選ぶのですか、と選択を強要しています。」
「どっちも選ばないという選択肢があるはずだよね。」
「9節が③“エホバが愛にどう応えてくれるか,じっくり考える。”で、“出エジプト記 20:5,6を読む。”とあります。そこには“私を憎む人については,父の過ちに対する処罰を子や孫やひ孫に及ぼす。私を愛して私のおきてを守る人については,子孫千代にまで揺るぎない愛を示す。”とあります。この聖句は問題ありますよ。こんな聖句を読ませるなんて、JWは鈍感ですね。」
「父の過ちのせいで子孫を罰するなんて、最低の神。まともな正義の感覚が欠如している。申命記24:16では“父親は子供がすることのゆえに死刑にされるべきではなく,子供も父親がすることのゆえに死刑にされるべきではありません。人はそれぞれ自分の罪のゆえに死刑にされるべきです。”と連帯責任を否定しているけどね。」
「それに“子孫千代にまで揺るぎない愛を示す。”と言うのは実行していません。文字通り口だけ。」
「その中にある“私を愛して私のおきてを守る人”というのは、神に服従する人という意味。旧約聖書では“愛する”は“服従する”とほぼ同義語だよ。」
「10節が④“贖いという贈り物について考える。”です。以上4つのことを実行すると、エホバへの愛を信じることができるらしいですね。」
「10節で、“そんなパウロも,エホバが自分のために贖いという贈り物を与えてくれたと思えるようになりました。(ガラテア 2:20を読む。)”とあるけれど、引照聖句でそんなことを言っていないよ。“神の子は私を愛し,私のために自分を差し出してくださいました。”とあり、キリストのことを言っているわけで、エホバなんか出てこないよ。」
「“贖いという贈り物”と言う表現は聖書にありますか?ないですよ。パウロがそんなことを思うわけがありません。」
「JWの作った言葉。イエスは単なる贈り物にすぎないわけだ。そして、贖いという贈り物を受け取るには、主の記念式に出て、伝道など組織の言うことを実行しなくてはいけないと、信者に教えている。気楽に受け取れる贈り物ではないようだよ。」
「12から16節が“エホバの愛を信じられるよう,イエスが教えたこと”です。 イエスの登場です。13節で“福音書でエホバのことを「父」と160回以上呼んでいます。”とあります。エホバとは呼んでいません。“イエスは私たちにも,エホバを子供思いの優しいお父さんと見てほしいと思っています。”とあります。これはヘンですね。」
「エホバは友達と、ちょっと前の記事で言っていたよ。友と父、どっちなの?一貫性がないよね。」
「14節は“まず,マタイ 10章29-31節にあるイエスの言葉について考えましょう。(読む。)”とあります。そこには“スズメ2羽は小額の硬貨1枚で売っていませんか。それでも,その1羽でさえ,天の父が知らないうちに地面に落ちることはありません。”とあります。この訳はヘンですよ。」
「まず“天の父”ではないね。“あなたがたの父”。JW英語訳でもyour Fatherとなっている。神は弟子たちの父でもあるというイエスのメッセージが翻訳者は気に入らないのかも。」
「“知らないうちに”というのはどうですか?協会共同訳では“あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。”となっています。」
「元のギリシャ語を直訳すれば“あなたがたの神なしに”というもの。これでは意味が分かりにくいので、あなたがたの神の許可なしにと言葉を付け加えている。JW訳はあなた方の神が知ることなしにと解釈した。JW訳では神は知るだけの無力な存在のようになっている。」
「15節では“イエスが「父」という言葉を使った別の例にも注目してみましょう。(ヨハネ 6:44を読む。)”とあります。そこには“私を遣わした父が引き寄せてくださらない限り,誰も私のもとに来ることはできません。”とあり、それに基づいてJW=神によって引き寄せられた特別な人たち、という説を展開しています。」
「そうすると神はあまり有能なリクルーターじゃないね。油注がれた人には奇人変人が多いし、JWの子どもがバプテスマを受けてもほとんどはJWをやめるし、多くの国ではコロナ以降JWを辞める人が増えているらしいよ。エホバの”引き寄せ”方が悪いんじゃないの?」
「16節ではイエスの言葉の創作です。“エホバを父と呼ぶことで,イエスは私たちにこう言っているかのようです。「エホバは私のお父さんですが,あなたのお父さんでもあります。お父さんはあなたのことを愛し,気に掛けています。私は自信を持ってそう言えます」。”とあります。この記事は子ども向けのイエス物語ではなく、“研究用”なんですけれど、これはなんですか。」
「適当に引用できそうな聖句がないので、自分で作った方が簡単だということに気付いたのだろう。」
「17、18節は“エホバから愛されていることを信じ続けてください”です。 今までの繰り返しです。それで何とか18節まで来たという感じです。この記事はあまりやる気が感じられませんね。」
「JWにとって、エホバ=統治体でしょう。エホバに愛されていると信じて欲しければ、統治体のメンバーが全員集まって、“皆さん、愛してまーーす。”と笑顔で言う動画をつくればいいんじゃないのかな。」
#1607 2025年10月29日 05:50:18
- エッヘン
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
久しぶりに覗いてみましたが、あいかわらずのエホバの教えはひどく人を束縛する教えですね
やめてよかったとほんとに思います。正直エホバの組織の教えは英語を日本語に訳してるからか、日本語としてまぁまぁでたらめな所が多いです。
組織にいるときは気づけなかったですが、外に出ていろいろ学びをしたら読めたものではないと思うようになりました。
#1608 2025年10月31日 14:24:04
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#1609 2025年11月07日 14:31:23
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“欲望に負けないためには(35)”で、同性愛、ポルノはやめられるし、やめろという内容です。」
「同性愛差別はJWとしてはやめられないけれど、これからは差別主義者として非難されるリスクが高い。同性愛者の扱いはJWにとって厄介な問題になるよ。」
「欲望に負けないという話だと、ヨセフが出てくると思ったら、17節にやっぱり出ていました。」
「タイトルを聞いただけで、中身が予想できるほど、ものみの塔の記事は同じことの繰り返し。」
「2節に具体的な欲望が出ています。“性的な欲求に駆られる人がいます。異性に引かれる人も,同性に引かれる人もいます。ポルノを見るのをやめたのに,また見たくて仕方がなくなる人もいます。ドラッグやお酒への依存をせっかく乗り越えたのに,逆戻りしそうになっている人もいます。”とあります。」
「JWにとって、性と薬物が重大問題ということなんだろうけれど、世界一幸福な人々なのにどうしてこうなったのかな。児童性的虐待で何人も逮捕者が出ているのに、児童性愛はなぜとりあげないのかな?本当に扱うべきことは扱わないね。」
「4から7節が“「邪悪な者」はどう思わせようとしているか”です。 またサタンの登場です。4節には“私たちに無力感を感じさせ,誘惑に勝てるはずがないと思わせようとしているのは,サタンです。”とあります。無力感はサタンのせいと言いたいようです。」
「よくないことは全てサタンのせいなんだよ。それで信者の思考停止させるのがカルトだね。その結果操作しやすい従順な信者が出来上がる。」
「4節にマタイ6:13が引用されていて、“私たちを誘惑に陥らせないで,邪悪な者から救い出してください。”とあるのですが、訳はこれでいいのですか?」
「協会共同訳では“悪からお救いください。”だね。悪者から救うのか、悪そのものから救うのかという2つの解釈が可能で、JWはサタンが大好きだから、悪者から救うという解釈になるわけだ。」
「聖書の中で、サタンはほとんど出てきません。それ比べてJWではあまりにも頻繁に取り上げられます。これってへんじゃないですか?」
「カルトは敵を必要とするということでしょう。敵に気を付けろ、敵に負けるな、そういうことを絶えず言って信者の恐怖と不安をあおり、信者を支配する。それでサタンは毎週、登場させたいJWにとって不可欠のキャラクター。」
「6節では“サタンは無力感だけでなく,絶望感も味わわせようとしています。良くないことに引かれてしまう自分は,エホバに喜ばれてはいないんだと思わせようとしてきます。”とあります。絶望感もサタンのせいです。でも聖句の引用はありませんね。執筆者の想像でしょうか?」
「無力感、絶望感にとらわれている人はJWとJW以外の人で比べたら、どちらの方が割合が高いかというと、JWじゃないの?JWの方がサタンの影響力が強いということかな?」
「7節では“それで欲望と闘っている時,自分には勝ち目がないとか,何の希望もないと感じてしまうとしたら,サタンの狙い通りになっていることになります。”とあります。JWはサタンの罠にはまっている人が多いということですよ。」
「サタンの罠というより、組織の罠でしょう。禁止事項をたくさん設ければ、当然違反することが多くなる。そして違反した人に罪悪感を持たせるように誘導する。それが繰り返されれば、無力感や絶望感に陥るよ。その方が操作しやすいので、組織は内心歓迎しているはず。」
「8から14節が“受け継いだ罪のせいでどんな気持ちになるか”です。 人間は罪深い存在だということを強調しています。無力感、絶望感に誘導していますね。8節に“無力感や絶望感を感じてしまうのはサタンのせいだけではありません。アダムとエバから罪を受け継いでいるせいでもあります。”と言っています。この根拠としているのが詩編51:5で、“私は過ちのある者として生まれ,母は罪のうちに私を身ごもりました。”です。これってアダムとエバから受け継いだ罪のことを言っていませんよ。」
「旧約聖書に人間はアダムとエバから罪を受け継いでいるという原罪思想はないよ。それはずっと後の時代に作られる思想。」
「詩編51:4で“あなたに,ほかでもなくあなたに対して罪を犯しました。あなたから見て悪いことを行いました。”とあるように、悪いことを行ったと言っている。その後に51:5がくる。抽象的な罪を犯す傾向を問題にしているのではなく、具体的な違反行為について語っている。」
「9節では“アダムとエバは罪を犯した後,どんな気持ちになったでしょうか。”と問いかけます。答えは“「聖書に対する洞察」にはこう書かれています。「両人は罪のゆえに罪悪感を抱き,心配や不安や恥ずかしさを感じました」。”というものです。答えはJWの出版物にあるというわけですね。ウソでしょう?」
「アダムとエバの話には罪という言葉は出てこない。聖書を引用できないので、JWの出版物を引用しただけだね。JWの出版物はJW以外の人には全く評価されないし、時間が経つと廃棄処分になる程度のもの。」
「JWはアダムとエバのお話に頼りすぎです。サタンと同じように毎回のように出てきます。でも、アダムとエバの話を真実と思うのは、聖書を狂信的に信じている人だけです。単なる大昔のお話です。まじめにアダムとエバがどうのこうのと論じている文章を読むたびに、この人たちはどういう知的レベルの人なのだろうかとあきれ返ります。」
「聖書を狂信的に信じられる程度の知的レベルの人だよ。アダムとエバの話はJWの教義の重要な部分を占めているから、毎週のように登場する。こんな非科学的な神話に頼らなくてはいけない宗教に未来はないね。人類の教育水準が上がるとともに衰退するしかないね。」
「11節では“エホバは,誘惑に立ち向かうようにと言っています。”とあり、12節では“悪いことをしないよう,欲望と闘い続けるなら,エホバは私たちを清い人と見てくれます。”とあります。」
「もっともらしいことを長々と書いているけれど、要するに、ここで言いたいのは、性的な問題と薬物や酒の問題を起こして組織に迷惑をかけるな、ということだね。」
「やっと13節で具体的な話が出てきます。まず“聖書は,間違った行動と間違った欲望を区別しています。”と言ってから、“例えば1世紀のコリント会衆には,以前同性愛者だった人がいました。パウロは「皆さんの中には,以前そのような人もいました」と書いています。”と、さりげなく同性愛の問題を持ち出してきます。」
「同性愛者でも同性愛的行動をとらなければ問題ないと言いたいわけだね。JWは同性愛に反対ではありません、同性愛的行動に反対しているだけですと言って、同性愛差別を正当化しようとするのが今のやり方。同性愛者よりも児童性愛者をももっと取り上げて欲しいね。」
「13節では、同性愛者でも“欲望を抑えて行動をコントロールすることはできました。諦めずに闘うクリスチャンのことをエホバは喜び,「洗われて清く」なったと見ていました。(コリ一 6:9-11)”とありますから、行動をコントロールさえすれば、問題ないというタテマエですね。」
「JWの同性愛嫌悪は激しいからね。JWの誰かが同性愛者を侮辱して、何か事件でも起こしたら大問題になりかねない。同性愛者に対する差別的発言をやめるようにはっきりと指示を出した方がいいよ。2014年にアメリカで行われた調査ではJWが一番同性愛嫌悪が強い宗教という結果だったのは統治体の老人は知らないのかな?」
「2023/8のものみの塔の“ダニエルの手本から学べること”の13節には“兄弟はこう言います。「クラスの中で同性愛を支持しなかったのは,私ともう1人のエホバの証人の子だけでした」。”とあります。オーストラリアの高校での出来事となっていますが、JWは同性愛を支持しないわけですよ。この記事ではこのJWの高校生を信仰をしっかり貫いた人と称賛しています。同性愛嫌悪丸出しです。」
「学校で、同性愛を支持するか、しないかを生徒一人一人に聞くなんてことはあり得ない。JWの創作だ。」
「それから“あなたの若い時代,それから最善のものを得る”と言う書籍の第5章には“実際,マスターベーションは同性愛に至ることがあるのです。(中略)多くの人の考えに反して,同性愛者はそのように生まれついているのではありません。同性愛行為は後天的なものです。そしてしばしば,人は非常に幼い時に別の子供の陰部をもて遊ぶことからそれを覚え,やがて同性愛行為にふけるようになります。”と、でたらめを書いています。」
「JWが同性愛について全く無知だったことがよくわかる。」
「15から17節が“闘いに勝つためには”です。 15節では“闘いに勝つには,自分の弱さを正直に認める必要があります。「間違った考え方」をして自分の心を欺こうとしてはいけません。(ヤコ 1:22)”とあります。16節では“弱さに屈しないという固い決意を持つことも大切です。”とあります。」
「決意したら、その通り実行できるように、人間は造られていないよ。今回は祈りが出てこないのが不思議だね。なんにでも効果があるのが祈りじゃなかったの?闘いに勝つには、まず祈りましょうとなぜ書かないのかな?効果がないからかな?」
「17節で待ちに待ったヨセフが登場します。うれしいですね。“ヨセフがポテパルの妻から誘惑された時にどうしたかを思い出してください。すぐにきっぱりと断りました。(創世記 39:7-9を読む。)”とあります。ヨセフの話は物語です。物語の人物なのでどんな誘惑にもどんな試練にも耐えられます。」
「読むように指定されている個所には“こうしたことの後,主人の妻がヨセフに目を留め,「私と寝て」と言うようになった。”とある。こんな文章をみんなの前で読むの?子どもには配慮しないのかな?ひどい宗教だ。」
「17節では“どうしてそうできたのでしょうか。誘惑される前から,正しいことをしようと心に決めていたからです。私たちもヨセフと同じようにできます。”とあります。準備が大事なようですが、ヨセフがそう考えていたなんて言う根拠はありません。ポテパルの妻は薄汚い病気もちの中年女で、ヨセフが嫌っていただけかもしれませんよ。」
「架空の人物のお話を基に、誘惑に負けないぞと決意すれば、その通り実行できます、と繰り返しているだけ。説得力ゼロだね。」
「18、19節は“いつも確かめてください”です。 18節には“自分の考えや行動を見つめ直し,必要なところを調整しましょう。”とあります。誘惑を単に拒絶するだけでは不十分で、“すぐにきっぱりとはねのけられただろうか,と考えてみてください。”とあります。こうやって信者を追い込んでいくわけですね。」
「JWは絶えず誘惑されると警戒し、何秒で誘惑をきっぱりはねのけたかどうか調べるためにストップウォッチを持つ必要があるわけだね。」
「19節では“そうやって自分を確かめる時,言い訳したくなる気持ちを抑えましょう。聖書には「心はほかのどんなものよりも信用できず,必死になる」とあります。(エレ 17:9)”とあります。引照聖句の訳がヘンですし、この聖句の使い方もヘンです。」
「まず、心が“必死になる”とはどういうこと?協会共同訳では“治ることもない。”だけど、これが標準的な訳。」
「これはエレミヤのセリフですよ、エレミヤは自分の心の中を調べたら、治癒不可能な罪深さがわかったと言っている箇所です。」
「それを受けて17:10で、“私エホバは,心を探り,奥底の考えを調べている。”と、神は人の心がわかっているよ、と答えるという展開だね。対話形式になっている。」
「そして、エレミヤ17:14で“エホバ,癒やしてください。そうすれば私は癒やされます。救ってください。そうすれば私は救われます。”とエレミヤは言うわけですね。」
「そういうわけで、エレミヤ17:12を“必死になる”ではなく、“治ることもない。”と訳さないと、全体の流れに合わない。その程度のこともわからないのがJWの翻訳者たち。」
「最後の20節で“たとえ失敗してもエホバは許してくれるので,新しい世界でずっと生きるという希望を持ち続けられます。”とあります。エホバは許しても、組織は許しません。永久に推定有罪です。」
「JWなんかやめて、大患難が来てからまたJWになればいい。それでも楽園に行けるというのが今の教義だから、JWを今やめても“新しい世界でずっと生きるという希望を持ち続けられます。”」
#1610 2025年11月07日 19:13:35
- ジョエル
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
今年、日本で公開された映画コンクラーベ(教皇選挙)では教皇に選ばれた枢機卿が「神がわたしをこのように造られたのだからありのままを受け入れる」と選挙を取り仕切る首席枢機卿に告白するラストでした(多少のネタバレすみません)。
その首席枢機卿は選挙前に、「長年、教会に仕えて怖れるようになった最大の罪とは“確信”である」と語り、確信こそが人を多様性に対して不寛容にならせ、分裂を招く、それで「疑う者を神が教皇に選ばれるように」と祈っています。
これは新しい“リベラルな思想”ではなく、200年近く前にキルケゴールが、信仰とは疑いであり、迷いである、のような思想を伝えています。
彼によれば、客観的確かさが保証されている(例えば、数学上の)真理は主体的にはどうでもいい真理であり、神を見出そうと森羅万象をさまよいそのすべてを煎じて残る客観的不確かさという残滓を、疑いと迷いを伴いながらも「無限性の情熱の全てをかけて」包容する主体的なプロセスこそが信仰ということになります。
確信ほど、人を不寛容にならせ、互いに争わせるものはない、このあたりがキリスト教の人たちに向けたメッセージなのかな、と思いましたが、「何を言ってるのか?信仰とは証拠に基づいた確信だ!」としか教わらないJWには三位一体と同じくらい一生理解できない思想でしょうね...
#1611 2025年11月07日 21:43:53
- 証拠に基づいた確信
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#1612 2025年11月14日 13:54:59
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#1613 2025年11月15日 01:00:11
- オーストラリア エホバの証人
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#1614 2025年11月21日 14:30:55
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“不公正な世の中で私たちにできること(37)”で、世の中の問題には関わらず、JW活動に専念しなさいという内容です。」
「終末論カルトはこの世界は間もなく神に滅ぼされると信じて、社会問題に関心を持たないのが特徴。JWも終末カルトだから、人類の99.9%をエホバなる神がぶち殺してくれるのを楽しみに待つだけで、社会に役立つことは何もしない。」
「それを政治的に中立といえますか?」
「JWのような宗教は、意図してはいないけれど、既存の政治体制を支持し、守る勢力となる。権力者はJWが増えてくれた方が自分たちの権力を維持しやすいよ。」
「1節に” 世の中には不正や不公正がはびこっています。経済状態,性別,民族,人種など,いろいろな理由で差別されている人たちがたくさんいます。”と、他人事のように言っていますが、JWも差別的な宗教ですよ。」
「JWといえば女性差別や同性愛差別で有名。それに信教の自由も認めない。自分たちの意見に反対する人を背教者と差別的に呼び、家族でも絶交する。JWのような人たちがこの世から少なくなればなるほど、世の中はより公正になると思うよ。」
「3から5節は“エホバとイエスは不公正を嫌っている”です。 3節では“エホバは,律法を繰り返し破り,仲間に理不尽な仕打ちをしていた人たちを処罰しました。(イザ 5:5,13)”とあります。引照聖句からはエホバは人間を処罰するのが大好きということはわかりますが、不公正を嫌っているかどうかはわかりません。」
「イザヤ5:13では“それで,私の民は捕囚の身となる。”とあるわけだけど、赤ちゃんから老人まで、庶民から権力者まで、十把ひとからげにして罰するのがエホバ流の処罰。これを公正とは呼ばない。公正な処罰はそれぞれの責任の度合いに応じた処罰のことでしょう。エホバはそんな配慮をしない、皆殺しが大好きな野蛮な神。」
「4節はイエスの話です。“心が冷たい宗教指導者たちはイエスとは全く違いました。かわいそうなその人を助けることではなく,安息日の律法を事細かに守ることだけを考えていました。イエスはそういう人たちを見てどう思ったでしょうか。「人々の心が無感覚なのを深く悲し」みました。(マル 3:1-6)”とあります。これってJWの統治体のことを皮肉っていますよ。」
「統治体は輸血を禁止して、信者を大勢死なせている。命よりもルールを優先する統治体をイエスはどう思うのでしょうか、と言いたいね。」
「元の英文ではThey were more concerned with enforcing their rigid interpretation of the Sabbath law than with helping the disadvantaged man.(彼らは,障がいのある男性を助けることよりも,安息日の律法に関する自分たちの厳格な解釈を押し付けることに関心を抱いていました。)とあります。もとの英文の方が統治体を思わせる表現です。でも翻訳者は統治体と間違えられないように配慮した訳をしたわけです。」
「血を避けることを輸血禁止と拡大解釈して信者に押し付けているわけだからね。統治体は心が冷たい宗教指導者そのもの。」
「JW訳では“人々の心が無感覚なのを深く悲しんで”となっていますが、ヘンですよ。協会共同訳では“そのかたくなな心を悲しみながら”となっています。」
「元のギリシャ語の主な意味は“固い”。それで“かたくなな心”と訳する。“心が無感覚”というのは訳の正確さ以前に日本語としておかしいよ。」
「6から8節は“不公正を目の当たりにした時,イエスはどうしたか”です。 6節には“でもイエスは,世の中を良くしようとして社会運動を始めたり支持したりはしませんでした。みんなが自分を王にしようとしていることを知った時はその場を離れました。(ヨハ 6:15)”とあります。これはヘンですよ。イエスの活動は社会運動といえます。英文では“社会変革のための運動”となっていますね。」
「JWはイエスをエッセナ派とでも思っているのかな?エッセナ派は俗世間から離れて自分たちだけの集団を作って、宗教的清浄さを追求した。イエスは民衆の中に入り、民衆に神の王国の到来を宣べ伝えた。これは既存の政治体制を否定する、極めて政治的行為。」
「古代において宗教と政治は分離できません。分離するとすれば、エッセナ派のように自分たちだけで砂漠で暮らすしかないわけです。」
「イエスは既存の社会体制や宗教を変革しなくてはならないと思っていた。ただ王として政治的指導者にはなるつもりはなかっただけ。」
「7節には“イエスは不公正をなくすために政治運動に関わったりはしませんでした。”とありますが、訳がヘンです。Jesus did not try to work with the political systems of the day(イエスは当時の政治体制に協力しようとはしませんでした)です。“関わる”と“協力する”は違います。」
「この記事の主旨はJWは政治に関わるな、社会的な問題に関心を持つな、JW活動だけしなさい、というものなので、それを強調するような訳にしているのだろう。」
「8節に“そういう世の中は,社会運動ではなく天にある神の王国の統治によって実現します。”とあります。だからと言って、砂漠のなかで孤立した集団を作り、神の王国をただ待ち望めばいいとイエスは言っていません。」
「イエスは神の王国にふさわしい人間になることを求めていた。律法順守して自己満足に浸るのではなく、サマリア人のたとえ話にあるように、苦しんでいる人を見たら仮に対立している人でも進んで助けるような人間になれと説いていた。JWはそれを全く無視している。」
「それはJWは宗教雑誌を売り歩く宗教ビジネスとして出発した団体だからですか?」
「それに終末論に取りつかれた団体だから。終末論カルトは間もなくこの世が滅びるのだから、隣人愛など不要だし、社会に関わる必要もないし、教育も職業も財産も必要ない、と信者に説教する。しかし組織の幹部はいつも長期的計画をもっていて、完成まで相当の年月を要する大規模な建設工事の資金を信者から熱心に集める。」
「9から13節が“不公正を目の当たりにする時,イエスに倣う”です。 9節で“今はイエスが地球にいた時よりも,世の中に不正や不平等がはびこっています。”と根拠なく断定しています。奴隷制のあった時代よりも今の方が不平等なわけですね。」
「終末カルトはいつも今は最悪の時代と言い続けてきた。JWも終末カルトのひとつというだけ。それから“イエスが地球にいた時”と言う表現は笑える。イエスは別の惑星に暮らす宇宙人のようだね。」
「9節には“神の王国だけを支持しているので,抗議運動やデモに参加して世の中の不公正と闘おうとしたりはしません。”とあります。これは事実に反しますね。JWは様々な抗議運動をしていますよ。」
「ロシアのプーチン大統領に手紙を書くように信者に呼び掛けた団体があったけれど、あれはJWじゃなかった?あれは抗議運動で、社会を変えようとする運動でしょう。平然とウソを付けるようでないとカルトは務まらない。」
「JWは様々な裁判闘争を高い弁護士費用を払いながら世界のあちこちでやっています。これも抗議運動ですよ。負けることが多いですが。」
「エホバにゆだねるとか、エホバを待つという態度とは無縁なのがJWという組織。」
「9節には、元活動家のステーシー姉妹の話があります。“私が声を上げたところで世の中が変わるわけではありません。でもエホバなら,ひどい目に遭っている人をみんな救えるんです」。”とありますが、ひどい誤訳です。I know that Jehovah will fight for every victim of oppression better than I ever could.(エホバは圧政の犠牲者一人一人のために私より優れた仕方で戦ってくれると知っています。)ですよ。」
「日本語訳は翻訳者の考えでしょう。個人など無力だ、何をしても無駄だ、という敗北主義に浸っているのがよくわかる。翻訳者はそれなりにJWという宗教を良くしようとしたけれど、何も変わらなかったと打ちのめされているんだよ。」
「エホバは何もしてくれません。することと言えば人類大虐殺です。これが犠牲者のためになるのですか?」
「元活動家のステーシ―姉妹はJWになったばかりで、エホバという神のことをあまり知らないのだろう。」
「10節はジェフリー兄弟の話です。“穏やかそうに見える抗議活動でも,あっという間に暴動や略奪行為に発展することがあります。”と言っています。だからそういうものは全てダメなんだというわけです。」
「単なる一個人の発言でしょう。そういうことがどれくらいの頻度であったの?平和的な抗議活動の方が多いと思うよ。」
「10節では“イエスは,全ての人を愛するように,自分と意見が違う人や迫害してくる人のことも愛しなさいと教えました。(マタイ 5:43-48を読む。)”とありますが、JWは全く実行していません。」
「自分と意見の違う人を背教者と呼んで嫌悪し差別し、反対者はサタンの手先とよんで悪魔扱いするのがJWだね。」
「11節は差別を受けたジャニア姉妹の話です。“エホバに頼るのではなく,人間の力でなんとかできると思うようになっていたんです。それで,抗議運動に参加している人たちと関わるのを一切やめました。”といっています。そして“政治や社会問題に関して中立の立場がぐらつかないようにしましょう。(ヨハ 15:19)”とあります。」
「差別されても抗議してはいけないわけだ。でも裁判で訴えるのは問題ないというのがJWの見解だ。」
「12節には“では,怒りをコントロールするために何ができるでしょうか。読むもの,聞くもの,見るものに注意することです。”とあります。情報を遮断することを勧めています。」
「組織が提供する情報以外は有害だから、見ざる、聞かざるで、行けということね。カルトらしくていいね。」
「13節では“聖書を毎日読んで,じっくり考えることも大切です。”とあります。聖書を読めば何でも解決です。アリア姉妹は“そんな時,ヨブ 34章22-29節を読んで,誰もエホバの目からは逃れられないということを思い出しました。エホバだけが完璧な正義感を持っていて,問題を完全に正せるんです。”と言っています。」
「エホバの解決策は人類大虐殺なんだけど、それを待ち望みながら、現実の差別や不公平に耐えるわけだね。そして、そのまま年を取り、やがてみんなから忘れ去られ、孤独に死ぬのがJWのよくある人生。」
「14から16節が“今できること”です。 それは何かというと、伝道です。伝道がすべてを解決します。」
「14節では一応“イエスに倣って全ての人を愛することが大切です。”といっているよ。でもそれはタテマエだね。JWには愛は必要ない。必要なのは盲目的服従。」
「15節で“今私たちにできる一番のことは,聖書の真理を伝えることです。”と断言しています。伝道をひたすらし続けることがJWの最大の仕事です。でも伝道をまじめにやろうなんていうJWはほとんどいなくなりました。」
「JWの伝えているのは聖書の真理ではなく、改ざんした聖書とJWの出版物に書かれているJWの教義でしょう。あれは聖書の真理とは言えない。」
「15節には元活動家のジュマル兄弟の話が出ています。“ジェマルは学んだことに心を動かされて,闘うのをやめました。聖書の真理で生き方を変える人が増えれば,不公平や不平等をあおる人が減ることになります。”とありますが、違いますよ。抗議する人が全員JWになったら、不公平や不正は一層ひどくなるだけです。」
「JWになる人は権力を持ち差別する側というよりは、差別される社会的弱者の人が多い。差別されている側がおとなしくなり、エホバが解決してくれるのを待つだけになれば、差別する側としてはこんな嬉しいことはない。JWに活動費を密かに援助してくれるよ。」
「16節では“私たちもイエスのように,神の王国だけが世の中の不公正を完璧に正せることを人に伝えたいと思っています。”とあります。これはかなり政治的発言ですよ。少しも中立的じゃありません。」
「世の中を良くしようと活動している人たちに、そんなことはやめろ、無駄だ、エホバを待て、とい言っているようなもの。不公平や差別と闘う運動や人たちを全否定し、既存の政治体制に従うという政治的立場に立てと言っている。政治的発言そのもの。」
「16節に“この記事で学んだ聖書の教えをしっかり確信していれば,学校や職場で不意にそういう話題になっても自信を持って語ることができます。”とありますが、JWのことを学校や職場でしゃべる愚か者はまずいませんよ。」
「統治体やこの記事の執筆者と違って、末端の信者は現実世界で生きているからね。カルトのたわごとなど信じてもいないし、周囲の誰かに語るなんてことはしない。」
「最後の17節では“それで,これからも王国の良い知らせを一生懸命伝えていきましょう。”と信者に呼びかけています。JWがすることと言えば無意味な戸別訪問やカートの側でぼ~と立っていることです。社会にとって何の役にも立たない宗教ですね。」
「最後の節を単に決まり文句で締めくくっただけ。本気でそう思っているわけではないよ。伝道活動は奉仕時間を報告しないように変更した時点で、事実上終わったよ。」
#1615 2025年11月22日 07:22:36
- JWの教えは嘘八百
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
数年前にグアテマラに宣教奉仕に行ってた若い日本人姉妹が
夜中に部屋に忍び込んできた男に殺された事件。
ルームメイトの姉妹と共にあらん限りの声を張り上げ
エホバに助けを求めて男に抵抗したはずだけど
エホバは助けなかった。
黙って見てたんだよね。
エホバの御意思を行っていながら助けてもらえなかった。
生き残ったルームメイトの姉妹はその後日本に帰国して
幸せに集会や奉仕活動を楽しんでいるのだろうか。
再訪問先で殺された姉妹たちは他にも複数いるけれど
中天を飛んでいるみ使いは何してたの。
これ一つ取ってもJW組織の教えは嘘八百。
#1616 2025年11月22日 18:51:45
- 通りすがりの研究生
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
グアテマラ事件の2日後に海老名で大会が有りました
自分は(その姉妹の為にみんなで祈りましょう)とでも
言うのかな?と思っていたのですが・・・なんも無し
皆さん知らない様で 大会の参加者はお花畑で喜んで
いました。
組織もエホバもダンマリです【神も仏も居留守】
※映画【沈黙 サイレンス】を見て下さい。
これが現実かも?
#1617 2025年11月22日 22:54:16
- ジョエル
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
不幸は不幸でもそれを乗り越えた(と思い込まされている)話はこれでもかと大会やらお勉強記事やらに出てくるのに、本当に悲惨で救われなかった話は全く触れようとしない
そういうことは知ってはいても誰も話さない
オメラスの地下牢みたいなコミュニティーでしたね
#1618 2025年11月28日 14:13:07
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“人を心から敬うには(38)”で、JWの評判が悪いから、家族、仲間、外部の人に敬意を示しなさい、という内容です。」
「JWの中にはカルト教育しか受けてこなかった人がいて、非常識な人がけっこういるからね。そういうJWに世の中の常識を教える必要があるということだね。」
「2節に“また,人を見下したり軽く扱ったりする風潮に影響されることもあります。”とあります。JWこそ人を見下していると思いますが、元の英文をだいぶ変えていますね。」
「Also, we live at a time when it is common for people to be disrespectful.(また、敬意を欠いた態度をとる人が当たり前にいる時代です。)と言っている。翻訳者はこれはウソと思ったので、和らげた表現にかえたのだろう。」
「4から6節が“人を敬うとはどういうことか”です。 小学校の道徳の時間です。4節の内容が難しかったみたいで、翻訳文は元の英文と全然違いますね。“人を敬うことには,その人をどう見るか,その人にどう接するかということが関係しています。”と、長い文章を短くまとめています。」
「結局、敬うことはどういうことかについての説明はないよ。英文ではthe words “respect” and “honor” are related.とあり、respectとhonorという2つの観点から説明しているけれど、これは日本語にない概念だから翻訳しづらいのは間違いない。」
「それは困りますね。4節の設問は“人を敬うとはどういうことですか。”です。その答えが日本語訳にはないなんて。」
「JWがどう答えるか楽しみだね。段落の中にある文を適当に読むのだろうけれどね。英文では“私たちが他人を敬うとき、相手が大切にされ、認められ、尊厳を保てるように接します。”とある。これが答え。」
「人を敬うとは、その人を自分の思うとおりにコントロールしないことが含まれますよ。JWには無理ですね。」
「その人を敬うには、その人の考えや価値観を尊重することが含まれるから、自分の主義信条こそが正しいという独善的なJWには、人を敬うことはできないね。」
「5節では“私たちが誰かを敬うのは,単にその人が立派だからというわけではありません。もっと大事な理由があります。エホバを愛し,エホバに喜んでもらいたいからです。(ヨシュ 4:14。ペテ一 3:15)”とあります。全てはエホバのためのようですが、もちろん引照聖句はそんなことは言っていません。」
「エホバへの愛とか、エホバに喜んでもらいたいというときは、たいてい理不尽な要求をする時だよ。これから納得のいかないことを指示するけれど、文句を言うなよ、文句をいう奴はエホバの敵だ、という意味。」
「6節では早速理不尽な要求が出てきます。“こちらに敬意を払ってくれない人に敬意を込めて接することなんてできるんだろうか。”とあります。答えは、できるというものですが、その根拠として、聖書の登場人物3人があげられます。ヨナタン、ハンナ、パウロです。」
「聖書の登場人物を取り上げるのは、聖書を学んでいるという幻想を維持するためで、記事の内容とあまり関係ない。結論は最初から決まっている。」
「まずヨナタンです。“ヨナタンは,父親のサウル王からみんなの前で侮辱されました。(サム一 20:30-34)それでもサウルと一緒に戦い,サウルが死ぬ日までサポートし続けました。”とあります。ヨナタンにとってサウルは王であり父ですから、内心はどうであれ敬意を示すのは古代にあっては当然のことです。」
「ヨナタンはサウルを見捨てたとしても、結局殺されるよ。この父と子は運命共同体で、この事例は今のJWに当てはめられない。」
「その後にハンナが大祭司エリに敬意をもって接したことが何か特別かのように書かれていますが、大祭司に平民の女性が無礼な態度をとれるわけありません。JWの女性信者が統治体の老人に無礼な態度が取れないのと同じです。」
「それからパウロはアテネの人から侮辱されたけれど、敬意をもって接したとある。でも、それは伝道活動だからだよ。JWだってそうしているでしょう。」
「JWの大好きな旧約聖書では侮辱されたら負けずに相手を侮辱するのが原則じゃないですか?格言22:10には“あざける人を追い出せ。口論がなくなり,論争と侮辱がやむ。”とあります。JWだって排斥処分とか大好きじゃないですか。」
「例えば、ネヘミア4:4に“私は祈った。「私たちの神,お聞きください。私たちは侮辱を受けています。彼らからのあざけりを彼ら自身に向け,彼らが捕囚にされて略奪品のように扱われるようにしてください。彼らの過ちを見過ごしたり,罪を消し去ったりしないでください。”とある。強烈な報復感情の爆発だけど、これが旧約聖書の思想。」
「7から10節が“家族を敬う”です。 8節に“テモテ第一 5:4,8を読む。”とあり、そこには“まず自分の家族を世話することによって神への専心を示し,親や祖父母から受けた恩に報いるべきである”とあります。そして、“「神への専心」とは,エホバを心から愛して捧げるエホバへの崇拝や奉仕を指しています。”と解説しています。“神への専心”と言う訳はおかしいですよ。そういう言葉は日本語にありません。」
「特殊な用語を作りたがるのがカルト。JWもカルトの一つということ。」
「協会共同訳では“自分の家族を大切にし、親の恩に報いることを学ばせなさい。それが神に喜ばれることだからです。”とあり、“神への専心”など特殊用語など出てきません。」
「JWは余計な言葉を付け加えて、信者の管理統制に使えるように聖書を改ざんする。」
「この聖句はやもめ、つまり未亡人の子供や孫に自分の母あるいは祖母の面倒を見なさいと言っている部分です。家族全般について述べているわけではありません。」
「テモテ一5:16では“会衆は本当に困っているやもめを世話することができます。”とあるけれど、JWの会衆は何もしないでしょう。聖書のつまみ食いだね。」
「8節に奇妙な主張が出てきます。“家族という制度を作ったのはエホバです。(エフェ 3:14,15)それで家族の一人一人を敬うなら,エホバを敬っていることになります。”とあります。この理屈通りなら、この世界を造ったのはエホバですから、この世界の何か、例えばミミズでもオケラでも、それを敬えばエホバを敬うことになります。」
「家族を敬う根拠が見つからなかったということでしょう。それでおかしな理屈を編み出した。聖書が言っているのは父母を敬えで、家族を敬えとは言っていない。」
「9節は“敬うにはどうしたらいいか。”で、“妻に手を上げたり,ばかにしたり,自分は駄目なんだと思わせたりはしません。”とあります。JWの夫は家族の頭だと持ち上げられるせいか、暴力的で虐待的な夫が多そうですね。それから“夫を敬う妻は人前で夫を褒めます。(エフェ 5:33)嫌みを言ったり,けなしたり,小ばかにしたりはしません。”とあります。妻は少なくとも表面的には夫を敬えということでしょうか?」
「JWは見た目重視だからね。妻は人前では、どんなダメな夫でもを敬っているふりをしなさいということでしょう。」
「JWの離婚率は高いですよ。幸せな家族は少ないです。表面的に敬意を示したところで、何の役にも立ちません。」
「正確な統計はないから、何とも言えないけれど、JWの多くが幸福な結婚をしていると考える根拠は思い浮かばないね。宗教優先だから、どちらかが目覚めると結婚生活を続けられなくなるね。」
「10節では、子どもは“親が決めた家族の決まりを守るようにします。(エフェ 6:1-3)親に敬意のこもった話し方をしましょう。(出 21:17)親は年を重ねていくと,子供からのサポートがもっと必要になります。できることは何でもしてあげましょう。”とあります。理不尽なカルト信者の親の命令に従い、そんな親でも敬い、年を取ったら介護しろという指示です。JWの家庭に生まれた子どもは不幸ですね。泣けてきます。子どもに、こういう過大な要求をするのでJWをやめるわけです。」
「マリア姉妹の話が出ています。JWでない父親の面倒を見たという話です。JWでなくても親の面倒を見なさいという指示ですよ。驚きました。JWの親でも面倒を見ないのがJWなのに、JWでない親の面倒を見るわけがありません。」
「伝道第一、王国第一というのを少し修正しようとしているのかも。今からJWが増える可能性のある国や地域は家族重視であることが多い。そういう国や地域で親のことをほったらかしにして、伝道や集会と宗教活動ばかりすれば、JWの悪評が立つからね。家族を大事にするJWと思われたいようだ。」
「11から14節は“クリスチャンの仲間を敬う”です。 12節で“ペテロ第二 2:9-12を読む。”とあります。その中に“偽りを教える人たちは強情でふてぶてしく,栄光ある人たちを悪く言うことを恐れません。”とあるのですが、“「栄光ある人たち」つまり長老たちに不敬なことを言う人たちがいる,と書きました。”と解説していますが、これは間違いですよ。」
「長老たちのことを“栄光ある人たち”と呼んだ例はない。その後ペテロ二2:11では“天使たちは,偽りを教える人たちより強さも力も勝っていますが,エホバに敬意を抱いているので,彼らを悪く言って訴えたりはしません。”と続くことから、“栄光ある人たち”は天使のことを言っていると解釈される。長老のことだとしているのはJWだけでしょう。」
「13節は具体的な指示です。長老は“誰かを正す時も,腹立ち紛れにではなく,優しく穏やかにそうします。姉妹たちも,良くないうわさ話や中傷に加わらないなら,会衆のお互いを尊敬し合う和やかな雰囲気に貢献できます。(テト 2:3-5)私たちはみんな,長老たちに敬意を払いたいと思います。”とあります。姉妹たちはうわさ話や中傷に熱中しているかのような書き方は女性差別ですよ。兄弟たちだってうわさ話は大好きです。」
「JWは元から女性差別的なの。今さらそんなこと言っても無駄。」
「14節はロシオ姉妹の話です。不満はあっても長老に敬意を払えという内容です。長老の成り手がこれ以上不足しないようという配慮ですか?」
「ロシオ姉妹は“問題は兄弟ではなくて私だと気付きました。もっと謙虚になれば人を敬えるようになる,ということも分かってきました。”とけなげなことを言っている。問題は長老にもあるはずなのに、平信者にこそ問題があると思わせようと誘導しているのがイヤだね。」
「14節でテサロニケ一5:12,13が出てきて、そこには“皆さんの中で一生懸命に働き,主に仕えつつ皆さんを監督し助言を与えている人たちに,敬意を払ってください。”とあるのですが、この翻訳はヘンですよ。」
「協会共同訳では“あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを導き、戒めている人々を重んじ、”だね。JW訳はJWの長老を想定して、それに合わせた言葉を選んでいる。テサロニケ一が書かれた時点で、後の時代にみられるようなきっちりとした階層的な仕組みはまだテサロニケでできていないから、“監督”は時代錯誤。」
「15から17節は“エホバの証人ではない人を敬う”です。 16節に“覚えておきたいのは,私たちがエホバの証人ではない人にどう接するかを,エホバはよく見ているということです。”とあります。知りませんでした。この根拠はペテロ一2:12の“世の人々の中でいつも立派に行動してください。”のようですが、ここにエホバは出てきません。」
「JWの評判が悪いので、もっと立派に行動しなさい、と言いたいだけ。エホバがどうのこうのというのは、後からの付けたしにすぎない。」
「16節では“いつもエホバが見ていることを忘れずに,敬意を込めて話すようにします。エホバは私たちが何を言うか,どんな言い方をするかに注目しています。”と、信者を脅迫していますよ。JWはエホバという監視システムによって絶えず監視され、評価されているわけですね。」
「カルトとはそういうもの。恐怖と不安と罪悪感をあおって、信者をコントロールする。」
「17節は具体的な指示です。伝道で、聖書を知らない人に対しては、“私たちはそういう人たちを,エホバにとって大切な人,自分より優れた人,と考えたいと思います。(ハガ 2:7。フィリ 2:3)自分が信じている事をばかにされたとしても,嫌みを言ったりして言い返したりはしません。(ペテ一 2:23)”とあります。JWは自分たち以外は間もなく滅ぼされる人と思っているわけですが、それは改める必要はないのですか?」
「JW以外の人は間もなく滅ぼされるはずだ、JWである自分は選ばれた人間であり、幸せなはずだ、という信念はJWの心の支えだから、それは変えられない。表面的に敬いながら、早く滅ぼされていなくなって欲しいと心の中でつぶやくのが良いJWということ。」
「17節ではまた、“職場ではどうですか。誰も見ていなくても一生懸命働き,職場で会うどんな人に対しても気持ちよく接しましょう。(テト 2:9,10)”とあります。職業人としてはJWの評判は悪いみたいですからね。まじめに働かないし、すぐ休むし、職場の仲間とはよそよそしいし、そのくせ自分の主張だけは絶対に譲らない。」
「だから統治体も心配して、まじめに働けという指示を出しているわけだ。」
「最後の18節はまとめです。“家族に敬意のこもった接し方をする時,家族という制度を作ったエホバを敬っていることになります。仲間の兄弟姉妹を大切にするなら,天のお父さんエホバを敬っていることになります。”とありますが、JW以外の人を敬ってもエホバを敬うことにはならないみたいです。JW以外の人を差別していますね。」
「JWという宗教が非常に偏狭なものということがよくわかるね。人類はエホバが造ったものですから、全ての人類を敬いましょう、それはエホバを敬うことになります、とは絶対言わないよね。」
#1619 2025年12月05日 13:48:11
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“「正しい態度を持つ人」に出会ったら(39)”で、JWの信者の新規獲得の仕方を説明したという内容です。」
「新しい人をバプテスマにまでに導いたことのあるJWはほとんどいないだろうから、こういう記事も必要なのだろう。」
「このタイトルは使徒13:48の“永遠の命を得るための正しい態度を持つ人は皆,信者となった。”から取っているわけですが、この訳がヘンです。」
「協会共同訳では“永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。”だけど、こちらが正しい。元のギリシャ語は“定められている”であって、“正しい態度を持つ”なんて言う意味はない。」
「同じ使徒の22:10に“私が,『主よ,私はどうしたらよいのでしょうか』と言うと,主はこう言いました。『起きて,ダマスカスに入りなさい。そうすれば,あなたが行うことになっている事柄が全て告げられます』。”とありますが、“行うことになっている”と訳されているのが同じギリシャ語ですね。これはなぜ“正しい態度を持つことになっている”と訳さないのでしょうかね。」
「ローマ13:1に“存在する権威は神によって相対的な地位に据えられています。”とあるけれど、“据えられている”と訳されているのも同じギリシャ語。それなのに使徒13:48だけは奇妙な訳をしているわけで、意図的な誤訳だね。JW訳の聖書は他の聖書とは別物ということだ。」
「3から10節は“良い知らせを喜んで聞く人がいたら”です。 3節には“最初からためらわずに聖書レッスンを勧め,集会に誘ってください。”とあります。これでうまくいきますか?」
「まず、良い知らせなるものを喜んで聞く人など滅多にいないから、状況設定が非現実的。何のリアリティもない。JWの頭の中だけに存在するJWワールドの話にすぎないので、うまくいくんじゃないの。」
「4節が“レッスンを勧める。”で、一つの事例を紹介しています。ある女性がカートに近づき、連絡先を交換し、翌日聖書レッスンが開始し、“その週末に女性は集会に出席し,めきめき成長していきました。”という話です。作り話としか思えません。」
「ウソでも成功例が欲しかったということでしょう。」
「6節では具体的な指示が出ています。“地域によっては聖書レッスンを勧める時,「研究」とか「講座」とか「教えてあげる」という言い方をしない方がよいようです。むしろ,「気軽に会話しながら学べる」というような言い方をするとハードルが下がるようです。”とあります。“講座”ってなんですか?そんな単語をJWは使いませんよ。」
「英文ではBible course(聖書コース)。それをなぜか講座と訳した。」
「模範とすべき誘い文句も出ていますよ。“「みんながふと疑問に思うようなことも,聖書を読むと答えが見つかるんですよ」。「聖書は宗教書というイメージが強いかもしれませんが,なかなかいいことが書いてあるんですよ」。さらにこう続けられます。「10分か15分あれば,結構学べますよ」。”とあります。そして“初めから「毎週」とか「約束」という言葉を使うと,負担に感じさせてしまうかもしれません。”と、セールストークでは毎週とか約束という単語は避けるように言っています。」
「JWの集客戦術は聖書の勉強と称して新規会員を集めるというものだから、あくまでも聖書を前面に出してセールストークをする。その際、断りにくいように簡単、安直、実利を強調すればいいわけだ。」
「7節は“集会に誘う。”で、“初めて会った時から,週末の集会に誘うことができます。公開講演のタイトルや,「ものみの塔」研究で学ぶポイントを伝えると,集会に興味を持ってもらえるかもしれません。”とあります。要するに聖書レッスンを開始したら、考える暇を与えることなく集会に参加させ、後はラブ・シャワー攻撃でしっかり捕まえるという作戦です。」
「早く集会に誘った方がJWになりやすいという市場調査部門からの報告があったのだろう。それでこんなことが書かれているのでしょう。」
「8節では集会へ誘うときの注意事項が出ています。“集会に誘う時,エホバの証人の集会が一般の礼拝とはどう違うかを説明してください。”とあります。JWは主流のキリスト教とは違いますからね。なぜ教会ではなく、王国会館と呼ぶのかと聞かれたらどう答えるのでしょうか?」
「そもそもこの宗教はキリスト教ですか、と聞かれたらどう答えるのかな?エホバ教とはいえないので、真のキリスト教ですとでもいうの?ウソはよくないよ。」
「ある姉妹の話が出ています。“レッスン生が初めて「ものみの塔」研究に出席した時,「前に立っている人はみんなの名前を知ってるの?」と聞かれました。姉妹は「そうですよ。私たちはみんなの名前を覚えたいと思ってるんです。家族ならお互いの名前を知ってますよね」と言いました。その女性は,自分の教会との違いにびっくりしていました。”というものです。JWはすごいでしょう、という自慢話ですが、司会者は全員の名前を覚えていませんよ。」
「英文では“そうですよ”とは言っていない。覚えるよう努力しているとあるだけ。翻訳者がいつものように勝手に創作した。それからJWは家族ではない。宗教ビジネスの拡張員の集まり。だから、こんなセールストークを休日に集まって学ぶわけだ。」
「8節では“集会の様子を知ってもらうために,「王国会館においでください」の動画を前もって見てもらうのもよいでしょう。”とあります。ますます動画への依存が増えるわけですね。」
「その動画を見てみたけれど、新しい動画が必要だ。男は子どもも含めて皆スーツにネクタイ。奇妙なカルト集団の雰囲気が濃厚だったね。動画ではJWは紙の聖書を使っていたけれど、実際は違うでしょう。」
「9節では“子供を連れて家族で来ることもできます。子供向けの特別なクラスがあるわけではなく,親子で一緒に座って学べます。”とあります。それで子どもと一緒にポルノがどうの、セックスがどうの、性の不道徳とか淫行だとか、ドラッグとかを学べるわけです。」
「子どもに配慮するという思想はJWにはない。JWの集会に子どもを連れて行くのは児童虐待だ。」
「また“高級な服を着てくる必要はない,ということも伝えてあげられます。神にとって大事なのは外見よりも心の中だからです。”とありますが、神はそうかもしれませんが、JWは外見重視です。」
「JWは宗教ビジネスの拡張員だからね。ビジネススーツがいわば制服のようなもの。それにヒゲも本当は好まれない。拡張員らしくないからね。」
「10節では“集会に来てくれたなら,居心地よく感じられるようにしてあげましょう。”とあります。来た人を大歓迎して、自分は皆から愛され、注目され、特別な存在なのだと、承認欲求や自尊心を満足させて、カルトにからめとろうということですね。」
「英文ではdo what you can to make him feel welcome.(歓迎されていると感じられるようできる限りのことをしなさい。)だよ。翻訳者はだいぶトーンダウンした訳に変えている。新しく来た人を熱烈に歓迎するのはカルトの常套手段と知っているからだろう。JWのカルトらしさを嫌っているね。」
「11から13節が“レッスンが始まったら”です。 11節には“相手のスケジュールに配慮しましょう。例えば,約束の時間を守るようにします。”また“最初のレッスンはあまり長くならないようにしましょう。”とあります。すこしずつ時間を延ばしていくわけですね。」
「最初は簡単、安直と思わせるのがポイントだね。」
「12節では“1回目のレッスンから目指したいことがあります。レッスン生がエホバとイエスをよく知り,愛するようになることです。”とあります。エホバ教ですからエホバを愛するのがまず第一なわけですが、その後に“パウロの教え方に倣えます。パウロはイエス・キリストのことを中心にして教えました。イエスについて学べば,エホバをよく知り,愛することができるからです。(コリ一 2:1,2)”とあります。イエスを中心に教えろということですか?これは詐欺的ですね。イエスなんて統治体と同格の存在ですよ。」
「聖書を学びたいという人はエホバ教ではなくキリスト教を学びたいと思っている人が多い。キリスト教のふりをしてイエス中心で行きなさいという指示だね。そうしないとすぐにやめてしまう。」
「引照聖句のコリント一2:1,2には“イエスについて学べば,エホバをよく知り,愛することができるからです。”とは書いていません。」
「イエスを学ぶのはJWをキリスト教と誤認させるため。キリスト教に偽装して、無知な人に近づく。それがJWのセールス戦術。」
「12節の最後に“私たちもパウロに倣って,レッスン生が強い信仰を持ち,優しい天のお父さんエホバとの友情を育てていけるよう助けましょう。(コリ二 1:24)”とあります。パウロはエホバとの友情など一度も言ったことはありません。でたらめがひどすぎます。引照聖句も無関係です。」
「英文でも友達になるとは言っていないけれど、JWはエホバと友達になるという独自の思想をもっている。信者の幼児化にあわせているのか、信者を幼児化したいのでそう言っているのか知らないけれど、聖書をまじめに勉強したい人はここでJWを見限るね。」
「13節で“もし引っ掛かってなかなか納得できない点があれば,そこを飛ばして,後で改めて考えることもできます。”と、JWの奇妙な教えについて来られないようだったら、そこは飛ばせと指示しています。」
「JWの奇妙な教義を、ある程度の知性のある人に納得させるのは統治体でもできないからね。ましてや平の信者にできるわけない。」
「13節には“聖書によると,私たちが覆そうとしている間違った教えは要塞のようです。(コリント第二 10:4,5を読む。注釈「要塞のように強固なものを打ち砕きます」の項目を参照。)”とありますが、ということは既存のキリスト教の教えは間違っているとレッスン生に吹き込むのですか?」
「そうするとレッスン生は逃げていくので、その後に“レッスン生をその要塞から引きずり下ろそうとするのではなく,エホバという素晴らしい「避難所」に連れていってあげましょう。”とあるよ。既存のキリスト教を攻撃するのではなく、エホバ教の方へうまく誘導しなさいという指示だね。」
「うまくいきますか?」
「最初はうまくいくかもしれないけれど、どんな間抜けな人でもこれはキリスト教とは違う、友人を選べとか、クリスマスはダメだとか、輸血は禁止とか生活の細部にまで介入してくる危険なカルトだといずれは気付く。それまでに抜けられないようにするのが良いJWの腕の見せ所なんでしょう。カルトの特徴は簡単にやめられないこと。」
「14から16節は“集会に来てくれたら”です。 15節では“歓迎の気持ちを伝えようとするあまり,相手が引いてしまわないようにします。”とあります。今までは、相手がドン引きするほど、押しつけがましい歓迎が行われてきたということですね。」
「新しい人が集会に来るなんて、滅多にないことだから、興奮しすぎる人が出てくるのだろう。」
「15節に“こんなエピソードがあります。王国会館に来たある男性は,歓迎してくれた兄弟に「こんな格好で来ちゃったんですけど大丈夫ですか」と言いました。兄弟は「みんなきれいな格好をしていて立派に見えるかもしれませんが,普通の人なんですよ」と言いました。”と、ありますが、元の英文にはこんな会話はありません。翻訳者の創作です。」
「元の英文だって、どうせ創作なんだから、それをさらに膨らませたって問題ないという判断でしょう。でもJWは普通の人じゃないよ。危険なカルトの人。ウソはやめよう。」
「さらに“会話の中であまりプライベートなことに立ち入らないようにしましょう。(ペテ一 4:15)”とあります。個人的なことには何でも首を突っ込むJWには難しい注文ですね。」
「具体的に聞いてはいけない項目を書いてくれないと、新しく来た人にあれこれ質問して困らせるJWがたくさん出てくるよ。」
「16節では“エホバの証人ではない人たちへの敬意を忘れないことも大切です。会話やコメントや集会の話の中で,その人たちやその人たちが信じている事について話すとき,ばかにされているとか見下げられているという印象を与えないようにしましょう。”とあります。偽善の勧めですね。でも新しい人が来た時だけ、善人ぶることはできません。」
「JWは自分たち以外は間違ったことを信じている悪魔の手先で、間もなく滅ぼされるけれど、自分たちは神に選ばれた特別な存在で、楽園で永遠に生きると信じている人たちだよ。どうしても会話の端々にそういう傲慢さが出てきちゃうね。」
「さらに“信条や考えを批判しないように気を付けましょう。(コリ二 6:3)公開講演をする兄弟たちには特にそういう気配りが大切です。”とあります。公開講演といってもたいていはいつものメンバーしかいないわけで、馬鹿げた例えとか事実に反したデタラメを喋る人がいるわけです。それに慣れていますので、新しい人が来てもいつもの調子で非常識なことを放言しまくるわけです。」
「それで、最近は講演者が決められた原稿から逸脱することを厳しくとがめられるようになっている。やがて、どこの会衆でも同じビデオを見るようになると思うよ。ほとんどは寝てしまうだろうけれどね。」
「最後の17節では“弟子を育てる活動はますます大切になっています。1日が過ぎるごとに終わりが近づいているからです。”と、終末論カルトらしいことを言っているようですが、当たり前のことを言っているだけですね。」
「1日過ぎれば、1日終わりに近づくのは当たり前だ。終わりに関して、もうこれ以上のことは言えないのかも。終わりが近いので伝道を優先しなさい、というのが終末論カルトの理屈だったけれど、終わりが遠い先なら伝道などまじめにする理由がなくなる。ウソだとわかっていても終末論は放棄できない。」
#1620 2025年12月08日 21:07:00
- ジョエル
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
JW聖書の「正しい態度を持つ人」は、研究とか毎週とか言われるとハードル高くて断る人なんでしょうか
全知の神様が救いたいなら救いたい人を好きに救えばいいと思うのですが、そういう乗り気でない人を気軽に会話しながら~みたいなセールストークから始めて数か月とか数年かけて顧客獲得しないと救われない方がハードル高いような
JWというマイナー宗教をかすりも知らない人なんて中国インドイスラム圏に何億どころか何十億といて、最近エホバは聖なるパワーで動かしているはずの信者の活動限界を認めて、大患難?が始まってからでもOKの修正緩和を公表したんじゃなかったでしたっけ?
かすりも知らない人でも容赦なく滅ぼす神様だとウケが悪いし、終わりが来てからでもOKにするとセールス伝道嫌いな信者がもっとしなくなるし、でマーケティングの方向性に困ってるんでしょうね
#1621 2025年12月11日 21:57:05
- 統一教会
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
新世界訳聖書が以下のように改訂されましたので、全員、教えを厳守すること。
◆エルサレム陥落の年は607年ではなく587年である。
◆新世界訳聖書では237回「エホバ」という言葉を使っているが、原本の新訳聖書には「エホバ」という言葉は一回も出てこない。
◆“献血・輸血を禁止する”という聖書の解釈は間違っていた。ガンの化学・放射線治療において、輸血は必要不可欠である。もちろん、“輸血の代替医療”の内容も全くのデタラメである。“代替医療”によって信者が命を落としても、それは自己責任として処理され、ものみの塔は責任を取らない。よって、手術やガン治療等で輸血が必要な場合は素直に同意し、過去にあったような、輸血拒否によって医療従事者を困らせるような幼稚な言動は絶対にしないこと。もちろん献血は素晴らしい社会貢献であるので、積極的に協力すること。
◆聖書研究よりも学校の勉強の方が重要である。極力、子供を大学へ進学させること。できれば博士号を取得することが望ましい。すでに成人していて、大学を出ていない信者は、放送大学等を利用し、なるべく大卒の資格を取るよう努めること。(ものみの塔は信者の生活資金までは保証しない。大学を卒業して正規雇用のまともな職に就き、自立した生活を送ることこそが、まともな社会人であり、まともな人間といえる。)
◆バレンタインやホワイトデーでチョコ等を授受することは個人の自由とする。男性信者がバレンタインデーにチョコをもらったら、必ずホワイトデーでお返しをすること。信者である前に人間として当然の行為である。
◆誕生日パーティーを開催したり、参加するのは個人の自由とする。
◆クリスマスパーティーを開催したり、参加するのは個人の自由とする。
◆選挙の日は必ず投票に行くこと。民主主義国の国民として当然の義務である。
◆嗜むべきスポーツとしては、剣道を推奨する。剣道以外にも、武道を嗜むことは、武士道や礼儀作法を学ぶ上で非常に有意義である。
◆飲み会等で乾杯をする際は、協調性を重視して、自分も杯を掲げ、声高らかに「乾杯!」と発声すること。
◆国旗掲揚の際は協調性を重視して、国旗の方を向くこと。
◆国歌・校歌斉唱の際は協調性を重視して、大きな声で歌うこと。
◆年明けに年賀状をもらったら、礼儀として必ず返事を出すこと。「明けましておめでとうございます」と言われたら、協調性を重視して「おめでとうございます」と返事をすること。
◆“キリスト教”の名前を使わせていただいている以上、自宅に必ずキリスト像を置くこと。
◆喫煙は個人の自由であり、規制はしない。
◆食事の前には手を合わせて、「いただきます」と発声する。
◆マイホームなどの財産を所有したり、起業などの経済活動を行うことは個人の自由とする。
◆なるべく多く貯金すること。(これも前述の通り、ものみの塔は信者の老後生活を保証しないので、自力で老後の資金を貯めておくこと。)
◆婚前交渉は個人の自由とする。一般的に、恋愛経験の無い者は社会で苦労する事が多いため、恋愛経験を積むことは、思慮深い人間になる上で非常に重要である。
◆積極的に地域活動に参加すること。(地域住民と良好な関係を保てない人間が良好な信者になることなどあり得ない。)
◆他のいろんな宗教を尊重すること。特にプロテスタントやカトリックは素晴らしい宗教である。
◆神社仏閣も重要な文化遺産であるので、機会があれば参拝して見聞を広めること。
◆知人から結婚式の招待を受けた場合は、どの様な宗教形式であっても極力参加すること。信仰よりも友情の方が大事である。
◆先祖のお墓参りには必ず行くこと。墓の宗教形式に関係なく、先祖を尊ぶことは大事である。
◆知人が亡くなった場合、どの様な宗教形式の葬儀であっても、極力参加すること。知人やその周りが悲しんでいる時に支え励ますことは、宗教云々よりも人として当然の行為である。
◆開拓奉仕は極力控えること。開拓奉仕をしなくても、エホバのような素晴らしい宗教なら自然に信者は増えるから、ただひたすら待つ。開拓奉仕をする時間的余裕があるなら、仕事や家庭のために時間を費やすこと。
◆諸君が“サタン”と呼んでいる人達は、真実を教えてくれる非常に貴重な存在である。よって、サタンの話は真剣に聞くこと。
◆“排斥”を恐れてはならない。“排斥”こそが、ものみの塔が用いる最大の“脅迫”なのだから。エホバの証人全員が勇気を出して同時に脱会すれば、“排斥”という概念自体が消滅する。ものみの塔で知り合った仲間を大事にしたいなら、全員同時に脱会するべきだ。そうすれば、“排斥”もされず、仲間も失わず、みんな幸せになれる。
◆ハルマゲドンは起こらない。恐怖を植え付けることは、人を洗脳するための常套手段である。
◆死後の楽園は存在しない。楽園に行くためではなく、現世で幸せになることを目的として、世のため、人のため、自分のために頑張ることが重要である。
#1622 2025年12月12日 15:25:17
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバは「あふれる喜び」(40)”で、喜びの少ない人生を送っているJWがどうすれば少しでも喜べるようになれるかを組織の立場でアドバイスしたという内容です。」
「楽園のことを考えれば、どんなに苦しい生活を送っていても、喜びが湧き上がってくるという、ウソ話が出てくるかと思ったけれど、あまり出てこないね。」
「1節で、世界の人たちは“むなしさ,やるせなさ,悲しみにのみ込まれそうになっています。エホバに仕えている人たちも例外ではありません。”とありますが、逆ですよ。JWこそ、今頃は楽園で暮らしているはずだったのに組織に騙された!と、むなしさ、やるせなさ、悲しみに飲み込まれていますよ。」
「それはそうだけど、そうは書けないから、まずJW以外の人を誹謗中傷して、JWも例外ではありません、という風に話を展開させるのがJW流の作文術。」
「3から7節が“本当の喜びや幸福感はどこから来るか”です。 3節では“エホバはいつも幸福な方”と断定していますが、そんなことはないですよ。」
「聖書の神は後悔したことが何度かあるよ。創世記6:7では“それでエホバは言った。「私が創造した人を地上から滅ぼそう。家畜や空を飛ぶ生き物や地面を動く生き物も。私はこれらのものを造ったことを嘆いているからだ」。”とある。このとき幸福とは思えないよ。」
「サムエル一15:11では“エホバはサムエルに言った。「私はサウルを王にしたことを嘆いている。”とあります。この時も幸福ではないですよ。自業自得とはいえ、エホバかわいそう。」
「聖書の神はJWの考えるハッピーな神じゃない。けっこう間抜けで、失敗が多く、泣き言を人間に言う情けない神だね。」
「3節では“美しい地球,数え切れないほどの色彩,かわいいしぐさの動物,たくさんのおいしい食べ物。エホバがそういうものを造ったのは,私たちを愛し,生きるのを楽しんでほしいと願っているからです。”と、自然界の一面だけを取り上げた小学生向けのプロパガンダがでています。」
「地球の陸地の割合は29%で、そのうち71%が居住可能とされている。つまり地球の20.6%しか居住可能ではない。地球は神が人間のためにつくったとすれば、それは失敗作。それから動物はかわいいのもいるけれど、不気味で気持ち悪いものの多いよ。食べ物がおいしいのは人間が品種改良したから。たいていの原生種はおいしくないよ。」
「蚊とかダニ、シラミは“私たちを愛し,生きるのを楽しんでほしいと願っているから”造ったのですか?人間を苦しめるためにつくったとしか思えません。」
「毒のある生物が多すぎるよ。クラゲなんか結構危険。楽園想像図で子どもが海で遊んでいるというのがあったけど、クラゲに刺されることはないのか心配だ。キノコには有毒なものが200種類以上ある。楽園でも子どもが食べて死ぬ事故が多発しそう。なんでそんなものを造ったの?」
「4節にテモテ一1:11が引照聖句となっていて、“その教えは幸福な神の素晴らしい良い知らせと一致しており”とあるのですが、“幸福な神”はヘンですよ。」
「協会共同訳では“祝福に満ちた神”で、英語の聖書ではthe blessed Godだね。JWのようなthe happy Godとしているものはないでしょう。エホバ=幸福な神というJWの公式に合わせたJW独自の訳だね。」
「5節では“エホバによって造られたものの中で,イエスほど幸福な方はいません。”とありまして、その理由を2つ述べているのですが、説得力ゼロです。6節では“イエスはエホバが望むことを行うことで,いつも幸せを味わっています。(格 8:30,31。ヨハ 8:29)”とありますが、引照聖句はそんなことは言っていません。」
「聖書は幸せになるハウツーを書いた本じゃないからね。なんかずれているよね。これもJWの幼児化の現れかな。」
「イエスを取り上げた5,6節は不要ですよ。エホバ教なのですからイエスは不要です。キリスト教らしくみせたいからですか?」
「イエスはエホバによって作られたとわざわざ書いてあるから、三位一体を唱えるキリスト教を攻撃したいからじゃないの。」
「7節はバカバカしいことが書かれています。“エホバについて学んでエホバと一緒に時間を過ごせば過ごすほど,そしてエホバに倣えば倣うほど,幸せが大きくなっていきます。また,エホバの望むことを行ってエホバから喜ばれていることを実感すると,幸せを味わえます。”とあります。この論理だとJWは世界一幸福な人たちになりますね。」
「人類の大多数はエホバなんて知らないからね。JWに比べたら不幸のどん底にいるということになるね。でもそう見えないよね。」
「“エホバと一緒に時間を過ごせば過ごすほど”幸福になるようですが、これは誤訳ですよ。そもそもエホバと一緒に時間を過ごすことなんかできません。」
「The more time we spend learning about Jehovah and imitating him, the happier we will be.(エホバについて学び、エホバに倣う時間を取れば取るほど、より幸福になります。)だね。ちょっと複雑な構文になると、翻訳者はまともに訳せない。」
「ここで言うエホバとは組織のことですね。組織の教えを学んで、実行する。組織の望むことを行って、統治体を喜ばせる、と幸せになるといっているようなものです。」
「そう言うと誰もがウソだと思うので、エホバという便利なキャラクターを持ち出す。」
「8から16節が“どんなときも明るい気持ちでいるために”です。 3つのマイナス要素とその対処法が書かれています。8節は、マイナス要素①“つらい出来事。”です。“迫害,自然災害,貧しさ,病気,加齢のためにつらい思いをしていますか。”とあります。JWはそうでない人よりも、つらい出来事は多いですからね。明るい気持ちになれませんね。」
「組織は意図的に信者がつらい人生を送るように誘導している。進学するな、仕事はパートにしろ、結婚は先延ばしだ、子どもはつくるな、伝道をやれ、集会に必ず来い、無給で建設工事をしろ、寄付も忘れるな・・・、と無限の要求がつづく。明るい気持ちでいるにはまずJWをやめること。」
「8節に“聖書にも「心に痛みがあると気持ちが沈む」とあります。(格 15:13)”とありますが、聖書の訳がヘンですね。」
「JWの英語版ではheartache crushes the spirit.(心の痛みは霊を打ち砕く)。いつものように日本語訳では霊は別の単語に置き換えている。」
「9節は“どうしたらまた明るい気持ちになれるか。”で、“現実を受け入れ,感謝の気持ちを持つことが役立ちます。”とあります。バビロン捕囚の話を持ち出して、“現状を受け入れ,物事の良い面に目を向けて感謝する,ということです。たとえ理想的な状況ではなくても,エホバが必ずそばにいて助けてくれます。(詩 63:7; 146:5)”と、調子のいいことを言っています。もちろん、引照聖句は必ずそばにいて助けるなんてことは言っていません。」
「多くのJWはよせばいいのに現状を受け入れているよ。だからいつまでもJWを続けている。」
「9節には事故で体がマヒしたエフィ姉妹の話が出ています。“くよくよせず前向きに生きていくことで,エホバと仲間に恩返ししたいです。”と言っています。エホバは事故に遭うのは防いではくれませんが、事故に遭った後に支えてくれる神様のようです。」
「エフィ姉妹が3年以内に会衆から見捨てられる確率は90%でしょう。組織はエフィ姉妹を組織の宣伝に利用しているだけ。体がマヒしているエフィ姉妹が頑張っているんだから、病気などは頑張らない理由にならないぞ、というメッセージだね。」
「10節には“どんなにつらい状況もずっと続くわけではないことを忘れないでください。砂浜に残された足跡のように,やがてすっかり消えてなくなります。”とポエムが出ています。」
「ポエムなんかダメだろう。終末論カルトらしく、はっきりと、間もなく楽園が来て、全ての苦しみはなくなりますと力強く宣言しろよ。」
「11節で“エホバに嫌われているから問題にぶつかるんだ,と思うことがありますか。”と問いかけています。そんな風に思うJWはいないでしょう。よい事はエホバのおかげ、悪いことはサタンのせい、と考えるように訓練されていますよ。」
「会衆の傲慢な長老や意地悪な姉妹に嫌われているから、問題にぶつかるんだと思うJWは多いよ。」
「12節はマイナス要素②“理想と現実のギャップ。”です。楽園がなかなか来ないことを言うのかと思ったら、それは無視です。“自分の状況では達成できないような高い目標を持つと,落ち込んでしまうことがあります。(格 17:22)”と言っていますが、引照聖句はそんなことは言っていません。」
「そこには“喜びにあふれた心は良い薬になり,打ちのめされた心は体を弱らせる。”とある。心理状態が身体に影響を与えることを言っている。聖書を学んでいるという幻想を与えるために、大した関係のない聖句を適当にちりばめるのがJW流の作文術。それから英語版では心ではなく霊だよ。」
「12節ではホリー姉妹の話が出ていて、“SKEに行ったり,海外で奉仕したり,ラマポの建設プロジェクトに参加したりしたいと思っていました。でも事情が変わって,どれも無理になってしまいました。すごく落ち込みました。”とあります。SKEとか海外奉仕とか建設奉仕はみな組織がヤレ、ヤレと信者に圧力をかけているものですよ。」
「組織は信者に無限に要求し、それに応えられない信者に罪悪感を植え付けて、もっと組織のために自分を犠牲にしなくてはと思わせるわけだね。JW流の信者操作術。」
「13節が“どうしたらまた明るい気持ちになれるか。”です。JWをやめればいいわけですが、そうは書けないので、“自分で勝手にハードルを上げる必要はないのではないでしょうか。 今の状況ではエホバへの奉仕でできることが限られているとしても,できることに打ち込んでください。”と、他人事のように書いています。無責任ですね。」
「信者が自分で勝手にハードルを上げているわけじゃないよ。組織からの有形無形の圧力があって、ハードルを上げないとダメなJWと周りのJWからいじめられるから、ハードルを上げざるを得ない。」
「13節では“それに新しい世界では,期待をはるかに超える素晴らしい奉仕ができるはずです。”とやっと楽園幻想が出てきました。」
「やっと出てきた“新しい世界”。楽園を持ち出せば全ての問題が解決する。なぜ最初からそうしないのか不思議だ。最近は遠慮がちにさらりと触れるだけ。楽園という言葉はもはや今のJWの心に響かないと思っているのかも。」
「14節はマイナス要素③“遊び中心の生き方。”です。それがなぜマイナスになるのかよくわからないです。その根拠として“エバという開拓者の姉妹はこう言います。「とにかく楽しもうとして生きていると,結局いつまでたっても楽しめません」。自分のやりたいことを追求しても満足できず,むなしくなります。”とあるだけです。これって、一人の感想にすぎません。JWとして生きているとむなしくなるだけですという感想は無数にありますよ。」
「“遊び中心の生き方”というのは日本語版だけ。英文ではSelf-indulgence(自己満足)で、自分の楽しみを優先した生き方でしょう。その何がいけないのかわからなかった翻訳者は“遊び中心の生き方”と誰もが悪いと思えるものに変えたのだろう。」
「組織としては、信者が楽しくするのは許せないのですよ。JWは24時間365日組織のために汗水たらして働くべきなのです。でもそうは言えないので、楽しみを追求しても空しいとケチをつけるわけです。」
「JWも昔は会衆で様々な楽しい行事をしていたようだけれど、今はしなくなった。楽しいことがほとんどない宗教になったのはなぜなのかな?組織の奴隷には楽しみはいらないということかな?」
「15節はソロモン王の話です。ソロモン王はありとあらゆる贅沢をしたけれど“むなしさだけが残りました。こう言っています。「見ても目は満足せず,聞いても耳は満たされない」。(伝 1:8; 2:1-11)”とあります。伝道の書の作者はソロモン王ではありません。ソロモン王の時代の何百年後に書かれたものです。」
「伝道の書の結論は、3:12,13に“私はこう結論した。生涯の間,喜び,善を行う。人にとってこれ以上の幸せはない。 人は皆,食べ,飲み,一生懸命働いて充実感を得るとよい。それは神からの贈り物なのだ。”とある。それなのに、JWは、飲まず食わずでも一生懸命働かず、組織の言いなりになって、充実感のないJW活動をだらだらするだけ。これ以上の不幸せはないね。」
「16節が“どうしたらまた明るい気持ちになれるか。”です。他のJWのためにもっと働けと要求しています。“あなたにはどんなことができますか。誰かがつらそうにしているなら,ちょっと声を掛けてみるのはどうですか。悩みを解決してあげられなくても大丈夫です。その人の身になって話を聞いてあげれば,相手は本当にほっとすることでしょう。・・・”と、すべきことはまだまだ続きます。JWは本当に不幸です。」
「そのあとに“一緒に伝道すれば,その人はきっと爽やかな気持ちになるでしょう。”とある。伝道に誘われて、そんな気持ちにならないよ。JWの大多数は伝道なんか大嫌いだよ。」
「最後の17節で“私たちは,お父さんエホバと親しくなればなるほど幸せになれます。”と断言していますが、説得力はありませんね。エホバに関われば関わるほど不幸になります。」
「説得力がないのは、JWのおかげで幸せになったという感動的な体験談がなかったからでしょう。不幸のどん底にいたけれど、たまたまJWと知り合い、聖書を勉強し、集会に行き、伝道するようになったら、それまでの不幸が一気に吹き飛び、今では世界一の幸せを味わっていますという○○姉妹の話をなぜでっち上げなかったのか不思議だ。」
#1623 2025年12月13日 21:18:34
- 1,000時間奉仕者
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
この研究記事のいっこ前に、恒例の「19◯◯年……100年前はこんなでした」の連載が載ってました。
相変わらずノー天気な記事だこと。
期待大ハズレで離脱した伝道者たちの話は最小限にとどめ、頑張ってラジオ塔をバンバン建てた話とか。
* 近年、英語原文から和訳文にするとき、受け取る雰囲気がガラリと変わる大胆な方針転換しているので、しれっと要点が改変されているのに気づかないことがあります。要注意。
#1624 2025年12月19日 14:22:09
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“神の愛はどんなときも変わらない(41)”で、エホバに疑問を持っても、エホバを信じろ、という内容です。」
「神の愛は変わらないかもしれないけれど、神の基準はよく変わるよね。ひげを生やしてよいとか女性はスカートでなくてもよいとか、乾杯をしてもいいとか変わったよね。これからも時代に合わせていろいろ変わるわけでしょう。」
「3節に“エホバは私たちを絶対に見捨てたりはしません。何があっても変わらずに支え続けてくれます。”と断言しています。奉仕活動中に殺されたJWは全世界で結構いますよ。この場合も支えてくれたんですか?支えてくれたけれど無残に殺されたとすれば全くダメな神ということです。」
「2014年に名古屋で77歳のJW活動歴40年以上のおばあさんが、名古屋大学の女子学生に斧で数回殴られ、その後マフラーで首を絞められて殺されて、1か月以上女子学生のアパートのふろ場に放置されたという事件があったけれど、あれもエホバは支えてくれたわけね。」
「4から8節は“エホバが愛してくれていることは聖書の基本的な教え”です。 4節に“エホバから愛されているということを,聖書の基本的な教えと捉えるなら,苦しい目に遭っている自分をエホバは気に掛けていないという考えを振り払うことができます。”とあります。エホバの愛=聖書の基本的な教え、という公式で暗記しろということです。この公式は正しいですか?」
「例えば、聖書は一度たりとも奴隷制に反対していない。従って、奴隷制の容認=聖書の基本的教えとは言える。でも、エホバの愛は基本的な教えではないよ。」
「出エジプト21:7に“人が娘を女奴隷として売ったなら,彼女は男奴隷と同じ仕方で自由の身になることはない。”とあります。つまりエホバは自分の娘を奴隷として売ることを認めています。しかもいつものように女性差別しています。奴隷に売られた娘もエホバは愛しているわけですか?ありえません。」
「出エジプト21:20,21には“自分の男奴隷や女奴隷を棒で殴打してその場で死なせた場合,必ず処罰される。しかし,奴隷が1日か2日生き延びるなら,主人は処罰されない。”とある。もし売られた娘が主人から暴行を受けて3日後に死んだら、奴隷の所有者は処罰されない。この奴隷に売られて、暴行を受けて死んだ娘もエホバは愛しているのかな?」
「エホバって誰かが罪を犯した場合。関係のない人を罰することがあります。愛のある神のすることですか?絶対違います。」
「JWによると、アダムの罪のせいで1000憶人の人類が死んだわけだ。無茶苦茶だね。ノアの大洪水では箱舟にいるものを除いて動物や植物が全滅。愛はない。なぜ罪深い人間だけを抹殺しないのか、理解できない。」
「出エジプトの時、7:3で“私としては,ファラオが強情になるままにし,しるしとなることや奇跡をエジプトで多く行う。”といって、その後長子の皆殺しをします。11:5では“エジプトにいる長男は全て死ぬ。王座に座るファラオの長男も,ひき臼をひく女奴隷の長男もである。家畜の初子も全て死ぬ。”とあります。なぜ奴隷の長男まで殺さなくてはいけないのですか?」
「こう見るとエホバは奴隷は愛していないね。」
「レビ記では姦淫した人、同性愛者は死刑と言っています。」
「神はそれらの人も愛していないね。そもそもイスラエル人以外は無関心だった。」
「6節は“エホバから愛されているか不安になる時”の対処法です。“自分の気持ちとこの記事の主題の聖句,詩編 136編1節を比較してみます。エホバが自分の愛を「揺るぎない」と言っているのはどうしてでしょうか。「神の揺るぎない愛は永遠に続く」という表現が詩編 136編で26回も繰り返されているのはどうしてでしょうか。ここまで考えてきた通り,何があってもエホバが愛し続けてくれるというのは,聖書の基本的な教えです。”と信者を説得しようとしています。詩編136はそんなに重要なものですか?違いますよ。」
「これは古代イスラエルの宗教儀式、特に過ぎ越しの祭りの際に歌われただろうと考えられている。それはこの詩の内容が天地創造→出エジプト→カナン征服を祝った内容だから。この詩はJWとは何の関係もないよ。」
「“「神の揺るぎない愛は永遠に続く」という表現が詩編 136編で26回も繰り返されている”ことを特別な意味があるかのように書いていますが、繰り返しが多いのは詩だからですよ。バカですね。」
「例えば、この詩は
18 力強い王たちを殺した。
神の揺るぎない愛は永遠に続く。
19 アモリ人の王シホンを。
神の揺るぎない愛は永遠に続く。
20 バシャンの王オグを。
神の揺るぎない愛は永遠に続く。
というような構造になっていて、最初の部分を誰かが歌うと、別の誰かが“神の揺るぎない愛は永遠に続く。”と続けて歌うというもの。それが26回になったというだけ。」
「“神の揺るぎない愛は永遠に続く。”という訳はどうですか?意味を付け加えすぎですよ。」
「協会共同訳では“慈しみはとこしえに。”となっている。JWは神の愛はゆるぎないものだと信者に説教したいので、そう訳したのだろう。元のヘブライ語は一語だから、余計な言葉を付け加えずに訳して欲しい。」
「7節で“エホバから愛されているのか不安になる時は,こういう聖句を思い出してください。”とあります。聖句の2つ3つを読めば、どんな不安も解決するようですね。」
「JWは組織の要求事項をすべて実行しないと、ハルマゲドンで滅ぼされるという恐怖と不安をあおる宗教だから、不安でいっぱいになる信者がいるのでしょう。それでこんな記事を書いているわけだ。」
「8節に“心で感じていることと頭で分かっていることを比較して,どちらが信頼できるか考えてみてください。感情は事実ほどには当てになりません。”とあります。ここで言う“事実”とはJW流に解釈した聖句のことです。そんなことよりも自分の感情の方があてにできます。不安はこの宗教に留まってはいけないという心の警報ですよ。」
「JWは理性に対する感情の優位性をわかっていないね。例えば閉所恐怖症は狭いところを怖がる必要はないことは知的には理解しているけれど、それでも恐怖を感じて狭いところが耐えられない。不安感いっぱいの人に聖句なんて何の意味もないよ。」
「9、10節が“エホバが私たちに「愛情を抱いている」ことをよく考える”です。 イエスの登場です。キリスト教の攻撃をしています。10節で“でもイエスは弟子たちに,イエスではなくエホバに祈るべきだと言いました。”とあります。イエスに祈るのは禁止と信者に徹底させたいようです。」
「中南米やアフリカで新しくJWになった人の多くはかつて教会に通っていた人でしょう。そういう人にとってエホバなる神はいかにもインチキ宗教の神の名前のように聞こえて、祈る対象として抵抗があるんだよ。それでイエスではなくエホバに祈れと改めて指示している。」
「JWも昔はイエスに祈っていたんですよね。それが途中で変わった。いいかげんな宗教ということがよくわかります。」
「イエスを崇拝すべきではないと明確に述べられたのは1954年1月1日号のものみの塔の記事から。1950年代にJW訳の新世界訳が出るけれど、そこではイエスを“崇拝する”というのは“敬意を表す”などに変えている。聖書を自分たちの教義に合わせて訳するということは最初からしている。」
「例えば、ヘブライ1:6は“神はご自分の初子を再び世界に遣わす際,こう言います。「神の天使たちは皆,彼に敬意を表しなさい」。”ですが、最後の部分は協会共同訳では“神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ。”です。」
「ここで使われている同じギリシャ語(proskuneó)はマタイ4:9のサタンのセリフである“「ひれ伏して私を崇拝するなら,これら全てをあげましょう」。”でも使われる。ここではちゃんと“崇拝する”と訳している。なぜ“敬意を表す”と訳さないのかな?JWでは、イエスに対してだけ“崇拝する”とは訳さない方針ということがわかる。それはJWにとって都合が悪いから。」
「11から14節は“疑ってしまうのはどうしてか”です。 11節に“エホバの愛を疑ってしまうのはどうしてでしょうか。1つの原因は,サタンがそういう気持ちをあおっているからです。”とあります。サタンは役に立つキャラクターですね。サタンはそんなことまでしているとは知りませんでした。」
「不都合なことはサタンを持ち出せば何でも説明できるようだ。JWという宗教は単純でいいね。」
「その後“サタンは私たちを「むさぼり食おうとして」いて,自分はエホバから愛されていないと思わせようと仕向けています。(ペテ一 5:8)”とありますが、引照聖句には貪り食おうとしているとありますが、エホバから愛されないと思うように仕向けるなど書いていません。」
「そこには“敵である悪魔が,ほえるライオンのように歩き回って,誰かをむさぼり食おうとしています”とある。ライオンが象徴しているものは愛されていないと思わせるように仕向けるような策略家ではない。例えば、詩編7:1,2に“私を迫害する人全てから私を救い,助け出してください。さもないと,誰かがライオンのように私を引き裂きます。助け出してくれる者がいない私を運び去ります。”とある。これがライオンのイメージ。引き裂き、運び去る。」
「エゼキエル19:6には“その雄もライオンの間を歩き回り,若くて強いライオンになった。獲物を引き裂くことを学び,人間さえ餌食とした。”とあります。ライオンは引き裂き、食い尽くす存在です。」
「それなのに、ライオンように歩き回っている悪魔を、“自分はエホバから愛されていないと思わせようと仕向けています。”というケチな詐欺師として解釈するのがJWなわけだ。悪魔ってもっと恐ろしいものでしょう。」
「13節では“罪を受け継いでいるせいで,罪悪感,心配,不安,恥ずかしさなどのネガティブな感情を味わうことがあります。”と、アダムから受け継いだ罪のせいにしています。原罪というのは何でも説明する便利なものなんですね。」
「JWにとって便利なものと言えば、“サタン、罪、不完全”の3つかな。これで大抵のよくないことは説明できると考えているね。」
「13節には不完全も出てきます。“私たちも完全ではなくなったので,エホバが意図していた通りに生きていくことはできなくなってしまいました。それで,エホバから愛されているか疑ってしまうことがあります。”とあります。」
「問題は、不完全とはどのようなことか、完全とはどのようなことか、誰も知らないこと。意味不明なので、なんにでも使える便利な言葉になっている。」
「最後の15,16節は“揺るぎない愛を貫く”です。 15節に“サムエル第二 22:26を読む。”とありまして、そこには“あなたは,揺るぎない愛を示す人に,揺るぎない愛を示す。誠実な人に誠実である。”とあります。エホバは条件付きの愛と誠実を示す神ということです。」
「JWの神学の基本は、神(組織)に服従していれば、楽園というご褒美がもらえ、そうでなければ間もなく来るハルマゲドンで滅ぼされるというもの。ところがハルマゲドンがなかなか来ないので、もはやその神学も維持できなくなっている。」
「つまり、ゆるぎない愛を持っても、持たなくても、死亡してしまえばみな楽園で復活することになっていますので、つらくてつまらないJWをやり続ける理由がないわけですね。」
「大患難が始まってからJWになってもOKというのが今の教義。統治体の奴隷となっていないで、今ある人生を楽しむべきだね。」
「16節はまとめですが“エホバが私たちを愛し,いつも支えてくれるからです。それは聖書の基本的な教えです。”とあります。訳がヘンです。英文では“いつも支えてくれる”とは言っていません。“基本的な教え”とも言っていません。」
「英文ではWe know that Jehovah loves us and will support us. That is what the Bible teaches.(エホバが私たちを愛し、支えてくださることを知っています。それは聖書の教えていることです。)とあるね。頭の悪い日本人JWにわかるように誇張表現を使ったということでしょう。」
#1625 2025年12月26日 14:46:34
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバに心から祈るには(42)”で、JW流の祈り方と主に旧約聖書にある祈りの例を学ぶという内容です。」
「英語のタイトルはHow to Improve Your Prayers(あなたの祈りを改善す方法)で、心から祈ればいいとは言っていない。でも祈りを改善したら、祈りが実現する確率が上がるとも書いていない。それって改善といえるのかな?」
「JW流の祈りというのは、一日も早くハルマゲドン来て、JW以外の人を焼き殺してください、と祈るのかと思ったのですが、そうでないようです。」
「そんなこと祈ったってハルマゲドンなんか来ないからだよ。祈り=お願い事をくどくど述べる、ではない。そんな祈りは古代宗教の祈り。古代宗教では神は人間の願いをかなえるための道具にすぎない。JWにとってエホバもそうかもね。」
「4,5節は“ためらわずにエホバに祈る”です。 イエスに祈った人は排斥と言うのかと思ったら、4節には“エホバは私たちの幸せを願ってくれている親友なので,自分の気持ちを何でも自由に話せます。”とあります。エホバ=親友だから気楽に祈っていいよ、と言いたいようです。」
「英文ではa loyal friend who wants us to succeed(私たちの成功を願う忠実な友)だよ。裏切ることのない友と言いたいわけで、親友とは違う。エホバ=親友という神学は日本独自でしょう。全く非聖書的な思想。どうせ親友にするなら、エホバではなく、困ったときにお金を貸してくれる人を親友にした方がいいね。エホバは寄付を要求するだけ。」
「6から10節が“どうすれば心から祈れるか”です。 祈りの改善方法が3つ出ています。7節が①“エホバがどういう方かじっくり考える。”です。これは大事ですね。エホバは気に入らない人間を簡単に殺す恐ろしい神ですからね。7節で、クリスティン姉妹は“エホバの揺るぎない愛について考えると,そういう不安は消えていきます。エホバはどんな時もそばにいてくれます。たとえ私が転んでも,優しく抱き起こしてくれます。”と、全く聖書に基づかないデタラメを言っています。」
「どこの宗教の神のことを言っているのと聞きたくなるね。いったいいつ転んだ時に抱き起してもらったの?」
「旧約聖書の神は最悪のキャラクターです。大量殺戮者、差別主義者、そして歪んだ正義感の持主です。格言13:24の“むちを控える人は子供を憎んでいる。子供を愛する人は懲らしめを怠らない。”や、格言23:13の“少年を懲らしめるのを控えてはならない。むちで打つ場合,彼は死なない。”にみられるように、神は体罰大好きの暴力愛好家です。」
「ホセア13:16はエホバがどういう方かじっくり考える材料になるよ。そこには“サマリアは有罪とされる。神に逆らってきたからだ。彼らは剣によって倒れる。子供は打ち砕かれ,妊婦は切り裂かれる。”とある。子どもや妊婦に対する残虐性は異常だ。」
「8節は②“どんなことを話すか考える。”です。JWは考えるのが苦手ですからね。」
「得意なこと、文章の中から答えを拾い出すこと。」
「9節には夫が末期の脳腫瘍になったアリスカ姉妹の話が出ています。“祈る前に時間を取って頭の中を整理するようにしました。そうしたので,自分のことや夫の病気のことばかり祈らずに済みました。”とあります。自分や夫のことばかり祈ってはいけないわけですか?末期の脳腫瘍という非常事態ですよ。厳しすぎます。」
「そういう時でも、統治体の兄弟が素晴らしい知恵と人格で私たちをいつも正しく導いてくださることに感謝します・・・と、統治体をほめたたえるのを忘れると、ハルマゲドンで滅ぼされるのではと不安になるのがJW。」
「10節が③“じっくり祈る。”です。“時間をかけて祈ることを習慣にしていきましょう。”とあります。やっぱり10秒しか祈らない人がけっこういるわけですね。それならカップラーメンができるまで最低3分祈りましょうと具体的に書けばいいのに。」
「そんなことを書けば、JW嫌いの人たちからバカにされるのが怖くてかけない。ここにある3つの注意事項を見ると、JWの祈りは決まり文句をいくつか並べて短時間で終わる中身のない祈りが多いということかな。」
「11から17節が“聖書に記録されている心のこもった祈り”です。 共感できる祈りを探そうとあります。13,14節がハンナの祈りです。13節には“2つの大きな悩みを抱えていました。子供ができないことと,もう1人の妻から嫌がらせを受けていたことです。”とあります。そして“ハンナは時間をかけてじっくり祈り,心の内をエホバに包み隠さず話しました。そうしたので気持ちが楽になりました。(サム一 1:12,18)”とありますが、ハンナの苦しみはエホバが一夫多妻制を認めていることに原因があります。ハンナは男の子を授けてくださいと祈りますが、これはエホバが男尊女卑だからですよ。女の子ではダメなのです。ハンナの苦しみの元はエホバのせいです。」
「ハンナの夫は2人の妻がいた。古代のイスラエルでは男性は何人でも妻を持っていい。女性の立場や幸福に無関心な神。女性なら、もっとましな神に祈りたいね。」
「サムエル一2章にはハンナの祈りが出ているのですが、ハンナの状況と関係するのは2:5の“子供がたくさんできた人は産めなくなり,子供ができなかった人は7人も産みます。”だけです。後はハンナとは関係ありません。」
「ハンナの祈りは、技巧的な詩で、無学な古代の女性であるハンナが作ったものではない。内容は戦争の勝利を祝うもので、ハンナの祈りとしてふさわしくない。サムエル二22章にダビデの勝利の歌が出ているけれど、内容はよく似ている。ハンナの祈りはサムエル記を書いた人がすでにあった詩をハンナの祈りとして挿入したものと考えられている。」
「サムエル一2:1には“私の角はエホバによって高く上げられます。私の口は敵に向かって大きく開きます。あなたによる救いを喜ぶからです。”とあります。これは戦いについてですね。」
「戦いの詩。角は強さのシンボル。神による勝利を喜び、感謝するという内容。」
「14節の注に“ハンナは祈りの中で,モーセが書いたのと似た表現を使っています。きっとそういう聖書の言葉についてじっくり考えていたのでしょう。”とありますが、これはデタラメですね。」
「古代の特別な地位についているわけでもない女性が読み書きができるとは考えられない。」
「14節では“何が学べますか。たとえ問題が続いているとしても,エホバがこれまでどんなふうに支えてくれたかを考えると,前向きな気持ちで頑張っていけます。”とハンナの話からの教訓を述べています。これは一夫多妻制での妻というハンナの立場は変わらないけれど、願い通り男の子が生まれたのだから、ガンバレというわけです。」
「神は時々祈りを聞いて、願い事を実現させてくれるようだけど、それは権力者の気まぐれ程度のものとしか思えないね。」
「15節はエレミヤの祈りです。“エレミヤ 12:1を読む。”とあり、そこには“しかし,邪悪な人たちが成功を収めているのはどうしてですか。不誠実な人たちが気楽に暮らしているのはどうしてですか。”とあります。それを15節では“預言者エレミヤはある時,悪い人たちがうまくやっているのを見て心が乱されました。”といっています。エレミヤをずいぶん卑小な存在にしています。」
「これは神義論だね。神は正義なのに、なぜ悪人は繁栄しているのかという問いを神に提出した。その答えは12:5の“あなたは,人と走って疲れるのなら,どうして馬と競走できるだろうか。平和な土地では安心していられるとしても,ヨルダン川沿いのうっそうとした茂みの中ではどうするのか。”というもの。」
「つまり、ヨブ記と同じで、ちゃんと答えていないわけですね。」
「神はエレミヤの問に答えず、これからもっと厳しくなるぞ、と叱っているだけ。」
「15節では“エホバが一番いい時に不正を全部なくしてくれることを信じて疑わないようにしましょう。”とありますが、聖書はそんなことを言っていません。」
「何か悪が行われても、エホバを待つ、つまり何もせず泣き寝入りするというのはJWの教義だね。悪人には良い宗教だ。」
「16節は“詩編 42:1-4を読む。”です。これはアッシリアかバビロニアによって捕囚となった人の嘆きの詩ですね。16節では“感情の浮き沈みを経験するかもしれません。でもそんな時こそ,どう感じているかを全部エホバに伝えられます。”と、祈りの中で感情を伝えろと言っています。そして“私たちも祈って気持ちを全てエホバに伝えるなら,考えが整理され,バランスを取り戻し,頑張り続ける力が湧いてきます。”とありますが、詩編42にはそんなことは書いていません。」
「詩編42で強調されているのは“神を待て”だね。JW好みの結論なので、詩編42をわざわざ取り上げたのだろう。」
「詩編には敵を憎み、復讐を願う詩が結構ありますよ。それは無視するのがJWです。詩編94:1では” 復讐する神,エホバ,復讐する神,輝きを放ってください。”とあります。」
「詩編109:6-20もそうだね。そこには“敵の寿命が短くなり,就いていた監督の職にほかの人が就きますように。 敵の子供は父親のいない子になり,妻はやもめになりますように。敵の子供が,さまよう物乞いになりますように。廃虚に住んで食べ物をあさりますように。”とある。復讐を願っているわけだけど、結構細かいことを言っているのがおかしいね。いつものことだけど、子供でも容赦しないことがよくわかる。」
「17節は“ヨナ 2:1,2を読む。”です。“祈りの中で,詩編に出てくる表現をたくさん使っています。よく知っているそういう言葉についてじっくり考えることで,エホバがきっと助けてくれるという希望を持てました。”とありますが、全くヨナ書を理解していません。」
「ヨナは魚の腹の中で“神は答えてくださいました。墓の底から,私は助けを求めて叫びました。あなたは私の声を聞いてくださいました。”と祈っている。これは救われたものが感謝するときの祈り。まだ魚の腹の中に居るヨナには全く場違いで、ふざけた祈り。模範とするような祈りではない。」
「17節には“私たちも聖書の言葉を覚えるようにすれば,問題にぶつかって祈る時にそういう表現を思い出して安心感を持てるはずです。”とあります。要するに聖句をたくさん暗記して、祈りの中で使え、と言いたいようです。」
「“復讐する神,エホバ,復讐する神,輝きを放ってください。”とか、“敵の寿命が短くなり,就いていた監督の職にほかの人が就きますように。”を暗記して、祈りの中で使えば安心感が持てるわけだね。」
「18から20節が“祈ってエホバともっと親しくなる”です。 18節は“ローマ 8:26,27を読む。”で、そこには“祈るべきなのに何を祈り求めればよいのか分からないとき,私たちの声にならないうめきと共に,聖なる力が願い出てくれるのです。”とあるのですが、その意味は“エホバは聖なる力を使って,たくさんの祈りを聖書に記録させました。私たちと同じような問題にぶつかった人が捧げた祈りもあります。気持ちをうまく言葉にできない時,エホバは聖書に記録されている祈りを私たちの祈りと見て,その祈りに応えてくれます。”と、メチャクチャな解説をしています。何を祈ればよいかわからない時は聖書の中の祈りを読めばいいという意味のようです。そんなことをパウロが言うはずがありません。」
「パウロの時代に新約聖書はない。旧約聖書だって、極めて貴重なもので個人で所有している人なんか滅多にいないよ。」
「聖なる力は英文では聖霊ですが、聖霊はある種の人格を持つ存在と想定されているのに、JWでは電力や磁力のようなもの聖なる力としているので、“聖なる力が願い出てくれるのです。”と言った聖句が解釈不可能になるわけですね。」
「ローマ8:15には“皆さんは,聖なる力により奴隷とされて再び恐れを抱いたのではなく,聖なる力により養子とされたのであり,その力によって私たちは「アバ,父よ!」と叫びます。”とある。アバ、父よと叫ぶのは祈りの中でだから、祈りは聖霊との共同作業という思想が見て取れる。ローマ8:26で何を祈ればわからない時に“聖なる力が願い出てくれる”というのも、祈りは祈るものと聖霊の共同作業で、何を祈ればわからない時は聖霊が助けてくれて、言葉が出てくるよ、と言っているのでしょう。」
「20節では“心を整えるために詩編のオーディオ版を聞くことができます。”とあります。詩編がお勧めなのですね。」
「“復讐する神,エホバ,復讐する神,輝きを放ってください。”とか、“敵の寿命が短くなり,就いていた監督の職にほかの人が就きますように。”を何度も聞くと、自然にそのセリフが出てくるので、祈りに困らなくなるわけだね。」
「最後の21節では、“聖書に記録されているいろんな祈りの言葉を参考にできます。”とまた言っています。組織としては、好き勝手に祈らせると、ろくなことを祈らないと思っていることがよくわかります。」
「統治体の老人は大会や集会でのJWの祈りを聞いて、あまりのくだらなさに呆れているのだろう。それでこんな記事を書くように命じたんじゃないの。」