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#1526 2024年08月09日 14:23:15

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“付き合っている2人ができること(22)”で、交際中の男女に組織があれこれと干渉するという内容です。」
「最近のJWの男女関係が乱れているので、先週に続いて引き締めを図ろうということでしょう。本当に信者を管理統制するのが好きな宗教だね。」

「英文のタイトルはHow to Have a Successful Courtshipですが、Courtshipとはなんですか?」
「結婚しようとしている男女がより親密になる期間のこと。」

「JWでは結婚を前提としない男女交際は禁止なわけですね。」
「直接言ってはいないけれど、そういうことだね。JWには恋愛はない。恋愛したい人はJWをやめよう。」

「聖書の時代にCourtshipなんてありませんよね。」
「ないよ。だから、この記事に書かれていることは聖書とは関係ない。アメリカの保守的なキリスト教の思想が述べられているだけ。いつものように聖句が使われているけれど、無理やり関連付けているだけ。文脈無視の聖句の誤用。」

「3,4節は“付き合うのは何のため?”です。 3節で“それは結婚につながるかもしれない大切なステップでもあります。”とあって、結婚を前提にしたものということがわかります。」
「“結婚するという決定もあれば,付き合うのをやめるという決定もあるでしょう。”とあるけれど、結婚しないという決定は困難だ。ある男性JWは交際してから1週間後に女性JWの親から結婚式の話を持ち掛けられたよ。」

「JWは離婚が難しいですし、再婚するにもJWルールがあって大変です。JWでいることに満足しているなら、結婚はリスクが高いです。」
「結婚して、嫌なら別れよう、とできないのがJWだよね。JWに生まれると、余計な重荷をたくさん背負わされる。」

「4節に“独身の人は結婚するつもりがないのにデートをしたりすることはないでしょう。”と決めつけています。それはJWルールですよ。」
「結婚するつもりがなくても、話し相手がいた方が楽しいよ。一人で映画を見に行くよりも、気の合う人と一緒に見て、映画が終わったら、おいしいものを食べ、おいしいお酒を飲みながら映画について話すのも楽しいよ。JWという人生はつまらない人生だ。」

「4節で、ある姉妹が“付き合っている2人は,周りの兄弟姉妹からプレッシャーを感じることがあります。それで,関係がうまくいっていないのに付き合い続けてしまう人や,そもそも付き合い始めるのをためらってしまう人もいます。”と言っています。周囲の者は結婚へ圧力をかけるなということです。先週も同じことを言っていました。」
「組織はJWの結婚がうまく言っていないケースが多いと判断しているのだろう。その理由として、結婚したくなかったのに周囲の圧力で結婚してしまった夫婦が多いと分析したのかも。」

「JWはデートの時に監視役が必要というルールです。それだけで結婚への圧力になります。偽善的です。」
「デートに監視役をつけるというのは地域差があるようだよ。そんなバカバカしいことをやっていられるかという地域もあるし、監視役不足という地域もある。」

「5から8節が“互いをよく知る”です。 5節に“自分の夫や妻になるかもしれない人がエホバとどれほど強い絆を持っているか,どんな性格や考え方をしているかをもっと知るようにしましょう。”とあります。エホバとの関係が一番重要なんですね。」
「結婚後、どちらかがJWのおかしさに気づいた場合、もう片方も影響を受けるケースがあるからね。その場合夫婦そろってJWをやめてしまう。組織としてはイタイ。そうならないようにエホバ教に疑いを持っていない相手を選べという指示だね。」

「5節で“お互いが必要としている愛情や関心を示せるだろうか。お互いの欠点を受け入れられるだろうか”とあります。これって、実際に結婚してみないとわからないと思いますよ。」
「JWの交際期間は短いようだ。交際半年で結婚ということもよくあるみたい。それだけ結婚の圧力が強いのだろうけれど、こんな短い交際期間では相手をよく知ることはできないね。」

「6節に“健康やお金に関する問題やトラウマになっていることなど,プライベートな点についてはどうでしょうか。”とあります。“トラウマになっていること”と言うのが気になりますね。」
「JWというと、児童性的虐待だね。子どもの時に長老にひどいことをされ、そのことを親に言っても無視され、絶望したとか。あとは体罰。お尻むき出しにされてベルトで皮膚が破れるまでたたかれたとか。後は会衆でのいじめ。JWにはトラウマとなるようなことはたくさんあるよね。」

「7節では“会話を楽しみながら行えることを一緒にするのは良い方法です。例えば,人目がある所で一緒に散歩したり,食事をしたり,伝道したりすることができます。”と言っています。“人目のある所”と言うのがポイントですね。」
「人目のないところで二人きりでいると、宗教裁判にかけられ、○○を触ったか、○○を入れたか、と非常識な質問をされるのがJW。」

「7節の下に、“遠距離の場合”という記事があります。“付き合っている間に相手に会いに行くための費用や,結婚後,相手の家族や友人を訪ねるための旅費をやりくりできるかどうかも考えましょう。”と言っています。遠距離の相手はお金がかかるからやめとけということですね。」
「こんな記事をわざわざ書くということは、身近なところで適当な相手を見つけられず、遠距離の場合が結構あるということだろう。限られたJWの中から見つけなくてはいけないからね。」

「8節では“一緒に聖書を学ぶのも,互いのことを知る良い機会になります。”とあります。そんなことする人たちがいるんですか?」
「それを理由に二人きりになるのを狙うんじゃないの。でも、“私たちは付き合い始めてすぐ,デートや結婚,家族生活について出版物を調べて話し合うようにしました。”とある兄弟が言っている。結局調べるのはJWの出版物だよ。JWには聖書はいらないね。」

「9から13節が“ほかにも考えたいこと”です。 4つのことが出ています。9節は①“付き合っていることを誰に伝えるか。”です。“良いアドバイスやサポートをしてくれそうな人たちに伝えておくのは良いことです。(格 15:22)例えば,家族や信頼できる友人や長老たちが助けになってくれるかもしれません。”とあります。」
「監視役を頼まなくてはいけないようだからね。秘密にはできないよね。JWにはプライバシーはない。」

「10節は②“付き合っている間もどうすればエホバに喜ばれる行動ができるか。”です。具体的には“お酒を飲み過ぎたり,2人きりになったり,不道徳な内容の会話をしたりしないようにしましょう。”とあります。」
「こんなアドバイスをするということは、組織は信者を10歳の子ども程度の人間とみているね。JWは子どもっぽい未熟な愚か者の集まりということね。」

「11節で“付き合い始めて早いうちにエホバの基準について話し合い,愛情の表現の限度をはっきり決めておくようにしましょう。”とあります。脚注には“相手の性器を刺激することは性的不道徳に含まれ,会衆の長老たちは審理処置を取る必要があります。胸を触ることや,メッセージや電話で性的に不道徳な内容の会話をすることも,状況によっては審理処置が必要になります。”とあります。性器と胸以外は問題なしということですか?これがエホバの基準?」
「英文ではBible principlesと言っている。聖書の原則だって。翻訳者は聖書の原則とJWのルールがあまり関連しないことを知っているので、エホバの基準とあいまいな表現に変えたのだろう。」

「JWの男女はみな、エホバの基準なるものに従っているのですか?そんなことないでしょう。」
「従っている人もいるし、いない人もいるだろうね。愛情表現なるものがどうしても過度になる人はいるよね。JWという組織は間抜けな人間が運営している組織だから、エホバの基準から大いに外れてもうまく隠し通すことはできる。そんな人でも、今では長老あるいは開拓者として立派に奉仕しています、ということもあるでしょう。」

「12節が③“意見が合わない場合どうすればいいか。”です。“もし自分にとってその人はふさわしくないと気付いたなら,別れるのが2人にとって一番良い場合もあります。”と言っています。意見の合わない人と無理に結婚しなくていいよということですね。」
「意見の合わないのに無理に結婚した夫婦がJWに多いということだろう。選択肢が少ないと、どうしてもそういうことは起こりやすい。」

「13節が④“どれくらいの期間付き合えばいいか。”です。“関係が深まると,性的な衝動を抑えにくくなるかもしれません。(コリ一 7:9)”とあります。引照聖句には“しかし,自制できないなら,結婚しなさい。情欲に燃えるよりは結婚する方がよいからです。”というものです。JWの結婚に多いケースじゃないですか?」
「JWだと、半年の交際で、若くして結婚するのが普通の国も結構ある。排斥を避けるためだね。そして若くして離婚する。」

「14から16節が“周りの人はどのようにサポートできるか”です。 JWの大半を占める老人はここから参加ですね。14節で“食事や遊びや家族の崇拝に誘うことができます。(中略)ほかにも,付き添いをしたり,車に同乗したり,家に呼んで2人がゆっくり話せるようにしてあげたりすることもできます。”とあります。監視を怠るな、という指示ですね。」
「二人がイケナイことをしていたら密告しろとは書いていないのは、そういう場合喜んで密告するのが大半のJWだからだよね。」

「15節では“周りの人は,付き合っている2人についてうわさしたり,個人的な事柄について批判したりすべきではありません。”とあります。また“結婚しないといけないというプレッシャーを掛けるようなことを言ったり聞いたりすべきでもありません。”とあります。でも噂はJWの主な娯楽ですから。特に男女の間の噂は。」
「特に独身の婚期を逃した女性JWは面白くないだろう。素直に祝福するほど性格のいい人はJWに少ないから、悪意のあるうわさが飛び交うことになる。」

「16節では“もし2人が別れることにしたなら,詮索したり,どちらかの肩を持ったりしないように気を付けましょう。”とあります。いろいろ詮索するのがJWの習慣です。単純な白黒思考ですから、片方を悪者にして攻撃するのもJWの習慣です。」
「別れることにしたら、どちらかが会衆を移動することになるだろう。移動先で新しい相手を探すわけだ。」

「16節では“傷ついた気持ちを引きずったり寂しく思ったりするかもしれません。それで,周りの人は優しくサポートしてあげましょう。”と言っています。これは珍しいです。他人の気持ちに鈍感なのがJWですから。」
「JWの関係は宗教ビジネスの社員のようなものだからね。仲間を思いやるとかサポートするということはほとんど強調されない。大事なのは自分がどれくらい伝道したとか、どんな特権があるかということ。」

「JWは結婚相手には向いていないということですね。」
「まず結婚を避けるべき人といえば、JWというのは常識でしょう。」

#1527 2024年08月16日 14:28:40

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバからの素晴らしい招待(23)”で、とにかくJWという組織に留まりなさい、という内容です。」
「そんなことを言わなくても、JWの多くは老人で、今から生き方を変えるのは難しいから、残念だけど惰性でJWを続けるよ。」

「詩編15:1の“エホバ,あなたの天幕にとどまるのは誰ですか。あなたの聖なる山に住むのは誰ですか。”と言う聖句についての記事なのですが、訳に問題がありますよね。」
「元の英文はO Jehovah, who may be a guest in your tent?で、エホバ、誰があなたのテントの客となるのでしょう?だよ。”客 guest”がキーワードなのに、この単語を使わないところをみると、翻訳者はこの詩を全く理解していないね。」

「古代中東において、旅人を客として暖かく迎え、保護するということは重要なことだったわけですよね。この詩は神と人間の関係を主人-客関係に見立てて、創作されたものです。」
「この詩がどのように使われたのかについては幾つかの説があって、その一つはエルサレムに巡礼に来た人が聖なる場所に入場する際の儀式に使われたというもの。もしそれが正しいとなると、“聖なる山”が出てくるので、シオン山への巡礼が盛んになった時代の詩だろう。」

「2節に” この言葉から,エホバが私たちを友として天幕に招いてくれていることが分かります。”とありますが、友ではなく客ですよ。神に客として迎え入れられ、保護ともてなしを受けて、聖なる場所に住むのにふさわしい人は誰ですか?と問いかけている詩ですね。」
「JWの神学では“エホバは友達”のようだけど、聖書的じゃないね。神の友とはっきり書かれているのはアブラハムだけ。」

「友といっても、現代とかなり違う存在じゃないですか?」
「聖書には友達関係はほとんど出てこないので、どのような人を友と呼んだのかははっきりしない。列王一4:5に“ナタンの子アザリヤは代官たちをまとめ,ナタンの子ザブドは祭司であり王の友人だった。”とあるけれど、“王の友人”とは王に助言する人を指すわけで、現代なら友とは呼ばない。創世記26:26に“その後,アビメレクがゲラルからイサクの所にやって来た。相談役のアフザトと軍隊の長フィコルが一緒だった。”とあるけれど、ここで“相談役”と訳されているのが“友”と訳されているのと同じ単語。」

「3から5節が“エホバはご自分の天幕に私たちを招いている”です。 エホバはイエス、天使、人間を招いたと言っています。」
「3節に“招かれたイエスも「いつも神の前で喜ん」でいました。(格 8:30)”とあるのはいただけないね。格言8章は8:1で“知恵が呼び掛けていないだろうか。”とあるように、知恵を擬人化して、知恵の重要性を述べている部分。知恵は女性名詞なので、女性として擬人化されている。ギリシャ語ではソフィア。」

「それが新約になると知恵がイエスと見なされ始めるわけですか?」
「ルカ7:33-35に“同じように皆さんは,バプテストのヨハネが来てパンを食べたりぶどう酒を飲んだりしないと,『彼は邪悪な天使に取りつかれている』と言い,人の子が来て食べたり飲んだりすると,『見ろ,大食いで,大酒飲みの男,徴税人や罪人たちの仲間だ!』と言います。しかし,知恵は結果によって明らかになります。”とある。最後の部分がJWらしいテキトウ訳で、元の英文は  wisdom is proved righteous by all its children.(知恵はその全ての子どもたちによって正しいと証明されます。)というもの。“知恵の子どもたち”とは誰かというと、バプテストのヨハネとイエスだと、解釈される。イエス=知恵ではないね。」

「ルカ7:33-35の並行記事であるマタイ11:19では“しかし,知恵は行動によって明らかになります”となっています。これだとイエスの行動=知恵の行動で、イエスと知恵の一体化が進んでいますよ。」
「イエスはどのような存在かについては新約聖書の段階では教義としてまだ整理されていなくて、多様なキリスト論があったということ。イエスを神の知恵の受肉と考える知恵キリスト論の萌芽は見られるね。」

「5節に“エホバは長い間ずっとご自分の天幕に友を招いてきました。(エゼキエル 37:26,27を読む。) エゼキエルの預言から,ご自分に仕える人たちと親しくなりたいというエホバの温かい気持ちが分かります。”とありますが、ここには“私は彼らと平和の契約を結ぶ。”とありまして、契約の話ですよ。温かい気持ちはわかりません。」
「ここで言う“彼ら”とはイスラエル人のこと。JWとは関係ないよ。」

「5節には“この預言は,天に行く希望を持つ人たちと地球で生きる希望を持つ人たちが「1つの群れ」になってエホバの天幕に集まる時のことを言っています。(ヨハ 10:16)これは,今実現しています。”とあります。エゼキエルの預言が今JWにおいて実現しているとは知りませんでした。」
「こんなバカなことをだれが言い出したのかな?JWのたわごとだね。ヨハネ4章ではイエスがサマリアの女性と会話するけれど、その中で“いいですか。あなた方がこの山でもエルサレムでもない所で天の父を崇拝する時が来ます。”と聖なる山とか神の天幕という思想そのものを否定しているよ。」

「6,7節が“エホバは私たちがどこにいても大切にしてくださる”です。 ここからが本論ですね。どこにいてもJWならエホバの天幕にいると言っています。それから死んだ人もエホバの天幕に留まっているのだそうです。」
「7節で、死んだ人も“エホバの記憶の中では生きているからです。”と説明している。でも死者は神の記憶の中で生きていると聖書のどこにも書いていないし、記憶されている=生きているなんている公式は成立しない。JW独自の奇妙な神学だね。」

「8,9節は“エホバがしてくれることと私たちがすべきこと”です。 エホバの天幕にいると保護されるようですね。8節に“エホバの天幕の中にいれば,エホバとの絆を傷つけようとしたり希望を失わせようとしたりするものから守られます。”とあります。つまり貧困や暴力、病気等々からは守られないということですね。」
「英文では spiritual harm and hopelessness(霊的な害や絶望)から守ってくれると言っている。日本語翻訳者は霊がきらいなので、霊を使わずにテキトウに訳するわけだけど、たいした保護は与えられないようだね。」

「しかもその保護も条件付きです。エホバに服従しなければなりません。」
「それをはっきり書かないところがズルいね。9節で“誰かの家に招かれた場合,その家の人の失礼にならないようにしたいと思うでしょう。もし家の人が家に入る前に靴を脱いでほしいと思っているなら,喜んでそうするはずです。同じように,エホバの天幕にとどまりたいなら,エホバがどんなことを望んでいるかをぜひ知りたいと思うことでしょう。”とある。」

「エホバが何を望んで、何を望んでいないかを判断できるのはニューヨークにいる統治体の老人だけというのが、JWの教義ですよ。要するに統治体の言いなりになりなさいということですね。」
「統治体の老人によると、エホバは誕生日は祝わないで欲しいと望んでいるわけだね。少し前まではあごひげや女性のスラックスは望んでいなかったけれど、気が変わったというわけだ。それから伝道者の奉仕時間の報告も以前は望んでいたけれど、それも気が変わったようだね。」

「10から12節が“エホバはイスラエル人を公平に扱った”です。 出エジプト後の荒野での話が出てきます。12節に“例えば,エホバはイスラエル全体が幕屋の上にあった雲の柱や火の柱を見ることができるようにしました。(出エジプト記 40:38を読む。)”とあります。これがエホバが公平であることの根拠の主なものですね。“幕屋からの距離はエホバとの友情の深さを示すものではありませんでした。イスラエル国民の全てがエホバの天幕に招かれていて,エホバが自分たちを導いて保護してくださっていることを感じることができました。”とあります。」
「全く納得できないね。10節に“幕屋で奉仕するよう祭司たちを任命しました。また,レビ族の人たちに幕屋に関する仕事を割り当てました。でもエホバは,幕屋で奉仕していた人や,その近くに宿営を張っていた人を特別扱いしたりしませんでした。”とあるけれど、エホバのルールでは重要な宗教上の仕事をするのは特定の家系の人間に限定している。これを公平とはいわない。出自による差別という。それなのにエホバは公平というJWの倫理観は狂っている。」

「レビ21:16-18では“エホバは続けてモーセに言った。 「アロンにこう告げなさい。『代々,あなたの子孫で体に障害がある人は誰も,神のパンを捧げるために近づいてはならない。 体に障害がある人がいるなら,その人は近づいてはならない。”とあります。障害のある人を公平に扱うどころか、滅茶苦茶差別しています。」
「でも、寄付は貧しい人も裕福な人も公平なんだよ。出エジプト30:14,15に“20歳以上の登録された人は皆,エホバへの寄進をする。自分の命のための贖罪としてエホバへの寄進をする時,裕福な人も5.7グラムより多く納めるべきではなく,貧しい人もそれより少なく納めるべきではない。”とある。でもこれは別な見方をするとひどく不公平だね。裕福な人にやさしく、貧しい人に厳しい。」

「そもそも出エジプトや40年間の荒野の放浪の史実性はありません。」
「イスラエル民族成立の神話だね。それを実際あったかのようにいつまでも信者に教えるのはサギだね。」

「14節で“エホバが公平な方であることは,聖書を世界中の人に読めるようにしていることからも分かります。”とありますが、世界のさまざまな言語に翻訳されたのは、ここ100年ほどのことじゃないですか?」
「しかも、その翻訳はJWがサタンの支配下にあるとするキリスト教関係者によるものでしょう。それもエホバがやらせたと主張するのかな?」

「JWも翻訳していますが、1950年から開始して、1冊にまとめて出版されたのが1961年です。聖書全ての日本語訳が出たのは1982年です。しかも日本語訳は英語を訳しただけ。翻訳の誤りもたくさんあります。エホバの仕事は遅いし、いい加減ということですね。」
「エホバは英語をとりわけひいきにしている点で公平じゃないね。」

「15節には“高い教育を受けていたり,聖書の原語に関する知識を持っていたりしなくても,エホバの友達になることができます。”とあります。反高等教育の反知性主義の宗教ですから、当然の主張ですよ。」
「“高い教育を受けていたり,聖書の原語に関する知識を持っていたり”すると、JWのおかしな教義や翻訳に気づきやすいからね。騙されやすい無知無学な人が理想のJW。」

「最後の16,17節が“エホバの天幕にとどまる”です。 16節に“エホバの天幕に迎え入れていただけるのは本当に素晴らしいことです。”とありますが、具体的にどう素晴らしいのかわかりませんでしたね。」
「エホバの良い便りを無給で人々に伝える素晴らしい特権が与えられますとか、エホバへの清い崇拝を行う王国会館の建設に無給で携わるという素晴らしい特権が与えられます、などと具体的に書いて欲しかったね。」

「17節には“次の記事では,ずっとエホバの友でいるために何をする必要があるか,具体的に考えます。”とあります。信者にいろいろな要求が突きつけられるようです。」
「最初にうまいことを言ってその気にさせてから、その後にいろいろ要求事項を並べるのは詐欺的な勧誘方法の典型だ。最初からなぜ言わないのかな。」

#1528 2024年08月23日 13:42:10

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#1529 2024年08月27日 13:57:24

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#1530 2024年08月30日 15:28:17

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバは「生きている神」(25)”で、エホバは生きている神なので信頼して、苦労に耐えろ、という内容です。」
「エホバは生きているけれど、信者が苦労しないようにはしてくれないのね。JWに求められることは服従と忍耐のふたつだね。」

「1節は“聖書は今の時代を「困難で危機的な時」と表現しています。(テモ二 3:1)”と始まります。今は終わりの時代ということのようです。」
「引照聖句には“終わりの時代は困難で危機的な時になります。”とあるけれど、誤訳だろう。元のギリシャ語はchaleposとあるだけで、“困難な”と訳すべき。それなのに“困難で危機的な”と勝手に言葉を付け加えている。JWにとってはその方が都合がよいからだね。」

「いつの時代も困難はありますから、この聖句はいつの時代にも適用可能です。」
「しかし、現代は人類史上最も困難が少ない時代。終わりの時は遠のいたようだね。」

「JWはそんなことは認めません。今は歴史上もっとも困難で危機的な時代とかたくなに信じています。」
「19世紀まで世界の平均寿命は30歳前後と推定されている。これは30歳ごろ死ぬということではなくて、乳幼児死亡率が非常に高いので平均すると30歳前後になるという意味。現在は72歳くらい。」

「世界の平均寿命が延びたのは乳幼児死亡率が大きく減ったことが大きな原因ということですね。」
「統計があるスウェーデンだと、19世紀では子どもの4人に1人が5歳までに死亡した。今は千人に1人以下に減少。子どもの死は大変な悲しみをもたらすもの。子どもが死ななくなった現在は悲しみも困難が減ったのはまちがいないでしょう。」

「3節に“その祈りが聞かれてエホバに助け出された後,「エホバは生きている」と言いました。(詩 18:46)ここでダビデは,単にエホバが存在していると言っていたわけではありません。ある文献によると,ダビデはエホバについて,「ご自分に仕える人たちのためにいつでも行動する生きている神」であるという確信を言い表していました。”とあります。いつもの不正引用です。」
「これは恐らくUnited Bible SocietiesのTIPSというサイトからとってきたものでしょう。Translation commentary on 2 Samuel 22:47のなかに“The LORD lives is a cry of confidence in Yahweh as a living God who constantly acts on behalf of his people.”(主は生きておられるということは、常に彼の民のために行動してくださる生ける神であるヤハウェに対する信頼の叫びです。)と説明してある。」

「JWには聖書の専門家はいないので、日ごろサタンの手先と誹謗中傷しているキリスト教関係者の知恵を勝手に拝借しているわけですね。」
「それで引用元をいつも隠す。」

「5から9節が“生きている神エホバは力づけてくれる”です。 5節に“エホバは全能者で,私たちに忍耐する力を与えることができます。(フィリピ 4:13を読む。)”とありあす。引照聖句には“力を与えてくださる方のおかげで,私は強くなり,どんなことも乗り越えられます。”とあります。」
「パウロはそうだったということでしょう。それがすべての人に当てはまるかどうかは何も言っていない。」

「“どんなことも乗り越えられます”と聖書に書いていますか?単に強くなると言っているだけじゃないですか?」
「そこで使われている単語はendunamoóだけ。意味は“強くなる”。元の英文ではgives me power。それを翻訳者が“ 強くなり,どんなことも乗り越えられます”と勝手に意味を膨らませた。」

「ここで言う“力を与えてくださる方”と言うのはエホバではなくて、キリストじゃないですか?」
「普通はそう考えるね。テモテ一1:12に“私は,力を授けてくださった主であるキリスト・イエスに感謝しています。”とほぼ同じ表現があるけれど、そこではキリスト・イエスとはっきり書かれている。しかし、JWはエホバ教なのでイエスは抹殺する。」

「6節に“ダビデがエホバへの確信を深めた出来事について考えてみましょう。”とあり、まずダビデがクマやライオンから羊を守ったという話が出てきます。7節では、ゴリアテを倒した話が出てきます。こんな話に史実性はありませんよ。」
「ダビデは素手でクマやライオンを倒したようだけど、古代人の好きな誇張表現でしょう。ゴリアテについてはサムエル記で詳しく書かれているので、時代錯誤的な描写ということがよくわかる。後代の創作だね。」

「8節で“私たちも,生きている神エホバがいつでも助けてくれることを覚えているなら,試練を忍耐できます。”とあります。ダビデの話を覚えていても、試練を忍耐できませんよ。それからエホバはいつでも助けてくれません。」
「元の英文には“いつでも助けてくれる”なんて書いていない。The living God is ready to assist us(生ける神は私たちを助けるのを厭いません)とあるだけ。直訳すれば助ける準備をしています。“いつでも助けてくれる”はいつもの翻訳者の誇張だね。誇張していた方がカルトらしいけれどね。」

「8節では“エホバは私たちのためにいろいろなことをしてくださっています。ご自分の友になるよう引き寄せてくださいました。”とあります。エホバがJWになるよう人々を引き寄せてくれたというウソ話がまたもや登場です。」
「JWの多くはJWの子どもたちで、引き寄せられたわけじゃない。引き寄せられた人はたいてい精神的に落ち込んでいたり、生活上の困難を抱えていた人じゃないの。」

「9節が笑えます。“エホバを生きている現実の存在と見ることは,試練に対する正しい見方を持つ上で助けになります。自分が経験している問題を,エホバと悪魔サタンが関わる大きな問題の一部と見ることができます。”とあります。これは“試練に対する正しい見方”ではなく、カルト的妄想です。」
「JWの試練とは、具体的に何なの?9節の上には刑務所に入れられた人と思われる写真があるけれど、JWゆえに刑務所に入っている人は、性犯罪などの犯罪で刑務所に入っているJWより少ないでしょう。」

「9節では“サタンは私たちについて,つらい経験をするとエホバから離れるだろうと主張しています。(ヨブ 1:10,11。格言 27:11を読む。) 私たちが試練に遭ってもエホバから離れないなら,エホバを愛していることを証明し,サタンがうそつきであることを明らかにできます。”とあります。JWにそんな任務が課せられているなんて、聖書のどこにも書いていません。信者をこき使うための創作ですよ。」
「読むように指定されている格言27:11には“わが子よ,賢くあって,私の心を喜ばせよ。私をあざける者に私が答えるためである。”と書かれている。サタンとは無関係だね。ここで求められているのは、賢くなることで、“サタンがうそつきであることを明らかに”することじゃないよ。」

「これはJWが好きな聖句ですが、先生が弟子に向かって言っているものです。」
「ここで言う“あざける者”はもちろんサタンではない。“あざける”より“非難する”でしょう。弟子の出来が悪いと、先生が非難されるわけだよ。だから弟子に賢くあれといっている。それだけだよ。」

「9節では“エホバは私たちが耐えられないほどの試練を受けるままには決してされません。(コリ一 10:13)”とあるのですが、引照聖句は“皆さんが耐えられないほど誘惑を受けるままにはしません”です。試練と誘惑は違います。」
「そういう細かなことは無視して、聖書を読むのがJW流なんでしょう。」

「10から13節が“生きている神エホバは報いを与えてくれる”です。 エホバのご利益についてです。10節には“私たちに今穏やかな心や満足感を与え,将来,永遠の命を与えてくれます。”、そして“そう考えると,一生懸命エホバに仕えたいと思うようになります。”とあります。利益誘導されて、エホバに仕える気になるようです。」
「利益誘導しているのは不完全で霊感も受けていない組織だよ。そんな組織に無給で仕えたい気にはならないでしょう。」

「11節にはテモテの話が出てきて、12節は長老に対する勧告です。“そのような仕事を行っている長老たちは,会衆を人間のつくった組織とではなくエホバのものと見ています。それで,エホバが必ず報いてくれることを確信し,全力を尽くして奉仕を行います。”とあります。会衆はどうみても人間が創った人間的な組織ですよ。」
「こういう風に現実をゆがめて、偽情報を信じさせるのは一種の精神的虐待だね。会衆を任されたまじめな長老は会衆はエホバのものと思い込まされ、全力で奉仕しなければならないと考える。会衆に何か問題が起こると、神から罰せられるとさえ思うようになる。そうなると、たいていは疲れ果て、追い詰められ、精神的に病んでいく。」

「13節が平信者への勧告です。“少額であってもエホバの証人の活動のために寄付をする時,目を留めてくださいます。人前で話すのが苦手でも手を挙げてコメントしようと努力する時,喜んでくれます。いらいらさせられてもそれを見過ごして許そうとする時もそうです。”とあります。寄付、コメント、許しが平信者に求められることのようです。」
「寄付が最初に来るのがいいね。でもコメントするとエホバが喜ぶなんて、聖書のどこに書いてあるの?」

「訳にも問題がありますよ。“いらいらさせられてもそれを見過ごして許そう”とありますが違いますよ。」
「元の英文は we overlook an offense and extend forgiveness.で、offenceは攻撃、犯罪という意味で、イライラさせられるというような気分を害されることではない。JWは会衆内の犯罪は見過ごすという事なかれ主義を変えるつもりはないね。」

「14から17節が“生きている神エホバから決して離れない”です。 信者に対する要求事項が並びます。14節ではヨセフが取り上げられ、いつものことですが、“ヨセフは,性的に不道徳なことをきっぱり避けました。”とほめられます。」
「ヨセフが最初に取り上げられるとは、JWの倫理観では性的な不品行は殺人よりも重大な悪のようだね。」

「殺人を犯すJWは滅多にいませんが、性的な問題を起こすJWはたくさんいるということじゃないですか?」
「性的な問題など、当事者以外は関係ないわけで、私たちは不完全なんだから、許しましょうと言えば済む話なのに、排斥の対象とするからこれほど重視せざるをえなくなる。」

「15節は“ヘブライ 3:12を読む。”とあり、そこには“兄弟たち,皆さんの誰も,生きている神から離れて,信仰が欠けた悪い心を育てることがないよう,気を付けてください。”とあります。“生きている神”が出てくる聖句を集めたという感じですね。」
「これが単なる“神”だったら、とりあげられなかったね。」

「16節では“神の存在を認めない人が大勢います。”とありますが、そんなことありませんよ。」
「2017年に、68カ国を対象に行ったギャラップ・インターナショナルの調査によると、世界人口の71%が神を信じている。無神論者は少数派だよ。JWの記事は全く事実に反する思い込みがけっこうある。」

「16節では“神の基準を無視している人たちが人生を楽しんでいるように見えることがあるかもしれません。”とありますが、ここで言う“神の基準”とはなんですか?誕生日を祝うなとか、子どもが輸血が必要な時でも輸血を拒否して死なせるとか、排斥されたら親子でも縁を切るとか、高等教育はダメとか、そんなことですか?」
「そんなことでしょうね。そういう基準を無視したほうが人生うまくいくよ。組織もそれがわかっているから、神の基準をよく変える。」

「17節は詩編73を取り上げています。“詩編作者はどのようにして正しい見方を取り戻すことができたでしょうか。エホバを忘れて離れていく人たちがどうなるかをじっくり考えました。(詩 73:18,19,27)そして,神に仕えることがどれほどためになるかを考えました。(詩 73:24)”とあります。詩編73は格言のような知恵文学の詩ですね。」
「この詩の思想は、悪は繫栄しているようだけれども、それは一時的なものでやがて滅び、神と共にある者こそ幸いである、というもの。このような思想はよくあるものだけど、事実に反する。」

「伝道の書7:15には“私はむなしい生涯の間に全てを見た。正しい人が,正しいことを行っていても死んでいき,悪人が,悪いことを行うにもかかわらず長生きする。”とあります。8:14には“正しい人が,悪を行ったかのように扱われ,悪人が,正しいことを行ったかのように扱われている。”とあります。これが現実ですよ。」
「正しい行いをすれば報われる、という考えを拒否しているのが伝道の書の作者だね。通俗的道徳をまき散らす格言の後の時代に書かれたものということがわかる。」

「最後の18節に“終わりの時代にどんなことが起きるとしても,心配は要りません。私たちは「生きている真の神に仕え」ているからです。”とありますが、これも事実に反します。JWが仕えているのは生きている統治体ですよ。統治体がヒゲはダメ、ネクタイを締めよ、と言うと聖書的な根拠は何もなくても従い、統治体がヒゲはいいよ、ネクタイも締めなくていいよ、というと疑問も持たずにまた従う。生きている神とは関係ないです。」
「それにJWは心配だらけでしょう。家賃をどうするかとか、食費をどうするかとか、病院代をどうするかとか、車の修理代をどうするかとか、心配事は尽きないけれど、組織は何もしてくれない。」

「18節には終末カルトらしいことが出ています。“間もなく,これまで経験したことのない大患難が起きます。”と力強く宣言しています。間もなくって、150年近く言い続けるところがすごいです。」
「大患難とかハルマゲドンとか地上の楽園とか永遠の命とかはJWという宗教のセールスポイントなのだから、毎週1回は必ず取り上げて、信者の気持ちを盛り上げて欲しいね。」

#1531 2024年09月06日 14:23:18

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#1532 2024年09月13日 14:36:25

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“ザドクのように勇敢な人になる(27)”で、ザドクと無関係なJWにザドクを見倣えと言って、あれこれ要求するという内容です。」
「ザドクなんて誰も知らないし、知る必要もないね。豆知識としては、新約聖書に出てくるサドカイ派という名称は祭司の中で主流になったザドクに由来する。」

「ザドクはソロモン王に油注いだ人として知られていますよ。」
「ヘンデルの曲に“祭司ザドク”があって、イギリスの戴冠式で用いられる。歌詞は”司祭ザドクと預言者ナタンはソロモン王を聖別せり。/諸人すべてこれを祝賀して曰く、/神よ王を護り給へ!王に長寿あれ!/王の末永からむことを、/アーメン、アレルヤ。”というもの。それでザドクと言えばソロモンに油の人というわけだね。」

「ザドクはダビデ、ソロモンの時代にうまく立ち回って権力者になり、その子孫もユダヤ社会の支配階級の一員として続いたということですね。」
「ザドクに倣うとしたら、権力闘争では勝つ方に着け、ということかな。」

「1節で、“歴代第一 12:22,26-28を読む。”とあるのですが、そこには“強くて勇敢な若者ザドクとその氏族の22人の長”とあります。ザドクがその氏族の中で唯一名前を挙げられているということはリーダー的存在ということじゃないですか?」
「訳に問題があるね。この訳ではザドクは勇気だけはある若造にしか思えない。協会共同訳では“若く力ある勇士ツァドク”で、ザドクが戦士となっている。ここはダビデのために集まった兵士を列挙している所なので、単なる若者ではなく戦士で、指揮官クラスの人ということでしょう。」

「でも、ザドクは別の所では祭司です。」
「それと矛盾しないようにJW訳では“強くて勇敢な若者ザドク”と訳したのだろう。」

「ザドクは正体不明ですよ。サムエル二8:17には“アヒトブの子ザドクとアビヤタルの子アヒメレクは祭司”とあり、アヒトブはザドクの父ですが、サムエル一22:20では“アヒトブの子アヒメレクの息子の1人,アビヤタルが逃れ”とあり、アヒトブはアヒメレクの父です。アビヤタルはアヒメレクの父ではなく息子になっています。」
「サムエル一22:9でも“アヒトブの子アヒメレクの所に来るのを見ました。”とあり、アヒトブはアヒメレクの父。サムエル二8:17だけが、アヒトブをザドクの父としている。本当はザドクの父は知られていないのだろう。ダビデ王国の初期メンバーは父親の名前がない人が多い。素性のはっきりしない山賊のような集団が武力によって権力を奪取したのだろう。」

「歴代誌6章にある系図ではザドクの父はアヒトブになっています。」
「これはサムエル二8:17にあることを採用し、他の箇所のことは無視したからだろう。」

「ダビデの仲間は、ベナヤ、ヨアブ、ヨシャファト、セラヤ、ウリヤ、ヨナタンといった名前で、エホバの本当の名前であるヤハウエの要素を含むヤハウエ系の名前なのに、祭司とされるザドク、アヒメレクは違います。違う宗教の人じゃないですか?」
「ザドクはダビデが占領した土着の神をまつるエルサレムの神殿の祭司で、ダビデの宗教とは違うけれど、エルサレムという重要都市の住人の支持を得るためにそのまま祭司職を認めたのではないか、という推測が昔からなされている。ヨシュア記10:1に“エルサレムのアドニ・ツェデク王は”とあり、ダビデの時代のはるか昔に、エルサレムではザドクと似た名前の王がいたことがわかる。ザドクという名前はダビデたちとは違う集団に属する人間の名前でしょう。」

「2節で、ザドクは“神の意志を認識できる予見者でもあり,普通を超えた洞察力を神から与えられていました。(サム二 15:27)”とあるのですが、ザドクは予見者ですか?」
「引照聖句には“王は祭司ザドクに言った。「あなたは予見者ですね。気を付けて都市に戻りなさい。”とあるけれど、誤訳でしょう。意味が通らない。予見者にむかって、気をつけて帰ってね、なんて言う必要がないよ。聖書にはザドクが予見者としての能力を発揮したなんてことも描かれていない。」

「協会共同訳では“王は祭司ツァドクに向かって言葉を続けた。「分かったか。・・・”とありますね。」
「元のヘブライ語があいまいなの。貴重な神の言葉を伝えるのになぜ神はヘブライ語を選んだのか、不思議だね。JW訳のようにしている訳は他にもあるけれど、予見者(seer)ではなく、わかった(see)という意味の方が文脈にあっている。」

「4から7節が“神の王国を支持する”です。 王国を支持するためには、“この邪悪な世界でエホバの基準に従って生活し,王国の良い知らせを 伝える”、また“政治的な対立や分断が進む中で中立でいる”ことが必要なようです。そのためには勇気がいるということですね。」
「それって王国を支持しているのではなく、ニューヨークにいる統治体を支持しているだけだよ。この記事では神の王国=統治体。」

「5、6節はザドクのことです。“武具を身に着け,戦いのための用意をしてきていました。”とあり、“祭司だったザドクが勇気を示せたのはどうしてでしょうか。ザドクは,周りにいた強くて勇敢な人たちの手本から学んだに違いありません。”と言っていますが、ご都合主義的な単なる推測です。ザドクは戦士ですよ。」
「JWの主要な教えのひとつに、周囲のJWのまねをしろ、というのがある。それに一致するように、聖書の中の模範的な人物は全員周囲の人から学んだと決めつけるわけだ。」

「7節が今のJWの話で、“今の時代,大勢の若者の手本もあります。良心的に兵役を拒否した人たちや,政治活動に全く関わらないことにした人たちです。”とあります。ザドクの例と真逆じゃないですか?」
「ザドクは戦争の準備をし、政治という権力闘争に深くかかわって、うまくやった人だよ。兵役拒否や政治活動拒否の若者はJWというカルト信者のお手本に過ぎない。」

「聖書は兵役拒否を勧めていませんよ。」
「マルコ15:39に“イエスを前にして立っていた士官は,このようにしてイエスが息を引き取ったのを見て,「確かにこの人は神の子だった」と言った。”とある。イエスとは何者かということを最初に理解した異邦人は軍人だったという設定。軍人を差別したり、嫌ったりするという思想は聖書にないよ。」

「聖書は平和主義だといって、イザヤ2:4の“彼らは剣をすきに,やりを鎌に作り替える。国は国に向かって剣を振り上げず,彼らはもはや戦いを学ばない。”を引用しますが、これは聖書の思想の中心ではありません。」
「全く逆のことを言っている部分もある。ヨエル3:9,10では“国々にこう知らせよ。『戦いの準備をせよ! 戦士たちを奮い立たせよ!全兵士が進軍し,攻撃せよ!  あなた方のすきを剣に,鎌をやりに作り替えよ。”とある。好きな方を引用していいね。」

「8から13節が“兄弟姉妹を助ける”です。 信者同士お互い助け合え、と言っています。8節では“戦争”を想定しているようです。“長老たちはエホバの羊である兄弟姉妹を愛しているので,仲間が何を必要としているのか気付き,たとえ危険があるとしても仲間のために行動します。”とあります。無給の長老にこんなことが要求されるなら、早く長老をやめた方がいいですね。」
「危機意識をあおっているだけ。そんなに危険なら、せめて生命保険の掛け金を組織が負担すべきだよ。危険手当もなしに社員に危険を冒せという会社があったら、そんな会社はすぐやめるよ。」

「9節がザドクの話です。アブサロムがクーデターを起こした時、“ダビデはその後もアブサロムの計画について知るために誰かに残ってもらう必要があることに気付きます。それで,情報を収集させるため,ザドクとほかの祭司たちを都市に戻らせました。”とあります。“命を失いかねない危険な任務 ”とあり、非常に危険で勇気が必要だったと推測しています。」
「ザドクにとって、ダビデの命令を断る方が勇気がいるよ。断ったら、アブサロムに通じていると思われ、ダビデに殺される。」

「ザドクはスパイとして活動するわけですが、これを称賛しているのはどうですか?」
「カルトは信者に相互にスパイしあうように求めるもの。JWではスパイ活動は称賛されこそすれ、非難されることはない。」

「10節はフシャイが出てきます。フシャイは工作員です。フシャイはダビデを裏切ってきましたと言って、アブサロムの家来になります。フシャイはわざと間違ったアドバイスをし、“その後,フシャイは事がどのように進んでいるかをザドクとアビヤタルに伝えます。”とあります。聖書の世界は権謀術数が飛び交う汚い世界ですね。」
「“エホバの助けによって,ザドクと仲間の祭司たちはダビデの命を守る上で大切な役割を果たすことができました。”と無邪気に言っているけれど、エホバって実に汚い手を使う神様ということになる。愛と正義の神なら別な助け方をするはず。」

「11節は今のJWに向けてです。これまでの話とほとんど関連しませんが、これがこの記事で一番言いたいことでしょう。3つの指示が出ています。(1)指示に従う。(2)勇気を持ちつつも注意深くある。(3)エホバに頼る。」
「エホバが3番目というのが問題だね。エホバが何の役にも立たないといっているようなもの。最初に出てくるのは“支部事務所の指示に沿って行動しましょう。”だね。エホバよりも支部の偉い人が優先される。」

「12、13節がウクライナでの体験談です。12節には“ウクライナのビクトル兄弟とビタリー兄弟は,仲間の兄弟たちに食べ物や水を届けるために働きました。”とあり、とても勇気が必要だったようです。」
「英文では“their fellow believers”だから“仲間の信者たち”で、“兄弟たち”じゃないよ。13節では“兄弟姉妹”とあるのにへんだね。それからhumanitarian aid(人道支援物資)を“救援物資”と訳しているのもいただけないね。」

「人道支援物資と訳すると、それはJW以外の団体や国が提供してくれたものと日本の信者にわかるからじゃないですか?お互い助け合うはずなのに、必要な物はJW以外からもらっていて、さらにJWはそれを仲間だけに配るという人道主義のかけらもないことをしていることがわかってしまうことがイヤなんですよ。」
「人道主義というのは、人間愛に基づいて、人種、民族、国籍にかかわりなく、人類の福祉を増進することをめざす立場だけど、JWにはJW愛はあっても、人間愛はないよね。JW以外の人間は間もなく滅ぼされて、死体は鳥の餌になると考えている。」

「14から18節が“エホバから決して離れない”です。 15,16節がザドクとアビヤタルの話で、“ザドクは,ダビデの統治の終わりごろに親しい友人であるアビヤタルが反逆した時も,エホバから決して離れませんでした。”とあります。ここではエホバ=ダビデですね。」
「ダビデの晩年、宮廷ではアドニヤ派とソロモン派に分裂して、権力闘争がおきたけれど、アビヤタルはアドニヤ派で、ザドクはソロモン派だったということ。ソロモン派が勝ったので、勝った方が自分たちに有利なように歴史を書いたというだけ。勝った方が正義の側なんてことはない。」

「16節で“ソロモンは王になった時,「祭司ザドクをアビヤタルの代わりに」大祭司に任命しました。(王一 2:35)”とあります。こうやって、ソロモンはザドクに報いたわけですね。」
「“大祭司に任命しました。”はいただけないね。引照聖句には“祭司ザドクをアビヤタルの代わりに任命した。”とあるだけ。“大祭司”と言う称号ができるのは、ずーーと後の時代で、ダビデ、ソロモンの時代に大祭司という称号はないよ。」

「英文では“大祭司”と言う言葉は出てきませんので、翻訳のミスです。」
「日本のJWだけがザドクは大祭司に任命されたと誤解するわけね。」

「17節は今のJWに対してです。“親しい人がエホバから離れたとしても,ぐらつかないようにしましょう。”とあります。エホバ=組織ですね。親しい人が組織から離れたら、一緒に離れるという選択肢も考慮すべきですよ。」
「会ったこともないニューヨークにいる統治体の老人の指示に従って、よく家族などの親しい人を捨てる気になるよね。カルトの恐ろしさがよくわかる。」

「18節は、娘たちがJWを去った夫婦の体験談です。“私が落ち込んでいる時,妻が励ましてくれました。妻が落ち込んでいる時,私が励ますことができました。エホバはそうやって夫婦で助け合えるようにしてくれています。”といっています。カルトにどっぷり漬かった夫婦で助け合っているだけで、エホバは関係ないですよ。」
「よい事はエホバのせい、悪いことはサタンのせい、という単純な二元論で生きているということだね。」

「さらに“私は,こうなってしまったのは自分のせいだという気持ちに襲われました。それで,どう感じているかをエホバに伝えました。それから数日後,何年も会えていなかった姉妹に再会しました。姉妹は私の所に来て,肩に手を置き,目を見て,『シセのせいじゃないのよ。よく頑張ったんだから』と言ってくれました。”とあります。祈ったら、友人が現れ、励ましてくれた、エホバね、というのは体験談の定番です。」
「自分の娘よりカルトを選ぶなんて、まともじゃない。少しも同情しないね。被害者ぶるのはいい加減にしろよ、と言いたい。それから英文では“よく頑張ったんだから” という部分はない。翻訳者が勝手に付け加えた。」

「カルトに狂った両親に育てられた娘の方に深く同情します。普通の親のもとに生まれたかったと、幼い時から何度も思ったはずです。」
「JWから離れて、本当の自分の人生を歩んでほしいね。JWとして無意味に生きることを考えれば、たいていの苦労は耐えられるよ。」

「最後の19節はまとめで、“エホバはご自分に仕える人たちが皆,ザドクのように勇敢な人になることを願っています。”とあります。」
「本当に勇敢な人はカルトから出る勇気を持っている人だよ。エホバはそれを望んでいるということだね。」

#1533 2024年09月17日 21:21:17

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

このあたりの物語伝承って、ハンターハンターの王位継承戦みたいな、勝ち組の視点で語られるただの骨肉の権力闘争ですよね。

ヤハウェもソロモンを選んでいたのなら、後でどうにでも創作加筆できるようなシチュエーションでひっそりこっそり伝えるんじゃなくてもっと大々的に啓示してあげれば血なまぐさい権力争いを止められたんじゃないの、くらいの読書感想文が中学生でも書けそうですが、アムノンもアブサロムもアドニヤもそんな話聞いてないよどころかそんな話があったことすら知らないのか、まったく話題にもならない様子。


第4王子(子ども何十人もいて第何王子かも知らんけど)のアドニヤが勝っていれば、実はこっそりヤハウェに選ばれていたエピソードを挿入して、アビヤタルが救国の祭司、ザドクは狡猾で卑劣な敵側の人間、て感じでしょうか。

この組織もラザフォードに始まり盾突く人間を排除して権力を握ってきた側が支配している「ごく普通の組織」ともいえるので、勝てば官軍、勝ち組につけ、という人類普遍の教訓はその通りですね。

#1534 2024年09月20日 15:58:38

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#1535 2024年09月27日 14:50:19

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#1536 2024年10月04日 14:25:30

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#1537 2024年10月04日 23:14:32

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

旧約は亡国の歴史を歴史家ではなく宗教者が事後にまとめた資料なので大抵の王は悪く書かれますよね。

ユダ王朝滅亡の流れを決定づけたとされる、ヤハウェ崇拝の宗教改革者でもあったはずのヨシヤの敗死(このあたりから旧約と古代オリエント史の整合性がほぼ取れていますが、JW歴史はエルサレム陥落をBC607にしているのでカルケミシュの戦いやらニネベ陥落やら何から何まですべて20年ずれている)も「神の口から出たネコの言葉を聞かなかった」からだと、意味不明の苦しい理由が挿入されています。

十字軍にエルサレムを奪還されてアラーの加護があるはずなのになぜキリスト教徒に負け続けるのかと問われれば、宗教者は王たちがツミブカイからだと、神が無力なのではなく指導者を悪者にするしかない、一神教の思想は同じです。

#1538 2024年10月11日 15:05:44

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“私たちを救うためにエホバがしてくれたこと(31)”で、組織の言うことに従えば永遠の命がもらえる、という内容です。」
「これは8月号だけど、公表されたのは9月号の後だった。異例の事態。予定されていた原稿にまずい点があり、その修正に時間がかかったのだろう。」

「研究34では、審理委員会を“長老委員会”に名称変更し、研究35では、排斥されたとは言わずに“除かれ”た、と変更することが書かれています。排斥と復帰に関する名称とルールの変更が8月号の主な内容です。」
「研究31から33では神は罪人を許す神と強調し、34と35で排斥と復帰の方法とを説明している。排斥はより慎重に、復帰はより簡単に、という変更のようだけど、本質は変わらない。」

「ノルウェーで排斥問題のため、政府から補助金を貰えなくなったことで、このような小手先の変更をしたわけですね。」
「組織は不当だ、金くれ、とノルウェー政府を裁判に訴えたけれど、あえなく敗訴。恐らく本部の法務部の助言に基づいて、8月号の内容を修正をしたので、公表が9月号の後になったのだろう。」

「1節は“エホバ神はあなたのことをどれほど愛していると思いますか。”で始まります。2節には“エホバは,罪深い人間がご自分と友情を築けるよう約6000年にわたって助けてくれています。 どうしてでしょうか。 私たちを愛しているからです。”とあり、エホバ=愛と強調しています。」
「エホバは大虐殺の張本人ということは忘れたわけだね。“ご自分と友情を築けるよう”は英文にはない翻訳者の勝手な追加。聖書に神と友情を築くという思想はないよ。」

「3から5節が“エホバは罪を負った人類にどのような希望を与えたか”です。 3節はエデンの園の話です。“エホバは, 2人が故意にその命令を破って罪を犯すなら死ぬことになると警告しました。 ”とありますが、正確ではありませんね。」
「正確には“善悪の知識の木の実は,食べてはならない。それを食べた日にあなたは必ず死ぬからである。”と言った。アダムはその日に死ぬことはなく900年以上も生きたことになっている。“その日に”を意図的に省略しているね。」

「3節では“邪悪な天使が,罪を犯すよう2人を誘惑しました。”とありますが、英文ではAn invisible spirit(見えない霊)です。翻訳者は霊が嫌いですからね。」
「創世記では邪悪な天使とも見えない霊とも書いていない。野生動物のヘビとあるだけ。エデンの話が書かれた頃は天使とか悪魔サタンという思想はない。それはずっと後の時代に考え出されたもの。」

「3節に“その日から2人は罪の結果として老いていき,やがて死にました。”とありますが、これも正しくありません。死んだのは命の木の実を食べ損なったからです。」
「創世3:24に“こうして神は人を追い出し,ケルブたちと,回転し続ける炎の剣とをエデンの園の東に配置して,命の木への道を守らせた。”とある。これは命の木の実を食べられないように意地悪をしているわけだけど、そんな意地悪をしたのは命の木の実を食べたら永遠に生きるからでしょう。それは絶対阻止するぞ、という神の悪意を感じるね。」

「4節に“エホバはアダムとエバの子孫の将来について思い描いていたことを諦めてしまうのではなく,愛する人間のためにすぐに希望を差し伸べました。(ローマ 8:20,21を読む。)”とあるのですが、引照聖句はそんなことを言っていません。」
「そこには“創造物はむなしい状態に置かれましたが,自分の意志でそうなったのではなく,神によってそのようにされ,同時に希望を与えられたからです。”とある。この希望とは何かというと、ローマ8:23,24では“心の中でうめきつつ,贖いによって自分の体から解放されて養子になることを一心に待っています。 私たちはこの希望を抱いて救われました。”とある。単純に言うと、キリストの犠牲によって罪から解放されるという希望だね。」

「この場合、罪というのはアダム以来の神への不服従という意味ではないですよ。」
「ローマ書でパウロは罪を2通りの意味で使っている。一つは神のルールに違反したので有罪だ、というような罪。もうひとつは、ローマ5:21に“罪が死と共に王として支配したように”とある。6:11では“同じように皆さんも,罪に関しては死んだものの”、6:18では“皆さんは罪から自由にされたので”とある。ここで言う罪は人間支配し、神に背かせるような超自然的な力のこと。死も同じで、普通の意味の死のほかに人間を支配する超自然的な力という意味で使われている。」

「ローマのクリスチャンはそういう超自然的、あるいは悪魔的な力から自由になったという意味で、罪から自由になった、罪関して死んだ、とパウロは言っているわけですね。」
「そうなんだけど、JWはそう言うことは全く理解してないよね。」

「5節では“創世記 3:15を読む。 エホバがサタンに刑を宣告した時,人類に希望の光が差し込みました。エホバは 「子孫」 と呼ばれる者が希望の鍵となることを予告しました。 ”とあります。創世3:15は“彼はあなたの頭を砕き,あなたは彼のかかとに傷を負わせる。”というものですが、これがどうして希望なのか理解できません。相互に傷つけあうといっているだけです。」
「彼とはキリストを指すと後の時代の人が解釈して、希望のメッセージと読んだというだけ。」

「善悪の木の実を食べたらその日に死ぬと言っておきながら、アダムにもエバにも違うことを言って、エデンから追放しただけです。いいかげんな神です。」
「複数の話を一つにまとめたから矛盾する話になっている。例えば、創世2:23で“これは女と呼ばれる。”と、名前を付けたのに、3:20では“アダムは妻をエバと名付けた。”と2回目の名前を付ける話が出てくる。これは2つのストーリーを一つにまとめたので、2回も名づけが行われた。アダムたちの服も、イチジクの葉で作ったという話と神が皮で服を作ったという話が2回出てくる。」

「6から8節が“罪を負っていた聖書時代の人たちは,どのようにしてエホバから正しいと認められたか”です。 最初に登場するのはアベルです。6節では“エホバはそのような犠牲を受け入れ,罪を負った人間も正しいと認められてご自分との絆を深めることができるということを示しました。”と、犠牲を捧げる=罪の許しという公式があるようです。この理屈は理解できません。動物を殺して、その脂肪を焼くといい匂いがして、神の怒りが鎮まるので罪が許されるわけですか?」
「創世8:20,21には“それからノアはエホバのために祭壇を作り,清い動物と清い飛ぶ生き物の幾らかを祭壇に載せ,全焼の捧げ物にした。 エホバは心地よい香りを嗅ぎ始めた。それでエホバは心の中でこう言った。「私は二度と,人がしたことを理由に地面に災いを下したりはしない。・・・”とある。肉の焼ける匂いで神の怒りを鎮めるという発想があるね。」

「その他には肉を食べられるのは神のおかげだから、感謝して肉の一部を神に返すという思想もありますよね。それがルール化されて、そうしないと罪になるわけです。罪がどんどん増えて行きます。」
「神は宇宙の支配者だから、一方的に罪を許すと宣言すればそれで済むはず。でもそうしたくないようで、罪を許すための複雑なルールを設定した。それが律法だけれど、それが成立したのはだいぶ後の時代。初期のころは犠牲を捧げるはそれほど重視されていなかった。」

「創世18章に、アブラハムの所に3人の人が訪問するという話があって、若い牛を屠って肉を食べるわけですが、これは食事のためで宗教色は全くありません。19章ではソドムの町にいるロトを二人の天使が訪れるのですが、ごちそうを食べたとあるだけです。」
「まず神に感謝して動物の犠牲を捧げましょうとはなっていない。ただ食べるだけ。アブラハムの時代では動物の犠牲がそれほど重視されていなかったと推測できる。」

「7節はアブラハムに息子のイサクを犠牲にするように命令した話がでてきます。これについて“この出来事から,信仰を持つ全ての人は大切な点を学べます。エホバは,愛する独り子を犠牲として進んで差し出してくださいました。”とあります。これって訳がヘンですね。」
「Jehovah would be willing to offer his own beloved Son as a sacrifice.だから、エホバはご自分の愛する息子を犠牲として捧げることをいとわない、という重要な真理を教えていますと書いてある。イサクを犠牲に捧げる話はそんなことを教えていないよ。」

「創世22:1には“真の神はアブラハムを試した。”とあります。それで息子を殺すように命じたわけです。残酷で頭がおかしい神です。」
「それに文句も言わずに従うアブラハムも頭がおかしいと現代人なら思うね。子どもを犠牲に捧げることがごく普通に行われた時代の話なんだろうね。」

「8節に“エホバは愛する子を犠牲にしてまでも,人類を罪と死から救うと決めたのです。 それはあなたを救うためでもあります。”とあるのですが、宇宙のルールを決める神なのになぜ、そんな面倒くさいことをしなくてはいけないのか理解できません。」
「人類の罪を許すと宣言すればいいだけのこと。それからイエスはJWの教義では天使ミカエルじゃないの?無数にいる天使の一人じゃないの?」

「9から14節が“イエスは人類を救うために何をしたか”です。 9節には“ヘブライ 9:22; 10:1-4,12を読む”とあります。そこには“キリストは,永遠に罪を取り去る1つの犠牲を捧げて神の右に座り”とあり、キリストの犠牲で永遠に罪が取り去られたようです。」
「9節に“バプテスマを施す人ヨハネは, ナザレから来たイエスについて 「見なさい,人類の罪を取り去る,神の子羊です!」 と言いました。 (ヨハ1:29)”とあるけれど、他の福音書では違うよ。」

「マタイ11:2,3には“ところで,ヨハネは牢屋の中でキリストの活動について聞き,自分の弟子たちを遣わし,イエスに尋ねた。「あなたが,来ることになっている方ですか。それとも,ほかの方を待つべきでしょうか」。”とあります。ここではバプテスマのヨハネはイエスについてよくわかっていないことになっています。」
「マタイは酷いよね。マタイ3:14に“しかし,ヨハネはとどめようとして言った。「私こそあなたからバプテスマを受ける必要があるのに,あなたが私の所に来られるのですか」。”とあるようにイエスこそ来ることになっている人と認めているのに、マタイ11章では、そのことを忘れたかのようにイエスに尋ねている。不自然な物語構成。」

「ルカ7章にも同じようにイエスに尋ねる場面があるのですが、マタイ3:14のような場面はありませんから、不自然さは少ないです。」
「マタイは話の不自然さに気づいていたと思うけれど、マタイ3:14の場面を削りたくなかったのだろう。聖書作者は話の矛盾とか不一致をあまり気にしない。」

「10節はイエスが“罪人として知られていた男性や女性を進んで助けました。”とあり、そのいくつかの例が出ています。」
「13節までがイエスの話が続く。イエスをこんなに取り上げるのは珍しいね。エホバ教をやめてキリスト教になるつもりなのか?」

「13節には“神は,自分の独り子を与えるほどに人類を愛したのです。”とヨハネ3:16を引用していますが、これは意図的な誤訳です。」
「JWの英訳ではGod loved the worldで、神が愛したのはこの世。でも翻訳者はそれが気に入らなくて、人類に変えたわけだ。改ざんだね。」

「13節の下に、イエスが杭を背負っているイラストがあるのですが、それがとてつもなく長いもので、背負えるようなものではないことをきちんと書いて欲しいです。」
「JWは一本の長い杭に両手を伸ばした状態で釘付けになっていると想定し、そういうイラストを描いている。そうすると地上に出ているだけでも杭の長さは身長より相当長いことになるし、地面に埋まっている部分を加えると杭の長さは身長の2倍以上で、引きずるように持つしかない。むち打たれて相当傷ついて状態のイエスには無理だね。」

「本当は十字架の横木を持って行ったわけですね。」
「それだと自分の身長程度の長さにおさまる。」

「14節では“イエスの犠牲ほど,エホバがアダムとエバの子孫を愛していることを示すものはありません。それは,エホバがあなたのことを本当に愛している証拠でもあります。 ”と、イエスの犠牲=あなたへの愛としていますが、納得できません。“あなた”をわざわざ太字にして信者の感情に訴えようとしています。」
「全人類のために死んだというだけでは全然個人に響かないと思って、あなたのことを愛している証拠です、としたのだろう。イエスの死をイエスが死んだ当時存在もしていない個人を愛している証拠とするのは無理があるね。」

「最後の15節は“罪と闘い,優しいお父さんエホバとの絆を深めたいと本当に思っているなら,悔い改めることが必要です。”と悔い改めの要求です。エホバは少しも愛情深くないことがわかります。徹底的に悔い改め土下座して謝罪をしないと絆を深められないわけです。」
「そんな神様とは縁を切ろう。」

#1539 2024年10月18日 14:29:42

聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界

#1540 2024年10月25日 14:10:49

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“罪を犯した人に対してエホバと同じ見方をする(33)”で、コリント一と二を使って、排斥した人をどう扱うかを教えるという内容です。」
「少しソフトにするつもりのようだけど、本質的には以前と同じだね。」

「4から6節が“1世紀の会衆は重大な罪をどのように扱ったか”です。 コリント一5章の話が取り上げられます。“ある兄弟が自分の父親の妻と性関係を持った,というのです。その行いは「異国の人々の間にさえ見られない」ほどひどいものでした。コリントの会衆はその行いを容認していました。それだけでなく,自分たちはエホバに倣った憐れみ深い見方をしていると考えて,誇っていたようです。”とあります。誇っている理由はこんなことではないですよ。」
「なぜ誇っているかは書かれていないけれど、憐み深いことを誇っていたとは考えにくい。少なくともコリントの人は性的なことについて現代人や古代のユダヤ人とはかなり違った考えを持っていて、義理の母と性的関係を持っても罪とは見なさなかったということはわかる。」

「コリントはギリシャですから、コリントの人たちは人間は魂と肉体からなるという二元論の持ち主ですよ。体の罪は霊的なことには影響しない、という思想が背後にあるのでは?」
「コリント一6:15で“皆さんは,自分の体がキリストの体の一部であることを知らないのですか。では,私はキリストの体の一部を取って,それを娼婦と結び付けてよいのでしょうか。決してそうではありません!”とパウロは言っている。コリントのクリスチャンは気軽に娼婦と関係を持っていたようだけど、体のすることは罪にはならないという思想があったとすると説明がつく。それでパウロは体もキリストの一部で、体の罪を犯すな、と強調していると思われる。」

「5節では“コリント第一 5:13を読む。”とあり、そこには“神が外部の人たちを裁くのではありませんか。「皆さんの中から悪い人を除きなさい」。”とあります。そして“パウロは「そのような人とは交友するのをやめなさい。一緒に食事をしてもなりません」と言いました。(コリ一 5:11)”と続けます。これは家族でも一緒に食事をするなという意味ではないですよね。」
「当時のクリスチャンは集まって食事を共にするということを重視していた。そういう食事の集まりには招くな、ということ。」

「6節に“パウロが手紙を送ってから数カ月の間に,以前に悪いことを行った人が罪を悔い改めました。”とあります。コリント二7:9に“今は喜んでいます。皆さんがただ悲しんだのではなく,悲しんで悔い改めたからです。”とあり、それが根拠のようです。本当ですか?」
「コリント二7:8に“前の手紙によって私は皆さんを悲しませましたが”とあるから、コリント一のことを言っているように誤解される。英文ではmy letterで“前の手紙”ではない。意図的な改変だね。パウロはコリントに何通もの手紙を出していて、ここで言う手紙はコリント一の後に出した手紙を指している。コリント二も一つの手紙ではなく4から5つの手紙をまとめたものという説がある。」

「コリント二9章と10章の続きは不自然ですよ。9章の最後は“そして,皆さんに示される神の際立った惜しみない親切のゆえに,彼らは皆さんに愛情を表し,皆さんのために祈願します。 言葉にできないほど素晴らしい無償の贈り物を下さる神に感謝しましょう。”です。これは手紙の最後の挨拶ですよ。」
「10章は、“私はそちらの一部の人たちから,顔を合わせている時には弱々しいものの,離れている時には断固とした態度を取る,と思われているようです。”で始まり、パウロの自己弁護が延々と続く。9章のテーマは献金問題でパウロは相手の自尊心を傷つけず、機嫌を損ねないようにしてきたのに、10章では攻撃的で相手の気持ちなど少しも考慮していない。あまりにも文章や調子が変わりすぎる。」

「10から13章の4章は元々は別の手紙だったという仮説が、4章仮説とよばれるものですね。」
「最後の4章が先に書かれたのか、後に書かれたのかで論争があるけれど、先に書かれたと思うね。」

「要するに、コリント二7:9で言っていることが、コリント一5章の性的問題を言っているかどうかは疑わしいということですね。」
「多分違う問題を言っている。コリント二11:4に“実際,誰かが来て,私たちが伝えたのとは別のイエスを伝えたり,皆さんが持つようになったのとは別の精神を持たせようとしたり,皆さんが受け入れたのとは別の良い知らせを告げたりすると,皆さんはすぐに許容してしまいます。”とある。これはパウロの後に誰かがコリントに来て、別の教えを広めたことを言っている。それを知ってパウロは悲しみの手紙を書いた。ところが、コリントの人たちは悔い改めたといっている。悔い改めたのは教義上の対立のことでしょう。それからコリント一とコリント二7:9の間隔が数か月というのも根拠は乏しい。」

「7から13節が“会衆は悔い改めた人にどう接する必要があったか”です。 7節には“コリント第二 2:5-8を読む。”とあります。そこには“その人には多数の人からすでに叱責が与えられており,それで十分です。 今は優しく許して慰めるべきです。”とあります。性的な問題のことではないですね。」
「反パウロ的な立場に立つ人がいて、それが多数の人から叱責を与えられたという意味。強硬な処分を要求した人たちがいたんだろね。」

「9節には“戻ってきたこの人を温かく迎えることに抵抗を感じた人もいたでしょうか。聖書には何も書かれていませんが,その可能性はあります。”と言っています。現代の心の狭いJWに向けて書かれていますね。それは間違いだと言いたいようです。」
「JWの排斥制度が非人間的とか人権無視と言われているからね。それを多少ソフトにしたいわけだね。」

「10節では“もし長老たちが,本当に悔い改めた人を会衆に復帰させなかったなら,どうなっていたと思いますか。”と問いかけています。どうなるか、JWならわかりますよ。さんざんそういうことをしてきたわけですから。」
「11節では面白い理屈がでている。“悔い改めた人を許そうとしないなら,会衆の兄弟姉妹はエホバとの友情を失ってしまう危険がありました。快く許すエホバではなく,厳しくて憐れみを示そうとしないサタンの態度に倣うことになったからです。”とある。JW得意のエホバvsサタンの二元論だね。許さない人は、エホバじゃなくサタンだ!!というわかりやすい白か黒の思考。」

「12節は旧約聖書に飛びます。旧約からエホバは憐み深い、寛大だと言っている聖句をつまみ食いします。例えば、“ミカはこう言いました。「あなたのような神がいるでしょうか。……過ちを許し,違反を見過ごす方」。(ミカ 7:18)”とあります。」
「それなら、アモス2:4、5に“ユダの3つの反抗,4つの反抗のゆえに,私は撤回しない。・・・私はユダに火を放つ。火はエルサレムの防備された塔を焼き尽くす。”とあり、アモス9:10には“彼らは剣によって死ぬ。私の民の全ての罪人たち”とあるよ。反抗したり、罪のある人は許されないようだけど。」

「13節で“罪を犯した人は会衆から除かれて数カ月しかたっていませんでしたが,矯正によって悔い改めることができていました。”と、根拠のないことを繰り返しています。13節の下には“罪を犯したコリントの兄弟が会衆に復帰したのはいつか”と言う囲み記事があります。直ぐに復帰したことを強調しています。」
「JWも排斥した人を早く復帰させろ、と言いたいんだろう。」

「数か月で復帰したという根拠は“パウロは1通目の手紙を3回目の宣教旅行の途中に書きました。それは西暦55年の初めごろだったと思われます。そして2通目の手紙を同じ年の夏の終わりか秋の初めに書いたと思われます。”というものです。一通目で排斥して、2通目で復帰していたと考えると、排斥期間はせいぜい数か月となるわけです。」
「これは全てJW流の誤読に基づいた推論だね。」

「コリント一が書かれたのは55年とするのはいいとして、コリント二は55年じゃないですよ。」
「パウロは55年の初め頃にコリントにつき、そこで冬を過ごした。その間にパウロとコリントの人たちの関係は悪くなる。パウロはコリントを発ち、その後悲しみの手紙を書く。その後パウロはエフェソスでひどい目に遭う一方、ティトスをコリントに派遣する。ティトスは問題をうまく処理した後、パウロとマケドニアであう。その後パウロはコリント二を書くという時系列。そういうわけで早くても56年の秋だね。」

「パウロは復帰ということは一言も言っていません。執筆者が復帰したと思い込んでいるだけです。」
「囲み記事に“パウロはその男性が悔い改めたという報告を受け取っていました。”と書いているけれど、悔い改めたのは性的問題を引き起こした人だと、コリント二に書かれていない。単なる思い込み。」

「囲み記事の結論は“罪を犯した人が会衆から除かれた後,短期間のうちに,おそらく数カ月後に,パウロはその人を会衆に復帰させるように伝えたと考えることができます。”というものですが、最初から結論ありきで、その理由を適当にでっち上げたという印象ですね。」
「会衆から取り除かれたのは正しいのだろうけれど、その後どうなったかは不明。排斥した人を短時間で復帰させたいという組織の意図は伝わってきたね。」

「14から16節が“公正で憐れみ深いエホバに倣う”です。 いままでの組織は公正でも憐み深くもなかったということですね。14節に“1世紀のコリントで扱われた問題は「私たちを教えるために」書かれました。(ロマ 15:4)”とありますが、今のJWに向けてではないですよ。コリントの人たちに向けてですよ。」
「引照聖句には“以前に書かれた事柄は皆,私たちを教えるために書かれました。”とあるけれど、パウロが自分の手紙までそれに含めてはいないでしょう。いわゆる旧約聖書のことを言っているだけだよ。」

「14節に“ある人は,エホバは憐れみ深いので,罪を悔い改めなくても兄弟姉妹と交友を持ち続けられるようにしてくださると考えるかもしれません。でも,それはエホバの見方ではありません。”とあります。相変わらず集団絶交制度を維持するようですね。」
「15節では、またもやペテロ二3:9を読む。そこには“神は,一人も滅ぼされることなく,全ての人が悔い改めることを望んでいる”とある。この聖句が大好きなのはわかるけれど、これは終わりの日が来ないことに対する言い訳だからね。JWも信者に言い訳をしなくてはならない状況に追い込まれているということだね。」

「16節には“私たちは皆どんなに頑張っても罪人で,エホバに許してもらう必要があります。それで,エホバが贖いによって罪を許してくださることを考えると,本当に感謝の気持ちでいっぱいになります。”とあります。感謝の強要です。」
「JWの場合は、罪を許してもらうことには興味はなくて、ハルマゲドンを生き残りたいだけ。でも、生き残るという保証は与えられないので感謝の気持ちは生じないでしょう。あるのは滅ぼされるという恐怖心。」

「17節は予告です。“現代では,重大な罪はどのように扱われるでしょうか。”とあります。この問題を“続く2つの記事でこうした点を考えます。”とあります。」
「大きな変更はないけれど、審理委員会を長老委員会と呼ぶ、という話が出てくるね。魔女裁判のようなことをやっていると思われているから、名称は変えようということだね。小手先でJWに対する非難をかわそうとして、無い知恵を絞ったというところだね。」

#1541 2024年11月01日 14:26:48

聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“長老の皆さん,罪を犯した人に愛を込めて憐れみ深く接してください(34)”で、排斥の手順が少し変わったから、それを守るようにという内容です。」
「名称も変えるようだよ。老人は新しい名前がなかなか覚えられなくて苦労しそう。」

「4から15節が“長老たちは重大な罪を犯した人をどのように助けるか”です。 長老は罪を犯した人を助けてくれる人とは知りませんでした。」
「長老の責任で排斥処分を決めろということ。もし不服で訴えるなら長老を訴えて、間違っても組織を訴えるなということだね。」

「4節では“会衆の誰かが重大な罪を犯した場合,長老団はその件を扱うための委員会を設け,その委員会で奉仕する3人のふさわしい長老を選びます。”とあります。注を見ると、“これまで,こうした長老たちから成る委員会は審理委員会と呼ばれていました。とはいえ審理することは委員会の役割の一部にすぎないため,この表現は使われなくなりました。今後は単に委員会と呼ばれます。”とあります。残念なことに伝統ある“審理委員会”という名称の取りやめです。」
「人権無視の素人の裁判ごっこ、とバカにされてきたからね。せめて名前でも変えようということだね。」

「4節に“罪を犯した人を助けようとする時にも,変化するよう相手に強制することはできない,ということを認める必要があります。(申 30:19)”と、あるのですが引照聖句は何かの間違いじゃないですか?神は強制していますよ。」
「そこには“私は今日,天と地を証人にして,あなたの前に,命と死,祝福と災いを置きました。あなたは生きるために,命を選ばなければなりません。あなたもあなたの子孫もです。”とある。これは強制だよ。命か死かといわれれば、命を選ぶしかないよ。他の選択肢はないのですか、と神様に言いたくなるね。」

「5節以降は長老に対する指示です。まず5節では“罪を犯した人を迷い出た大切な羊と見る。”で、“長老たちは温和に,優しく親切に接し,罪を犯した人の心が動くように努力します。”とあります。今までは、極悪人を裁く冷酷で無礼でおごり高ぶった裁判官ようにふるまってきたということですね。」
「審理委員会での長老の態度はひどいものということは、経験者が口をそろえて言うね。それが組織にいかにマイナスになっているかようやく気づいたのだろう。」

「6節は“心を整える。”で、“委員会の長老たちは罪を犯した人と話し合う前にエホバに祈り,自分たちが目指すのは悔い改めるようその人を導くことであるという点をじっくり考えます。そして,聖書や出版物を調べ,その人や状況についてよく理解できるように助けを求めて祈ります。その人の考え方,態度,行動に影響を与えているかもしれない生い立ちや今の状況についても考慮するようにします。”とあります。祈りは別にして、少年犯罪を扱う家庭裁判所の裁判官のようになれと言っているようです。」
「その人の生い立ちや状況を考慮するのはいいけれど、それをどうやって知るの?個人のプライバシーは配慮しないの?心配だね。」

「7節は“エホバの辛抱強さに倣う。”で、“エホバは人々が悔い改めるまでは助けないというような方ではありません。エホバの側から,悔い改めるようにと積極的に勧めました。”とあります。長老もそうしなさいということのようです。」
「旧約の神は辛抱強い?大抵は違うよ。」

「8節で“長老がいらいらしたり怒ったりするなら,罪を犯した人はのけ者にされたように感じたり,悔い改める意欲を失ったりするかもしれません。”とありますが、無理な要求です。」
「審理委員会で信者をいじめるのを楽しみしている長老もいるでしょう。それができなくなったら長老をやめるかもよ。」

「9節は“どんなことが罪を犯す原因になったのかを知るようにする。”で、“悪い欲望に従ってしまったのでしょうか。良くない友達と付き合ったり,エホバに喜ばれないものを楽しんだりしていたのでしょうか。”とあり、信者のプライバシーを詮索して回るようです。」
「もちろんそんな法的権限はないよ。そんなことはやめた方が自分のためだよ、と長老に言いたいね。」

「それを知ってでしょうが、10節では“そうする時も親切に接するようにし,必要以上に個人的なことを尋ねないようにします。(格 20:5)”とあります。」
「長老のすることは全て必要以上に個人に干渉しているよ。素人裁判ごっこをやめる気はないようだね。」

「引照聖句の格言20:5は6節にもあります。“人の心の考えは深い所にある水のようだ。識別力のある人はそれをくみ上げる。”ですが、この聖句が乱用されています。」
「両方とも本文とはあまり関係ないけれど、JW的には使い勝手のいい聖句なんだろう。それで乱用される。」

「11節は“イエスに倣うよう努力する。”で、“天に復活したイエスはタルソスのサウロに対し,次のような質問を投げ掛けて考えさせました。「サウロ,サウロ,なぜ私を迫害しているのですか」。そのようにして,サウロが間違った行動をしているということに気付けるようにしました。(使徒 9:3-6)”とあります。長老も考えさせるような質問をしなさいということのようですが、この出来事はパウロ自身は何も語っていませんよね。使徒の作者の創作じゃないですか?」
「使徒では、強い光に照らされて倒れた後、イエスの声を聞いたことになっている。すごい体験だけど、パウロは何も語っていない。使徒の作者の創作かそういう伝承があったということでしょう。」

「使徒によるとサウロことパウロはエルサレム近辺でクリスチャンを迫害したことになっていますが、ガラテア1:22では“しかし,キリストと結ばれたユダヤの諸会衆の人たちに顔を知られていませんでした。”とパウロは書いています。本当はエルサレムで迫害などしていないのでは?」
「使徒では、パウロはエルサレムからダマスカスへ行く途中にイエスの声を聞くという設定だから、エルサレムで暴れまわったことにする必要があるんだよ。実際はパウロはエルサレムとほとんど関係ないよ。」

「12節に“長老たちは罪を犯した人と話し合う機会を1度だけでなく何度かつくることもできます。”とあります。1回の委員会で排斥と決めるな、複数回委員会を開けということのようです。」
「どうしてそれがイエスに倣うことになるのかわからないね。こじつけだね。複数回の委員会を開くとなると長老の負担は増すよね。どうせ結論は決まっているのに。」

「13節の下に2枚の写真がありまして、その説明には“悔い改めるのに時間がかかる人もいる。長老たちは話し合う機会を1度だけでなく何度かつくることができる。”とあります。1度だけではダメだと強調しています。」
「複数回委員会を開いて慎重に審議したと言えるようにしたいのだろう。訴えられた時に対する備えだね。」

「15節で“罪を犯した人が悔い改めた場合,委員会の長老たちは牧羊を取り決め”とあります。」
「そうやって組織に対して従順かどうかを見るわけだね。」

「16から18節が“皆の前で戒めてください”です。 16節に“テモテ第一 5:20を読む。”とあります。そこには“罪深い行いをやめない人を,皆の前で戒めてください。それは他の人への警告となります。”とあります。この“罪深い行いをやめない人”は一般の人を指すのですか?文脈から言うと長老のことじゃないですか?問題を起こした長老への聖句を全ての信者に当てはめようとしていますよ。」
「普通は長老の中の“罪深い行いをやめない人”と解釈する。テモテ一5:17-25はひとまとまりで、長老に関する問題を扱っている部分。5:17で“立派に監督している長老たち,とりわけ一生懸命に話したり教えたりしている人たちは,深い敬意を受けるに値します。”と、まず立派な長老について触れる。5:19から“年長の男性についての訴えは,2人か3人の証人がいない限り受け付けてはなりません。”と今度は問題のある長老に話題が変わる。“年長の男性”という訳はもちろん意図的な誤訳で、長老のこと。」

「それで、5:20の“罪深い行いをやめない人”とは長老のことを言っていることになるわけですね。」
「長老で罪深い行いをやめない人は、“皆の前で戒めてください。それは他の人への警告となります。”と言っている。この場合、“他の人”とは他の長老のことだね。」

「16節では“では,この聖句の「皆」とは会衆の全員を指すのでしょうか。必ずしもそうではありません。パウロは,その罪について知っていた人たちのことを言っていました。”とありますが、この主張の根拠はありません。」
「“皆”と書いてあるのになぜ“その罪について知っていた人たち”に限定するの?JWとしてはそう解釈したいから、そう解釈したというだけ。自分たちの考えがまずあって、それに合わせて聖書を解釈するのがJWということ。」

「17節では、その人のことがうわさになっている場合の対応です。“罪を犯した人の悪い行いが,会衆の多くの人に知られている場合や知られそうな場合はどうでしょうか。この場合,「皆」には,会衆全体が含まれることになります。それで会衆に対して,その兄弟または姉妹が戒めを受けたことを1人の長老が発表します。”とあります。結局皆に知らせるわけです。」
「皆に知らせるかどうかの基準があいまいだね。秘密主義の長老の多い会衆は公表せず、そうでない会衆は何でも公表しそうだよ。会衆ごとに対応が違うことになりそう。」

「18節が未成年への対応です。“長老団は,2人の長老が本人とクリスチャンの親と話し合うようにします。”とあります。本人が悔い改めているようだと、長老はそれ以上何もしないようです。親に任せます。悔い改めていないようだと、“その場合,長老たちから成る委員会が,本人とクリスチャンの親と話し合います。”とあります。」
「親権を考慮して、そういう手順で、未成年者を排斥処分にしなさいということだね。このようなことはパウロだって何も言っていない。JW独自のルールで、宗教による家族の破壊だ。」

「19、20節が“エホバは優しい愛情にあふれ,憐れみ深い方”です。 エホバは憐れみ深い神と言いたいようですが、引照聖句はヤコブ5:11で“皆さんはヨブの忍耐について聞き,ヨブがエホバのおかげでどんな結末を迎えたかを知っています。エホバは優しい愛情にあふれ,憐れみ深い方なのです。”とあるのですが、ヨブの結末は憐れみ深い神とは程遠いものですよ。」
「ヨブは神の承認のもとサタンによって子どもたちを殺される。その子どもたちは忘れ去られ、代わりに新しい子どもがたくさん生まれました、メデタシ、メデタシという酷い結末。神は一人一人の人間をかけがえのない存在とは考えずに、子どもの数は以前と同じ男7人、女3人だから問題ないという考えのよう。」

「憐れみ深い神なら、死んだ子どもをなぜ復活させないのでしょうか?」
「ヨブ記が書かれた頃は、そのような復活思想はなかったからじゃないの。」

「19節で引用されている聖句はエホバとは関係ないです。」
「ヨハネ一2:1で“もし誰かが罪を犯したとしても,私たちを助けてくださる方が父のもとにいます。正しい方であるイエス・キリストです。”とあるね。なぜこの聖句が引用されるのか不思議だ。JWはイエスの役割を最小にしようとしているのからね。他に適当な聖句を探すのが面倒くさかったのだろう。」

「20節は来週の予告で、排斥問題を取り扱います。」
「排斥された人に挨拶くらいならOKとか、排斥された者とは呼ばずに除かれた者と呼ぶなどちょっとした変更あるようだ。小手先の変更で排斥問題に関する非難をかわそうという浅知恵だね。」

#1542 2024年11月08日 14:08:49

聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“会衆から除かれた人を助ける(35)”で、排斥しても戻ってくるよう配慮しなさいという内容です。」
「排斥された人には挨拶もしないという反社会的なカルト的行動を少しは改めるようだけど、本質は変わらないね。」

「3から5節が“悪い人を除きなさい”です。 JWには悪い人が多いということですね。4節に“悔い改めようとしない人が会衆から除かれた場合,その人がエホバの証人ではなくなったことが会衆に知らされます。”とあります。注には“今後はそのような人のことを,排斥されたとは言いません。コリント第一 5章13節の表現に合わせて,会衆から除かれたと言います。”とあります。」
「そういうわけで、JWから除かれた人はいても、JWから排斥された人はいなくなるわけだ。これからJWは仲間の信者を排斥することはありません、と堂々とマスコミに言える。メデタイね。」

「5節では“会衆から兄弟か姉妹が除かれた場合,その人のことをどう見るべきでしょうか。交友を持つことはしませんが,救われる見込みがない人とではなく,迷い出た羊と見ます。羊は群れから迷い出たとしても,戻ってくる可能性があります。”とあります。排斥された人を将来戻ってくるかもしれない人と見なさいという指示ですが、それなら集団絶交は止めるべきですが、それは堅持します。」
「信者の新規獲得は難しいから、逃げた信者の復帰に期待するわけだ。でもみんなで絶交するのは止められない。ドン詰まりだね。」

「6から12節が“長老たちは会衆から除かれた人をどのように助けるか”です。 排斥後の手順についての説明です。6節に“長老たちから成る委員会は,悔い改めない人に会衆から除かれることを伝える時,戻ってくるためにどうしたらいいかも伝えます。それだけではなく,多くの場合,長老たちは罪を犯した人の考えが変化しているかどうかを確かめるために,数カ月後にまた話し合う機会をつくりたい,と思っていることを伝えます。”とあります。排斥から数か月後に面接するようですね。」
「6節の最後に“長老たちはその人と周期的に会うよう努力を続けます。”とある。無給の長老に対して要求が多すぎる。会いに行く際の交通費や手土産代を組織が負担してくれたら、長老は喜んで会いに行くよ。タダで働かせようとするのが間違い。」

「7節に“クリスチャンの長老たちもエホバのように,罪を犯した人が戻ってくることを心から願っているので,その人に戻りにくいと感じさせるようなことは決してしません。(エレミヤ 3:12を読む。)”とあります。長老は戻りやすい環境を作れという指示ですね。」
「読むように指示されているエレミヤ3:12は“行って,北に次の言葉を伝えなさい。『「背信のイスラエルよ,戻りなさい」と,エホバは言う』。”とあるように、特定の歴史を背景にしたもので、今のJWとは関係ないよ。」

「8節には“長老たちも,迷い出た人たちに対して愛情深い父親のような態度を示すようにします。ぜひ戻ってきてほしいと思っているからです。”とありますが、現実は戻ってきてほしくない人もいますよ。」
「排斥された人に対する長老の態度は犯罪者扱いでひどいもの。ここはタテマエを書いただけ。本音はこの後に出てくるよ。」

「9節に“長老たちはこのようなエホバの気持ちについて考えると,悔い改めていることが分かるどんな小さなサインにも気付けるようでありたいと思うはずです。”とあり、復帰したそうな人を見逃すなという指示ですが、復帰したくないのに復帰したがっていると誤解されて、しつこく付きまとわれそうで嫌ですね。」
「組織の指示には何でも盲目的に従う長老だと、ストーカーのようにつきまとうかも。」

「10節は多くの元JWを怒らせた問題の箇所です。“以前に会衆から除かれた人たちについてはどうでしょうか。そうした人の中には,何年も前に会衆から除かれ,今はその原因となった悪いことをもう行っていない人や,自分がどうして会衆から除かれたのかを覚えていない人さえいるかもしれません。”とあります。インチキ宗教裁判で排斥されたのに、“自分がどうして会衆から除かれたのかを覚えていない人”なんかいませんよ。」
「排斥した理由をすぐに忘れるのは、排斥した長老でしょう。気楽に排斥しているから、すぐ忘れる。排斥された側は何年たっても昨日のことのように鮮明に覚えているよ。」

「さらに“長老たちはそうした人がどこに住んでいるかを把握して訪問するように努力します。”とあります。しつこいですね。そして“本人が会衆に戻ることを望んでいるなら,長老たちは誰かがその人と聖書レッスンをするよう取り決めることができます。”とあります。」
「何年も前に排斥した人の住所を探し当てて、訪問するのね。そんな面倒なことをする長老はまずいないでしょう。」

「12節には復帰させる際に注意が必要な人がでてきます。“例えば,児童虐待をした人,背教した人,結婚を終わらせようと画策して姦淫などの罪を犯した人の場合,その人が本当に悔い改めているかどうかをしっかり確かめる必要があります。”とあります。最初に“児童虐待”が出てくるのが組織の実情を物語っていますね。」
「アメリカでは大勢のJWが児童性的虐待とその隠蔽で逮捕されて、有罪となっている。そういう人でも安易に復帰させてきたのがJWだけど、これからは少し考えようということだね。」

「12節の最後に“こうした罪を犯した人に対してエホバが憐れみを示すことは絶対にない,などと決め付けるべきではありません。”とありますから、子どもを性的に虐待した人でもJWに復帰できるようです。」
「注をみると、“聖書には,許されない罪があることが書かれています。でもそれはどんな罪を犯したかで決まるのではなく,心の状態が関係しています。”と聖書に書いていないことを勝手に書いている。聖書以上に権威があるのが執筆者なわけだ。」

「13から15節が“会衆の人たちには何ができるか”です。 ヒラの信者への指示です。13節は戒めを受けたと発表された人に対してどうするかです。“引き続きその人と交友を持つことができます。”とあります。」
「戒めを受けたという発表があったということは、一応悔い改めたという意味なんだね。」

「14節は排斥された人への対応です。“交友を持つことはしません。”とあります。でも“会衆から除かれた人を集会に招待するかどうかは,聖書によって整えられた良心に基づいて,各自で決めることができます。もしかすると,その中には 親族や親しかった人が含まれるかもしれません。”とあります。」
「親族と会ってはいけないけれど、集会に招待し、集会で会うのはOKということだね。」

「ということは、排斥されて家族と20年以上会ったことも、話したこともない人に、突然、今度の集会に来ない?という電話なりメールが来るかもしれないということですね。ふざけていますね。」
「その場合、申し訳ありませんが、あなたのことは知りません、と答えればいい。」

「そして“以前はあいさつをすることはありませんでした。でもこの点に関しても,私たち一人一人は聖書によって整えられた良心に基づいて判断する必要があります。”とあります。完全無視からあいさつはよいという新しい光です。素晴らしいですね。多少人間的にふるまってよくなりました。」
「JWらしいごまかしがある。“以前はあいさつをすることはありませんでした。”ではなく、カルトの指導者から、あいさつすることを禁じられていました、でしょう。正直に書いて欲しいね。」

「今までは、排斥された人は集会に来ても、全員から無視され、一番後ろの席に目立たないように座り、祈りが終わるとすぐに帰っていきました。これからは、挨拶だけされるけれど、それ以外は同じとなるわけですね。」
「あいさつが許可されるまですごい時間がかかった。挨拶するかどうかといった細かなことまでコントロールするのがカルトらしくて素晴らしい。」

「でも14節では“その人と長く会話を続けたり,別の機会に一緒に時間を過ごしたりするようなことはしません。”と指示をしています。どの程度の会話がダメなのかも良心に基づいて判断するのではなく、長老の考え次第なんでしょうね。」
「あいさつしてもいいという変更はJWは非人道的な過激な宗教ではないと政府に示すためのものだからね。ノルウェーでの敗訴を受けて、JWの弁護士が排斥のルールを変えるように要求したのだろう。統治体はイヤイヤ少しだけ変えたわけだ。」

「15節はヨハネ二9-11の解釈です。“キリストの教えに従わない人があなたたちの所に来たら,家に迎え入れてはなりませんし,あいさつの言葉を掛けてもなりません。”と言う聖句です。これは“でも聖句の文脈を見てみると,この指示は背教者や間違った行いを広めようとしている人たちについて書かれていることが分かります。”と説明しています。」
「単にタバコを吸ったとか、単に未成年者と性行為をしたとか、単にアル中で妻子に暴力をふるったとかは当てはまらないと言いたいわけだね。」

「15節の下に“ヨハネとパウロは同じ罪について書いていましたか”と言う囲み記事があります。“パウロは,性的不道徳の罪を犯した人について書きました。それから43年後にヨハネが書いたのは,背教者や間違った教えや行いを広めている人たちについてでした。”とあります。あいさつをしてはいけないのは“背教者や間違った教えや行いを広めている人たち”だけのようです。悪いことをしても黙っている人ならあいさつしてもいいようです。」
「子どもに性的虐待した人はそのことについて黙っているから、集会に来るとあいさつされる。でも別の人が組織は性的虐待者を保護しているというと組織を批判すると、背教者とされてあいさつされないわけだ。奇妙だね。」

「以前のヨハネ二9-11の解釈は違っていましたよ。こっそり変えたわけですね。」
「例えば、1985/7/15のものみの塔の“読者からの質問”に“ある人物を自分の家に迎え入れたりあいさつをしたりしないようにと述べるヨハネ第二 10節の言葉は,偽りの教理を広めようとした人々だけに当てはまるのですか。”というのがあって、その回答は“聖書のほかの箇所を見ると,これが適用される範囲はもっと広いことが分かります。”と勝手に拡大解釈していた。JWのいい加減さがよくわかる。」

「最後の16,17節が“思いやり深いエホバに倣う”です。 8月号にある5つの記事のまとめです。“長老たちには,悔い改めるよう罪を犯した人を助けるためにエホバと一緒に働けるという素晴らしい機会があります。”とありますが、要するに長老たちの仕事が今まで以上に増えて、負担が増すわけですね。」
「英文では“素晴らしい機会があります”ではなく“特権にあずかっています”だよ。“特権”とは訳さない方針のようだね。“特権”もバカバカしいJW用語の一つだからね。」

「8月号は発表が遅れて9月号の後でした。排斥に関するルール変更でもめたんでしょうね。」
「最終的にものごとを決めるのは統治体ではなく弁護士といわれている。最初の8月号の記事を弁護士に見せたら、ダメといわれたんだよ。統治体が承認しても、弁護士がこれでは裁判に勝てないと言われて、大慌てで書き直したのだろう。」

#1543 2024年11月15日 14:25:52

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“神の言葉を実践する人になってください(36)”で、JW流の聖書の学び方を学ぶ、という内容です。」
「最近のJWはほとんど聖書を知らないし、JWの教義も、まもなく終わりが来ること以外ほとんど知らないからね。もっと知識レベルを上げたいということでしょう。」

「2節がいいです。“エホバに仕えている私たちは幸せです。”と久しぶりの幸せ宣言です。本当に幸せな人はそんなことを何度も言いませんよ。」
「JWは不幸な人が多いでしょう。家庭崩壊、貧困、各種の病気で苦しんでいる割合はJW以外の人より多いよ。」

「2節にはJWが幸せな理由が出ています。“私たちは聖書を毎日読み,学んだことを実践するように努力しているからこそ,幸せでいることができています。(ヤコブ 1:22-25を読む。)”とあります。引照聖句には“聖書を毎日読み”なんてことは書かれていません。」
「まず、英文ではwe regularly read God’s Wordとあり、定期的に読むように言っているけれど、毎日読むとは言っていない。日本のJWだけは毎日読まないといけないようだね。」

「ヤコブ書は“神の言葉を実践する人になってください。”と言っています。具体的にはヤコブ1:27には“困っている孤児ややもめを世話すること”とあります。JWは孤児ややもめに何もしていません。統治体は口先だけで、みなさーん、愛してます、と言うだけです。」
「JWは雑誌の販売会社としてスタートしたからね。慈善活動など全く無関心。キリスト教らしさはないよ。」

「3節は神の言葉を実践するとご利益があると言っています。まず、“私たちはエホバが喜んでくれていることを実感すると,幸せな気持ちになれます。(伝 12:13)”とあります。でも、引照聖句は幸せになるとは言っていません。」
「聖書は個人の幸福にはほとんど関心がないからね。」

「ここで伝道の書を引照聖句に使うのは不適切ですよ。伝道の書の幸福観はJW的じゃないですから。例えば、伝道8:15には“食べ,飲み,喜ぶこと,この地上で人にとってこれ以上の幸せはないからだ。”とあります。JWは飲まず食わずで、ひたすら無意味なJW活動を押し付けられて何の喜びもなく一生を終えます。伝道の書の作者がいう空しい生き方そのものです。」
「伝道6:6には“1000年,さらに1000年生きたとしても,楽しみを経験しなかったなら,何の意味があるというのだろう。”とある。人生を楽しまなければ意味がない、ということ。JWは楽園が来ても、1000年間ひたすら働く生活を送るようだけど、そんな人生に何の意味があるのだろうかと、伝道の書の作者は言っているよ。」

「3節では、“また,神の言葉を読んで実践することで,家族との絆も,仲間の兄弟姉妹との友情も強まってきたことでしょう。”と、ご利益を並べていますが、事実に反します。」
「JWの家族はバラバラになり、音信不通で、JW同士の関係は、友情などというものとは程遠いことが多いでしょう。」

「5,6節が“聖書を読む時間を確保する”です。 5節では“エホバの証人は大抵とても忙しい生活を送っています。”とあります。そうさせているのは組織ですよ。無責任な言い方です。」
「信者を忙しくさせて、考えさせないようにするのがカルト。コロナ問題の時は暇ができて、考える時間が増えて、JWのバカバカしさに気づいた人はけっこういたようだよ。」

「6節に“聖書を読むことは,クリスチャンにとって「より重要なこと」なので優先する必要があります。(フィリ 1:10)”とありますが、引照聖句には聖書を読むことは、“より重要なこと”とは書かれていません。」
「新約聖書には聖書を読め、なんて書かれていないよ。新約聖書に収められている福音書やパウロの書簡はまだ聖典の地位を得ていなかった。」

「聖書を読むことが強調されたのはルターたちの宗教改革の時代からですよ。」
「“聖書のみ Sola scriptura”は、信仰義認、万人祭司と並ぶ、宗教改革におけるプロテスタントの三大原理の一つだね。JWもその流れの末端に位置するわけだけど、信仰義認はJWとは無縁だね。」

「6節に“詩編 1編には,幸せな人についてこう書かれています。「その人はエホバの律法を喜び,昼も夜も小声で読む」。(詩 1:1,2)この聖句は,聖書を読む時間を確保する大切さを教えています。”とありますが、聖句の誤用です。そんなことを言っていません。恥ずかしいですね。」
「“小声で読む”は誤訳。使われているヘブライ語の動詞に“読む”という意味はなく、“呻く、唸る、話す、黙想する”と言う意味。協会共同訳では“主の教えを喜びとし/その教えを昼も夜も唱える人”となっている。」

「7から10節は“読んだことについてじっくり考える”です。 8節に“急いで読んでしまうと,読んだ内容を十分に理解することも,学んだことを活用することもできないでしょう。(ヤコ 1:24)”とあり、急いで読むなと指示しています。でも引照聖句とは何の関係もありません。」
「聖書には聖書の読み方について何も書かれていないよ。無理に聖句を引用するからおかしなことになる。」

「9節の下に“聖書を読む時に考えたいこと”と言う囲み記事があります。そこには“ここからエホバ神についてどんなことが分かるか。この部分は聖書の中心テーマとどう関係しているか。これを自分の生活でどのように役立てられるか。誰かを助けたり力づけたりするために,この言葉をどのように使えるか。”を考えて読むよう指示しています。」
「エリシャをハゲ頭とからかった子どもたち42人が2頭のクマに殺される列王記二2章を読んだときは、エホバは残酷で暴力的な神だな、とか、エホバに比べて自分は子どもに優しすぎる、もっと体罰を加えた方がいいのでは、と考えればいいわけだね。」

「詩編137:8,9には“バビロン,おまえはもうすぐ壊滅させられる。おまえが私たちに加えた仕打ちで,おまえに報いる者は幸せだ。 おまえの子供たちを捕まえて,岩にたたきつける者は幸せだ。”とあります。これはエホバは子供を殺すのが大好きなんだな、とかハルマゲドンでは赤ん坊だって皆殺しするんだろうな、と思えばいいわけですね。」
「赤ん坊はバビロン捕囚に何の責任もないのに、虐殺しようとしている。神には正義の感覚が欠落している、と考えが及べば、よく考えて聖書を読んだと言えるでしょう。」

「10節では“聖書を読む時は,「この情報を今または近い将来にどのように活用できるだろうか」と考えます。”と指示しています。例えば、エリシャのハゲをからかった話を、生意気なJWの子どもを懲らしめるのに、どのように活用できるかを考えるわけですね。」
「JWが聖書の活用というと、誰かを管理統制するための道具として聖書を活用するという意味にすぎないわけだ。それから、孤児ややもめの世話のように、自分たちがしたくないことは聖書に書かれていても無視するのがJWの聖書の読み方。」

「11から14節が“無理のない目標を立てる”です。 さんざん聖書を一生懸命読むように指示してから、少しだけ優しいことを言っています。11節で“聖書を読んで学んだことを実践しようとすると,圧倒されるように感じることがあるかもしれません。”とあります。」
「JWなんだから、統治体に見倣って、聖書に書いてあってもやりたくないことはしなくていいよ。」

「13節では“取り組む必要のあることをリストにします。そこから1つか2つを選びましょう。残りは後で取り組むことにします。”と指示しています。この程度のことがわからないのがJWなのですね。」
「14節で“目標を決めたなら,「ものみの塔出版物索引」や「エホバの証人のためのリサーチガイド」などのツールを使って調査しましょう。”とある。結局JWの情報だけを調べるわけだ。そうやってカルトに取り込まれていく。」

「最後の15,16節が“神の言葉から「良い感化」を受ける”です。 この記事は16節で終わるわけで、あまり書くことがなかったようです。15節に“エホバの証人はどうでしょうか。1世紀のクリスチャンと同じように,聖書を「まさしく神の言葉として」受け入れています。”とあるのですが、これは聖書の誤読ですね。」
「引照聖句はテサロニケ一2:13で、“皆さんが私たちから神の言葉を聞いた時,それを人間の言葉としてではなく,まさしく神の言葉として受け入れたからです。”とある。ここでいう“神の言葉”は聖書のことではないよ。パウロはテサロニケの人々の前で旧約聖書を読んだなんて言う記録はないよ。」

「テサロニケ一2:2で“ご存じのように,私たちはまずフィリピで苦しめられ,侮辱を受けましたが,神の助けにより勇気を奮い起こし,厳しい反対に遭いながらも皆さんに神の良い知らせを伝えました。”とあります。パウロが伝えたのは旧約聖書の一節ではなくて、いわゆる福音のことですよ。」
「パウロが伝えた主なことはキリストのことでしょう。だからクリスチャンと呼ばれるようになった。書かれた書物こそが信仰の中心だ、という思想はJWの思想でパウロにはない。」

「16節では“神の言葉を読んで実践するのは,いつも簡単なわけではありません。”とありますが、JWの聖書に基づかないばかげた命令に比べれば実践しやすいですよ。」
「輸血をしないと死ぬ状況でも輸血をするな、というJWの教えに比べれば、確かにそうだね。」

#1544 2024年11月22日 14:17:34

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“終わりまで忍耐し続ける助けになる手紙(37)”で、ヘブライ書をとりあげ、終わりが近いから統治体の命令に従い、耐えろ、という内容です。」
「最近ヘブライ書はよく取り上げられるね。結論はいつも統治体に従え。」

「1節に“でも西暦61年ごろからしばらくの間,比較的平和な時期が続きます。当時のクリスチャンはこの時期に,パウロから手紙を受け取りました。”とあります。ヘブライ書は西暦61年にパウロが書いたとJWは決めつけていますが、根拠はありません。実際は作者も書かれた年代も不明です。」
「信者向けの記事だからね。根拠などいらないよ。自信たっぷりに断定すれば、信者の方で、偉い統治体様がおっしゃるのだから間違いない、と勝手に思ってくれる。カルトの指導者は楽なもんだね。」

「それから手紙でもありません。」
「手紙なら必ずある冒頭のあいさつがない。ヘブライ1:1は“神は昔,預言者たちにより,いろいろな時に,いろいろな方法で,私たちの父祖に語りました。”とあるだけ。冒頭のあいさつでは、手紙の送り主、受け手、型にはまった挨拶、祈りあるいは感謝の言葉が来るけれど、それらが一切ない。」

「でも、最後の挨拶があります。それはパウロの手紙を真似ています。パウロと関係の深いテモテの名前さえ出てきます。」
「最後の部分はヘブライ書が聖書に加えられやすいようにと、後の時代に付け加えられたという説がある。それをしたのは著者がパウロなら受け入れやすいことを知っている人だね。ヘブライ書については最後まで聖書に入れるかどうかもめた。」

「4から8節が“十分に成長するように努力しましょう”です。 4節で“ユダヤ教の背景を持つクリスチャンたちには乗り越えなければいけない壁がありました。”と、ユダヤ人クリスチャンが困難な状況にあったことを言っています。」
「ユダヤ人クリスチャンはイエスこそ約束されたメシアだと初めは感激していたのだろうけれど、イエスをそうは考えないユダヤ人からは祖先の教えや伝統を汚す愚か者と非難され続けただろうね。それと同じ状況にいるのが今のJWと言いたいようだ。」

「統治体こそ現代の神の代理人と信じているのがJWです。大多数のクリスチャンからすればキリスト教の教えや伝統を汚す愚か者ですからね。」
「それで、ユダヤ人クリスチャンに向けられた言葉を、無理やり現代のJWに適用しようというのがこの記事だ。」

「7節に“ヘブライ人のクリスチャンのように,私たちもエホバの正しい基準に沿わない情報や考え方にさらされています。反対者たちは,聖書に基づく道徳基準は厳し過ぎるとか,冷た過ぎると非難します。”とあります。迫害に苦しむ被害者のふりをしています。」
「排斥制度が非難されていることを念頭に置いているね。排斥されると未成年の子供でも家から追い出し、一切連絡を絶ち、家族の葬式にさえも呼ばないなどの慣行を世界のあちらこちらで非難されている。」

「排斥という言葉は聖書に出てきません。JWの排斥制度は聖書的ではありません。喫煙、ギャンブル、輸血など、聖書では決して触れられていない行為を理由に信者を排斥しています。恣意的な人間のルールです。」
「それに一見聖書に基づいているようでも実は違うというのも多い。ヨハネ二10に“キリストの教えに従わない人があなたたちの所に来たら,家に迎え入れてはなりませんし,あいさつの言葉を掛けてもなりません。”とあり、これを根拠に排斥者には挨拶も禁止とJWはしているけれど、訳がおかしいし、排斥者を対象にしたものでないことはヨハネ二を読めば誰でもわかる。わからないのはJWだけ。」

「コリント一5章も排斥と関連付けられますが、排斥という言葉はもちろん出てきません。」
「そこには“そのような人とは接するのをやめなさい。一緒に食事をしてもなりません。”とあるけれど、危険なウイルス感染者かのように厳格な隔離を想定したものではないし、それが家族にまで適用されるなんてことは書かれていない。“接する”と訳されているけれど、正しくは“交際する”。共に食事をするといった社交的な関係を絶てと言っているだけ。」

「JWの英語訳ではstop keeping companyで、仲間でいるのをやめるという意味ですよ。」
「それを“接するのをやめなさい”と訳したわけだ。翻訳者はJWをやめた人を相当憎んでいるね。」

「9から14節は“信仰を抱いて生き続ける”です。 9節で“ユダヤにいるヘブライ人のクリスチャンが近づく患難を生き残るためには,強い信仰が必要でした。(ヘブ 10:37-39)イエスは弟子たちに,エルサレムが陣営を張った軍隊に囲まれるのを見たなら山に逃げるようにと言っていました。”とありますが、聖句を誤解していますね。」
「そこには“あと「ほんのしばらく」すれば,「来ることになっている方は到着します。遅れることはありません」。”とある。これはキリストの再臨のこと。ローマ軍によるエルサレム攻撃ではない。」

「その後“当時の人たちは大抵,軍隊が攻めてくると聞くと,エルサレムのように城壁のある町に避難しました。それで,山に逃げるようにという指示は普通ではあり得ないものに思えたことでしょう。それに従うには大きな信仰が要りました。”と断定していますが、そうなんですか?」
「この主張の根拠を知りたいね。攻撃目標はエルサレムとわかっているなら、エルサレムから脱出し、ローマ軍が来そうもないところに逃げるのは普通じゃないの?」

「10節では、ローマ軍のエルサレム攻撃のことをヘブライ書が言っているという誤解に基づいて、根拠のない推論を述べています。“教え導く責任を委ねられた人たちは,山に逃げるようにというイエスの命令に,会衆のみんなが適切なタイミングで秩序正しく従えるように具体的な指示を与えたと思われます。(ヘブライ 13:17を読む。)”と言っています。引照聖句には山に逃げることなど出てきません。」
「そこには“皆さんを教え導いている人たちに従い,進んで応じてください。”とあるだけ。山に逃げる話はルカ21章でしょう。無関係な聖句を勝手に結び付けて、JWに都合の良い物語を創作するのがJW流の聖書読解だよね。」

「その後“ヘブライ 13章17節で使われている「従う」という意味のギリシャ語は,指示を与えている人のことを信頼しているので納得して従う,という考えを含んでいます。それは,単に権威を与えられている人からの指示なので従う,ということではありません。”と断言していますが、根拠が示されていません。どこかの辞書を見たのでしょうから、その辞書を教えて欲しいです。」
「翻訳に問題がある。“納得して従う”とあるけれど、英文はsomeone is persuaded to obeyで、“従うよう説得される”と言う意味。これならそれほど問題ではない。従うと訳されているギリシャ語の意味は、“説得する、促す”とたいていの辞書に書いている。」

「ギリシャ語についての怪しげな話を持ち出していますが、要するに統治体をはじめとした指導者に従えということですね。」
「JWの最大の美徳は盲目的な服従だからね。それに多少なりとも抵抗を感じるほど知性がある人はJWを続けられない。」

「11節は現代の話です。“多くの人は今の体制の終わりについての聖書の警告に聞く耳を持ちません。ばかにすることさえあります。(ペテ二 3:3,4)”とありますが、引照聖句は1世紀からそうだと言っています。」
「ペテロ二3章はイエスの再臨が遅れていることに対する言い訳の部分。神にとって千年は1日なんて言ってごまかしている。」

「JWがバカにされるのは当然です。150年くらい間もなく終わりが来る、来るといって、適当な日付をでっち上げ、すべて外してきたわけですから。」
「多くのJWは終わりが来るなんて信じていないよ。惰性でJWをやっているだけ。それで11節で“終わりが時間通りに来ることやエホバがずっと世話してくださることへの強い信仰を持つ必要があります。”と言っているわけだけど、何の効果もないでしょう。」

「12節で“私たちは,エホバが「忠実で思慮深い奴隷」を通して導いてくださっていることへの信仰を強める必要もあります。”と、統治体信仰を推し進めています。カルト的でいいですね。」
「“エホバが責任を委ねている人たちからの指示に対する信頼や確信を今強める必要があります。”とあるけれど、責任をゆだねている人=統治体というのは、何の根拠もないでしょう。自分たちでそう言っているだけ。そんな人に自分の人生をゆだねていいのかな?」

「14節で“今の体制の終わりがすぐそこまで来ていることに強い信仰を持っているなら,お金や物を愛する考え方を避けたいと思うでしょう。大患難の時,お金には何の価値もありません。”と、アブナイことを言っています。大患難が間もなく来ると信じて、仕事をやめたり、家を売ったりする愚か者はもはやいないと思いますが。」
「大患難のときでもお金は役に立つよ。しつこく貧乏暮らしを強要するのはなぜなのかな?寄付を集めるためとしか思えない。」

「15から18節が“皆さんには忍耐が必要です”。 迫害の恐怖をあおっています。16節で“神はクリスチャンが経験する試練を訓練の一部として許すことがある,と説明しました。(ヘブライ 12:7を読む。)そうした訓練によって,クリスチャンとしての人格を身に着けたり,さらに磨いたりすることができます。”とあります。そんなことは滅多に起こりません。ひどい神ですね。」
「引照聖句には“皆さんは矯正の一環として忍耐する必要があります。神は皆さんを子として扱っています。父親から矯正を受けない子がいるでしょうか。”とある。ここにあるのは子に対する体罰を父による教育として無条件に肯定する古代の野蛮な教育観だ。現代では受け入れられないね。にもかかわらず、それをJWは無批判に受け入れているのがダメだね。」

「この聖句によれば、迫害は神から来ることになります。それも問題ですよ。」
「ヘブライ書の著者は神がこの宇宙を支配しているという神学をもっている。そうであれば、苦しみも不幸も神のせいということになり、その苦しみには意味があると強弁して神を弁護するしかなくなる。でも苦しみも不幸も教育的価値より害の方が多いよ。」

「17節に“パウロもそうやって勇気を得ていたので,「エホバは私を助けてくださる。私は恐れない」と言うことができました。(ヘブ 13:6)”とあるのですが、そのセリフはパウロが詩編118:6の70人訳から引用しているだけです。」
「ヘブライ語聖書では“エホバは私の側にいてくださる。私は恐れない。人が私に何を行えるだろう。”なんだけど、70人訳とは少し違う。新約聖書で旧約聖書が引用される場合はたいてい70人訳からで、ヘブライ語本文より70人訳の方が権威があるみたいだ。それはヘンなことだけど、JWでは誰も気にしないようだね。」

「18節で再び迫害の恐怖をあおります。“聖書にはっきり書かれている通り,「神への専心を貫き,キリスト・イエスに従って生きようとする人は皆,同じように迫害を受けます」。(テモ二 3:12)ですから,私たち皆がこれから起きることに備えておく必要があります。”とあります。でも迫害されているJWは全体のほんの一部ですよ。」
「引照聖句の訳がヘンだね。“神への専心を貫き”なんて本文にないよ。協会共同訳では“キリスト・イエスにあって敬虔に生きようとする者は皆、迫害を受けます。”だけど、これが普通の訳。」

「最後の19節はまとめです。“パウロがヘブライ人のクリスチャンに宛てて書いた手紙は,1世紀の兄弟たちが患難に備えるのに確かに役立ちました。”とあります。今のJWも見倣え、と言いたいようです。」
「状況が違う。今のJWの多くは信教の自由が保証された国に住んで、1世紀のような暴力的な迫害など無縁。でも、カルトの被害からいかに身を守るか、これ以上無給の労働力としていかに搾取されないようにするか、寄付の要求をいかにうまく断るか、と言った艱難に備える必要があるわけだ。これはヘブライ書を読んでも役に立たないね。」

#1545 2024年11月29日 14:29:47

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#1546 2024年11月30日 07:32:18

最も目立たない人
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#1547 2024年12月06日 14:27:37

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#1548 2024年12月13日 14:23:14

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバは「心が傷ついた人を癒やす」(40)”で、辛い人生を送っているJWの癒し方を学ぶという内容です。」
「癒し方といっても、実際に役立つ癒し方は出てこないね。執筆者は聖句をいくつか読めば魔法のように傷ついた人が癒されると思っているようだ。」

「2節に“詩編 147編3節には,エホバは心の「傷を包んでくださる」と書かれています。この言葉から,心が傷ついた人をエホバが優しく世話してくださることが分かります。”とありますが、すこしもわかりませんね。そう言っているのは詩編作者です。」
「詩編147は神を賛美する詩で、その中でそう書かれているというだけ。神の保証でも約束でもない。」

「申命記7:15には“あなたは,エホバ神が与えるどの民も滅ぼさなければなりません。彼らを哀れに思ってはなりません。”とあります。異民族絶滅計画です。傷ついた人を優しく世話するつもりなんかありません。」
「イスラエル人に対しても、エレミヤ11:11では“それでエホバはこう言う。『私は彼らに,逃れることができない災いをもたらす。彼らが助けを求めても,私は耳を傾けない。”とあるよ。優しく世話なんかしないよ。」

「2節には“でもエホバに助けてもらうためには,私たちにもしなければいけないことがあります。”とありまして、エホバの援助は条件付きのけち臭いものと言ってます。」
「エホバは何もしてくれないと文句を言う信者には、それはあなたに問題があるからだというために、エホバの援助を条件付きにしておく必要がある。」

「3から7節が“エホバは私たちを大切に思っている”です。 そんなことないですよ。英文ではJEHOVAH ASSURES US OF OUR WORTHで、エホバは私たちの価値を保証してくれる、ですよ。お店の主人が商品の価値を保証するようなものじゃないですか。」
「JWの教義では、エホバはナントカ主権論争のために人類の不幸を放置しているんじゃなかった?自分の正しさを証明することを最優先しているナルシストじゃなかった?人類を大切に思ってなんかいないでしょう。」

「3節に“今は愛の欠けた冷たい世の中なので,自分には価値がないと感じている人は少なくありません。”と根拠もなく否定的なことを言っています。」
「これはJWのことでしょう。JWが愛の欠けた冷たい組織だから、自分たち以外もそうだと思い込む。」

「その後体験談です。“ヘレン姉妹はこう言っています。 「家族から愛情を受けずに育ちました。父からは暴力を振るわれ,ひどいことを毎日のように言われ,自分には何の価値もないんだと思うようになりました」。”とあります。JWらしいひどい家族ですね。」
「体罰推奨、女性差別、ハルマゲドンで滅ぼされると恐怖をあおる、といった子育てをしているのがJW 。悲しいことに、JWの子どもの中には、どうせ自分はハルマゲドンで滅ぼされるのだ、何の価値もない、と思い込む子どもが結構いるでしょう。」

「4節では“ほかの人からひどいことを言われたりされたりしたとしても,エホバから愛され,大切にされていることを忘れないでください。”と言ってから、“詩編 34:18を読む。”とあります。それは“エホバは心が傷ついた人のそばにいる。打ちのめされた人を救ってくださる。”というものです。」
「詩編34も賛美の詩で、そのように賛美しているというだけ。34:19には“正しい人は多くの苦難に遭う。しかし,エホバがその全てから助け出してくださる。”とあるけど、それが事実でないことは子どもでもわかる。単なる願望だね。」

「5節では“イエスの人への接し方からも,エホバの気持ちについて知ることができます。”とイエス登場です。“イエスの性格はお父さんエホバとそっくりです。(ヨハ 14:9)”とありますが、聖句の誤用ですね。」
「そこには“私を見た人は,父をも見たのです。”とあるけれど、これはイエスの性格のことを言っていると珍解釈をするわけね。ヨハネではイエス=神という思想なんだけど、JWはそれを認められないから、そういう珍解釈をせざるを得ない。」

「6節では“自分には価値がないという気持ちがなかなか消えない場合はどうしたらいいでしょうか。エホバが大切に思ってくださっていることが分かる聖句を読んで,じっくり考えましょう。”とあります。囲み記事には3つの聖句が出ています。これを読めば解決するようです。」
「そういう人もいるかもよ。そういう人は何年か後に、自分には価値がないと落ち込んでいた時に、この聖句を読んだらたちまち元気が出て、いまでは開拓者として奉仕しています、というような話を大会で披露してくれるはず。」

「6節ではさらに“自分に厳しくなり過ぎないようにしましょう。”、また“自分を責めたりしないでください。”とあります。」
「自分に価値がないという感覚と過剰な罪悪感を抱いている人は心の病気かその一歩手前だよ。放置すると自殺にもつながる。本来なら精神科の治療を強く勧めるべきだよ。」

「6節では“子供の頃に虐待を受けていたサンドラ姉妹はこう言っています。”と再び児童虐待の話が出てきます。こうして児童虐待の話題に慣れてもらうつもりですか?」
「アメリカでは何人ものJWが児童性的虐待で逮捕され有罪になっている。隠ぺいしきれなくなったことから、さりげなく話題に出して、組織は児童虐待のことを気にしているということを示したいのだろう。」

「7節は自分が無価値と感じている人に対して具体的なアドバイスです。“エホバは私たちに宣教という仕事を与えてくれています。エホバと共に働く素晴らしい機会です。”とあります。伝道しなさいということです。ただ断られるだけの伝道を繰り返したら、ますます自分は価値がないと感じますよ。精神的に有害です。信者のことを何も考えていません。」
「“素晴らしい機会です。”とあるけれど、英文ではthe honorで”名誉”だよ。伝道は名誉なことなんだよ。でも翻訳者はバカバカしいと思って変えたのだろう。英文では特権とか名誉とかを乱発して、なんとかやる気を出させようとしている。」

「7節には、3節に出てきたヘレン姉妹が再び登場します。“「自分には価値がないと思っていましたが,エホバのおかげで,自分は愛されていて人の役に立てるんだ,と思えるようになりました」。姉妹は今,正規開拓者として楽しく奉仕しています。”とあります。子どもの時から虐待されてきた姉妹もエホバのおかげで、正規開拓者です、という決まりきった終わり方です。」
「“エホバのおかげで”と言うのは曖昧だね。伝道したら、自分の無価値感を克服できたということ?伝道を勧めるという結論ありきのお話だね。」

「8から11節は“エホバは私たちが許されていることを信じてほしいと思っている”です。 8節は“バプテスマを受ける前や受けた後にしてしまった良くないことを思い出して,自分を責めてしまうということがあるかもしれません。”と、過去に過ちを起こした人向けです。“私たちがエホバとの間で「物事を正」したなら,エホバは私たちの罪を完全に許してくださいます。(イザヤ 1:18を読む。)”とありまして、そこには“来なさい。私たちの間で物事を正そう。あなたたちの罪は緋のようだが,雪のように白くされる。”と書かれています。訳がヘンですね。」
「“物事を正そう。”がへんだね。協会共同訳では“さあ、論じ合おう。”だけど、こちらが標準的な訳。ここでは裁判での言い方が用いられていて、各当事者が自分の主張を論じ合おうという意味。」

「訳がヘンなので解釈もヘンです。これは古代のイスラエル人に向けられた言葉です。今のJWとは関係ないですよ。」
「エルサレム滅亡に関して、列王二24:3,4に“エホバは,ユダをご自分の前から取りのけるため,こうしたことがユダに起きるよう命じたのだった。マナセが犯したさまざまな罪のゆえ, マナセが流した無実の人の血のゆえである。マナセは無実の人の血でエルサレムを満たした。エホバは許そうとはしなかった。”とある。何代か前の王の罪のおかげでエルサレムが滅亡して大勢の人が奴隷になったり死んだりしたようだ。それは“許そうとしなかった。”から。JWも何代か前の会長のおかげで滅ぼされるかもよ。そう簡単に許さない神のようだよ。」

「JWは旧約聖書が大好きで、よく引用しますが、旧約では罪の許され方がちゃんと明記されています。なぜそれを引用しないのですか?」
「たとえば、“民の誰かが意図せずに罪を犯し,エホバに禁じられていることを行ったとして有罪になった”場合は、雌の子ヤギを祭司の所に連れて行って、レビ4:31には“共食の犠牲から脂肪を取るのと同じように,脂肪を全て取る。祭司はそれを祭壇で焼いて煙にする。それはエホバにとって心地よい香りとなる。こうして祭司はその人のために贖罪を行い,その人は許される。”とある。罪を犯したJWがこれを実行するのはダメなの?」

「9節には“以前にしてしまったことのために心が痛んでいるなら,過去にではなく今と将来に目を向けるように努力しましょう。”とあります。パウロに倣えと言って、“パウロは伝道に打ち込み,将来に目を向けました。”とあります。結局伝道をやりなさいという結論です。」
「楽園が間もなく来ることを一軒一軒宣べ伝えていけば、どんな心の痛みも消えるというのがJW理論のようだ。」

「10節に“以前に誰かを傷つけてしまったことで,心が痛む場合はどうしたらいいでしょうか。相手のためにできる限りのことを行い,誠実に謝りましょう。”とあります。子どもを性的虐待した人でも謝れば済むようです。」
「しかもそれは“心が痛む場合”だ。何も感じない人は謝る必要はないようだ。謝罪は相手のためではなく、自分の罪悪感を減らすために行うというのがJW理論のようだね。JWの倫理水準がよくわかる。」

「11節はヨナの話です。イラスト付きです。“間違いから学び,エホバがあなたにしてほしいと思っていることを進んで行いましょう。”とあります。やっぱり“エホバがあなたにしてほしいと思っていること”とは伝道のことですね。」
「ヨナの任務はニネベの町に滅びのメッセージを伝えることだった。JWもおなじようにしなさいということでしょう。はっきり書かないのがズルいね。」

「12から14節が“エホバは聖なる力によって慰めてくださる”です。 聖霊のことですね。12節ではロン兄弟とキャロル姉妹の話が出てきます。“2人は,息子が自分で命を絶つというとてもつらい出来事を経験しました。こう言っています。「それまでも大変なことはいろいろありましたが,その中でも一番つらい出来事でした。眠れない日が続きました。でもエホバに祈ると,フィリピ 4章6,7節の言葉の通り,本当に心が落ち着きました」。”とあります。伝道の次は祈りですね。」
「息子が自殺した理由を知りたいね。JWによくあるような排斥されて孤立無援になって、精神的に病んでの自殺じゃないことを望むね。」

「12節では“聖なる力を与えてください,とエホバに繰り返しお願いしましょう。エホバはいつでも助けてくださいます。”とある。聖霊を求めなさい、というのは今まであまり聞いたことがない教えですよ。」
「JWも普通のキリスト教の真似をしようとしているということかな。」

「13節はフローラ姉妹の話です。“姉妹は夫と2人で宣教者として奉仕していました。でも夫は姉妹を裏切り,2人は離婚しました。”とあります。この姉妹は“夫に裏切られて,苦しくて何も考えられませんでした。このつらい状況を耐えられるように聖なる力を与えてください,とエホバに祈りました。エホバは私の祈りに答えて心の傷を癒やしてくださいました。”というものです。」
「JWの離婚率は相当高そうだね。でも夫婦で宣教活動しているのに、妻の目を盗みながら、しっかり浮気するというのは非常にまめな男だね。でもすぐばれて離婚だから単なる女好きのバカなのかも。」

「この種の離婚問題はJWでなくてもたくさんあって、聖霊の力に頼らず皆耐えていますよ。」
「この姉妹はJWでなくても、離婚に耐えたと思うよ。神秘的な力が働かなくても、時間の経過とともに苦しみはまぎれるものでしょう。この話は説得力ゼロだ。」

「14節は行動の必要性です。祈るだけではダメです。“集会に出席したり,伝道に参加したりすることは欠かせません。毎日聖書を読んでエホバの考えを知るようにしましょう。”とあります。過酷ですね。」
「子どもが自殺したり、夫が浮気して離婚したりしても、集会や伝道は休むな、という指令だね。精神を病むJWが増えるのも理解できる。つらいときには休息が必要。信者をただでこき使うことしか考えていないね。」

「15から17節が“エホバは仲間の兄弟姉妹によって慰めてくださる”です。 JW仲間で慰め合いなさいと言っています。16節では“仲間に支えてもらうためには,自分の方から助けを求める必要があるかもしれません。”と、積極的に助けを求めることを勧めています。」
「そうしないと誰も助けないからだよ。孤独死して、腐敗した状態で発見されたというJWが結構いるんじゃないの。貧しい老いたJWは集会に来なくなったら忘れ去られるだけ。」

「17節では“人と関わりたくないという気持ちに負けないようにしましょう。つらい気持ちの時には人と話す気になれないと感じることがあるものです。”とあります。うつ病の人を想定しているようです。“うつ病と闘っている長老のガビン兄弟はこう言っています。「友達と話したり,一緒に時間を過ごしたりする気になれないことがよくあります」。でも,兄弟はその気持ちに負けないようにしていて,仲間から力をもらっています。”とあります。」
「それはウソだろう。うつ病なら長老をやめるべき。うつ病のJWがまずすべきはJW活動から離れて、休息をとること。JWが励ましと称してつきまとうのは症状を悪化させるだけ。」

「うつ病患者の扱い方をJWは全く知りませんよね。」
「急性期には、励ましは逆効果になる、といった基本的な知識もないでしょう。周囲から励まされても、何を頑張ればよいのかわからないし、励まされると、周囲の期待に応えられない自分はダメだと自分を責めてしまう。」

「最後の18節は“将来に関するエホバの約束によって慰められる”です。 決まりきった最後の節の内容です、楽園幻想を振りまいておしまいです。」
「そうでもないよ。“でも,エホバは今でも私たちの「傷を包んで」くださいます。”とあって、“今でも”エホバは役立つと言っている。でもその根拠が真偽不明の体験談だけだったから説得力ゼロだったね。」

#1549 2024年12月20日 14:26:33

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“イエスが天に戻るまでの最後の40日間(41)”で、イエスに倣ってJW活動を熱心にやりなさい、という内容です。」
「最後の19節に“イエスは天に戻る前の40日間を,弟子たちを力づけ,教え,訓練するために使いました。私たちもぜひその手本に倣いましょう。”とこの記事を要約している。イエスを中心にした記事とはエホバ教らしくないね。」

「1、2節はルカ24章にあるエマオへの道という話です。1節に“西暦33年”とありますが、普通は西暦30年ですよ。」
「JWの年代計算はたいてい間違い。JWには聖書に関するいかなる専門家もいない。いるのは素人聖書研究だけ。」

「エマオへの道というのは、旅をしていた二人に見知らぬ人物が現れて、一緒に時を過ごし、後でその人物がすごい人だったと気づくというストーリーですが、こんな話はどこかで聞いたことがあるような気がするのですが。」
「古代のギリシャ・ローマ世界で類似した話はある。日本では“鉢の木物語”がそういう話だね。そういう慣れ親しんだ話の枠組みを使って、イエスの復活を“証明”しようとしたのがエマオへの道の話だね。」

「3節に“イエスは天に戻るまでの40日間に,弟子たちの前に何度も現れました。(使徒 1:3を読む。)”とあります。引照聖句には“イエスは苦難を味わった後,自分が生きていることを多くの確かな証拠によって使徒たちに示しました。40日にわたって現れ,神の王国について話しました。”とあります。死後40日間に地上にいたというのは福音書とは違いますよ。」
「先ほどのルカ24章では、エマオの話のあと、イエスはエルサレムの弟子たちに現れて、焼き魚を食べて、ベタニヤに行き、24:51で、“そして祝福を願っているうちに彼らから離れ,天に上げられた。”というもの。復活して数日で天に行ったとしか読めない。」

「使徒13:31では“そしてこの方は,ガリラヤからエルサレムに一緒に来ていた人たちに何日もの間姿を見せました。”とあります。同じ使徒なのにここではイエスが地上にいたのは“何日”ですよ。」
「マルコ、マタイ、ヨハネにはイエスが天に行ったという話は出てこない。いつ天に行ったかは不明だね。」

「ルカ24章では復活したイエスが使徒たちと初めて会うのはエルサレムですが、マタイではガリラヤです。マタイ28:16に“ところで,11人の弟子はガリラヤに向かい,イエスが会うために指定していた山に行った。”とあります。」
「ヨハネ20:19では“週の最初であるその日の遅く,弟子たちがユダヤ人たちへの恐れのために戸に鍵を掛けていたのに,イエスが現れて皆の真ん中に立ち,「あなたたちに平和がありますように」と言った。”とあるから、イエスが使徒たちと会ったのはエルサレムだね。イエスの復活に関する話は福音書によってみな違う。」

「5から8節が“他の人を力づける”です。 イエスに倣って他のJWを力づけて、JW活動をもっとやるように仕向けなさいという話です。7節では“ヨハネ 20:11-16を読む。”とあり、マリア・マグダレネが取り上げられます。」
「Mary Magdaleneを“マリア・マグダレネ”と訳しているけれど誤訳。これだとマグダレネが名字になってしまう。これは“マグダラのマリア”と訳する。」

「マグダラのマリアは空になった墓を見て泣くわけですが、そこへイエスが現れ、7節には“イエスはその涙を見ていて,慰めてあげたいと思いました。それでマリアの前に姿を現し,話し掛けます。”とありますが、正しくないです。イエスがなんていうかというと、“なぜ泣いているのですか。誰を捜しているのですか。”です。これは慰めてあげたいと思っている人の言葉ですか?」
「ヨハネのイエスはぶっきらぼうなんだよ。JW訳では省略しているけれど、イエスはマグダラのマリアに“女よ”とまず話しかけている。協会共同訳では“女よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。”となっている。人間的なイエスではなく、神格化されたイエスが描かれている。ここではイエスは慰めるなんてことはせず、任務を与えて、消える。」

「ヨハネ20:11、12には“泣きながら前かがみになって墓の中をのぞくと,イエスの体が置いてあった所に,白い衣服をまとった天使2人が座っていた。”と描かれていますが、ルカ24:3,4では“中に入ってみると,主イエスの体が見当たらなかった。 当惑していると,何と,光り輝く衣服を着た2人の人が現れた。”とあります。かなり違いますね。どちらが正しいのですか?」
「ルカ24:4のJW訳に問題がある。そこで使われている動詞の第一の意味は“立つ”。それを“現れた”と訳するのはダメだ。協会共同訳では“輝く衣を着た二人の人がそばに立った。”となっている。」

「これは“立った”と訳すると、ヨハネ20:12の“座っていた”と矛盾するからじゃないですか。それで訳でごまかした。」
「JWの英語訳ではstood by(そばに立った)となっている。ごまかしたのは日本語の翻訳者だね。」

「復活に関して異なった言い伝えがあったということですね。誰も真実を知らないわけですね。」
「聖書の細部の矛盾を気にしなくてはいけないのはJWみたいに聖書は神の言葉ですべて真実という思想の持主だけ。でもJWはこの問題を無視しているね。」

「8節は“イエスにどのように倣えるか。”で、“イエスのように周りの人の様子によく気を配り,誰かが気落ちしていることに気付いたなら,相手の気持ちを思いやりながら話し掛けましょう。”とあります。」
「泣いている女性JWがいたら、イエスに倣って“女よ、なぜ泣いているのか。”と話しかければいいわけね。」

「8節には“妹を事故で亡くすというつらい経験をしたジャスラン姉妹”の体験談が出ています。“「何カ月もの間,悲しみのどん底にいました」。そんな時,ある夫婦が家に呼んで親身になって話を聞いてくれました。”とあります。すると“まるでエホバが兄弟姉妹を使って,荒れ狂う海の中から私を救命ボートに引き上げてくれたように感じました。”というものです。」
「この話の問題点はまず“何カ月もの間”この姉妹は放置されていたこと。JWというのは実に愛のない人達だということがわかる。それからエホバなる神は交通事故を防いではくれないけれど、話を聞いてくれる人を手配してくれるというひどくずれた仕方で介入すると想定していること。」

「9から12節が“聖書を正しく理解できるよう助ける”です。 再びエマオへの道の話です。10節に“ルカ 24:18-27を読む。”とあり、“イエスは自分が誰であるかをすぐには言いませんでした。その代わりに質問をしました。”、そして“それまで起きたことについて正しく理解できるよう聖書を使って助けました。”とあります。ちょっと違いますね。」
「イエスはルカ24:25で“ああ,無分別で心が鈍い人たち! どうして預言者たちが語った全てのことを信じないのですか。”と言っている。これが“理解できるよう聖書を使って助けました。”と言うものなの?単に叱っているだけ。」

「福音書のテーマの一つに弟子たちの無理解というものがあります。弟子たちはダメなできの悪い人間と繰り返し描かれます。このエマオへの道の二人もその基本的なテーマに合うように描かれているわけですね。」
「イエスはそういうダメな弟子を時々しかりつける。でも見放すことはない。」

「11節は“イエスにどのように倣えるか。”で、“聖書レッスンをするときには上手に質問をして,学んでいる人の考えや気持ちを引き出すようにしましょう。(格 20:5)相手の気持ちが分かったなら,その人の状況にぴったり合う聖句をどうすれば見つけられるかを教えてあげてください。”とあります。これってイエスに倣うことになりますか?またもや格言20:5が登場しています。」
「ルカ24:27でイエスは“聖書全巻にある自分に関連した事柄を2人に解き明かした。”とある。JWのように都合の良い聖句をつまみ食いしなさい、と言っていないよ。全巻を読め、だね。」

「12節は家族の反対にあったノーティ兄弟の体験談です。“ノーテイ兄弟と聖書レッスンをしていた兄弟は,本物のクリスチャンは迫害されるということをマタイ 10章から前もって教えていました。ノーテイ兄弟はこう言っています。「それで,反対が始まった時,やっぱりこれが真理なんだと確信しました」。”とあります。これはJWによくある話です。」
「あらかじめ家族の反対があることを告げ、実際に反対があると真の宗教だからと思わせて、聖書の勉強と称するカルトの勉強を続けさせる。なければ何事もなかったかのように聖書の勉強と称するカルトの勉強を続ける。どっちでもカルトの勉強をやめさせない。」

「ノーティ兄弟は論理的誤謬を犯しています。反対があることは真の宗教ということの証明にはなりません。歴史上様々な宗教が迫害にあってきました。」
「そんなことを考えられるほどの知性がある人はJWにならないよ。」

「そのあと“聖書を教えていた兄弟は,何をすべきかを言う代わりに,質問をして,聖書の教えに基づいて考えるよう助けました。どうなったでしょうか。ノーテイ兄弟は開拓奉仕を始めることにしました。その結果,父親から家を出るように言われました。”とあります。JW流誘導術ですね。大学進学をあきらめて、開拓者というカルトの奴隷になるよう指示するのではなく、エホバが喜ぶのはどちらでしょうか、とか何とか言って自分で選択させたように誘導するわけです。」
「純真な世間知らずの未成年をだますことなど簡単なことでしょう。ノーティ兄弟はこのままJWを続けたら、窓ふきの仕事を30年続けた後、あのときJWにさえ会わなければとか、あの時父親の言葉に従っていればと後悔することになるだろうね。」

「でも12節では“正しい決定ができたと思うので,後悔は全くありません。”とノーティ兄弟は言っています。完全に洗脳されています。」
「英文ではI am convinced that I made the right choiceで、後悔は全くありません、なんて言っていない。翻訳者が勝手に付け加えている。翻訳者はきっと後悔でいっぱいの人なんだよ。組織内で翻訳の仕事をしているけれど、恐らく真面目なJWで大学に行っていないね。本心は大学に行ってもっと勉強したかったはず。それでこの場を借りて“後悔は全くありません”と負け惜しみを付け加えたくなったんだよ。」

「12節の下には、2枚の写真があって、JWの出版物を学んだ人がクリスマスの飾りつけを捨てているというものです。この記事はクリスマス嫌いのJWの保守強硬派が書いていますね。」
「みんなが楽しんでいる無害なものに難癖をつけて捨てさせるのがJW。こうして少しずつその人の人生を支配していくわけだ。」

「13から18節が“「人々という贈り物」になれるよう兄弟たちを訓練する”です。 組織に忠実なJWになるように訓練しなさいという内容です。13節に“イエスは天に戻る前,エホバの大切な羊を世話し,伝道して教える活動で率先するという責任を弟子たちに委ねました。その中には20代の人もいたかもしれません。(エフェソス 4:8を読む。)”とありまして、引照聖句には“こう述べられています。「その方は高い所に昇った時,捕虜を連れ去り,人々という贈り物を与えました」。”とあります。よく意味が分かりません。」
「訳がヘンだね。協会共同訳では“高い所に昇るとき/捕らえた者を引いて行き/人々に贈り物を分け与えられた。”とあるように、“人々という贈り物”ではなく、“人々に贈り物を”という意味。JW訳は間違いだらけでひどいね。」

「これは詩編68:18の“神ヤハよ,あなたは高い所に昇り,捕虜を連れ去りました。人々という贈り物を取りました。意地を張る人たちをも取りました。彼らの中に住むためです。”の引用ですよね。でも、引用としてはかなり不正確です。詩編には“人々という贈り物を取りました。”とあるのに、エフェソスでは“人々という贈り物を与えました”と逆の意味になっています。」
「詩編68:18は神がシオン山に上って、捕虜を含めた戦利品を受け取るという内容。それをエフェソスでは戦利品を神ではなく人間が受け取るように改変している。それをJWがさらに改変している。」

「エフェソス4:8の“その方”とはキリストのことですよね。詩編では“神ヤハ”とあるのに、キリストに読み替えるわけですね。」
「それがキリスト教。神ではなくキリストが中心となる。JWは違うけどね。」

「15節は“長老たちはイエスにどのように倣えるか。”です。 イエスとは関係ない内容です。“長老たちは,比較的若い人たちを含め兄弟たちがさらに大きな責任を担えるよう訓練し,サポートする必要があります。”と断定しています。」
「若者を育てよ、ということだけど、高齢化が進んで役職者のなり手がいないから、とは言えないみたいだね。」

「脚注には“資格を満たした兄弟が,20代半ばから後半で巡回監督に任命される場合もあります。”とあります。21歳で長老、25歳で巡回監督ですか。そうなったらもう組織も終わりですね。」
「それは組織内に人材がいないということを世間に知らしめるだけの愚行。人材難なら女性の活用を図るべきだけど、JWはそれができない。行き詰まりだね。」

「16節はパトリック兄弟の体験談です。“その長老のアドバイスのおかげで,会衆での奉仕の立場や機会よりも,仲間に謙遜に仕えることに注意を向ける大切さに 気付くことができました。”と心にもないことを言っています。その結果どうなったかというと、“パトリック兄弟は20代前半の時に長老として奉仕するよう任命されました。”というものです。ちゃんと長老になっています。メデタイですね。」
「若い人にやる気を出させるには長老という地位をちらつかせるしかない。それを露骨に示していているだけ。組織の言うことを聞いていると20代前半で長老ですよ、すごいですよ、と言っている。」

「18節では“経験豊かな長老たちは,ほかの兄弟たちに責任を委ねます。”とあり、具体的には“例えば,若い人たちに王国会館の清掃やメンテナンスに加わってもらうことができます。”とあります。若い人を無償でこき使うつもりです。若い人がいなくなるのも無理はありません。」
「これこそ机上のプラン。若い人がそもそもいないのに、若い人に清掃やメンテナンスをさせるなんて無理。必要な仕事はお金を出して専門家を雇えばいい。組織はお金をかけてつまらない動画を作っていないで、各会衆に必要な資金を与えたらいいよ。」

「最後の19節はまとめで、なぜかイエスの最後の40日間だけを取り上げて、“私たちもぜひその手本に倣いましょう。”と締めくくっています。そういう動画を作るという予告ですか?」
「来年の大会で繰り返し見せられるかも。最後の40日間にイエスが何をしたのかよくわからなかったけれど、焼き魚を食べたようだから、今夜はそれを倣うのはどうかな。」

#1550 2024年12月27日 14:13:23

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界


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