#1276 2021年02月03日 13:43:05
- 忖度なし
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
たとえイエスが「超人間な存在として実在」していたとしても、彼自身がペンを取り言葉を記したのではありません。また、弟子も聖書の記述されている事象の目撃証人として記録した訳では必ずしもないでしょう。イエスの講話を直接聞いていたとしても、書記のように記録したのではないはずです。
一介の人間が記憶や聞いた(伝え聞いた)話を頼りに執筆したもの、そこには脚色があり、穴もあることでしょう。イエスの教えと言われる記述も含めて聖書ってそんなものではないでしょうか。
#1277 2021年02月05日 15:49:35
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、” 復活 確かな希望(49)”で、復活に関するJWの教義をもう一度勉強しましょう、という内容ですね。コリント一15章が主に取り上げられています。来週も復活の話です。2週続きです。」
「復活の話で盛り上げようというわけなんだろうけど、JWの復活には興味が持てないね。JWの復活というのは再創造、つまり複製の作製だ。自分が死んでから、自分の複製が造られても、それは自分ではないし、自分とは関係ないよ。」
「JWの復活の教義で、一番問題なのは144000人が天に行き、それ以外の人は地上で復活するという点でしょうか?」
「これは聖書から適当に聖句を拾い集めて作ったインチキ教義の代表だね。天に行く人に定員を設けるなんて言う発想はケチ臭い人間の発想でしょう。しかも1世紀のクリスチャンは天に行くという。いつ生まれるかによって決まるなんて不公平だろう。」
「神は不公平な方ではないとJWはよく強調しています。」
「JWがまともな宗教を目指すなら、人間の平等や神の公平性と愛という原則にたたないとね。」
「2節に引用されているのは使徒24:15の“神が正しい人も正しくない人も復活させてくださるという希望です。”というものです。これはパウロが言ったことになっているのですが、パウロは、自分の手紙で正しくない人の復活なんか言っていました?」
「言ってないよ。24:15では“私はこの方たちと同じ希望を持っております。”とある。この方たちというのは大祭司アナニヤのことだけど、アナニヤはサドカイ派で復活の教義を受け入れていない。間違いだ。使徒24:15はパウロが実際に言ったことではないでしょう。使徒の作者の創作だね。」
「2節には“ヨブは,自分が死んでも神が思い出して生き返らせてくださる,と確信していました。(ヨブ 14:7-10,12-15)”とあるのですが、これはウソでしょう。」
「ヨブ14:12に“人も,横たわり,起き上がりません。天がなくなるまで,目覚めることはなく,眠りから起こされることはありません。”といっている。これは復活の否定。死の究極性をいっている。」
「14:13の“あなたの怒りが過ぎ去るまで私を隠し,私のために期限を定め,時が来たら私を思い出してください。”は、ヨブの願望ですよね。復活の信仰ではないですよ。」
「14:19に“あなたは死にゆく人間の望みを消し去りました。”とある。ヨブは苦しみから逃れるために死とその後の復活を望むけれど、現実的にはその望みはないと言っている。復活信仰が生じるのはずっと後の時代。」
「6節に“預言者イザヤによると,メシアは「地上から除かれ」,「悪人と共に墓を与えられ」ることになっていました。それだけでなく,「多くの人の罪を担」うことにもなっていました。イエスが贖いになることによって,この預言は実現しました。(イザ 53:8,9,12。マタ 20:28。ロマ 5:8)”とあります。イザヤ53章はイエスの預言なのですか?」
「4つある“主の僕”の歌の最後のもので、52:13から始まって53:12で終わる、すごい長い詩。中心は53:1から10だけど、問題はそこに出てくる“彼”とは誰か?」
「JWも多くのキリスト教もそれはイエスのことと解釈しています。」
「しかし、それは後知恵的にイエスの生涯の意味を旧約聖書の中に探し求めたら、イザヤの“主の僕”がよく当てはまったからで、本当にイザヤがイエスを預言していたということではない。」
「イエスと似ている所もありますが、違う所も結構ありますよね。」
「イザヤ53:8,9が引照聖句となっているけれど、“誰が彼の家系の詳細を知ろうとするだろうか。”とあるけれど、イエスだったら当てはまらない。2つも家系図が聖書にのっている。」
「“彼”は個人ではないですよ。」
「個人とした場合、53:8は“彼は地上から除かれた。”とある。しかし、引照聖句となっていない53:10には“彼は自分の子孫を見て,長く生きることになり”とあって矛盾する。そこで“彼”はイスラエル全体を指していて、53章はバビロン捕囚とその苦難、それからの回復のことを言っていると解釈できる。」
「7から10節が“大勢の目撃者”です。イエスの復活には大勢の目撃者がいたので信用できるというものです。」
「目撃者がたくさんいるから信じるの?例えば、聖母マリアに出会って、会話をしたなんて言う話しはヨーロッパ中に沢山ある。大勢の人の前に現れたことも何度もある。それは古代や中世だけでなく現代でもあるよ。聖母マリアが現れた場所に教会が建てられている所だってある。でも、JWやプロテスタントはこんな話を信じない。目撃者が沢山いるのに。」
「聖母マリアはカトリックだからですね。」
「JWやプロテスタントはイエスの復活は事実だ。それは大勢の目撃者がいるからという。それなら聖母マリアの話も事実と認めるべき。しかし、無視する。典型的なダブルスタンダード。」
「イエスの復活の目撃者といっても、すべて聖書に出ている話ですから。説得力はないですよ。」
「ローマ帝国の記録にあるというなら信ぴょう性は高まるけれど、イエスのことは当時の記録には何も書かれていない。」
「コリント一15:4,5でパウロは“3日目に生き返らされ, ケファの前に現れ,それから12人の前に現れた”とありますが、イエスの逮捕後弟子たちはガラリアに逃げたのなら、3日後にエルサレムに戻ってイエスに会うことは不可能です。1週間はかかります。」
「パウロの言っているのは、史実ではなく初期クリスチャンの間に流布していた伝承だよ。」
「11と12節は“間違った考えを正す”です。コリントには死者の復活はないという人がいたけれど、パウロは復活はあると手紙に書いたという話です。」
「12節に“イエスは,目に見えない存在として復活した最初の方です。”とある。この意味はなんなの?」
「洞察の“体”によると、イエスの死後“その体は腐敗の過程をたどることなく分解させられたのでしょう。”といっています。根拠はありませんが、イエスの体は消滅したというのがJWの教義です。そして、“霊者としてよみがえらされたイエスは(ペテ一 3:18),昔,み使いたちが使者として現われた際に行なったように,肉体を備えて現われることができました。”とあります。」
「イエスの肉体性を否定するのはグノーシス主義的だね。復活というのは通常“肉体の復活”を指す。魂や霊が天に行くというのは復活とは言わない。」
「福音書を読むと、復活後のイエスは肉体を持った存在の様に思えます。」
「ルカの福音書から見てみよう。復活したイエスをみて、“しかし弟子たちは仰天して恐れ,自分たちは幻影を見ているのだと思った。”と24:37にある。それでイエスは24:39で“私の手と足を見なさい。間違いなく私です。私に触り,見てみなさい。幻影であれば,あなたたちが見ているような肉体はありません。”という。それでも弟子が信じられないようなので、イエスは24:43で焼き魚を“皆の目の前で食べた。”とある。」
「ルカはイエスが肉も骨も口も胃もある、生前と同じ肉体をもって復活したことをしつこく示しているわけですね。」
「それはルカが福音書を書いたころ、JWのようにイエスは霊的に復活したと主張するグループがいて、それに反論するためと思われている。霊は食べたりしないので、わざわざ復活したイエスに魚を食べさせた。」
「ヨハネはもっとイエスの肉体性を強調していますよ。疑り深いトマスの話なんかあります。」
「ヨハネ20:27でイエスは“「指でここを触り,私の手を見て,私の脇腹に手を当てなさい。そして,疑うのをやめ,信じなさい」。”と言っている。これも復活したイエスの肉体性を、しかも復活前と後の連続性を強調する意図のもとに書かれている。」
「12節に“天に復活した最初の方でもあります。(コリ一 15:20。使徒 26:23。ペテロ第一 3:18,22を読む。)”とあります。天で復活したというのはペテロ第一 3:18だけなのです。“キリストは人間として死にましたが,天での命を受けました。”とあります。これは誤訳じゃないですか?」
「日本語訳に問題がある。英文は“He was put to death in the flesh but made alive in the spirit.(肉において殺されましたが、霊において生かされました。)”というもの。それを“天での命を受けました”に変えている。ペテロ一が言っているのは、ヘブライ書と同じで“昇栄exaltation”と言う思想。復活とは別の概念なの。」
「歴史的には、イエスの死後にイエスを見たという人が現れたわけですね。それを説明するのに、イエスは霊として天に行き、それが地上に現れたという思想が生まれたんですよね。」
「フィリピ2:6-11はもっとも初期のキリスト教の思想をパウロが引用した部分なんだけど、2:9に“神は彼をさらに上の地位に高め”とある。協会共同訳では“神はキリストを高く上げ”で、こちらの方が正しい。これが昇栄という思想。」
「13から17節が“キリストのゆえに「生かされる」人たち”です。13節で“1人の人の死によって多くの人が命を得ることなどあるのでしょうか。”と問いかけ、パウロの考えを述べています。」
「“1人の人の死によって多くの人が命を得る”と言う理屈はよく理解できない。イエスの死の意味を探すうちにパウロが思いついた理屈でしょう。」
「絶対的な神というものを想定しておきながら、アダムの罪を贖うためにはキリストの死が必要というのは矛盾ですよ。絶対的な神なら、アダムの罪はなかったことにすると宣言すればそれでいいはずです。」
「そのとおり。当時のローマ帝国内では、神殿で犠牲の動物の血を流すことがごく当たり前に行われていて、それがとても意義のあることと思われていたんだ。そういった社会では、イエスの血が全人類を救うという話しは抵抗なく受け入れられたのでしょう。しかし、現代人には理解しがたい。」
「14節で“アダムが復活することはありません。”と、アダムは復活しないことが明言してあるのが面白いです。」
「誰が復活して、誰が復活しないのかについては、JWの教えは二転三転してきたからね。はるか昔はアダムは復活すると言っていたよ。」
「ソドムとゴモラの住民も復活すると言ったり、しないと言ったりしていますよね?」
「復活について聖書はあまり述べていないから、JWは適当に想像を交えて、好きなことを言っている。」
「17節には“現在,予告されていた「キリストの臨在」はすでに始まっています。死の眠りに就いていた,天に行くよう選ばれたクリスチャンは,その臨在が始まった後,天での報いを受け,「キリストと同様の復活を遂げてキリストと結ばれ」ました。”とJWの独自教義が出ています。」
「天に行く少数の人たちと地上で復活する大群衆という教義はJW独自のもの。キリストの臨在はすでに始まったというのも独自教義。JW以外は相手にされないよ。」
「啓示1:7には“見なさい,この方は雲と共に来ます。そして,全ての目はこの方を見ます。この方を刺し通した者たちもです。地上の全ての民族が,この方のゆえに自分の体をたたいて悲しみます。”とあります。イエスが目に見えない形でこっそりと現れるなんていうのは聖書のどこにも書いていません。」
「それはマタイ24:30の“その時,人の子のしるしが天に現れます。そして,地上の全ての民族は胸をたたいて悲しみ,人の子が力と大きな栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見ます。”とほほ同じ内容だね。イエスの再臨は誰にも明らかな形で行われるはず。」
「しかし、イエスの再臨が生じるはずだった1914年に何も起こらなかったので、目に見えない形でイエスの再臨が生じだと詐欺師の言い訳のような主張を始めたわけですね。」
「100年以上ウソをつき続ければ、ウソも本当になると思っているんだよ。」
「18,19節が“確かな希望がある”です。18節に“聖書によると,パウロなど,天に行く人たち が経験するのは「早い方の復活」です。(フィリ 3:11つまり,その後にほかの復活が起きるということです。)”とあります。」
「引照聖句だけど、協会共同訳では“何とかして死者の中からの復活に達したいのです。”となっていて、JW訳の様に“何とかして早い方の復活を経験したいと願っているのです。”とは違う。」
「“早い方の復活”と言う言葉はない?」
「元のギリシャ語に“早い方の”に相当する言葉はないよ。JWの挿入だ。」
「天に復活する早い復活があって、その後に地上で復活するというJWの教えは聖書的根拠がないわけですね。」
「そうでしょう。19節で、使徒24:15に“正しくない人も復活させてくださるという希望”のことに触れてから、“正しくない人が天に行くことはありません。ですからこの言葉は,将来地上で復活が起きることを示しています。”といっている。」
「地上の復活の聖書的根拠として使徒24:15が使われているわけですね。」
「以前だと、地上の復活の聖書的根拠として、詩編とかイザヤとかを持ち出していた。その聖句は本当は別のことを言っていることに今頃気づいたのかも。それで新しい根拠として使徒24:15を見つけてきた。」
「最後の20節は、復活の希望です。愛する人にまた会える、死んでもまた生き返る、と言っています。」
「その希望をエサに、死ぬまで組織のためにタダで働かせるつもりだね。統治体の老人たちのにんまりした顔が目に浮かぶよ。」
#1278 2021年02月12日 15:21:34
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“死者はどのように生き返らされるのか(50)”で、コリント一15章の説明で、そこに書かれているのは天に行く人しか当てはまらないけれど、それ以外の人も学ぼうというものです。」
「JWの聖書解釈をおかしなものにしているのは、人間は少数の天上組と地上組に分かれて、新約聖書はその少数の天上組にむけられたものという教義だね。」
「パウロにそんな思想はありませんよね。JWだけです。」
「そのJWの独自の教義をパウロの手紙に当てはめて解釈するわけだから、奇妙なものになる。こんなもの学んでも意味がないよ。」
「2節に“1世紀のイエスの弟子の中には,神の聖なる力に導かれて天への復活について書いた人たちがいます。”といって、ヨハネ一3:2の“分かっているのは,神がご自分を示す時に私たちが神のようなものになるということです。”を引用しています。これは天の復活について言っているのですか?」
「ヨハネはパウロと思想が違う。復活の際、人間が神のようになるという変容という思想はパウロのものでヨハネのものではない。ヨハネの福音書は、すでに永遠の命を得ていることを強調している。」
「ヨハネ5:24でイエスは“私の言葉を聞いて,私を遣わした方を信じる人は,永遠の命を受けます。断罪されず,死から命へと移っています。”といっています。6:54では“私の肉を食べ,私の血を飲む人は永遠の命を受け,私はその人を終わりの日に復活させます。”といっていますし、14:23では“私を愛する人は私の言葉を守ります。私の父はその人を愛し,私たちはその人の所に行って一緒にいます。”といっています。パウロとは全然違う思想ですね。」
「ヨハネのイエスは再臨、JW用語だと臨在について何も語っていない。ヨハネの手紙をパウロ的に解釈するのは間違っている。」
「ヨハネ一3:2の“神”はイエスのことですよね?」
「そうだね。だから2節に“エホバを見ることになります。”と言うのは違う。」
「3節にコリント一15:32の“エフェソスで野獣と戦った”と言うパウロの言葉を取り上げています。これは比喩的な意味ですよね。」
「コリント二11:23-27では、パウロが経験した迫害や困難が列挙されているけれど、野獣と戦ったとは書いていない。」
「4節が恐ろしいです。“たとえ命を落とすことになるとしても,エホバが将来はるかに素晴らしい報いを与えてくださることを知っているので,恐れてはいません。”とあります。殉教を恐れるなということなのでしょうか?」
「復活を信者に信じ込ませて、危険を恐れるな、今の命を惜しむな、といっている。本当に危険な宗教だね。」
「こんなことを書いている人たちは安全な場所で安楽な生活をしています。そういう欺瞞に末端の信者は気づくべきですよ。」
「ここでいう“素晴らしい報い”とは、正確に言うと将来自分の複製が造られ、自分として振る舞うということだ。それがなぜ“素晴らしい報い”なのか理解できない。そんなに素晴らしいなら、その複製を100体くらい作って欲しいね。」
「4節では“今は危険な時代です。”と言っています。4節の上にある挿絵は父親が外を警戒し、母親と二人の娘がJWの教えを学んでいるというものなのですが、こんな国ってどれほどあるのですか?」
「ほとんどの国では、JWなんか相手にされていない。でも統治体は自分たちのことを過大評価して、国家から狙われているという妄想を抱いているのかも。今でもナイジェリアのようにクリスチャンが大量に殺害されている国はあるけれど、それはJWを対象にしたものではない。」
「イスラム過激派が殺しているのですね。」
「”Christian Today”によると2020年の半年でナイジェリアでは1202人のクリスチャンが殺害され、数千人が負傷した。」
「教会も破壊されたり、放火されたりしていますね。」
「“オープン・ドアーズ”という迫害されているクリスチャンを支援する国際的な団体があるけれど、毎年ワールド・ウォッチ・リストというのを発表している。」
「キリスト教徒に対する迫害を行っている国のリストですね。50か国以上ありますね。」
「1位は北朝鮮だけど、ほとんどがイスラム教国。インド、ベトナム、中国も迫害国になっている。“オープン・ドアーズ”によると世界のクリスチャンの8人に1人が迫害国に住んでいる。JWはそれらの国にほとんどいないよ。」
「7から12節が“どんな体か”です。8節で“生きていた時と同じ体に復活させる必要はありません。”とあります。10節で“「天での体」で生き返らされることについて言っていたのです。(コリ一 15:42-44)”といっています。“天の体”って変な言葉ですね。」
「コリント一15:44は“地上での体があるなら,天での体もあります。”とあるけれど、英文は“If there is a physical body, there is also a spiritual one.”で地上だの天上だのは出てこない。a spiritual one(霊的な体)といっている。協会共同訳では“自然の体があるのですから、霊の体もあるわけです。”となっている。」
「日本語訳者は“霊”が嫌いですよね。悪霊とか聖霊は別な言葉に変えています。霊的な体は天上の体ですか?こんな勝手なことが許されるのですね。」
「JWの翻訳者には“霊の体”と言う意味が分からないのかも。人間は肉体と霊あるいは魂からなるという二元論はパウロにはない。古代の思想では霊も物質的なもの。ただ非常に細かい粒子からなると考えられていた。」
「要するに、パウロは復活した体は普通の肉体ではなく永続する朽ちない体に変容したものと想定しているわけですね。」
「コリント一15:50には“肉体は神の王国を受けることができず,朽ちるものが朽ちないものを受けることはありません。”とあるのは、変容した肉体だけが神の王国を受けることができるという意味。JWの復活観とは全然違う。」
「その変容は一瞬で起こるといっていますね。15:52には“ラッパが鳴ると,死者は朽ちないものとして生き返らされ,私たちは変えられるのです。”」
「そして、その後“「死は永久にのみ込まれる」と書かれている通りになります。”とパウロは言っている。」
「11節に“復活した時,「命を与える,目に見えない存在になり」,天に戻りました。”とあります。コリント一15:45からの引用ですが、これもへんな訳ですよね。」
「英文では“The last Adam became a life-giving spirit.”で、“命をあたる霊になった”とあるのに、霊をきらう日本語訳者が“目に見えない存在”と勝手に変えた。霊が目に見えないなんて決まっていないよ。」
「JW訳の聖書もひどいですが、その日本語訳はもっとひどいですね。聖書研究ではなく、匿名の翻訳者の思想を学んでいるだけですね。」
「13から16節が“死に対する勝利”です。13節では、キリストの臨在に関して“1914年以来,この聖書預言は確かに実現しています。”とインチキ教義を繰り返しています。」
「1914年から100年以上たったけれど、これからどうするのだろうね。いつまでも重なる世代でごまかせるとは思ってはいないだろうし。」
「14節では、“天に行くクリスチャンのうち,いま生きている人たちは,地上の歩みを終えると,すぐに天での命に復活させられます。”とあります。その根拠は,コリント第一 15:51,52だそうです。今はラッパが鳴っている時期なんだそうです。」
「JW独自の教義だね。天に行った人は今頃何をしているのかな?何もしていないよね。」
「13節の引照聖句のコリント一15:23は“最初にキリスト,その後,キリストの臨在の間に,キリストのものである人たちです。”とあります。油注がれた人だけが復活するなんて言っていません。」
「天上組と地上組に分かれて、天上組だけ特別扱いにするなんてことは聖書のどこにも書かれていない。JWの独自教義に過ぎない。」
「15節から啓示に飛びます。天で復活した人は“司令官であるイエスに従い,鉄のつえで国々を処罰します。(啓 19:11-15)”とあります。」
「聖句のつまみ食いだね。引照聖句の啓示19:14に“天の軍勢が,白くて清い上等の亜麻布の衣服を着て,白い馬に乗り,この方の後に従っていた。”とある。しかし、この天の軍勢がJWの言うように144000人のことだなんてどこにも書いていない。」
「最後の17節に“復活に対する確信が本当に強まります。そして,パウロの勧めに従って「主の活動」を熱心に行うように動かされます。(コリント第一 15:58を読む。)”とあります。その引照聖句には“主の活動をいつも活発に行ってください。”とあるのですが、これだとJWなら伝道をやれという意味と解釈してしまうと思うのですが、そういう意味ではないですよね。」
「英文は“the work of the Lord”で、“主の業”とか“主の働き”と訳すべきでしょう。元のギリシャ語のergonは非常に広い意味の言葉。それを“主の活動”と訳するのは伝道活動と理解するよう誘導しているね。」
「17節の設問が“コリント第一 15章58節から,何を行うように動かされますか。”なのです。どういうコメントを期待しているかミエミエですね。」
「どんな記事も結局、結論はもっと伝道せよ、になるということだね。」
「コリント一15:58は15章の最後の締めくくりです。15:32に復活がなければ“食べたり飲んだりしましょう。明日には死ぬからです。”という態度を生み出すとパウロは言っています。それに対して復活を確信した人はそういう生き方をしてはいけないし、しないはずだと言いたいようです。」
「15:34で“正しいことを行って,本心に立ち返ってください。罪を犯し続けてはなりません。”とコリントの人たちにいっている。最後の15:58の主の業に励めというのは、この15:34を言い換えたものだよ。」
「パウロは信者に伝道をせよなんてJWみたいな要求はしていませんよね。」
「していないね。要求しているのは統治体の老人だよ。」
#1279 2021年02月12日 17:56:40
- ジョエル
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
「この朽ちるものは朽ちないものを着、この死ぬべきものは死なないものを必ず着ることになるからです。」(コリント二15章)
2000年前に信じられていたことなので仕方ないですが、パウロに続く最初期の教父たちの著作でも、天(天上界)とは、目に見えない、どこにあるかもよく分からない怪しげな霊界ではなく、キリストのようにそのまま空を上がっていくと上方にある、より空気が澄み切った清浄な世界だと考えられています。ナウシカの設定のように、大気の組成も異なるその清浄な世界に現在の朽ちる肉体は順応できないので、より上質な体を身にまとう朽ちない存在に、何でもできる神様が魔法のような力で瞬時に作り替えてくれることになっています。
福音書をありのままに読めばキリストも肉体で復活して昇天しているので、パウロの言うプニューマ(霊)の体とは、朽ちる肉体とは異なるが同じように見たり触ったりできる、天上界用に作り替えられた体のこと(地上界とも併用可)とされています。
JWの、キリストは復活後に、仮に、また便宜的に、物質化した体をつけていたにすぎない、という解釈は質問さんが指摘された通り霊肉二元論のグノーシスぽいですね。過去の天使も同じことをした(はず)と勝手な想像を言いますが、これもありのままに読めば旧約の初期伝承に出てくる子エホバたちも鳥のような翼は生やしておらず、はしごをつかって天上界と行き来して、人間と同じような体でヤコブとモンゴル相撲をしていますから。
#1280 2021年02月19日 15:23:35
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバは……落胆した人を救ってくださる(51)”で、ヨセフ,ナオミとルツ,あるレビ族の人,ペテロの話から、落胆しても、組織のために働けという内容です。」
「小学生向けの聖書物語から学ぶ教訓話だね。大人がわざわざ学ぶようなものじゃないだろう。この記事は、窓ふきJWの写真の方が話題になっているよね。」
「3から7節が“ヨセフはひどい扱いを受けた”です。ヨセフはJWお気に入りのキャラクターですね。」
「女性からの誘惑を退けたという点がいいのだろうね。性的に潔癖なことをJWは異常に高く評価している。しかしヨセフは特別な人。神がヨセフを助けたからと言って、今のJWを助けるなんてことはないよ。何の励ましにもならない。」
「物語としても面白いじゃないですか。甘やかされて育った生意気な若造が外国で人生の浮き沈みを経験し、最後はハッピーエンドです。」
「これを史実と考えるのがJWの問題点だ。」
「洞察の“ヤコブ”の所を見ますと“兄弟たちはヨセフをつかみ,エジプトへ向かう隊商に売りました。これは西暦前1750年のことです。”とあります。」
「エジプト第13王朝の時代だね。この時代はあまり資料がない。もちろんヨセフに関する資料もない。」
「創世記47:11に“ヨセフは,ファラオの命令通り,父と兄弟たちをエジプトに住ませ,最も良い地域であるラメセスにある土地を与えた。”とあります。ラメセスとはずっと後の時代のファラオじゃないですか?」
「ラメセスは第19代王朝のラメセス二世(在位前1292から前1224)を指していると理解されている。そうなるとヨセフは創世記47:11によればラメセス二世の後の時代ということになる。」
「創世記47:17に“ヨセフは,馬,家畜の羊,家畜の牛やろばと引き換えに彼らにパンを与えてゆき”とあります。ヨセフの兄弟たちが馬を飼っていたなんてありえるのですか?」
「JWの言うように前1750年頃だとするとあり得ない。ずっと後でもあり得ないね。馬は戦車を引くために飼われていた。」
「7節が“学べること。”で、“世の中は冷たく,私たちはひどい扱いを受けることがあります。兄弟姉妹に傷つけられることもあります。でも,エホバが岩であり避難所であることを覚えておくなら,失望したりエホバに仕えるのをやめたりすることはあり ません。”だそうです。要するに、ひどい目にあってもエホバに仕え続けろ、ということです。」
「英文では“this world is cruel and that people will treat us unjustly.”だよ。“冷たい”ではなく“冷酷”、また“ひどい扱い”ではなく“不当な扱い”なんだけど。」
「日本語翻訳者のほうが世の中を知っているということですね。JWの会衆より普通の社会のほうがまともです。それで表現をやわらげたんじゃないですか。」
「生活保護は誰のお金か思い出したのかもね。」
「8から13節が“深い悲しみを味わった2人の女性”で、ナオミとルツの話です。ルツ記ですが、本当の主役はナオミですよね。ナオミの方が苦労しています。」
「飢饉のため外国へ逃げて難民となる。その間に夫や息子を亡くす。」
「エホバは何をしているんだと言いたくなりますね。」
「何にもしていないよ。どうしてこの記事でナオミとルツの話を取り上げるのか疑問だね。ナオミだって、ルツ1:21で“私は多くのものを持って出ていきましたが,エホバは私が全てを失って帰るようにされました。全能者エホバが私をつらい目に遭わせ,不幸にされたのですから”と言っている。」
「もし外国で長年奉仕活動をしてきたJWがナオミと同じことを言ったら、排斥だ!といわれますよ。ナオミは勇気があるのか単にバカなのか、どちらなんでしょう。」
「勇気があるんだよ。ナオミは神様に頼ろうとか、エホバが必要なものを備えてくれるなんて甘い考えをしていない。」
「9節で“ボアズは,ルツが義理の母であるナオミに尽くして愛を示しているのを見て心を動かされ,ナオミの家族の相続地を買い戻してルツを妻として迎えます。”とありますが、これは違いますよ。」
「ボアズはルツが落穂ひろいをしている所を見て、いい女だなと気に入ったんだよ。収穫する監督にルツのことをあれこれ聞いて、特別扱いをする。それを聞いたナオミはボアズはルツに気があると判断し、おしゃれをして、“ボアズの足元の服をまくって横になりなさい。どうしたらいいかを教えてくれるわ。”と3:4でルツに指示を与えた。」
「これって、女の方から夜這いをするということですよね。大胆です。」
「ルツは“お母さんの言う通りにします”という。この夜這いにはルツとナオミの将来がかかっていることがわかっていた。いざとなれば女の方が度胸があるんだよ。」
「そして3:7では“一方ボアズは,食べたり飲んだりして楽しんでいた。そして,穀物の山のそばへ行って横になった。その後,ルツはそっと近寄り,ボアズの足元の服をまくって横になった。”とあります。夜這い成功というわけですね。」
「“横になった”と訳されている単語は、創世記39:7の“主人の妻がヨセフに目を留め,「私と寝て」と言うようになった。”の“寝る”と訳されている単語と同じで、性行為をさす。」
「その後、ルツは3:9で“どうか私を保護してください。あなたは買い戻す権利をお持ちですから。”といいます。これは結婚を迫っているのですよね。」
「ボアズは3:13で“朝までここで横になっていなさい”といって、3:14では“それでルツは,朝までボアズの足元で横になり,明るくなって人に気付かれる前に起きた。”とある。不倫小説そのものだね。」
「ルツの魅力と大胆な行動がボアズとの結婚を成立させたわけで、“ナオミに尽くして愛を示しているのを見て心を動かされ”というのは間違いですね。」
「11節に“2人の間に生まれた子オベデは,ダビデ王の祖父になります。(ルツ 4:17)”とあります。ルツ記の最後に家系図が出ているのですが、普通は後から付け加えたと考えられていますよね。」
「元の話はダビデと何の関係もなく、ただ苦労した女性が最後には幸せになりましたという話しだった。それを後の時代の人がそれをダビデと関係づけた。ダビデと関係ある話ということでルツ記がヘブライ語聖書に採用された。」
「家系図は、4:18の“ペレツの家系は”と始まります。ペレツはユダとタマルの子どもですよね。なぜペレツから始めるのですか」
「タマルは子どものいない未亡人。結婚相手を紹介してくれない義父のユダをだまして、ユダとの間に子どもをもうけた。タマルの話とルツの話が似ていることをこういう形で示しているんだよ。」
「13節が“学べること。”です。“天の父に全面的に頼り,兄弟姉妹たちから離れないようにしましょう。”とあります。同じ会衆のJWを頼れということでしょうか?全然頼りになんかできません。」
「ルツの話からそれが学べることじゃないでしょう。神に頼るな、苦境にあってもあきらめるな、ベストを尽くせ。そうすれば神の祝福がある。そうことだよ。」
「14から16節が“信仰を失いかけたレビ族の人”です。詩編73の話です。14節の上にあるのが、話題の写真です。」
「窓ふきJWが豪華なランチを食べている男女二組を窓越しにつまらなそうに見ているという写真だけど、アメリカではJWの職業として窓ふきなど清掃関係が多いそうだ。」
「こんなジョークを聞いたことがあります。ハルマゲドンが起こると失業する人は?答えはJW。なぜかというとハルマゲドンで拭く窓が割れてしまうから。」
「この写真はいろいろな所でからかわれているよね。レストランが営業時間中に窓ふきをさせることはないとか、JWなら昼間は働かないで奉仕活動をしなさい、なんて言われている。」
「レストランの窓を拭くのにスプレーのボトルを持っています。これはおかしいです。ゴム手袋をしていますが、あれは食器洗い用ではないでしょうか。服装もヘンです。何のリアリティもありません。」
「そんなことをいったら、レストランの客の座り方もヘンだよ。写真撮影用にテーブルの片側によって座っている。ウエイターがワインのボトルの真ん中を持っているのもおかしい。このニセモノ感はJWのニセモノ感そのものだ。」
「14節で、詩篇73の作者は“悪人や高慢な人たちがうまくやっているように見えて,ねたましく思ったのです。”とあります。写真の男女二組はそういう人と決めつけてよいのでしょうか?」
「JWの妬みに満ちた歪んだ目で見ればそう見えるんだろう。」
「詩篇73のテーマは善なる神がなぜ悪人が栄えるのを許しているのだろうか、というものですよね。」
「その答えは見つからない。ただ、悪は滅びると信じ、彼らをうらやましく思うのをやめると言っている。JWにもおなじみの精神的勝利法のひとつだね。」
「15節で、詩篇作者は“悪人が「滑りやすい土地」にいて,「恐ろしい結末」を迎えることも理解しました。”とあります。JWみたいな人です。」
「JWも自分たち以外をまもなく滅ぼされる人と考えて、みじめな自分たちの方が本当は幸せだと、無理に思いこんでいるんだよね。」
「16節は“学べること。”です。“悪い人がうまくやっているように見えても,ねたんではいけません。幸せそうでもそれはうわべだけの一時的なものであり,長続きしません。(伝 8:12,13)”とあります。」
「引照聖句の使い方が問題だね。伝道の書はそういう常識論には反対だよ。」
「伝道8:13は“悪人が良い結果を得ることはない。悪人が生きる日々は影のようで,長く続かない。神を畏れていないからだ。”とあります。これって伝道の書らしくないですね。」
「次の8:14では“地上でむなしいことが起きている。正しい人が,悪を行ったかのように扱われ,悪人が,正しいことを行ったかのように扱われている。私は,これもまたむなしいと言う。”とある。これが伝道の書の見かただよ。」
「8:12,13は後の時代での挿入ですか?」
「そう考える人もいる。別な人は、12,13は普通の見かたを紹介しただけと解釈する。つまり悪は長く続かない、そうよく言うよね、しかし・・・だよね、というつながりというわけ。」
「16節で“成功しているように見える悪い人たちをねたんでいることに気付いたなら,”とあります。成功している人=悪人というのがJWの考えのようです。そう思わないと精神のバランスが保てないのでしょう。」
「16節の終わりに“ほかの何よりもエホバを愛しているなら,本当に幸せになり,”とある。英文ではyou will find true happiness(真の幸福を見出すでしょう)。これもJW以外の人の幸福は偽物といっているのと同じだ。」
「エホバ一筋の高齢JWは幸福どころか、極貧の悲惨な生活の人が多いようですよ。でもそんな人でも、尋ねられれば、エホバのおかげで幸せな一生ですと言います。」
「過ぎた日々はもう戻らないからね。幸せだったと自分をだまして残りの人生を生きる方が楽なんだよ。JWとして一生を送るということは、現実逃避と自己欺瞞に終始した一生を送るということだね。」
「17から19節が“ペテロは自分の弱さのせいで落胆した”です。イエスを3度否認したことを言っているようです。」
「19節の“学べること。”では、“私たちも間違ったことをしてしまっても,もう許されないと考えるべきではありません。”とある。しかし、ペテロは特別だよ。ペテロに起きたから、今のJWにも起きるとは決まっていないよ。」
「イエスは許しても、組織は許しません。」
#1281 2021年02月26日 15:46:16
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“落胆に負けないようにする(52)”で、どんなに落胆しても、まじめに伝道しなさいという内容です。」
「JWであるということは辛いことだね。落胆した時くらい、ゆっくり休もうとなぜ言えないのかな。」
「そんなこと言ったら、JWはいつも休んでいます。」
「2節に“落胆の原因となるものはいろいろあります。”とあるけれど、JWが落胆するのはいつまでも終わりの日が来ないことが最大の原因だろう。つまりインチキ終末論のせい。どうして格言13:12の“期待がなかなか実現しないと落ち込むが,かなえられた望みは命の木である。”を引用しないのかな?」
「それを触れるわけにはいきませんよ。」
「今でも、終わりの終わりの終わりだとか言って終末論をあおっている。終末論宗教から脱却できない組織の失敗だよ。それを個人の問題にすり替えている。」
「3から8節が“不完全さや弱さに悩まされている”です。これが落胆の原因の1番目です。」
「3節の下の挿絵の説明が“エホバは,私たちが過去に行った良いことも今行っている良いことも知っている。”なんだけど、過去にどんなに良い行いをしても、悪いことを1回しただけで排斥になることがあるよね。ということは、過去の良い行いなんて大した意味はないわけだ。」
「JWは減点ゲームをしていて、良い行いでもプラスにはなりません。減点ゼロというだけです。しかし悪いことをすると減点100で、たちまちJWはゲームオバーになります。」
「それだからJWが落ち込みやすい。」
「4節がデボラとマリアの経験談です。“デボラは子供の頃よくけなされ,褒められることはほとんどありませんでした。そのため自尊心が低く,”とあります。これはJWの子どもによくある例ですよ。」
「JWは自尊心の低い人間を意図的に造り出しているからね。何かと言えば不完全とか罪人とか言うし、ルールの第1は服従だろう。子どもに対してはほめるより、叱る、罰を与えることを好み、従順さを最大の美徳とする。」
「自分のやりたいことを努力してやり遂げるとか、自分で目標を立てて、目標に到達するという喜びを経験したことがないですよ。やるべきことは周りから押し付けられ、自分の希望は押さえつけられるのがJWの子どもです。」
「そういう体験がなければ自尊心は育たないかもね。」
「マリアは“親族からけなされ,自分は役立たずだと思っていました。”とあります。これはJWの親族でしょうね。」
「集会や伝道を嫌がったのかな?それだけで人間としての価値を否定されるのがJWだよね。」
「過度にけなし、役立たずと思わせて、周りの人間に依存するように仕向けるのがカルトのやり方です。」
「そうだけど、子どもだとそれに気づくのは無理だね。」
「5節に“そしてエホバは,私たちが自分では気付かないような良い面も見てくださいます。(ヨハネ第一 3:19,20を読む。)”とあります。引照聖句はそんなこと言っていますか?」
「3:20に“神は私たちの心より大きく、全てのことを知っているからです。”とあるけれど、3:19は“そのようにして,私たちは自分が真理から出ていることを確信し,神の前で安心できます。”とある。問題は“そのようにして”があること。その意味は、3:13-18に書いてある。」
「3:18に“子供たち,口先だけの愛になってしまわないよう,行いによって誠実に愛を表しましょう。”とあります。」
「それで3:19は、行いと真実によって愛することによって、神の前で安心できるといっている。そうしているなら、“心に責められることがあっても安心できるのです。神は私たちの心より大きく・・・”と続く。」
「ヨハネでは神は無限に寛大なわけではないわけですね。」
「神は寛大だ。神の恵みは無限だ。しかし一番重要な掟であるお互いに愛することをしている限りというのがヨハネの思想だね。集会や伝道が最も大事なんて言う思想はもちろんないよ。」
「6節に“根深い悪い習慣をやめようとしている人が,逆戻りしてがっかりすることがあります。”とあるのですが、この記事では、こういう人をどうすべきなのかあいまいです。」
「そういう人は排斥し、家族でも無視する、で終わりでしょう。」
「そうは書かれていません。7節では、ある長老の言葉を引用して“間違いをするたびに心から悔い改める人こそ,エホバから見て正しい人です。”とあります。かといって、悔い改めれば許されるほど甘い組織ではないですよ。」
「それである長老の発言ということにしているわけだね。あくまでも個人の意見ですということ。一方、性犯罪者には甘すぎると非難されている。悔い改めたら性犯罪者もタブレットを持たせて各家を回らせるのかと聞かれたらどう答えるのかな?」
「8節では、“経験のある仲間に自分から話して,助けを求める必要があるかもしれません。”とあります。落胆している人は仲間に助けを求めよということですね。」
「しかし、問題はJWには守秘義務がないこと。誰かに相談したら、翌日には会衆の全員が知っているなんてことになりかねない。本当に大事なことを相談できる組織ではない。」
「9から13節が“病気で苦しんでいる”です。病気のJWは多いですよ。記事の内容は、病人をいたわるのではなく、いかに組織のために働かせるかに重点が置かれています。」
「病気は、さぼる言い訳にはならないぞと釘を刺している。いつものことだよ。」
「きちんとした医療を受けたくてもお金がかかることを心配して、インチキ民間療法にたよるJW が結構います。その点も気の毒です。」
「JWには無知無学な人が多いから、インチキ民間療法でも簡単に信じてしまうのだろう。」
「9節では、エホバは“例えば,兄弟姉妹が家事や買い物をしてくれたり一緒に祈ってくれたりするように導くかもしれません。”と書いています。いやらしい書き方ですね。」
「組織は命令はしたくないんだよ。何かあったら命令した方の責任が問われるかもしれないからね。それでエホバが・・・なんて言い方をする。宗教って便利だね。」
「JWが海外に奉仕活動に行くのも、あくまでも自発的に行きました、組織は知りませんということにしますよね。JWが海外で殺されても組織に非難が及ばないようにするために。」
「そのへんはアメリカの宗教ビジネスという感じだね。法的責任をいかに回避するかということにとても熱心。一方、信者の安全などには無関心だ。」
「9節では“もうすぐ新しい世界で完全な命を得て,病気も苦痛もなくなる,という素晴らしい希望”についても出ています。こんな希望を持たせることが病人にとっていいことなのでしょうか?」
「現実逃避だね。現実逃避の問題点は、それによって今自分が抱えている健康上の問題に真剣に向き合わなくなること。かえって寿命を縮めることになるよ。」
「11節のシンディの体験談はウソくさいです。命にかかわる病気になったけれど、医師や看護師に伝道することにした。とても感謝されたというものですが、社交辞令というのがわからない人なんじゃないですか?」
「“患者から気遣いの言葉を掛けられることはめったにない,と言うお医者さんや看護師もいましたし,感謝してくれる人もたくさんいました。”とあるね。JWらしい鈍感で厚かましい人間なんだろう。一応患者だから、冷たく扱わなかっただけだろう。」
「内心では迷惑なカルト信者と思っていたんじゃないですか。」
「翻訳だけど、“お医者さんや看護師”はへんだろう。“医師や看護師”でいいよ。なぜ医師だけがお医者さんになるのか理解できない。」
「JWは序列意識が高い人たちだから、医師と看護師で差をつけようと思ったんじゃないですか。」
「12節に“米国のローレルという姉妹は,鉄の肺の中で37年間過ごしました。”とあります。“鉄の肺”とは何ですか?」
「鉄の肺は、人工呼吸器。首から下を気密タンクの中に入れる。圧力を陰圧にしたり、元に戻したりして呼吸を助ける。1950年代まで用いられたようだよ。」
「ということはローレル姉妹の話はそうとう昔ですね。昔の話を何度も利用しているということですね。」
「病気なのに伝道活動に成果を上げたなんて言う例は他にないんだろう。」
「13節は、またある長老の言葉の引用です。“自宅や介護施設などから出られない兄弟姉妹”は“人目につく所に出版物を少し並べておくことをお勧めします。”だそうです。また。“手紙や電話で伝道することもできます。”とあります。」
「病気の人をいかに働かせるかという内容だね。介護施設でそんなことしたらいじめられないか心配だ。介護施設ではJWのことは忘れよう。」
「14から17が“望んでいる割り当てが与えられない”です。」
「英文では“割り当て”ではなく“特権PRIVILEGE”なんだけど。日本語翻訳者は特権という言葉は意識的に避けているね。」
「14節で、“ダビデ王の例から学べます。”とあって、“神殿の建設のために惜しみなく寄付をしました。素晴らしい手本です。”とあります。」
「露骨なおねだりだ。落胆しても寄付を忘れるなということだ。」
「組織が落胆している人を気にしているのは、寄付が減るかもしれないという心配からですね。」
「16節に“忠実な天使たちも良い手本です。悪いアハブ王の治世中に,エホバはどのようにアハブをだましたらよいか天使たちに意見を求めました。何人かの天使が意見を言いましたが,神は1人の天使の提案を採用しました。(王一 22:19-22)”と列王記一22章の話を取り上げています。神が“だます”ことをするとは驚きです。」
「“だます”と普通は訳さないけどね。JWの神様は平気でだますわけだ。」
「JWでは、偽りの父はサタンです、と教えていますけどね。そうじゃないわけですね。」
「それから、“天使”という訳はおかしい。英文では“a spirit”で霊だよ。忠実に訳そうよ。天使思想はバビロン捕囚以降にペルシャ宗教の影響を受けて発展するもの。時代が異なれば思想も異なると言いう当たり前のことを無視している。」
「18から20節が“区域の人たちが話を聞いてくれない”です。こんなことで今さら落胆するJWはいないですよ。時間さえ入れば、聞いてくれなくても気にしませんよ。」
「18節に“もっと楽しく奉仕するには”という囲み記事が紹介されている。親切だね。」
「余計なお世話です。どう工夫しようが、伝道はつまらない無意味な活動です。」
「20節に、エレミヤが、” それでも伝道し続けたのはなぜでしょうか。「エホバの言葉」がエレミヤの中で火のようになり,抑えられなかったからです。私たちも,神の言葉で心がいっぱいになっているなら,同じようになります。”とあるけれど、違うだろう。」
「エレミヤ20:9では“神の言葉は私の心の中で燃える火,骨の中に閉じ込められた火のようになりました。私はそれを抑えるのに疲れ,もう耐えられなくなりました。”とありますね。これは神の強制性をいっているわけですよね。」
「エレミヤは神の言葉など語りたくないけれど、神がそれを許してくれない。そういう境地ということ。アモスは“ライオンがほえた! 誰が恐れないだろうか。主権者である主エホバが語った! 誰が預言しないだろうか。”と3:8で言っている。これも預言というのは個人の選択の余地のないものであることを言っている。」
「JWの聖書レッスンをしても、エレミヤの心境になるなんてことはありません。」
「エレミヤの境地に近いのが、 “わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島山”と詠んだ幕末の志士・平野国臣だね。」
「これって、安倍前首相が総裁選のまえにツイッターに投稿していました。」
「20節の最後に“毎日聖書を学んでよく考えることは大切です。そうするともっと喜べるようになり,宣教も楽しくなるでしょう。(エレミヤ 15:16)”とあるけれど、引照聖句の使い方がへんだよ。」
「そこには“あなたの言葉によって私の心は喜びにあふれました。大軍を率いる神エホバ,私はあなたの名で呼ばれています。”とありますが、これはエレミヤの初めの頃の心境を言ったものですよね。その後、心境の変化が生じたのですよね。」
「15:18では“なぜ私の痛みは長引き,傷は治らないのでしょうか。どうしても癒えません。あなたは私にとって,信頼できないもの,当てにならない水源のようになられるのですか。”とエレミヤは不満を爆発させている。」
「文脈を無視して、都合のいい部分だけを取り出す。この部分はそういうJW流の聖書レッスンの実例というわけです。」
「最後の21節に“この記事に出てきたデボラは,「落胆はサタンが使う強力な武器の1つです」と言います。”とあるけれど、落胆はダメな宗教の一員なら当然の反応だよ。」
「こうみるとサタンって便利な存在ですね。」
#1282 2021年03月03日 07:04:37
- てつてつ
- メンバー
Re: アブラハムの神の限界
困ったときの質問さん頼りですみません
一神教の起源 山我さんの
77ページ
創世記は、イスラエルの祖先アブラハムの故郷は「カルデアのウル」であったとする。ウルはメソポタミア最南部にあった世界最古の都市国家の一つで、前三○○○年紀前半にはシュメール文化の中心地として栄えたが、イスラエルの祖先がそこからやって来たということは、歴史的にはまずあり得ないことである。イスラエルの祖先が南メソポタミアからやって来たのであれば、彼らはシュメール語や少なくとも南東セム語を話したはずであるが、後のイスラエル人は北西セム語を話し、言語的・文化的にはカナン人やフェニキア人に近い。そもそも「カルデア」とは、前六世紀にユダ王国の生き残りの人々をバビロン捕囚にした新バビロニアの別名であり、「カルデア人」について歴史的に最初に言及があるのは、前九世紀のアッシリア人の文書においてである。したがって、遅くとも前二○○○年紀の半ばには存在していたはずのアブラハムが、「カルデアのウル」からやって来たはずはないのである 創世記で「カルデアのウル」について語る箇所は、前記の二箇所のみで、いずれもさまざまな理由から、創世記の中でもかなり遅い時期(バビロン捕囚以降)に書かれたものと考えられる。アブラハムが「カルデアのウル」を脱出するというイメージは、バビロン捕囚にある人々が、自分たちの帰郷の念を民族の祖先の姿に重ねたものであろう。
の記述についての真偽がよくわからないのですがまたご存知のことありましたら教えていただけたらうれしいです
オフライン
#1283 2021年03月03日 13:21:38
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#1284 2021年03月03日 14:18:54
- てつてつ
- メンバー
Re: アブラハムの神の限界
聖書についての質問さん大変分かりやすい説明ありがとうございます ちょっと凄すぎです
仰天さんというわけみたいです えっへん!まるで自分が答えたかのように 
追伸
>アブラハム、イサク、ヤコブの族長物語は前7、8世紀頃の世界を描いているようです。今の形になったのはバビロン捕囚以降ということでしょう。
フィンケルシュタインの発掘された聖書
52-53ページ
族長たちの物語にはラクダ、たいていはラクダの群れがたくさん出てくる。しかし、ョセフが兄弟たちによって奴隷に売られた物語においてのように(創三七・二五)、ラクダはまた隊商貿易において使われた荷物運搬用の動物として述べられている。私たちは今、考古学的調査によって、ラクダは二千年期後期以前に荷物運搬用の動物として家畜化されてはおらず、紀元前一○○○年の後しばらくするまで古代近東においてその用途で広く使われてはいなかったことを知っている。そして、ヨセフ物語における「樹脂、乳香、没薬」を運ぶラクダの隊商というさらに印象的な細部の描写は、紀元前八’七世紀のアッシリア帝国の監視の下で繁栄した、富をもたらすアラビア貿易の主要産物を明らかによく知っていることを示している...
だから、ラクダ、アラビアの物品、ペリシテ人、ゲラルという組み合わせは、創世記の族長物語で言及されている他の場所や国々とともに、ひじょうに重要である。すべての手がかりは、聖書が伝えるところの族長たちが生きていた時代よりも何世紀も後の編集時期を指し示している。これらの、そして他の時代錯誤的な事柄は、族長物語が集中して書かれたのが紀元前八、七世紀の時代であったことを示唆している。
>アブラハムの時代に「カルデア」というのは時代錯誤ですが、創世記の作者は神学的理由から「カルデア」をどうしても付け加えたかったのでしょう。
375ページ
創世記の最後の編集者たちは単なる比嶮に満足しなかった。彼らはどれほどイスラエルの人々の起源が文明世界のまさに中心にあったかを示したかった。それゆえ彼らは、彼らの周りの未発達で、教養のない地域に現れたより劣った人々とは違い、イスラエルの民の偉大な祖先はウルという国際的で、名高い都市の出身であったことをほのめかしている。アブラハムがウル出身であることはばらばらの二つの節でのみ言及されているが(P資料である創二・二八と三一)、彼の物語は北シリアにあるアラム人の都市ハランにもっと重点を置いているように思われる。しかしその簡潔な言及でさえ十分であった。アブラハムの出生地としてのウルは、一般に思われている民族の先祖の故国としてひじょうに大きな名声を与えたであろう。ウルはひじょうに古く、そして学問の場所として有名であっただけでなく、それは、紀元前六世紀中期にバビロニア人の、あるいはカルデア人の王ナボニドゥスによって宗教センターとして再建された時代に、全地域的に大きな名声を得た。それゆえ、アブラハムが「カルデアのウル」で生まれたことへの言及はユダヤ人に古くからの有名な文化的起源を提供しただろう。
編集者 てつてつ (2021年03月04日 07:33:33)
オフライン
#1285 2021年03月04日 13:15:37
#1286 2021年03月05日 12:05:11
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#1287 2021年03月05日 13:24:09
- てつてつ
- メンバー
Re: アブラハムの神の限界
大変失礼しました 質問さんありがとうございます やっぱりそうだったのですね 安心しました 
>「北部のウルなら聖書と合致しています。」とありますが、聖書の何と一致しているのでしょうか?南ではだめで北だとよい、というのはいったい何なのでしょう?理解できません。自分の正当性を信じてもらうための強弁でしょう
南のカルデアのウルだとすると明らかにアブラハムの時代と大きくずれてしまいそれをくつがえすことはできそうにないので 北部のウルならその点は逃げられるという意味で聖書と合致しているのだと思います 
編集者 てつてつ (2021年03月05日 21:03:16)
オフライン
#1288 2021年03月05日 15:53:19
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“平静を保ち,エホバを信頼しましょう(1)”で、不安のコントロールの仕方を学ぶという内容です。イザヤ35:15の“平静を保ち,信頼するなら,力を得る”が今年の年句だそうです。」
「英文では“Keep Calm and Trust in Jehovah”だけど、“Keep Calm and ・・・”というのは、英語のスローガンとしてよくあるものなんだ。戦争中のポスターに“Keep Calm and Carry On”というのがあって、そのパロディーがたくさんある。最近だと、Keep Calm and Wash Your Hands”(平静を保ち、手を洗おう)というのがあったね。」
「JWも戦争中のスローガンを真似していると思われますね。」
「JWの年句なんて誰も気にしないでしょう。」
「3から5節が“不安を感じる原因”です。JWであることが、不安の最大の原因だと思いますが、それは無視ですね。」
「3節に“食べ物や服の値段が毎年のように上がっていくのを抑えることはできません。”とあるけれど、本当は“衣食住の値段”だよ。“住”を忘れているよ。」
「“food, clothing, and shelter”とありますが、“shelter”が“住”のこととわからなかったので、訳さなかったんですよ。わからない単語は飛ばしたんでしょう。」
「“food, clothing, and shelter”は、”衣食住“という慣用句だよ。こんなことも知らないで翻訳をしているのかな。」
「3節では“こうした問題が起きる のは,この世界のほとんどの人たちが聖書の教えと合わない考え方をしているからです。”といっていますが、違いますね。」
「食料品の値段が上がるのは生産量が減ったからとか輸送費が上がったからじゃないの?値段が上がったり下がったりすることと聖書の教えは関係ないよ。」
「物価上昇を心配するのはお金のない人です。JWは低学歴低収入の生活をするよう組織から圧力をかけられています。JWが物価上昇に不安を感じるとすれば、組織のせいです。」
「JWの不安感を取り除き、生活をよくするのは簡単だよ。JWを辞めて、無意味な宗教活動のかわりに、真面目に仕事をすればいいだけ。聖書を読まなくてもわかることだよ。」
「“「今の体制での心配事」は,エホバに仕える妨げとなります。”とあります。これが組織が心理療法のまねごとをしようとしている理由です。」
「信者のメンタルヘルスより、心を病むことによる伝道活動の低下を心配しているわけだね。」
「5節に“イエスは弟子たちに,「心配するのをやめなさい」と言いました。(マタ 6:25)”といって、その意味を“イエスは私たちに,生活していくのに必要なもののことを心配し過ぎて,神に仕えることを二の次にしてはいけない,と言っていたのです。”と説明しています。しかし、そんなことは言っていません。」
「マタイ6:25は“命は食物より,体は服より大切ではありませんか。”で終わる。これは、命や体というとても価値のあるものを与えてくれた神様が、食べ物や服のようなちっぽけなことを与えてくれないはずはないでしょう。だから、食べ物や服のことで心配するのをやめなさいといっている。心配過ぎると神に仕えるのに妨げになるから心配するなとは言っていない。」
「6節からが“平静を保つのに役立つ6つの方法”です。6節は“(1)いつでも祈る。”です。7節では“具体的に祈るなら,エホバが答えてくださる時,そのことがはっきり分かります。祈りに対する答えがなかなか得られないように思えても,諦めないようにしましょう。”とアドバイスしています。」
「祈りというのはお願い事ね。あれが欲しいとかこれをしてくれと具体的に祈るわけだ。そして、祈りに答えてもらった事例を集めようということだね。」
「850万人の人が祈れば一人や二人偶然で祈りに答えてもらったと感じる人はでてきますよね。」
「一人や二人じゃないよ。10万分の一の確率でも85人はいる。」
「9節が“(2)自分の知恵ではなく,エホバの知恵に頼る。”です。」
「10節に、具体的にエホバを頼るというのはどういうことかが出ている。これがへんなんだ。」
「給料の高い仕事を断る、JW以外の人との交際を断る、とありますね。」
「要するに、組織の言いなりになってJWの小さな世界にひきこもれば、エホバに頼っていることになるわけだ。」
「11節が“(3)良い例や悪い例から学ぶ。”です。12節に“私たちが正しいことのために苦しむ時,エホバは私たちのことを喜び,聖なる力を与えてくださいます。そのことを聖書の中で約束してくださっています。(ペテロ第一 3:14; 4:14を読む。)”とあります。引照聖句はそんなこと言っていません。」
「そこでは“キリストの名のために非難されているなら,”とある。JWはキリストではなくエホバの名のために非難されている。この聖句とは無関係だよ。」
「12節では“将来厳しい迫害を受けた時にどうしたらよいかとあれこれ考えないようにしましょう。”と危機感をあおっています。JWのような弱小宗教のことなどほとんどの国では気にしていません。問題になるのは犯罪をおかしたり、裁判所の命令に従わなかったりしているからです。」
「統治体はけっこう妄想的なようだから、全世界の国がロシアの様にJWを刑務所にぶち込むと本気で思っているかもよ。」
「そういう被害妄想はウィスキーの飲みすぎによって悪化するんじゃないですか?ベトナム戦争帰りのモリスがおかしな妄想を抱かないか心配です。」
「13節でアサ王が悪い例として取り上げられています。」
「引用されているのが全て歴代誌なんだけど、歴代誌は史実性は乏しいものだよ。例えば歴代誌二16:1に“アサの治世の第36年,イスラエルのバアシャ王はユダを攻め”とあるけれど、列王一16:8,10では“バアシャの子エラは,ユダのアサ王の治世の第26年に,ティルツァでイスラエルの王になった。彼は2年治めた。”、“ジムリはやって来てエラを殺し,代わりに王になった。ユダのアサ王の治世の第27年のことである。”とある。」
「つまりパアシャ王はアサ王の26年目には死んでいて、その後継者のエラ王は27年目に死んでいるわけですね。それなのに歴代誌ではアサ王の36年目に攻め込んできていることになっているわけですね。10年計算を間違えたんじゃないですか。」
「それからアサ王の軍隊がエチオピア軍100万人皆殺しというバカバカしい話も歴代誌の話。」
「歴代二15:19には“アサの治世の第35年まで戦争がなかった。”とありますが、列王一15:16には“アサとイスラエルの王バアシャの間には戦いが絶えなかった。”とありますね。」
「それ以外にも、歴代誌は数字がいいかげんだね。列王一7:15に“彼は2本の銅の柱を鋳造した。それぞれの柱は,高さ8メートルで,”とあるけれど、歴代誌二3:15では“長さは15.6メートルで,”と2倍の長さになっている。」
「列王一9:23に“ソロモンの工事を取り仕切る代官の長,工事をする民の現場監督が550人いた。”とありますが、歴代誌二8:10には“ソロモン王の代官の長,民の現場監督が250人いた。”とあり、今度は約半減しています。」
「数字に関しては神の霊感が働いていないようだね。」
「14節にある、アサ王からの教訓は、“自分で解決できると考えて自信過剰になると,聖書に書かれているエホバの導きに頼らなくなってしまいます。”です。これも、自分で考えるな、組織に頼れというカルト的な教訓ですね。」
「何かに取り組むとき、自分で解決できるという自信は必要だよ。英文には“自信過剰”ではなくて、単に自信confidentだよ。自信を持つことを罪悪視して否定してしまうと、周囲ばかり気にして、何も一人では決められないJWによくいる人間が出来上がると思うよ。」
「15節が“(4)聖書の言葉を覚える。”です。これは役に立ちそうですよ。」
「いい聖句があったらメモしておくのだそうだ。例えば伝道7:12の“お金は身の守りであり,知恵も身の守りである。”なんていいよね。貯金箱にこの聖句を書いておこう。」
「16節が“(5)神に仕えている人たちとの交友を楽しむ。”です。“友からの「良い言葉」は,不安な気持ちを和らげるのにとても役立ちます。(格 12:25)”とあります。」
「友人は大事だよね。でも格言19:4には“富は多くの友を引き付け,貧しい人は友にも見捨てられる。”とあるよ。お金さえあれば友達なんかいくらでもできるよ。友よりお金の方が大事だね。」
「17節が“(6)希望を強く保つ。”です。“王国についての希望は「命のためのいかり」のようなものです。”とあります。ヘブライ6:19の引用なのですが、ヘブライは王国の希望なんて言っていますか?」
「ヘブライは神の王国について関心はないね。」
「ということは、ヘブライ6:19の“この希望”というのは“王国についての希望”ではない?」
「それらしきことを言っているのはヘブライ12:28の“それで,私たちは決して揺り動かされない王国を授けられることになっているのですから,”だけ。しかも、この日本語訳はへんなの。英文ではwe are to receive a Kingdomで現在形。日本語訳だと未来形だ。」
「JWの日本語翻訳者は神の王国といえば未来のことと思い込んでいるから、こんな間違いをするのですね。」
「新約聖書では、神の王国は今来ているという考えと未来のことという考えが並列的にあるというのが基本なんだけどね。JWはそのへんがわかっていない。」
「17節では“エホバは,不安や心配のない将来を約束しています。そのことをじっくり考えましょう。(イザ 65:17)”とあります。これも引照聖句の誤用ですね。」
「“私は新しい天と新しい地を創造している。以前の事柄は思い出されることも,心に浮かぶこともない。”というものだけど、イザヤ65章はイスラエルの復興について言っているもので、ハルマゲドン後の楽園について言っているわけではない。」
「イザヤ65:20には“100歳で死んだ者も少年と見なされるのである。”とあります。JWのように永遠の命なんて言っていません。ただ長生きすると言っているだけですね。」
「“つらいことが全くない,平和な新しい世界で生活している自分の姿を思い描いてください。(ミカ 4:4)”とあるけれど、ミカ4:4も楽園のことを言っているわけではないよ。」
「ミカ4:3は“国は国に向かって剣を振り上げず,彼らはもはや戦いを学ばない。”とありますが、ここでは国家が存在していることが前提ですよ。楽園ではありません。」
「旧約聖書に地上の楽園が到来するというJW的な考えはないの。楽園のような描写は復興した新しいイスラエルのことだよ。」
「最後の18節は、“この体制の終わりが近づくにつれて,不安や心配を感じさせるような問題は増えていくでしょう。”と不安をあおって終わりです。」
「それでこそJWらしいね。2021年度もカルト色をどんどん強めて、奇想天外な記事を書きまくって欲しい。多少知性のあるJWなら、この宗教のおかしさに気づくかも。」
#1289 2021年03月06日 03:12:29
- またい
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
聖書って、行動の規制じゃなくって、自由だ。
#1290 2021年03月06日 21:09:46
#1291 2021年03月08日 16:06:53
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#1292 2021年03月08日 17:00:24
#1293 2021年03月10日 21:37:37
- てつてつ
- メンバー
Re: アブラハムの神の限界
質問さん またまたすみません
カナン神話とヘブライ叙事詩 パラパラ見ててちょっと気になったのですが 95ページから
権力は父殺しと近親相姦の陰謀によって委譲される...
更に、族長の社会は近親相姦と父権に対する反抗が家族の平和を脅かすという概念装置を造り出す。このような強制力がダビデの宮廷史に劇的に示されている。ダビデの息子アムノンによるアブサロムの妹タマルの凌辱は、父殺しとダビデに対するアブサロムの最終的な反逆を含む争いの始まりとなったのである。権力奪取の意志はアブサロムが父のハーレムに侵入することによって示され、その挿話は、軍事力の差のためにアブサロムが失墜して、ようやく終了する。ダビデが晩年王に指名したソロモンによるダビデ王位の継承もまた兄弟間の殺人に至る争いとハーレムをめぐる陰謀によって特徴づけられる。これは族長的な社会の大家族制下に生きた人間と神々の生活の類型なのである。
とエールやバアルその他の一族の神話に 父親を去勢して殺しそのあと父親のハーレムをのっとってはじめて権力の委譲をはっきりさせることができるみたいなことが書かれていて アブサロムの話がそのような神話からヒントを得て創作されたみたいな書き方がされているような気がするのですが 質問さんはアブサロムの一連の話はフィクションだと思われますか?
編集者 てつてつ (2021年03月11日 06:49:59)
オフライン
#1294 2021年03月11日 12:29:21
- 聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界
#1295 2021年03月12日 07:18:51
- てつてつ
- メンバー
Re: アブラハムの神の限界
質問さんありがとうございます
>「カナン神話とヘブライ叙事詩」でクロスが言っているのは、族長社会の構造が権力を握っている年老いた父親と活力と野心に満ちた息子たちとの権力闘争を絶えず引き起こし、権力者の一族は不安定にならざるを得ないということです。それが神話に反映され、神々の関係も不安定で絶えず争います。また、ダビデの家族もそのような族長社会の原初的な構造を反映して、近親相姦あり、息子同士の争いがあり、息子のアブサロムの反逆ありとなっている、と言っていると思います。
そうだったんですね なんだかクロスの本 自分の頭が悪いのか判りにくい表現が多くて神話から創作したことをいいたいのかと思いました
あとしばらく前に質問さんがパウロの難破の話はオデッセイアからのものだという書き込みがあったと思うのですが どの本からの引用か教えていただけないでしょうか?
編集者 てつてつ (2021年03月12日 07:19:20)
オフライン
#1296 2021年03月12日 15:28:31
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Re: アブラハムの神の限界
#1297 2021年03月19日 15:45:17
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Re: アブラハムの神の限界
#1298 2021年03月24日 14:19:11
- 聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界
火曜の夕方に近所のJW少年がやって来た。
「いつもより早く予習に来ました。次回のものみの塔は、“優しい愛情を深めていきましょう(4)”で、JW同士もっと優しく接しようよ、という内容です。」
「JW内の人間関係は相当問題があるということかな。この種の記事が多いよ。でも16節と短いのがいい点だね。」
「1節にはお決まりの“聖書は,終わりの時代には人々の間に「自然な愛情」が見られなくなる,と予告していました。(テモ二 3:1,3)今,まさにその預言の通りになっています。例えば,多くの家族が離婚によってばらばらになっています。”とあります。離婚は増加していますか?」
「離婚が増えているかどうかは相対離婚率(離婚率÷婚姻率)の変化でわかる。日本の場合は2000年は0.33で2018年は0.35でほとんど変化はない。アメリカは過去20年間0.5前後で推移している。」
「JWの言うように終わりの時代で自然の愛情が見られなくなったという根拠はないということですね。」
「“自然な愛情がなく”と訳されているのはastorgosという単語だけれど、ここ以外では、ローマ1:31に一回だけ出てくるレアな単語で、実は意味はよくわからない。“自然な愛情がなく”という訳は勝手に意味を込めすぎでしょう。協会共同訳では“情けを知らず”となっている。」
「4,5節が“エホバは「優しい愛情にあふれ」た方”です。エホバは憐れみ深いそうです。5節で、“エホバは私たちがつらい状況にあるのを見ると,憐れみを感じ,私たちを助けてくれます。”とありますが、そんなことないですよ。どれくらい助けられたのか統計を示して欲しいです。」
「5節には“聖書によると,私たちを助けたいというエホバの願いは,母親が子供を思う気持ちよりも強いものです。”とある。安易にこんなことを書いていいのかな?」
「愛の神という概念は現実とかなりかけ離れたものですよ。」
「エホバという神は愛の神で、人間を助けたいという願望も持っているというわけだろう。それなら、なぜ人間を助けないの?なぜ祈りにも答えないし、どんな悲劇的なことが起きても傍観しているの?」
「それについては、JWは主権論争がどうのこうの、自由意志がどうのこうのと誤魔化すのですよ。」
「どんな病気でも治せる医者がいるとしよう。その医者は病気を治したいと強く願っていると主張する。しかし、今医学上の論争があってそれが解決するまでは、一人の患者も診察しないし、治療もしないと言う。その結果患者はどんどん死んでいるとする。この医者を愛のある医者とか優しい愛情にあふれた医者とは絶対に言わないよね。神も同じだろう。」
「エホバは人間を救う能力もあるし、そうしたいと願っているとJWは主張しますが、それとエホバは優しい愛情にあふれた神という主張と調和しないということですね。」
「詩編103:11には“神がご自分を畏れる人たちに示す揺るぎない愛の大きさも計り知れない。”とある。神が愛を示すのは、“自分を畏れる人たち”限定ということ。神の愛は条件付きの自己中心的な愛じゃないの。」
「エレミヤ11:11ではイスラエルとユダの人に向かって、エホバは“私は彼らに,逃れることができない災いをもたらす。彼らが助けを求めても,私は耳を傾けない。”と言っています。憐れみを感じないようです。JWはこういう聖句は無視ですね。」
「エゼキエル5:11-13では、エルサレムに向かって、“私の目はあなたを惜しまず,私は全く同情しない。あなたの3分の1は疫病で死ぬか,飢餓によってあなたの中で命を落とす。別の3分の1はあなたの周囲で剣によって倒れる。そして最後の3分の1を私はあらゆる方向に散らし,剣を抜いてその後を追う。こうして私の怒りは収まり,人々に対する憤りは静まり,私は気が治まる。”とある。少しも憐れみ深くないよ。」
「5節で“私たちは,仲間から嫌なことをされても,許して根に持たないことによって,憐れみを示すことができます。”とあります。これは憐れみの誤用じゃないですか。」
「嫌なことをする人に対しては、神様に倣って“私の目はあなたを惜しまず,私は全く同情しない。”といって、仕返しをするのが聖書的じゃないかな。」
「そういうことができるのはドラマの中だけです。」
「いつものことだけどJWは加害者に甘く、被害者に対しては根に持たず許しなさいと過大な要求をする。とても不公平で、悪を助けている。」
「6から9節が“ヨナタンとダビデは「固い友情で結ばれ」ていた”です。しかし、ヨナタンとダビデは年の差が30歳ほど離れています。2人の関係は友情ですか?」
「どうみても同性愛的関係に見えるね。友達というより恋人同士に近いよ。サムエル一18:3には“ヨナタンはダビデを自分自身のように愛していたので,ヨナタンとダビデは契約を結んだ。”とある。」
「サムエル一20章では、ダビデがサウル王に殺されそうになるわけですが、そのときヨナタンは“「さあ,野原に行きましょう」。それで2人とも野原に出ていった。”とありますが、これはソロモンの歌7:11の“来て,いとしい人。一緒に野原に行き,ヘンナの木の所で一休みしましょう。”と同じ表現です。」
「この野原で二人が別れる時、サムエル一20:41によると“2人は口づけし,泣いた。ダビデの方が激しく泣いた。”とある。恋愛小説の一節のようだ。こういうのを友情とは言わないよ。」
「ヨナタンが戦死したことを知ったダビデは哀歌をつくるわけですが、サムエル二1:26では“私の兄弟ヨナタン,あなたを失ってとても苦しい。あなたは本当に慕わしい人だった。私にとってあなたの愛は女性の愛よりも素晴らしかった。”と言っています。」
「ダビデとヨナタンの物語が書かれた時代では、同性愛に寛大であったということじゃないの。」
「しかし、普通の解説書ではダビデとヨナタンは同性愛的関係とは書いていませんよね。キリスト教が同性愛嫌いだからですか?」
「そうでしょう。ダビデはペリシテ人と密接な関係があったけれど、ペリシテ人はエーゲ海方面から来た“海の民”と呼ばれたギリシャ系の人たちで、ギリシャ文化は同性愛に極めて寛大だ。エジプトも同性愛を犯罪視することはない。」
「8節に“ヨナタンは謙遜な人で,エホバを深く愛していました。”とあります。でもそれを示す聖句は引用されていません。」
「この記事では、ヨナタンは模範的人物として描かれているので、そういう事にしただけだよ。執筆者はもっともらしい話を書き飛ばしているだけで、根拠なんか気にしていないよ。」
「10節以降が“優しい愛情を示すには”です。10節に“誰かから嫌なことをされた時には”どうすべきか書いてありまして“愛 を抱いて互いに寛容であってください。”とエフェソス4:1を引用しています。」
「JWは被害者に泣き寝入りを勧めているだけ。嫌なことをされても、文句の一つも言ってはいけないの?実害があった場合は謝罪と補償を求めるべきだよ。そうしなければ悪人がのさばることになる。」
「10節には“仲間の間違いに注目することはないでしょう。”とありますから、見て見ぬふりを勧めています。」
「11節に“仲間の間違いが目に付く時は特に,優しい愛情を示すのは難しいものです。”とあって、ユウオデアとスントケのことを取りあげている(フィリ 4:2,3)。問題は挿絵。二人の女性が喧嘩して、周りがなだめているというような絵だけれど、二人の対立はそんなものではないよ。」
「パウロが手紙の中でわざわざ名前を挙げているのは、フィリッピの中で重要な役割を果たしている女性だからですよね。」
「当時のクリスチャンは個人の家に集まっていた。ユウオデアとスントケはそのような家を提供していた有力者ではないかと推定される。その二人が組織運営上のことで対立し、それは会衆全体に関わるものなのでわざわざ個人名を挙げて、お願いしている。」
「4:2で“ユウオデアとスントケに勧めます。”とありますが、これは丁寧な言い方なのですね。」
「parakalōという動詞がつかわれているけれど、これは丁寧な表現で、決して自分より下の者に対する言い方ではない。“私と肩を並べて一生懸命働いてきました。”とあるように対等なものとして扱っている。だから、争いはやめろとか、仲良くしなさいなんて言う命令をしているわけではない。」
「12節で“年齢や育った環境が違っても,友達になることができます。”とありますが、そうはいっても、似た者同士の方が友達になりやすいですよ。」
「JWは老人ばかりになり、比較的若い人の数が減っているから、若い人向けにそういうことを言っているだけだよ。」
「12節の下には、若い夫婦が老夫婦の家を訪問するという挿絵があります。JWにしては、なかなか裕福そうな家ですね。職業は窓ふきじゃないようです。」
「JWのイメージ戦略で、現実とは関係ない。果物かお菓子かを持ってきているけれど、そんなものはJWの長老は喜ばないでしょう。次回からは、手土産は商品券と高級ウィスキーにして欲しいと、言われるよ。」
「長老が受け取った高級ウィスキーは巡回監督にわいろとして渡されるかも。」
「その後、巡り巡って、最後には統治体のトニーおじさんの胃の中におさまる。」
「13節に“イエスに倣って,私たちも親しい友達を特別扱いしないようにすべきです。(ヤコ 2:3,4)”とありますが、引照聖句とは関係ないです。」
「“皆さんは,上等な服を着ている人には親切にして,「この良い席にお座りください」と言い,貧しい人には,「立っていてください」とか「私の足元に座ってください」と言いますか。”で、この聖句は貧富の差による差別を扱っている。」
「友達を特別扱いしない人は正義の人かもしれませんが、友達は一人もいないような気がします。」
「不完全な世界では正義だけではやっていけない。友達は相互に助け合うもの。何かしてくれたら、お返しに何かしなくてはならない。それが嫌なら友達など持たないことだね。」
「15節に体験談が出ています。国際大会の帰り道、車の事故にあって、道路わきに呆然と立っていたら、二組のJWが車を止めてハグしてくれたり、援助を申し出てくれたというものです。どうってことのない話だと思いますが、かなりの字数を使っています。」
「一種の“埋め草”だね。埋め草というのは、雑誌・新聞などの余白を埋めるために使う短い記事のこと。」
「書くことがなかったので、この体験談で埋めているわけですね。」
「国際大会の帰り道ということで、一時的に気分が高揚して、兄弟愛が高まっただけじゃないの。」
「この体験について“本当に大変な出来事でしたが,エホバの愛を感じる場面が何度もありました。”と言っています。エホバは事故のあと助けてくれたようですが、事故そのものを防いではくれないようです。」
「たぶんエホバが事故を起こしたんだよ。おかげでこの事故が記事になったじゃないか。」
#1299 2021年03月25日 06:28:54
#1300 2021年04月02日 15:56:35
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー