#28 2012年12月31日 17:24:03
- iris
- ゲストユーザー
Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)
もんもんさん
私はカトリック教会の教えの主な部分を受け入れてカトリック信者になったのです。私が個人的にカトリックの教えが大筋で正しいと思っていることに
何か問題がありますか? もんもんさんも、本来のキリスト教の教えと比べて、ものみの塔の教えの方が正しいと思うのは自由だと申し上げたはずですが?
私は、ものみの塔の教えが間違っているとは言っていません。ものみの塔の教えは聖書の教えではなく、キリスト教の教えでもないと言っているだけです。
世の中には聖書の教えでもなく、キリスト教の教えでもない教えがたくさんあります。私はそれらの多くの価値を認めています。
ものみの塔の教えには輸血拒否などを強制できるような仕組みがあり、それが特に子どもたちの福祉の観点から問題であると考えているのです。
自分の身に起こるできごと(例えば子どもを亡くすこと)が良いことか悪いことかは、人間には判断できません。
人間にはそのできごとの先を正確に知ることはできないからです。自分にとって都合が悪いことを「悪いこと」だと感じているだけです。
中国にも「人間万事塞翁が馬」という言葉があるのをご存知ありませんか? ご存知なければ調べてみてください。
また、邪悪なことや不正なこと、例えば戦争や犯罪などは、神から離れた人間が引き起こしたことで、神が行われたことではありません。
ものみの塔も、「聖書は実際に何を教えていますか」という本の「神はなぜ苦しみを許しておられるのですか」という章の中で、
「罪を持つ人間は、必死になって人の上に立とうとする傾向があり、それが戦争や抑圧、苦しみを生じさせています。」と述べています。
これは正しい認識だと思います。
私も神は悪いことはなさらないと信じていることが、おわかりいただけたでしょうか?
神は最後には死や悲しみを取り除いてくださいます。
ですから、私はいま与えられている地上のいのちを、神の愛のために使い尽くすことだけを考えていればよいのです。
神から離れないように、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝して、神の愛を最優先に考えて生きていれば、
永遠のいのちをいただけることは間違いないからです。
私がものみの塔についていちばんキリスト教的でないと思うのは、エホバの証人を神の側に置き、「世の人」をサタンの側に置いて、
自分たちはサタンとの関係を絶っているかのように教えている点です。聖書にはなんと書いてありますか?
「正しい者はいない。一人もいない。(中略)善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ3:10-12)
「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。(中略)
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、
神の義をお示しになるためです。(中略)わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」
(ローマ3:20-28)
エホバの証人も、カトリック信者も、どちらでもない人も、神の目から見れば罪の深さはたいして変わりがありません。
バプテスマを受けようと、洗礼を受けようと、時にはサタンの誘惑に負けることもある弱い存在です。
ものみの塔は「神に受け入れられる」行いを規定し、それを守ることによって永遠のいのちを勝ち取るように教えていませんか?
上のパウロの言葉のように、律法を実行しようとすることによっては、罪の自覚しか生じないのです。罪のない人はいないからです。
キリストの贖いを信じることによってこそ、永遠のいのちをくださるという約束を信じることができるのです。
#29 2012年12月31日 17:33:24
- ray
- メンバー
Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)
akameさん
御返事ありがとうございます。
動画もみさせていただきました。自然界は創造者の存在を明確に表していると思います。科学は進歩していますが、まだまだ宇宙の表面しか解明されていないと思います。これからどんどん創造の証拠が見つかると思います。
しかし、創造者はおられ、人間を見守っておられると思いますが、これから人間に対してどうしたいのかについては別問題であると私も思います。今後のakameさんの書き込みに期待しています。
irisさん
御返事ありがとうございます。
私も神に愛され、認められていることに最近気づき、とても幸福になりました。神から肯定されていることを自覚し、毎日の生活でさらにそれを経験していくことが、まさに救いであり、信仰の目的だと思います。
ただ、irisさんも悲しい経験をされておられますが、すべては神のみ手にあるという説明では、自分は納得できても多くの人を納得させることはできない無力感を感じます。神の国はすでにきているという説明も、う~んと思ってしまいます。すみません。どう考えたらいいのでしょうか?
お答えをよろしくお願いします。
オフライン
#30 2012年12月31日 20:29:16
- もんもん
- メンバー
Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)
irisさん
>私は、ものみの塔の教えが間違っているとは言っていません。
>ものみの塔の教えは聖書の教えではなく、キリスト教の教えでもないと言っているだけです。
なぜ自分は否定されたくないのに、他の人が信じていることを否定しますか。わたしはエホバの証人ですが、伝道をするときに、聖書の教えを伝えていると思っていますし、キリスト教について伝えていると信じています。どうして、他の人の信仰を否定しますか。
>ものみの塔の教えには輸血拒否などを強制できるような仕組みがあり、
>それが特に子どもたちの福祉の観点から問題であると考えているのです。
それは議論の対象にしてもよいですけれど、これは「血を避けていなさい」という聖書の教えの解釈の仕方なんです。だから、強く当てはめるのがよいか、弱く当てはるかがよいかの問題で、「血を避けていなさい」という教え自体は、ものみの塔の教えではなくて、聖書の教えです。
>私がものみの塔についていちばんキリスト教的でないと思うのは、
>エホバの証人を神の側に置き、「世の人」をサタンの側に置いて、
>自分たちはサタンとの関係を絶っているかのように教えている点です。聖書にはなんと書いてありますか?
これはエホバの証人の間でよく見られる悪い風潮だと思います。「すべての人が罪を負っている」と聖書に書かれているので、もっと謙遜にならないといけないと思います。
>ものみの塔は「神に受け入れられる」行いを規定し、それを守ることによって永遠のいのちを勝ち取るように教えていませんか?
そんなことはないです。聖書と同じ「信仰による義」を教えています。けれども、外部から見れば、「神に受け入れられる」行いを規定しているように見えても仕方がない部分もあると思います。
オフライン
#31 2012年12月31日 21:25:20
- akame
- ゲストユーザー
Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)
#32 2012年12月31日 21:49:59
- akame
- ゲストユーザー
Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)
#35 2013年01月01日 15:42:25
- iris
- ゲストユーザー
Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)
新年おめでとうございます。みなさんにとって恵み豊かな年でありますように。
もんもんさん
>なぜ自分は否定されたくないのに、他の人が信じていることを否定しますか。わたしはエホバの証人ですが、伝道をするときに、
>聖書の教えを伝えていると思っていますし、キリスト教について伝えていると信じています。どうして、他の人の信仰を否定しますか。
これをエホバの証人の方に言われたくはありませんね。ものみの塔はほかの宗教についてどう教えていますか?
大いなるバビロンとか、偽りの宗教組織とか、完全に否定していませんか? 特にカトリックなんかボロクソです。
もんもんさんが伝道のときに、カトリックも間違っているとは言えません、といちいち訂正してくださっているのなら別ですが。
私はものみの塔の教えはリンゴの中にナシの種が入っているようなものだと思います。
リンゴはいりませんか?と売り込まれて、おいしいなと思ってその種を蒔いてもリンゴの木にはなりません。
リンゴを収穫しようとせっせと育てたあとに、その木になったナシの実を、
「これが本当のリンゴなんです。みんながリンゴだと思っているものは、実は本当のリンゴではないんですよ。」と
言われているようなものです。ではなぜ最初からリンゴに見える実ではなくナシの実を見せないのでしょうか?
リンゴとナシのどちらがおいしいかは人それぞれですが、ナシはナシであってリンゴではありません。
rayさん
悲しみの中にいる人は、それぞれに悲しんでいると思います。その悲しみの意味するものは、自分で見つけるしかありません。
すべての人に共通の答えはありませんし、そのときが来なければ納得もできません。
私も、子どもが神のところに帰されたのは私にとっても子どもにとってもよいことだったのだと納得するまでには時間が必要でした。
「悲しむ人とともに悲しむ」ことがいちばんの慰めになると思います。悲しみをすべて理解してもらうことはできなくて当たり前ですが、
傷つきやすい状態のときに自分の悲しい気持ちと少しでもずれたことを言われると、それだけで傷ついてしまうこともあります。
悲しみの深いときにはただその気持ちを受け入れてもらうことがいちばんの慰めになると思います。
時間がとれませんので、神の国については後日お返事します。
#36 2013年01月01日 16:53:45
- akame
- ゲストユーザー
Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)
>本来神によりその最適化されたプログラムが備えられました。
しかし、サタンや人間によりそのプログラムの改悪が可能でしょう。
そういわざるを得ないでしょうけれど、サタンや人間が
そこまで変えた根拠はあるのでしょうか?
聖書にありますか?
>現在肉食動物も本来は草食でした。
それほどの変異はむしろ進化論が唱えているのです。
もちろん生物には柔軟性はありますが
人為的に変えることも容易ではなく
実際に純粋な草食を人為的に肉食に変えた例があるのでしょうか?
単なる腸内細菌などの変異などでは説明できない
様々な構造の変化が同時に伴わないと無理があります。
そこまでの変化はむしろ進化論にとって好都合でしょう。
それを別にしても、神の無情さは聖書の記述にみられます。
#37 2013年01月01日 17:16:10
- akame
- ゲストユーザー
Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)
それともう一度述べますが
サタンや人間の歴史よりはるか以前、たとえば恐竜の時代の
肉食などの食性の証拠は圧倒的です。
生物界の搾取や殺し合いをサタンや人間の原因にするのも
到底無理があるように思います。
#38 2013年01月01日 21:13:25
- カレブ
- Administrator
Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)
akameさん
興味深いご指摘ありがとうございます。
アメリカのキリスト教右派の中には恐竜は人間と一緒に生活していたと主張する人たちもいます。
わたしは、そのような人たちはある意味あっぱれだと思いますし、ストレートな主張なので嫌いではないです。
ものみの塔は恐竜が草食であったということを暗に示すだけで、直接的に問題に取り組まないで
難しい部分を回避するようにするのには歯がゆい気持にもなります。
現実的にみるならば大型肉食恐竜の歯や体のつくりは獲物に食らいつくのに最適な作りをしています。
これを否定する努力もあって良いと思いますが、かなり苦しい説明をせざるをえないと思います。
akameさんが、理想と現実のはざまで、どのように考えを導きだされてきたのかはとても興味深い点だと思います。
オフライン
#40 2013年01月01日 23:05:37
- akame
- ゲストユーザー
Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)
SKさん
JW研究さん
これらはあくまでも私見で投稿しております。
もちろん受け止め方は自由です。
「オーパーツ」は私も一時はまっておりました。
恐竜関係のそうした説も存じています。資料や発見は捏造と述べているサイトも多数あり
私には真偽は不明です。
ただいえるのは草食恐竜も肉食恐竜もアメリカでの一部だけでも
すでに数千体以上の化石が発掘されているようです。TVで格納された
建物をみましたがものすごい量でした。
でも肉食の特徴をもった個体が実は草食だったとする化石
証拠がなぜないのでしょうか?もしあったら大激論でしょうけれど。
クモを考えてください。
獲物を食べるまでどのぐらい多くのシステムが関係しているのでしょう。
たとえばアミのような巣を張っても食べるのはそれにかかる植物だけのクモが
肉食になるには口の構造から体内の構造成分まで変える必要があります。
それほどの変化を環境の変化やサタン介入とするならそれはもう特殊進化論
或いは再創造ではないのでしょうか?
恐竜はほんの些細な例にすぎません。あくまでの神の創造には殺傷競争がなかった
とするなら、生物の実に多くの種類にそのような変性が必要となることでしょう。
しかもそれほどの大規模の食性の変化がアダム時代以降だとすると
非常に最近それが生じたことになりますね。人間の歴史と重なる
時代のそれほどの大変化・・進化論者でも尻込みしてしまうのではないでしょうか?
何が愛なのか?無情とか残虐性も其々の感性ですから其々の方のご判断におまかぜします。
次に聖書の神の特質や聖書の真偽も合わせて述べたいと思います。
#41 2013年01月02日 00:05:59
- もんもん
- メンバー
Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)
irisさん
わたしはキリスト教について、聖書から話し合いあいたいと思っているのに、
irisさんは、歴史的なキリスト教の定義から出発しようとしていると思います。
>これをエホバの証人の方に言われたくはありませんね。ものみの塔はほかの宗教についてどう教えていますか?
>大いなるバビロンとか、偽りの宗教組織とか、完全に否定していませんか? 特にカトリックなんかボロクソです。
>もんもんさんが伝道のときに、カトリックも間違っているとは言えません、といちいち訂正してくださっているのなら別ですが。
>私はものみの塔の教えはリンゴの中にナシの種が入っているようなものだと思います。
>リンゴはいりませんか?と売り込まれて、おいしいなと思ってその種を蒔いてもリンゴの木にはなりません。
>リンゴを収穫しようとせっせと育てたあとに、その木になったナシの実を、
>「これが本当のリンゴなんです。みんながリンゴだと思っているものは、実は本当のリンゴではないんですよ。」と
>言われているようなものです。ではなぜ最初からリンゴに見える実ではなくナシの実を見せないのでしょうか?
>リンゴとナシのどちらがおいしいかは人それぞれですが、ナシはナシであってリンゴではありません。
エホバの証人を異端(リンゴではない)と呼んでいるのは、正統派キリスト教の伝統なんですよ。
だから、ぜひirisさんが、この観点については考え直していただきたいと思っています。
ものみの塔協会は、カトリックのことを大いなるバビロンと言っていますが、
わたし自身は、それが具体的に何を指しているのかを、特定したいとは思いません。
ものみの塔協会自身も「大いなるバビロン」である可能性の高い組織だと思います。
オフライン
#43 2013年01月02日 08:10:35
- akame
- ゲストユーザー
Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)
>美しいほどに
海から空、歩く地面の下
庭の花や道端の草の間も
熾烈な競争で満たされています。
ほっとさせるもの、穏やかさ、最高の美、
何でもあります。
それは実に感動的です。
地はあなたのためにのろわれ、
あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
3:18地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、
あなたは野の草を食べるであろう。
わたしは裸で母の胎を出た。
また裸でかしこに帰ろう。
主が与え、主が取られたのだ。
主のみ名はほむべきかな
喜びも苦痛も最終責任は神にあります。
酷い仕打ち、不条理が神からのものとしても
神にすべてをお任せできる。
これが現在の私の心境、目標です。それに至るのは
容易ではありませんが。
また音楽や芸術がこれほど味わい深いものになっている
理由も考えさせられます。
#44 2013年01月02日 10:28:36
- akame
- ゲストユーザー
Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)
神に最後はお任せできる。とはいえ
不条理の中にあっても自らの課題に正面から取り組むこと
で成長する。
これが人生の大きな意味で、神の喜びでもあると今は感じています。
#46 2013年01月02日 14:58:40
- akame
- ゲストユーザー
Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)
>植物は工場で昆虫は生物ロボットと見なせます。
微生物は目に見えないナノあるいはピコロボットです。
昆虫の情報伝達は極めてロボット的で、それ故人間の技術者が真似のしやすいものとなっています。
蟻などは、情報伝達ホルモンの交換で情報を伝達しています。それは、あたかもUSBで情報を交換するかのようです。神は実利と楽しみのために昆虫を備えらた見なすことができます。それは驚嘆すべき「おもちゃ」です。子供は昆虫に夢中になります。そしてよくその精巧なおもちゃを壊します。
この引用もよく目にしました。
良い子は真似しませんように。どんどん平気で虫の首を抜いたりして殺す子供(子供がそうしている姿も不気味ですが)
が目の前にいたら親は注意しましょう。
さて、聖書朗読をしていて引っかかる部分には次のようなものがあります。
サムエル第一第15章
15:1さて、サムエルはサウルに言った、「主は、わたしをつかわし、あなたに油をそそいで、その民
イスラエルの王とされました。それゆえ、今、主の言葉を聞きなさい。 15:2万軍の主は、こう仰せら
れる、『わたしは、アマレクがイスラエルにした事、すなわちイスラエルがエジプトから上ってきた
時、その途中で敵対したことについて彼らを罰するであろう。 15:3今、行ってアマレクを撃ち、その
すべての持ち物を滅ぼしつくせ。彼らをゆるすな。男も女も、幼な子も乳飲み子も、牛も羊も、らく
だも、ろばも皆、殺せ』」
後に皆殺しをしなかったことで叱責されます。
見よ、従うことは犠牲にまさり、
聞くことは雄羊の脂肪にまさる。
15:23そむくことは占いの罪に等しく、
強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。
私の子供が生まれたてのころでしたが、この聖句を読みながら
考えたものです。
アマレク人との戦いに自分がいたとして、果たしてこのエホバ神の命令に
従っただろうか?
戦いの最中、アマレク人のある家に入りました。男はすでに殺され、
そこで恐怖に震える乳飲み子を抱いた女性がいます。
乳飲み子はすやすや眠っているかもしれません。
母親は命乞いをするかもしれません。
「神の命令だからと平気で殺せるだろうか?」
「この命令は神のどのような特質が示されているのだろうか?」
#47 2013年01月02日 16:20:14
- カレブ
- Administrator
Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)
>すべての持ち物を滅ぼしつくせ。彼らをゆるすな。男も女も、幼な子も乳飲み子も、牛も羊も、らく
>だも、ろばも皆、殺せ』」
akameさん 興味深い点ありがとうございます。
考えさせられる聖句の代表例だと思います。
これを映画化したら子供には見せられないスプラッター聖書物語ができると思います。
このような旧約聖書の現実は 直視する必要があるとわたしも思います。
ニューヨークの同時テロでさえ、イスラエルの生々しい虐殺の場面と比較すると
色あせます。
akame さんが どのように信仰の問題を解決したのか とても気になります。
オフライン
#49 2013年01月02日 20:03:31
- akame
- ゲストユーザー
Re: 聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)
エレミヤ25:33「その日、主に殺される人々は、地のこの果から、
かの果に及ぶ。彼らは悲しまれず、集められず、また葬られずに、
地のおもてに糞土となる。」
累々たる遺体をふとみると自分の親だったり自分の子供の一人かもしれません。
だれが殺されるかわかりません。人間からみて邪悪かどうか
決してわからない赤ちゃんでも殺されるのですから
近所でよく話していたおばちゃんかもしれません。
葬式どころか地の肥やしです。
その光景は決して忘れないことでしょう。
>その方の裁きは公正で愛と憐れみのうちに執行されます。
まったくそれを感じませんね。
恐怖政治以外のなにものでもありません。
これで本当に神への愛が強まり
皆で幸福に笑ってすごせるのでしょうか?
神の命令なら赤子だろうと妊婦だろうと
平然と殺せるSKさんなら笑ってすごせるかも
しれませんが、
私には無理です。
他の皆さんはいかがですか?