#251 2020年01月09日 08:30:53
#252 2020年01月09日 09:11:47
#253 2020年01月09日 09:39:54
- てつてつ
- メンバー
Re: 聖書という書物について
190ページあたり
「死なない程度の不幸なら、何であれ当人を強くする」などという諺が真理であるとはとうてい信じられない。それが真理ならよいのにとは思うが、不幸にもそうではないのだ。多くの場合、命までは奪わない程度の不幸でも、人を重度の障碍者にし、生涯に及ぶ深刻な後遺症を残し、精神的・肉体的健康を破壊するそれも永遠にだ。われわれは決して苦しみというものを気軽に考えてはならないと思う自分の苦しみであろうと、また他人の苦しみであろうと。私がとくに何よりも激烈に反対するのは、誰か他人の苦しみがわれわれを救うためのものであるという観念だ。この世に満ち満ちている苦痛を認識することによってわれわれはより高潔な人間となると説く人もいるが、率直に言って不快で忌々しい考え方だと思う。確かに、自分自身の苦しみならば場合によっては当人をより強く、優しく、慎み深い人間にするということはあるかもしれない。だが他者の苦しみが、われわれをより幸福にしたり高潔にしたりするためだというようなことは絶対にないのだ。
他人が重病に苦しんでいるおかげで私は自分の健康を感謝することができるなどと考えるのは残忍なことだ。飢えている人間がいるから自分はこの食事に感謝できると言うのはこの上なく自己中心的で冷淡なことだ。周りの人間が次々と死んでいくのを目の当たりにしているだけになおいっそう生きていることがありがたいなどと言うのは、子供のまま大人になった人間の自己中心的な戯言だ。場合によっては、私自身の不運が何か良いことを生み出すかもしれない。だが私は、食べ物がない人もいるのだからという理由で、自分に食べ物があることを神に感謝する気にはとうていなれないのだ。
それゆえに、この世に苦しみがある理由はこれとは別に違いない。あるいはたぶん、結局のところ、理由など何もないのかもしれない。実際、そこに理由などないというのが、次の章で採り上げる聖書の記者たちの答えである。答えがないというのが答えなのだ。
編集者 てつてつ (2020年01月09日 09:40:32)
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#254 2020年01月09日 13:12:04
- てつてつ
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Re: 聖書という書物について
240ページあたり
歴史的に見て、キリスト教の発展にとってlそしてある時期のユダヤ教の発展にとってもl最も重要な見解は、ヘブラィ聖書の最後の書物にも、また新約聖書の多くの書物にも見出すことができる。現代の学アポカリプティシズム者はこの見解を「黙示思想」と呼び慣わしている。この名称およびその基本思想については、この章の後の方で説明する。だがまずその前に、この黙示思想の出所を指摘しておく必要がある。この思想はまず、なぜこの世に苦しみが存在するのかという問題への伝統的な解答、つまり苦しみとは罪に対する罰であるという預言者的解答に満足できなくなったユダヤの思想家たちの間に芽生えた。黙示思想家は、神の意志を遵守しようとしている神の民の方が、よりいっそう苦しみに襲われるという事実に気づいていた。そこで、その理由を説明しなくてはならなかったのである。
言うまでもなく、預言者たちは既成の答えを用意していた民が苦しんでいるのは、神が無力で選民のために何もできないからではない、むしろ神が全能であるがゆえなのだ。この苦難を自らの民の上にもたらしているのは神自身であり、それは民が神に背いたためである。もしも民が神の道に立ち帰れば、神の愛顧を取り戻せる。その時、苦難は終わり、民は再び平和と繁栄を取り戻す。預言者たちはそう教えた。紀元前8世紀のアモスもホセアもイザヤも、紀元前6世紀のエレミヤもエゼキエルも、いや、いつの時代のどの預言者もだ。これこそが預言者的見解である。だが、この預言者的見解が歴史によって否定されてしまった時、いったい何が起こるのか?イスラエルの民が預言者の言葉に従った時神に立ち帰り、偶像や異教の神々の崇拝を止め、神がモーセに与えた律法を遵守し、悪行を悔い改め、義を行なうようにした時、いったい何が起こるのか?苦しみに対する預言者的解答の論理で行けば、その時こそ事態は逆転し、生は再び善きものとなるはずだ。歴史的な問題点とは、民は実際に何度も神に立ち帰ったのだが、その苦難の生活には全く何の変化もなかつたということだ。実際には、彼らが神の道に立ち帰ったがゆえにかえって苦しむことさえあった。異教の強国は、イスラエルの民が神から与えられたモーセの律法を遵守しようとしたがゆえに、彼らを圧迫したのだ。であるなら、苦難をどう説明すればよいのか?民は罪ゆえに苦しんでいるのではない今やむしろ、義のゆえに苦しんでいるのだ。預言者的解答はこの問題に対処できない。そこでこれに対処するために生まれたのが黙示思想の解なのだ
編集者 てつてつ (2020年01月09日 13:15:23)
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#255 2020年01月09日 16:47:17
- てつてつ
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Re: 聖書という書物について
250ページあたり
この考え方が最初に明示されたのは、マカバイ戦争の時代に書かれたとある書物だ。それはへプライ聖書の中で最後に書かれた書物、『ダニエル書』である。
ダニエルは紀元前6世紀、バビロン捕囚とペルシア王国の時代に生きたとされる。だが学者たちの見解は、この書物が書かれたのはその時代ではないという点で一致している。一つにはこの書のかなりの部分がアラム語や後期へプライ語で書かれているからだこれは紀元前6世紀よりもはるかに後の時代を示している。さらに重要なことに、この書物のシンボリズムの多くは、アンティォコス・エピファネスとその過酷な政策を暗示しているのだ。ゆえにこの書は通常、紀元前2世紀半ばのものとされる この書の第1部、すなわち1章から6章はバビロンに捕囚されたユダヤ人ダニエルとその3人の友人たちの物語だ。彼らは異国でさまざまな冒険をするが、つねに超自然的な力によって守られている。そして第2部にはデニエルのヴィジョンが記されている。古代イスラエルにおける黙示思想の攪頭に関心を持つ者にとって、とくに興味深いのはこの第2部だ。なかでも最も重要なのは、7章で語られるヴィジョンだろう。そこではまず「天の四方から風が起こって、大海を波立たせた」ダニエル書』7章2)。それから4匹の恐ろしい獣が次々と海から現われる。「第一のものは獅子のようであったが、鷲の翼が生えていた」(7章4)。これは最後には人間のようになる。第2の獣は「熊のよう」で、口から3本の牙が生えている〔訳注l新共同訳では「三本の肋骨を口にくわえていた」〕。そして「これに向かって、『立て、多くの肉を食らえ』という声」がする(7章5)。第3の獣は豹のようで、烏の翼があり、四つの頭がある。そしてこの獣には「権力が与えられた」(7章6)。それからグー王ルは第4の獣を見て「ものすごく、恐ろしく、非常に強い」と言う(まるで他のがそうではないかのようだ)。この獣は「巨大な鉄の歯を持ち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじった」(7章7)。さらにこれには岨本の角があったが、さらにもう1本生えてきて、そのために3本が引き抜かれる。....
このヴィジョンと天使によるその解釈をどう理解すべきか?学者たちは昔から『ダニエル書』7章こそはユダヤの「黙示録」の最初の事例の一つ(あるいは、まさに最初の事例そのもの)と見なしてきた。「黙示録」とは文学ジャンルの一種で、マカバイ時代から人気が出始め、その後も最初はユダヤ人、そして最終的にはキリスト教徒の間で大人気となった。今日でも、ほとんどの人は少なくとも一つの黙示録を知っているlヨハネの黙示録』、すなわち新約聖書の最後の書だ。『ダニエル書』7章のヴィジョンと同様にヨハネの黙示録』もまた現代人の目には実に奇妙なものに映る。だが古代の読者にとっては全く奇妙でも何でもなかったはずだ。「ヨハネの黙示録』もまた数ある黙示録の一つとして、お馴染みの文学的伝統に則っているからだ。このジャンルがわれわれの目に奇妙なものに見えるのは、われわれが古代の黙示録を読むのに慣れていないからにすぎない。だが今もなお黙示録の多くは現存している(聖書には入っていないが)。アダム、モーセ、エリヤ、エノク、バルク、イザヤ、ペトロ、ヨハネ、パウロ、その他の人々の名によって書かれた黙示録が現存しているのである。
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#256 2020年01月10日 07:56:26
- てつてつ
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Re: 聖書という書物について
黙示録とは、預言者が自分の見たヴィジョンを記述する文学作品だ。このヴィジョンはほとんどつねに、解釈困難な奇怪なシンボリズムによって示される(たとえば恐ろしい獣など)。だが必ずそばに天使のような解釈者がいて、解釈の鍵を提供してくれる。ある黙示録では、預言者が天の領域に上げられ、そこで見たものが地上で起こることに反映される(言ハネの黙示録」の一部にもこの構造がある)。あるいはまた、預言者の目の前に一連の出来事が示され、これが一種の歴史的時間軸に沿って未来に起こることであると解釈される含ダニエル書』7章がそれだ)。へプライの記述預言者たちがそうであったように、黙示録の預言者もまた同時代の人々に語っているl決して水晶球を覗き込んで何千年も先の未来を見ているのではない。ほとんどの場合(すべてではないが)、黙示録の預言者は匿名で記述しているIそして過去の有名な宗教的人物の名を借りるのだ。これは彼らの書に一種の信綴性をもたらすl天の秘密を明かされるのに、神に最も近い人々、すなわち古の偉人たちほどふさわしい人々があろうか?それゆえにこそ、すでに述べたようにモーセやエリヤ、果てはアダムによって書かれたと称する黙示録が存在しているのだ。そして後にはイザヤ、ペトロ、パウロの名によって書かれた黙示録も登場することになる。過去の有名人を黙示録の著者に仕立て上げることの利点の一つは、その建前上の著者から見た未来の出来事というのは実際の著者の時代にはすでに過去のものとなっていることだ。すなわち、建前上の著者の「予言」は、確かに当たったということになるl予言通りのことが確かに起こったのだから!その点から見れば、まさに『ダニエル書』は黙示録だ。この書はマカバイ戦争の時代に匿名の著者によって書かれた。当時はアンティオコス・エピファネスが神殿を稜し、ユダヤ人に律法を守らせず、従わない者を迫害していた。奇怪なシンボリズムに満ちた『ダニエル書』のヴィジョンは天使によって解き明かされる。このヴィジョンは紀元前6世紀の預言者から見た「未来」の出来事だとされている。だが実際にはここに書かれた「未来」の出来事のほとんどは、紀元前2世紀の実際の著者にとってはすでに過去の出来事なのだ。このような偽予言の利点は、本物の著者が次に起こること、すなわち自分自身の時代から見た未来の出来事に筆を転じても、そうは見えないということだ。つまり著者はある時点までは歴史的にすでに起こってしまったことを書いており、次に自分がこれから起こって欲しいと期待する未来のことを書く。だが読者は、そのすべてを未来の予言として理解してしまう。そしてそこに書かれたことのすべてがこれまでのところはまさに書かれたとおりに実現している(それは当然だ。著者は過去に起こったことを知っているのだから)ことからして、これから先の予言も必ず実現するに違いないと考える。
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#257 2020年01月10日 08:15:30
#258 2020年01月12日 14:59:15
#259 2020年01月12日 15:15:33
#260 2020年01月12日 15:21:44
#261 2020年01月12日 15:44:01
- てつてつ
- メンバー
Re: 聖書という書物について
だが結局、私は苦しみの問題について最終的には聖書に同意することを認めざるを得ない。私が同意するのは、コへレトの言葉』に示される見解だ。この世にはわれわれに理解できないことなどごまんとある。この世の多くの出来事には意味などない。時には正義などどこにもないこともある。物事は計画や予想の通りにはならない。悪いことは数限りなく起こる。だが人生には善いこともある。人生に対する解とは、生きているうちにそれを楽しめということだ。なぜなら生は傍いものだから。この世は、そしてこの世のすべてのものは、懐く、移るいやすく、すぐに消えてしまうものだ。われわれは永遠に生きるわけではないl永遠どころか、長くすら生きられない。だからわれわれは人生を十全に、可能な限り、できるだけ長く楽しむべきなのだ。これこそがコへレトの言葉』の著者の考えであり、私も同意する。人生は一回限りだ。聖書にそう書いてあると言っても、学生たちは信じられないという顔をするlだが本当なのだ。これこそまさに言へレトの言葉』の教えであり、また他の偉大な思想家、たとえばヨブ記』の韻文対話篇の記者などもこれに同意している。だから私は結局のところ、聖書思想家と言えるのかもしれない。いずれにせよ人生が一回限りだからといって、絶望したり意気消沈したりする必要はない。むしろ逆だ。人生は喜びと夢の源泉でなくてはならない束の間を生きる喜び、そして自分にとっても他者にとってもこの世界をより良いものにしていこうという夢である。
人は偏狭である必要も、人種差別をする必要もない。われわれの法律も習慣も、性別や性的指向に基づいて差別をするよう定める必要はないのだ。何としても強調しておきたいのは、われわれは是が非でも、この世界を われわれの住む世界を われわれにとってこの上なく快適な場に変えていくべく全力を尽くさねばならないということだ。われわれは愛し、愛されるべきだ。人間関係を広め、親しい関係を楽しみ、家族を大切にすべきなのだ。金を稼ぎ、遣うべきなのだ。それも多ければ多いほど良いのだ。美味い食事と酒を楽しむべきであり、外食し、身体に悪いデザートを注文し、グリルで肉を焼き、ボルドーを呑むべきなのだ。街を歩き、庭仕事をし、バスケットボールを見、ビールを呑むべきなのだ。旅をし、本を読み、美術館へ行き、芸術を見て音楽を聴くべきなのだ。良いクルマを運転し、良い家に住まねばならないのだ。セックスし、子供を作り、家庭を作らねばならないのだ。人生を愛するためにできることは何でもせねばならないそれは贈り物であり、そしていつまでもあるものではないのだ。
だがわれわれは同時に、この世界を他者にとってもこの上なく快適な場に変えていくべく全力を尽くさねばならない入院している友人を見舞い、地元や海外への支援に寄付をし、地元で炊き出しのボランティアをし、自分の政治家としての未来よりも世の苦難に関心を持っている政治家に投票し、無睾の民に対する暴力的な抑圧に反対すべきなのだ。この世こそがすべてなのだ。われわれは人生を十全に生き、また他の人々も同様に大地の恵みを楽しめるように手助けせねばならない。結局のところ、われわれは人生の諸問題に対する究極の解決など得られないのかもしれない。なぜという問いに対する答えは判らないのかもしれない。だが、苦しみに対する解答がないからと言って、それに立ち向かうことができないということではない。それに立ち向かうと言うことは、可能な限り世の苦しみを緩和し、人生をより良く生きるべく努力することなのだ。
ここまででこの本は終わりです 結局聖書の述べる悪いことが存在する理由 自由意志「証人もこれかと思います」もふくめてさまざまな理由はどれも納得できるものではないということと結局はアーマンさんもわからないけど人生は一度きりなので一生懸命努力して楽しんで生きてね
という感じかと思いました
編集者 てつてつ (2020年01月12日 15:47:21)
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#262 2020年01月12日 15:52:35
- てつてつ
- メンバー
Re: 聖書という書物について
オマケ 訳者あとがき
幼い頃から筋金入りのキリスト教徒として育てられ、思春期の内に福音派(アメリカのプロテスタントの中でも原理主義的傾向で知られる宗派)の「霊的再生」を体験し、長じては新約聖書を専門とする宗教学者となったアーマン。この経歴を見る限り、彼が妥協を許さぬ筋金入りのキリスト教徒であるということは想像に難くありません。事実、若き日のアーマンは、聖書に書いてあることはすべて正しく、一字一句に至るまで神の霊感によってできているのだという「逐語霊感説」を固く信じていました。聖書の言葉を正しく知りたいと熱望するあまりギリシア語を学び、聖書写本研究の道に入ったのです。その彼がキリスト教を棄て、自ら「不可知論者」を名乗るようになったのは、まさに「神義論」のゆえでした。「神義論」という用語は17世紀に哲学者ライプニッッによって造られたもので、「神の正当性」を問う議論を指します。キリスト教の言う「全能」かつ「慈悲深い」神が実在しているなら、何ゆえにこの世界には苦しみや悪が存在するのか。キリスト教の経典である聖書では、この問題に対してどのような解答が与えられているのでしょうか?「聖書」と一口に言っても、そこにはさまざまな書が含まれており、ゆえにこの問題についても互いに相矛盾するさまざまな解答がいくつも混在しています。それらの解答のひとつひとつを丹念に調べ上げ、それが現代人にとってどのような意味を持つのかを考察することが本書の主要テーマです。その地道な作業の果てに、アーマンはついに棄教に至ったのでした。聖書の説く「苦しみの理由」は、どれをとっても現代人アーマンの知性と良心を共に満足させるものではありませんでした。そこに如何なる神学的理由があったとしても、無事の人々がこの世で被る苦しみはあまりにも過酷すぎると彼は考えます。神の民であるはずのユダヤ人が被ったホロコーストは別世紀の人類が体験した巨大な難難でしたが、同様の「民族浄化」の悲劇はその後も何度も繰り返されました。カンボジアで、ルワンダで、ボスニァで。そして今もなお、ダルフールで、チベットで、それは続いています。このような苦難の意味について考え抜いた結果、彼は「もはやキリスト教の神を信じることはできないと悟り、不可知論者となった。不可知論者である私には、神が存在するかどうか『判らな運。だがもしも存在するなら、その神はユダヤⅡキリスト教が主張するような能動的かつ強力にこの世に介入する神ではないということは間違いない」。豊富な学識と真塾な学問的良心を備えた当代随一の聖書学者が、真の「神の言葉」を求め、半生を賭して研究に打ち込んだ末に辿り着いたのが「不可知論」であったというのは全く皮肉な話ですが、我が国よりも遙かにキリスト教の影響力の強い合衆国においてはこの事実は多くの人にとって衝撃的であったらしく、本書の原書は発刊後ただちにタイムズ紙のベストセラーに躍り出ました。
翻訳者として、本書を読んでいて最も興味深く感じたのは、7章と8章で語られる「黙示思想」の流れでした。現在のキリスト教はある意味、イエスという人物を素材として使徒パウロが造り上げた宗教ですが、よく知られているように、そのパウロは実際にはイエスと会ったこともないばかりか、生前のイエスの活動や思想にはほとんど無頓着でした。つまり現在のキリスト教の教義の基盤となったパウロの思想はイエス自身の教えとはずいぶん異なるものだったのですが、その彼の思想がどこから来たのか、彼は何を信じ、何を考えていたのかということが、本書によって臨場感豊かに解き明かされます。彼にとっては、その後のキリスト教自体の発展はおろか、2000年後の今日においてまだこの世界が存続していること自体、あり得ないことだったのです。キリスト教の長期的な存続そのものがその始祖たるパウロの思想と相容れないとは、これまた痛烈な皮肉です。現在のキリスト教は、その成立の時点ですでに根源的な矛盾を内に抱え込んでいたと言えるかもしれません
というわけで関心ある方はぜひ購入してしっかり読んでみてください 
編集者 てつてつ (2020年01月12日 15:55:04)
オフライン
#263 2020年01月12日 16:31:09
#264 2020年01月13日 00:49:11
#265 2020年01月13日 08:51:54
#266 2020年01月13日 11:21:07
#267 2020年01月13日 13:49:23
#268 2020年01月13日 15:43:14
#269 2020年01月13日 16:35:29
#270 2020年01月13日 16:53:03
#271 2020年01月14日 07:47:58
- めぐママ
- メンバー
Re: 聖書という書物について
おはようございます。
第三の天
の説明が 洞察の 注解 よりも この世界が 三層構造になっている という説の方が 納得いきました。
akameさん 三太郎さんの おっしゃって いたことが 解らなくて 何度も 振り返って読みました。 買い求めていた本 昔の本も 段ボール箱から出てきたので 調べてみようと思います。
友人が なにやら 陰謀論を見たらしく 電話して来たので ここでの情報を伝えました。 脳は 受容器 とか 量子コンピュータの時代になるとか 。JWから離れたつもりでも 何か 神は 目的を持たれるかた 人格を持っている とかの そのモノサシ いっかい 取っ払うようにして 考えてみよう!
後日 ありがとう もつと 話をしておけばよかった 貴女は 只者じゃない と言うから
「只者ですけど・・・」 と答えました。
確かに ここの 先輩方々は 只者ならぬ 雰囲気。
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#272 2020年01月14日 19:18:51
- めぐママ
- メンバー
Re: 聖書という書物について
てつてつさん #227の シラカワ会衆 の話は フェイクニュースだそうです。 拡散しないでと 撤回しているそうです。 なんのためか 手が込んでいますが 背教者は作り話をしていると 信者を情報操作するためのプロパカンダ ですね。
ほら やっぱり 真理を捨てた 背教者は ウソつきだという演出。 忍者も 徳川かた と 秀吉かた双方 やとわれて 噂を流したり 民の 気持ちを探るために変装して 薬売りになったりしていました。
茶席での 限られた人だけの会話も 盗聴されないように 探り合いですね。
忍者が 天井の上から 息を潜めて聞いている。
こちらに来て すぐご近所に 甲賀さん 百済さん というお家があり ドキッとしました。
ということで シラカワ会衆 の話はない。 でも 似たような事は あちこちであります。
なかのっち さんの YouTube 今日は 大丈夫だけど 組織も 断末魔の叫びを上げているようです。
組織の 崩落とともに 訴訟 セラピー 業界が動くと思います。 詐欺も多い。
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