#126 2017年02月02日 23:05:47
- KAO
- ゲストユーザー
Re: ナザレのイエスは神の子か の本について
ほんとだー、同じような感想をレビューしてる人いますね。
これだけ露骨に人選が偏っていたら、当然見抜く人はいるでしょう。
今度はストロベルさんに、私が製作した「取材対象者リスト」でもってインタビューしてみてほしいと思います。
あっ、「いのちのことば社」の企画通んないか(笑)
#127 2017年02月03日 06:14:38
#128 2017年02月03日 08:53:04
- ラハム
- メンバー
Re: ナザレのイエスは神の子か の本について
わたしも先月初めから「神の子か」を半分まで読みました。
どの本も軽く400ページを超えることが多いですね。
途中まで読んでいるところで、てつてつさんから
「発掘された聖書」を先に読んだほうがいい、
というアドバイスをいただき、
切り替えてから、半分まで来ました。
もう少し時間が必要ですね。「神の子か」も中途ですが、
読んでいて、なんだか変だなあと思っていました。
聖書にとって都合の良い解説者ばかり登場していましたから…。
KAOさんの説明を読みその理由がわかりました。
わたしとしては一つの勉強として、
そのような説明もあるんだということで
読破しておこうとは思っています…。
オフライン
#129 2017年02月03日 09:11:24
#130 2017年02月03日 23:11:25
- 痛風
- ゲストユーザー
Re: ナザレのイエスは神の子か の本について
元証人が自分の信じたいものを信じるということが、これで分かったな。
#131 2017年02月05日 01:31:32
#132 2017年02月17日 09:29:59
- ヤマ
- メンバー
Re: ナザレのイエスは神の子か の本について
初めまして。
KAOさんやてつてつさん、ラハムさんたちの論議を楽しく拝見しております。
田川先生のマルコ福音書の著者に関する見解が、現在では異なっています。どなたかが訂正して下さるものと思い、静観しておりましたが、いまだ、その投稿がないようですので紹介させていただきます。
KAOさんが、マルコ福音書上巻の記事を紹介して下さっており、マルコ福音書のマルコとは、使徒12:12等に出てくるヨハネ・マルコとは別人物であり、記号的名称であるとの見解を紹介して下さいました。
以下引用。
まず第一に我々の手元には「マルコによる福音書」が存在します。これは歴史的な固有名詞です。それに対し「この福音書はいったい誰が書いたのか?」という聖書学上の著者問題というものがございます。この第二福音書がマルコの名と結びつけられたのは、「教会史」で知られるエウセビオス(260-339)が、ヒエラポリスの司教パピアスの伝える伝承によるもので、そこで「マルコ」はペテロに同行した通訳として言及されています。しかしそれがⅠペテロ5章13節の人物を指しているかどうか、単なる通訳ではなく「わたしの子」と表現されており、それにⅠペテロそのものが偽書とされていることを勘案すると、根拠は乏しいようです。他にも新約の中にはパウロの同行者としてのマルコ(ヨハネ・マルコ)も存在しますが、その場合でもイエスの同時代人とはなりません。
要するに聖書学の分野では、マルコ福音書の著者は「無名人」であり、著者としての「マルコ」とは、便宜上の記号にすぎないということです。田川先生は、もはやマルコの専門家という狭い範囲の研究者ではありませんが、学位論文はマルコ研究だし、いまだ上巻だけとはいえ、『マルコ福音書』注解も出しており(新教出版社:1972年)、その序説の部分で著者問題に言及し、「著者がどういう人物であったかはわからない。新約聖書で何度か言及されているマルコなる人物(使徒行伝12:12,25,13:5,13,15:36以下 ピレモン24,第一ペテロ5:13)とは、おそらく無関係であろう。」(P6)と明確に書いていらっしゃいます。
引用終わり。
現在、田川先生はこの見解を撤回しており、「新約聖書訳と註」の第一巻、マルコ福音書の解説P853~以下のようにあります。
以下引用。
・・・このマルコがこの福音書の著者であるという指摘は、現存の文献では最も古くさかのぼっても二世紀初めまでしかさかのぼれないが、しかし、二世紀には広く広まっており、その点ではまったく異論もなかったのだから、すでに一世紀後半にはそのことは十分に広く知られていたものであろう。そして現に、この人物がこの福音書の著者であることを否定する積極的な理由は何一つない。それにもかかわらず比較的最近の聖書学では、これを否定する傾向が強い。(私も若いころは学会の主流に抵抗する勇気がなかったから、その意見にくみしていた。どうもすみません)。しかしこのマルコがこの福音書を書いたということに反対すべき根拠は、本当に、何一つないと言ってよい。むしろ、この人物ならばいかにもこの本を書いただろうな、と思えるふしは多い。・・・
引用終わり。
マタイとヨハネに関しては、記号的名称でしかないが、マルコとルカに関しては、聖書中に登場する実在の人物である、と考えておられるようです。
詳しくは、新約聖書訳と註でご確認ください。
「書物としての新約聖書」P335-6にかけても、
・・・キリスト教の長い伝統では、この人物は使徒行伝12:12などに出てくるヨハネと呼ばれるマルコと同一人物であろう、と信じられてきた。とすれば、エルサレム在住の、キリスト教の発足時にはまだおそらく若かった人物で、その母親マリアは最初期のエルサレムのキリスト教会のかなり有力な人物であったらしい。おそらくはバルナバが彼をヘレニズム世界に向かう宣教活動にひっぱりだした(12:25,13:5)。しかし、第一回伝道旅行でおそらくパウロと衝突して、途中からひきかえしてしまう(13:13)。それが原因で、バルナバ自身も第二回伝道旅行の時にはパウロと判れ、マルコと共に別の伝道旅行に出発する(15:36以下)。もしもこの人物がマルコ福音書の著者であったならば、そのギリシャ語のくせも大いに理解できるというものである。・・・
ここでも、はっきりとヨハネ・マルコがマルコ福音書の著者であると断定はしていないが、その可能性が非常に高いことを示唆しています。
ご参考になれば、幸いです。
オフライン
#133 2017年02月17日 10:24:30
- Chimera証人
- ゲストユーザー
Re: ナザレのイエスは神の子か の本について
ヤマさん、アーメンです。
KAOさんなどは、新約聖書の本文研究からもメツガー博士の言葉を都合のいい部分だけ抜き出しており、呆れるばかりです。
よって、もはや反論する気にもなれず、滅びへ引き渡して放置しています。
都合のいい引用や曲解は、カレブ、ささらほーさらなどの人物にも時に見られます。(敬称略)
欺かれないように注意が必要です。
#134 2017年02月17日 10:26:32
#135 2017年02月17日 17:45:08
- ラハム
- メンバー
Re: ナザレのイエスは神の子か の本について
「ナザレのイエスは神の子か」はきょう読み終わりました。
「発掘された聖書」は1月15日から2月12日までかかりました。
「岩はうそをつかない」はこれから読書開始です。
「神の子」はジャーナリストが世の中の権威者から
聞き取り調査をした結果を伝えています。
それらの権威者たちが抱く聖書やキリストに対する信仰と
確信で満たされている資料でした。
それらの確信や信仰が正当かどうかは判断しません。
わたしとしては、JWと30年近く付き合うことを通じて
聖書の神や他の宗教の神々について信仰を失いました。
だから、それら権威者たちのような
純粋な信仰を持てることをうらやましく思いました。
そのような信仰を抱き続けることによって
幸福で満ち足りた人生を送れるのであれば
ほんとうによいことです。
論理的な立場から、学問的な立場から
特に新約聖書に描かれているキリストの人生の
信憑性を説明し、立証していたと思います。
さて「発掘された聖書」は考古学的立場から、
特に旧約聖書に記述されている歴史を
どこまで証明できるかを検証していたと思います。
その結果として、シルバーマンという人が
調査した結果は、考古学と一致している部分もあるが、
一致していない部分も多数あるということでした。
彼の調査した段階では、聖書に記録されているほど
イスラエル民族は古くありませんでした。
聖書の記録通りであれば都市や村が実在し、
民族の繁栄が発掘される時代においても
そのような考古学上の遺跡はありませんでした。
わたしとしては、これら考古学者が物理的に
発掘した段階では証拠を見出せなかったとしておきます。
過去においてさまざまな段階で否定されていたものを
肯定する証拠を見出す事例もあるからです。
いくら掘り出して証拠を見出そうとしても、
実際存在しなかったとすれば、
見つけることは不可能だということも認めます。
でも、あるかもしれません。
これら二冊の本は異なる立場から聖書の信憑性の
立証を試みたものだと思います。
だから「神の子」に記載されている論理を用いて、
「発掘された」の説明を覆すことは無理だと思います。
また、その逆も意味があるように思われません。
現在のわたしにとって聖書の存在が自分の人生において、
どのような意味があったのか、これからどのような意味を
持つことになるのか考察しようと思っています。
聖書を肯定する説明も、否定する説明も合わせて考慮し、
世界のベストセラーとして多くの人が受け入れているのは
なぜかということも考えてゆきたいです。
意味や意義のない書物が世界のベストセラーであり、
これまで大勢の人々が研究の対象として
命がけで守り続けようとするはずがありません。
400ページを超える書籍を読むことはほんとうに
努力が求められましたが、「発掘された聖書」の
エピローグを読んだとき、真によかったと思いました。
以下、抜粋です…。p380-381
へプライ語聖書が共同体の生活におけるその力強い働きから切り離され、詳細に分析、研究され始めたときになって初めて、神学者や聖書研究者はそれに何か別のことを要求し始めた。一八世紀から、まったく正確で、実証できる歴史への啓蒙主義的な探求において、聖書の歴史的事実性が、現在もそうであるように、激しい論争となった。研究者たちは、七日間の創造と自然発生的な奇跡は科学と理性によって納得いくように説明されることができないということをはっきり理解し、彼らが聖書において「歴史的」であると認めるものとそうでないものを選別し始めた。聖書のテクストに含まれている異なる資料についていろいろな理論が現れ、考古学者たちは、聖書における特定の部分の歴史的信頼性を証明あるいは反証する証拠について論じた。
けれども、聖書の全体性と、実際にその歴史性は、紅海の分離、エリコの壁を倒した角笛の音、ダビデによる石投げ紐の一投でのゴリアト殺害のような何らかの特定の出来事あるいは人物の忠実な歴史的「証明」に依るものではない。聖書のサガの力は、それが、人々の解放、抑圧への継続的な抵抗、社会的平等への探求という時代を超えた主題についての、人を動かさずにはおかない、一貫した物語的表現であることに由来する。それは、あらゆる人間の共同体が存続するために必要とする、共有する起源、経験、運命についての深く根ざした感覚を雄弁に表現している。
特定の歴史的観点から見て、私たちは今、聖書の叙事詩的サガは最初、滅亡の前数十年における小さなユダ王国の人々や捕囚後の時代にエルサレムにあったより小さな神殿共同体が直面した圧力、困難、難題、希望への応答として現れたことを知っている。実際、私たちの聖書理解にとって考古学の最も大きな貢献は、王国時代末期のユダや捕囚後のイェフドのような小さく、比較的貧しく、周辺的な社会が、そうした短い期間にこの不朽の叙事詩の主要な輪郭を生み出すことができたという認識なのかもしれない。こうした認識はひじょうに重要である。というのは、聖書に述べられている考え、イメージ、出来事がいつ、そして何のために巧みにまとめあげられるようになったのかを私たちが認識する時だけ、私たちは人間の歴史においてまさに最も影響力のあるこの文学的、精神的創造物の真の特徴と存続し続ける力を最終的に正しく理解することができるからである。
オフライン
#136 2017年02月17日 18:13:17
#137 2019年06月06日 05:35:15
- 仰天
- ゲストユーザー
Re: ナザレのイエスは神の子か の本について
#138 2019年06月06日 12:43:03
- ほい
- ゲストユーザー
Re: ナザレのイエスは神の子か の本について
#139 2019年06月06日 19:30:40
- akame
- ゲストユーザー
Re: ナザレのイエスは神の子か の本について
>信じてもいない神がなぜ憎いのですか?
.....
#140 2019年06月07日 07:42:59
- モトシモベ
- ゲストユーザー
Re: ナザレのイエスは神の子か の本について
#141 2019年06月07日 08:02:16
- 仰天
- ゲストユーザー
Re: ナザレのイエスは神の子か の本について
#142 2019年06月07日 11:11:06
- さやか666
- ゲストユーザー
Re: ナザレのイエスは神の子か の本について
やはうえ痛快劇場 テロリストなぞなぞ
「食べようとするものから食べものが出て、強いものから甘いものが出た。
それは、な~んだ?」
#143 2019年06月07日 16:08:16
- モトシモベ
- ゲストユーザー
Re: ナザレのイエスは神の子か の本について
#144 2019年06月07日 16:30:29
- さやか666
- ゲストユーザー
Re: ナザレのイエスは神の子か の本について
#145 2019年06月07日 16:42:15
#146 2019年06月07日 16:59:47
- 仰天
- ゲストユーザー
Re: ナザレのイエスは神の子か の本について
#147 2019年06月07日 17:20:46
- さやか666
- ゲストユーザー
Re: ナザレのイエスは神の子か の本について
#148 2019年06月07日 17:45:08
- めぐママ
- メンバー
Re: ナザレのイエスは神の子か の本について
実家の庭は純和風で苔のむすエリアがあります。 とても趣のある その一画 で 霧島躑躅 石楠花を 鑑賞するのが好きでした。
父は 庭師さんの定期的な 管理の合間にも 苔の上に生えた 小さな草を取っていたものです。何処からか 草のタネは飛んでくるのです。ピンセットで取ってると 母や姉は 呆れていたけど 良い運動になると言う人もいました。 晩年 もっと厄介な やつが侵略してきました。
ゼニ苔です。 コレが 苔の上に増殖しだすと もうダメでした。
苔類は 菌で増殖するので 根絶するのは難しいとの事です。 取り除いても 別の場所に ゾンビのごとく 顔を出す。 杉苔や ステキな苔類は消えて 庭の価値は 台無しになりました。 兄が 別棟を建てて 庭のリノベーションして スッキリしたのですが まだ 潜んでいるのです。
菌類 キノコとか 森の中にいる分には いい仕事しています。
倒木に取り憑いて いや付いて 木を分解して腐葉土にしてくれます。森のお掃除をする。 ハイエナ ジャッカル スカラベ も いい仕事してます。
オフライン
#149 2019年06月07日 20:31:57
#150 2019年06月07日 20:54:24
- さやか666
- ゲストユーザー