#26 2012年12月25日 20:16:31
- もんもん
- メンバー
Re: 聖書予言
>カトリック教会では、伝統的にこの夜イエスさまの御降誕を祝います。
>聖書の記事からは、イエスさまが真冬に生まれたのではないことがわかります。
>けれども、闇の中に住む人に光であるキリストが与えられたことを象徴して、一年でいちばん夜の長い
>この時期にイエスさまの御降誕を記念するのです。
わたしにはカトリック教会が、クリスマスを祝っているという事実を、単に正当化しているように思えます。これでは、ものみの塔聖書冊子協会を批判することはできないのでは、ないでしょうか。カトリック教会の伝統や辞書にのっているキリスト教の定義ではなくて、skさんのように聖書から論証するのがよいと感じます。
オフライン
#27 2012年12月26日 13:19:11
- iris
- ゲストユーザー
Re: 聖書予言
もんもんさん
御意見ありがとうございます。心に留めていただいて嬉しいです。
>わたしにはカトリック教会が、クリスマスを祝っているという事実を、単に正当化しているように思えます。
もんもんさんはクリスマスを祝うことは正しくないとお考えのようですが、なぜ正しくないと思うのですか?
イエスの誕生を祝うこと自体が正しくないとお考えですか?
それとも、イエスの誕生を12月25日に祝うことが正しくないとお考えですか?
イエスの誕生については、聖書に詳しく伝えられています。
天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。
これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ2:10-12)
神はイエスの生まれた夜、わざわざ天使を遣わして、イエスの誕生を喜ぶよう知らせています。
神の民がイエスの誕生を祝うことは、神の望みであると考えられます。
これは2000年前のことなので、私たちがイエスの生まれた場面に立ち会うことはできません。
また、イエスの誕生日がいつかということは聖書に書かれていないので、知ることはできません。
けれども、神はイエスの誕生を祝うよう望んでおられます。もんもんさんならどうしますか?
カトリック教会は毎日ミサをささげ、主の晩餐を記念しています。
「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。
わたしの記念としてこのように行いなさい。」(ルカ22:19)という教えを守るためです。
ここでは、カトリック教会のように毎日行いなさいとか、プロテスタント教会のように月に何度か行いなさいとか、
ものみの塔のように年に一度だけでなくてはなりませんとか、具体的なことは指示されていません。
神にとっては「忘れないよう記念すること」自体が重要なのであって、カトリック信者のように
忘れっぽい部類の人間が毎日記念しないと忘れちゃうと考えても、文句は言われないと思います。
ひとりひとりに記憶力の違いをお与えになったのも神なのですから。
ものみの塔は、キリストの死の記念式を毎年行っていますね。
神は、死の記念は毎年行ってよいが、誕生の記念を毎年行うのはよくないとお考えなのでしょうか?
なぜ神がそうお考えであると言えるのか、聖書から論証してみてください。
1世紀のクリスチャンはいかなる人の誕生日も祝わなかったかもしれません。
日本にも、最近までは個人の誕生日を祝う習慣はありませんでした。
わたしの母は、明治生まれの両親の誕生日を覚えてさえいないくらいです。
記念する習慣がなかったから、知っていたとしても忘れてしまったのです。
けれども、神の恵みによってひとりの人間がこの世に生まれてきたことを、特に記念し感謝する日を
年に一度もつことは、神の御心に反することといえるのでしょうか? 聖書から論証してみてください。
クリスマスを祝うことは教会の伝統であって、本来のキリスト教の教えそのものではありません。
聖書にはクリスマスを祝いなさいとは書かれていません。祝ってはいけませんとも書かれていません。
インターネットを利用しなさいとも、利用してはいけませんとも書かれていないのと同じことです。
神さまが喜ばれるかどうかは、自分の頭で考えなければなりません。
私は本来のキリスト教の教え(神を愛しなさい。隣人を愛しなさい)に反しないかぎり、
人間が何を考えようと神さまは文句は言わないと思っています。人間がいろいろと勝手なことを考え、
神さまの素晴らしさを忘れないように努力しているのを見て、「よしよし」と笑っていると思います。
親心というものはそういうものではないですか?
#28 2012年12月26日 13:51:17
- もんもん
- メンバー
Re: 聖書予言
irisさん
irisさんが神に反しない限り何をしたっていいじゃありませんかと主張するのであれば、エホバの証人が「わたしたちはキリスト教です」といってもいいのではないですか。どうしてエホバの証人は、キリスト教ではないといってしまうのしょうか。
わたしは、聖書に根拠のないことを組織的に行うということは、反対です。それを行うと何を教えてもよいということになってしまいます。イエスが命じたことは、死を記念することだけだったのですから、組織的に行う行事としては、それだけにとどめておくのがよいと思います。
年に1回というのは、ユダヤ人の過ぎ越しの祭りが、死の記念式の由来ですから、妥当な推論だと思えます。
オフライン
#29 2012年12月26日 17:03:35
- iris
- ゲストユーザー
Re: 聖書予言
もんもんさん
私がエホバの証人がキリスト教ではないと主張するのは、ものみの塔の教えがキリスト教が教える神に反していると考えるからです。
エホバの証人が「わたしたちはエホバの証人です」と主張することには文句はありません。
ものみの塔が「エホバ」と呼んでいる神は、キリスト教だけの神ではないからです。
ユダヤ教もイスラム教も、キリスト教が「旧約聖書」と呼んでいる書物を聖典としており、その神を信じています。
その他にも、その神を信じている人々がいるかもしれません。
しかし、「ものみの塔の教えが本当のキリスト教の教えです」と主張することには反対します。
新約聖書(特に福音書)に書かれている教えがキリスト教の教え(福音)であって、それに反する教えはキリスト教の教えとは言えないからです。
イエスが命じたことは、死を記念することだけでしょうか? 最も大切なことは、イエスの教えたとおり愛することではないですか?
skさんは組織的な「死の記念」を行ってはいないと思いますが、私の考えでは立派なキリスト教徒です。
もんもんさんは組織は必要だと考えておられるようですが、21世紀の日本で1世紀のパレスチナと何から何まで同じ組織が
機能すると思いますか? もんもんさんが21世紀の日本に生きているかぎり、そこに生まれる組織は周囲の影響を受けます。
聖書に根拠のあることだけを行っていれば、聖書の理想が実現するわけではないのです。
これは個人レベルでも同じことです。聖書に根拠があるかどうかだけを気にしていては、日常生活で起きる問題に対応しきれません。
「聖書に書いてあるかどうか」だけでなく、聖書に書いていなくても「聖書の教えに沿っているかどうか」を判断する必要があります。
ものみの塔が教える「輸血拒否」や「排斥」は、聖書の教えに沿っていると思いますか? 神の愛を感じられますか?
エホバの証人の中にも、キリスト教徒と呼べる人はいると思います。
しかし、聖書に根拠のない「王国のよいたより」をイエスの教えであると偽り、聖書の教える愛よりも組織の教えを優先して
多くの人を惑わしているものみの塔の組織には、「キリスト教」を名乗る資格はありません。
#30 2012年12月26日 17:43:55
- ray
- メンバー
Re: 聖書予言
いつも皆さんの斬新な御意見を読ませていただき、感動しております。
またまた割り込みのぶしつけな質問をお許しください。
どんな宗教でも、真理とともに、救いを求めて信仰するものだと思います。
特に現在の過酷な状況で、子供のような無力な存在が命を失う時、その子供や残された家族にどんな希望があるのか、どう説明したらいいのか考えてしまいます。
エホバの証人の中にもそのような人がたくさんいると思います。
いつ、どのようにそれらの人々が救われるのかについて、統治体の見解がころころ変わり、聖書からもずれているとすると、彼らの救いはどうなってしまうのでしょうか?
是非、皆さんのご意見をお聞かせください。よろしくお願いします。
オフライン
#32 2012年12月27日 00:18:03
- akame
- ゲストユーザー
Re: 聖書予言
はじめまして。元JW約30年在籍していた者です。
唐突ですが私もrayさんの疑問へのSKさんのお答えを期待しております。
>特に現在の過酷な状況で、子供のような無力な存在が命を失う時、その子供や残された家族にどんな希望があるのか、どう説明したらいいのか考えてしまいます。
>やがて日本でも真の崇拝者のコミュニティーが形成されることを確信しています。
エホバ神の働きを見るのを楽しみにしています。
基本的な質問をさせてください。SKさんは
①聖書だけが「神のことば:信仰の唯一の根拠」とお考えでしょうか?
②エホバ神はどのような神だとお考えでしょうか?
時間があるときで構いません。よろしくお願いします。尚、私は英語は苦手です。
#33 2012年12月27日 10:22:46
- もんもん
- メンバー
Re: 聖書予言
irisさん
エホバの名前を頻繁に使うのが正しいかという議論は別にしても、イエス・キリストが父と呼んでいるのは、エホバという名を持つ神です。エホバという名を持つ神は、イスラエル人だけの神ではなくて、すべての人に対する神です。聖書には、神はイスラエル人だけではなく諸国民に対しても救いの道を開いたということがが書かれています。
またキリスト教の聖書は、新約聖書だけではないです。新約聖書の中には、旧約聖書からの引用が、たくさんあります。また、新約聖書の筆者自身が、聖書全体が神の霊感を受けていると述べています。ここで聖書筆者が聖書として思い浮かべているのは、旧約聖書のことです。
わたしはirisさんが、聖書の教えではなくって、カトリック教会の教えを信じていると感じます。もしirisさんが「聖書だけじゃなくってもいいじゃないですか」というのであれば、どのような信仰でも作ることができますよね。
エホバの証人にとっても、最大のおきては「神への愛」と「隣人への愛」です。それは、カトリック教会と同じです。
>「輸血拒否」や「排斥」は、聖書の教えに沿っていると思いますか。神の愛を感じられますか?
わたし個人としては聖書の教えに沿っているとは思いません。
オフライン
#34 2012年12月27日 12:41:32
- akame
- ゲストユーザー
Re: 聖書予言
皆さん、横レスになって申し訳ありません。
私の質問は聖書予言とは直接関係ありません。しかし『聖書とは、神とは、人の救いとは?』に関わる
大前提、また根幹的な問題を含んでおります。
できれば新しい項目(私の質問①②)のご回答をSKさんに立ち上げていただき皆さんと静かに
討議したいと思います。よろしくお願いします。
#35 2012年12月27日 13:46:18
- akame
- ゲストユーザー
Re: 聖書予言
それとSKさんが「やがて日本でも真の崇拝者のコミュニティーが・・」
と述べておられます。
真の崇拝者とはどのような者でしょうか?
そしてこれまではその者たちのコミュニティはなかったのでしょうか?
それを③としてお願いします。この掲示板はエホバの証人についてなので
が。
#36 2012年12月27日 15:39:05
- iris
- ゲストユーザー
Re: 聖書予言
もんもんさん
お返事ありがとうございます。
>エホバの名前を頻繁に使うのが正しいかという議論は別にしても、イエス・キリストが父と呼んでいるのは、エホバという名を持つ神です。
>エホバという名を持つ神は、イスラエル人だけの神ではなくて、すべての人に対する神です。
>聖書には、神はイスラエル人だけではなく諸国民に対しても救いの道を開いたということが書かれています。
イエスが教えた父である神にエホバという名があると私は思いませんが、エホバという名があると思う人がいてもかまわないと思います。
神はモーセに「わたしはある。私はあるという者だ」と名乗られています(出エジプト3:14)。私にとっては「神さま」で十分です。
(個人的な感想としては、神さまを「エホバ」と呼ぶのは、クレヨンしんちゃんがお母さんを「みさえー」と呼ぶのに似ていると思います。
私は母を名前では呼びませんし、娘にも呼ばせるつもりはありません。)
旧約聖書の時代には、この神はイスラエルの神でした。イエスによって、すべての民への救いの道が開かれたのです。
>またキリスト教の聖書は、新約聖書だけではないです。新約聖書の中には、旧約聖書からの引用が、たくさんあります。
>また、新約聖書の筆者自身が、聖書全体が神の霊感を受けていると述べています。ここで聖書筆者が聖書として思い浮かべているのは、旧約聖書のことです。
キリスト教の聖典は旧約聖書と新約聖書です。旧約聖書というのはキリスト教の立場からの呼び名であって、
新約以前には旧約聖書というものは存在しませんでした。ただの聖書があっただけです。
現在の旧約聖書と新約聖書が成立したのは2世紀から4~5世紀にかけてです。
当時の正統派教会(カトリック教会)が、旧約聖書として現在の39書、新約聖書として27書を採用したことによって成立したのです。
キリスト教の教えは新約聖書に書かれています。当然、引用されている(現在の旧約)聖書の部分を含みます。
カトリック教会のミサでは必ず旧約聖書も読まれます。これが私たちの伝統です。
>わたしはirisさんが、聖書の教えではなくって、カトリック教会の教えを信じていると感じます。
>もしirisさんが「聖書だけじゃなくってもいいじゃないですか」というのであれば、どのような信仰でも作ることができますよね。
私の信仰は私にとってのキリスト教です。
「本来のキリスト教の教え+カトリック教会の伝統の一部+個人的に神の愛を感じた体験」で成り立つ信仰であって、
本来のキリスト教の教えだけでなく、カトリック教会の教えそのままでもない、私だけの信仰です。
順序としては、まず聖書と個人的体験にもとづく信仰があって、あとから教会の伝統も受け入れたというのが正しいです。
もんもんさんは、聖書の教えを守るためには、誰もが聖書に書いてあるとおりの生活をすべきだと考えておられるかもしれません。
けれどもそれは絶対に不可能なことですし、イエスの教えに従うために必要なことでもありません。
イエスの教えはどんな時代にも、どんな地域にも、どんな人にも通用する教えです。すべての民に開かれているのです。
1世紀のパレスチナの生活をコピーする必要も、個人的な事情を無視する必要もありません。
福音書には、さまざまな背景をもつ人が登場します。漁師もいれば徴税人もいます。学者もいれば娼婦もいます。
イエスはひとりひとりの事情に合わせて教えてくださいました。彼らは自分なりの理解で信じたはずです。
もんもんさんにも、組織によってすべてを規定された信仰ではなく、もんもんさんだけの信仰があるべきなのです。
ただし、もんもんさんがキリスト教徒であろうとするのであれば、本来のキリスト教の教えだけは守らなければなりません。
>エホバの証人にとっても、最大のおきては「神への愛」と「隣人への愛」です。それは、カトリック教会と同じです。
もんもんさんは、自分たちのトップはエホバ神とイエスキリストであると考えておいでですし、最大のおきては
「神への愛」と「隣人への愛」であることも理解されていますから、ものみの塔よりキリスト教に近いと思います。
#37 2012年12月27日 19:34:04
- もんもん
- メンバー
Re: 聖書予言
irisさん
>イエスが教えた父である神にエホバという名があると私は思いませんが、エホバという名があると思う人がいてもかまわないと思います。
あるないという議論で言えば、間違いなく名前はあります。ヘブライ語で書かれた旧約聖書には、YHWH(ローマ字表記)という4文字が神の名前としてでてきます。またダビデは詩編の中で、神のことを名前で頻繁に呼んでいますから、名前で呼ばれることは神にとっては失礼ではないと思いますよ。
>旧約聖書の時代には、この神はイスラエルの神でした。イエスによって、すべての民への救いの道が開かれたのです。
新約の時代も、同じ神です。新約の時代も、ヤコブの神、イサクの神、アブラハムの神と呼ばれた、旧約時代の神が、新約時代の神でもあります。神の子イエスだけを仲介者とするという新しい部分が加わりましたが、神は何も変わっていないのではないでしょうか。
>キリスト教の教えは新約聖書に書かれています。
うーん、神の教えは、聖書全編に書かれていると思います。新約だけにキリスト教の教えが書かれていると信じる信仰が、カトリック教会の信仰なのではないでしょうか。わたしには「本来のキリスト教の教え」が何を指しているのかよくわかりません。
>もんもんさんにも、組織によってすべてを規定された信仰ではなく、もんもんさんだけの信仰があるべきなのです。
irisさんは、個々のエホバの証人について誤解しています。個々のエホバの証人は、組織によってすべてを規定された信仰で生きているわけではないです。聖書の指針に基づいて、自分の良心で決定することが、最近ではとても重要視されるようになってきています。特に神との個人的な関係は大切です。
オフライン
#39 2012年12月28日 00:27:13
- iris
- ゲストユーザー
Re: 聖書予言
もんもんさん
お返事ありがとうございます。もんもんさんとのやりとりが楽しくなってきました。
>名前で呼ばれることは神にとっては失礼ではないと思いますよ。
失礼ということはないでしょうけれども、私の習慣にはないということです。
最近ではYHWHは「ヤーウェ」と読まれていた可能性が高いと考えられており、カトリックでは詩編のYHWHは必要に応じてヤーウェと読みます。
>神の教えは、聖書全編に書かれていると思います。新約だけにキリスト教の教えが書かれていると信じる信仰が、カトリック教会の信仰なのではないでしょうか。
>わたしには「本来のキリスト教の教え」が何を指しているのかよくわかりません。
「本来のキリスト教の教え」の指す内容がわからないのは、もんもんさんの責任ではありません。ものみの塔の責任です。
skさんも、次のように書かれています。
>すべてのエホバの証人の兄弟・姉妹たちは、ものみの塔の誤りの教えにより、新しい契約についての正確な知識を阻まれており、キリストの死の記念の意義を逸しています。
本来のキリスト教の教えとは、新しい契約についての教えです。新しい契約については、新約聖書に書かれています。
「新約」とは、この新しい契約のことであって、それが書かれている聖書が新約聖書なのです。
skさんのおっしゃるとおり、ものみの塔は新しい契約についてウソを教えています。ですからキリスト教とはいえません。
本来のキリスト教の教えを、私はこの掲示板で何度も書いてきましたが、ものみの塔の教えを先に学んだ人には理解しにくいかもしれません。
skさんはエホバの証人であったにもかかわらず、聖書をきちんと読んで新しい契約について正しく理解されていると思います。
もんもんさんには、skさんから説明していただいた方がわかりやすいのではないのでしょうか。
>irisさんは、個々のエホバの証人について誤解しています。個々のエホバの証人は、組織によってすべてを規定された信仰で生きているわけではないです。
>聖書の指針に基づいて、自分の良心で決定することが、最近ではとても重要視されるようになってきています。
私が問題にしているのは個々のエホバの証人の信仰ではありません。新しい契約についてウソを教えているものみの塔の教えです。
「エホバの証人はキリスト教ではない」というのは、エホバの証人研究さんが「エホバの証人はキリスト教か」と表現しているのに合わせただけで、
正確には「ものみの塔の教えはキリスト教の教えではない」という意味です。詳しく説明している場合は、そのように表現してあります。
個々のエホバの証人は、誠実に聖書に従おうと努めていると思います。
ものみの塔も、表向きは「聖書の指針に基づいて、自分の良心で決定する」ように勧めていることでしょう。
けれども、実際に聖書の指針に基づいて、自分の良心に従って、輸血を受け入れる決定をしたとしたら、どうなるでしょうか?
「それは本当に神に受け入れられることでしょうか」などと言われませんか? 輸血を受けたら排斥だと暗に脅されませんか?
そして輸血を受けずに家族が亡くなったとしても、「本人の自由な決定です」ということになりませんか?
ものみの塔の組織は事実上「排斥」などの方法によって、個人の信仰を細部まで規定しようとしています。
その適用には会衆による違いがあるかもしれませんが、それによって苦しんでいる人がいるのは確かだと思います。
#40 2012年12月28日 09:48:41
- 蒼き風
- ゲストユーザー
Re: 聖書予言
#41 2012年12月28日 10:15:45
- もんもん
- メンバー
Re: 聖書予言
irisさん
>「本来のキリスト教の教え」の指す内容がわからないのは、もんもんさんの責任ではありません。ものみの塔の責任です。
これはもしかして「わたしはあなたがたに新しいおきてを与えます。それは、わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合うことです」というおきてのことを言っておられますか。もしそうであれば、イスラエル国民に与えられた律法契約が廃されて、イエス・キリストによる愛の契約ができたということは、エホバの証人で学ぶことのひとつですよ。
ものみの塔聖書冊子協会が主張する「新しい契約はイエス・キリストと14万4000人との契約」という主張は、妥当かどうかskさんがこれから論じてくれる気がします。
>ものみの塔も、表向きは「聖書の指針に基づいて、自分の良心で決定する」ように勧めていることでしょう。
>けれども、実際に聖書の指針に基づいて、自分の良心に従って、輸血を受け入れる決定をしたとしたら、どうなるでしょうか?
>「それは本当に神に受け入れられることでしょうか」などと言われませんか? 輸血を受けたら排斥だと暗に脅されませんか?
>そして輸血を受けずに家族が亡くなったとしても、「本人の自由な決定です」ということになりませんか?
>ものみの塔の組織は事実上「排斥」などの方法によって、個人の信仰を細部まで規定しようとしています。
>その適用には会衆による違いがあるかもしれませんが、それによって苦しんでいる人がいるのは確かだと思います。
何も言い返すことはないです。そのとおりだと思います。現状は「聖書の教え」と「ものみの塔聖書冊子協会の教え」が混ざっています。
オフライン
#42 2012年12月29日 05:08:51
- iris
- ゲストユーザー
Re: 聖書予言
もんもんさん
>これはもしかして「わたしはあなたがたに新しいおきてを与えます。それは、わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合うことです」という
>おきてのことを言っておられますか。もしそうであれば、イスラエル国民に与えられた律法契約が廃されて、イエス・キリストによる愛の契約が
>できたということは、エホバの証人で学ぶことのひとつですよ。
>ものみの塔聖書冊子協会が主張する「新しい契約はイエス・キリストと14万4000人との契約」という主張は、妥当かどうかskさんがこれから論じてくれる気がします。
「イエス・キリストによる愛の契約」=「イエス・キリストと14万4000人との新しい契約」という図式が成り立つとして、
もんもんさんはこの契約に関係があるのでしょうか? ないのでしょうか?
詳しい解説はskさんにお願いするとして、簡単に説明しましょう。
旧い契約は、神とイスラエルの民との間に結ばれました。
イスラエルの民が神の民として神と結ばれ守られる条件は、律法を守ることでした。律法は長い歴史の中で細かくなり、守りきれないほどになりました。
新しい契約は、神と(キリストを信じる)すべての人との間に結ばれました。
キリストの血によって罪のゆるしが与えられるというこの契約の条件が、「新しいおきて」を守ることです。
「互いに愛し合うこと」自体は新しいおきてではありません。昔ながらの律法に含まれているおきてです。
何が新しいかというと、契約の条件として「互いに愛し合うこと」以外には何も要求されない、ということが新しいのです。
私もこの契約にあずかっています。私の心には神さまの「契約済」のハンコが押されています。
「キリストが御自身を犠牲としてささげることによって、神さまから私の罪のゆるしを得てくださった」と信じる人は誰でも、
神さまとの間に罪という壁のない、平和な親しい関係をもつことができるのです。これが新しい契約であり救いなのです。
#43 2012年12月29日 05:51:32
- iris
- ゲストユーザー
Re: 聖書予言
補足です。
キリスト教で最も大切なメッセージは、「神はあなたを愛している」ということです。
もんもんさんがものみの塔のおかげで本当のキリスト教の教えを知らなくても、神はもんもんさんを愛しておられるのです。
人間の目から見るとどんなに極悪に見える人でも、神はその人を愛しておられます。
けれども、神が愛であるのに対し、人間は愛そのものではありません。
神のように隣人を愛することもできないし、自分を愛することさえできないかもしれません。
神から離れ、隣人(や自分)を愛せない状態を、罪といいます。
神は罪とはかかわりのない方です。ですから人間が神と親しく交わるには、罪のない状態でなければなりません。
しかし人間は自分の力で罪をなくしたり、ゆるしたりすることはできません。
神の恵みによって、キリストを信じることで罪をゆるされ、神との親しい関係に戻ることができる、というのが新しい契約でありキリスト教の教えです。
そして、二度と神から離れることのないように、神を愛し隣人を愛しなさいと勧められているのです。
もんもんさん、ものみの塔の教えと比べてみて、どう思われますか?
エホバの証人研究さんのご感想も伺いたいものです。
#44 2012年12月29日 17:12:14
- もんもん
- メンバー
Re: 聖書予言
irisさん
>「互いに愛し合うこと」自体は新しいおきてではありません。昔ながらの律法に含まれているおきてです。
>何が新しいかというと、契約の条件として「互いに愛し合うこと」以外には何も要求されない、ということが新しいのです。
わたしはプロテスタントの人ともこの点で話したことがありますが、たぶんここがエホバの証人と一番相違するところだと思われます。
たとえば互いに愛しているといいながら、婚前交渉を持ったとします。
また愛してるといいながら、殺人を犯したとします。
また愛しているといいながら、仲間の兄弟が持っているものを盗んだとします。
わたしが前に話したプロテスタントの方は、どんなに極悪なことをしても、イエスを信じていると言うなら救済されるといいました。
カトリック教会の人は、神は許してくださるからということを言い訳にして
平気で婚前交渉を行う人がたくさんいるのではないでしょうか。
この点では、わたしはきちんと守ろうとしているエホバの証人を支持します。
単に愛していると言うだけではなくって、
実際に愛し合うということが、どういうことなのかが、
聖書から論じられる必要があると思います。
オフライン
#45 2012年12月29日 19:21:43
- iris
- ゲストユーザー
Re: 聖書予言
もんもんさん
そのプロテスタントの方の言葉の意味は、
「後でイエスを信じているといえば救済されるから、どんなに極悪なことをしてもよい」という意味ですか?
もしそうであれば、その方は神を愛しているとは言えません。
殺人を犯すとき、殺す相手を本当に自分のように愛していると言えますか?
人のものを盗むとき、その人を本当に自分のように愛していると言えますか?
そう言える状況があるとすればどんな状況なのか、教えていただきたいです。
神の求めるように神と人とを愛していれば、殺すことも、姦淫することも、盗むこともできません。
イエスの求める愛は、「友のために自分の命を捨てる」ほどの愛です。
「愛している」という言葉で神を欺くことはできません。その人の心を神は御覧になるからです。
カトリック教会の人の中に、平気で婚前交渉を行う人がたくさんいるかどうか、もんもんさんは調査したことがあるのですか?
特にカトリック教会を目の敵にしているものみの塔の言うことを、鵜呑みにしたわけではないですよね?
では、どの程度の比率で存在するのか参考までに教えてください。ついでにエホバの証人についての統計もお願いします。
カトリックはともかく、ものみの塔の組織の中でそのような調査が可能であるとは思えませんが。
カトリックは有効な洗礼を受けた人をすべて信者とみなします。
信仰を持ち続けていようがいまいが、破門にするという制度が事実上ないからです。
ものみの塔では、婚前交渉を行った人がエホバの証人であり続けられるのでしょうか?
そのあたりの事情も統計に影響しそうですね。
(性的虐待は組織的に隠蔽されるのに、婚前交渉は断罪されるというバランスが理解できませんが。)
#47 2012年12月30日 07:06:34
- iris
- ゲストユーザー
Re: 聖書予言
もんもんさん
反省してくださってありがとうございます。もんもんさんは誠実な方ですね。
私は、ものみの塔には人を行動で裁き、組織の望む行動をしない人を排除する傾向があると感じています。
その人の心が何を感じているかにかかわらず、強制的に組織の規律に従わせる力が働いています。
そのため、規律を守れない人は去り、規律を守れる人だけが残る仕組みができていると思います。
私は、エホバの証人の中に真剣に聖書に従おうとしている人がいることを知っています。その人の心は尊いものだと思います。
もんもんさんにも、カトリック(に限らずエホバの証人以外)の中に真剣に神を愛している人がいることを知っていただきたいと思います。
それから、純潔は特に女性にとっては名誉にかかわる問題です。ものみの塔の教えや、世間の情報などで、「世」の性は
乱れきっていると誤解している人も多いかもしれませんが、統計上は結婚するまで純潔を守る人は少なくないのです。
安易に侮辱するのは慎まれることをお勧めします。
#49 2012年12月30日 20:06:33
- iris
- ゲストユーザー
Re: 聖書予言
「実際の命の救い」とはどのようなことでしょうか?
ラザロが死んで何日も経ってから生き返ったというようなことでしょうか?
それとも、ものみの塔が楽園に期待させているようなことでしょうか?
お答えは教理のトピックの方にお願いします。