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#901 2019年02月07日 16:30:30

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#902 2019年02月15日 16:52:49

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“「神がくびきで結ばれたもの」を尊ぶ”で、離婚問題に対するJWの見解が書かれています。」
「それで、どんな見解なの?」
「19節がまとめで、“イエスは離婚について教え,パウロは別居に関する神からのアドバイスを与えました。イエスもパウロも,神に仕える人に結婚の絆を尊んでほしいと願っていました。”とあって、安易に離婚も別居もするなというわけです。」

「いつパウロが別居についてアドバイスしたの?」
「14節で、“しかし,中には夫と別居する人もいました。(コリント第一 7:10,11を読む。)”とあります。引照聖句には、“妻は夫から離れるべきではありません。 しかし,もしも離れるようなことがあるなら,結婚しないでいるか,さもなければ夫と和解しなさい。”とあります。」
「これは単なる別居のことじゃないよ。妻の側の自発的な別居すなわち離婚のことをいっている。1世紀の帝政ローマでは、結婚を証明する書類も離婚を証明する書類もない。妻が離婚したければ家を出て、別れて暮らせばよかった。ユダヤ人の社会とは違う。しかし、このような離婚は宗教的には有効ではないので、再婚はダメだよというのがパウロの主旨。」
「離婚した状態でなければ、“結婚しないでいるか”なんていう指示はあり得ませんよ。離婚して再婚可能だけれども、結婚しちゃダメとパウロは言っているのですね。」
「この記事の執筆者は聖句を理解していないね。見当はずれのことを言っている。」

「6節で、一夫多妻制について触れています。その場合でも、“最初の妻を守り,世話することが求められていたのです。(出 21:9,10)”とあるのですが、引用すべきは11節じゃないですか?10と11節でひとまとまりで、“もし彼が別の妻をめとるとしても,彼女の糧と衣服と結婚の分とを減らしてはならない。 これら三つのものを彼が与えないのであれば,彼女は金銭の支払いなく無償で出て行くことになる。”というものです。これは離婚が可能な条件を述べていますよね?」
「この聖句は、夫は妻に十分な物質的なものを保証する義務があり、それを果たせないなら妻は離婚できる、と解釈される。これは1世紀のユダヤ人には当たり前のことで、それで、イエスもパウロもわざわざこのことに触れていない。社会福祉制度のない古代では、扶養する能力のない夫のもとにいたら、妻も子も飢え死にするしかないよ。」
「コリント一7:33,34の“一方,結婚している男子は,どうしたら妻の是認を得られるかと,世の事柄に気を遣い, 彼は分かたれるのです。”は、出エジプト21:10,11を背景にしていると思います。夫には扶養義務があったので、結婚するとお金を稼ぐことに気を遣わざるを得ないということですよね。」
「そうだね。JWが出エジプト21:11に触れないのは、ずるいね。それはJWの男性の多くは経済力がないからだろう。極貧のJW夫婦がいて、“JWの夫は食べ物も服も買ってくれません。離婚したいです。”というJWの女性の訴えを、組織として認めたら、男性のJW は無給のJW活動なんかしなくなるからね。」
「女性や子どもの福祉を考えれば、扶養する能力がない夫と離婚できるのは当然ですよ。家族を養って、初めて家族の頭と威張ることができると考えるべきです。」

「8節には、マラキの時代には、“多くの男性が,不実にも「自分の若い時の妻」と離婚していました。”と書いてあります。引用されているマラキ2:13-16を見ても、離婚が多いとは書いていません。“神は離婚を憎んだ”とはありますが。当時、離婚は多かったのですか?」
「まず、原文では“神は離婚を憎んだ”とは書いていない。“彼は離婚を憎んだ”とある。それから、“彼は離婚し憎んだ”と読むべきという説もある。」
「マラキ書は本文がかなり破損して、翻訳が難しい書物ですよね。」
「離婚については、離婚統計がないからわからない。何の根拠もなくJWは断定するのが悪い癖だ。でも、稀だっただろうと推測できる。その理由は、離婚すると、男性は婚資、つまり結婚の際に女性が持参した金や物を返すという習慣があったので、離婚は経済的に難しかった。」
「聖書を見ると、男性の方だって、女性に贈り物をするわけで、それで相殺とはいかないのですか?例えば、創世24:53では、“そして僕は銀の品物,金の品物,種々の衣を取り出してはそれをリベカに与え”とあります。リベカをめとるためにかなりのお金を使っていますよ。」
「一般には、女性の持参金の方が多いので、相殺できない。」

「離婚となると申命記24:1-4が焦点となるわけですが、意味があいまいですよね。女に“みだりな点”を見つけたら離婚可能なのですが、“みだりな点”っていったい何でしょうか?7節に、“律法は「みだりな点」とは何かを述べていませんが,それはささいな間違いではなく,恥ずべき重大な事柄だったに違いありません。”とありますが本当でしょうか?」
「“みだりな点”の原文は、“事柄の裸”で意味は不明だ。これは1世紀でも統一した解釈はなかった。ある学派は、料理を焦がしたというようなことでもそれに含まれるとしたし、別の学派は、姦淫に至らない性的不品行という意味としていた。このような解釈問題があったので、パリサイ派がイエスに離婚問題について議論を吹っ掛けたわけだ。」
「姦淫は含まれないのですか?」
「申命記22章によると、姦淫は男女とも死刑。離婚では済まない重大犯罪という位置づけね。」
「民数記5章によりますと、姦淫が疑われた女は苦い水を飲むというテストを受けるようですね。それで疑いが晴れたら問題なし、そうでなければ死刑です。ひどい法律ですね。」
「だから、“みだりな点”は姦淫の疑い、という意味でもない。」

「離婚に対するイエスの本当の見解はどうなんでしょうか?福音書で違いますよね。」
「イエスは離婚に否定的なのは間違いない。ところがマタイ19:9で、“淫行以外の理由で妻を離婚して別の女と結婚する者は,姦淫を犯すのです。”と離婚してよい例外規定を設けている。これが解釈上難しい。この例外規定はマルコやルカにはなく、マタイだけにしかないのはなぜか、この例外規定の意味は何か?そもそも“淫行”の意味とはなにか、どれも難問だね。」
「この記事では、“ポルネイアとは,聖書に基づく結婚関係外で行なわれる不義の性的行為を指します。”といって、非常に広く解釈しています。」
「へんだと思う。それは、離婚の自由を広く認めることになり、“神がくびきで結ばれたものを,人が離してはなりません。”というイエスの基本的な立場に反する。」
「離婚理由となる“ポルネイア”は、姦淫に限定すべきということですか?」
「それが、イエスの立場に近いと思うね。JWは、離婚率の高いアメリカの宗教のせいか、聖書に基づくと言いながら、離婚理由を広く認めすぎ。」

「11から13節では、ホセアの例を出して、相手に問題があっても必ずしも離婚しなくていい、むしろ結婚関係を続ける方が好ましい、というようなことを書いていますね。ホセアとゴメルの関係はどう理解したらいいですか?」
「ホセア1:2で、“エホバはホセアにこう言われた。「行って,淫行の妻また淫行の子供らを自分のために取れ。”と、神様はホセアにとんでもない命令を出す。ホセアはそれに従い、ゴメルという変な名前の女と結婚し、生まれた子ども3人に奇怪な名前を付ける。」
「虐殺のあった場所のエズレル、憐れまないという意味のロ・ルハマ、我が民にあらずという意味のロ・アミですね。これが事実だとすると、子どもがかわいそうです。」
「事実だとすると、預言者の象徴的行為の例とみるべき。預言者は言葉で語るだけでなく、象徴的行為でメッセージを発信する。行動預言といういい方もある。」
「イザヤ20:2で、エホバはイザヤに“行って,あなたは腰から粗布を解かなければならない。サンダルも足から脱ぐべきである。”と命じています。ご苦労なことに、イザヤは“裸になり,はだしで歩き回った”わけですが、これもエジプト人はこのような姿で捕虜になるということの象徴的行為ですね。」
「ホセアは神とイスラエルの関係を、忠実な夫と淫行を重ねる妻の関係ととらえて、最後は関係が修復されるという預言劇を演じているようなもの。というわけで、ホセアの結婚は事実だとしても、普通の人間の参考になるようなものではない。」

「13節で、“性的不道徳を犯した配偶者と離婚しないことにして,性関係を持つなら,相手を許したことになります。(コリ一 7:3,5)”とあります。引照聖句のコリ一 7:3,5には全くそのようなことは書いていません。JW独自ルールを作ったということでしょうか?」
「離婚に関する、そのような細かい規則は聖書にはないよ。勝手に作った決まりだね。」
「JWはパリサイ派とよく似ていますね。」

「一番おかしいのは17節。“夫は,妻が健康や命の危険を感じるほど,身体的に虐待したかもしれません。”という妻に対して、別居も離婚もせず、その夫のもとに留まるように勧めている。まったく狂った意見だ。旧約聖書の時代じゃないんだから、暴力は犯罪なんだよ。妻が、その暴力亭主に殺されたら、JWは責任を取るの?そんなつもりもないくせに、聖句を引用して、偉そうに説教をしている。暴力亭主からはすぐに逃げてくださいと信者になぜ言わないの?」
「JWの女性は、本当に気の毒ですね。」
「組織が、女性信者の生命や安全に対して、いかに無関心かわかるよ。」

#903 2019年02月22日 16:56:59

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#904 2019年02月23日 07:19:54

卓郎
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

>>970 三太郎
え?教会のクリスチャンがノアの大洪水を信じて「学校の教科書が間違ってる」って言ってましたよ?

個人的には靖国神社のように特定の目的の神社以外は分けて考えません。地元の神社として初詣して願うだけです。
殺人事件の見立て殺人の題材に成らない限り地元の伝承なんぞ興味も無い。

>浄土宗や浄土真宗は「南無阿弥陀仏」唱えるだけで、誰でも極楽浄土へ行ける。これを根拠に言っている?

仏教の事は知らないけど、クリスチャンと世間の価値観とは根本的に違います
世間的にはエホバの証人もクリスチャン、キリスト教と同じ穴のムジナですね

ハルマゲドンで滅ぼせば良いなら司法制度を尊重してないでしょ?
それを公言してるから馬鹿にされるんだよ。キリスト教との違いなんてその程度に過ぎない、輸血拒否とかどうでも良い。本人や家族の許可なく輸血禁止は法律上も認められてる。

『刑罰』と『信仰』は無関係、クリスチャンの根本的な勘違いはコレだよ!
刑罰は人が社会で生きていく為の約束に過ぎないず、死んだ人には無関係!
駐車禁止の標識で駐車したら罰金と減点を払ったらチャラだよ?
ハッキリ見える所に標識で提示してるのに違反したから罰則が有るのは当たり前だろ?
殺人罪も交通違反と同じ理屈で然るべきペナルティが大きいってだけ。
殺人犯が犯した罪と向き有って獄中で生きて償えるかどうかは本人しだい。
時代劇のようにその場で切腹するなら罪の償いには成ると思いますよ。https://www.youtube.com/watch?v=67PrlheanMU

例え死刑囚でも執行まで15年以上は掛る。その間に遺族に手紙を出したり出来る猶予は有る。
もし捕まらずに逃げ続けてそれで人生を謳歌出来る奴は居ない。
ロクな人生じゃなく「逃げ得」なんて言葉は有り得ない。
犯した罪と向き合う方が余程に有意義な人生だろ

捕まった犯罪者だって逮捕されて逆に安心しるモンだ。
拘置所では三食のご飯を食べられて考える時間はタップリ貰える。
犯人の気持ちで考えれば解るけど逃げ続ける人生の方が辛い。https://magazine.manba.co.jp/2016/11/22/ueda-kindaichi/
「南無阿弥陀仏」と念仏なんぞに何の価値も無いね

そして人生を終えた死人には刑罰なんて関係無い。
つまりハルマゲドンで裁かれる人間も、生き返る人間も一人も居ないって事です
何故ならば法と秩序は生きていく上の約束事に過ぎないからだ。
死刑囚でも死刑執行した後は丁重に遺体を扱って弔われて遺族にお返しする。
ハルマゲドンで滅ぼすなんて馬鹿な妄言をこいてる奴には馬の耳に念仏だろうけどな
罪は滅ぼす物じゃなく生きて償う物なんだ。殺人を犯しても別に死ななくても良い。生きる事で償える
この世間の価値観を理解しないから馬鹿にされるんだよ?

僕は世間の司法制度を尊重してる側です。クリスチャンはハルマゲドンを信仰してる側でしょ?
世間とは違う土俵で生きてるクリスチャンと同じ土俵で議論出来る訳が無いじゃん?

#905 2019年02月24日 03:06:20

またい
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

Dear 卓郎
私は、神さまが大好きで、聖書読んでみた。JWにはいったのは、失敗だった。ここにきて、助けられて、面白いのでここに来る。

#906 2019年03月01日 16:54:13

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“若い皆さん,充実した生き方をしてください”で、詩篇16編を題材にしていますが、先週の繰り返しです。JWこそ最高の生き方と若者を説得しようとしています。」

「1,2節はトニーという父親のいない高校中退すれすれの若者が、JWから生命の起源に関する冊子をもらったのをきっかけに、立派なJWになりましたという話が出ている。心が痛むね。」
「どうしてですか?」
「学校や社会に不適応な若者はたくさんいる。彼らは自分の居場所がないんだ。そういう若者がカルトの甘言にだまされて、カルト教団の一員となっていくという典型的なケースだからだよ。」
「トニーは聖書レッスンを始めてから、成績もトップクラスになったとありますから、元々優秀なんですよ。しかし、家は貧しく大学進学も難しい。周りの友人とは価値観や人生観が合わない。なまじ優秀なだけに一層鬱屈した状態だったと思います。そこへ一見知的な雰囲気の生命の起源の冊子を見せられたわけです。そこには、学校で教えられているのは嘘だ、真理はJWの教えだと書かれています。トニーは、それを信じることによって、学校の友達や先生は知らない真理を、自分だけが知っているという知的優越感を味わえるのです。」
「知的なものに関心のある若者を勧誘するには、生命の起源の冊子は有効かもね。」
「生命の設計者がいたとしても、JWのエホバとは限りませんよ。それなのにエホバこそが創造者だと飛躍した結論を受け入れた瞬間に、JWに取り込まれていくのです。」
「カルトは社会的経済的に不利な若者に、自尊心と所属すべき集団とカルト内での地位の向上という具体的目標を与える。カルトでは、多少優秀であれば他の社会集団では得られない名誉や地位を得やすい。だから、ある種の若者にはカルトも魅力的な人生の選択肢になる。」

「しかし、どのカルトも、幹部には一流大学卒をそろえたがりますよ。」
「社会的評価を気にするからだよ。その点、JWの統治体は偉いよ。多くは中卒・高卒のたたき上げだ。知性は感じないが、打たれ強そうだ。重要な教義の変更行っても、悪びれることなく堂々としているね。」
「オーストラリア王立委員会で、統治体のメンバーであるジェフリー・ジャクソンが証言し、その様子はYoutubeなどで見られるのですが、無知な田舎のおじさんが、エリート法律家の質問に答えるのに四苦八苦しているという印象でした。」
「ジャクソンは中卒だ。見た目もさえない。JWのイメージ戦略を考えれば、統治体のメンバーは公の場に出ない方がいいね。」
「みな太りすぎで、JWのイメージを損ねています。」
「肥満した宗教指導者なんて、あざけりの対象になるだけだよ。寄付で大食いをしている腐敗した恥知らずの人間とね。内部の人間を、高学歴のエリートに育てればいい。そして彼らを統治体の一員にする。」
「そうなるとJWの教義しか知らない低学歴のトニーのような若者は、タブレットを持ってその辺をうろうろして一生を終わるのですね。」
「JWにとっては、それが充実した人生だろう。」

「4,5節では、カナン征服とダビデのゴリアテ退治の例を出して、“信仰があれば必ず良い結果になります。今日でもそうです。”と言っています。」
「それだと、悪い結果だと信仰がなかったということだよ。グアテマラで死んだ日本人女性JWは信仰がなかったんだね。信仰があればなぜ良い結果になるの?聖句を一つ二つ引用する以外の根拠を示してほしいね。」
「カナン征服もゴリアテ退治も史実ではないでしょう。ゴリアテは身長約3mだそうですが、実際にそんな人はいるのですか?」
「サム一17:4の、“その丈は六キュビトと一指当たりであった。”からきている。JWでは、1キュビト=44.5cmとしているようだ。一指は半キュビドなので、6.5×44.5=289.25で、約290㎝。これは、古代の計測の仕方を知らない無知な人の計算だね。」
「キュビドは肘から中指の先までの長さで、標準的な物差しがあったわけではないということですね。」
「そう。一指は指を広げて親指の先から小指の先までの長さのこと。これも測る人によってみんな違う。宮殿の建築などでは標準となるようなものを使っただろうけれど、普通は自分の腕や指で大雑把に測っていた。」
「ゴリアテの身長は6.5キュビトとして、どれくらいになるのですか?」
「ゴリアテの身長をだれが測ったかというと、ゴリアテを倒したダビデが一番考えられる。その当時の人間の平均身長は、発掘された骨から推定すると150㎝から155㎝くらい。」
「とても小柄なんですね。」
「同じ身長の現代人の肘から中指の長さを測ると、約42cm。となると、ゴリアテの身長は約273cm。聖書研究も奥が深いだろう。」
「きちんと計測された人で最高の身長は約277㎝なので、十分あり得る数字ですね。」
「実際に測るときは、指を広げていくつあるか数えることが多かったと考えられる。150cmくらいの身長の人の一指は約19cm。これだと約247㎝となる。という訳で、ゴリアテの身長は250㎝程度とするのが妥当でしょう。」
「古い写本や翻訳では4.5キュビトにしているものもありますよね。」
「その場合は、エジプトのキュビトを使ったからだと思われる。70人訳は、4.5キュビトだけど、訳されたのはエジプトのアレクサンドリアだからね。」
「サムエル一17章には、ゴリアテの装備が異常に詳しく描かれていますが、ダビデの時代の装備ではないそうですね。」
「ずーと後の時代のもの。ゴリアテとダビデの対決は、後の時代の創作だね。それから一騎打ちという戦いのスタイルもダビデ時代の後の時代。」

「7節から、詩篇16が取り上げられるのですが、16:5の“エホバはわたしに配分された受け分,わたしの杯の分です”が最初に引用されます。どういう意味ですか?」
「“配分された受け分”は食べ物のこと。“杯の分”は飲み物のこと。神様は食べ物であり飲み物です、つまり生きていくのに欠かせないものです、という意味。」
「7節には、“ダビデの「受け分」には,エホバとの親しい関係が含まれていました。”とありますが、おかしいですね。エホバは受け分と言っているのですから、“ダビデの「受け分」”という表現はあり得ませんよ。」
「執筆者は詩篇16を全く理解していない。若者向けの教訓話に利用できると思って、適当に引用しているだけ。これがJW流聖書レッスン。この程度の人物が、何百万人も学ぶ記事を書けるというのは、カルトならではだ。」

「11節で、“詩篇16:3を読む。”とあり、その後、“エホバを愛する人と共にいることで大きな「喜び」を味わいました。そのような人を「聖なる者たち」とも呼んでいます。”とあります。16:3にある“聖なる者たち”って、エホバを愛する人たちのことなんですか、違うと思います。」
「16:3には、“地にいる聖なる者たちに対するものなのです。彼らに,その威光ある者たちにこそ,わたしのすべての喜びがあります。”とある。“地にいる”という表現から、天にもいるということがわかる。つまり、天使に対応する存在ということ。しかも“威光ある者たち”でもある。具体的に、何を指しているのかはわからない。何らかの神的存在か祭司を指していると推測されている。単なるエホバ愛好者ではないことは確かだね。」

「14節で、外国で奉仕しているドイツの若い兄弟の語ることがへんです。“年を取って自分の人生を振り返る時に,『自分のしたいことばかりしていたな』と後悔したくありません。”というのです。これだと外国奉仕を、本当はしたくないけれど、したいことばかりしていたと後悔したくないから、しているというへんな意味になります。」
「変なことを言っているように思えるのは翻訳がへんだからさ。“自分のしたいことばかりしていたな”と訳されている部分は、everything I did was just about meで、自分のしたこと全ては自分に関することだけだったな、つまり他の人のために何かしたことはないと後悔したくないので、貧乏な外国で奉仕をしているという意味。」
「外国奉仕だって自分でしたいからしているわけですよね。翻訳者は、日本の若者を、自分のしたいことをすることは悪なのだ、と洗脳したいのでしょうね。自分のしたいことをして一生すごせたら、素晴らしい人生なのに。」
「たいていの人はそんなふうには生きられないね。」

「15節では、“どんな目標を持てますか。”と問いかけ、11の目標が囲みの中に列挙されています。これ以外の目標を持つことは許されないみたいですね。」
「ろくな目標はないね。まともなのは“外国語を学ぶ”くらい。あとは全てJWというカルト教団の中だけで意味を持つものでしかない。若者をJWの中に一生閉じ込めようということだね。」

「16から20節は、自由の問題を扱っているのですが、主として偽りの宗教の問題を論じています。偽りの宗教を、性道徳と絡めて非難しています。」
「18節で、“偽りの宗教は大抵,同性愛を含む性的不道徳を容認しています。その結果,人々は自由になるどころか,多くの「苦痛」を味わっています。”と根拠のない主張を述べているのが笑えるね。」
「JWの同性愛差別はいつまで続けられますか?JWは黒人差別をして、集会でも人種別に分けていたことがありました。しかし、今は初めから人種差別に反対してかのようにふるまっています。世の中の価値観に合わせているわけです。」
「公然と同性愛者を差別する発言を繰り返すと、差別主義的団体と認定されてしまう。国によっては活動の制限などを課されるかもしれない。」

「20節に、“若い皆さん,神から与えられた自由を大切にしてください。”とあります。自由は神から与えられたものなのですか?違うと思います。」
「ここでいう自由はおそらく道徳的自由のことだろう。道徳的なことも不道徳なことも人間は選べるという程度のこと。ふつう自由というと言論の自由、信教の自由、良心の自由など社会的な自由をさす。これらは皆人類が長い戦いの中で勝ち取ったもので、神から与えられたものじゃない。例えば、聖書の神は奴隷制度を容認している。現在奴隷制度がないのは神様のおかげじゃないよ。」

#907 2019年03月07日 13:13:14

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

> 知性は感じないが、打たれ強そうだ
> 重要な教義を変更しても、悪びれることもなく堂々としている


この組織は上へいくほど裸の王様になるので、下々の空気は読まないか、読めなくなります。洗脳を免れた子どもの方が空気を読んで「王様は裸だよ」と叫ぶこともなく静かに消えてました。

外からの批判には、サタンの迫害は真の宗教の証と、むしろMP吸収する呪文を持っています。

「言葉の意味は分からないがとにかくすごい自信だ」で言い切ってあげるのが彼らの役割なんだと思います。そういう他人依存(宗教)の需要は根強くあります。


「キリストの臨在は信仰を持つ者だけに『見える』のです」

彼らも王様のように、知性を感じないだけでそんなに邪悪でもなく、詐欺職人のように解釈をすり合わせる連中がいるんだろうとは予想しています。


ところで、70人訳の底本には幾つかのバージョンの存在が想定されていますが、ゴリアテの身長はヘレニズム世代向けに多少現実味を持たせたのではなく、エジプトのキュビトなんですね。勉強になります。

#908 2019年03月07日 16:24:29

死生観の者です
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

※注意 ネームの意味と書いている内容は違います

卓郎さんへ
仏教徒から見たエホバの証人というスレでお返事待ってます・・・

#909 2019年03月08日 15:58:14

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#910 2019年03月15日 16:35:51

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“集会でエホバを賛美する”で、もっと集会でコメントせよ、という内容で、だれきった集会を活性化しようというものです。」
「コメントといっても本文から読み上げるだけ。記事に対する異議や疑問は禁止だろう。毎回、シナリオ通りに演じる芝居のようなもので、予定調和的に終わる。活性化なんて無理じゃないの。」
「ほとんどのJWは、コメントなんてどうでもいいと思っていますよ。」

「集会でコメントする、つまり大勢の人の前で何かを言うことは、その人を発言内容に一致した行動をさせるという心理的効果がある。コミットメント効果とよぶ。組織はそれを狙っているのだろう。」
「コメントさせてコミットですね。あるJWに、集会で、伝道はとても重要なことですと、コメントさせれば、そうコメントしない人よりも、伝道に熱心になる可能性が高くなるということですね。」
「オウム真理教でも、みんなも前で、修行するぞ、修行するぞ、と繰り返し信者に言わせていたよ。カルトがよく使うテクニック。組織からすれば、信者を集会に来させ、コメントという形で組織の意向に沿った発言を自発的にさせるというのは、十分意味のあることなんだ。」

「2節で、“今日,エホバを賛美する方法の一つは,集会でコメントすることです。”とあります。いつからそうなったんですか?コメントと賛美は本来別のことですよ。賛美するようなコメント以外はするなということですね。」
「エホバ=組織とすれば、そうだろうね。コメントしない人は賛美する気持ちがない人だ、いずれ排斥だ、と脅す意味もあるね。」
「3から9節は、集会でコメントする4つの理由が出ています。3節では、“集会で行なうコメントは「賛美の犠牲」の一部であり,他の人に代わりにささげてもらうことはできません。(ヘブライ 13:15を読む。)”と、コメント=賛美の犠牲という新たな教義をぶちかましています。」
「ヘブライ13:15の“賛美の犠牲”は、集会でコメントすることとは無関係。この聖句は、動物の犠牲を捧げることを重視した古いユダヤ的な崇拝のシステムから新しいキリスト教的崇拝のシステムに移行すべきことを説いている部分。動物の犠牲ではなく、賛美の犠牲が大事だといっているのはそういう意味。」
「コメントと関連ありそうな、いい聖句が他に見つからなかったんですね。」

「5節の下にある、集会の様子を写した写真だけど、黒人の少年が最前列に座って、手をあげている。模範的な例なんだろうけれど、こんな子どもでもスーツにネクタイなんだ。一昔前のアメリカ中流階層の価値観だね。子どもに大人と同じ服装をさせるというのは、奇妙に感じるよ。」
「イギリスでは、王室の子どもでも半ズボンをはかせますよね。子どもを大人のミニチュアにはしません。」
「子どもの服装についても、JWは昔のアメリカ中流階層の価値観を押し付けようとしているということ。ロシアのようなアメリカ嫌いの国では、JWを、宗教に加え、アメリカ文化の伝道者ともみなして、敵意を感じるだろう。」

「10から12節は、コメントが苦手な人へのアドバイスです。12節で、“ヨナについても考えてください。ニネベの人々に警告を伝えるようエホバから命じられた時,恐れのあまり逆方向へ逃げてしまいました。”とあります。ヨナが逃げたのは恐れのためなんですか?」
「何を恐れて逃げたの?ニネベに警告を与えることを恐れたと言いたいのかな?そんなことは聖書のどこにも書いていない。」
「ヨナは神の命令に従わない点で、神を恐れぬ大胆不敵な男ですよ。」
「ヨナ自身は、ヨナ4:2,3でこう言っている。“ああ今,エホバよ,わたしが自分の土地にいた時,この事がわたしの問題ではありませんでしたか。そのためにわたしは先にタルシシュに逃げたのです。あなたが,慈しみと憐れみに富み,怒ることに遅く,愛ある親切に満ちた神であり,災いについて悔やまれる方であることを知っていたからです。”」
「これは、ヨナがニネベの町の壊滅を預言したのに、ニネベの人が悔い改めて、エホバがそのためニネベの人を許し、ヨナの預言が実現しなくなったことを言っている部分ですね。」
「ヨナが逃げたのは、こうなる事がわかっていたから、自分はニネベに行くのが嫌だったと説明しているのに、この記事では恐怖心で逃げたことになっている。執筆者も統治体もヨナ書を読んだことがないのだろう。」

「ヨナって、預言者のパロディみたいな存在ですよね。列王第二14:25に、“イスラエルの境界をハマトに入るところからアラバの海に至るまで回復したのは彼であった。それは,イスラエルの神エホバが,その僕,ガト・ヘフェルの出身の預言者,アミタイの子ヨナを通して語られた言葉のとおりであった。”と、ヨナが出てきますが、これとは無関係ですよね。」
「無関係だね。ヨナ書は短編小説のようなもの。ヨナは結局ニネベの町に行って、滅亡の警告をする。すると、驚いたことに、町全体が断食し粗布をまとうことをする。家畜まで同じことをする。こんな偉業はいかなる預言者も成し遂げたことはない。」
「ヨナはニネベの人に悔い改めを求めていませんよね。ヨナの語ったことは、3:4によると、“しきりにふれ告げてこう言った。「あとわずか四十日でニネベは覆される」。”だけです。やる気のない預言者ですよ。それにもかかわらず偉業を成し遂げた。」
「というわけで、教訓物語で、史実ではない。」
「でも、JWでは史実として扱っています。」
「“洞察”のヨナのところを見ると、とんでもないことが書いてある。ヨナが偉業を成し遂げたことに対して、カイルという人の見解を紹介している。そこでは、“東洋人が非常に感情に動かされやすい人々であること,アジアの異教にはみな至高者への独特の畏敬の念が見られること,アッシリアではごく初期の時代から予言や神託が非常に重んじられていたことなどを心に留めさえすれば理解できる。”と、人種的偏見丸出しの聖書擁護をしている。」
「JWによって引用される人はろくな人はいませんよ。」

「それから、列王記のヨナは前8世紀の人。ところが、ヨナ3:3には、“ニネベは神にとって大きな都市であり”とある。英語でNinʹe·veh was a very large cityとあるように、原文でも過去形なの。ヨナ書がかかれている時点でニネベは過去の都市になっている。ニネベが滅ぼされたのは前612年。ということは書かれたのは早くても前6世紀。時代が違いすぎる。」
「異教徒でも神は救済するといった普遍的なメッセージはバビロン捕囚以降ですよね。しかも、バビロンから帰還した後の、エズラ・ネヘミヤの時代は民族感情が高まっていましたから、さらにその後ですよね。となると前4世紀くらいに書かれたのですかね。」
「ヨナ書はニネベについて歴史的に不正確で、著者はニネベのことをあまり知らない。3:3には、“歩いて回ると三日かかった。”とあるけれど、そんな大きくはない。“ニネベの王”というのが出てくるけれど、そういう位は存在しない。アッシリアの王はいたけれど。」
「ニネベが滅びてから、相当経過した時点で書かれたということですね。」

「14から19節は、適切なコメントのための注意事項です。迷惑なコメントをする人が結構いるのです。」
「17節で、“すぐに指されないとしても,気分を害したりがっかりしたりしないでください。”とある。自分は手をあげても指名してくれないと文句を言う人がいるんだろうね。」
「実際にえこひいきする司会者もいるのですよ。閉鎖的なカルト集団ですから、当然好き嫌いは激しいのです。」
「逆もあるだろう。司会者が嫌われているので、誰も手を挙げないというケースだ。」
「当然あります。司会者の人気度はコメントの多さに影響します。」
「18節で、“できれば30秒以内でコメントしましょう。”とある。長々とコメントする人がいるんだ。この時しか目立つ場がないという人もいるよね。しかし、30秒は短すぎるよ。」
「なるべく多くの人に喋らせようという方針なんですよ。幼児にだってコメントさせるくらいです。中身なんかどうでもよくて、私も参加できた、この集団の一員だ、という実感を持たせるためのコメントです。一人で時間を独占しちゃだめですよ。」
「18節に、“最初のコメントは,質問に直接答える簡潔なものにしましょう。”とある。指示しすぎだよ。これを神様の指示と理解して、この通りにしないと、文句を言う人がでるよ。」
「何でもコントロールしようとするのがカルトの特徴ですから。」

「それじゃ最後の20節の質問を使って、コメントの練習をしよう。質問は、“集会は友人たちとの食事とどんな点が似ていますか。”だよ。難しい質問だ。」
「どちらも、1年に1回くらいで十分です、というのはどうでしょうか?」
「長老から指導があるね。」
「それなら、どちらも、その場にいない人の悪口で盛り上がります、というのはどうでしょうか。」
「審理委員会行きかも。」

#911 2019年03月15日 18:06:43

サルガタナス
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

先生、
いつも為になるお話ありがとうございます
先生の所に通う少年にも似た気持ちで
いつも楽しく拝見しています
コメントってものみの塔に書いてありましたな
いつもの注解って表現じゃないんですね
またちょっと上の方針が変わったのかも知れません
明日集会でお勉強なので
そのあたりも注目していきたいと思います。

#912 2019年03月15日 18:18:01

またい
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ごめんなさい。私言葉知らなくて。

#913 2019年03月22日 14:45:48

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#914 2019年03月22日 17:57:39

サルガタナス
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

質問先生
いつも、ものみの塔の研究記事の解説
ありがとうございます
僕は先生の解説が大好きです
いつもすごく勉強になるのはもちろんのこと
例えば
この世の悪を一身に背負わされているサタンも大変だ。」
という端々に見られる先生の優しさや
何かにつけてマイコンによる服従やら従順やら忙しい
記事の内容にたいする先生の善良さから来る怒りなど
質問先生の人柄がにじみ出てて僕は大好きです
勝手ながらこれからも楽しみ待っています。

#915 2019年03月22日 22:08:52

またい
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

あー先生なんだね。こんな文章書けたらいいなと思う。

#916 2019年03月23日 00:46:01

サルガタナス
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

またいさん
いつもありがとうございます
実は最後で
これからも楽しみに待ってます
と書くつもりが
これからも楽しみ待ってます
って間違えちゃったんですよー、以後気をつけます

#917 2019年03月29日 16:30:17

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#918 2019年03月29日 18:47:23

仰天
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#919 2019年04月01日 12:13:58

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#990の仰天さんの質問:

「イエスの処刑の日付に関してはヨハネは異なる暦を使用しているのであって食い違いはないという事も言われています。その事についてどのように思われますか?」

に、お答えします。

受難物語ではヨハネとそれ以外の3つの福音書(共観福音書)との違いが、大きすぎるので、日付だけ一致させても、それ以外の不一致はどうしようもなく、日付の食い違いをなくそうとする行為は、護教的立場に立つ人(キリスト教のおかげで生活できている人が多いです。)以外、あまり意味がありません。

日付の違いは、わずか1日なので、いろいろなことを想定すれば、なんとか一致させることはできます。そのひとつの方法が、イエスは主流のユダヤ人(パリサイ派)とは違うカレンダーを使っていたという説です。

例えば、仰天さんが紹介してくださったホームページと同じ主張ですが、イエスがクムラン・エッセネ派の暦を使用していたとしたら、他のユダヤ人より1日前に過ぎ越しの食事をとり、共観福音書の記述通りとなりますが、一方ヨハネはパリサイ派の暦で日付を書いたのだとすれば、不一致が解消するというものです。

問題は、イエスが他のユダヤ人と異なる暦を使っていたという証拠が一切なく、しかも、そのようなことはありそうもないということです。イエスがユダヤ人主流のパリサイ派と違う暦を使っていたら、安息日もずれてしまい、パリサイ派と大きな問題になるはずですが、そのようなことは福音書には書かれていません。またイエスがクムラン・エッセネ派の一員だったこともありそうもないことです。

こう考えれば、福音書間の不一致は解消するはずだという護教論は昔からうんざりするほどあります。しかし、一つや二つの不一致を解消したところで、それ以外の不一致が多く残ります。恣意的な仮定を設けて不一致を解消してもあまり生産的でなく、4つの福音書は、それぞれ別のもので不一致があるのは当然だと考えた方がよいだろうとするのが普通の人の態度です。

受難物語におけるヨハネとそれ以外の福音書との食い違いの主なものを紹介すると、
1.    最後の晩餐と処刑の日付:14日(ヨハネ)と15日(共観)。
2.    イエス逮捕時の弟子たちの行動:イエスが去るよう促した(ヨハネ)と逃げ去った(共観)。
3.    夜中の尋問:アンナスからカイファのもとへ連行され、ユダヤ人が死刑判決を下せるかどうか議論(ヨハネ)とカイファのもとへ連行され、裁判となり、冒とく罪になる(共観)。
4.    イエスの最後の3時間に暗闇になったか?:いいえ(ヨハネ)とはい(共観)
5.    処刑後イエスのもとに集まった人:ガリラヤの女性たち、イエスの母、イエスの愛した弟子(ヨハネ)とガリラヤの女性たちだけ(共観)。
6.    誰がイエスを埋葬したか:アリマタヤ出身のヨセフとニコデモ(ヨハネ)とアリマタヤ出身のヨセフだけ(共観)。

という訳で、日付だけ一致させても、それ以外の不一致はどうするのという問題が残ります。聖書にない「実はこうだった。」という話を作り上げて、一致させようとする人はたくさんいますが、護教論の信者以外は相手にしませんね。

共観福音書の最大の問題は、過ぎ越しの祭りの夜に裁判が開かれて、冒とく罪になったという記述です。過ぎ越しの祭りはユダヤ人にとって極めて重要で、その日に、特に夜中には裁判は開かれないことになっていました。また裁判と処刑が同じ日(日没から日没までが1日)に行われることも普通は考えられません。普通は別に日に行う。それから「冒とく罪」というのも奇妙です。1世紀にもメシアと称した人間はたくさんいましたが、冒とく罪で裁かれた人はいません。

15日の過ぎ越しの祭りの日に逮捕処刑という共観福音書の記述は、当時の法制度からみてありえず、この問題を回避するのはヨハネの14日に逮捕処刑という記述です。というわけで、新発見の資料がない限り、ヨハネの方を信用するのが妥当ではないかという結論になります。

#920 2019年04月01日 15:17:41

仰天
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん、

そうですね。確かに過ぎ越しの日に裁判という事は無理があるように思います。

分かりやすくまとめて下さりありがとうございました。

#921 2019年04月02日 07:55:59

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

オフライン

#922 2019年04月02日 07:58:15

仰天
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

てつてつさん、おはようございます。

アーマンさんの本は出た時から読んでますよ。数冊持っています。

#923 2019年04月02日 08:53:29

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

分かりましたありがとうございます

オフライン

#924 2019年04月04日 00:09:01

シセイ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

内心、こんなに書き込みに熱中していて自分も終わりかなと反省しつつ・・・
私的に感想を一つ。akameさんの複数の霊という初期の書き込みの言葉、否定しなくても良かったのかなと思います。今はAIの時代。単体のAI同士をつなげて集合知として機能させる。面倒なのでぐぐってください。そうなることはシュワちゃんの映画で予告されていたし。日本の某教授が頑固だったせいで日本はAI研究が遅れてしまいました。海外がアルゴリズムによってAIを作製していた時代、日本は物理学方面から研究を進めてしまいAIは不可能なのだという結論と意味不明な物理理論に支配されてしまいました。教授の当時のPDFを拝見すると怒りで震えそうです。AIには光束の集結が必要なのだとか一種の宗教です。海外では不毛な議論から離れ、数学方面からアタックして成功しました。日本がアルファ碁を作れましたか?確かに今でも自発的次世代AIはいまだ作れませんがもどきは作れました。

このAIの基礎理論は集合知に関するもので「鳥の群れはなぜ不思議な動きをするのか」等の研究から出発したものでした。ボイドです。日本では「群れにリーダーがいて指令を送っている」と最難関大学ですら言っていました。その頃海外では密かに「いくつかの制約を与えることによって、あたかも一つの生き物であるかのような動きをする」ことを突き止めAI を発展させました。その規則とは「互いに離れすぎない」「一定の距離を保つ」あと忘れましたが3つくらいの規則でした。たった3つくらいの条件で制約を与えるだけで鳥の群れは複雑なうねりをみせる動きをしたのでした。
これを日本では「群れにリーダーがいて指令を送ってる」と真面目に言っていました。
いったん切ります。

#925 2019年04月04日 00:26:42

シセイ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

私とakameさんの言っていることは厳密には違いますが、求めているものは共通の性質があると感じました。
集合知です。そして人間の脳でさえ集合知を抜きには語れないのです。たしかにひとつひとつの神経細胞は
小さく分けていけば最後は元素です。しかし問題なのは自発的に刈り込みを行うことなのです。現在のAIでは
予め与えられた回路で探索を行いますが、人間の神経細胞は自発的に探索を行い自分で経路を選び、時には
刈り込みを行います。元素がいくら寄り集まっても経路はありますが、自発的探索(もどきではなく)はできて
いないのです。量子コンピューターも本音をいうと擬似的なものなんです。これ言うと国家予算がうるさくなる
でしょう。

物理の方程式は現象を説明しますが「なぜそうなる必要があるのか」という一番深いところが解明できているわけ
ではありません。今でも大統一論、超弦理論は未完成なんです。だから不完全な理論でakameさんを否定すること
もないと思いました。
アブラハムの神の限界についてはあのE=MC^2おじさんも言及してます。人格神を否定していることは有名ですね。
幼稚だと。選ばれた民という発想自体が幼稚だと。人間も進歩しているので進歩と同時に考えが変わっていくのも当然。
認識できる範囲は増えていくわけですから。


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