#751 2018年02月27日 18:04:29
- アボガドバナナ
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
>こんな長い文章、読む人ほとんどいないと思いますが。
私はいつも読んでいますよ。jw出版物がひとりよがりなのがよくわかります。
#752 2018年03月01日 08:38:03
- えー
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#753 2018年03月03日 15:46:39
#754 2018年03月04日 22:02:00
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
ラハムさんの、
「別の見方も存在することを知るのはとても必要なことだと思いました…。」
というご意見に、まったくその通りと思います。
JWの人もそのような精神でバイブルレッスンをしてくれたらいいと思います。
しかし、ラハムさんが参照した、「ティンデル聖書注解」ですが、これはかなり党派性があるものと私は理解しています。
ティンデル聖書注解は、ティンデルハウス聖書研究所に所属する福音派の学者たちによって執筆されています。
日本では「いのちのことば」社によって発刊され、聖書本文は新改訳聖書第3版を使用しています。
福音派とは、JWと似た、聖書は神の霊感によって書かれ、誤り無い神のことばであるという立場であり、学問的な聖書研究の立場とは相いれないものです。
#755 2018年03月05日 17:32:30
- 聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界
日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、「神は疲れた者に力を与えておられる」でした。要するに、なにがなんでも集会に出席せよという内容です。」
「第1節が泣けてくるね。
<多くの人は,1つではなく幾つもの問題を抱えています。たくさんの時間を取られ,精神的にもくたくたになります。お金もかかります。>」
「“多くの人”ではなくて、“エホバの証人の多くの人”と正確に書いて欲しいですね。エホバの証人であるために、“たくさんの時間を取られ精神的にもくたくたになります。お金もかかります。”」
「その解決策が、第3節の、<わたしたちはクリスチャンの活動を行なうと強くなります。>なんだから、また泣けるね。」
「ものみの塔で、あなたの問題の解決策は、エホバの証人を辞めることですとは、いえないですよね。それが真実でも。」
「宗教組織の限界がわかるね。よりいっそう宗教活動をせよ、これしか言えないんだから。」
「3節で、<この記事では,神への奉仕の妨げとなる2つの状況を取り上げ,聖書の原則を当てはめることがどのように役立つかを考えます。>とあります。聖書の原則ってそもそも役に立つんですか?」
「この記事でいう2つの状況とは、会衆の間での不和と重大な罪を犯した、ということのようだね。それに聖書の原則を当てはめると、どうなるの?」
「不和に関しては、詩篇37:8から、<怒りをやめ、激怒を捨てよ>。あとは、エフェソス4:26の<憤っても,罪を犯してはなりません。あなた方が怒り立ったまま日が沈むことのないよう>でしょうか。」
「ろくな助言じゃないね。要するに我慢しろ、耐えろ、と言うことでしょう。これは現実問題に当てはめると、被害者は泣き寝入りしろということになる。」
「重大な罪を犯した場合は?」
「おそらくこの部分が答えなのだと思うのです。17節です。
<そのためには,神が長老たちを通して与えてくださる助けを受け入れなければなりません。(箴 24:16。ヤコ 5:13‐15)すぐに行動してください。永遠の命がかかっているのです。>
ところが、これは引用されている聖句と関係ないですよ。」
「ヤコブ5:13-15は、<あなた方の中に病気の人がいますか。その人は会衆の年長者たちを自分のところに呼びなさい。>とあるように、病気の人に向けられた助言で、罪を犯した人ではない。箴言の引用も意図がよくわからない。」
「ものみの塔としては、長老に解決を委ねるというような仕組みを作りたい、ということなんでしょうが、そんなことは聖書に書いていないので、関係ありそうなものをいくつか引用してみたと言うことですね。」
「根拠があまりないときに限って、<すぐに行動してください。永遠の命がかかっている>なんて、恐怖心をあおって、思考停止に追い込もうとする。18節に、こうある。
<あなたが以前に罪を犯したとしても,誠実に悔い改め,エホバに告白し,長老たちから必要な援助を受けたなら,エホバは許してくださいます。>」
「また長老ですか。」
「実は元の英語版では、17節も18節も長老とは書いていない。18節はこうだよ。<If you are sincerely repentant of past sins and have confessed them to the extent necessary,(もしあなたが過去の罪を誠実に悔い改め、必要な範囲に告白したなら)>」
「告白する範囲は特に定めていないですね。<to the extent necessary>ですから。日本語に訳する人が、<エホバに告白し、長老にも告白して>と勝手に決めちゃったんですね。<長老たちから必要な援助を受けたなら>なんてことも書いていないですね。日本支部がこれまた勝手に付け加えてしまった。排斥処分ものですね。」
「翻訳者は、ちゃんと訳すよりも、自分たちの思想を紛れ込まそうと初めから考えているように見えるね。」
「引用されている聖句についてはどうですか?」
「マタイ11:28-30を引用しているのがブラックジョークのようだ。
<すべて,労苦し,荷を負っている人よ,わたしのところに来なさい。そうすれば,わたしがあなた方をさわやかにしてあげましょう。 わたしのくびきを負って,わたしから学びなさい。>
この聖句を、ものみの塔では、7節でケーラという人の例を出して、病気の人も集会に来ると、幸せになる、というような意味に解釈している。全然違うでしょ。」
「僕が思うに、“労苦し,荷を背負っている人”というのは、律法でがんじがらめになっていた当時のユダヤ人のことですよね。律法主義者から離れてイエスの教えを学びなさい。イエスの教えは、細かな規則を守ろうなどというようなものじゃなくて優しいよ。こんな意味じゃないですか?」
「その当時の時代背景を考えればそうなるよ。その当時の言い方に、「律法のくびき」というのがあって、“私のくびきを負って”というのは、それを踏まえた言い方でしょう。」
「そうすると、現代で、“労苦し,荷を負っている人”というと、エホバの証人のことですね。不合理な規則に縛られ、ケーラみたいな病気の人にも集会に出席するという重荷を背負わすのですから。」
「JWのくびきは重く、つらいようだね。病気の人の家に、誰かが訪問して、集会の話をすればいいんじゃないの。」
「研究生ならいいですよ。時間が入りますから。それ以外はダメです。」
「それから、新世界訳で“さわやかにしてrefresh”と訳しているのが奇妙だね。普通は、”休ませるrest”と訳する。疲れた人を休ませるんじゃなくて、より元気にするという意味にする根拠はないでしょう。“さわやかにする”と訳しているギリシャ語は新約聖書の中で5回使われている。新世界訳でも、ここ以外は全部“休む”と訳している。このマタイの部分だけ、“さわやかにする”と訳するのは奇妙だ。」
「休むのはダメだからじゃないですか。疲れても休むな、もっと奉仕活動をしなさい、といいたいのですよ。」
#756 2018年03月05日 20:13:18
#757 2018年03月06日 09:23:17
- ジョエル
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
「休ませてあげましょう」なのに(弟子たちに忙しい日だったから、もう「休むがよい」と言ったのと同じ言葉)、それを「さわやかにしてあげましょう」と訳し変えて → もっとJWの宗教活動をしなさい、のお決まりのオチに持っていくのは、もはやブラックジョークの伝統芸ですね。
#758 2018年03月06日 13:25:33
#759 2018年03月06日 14:05:18
#760 2018年03月12日 17:13:24
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Re: アブラハムの神の限界
#761 2018年03月19日 17:00:30
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- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「土曜日に特別集会がありまして、そのあと、ものみの塔を学ぶというスケジュールでした。今週のものみの塔は、“神からいただいたものを神にささげるのはなぜですか”というもので、“貧乏人も、もっと寄付をしろ!”と言うわかりやすい内容ですね。」
「英語では、“Why Give to the One Who Has Everything?”(なぜ全てをもっている方に捧げるのですか?)というタイトルだよ。誰もがいだく当然の疑問じゃないか。それに答えていないダメな内容だと日本側で判断して、タイトルを変えたんじゃないの。」
「日本支部に電話してみますよ。答えないと思いますけど。」
「寄付の要請は、昨年の7月号の「真の富を追い求める」でやったばかりだよ。半年に1度は寄付の要請の記事を学ぶようになっているのかな?」
「組織宗教にとって、お金ほど貴重なものはないのですよ。」
「そうだろうね。今度の記事はどんな理屈で信者に金を出させようとしているの?裁判で負け続けて賠償金が巨額だからとはいえないしね。」
「エホバに感謝しよう。与えることは崇拝の一部だ。与えることは自分にとってもよいことだ。昔の忠実な人も自発的に寄付したぞ、それをみならおう。最後に、寛大に与えるものは豊かな報いを受ける。こんな理屈でしょうか。」
「あまり説得力がないね。5節で<与えることはエホバへの崇拝の一部です。>といってから、啓示4:11を引用しているけれど、そこには、与えることはエホバへの崇拝の一部なんて書いてないよ。また、申命記16:16をもとに、<イスラエル人は「むなし手でエホバの前に出て」はならず,供え物をささげなければなりませんでした。与えることは崇拝の一部だったのです。>とあるけれど、古代イスラエルの決まりごとは現代でも有効なの?そうだったら、男は皆割礼をしないといけないよ。」
「新約聖書の中から、いい聖句を見つけられなかったからでしょう。」
「昔の人をみならえと、ダビデの神殿建設計画で、イスラエル人が自発的に喜んで寄付をした話を歴代一29章から繰り返し引用しているね。」
「本当のことではないですよね。」
「歴代誌はバビロン捕囚以降に書かれたもので、国家を失った人々が、はるか昔の栄光の時代をものすごく美化して描いたもの。そこではダビデはずる賢い権力者ではなく、理想の王として描かれ、民衆はその理想の王にすすんで従うというありえない構図になっている。そんなものを引用して、過去のイスラエルの民をみならえといわれてもね。」
「統一イスラエルはダビデとソロモンの2代しか続かないわけですが、分裂したのはソロモン時代の極めて不平等な重税が原因のひとつですよ。一般国民が喜んで神殿建設のために寄付をしたなんて嘘だと思います。」
「そうでもないと思うよ。意外と喜んで寄付したのかもしれない。それが古代社会における宗教の役割だから。」
「宗教は政治権力者のためにお金を集めてきたということですか?」
「政治権力者が民衆からお金を巻き上げる際、いかに民衆の不満を抑えるかは、重要な政治問題だ。古代社会では、宗教を利用して民衆の不満を抑える。まず、政治指導者は神によって選ばれたと主張し、宗教指導者はそれにお墨付きを与える。そして政治指導者も宗教指導者も、自分たちの宗教を維持することが、自分たちの平和と安全を保障とする、と民衆に信じ込ませる。その上で、神殿を作るとか、儀式にお金がかかるとかいって、民衆からお金を巻き上げて、両者で分け合う。」
「ダビデとサムエルがそんな同盟関係ですね。国家宗教ってそんなものですよね。それを美化したのが歴代誌なわけですね。」
「ものみの塔の統治体も同じやり方をしているだろう。自分たちは神に選ばれた人間だと主張し、自分たちを支えることが信者の幸福につながると思い込ませて、信者から寄付を集める。各会衆が貯めていた資金や資産だって、取り上げる。」
「今の統治体もこれからどうなるのでしょうね。」
「最後の2つの節は、寄付を募るには、あまりにもひどい内容だね。18節では、<王国のために与える人は必ず祝福される,と保証しておられます。(マラ 3:10)>とあるけれど、マラキ書が言っているのは古代イスラエルのことで、今のエホバの証人とは関係ないよ。その後、<寛大に与える者は豊かな報いを受ける,とも約束しておられます。(箴言 11:24,25を読む。)>とあるけれど、引用されている聖句は、施しと貪欲を対比させて、寛大に貧しい人に施すことはいいことだ、かえって豊かになる、といっているだけ。巨大新興宗教に寄付したらいいことがあるよ、という主張をしているわけではない」
「その次に、<与えるなら幸せになれます。「受けるより与えるほうが幸福」だからです。(使徒 20:35)>とありますが、どうですか?」
「引用されている使徒20:35は、初めに<弱い者たちを援助しなければならない>とある。その後に、<受けるより与えるほうが幸福>というのが続く。弱いものとは誰なの?統治体の人たち?違うよね。弱いものを助ける、これは新約聖書が強調していること。しかも、聖書の事例は、どこかの組織に寄付するのではなくて、直接助けている。助けられる人より助けることができる人のほうが幸福な立場なのは当然だ。それが、<受けるより与えるほうが幸福>の意味じゃないの?」
「イエスが言ったことになっていますけど、聖書のどこを探してもない言葉ですね。本当にものみの塔に寄付をして幸せになるのなら、こんな記事は必要ないですよ。」
「6節のこの部分が気になるね。
<親元で開拓奉仕をしている子どもは,家賃や食費を幾らか負担することができます。親はそのようなことを期待してはいないかもしれませんが,喜んで受け取ることができるでしょう。>」
「若い開拓者の中には親に寄生して生活をしている人が多いから、すこしぐらいは親に払えよ、という統治体からのアドバイスでしょう。」
「それだったら、テモテ一5:8くらい引用して欲しいね。
<当然のことですが,自分に属する人々,ことに自分の家の者に必要な物を備えない人がいるなら,その人は信仰を否認していることになり,信仰のない人より悪いのです。>
この聖句が示すように、神に仕えるといって、家族に寄生するのが正しい生き方とは思えない。」
「ものみの塔は、奉仕活動第一主義だから、宗教と仕事のバランスの取れた生活をしましょう、といった当たり前のことがいえないのです。」
#762 2018年03月26日 17:13:43
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#763 2018年03月27日 08:43:00
- ジョエル
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
ヘレニズム時代のユダヤ人には、創造に始まる今のアイオーン(ヘブライ語でオーラーム)・・時間があって有限と、来るべきアイオーン・・時間がなく永遠という概念が広まっていて、そこに、イエスをメシアと信じたクリスチャンが「キリスト前」「キリスト後」を導入して、キリスト後の時間は「残りの時」であって、その「時」は少なくなっている、縮められている(コリント一7章29節など)と考えるようになったんですよね。
彼らにとってはキリスト後の時間=残された定めある時(終わりの時)であって、ありのままに読めば、パウロ書簡にも、牧会書簡にも、はるか遠い将来を予言しているつもりなんてないと思います。
#764 2018年04月02日 17:13:34
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“神に仕える人と仕えない人はどのように異なっていますか”というもので、先週に引き続きテモテ二3:1-5を扱った内容ですね。」
「主の記念式は楽しかったかな。2節には、<終わりの日の今,世界は道徳的に退廃しています。テモテ第二の手紙には,神に仕えていない人々の特徴が記されています。>とあるけれど、そうとはいえないだろう。」
「テモテの手紙は信者を監督するテモテにあてたという形式ですから、信者のことを言っているというご意見でしたね。」
「そのとおり。だから3章5節で、<敬虔な専心という形を取りながらその力において実質のない者となるからです。>と締めくくられる。これは神に仕えてない人ではなくて、神に仕えているというふりをしている形だけの信者のことでしょう。」
「19種類の人が挙げられているのですが、ずいぶん多いですよね。」
「かといって網羅的でもない。興味深いのはそこで使われている単語だね。19のうち、7つは、ここでしか使われていない単語で、6つは、新約聖書ではあと1か所しか使われていないレアな単語。」
「要するに、パウロの単語の使い方と違うといいたいわけですね。」
「新世界訳で面白いと思ったのは、3節の“自然の情愛を持たないもの”という訳。astorgoiの訳だけど、ギリシャ語の辞書に、よく“without natural affection”と説明してあるの。辞書の説明をそのまま持ってきた感じだね。」
「新共同訳だと、“情けを知らず”ですね。確かに新世界訳は辞書の説明文をそのまま訳語にしたようなものが多いですよね。訳した人の無能さのあらわれですね。1節の、“対処しにくい危機の時代”というのも、単語の訳というより、その単語の解釈ですよね。」
「*をクリックすると、字義的には“猛烈な”であると説明が出てくるけどね。新共同訳では、“困難な時期”としている。」
「ものみの塔としては、どうしても危機の時代になってほしいから、“猛烈な”を“対処しにくい危機の”と、普通には考えられない訳語をひねり出したのでしょう。」
「4節に“片意地な者”(headstrong)とあるけれど、これは誤訳だね。新共同訳では、“軽率になり”と訳していて、こちらのほうが正しい。本当に誤訳か、ギリシャ語王国行間逐語訳聖書をみてみようか。」
「なんですか?それは?」
「知らないの?ウエストコット・ホートのギリシャ語本文の行間に一語ごと英訳を入れて、新世界訳と対比したものだよ。ものみの塔から1969年に発行されている。今買うことは難しいけれど、インターネットから無料でダウンロードできる。」
「ダウンロードしてみると、片意地な者と訳した語には、forward-fallingと訳していますね。“前へ倒れる”という意味ですか?」
「元のギリシャ語はpropetés。これはpro(前に)とpipto(倒れる)の合成語。forward-fallingは、まさに字義訳だね。辞書にはそのギリシャ語の意味をheadlong(真っ逆さま、急いで)と書いてあることが多い。それを無知な訳者がheadstrong(片意地な)と見間違えたんだと思うよ。」
「誤訳がわかっただけでなく、その原因も推測できたということで、よかったです。新世界訳って、本当にダメですね。」
「6節に、ダビデがサウル王の娘との縁談を断ったことをもって、ダビデは謙遜だったと書いてあるけれど、ぜんぜん違うよ。これを書いた人は聖書を知らないね。」
「はじめはメラブという娘ですよね。その縁談を断ったのは、条件付きだったからですよね。サムエル一18:17には、<ただ,わたしのために勇敢な者となり,エホバの戦いを戦ってくれ>とあります。サムエルはダビデを戦死させようとたくらんでいるわけで、それを見抜いたダビデが断っただけです。ダビデは謙遜だから王の娘の縁談を断りましたなんて、子供向け聖書物語ですね。」
「それに婚姻費用の問題もあった。結婚するとき、男性側は多額の贈り物をする必要がある。王の娘ともなれば、相当な贈り物が必要だ。」
「それでサウル王は別の娘ミカルの婚姻に際しては、18:25で<フィリスティア人の百の包皮>でいいよといったわけですね。日本風に言うと100人の首を取ってこい、それで婚姻費用はなしにしてやるということですよね。本当の狙いは戦死させることですが。」
「ところが、ダビデはその条件をなぜか承諾し、200人分の包皮を持ってきて、めでたくミカルと結婚している。このダビデのどこが謙虚なんだろうね。」
「敵の兵士の包皮を取るって、実際にはどのようにするのでしょうかね。」
「これは史実ではないよ。まじめに考える必要はないよ。」
「11節に、<互いを愛することは真のクリスチャンを見分けるしるしであるとも述べました。(ヨハネ 13:34,35を読む。)クリスチャンは敵でさえ愛します。(マタ 5:43,44)>とあります。これを書いた人は、自称真のクリスチャンであるJWの排斥制度やその後の集団無視のことをどう思っているのでしょうかね。排斥された人は敵よりも悪い存在なのでしょうか。」
「これを書いている人は、JWの現実を何も知らないのさ。兄弟姉妹と呼びあっていたって、集会に来なくなれば忘れ去られる、それがJWの現実だろう。」
「会衆内に党派ができたり、お互い中傷したり、長老が権力を乱用したり、ごくありふれたことですから。」
「そうなの。」
「僕が面白いと思ったのは、15節です。イザヤ11:6,7を取り上げていて、オオカミもライオンも他の動物と仲良くなって、草を食べるようになるという聖句なのですが、<この預言は象徴的な意味で人間に成就します。>と書いてあることです。」
「この聖句を、野獣のような危ない人が、いい人になるという象徴的意味だと解釈することにしたわけだ。どうでもいいけど、楽園の絵ではライオンと遊ぶ子供は定番だろう。それは間違いということね。」
「動物好きのJWは裏切られたと思うでしょうね。JWをやめる人がまた増えることになるかも。 」
#765 2018年04月02日 21:55:17
- トカゲの王
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
15節のイザヤ11:6,7に関する説明の何がアレって、記念式ではまさにその聖句が動物たちとの楽しい生活が待っていることの根拠として用いられていることですよ。
#766 2018年04月09日 17:12:46
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“ノア,ダニエル,ヨブの信仰と従順に倣う”というもので、子ども向け聖書物語といった程度のものでした。」
「エゼキエル14:14の引用ね。」
「そうです。<ノア,ダニエル,ヨブがその中にいたとしても,彼らは,その義のゆえに自分の魂を救い出すであろう>とありますが、どういう意味なのですか?」
「14から20節までが一つの話で、20節で、<息子も娘も彼らは救い出せない。彼らは,その義のゆえに自分の魂を救い出すであろう>とまとめる。つまり、どんな義人も救えるのは自分だけ。息子や娘だって救えない。現代的な個人主義的な倫理観の芽生えだ。これはエゼキエル18章で、さらに展開されている。」
「創世記18章では、ソドムを滅ぼすというエホバに対して、アブラハムがもし50人の義人がいたら、滅ぼすのをやめないのですか、と問いますよね。エホバは結局10人までまけてくれるわけですよ。そこには個人ではなく集団的な倫理観しかないわけですね。エゼキエルの時代になって、集団全体ではなく個人の責任を問うという発想が出てきたということでしょうか。」
「創世記では、10人の義人が町全体を救うことが可能なんだ。しかし、エゼキエルでは、義人は自分しか救えない。旧約聖書の中の思想の転換だ。」
「救う話ならいいですけれど、ヨシュア記7章では、略奪品を隠したアカンが家族や家畜もろとも殺される話がでてきますね。集団的倫理って、恐ろしいですね。」
「ところが、エゼキエル18:20では、<子が父のとがのゆえに何かを負うことはなく,父が子のとがのゆえに何かを負うこともない。義なる者の義はその人自身に帰し,邪悪な者の邪悪はその人自身に帰する。>とエホバが言うの。それならアカンの家族はどうなんだよ。エホバっていいかげんな神様だってよくわかるよね。」
「いいかげんじゃなくて、エホバの思想が進歩したということですよ。」
「ところがJWはどうも集団主義的倫理のようだよ。JWの組織にいれば救われると思っている。ある集団の一員かどうかで、生きるか死ぬかが分かれるというのは、エゼキエル以前の思想だ。」
「3人のうちの2番目のダニエルは、ダニエル書のダニエルなのですか?ものみの塔ではそう主張していますけど、時代が合わないですよ。2節では、西暦前612年にエゼキエルが書いたとあるのです。この時ダニエルは無名の若者じゃないですか?“洞察”によれば、ダニエルは西暦前617年ごろ10代で、バビロニアに連れていかれたとあります。ノアに並ぶほど有名人ではないはずですよ。」
「その年代は、JW以外支持者のいないエルサレム陥落607年説に基づく、でたらめだけどね。エルサレム陥落を嘘の607年にしているので、そのあたりのJW年代はすべて史実と違う。今更変えられないから、嘘をつき続けるしかないのだろう。エゼキエルが書いたのは西暦前592年前後で、ダニエルが連れていかれたのは西暦前605年。3人の順番も気になるよね。」
「時代順にノア、ヨブ、ダニエルならわかりますが、ダニエルは2番目ですよね。ヨブより前の人じゃないですか。」
「ダニエルはエゼキエル書の28:3にも出てきて、<見よ,あなたはダニエルよりも賢い。>とティルスの指導者に言う。ダニエルは外国人であるティルスの指導者も知っている知恵のある存在だということがわかる。となると、バビロニアの宮廷で活躍していたことになっているダニエルではなくて、別のダニエルと考えるのが妥当だ。読み方もDanielではなくて、Danel という説もある。」
「別のダニエルというと?」
「有力なのは、ウガリット神話にでてくるダネルだ。これならティルスの指導者も知っているはずだからさ。異論もあるけどね。」
「ダニエルじゃなくてダネル?」
「ところで、その3人の信仰と従順の何を具体的に倣うわけ?」
「ノアについては、10節で、<あなたはいかがですか。ばかにされたり批判されたりしても,「神と共に歩」み続けますか。経済的に難しい状況に置かれたとしても,エホバへの信仰を保ちますか。>とありますから、バカにされても耐えろ、貧乏でも耐えろ、ということでしょうか。」
「聖書には、ノアがバカにされたとか、貧乏だったとか、何も書いてないだろう。ものみの塔の勝手な過剰解釈だよね。JWのイメージをノアに投影しているんだろうね。」
「ダニエルについては、何を倣うの?」
「14節で、<わたしたちも他の人々とは異なっているため,あざけられることがあります。(マル 13:13)でもダニエルのように,エホバ神に近づきましょう。>とありますね。」
「また、周りからあざけられている自分たちの姿をダニエルに投影しているのね。ダニエルは妬まれただけで、バカにされてはいないよ。ダニエルは外国の宮廷で出世しつつも、自分たちの信仰を守ったというわけで、国をなくしたユダヤ人の理想が投影されている人物ね。それから、引用されているマルコ13:13は、<そしてあなた方は,わたしの名のゆえにすべての人々の憎しみの的となるでしょう。>だけど、<私の名ゆえに>とは、イエスの名ゆえにという意味で、エホバという名前を付けて威張っているエホバの証人とは関係ないよ。」
「確かに、エホバの証人と名乗っていますからね。」
「最後にヨブについては?」
「19節に、<どんな状況に置かれても,いつもエホバを第一にした生き方をしましょう。エホバを全く信頼し,心から神に従いましょう。>とあります。」
「この場合、エホバ=統治体なんだよね。どんなひどい目にあっても、統治体に従え、ということね。子ども向け聖書物語から恐ろしい宗教残酷物語と変わったようだね。」
#767 2018年04月13日 06:52:36
- 万年研究生
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
聖書についての質問さん:
ヨブ記の1章と2章は冒頭の所がほとんど同じ場面で文面もほぼ違いが無いのですが
これも付け加えられた箇所なのでしょうか?
登場のサタンについても固有人物のサタンとは別の存在の1つなのでしょうか?
おわかりになりましたらご教示ください。
#768 2018年04月13日 07:11:34
- 万年研究生
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
補足ですが
1:6節 と 2:1節 のところです。
ほとんど同じです。
#769 2018年04月13日 14:52:19
- 聖書についての質問の答え
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
万年研究生さんのご質問にお答えします。
「ヨブ記の1章と2章は冒頭の所がほとんど同じ場面で文面もほぼ違いが無いのですがこれも付け加えられた箇所なのでしょうか?」という質問ですが、あとから付け加えられたと思います。
ヨブ記を読んで誰もが気付くのは、その冗長性(くだくだしく長く、重複が多い)です。それから文学作品としての不完全性です。
不完全とは、内容面では、サタンが提起した問いに結局答えていない。ヨブ記のテーマは、「人はなぜ苦しむのか」であると多くの人が考えているのですが、それに対する明確な答えがない。苦しみに対するヨブの反応は、1と2章では、穏やかに苦しみを受け入れるというものですが、3章以降は苦悩と怒りにとって代わります。つまりヨブという人物に一貫性がない。構成面では、ヨブの発言―友人(エリパズ、ビルダト、ツォファル)の発言が3回(①3:1から11:20、②12:1から20:29、③21:1から31:40)繰り返される構成ですが、3回目ではビルダトの発言が非常に短く、ツォファルの発言が全くない。32章から突然エリフが登場する。エリフは初めの部分でも終わりの部分でも言及されない人物です。対話の内容も基本的に同じことの繰り返しで、内容が深まっていかない。初めの部分(サタンが問題提起)と最後(サタンに触れられずヨブの友人について語られる)が対応していない。最初と最後は散文(普通の文)で、その間は詩形式だが、そのような構成は珍しく、本来別のものをくっつけたように見える。
以上のことは何を意味しているかというと、短いオリジナルのヨブ記(おそらく義人が苦しむが、最後は祝福されるというような内容。エゼキエルはこのような話を知っていて、14:14でノアやダニエルと一緒にヨブについて言及した。)があり、それに後からいろいろな人が文章や別の話を付け加えていったということです。そのため、内容面でも構成面でも首尾一貫性がなく冗長になったわけです。
次に、「登場のサタンについても固有人物のサタンとは別の存在の1つなのでしょうか?」という質問ですが、はい、別の存在です。悪魔サタンは比較的新しい思想です。旧約ではそのような思想はほとんどありません。
サタンという単語は、旧約聖書では、告発する、あるいは敵対する存在一般を指します。例えば民数記22:32ではこうあります。これはバラムの旅をみ使いが妨害する場面です。
「するとエホバのみ使いは彼に言った,「どうしてあなたは自分の雌ろばをこうして三度も打ちたたいたのか。見よ,わたしは,あなたに抵抗するために出て来た。」
「あなたに抵抗するために出てきた」というのは、原文には、「サタンとして出てきた」なのです。サタンは妨害するもの、敵対するものという意味なのですね。「抵抗する」はおかしな訳です。
ヨブ記のサタンはゼカリヤ3章のサタンと同じで、神を中心とした天の組織の一つの役職、現代風に言うと、人の罪を告発する検事のような役職を指しています。固有名詞のサタンではなく、冠詞がついたサタン(英語で言えばthe satan)となっています。ヨブ記のサタンはあくまでも神の許す範囲で行動しています。ヨブを苦しめるのも、神の許可のもとです。
冠詞のない固有名詞のサタンが初めて出てくるのは、歴代誌第一21:1です。
「それから,サタンがイスラエルに逆らって立ち上がり,ダビデを駆り立ててイスラエルを数えさせようとした。」
歴代誌はバビロン捕囚期以降に書かれたもので、これはバビロン捕囚期以降のペルシャ支配の時代に悪魔サタンという思想が出てきたことを示しています。ペルシャの思想は、世界は善と悪の神の対決の場という二元論的なものです。これに影響されて、サタンが悪の代表になっていくのです。また、ヨブ記と関連するのですが、「人はなぜ苦しむのか」という問題の答えとして、悪魔サタンの存在が要請された面もあります。
どういうことかというと、それ以前は、歴史はすべて神が支配しているというのが旧約聖書の思想でした。エルサレムが陥落して、ユダ王国が滅亡したのは、神が不信仰で堕落したユダ王国を罰するためだという歴史観です。ところが、異教の外国の支配下では、神に忠実であろうとすればするほど迫害を受けるようになります。なぜ神に忠実なものが苦しむのか?苦しみは不信仰ゆえの神の罰だという考えは現実に合わなくなってきたのです。神の罰を警告した預言者という存在も消えていきます。
そこでペルシャの善と悪の二元論に影響されて、このように考えるようになりました。この世界は悪と善なる神が戦う場なのである。現在は、よくわからない理由で、なぜか神は悪を許している。そのため自分たちは苦しんでいるのだ。しかし、まもなく神が悪を一掃してくださる。そのあとには自分たちの王国が復興し永遠に栄える。このような世界観を黙示録的世界観と呼びます。この世界観は旧約ではダニエル書の後半にはっきりとあらわれます。ダニエル書は旧約では最後に書かれたもので、新約聖書が書かれるまで約200年待つ必要があるのですが、その200年間にユダヤ人の間では黙示録的世界観はかなり浸透し、その世界観にとづいて悪の代表サタンという存在が要請され、定着していったのです。
イエスもパウロも、黙示録的世界観の持ち主で、サタンはキリスト教にも導入されます。有害図書のヨハネの黙示録(啓示)も新約聖書に採用されてしまいます。その結果、悪魔サタンという比較的新しい思想から、遡及的に、そんな思想がなかった旧約聖書を解釈するようになり、エデンの園の単なるヘビはサタンになっていくわけです。
簡単にまとめると、旧約聖書のサタンは悪魔サタンじゃないよ、ヨブ記のサタンも悪魔じゃないよ、ものみの塔の聖書解釈は全くダメだよ、です。
#770 2018年04月13日 15:03:17
- 万年研究生
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
聖書についての質問さん
丁寧に回答いただきありがとうございます。
いつも読ませていただいておりますがとても勉強になります。
#771 2018年04月15日 14:35:46
#772 2018年04月16日 17:02:07
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
ラハムさんの質問に2つだけお答えします。あとの質問は意味がよくわからないのです。
① 「史実ではないので真面目に考える必要はない、ということですが、どのような根拠でそういえるのでしょうか。」
ダビデが成り上がっていく過程がサムエル記第一に書かれているわけですが、サムエル記は、宗教的な歴史小説のようなもので、歴史書ではありません。歴史書としてみた場合、おかしな点がたくさんあります。例えば、有名なダビデとゴリアテの戦いの様子は、ダビデが生きていた時代よりずっと後の時代のものです。日本風に言えば、源氏と平氏の戦いの物語に数百年後の戦国時代の鎧兜と武器を身に着けた兵士が登場してきたようなものです。
サムエル記の目的は、ダビデ王朝の弁護です。ダビデは無法者で、脱走兵で、フィリスティア人の傭兵で、サウル王の死を利用して王位についただけの男なのですが、それを神によって選ばれた油注がれた王であり、その王朝は永遠に続くのだというふうに美化し、ダビデ王朝の正当性を主張するものです。
しかし、興味深いのはその弁護にあまり成功していないことです。サムエル記のダビデは戦いには強いが、モラルの欠けた日和見主義者にすぎません。サムエル記は、本来なら北朝鮮で指導者について描かれるような、政治的プロパガンダのはずですが、そうならず、歴史小説に似てきています。
② 「ダビデは神殿を建設することを神に願いますが、戦士として血を多く流したので、それを認めてもらえなかったことが記録されています。ダビデは果たして義人なのでしょうか。」
答えは、いいえです。目的達成のためには人殺しも平気な男です。
戦争行為のゆえに神殿建設を認められなかったというのは、列王記第一5:3に書いてありますが、サムエル記第二7章では、違うことが書いています。6節で神様は、<わたしは,イスラエルの子らをエジプトから連れ上った日より今日まで家に住んだことはなく,いつも天幕,すなわち幕屋の中で歩き回っていたのである。>といい、7節では<『あなた方はなぜわたしに杉の家を建てなかったのか』と言った言葉が一言でもあっただろうか>といいます。要するに神様はテントが好きだから、神殿はいらないよ、といっているのです。これは史実として神殿はソロモン時代にできたということがあって、なぜそうなのか、その説明として2通りあったことを示しています。列王記のほうが、道徳主義的で後世の歴史家(いわゆる申命記史家)の解釈でしょう。サムエル記では、宗教の連続性を重視して、従来のテントのままにしたという説明になります。こちらのほうが本来の説明だと思います。戦争が悪だなんていう思想は当時はありません。血を流したゆえに神殿建設ダメというのは、その当時の発想ではないでしょう。
#773 2018年04月16日 17:10:02
- 聖書についての質問
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