#626 2017年01月09日 11:37:59
- 梵天
- メンバー
Re: アブラハムの神の限界
書き込み失礼します。
私は2年ちょっと前に何度か書きこみして以来、今回投稿しています。
その時はT.Tと名乗っていました。
先ほど自分の書き込みを調べてみたら
聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)のトピック
2014年の11月6日にskさんと会話してました。
書き込みは数回のみでした。
少し前にT.Tと言う人がいたような気がしたのと
パスワードを忘れてしまったので梵天に変更しました。
◆良い子さん お返事ありがとう。
聖書記述の解釈は人によって違いがあるので
様々な感じ方があるのだと思います。
神の意識、感覚を人間が理解する事は難しいと思います。
子供が大人の人間関係を理解できないのと似ていると思っています。
大人になれば職場、親戚、近所など
様々な関係があります。
私はきちんとした議論には参加したいと思います。
意見の食い違いの始まりは
神と一人の霊者ですが
その時以来、現在も人類はその論争という器の中にいます。
その論争が決着しない限り
人間の争いも無くならないと思います。
オフライン
#627 2017年01月09日 11:58:31
- 良い子
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
梵天さんへ
お返事ありがとうございます。
私は、先人達が、神とはこういうもんだろう、と想像し、神を敬った事を否定しませんし、むしろ尊重したいと思っています。
その先人達の思考を止揚する事なく、そのまま現代で使うのは無理があると思っています。
#628 2017年01月09日 18:29:46
- ラハム
- メンバー
Re: アブラハムの神の限界
ささらさん、みなさん
福音書成立の説明ありがとうございます。
とくにヨハネについてはわたしも気になっていました。
三つの福音書はキリストが神の子だと述べていても、
神だと記述されていないのにヨハネになると
神様に昇格したように読み取れるからです。
ヨハネだけ読むことになれば、
キリストは神だということになると思います。
このヨハネは最後に書かれた福音書で、
西暦90年より後で一致しています。
日本の宗教でも教祖様は死んでからずっと後になると
神様に昇格し、崇拝の対象とされています。
神の地位になるのです。
わたしはJWになるまえ天理教を信じていました。
振り返ると教祖の中山みきという女性は
亡くなってから三人いる神の一人になっています。
天理教も三位一体かもしれません。
日光東照宮にまつられている徳川家康も
亡くなってから権現様になったと聞いています。
聖書に記載されているYHWHは全能者ですから、
仮にキリストが永遠に近い過去に創造されていても、
YHWHから神として認められ、神に任命され、
崇拝されるようになっても不思議でないと思います。
箴言8章はふしぎな聖句です…。
これはキリストのことだとも読めますから…。
きわめて人間的な意見ですが、
死んで存在が生き残った信者から確認できなくなると、
神という霊的状態の存在として
信じ続けたいという人間の強い願望が働く
結果だというような気がします。
はたしてなにが真実なのでしょうか…。
わたしの模索は継続中です…。
オフライン
#629 2017年01月10日 09:34:41
#630 2017年01月10日 10:05:50
- yukahena
- メンバー
Re: アブラハムの神の限界
ささらほーさらさん。
ヨハネの解説を拝見いたしました。ヨハネの福音書も当時の宗教観を補強するように恣意的に書かれたか、イエスの死後半世紀以上経っているので記憶があやふやだったか(10年はおろか1年前のことでもあやふやなことはたくさんあるのはわたしだけでしょうか(泣))、ご本人がご高齢でいささか難があるのではと思っていましたが、そのうち特に最初の宗教観を補強の部分が腑に落ちました。当時の方々の苦心した作品だったようですね。
信者は神の霊感を受けているのだから記憶が不確かなわけがないと言うでしょうが、こちらで議論が重ねられてきた数字の正確性や齟齬は書いた人のせいにします。正しいのは神のおかげ、間違いがあったとしたら全部人間のせいというのは都合が良すぎないかと。神の霊感というのも、人間のせいで間違えたならその時の霊感とは何か?人間は神のペンがわりだったのか?それとも書いた人の素養教養があってのものなのか?だとしたらその人の素養教養をこえた記述がなされたのかなされていないのか?疑問はつきません。
私は聖書で言うところの真理という、漠然としすぎて恣意的にどうとでも言える概念を全く信用できません。世の中の諸問題が真理なるもので全部解決されるほど単純なものではないことを考えないのが不思議でなりません。真理を分かりやすく簡潔に説明できるクリスチャンはいるのでしょうか。聖書の大半は真理とは関係無い捏造や誇張されたユダヤ史等の記述ではないかと考えています。
オフライン
#631 2017年01月10日 17:14:41
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
「God : The most unpleasant character in all fiction」(神様:全てのフィクションの中で最も不愉快なキャラクター)がアメリカから届きました。アマゾンで注文したのですが(2028円)、届くまで3週間かかりました。もちろん英語だよ。
早速、14章「Filicidal」(子殺し)を読んでみました。扱われているのは、予想通り、アブラハムがイサクをバーベキューにするように神様に命じられる(あるいは嘆願される)話しとエフタの娘の話です。
内容をかいつまんで紹介するとこんなところです。アブラハムの物語について。
アブラハムが馬鹿じゃないなら、イサクを通して大いなる国民にするという神様の約束を思い出して、「このテストはいんちきね、しょうがない、神様のゲームに付き合ってやるか。」と思うだろうね。でも、この話しのアブラハムは、どうやらお馬鹿設定で、まじめに殺そうとする。
そこで奇跡的に天使が止めにはいるけど、本当に奇跡的なのはイサクが反抗しない10代の若者だってこと。反抗もしないし逃げ出しもしない。相手は100歳をこえる老人だよ。アブラハムが石でイサクの頭を殴って気絶させたんじゃない限り、イサクは宗教に狂っている老父を愛していたんだろうね。必ずキリスト教徒は、神は愛する一人子を犠牲に・・・などと言い出すけど、正気で、子どもを愛する親は、子どもを殺したりしないよ。
テストにパスした後、天使は「Now I know you fear God」(今、あなたが神を恐れるものであることがわかった)という。全知の神様はそんなことをわからなかったの。アブラハムは神様がソドムとゴモラの町を火で焼き尽くし、住民皆殺しにするのを見ているんだよ。振り向いただけで塩の柱にされてしまったロトの妻を見ているんだよ。こんなテストをしなくても、アブラハムは、神様がいかに危険で恐ろしいかなんて十分わかりすぎるほどわかっているよ。
ここまでの教訓は、神様の前では縮み上がっていろ、子どもを愛する親としての本能を無視せよ、神様が命じたことは何でもするということを証明せよ、さもなければどうなるかわかっているよな、ということね。
アブラハムはその後、その土地に「神は供えてくださる」と命名するんだけど、本当は「神は拷問をする」と名づけたかったんじゃないかな。
最後に、著者はイシマエル(アブラハムとハガルの間の子。追放される)について触れます。イサクは一人子ではなかったのですが、聖書の中ではイシマエルを無視して一人子と呼んでいる。イスラム教の聖典のコーラン(クルラン)では、イシマエルはアラブ人の祖先になっていて、イスラム教の学者は神が犠牲にするよう要求したのはイシマエルと考えているのだそうだ。コーランでは息子のひとりというだけで名前を挙げていない。これははじめて知りました。こんなところにも今日まで続くユダヤとアラブの緊張関係が伺えると言うわけです。神様の考えは計り知れません。
エフタの娘の話については短く言うとこんなかんじ。エフタは戦争に勝たせてくれれば、家から出てきた最初のものを犠牲にささげると誓うのだけど、そのとき神様は「そんな取引には応じられない。子どもの犠牲なんて真っ平だ。」なんて一言も言わない。家から迎えに出てくると言えば娘か妻だよ。家から子羊がのこのこ出てくるなんてありえないよね。
エフタは戦争に勝った。旧約聖書の中では戦争に勝つのは神様のおかげなので、神様はエフタとの取引に応じたと言うことになる。
さて、自分の運命を知ったエフタの娘はなんと言ったかというと「父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、わたしを、その口でおっしゃったとおりにしてください。主はあなたに、あなたの敵アンモン人に対して復讐させてくださったのですから。」 士師記11:36 なんと従順ないい娘。文句のひとつも言わない。
もし愛のある神様ならこういうはずだ。「誓いのことは忘れなさい。エフタよ。娘を殺す必要はない。私はお前の誓いを無効にしよう。」これだと愛と慈悲のいい物語になるのに、聖書では、2か月後に、誓いどおりに娘をささげたということになっている。
その後、神様は、こんなエフタを戦争で勝たせ、6年間、士師という高い地位につけさせたわけで、エフタに満足していたんだろうね。現代なら、刑務所行きだ。
その後、子殺し関係の聖句が、これでもかと言うぐらいしつこく引用されます。ひとつはこれです。申命記21:18-21 「ある人にわがままで、反抗する息子があり、父の言うことも母の言うことも聞かず、戒めても聞き従わないならば、両親は彼を取り押さえ、その地域の城門にいる町の長老のもとに突き出して、町の長老に、「わたしたちのこの息子はわがままで、反抗し、わたしたちの言うことを聞きません。放蕩にふけり、大酒飲みです」と言いなさい。町の住民は皆で石を投げつけて彼を殺す。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。全イスラエルはこのことを聞いて、恐れを抱くであろう。 」
というわけで、子殺しのどこが悪いのという聖書のありがたい話しがたくさん読めるわけです。
こんな感じで、27章にわたり、聖書の素晴らしさをじっくりと楽しめる本ですね。普通の人が普通の感覚で読めば感じることが書かれていると思います。聖書は神の言葉で絶対正しい、神は愛であり、正義であり、・・・という先入観が抜けきれない人はそう感じないのでしょうね。
そういえば、愛についても書いています。旧約聖書の中では「愛」という単語は400回出てくるそうです。ほとんどが上からの命令です。神が、人間に神を愛するよう命令するわけです。愛は、常に服従と所有の感覚と結びついていて、奴隷の所有者が奴隷に全力で使えなさいと要求するのに似ている。神の愛は、神が選んだ人だけが対象の排他的なもので、命令に従っている限りの条件付です。さらに、神は、神を愛する人が神を恐れることを要求します。どこかのカルトの神様や親と似ているね。現代的な、何かに対して自発的にいだく愛とは異なるものです。神は偉大なり。
#632 2017年01月10日 18:39:18
#633 2017年01月10日 20:43:55
- さやか666
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
そうでしたか
エフタは刑務所に行かなかったのですね
犯行時に何者かが憑依して
一種の心神喪失状態にあった可能性もありますからね
聖書には何も書かれていないので、過度な憶測を避けることにより慎み深さを示せます
石打ち刑の導入に関しても様々なメリットがあったはずです。
疑いを抱かれますか?
メリットが無いわけ無いです。
なんといっても、わざわざ神様が石にこだわるのですからね。
仮に全くメリットがなかったにせよ、人間が考える幾多の手法に比べて神聖な方法だったでしょう
使用された石はそんなに固くないという説もあります。
Wikipediaによればローマンコンクリートの骨材として軽石を使用したことも分かっています
もしくは当時、地球上には人間が投げるのに手頃な大きさの石が2~3個程しか存在しなかったという説もあります
大岩と砂は存在しましたが肝心の石が無かったのです
ちなみにダビデの投げた石はゴリアテの眉間にめりこんだまま、取り出されることはありませんでした
つまり、「石打ちせよ」というのは和訳すると
「豆腐の門に頭をぶつけて死ね」という一種のジョークである可能性もあるのです
#634 2017年01月12日 17:17:42
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
以前に、使徒言行録のパウロとパウロの手紙の中のパウロが違うと書いたところ、どう違うのかという質問をいただきました。それについて少しお答えしましょう。
本物のパウロの手紙であるガラテヤへの手紙の1~2章では、パウロの回心、アラビア伝道、ダマスコ滞在、1回目のエルサレム訪問、シリア・キリキア伝道、「再度の」エルサレム訪問、アンティオキアでのペトロとの対立、と7つの出来事が書かれています。一方、使徒言行録には、パウロのエルサレム訪問が5回記されています。(1)回心訪問:9章。(2)飢饉訪問:11章。(3)使徒会議訪問:15章。(4)短期訪問:18章22節。(5)最終献金訪問:21章です。
しかし、ガラテヤへの手紙の中でパウロが語る出来事と使徒言行録での記述内容を比べると、いろいろな点で一致しない。
まず、使徒言行録ではパウロとペテロの対立なんかでてこない。二人の間に意見の違いなんかありませんよ、というのが使徒言行録の基本的立場ね。
それから、パウロの「再度の」エルサレム訪問は、使徒言行録の(2)飢餓訪問のことかと思えば、内容的には(3)使徒会議訪問のことのようなの。それでは飢饉訪問は創作なのかということになるけど、それを回避しようとして、(1)回心訪問と(2)飢饉訪問は実は同じ訪問だった、それを分けて書いているだけとか、そうではなくて(2)飢餓訪問と(3)使徒会議訪問が同じで、それを分けて書いているだけなどと、昔からいろいろな案が工夫されているんだけど、調和させることは無理だね。また、ガラテヤの手紙での「再度の」訪問を使徒会議訪問と見なしても、内容に不一致があり、これはどうしようもない。というわけで、パウロの言っていることが正しいとすると、使徒言行録に書かれていることが違うということになり、使徒言行録の作者が本当にパウロと一緒に宣教旅行した人なのか疑問符がつくわけです。
具体例を挙げましょう。ダマスコから逃れて、エルサレムに来たときの記述です(回心訪問)。
使徒言行録9:25-26
「そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。 」
ガラテヤの信徒への手紙1:17-19
「また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。
それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、 ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。」
使徒言行録では、ダマスコからすぐにエルサレムに行き、(大勢の)弟子たちにあったと書かれていますが、ガラテヤへの手紙では、ダマスコから3年後にエルサレムに行き、会ったのは主の兄弟ヤコブだけ。どっちが正しいんだ。パウロが自分のことで嘘を言っていないとすれば、使徒言行録はパウロのことをあまり知らない人が書いたのだろうということ。
さらに、パウロの語る内容も使徒言行録とパウロ自身の手紙では違います。例えば、異邦人の偶像崇拝について
使徒言行録17:29-30
「わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。」
ローマの信徒への手紙1:19-20
「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」
使徒言行録では、異邦人(ここではアテネの人)の偶像崇拝は「無知」ゆえで、「悔い改める」ことを求めていますが、ローマ人への手紙では、神の性質は「彼らにも明らか」で「弁解の余地」がないと、めちゃくちゃ怖い。同じ人の発言とは思えない。
こんなふうに、使徒言行録のパウロとパウロ自身の書簡の中のパウロが、いろいろ違うわけです。使徒言行録とルカの福音書が、パウロのだびの仲間であった「医者のルカ」という説にはうなずけないわけです。
#635 2017年01月19日 17:09:27
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#636 2017年01月19日 18:19:12
#637 2017年01月19日 18:31:31
- 良い子
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#638 2017年02月02日 17:16:36
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
旧約聖書の神様についてよく知ることができるのは、出エジプト記にある「十の災い」の話だね。かたくななファラオがイスラエルの人々をなかなか解放しないので十も災いが必要で、そのため無駄な命が失われたと思っている人は、神様とファラオを誤解しているよ。
第1の災いのとき、神様は災いの目的を説明している。「主はこう言われた。『このことによって、あなたは、わたしが主であることを知る』と。見よ、わたしの手にある杖でナイル川の水を打つと、水は血に変わる。」7:17。神様って、自己顕示欲が強いんだね。いきなりすごい災いだと、ファラオがおびえてイスラエルの人々を解放しちゃうかもしれない。それだと神様は自分のすごさを見せ付けるチャンスを失うでしょう。そうならないように最初は、ちょっとした災いにしたんだろうね。
ファラオは、神様の期待通りイスラエルの人々を解放しない。神様は、第2,3,4,5,6の災いを引き起こす。第5の災いでエジプト人の家畜は全て死んだのに(9:6)、第6の災いでは、人と家畜に腫れ物が生じた(9:10)とあるけど、細かいことは気にしないでね。さすがにファラオも弱気になったんだろうね。しかし、神様としてはここでイスラエルの人を解放すると言われると、ファラオやエジプト人をいじめることができなくなるので、「主がファラオの心をかたくなにされたので、彼は二人の言うことを聞かなかった。」9:12。神様がファラオをマインドコントールしちゃったんだ。これ以降の災いに関してはファラオには責任ないからね。全て神様のせいだからね。
第7の災いの前に、神様は、ファラオとエジプト人を滅ぼしてもいいんだけど「しかしわたしは、あなたにわたしの力を示してわたしの名を全地に語り告げさせるため、あなたを生かしておいた。」と言っている。神様って自己顕示欲が強いでしょう。第7の災いは雹が降ってくるというもの。これにはファラオもお手上げだ。「主に祈願してくれ。恐ろしい雷と雹はもうたくさんだ。あなたたちを去らせよう。これ以上ここにとどまることはない。」9:28。ついに奴隷解放宣言。めでたいことです。ところが、ファラオは奴隷解放宣言を撤回してしまう。なぜかって?
聖書にはこうある。「主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行きなさい。彼とその家臣の心を頑迷にしたのは、わたし自身である。それは、彼らのただ中でわたしがこれらのしるしを行うためであり、わたしがエジプト人をどのようにあしらったか、どのようなしるしを行ったかをあなたが子孫に語り伝え、わたしが主であることをあなたたちが知るためである。」」10:1-2。イスラエルの人々を奴隷から解放するのが神様の目的じゃなかったの?神様のことを子孫にまで語り伝えるためには、ここで解放されてしまうと物語として迫力不足というお考えのようだね。
第8の災いはイナゴの大群。エジプトの地は完全に荒廃した。ファラオは泣きながら(とは聖書に書いていないけど。この辺は文学的味わいに欠けるね。)、モーセとアロンに頼む。「どうか、もう一度だけ過ちを赦して、あなたたちの神、主に祈願してもらいたい。こんな死に方だけはしないで済むように。」 イナゴがいなくなると、ファラオはやっぱりイスラエルの人を解放しない。理由は、「主がファラオの心をかたくなにされたので、ファラオはイスラエルの人々を去らせなかった。」10:20 この程度の苦しみで神様は満足しないんだ。クライマックスを準備しているからね。
第9の災いは、暗黒の災い。迫力不足だね。もちろんファラオは前と変わらない。「主がファラオの心をかたくなにされたため、ファラオはイスラエルの人々を国から去らせなかった。」11:10
そして、待ちに待った第十の災い、初子の皆殺し。「死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった。」12:30 やっと 神様もここで満足したみたいだね。ファラオはイスラエル人解放宣言をする。すっかり荒廃した国土、子どもを失い悲嘆に満ちたエジプト人たちを横目に、金や銀を身に着け得意満面の笑顔で去っていくイスラエル人たち。目に浮かぶようですな。少しはエジプトに同情しろよ。でも異民族に冷淡なのは聖書の中ではいつものことね。
でもね、子どものとき、思わなかった? 神様、イスラエルの人を奴隷から解放するためには、最初から第十の災いをぶちかませばよかったんじゃないかと。1から9の災いなんて必要なかったよねと。まあ、そう思っても、子どもなら仕方ないよ。神様をよく知らないからね。神様はイスラエルの人々を解放する前に、たっぷりファラオとエジプト人たちを苦しめてやろうと決めていたんだ。それによって自分がどんなにすごい存在かを子々孫々まで語り継がせるためにね。そのためには、人間が何人死んだって気にしないのさ。
神様がどんなお方かわかったかな。目的のためには、最小の犠牲で済む手段を選択するといった、近代合理主義以前のお方なんだ。
最後にちょっとまじめな話。聖書では奴隷制度に対する批判はほとんどないよね。どこかにあった?キリスト教世界では19世紀まで奴隷制度が存続していた。その理由のひとつは、聖書は奴隷制度に反対していないということね。イスラム教にも触れておくと、サウジアラビアでは正式に奴隷制度が廃止されたのは1962年のことだよ。
#639 2017年02月03日 10:15:08
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
>神様がファラオをマインドコントールしちゃったんだ。これ以降の災いに関してはファラオには責任ないからね。全て神様のせいだからね。
これなどよく思ったものです。
聖書についての質問さんの軽妙な語り口は面白く、多数の方に参考になると思います。
今後も広くお願いします。
#640 2017年07月10日 17:09:13
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
2017年No,5のものみの塔に「神から王妃と呼ばれた女性」という記事を見つけました。サラをすごーくほめてるね。JWにかかると、残酷でめちゃくちゃな聖書物語も、安直な信仰のお手本になっちゃうんだけど、この記事もそうだね。JWはサラを見習えってさ。でも、そもそもサラはそんなに偉いのか?ちょっと検討してみよう。
サラは美人で、弱小の一族とはいえ族長の正妻という恵まれた女。それに困ったことがあるとすぐ神様が助けてくれるというわけで、こんな恵まれた女はいないよね。そんな彼女でも不妊という恵まれない点がひとつあったというわけです。
そこでサラは自分の召使のハガルをアブラハムの第2の妻にして、ハガルによって子孫を得ようと考えた。ハガルはエジプト人の奴隷という身分。ハガルは、聖書の登場人物の中で最初に利用され、いじめられ、捨てられる女性だ。聖書は一貫してサラの視点でこの物語を語り、全く同情をしないの。聖書らしくていいね。
サラ(イ)がなんといったかいうと、新世界訳では、
それでサライはアブラムにこう言った。「お願いがあります。エホバはわたしが子供を産むことをとどめられました。どうか,わたしのはしためと関係をお持ちください。わたしは彼女によって子供を得られるかもしれません。」創世記16:2
問題の多い訳だな。「お願いがあります。」なんていうのは本文にないよ。勝手に付け加えるなよ、JW!新共同訳では、
サライはアブラムに言った。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」
この発言からサラっていやな女かということがわかるよね。わからない?まず、アブラムに命令調の言い方。新世界訳ではそれをごまかしているけどね。次に、自分が不妊なのを神様のせいにしている。散々神様に助けられたくせにこの発言。普段の神様ならブチ切れるね。でも神様はなぜかサラに甘いんだ。神様に公平を期待しても無理だからね。そして、ハガルの名を呼ぶことなく、単に女奴隷とよび、人間扱いしていない。最後に、アブラハムではなく、私が子どもを得るといっている。あくまでも自分中心。
それに対してアブラハムはどうしたかと言うと、「サライの願いを聞き入れた。」アブラハムはサラの計画を黙って受け入れるだけの無力な男。サラの計画は神様に対する挑戦なんだよ。神様は子孫を星の数ほど増やすとアブラハムに約束している。その神様をまたずに、女の浅知恵で、子孫を得ようとしているサラを止めなくちゃ。アブラハムは信仰心が厚いというより、命令されたらNo!といえない無力な男にみえるね。
そのあと、ハガルは妊娠する。当然その結果、ハガルの地位が上昇し、サラの地位が下がる。するとサラはアブラハムに強い調子で文句を言う。アブラハムは、
「見なさい。あなたのはしためはあなたに任されている。あなたの目に良いと思うことをそれに行なうがよい」。16:6a
妻まかせの無力な男ですね。するとサラは
彼女を辱めるようになり,そのため彼女はそのもとから逃げて行った。16:6b
新共同訳では「つらく当たったので」とありますが、もとのヘブライ語は強い意味なので、新世界訳の「辱める」ほうがよいね。サラってなんていやな女なの。プライドを傷付けられ、嫉妬も加わり、ハガルをいじめまくったんでしょう。ここでは、エジプトの女性がサラに「辱められる」わけですが、後にサラの子孫がエジプトで奴隷として「辱められる」ようになります。つまり聖書の中で同じ単語が使われていると言うことね。聖書の著者も皮肉屋だね。そして、ハガルはその辱めから逃亡した。
すると、御使いが現れます。ハガルは聖書の中で最初に御使いが訪れた人になります。すごいですね。御使いはサラのもとに帰るように言います。虐待を受けた妊婦が必死の思いで逃げてきたんだよ。もっと別なことを言ってよ。仕方なくハガルは自分をいじめる女のもとに返り、イシュマエルを生みます。
月日は流れて、サラがイサクを産んだ後の話です。サラはアブラハムにこういいます。
「この奴隷女とその子を追い出してください! この奴隷女の子がわたしの子と,イサクと一緒に相続人となることはないのですから」。 創世記21:10
相続権争いですね。サラは自分の子を跡継ぎにしたいわけです。イシュマエルがイサクをからかったなんて単なるきっかけに過ぎません。サラは決してハガルの名を呼びません。ここでも奴隷女です。威張り腐ったいやな女ですね。ハガルもその子もアブラハムは手放したくなかったのでしょう。アブラハムは「不快に思った」21:11のですが、思っただけです。無力な男で一貫していますね。神様は、サラのいうとおりにしろといいます。神様はサラをいつもひいきします。アブラハムはパンと水の皮袋だけを持たせてハガルとその子を荒野に追放します。アブラハムもひどい男です。
やがて水もつき、イシュマエルが弱り始めます。このときイシュマエルは青年といってよい年齢のはずなのですが、なぜか子どもになっていますね。細かいことを気にしていたら聖書は読めないからね。ハガルはイシュマエルを茂みの下において少しはなれたところに座ります。そして、
「この子が死ぬのを見ないでよいように」と言うのであった。こうして彼女は少し離れた所に座り,声を上げて泣きはじめた。創世記21:16
悲惨な場面です。ハガルのなにがいけないのでしょうか。彼女は外国人で女で奴隷です。つまり無力な底辺の人間で女主人の命令に従うしかない立場です。逃げ出したくなるほど虐待を受け、子どものために屈辱に耐えてきたのに、荒野の中で、子どもが死にそうなのに何もしてあげられず、ただ死を待つだけというこれ以上ない苦しみにあうわけです。ハガルは聖書の中で最初に泣いた人物です。
そこへ神様が現れます。しかし、ハガルの泣き声を聞いたからじゃないんだよね。「すると神はその少年の声を聞き」21:17とある。いつの間にか「子ども」から「少年」になっているね。いつ少年はしゃべったの?聖書には何も書いてないけど。細かいことは気にしないでね。
そのあと、神様は少年のためにいろいろしてくれるんだけど、ハガルは全く無視。神様はどうしてハガルが嫌いなの?サラにはあんなに親切なくせに。
この物語の登場人物を採点しましょう(5点満点)。
ハガル:無力な立場でよくがんばったので、5点。
サラ:悪役が似合っていたので、4点。
アブラハム:さえないダメ男ぶりがよく出ていたので2点。
神様:不公平で残酷な特徴が中途半端だったので1点。
現代のJwはサラの何を見習えばよいのでしょうね。目的のためには手段を選ぶなということでしょうかね。
#641 2017年07月11日 17:14:40
- 流浪人
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
聖書についての質問さん、興味深い記事をありがとうございます。
今後も、できれば細く長くお願いします。
#642 2017年07月18日 17:10:13
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#643 2017年08月10日 17:13:25
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
ちょっと前に、近所に住むJWのお子様が、庭で雑草を取っていた私に、アイパッドで、ものみの塔の記事を見せ、「この解釈はこれでいいんですか?」と尋ねてきた。
ものみの塔(研究用)2017年5月号 : イエスは弟子たちに朝食を与えた後,シモン・ペテロの方を向いてこう言います。「ヨハネの子シモン,あなたはこれら以上にわたしを愛していますか」。イエスは何を尋ねていたのでしょうか。ペテロは漁業に愛着を感じていました。ですから,イエスはペテロが何に愛情を向けているかを尋ねていたようです。魚や漁業よりも,イエスやイエスから教えられた事柄を愛していたでしょうか。
「これはヨハネによる福音書にある話ね。ヨハネはJWの教義と矛盾することが書かれていているから、JWはあまり触れないほうがいいよ。この話はどういう状況かわかる?」
「イエスが復活して、漁をしていたペテロたちの前に現れて、朝食を食べたというところです。」
「そうね。イエス様はペテロに招命前の名前ヨハネの子シモンと呼びかけている。これはどう意味かな?」
「ペテロはイエスを三度否認してしまって、使徒の資格を失ったからじゃないでしょうか。エホバの証人でいえば排斥処分にあって、兄弟姉妹とか呼ばなくなるのと似ていると思います。」
「そういう解釈がふつうだね。」
「僕が知りたいことは、<これら以上に私を愛してますか>というイエスの質問の<これら>というのは、ものみの塔の言うように魚や漁業のことを指しているのかということです。」
「まず「愛する」の原語はagapân。高尚で知的な言葉だね。そのような言葉を、魚よりも私を愛してますかという馬鹿げた質問のためには使わないよ。」
「ペテロは、<あなたのためには自分の魂もなげうちます。>ヨハネ13:37といった人ですよね。そのペテロにそのような質問は馬鹿げてますよね。」
「<これら>は何を指すかというと、ふつうは他の使徒たちを指していると解釈するね。つまり、ほかの使徒たちよりもお前は私を愛しているかという質問と理解する。」
「マタイ26:33で、ペテロは<ほかのみんながあなたに関してつまずいても,わたしは決してつまずきません!>と言ってます。自信過剰の自慢屋なんですよ。それで、今でもそんな気持ちなのかとイエスはペテロをいじめているんですね。」
「いじめているわけじゃないよ。ペテロは、なんて答えるかというと・・・」
「<はい,主よ,わたしがあなたに愛情を持っていることをあなたは知っておられます>と答えていますね。自慢屋のくせに謙虚な答えですね。三度否認した後ですから、仕方ないですよね。」
「ここで<愛情を持っている>と訳しているギリシャ語はphilein。イエス様が質問に用いたagapânとは違う語で答えている。こちらの方が、ふつうの言葉だね。ペテロは高尚で知的な言葉を避けて、自分が理解しているふつうの言葉で答えている。新世界訳ではその違いを出そうとしてagapânを<愛する>、phileinを<愛情を持っている>と訳し分けているんだけど、逆にした方がいいんじゃないかな。」
「そうですね。」
「ペテロの答えは、謙虚といえるけど、自分で自分が分からないという状態だからともいえる。ペテロはイエス様の質問に否定も肯定もできないんだ。他の使徒よりもイエス様の言う愛なるものを持っているかわかりません、でもイエス様をお慕いする気持ちは変わりません。本当のところは、自分自身よりイエス様のほうがご存知でしょう。そんな答えだね。」
「おしたいってなんですか?何かを押すんですか?」
「その後イエス様は、<わたしの子羊たちを養いなさい>といって、魚よりも羊だよと、ペテロに新しい責任と使命を与える。」
「あのー、全部で3回愛しているかと質問をするのは、ペテロの答えを疑っているからですか、それとも3回の否認を許すためなんですかね。」
「後者だろうね。」
「3回目の質問で、ペテロは悲嘆したとありますけど、どういうことですか。自分は信用されてないと思って悲嘆したのでは?」
「3回目の質問で、自分が3回否認したことを思い出したという解釈はどうかな。復活したイエス様を前に申し訳ないという気持ちになるよね。一緒に朝食を黙って食べただけで、イエス様はそんなペテロを叱るわけでも非難するわけでもない。ただ私を愛しているかと尋ねるだけだ。ペテロとしては恥ずかしく、そしてただ悲しい。」
「なんか嘘くさいと思います。しつこく聞かれて、いつまで聞くんだよ、もう許してくれという気持ちじゃないですか。」
「3回目の質問は、<ヨハネの子シモンよ,あなたはわたしに愛情を持っていますか>なんだけど、ここでイエス様はagapân じゃなくてペテロが使ったphileinという言葉を使うの。高尚で知的な愛じゃなくていいけど、ペテロ、お前の言う愛なるものを本当に持っているかという質問なわけ。それで悲嘆したんだね。」
「よくわからないけど、いろんな要素が重なって悲嘆したんでしょうね。おじさんの結論としては、<これら以上にわたしを愛していますか>という聖句を、仕事よりイエスを愛してますかという意味にとり、信者は仕事よりも伝道活動に取り組まなければならないという結論に誘導する、ものみの塔の記事は、お笑いものということですか?」
「JWじゃなければ、そうだね。JWは、この記事を読んで、伝道活動にまい進しなくちゃ。笑っている場合じゃないよ。」
「僕は、この時間は伝道活動に含めるつもりなんだ。もっと長く話してもいいよ。」・・・・つづく・・・・・
#644 2017年08月11日 06:26:08
#645 2017年08月17日 17:12:31
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
庭の花に殺虫剤をまいていると、近所に住むJWの少年がまたやってきた。
「時間を入れに来たの?」
「また質問していいですか?」
少年は、ものみの塔(研究用)2017年6月のこの部分を見せた。
<使徒パウロは宣教を非常に価値ある務めと見ていました。新しい契約に関する奉仕の務めを「土の器」の中の「宝」と呼んでいます。(コリ二 4:7。テモ一 1:12)>
「コリ二 4:7 <わたしたちはこの宝を土の器に持っています。>からの引用ですけど、この宝って「奉仕の務め」のことなのですか?」
「これまた変な解釈だね。務めが何で宝なの?宝とは、簡単に言えば福音のことだね。土の器とは人間の肉体のことだ。コリントへの手紙二はいくつかの手紙を編集したものだということをまず理解しないといけないね。」
「福音って、なんですか?」
「英語ではgospelっていうものだ。古典ギリシア語euaggelion(eu〈よい〉+aggelion〈知らせ〉)の訳語。パウロのいう福音は、イエス・キリストの受肉・死・復活のできごとにおいて罪の贖いが成就され、キリストを信じる者にあって、神との永遠の交わりが回復されたことだね。福音の対立概念は律法だね。救済は福音によるのか律法によるのかは、パウロがたびたび取り上げるテーマね。JWはイエス様が嫌いな、律法主義者だろう?福音なんて述べ伝えていなよ。」
「そんなことありませんよ。とにかく、おじさんの結論としては、宝とは奉仕の務めではない、いつものとおり、ものみの塔はへんなことをいっているということですね。」
「そのとおり。そもそも、パウロの教えは、信者に無理なことを要求するようなものじゃないし、ローマ帝国とも妥協的なの。だからパウロ的なキリスト教がキリスト教の主流になっていったんだ。」
「そうなんですか。どうせはいるなら、ゆるい宗教のほうがいいですよね。」
「ものみの塔英語版をみると、「奉仕の務め」と訳されている言葉はthe ministry。そのすぐ前にある「宣教」という言葉もthe ministry。ふつうは宣教と訳すものなのなの。」
「たしかに、<The apostle Paul recognized the high value of the ministry. He described the ministry of the new covenant as a “treasure in earthen vessels.>で、the ministryが2回でてますね。同じ単語なのに、はじめを宣教と訳し、次を奉仕の務めと訳しているわけですね。」
「「奉仕の務め」なんてより強制的で義務みたいな訳し方をするなんて、一種の改ざんだね。英語版より日本語版のほうが、より強圧的だね。なにがなんでも信者を伝道活動に駆り立てようだね。理解できないな。」
「そうですか?みんな、のんびり、だらだらやっていますけど。ところで、テモ一 1:12も引用されていて、なんて書いてあるかというと<わたしは,自分に力を授けてくださったわたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。わたしを奉仕の務めに割り当てて,忠実な者とみなしてくださったからです。>、これはどんな意味ですか?」
「ここでの<奉仕の務め>は英語版ではa ministryで、the ministryではないけど、日本語版では同じ訳語ね。これはへんだね。訳語を変えるべき。新世界訳は原語から英語、英語から日本語の2重訳だから、原語からだいぶ意味が違っちゃうね。<割り当てて>というのもおかしいね。どうしても奉仕の務めを強調したいようだね。ここはパウロの個人的なことを言っていて、自分は元迫害者の新参者だけど、他の使徒同様、イエス様によって直接任命されたえらーい使徒なんだぞと自己主張しているところだよ。新共同訳の<務めに就かせてくださった>という訳のほうがいいね。」
「そうなんですか。新世界訳は世界で一番すぐれた翻訳なはずなんだけど。あのー、それからものみの塔のこの部分なんですけど、本当に家から家に伝えたんですか。そんな非効率的なことをしてたんですか。
<パウロは宣教を愛し,大切にしていたので,あらゆる機会に良いたよりを伝えました。わたしたちもパウロや他の初期クリスチャンのように,公にも家から家にも非公式にも良いたよりを伝えます。(使徒 5:42; 20:20)>」
「家から家へは当時のギリシア語ではどういうかというと、「ἐξ οἰκίας εἰς οἰκίαν」で、英語のfrom house to houseに対応する。例えば、ルカ10:7には<働き人は自分の報酬を受けるに値するからです。家から家へと移って行ってはなりません。>とあるけれど、この表現が使われている。ものみの塔で引用されている2つの聖句で、「家から家」と訳されている原語はどうかというと、5:42はκατ’ οἶκονで、20:20はκατ’ οἴκουςで、「ἐξ οἰκίας εἰς οἰκίαν」とは違うでしょう。せいぜい意訳して「家から家」と訳せるかな、という程度だよ。それでも5:42は無理だと思うね。しかも、信者ではない人の家を訪問していたという意味ではなく、信者の家で人を集めて教えていたという意味だよ。言いたいことは「公でも私的にも」ということね。新共同訳では、
使徒5:42 <毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。>
使徒 20:20 <役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。>
ところが字義訳と称している新世界訳なのに、字義通りではない「家から家」と訳して、戸別訪問が義務だという根拠にしているんだから、これもひどいね。」
「エホバの証人は、家から家へと宣べ伝えることは真のクリスチャンの証拠と思っていますからね。ここはゆずれないので、聖書に合わせるのではなく、自分たちに合わせて聖書を変える。頭がいいですね。」-つづく-
#646 2017年08月17日 17:50:09
#647 2017年08月23日 17:09:37
- 聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界
#648 2017年08月30日 17:13:02
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
日曜の午後、家の前を近所のJWの少年が通りかかったので、話しかけてみた。
「今日のものみの塔は楽しかった?」
「エホバの主権を支持しましょう!ですか、とても勉強になりました。エホバの主権を支持することの重要性がとてもよくわかる内容でした。」
「どうすればその主権とやらを支持できるの?」
「簡単に言えば、統治体や巡回監督や長老の兄弟たちが定めた細々した規則や取り決めに疑問を持たず、忠実に従って生きることによって支持できるのです。」
「全く理解できないけど。スカートの長さとか?」
「そうです。エホバの主権にとって服装はとても重要です。ところでまた質問していいですか。今週の記事の第9節に
<エホバはご自分の民全体を気遣っておられるだけではありません。一人一人にも深い関心を示されます。(略)ルツはその一人です。外国人でしたが,大きな犠牲を払ってエホバの崇拝者になりました。エホバはルツを祝福し,ルツが夫と出会い,息子を持てるようにされました。>
とありますが、なんか違う気がするんですけど。」
「ルツ記は、へんてこな話が多いヘブライ語聖書の中ではいい話だよ。神様があまり出てこないからだね。困難な状況の中で、社会的弱者のナオミとルツという女性が、神様の助けを借りることなく、自分たちの勇気と知恵で乗り切ったという話でしょう。ものみの塔の記事はおかしいね。この話が聖書に採用されたのは、最後の章で、ルツの生んだ子がダビデのおじいさんだということにしたからだろうね。単なるいい話じゃ聖書に採用はされない。」
「系図のほうが重要なんですか?聖書ってやたら系図が出てきてうんざりしますけど。当時のユダヤ人にとっては大事なものなのでしょうね。」
「そうだと思うよ。ルツ記も、系図がまず初めに在って、モアブ人のルツが何でダビデ王家の先祖になったのかというお話が後から付け加えられたという説があるくらいだね。」
「モアブ人って、いつも悪役のような気がするんですけど?」
「そのとおり。神様はモアブ人が大嫌い。例えば、申命記23:3<アンモン人とモアブ人はエホバの会衆に入ることを許されない。>とある。神様は公平じゃないよね。」
「ルツはエホバの崇拝者なんですか?」
「1:16で<あなたの神はわたしの神となります。 >とルツは義母のナオミ婆さんに言っているから、エホバの崇拝者なんだろうけど、とりわけ信仰心があるとは思えないね。嫁いだ先の宗教を引き継いだという、よくある話でしょう。そうしておけば面倒なことが起こらないからね。」
「ナオミも信仰心があるとは思えないですよね。」
「ナオミ婆さんは故郷のベツレヘムに戻った時に、< 出て行った時,わたしは満ちていました。ですが今,エホバは,むなし手でわたしを帰らせました。(略)エホバがわたしを辱め,全能者がわたしに災いを下されましたのに>1:21と言っているよね。排斥ものの発言だ。はっきりと物言うタイプで、それから神様なんか頼りにならないこともよく分かっている女性ね。ナオミ婆さんはルツにいろいろアドバイスをするけれど、神様に祈りましょうなんてことは言わないね。」
「ルツはボアズと偶然会うわけですが、ボアズは金持ちで、ナオミの親戚なんですよ。どうして初めからボアズのところに行かなかったのですか。」
「忘れていたんじゃないの。婆さんだから。」
「そんな年寄りですか?」
「ルツが20代前半の若い魅力的な未亡人とすると、ナオミは40代くらいだと思うけど。ボアズのところに直接助けを求めに言ったら、お話が成立しないでしょう。後から思い出すという設定にしているんだろうね。」
「ナオミは、ルツに、酔っぱらって寝ているボアズのところに行って、<その人の足のところをまくって横たわりなさい。そうすれば,その人が,あなたのすべき事を告げてくれるでしょう>3:4といっていますよね。どういう意味ですか?」
「上品な解釈では、足のところをまくっておくと、寒くて目が覚めるよね。すると、隣に美女がいる、ボアズはルツに迫ってくる。ナオミ婆さんとしては、ルツはボアズの要求にひとまず応じて、そのあと結婚を迫るようアドバイスしているんだね。ここに神様なんか登場しないよ。」
「それが上品な解釈なの?上品じゃない方の解釈は?」
「足というのは男性のアレの婉曲的表現という解釈。専門家の間ではこちらのほうが人気があるね。なにせ聖書の話だからね。子供向けじゃないんだ。することは直接的なんだ。ロトの娘みたいにね。ちなみに新共同訳は上品すぎて訳としてはへんだね。」
「ナオミはボアズの隣で寝ていればあとは大丈夫みたいなこといいましたけれど、いきなり<あなたはだれか>と尋ねられますよね。それで、<あなたの奴隷女ルツでございます。あなたのすそを広げてこの奴隷女を覆ってくださらなければなりません。あなたは買い戻しをされる方なのですから>3:9 と答えるわけです。これはボアズに結婚を迫っているという意味ですか?」
「そうだよ。しかも、なかなか巧みな答えなんだ。ルツとしては拒絶されるかもしれないわけで、大変な勇気が必要だったろうね。しかし、ルツが神様に祈ったなんてことは一度も出てこないし、天使が使わされるなんてこともない。」
「最後はハッピーエンドになるわけですけど、エホバは何をしたんですか?」
「特に何もしてないでしょう。<ボアズはルツをめとり,彼女はその妻となり,彼はこれと関係を持った。そしてエホバは彼女を身ごもらせ>4:13 た、ことくらいだね。でもこれは、普通に妊娠したことを、神様から授かりましたという慣用句的表現であらわしたに過ぎないね。」
「結論としては、ものみの塔の9節にある、エホバは・・・されましたといような文章は、まとはずれで、ルツ記をまともに読んだことのない人の文章ということですか。」
「そう感じるね。レイモンド・フランズの「良心の危機」には、統治体のメンバーは聖書のことをあまり知らないと書いてあったよ。」
「そんな人でも統治体のメンバーになれるなんて、励まされます。」
#649 2017年09月07日 17:11:39
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