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#501 2017年01月21日 08:30:37

さやか666
ゲストユーザー

Re: 信仰を維持する

言葉が抜け出ました






確かに救いにブッシュ大統領は関係ないですね、そしてキメラ証人さんが義とされて救われる点は否定しません



彼はあくまでもひとりの政治家にすぎませんでした


でもですよ


逆にキメラ証人さんのような原理主義者からブッシュ大統領的な要素を除外したら何が残るのですか


その「残りの要素」は客観的に確認できるたぐいのシロモノですか?

#502 2017年01月21日 10:19:34

てつてつ
メンバー

Re: 信仰を維持する

なかなか難しいですね

オフライン

#503 2017年01月21日 12:07:59

モトシモベ
ゲストユーザー

Re: 信仰を維持する

#504 2017年01月21日 12:31:21

元証人
ゲストユーザー

Re: 信仰を維持する

結局、謝罪しているようには見えないわけで。

たいした奉仕の僕でもなかった事を認めるなら特に語ることはありません。お引取りを。

#505 2017年01月21日 12:35:30

元証人
ゲストユーザー

Re: 信仰を維持する

そして、ささら氏のように一から百まで説明しなければ理解できない人達というのもどうしたものか。
理解力の欠如では済まされないレベルです。
一神教の起源の書籍を私が知らないはずがないでしょうに。

#506 2017年01月21日 14:15:21

ジョエル
ゲストユーザー

Re: 信仰を維持する

#507 2017年01月21日 15:30:45

元証人
ゲストユーザー

Re: 信仰を維持する

#508 2017年01月21日 16:25:36

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: 信仰を維持する

元証人さんは、かつてこう書きました。思い出してね。WIKIの紹介なんかいいからさ。
#296<<考古学的に聖書を裏付けるものは何もないと信じたい否定派の人々は実際の考古学上の最新の見解を理解しておられないようです。聖書が間違いだという考古学上の証拠は何も発見されていません。>>
その後、ナショナルジオグラフィックのホームページ(←ココ重要)から記事を長々と引用して、結論はこうです。
<<結局、聖書を否定する証拠などどこにもないのです。>>
めでたし、めだたし。元証人さんらしい力強く、確信に満ちた書きっぷり。こうでなくてはね。思い出した?

引用されている記事では、「低年代説」(ダビデ・ソロモン時代のものとされる遺跡や出土品ははるかに後代のものだとする立場)の代表が、フィンケルシュタインで、それを攻撃しているのが、ヨセフ・ガーフィンケル教授とトーマス・レビ教授という、雑誌の記事らしく、わかりやすい対立図式にしているね。
記事の中から、「二人の主張が裏づけられれば、聖書に記されたダビデとソロモンの物語が史実である可能性が高まり、エドム人の登場が紀元前8世紀だとするフィンケルシュタイン一派の主張が否定される。」と元証人さんは引用し、先ほどの勝利宣言ね。

さて、このような理解はどれほど正確なのかな。これまでの元証人さんの書き込みを読んでいる人は、答えの予想がつくよね。
元証人さんの問題は、前にも指摘したけど、ホームページ情報に頼っていること。ナショナルジオグラフィックのホームページに出ている記事は、重要な情報が欠けているんだ。知ってた?2010年の12月号の55ページに、ナショナルジオグラフィック協会支援プロジェクトの対象に、ヨセフ・ガーフィンケルとトーマス・レビの研究が選ばれていることが書かれている(記事の中の二人だよ)。知っていたかな?要するに、ナショナルジオグラフィックは「低年代説」に反対している二人の研究者に金を出して、発掘・分析させて、そしてその二人をヨイショする記事を書いたというわけ。この記事を見て、「低年代説」は落ち目なんだと思うのは、イスラエルにおける「考古学の政治性」を知らない、素人読者だけだよ。

ナショジオの名誉のために書いておくと、記事は「考古学の政治性」にも触れているし、それほど偏向してはいないよ。聖書支持派・反対派それぞれの主張を載せているし、見出しも、大きな字で「長年の発掘調査にもかかわらず、ダビデとソロモンが何らかの建造物を築かせたことを示す、確実な証拠は、一つも見つかっていなかった。」p.45 とあるしね。元証人さんが引用した部分でも、「二人の主張が裏づけられれば」と、仮定法で書いて、二人の主張が証明されたなんて書いてないしね。

というわけで、元証人さんの引用は、自分の都合のいいところだけを引用してくる、よくある手法(JWに多いのかな?)であり、記事の理解も不十分ですね。
記事の中では、年代測定に放射線炭素法を使用しているけど、±40年くらいの誤差はでる。ダビデとソロモンの統治は二人合わせて80年くらいの短いものなんで、そもそも何かを発見しても、これはソロモンの時代のものですと結論付けるのは、誤差から考えると難しいわけ。元証人さんは「低年代説」を目の敵にしているけど、これが否定されたからと言って、聖書の記述が正しいということにはならないんだから、そんなにこだわる必要はないよ。

それから元証人さんは、私に向かって次のように発言しているね。
#501<<聖書に関する質問と名乗る人間には失望するね。全くの無知というかなんというか。>>
私が元証人さんを励ますために(←ココ重要)、「失望した」と書いたら、「失望するね」とオオム返し反応。芸がないよ。もっと気の利いた反応してよ。そして返す言葉に窮したのか「無知」と決めつけ。これはよくないよ。子どもの時、おばーちゃんから、「人のことをバカだの、無知だの言ってはいけません。そう言った人のほうが、バカで無知と思われるんだから。」と躾けられなかったのかな。

ナショジオの記事をめぐる議論をとりあげたのは、はたしてどっちが無知か、理解してもらいたかったからだよ。

それから、気になるのは次のような発言。<<聖書が間違いだという考古学上の証拠は何も発見されていません。>>
そうだろうね、としか言いようのない発言だよ。問題は、間違いだという証拠じゃなくて、証拠がないこと。例えば、ソロモンの栄華を示す証拠がないよね、それで結論は、ソロモンの栄華は嘘だったとなる。それだけ。この結論は、もちろんソロモンの栄華を示す発見があれば変わるけどね。その発見があるまでは、ソロモンの栄華は聖書の中だけとするのが、理性的判断だよねというだけ。聖書の記述を何が何でも否定したいなんて思っている「否定派」なんていないよ。聖書の物語どおりだったほうがおもしろいからね。

元証人さんは、出入り禁止処分後、ここに条件付き復帰を果たしてから、こんなことを言っているよ。
#199<<考古学の点とか言い残した点もありますので。>>

言い残した考古学の点をどんどん投稿してね。楽しみだなー。

#509 2017年01月21日 17:45:36

元証人
ゲストユーザー

Re: 信仰を維持する

聖書についての質問にさん、週末は仕事と夜も用事で忙しいが、あなたの為にもいつか時間をとってやろう。

あなたの無知さ加減がどんどん明らかになる。
楽しみだなぁ。

ところで、あなたに信仰の欠片もないという指摘は図星かね?

#510 2017年01月21日 17:46:40

元証人
ゲストユーザー

Re: 信仰を維持する

分かるだろうが、聖書についての質問さんあてね。

#511 2017年01月21日 17:52:38

元証人
ゲストユーザー

Re: 信仰を維持する

山我哲雄にしてもリベラルな人間の説を集めただけに過ぎないでしょう。

次は佐藤研でも出しますか。ささらさん。

#512 2017年01月21日 18:07:34

元証人
ゲストユーザー

Re: 信仰を維持する

で、信仰の欠片もないという指摘は図星では?

聖書についての質問さん。


あなたの立場を語ってくれないかね?

#513 2017年01月21日 18:12:00

さやか666
ゲストユーザー

Re: 信仰を維持する

神学校エピソード、よろしく

#514 2017年01月21日 18:15:34

元証人
ゲストユーザー

Re: 信仰を維持する

#515 2017年01月21日 18:18:32

元証人
ゲストユーザー

Re: 信仰を維持する

#516 2017年01月21日 18:20:43

元証人
ゲストユーザー

Re: 信仰を維持する

#517 2017年01月21日 21:52:03

KAO
ゲストユーザー

Re: 信仰を維持する

ささらさん、コンサートは楽しんでくださいね。元証人さんの相手はもうよろしいんじゃないでしょうか?

#518 2017年01月21日 22:38:14

さやか666
ゲストユーザー

Re: 信仰を維持する

あれれ

神学校には行きましたか

行きませんでしたか

どっち?

#519 2017年01月21日 23:04:53

良い子556
ゲストユーザー

Re: 信仰を維持する

#520 2017年01月22日 10:42:11

モトシモベ
ゲストユーザー

Re: 信仰を維持する

#521 2017年01月22日 10:52:04

てつてつ
メンバー

Re: 信仰を維持する

みなさんお疲れ様でした   これ以上は平行線たどるだけだと思いますのでこの辺で切り上げたほうが賢明かもしれませんね 自分には勉強になる点もたくさんあったのでよかったです どうもありがとうございました

編集者 てつてつ (2017年01月22日 11:07:06)

オフライン

#522 2017年01月22日 16:16:04

元証人
ゲストユーザー

Re: 信仰を維持する

#523 2017年01月22日 16:17:43

元証人
ゲストユーザー

Re: 信仰を維持する

#524 2017年01月22日 16:24:40

元証人
ゲストユーザー

Re: 信仰を維持する

迷える子羊は人に頼らず、神との関係の中で自分で祈りのうちに調べ、自ら真理へ到達するものです。

しかし、海外奉仕さんのように真剣に悩んでおられる人達のために参考として書きます。

まず、エホバの証人はクリスチャンではありません。1世紀の初期クリスチャン達が「エホバ」と発音していた事実はありません。
もちろん、エホバはYHWHの四文字にアドナイの母音符号を混ぜてできた本来あり得ない発音、人造表現であり、後代にできたので当然です。
YHWHで表される神のみ名をクリスチャンは用いていませんでした。
なぜなら、「イエス」こそYHWHの現れであり、クリスチャンの伝え、呼び求める名とはイエスだからです。それがキリスト者、クリスチャンです。
決してエホバ者やエホビアンではありません。新世界訳では神慮によってクリスチャンと呼ばれたとありながらクリスチャンという名称があるにもかかわらず、独自にエホバの証人などと名乗るのは間違いです。
論じるの本等から反論はあるでしょうが、クリスチャンは過去2,000年の歴史の中で、エホバ者、エホビアン、エホバの証人などと呼ばれた事もありません。
クリスチャンはエホバの証人ではなくキリストの証人なのです。イエスを神と認めず被造物とするならクリスチャンではありません。

これらについてはjwを抜けて迷っておられる方々はウィリアム・ウッドさんや岩村義雄さんの書籍等を参考にされたらよいでしょう。他にもエホバの証人とキリスト教の違いを扱ったものはありますので各自で調べて下さい。

さて、エホバの証人の説くようなキリストの見えない様での臨在など聖書は教えていません。
1914年ハルマゲドン説が外れたために苦し紛れに言い訳したに過ぎません。
キリストの再臨は見える仕方でただ1度だけです。
ですから、1919年に組織がキリストの検閲をパスして『忠実で思慮深い奴隷』として任命されたという事はありません。

1914年から終わりの日に入ったのではありません。
キリストの預言された飢饉、地震、戦争などが再臨や世の終わりが近いことの前兆になっていないということでしょうか。そうではありません。これらの事柄は、全ての時代の人々に対するしるしであり、キリストの来臨を待ち望む信仰を促すしるしでした。そうです。人類は、ペンテコステの日以来、終わりの時代に入っており(使徒2:17-21、ヘブライ1:1-2、ヨハネ第一2:18、コリント第一10:11)、この2,000年間ずっと、キリストのことばの文字通りの成就を見てきたのです。

だからこそ、キリストのことばが全ての時代の人々に当てはまるのであり、意味のあることばとなるのです。
「それゆえ、ずっと見張っていなさい。あなた方は、自分たちの主がどの日に来るかを知らないからです。」(マタイ24:42)

「「「しかし、たとえわたしたちや天からのみ使いであろうと,わたしたちが良いたよりとして宣明した以上のことを良いたよりとしてあなた方に宣明するとすれば,その者はのろわれるべきです。」(ガラテア1:8)

初期クリスチャンが1914年に設立される天の王国など伝えたでしょうか。違うものを良い便り(福音)として伝える者は呪われるのです。

ほかの羊とは、地的クラスではなく、ユダヤ人に対しての異邦人クリスチャンを指します。
144000人というのは通常のキリスト教会においては象徴数であり、大群衆と同じで全てのクリスチャンを指します。
12の12倍    完全数の倍数で、さらにそれを千倍して、全てを包括する完全性を表すという説明もあります。

天的クラスと地上組の2段階の差別的な救いなど聖書は教えていません。

そして、もちろん輸血拒否も間違った拡大解釈であり、さらに、死んで無意識、無存在になるのではなく、魂に意識があることが示されています。(本が一冊書けるぐらいの量になりますので、ここでの説明は省きます。)

イエスは神の子ですが、クリスチャンなどが神の子と呼ばれるのとは異なり、イエスは子なる神、独り子の神であり、神そのものであられます。
聖霊も人格を持たれる方であり、単なる神の力、エネルギーではありません。
三位一体の神についても長くなりますので、また、それを扱った書籍もいくつか出ていますので各自で調べて下さい。

エホバの証人の間違いには気付きました。
では、組織を出てどこに行けばいいのでしょうと問われるかもしれません。

イエス・キリストの元に行けば良いのです。
神と人間の仲介者はイエスだけであり、どんな人間製の組織も支配すべきではないのです。

では、既成のキリスト教会はどうなるのかと言われる事でしょう。この点で、教会で教える者は一番小さい者であり、仕える点で率先し、謙遜な者でなければなりません。
権威を振るうような者ではないのです。

ですから、ふさわしい教会を選びましょう。

エホバの証人の間違いに気づいた後、ここの掲示板の多くの人のように信仰を棄てる道を選びますか?
そして、よく言えばリベラル、悪く言えば世に妥協したクリスチャン、神の言葉よりも、この世の知恵と呼ばれるものに妥協した『信仰』を選びますか?
どちらも『別の囚われ』です。

ですから、イエス・キリストの元に行けば良いのです。

エホバの証人の集会全てに参加し、予習し、注解し、野外伝道や大会に参加して忙しくして組織に忠誠を保つなら、将来に救われるというのは聖書の教える救いではありません。

「み子に信仰を働かせる者は永遠の命を持っている。み子に従わない者は命を見ず、神の憤りがその上にとどまっているのである。」


「きわめて真実にあなた方に言いますが、わたしの言葉を聞いてわたしを遣わした方を信じる者は永遠の命を持ち、その者は裁きに至らず,死から命へ移ったのです。」


信じた時点で死からいのちに移っており、永遠の命を持っているのです。

組織の指示に従って忙しくしていれば、いつかハルマゲドン後に永遠の命が与えられるかもしれないという不確かなものではないのです。

クリスチャン、キリスト者(エホバ者ではない)の救いは今、与えられているのです。

組織を出たらどこへ行けば良いでしょうかとお考えになるかもしれません。その答えは聖書にあります。「すべて、労苦し、荷を負っている人よ、わたしのところに来なさい。そうすれば、わたしがあなた方をさわやかにしてあげましょう。」(マタイ11:28)

「だれでも渇いている人がいるなら、わたしのところに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)

「わたしのもとに来る者を、わたしは決して追いやったりしません。」(同6:37)

そうです。あなたは、イエス・キリストのところに行けばよいのです。自分自身をキリストに委ねてキリストに救いを求めればよいのです。

あなたは、エホバの証人の組織に永遠の命があると思っていたかもしれません。けれども、そうではありません。聖書は、永遠の命をイエス・キリストにあると明言しています。

「あなた方は、聖書によって永遠の命を持てるようになると考えて、それを調べています。そして、これこそわたしについて証しするものなのです。それなのにあなた方は、命を持つためにわたしのところに来ようとしません。」(ヨハネ5:39-40)

「そして、神がわたしたちに永遠の命を与えてくださり、この命がそのみ子のうちにあるということ、これがそのなされた証しです。み子を持っている者はこの命を持っています。神のみ子を持っていない者はこの命を持っていません。」(ヨハネ第一5:11-12)。

あなたは、自分の努力や良い行いや組織に対する忠誠の報いとして、やがていつか救いが与えられると期待していたかもしれません。
しかし、救いは神の賜物であり、イエス・キリストに対する信仰だけで与えられるものであり、今経験できるものなのです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8-9、新改訳)。

「救われた」と書いてあることに注意してください。聖書の言う「救い」とは、未来の神の国において、死や病気や貧困からの解放を保証するだけでなく、今、罪の束縛や刑罰から救われる経験も含むものなのです。この救いを言い表すのに、聖書の中で様々な表現が用いられています。「義と宣せられる」、「新しく生まれる」、「神の子供とされる」、「新しい創造物になる」、「罪を赦される」、「生かされる」、「永遠の命を与えられる」などですが、これらのことばは全て過去形で書かれています。
(ローマ5:1、ペテロ第一1:3、コリント第二5:17、ヨハネ1:12-13、エフェソス2:4-6、ヨハネ第一5:11-13)
これらの聖句が示している救いの経験こそ、あなたが求めておられることではないでしょうか。

どうか、勇気のある決断をしてください。偽りの組織を出て、イエス・キリストを救い主として迎え入れてください。そうすれば、あなたは必ず、聖書に書いてあるとおりに救われ、今まで味わえなかった神の豊かな祝福を経験することでしょう。
そして、同じように救いの体験をし、聖書に従って生きていこうとするクリスチャンの群れに導かれることでしょう。



お祈りします。

#525 2017年01月22日 17:37:10

さやか666
ゲストユーザー

Re: 信仰を維持する

皆様は山田ズーニーさんってご存知でしょうか


長いですが興味のある方はお読みください








●なぜか饒舌になるとき

ある演劇の演習を、見てきた友人が、
こんなことを言った。

その日の、その演習は、
先生が、わざと、意図を知らせず、
生徒に表現させていった。

それで、

演習がすすむにつれ、
自分で演習の意図に気づいて、
大事なことをつかんでいった生徒と、

最後まで意図に気づかず、
その日の演習の核心をつかめなかった生徒と、
差が出てしまったそうだ。

同じ空間に、
「わかっている人」と、「わかっていない人」、

その差は、歴然としていた。

同じものを学んでも、
それぞれの、「内面の準備」によって、
あるいは、ある方面への「慣れ」によって、
理解に差が出てしまうのはしかたのないことで、

「わからない」、そのこと自体、
「恥かしいことではない」、

と、私は思う。
第一、そんなことを、いちいち恥かしがっていたら、
なにも、新しいことは学べないもの。
未知に、からだごと、突っ込んでいった。
そのこと自体が尊い。

私が、注目したのは、ここからだ。

演習のあと、

なぜか、「わかっていない人」ほど、饒舌に、
その演習のことを語り、
言えば言うほど、
その人が、いかにわかっていないかが、
まわりに、あからさまになっていった、
という点だった。

そう。
そういう場合、多くは、
「わかっている人」は、黙っている。

声高らかに、しゃべっているのは、多く、
「わかっていない人」だ。

わたしも、記憶のなか、
なぜか饒舌になり、
しゃべればしゃべるほど、
墓穴を掘ってしまった経験が思いあたる。
そういう自分を振り返ると、恥かしい。

よくわかっていないなら、
しゃべらなきゃ、人にはバレない。恥もかかない。
なのに、そういうとき、
しゃべらずにおられない何か、がある。

なぜか饒舌になるとき、
そこに、どんな心理が働いているのだろうか?

以前、企業で編集者をしていたとき、

私は、原稿をいただいた先生に、
電話で、改作を頼んでいて、
ちょっと、もめたことがあった。

それまでは、先生の話をじっくり聞きながら
電話のやりとりをしていたのに、

途中、私は、「なぜか饒舌に」なった。

先生の言った、何かひと言に反応したのだ。
「そんなことありません! もう、先生、怒りますよ!」
とばかり、私は、私の考えを、一気にまくしたてた。

急におしゃべりになり、
しゃべる、しゃべる、一方的に、よくしゃべる、私を、
先生は、まったく、口をはさむことなく、
あいづちさえ打たず、
じっと、黙って、聞いて、いた。

話しおわると、先生は、きわめて、冷静に、こう言った。

「山田さん、怒るということは、図星ということです。」

このときの、ズッキーン! と
言葉がささる感じを、何年たっても、忘れられない。

いつも、いつも、
自分が怒るとき、相手の指摘が図星
とは限らないのだろうけれど。
このときから、私は、感情を荒げたようなとき、

「怒るときは図星」

という言葉が蘇ってきて、
ビクリ、とするようになった。

結局、このとき、私は、
先生の言葉を、否定することも、
かといって、肯定することも、絶対、できず、
一瞬、押し黙ったものの、
あとは、また、しゃべりまくって、
「なぜか饒舌」なまま、その場をなんとかおさめた。
いま、思い出しても、恥かしい、自分の姿だ。

「なぜか饒舌になるとき」と言えば、
こんなケースもある。

「ほぼ日」に感想メールを書こうとしていたときのことだ。

わたしも、「ほぼ日」の読者であり、
心に触れた記事があると、
ときおり感想メールを書いて送る。

「そうそう!私も同じことを想っていたの!」
という、「共感」や。

自分の経験に照らしてみて、
記事がこういうふうにしみた、という「理解」や。

新しい気づきがあった、という「発見」や。

ほうっておけば消えてしまう感想が、
稚拙でも、カタチになり、
自分のものになるのは、うれしい。
運よく編集部に伝わったときは、さらに、うれしい。

多くは、そんなうれしいやりとりなのだが、
その日だけは、ちがった。

「ほぼ日」の、ある記事を読んで、
すぐに、感想メールの欄を押してしまっていた。

だけどヘンなのだ。
普通は、何か伝えたい気持ちがあって、感想を書く。
だけど、その日は、「感想を書く」というのが
目的になってしまって、無理やり、
書くことを、探し出し、こじつけようとする自分がいた。

書くことがないなら、「黙って」いればいいのに、
黙っていられない。
これも、カタチはちがうけれども、
「なぜか饒舌になる」瞬間だった。

何か伝えたい気持ちがないのだから、
メールを書いていて、どんどん、自分が、つまらなくなる。
書いては消し、書いては消し、をくりかえした。

最初は、記事に対して、
「そうだそうだ、そのとおりだ」
というようなことを、私は、言おうとし、
そのうちに、
「私は、断じて、記事に出てくるような、
そんなことはしておりません」
というような内容になっていった。

たとえは悪いかもしれないけれど、
クラスで、給食費がなくなったようなとき、
自分はとっていないし、
だれも自分をうたがっていないのに、
自分から、「私はとっていない」と言って、
言えば言うほど、墓穴をほるような、
なんか、そんな感じのメールになってきた。

それじゃまずい、と角度をかえると、しだいに、
「いちゃもんをつけたいのか自分?」
という感じになってきて、
そのうち、
「いったい自分は、そうまでして、
なんでメールを書こうとしているのか?」
と考えて、「はっ!」とした。

これは、「雑音」だな。

ひとことで言えば、私は、記事の内容に関して、
無意識の部分で、なにか、うしろめたかった。
まったく人を攻撃するような内容ではなかったのに、
無意識の部分の何かが、
攻撃を受けたような感じがしていた。

口を閉じて、静けさに耳を澄ますことで、
それが、自分の身に、ひたひたと迫ってくる。
その音から逃れようとして、
私は、自ら「雑音」を立てていたのだ。

沈黙への抗い。
黙すれば、聞かねばならぬ音がある、
気づいてしまうことがある。
それに抗い、紛らす、自分がいた。

こういうときは、苦痛だけど、
いったん、発言スイッチを切って
静けさの中に、耳を澄ましたほうがいい。
そう思って、そのときだけは、
メールを書くのをやめた。
そうして、私は、じっと自分の心の音を聞いた。
あのとき、静けさの中に、
自分を解き放ってよかったと想う。

なぜか饒舌になるとき、
そこに、どんな心理が働いているのだろうか?

静けさの中、自分が聞くべき音は、何だろうか?


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