#601 2017年01月02日 13:48:24
- Chimera
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#602 2017年01月02日 14:00:53
- Chimera
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#603 2017年01月02日 16:57:58
#604 2017年01月02日 18:41:13
- モトシモベ
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#605 2017年01月02日 19:02:46
#606 2017年01月03日 11:58:32
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
アブラハムがイサクをバーベキューにしようとしたという物語について、Q&A方式で、少しまじめに論じてみたいと思います。
目的は:神がアブラハムを試すため(22:1)。英語の聖書ではtestという言葉が使われています。
何を試すの:神をおそれるものかどうかを試す(22:12)
神をおそれるとは:よくわからない。畏怖するということで、「畏れる」という漢字をあてる場合(新共同訳)と恐怖を感じるということで「恐れる」という漢字あてる場合(口語訳)がある。英語では後者の意味のfearがおおい。
この話では神はアブラハムがどう行動するか初めから予測していたの:いいえ。12節では「あなたが神を畏れるものであることが、今わかったからだ」と述べていて、イサクを屠ろうとするまでわからなかった。
神の全知性を否定しているの?:そうなります。アブラハム物語における神はあまり大した存在ではない。ソドムとゴモラの話しも参考に。ここでは人神同型説的な神。
アブラハムは別な話ではサラを妹と偽ったりして、正直者という印象はないのですが、この話ではどうなの:嘘つきです。従者の若者に「私と息子はあそこに行って、礼拝して、また戻ってくる。」22:5と言っています。主語は複数形でイサクも戻ってくるといっていますし、行く目的もうそを言っています。それからイサクが捧げものにする子羊はどこですかと尋ねると、「子羊はきっと神が備えてくださる」22:8とイサクの質問をはぐらかしています。正直ではないですが、神はそんなことを問題にはしないようです。噓を言ってまでも神に従うにが、「神をおそれる」ことなのか疑問です。
後で雄羊が茂みで見つかりますが、それは神が備えてくれたものなの:わかりません。問題は、茂みにいたのが子羊ではなく雄羊ということ。神が用意したとすればそこが変です。偶然そこにいたという解釈も成立します。アブラハムのテストはすでに終了していますので、羊を犠牲にする必要はないのです。
この時イサクは何歳なの:不明です。イサクはサラが90歳の時の子ども(神は偉大なり!)で、サラは127歳で死亡しています。この物語の時点でサラは生存しているようなので、イサクの年齢の上限は37歳です。下限はとなると、イサクは薪を背負って山登りをしていますので幼児ではないことになり、10歳くらいになるのではないでしょうか。イサク37歳説は昔からあり、サラがイサクが殺されそうになったという話を聞いてショック死したのではないかという推測です(冗談ではないよ)。イサクの年齢をどのように見積もるかで、話の解釈はかなり変わります。12節の「その子に手を下すな」というみ使いのセリフですが、その子と訳されている元の言葉はナアルでして、若者という意味があります。英語ではboy あるいは young manと訳されることが多いですが、日本語の聖書では子どもと決めつけています。
JW推薦の新世界訳では「エホバのみ使い」22:12とあるけど、正しい訳なの:エホバはおかしいけど原文では「ヤハウェのみ使い」となっています。他の訳は「み使い」となっていますね。この物語では神(エロヒーム)という用語がずっと使われていているのに(E資料に基づくとされる)、突然ヤハウェが出てくるのが不自然なところです。11から16節前半までを後から付け加えられたとする解釈もあります。19節でアブラハムは従者たちのところに戻るのですが、なぜかイサクについては何ら言及されていません。つまりオリジナルの話は神の命令通りイサクを屠ったことになっていたという推測です。
15から18節は後から付け加えられたのですか:アブラハムの子孫が繫栄するという約束の部分ですが、用語など創世記としては特異なものが多く、のちの誰かが付け加えたとするのが多数説です。
その後イサクはどうなったの:何の言及もされていません。父と一緒に帰ったとはかかれていないのです。自分を殺そうとした父と別れたという解釈も成り立ちます。この物語が単純はハッピーエンドで終わっていない点が気になるところです。イサクはアブラハムのテストのための素材に過ぎないという扱いで、死に直面したイサクに対する無関心さは、この物語の倫理性の低さを示すものと言えるでしょう。
神は初めは直接アブラハムに話しかけているのに、止めに入るのはみ使いです。なぜ神自ら止めないのですか。:不明です。止めに入った後も、アブラハムに話しかけるのはみ使いのみで、神は沈黙しています。アブラハムはその場所を「ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる」22:14と名付けています。アブラハムはみ使いの声を神の声と誤解しているようです。
アブラハムの行為はどう評価されてきたの:新約聖書でもキリスト教関係者でも、アブラハムを信仰の父として、ほめたたえています。旧約聖書の神=父なる神なので、キリスト教を擁護するかぎり、それ以外の選択肢はありません。キリスト教関係者がアブラハムについて語る場合、聖書のテキストとは無関係な自分の信仰告白を長々と述べることが多いですね。
キリスト教関係者ではない哲学者たちはどう評価してきたの:有名なのはカントの評価です。神が人間に話しかけることがあったとしても、人間にはそれが本当に神の声と判断できないと論じます。その出所不明の声が明らかに非倫理的行為(子供の殺害)を要求している場合、人間としてそれに従うべきではないとしています。従って、アブラハムについては否定的な評価になります。ヘーゲルも同じような趣旨で、アブラハムを奴隷的精神の持ち主と否定的に評価しています。
聖書についての質問をどんどんしようね。誰かが答えてくれるよ。たぶん。
#607 2017年01月03日 15:50:46
- パー子
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#608 2017年01月04日 12:30:08
- ジョエル
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#609 2017年01月04日 13:12:23
#610 2017年01月04日 17:16:09
- Chimera
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
当然ながら、エホバの証人だけが伝道しているのではないということです。
そして、皆さんにも福音は届いています。
#611 2017年01月04日 18:33:54
- さやか666
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
あの独特な色彩の看板は目に付きますね
メッセージもストレートで好感をもてますし
福音は街にあふれてましたか
#612 2017年01月04日 23:54:46
#613 2017年01月05日 23:00:52
- ジョエル
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#614 2017年01月06日 07:11:08
- run
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
「あなたが神を畏れるものであることが、今わかった」とは、神の全知性を否定するものではありません。神は、アブラハムが神を畏れていることをすでに知っておられました。それが今、イサク奉献という行為を通して、経験的知識となったということです。
例えば、「貴方はリンゴを知っていますか」と質問して、「はい。写真で見たことがあります」というのと、「はい。食べたことがあります」というのとでは意味が違うでしょう。アブラハムは、その行為によって信仰が真実なものであることを証明しました。それが「経験的知識」となったのです。創世記22:12は、そういう意味です。
#615 2017年01月06日 08:09:38
- さやか666
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
Q「あなたはアブラハムから畏れられていますか?」
A1
「知ってます、彼の思いは十分把握しており自信があります」
A2「知ってるつもりだけど、舐められてるかもしれない。今から息子を殺すよう脅してみるね」
自信の無さの裏返しではないですかね
#616 2017年01月06日 13:05:06
- さやか666
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
ありがとう
経験的知識
思考実験メアリーの部屋がヒットします
今の場合だと少しちがうかな
#617 2017年01月06日 17:08:16
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
どこかのスレッドで福音書の作者が誰なのか、本当にマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネなのという話題が出ていました。いまさら誰でもいいよね。そんなことを気にするのは、聖書マニアだけ。でもそんなマニアのために少し意見を言わせてね。
マタイの福音書:この福音書がマタイによるとされるのは2世紀に入ってからなんだ。初期のキリスト教文書「使徒たちの教え」がこの福音書の一部を引用しているけれど、単に福音書としか書いていない。まだマタイと結び付けられてないとこ言うことね。
それがマタイ作となったのは、福音書の中で、マタイを収税人としているのはマタイだけだし(収税人は嫌われ者)、マルコ2:14で、「そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」、それからルカ5:27「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。」と平行記事があるけれど、このレビ=マタイと解釈されて、マタイのほうが正式の名前で、それを知っているのは、マタイの福音書を書いたのがマタイ本人だからだという推理からなんだ。
それから、たとえ話で大きな数字が出てくるのも、マタイの福音書で、収税人だから数字に強いせいと解釈されたようだね。
マタイは12使徒の一人だけど、マイナーな存在だよね。一応使徒だから権威がある、マイナーだから福音書を書いていたけれど、誰も知らなかったとしても、それほど不思議じゃない。作者不明の福音書の作者にするのに都合がよかったんだ。ペテロが福音書を書いていたのに、誰も知らなかったなんて不自然でしょ(ペテロの福音書はあるけどね。初期の司教たちからは偽文書とされ聖書入りかなわず。ペテロの手紙1・2は偽文書ながら見事聖書入り)。
キリスト教にとって聖書の作者が問題になるのは旧約聖書のほうなんだ。
マルコ 10:3-5には「イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。」
これは、申命記24:1「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」の引用なんだけど、イエス様は申命記を書いたのがモーセと断言しているよね。もし申命記を書いたのがモーセじゃなかったら、イエス様って単なる人間じゃん、ということになるんだ。キリスト教にとっては大問題だよ。
申命記の内容は、読めばわかるけど、荒野を放浪していたイスラエルの民むけじゃなくて、王国を築き、都市も作られ、貧富の差も広がり、貨幣制度もできあがっている人たちを対象とした法律集になっているんだ。内容から言って、書かれたのはモーセの時代よりずーと後なんだね。わかりやすい例を出すと、オリーブがよく出てくるんだけど(e.g.,「オリーブの木と蜜のある土地」8:8)、オリーブ栽培が一般化するのは、荒野を放浪していた時代じゃなくて紀元前5世紀ごろからといわれている。オリーブオイルは高価なため、重い税金を払うためには必要な商品作物になったと言われている。これだけでも、モーセの時代とあわないことがわかるよね。
そんなわけで、キリスト教関係者(JW含む)の中には、なにがなんでも申命記の作者はモーセとするため、聖書の翻訳をかえるなど、小細工をする人が現れることになるんだ。
#618 2017年01月06日 17:32:53
#619 2017年01月06日 20:48:37
#620 2017年01月07日 20:14:29
#621 2017年01月07日 21:59:49
- 良い子
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
ささらさん、とても分かりやすかったです。
他のトピにも関係しますが、聖書から、あるいは他人から与えられた情報を、自分で取捨選択する力をつける事はとても重要な事だと思います。
まとめのアップ、お疲れ様でした。
#622 2017年01月08日 20:19:41
#623 2017年01月08日 21:48:52
- さやか666
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
ブッダのセリフの方でしたかね
忘れちゃいましたが
どういたしまして
#624 2017年01月08日 22:14:56
- 良い子
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
梵天さんへ
お返事ありがとうございます。
梵天さんの考えを知る事が出来てうれしいです。
確かに神の考えなど、人間には量りしれません。
それを、神の考えはこうだ、神はこう言っているのだ、と書いてしまったのが聖書だと思うのですが。
気が向いたらお返事下さい。
#625 2017年01月09日 08:20:16
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
マタイの福音書がなぜマタイが書いたことになったのかについて書いたところ、ほめてくださる方がおりました。ありがとうございます。
それで気をよくして、マルコの福音書がなぜマルコが書いたことになったのかを書こうと思って朝起きたら、別のスレッドでKAOさんが、それについて大変格調高く書いておられたので、急遽、ルカによる福音書がなぜルカなる人物が書いたことになったのかというテーマで書くことにしました。結構込み入っているんだね、これが。
まず、ルカによる福音書と使徒言行録は同じ人が書いたものなんだ。二つとも、テオフィロという人にささげられていて、使徒言行録1:1-2では、「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。」とあることから、「第一巻」はルカの福音書のことを指していると解釈できるから、福音書と使徒言行録は同じ人が書いたとみなせるよね。
それで、使徒言行録を書いた人がわかれば、ルカの福音書を書いた人もわかるということになり、だれが使徒言行録を書いたんだろうということになったんだ。注目されたのが次のような部分、「パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。」16:10 「わたしたち」という言い方に注目してね(同じような表現はあと3か所ある)。つまり使徒言行録の作者はパウロと一緒に宣教旅行をしたと主張しているんだ。それではパウロと一緒に旅をした人は誰なのか?
パウロの書いた手紙を調べてみると、コロサイの信徒への手紙に「あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。 (略) 愛する医者ルカとデマスも、あなたがたによろしくと言っています。」4:12-14とある。ここに名前が出ている、エパフラス、ルカ、デマスがパウロの旅仲間の名前じゃないかということになった。作者はこの3人の誰かに絞られたんだ。
まず、デマス。テモテ第二の手紙4:10に「デマスはこの世を愛し、わたしを見捨ててテサロニケに行ってしまい、(略)」とある。なんとデマスはパウロを見捨てて、トンズラした(気持ちは理解できるけど)。当然、福音書の作者の候補者から外れます。
次は、エパフラス。コロサイの信徒への手紙に「あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、また、“霊”に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です。」1:7-8とある。つまり、エパフラスはコロサイの教会の設立者なんだ。もしエパフラスが使徒言行録の作者なら、コロサイのことが使徒言行録の中に出てきてもよさそうだよね、なのに一度も出てこない。そこから、エパフラスは使徒言行録の作者ではないとされ、自動的に福音書も書いていないことになったんだ。
残っているのは、医者のルカだね。
こんなわけで、ルカが目出度く福音書と使徒言行録の作者になったんだ。マルコによる福音書と違って、2つの書のギリシャ語のレベルは高いらしい。これもルカが作者だと納得がいくよね。古代の医学の本はギリシャ語で書かれたものが多いからね。
というわけで、2世紀ごろに、作者不詳の福音書がルカによる福音書と呼ばれるようになったんだ。
でも、これらの一連の推理って正しいのかというと、正しくないだろうね。
問題は、この推理の根拠になったコロサイの信徒の手紙が偽パウロ書簡とされていることなんだ。つまり、パウロのふりをして誰かが手紙をでっち上げたということ。どうしてそんなことがわかるのかって。使用する単語、文体、文の平均文字数(どこまで信用していいかわからないけど、田川健三先生によると、偽パウロ文書は長い文、類語反復、合成語を好むそうです)、そして神学的見解が本物のパウロの書簡と違うからなんだ。
例えば、復活に関するパウロの見解。ローマの信徒への手紙6:5,8 「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」 日本語の翻訳だと分かりにくいけど、パウロにとって復活は未来のことね(ギリシア語の未来形が使われている。JWの新世界訳の英語版だと、8節はif we have died with Christ, we believe that we will also live with him. 未来形で訳しているでしょう)。
一方、コロサイの偽パウロの見解。2:12 「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」 復活は過去のことね。ここでは復活というのは、洗礼の時に比ゆ的に死んで、比ゆ的に復活したという理解なの。当時、ユダヤ人以外の人にとって、死者が復活するという思想は受け入れがたかったんだ(ゾンビ怖い)。本物のパウロと思想が違うでしょう。
それから、使徒言行録で描かれるパウロと、パウロの書簡の中で自ら語るパウロの姿が違うのも問題なんだ。使徒言行録の著者は、本当にパウロの旅仲間で、パウロのことを知っているのか疑わしいんだね。