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#326 2016年12月08日 20:55:25

ルート
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

akameさん、お大事に。

嫌味でなく、本当に素直に。

#327 2016年12月08日 22:19:16

梵天
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

真理は一つであって
第二のものは存在しない
その真理を知った人は争うことがない。

オフライン

#328 2016年12月11日 10:07:04

梵天
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

真理は一つであり
第二のものは存在しない。
その真理を知った人は争うことがない。

ある人々が遊園地の乗り物に乗った。
ある人は言う「とても楽しかった、もう一度乗りたい」
別の人は言う「とても怖かった、もう二度と乗りたくない」

これを同験異感と言う。

それぞれの人にとって
感じたこと、語ったことは真実であり
そのことで
どちらが正しいのかという議論は起きない。

人間とはどういう性質を持つ者なのか。
その理解を得た人は争わない。
ここに同験異感という真理がある。

しかし全宇宙を含めた真理においては
人々は議論をする。それはなぜか。

オフライン

#329 2016年12月11日 10:44:04

さやか666
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

正解を言います


それは、遊園地のアトラクションと民族浄化を同列に並べられるものではないからです

#330 2016年12月11日 21:20:55

良い子
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

う~ん わかった!

それは、遊園地は命をかけるほどのものではないから。

スレチと言われていますので.....

私の希望としては、
梵天勧請どうでしょう?(仮)、見たいな軽いノリのスレタイトルで、皆を唸らせるような、ヘビーな内容を期待します。
ギャップは人の心を掴みますからね。
書いてくれたら私読みますよ。

#331 2016年12月12日 23:17:30

梵天
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

ここは賢い人が多いと聞きました。
賢さとユーモアを拝見しました。

遊園地の例えと同じように
同じ物を食べて
美味しい、美味しくないと
意見が分かれる。
これを同食異感と言う。
その他、同文異感、同見異感、同教異感など。

まず争いは
異なった感じ方をし
異なった意見にわかれ
異なった思想に発展し
虐殺や戦争に発展します。

真理に到達した人は争うことがない。

私個人は聖書の神は残虐とは思いません。
聖書の教えは正しい。

編集者 梵天 (2016年12月12日 23:20:21)

オフライン

#332 2016年12月13日 00:12:03

良い子
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

では梵天さんはイサクの燔祭をどう解釈されます?

#333 2016年12月13日 23:27:08

良い子
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

梵天さんへ

なるほど、それも一つの答えなのかもしれませんね。
私の先走り、勘違いだったらごめんなさい。

#334 2016年12月14日 12:53:08

元証人
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#335 2016年12月14日 14:16:18

カレブ
Administrator

Re: アブラハムの神の限界

「あらゆるフィクション」に何を含めるかにもよるでしょうが
旧約聖書の中で描写されている神は少なくとも以下の描写で当てはまらないものは
ほとんどないと思います。
「嫉妬深くて、そのことを自慢にしている。けちくさく、不当で、容赦のない支配魔。執念深く、血に飢え、民族浄化を行った。女嫌い、ホモ嫌い、人種差別主義者、幼児殺し、大虐殺者、実子殺し、悪疫をひき起こし」

その根拠をダン・バーカーはわざわざ一冊の本にまとめたわけですが、きちんと読んだわけではないので著書について判断はできませんが、おそらく多少反論できる点はあっても大方その通りのことが書かれているのだなと想像しています。

何か具体的に反論があるならば書いてください。

「キリストの愛」とかで一言で丸め込めるような論議はやめてくださいね。

オフライン

#336 2016年12月14日 15:50:34

u-chan
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

オフライン

#337 2016年12月14日 20:21:22

元証人
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

カレブさんは確かに、エホバの証人の間違いを示す点で貢献してこられました。その働きはよいものだと思います。

さて、エホバの証人研究は「信仰の枠を超えた真理の探究」を謳っています。

探究途中なので適当なことも言っていいということにはなりません。一応、真理の探究としているのですから。しかし、彼は私の最初からの問題提起である、なぜ聖書や神の悪い点(と思われる点)しか目を留めず偏った扱いをするのかという点に答えず同じ過ちを続けています。

全員ではないですが、ここの掲示板の中の否定的な人々も同じです。管理人さんにしろ、元エホバの証人で信仰を失われた方もそうですが、十分に調べた上で結論してますとよく言われます。果たしてそうでしょうか。

真理の探究というのなら、懐疑的な人々の意見だけでなく、肯定的な意見も検討すべきではないでしょうか。
ですから、最低でも以前に私が言ったように、佐倉哲さんの聖書の間違いを読んだら、聖書の間違いの間違いも読み、バート・D・アーマンを読んだらブルース・メッツガーも読み、ドーキンスを読んだらマクグラスや創造論のものも読み、否定的に書かれた聖書考古学の本を読んだら、護教的な聖書考古学の本も読むべきではないでしょうか。
読むのが面倒だと言われるのであれば、最低でも聖書そのものはしっかりと読むべきでしょう。
さて、カレブさんは、ドーキンスなどに偏っているだけでなく、非常に偏った聖書の扱いをしておられます。具体的に見ていきましょう。
エホバの証人研究からです。


>エフタはその直前に「はなはだ大いなる殺りくを行なった」(裁き人 11:33) と文脈の中で述べられています。
>エフタによって殺戮された人々、その中には無抵抗の女や子どもたちが含まれていたことでしょう。


このように、カレブさんは、エフタが大いなる殺りくをするような人間であるから、エフタが娘を殺すのも仕方ないかのように、エフタを残虐であるかのように紹介しています。
それは非常に偏った見方です。

さらに、ヨセフスを引用して持論を展開しておられますが、このようにも言えます。


ユダヤ古代誌ヨセフスの記述

「このような犠牲は、律法に適うものでも、神に喜ばれるものでもなかったが、彼は自分の行為がそれを聞いた者にどのように受け取られるかを洞察できなかったのである。」


これが、1世紀当時の理解であり、人間の犠牲は律法に敵わず、神にも喜ばれないものだった事が分かります。
そうです。これが当時の理解であったと言うこともできるのです。エフタの娘の件ですが、聖書の教えで行けば、


神は軽々しく誓いを立てた事の報いを刈り取らせたと言えます。当時、誓いは破ってはならないものだったからです。

さらに、カレブさんの発言を見てみましょう。

>ヘブライ11章の中では信仰の模範として列挙されていますがエフタを咎める記述は何もありません。

これに関して言えば、

ヘブライ書にはエフタが娘を捧げた事が模範であるとは書かれていません。
彼は信仰が篤く、それゆえに民の首領として立てられたのでしょう。(士師記11:6)
軽率に誓願した事があっても、彼の信仰や良い点が信仰の模範に含めらめていると言えます。

※彼の誉められる点は、アモン人の王に対してすぐ戦闘を始めるのでなく、まず使者を遣わし、イスラエルがエジプトから出てきた時に戦ったのは領土を通らせて下さいとお願いしたのに通らせず、他国が戦闘を仕掛けてきたやむをえない戦いであった事、イスラエルは300年住んでいたのに何も言ってこなかったと経緯を述べて話し合いにより解決しようとした事でした。(11:13~28)

しかし、アモンの王は聞き入れずイスラエルに戦いを挑みました。
平和的に解決しようとした上でのやむを得ない戦闘だったのです。単なる虐殺とは違います。

また、エフタを咎める記述はなくとも、軽率に誓いを立てた結果、エフタと娘には大きな苦しみがありました。

ですから、娘の為に嘆く習慣があったのです。(11:40)
このように見てみますと理由のある正当な戦いであり、エフタの娘の例は、軽率に誓願する事への戒めとして教訓として書かれたのは明白です。

#338 2016年12月14日 20:42:59

元証人
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

重要な点なのでこちらにも載せます。

旧約聖書には大量虐殺の話がたくさん出てくるではないか、旧約の残忍な神と新約聖書に出てくる愛に溢れた善なる神とは大きなギャップがあるのではないかという点について考えてみましょう。
聖書の中で、『憐れみ』と訳される言葉は261回登場しますが旧約聖書に出てくるのは全体の27%、すなわち三分の一に当たります。
一方、『愛』と訳される言葉は322回登場し、旧約・新約での登場回数はほぼ半分ずつとなっています。ですから、愛を強調している割合は、旧約・新約ともに同じです。
ところが、皮肉な事に旧約より新約の神のほうが、ずっと批判的だと思える箇所が、色々な所で見られるのです。例えば旧約聖書では永遠の刑罰についてほとんど触れていませんが、新約聖書にはそのことが書いてあります。
これは神の性格や性質が変わったという事でしょうか。そうではありません。
聖書には、「主である私は変わることがない。」    とあります。旧約・新約問わず、そこに存在する神は全く同じです。聖なるゆえに罪を傍観する事ができない神。
それでいて、罪を告白する全ての人間に対しては存分な赦しを与えたいと願う、愛と恵みと礼節と憐れみに溢れた神なのです。


恵みとか憐れみといっても、申命記七章で、「聖絶し、容赦してはならない」と言ってカナン人とその他六部族の大量虐殺を命じた神に憐れみとか恵みがあるとは思えないと言われる方もいらっしゃるでしょう。それだけでなく、エジプトの初子全員を殺すようにとの命令や大洪水やアマレク人の例もあります。
「今、行って、アマレクを打ち、その全てのものを聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子供も、乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺せ。」
これは、愛の神ではなく、暴力的でむごい神の姿ではないか、罪のない子供まで殺せという神を、どうやって礼拝しろというのかと言われるでしょう。それはつまり、神の性質が完全に聖であること、そしてそれゆえに、罪と反逆には処罰を加えなければならない存在であることを示しているのです。公正な審判であることは間違いなく神の性質の一部です。しかしまた恵み深いというのも神の性格です。もし逃げ出したいと望む者がいれば、神はその人物を見逃してくれたのです。
聖書をしっかり読むなら、聖書の中に同じパターンが繰り返されているのが分かって頂けると思います。
ではアマレク人の話から見ていきましょう。
イスラエルは宿営している共同体であり、まだ国を持っていなかった為、自分たちに襲いかかり攻めて来る敵がたくさんいました。彼らがエジプトを出てから間も無く、アマレク人が攻めてきました。彼らは自分たちを守る為に戦います。相手が憎いのではなく自分たちを守る為に戦うわけです。アマレク人は純真無害な人々ではありませんでした。彼らの中に『いい人』なんかいないのです。文字通り堕落の限りを尽くした民だったのです。
彼らの使命は、イスラエルを滅ぼす事、つまり、イスラエルの大量虐殺でした。これでも彼らが邪悪ではないと言われるなら、もう一度それがどういう意味かよく考えてみて下さい。
イスラエルは救い主イエスを通して全世界に救いをもたらす神の選民です。それを滅ぼす行為が無害でしょうか。罪の重さを考えれば、アマレク人の全滅は致し方のない事でした。もし生存者が出たら、彼らは再び集団となって、イスラエル人、そして神の計画に反旗を翻していたでしょう。アマレク人は激しい敵意を持つ好戦的な人種であり、あらゆる蛮行の限りを尽くしていました。例えば、体の弱い人、高齢者、身体障碍者といった、移動している集団についていけなくなった弱者をあえて狙って殺す、そういう卑劣な行為も辞さない連中なのです。
彼らは地球上からイスラエル人を一人残らず排除しようとしました。神は洪水等の災害で彼らを滅ぼす事もできましたが、あえてイスラエルを使って裁きを下したのです。神の言動は単にイスラエルを守る為だけのものではありません。イスラエル人として生まれる救世主によって全人類に救いがもたらされるわけです。ですから、アマレク部族を討つ事は究極的に言えば、歴史上存在する世界中の全人類の為なのです。
でも子供は違うでしょう、罪のない子供まで殺す事はないではないかと言われるかもしれません。しかし、厳密には罪のない人間は誰もいません。この事は忘れないようにしなくてはなりません。詩編51編には、私達はみな罪の内に生まれたとあります。つまり、私達は謀反を起こしたり過ちを犯す傾向を持つ者として生まれるという事です。それと、人間の人生における神の主権についても忘れてはいけません。生命を創ったのは神だから、神にはそれを奪う権利もあります。もし、あなたが生命を創ったのなら、あなたにはそれを奪う権利もある。しかしあなたが生命を創造できないのであれば生命を奪う権利はないのです。
人間は、私達にとっての善悪が、そのまま神にも当てはまると思いがちです。しかし、いいですか。私は他の人を創り出したわけではないし、他の人の人生を握る存在でもありません。そんな私が他の人の命を奪う事は間違いです。
皆さんは、他の人の家の庭に入り込んで植木を抜いたり、切り刻んだり、それをすっかりダメにしたり、どこかに植え替えたり、移動する権利はありません。でも自分の庭の植木であれば話は別です。あなたはそれを所有しているわけですから、どうする事もできるわけです。
さて、神は生命そのものに対する主権を持っているわけですから、もし神が望むなら命を奪う事もできます。実際に神は「死」という形で人の命を奪っているのですが、私達はその事を忘れがちです。いつ、どのような形の神のもとに呼ばれるかが問題であって神が命を取る存在である事に変わりはありません。

#339 2016年12月14日 20:44:16

カレブ
Administrator

Re: アブラハムの神の限界

>彼は私の最初からの問題提起である、なぜ聖書や神の悪い点(と思われる点)しか
>目を留めず偏った扱いをするのかという点に答えず同じ過ちを続けています。

そうでしょうか?
わたしは例えば聖書を誤解して悪く解釈している人がいればそれを指摘しますし、
例えば日本人で短絡的な理由でキリスト教を悪とする人がいたらそれを訂正したりもします。
わたしは話の展開の中で真実を追求するだけのことです。

いまは「聖書だから正しい」と考えているクリスチャン向けに
連載しようと思っているので、おそらく元証人さんにとっては
「神の悪い点しか目にとめない」ように映ると思います。

特にマイコンクリスチャン(この表現めちゃ嫌でしょうけど)あてに
書いていますので、目を開かせるための内容としては仕方がないと思います。


>このように、カレブさんは、エフタが大いなる殺りくをするような人間であるから、
>エフタが娘を殺すのも仕方ないかのように、エフタを残虐であるかのように紹介しています

エフタのしたことは明らかに残虐でクレイジーと思いますけど、
そう思わない元証人さん、どうなんですかね。
わたしはエフタがその時代において格別にクレイジーな行動をとったとは
思っていませんが、普通にクレイジーです。

二つの言葉を書かれていますが
「エフタが娘を殺すのも仕方ないかのように」
「エフタを残虐であるかのように紹介しています」

どういう意味ですか?

エフタが残虐であることは理解されてるんですか?
文章のつながりがわかりません。

「娘を殺すのも仕方ない」って倫理的なことを言ってるわけではないですよね。
わたしは”真の崇拝者が子供を殺すはずがない”という主張をする人に対して
いやいやそもそもエフタが娘を捧げる前に敵陣に乗り込んで大量に子供たちを殺してますよ
と指摘したのです。

それは通じてるんですか?

オフライン

#340 2016年12月14日 20:54:21

元証人
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

カレブさんがエホバの証人にエフタが文字通りに娘を捧げた事を示している意図は分かります。
エフタが話し合いで解決しようとしたのに聞き入れず、やむなく戦闘になった事は残虐とは考えません。あなたがその戦闘を残虐であるかのように書いているように見えたからです。
エフタの娘を捧げたのは模範としてではなく、警告として書かれているという事です。
意味が分からないのでしょうか?
あなたが目が開かれる必要があると思いますが。
偏見で扱ってないというのなら、なぜ、ドーキンスなどの偏ったものしか提供しないのですか?
マイコンを解くため?あなたが「信仰」を一緒くたにしているだけではないですか?
信仰の枠を超えた真理の探究という、真理が信仰を超えた所にあるという前提がそもそも間違いではないでしょうか。

#341 2016年12月14日 20:55:22

元証人
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

でも子供まで…と思われるのも当然です。しかし、歴史を見ると社会的にも物理的にも、事の善悪を問わず子供と親とは運命共同体です。ともかくここでは、アマレク人を取り巻く状況を理解する事が何より重要です。
彼らの社会は完全なる悪と暴力と堕落に満ちた社会であり、そこに育つ子供達に未来はありませんでした。アマレクは人間の足を蝕む壊疽のような存在だったのです。
神がその足を切断するか、あるいは壊疽が体中に広がってしまうかの二者択一です。ある意味では神はその憐れみから、アマレク人を討ったと言えるでしょう。
聖書によれば、個人としての責任を問われる年齢に達していない子供は天国に行き、神の臨在の中で永遠を過ごすと書いてあります。アマレクの子供達が最悪の社会環境で育ち、こうした年齢を過ぎてしまったら、彼らは間違いなく堕落し、永遠に失われた存在となっていたはずです。
イザヤ七章十六節は、道徳的責任を問われる前の『悪を退け、善を選ぶことも知らない』子供達について言及しています。ダビデ王は、生まれてすぐ死んでしまった息子の所に、いずれ自分も行くと話しています。イエスも次のように言っています。「子供たちを、私のところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」
このように書くと、アマレク人の子供達については道徳的責任を問われる前の年齢で死んで天国に行けたほうがよかった、それが最善というなら、妊娠中絶で死んでいく子供はどうなのか、もし中絶されれば、その子供は間違いなく天国行きだが、生まれてしまったら神に反して地獄行きかもしれない。そうするとこれは、中絶擁護派にとっては強力な助っ人登場ではないかと言われるかもしれません。

しかし、その類推は間違っています。まず神は、だれに対しても中絶を強要していません。それどころか中絶は聖書の教えに反するものです。いいですか、神は生命の創造者であり
、命に関する決定権は唯一、神の手中にあるのです。それから、当時のアマレクほど堕落している社会は現代にはありません。アマレクには一切の希望がなかったのです。今は希望があります。では、神がアマレクの壊滅を命令したとしても、それが非合理だと言えない理由を見ていきましょう。
アマレク人には、その行いを改め、部族の壊滅を避ける機会が十分与えられていました。カナン人とアマレク人には懺悔する猶予が四百年も与えられていたのです。
自己壊滅への道を回避するに十分な数世紀という時間が過ぎ、神はその聖なる性質のゆえに、彼らの強情なまでの悪意に対峙しなければならなくなったのです。思いつきで彼らの全滅を決めたわけではありません。神による壊滅の手から逃げたかったのならば、逃げられた事を忘れないで下さい。何百年にわたり彼らには十分な機会と時間が与えられていたのです。もちろん、滅亡を逃れたいと願った人々は、アマレク社会から逃げ出し、他の地域に広がっていきました。
ヨシュア記六章には、エリコとカナン人の崩壊が書かれています。ここでも同じ事が言えます。エリコも腐敗しきった社会で、神はその酷さに吐き気を催したとまで書いてあります。蛮行、残虐行為、近親相姦、獣姦、カルト的売春が行われ、また、子供をいけにえとして火で焼くという風習もありました。彼らもまた、イスラエルの根絶をもくろむ、非常に攻撃的な部族だったのです。邪悪な人が滅ぼされ、神に従う高潔な人々が悲劇を免れているのは、エリコの場合も同じです。
たとえば、イスラエル人のスパイを匿ったラハブがいい例です。その正義ゆえに、彼女は他のカナン人と共に滅ぼされることなく、生き延びることができました。それから、ニネベの人々に何が起きたか見て下さい。ニネベも腐敗が浸透しきっていた町であり、神の裁きを受けるに当然の町でした。しかし、神に対してその罪を告白したため、そのうちの多くは神の裁きから救われているのです。
つまり、神に罪を告白すれば、どんな人物であろうと神はその人を救おうとする。ここが重要なポイントです。(使徒10:34、35)分かるでしょうか。こうした国々の社会構造そのものが本質的に悪だったからこそ、神はその腐敗した社会を滅ぼす必要があったのです。もし彼らに懺悔の姿勢があれば、神は滅ぼしませんでした。神がずっと前にイスラエルに与えた「約束の地」で、イスラエル以外の民族がやりたい放題に悪行を続けていたのです。神の一番の願いは、この約束の地から邪悪な人々を追放することにあったと、聖書に書かれています。彼らがいなくなれば、イスラエル人が約束の地に住むことができる。そして、ガン細胞のようにイスラエルを蝕む悪や腐敗から、イスラエルが守られます。世界中の何百万人という人々にとって必要な救い主の生誕。神はそれにふさわしい環境を作り出したかったのです。
滅亡していった部族には、十分な警告が与えられていました。それと、実際の戦闘が始まる前には、ほとんどの女性や子供は逃げて難を逃れています。ですから、女性や子供の被害を問題にする必要はあまりないでしょう。
イスラエルとの戦闘に望んだ兵士達は、部族の中でも一番のならず者でした。腐敗した社会を離れる選択を最後まで拒否し、そこに居座って、これまでの悪行を続けようとした人々です。それに、イスラエルが敵地に入ったときには、まず相手との平和的解決を申し出るように、というのが神のルールです。ですから相手には、その申し出を受け入れて戦いを避けるか、あるいは申し出を拒否して自らを危険に晒すか、という選択肢があったのです。これは、フェアで適切なルールではないでしょうか。

では、要点を整理しましょう。神からの警告が十分に与えられていたこと、ほとんどの女性や子供が戦闘前に避難できていた可能性が高かったこと、聖書の言葉に心を乱される時もあるのは事実だとしても、それでも戦闘突入前にイスラエルが和解を提案したこと、また、聖書全体を通して、懺悔した人々には神の裁きが下されないというパターンを知ることができます。

これまで見てきたことから、神は単に気まぐれであったのでもなければ、理由なく暴力的であったのでもないことが分かります。ただ、一言申し上げなければならないことがあります。
神は絶対的に正義なのです。神だからこそ、腐敗し、その悪行をあくまでもやめない!と片意地を張る人々に、何らかの決着をつけなければならないのです。
正義こそ、神が是が非でも実現するべきことでしょう?私たち人間が神に望むことでしょう。
この議論を理解するためにひとつ重要なことがあります。歴史を振り返って見て下さい。
自分の罪を告白して神に立ち返った人々に対し、神はいつも情け深く、憐れみ深く、優しく親切です。最終的に、私たちは神の正義を必ず見るのです。

#342 2016年12月14日 21:01:48

カレブ
Administrator

Re: アブラハムの神の限界

>あなたがその戦闘を残虐であるかのように書いているように見えたからです。

そこは大きなポイントではないですが、
十分そこも残虐ですね。カナンの先住民を女子供含めて虐殺する

十分残虐です。

>エフタの娘を捧げたのは模範としてではなく、警告として書かれているという事です。

エホバの証人の場合は娘を焼燔の犠牲として捧げてないという観点で
「模範である」としています。
実は焼燔の犠牲として捧げていたのだと知っていたら
別の観点を主張するでしょうね。

警告として書き残すために娘が焼かれるのを放置するのは
やはりクレイジーだと思います。
当時の人はそうは思わなかったみたいですが。

>信仰の枠を超えた真理の探究という、真理が信仰を超えた所にあるという前提がそもそも間違いではないでしょうか。

わたしは真理は信仰とは無関係だと思っています。
「真理」という言葉を使う宗教はたくさんありますが、そういう観点で真理という言葉をわたしは使っていません。
何かの宗教的前提にとらわれることなく真理を探究することをわたしは勧めています。

オフライン

#343 2016年12月14日 22:04:16

モトシモベ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#344 2016年12月14日 22:11:44

さやか666
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

「何らかの決着をつけなければならない神」


これがまさにアブラハムの神の限界なんですよ


そういうふうにしちゃったんです



生け贄の創始者はヤハウェでしたよね

それも


そういうふうにしちゃったんです

#345 2016年12月14日 23:17:31

yukahena
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

オフライン

#346 2016年12月14日 23:39:56

yukahena
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

オフライン

#347 2016年12月15日 00:58:57

元証人
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#348 2016年12月15日 10:34:24

yukahena
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

編集者 yukahena (2016年12月19日 22:42:55)

オフライン

#349 2016年12月15日 12:29:23

さやか666
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#350 2016年12月15日 12:47:20

パー子
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界


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