#1 2016年10月02日 19:29:14
- akame
- ゲストユーザー
アブラハムの神の限界
#2 2016年10月02日 20:07:11
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
出産に伴う苦痛の意義に「人口抑制になる」も入れておきます。
#4 2016年10月03日 06:54:11
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
ご提案に甘えたいと思います。
キャラといえば、サタンも面白いです。
「予言の成就」の最大の寄与者
忠実なしもべ、と言ったところですから。
#5 2016年10月03日 07:22:40
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
アブラハムの神の限界を示す2番目は以下です。
「恒久平和が築けない」
ルカ6:27しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。 6:28のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。 6:29あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。 6:30あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。
イエスの言葉の実践が世界的に確立されたら、恒久平和は可能かもしれません。
しかし、私はアブラハムの神はその基盤を失っているように感じます。
キリスト、イスラム、ユダヤ教は共通の神を
信じながら、互いを損なって来ました。
常に争い合い、平和を築くことに失敗して来ました。また今後も期待できそうにないように思えます。
彼らの間では常に揉め事があり、本当の意味で敵を愛したことなどないかのようです。
キリストを奉じる国が
異邦の日本に非道な原爆を落とし得たことは、それを示す象徴と言えます。
彼らにとり、恒久平和とは
異邦人たちの死骸の上に築く平和なのです。
宗教的に熱心になればなるほどそのような状況に陥ったかのようです。
実際の戦争には参加しない教派も、心の中では敵を見下し(まあ、今は我慢してやるか)抹殺している(改めなければいずれ神が処罰するよ)ので真の友好は困難なのです。
つまり、敵を愛するという模範をアブラハムの神は実際には示していない、聖書にも歴史にもない(一見あるようでも最後は擁護者、仲間でなければ粛清)のでアブラハムの神の信者が真の意味で「愛の上に恒久平和を築く」ことはかなり困難な気がします。
#6 2016年10月03日 18:15:31
- イエスの証人
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
旧約に神も新約の神も素晴らしいのです。
理解が深まれば分かります。
#7 2016年10月03日 18:55:46
- ラハム
- メンバー
Re: アブラハムの神の限界
イエスの証人さん、
旧約と新約の神様のどこが素晴らしかったですか。
具体的にご自分が感じていることをお話しください。
ただ、素晴らしいというだけでは
なにが素晴らしいのかわたしには理解できません。
わたしが理解できないことの一つに、
ダビデ王がイスラエル人の人口調査をしたとき、
エホバから罪とみなされて7万人だったか天使により
殺戮されています。ダビデが兵力を当てにして、
神、エホバにより頼まなかったからだという説明を
集会中に聞いていました。
だからといって、ダビデの愚かさのために
ダビデの発言に直接関係していない、
7万人もの人たちを殺戮する正当な理由になるのでしょうか。
わたしにはまったく理解不能です。
わたしには旧約聖書が神の殺戮の記録に見えます。
だから、新約聖書の記述者たちは、
旧約聖書に表現されているYHWHを記述しなかったと思います。
神の愛を強調する一世紀の信者たちには
殺戮の歴史書に表現されている
YHWHは愛を具現している神とは信じられなかったのでしょう。
イエスの証人さんが、エホバや神を使っていないところから、
「エホバ」や「神」を使うことが
どこか納得しづらいところが、
心の奥すみにあるような気がします。
オフライン
#8 2016年10月03日 19:47:27
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
イエスの証人さん
私は人生において何が本当に人を幸福にさせるのかを失敗しながら学んできました。
また、素朴な感情の大切さも理解できるつもりです。
「イエスに会う」ことも理解できます。
聖書の神に対し、ラハムさんのように感じたりする方は少なくありません。
あなたはこうした聖書記述に対しどのように向き合っていますか?
恐れないで気持ちを吐露してみてください。
#9 2016年10月03日 22:00:56
- イエスの証人
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
まず、皆さんは圧倒的に信仰が弱い。旧約と新約の神が違うという見解は昔からありますが、クリスチャンの間では、旧、新約の神は共に愛と公正と憐れみに富む方であるという認識です。
ダビデの人口調査についても私が述べなくても調べればイスラエル国民の罪や罰を受けた経緯は分かるでしょう。
皆さんはエホバの証人の組織を批判するあまり、聖書や神まで批判していませんか?
本当の神様に出会い理解が深まれば、そのような事はないでしょう。
#10 2016年10月03日 22:44:55
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
イエスの証人さん
>エホバの証人の組織を批判するあまり、聖書や神まで批判していませんか?
違います。そう単純ではありません。
Jwから意識が離れた方の大半は自動的に聖書を嫌いになる訳ではありませんし、神への信仰を失う訳では無いのです。
信じるための根拠を組織から押し付けられていたことに気づき、信仰奴隷状態から逃れたいのです。
組織は基本的に自分での聖書解釈をゆるしません。しかし離れると自分自身で聖書を読み理解したいと考えます。
より自由でありながらも今後は慎重に何が書かれているか、見極めたいのです。それで、
>クリスチャンの間では、旧、新約の神は共に愛と公正と憐れみに富む方であるという認識です。
この文章などは人の意見に過ぎず、ほとんど真実の探求には意味がないように感じます。
また、申し分ないけど、間接話法的なあなたの文章全体からはあなたの信仰の根拠や信仰が伝わりません。
単なる、批判への批判でなく、私の述べたことに真摯にあなたの理解で答えて頂ければと思います。
あなたの信仰あるいは所属団体は世界を恒久平和な所にする見込みがありますか?あるとすれば、どのような方法ですか?
#11 2016年10月03日 22:49:15
- カレブ
- Administrator
Re: アブラハムの神の限界
こんばんは。
ラハムさん
>旧約と新約の神様のどこが素晴らしかったですか。
>具体的にご自分が感じていることをお話しください。
akameさん
>イエスの証人さん
>聖書の神に対し、ラハムさんのように感じたりする方は少なくありません。
>あなたはこうした聖書記述に対しどのように向き合っていますか?
イエスの証人さん
>まず、皆さんは圧倒的に信仰が弱い。
>クリスチャンの間では、旧、新約の神は共に愛と公正と憐れみに富む方であるという認識です。
この流れ
ほぼ予想できてしまうパターンです。
信仰が弱い ですか・・・
信仰があれば山をも動かすとありますからね。
イエスの証人さん
>ダビデの人口調査についても私が述べなくても調べればイスラエル国民の罪や罰を受けた経緯は分かるでしょう。
すでに答えが質問内容とずれているとは思います
が
わたしが興味深いと思うのは「私が述べなくても」というところです。
旧約聖書のヤハウェを弁護する際に、正常な人間の心があると
おかしな展開になるって想像できちゃうということじゃないですかね。
なので自分で具体的に殺害された子供たちについて言及するのを
躊躇しちゃうというのがありますよね。
オフライン
#13 2016年10月05日 00:22:37
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
ラハムさん
ここで偉そうに、自己完結したくはないのですが、神の不条理性は神義論で一定の解釈は可能です。ただ、それはあくまでも神をキリスト教の範囲に納めたものです。
私は神の定義を一旦キリスト教の枠からはみ出させないと、聖書や宗教の限界や偽善に触れた人たちが、論理的感情的、心底での納得は困難だと感じます。
こうした根幹的な部分での論議こそ真の神に会うことにつながると思っています。
#14 2016年10月05日 09:47:03
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
ささらさん、
お待ちしてます。忙しくしておられる、と推察していました。私も色々ありタイミングが合えば良いのですが
ついでに述べておきますと、神義論には
「悪を必要悪にする」が含まれます。
また「被造物が創造主に逆らえない」ローマ9:20 「私が地の基を置いたときあなたはどこにいたのか」ヨブ38:4
などに帰結する解釈も骨格になります。
こうした理論の分析には、内面矛盾を増幅させる、聖書から聖書を解く作業には個人には限界があり、エチオピアの宦官「手引きがないとわからない」
私は何度も述べていますが、結局人は自分が信じたいものしか信じたない、見たいものしか見ない、と思うのですが
そうした壁を乗り越えるためには、神の定義の枠、善悪の定義の枠を無限に近いぐらいにしないと難しいと感じています。
そしてその枠を超えるヒントは自然科学にあると思いますが、それこそ宗教と科学を結び付けようとした歴史にあるように無理無謀かもしれません。笑
まあ、それでも一考の価値はあると思います。
#15 2016年10月05日 10:18:52
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
ついでのついで申し分ありませんが、
自然科学と(宗教というより)信仰になりますが、
やはり先ずは大前提として神を自然界の造り主にした場合をお願いできればと思います。
その先の神を創造主に限定しない論議もまた楽しみなのですが、
あえて 笑 お願いします。
#17 2016年10月06日 12:21:39
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
てつてつさん、お尋ねします。
>別の「囚われ」
とは何でしょう?その囚われから解放された方がより幸福になれそうですか?
#18 2016年10月07日 22:00:05
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
鵜呑みや思い込み、錯覚に関係し得る疑問点が幾つかあります。
例、「神を創造主とする」根拠はどれほどありますか?
実は地動説のように誰も否定できない根拠ほどの客観的な根拠はありませんし、信じる対象を「唯一神を創造神とする」までには幾つかのステップが飛ばされています。
万物の創り手を神とする考えには、世界の宗教ではなく、とりわけ特定の宗教、
アブラハムの宗教又は啓典が述べている「唯一神が世界を創った」ことが主因だと言われています。
そして、今はこの信仰が世界を席巻していますが、人は自然にそれを受け入れ信じてきたのでしょうか?
人は人間より大きな存在を感じることが多々あります。私もより大きな存在を感じています。しかしそれは、自動的に唯一神なる創造主を信じる根拠になるのでしょうか?
唯一神の崇拝、これは人間が産まれながらに持っている自然の感覚そして、古代からの信仰に裏打ちされたものでしょうか?
歴史は何を語りますか?
#20 2016年10月08日 14:01:11
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
ラハムさん
>声も出さずに
これもポイントだと思います。
私は「生産者責任として使用説明を備えるように、神は聖書を備えた」を伝道活動に使っていました。(文字は声の代用)
改めて考えますと、
創造主だから当然創作説明を行うはずと考える、又は述べる時点で既にマイコン的なロジックが働いている訳です。
#21 2016年10月08日 20:56:30
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
Something Greatについては、
人により様々な解釈ができると思います。
私見ですが、森羅万象の根源者は「全て」と言える存在です。
仮に創造に特質が反映されたとすれば、善悪の基準を超えた存在になります。
建築図面には無意味な線はなく、全て設計者の意図が反映されることに似て、
自然界の設計者には、優しさ、むごさ、美しさ、醜くさ、その他あらゆるものが包含されています。
ある意味 聖書の神の資質にも通じて、
最高の美や愛情もあれば、残酷さや
大量の動物の犠牲(血や肉が焼ける匂い)に
恍惚とする野蛮さも持ち合わせています。
生物の生態、地球の現象そのままとも言えます。
#22 2016年10月08日 23:18:02
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
暫し、独り言をご容赦、一瞥ご笑読ください。
一神教の歴史は後にして、
「何でもありの啓典の神や自然界の理不尽さとは一線を画した存在について」述べたいと思います。
ある人たち(私たちは)時に啓典の神とは異なるような、全き善なる存在に会ったかのような経験をしたり、そのような存在を想定して祈ったりします。
これはどういうことでしょうか?
それは私が学んだ宗教発生のメカニズムと関与があります。
幼少時から私の周囲には所謂「霊能者」が
常に数人いる状態で、多様な霊に遭遇していました。
また十代後半にはその中でも最強の力と知識を有する人物に師事していました。その人は京都の仏教系大学の講師をして、高野山金剛峰寺を拠点とした修行を行なっていました。
また世界の様々な宗教、神秘学、哲学に通じ
「法力」を有していました。
法力の中の千里眼が現出する時には、遠方の人物が何を今しているか、が見えたのです。
その人が知るはずもないのに、どこそこの
誰かさんが我が家に電話をしようとしてる、と言えば電話がかかってきたりしていました。また「見えたこと」を確認したら、まず間違いやくその通りでした。
その他、様々な力を有していましたし、私は好奇心旺盛でしたから、ある日尋ねたのです。
「••さんの力はどこから来るのですか?」
#25 2016年10月09日 11:47:38
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
事業が忙しく、小刻みになります。
Mさん「宗教は見える世界と見えない世界の合作なのです」
これはどういう意味でしょうか?
人は神々に似た存在なので、元来様々な能力を秘して生まれています。
(余談。赤ちゃんには万能感があり既に幸福なのですが、母親との一体感は元の世界での神との一体感を思い出させ、さらに嬉々としています。しかしその後、地では様々な制約があることを学びます。また周りの環境に迎合しなければ生きられないことが多いので周りからの刷り込みに迎合して能力も失せていきます。しかしそうならない人たちもいます)
人はできる限り自由に自分の能力を試したい、様々な感情を満たしたい(体験したい)との欲求を抱き生まれますが、それを妨げる様々な障害に直前します。
自分の(気持ち次第)で、ある程度は克服できます。例えば、気持ちとは「念」でもあり、ある程度の病気は自分で直せます。他人の生体に「正常なイメージ」を働きかけると再生を早くできます。骨折なども異常に早めることが可能で、レントゲン撮影でも検証できます)
余談が多いですが、
個人の力を超えた障害に直前する場合、本能的に元の世界の力を借りようとします。それは最も信頼できる親に頼ること以上に信頼できる存在、自分の心の最も深いところを知っている存在、自分を見てくれている存在を完全には忘れていないからです。
集団で直前する障害は、利害関係が共にある人たちが集団で念じることになります。
人の祈りは様々な種類の霊に届いています。
性質や能力が多様に異なり、得意分野も其々です。
その祈りの性質に合致した霊が祈りを拾ってくれることがあります。(捨てる神あれば拾う神あり)
集団での命がけの念(祈り)または「妄想に近いもの」はかなり強力な霊を動かします。
ここでの霊とは、「人間の兄弟であり制限がかなり広げられた存在」のことです。
基本的に霊は人から見ると変幻自在で、念を具現化できる能力が人よりも遥かにあります。
しかし徳の高い霊(利他的)たちは、宗教的な分野では上からの押し付けはしませんし、支配的でもありません。
しかし中には支配的な存在もあります。
心を縛り左右する、取り引き好きな存在もあります。
時には「愛」や「保護」を取り引き材料にします。