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#826 2018年08月25日 16:36:01

ラハム
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

「イエス・キリストは存在したのか」という本もいいかもしれません。
文藝春秋発行です。これの著者はイスラム教徒だそうです。
キリスト教系の人が書くよりバランスいいかもしれません。
わたしが読み始めたとき、イエス・キリストという人物が実在したのか
という意味だと思っていましたが、内容は救世主であるイエスが存在したのか
というような意味であることを理解しました。
キリストが革命家だったという観点で扱っています。

オフライン

#827 2018年08月25日 22:00:23

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

史的イエスについてIrisさんから次のような質問がなされました。

1.このあたりは史実としてどのくらい確からしいのでしょうか?
2.根拠としてはどのようなものがあるのでしょうか?
3.総説のような読みやすい資料はありますか?

まず、2の質問から。

イエスについての資料は新約聖書以外ないといってよいでしょう。しかし、イエスの生涯を描いた4つの福音書はイエスの死後40年以上経過してから書かれたもので、しかも矛盾だらけで、福音書から歴史上のイエスの生涯や思想を再現するのは簡単ではありません。そのため、いくつかの基準を設けて聖書からこれは史的イエスのものだろうというものを選び出すことが行われます。

基準はどんなものかというと、例えば、一番古い福音書はマルコなので、マルコの記述を重視します。マタイとルカは共通の資料(Q資料)を基にしているとされていて、その共通部分も古いものだろうとされ重視します。また、多くの福音書に書かれていることは一つの福音書にしか書かれていないことよりも重視します。

イエスは1世紀前半のパレスチナにアラム語を話すユダヤ人として生きていたので、その当時の生活習慣を反映したものや、ギリシャ語ではなくアラム語的な言い回しのほうが重視されます。マルコ5:41の“そして,幼子の手を取って,「タリタ クミ」と言われた。これは,訳せば,「乙女よ,あなたに言います,起きなさい!」という意味である。”タリタ クミはアラム語です。逆に、アラム語に翻訳できないギリシャ語の部分は後世の創作とみなされます。

それから、後のキリスト教の教えと似ていない話のほうが信ぴょう性が高いという基準(dissimilarityの基準)があります。例えば、イエスがベツレヘムで生まれたというのは、信ぴょう性が低いとされます。マタイとルカにしか書いていないし、旧約聖書のミカ書ではメシアはベツレヘムから出るとなっているので、イエスはメシア、ギリシャ語ではキリストというのがキリスト教の根本教義なので、ベツレヘムで生まれたことに後世の人間はしたがるだろうと予想できるからです。しかし、イエスがナザレの人だという話は信ぴょう性が高いとされます。ナザレはちっぽけな村で、偉大な救世主の出身地として後世の人間がわざわざ創作することはありそうもないからです。同じ理由で、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けたとことも、後世のクリスチャンにとって不都合なことなので創作したのではなく史実とみなされます。

さらに例をあげますと、マタイ19:28、“イエスは彼らに言われた,「あなた方に真実に言いますが,再創造のさい,人の子が自分の栄光の座に座るときには,わたしに従ってきたあなた方自身も十二の座に座り,イスラエルの十二の部族を裁くでしょう。”(へんな新世界訳です)は、イエスが本当に言ったことと考えられます。なぜなら“あなた方”にはイスカリオテのユダも含まれているからで、後世の人間が創作することはあり得ないからです。

マルコ10;17-27には、ある金持ちが永遠の命を受け継ぐにはどうしたらいいのかとイエスに尋ねます。イエスは、“あなたはおきてを知っています。すなわち,『殺人をしてはいけない,姦淫を犯してはいけない,盗んではいけない,偽りの証しをしてはいけない,だまし取ってはいけない,あなたの父と母を敬いなさい』などです」。”といいます。つまり律法を守れということなのですが、これはキリスト教の教義に反します。パウロ的なキリスト教ではキリストの死と復活を信じること、これが救いのために必要なことです。律法を守れば永遠の命が得られるというのは反キリスト教的なので、後世の人間が創作したとは考えにくく、歴史上のイエスがそう言ったので、聖書にそう書かれたと考えるわけです。

このような作業を福音書全体に行い、これはイエスが行ったこと、言ったことだろうというのを確定していき、そこからイエスの全体像を組み立てるわけです。

1の質問について

以上のような作業を経て得られたイエス像は、どの程度確からしいのかといえば、限定された資料の制約がある中では、かなり確からしいといえるのではないでしょうか。しかし、それぞれの人が好むイエスのイメージ(神の子、偉大な教師、ローマ帝国に対する反逆者、貧者のための社会改革者などなど)があり、それを変えるのは難しいようです。

3の質問について

どんな総説があるか、あまりよく知らないのですが、比較的最近のものだと、「これだけは知っておきたい史的イエス」J.H.チャールズワース著 教文館 3132円 なんかはどうでしょうか。500ページ以上もあります。ローマ法王ベネディクト16世が書いた、「ナザレのイエス」春秋社 3240円  なんて言うのもあります。

#828 2018年08月26日 12:38:10

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

てつてつさん、ラハムさん、
本の御紹介ありがとうございます。
どちらも面白そうですね!

オフライン

#829 2018年08月27日 01:13:03

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん、丁寧なお返事ありがとうございます。

やはり新約聖書を検討するしかないんですね。
執筆者の意図がふんだんに盛り込まれた新約聖書を予備知識なしに読めば、史実と異なるイメージができてしまうのは仕方ないのでしょうね。

ベネディクト16世の著書が春秋社からも出ていたのですね。いろいろ勉強してみたいと思います。ありがとうございました。

オフライン

#830 2018年08月27日 08:14:46

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

史的イエス研究は、たまねぎの皮を剥いていったら何も残らなくなるみたいなものだ、と揶揄されることもありましたが、今では「歴史のイエス」が本当に語った(らしいとされる)ことは、かなりの確からしさで特定できるとする人が多いようですね。

後に作られたキリスト教教義に都合の悪いもの程、史実性が高いとされるのは皮肉ですが。


ベネディクト16世の「ナザレのイエス」は教義と史実をそれなりに区別して解説しているので、キリスト教系の人が書いたものとしてはバランスが取れていると思います。

#831 2018年08月27日 17:02:42

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“神の律法と原則によって良心を訓練しましょう”で、学校の先生が生徒にお説教をしているような内容です。神の律法と原則といいながら、勧めているのは、「ものみの塔出版物索引」,「エホバの証人のためのリサーチガイド」,「ものみの塔 オンライン・ライブラリー」です。」
「JWにとって、聖書は客寄せのための単なる看板だから。JWが本当に教えたいのは、JWの本や雑誌だろう。元統治体のメンバーだった、レイモンド・フランズは、「良心の危機」という本を書いているけれど、今の統治体には良心の危機はないのだろう。」
「何があっても謝罪もせず、教義の変更も光が増したと言ってごまかす人たちですから。」
「カルトのリーダーとはそういうものだよ。」

「ところで、“良心”という言葉は、旧約聖書には出てこないですよね。」
「旧約聖書では“良心”はまだ発見されていない。新約聖書の時代になって、ギリシャ世界から教わる。新約では30回“良心”という単語が出てくるけれど、ほとんどパウロが使っている。」
「でも、サムエル第一24:5に“後になって,サウルのものである[そでなしの上着の]すそを切り取ったことで,ダビデの心は彼を打っていたのである。”とあります。この“心”が良心と同じような意味として使われていますね。」
「良心を、悪いことをしたという意識がもたらす心の痛みとすればそうだね。」
「1節に、“アダムとエバはエホバの命令に背いた時,エホバから隠れようとしました。良心が痛んだからです。”とありますが、本当でしょうか?」
「いいかげんなことを書いているね。良心が痛んだとは聖書には書いていないよ。創世記3:10で、“自分が裸なので怖くなり,そのために身を隠したのです。”とアダムは言っているじゃないか。隠れたのは恐怖のせい。アダムにもエバにも心の痛みのようなものは感じられない。彼らは小さな子どものような存在でしょう。」
「裸でも気にならないのは子どもですからね。」

「新約聖書で歴史的に最初に“良心”という語が使われるのはコリント第一8:7-12で、偶像にささげられた食べ物を食べてよいかどうかという問題を扱った部分。結論は、個人の家ではいいけれど、人前では食べちゃダメというものなんだけど、その理由の中で、歴史上初めて聖書の中で“良心”という単語が使われる。」
「偶像は単なる物なので、それに捧げられた食べ物は汚れているわけではなく、食べたって問題はないけれど、そういった知識のない人が食べちゃうと、“彼らの良心は弱いために汚されます。”とパウロは言っていますね。食べ物じゃなくて良心が汚れるので食べちゃダメといっているのですね。」
「ここでいう良心は、神の道徳的な要求を理解する能力というような意味なんだ。」
「そうですか。ものみの塔2節には、“正邪の感覚である良心は道徳上のコンパスのようです。”とありますよ。」
「感覚というより知識だろうね。洞察の“良心”の所を見ると、“この言葉はギリシャ語のシュネイデーシスの訳です。シュネイデーシスは,シュン(と共に)とエイデーシス(知識)に由来し,それゆえに共同の知識,つまり自分と共にある知識を意味しています。”とある。これはJWには珍しく正しい。」
「ということは、ものみの塔の執筆者はJWの出版物である“洞察”もあまりよく読んでいないのですね。」

「3節に、“良心が正しく訓練されていないと,簡単に悪いことを行なってしまいます。良心が警告を発しないからです。(テモ一 4:1,2)”とある。引照聖句のテモ一4:1を見てみると、新世界訳では“,霊感のことばは,後の時代にある人たちが信仰から離れ去り,[人を]惑わす霊感のことばや悪霊の教えに注意を寄せるようになることを明確に述べています。”と訳してある。これには驚いた。“霊感の言葉”って何なの?」
「新共同訳だと、““霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。 ”です。かなり違いますね。主語は“霊”です。」
「もちろん、主語は“霊 pneuma”が正しい。ところが、霊が語るというのはJWの教義からすると困る。まるで霊が人格を持つかのようだからだ。JWでは霊はエネルギーみたいなものという教えだろう。それで、“霊”を“霊感の言葉”と勝手に訳している。教義に合わせて聖書を翻訳するということだね。こんなことをしても、統治体の良心は痛まないのだろう。」

「記事の中で、いろいろ立派なことを述べていますが、具体例が飲酒という低レベルな話なのは、実際のJWがそのレベルだからでしょうね。」
「元アル中のことを考慮して、その元アル中の前では酒を飲むなという話が、11と12節に出ていると思ったら、そうじゃなくて、“家に招いたゲストがお酒を断わっているのに,飲むよう強く勧めるのは,愛の欠けたことです。”と書いてあるのには驚いた。JWというのはこんなこともいちいち注意されないとわからないんだ。」
「できの悪い生徒みたいですね。7節で、“聖書中の実例を読んで黙想するなら,神から大切な教訓を教えていただくことができます。”とあって、その具体例がダビデとバテ・シバの話なのです。これも低レベルな話ですね。」
「ダビデとバテ・シバの話は、ダビデが王だから可能な話で、一般人には無縁な話だ。」
「もっとましな例を出せばいいのに。」
「もっとましな例といっても、聖書中の人物は近代人のようにあれこれ悩んだりしないからね。良心に悩む近代人に一番近いのがダビデなんだよ。でも、ダビデが神から受けた教訓は、王といえどもそのできることには限界があるという政治的なこと。古代の王制では、王は道徳的な制約を受けない、王は法の上にあるのであって、法の支配を受けないというのが普通だった。ダビデはそのような王になろうとしたけれど、ナタンに代表される宗教勢力は認めなかったということだね。」
「そのせいか、古代イスラエルでは王権は弱いですからね。」

#832 2018年08月29日 20:21:34

現信者
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さんへ

JW少年との会話、扱うものみの塔の記事を1週間前倒しにしてもらうことはできませんか?
そしたら、予習したり集会に参加したりしたときに、より客観的に分析できるようになるのでとても助かります。
いつも本当に興味深く拝見させていただいています。ご検討いただけると幸いです。

#833 2018年08月31日 06:56:07

万年研究生
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

新世界訳を読むとところどころ「--」となっている成句があります。

他の翻訳を見ますとちゃんと記載があります。

たとえばルカ17:36などですが成句見ますとなぜ省略したのかと思うような文面です。
どういった理由から省略しているのでしょうか?

JW的には「知識は滅ぼされます」とかのほうが省略にふさわしいと思うのですが。
(他の翻訳でも省略されている聖書も見受けられますが)

#834 2018年08月31日 17:33:28

ラハム
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

万年研究生 さんの発言:

新世界訳を読むと
ところどころ「--」となっている聖句があります。
他の翻訳を見ますとちゃんと記載があります。
たとえばルカ17:36などですが聖句見ますと
なぜ省略したのかと思うような文面です。
どういった理由から省略しているのでしょうか?

以下の引用はすべて日本語版の前書きです。

クリスチャン・ギリシャ語聖書新世界訳-p5

クリスチャン・ギリシャ語聖書の「新世界訳」はおもに、
広く知られたウエストコットとホートのギリシャ語本文に基づいています。
それは最古のギリシャ語諸写本に従うものです。
その理由で、ウエストコットとホートのギリシャ語本文が出版される以前に
なされた聖書翻訳にある節や句で、「新世界訳」に現れていないものがありますが、
それは、その語句が、この権威あるギリシャ語本文に含まれていないためです。
そうした理由で省略されている節は、その節の番号の次に付した
ダッシュ記号によって示してあります。(1973年版)

新世界訳聖書-p6

以前の聖書翻訳の中にあっても、
最近の権威ある本文の中には見いだされない節は省略されており、
そのことは節番号の後のダッシュ記号によって示されています。(1982年版)

1984年版、参照資料付き聖書、革表紙普通版、革表紙ポケット版の
前書きや付録もざっと読んでみたのですが、
ダッシュ記号で省略されている聖句の説明は見つけられませんでした。

2017年に発行された「聖書 新改訳2017」、新改訳聖書ですが、
あとがきに「ネストレ・アーラントの校訂本第28版ならびに
聖書協会世界連盟第5版に基づき訳業を進めた」と記載されています。

ウエストコットとホートについてもどこかで読んだことがあります。
だんだん古くなって古い本文にしがみついているものみの塔は
ボロが出ないようにダッシュ記号で省略した
聖句の説明は記載しないようにしているのかもしれません。

オフライン

#835 2018年09月02日 08:38:09

万年研究生
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ラハムさん

回答ありがとうございます

前書きに記載があったのですね。

前書きまでは読まないですね、そもそも書籍形態の聖書は最近は手に取らなくなってますからね。

好き勝手に成句を選んでるという風ではない感じなのは理解出来ました。
ありがとうございます。

#836 2018年09月03日 16:58:20

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“「光を……輝かせ」,エホバに栄光をもたらす”で、伝道がうまくいくように善い人を演じろという内容で、JW流に光を輝かせるための細かな指示があれこれと続きます。」
「伝道はうまくいっているんじゃないの。1節で、“エホバの民が増加しているのは本当にうれしいことです。”とあるよ。」
「都合の良い数字を挙げているだけですよ。各地のJWが経験しているのは、王国会館や大会ホールが売りに出され、会衆が合併され、縮小衰退している現実です。年鑑を見ると、2015年には組織が養っていた奉仕者は26011人いたのに、2017年には19730人になっています。6281人、つまり約4人に一人が組織から放り出されたわけです。」
「退職金も年金もなく、長年働いていた人間を放り出すわけだから、最低限の道徳観もない組織だね。ところで、光を輝かせるためにはJWはなにをするの?」

「4節で、“光を輝かせる一つの方法は,良い知らせを伝え,人々を弟子とすることです。”と、伝道至上主義の教義をぶちかましています。6節では、年配の夫婦が家の前で出版物を並べて通行人に見せているのを、“自宅のすぐ外で光を輝かせること”と称賛しています。」
「ちょっと待ってよ。それって、フリーマーケットで古本を並べている人と同じだよ。それもJW流の光を輝かせることなわけ。イエスが聞いたら怒って、その本を並べているテーブルをひっくり返すよ。」
「9節では、“親の皆さん,子どもたちが自分の言葉で注解し,光を輝かせることができるよう助けてください。”とあり、注解すればよいみたいです。コリント第一14:25が引照聖句として出ています。」
「コリント第一14章は、おもに異言と預言について論じている部分だよ。子どもの注解とどう結びつくのだろう?」
「その聖句は、“その心の秘密は明らかにされ,そのため彼はひれ伏して神を崇拝し,「神はほんとうにあなた方の中におられる」とはっきり言うようになります。”です。これは14:24によると、“あなた方がみな預言しているところへだれか不信者または普通の人が入って”来たという状況です。そうすると預言をきいて神を信じるようになるといっているわけで、子どもの注解とは全く無関係ですね。」
「ひどい聖句の誤用。ここでいう預言は、旧約聖書にあるような神からのメッセージとしての預言という意味ではなく、突然生じた宗教的な啓示あるいは洞察といった意味のようだ。コリントでは、その啓示ないしは洞察を、みんなで自由に議論しあっていたみたいだね。しかし、子どもが注解するのを聞いて、9節にあるように真理に引き寄せられる人なんかいるの?この記事の最初の写真も、子連れ伝道の写真だけれど、児童虐待にしか見えないね。子どもを信者獲得のための手段に使おうとするのは卑しい宗教指導者の考えること。」

「光を輝かせというのは、マタイ5:16、“あなた方の光を人々の前に輝かせ,人々があなた方のりっぱな業を見て,天におられるあなた方の父に栄光を帰するようにしなさい。”からきているのですが、JWはパリサイ的にこの聖句を理解していると思うのですが?」
「4節に、“家の人や道行く人たちは,わたしたちの行動を見ています。わたしたちが温かくほほえみ,明るくあいさつするなら,人々は良い印象を持ち,わたしたちの崇拝する神に引き寄せられるかもしれません。”とある。これでは人が見ている前で敬虔にふるまうことを好んだパリサイ人と同じだ。」
「でも、マタイ5:16では“光を人々の前に輝かせ”とありますからね。他の人が見ているところで善いことをしないといけないんじゃないですか?」
「そういう意味ではない、と考えるのが普通だね。その前の5:14,15では、“あなた方は世の光です。都市が山の上にあれば,それは隠されることがありません。 人はともしびをともすと,それを量りかごの下ではなく,燭台の上に据え,それは家の中にいるすべての人の上に輝くのです。”とある。キーワードは“隠されることはありません”だ。この発言を当時のパレスチナの社会や文化を背景にしていると考えると、イエスの弟子たちは、エッセネ派の人たちのように社会から隔離したところで、密やかに宗教活動をするのではなく、社会と積極的にかかわって行く、というという宣言とみるべきだ。」

「ところで5節で、挨拶することの重要性を強調して、マタイ10:12から、“イエスは弟子たちに,「家の中に入るときには,家の者たちにあいさつをしなさい」と述べました。”とあるのです。弟子たちは挨拶することも知らない無知な礼儀知らずだったんですか?」
「ここでいう挨拶は単に“こんにちは”という以上のことを意味している。このマタイの平行記事であるルカ10:5で、“どこでも家の中に入ったなら,まず,『この家に平和がありますように』と言いなさい。”とイエスは具体的に指示している。そして次のマタイ10:13でイエスはこういう。“その家がふさわしいなら,あなた方の願う平安をそこに臨ませなさい。しかし,もしふさわしくないなら,あなた方からの平安をあなた方のもとに帰らせなさい。”というわけで、この挨拶は、その家に平和をもたらす魔術的な力を持つものなの。だから、ふさわしくない家からはその平和を取り上げることができる。」
「要するに、5節にある、“わたしたちが明るく友好的にあいさつし,自己紹介するなら,家の人の不安は和らぐでしょう。”というセールスマン的解釈は、イエスの指示の解釈としては全然違うということですね。」
「イエスは、マタイ10:8で、弟子たちに“病気の人を治し,死んだ者をよみがえらせ,らい病人を清め,悪霊を追い出しなさい。”といっている。弟子たちの活動はJWの伝道活動とは全く違う超自然的なものなの。」

「15節に、“「大患難」はまだ遠い先だとか,自分の生きている間には来ない,と思っているなら,伝道に対する熱意は弱まってしまうでしょう。”とありますが、さすがに統治体も、この記事では大患難が間もなく来るとは言っていませんね。16節で、“世界の状態がますます悪化しているので,いつも見張っている必要があります。”というのが精いっぱいのようです。終末論を売り物にしている宗教にしては迫力不足ですね。」
「来週の記事で終わりが近いとぶちかますんじゃないの。世界の状態がますます悪化しているという根拠は何だろう?悪化しないとJWが困るのはわかるけれど、根拠もなくそう言われてもね。」
「悪化しているのはJWの財務状況でしょう。」

#837 2018年09月08日 15:25:44

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

土曜の朝方に近所のJW少年がやってきた。
「来週のものみの塔は、“誰に認められたいですか”というもので、何も考えずに組織のために働け、そうすると将来いいことがあるかもよ、という内容ですね。」
「いつもより早く来たね。予習だね。ざっと読むと、書かれていることがあいまいで、力強さがないね。カルト宗教に必要な、単純で、わかりやすいメッセージが欠けているな。」

「統治体は自分たちがどう見られているか気づいてないのですね。3節で、ルカ20章から、“書士たちに気を付けなさい。彼らは長い衣を着て歩き回ることを望み,市の立つ広場でのあいさつと,会堂の正面の座席,そして晩さんでは特に目立つ場所を好みます。”を引用しているのですが、この聖句からは、まともなJWは統治体の老人たちを思い浮かべると思いますよ。彼らは高価なスーツを着て、目立つこと、信者から称賛を浴びることに熱心ですからね。信者もそれに迎合して、集会の祈りの中で、統治体の兄弟たちに感謝しますなんて言うようになりました。」

「3節で、“他方イエスは,人の目には留まらないほどわずかな寄付をした貧しいやもめを褒めました。(ルカ 21:1‐4)”とあるけれど、イエスは褒めてはいないよ。」
「“このやもめは,貧しいとはいえ,彼ら全部より多く入れました。”といっているだけで、このやもめを見倣おうとか、天国は彼女のような人たちのものだ、などとは言っていませんね。」
「貧乏でも宗教に寄付をしろというのがこの話の趣旨だとすれば、これほどくだらない話はない。イエスは生活上の必要は宗教上の必要に優先すると別の所で言っているわけで、このやもめを褒めているわけではなく、嘆いていると解釈すべき。」
「要するに、なんて分不相応な寄付をしているのだ、宗教指導者に騙されて、嘆かわしい、と言っているわけですか。」
「やもめの話の直前に、最初に引用した“書士たちに気を付けなさい。”の話があって、そこには、“彼らは,やもめたちの家を食い荒らし”という一節がある。貧しいやもめの話は宗教指導者によってやもめたちが食い荒らされている実例なんだよ。貧しいやもめをほめているなんて言うのは聖書の誤読だ。」

「6節で、ガラテア4:9を引用して、“パウロはガラテアのクリスチャンに,世の「弱くて貧弱な基礎の事柄」の奴隷にならないようにと述べました。世で成功して認められようとするなら,そのような奴隷になってしまいます。(ガラ 4:9)”とあるのですが、これは聖句の完全なる誤用ですよね。」
「執筆者のレベルの低さがわかるね。まず、ガラテア人への手紙が、なぜ書かれたかというと、パウロがガラテアに教会を設立したのちに、別の宣教師がやって来て、信者に律法に従うこと、とりわけ割礼を受けることを求め、ガラテアの信者はそちらの教えになびいていったからなんだ。パウロはそれを知り、激怒して、パウロ的キリスト教のあるべき姿をかなり激しい言葉で書き連ねたものがガラテア人への手紙。」
「ガラテア2:16がパウロの言いたいことですよね。“人が義と宣せられるのは律法の業によるのではなく,ただキリスト・イエスに対する信仰を通してであることを知っているので,このわたしたちでさえキリスト・イエスに信仰を置き,こうして,律法の業によってではなく,キリストに対する信仰によって義と宣していただけるようにしたのです。律法の業によっては,肉なる者はだれも義と宣せられないからです。”」
「いわゆる信仰義認論だね。行いではなく信仰よって義とされる。JWは正しい行いによって義とされるという律法主義だから、主流のキリスト教とは大きく違う。」
「6節で引用している、“弱くて貧弱な基礎の事柄”というのは律法のことを言っているのですよね。」
「せっかくキリストの福音を知ったのに、JWのように古い律法主義に戻ろうとしているガラテアの信者を非難して、そういっているわけだ。それが4:9の“どうしてあなた方は,弱くて貧弱な基礎の事柄に逆戻りし,再びそれのために奴隷になろうとするのですか。”という部分だね。」
「世の成功を求めることとは全く関係ない聖句ですね。弱くて貧弱な基礎の事柄に逆戻りしているのは、律法が大好きなJWということですね。」

「9節に、“マゴグのゴグの攻撃が近づいているからです。(エゼ 38:8‐12)”とさりげなく書いているのには笑った。マゴグのゴグは悪魔サタンのことですと何十年も言い続けてきたのに、2015年になって、諸国家の連合体と解釈を変えたんだよね。JWの聖書珍解釈の歴史にさらに1ページが加わったわけだ。」
「もっと昔はロシアと言っていたみたいですね。マゴグのゴグって何なんですか?」
「架空のイスラエルの敵だね。旧約聖書の預言者はせいぜい自分より数世代先のことしか関心がない。したがって、その預言は21世紀に住む人間を想定したものでない。マゴグのゴグの出来事は古代に起こるはずだったもの。」
「マゴグのゴグはバビロニア帝国の王のことと聞いたことがありますが、何を根拠にしているのですか?」
「エゼキエル38:15で、“あなたは,必ずあなたの場所から,北の最果てからやって来る。”とあり、バビロニア軍はイスラエルの北から来た。38:17で、“あなたはわたしが先の日々に,イスラエルの預言者であるわたしの僕たちの手によって語った者と同じか。”とある。エレミヤはバビロン侵攻の預言をしていた。この聖句はそのことを言っていると解釈できる。ところが、預言では、マゴグのゴグはイスラエルの山々で倒れるはずだったのにそうならなかった。そこで、この預言は38:8にあるように、“多くの日の後”と、未来に先送りされたんだ。」
「このエゼキエル38、39章をパクったのがヨハネの啓示の20章ですね。残虐な描写が気に入ったんでしょう。」

「11節以降、イエスの誕生とバプテスマの物語が続きます。単にスペースを埋めるための記事にしか思えません。」
「おもしろいのは、12節に、“サタンは占星術者たちがイエスと両親に会いに行くよう仕向けました。”という部分。新解釈じゃないの?サタンが占星術者を使わしたなんて聖書にひと言も書いていないからね。」
「マタイ2章をよむと、マタイは占星術者を全く否定的に描いていません。ユダヤ人の指導者層の無気力ぶりやヘロデ王の敵意とは対照的に、イエスに会いたいという熱心さを好意的に描いています。2:12では、神からヘロデのもとに帰らないように警告も受けて、それに従っています。サタンの手先じゃありませんよ。」
「占星術者ということで、JWとしては、悪役になってもらわないと困るからだろうね。」

#838 2018年09月09日 19:51:38

現信者
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さんへ

遅くなりましたが、週末のものみの塔研究に間に合う形で投稿して頂きありがとうございました。
おかげで、実際の討議中にも記事の矛盾点や本来の聖書と関係のない注解などにリアルタイムで気付くことができ、とても興味深かったです。
来週も楽しみにしています。

#839 2018年09月14日 16:51:39

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“あなたはだれに目を向けていますか”です。民数記20章のメリバで岩から水を出す話が中心です。この時、モーセとアロンはエホバに怒られて、約束の地に入れないことになったわけですが、そこから、“ストレスを感じても自制心を失わない。”、“ 最新の指示に従う。”、“他の人の間違いのせいでエホバとの関係が損なわれないようにする。”という教訓が学べるらしいです。」
「この記事もまとまりに欠けるね。主題は詩編123編からなのに、ほとんどをメリバの水の話についてあれこれと推測に費やしている。詩編123編は、故郷を追われたユダヤ人たちが異邦人に侮蔑・嘲笑されていることの悲嘆を歌ったものね。メリバの水とは全く関係ない。」
「11節は全てが推測ですね。初めのメリバは花崗岩で、2回目は石灰岩と書いていますが、メリバがどこか執筆者は知っているのですか?シナイ山だって、どこか誰も知らないのに。聖書では単に岩としか書いていません。15節に、“反抗的なイスラエル人と何十年も接し,疲れやストレスがたまっていたのでしょう。”とありますが、モーセは仕事に疲れた会社員程度の人ということですか。モーセに対する敬意が欠けています。」

「この話は、出エジプト記と民数記に何度も出てくる、民の不平と神の処罰の物語のひとつ。出エジプト記と民数記では神の性格がかなり違うけど。」
「出エジプト記では、民の不満に神がこたえ、奇跡的に解決し、不満を言った民に取り立てて罰は与えられませんね。救いと恵みの神という面が強調されています。」
「そう。ところが民数記になると、神様は民の不満に対して、ほとんどの場合、怒り、処罰を加える。不満を解消するために奇跡を起こさないこともしばしばで、結局災いを引き起こす。その災いもモーセのとりなしなどで何とか終息する。その功労者のモーセやアロンでさえ、約束の地に入ることを禁じるという意地悪をする。怒りと災いの神だね。」
「水のことで民が不平を言うのは、出エジプト記17章と民数記20章にほぼ同じ話がありますが、結末はかなり違いますね。」

「民数記20章の方は、神様の無茶苦茶なところがよく出ている。20:12で、神様は激怒して“あなた方がわたしに信仰を示さず,イスラエルの子らの目の前でわたしを神聖なものとすることを怠った”と言うのだけれど、具体的に何がいけなかったのかはよくわからない。」
「カデッシュという場所で、水のことで民は文句を言う。モーセとアロンはエホバに相談する。すると、エホバは、20:8で、“あなたとその兄弟アロンは,杖を取って,集会を呼び集めよ。そしてあなた方は彼らの目の前で大岩に向かって話し,それがまさに水を出すようにしなければならない。”というのです。」
「ここでの問題は、“杖を取って”何をするのか、何も指示されないこと。杖のことは20:10でも強調されているのに、杖の役割が不明のまま。」
「モーセは、こう考えると思います。そういえば昔、同じように水のことで不平が出たとき、岩を杖で打って水を出したな。きっと今回もそうするんだろうな、と。」
「そうだよ。実際に、モーセは後で岩を2回叩いている。9節で、“今回エホバは,岩を打つようにとは言われませんでした。”と、それがいけないことのように書いてあるけれど、神様は岩を打つなとは言っていない。」
「ものみの塔の解釈は、言われたこと以外はしてはいけないというJW流の服従精神のあらわれですね。」
「もし岩を打つのがダメなら、神様はとんでもない曲者だ。岩を打つように誘導して、打ったら激怒するなんて。しかし、杖で2回叩いて、水が出ている。これは神様が水を出したということでしょう。叩いたことがいけないのなら、水は出ないはず。神様はモーセの行為を是認していることになる。本当は、20:8で、杖を取って何をするか、指示されていたのだけれど、その部分が本文から消えてしまったという説がある。」

「12節では、“モーセは人々に「この大岩からわたしたちはあなた方のために水を出すのか」と言いました。「わたしたち」とはモーセとアロンのことだと思われます。モーセには奇跡の力の源であるエホバへの敬意がひどく欠けていました。”と説明してありますよ。」
「それがそんなに問題かな?モーセは、以前に神に抗議したり、神の言葉に対する不信感を堂々と述べている。例えば、民数記11:12では、“わたしがこの民すべてをはらんだのでしょうか。彼らを産んだのはわたしなのでしょうか。”と文句を言い、次の11:13では、“この民すべてに与えるだけの肉を,わたしはどこから得られるのでしょうか。”と神様に対する不信感を隠さない。でも神様は信仰心が足りないとモーセを怒ったりしなかった。ところが、今度は、モーセが口を滑らせただけで、約束の地に入れないという処罰なの?理解できないね。旧約聖書の神様に一貫性はないけど。」

「それから、なぜアロンまで罰せられるのでしょう?アロンはモーセと一緒にいただけで、何もしていません。アロンからすれば、納得いきませんよ。20:24で、エホバは、アロンが死ぬ直前に、“メリバの水に関してあなた方がわたしの指示に背いたためである。”というのですが、具体的にアロンがエホバのどの指示に背いたのか不明です。ものみの塔もアロンについては何も触れていません。」
「触れていないのは説明できないからさ。アロンはそれでも子孫が大祭司職を約束されていたからまだいいよ。モーセの子孫についてはほとんど知られていない。子孫繁栄を幸福の重要な要素と考えていた古代人の価値観からすれば、モーセに対する神様の仕打ちは酷すぎる。」
「年老いて使い捨てられたJWのようですね。」

「モーセは約束の地に入れなかったけれど、その理由は、申命記1:37、38ではこうだ。“あなた方のためにエホバはこのわたしに対してもいきり立たれ,『あなたもそこには入らない。   あなたの前に立っている者,ヌンの子ヨシュアがそこに入る』と言われた。”」
「メリバの水の事件ではなく、イスラエルの民のせいだといっているわけですね。でも、こちらはものみの塔では全く無視ですね。モーセが約束の地に入れなかった本当の理由は何なんでしょうね。」
「民数記では、メリバの水の事件のせいで、申命記では、イスラエルの民のせいだということだろうね。統一した見方はないということだよ。」

「1節に、“間もなく平和な新しい世が来ますが,それまでの間,状況はますます悪くなるでしょう。”と、終末論宗教らしさを出していますね。」
「でも、それは日本語版だけ。英語版では、“life is going to become even more difficult before a new day dawns and true peace is restored to this earth. ”で、“まもなく”に相当する単語はないよ。日本語の翻訳者は、執筆者気取りで、自由に作文している。」

「18節に、“エホバからの最新 の指示に忠実に従いましょう。”とありますが、組織の最新の指示に従えということですよね。統治体は自分たちをエホバと同一視しているということですね。」
「そのようだね。“エホバが組織を通して与えてくださる新しい指示にすぐに従う必要があります。(ヘブ 13:17)”とある。カルト色の強い内容だけど、ヘブライ13:17は関係ないよ。」
「“あなた方の間で指導の任に当たっている人たちに従い,また柔順でありなさい”というものですね。」
「“従い”と訳されているギリシャ語は、通常の従うという単語ではなく、確信するというような意味の単語なので、自発的に指導者の指示に従いましょうということだね。新共同訳では、“聞き入れ”としている。こちらの方がいい訳だね。“従順でありなさい”のもとのギリシャ語は、新約聖書ではここしか使われていない特殊な単語で、元の意味は“譲る、与える”という意味で、そこから派生して、“従う”という意味もある。つまり、あなたの指導者に進んで従い、彼らを支援しましょう、と言っている。ここでいう指導者は、統治体のことではなく、肩書に関係なく、直接信者に対して責任を負っている人のこと。」
「統治体の言うことには何でも従いましょう、というような聖句ではないということですね。」

#840 2018年09月21日 17:09:17

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバの側にいる者はだれか”で、カイン、ソロモンとアロンの金の子牛の例を挙げ、21節で“エホバは,間違いをした人をすぐに見限ったりはされません。アロンは許されました。今日,エホバは聖書や出版物や兄弟姉妹を通して警告を与えてくださいます。わたしたちが警告に従うなら,憐れみを示してくださいます。”と、まとめています。要するに、組織の警告に従え、そうでなければ・・・という信者を脅す内容です。」

「JWはエホバの側にいるということを暗黙の仮定としているようだけど、何の根拠もないよね。あくまで“自称”神の組織でしょう。自分たちが本当に神の側に立っているか点検してほしい。」
「数々の預言の外れ、頻繁に変わる聖書の解釈、教義に合わせた聖書のねつ造、信者に対する不当な虐待・差別、家族を破壊する排斥制度、信者を不当に苦しめる聖書に基づかない細々とした禁止事項、王国会館を信者の意向を無視して売り飛ばしていること、法律を守らず、犯罪を隠ぺいしてきたこと、などなどを見れば、本当に神の側に立っている組織か疑問に思いますね。」
「6節に、エホバは“弱さと闘っている人に,悪を退けてほしいと願っておられます。”とあるけれど、これは組織に対しても当てはまるでしょう。」
「末端の信者には悪と戦えといいながら、トップは悪を隠ぺいしたまま反省も謝罪もしないみたいです。」

「金の子牛の話でも見てみようか。まず「若い雄牛」と訳するのが正しい。本来は力と活力のシンボルで、「子牛」と訳するのは間違いね。新共同訳では「雄牛」となっている。」
「基本的な点でJWは間違っているわけでね。牛の像を作って、32:4で“イスラエルよ,これがあなたをエジプトの地から導き上ったあなたの神だ”というのはなぜでしょうか。牛を作ったのはエジプトから出た後です。事実に反します。その後、アロンは、“明日,エホバへの祭りがある”と言います。牛の神なのにへんですね。」
「新世界訳はインチキで、“神”じゃなくて、複数形の“神々”なの。これで謎が一つ増える。牛は一つなのにどうして“神々”といったのか?何か意図があって、わざと複数形にしている。その意図は?」
「このセリフは列王記一12:28の“それゆえ,王は相談して,二つの金の子牛を造り,民に言った,「あなた方がエルサレムに上るのは大変だ。イスラエルよ,ここに,あなたをエジプトの地から連れ上った,あなたの神がおられる」”と同じですね。これを引用しているわけですね。ここも本当は“神々”と複数形ですよね。二つの牛の像なのですから。新世界訳はダメですね。」
「この王様は、イスラエルが南北に分裂した時の、北の王のヤラベアム。この王様は、北の人々が南王国にあるエルサレムの神殿に巡礼することを阻止するために、ダンとベテルを新しい宗教の中心地に設定し、そこに金の雄牛の像を置いた。そこの祭司に、昔からの祭司ではなく、新しい祭司を任命した。この宗教改革には反発する人が沢山いて、特に昔からの祭司(多くはレビ族)は失業し、不満分子の中心となる。」
「わかりました。この王様の政策を批判する目的で、牛の像の話が民数記に挿入されたけですね。注意深い読者は、これはヤラベアム王のセリフと同じだ。だから、牛が単数形でなくわざわざ複数形になっているんだ、と気づくわけですね。」
「という訳で、この話が書かれたのはモーセの時代ではなく、ずーと後の王国分裂後で、場所は北王国だと考えられている。それから、牛の像を作ったのに、エホバの祭りだとアロンが言うのは、牛は神様そのものじゃなくて、目に見えない神様を運ぶものとして作られものだから。」

「牛の像の話の後半ですが、出エジプト32:26では“「エホバの側にいる者はだれか。わたしのもとへ!」 すると,レビの子らがみな彼のもとに集まって来た。”とあり、レビの連中が3000人ほど虐殺して、祭司職に任命されるわけですが、レビ族こそが神に忠実であったというレビ族の政治的主張なのですね。」
「旧約聖書では、神の命令とあれば人殺しは何も悪いことじゃないからね。恐ろしい世界だ。牛の話は、北王国のレビ系の祭司集団の資料に基づいていると考えられている。E資料と言われるもの。だからレビが活躍する。レビ族による虐殺の話は牛の話とはつながらない。レビ族だけはどんちゃん騒ぎをしなかった優等生です、とはどこにも書いていないからね。もとは別の話を無理やりくっつけたと考えられている。」
「牛の像の周りで、みんながどんちゃん騒ぎをしているのを見たモーセは十戒の書かれた石板を投げて、粉々にしたとありますが、これも政治的意味があるのですか。」
「イスラエルが南北に分裂後、南のエルサレムの神殿には、契約の箱があって、その中に十戒の書かれた石板があることになっていた。北の人間からすれば面白くない。それにケチをつけているわけだ。つまり、十戒の書かれた石板なんてあるわけないよ、なぜなら牛の像事件の時にモーセが壊したからね、南の人間の言うことは嘘だよ、ということになる。」

「アロンはなぜ罰せられなかったんですか?16節によると、“アロンは悔い改め,他のレビ人と共にエホバの側に付きました。”とありますが、本当でしょうか?」
「牛の像の物語の作者は、アロン系の祭司が大嫌いだった。だからアロンを牛の像事件の張本人に仕立て上げた。しかし、アロンの子孫が大祭司を務めているという歴史的事実を捻じ曲げることはできないので、アロンの罪はうやむやにするしかなかった。神から罰せられたのに、その子孫が大祭司を務めることはあり得ないからね。アロンが悔い改めたなんてことは聖書には書かれていない。アロンは言い訳として、32:22で“あなた自身この民をよく知っているはずです。彼らによこしまな傾向のあることを”といっている。自分は悪くない、民が悪いのですという、開き直った態度。さらに、32:24では、“そうしてわたしがそれを火の中に投げ入れると,この子牛が出て来たのです”とふざけたことをいっている。この話の作者はアロンをどうしようもない愚か者と描いている。」

「9節で、ソロモン王についての記事の中で、“エホバは悪行を大目に見たりはされません。”とありますが、違いますよね。」
「神様は悪行を大目に見るときもあるし、些細なことで人間をぶち殺すこともある。何の一貫性もない。アロンに関する出来事から例を示すと、民数記12章がよい例だね。」
「ミリアムとアロンがモーセの妻のことで言い逆らうようになったという事件ですね。その処罰は、12:10によると、“見よ,ミリアムはらい病にかかって雪のように白くなった。そして,アロンがミリアムのほうを振り向くと,見よ,彼女はらい病にかかっていた。”です。でも、アロンに対してはお咎めなしです。」
「アロンがらい病にかかったとなると、祭司の資格を失うから、大祭司の祖先であるアロンはらい病になったとは書けない。モーセの妹のミリアムだけ罰を受けた。神様は不公平でしょう。」

「ソロモン王の話は史実なんですか?700人の妻と300人のそばめはいくらなんでもあり得ないでしょう。」
「ソロモン王については聖書以外の記録が一切ない。聖書では、ファラオの娘を妻にしたとあるけれど、もしそうならエジプト側に記録があるはず。一切ないので、嘘だろう。古代の常識では、エジプト王が自分の娘を小国の王に嫁がせるなんてことはあり得ない。ソロモン王は理想化された過去の栄光の象徴とみるべきだね。」
「列王記第一4:21には、“ソロモンは,川からフィリスティア人の地,さらにはエジプトの境界に至るすべての王国の支配者となった。”とあり、ユーフラテス川からエジプト国境までの広大な地域を支配したとありますが、聖書以外の証拠はないわけですね。」
「そのとおり。何かすごいものが発掘されるという可能性はあるけれど。」
「ソロモン王からの教訓は、10節によると、“エホバの規準に従わない人たちと親しくするなら,エホバとの友情が損なわれる危険があります。”だそうです。しっかり信者を脅しています。」
「JW以外とは付き合うなと言いたいわけだ。とてもカルト的だね。カルト集団は、外部世界を絶対的悪とみなし、外部世界との分離を図ろうとする特徴があるからね。」
「付き合う人には気をつけろ、は一般論として正しいですよ。でも一番付き合いたくない人と言えばJWなんだけど。」

#841 2018年09月23日 09:55:47

・ω・
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん、毎週興味深い解説を有難うございます。
楽しく読ませていただいております。

#842 2018年09月25日 08:20:24

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問 さんの発言:

「ソロモン王については聖書以外の記録が一切ない。聖書では、ファラオの娘を妻にしたとあるけれど、もしそうならエジプト側に記録があるはず。一切ないので、嘘だろう。古代の常識では、エジプト王が自分の娘を小国の王に嫁がせるなんてことはあり得ない。ソロモン王は理想化された過去の栄光の象徴とみるべきだね。」


旧約は理想や願望が投影された過去=伝承と、将来=予言の2パターンで書かれているので、安息日を守るユダヤ人でも今は予言やメシア思想を重視しない人が多く、メシアを一人の人物ではなく、理想化された将来(民族の回復や繁栄)の象徴とみています。

#843 2018年09月26日 05:35:10

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

最近読んだ 聖書時代史 山我 95ページ に以下のようにかかれていました

活発に国際交易や交流に従事したはずのソロモンの名が、周辺諸国の歴史史料にまったくあらわれないことは奇妙である。オリエント世界全体の枠組みの中で見れば、ソロモンといえども周縁地域のさして重要性を持たない新興豪族の首領以上のものではなかったのかもしれない。いずれにせよ、ソロモンがユーフラテス西方の全域とユーフラテス西方の王侯をすべて支配下に置いた」(王上五4)とか、「あらゆる国の民が、ソロモンの知恵をうわさに聞いた全世界の王国のもとから送られてきた」(王上五型とする列王記の記述は明らかに歴史性に乏しい


まえがきの一部

旧約聖書がイスラエルの歴史を主たる内容としていると言っても、そこで言う「歴史」とは、現代の科学的な意味での、過去の出来事の正確な記録とその因果の客観的究明ということとはかなり趣を異にする。第一に、旧約聖書の歴史書の多くは、部分的に古い伝承や資料を用いているものの、語られる出来事よりもかなり後になってからまとめられたものであり、起こったと信じられている出来事や経過についての後代の信念と解釈を伝えるものなのである。それゆえ、旧約聖書が語ることと、科学的に再構成される歴史経過が食い違うことも稀ではない。

あとがきの一部

それにしても、底本の初版出版以後約十年間の間に、旧約聖書時代史研究をめぐる学界の状況はかなり大きな変化を体験した。その一つは、「まえがき」でも少し触れたが、旧約聖書の史料的信瀝性について根本的な懐疑論を唱える過激な研究者たちが現れたことである。この立場の研究者によれば、歴史上の最初のイスラエル王国は聖書外史料にも言及のあるオムリ、アハブの王国であり、これに対しエルサレムなど前八世紀の終わりに至るまで「丘の上の村」にすぎなかった。北のイスラエル王国の滅亡後、その難民たちの流入などによって人口が増えたユダは、前七世紀頃になって初めて国家としての体裁を整えた、というのである。このような立場の研究者にとって、ダピデ・ソロモンの統一王国の歴史的信瀝性など「アーサー王物語」のそれと同程度であり、むしろそれは、捕囚後のペルシア・ヘレニズム時代のユダヤ教共同体が自己のアイデンティティーの確立と自己正統化のために創案したフィクションにすぎないのである。

編集者 てつてつ (2018年09月26日 05:47:30)

オフライン

#844 2018年09月26日 10:02:17

さやか666
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ソロモンがいかに賢かったかのエピソードが例の「赤子を切り裂け」といったことしか私の記憶に無いので

なんともなんとも…

実在したとして、徳川家康くらいの甲斐性はあったのでしょうかね


ソロモン王が当時から蒸気機関を開発していたとか、歯科医や歯科技工士を養成していたとか。そういうパンチの効いたネタがあるといいのですが

#845 2018年09月26日 10:21:27

めぐママ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

てつてつさん、良い資料の紹介、ありがとうございます。
最近、国家の成立と、アイデンティティについて考えていました。

ファンタジー小説なのですが、ネットで読めるのです。北円堂の秘密  というの。18回で、読み切れて面白かったです。古都奈良を舞台にした、歴史、考古学者のお話。

日本國の成り立ちと、記紀編纂のいきさつ。アイデンティティを確立するために、藤原不比等、という人(鎌足の次男)が用いられた。
当時の、日本には渡来人が度々渡ってきて、出自、続柄の異なる人々が居たため共同体意識が必要だった。    秦、とか、殷、漢
支配者、権力者、  はてはその権力を高みから認めてくれる権威が必要だった。
唐、天竺では天の神。
日本においては、天皇を天津神の子孫であるということを平易に記した神話が創り上げられた。  必要に駆られた神話です。  共同幻想。
律令制を整えても、建国の精神は天武天皇の世ではまだ未完了であった。
天照大神  あまてらすおおみかみ  の意味が、解らなかったのですがやっとのことたどり着けたかなぁ?  と思います。
記紀編纂の経緯、  大和魂というものの調合について。
仏(国家であるハコモノ)  を作って魂(大和魂)を入れる必要があった訳です。
吉本隆明氏は、共同幻想論でこれを言ってたのかなぁと思うのですが、当時のわたくしはそこまで深く考える余裕が無かったのです。


聖書物語と、似ていますね。


人種差別する人の、物言いが嫌だった、ネットの、情報でメンタルやられるみたいな感じも、納得です。幼い頃、そういう発言する大人たちの、その表情がいつもと違うので困惑していた。
ニッポンは渡来人たちが、元々いた、アイヌや、阿弖流為たちと、混ざり合って作った国。
人類はみな兄弟!   これで 落ち着きます。

オフライン

#846 2018年09月26日 10:38:09

めぐママ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

さやかさん、ソロモン王が、それほど賢いなら、ひとの心理状態を読めるなら、なぜ晩年背教に至る程に側女を持ったのか?
紀州のドンファンですなぁ。
大岡越前の逸話も、いいとこ取りの、価値観を押し付けられていたように思います。国家、マスコミに。
まあ、個人的には、道徳的な、不倫はいけないとかは、役立ちましたが、ファミリーヒストリーを見たり、希林さん、安室奈美恵さん、に魅力感じます。
自由で、他に依存していない。

茨木のり子   という詩人

我よりかからず

と書いてていて、若い頃、 カッコいいな!と思いました。
とても真似出来ないけど。

オフライン

#847 2018年09月26日 12:35:13

さやか666
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ソロモン王朝が繁栄を極めたような書き方をされていても

ウォシュレットも整っていない住居で生活していたわけです


市民が倒れたときにたった一台の救急車も出動させれないワケです



ファンタジーゆえにバカだし大袈裟なんですよね

#848 2018年09月28日 16:31:40

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“わたしたちはエホバのもの”で、JWに献身して、JW独自の服装などの細々した規則を守り、仲間を愛そう、という内容ですね。」
「英語のタイトルは、“We Belong to Jehovah”だよ。私たちはエホバに属するくらいの訳にできないものなの?」

「1節に、“エホバは歴史を通じ,特定のグループの人々をご自分の民として選んでこられました。”とありますが、これはJW独自の教義ですよね。そして、現代ではJWこそが選ばれていると主張しているわけです。」
「神は個人ではなく集団を選ぶのだという、集団主義の教義だ。聖書的根拠はないけど、ある人が救われるかどうかはその集団に所属しているかどうかだ、というもの。それでJWだと、ハルマゲドンの時、生き残る、そうでなければ死ぬという、わかりやすいけど奇妙な主張になる。」
「マタイ25:32では、“すべての国の民が彼の前に集められ,彼は,羊飼いが羊をやぎから分けるように,人をひとりひとり分けます。”とあり、集団ごとの選別なんかありませんよね。」

「3節に、“今日,天的な希望を持つ「小さな群れ」と地的な希望を持つ「ほかの羊」は「一つの群れ」となっています。”と、JW独自の、天に行く人と地上で暮らす人という2階級制度の教義が展開されている。ルカ12:32とヨハネ10:16が引照聖句。これがJWの2階級制度の根拠なわけだ。」
「ルカ12:32では、“恐れることはありません,小さな群れよ。あなた方の父は,あなた方に王国を与えることをよしとされたからです。”とあります。この小さな群れが天に行く144000人を指しているというのがJW独自の主張です。」
「ルカ12章は22から34までがひとまとまり。イエスが弟子たちに食べ物や着るものやその他のことで思い煩うなと言っている部分で、32はその中の一節。“小さな群れ”というのは、弟子たちの数が少ないというより、弟子たちが無力で無防備で、敵の攻撃にさらされやすいという意味だ。にもかかわらず恐れることはない、とイエスは言っている。それが144000人のことだなんて、書かれていないことを読み取る天才だね。」
「144000人は小さな群れにしては多すぎますよ。その当時のパレスチナでは300頭以上いれば大きな群れとされていたようです。」
「ヨハネ10:16は、“また,わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,一人の羊飼いとなります。”で、“ほかの羊”をJWは地上の楽園で暮らす大群衆と解釈しているけれど、それだったら地上と天の二つの群れになってしまう。この聖句はそもそも他の羊がどこで暮らすかについては何も言っていない。」
「ユダヤ人以外の人々のことを指して、“ほかの羊”と呼んでいるというのが普通の解釈ですよね。福音はユダヤ人にとどまらず、異邦人にも伝えられるわけです。おそらく144000人の教義は時間とともに破綻しますよ。新しい光がどこからか来ると思います。」

「5節で、イエスがバプテスマを受けたことを取り上げて、“イエスが神のご意志を行なうために自分を進んで差し出した時,エホバはとても喜ばれました。”とありますが、イエスが受けたヨハネのバプテスマは、ヨハネ自身が、マタイ3:11で、“わたしは,あなた方の悔い改めのゆえに水でバプテスマを施します。”と説明していている以上、献身とは無関係ですよね。」
「バプテスマというのは、水につけるとか沈めるという意味で、献身するという意味はもともとはないからね。ヨハネのバプテスマは罪の悔い改めの象徴的行為だよ。イエスがそのバプテスマを受けたことは、キリスト教にとって、とても不都合なことなので、あまり触れない方がいいんだけど。執筆者はその辺のことがよくわかっていないようだね。」

「6節の花のプレゼントのたとえがよくわからないのですが。献身とあまり関係ないと思うのです。」
「庭の花は父親のものであっても、娘からプレゼントされたらうれしい。同じように、人間も神のものだけど、献身してくれたらうれしい、と言いたいようだね。」
「現代法ではモノと人間では扱いが全く違うわけです。物は所有できるけれど、人間はできないのです。たとえでは、それを無視して花と人間を同じカテゴリーとして扱っているので理解できないのですね。」
「父親の庭の花を一本取って父親にプレゼントする。これには何のリスクもないしコストもかからない。ものすごく簡単なこと。一方、JWの組織に献身することは、人生を捨てるというハイリスクな行為なので、両者に何の共通点もない。こんなくだらないたとえをだれが考えたのか知りたいね。」

「16節も理解できません。神殿の器具の扱い方を誤った人は死刑という民数記の規定をとりあげて、“崇拝で使用される器具をエホバがそれほど大切にしておられたのであれば,献身した忠節な崇拝者をなおのこと大切に思っておられるに違いありません。”とあるのですが、逆でしょう。」
「民数記の規定からわかるのは、神様は、人間の命より神殿の器具が大事だということだ。歴史を見ると、その大事な器具も外国に貢物として提供したり、略奪されてしまうんだけどね。無力な神様だね。」

「17節で、“マラキによれば,エホバはご自分の民の会話を「注意して聴いておられ」ます。(マラ 3:16)”とあるのですが、どういう意味ですか?」
「マラキは、神殿再建後の預言者。ハガイやゼカリヤは神殿が再建さえすればイスラエルの繁栄の時代が来るといって民を神殿再建に協力させたけれど、生活はかえって苦しくなった。人々は失望し、伝統的な宗教に疑問を持つようになった。これがマラキの時代背景ね。そのようなごく真っ当な懐疑を抱いた人々に向かって、3:13から4:3で、信仰の重要性を説いた。」
「まず、3:14で、“神に仕えても無駄なことだ。(略)何の益があるだろうか。”とあるものが言います。それを聞いて、3:16で、エホバを恐れる者たちが語り合う。それをエホバが聞いて、覚えの書が記されるようになり、4:1-3では、裁きの日が来て、悪は滅びるといっていますね。」
「4:3がなかなかいいよ。“あなた方は邪悪な者たちを必ず踏みにじるであろう。わたしが行動する日,彼らはあなた方の足の下で粉のようになるからである”とあり、邪悪ものは灰になり、義なる人の足で踏みにじられるらしいね。」
「要するに、神に仕えると、覚えの書に記されるといういいことがあるけど、そうしないと滅ぼされるよと懐疑論者に向かって答えたというわけですね。説得力ありますか?しかし、4:3は虐げられた弱小民族の憎悪と復讐感情爆発といった内容ですね。」
「そういうのをルサンチマンといって、ニーチェがキリスト教はそういった下劣な感情をベースにしていると非難しているね。そらからマラキが呼びかけているのは当時のユダヤ人であって、現代の我々ではないよ。旧約聖書で義なる人というのは、簡単に言うと律法を守る人という意味だからね。」

「7節で、“エホバはご自分に進んで仕える人に目を留め, 「覚えの書」にその人の名前を記してくださいます。”と、あたかもJWだと覚えの書に名前記されるかのように言っていますが、何の根拠もないですよね。」
「8節で、“神の民の一人として「覚えの書」に名前を記されることには責任が伴います。マラキによれば,「エホバを恐れ……そのみ名を思う」必要があります。”と書いているから、JWだと名前が記されることを前提にしているようだ。恥ずかしいくらいうぬぼれているね。」
「JWは、本当に神に属しているのか、覚えの書に名前を記されるのか、頭を冷やして考えた方がいいですね。」

「19節で、ローマ14:8を引用している。新世界訳では、“主”とあるのを全て“エホバ”に替えている。」
「“生きるならエホバに対して生き,死ぬならエホバに対して死ぬからです。それゆえ,生きるにしても死ぬにしても,わたしたちはエホバのものです。”となっています。本当はエホバでなくキリストのことですよね。」
「エホバ好きの新世界訳も、次の14:9では、“ 死んだ者にも生きている者にも主となること,このためにキリストは死に,そして生き返ったからです。”と訳しているけど、意味が通じなくなっている。“主となる”のは14:8ではエホバ、14:9ではキリストになってしまっている。」
「パウロがエホバという単語を使うわけがありませんよね。」

#849 2018年10月05日 16:55:47

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“その情報は信頼できますか”で、JW以外の情報は信じるな、批判されても反論するな、自分の理解に頼らず、組織の指示を待て、といった、カルトらしい内容ですね。」
「信仰とカルト的狂信の違いがよくわかるね。信仰とは、個人の自由な選択で、質問や疑うことが許され、他の信仰への寛容がある。JWのようなカルト的狂信では、自分たちが絶対的な真理を擁しているとされ、質問や疑いは許されず、自分で考えるのではなく指示を待つだけ。信仰心が弱まったとなると罰せられ、他の信仰は悪と拒絶される。簡単には辞められない。」
「この記事の基本的な前提は、1節の“サタンと世がわたしたちの考えをゆがめようとしている”というものです。JW以外はサタンに支配され信用できないという、カルト的狂信そのものです。」
「JWがエルサレム陥落を西暦前607年と主張し、誤りを認めないのは、サタンによって考えがゆがめられているせいなんじゃないの。早く正気に戻ってほしいね。」

「13節で、“エホバの証人について間違ったことや批判的なことを言われると,間違いを正し,評判を取り戻したいと思うかもしれません。何ができますか。そのような非難がうそであるとはっきり分かるような生き方をすることです。”とあって、要するに批判されても反論するなと指示しています。」
「無知なJWが反論すると、かえって墓穴を掘るからだろう。」
「その根拠としているのが、イエスの態度なのです。12節に“イエスはどうしましたか。自分を弁護するために時間やエネルギーを費やすことはしませんでした。”とあります。これは嘘ですよね?」
「イエスは自分を弁護するために時間やエネルギーを非常に費やしているよ。福音書のひとつのパターンは、“敵対者が何か文句をイエスに言う→イエスがそれに反応する”というものだからね。例えば、マタイ9:14で、“わたしたちとパリサイ人たちは断食を励行しているのに,あなたの弟子たちが断食をしないのはどうしてですか”と批判されたけど、黙ってなんかいないよ。」
「それに対して、イエスは、9:15-17で、花婿がどうの、布切れがどうの、葡萄酒の袋がどうのと長々と答えていますね。JWもイエスを見倣って、批判されたら3倍返しぐらいしてほしいです。」

「この記事では、聖書から3つの例を出している。民数記にある12人の斥候の話、ヨシュア記にあるヨルダン川をはさんだ部族の危機一髪という話と、サムエル第二にあるダビデとメビボセテの話。はじめと最後の例は、今回のテーマとあまり関連はないよ。」
「そうですか?12人の斥候中、10人は神が約束した土地に住んでいる人間は強力すぎて、征服困難と報告し、カレブとヨシュアは、征服可能といったにもかかわらず、民はエジプトに帰りたがった、というわけで、間違った情報を信じてしまったという話ですよ。」
「12人の斥候の話は間違った情報を信じてしまった悲劇の話ではない。神の約束に対する信頼の欠如がもたらした悲劇を扱ったもの。相手は強力だという10人の斥候の報告は基本的に正しい。本当に強力なんだから。」
「確かに、民数記では悪い報告といっています。嘘の報告とは違いますよね。不都合な真実を伝えただけですか。」
「この話のヒーローであるカレブは、民数記13:30で“すぐに上って行きましょう。わたしたちは必ずそれを手に入れることになります。間違いなくそれに打ち勝てるのです”といっているだけ。正確な情勢分析をしているわけではない。昔風に言うと、必勝の信念を述べただけ。それから14:9ではカレブとヨシュアは、“エホバはわたしたちと共におられるのです。彼らを恐れてはなりません”といっていて、情勢分析抜きで、信仰心さえあれば戦争に勝てるといっているだけだよ。」
「旧約聖書の世界ではそれが通用しますが、現実世界でそんなことを言う軍事指導者がいたら嫌ですね。神国日本は必ず勝つといっているのと同じレベルですから。」
「旧約聖書の話なので、戦争に勝つために重要なのは神に対する信仰であって、正確な情報に基づいた情勢分析ではないの。合理的な世界ではない。だから現代的な教訓を引き出そうとするのは、やめた方がよいね。」
「その後、イスラエルの民は、なぜか心変わりして、14章の終わりごろで、勝手に攻撃を仕掛けて、見事に撃退されています。やはり約束の地に住む住人は10人の斥候の言う通り強力だったようです。」

「それから、ヨシュア15:14では、“カレブはそこからアナクの三人の息子,すなわちシェシャイとアヒマンとタルマイ,アナクから生まれた者たちを打ち払った”とあるけど、このアナクは10人の斥候が民数記13:32、33で“わたしたちがその中で見た民は並外れて大きな者たちばかりだ。  そして,そこでネフィリムを見た。ネフィリムから出たアナクの子らだ。そのためわたしたちは,自分の目にはばったのようになり,彼らの目にもそのようになった”と報告しているアナクのこと。斥候の言っていることは嘘じゃないことは40年後証明された。」
「カレブがアナクの3人の息子を倒すのは斥候の報告から40年後なんですね。カレブは、その時は85歳くらいですよ。40年間荒野で密かに武術の修行に励んでいたのでしょう。」
「ということで、5節に、“正しい情報を得て,エホバへの信頼を示すべきでしたが,悪い報告を信じてしまったのです。何と愚かなことでしょう。”と偉そうに書いてあるけれど、この執筆者はまったく理解していない。正しい情報を得たけれど、神の約束を信じることはできなかった、というお話だよ。」

「サムエル第二にあるダビデとメピボセテの話はどうですか?メピボセテは執事のヂバの中傷によって土地をダビデから取り上げられるのですが、後でダビデはメピボセテから話を聞いて、半分の土地を返してあげると命令した、という話です。11節で、“ダビデは不十分な情報に基づいて性急に行動してしまいました。時間を取って事実を確認していれば,メピボセテを不当に扱うことはなかったでしょう。”とまとめています。」
「ダビデはメピボセテの土地だったものを、結局メピボセテとヂバで2つに分けろといっている。ダビデは両方の言い分を聞いたあとでも、やっぱりメピボセテを不当に扱っているよ。」
「ヂバは主人の土地の半分を主人の悪口を言うだけで手に入れたことになるわけですね。悪口の言ったもの勝ちということですか。この執筆者は正義の感覚がおかしいです。」
「メピボセテは、サムエル二4:4によると、“足のなえた”、新共同訳では“両足の萎えた”男で、旧約聖書の登場人物には珍しく障がい者だけど、障害のある人に対する配慮はもちろん全くない。メピボセテはサウル王の孫だから、本来殺すところを生かしてやっていると、ダビデは恩着せがましく思っているのかもね。」
「サムエル記になると、出エジプト記とか民数記みたいに神様が介入してくるということは極めてまれになりますね。神様がヂバを塩の柱にでもしてくれたらすっきりとした話になったんですけど。」

「16と17節で、“トムという経験豊かな長老”が、レストランで別の長老が妻でない女性と親しくしているのを見て、浮気と思って、その長老に電話したら、女性はその長老の妹だったという、くだらない話がでていて、その結論は、“どんなに経験豊かなクリスチャンでも,事実を知らないと間違った判断を下す場合があるということです。”なのだそうです。他人の私生活に干渉するのが当然という姿勢が嫌ですね。」
「変な話だな。まず、その女性が妹だという証拠はあるの?電話でそう言っただけでしょう。JWは他人を裁くのが好きなくせに、事実確認がいいかげんだということがよくわかる。だから組織内で犯罪者がのさばる。」
「JWは嘘つきが得をし、正直者が泣くという体質があると思います。事実確認が甘いからですね。」
「経験豊かな長老とされる人物がこの程度なのか、と心配になる記事だよ。そもそも金を持っていないJWの男に普通のまともな女性が友達以上の関係になることなんてないでしょう。JWがレストランで女性と親しそうにしていたら浮気だと思い込むJWの長老は、浮気願望が強い奴だと思うよ。」
「認めたくない自分の願望を否認し、それを他人の中に見出すという、“投影”という現象ですか。」

#850 2018年10月12日 17:00:30

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“見かけで判断しないようにしましょう”で、人種や民族,お金や物,年齢という3つの点で判断するなという内容です。」
「いいことじゃないの。でも服装や髪形で判断するな、というのは入っていないのね。タイトパンツはダメとか、見かけがとても重要ですと、何度も、ものみの塔で言ってきたように思えるのは記憶違い?」
「JWは、髪形や服装で判断していいけれど、人種や民族,お金や物,年齢とで判断してはいけないというあまり一貫性のない教えなのです。」

「4節に、“ユダヤ人は異邦人の家に決して入らなかったからです。ペテロもかつてそのような根深い偏見を抱いていました。”とあるのですが、偏見の問題ではなく、律法を順守すべきかどうかという問題ですよね。初めペテロは保守派で、律法を順守すべきと考えていたわけです。単純な人種的偏見じゃないです。」
「そうだね。ペテロが考えを変えるためには天からの幻が必要だったというのが、使徒10章の説明。」
「本当に、4節にあるように“ユダヤ人は異邦人の家に決して入らなかった”のでしょうか。見てきたような嘘じゃないですか?」
「異邦人と一切関係を持たないというのはあくまでも理想。憲法9条みたいなもの。現実はそういうわけにはいかない。ユダヤ人が異邦人と商取引をするのは普通だし、一緒に入浴施設でお風呂に入ることもあったようだ。」

「4節で、“奇跡的な幻を見,神の指示を受けたからです。”とあって、ペテロの幻はエホバからというのがJWの解釈のようですね。本当はイエスからじゃないですか?」
「使徒10:13,14では、“「立ちなさい,ペテロ,ほふって食べなさい!」という声がした。 しかしペテロは言った,「いえ,それはできません,主よ。(略)”とある。“主”を何でも“エホバ”に取り替える新世界訳なのに“主”のまま。これはエホバにすると変だという訳者の判断だね。つまりキリストと解釈したんだ。」
「なぜエホバじゃないのですか?」
「ペテロは声で誰かわかった。ペテロが声を知っていて、主と呼びかける相手はイエスしかいないでしょう。だから新世界訳でもエホバとはしなかったんじゃないの。でも、この記事の執筆者はその辺のことがわからず、何でもエホバと思い込んでいるから、神の指示と思い込んだということじゃないかな。」
「本来のイエスのことを指している“主”をエホバに取り替えたので、JWの新約聖書の理解は本当に混乱していますね。」
「5節なんか混乱しまくっている。初めに、“ エホバはペテロを通して,ご自分が不公平ではないことをすべてのクリスチャンに教えました。”とあり、あと2回エホバが出てくるのに、最後は、“どうすればイエスの教えに従い,人を見かけで判断しないようにできるでしょうか。”なんだから。エホバ、エホバと連呼して、最後に“イエスの教え”で、一貫性が全くない。」
「エホバをイエスに変えればいいだけなんですが、JWはエホバ教だから、イエスの役割を矮小化してしまうのですね。」

「6節に、ある“大きな責任を持つ”JWが信者について民族差別丸出しの手紙を支部事務所に書いた例が出ているけれど、ひどい低レベルの男だね。この程度の男が組織の中で大きな責任を持っているようだと、多民族、多人種地域では大変だ。」
「それで、こんな記事を学ばせているんですよ。しかし、7節の、“心を開けば,偏見はなくなり,愛が育ちます。”というおバカな解決策には失望しました。」
「一緒に交流すれば偏見はなくなるようなことを書いているけど、そんなことで偏見がなくなれば苦労はないよ。JWは楽園待ちだから、現在の問題を具体的に解決する方法は持っていないことがわかるね。」

「8節からは、お金やモノで人を判断するなと、当たり前のことが書いてあります。JWの間で貧富の差が拡大して、階級対立のようなものが起きているようです。」
「この問題に関しても、12節で、“お金や物で人の価値を判断しないようにしましょう。”と言っているだけ。組織としてこの問題に真剣に取り組む気持ちはないということだね。

「9節で箴言が引用されているのですが、箴言を引用するとき、“ソロモンは聖霊の導きを受け”とよく、仰々しい紹介文が付けられるのです。JWは、聖書はすべて聖霊の導きを受けて書かれたという立場なのに、箴言だけ、わざわざこんな紹介文をつけるのでしょうか?」
「箴言は英語ではProverbs。意味は“ことわざ(格言)集”。内容も人生のガイドブック程度のものでしょう。英語圏の人からすれば、単なることわざ集か、と思われるからじゃないの。それで仰々しい紹介文をつける。」
「でも、箴言の内容は、日常生活を観察した結果導かれたものじゃないですか。貧乏人は嫌われ、金持ちは好かれる、この程度のことを言うのに、霊感はいらないですよ。」
「そうね。箴言は貧しい人に対して結構冷たい。10:4では、“緩慢な手で働く者は資力が乏しくなり,勤勉な者の手はその人を富ますものとなる。”、13:18では、“懲らしめをおろそかにする者は貧しさと不名誉[に陥る]。”貧しいのは自己責任という思想だ。」

「15節に、“会衆の若い兄弟たちをどう見るべきですか。”と若い兄弟の問題を取り扱っていますけど、引用されるのはいつものテモテへの書簡です。“テモテはこの手紙を受け取った時,30代前半だったようです。”とありますが本当ですか?」
「この手紙が60年代前半頃にパウロによって書かれたと想定しているから、そういう結論になる。しかし、パウロを騙った偽物によって100年前後に書かれたとみるべき。おそらくテモテはすでに死んでいたので、テモテ宛にしたのだろう。」
「どんな根拠があるのですか?以前にも聞きましたけど。」
「内容面から言うと、例えば、テモテ二1:3で、“わたしは神に対し,すなわち,自分が清い良心を抱きつつ,父祖たちがしたと同じように神聖な奉仕をささげている方に対して感謝しています。”とパウロが書いたことになっている。パウロは初めの頃クリスチャンを迫害していたんだよ。それを思い出せば、“清い良心を抱きつつ”なんて白々しいことを言える?迫害した人たちを思い出しては、パウロの良心は絶えず痛んだはずだ。」
「その部分は、この著者がパウロにうまく化けるのに失敗しているところですね。」
「それから、JWがよく引用するテモテ二3:16、“聖書全体は神の霊感を受けたもので,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です。”というものだけど、パウロがこんなこと言うはずはない。」
「どうしてですか?この場合は旧約聖書のことですけど。」
「旧約聖書の中心は律法。律法をどう考えるべきかは、初期ユダヤ人キリスト教徒にとって重大問題だった。割礼をしろとか食物規定を守れとか、律法重視派は相当いた。それに立ち向かったのがパウロ。パウロは律法についてどういっているかというと、ガラテア3:24,25でこういっている。“律法は,わたしたちをキリストに導く養育係となったのであり,それは,わたしたちが信仰によって義と宣せられるためでした。しかし,信仰が到来した今,わたしたちはもはや養育係のもとにはいません。”」
「律法は時代遅れで不要なものと言っているわけですね。」
「パウロの思想の集大成であるローマの10:4で、“キリストは律法の終わりであり”と言っている。そのパウロが、テモテ二3:16のような、聖書全体は有益だ、義にそって訓育するのに有益です、なんてことをいうはずがない。」
「ガラテア3:11では、“律法によってはだれひとり神にあって義と宣せられないことは明白です。「義人は信仰のゆえに生きる」とあるからです。”とあります。義はパウロの中心的な概念です。律法をふくむ旧約聖書が義によって訓育するのに有益だと、いうはずないですね。」
「2つの聖句しか取り上げてないけれど、パウロが著者とは思えないのがわかってもらえたかな?」
「よくわからないですけれど。テモテ一と二、テトスは同じ人が書いたのですね。」
「そのとおり。どれか一つがパウロのものでないとされれば、残りもパウロのものではないことになる。」

「19節に、“王イエス・キリストは間もなく全人類を裁きます。”と終末論をぶちかましていますけど、日本語版だけですか?」
「英語版でも、“Soon our King, Jesus Christ, will judge all mankind”とあり、間もなく裁きの日が来るようだ。JW以外は殺されるわけだね。」

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