#101 2017年01月31日 05:00:52
#102 2017年01月31日 05:24:04
- 土の器のかけら
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
自由権というものがあるのと、原罪発生の原因は無関係では?
社会的な基本的人権の自由権には、許容される制約の範囲があり、無制約な決定の可能性を認めるものではないなどがあります。
これは、エデンにおける原罪がもとになって、もしくは人間社会の規範の問題から人権宣言されたものです。「神聖な」と主張され、み使いが描かれて18世紀に明文化されました。
レプリカでしたら、明文化された1789年の人権宣言を日本でも見ることができます。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ … n_1789.jpg
編集者 土の器のかけら (2017年01月31日 05:29:57)
オフライン
#103 2017年01月31日 05:28:51
#104 2017年01月31日 05:43:38
- 土の器のかけら
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
因果関係が逆転していますよ。
自由意志があるから原罪が発生したという主張は正しいのか検証しているのに、
原罪があったという前提で自由権ができたという話では論点が違います。
そうではなく、人間の自由権が明文化されたのはエデンにおける原罪が発生した後ということです。
出来事が発生したからこそ明文化されたのではありませんか。何も起こらなければ明文化する必要も、その発想自体がまず起こりません。
すなわち、⑴ 自由権があったけれど、⑵ それを逸脱した違反行為が発生した、⑶ そのため、社会的、政治的な自由権を明文化したという順になります。
但し、18世紀以前に明文化されたもので見ることができるものは聖書、または聖書から派生したものしかありません。18世紀の人権宣言は風刺画ではありませんが、神の全能の目とウロボロスのような蛇、プロメテウスの鎖などが描かれています。
リッチさんが、18世紀の人権宣言が聖書物語から派生したものだから証拠にならない、とするならばそれでも構いません。聖書物語を心から信じて行動に移した人々が存在する証拠のひとつにはなると思います。
編集者 土の器のかけら (2017年01月31日 07:20:16)
オフライン
#105 2017年01月31日 09:31:26
- リッチ
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
出来事が発生したからこそ明文化されたのではありませんか。何も起こらなければ明文化する必要も、その発想自体がまず起こりません。
これは循環論法の一種ですね。あなたの主張は
「聖書は正しい。なぜなら聖書が正しいと信じている人が定めた権利が存在しているからだ」
という事にほかなりません。
こんな理屈が許されるなら
「古事記は正しい。なぜなら古事記が正しいと信じている人が定めた権利あるからだ」
だとか
「コーランは正しい。コーランが正しいと信じている人が定めた権利があるからだ」
などといくらでも言う事ができますよ。
リッチさんが、18世紀の人権宣言が聖書物語から派生したものだから証拠にならない、とするならばそれでも構いません。聖書物語を心から信じて行動に移した人々が存在する証拠のひとつにはなると思います。
これはそうですね。
聖書が正しい証拠にならない上に、大量の人々が当のその本を信じてしまう事態になっていた証拠にはなりますね。
時代が時代なら、天動説を信じている人に、地動説を唱えたら罰せられたように、自由意志が無い説を唱えたら罰せられていたかもしれません。
さて、自由権があるから自由意志による原罪があったという事にはならない。
そして、そもそも自由意志は無い。
原罪の発生理由は自由意志によるものという事はもう出来ないと思いますが。
オフライン
#106 2017年01月31日 13:40:27
- 土の器のかけら
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
土の器のかけら さんの発言:リッチさんが、18世紀の人権宣言が聖書物語から派生したものだから証拠にならない、とするならばそれでも構いません。聖書物語を心から信じて行動に移した人々が存在する証拠のひとつにはなると思います。
これはそうですね。
聖書が正しい証拠にならない上に、大量の人々が当のその本を信じてしまう事態になっていた証拠にはなりますね。時代が時代なら、天動説を信じている人に、地動説を唱えたら罰せられたように、自由意志が無い説を唱えたら罰せられていたかもしれません。
リッチさんのいうように、聖書を作り話だとは考えず心から信じた人々が存在したという証拠ですね。その人々の死亡者数はフランスで約20,000人、アメリカでは約49,000人、ロシアで6,600万人以上となり、自由権を信じた人々の多大な犠牲でした。
21世紀の現在でも、自由権を信じている人々の犠牲者数は増加中です。幸いなことに、日本では自由意志がない、自由権の保障など存在しないと主張しても、どちら側の主張であっても、自由があるため罰せられることはありません。
社会的な自由権とは、許容される制約の範囲があり、無制約な決定の可能性を認めるものではないとされています。制約された許容範囲からの逸脱が犯罪ですが、その始まりが、リッチさんのいうように原罪ではないとするならば、何になりますか。
また、人間には尊厳がある、人権がある、自由権がある、という考えは何から発生したのですか。
編集者 土の器のかけら (2017年01月31日 14:05:52)
オフライン
#107 2017年01月31日 14:00:58
#108 2017年01月31日 14:16:21
#109 2017年01月31日 14:23:28
- 土の器のかけら
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
土の器のかけらさんはスルーされてますが、
自由意志が無いなら、原罪も発生しえない事。そして現実でも自由意志が存在していないという事実は、創世記はフィクションであるという事になりますが、その辺はどう説明するのでしょうか。
私個人にとっては、創世記がフィクションではないと信じている大きな理由が、数多くの人々が心から信じて命をかけたという事実からです。リッチさんに言わせれば、科学的根拠ではなくロマンチックな幻想ということになりますね。
しかし、リッチさんのいうようにフィクションであり、自由意志がないとするなら、犠牲者は無意味なものに命をかけただけということになります。作り話の嘘に騙されたということですね。
私はフィクションではないと考えていますが、他の人がフィクションである、作り話に騙されたと考えても、どちらでも構いません。
オフライン
#110 2017年01月31日 14:33:26
- 土の器のかけら
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
自由権も人間の尊厳も人権も、キリスト教文化由来の考え方ですね。
自由意志が実在するかどうかには無関係ですが。
そうですね。キリスト教由来です。既に聖書のオリジナルは失われ、コピー版を信じた人々の思考による結果です。
リッチさんの言うように、その人々はフィクションを信じただけということになりますか。コピー版を読んだだけで信じたのですか。信じる根拠があったかどうか、今となってはわかりません。
(リッチさんの「尊前」は誤字と思い、「尊厳」に訂正しました)
編集者 土の器のかけら (2017年01月31日 14:48:47)
オフライン
#111 2017年01月31日 14:57:24
- リッチ
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
私個人にとっては、創世記がフィクションではないと信じている大きな理由が、数多くの人々が心から信じて命をかけたという事実からです。リッチさんに言わせれば、科学的根拠ではなくロマンチックな幻想ということになりますね。
そうですね。大勢の人が信じているのだからというのは自由意志を立証するための証拠にはなりません。
それは「衆人に訴える論証」という誤謬です。
しかし、リッチさんのいうようにフィクションであり、自由意志がないとするなら、犠牲者は無意味なものに命をかけただけということになります。作り話の嘘に騙されたということですね。
私はフィクションではないと考えていますが、他の人がフィクションである、作り話に騙されたと考えても、どちらでも構いません。
人を死に至らしめる事がある詐偽のようなものですね。創世記を考えた人に騙すつもりがあったかどうかはわかりませんが。
JWの信者もいたいけな子供を聖書の教えだからと鞭による拷問で支配したり、その結果殺してしまったり、はたまた輸血拒否によって死に追いやったり、現代でも聖書による被害者がいます。
個人で信じて、主観的に幸せならそれはそれでその人の勝手だと思いますが、布教によって上のような被害者が出るのが大問題です。
私はフィクションではないと考えていますが、他の人がフィクションである、作り話に騙されたと考えても、どちらでも構いません。
結局は何の証拠もない、という事でよろしいですか?
オフライン
#112 2017年01月31日 15:14:08
- リッチ
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
そうですね。キリスト教由来です。既に聖書のオリジナルは失われ、コピー版を信じた人々の思考による結果です。
リッチさんの言うように、その人々はフィクションを信じただけということになりますか。
信じただけという可能性もありますが、半信半疑だが、他に納得が行く理論が当時なかったのでとりあえず採用していた人、フィクションと思いつつ政治的に利用した人もいた可能性もあります。
どちらにせよタイムマシンと他人に思考を読む技術でもないかぎりわからない事です。
コピー版を読んだだけで信じたのですか。信じる根拠があったかどうか、今となってはわかりません。
信じる根拠が無くても信じる事はめずらしい事ではありませんね。
非論理的な陰謀論や怪しげな健康食品やマルチ商法などを信じる人はたくさんいます。
オフライン
#113 2017年01月31日 15:19:08
- 土の器のかけら
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
そうですね。大勢の人が信じているのだからというのは自由意志を立証するための証拠にはなりません。
それは「衆人に訴える論証」という誤謬です。人を死に至らしめる事がある詐偽のようなものですね。創世記を考えた人に騙すつもりがあったかどうかはわかりませんが。
JWの信者もいたいけな子供を聖書の教えだからと鞭による拷問で支配したり、その結果殺してしまったり、はたまた輸血拒否によって死に追いやったり、現代でも聖書による被害者がいます。
個人で信じて、主観的に幸せならそれはそれでその人の勝手だと思いますが、布教によって上のような被害者が出るのが大問題です。土の器のかけら さんの発言:私はフィクションではないと考えていますが、他の人がフィクションである、作り話に騙されたと考えても、どちらでも構いません。
結局は何の証拠もない、という事でよろしいですか?
暫定的ですが、リッチさんが考えている証拠はありません。多くの人々が自分自身の命と引き換えにしても心から信じたということだけです。それは、今後も続くと思います。
暫定的とするのは、明日はまだわからないからです。証拠がないのか、あるのかわかりません。現在のところ、未発見ということです。
私の思考能力は限られていますし、無責任に決めつけられないので、暫定的としました。
編集者 土の器のかけら (2017年01月31日 15:36:25)
オフライン
#114 2017年01月31日 16:26:31
- リッチ
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
暫定的とするのは、明日はまだわからないからです。証拠がないのか、あるのかわかりません。現在のところ、未発見ということです。
反証可能性が無い理論は科学ではないですから、「自由意志は無い理論」の反証が発見されて、自由意志が見つかる可能性もあります。
ですので、アダムとエバ実在して彼らが自由意志が持っていた可能性も当然あります。
が、
アダムとエバの場合、禁断の実を食べた件については自由意志ではなく、明らかに外部要因に影響を受けていますから、自由意志によって起きた事件ではありません。
自由意志が存在する世界だと仮定しても、どちらにせよ禁断の実を食べた時は自由意志で食べていないのだから、自由意志を原罪の原因になどできないのです。
オフライン
#115 2017年02月01日 05:42:45
- 土の器のかけら
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
アダムとエバの場合、禁断の実を食べた件については自由意志ではなく、明らかに外部要因に影響を受けていますから、自由意志によって起きた事件ではありません。
自由意志が存在する世界だと仮定しても、どちらにせよ禁断の実を食べた時は自由意志で食べていないのだから、自由意志を原罪の原因になどできないのです。
リッチさんは、「蛇」の関与前における人間には自由意志が存在しておらず、禁断の実を食べた件も自由意志で食べていない、ということですね。
まず、人間の実行行為は何によるものかという問題について考察します。既知の説明ですが、とあらかじめ前置きしておきます。長くなるため、分けて説明します。
善悪を知るようになるという意味は、善悪を自分たちで決定するようになる、ということです。
善悪を知るようになる以前の状態とは、何が善悪で何が悪かということを区別できない、識別できないという状態ではありません。神はその情報を明示し、知ることができていました。(創世記 1:29, 2:16、17)
善悪を知るようになるということは、善悪を決断し決定できるようになるということです。したがって、善悪を決定できるようになる以前は、決断し決定できないため、実行行為ができなったということになります。
つまり、決断に至るための思考および意思決定プロセスに障壁があるため、実行行為ができませんでした。(思考および意思決定プロセスについては要望があれば説明します)
そこで、「蛇」の教唆が人間の意思決定の構成に影響を与えた場合、実行行為の促進的因果関係において自由意志が存在し得るか、または存在しないかという疑問を考察をします。
人間が思考および意思決定をして実行行為ができるとは何によるものか、という疑問でもあります。それは、「蛇」による教唆ですか。外部要因の影響ですか。それ以外にもありますか。
ごめんなさい。説明文がわかりにくいかも知れません。もし、ここまでで疑問があれば書いてください。
編集者 土の器のかけら (2017年02月01日 06:01:20)
オフライン
#116 2017年02月01日 07:44:05
- リッチ
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
そこで、「蛇」の教唆が人間の意思決定の構成に影響を与えた場合、実行行為の促進的因果関係において自由意志が存在し得るか、または存在しないかという疑問を考察をします。
蛇の教唆に影響を受けた意志は自由ではないですね。
蛇に教唆されるまでもなく、すでに肉体に意志が束縛されていますし。
今の聖書の創世記では自由意志があった描写は一切見受けられません。
聖書には書いていない部分で自由意志が発揮されている可能性が、もしかすればある、という事です。
可能性だけなら、なんとでも言えますから。
彼らに自由意志があったかどうかをたしかめるためには、タイムスリップで創世記時代まで戻り、まずアダムとエバの実在を証明し、その上で彼らを観察する必要があります。
でも、そこまでしなくても、JWはアダムとエバに限定せず、人間には自由意志があると主張しているので、
現代にいる人間を観察すればいいだけの話ですが。
現状では、現代の人間には自由意志は見受けられませんが。
人間が思考および意思決定をして実行行為ができるとは何によるものか、という疑問でもあります。それは、「蛇」による教唆ですか。外部要因の影響ですか。それ以外にもありますか。
現在の科学では、実行行為はすべて外部要因の影響下にあります。
自由意志が存在するというのなら、そしてそれは何によるものかといえば、すなわち全能な魂のようなものによるものです。
環境に束縛されず無から有を発想する能力。もしくは、知った事を自分の意志で自在に忘れ去る事もできる能力。
これがあるかどうかはすぐに実験で検証可能なので試してみてほしいのですが、土の器さんが見たことが無い新しい色を発想してみてください。既存の色に少しも似た所のない、外部環境の記憶による影響が無い完全に新しい色。
これができるのなら自由意志はあるといえるでしょう。
よく覚えている記憶を、意志だけの力により忘れる事ができても、自由意志があるといえます。
記憶は、意志を動かす外部環境情報です。記憶の影響から自由になるためには、記憶を忘れるしかありません。
土の器のかけらさんが、よく覚えている嫌だった出来事を一旦思い出し、思い出した直後1秒以内に忘れて下さい。
できたら、自由意志があります。
土の器さんが本当にできたところで、それは本当かどうか私には検証しようがありませんけれども。
オフライン
#117 2017年02月01日 15:07:05
- 土の器のかけら
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
創世記が正しいとされる論拠に、自由意志が存在しているからだという前提がある。
しかし、現実では、自由意志は原理的に存在不可能。
つまり、創世記の内容はフィクションである。
したがって、聖書が無謬というのも間違いである。
自由意志には、社会的または政治的な領域、哲学的な領域などがあり、様々な領域、カテゴリーによって定義と意味が違います。生理学的領域や脳科学の領域もありますから、一概に答えることはできません。
今、考察している自由意志とは、リッチさんが引用した辞書どおりの定義による「他から強制・拘束・妨害などを受けないで、行動や選択を自発的に決定しうる意志」 ではなく、新たに、リッチさんが問いかけた聖書における自由意志ということでよろしいですか。
リッチさんの指摘するJWサイトが、「自由意志について聖書は何と述べていますか。神が人の運命を定めるのですか」などとするならば、文脈を読むと、「人間の尊厳」を前提として自由意志の説明がされています。ですから、これは人間の「社会的」な領域における自由意志のことです。他の領域は含まれていません。
リッチさんも「自由権も人間の尊厳も人権も、キリスト教文化由来の考え方ですね」という同意をしたことから、多く人々が信じている人権宣言の元になった聖書的に書かれている「社会的な領域における自由意志」を前提にして討議をしています。この理解でよろしいですか。
JWはアダムとエバに限定せず、人間には自由意志があると主張しているので、
現代にいる人間を観察すればいいだけの話ですが。
現状では、現代の人間には自由意志は見受けられませんが。
リッチさんは「聖書に書かれている社会的自由意志とするならば」、「現代の人間には自由意志は見受けられません」ということですね。念のため、再確認しますが、ヒトという生物学的などの領域ではなく、「人間社会における自由意志」ですか。
現在の科学では、実行行為はすべて外部要因の影響下にあります。
自由意志が存在するというのなら、そしてそれは何によるものかといえば、すなわち全能な魂のようなものによるものです。
人間の実行行為は何によるものか、実行行為を構成している要件を考察しています。実行行為ができるためには決断に至るための思考および意思決定プロセスが必要です。
「実行行為」も社会的実行行為の意味として用いています。リッチさんの主張は「社会的実行行為はすべて外部要因の影響下にあります」ということでよろしいですか。
編集者 土の器のかけら (2017年02月01日 15:20:50)
オフライン
#118 2017年02月01日 15:11:40
- 土の器のかけら
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
環境に束縛されず無から有を発想する能力。もしくは、知った事を自分の意志で自在に忘れ去る事もできる能力。
これがあるかどうかはすぐに実験で検証可能なので試してみてほしいのですが、土の器さんが見たことが無い新しい色を発想してみてください。既存の色に少しも似た所のない、外部環境の記憶による影響が無い完全に新しい色。
これができるのなら自由意志はあるといえるでしょう。
よく覚えている記憶を、意志だけの力により忘れる事ができても、自由意志があるといえます。
記憶は、意志を動かす外部環境情報です。記憶の影響から自由になるためには、記憶を忘れるしかありません。
土の器のかけらさんが、よく覚えている嫌だった出来事を一旦思い出し、思い出した直後1秒以内に忘れて下さい。
できたら、自由意志があります。
リッチさんの説明は、生理学的領域、脳科学の領域になっていませんか。私は、リッチさんが前提条件を変更しても構いません。その場合は前置きをしてくださいね。
既に答えましたが、様々な領域、カテゴリーによって定義と意味が違いますから、一概に答えることはできません。
生理学的領域ならば暫定的に概ね不可能です。脳科学の場合、一部の科学者が実験によって可能と立証していますが、不可能とされいる説もあり、諸説があります。現在、どちらとも言えません。
編集者 土の器のかけら (2017年02月01日 16:40:50)
オフライン
#119 2017年02月01日 16:54:04
- リッチ
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
今、考察している自由意志とは、リッチさんが引用した辞書どおりの定義による「他から強制・拘束・妨害などを受けないで、行動や選択を自発的に決定しうる意志」 ではなく、新たに、リッチさんが問いかけた聖書における自由意志ということでよろしいですか。
いいえ、あくまで「他から強制・拘束・妨害などを受けないで、行動や選択を自発的に決定しうる意志」です。
この意志が存在しないのなら、人間活動においてあらゆる自由は存在しないので、あなたが考えているような自由も同時に幻想だという事です。
リッチさんも「自由権も人間の尊厳も人権も、キリスト教文化由来の考え方ですね」という同意をしたことから、多く人々が信じている人権宣言の元になった聖書的に書かれている「社会的な領域における自由意志」に前提して討議をしています。この理解でよろしいですか。
よくないです。
キリスト教由来という事には同意ですが、だからといって社会的な領域における自由意志だというのは同意しません。それはあなたの後付解釈です。
JWのサイトによれば「自由 意志 ― 自分 で 決定 を 下す 能力 ― 」と定義されています。
私はこれがあるかどうか訊いているのです。
オフライン
#120 2017年02月01日 17:07:32
#121 2017年02月01日 17:14:48
- 土の器のかけら
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
土の器のかけら さんの発言:今、考察している自由意志とは、リッチさんが引用した辞書どおりの定義による「他から強制・拘束・妨害などを受けないで、行動や選択を自発的に決定しうる意志」 ではなく、新たに、リッチさんが問いかけた聖書における自由意志ということでよろしいですか。
いいえ、あくまで「他から強制・拘束・妨害などを受けないで、行動や選択を自発的に決定しうる意志」です。
この意志が存在しないのなら、人間活動においてあらゆる自由は存在しないので、あなたが考えているような自由も同時に幻想だという事です。
わかりました。リッチさんは、社会的または政治的な領域、哲学的な領域、生理学的領域や脳科学の領域、全て総括した前提ですね。
リッチさんがあらゆる領域を全部まとめて前提にするならば、様々な領域、カテゴリーによって定義と意味が違いますから、一概に答えることはできません。諸説があり、現在、どちらとも言えません。
編集者 土の器のかけら (2017年02月01日 17:49:09)
オフライン
#122 2017年02月01日 17:44:06
- 土の器のかけら
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
「社会的な領域での自由意志」が使えるかどうかを証明するためにはまず、大前提の自由意志が人間にあるかを科学的に証明しなければなりません。
自由意志が存在する事を証明してはじめて「社会的な領域での自由意志」があるかどうかを検証する事が可能になります、
リッチさん、一般的に「社会的」と表現する場合は、生理学的領域や脳科学の領域などとは区別して用られて、人間社会における政治的な意味を前提とした自由意志です。定義と意味が異なる事柄として考えられています。
ですから、 「社会的な領域での自由意志」と表現する場合、人間社会における政治的な概念の自由意志です 。自由宣言などがそれを明文化したものとして存在します。生理学的領域や脳科学の領域は含まれていません。
自由意志が存在する事を証明してはじめて「社会的な領域での自由意志」があるかどうかを検証する事が可能になります、
リッチさんの「社会的」という意味は一般論と同じですか。社会的、政治的な概念ですか。もし、異なるのでしたら、表現を変更した方がいいと思います。
聖書でいう自由意志とは、社会的、政治的な領域の人間の尊厳性の意味です。リッチさんの疑問は社会的な領域を排除するということよろしいですか。
編集者 土の器のかけら (2017年02月01日 18:02:11)
オフライン
#123 2017年02月01日 18:19:56
- リッチ
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
わかりました。リッチさんは、社会的または政治的な領域、哲学的な領域、生理学的領域や脳科学の領域、全て総括してという意味ですね。
リッチさんがあらゆる領域を全部まとめて前提にするならば、様々な領域、カテゴリーによって定義と意味が違いますから、一概に答えることはできません。諸説があり、現在、どちらとも言えません。
それは間違いです。
「自由」の定義は変化しますが「自由意志」の定義はカテゴリーによって変化しません。
まず自由意志とは哲学的に定義され、その定義に沿って物理学や生理学や社会学や政治学の諸々の科学に使用されているだけです。
変化するというのならば、
物理学の自由意志の定義、生理学での自由意志の定義、政治学での自由意志の定義、社会学での自由意志の定義をそれぞれ答えて下さい。「自由」の定義ではなく「自由意志」です。
オフライン
#124 2017年02月01日 18:32:43
#125 2017年02月01日 18:42:00
- 土の器のかけら
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
土の器のかけら さんの発言:わかりました。リッチさんは、社会的または政治的な領域、哲学的な領域、生理学的領域や脳科学の領域、全て総括してという意味ですね。
リッチさんがあらゆる領域を全部まとめて前提にするならば、様々な領域、カテゴリーによって定義と意味が違いますから、一概に答えることはできません。諸説があり、現在、どちらとも言えません。それは間違いです。
「自由」の定義は変化しますが「自由意志」の定義はカテゴリーによって変化しません。
まず自由意志とは哲学的に定義され、その定義に沿って物理学や生理学や社会学や政治学の諸々の科学に使用されているだけです。
現在、一般的に用いられている「自由意志」の定義のことです。過去の歴史的に「哲学的に定義され、その定義に沿って物理学や生理学や社会学や政治学の諸々の科学に使用され」という前提ではなく、現在、一般的に用いられている前提です。
変化するというのならば、
物理学の自由意志の定義、生理学での自由意志の定義、政治学での自由意志の定義、社会学での自由意志の定義をそれぞれ答えて下さい。
私は、変化するのではなく、定義と意味が違うという意味で説明しました。勿論、時代とともに変化します。
現在の定義と意味という限定でしたら、それぞれ説明できます。
編集者 土の器のかけら (2017年02月01日 19:01:28)
オフライン