#26 2016年12月18日 23:20:53
- ピネハスさんへ
- ゲストユーザー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
祥子です。スレに直接関係がないため、こちらでお答えさせていただきます。
あとそれから、ボランティアで訴状を書く方がおられるという話も出ていましたが、このことが本当ならばそれは場合によっては決して誉められた話ではなく、仮にボランティアでやらないでいくばくかでもお金をとるようなことがあれば、弁護士法違反または行政書士法違反になって、本人にその意識がなくとも、犯罪行為になりかねないという話だと思います。
訴状等の作成代行をして、本人訴訟支援することは弁護士法違反ではありません。犯罪行為でもありません。しかしながら、元エホバの証人の無償ボランティアさんより、費用が発生しますが司法書士への依頼がよいかと存じます。理由は無償ボランティアさんは自由意志によるもので仕事ではないからです。
そもそも、裁判するならば訴状だけ書いて貰えば良いという話では全くなく、裁判が続けば相手の主張に反論して準備書面を何カ月にもわたり何回も出す必要があり、そのたびに高度な法的構成が必要になりますから、司法書士でもそんな対応は到底無理でしょうし、法的資格がない無資格者が書面を書くということは全く現実的でなく不相当なことであるばかりか、犯罪にもなりかねないという意識が必要だと思います。
現実的なことをお伝えさせていただきます。
まず、1. 相手が争わないと思われる、2. 明らかな証拠がある、3. 事実には争いがなく、法律的な解釈のみが争われる、等の場合は本人訴訟でよいかと思います。
つぎに、民事訴訟では「相手の主張に反論して準備書面を何カ月にもわたり何回も出す必要」はなく、係争中に裁判官から和解を求められることが多いというのが一般的な事実です。時には例外もありますが、「何カ月にもわたり何回も」ということはないと思います。
ピネハスさんが真剣にお考えになっていらっしゃるからこそ、心配なさっているというお気持ちは十分に理解しています。ご多用のことと存じますが、どうか御一考いただけますようお願い致します。
#27 2016年12月19日 04:43:19
- ピネハスさんへ
- ゲストユーザー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
祥子です。説明をつけ加えさせていただきます。
無資格の者が訴訟代理人となる等、下記の規定に違反する場合は弁護士法違反になります。スレの方にはそう言う意味で、「ピネハスさんのおっしゃるとおりです。弁護士法違反になります」とお答えさせていただきました。
しかし、本人訴訟の訴状作成を補助したというだけであれば、特に弁護士法違反の問題は生じないのではないかと思います。わかりやすくお答えできず心苦しく存じます。
(訴訟代理人の資格)
第五十四条 法令により裁判上の行為をすることができる代理人のほか、弁護士でなければ訴訟代理人となることができない。ただし、簡易裁判所においては、その許可を得て、弁護士でない者を訴訟代理人とすることができる。(非弁護士の法律事務の取扱い等の禁止)
第七十二条 弁護士又は弁護士法人でない者は、報酬を得る目的で訴訟事件、非訟事件及び審査請求、異議申立て、再審査請求等行政庁に対する不服申立事件その他一般の法律事件に関して鑑定、代理、仲裁若しくは和解その他の法律事務を取り扱い、又はこれらの周旋をすることを業とすることができない。
#28 2016年12月21日 08:57:41
- moon
- ゲストユーザー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
Chimeraさん
励ましと気遣いをありがとうございます。
私の「不安定」を言及されていたので、心配してくださったことが
分かりました。
あなたは、礼儀を示されればすぐに応じて
相手にも相応しく紳士的にふるまうことが出来る人です。
そして頭もいい。
ですから、皆さんに対して同様になされば
もっと良い関係が築けるのではないかと思います。
Chimeraさんも何かの形でJWと関わり、
深い傷を負ってらっしゃると思います。
ここへ来ている皆さんも同じだと思います。
そしてこちらのサイト・掲示板では、あなたが期待するような
「公平」な情報や意見は載りません。
管理人さんや皆さんが根拠ある事実を提出され、
間違いがあったら訂正されるからです。
その後は、あなたも尊重されるように
個人の捉え方に判断を委ね、誘導はしていません。
…いくら話し合ってもどうしようもない事もあるんです。
ここは潔く諦めましょう。
ごめんなさい。
老婆心からまた余計なことを書いたかもしれません…。
でも、あなたがずっとそうして紳士的でいてくれたら、と
願わずにはいられなかったのです。
#29 2017年01月27日 01:33:01
- リッチさんへ
- ゲストユーザー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
akameさんから「トピの趣旨に沿ってもう少し疑問点と噛み合うように」という注意を受けたため、リッチさんの質問にお答えを書くことができませんでした。
そして、あなたが答えておられないのでもう一度訊きますが、自由意志が実在する客観的証拠はありますか?
私の言っている自由意志とは、辞書通りの定義で、
「他から強制・拘束・妨害などを受けないで、行動や選択を自発的に決定しうる意志。」 goo国語辞典から引用です。
「他から強制・拘束・妨害などを受けないで、行動や選択を自発的に決定しうる意志」は存在しません。人間の行動や選択の決定は、神から与えられた限界内における制限された自由だからです。人間は神の律法の拘束を受けています。(ルカ 11:28; ヤコ 1:25)
イザ 45:9 さんの発言:リッチさん、人間が持つ自由は制限された相対的なものですから、神のような絶対的な無制限の自由ではありません
と書いていますが、その相対的自由が存在する科学的証拠はありますか?
たとえば、「喉が乾いたから水を飲もう」という意思ですら、自分の意思とは無関係に行われる代謝や、空気の乾燥などにより、体から水分が失われた結果発生した、いわば環境に拘束された意思です。
「自分の意思とは無関係に行われる代謝や、空気の乾燥などにより、体から水分が失われた結果発生した、いわば環境に拘束された意思」というのも相対的自由です。ですから、人間には制限された相対的自由が存在します。
科学的証拠として一例をあげると、人間の身体能力などはいかがですか。人間の身体能力はかなりの制限を受けていますが、同時に自由意思を行使することもできます。
自由意志を原罪の発生の根拠にするならば、まず因果関係から完全分離された自由意志の存在を証明しなければなりません。
神から人間に与えられた相対的な自由意志により、間違った欲望を抱くことになり罪と死をもたらしました。(ヤコ 1:14,15。創 1:29; マタ 4:4)なぜなら、人間には「完全分離された絶対的な自由意志」がありませんが、神から与えられた制限された自由による選択ができるからです。
#30 2017年01月27日 06:16:45
- akame
- ゲストユーザー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
イザ 45:9さん
疑問点と噛み合うように、のご提案後すぐに原罪に関わる根元的な疑問が論議されてますから、それで良かったのです。
誤解されましたか?
#31 2017年01月27日 07:59:36
- リッチ
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
神から与えられた限界内における制限された自由だからです。
「自分の意思とは無関係に行われる代謝や、空気の乾燥などにより、体から水分が失われた結果発生した、いわば環境に拘束された意思」というのも相対的自由です。
定義通りの自由意志の有無について訊いているので、自由意志の定義に当てはまらない相対的自由というものががあるという主張されても、的外れです。
科学的証拠として一例をあげると、人間の身体能力などはいかがですか。人間の身体能力はかなりの制限を受けていますが、同時に自由意思を行使することもできます。
身体を動かす事が自由意志の存在の科学的証拠になりません。
脳科学の分野の話になりますが、たとえば「手を開こう」という意思が内観で発生したと同時に手を開くとします。
主観的には意思の発生と全く同時期に手を開いたように感じますが、実際はそうではなく、手を開くため筋肉を動かすべく準備電位が脳内で発生した時間と、意思の発生した時間にはタイムラグがあるのです。
イザさんはおそらく、意思の発生の直後に手を開いたと思われるでしょうが、現実では身体が動き始めた後に意思が発生しているのです。
意思と同時に体が動いたというのは錯覚にすぎず、それは脳が同時期に行っているように感じるよう編集を行っているからです。
統合失調症などになると、この意思と身体の同期機能が失われる事があり、そうなると、そう行動しようと全く意思していないのに気がついたら行動していた、という事が多発し、重度になると、意思と身体の動きが噛み合わず、歩行困難になったりします。
統合失調症までもなくとも、軽度な「気がついたらやっていた」という事は誰にでも起こっています。
気がついたら鼻を触っていた。気がついたらリモコンでチャンネルを変えていた、気がついたら掻いていた……など、無意識的な行動をした事がない人はいないでしょう。
自分の体が先に行動しているというのに、その行動を自由意思で操作しているという事はできません。
オフライン
#32 2017年01月27日 09:27:02
- イザ 45:9
- ゲストユーザー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
イザ 45:9さん
疑問点と噛み合うように、のご提案後すぐに原罪に関わる根元的な疑問が論議されてますから、それで良かったのです。
誤解されましたか?
akameさん、ご迷惑をかけてすみません。
#33 2017年01月27日 10:02:42
- リッチさんへ
- ゲストユーザー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
私の言っている自由意志とは、辞書通りの定義で、
「他から強制・拘束・妨害などを受けないで、行動や選択を自発的に決定しうる意志。」 goo国語辞典から引用です。定義通りの自由意志の有無について訊いているので、自由意志の定義に当てはまらない相対的自由というものががあるという主張されても、的外れです。
繰り返しになり恐縮ですが、リッチさんが定義している「他から強制・拘束・妨害などを受けないで、行動や選択を自発的に決定しうる意志」は、現在の地球上において存在しません。
#34 2017年01月27日 11:55:18
- 土の器のかけら
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
イザ 45:9 さんの発言:リッチさん、人間が持つ自由は制限された相対的なものですから、神のような絶対的な無制限の自由ではありません
と書いていますが、その相対的自由が存在する科学的証拠はありますか?
イザ 45:9 さんの発言:科学的証拠として一例をあげると、人間の身体能力などはいかがですか。人間の身体能力はかなりの制限を受けていますが、同時に自由意思を行使することもできます。
身体を動かす事が自由意志の存在の科学的証拠になりません。
脳科学の分野の話になりますが、たとえば「手を開こう」という意思が内観で発生したと同時に手を開くとします。
主観的には意思の発生と全く同時期に手を開いたように感じますが、実際はそうではなく、手を開くため筋肉を動かすべく準備電位が脳内で発生した時間と、意思の発生した時間にはタイムラグがあるのです。
イザさんはおそらく、意思の発生の直後に手を開いたと思われるでしょうが、現実では身体が動き始めた後に意思が発生しているのです。
意思と同時に体が動いたというのは錯覚にすぎず、それは脳が同時期に行っているように感じるよう編集を行っているからです。
統合失調症などになると、この意思と身体の同期機能が失われる事があり、そうなると、そう行動しようと全く意思していないのに気がついたら行動していた、という事が多発し、重度になると、意思と身体の動きが噛み合わず、歩行困難になったりします。
統合失調症までもなくとも、軽度な「気がついたらやっていた」という事は誰にでも起こっています。
気がついたら鼻を触っていた。気がついたらリモコンでチャンネルを変えていた、気がついたら掻いていた……など、無意識的な行動をした事がない人はいないでしょう。自分の体が先に行動しているというのに、その行動を自由意思で操作しているという事はできません。
リッチさんの質問は「相対的自由が存在する科学的証拠はありますか?」ですね。リッチさんの「身体を動かす事が相対的な自由意志の存在の科学的証拠にはならない」という立証には、不随意運動、実行機能障害、錯誤などが入り混じっています。
そこで、人間の身体能力について、もっとシンプルに考えてください。
リッチさんは呼吸数を自発的に決定できますか。呼吸を止めることができますか。自発的にコントロールして決定できますね。それでは心拍数はいかがですか。呼吸より自発的な決定が難しくなります。
なぜなら、心拍数は自律神経によって調節されているため、自分でコントロールできないからです。とはいえ、自律神経を自発的にコントロールするのは難しいことですが、トレーニングによって自分でコントロールできなくもないようです。
このように制限された自由意思、拘束された自由意思が存在します。よく知られている例え話を拝借しました。
(イザ 45:9をユーザ登録し「土の器のかけら」としました)
編集者 土の器のかけら (2017年01月27日 16:29:51)
オフライン
#35 2017年01月27日 17:51:57
- リッチ
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
このように制限された自由意思、拘束された自由意思が存在します。
「制限された自由意志」「拘束された自由意志」はどちらとも矛盾した語句です。
そもそも自由の定義は
<《名・ダナ》他からの束縛を受けず、自分の思うままにふるまえること。goo辞書より>
であり、対義語は束縛ですから、束縛された自由というものはなりたたないのです。
制限されたり拘束されつつ発現している意識は、「拘束された自由意志」という単語ではなく、単に「拘束された意思」としか言いようがありません。
自律神経を自発的にコントロールするのは難しいことですが、トレーニングによって自分でコントロールできなくもないようです。
自立神経を自分でコントロールできた所で、相対的自由というものが存在するという証拠にはなりません。もちろん自由意志の存在の証拠にもなりません。
前に書いた、手を開こうという意識が発生する前にはすでに脳が手を開く準備をしているのと同様に、
「今からコントロールを行う」という意識が発生する直前に、すでに脳が自律神経をコントロールするための準備をしているためです。
リッチさんが定義している「他から強制・拘束・妨害などを受けないで、行動や選択を自発的に決定しうる意志」は、現在の地球上において存在しません
と、あなたも認めていますが、現在の科学的見解では自由意志は存在していません。
JWの説明では原罪の発生の説明には「自由意志」という言葉は用いられますが、「拘束された自由意志」と修飾語のついた言葉は用いられていないので、
「『アダムは拘束された自由意志を持っている』なら通るよ」という主張は検証する命題がすり替えられているのです。
検証すべきものは
「アダムは自由意志を持っている」という命題であり「アダムは拘束された自由意志をもっている」ではないのです。
あなたも認めていますが、自由意志は科学的事実から現実に存在していません。
ですから、「アダムは自由意志を持っていた」という事は現実においては間違った事だという事です。
ただ、アダムが自由意志を持っていてもおかしくないような考え方があります。
それは、「聖書はフィクションである」という考えです。
フィクションは、内容に宇宙人やタイムマシンや妖怪や魔法使いなどが出てきても、これは虚構であるという前提があるので、どのような内容もなりたちます。
簡単にいえば、嘘、の一文字ですね。
オフライン
#36 2017年01月27日 18:33:19
- 土の器のかけら
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
土の器のかけら さんの発言:このように制限された自由意思、拘束された自由意思が存在します。
「制限された自由意志」「拘束された自由意志」はどちらとも矛盾した語句です。
そもそも自由の定義は
<《名・ダナ》他からの束縛を受けず、自分の思うままにふるまえること。goo辞書より>
であり、対義語は束縛ですから、束縛された自由というものはなりたたないのです。
制限されたり拘束されつつ発現している意識は、「拘束された自由意志」という単語ではなく、単に「拘束された意思」としか言いようがありません。
リッチさんが言うように、単に「拘束された意思」と呼ぶとするなら、拘束されていない、または制限されていない、自発的にコントロールして意思決定できる領域はどうなりますか。それも「拘束された意思」「束縛された意思」になりますか。
リッチさんは呼吸をコントロールして水の中で自由に泳ぐことができますか。それは完璧に泳げることを意味しませんが、制限されているからと言って、リッチさんの自由意志は何も発揮することができませんか。
リッチさんの言うように自由意志が発揮できない領域がありますが、しかし、自由に決定できる領域もあります。
質問をひとつひとつ分けて答えます。
編集者 土の器のかけら (2017年01月29日 07:53:46)
オフライン
#37 2017年01月27日 18:47:31
- 土の器のかけら
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
自立神経を自分でコントロールできた所で、相対的自由というものが存在するという証拠にはなりません。もちろん自由意志の存在の証拠にもなりません。
前に書いた、手を開こうという意識が発生する前にはすでに脳が手を開く準備をしているのと同様に、「今からコントロールを行う」という意識が発生する直前に、すでに脳が自律神経をコントロールするための準備をしているためです。
自律神経は末梢神経で、意志とは無関係に作用する神経です。脳から切り離された状態でも拍動があります。生命の発生においては脳ができる前から拍動しています。
リッチさんに明らかな理解の間違いがあるので一応訂正しましたが、私の例えが不適切でした。
編集者 土の器のかけら (2017年01月27日 18:48:33)
オフライン
#38 2017年01月27日 19:16:04
- 土の器のかけら
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
土の器のかけら さんの発言:リッチさんが定義している「他から強制・拘束・妨害などを受けないで、行動や選択を自発的に決定しうる意志」は、現在の地球上において存在しません
と、あなたも認めていますが、現在の科学的見解では自由意志は存在していません。
JWの説明では原罪の発生の説明には「自由意志」という言葉は用いられますが、「拘束された自由意志」と修飾語のついた言葉は用いられていないので、
「『アダムは拘束された自由意志を持っている』なら通るよ」という主張は検証する命題がすり替えられているのです。
私は当初、「相対的な」「制限された」「神から与えられた限界内」という表現を用いていましたが、リッチさんが示したgoo国語辞典からの引用に準じて「拘束された」という表現をしました。
JWでは、「相対的な」「制限された」「神から与えられた限界内」などの表現が多く用いられています。
検証すべきものは
「アダムは自由意志を持っている」という命題であり「アダムは拘束された自由意志をもっている」ではないのです。あなたも認めていますが、自由意志は科学的事実から現実に存在していません。
ですから、「アダムは自由意志を持っていた」という事は現実においては間違った事だという事です。
アダムに神から与えられたのは限界内での制限された自由です。(イザ 45:9; ロマ 9:20,21)ですから、アダムに与えられた「相対的な制限された自由」について検証するのはいかがですか。
編集者 土の器のかけら (2017年01月27日 19:23:23)
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#39 2017年01月27日 21:25:42
- リッチ
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
リッチさんは呼吸をコントロールして水の中で自由に泳ぐことができますか。それは完璧に泳げることを意味しませんが、制限されているからと言って、リッチさんの自由意志は何も発揮することができませんか。
呼吸をコントロールして水の中を泳ぐ事ができますが、好きなように泳ぐ事が自由であるとは思いませんし、自由意志であるとも思いません。
呼吸をしようと意思が発現する前に、すでに脳は呼吸の準備をしていますし、腕を動かす事にしてもそうです。
自律神経は末梢神経で、意志とは無関係に作用する神経です。脳から切り離された状態でも拍動があります。生命の発生においては脳ができる前から拍動しています。
リッチさんに明らかな理解の間違いがあるので一応訂正しましたが、私の例えが不適切でした。
それは存じてましたが、あなたが自律神経をコントロールできたらの話をしたので、その仮に動かせたらの前提に合わせて発言しました。
アダムに神から与えられたのは限界内での制限された自由です
ですから、アダムに与えられた「相対的な制限された自由」について検証するのはいかがですか。
論点をずらさないで下さい。今検証しているのは、「自由意志」の有無であり「相対的な制限された自由」の有無ではありません。
それに、「自由意志」と「自由」では意味が違います。
「制限された自由」というのは、意思を制限しているのではなく、行動を制限しています。
「制限された自由意思(←矛盾していますが便宜上使用)」になると、意思の発現自体が制限されるという意味になり、たとえば「禁断の果実を食べようという意思」が制限されたら、禁断の実を食べようという発想自体がわかなくなります。
ですので、「制限された自由」ではなく、「自由意志」の存在を証明してください。
「自由意志を与えた」という語句がJWのサイトでも見受けられます。
オフライン
#40 2017年01月28日 17:40:16
- 土の器のかけら
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
土の器のかけら さんの発言:アダムに神から与えられたのは限界内での制限された自由です
ですから、アダムに与えられた「相対的な制限された自由」について検証するのはいかがですか。論点をずらさないで下さい。今検証しているのは、「自由意志」の有無であり「相対的な制限された自由」の有無ではありません。
それに、「自由意志」と「自由」では意味が違います。
「制限された自由」というのは、意思を制限しているのではなく、行動を制限しています。「制限された自由意思(←矛盾していますが便宜上使用)」になると、意思の発現自体が制限されるという意味になり、たとえば「禁断の果実を食べようという意思」が制限されたら、禁断の実を食べようという発想自体がわかなくなります。
便宜上、「相対的な制限された自由」または「制限された自由意思」と表現していただきありがとうございます。「限定された完全さ」という用語もありますが、これも便宜上も使用すると思います。多くの問題がありますが、少しづつ調整していきませんか。
リッチさんと討議していて、もしかしたら、言葉の定義づけ、用語の意味の理解が異なるのではないかと感じました。リッチさんが他者とのコミュニケーションとして用語の定義に国語辞典を用いる場合、一般的に多くの人々に使用されている広辞苑がよいと思います。しかし、私は他の辞書でも構いません。その場合、「goo辞書」というように付記があると調べることができます。
この言葉の問題は、聖書を読む上で大きなトラブルとなっています。それを完全に解決することはできませんが、解決に向けて近づけることはできると信じています。それでよろしければ、以下も引き続き読んでください。
「制限された自由意思」とは、実行行為も制限され、リッチさんのいう「意思の発現」も制限されている意味でしょうか。(リッチさんのいう「意思の発現」を意思決定プロセスの一部とします)
「禁断の実を食べようという発想」ができたということは、発想するだけ、考えるだけならば制限がされていなかった、ということになりませんか。
そこで導かれる結論としてのアダムに与えられた自由意思とは、神の律法に従うかどうかは、人間の思考にプログラムとして組み込まれていたのではなく、自発的なものとして心から生じることになっていた、考えることができたということになります。
人間には不従順を選ぶ能力、拒否する能力も与えられていました。そのため、「禁断の実を食べよう」という意思決定ができました。(申命記 10:12,13; 30:19,20)これがリッチさんの疑問の1つへの回答です。
リッチさんの質問に分けて答えています。もし、飛ばしていたら、再度、質問してください。
人間の「自由意志」には、同時に責任を生じさせられています。そのために神の律法による導きがあります。神の律法に違反するとどうなるかも人間に示されています。したがって、自由意思の行使は制限されていると言えませんか。
神の律法では制限要件を公告されていますが、実行行為は制限されていません。それなら、言っているだけ書いているだけの制限なのかと言えますか。そうではなく神の律法に実効力がある理由は、結果責任を生じさせていることです。実行行為の結果責任によって人間には意思決定するときに制限がかけられることになります。付け加えれば、「制限された意思決定」です。
聖書のローマ6章23節には「罪の報いは死です」と記されています。(創世記 2:17)そこで、どうしますか、実行行為をしますかという問いかけになります。ここから先は私個人の感じ方になりますから、リッチさんの要望があれば書くことにします。
編集者 土の器のかけら (2017年01月28日 18:22:44)
オフライン
#41 2017年01月28日 19:52:22
- リッチ
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
人間の「自由意志」には、同時に責任を生じさせられています。そのために神の律法による導きがあります。神の律法に違反するとどうなるかも人間に示されています。したがって、自由意思の行使は制限されていると言えませんか。
言えません。
それは自由意志の行使が制限されるというよりも、行動をルールで制限しているだけで、なにかしようという意思が発生する事自体を制限しているわけではないからです。
「制限されている」ものは実行行為も、リッチさんのいう「意思の発現」も含まれているでしょうか。(リッチさんのいう「意思の発現」を意思決定プロセスの一部とします)
しかし、「禁断の実を食べようという発想」ができたということは、発想するだけ、考えるだけならば制限がされていなかった、ということになりませんか。
自由意志を制限している誰かが実在するのかどうかはわかりませんが、意思が発生するのは物質の物理運動上の結果にすぎないと考えています。物理運動の因果に縛られて発生する意思は自由ではありません。
「禁断の実を食べようという発想」も禁断の実が存在するという外からもたらされた知識に影響されて初めて発想が可能になりますし、生理学的には食べようという意思によって体が動いたとしても、前に書いたとおり意思する前にはすでに体が動き出しています。
自由意志ならば、禁断の実の存在を知らない状態で「禁断の実を食べよう」という意思が発生しないといけませんし、身体が行動に移す前に意思が発生していないとなりません。
オフライン
#42 2017年01月28日 20:45:31
- 土の器のかけら
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
土の器のかけら さんの発言:人間の「自由意志」には、同時に責任を生じさせられています。そのために神の律法による導きがあります。神の律法に違反するとどうなるかも人間に示されています。したがって、自由意思の行使は制限されていると言えませんか。
言えません。
それは自由意志の行使が制限されるというよりも、行動をルールで制限しているだけで、なにかしようという意思が発生する事自体を制限しているわけではないからです。
リッチさん、お返事ありがとう。
リッチさんの「行動をルールで制限しているだけで、なにかしようという意思が発生する事自体を制限しているわけではない」という理解で正解です。
先の書き込みの結語の方で答えていますが、実行行為の結果責任によって人間には意思決定するときに制限がかけられることになります。付け加えれば、「制限された意思決定」です。
これからは「制限された自由意思」を「制限された(自由な)意思決定」という表現にしましょうか。
意思決定のプロセスについては、「意思決定」と「実行行為」にも過程があります。犯罪の成立する構成要件です。必要があれば、別途、一緒に考えましょう。
土の器のかけら さんの発言:「制限されている」ものは実行行為も、リッチさんのいう「意思の発現」も含まれているでしょうか。(リッチさんのいう「意思の発現」を意思決定プロセスの一部とします)
しかし、「禁断の実を食べようという発想」ができたということは、発想するだけ、考えるだけならば制限がされていなかった、ということになりませんか。自由意志を制限している誰かが実在するのかどうかはわかりませんが、意思が発生するのは物質の物理運動上の結果にすぎないと考えています。物理運動の因果に縛られて発生する意思は自由ではありません。
「禁断の実を食べようという発想」も禁断の実が存在するという外からもたらされた知識に影響されて初めて発想が可能になりますし、生理学的には食べようという意思によって体が動いたとしても、前に書いたとおり意思する前にはすでに体が動き出しています。自由意志ならば、禁断の実の存在を知らない状態で「禁断の実を食べよう」という意思が発生しないといけませんし、身体が行動に移す前に意思が発生していないとなりません。
「禁断の実が存在するという外からもたらされた知識に影響されて初めて発想が可能になります」というリッチさんの理解で正解です。あらかじめ、善悪の知識の木についての存在と存在理由(レゾンデートル)が知らされました。(創世記 2:16,17)
「食べようという意思」決定については、そこが重要な問題です。そこには、複雑な意思決定のプロセスがあります。
尚、存在理由(レゾンデートル)は、善悪の知識の木が存在する理由という意味です。
「自由意志ならば、禁断の実の存在を知らない状態で『禁断の実を食べよう』という意思が発生しないといけません」というリッチさんの疑問も併せて、一緒に考えていきたいと思います。
akameさんのトピで書いたように、リッチさんの疑問は私も考えたことがあります。答えることができるのはその経験があるからです。
編集者 土の器のかけら (2017年01月29日 08:05:54)
オフライン
#43 2017年01月28日 23:16:27
- 土の器のかけら
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
原罪思想はパウロが提唱して、アウグスティヌスが確立したと言われていますが、現代に至るまで諸派による解釈の差異が大きいのも土台が(推察による仮定)であることを示しています。
http://ameblo.jp/caritas-agape/entry-10786330386.html
ヘブライ11:1にある、「明白な論証あるいは事実」とは遠いように感じます。
しかし、推察を進める為にはとりあえす原罪風景である創世記を確認しましょう。2:15主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。 2:16主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。 2:17しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
3:5それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。 3:6女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。 3:7すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
この分析には以下の説明が重要となります。
ローマ5:12
このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。こうした記述だけでも、実に様々な視点による分析が可能となります。
私はakameさんの呼びかけに応じて、様々な視点による分析を試みようとしましたが、akameさんから「それは何百回も聞きましたが、そう思いません」「他の方も既知の内容」「トピの趣旨に沿ってもう少し疑問点と噛み合うように」「聖書信奉的定義の枠に拘らないほうが」「判で押したようなJW解説、宣教のような」などと注意を受けました。
akameさん、迷惑をかけてすみません。
それで、akameさんの議論に無関係な意見かと考えて、こちらに移動しました。要望があれば、引き続き、様々な視点から考察してみたいと思います。
編集者 土の器のかけら (2017年01月29日 02:10:41)
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#44 2017年01月29日 05:42:41
- リッチ
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
これからは「制限された自由意思」を「制限された(自由な)意思決定」という表現にしましょうか。
それはいけません。「自由意志」と「意思決定」では意味が違うからです。
「自由意志」では都合が悪くなるからでしょうが、すり替えようとするのをやめてください。
「禁断の実が存在するという外からもたらされた知識に影響されて初めて発想が可能になります」というリッチさんの理解で正解です。
それが正解なら、自由意志は存在しません。
そして、自由意志の有無で話題からそれて注目されなくなりましたが、
仮に自由意志が存在したら、神は完全な知識を欠いてしまい、全知でなくなります。
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#45 2017年01月29日 06:50:27
- 土の器のかけら
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
土の器のかけら さんの発言:これからは「制限された自由意思」を「制限された(自由な)意思決定」という表現にしましょうか。
それはいけません。「自由意志」と「意思決定」では意味が違うからです。
「自由意志」では都合が悪くなるからでしょうが、すり替えようとするのをやめてください。
そうですね。「意思決定のプロセス」という言葉もありますから、同じ意味で用いることは相応しくないようです。「制限された自由意思」と「制限された(自由な)意思決定」を区別して説明します。
編集者 土の器のかけら (2017年01月29日 07:47:53)
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#46 2017年01月29日 07:11:15
- 土の器のかけら
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
土の器のかけら さんの発言:「禁断の実が存在するという外からもたらされた知識に影響されて初めて発想が可能になります」というリッチさんの理解で正解です。
それが正解なら、自由意志は存在しません。
そして、自由意志の有無で話題からそれて注目されなくなりましたが、仮に自由意志が存在したら、神は完全な知識を欠いてしまい、全知でなくなります。
リッチさんの自由意思という概念では、「『禁断の実を食べよう』という発想も禁断の実が存在するという外からもたらされた知識に影響されて初めて発想が可能になります」「禁断の実の存在を知らない状態で『禁断の実を食べよう』という意思が発生しないといけません」ということですね。
それでは、創造主によって、善悪の知識の木についての存在と存在理由(レゾンデートル)が知らされたことは、自由意思の存在を否定する、存在しないということになりますか。(創世記 2:16,17)
リッチさんは、『洞察』第1巻 661–667ページ「完全」、『塔10 11/15』22ページ 読者からの質問、『塔08 10/1』27ページ 「アダムは,完全であったのなら,どうして罪を犯したのでしょうか」などを参照できますか。もし、参照することが可能でしたら、引用を省略し説明を短くできます。
尚、書き込みを編集し太字強調にしました。文章の改竄はしていません。
編集者 土の器のかけら (2017年01月29日 08:02:50)
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#47 2017年01月29日 09:21:15
- リッチ
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
それでは、創造主によって、善悪の知識の木についての存在と存在理由(レゾンデートル)が知らされたことは、自由意思の存在を否定する、存在しないということになりますか。
善悪の知識の木についての存在と存在理由が知らされたことだけでは、自由意志全般の存在について否定する事にはなりません。
「禁断の実を食べようという発想」という意思の自由性のみ否定される事になります。
しかし、現在、観察できる意思は、すべて物理的な外的要因によって発生しているため、すべての意思は自由ではないという事ができます。
意思を発生させるためには、肉体という物体が必要で、肉体に拘束されている意思は自由ではありません。
意思を発現させるためには肉体が必要。肉体をもちいずに、かつ外的要因に左右されずに意思を発現させられれば自由といえますが、土の器のかけらさんは、肉体がなかった頃に意思を発現させたことはあるのでしょうか。
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#48 2017年01月29日 10:34:50
- 土の器のかけら
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
しかし、現在、観察できる意思は、すべて物理的な外的要因によって発生しているため、すべての意思は自由ではないという事ができます。
意思を発生させるためには、肉体という物体が必要で、肉体に拘束されている意思は自由ではありません。意思を発現させるためには肉体が必要。肉体をもちいずに、かつ外的要因に左右されずに意思を発現させられれば自由といえますが、土の器のかけらさんは、肉体がなかった頃に意思を発現させたことはあるのでしょうか。
そのとおりですね。人間の精神の活動には肉体が必要です。人間は肉体がなければ精神の活動も存在しません。
「意思の発現」は法律用語です。「こうしたい」という特定の効果を望む意思を「効果意思」といいます。この「効果意思」が「意思」が発現しているということになります。
したがって、リッチさんのいう「肉体をもちいずに、かつ外的要因に左右されずに意思を発現させられれば自由」とは、絶対的な完全性がある創造者だけにあります。
リッチさんの表現を「現在、観察できる人間の意思は、すべて物理的な外的要因によって発生しているため、すべての意思は絶対的な意味での完全な自由ではないという事ができます」と挿入するならば、より正確になります。(挿入は黄色部分)
『洞察』第1巻 661–667ページ「完全」を参照してください。絶対的な意味での完全と、他の相対的な完全性について説明されています。もし、リッチさんがサイトを閲覧できない場合は教えてください。
善悪の知識の木についての存在と存在理由が知らされたことだけでは、自由意志全般の存在について否定する事にはなりません。
「禁断の実を食べようという発想」という意思の自由性のみ否定される事になります。
そこで、リッチさんのこの理解が正しいということになります。
「自由意志全般の存在について否定する事にはなりません」が、「意思の自由性のみ否定される事になります」。
編集者 土の器のかけら (2017年01月29日 11:18:15)
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#49 2017年01月29日 11:10:47
- リッチ
- メンバー
Re: 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~
リッチさんの表現を「現在、観察できる人間の意思は、すべて物理的な外的要因によって発生しているため、すべての意思は絶対的な意味での完全な自由ではないという事ができます」と挿入するならば、より正確になります
勝手にすりかえないでください。
あなたは私の発言をJWの教義に合うように改造すれば正確だと言ってるのです。
JWの教義的には正確になるでしょうが、この現実では正確にはなりません。
自由意思自体が存在しないので、相対的自由意思とやらもしないのです。
人間の精神の活動には肉体が必要です。人間は肉体がなければ精神の活動も存在しません。
意思が肉体に縛られている時点で自由ではありません。「神は自由意志を持っている、だから人間には自由意志は相対的にある」というのは的外れです。
「人間に自由意志があるかどうか」が議題であり神が自由意志を持っていようが持っていまいが問題点には無関係なのですから。
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