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#701 2017年01月08日 22:14:56

良い子
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

梵天さんへ

お返事ありがとうございます。
梵天さんの考えを知る事が出来てうれしいです。
確かに神の考えなど、人間には量りしれません。
それを、神の考えはこうだ、神はこう言っているのだ、と書いてしまったのが聖書だと思うのですが。


気が向いたらお返事下さい。

#702 2017年01月09日 08:20:16

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

マタイの福音書がなぜマタイが書いたことになったのかについて書いたところ、ほめてくださる方がおりました。ありがとうございます。
それで気をよくして、マルコの福音書がなぜマルコが書いたことになったのかを書こうと思って朝起きたら、別のスレッドでKAOさんが、それについて大変格調高く書いておられたので、急遽、ルカによる福音書がなぜルカなる人物が書いたことになったのかというテーマで書くことにしました。結構込み入っているんだね、これが。

まず、ルカによる福音書と使徒言行録は同じ人が書いたものなんだ。二つとも、テオフィロという人にささげられていて、使徒言行録1:1-2では、「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。」とあることから、「第一巻」はルカの福音書のことを指していると解釈できるから、福音書と使徒言行録は同じ人が書いたとみなせるよね。

それで、使徒言行録を書いた人がわかれば、ルカの福音書を書いた人もわかるということになり、だれが使徒言行録を書いたんだろうということになったんだ。注目されたのが次のような部分、「パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。」16:10 「わたしたち」という言い方に注目してね(同じような表現はあと3か所ある)。つまり使徒言行録の作者はパウロと一緒に宣教旅行をしたと主張しているんだ。それではパウロと一緒に旅をした人は誰なのか?

パウロの書いた手紙を調べてみると、コロサイの信徒への手紙に「あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。 (略) 愛する医者ルカとデマスも、あなたがたによろしくと言っています。」4:12-14とある。ここに名前が出ている、エパフラス、ルカ、デマスがパウロの旅仲間の名前じゃないかということになった。作者はこの3人の誰かに絞られたんだ。

まず、デマス。テモテ第二の手紙4:10に「デマスはこの世を愛し、わたしを見捨ててテサロニケに行ってしまい、(略)」とある。なんとデマスはパウロを見捨てて、トンズラした(気持ちは理解できるけど)。当然、福音書の作者の候補者から外れます。
次は、エパフラス。コロサイの信徒への手紙に「あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、また、“霊”に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です。」1:7-8とある。つまり、エパフラスはコロサイの教会の設立者なんだ。もしエパフラスが使徒言行録の作者なら、コロサイのことが使徒言行録の中に出てきてもよさそうだよね、なのに一度も出てこない。そこから、エパフラスは使徒言行録の作者ではないとされ、自動的に福音書も書いていないことになったんだ。
残っているのは、医者のルカだね。

こんなわけで、ルカが目出度く福音書と使徒言行録の作者になったんだ。マルコによる福音書と違って、2つの書のギリシャ語のレベルは高いらしい。これもルカが作者だと納得がいくよね。古代の医学の本はギリシャ語で書かれたものが多いからね。
というわけで、2世紀ごろに、作者不詳の福音書がルカによる福音書と呼ばれるようになったんだ。
でも、これらの一連の推理って正しいのかというと、正しくないだろうね。

問題は、この推理の根拠になったコロサイの信徒の手紙が偽パウロ書簡とされていることなんだ。つまり、パウロのふりをして誰かが手紙をでっち上げたということ。どうしてそんなことがわかるのかって。使用する単語、文体、文の平均文字数(どこまで信用していいかわからないけど、田川健三先生によると、偽パウロ文書は長い文、類語反復、合成語を好むそうです)、そして神学的見解が本物のパウロの書簡と違うからなんだ。
例えば、復活に関するパウロの見解。ローマの信徒への手紙6:5,8 「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」 日本語の翻訳だと分かりにくいけど、パウロにとって復活は未来のことね(ギリシア語の未来形が使われている。JWの新世界訳の英語版だと、8節はif we have died with Christ, we believe that we will also live with him. 未来形で訳しているでしょう)。
一方、コロサイの偽パウロの見解。2:12 「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」 復活は過去のことね。ここでは復活というのは、洗礼の時に比ゆ的に死んで、比ゆ的に復活したという理解なの。当時、ユダヤ人以外の人にとって、死者が復活するという思想は受け入れがたかったんだ(ゾンビ怖い)。本物のパウロと思想が違うでしょう。

それから、使徒言行録で描かれるパウロと、パウロの書簡の中で自ら語るパウロの姿が違うのも問題なんだ。使徒言行録の著者は、本当にパウロの旅仲間で、パウロのことを知っているのか疑わしいんだね。

#703 2017年01月09日 11:37:59

梵天
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

書き込み失礼します。
私は2年ちょっと前に何度か書きこみして以来、今回投稿しています。
その時はT.Tと名乗っていました。

先ほど自分の書き込みを調べてみたら
聖書の教え (神、イエス・キリスト、救い、etc)のトピック
2014年の11月6日にskさんと会話してました。

書き込みは数回のみでした。

少し前にT.Tと言う人がいたような気がしたのと
パスワードを忘れてしまったので梵天に変更しました。

◆良い子さん お返事ありがとう。
聖書記述の解釈は人によって違いがあるので
様々な感じ方があるのだと思います。

神の意識、感覚を人間が理解する事は難しいと思います。
子供が大人の人間関係を理解できないのと似ていると思っています。

大人になれば職場、親戚、近所など
様々な関係があります。

私はきちんとした議論には参加したいと思います。

意見の食い違いの始まりは
神と一人の霊者ですが
その時以来、現在も人類はその論争という器の中にいます。

その論争が決着しない限り
人間の争いも無くならないと思います。

オフライン

#704 2017年01月09日 11:58:31

良い子
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

梵天さんへ

お返事ありがとうございます。

私は、先人達が、神とはこういうもんだろう、と想像し、神を敬った事を否定しませんし、むしろ尊重したいと思っています。

その先人達の思考を止揚する事なく、そのまま現代で使うのは無理があると思っています。

#705 2017年01月09日 17:14:56

ささらほーさら
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

マタイ、マルコ、ルカが出そろったみたいですね。
では、わたしはヨハネによる福音書について少し触れておこうと思います。

ここを訪れるみなさんもご存じのように、ヨハネは取り分け「イエスに愛されていた弟子」だったわけです。
だからでしょうか、他の福音書筆者が扱っていない重要な「真理」を扱っています。どんな「真理」でしょうか。そう、イエスは実はわたしたちと同じ人間ではなく、偉大なる父であり神である唯一神に最初に創られた「ひとり子」であり、長い長い年月を、その父と共に過ごした者であるという「真理」です。そして、その神の命を受け「言葉」となって父の代理的な立場に立ち、すべてのものの創造にも携わった方だという「真理」なのです。また、それ故に罪の状態に置かれた人類を救うべく「贖い代」となるために肉体となってこの地上にお生まれになったという「真理」であり、永遠の救いには「再び生まれる」ことが必要だという「真理」なのです。
だって、他の三福音書=共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)には、そんなイエスの実情など一言も述べられてはいないのです。
また他の福音書では扱われていないことがいくつも述べられています。例えば、カナの婚礼の席で水を葡萄酒に変えたこと、ラザロを復活させたこと、井戸のところでサマリア人の女と会話をしたこと・・などです。
また、イエスが山上で語ったという「たとえ話」のオンパレードもヨハネは扱っていません。
むしろ、他の福音書には見られないイエスの言葉「わたしは~~である」という言い回しが多用されています。「わたしは世の光である」「わたしは復活である」などね。
やはり、それほどヨハネの福音書の筆者ヨハネは特別でイエスの寵愛を一身に受けた弟子だったのでしょうか。

実はそうではなく、今では正典に君臨した四福音書のできあがった順番と関係があるようなのです。
福音書は1.マルコ。2.ルカ及びマタイ。3.ヨハネの順に誕生したようです。
マルコがイエスの死後30~35年経ってから、ルカ及びマタイがイエスの死後40~50年を経て、そしてヨハネによる書が更に後 西暦90~95年頃・・・というのがほぼ受け入れられている年代です。

イエスの死後、口承で伝わっていたイエスについての教えを文書に残す必要に迫られたイエスの信奉者たちは多くの書物を残しました。
有名どころでは、トマスによる福音書、ユダによる福音書、マグダラのマリアによる福音書・・・などもあるのです。
結局、長年すったもんだした挙句に、例の四福音書が「正典」の座を射止めたわけですが・・・。

マルコによる福音書が書き残され(マルコは成人してからのイエスについて記しており、彼の神性や神の子、処女から生まれた説については触れていない)→イエスの権威に拍車をかける形でマタイ書の中にはイエスの出生について登場する(知ってか知らずがイザヤ書を引用することによって〔筆者の早とちり説あり〕処女懐胎説が生まれる)→ルカの筆者は処女懐胎については触れず(いや、触れてるけどイザヤ書の成就説は述べていない)、更に直接「彼は神の子」と宣言する(1:35)→ヨハネの筆者はイエスの神性を更に確立させる形で過去の天での存在について記し、将来の天での命について記す。

どうしてそのような変化が必要だったかというと
マルコでは、イエスは「自分の世代、弟子がまだ生きているうちに『終わり』は到来し『救い』が実現する」と語っているのに、エルサレムの崩壊を経て尚、それは実現しなかったわけです。最後の書であるヨハネではすでに世代も代わりイエスの弟子の多くも亡くなっていたため、現実に到来すると予告されていた「メシアによる王国」についての教えに再解釈を施す必要が生じていたわけです。それで「霊による救い」「天での命」「永遠の救い」を強調するようにならざるを得なかったのでしょう。
どこかのカルト集団も、同じように再解釈の必要に迫られていますよね。

編集者 ささらほーさら (2017年01月09日 17:39:01)

オフライン

#706 2017年01月09日 18:29:46

ラハム
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

ささらさん、みなさん
福音書成立の説明ありがとうございます。

とくにヨハネについてはわたしも気になっていました。
三つの福音書はキリストが神の子だと述べていても、
神だと記述されていないのにヨハネになると
神様に昇格したように読み取れるからです。

ヨハネだけ読むことになれば、
キリストは神だということになると思います。
このヨハネは最後に書かれた福音書で、
西暦90年より後で一致しています。

日本の宗教でも教祖様は死んでからずっと後になると
神様に昇格し、崇拝の対象とされています。
神の地位になるのです。
わたしはJWになるまえ天理教を信じていました。
振り返ると教祖の中山みきという女性は
亡くなってから三人いる神の一人になっています。
天理教も三位一体かもしれません。

日光東照宮にまつられている徳川家康も
亡くなってから権現様になったと聞いています。

聖書に記載されているYHWHは全能者ですから、
仮にキリストが永遠に近い過去に創造されていても、
YHWHから神として認められ、神に任命され、
崇拝されるようになっても不思議でないと思います。
箴言8章はふしぎな聖句です…。
これはキリストのことだとも読めますから…。

きわめて人間的な意見ですが、
死んで存在が生き残った信者から確認できなくなると、
神という霊的状態の存在として
信じ続けたいという人間の強い願望が働く
結果だというような気がします。

はたしてなにが真実なのでしょうか…。
わたしの模索は継続中です…。

オフライン

#707 2017年01月10日 09:34:41

yukahena
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さんへ

今度はルカについての解説、ありがとうございました。
候補をエパフラス、ルカ、デマスにしぼったのがコロサイのあの部分だけで、そしてコロサイも怪しいとなるともはや何を基準に正典としたのか。あの頃は自由ですね。
使徒言行録で描かれるパウロと、パウロの書簡の中で自ら語るパウロの姿が違うとはどうなものか興味があります。お時間があったら是非。

オンライン

#708 2017年01月10日 10:05:50

yukahena
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

ささらほーさらさん。

ヨハネの解説を拝見いたしました。ヨハネの福音書も当時の宗教観を補強するように恣意的に書かれたか、イエスの死後半世紀以上経っているので記憶があやふやだったか(10年はおろか1年前のことでもあやふやなことはたくさんあるのはわたしだけでしょうか(泣))、ご本人がご高齢でいささか難があるのではと思っていましたが、そのうち特に最初の宗教観を補強の部分が腑に落ちました。当時の方々の苦心した作品だったようですね。

信者は神の霊感を受けているのだから記憶が不確かなわけがないと言うでしょうが、こちらで議論が重ねられてきた数字の正確性や齟齬は書いた人のせいにします。正しいのは神のおかげ、間違いがあったとしたら全部人間のせいというのは都合が良すぎないかと。神の霊感というのも、人間のせいで間違えたならその時の霊感とは何か?人間は神のペンがわりだったのか?それとも書いた人の素養教養があってのものなのか?だとしたらその人の素養教養をこえた記述がなされたのかなされていないのか?疑問はつきません。

私は聖書で言うところの真理という、漠然としすぎて恣意的にどうとでも言える概念を全く信用できません。世の中の諸問題が真理なるもので全部解決されるほど単純なものではないことを考えないのが不思議でなりません。真理を分かりやすく簡潔に説明できるクリスチャンはいるのでしょうか。聖書の大半は真理とは関係無い捏造や誇張されたユダヤ史等の記述ではないかと考えています。

オンライン

#709 2017年01月10日 17:14:41

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

「God : The most unpleasant character in all fiction」(神様:全てのフィクションの中で最も不愉快なキャラクター)がアメリカから届きました。アマゾンで注文したのですが(2028円)、届くまで3週間かかりました。もちろん英語だよ。

早速、14章「Filicidal」(子殺し)を読んでみました。扱われているのは、予想通り、アブラハムがイサクをバーベキューにするように神様に命じられる(あるいは嘆願される)話しとエフタの娘の話です。

内容をかいつまんで紹介するとこんなところです。アブラハムの物語について。
アブラハムが馬鹿じゃないなら、イサクを通して大いなる国民にするという神様の約束を思い出して、「このテストはいんちきね、しょうがない、神様のゲームに付き合ってやるか。」と思うだろうね。でも、この話しのアブラハムは、どうやらお馬鹿設定で、まじめに殺そうとする。
そこで奇跡的に天使が止めにはいるけど、本当に奇跡的なのはイサクが反抗しない10代の若者だってこと。反抗もしないし逃げ出しもしない。相手は100歳をこえる老人だよ。アブラハムが石でイサクの頭を殴って気絶させたんじゃない限り、イサクは宗教に狂っている老父を愛していたんだろうね。必ずキリスト教徒は、神は愛する一人子を犠牲に・・・などと言い出すけど、正気で、子どもを愛する親は、子どもを殺したりしないよ。

テストにパスした後、天使は「Now I know you fear God」(今、あなたが神を恐れるものであることがわかった)という。全知の神様はそんなことをわからなかったの。アブラハムは神様がソドムとゴモラの町を火で焼き尽くし、住民皆殺しにするのを見ているんだよ。振り向いただけで塩の柱にされてしまったロトの妻を見ているんだよ。こんなテストをしなくても、アブラハムは、神様がいかに危険で恐ろしいかなんて十分わかりすぎるほどわかっているよ。
ここまでの教訓は、神様の前では縮み上がっていろ、子どもを愛する親としての本能を無視せよ、神様が命じたことは何でもするということを証明せよ、さもなければどうなるかわかっているよな、ということね。
アブラハムはその後、その土地に「神は供えてくださる」と命名するんだけど、本当は「神は拷問をする」と名づけたかったんじゃないかな。

最後に、著者はイシマエル(アブラハムとハガルの間の子。追放される)について触れます。イサクは一人子ではなかったのですが、聖書の中ではイシマエルを無視して一人子と呼んでいる。イスラム教の聖典のコーラン(クルラン)では、イシマエルはアラブ人の祖先になっていて、イスラム教の学者は神が犠牲にするよう要求したのはイシマエルと考えているのだそうだ。コーランでは息子のひとりというだけで名前を挙げていない。これははじめて知りました。こんなところにも今日まで続くユダヤとアラブの緊張関係が伺えると言うわけです。神様の考えは計り知れません。

エフタの娘の話については短く言うとこんなかんじ。エフタは戦争に勝たせてくれれば、家から出てきた最初のものを犠牲にささげると誓うのだけど、そのとき神様は「そんな取引には応じられない。子どもの犠牲なんて真っ平だ。」なんて一言も言わない。家から迎えに出てくると言えば娘か妻だよ。家から子羊がのこのこ出てくるなんてありえないよね。
エフタは戦争に勝った。旧約聖書の中では戦争に勝つのは神様のおかげなので、神様はエフタとの取引に応じたと言うことになる。

さて、自分の運命を知ったエフタの娘はなんと言ったかというと「父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、わたしを、その口でおっしゃったとおりにしてください。主はあなたに、あなたの敵アンモン人に対して復讐させてくださったのですから。」 士師記11:36 なんと従順ないい娘。文句のひとつも言わない。
もし愛のある神様ならこういうはずだ。「誓いのことは忘れなさい。エフタよ。娘を殺す必要はない。私はお前の誓いを無効にしよう。」これだと愛と慈悲のいい物語になるのに、聖書では、2か月後に、誓いどおりに娘をささげたということになっている。

その後、神様は、こんなエフタを戦争で勝たせ、6年間、士師という高い地位につけさせたわけで、エフタに満足していたんだろうね。現代なら、刑務所行きだ。

その後、子殺し関係の聖句が、これでもかと言うぐらいしつこく引用されます。ひとつはこれです。申命記21:18-21 「ある人にわがままで、反抗する息子があり、父の言うことも母の言うことも聞かず、戒めても聞き従わないならば、両親は彼を取り押さえ、その地域の城門にいる町の長老のもとに突き出して、町の長老に、「わたしたちのこの息子はわがままで、反抗し、わたしたちの言うことを聞きません。放蕩にふけり、大酒飲みです」と言いなさい。町の住民は皆で石を投げつけて彼を殺す。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。全イスラエルはこのことを聞いて、恐れを抱くであろう。 」
というわけで、子殺しのどこが悪いのという聖書のありがたい話しがたくさん読めるわけです。

こんな感じで、27章にわたり、聖書の素晴らしさをじっくりと楽しめる本ですね。普通の人が普通の感覚で読めば感じることが書かれていると思います。聖書は神の言葉で絶対正しい、神は愛であり、正義であり、・・・という先入観が抜けきれない人はそう感じないのでしょうね。

そういえば、愛についても書いています。旧約聖書の中では「愛」という単語は400回出てくるそうです。ほとんどが上からの命令です。神が、人間に神を愛するよう命令するわけです。愛は、常に服従と所有の感覚と結びついていて、奴隷の所有者が奴隷に全力で使えなさいと要求するのに似ている。神の愛は、神が選んだ人だけが対象の排他的なもので、命令に従っている限りの条件付です。さらに、神は、神を愛する人が神を恐れることを要求します。どこかのカルトの神様や親と似ているね。現代的な、何かに対して自発的にいだく愛とは異なるものです。神は偉大なり。

#710 2017年01月10日 17:20:02

ささらほーさら
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

yukahena さんの発言:

真理を分かりやすく簡潔に説明できるクリスチャンはいるのでしょうか。聖書の大半は真理とは関係無い捏造や誇張されたユダヤ史等の記述ではないかと考えています。

まったく同感です。

聖書は調べれば調べるほど、複雑怪奇で一言で否定できないように実に巧み(?)にできてはいます。
そりゃそうですよね、長い年月を掛けて数えつくすことのできない人々によって練り上げられて来たのです。
最初の一歩を踏み出した人は、最後に「正典」を決定した人々や組織を知らないでしょうし
現代のキリスト教事情も予想さえしていなかったでしょう。
たぶん、どの書を記述した人々も
まさか自分の著した小さな書き物が世界を席巻する書物の一部にのし上がることになるなど
想像だにしなかったのでしょうね。

そして、巧みにできている故に「コロッ」と騙されたり「夢中」になる人もいますけれど
いったい「真理」とは何ぞや?と聞かれても
聖書から納得のいく解答などは出て来ないのだと思います。

聖書を「全擁護」しようとすると
聖書同様「自己矛盾」に陥ってしまうのですが
それが矛盾を孕んでいることさえ気が付かなくなるようです。

くわばら、くわばら

オフライン

#711 2017年01月10日 17:42:26

ささらほーさら
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん、ドーキンスの本、要約情報ありがとうございます。

オフライン

#712 2017年01月10日 18:39:18

ラハム
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

ということは、聖書全体、特に旧約部分は、
歴史的に真実で、実際上空間と時間の流れの出来事を
述べているのではないということでしょう。
たぶん…。
だから、神様というのがどのような性質で、
人間をどのように扱うのかをお話しする物語のようです。

昔々、あるところのおじいさんとおばあさんがいました…。
おじいさんは山へ芝刈りに、
おばあさんは川に洗濯に、そこへ大きなモモが
どんぶらこっこ、どんぶらこ・・・。

この物語と聖書の違うところは数字が出てくるところです。
もっともらしく非現実的で、途方もないのですが…。

オフライン

#713 2017年01月10日 20:43:55

さやか666
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

そうでしたか

エフタは刑務所に行かなかったのですね

犯行時に何者かが憑依して

一種の心神喪失状態にあった可能性もありますからね

聖書には何も書かれていないので、過度な憶測を避けることにより慎み深さを示せます





石打ち刑の導入に関しても様々なメリットがあったはずです。

疑いを抱かれますか?

メリットが無いわけ無いです。

なんといっても、わざわざ神様が石にこだわるのですからね。

仮に全くメリットがなかったにせよ、人間が考える幾多の手法に比べて神聖な方法だったでしょう


使用された石はそんなに固くないという説もあります。

Wikipediaによればローマンコンクリートの骨材として軽石を使用したことも分かっています


もしくは当時、地球上には人間が投げるのに手頃な大きさの石が2~3個程しか存在しなかったという説もあります

大岩と砂は存在しましたが肝心の石が無かったのです

ちなみにダビデの投げた石はゴリアテの眉間にめりこんだまま、取り出されることはありませんでした


つまり、「石打ちせよ」というのは和訳すると

「豆腐の門に頭をぶつけて死ね」という一種のジョークである可能性もあるのです

#714 2017年01月12日 17:17:42

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

以前に、使徒言行録のパウロとパウロの手紙の中のパウロが違うと書いたところ、どう違うのかという質問をいただきました。それについて少しお答えしましょう。

本物のパウロの手紙であるガラテヤへの手紙の1~2章では、パウロの回心、アラビア伝道、ダマスコ滞在、1回目のエルサレム訪問、シリア・キリキア伝道、「再度の」エルサレム訪問、アンティオキアでのペトロとの対立、と7つの出来事が書かれています。一方、使徒言行録には、パウロのエルサレム訪問が5回記されています。(1)回心訪問:9章。(2)飢饉訪問:11章。(3)使徒会議訪問:15章。(4)短期訪問:18章22節。(5)最終献金訪問:21章です。
しかし、ガラテヤへの手紙の中でパウロが語る出来事と使徒言行録での記述内容を比べると、いろいろな点で一致しない。
まず、使徒言行録ではパウロとペテロの対立なんかでてこない。二人の間に意見の違いなんかありませんよ、というのが使徒言行録の基本的立場ね。
それから、パウロの「再度の」エルサレム訪問は、使徒言行録の(2)飢餓訪問のことかと思えば、内容的には(3)使徒会議訪問のことのようなの。それでは飢饉訪問は創作なのかということになるけど、それを回避しようとして、(1)回心訪問と(2)飢饉訪問は実は同じ訪問だった、それを分けて書いているだけとか、そうではなくて(2)飢餓訪問と(3)使徒会議訪問が同じで、それを分けて書いているだけなどと、昔からいろいろな案が工夫されているんだけど、調和させることは無理だね。また、ガラテヤの手紙での「再度の」訪問を使徒会議訪問と見なしても、内容に不一致があり、これはどうしようもない。というわけで、パウロの言っていることが正しいとすると、使徒言行録に書かれていることが違うということになり、使徒言行録の作者が本当にパウロと一緒に宣教旅行した人なのか疑問符がつくわけです。

具体例を挙げましょう。ダマスコから逃れて、エルサレムに来たときの記述です(回心訪問)。
使徒言行録9:25-26
「そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。 」
ガラテヤの信徒への手紙1:17-19
「また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。
それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、 ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。」
使徒言行録では、ダマスコからすぐにエルサレムに行き、(大勢の)弟子たちにあったと書かれていますが、ガラテヤへの手紙では、ダマスコから3年後にエルサレムに行き、会ったのは主の兄弟ヤコブだけ。どっちが正しいんだ。パウロが自分のことで嘘を言っていないとすれば、使徒言行録はパウロのことをあまり知らない人が書いたのだろうということ。

さらに、パウロの語る内容も使徒言行録とパウロ自身の手紙では違います。例えば、異邦人の偶像崇拝について
使徒言行録17:29-30
「わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。」
ローマの信徒への手紙1:19-20
「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」
使徒言行録では、異邦人(ここではアテネの人)の偶像崇拝は「無知」ゆえで、「悔い改める」ことを求めていますが、ローマ人への手紙では、神の性質は「彼らにも明らか」で「弁解の余地」がないと、めちゃくちゃ怖い。同じ人の発言とは思えない。

こんなふうに、使徒言行録のパウロとパウロ自身の書簡の中のパウロが、いろいろ違うわけです。使徒言行録とルカの福音書が、パウロのだびの仲間であった「医者のルカ」という説にはうなずけないわけです。

#715 昨日 17:09:27

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

JWが世界に誇る新世界訳だけど、ここは直したほうがいいんじゃないかと思うところがあるんだ。

サムエル記1の話で、イスラエル人がペリシテ(フィリスティア)人と戦争するんだけど負けて、大事な神の箱を取られちゃうの。勝利したペリシテ人は神の箱をアシュドドに運ぶ。すると5章6節のことが起こるんだけど、新世界訳だとこう。
「そして,エホバの手はアシュドド人の上に重くのしかかるようになり,また[神]は慌てふためかせ,彼らを,すなわちアシュドドとその領地とを痔で打ちはじめられた。」

なにこれ。「痔」で打った?アシュドドの人が全員痔をわずらっちゃったの。領地を痔で打つって、どういう意味。サディストの神様は、意外な罰を与えるね。新世界訳以外の訳では、「腫れ物」なんだけど、新世界訳はなぜか「痔」。新世界役の脚注を見てみると、「または,「災厄のはれ物で」。ヘ語,バフォーリーム。このヘブライ語の言葉が人間の肛門と関連づけられているため,マソラ学者は慎み深さを示して,この言葉に「腫瘍」を意味するテホーリームの母音符号を打った。同時に,後者の言葉を欄外に記し,そのように読み替えられるべきであるとした。」とある。つまり、あくまで新世界訳のほうが、正しいってことを主張しているね。なおこの脚注は英語版にはないよ。

その後、6章では、ペリシテ人の領主たちはこの災いから逃れるため、「五つの金の痔と五つの金のとびねずみ」(新世界訳)を作るんだけど、「金の痔」ってどんなもの。どうしてとびねずみなの。単なるねずみじゃないの。JWの偉い人説明してよ。意味わかんないよ。

新世界訳以外の翻訳ではこう考えているの。まず「痔」と「腫れ物」をあらわすヘブライ語の単語はよく似ていることを理解してね。もともとは「腫れ物」だったんだけど、憎いペリシテ人を嘲笑するために、誰かがよく似た単語の「痔」に変えたとね。そのさい70人訳(紀元前3から2世紀ごろ、ヘブライ語(聖書)をギリシア語に訳したもので、古いテキストに基づいている。)にある「彼らの地にネズミが発生し、死と破壊が町中を襲った」という文を削除した。「痔」と「ネズミ」は無関係だから、この部分があると変だと思ったんだね。このように考えると、後でペリシテ人たちが「五つの金のはれ物と五つの金のねずみ」(新共同訳)を作ったということと、つじつまがあうでしょう。ネズミが媒介した病気によって腫れ物が生じたので、その災厄から逃れるために金で腫れ物とネズミの像を作ったというわけ。古代ではよくある習慣だね。それで新世界訳以外の訳では、本文では「痔」とあるけれど「腫れ物」と訳しているの。それが、もともとあった単語と推定できるからね。

でもJWは「痔」と書いてあるから、意味が変でも「痔」と訳すんだね。聖書の本文は一語たりとも変わっていないという立場だからかな。新世界訳のもとになったのはレニングラード写本で、この写本ができたのは1008年だよ。オリジナルの聖書ができてから千数百年後のものだよ。あちこち改変されていると見るのが自然だよね。
JWのみなさん、この部分は、次の聖書レッスンで学ぼうよ。そして、聖書を深く理解するために、皆で金の痔を作ってみよう。

ついでに、ペリシテ人に取られた神の箱がどうなったか書いておくと、ペリシテ人は荷車に箱を載せ、牛に引かせて返すの。牛はベト・シェメシュの町まで行く。ベト・シェメシュの人は大喜び。牛はバーベキューにされて神様にささげられる。ところが、「主はベト・シェメシュの人々を打たれた。主の箱の中をのぞいたからである。主は五万のうち七十人の民を打たれた。主が民に大きな打撃を与えられたので、民は喪に服した。」6:19。
神様は期待を裏切らないね。さっそく70人を殺しちゃった(昔の訳では50070人が死んだことになっているのもある。本文にかなり混乱があるからなんだ。)。神の箱なんて戻ってこない方がよかったみたいだね。

#716 昨日 18:19:12

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん 興味深い書き込みありがとうございます
自分も現役時代 痔で打ったはまだなんとかわかるけど 金の痔ってなんだ? もしかしてお尻り痛いので手を当てている 金の像かなーなんて思ってました cry
ちよっぴり 神罰とねずみと病気の関係

編集者 てつてつ (昨日 19:27:33)

オンライン

#717 昨日 18:31:31

良い子
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

洞察の本に「痔」と訳す正当性が書いてあったのですが、
http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1200003487
少し足して注解してみます。

まず洞察の本によると、痔と鼠の神罰に因果、相関関係はありません。

聖書には鼠が伝染病を媒介したとは特に述べていませんが、契約の箱を奪った故の神罰であり、軽い罰であるとは考えられません。それは恐らく死をも伴うものであったのではないでしょうか。
http://hitoqui.jugem.jp/?cid=25
殺人ネズミ

また痔で死を伴うとは考えられませんが、神は女に、産みの苦しみを増すと告げられているので、女性限定の罰だったかもしれません。その場合はキレ痔です。


聖書についての質問さん
興味深い指摘ありがとうございました。

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