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#1 2012年08月19日 20:30:07

sk
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エホバの証人 / 欺きの名前

エホバ神は、いつの時代にも、ご自分の御名のための民をお持ちです。

西暦一世紀のキリストの弟子たちは、自らをその神の御名のための民、神の名によって呼ばれる民と認めていました。(使途 15:14-17)
彼らは、イエスの証人として、イエスが神のメシアであり、人類の罪を贖い、復活して人類を裁く立場に就かれたことを熱心に証しました。(使途 1:8)
また、イエスは、神のお名前エホバを用い、ご自分に属するものたちにそれを知らせました。(ヨハネ 17:6、26)
イエスの弟子たちも、イエスに習い神のお名前を用い広めました。
そして、彼らは、自分たちが、神の御名の民、神の名によって呼ばれる民であることを認めていましたが、神慮により、彼らは、クリスチャンとして知られるようになりました。(使途 11:26)

クリスチャンは、神のお名前を用いていましたが、エホバの証人とかエホバ派などとしては識別されませんでした。
キリストを受け入れた個々の人々は、国家に登録されたグループを表す公のタイトルはなく、一般にクリスチャンとして認められていました。
しかし、彼らを正当に神の御名の民とみなすことができます。

キリストの真の弟子たちは、クリスチャンとして、つまりキリストの証人として識別されることを、エホバ神はお望みであることは、「神慮によってクリスチャンと呼ばれるようになった」という表現から明らかです。神はイエスの弟子たちが、紅海で神の救いの業を経験した古代イスラエルのように「ご自分の証人」となることを表明していません。

キリストの証人として働く際、エホバ神について、またキリストの役割について証することが伴いますので、真のクリスチャンは、神のお名前を用い、証することを行ないます。

イエスは、真のクリスチャンと偽者のクリスチャンが存在することを、小麦と雑草のたとえで説明なさっています。(マタイ 13:37-43)
畑は世界であり、収穫の時までその見分けはつかないことになっています。刈り手は御使いたちですから、小麦で表されている真のクリスチャンを、人間が見分けることは期待されていません。

それで、ものみの塔協会が主張するように、真のクリスチャンを、一つの人間の組織、あるいはグループとして識別できるのでしょうか。
仮に、ものみの塔の組織の中だけに真のクリスチャンがいるとするれば、天使たちは、それ以外のクリスチャンと称するグループを、最初から考慮せずに、現在700万人のエホバの証人の中だけで収穫することになります。この考え方は道理にかなっていますか。

イエスの時代から今日に至るまで、クリスチャンと称する人々、あるいはグループの中には、本物と偽者が存在してきたと思われます。たとえ、あるグループが、自分たちだけが真のクリスチャンですと主張したところで、現実は、どのグループにも本物と偽者が存在しているでしょう。それで、本物を見分けることは、人間の能力を超えており、収穫の任務は天使たちが担うことになっています。

キリスト教の発展の歴史は、各時代、各地に散らばるさまざまなクリスチャングループの犠牲で満ちています。
その共通点を良く調べて考えてみると、神の民は、ある特定のグループに属している点よりも、むしろ聖書により同じ思いで結ばれた個々の人々であることが分かります。

イエスキリストは、ご自分の家族について、「私の母、私の兄弟たちは、これら神の言葉を聞き、それを行なう人たちです。」(ルカ 8:21)と述べています。イエスの弟子たち、神の民は、時代を越え、各地に広がって存在します。聖書が普及した先々で人々は、キリスト教の真理に触れる機会を得、聖書を伝えた人やグループではなく、神の言葉により動かされて、クリスチャン、つまりキリストの弟子、神の民、あるいは神の家族の一員になります。

真のキリスト教を受け入れた人々は、引き続き神の言葉ににより養われて成長し、キリストの証人として歩み続けるでしょう。

そのように聖書に導かれる個々の人々が集まって地域的なクリスチャンのグループが形成され互いに依存し合うようになります。
しかし、それらの各会衆を統合し一つの中央集権組織を築く試みは、決してエホバ神からのものでは無いでしょう。
それは、ものみの塔や、その他の組織が行なった人間の企てに過ぎません。
中央集権支配は、この世のやり方であり、国、企業など、サタンの世の全ての組織が取り入れている方法です。
神権支配と人間の中央集権支配を混同してはいけません。

神権支配は、その権威を、いかなる人間や、グループにではなく、聖書にのみ与えています。
それで、それは、聖書により導かれる支配であり、いかなる人や、グループも聖書の上におくことはできません。
それは、聖書による支配であり、真にその支配に服している人を、いつの時代でも、またどこにいても、エホバ神もイエスキリストもご存知です。(テモテ第二 2:19)
神権支配に服する人々こそ、イエスの時代から今日に至るまで、神の民であり、真のクリスチャンです。


そのような世界各地に散らばる、さまざまなクリスチャングループの中に本物と偽者のクリスチャンが混在していると考えるのが妥当と思えます。本物は、全てものみの塔、エホバの証人の組織の中にだけみいだされ、他のグループには一人もいないと主張する、つまり裁くことは、パリサイ人のような義に過ぎた見方でしょう。(ルカ 18:11、ローマ 14:4)



ものみの塔協会について

アドベンチスト運動からの発展 (時代背景)
1818 ウィルアム・ミラー (Willam Miller) ダニエル書の2300日の予言の解釈、キリストの再臨 3/21 1843 or 1844
1823 ジョン・アクィラ・ブラウン (John Aquila Brown) ダニエル書の 2520 年 604BCE - 1917
1827 ジョン・ネルソン・ダービー 患難に先立つラプチャー (pre-tribulation rapture) 天啓的史観の父 (father of dispensationalism)
1844 ウィリアム・ミラー 10月22日 キリストの帰還の期待はずれる。大いなる落胆 (Great Disappointment)
ネルソン・バーバー (Nelson Barbour) ウィリアム・ミラーのミレライト運動 (Millerites movement) 離脱
エレン・ホワイト (Ellen White) ミレライト運動を支持しセブンスデイ・アドベンチストへ発展させる。(7th day adventists)

1870 ラッセル(Russell) 聖書研究を設立
1873 ネルソン・バーバー、ジョン・アクィラ・ブラウンのダニエル4章の解釈を受け入れる。開始時を 606 BC 、終わりを 1914 年に変更
彼は、イエスの帰還は、1874年と予言
真夜中の叫び、朝の先駆け (The Midnight Cry, Herald of the Morning)

1874 イエスの目に見えない臨在の開始
聖なるものの収穫 1874-1914
アダムの創造から 6000 年、ハルマゲドン開始、主の帰還、1335年の終わり、
CT ラッセル ミレライト奉仕者 (アドベンチィスト) によりバプテスマを受ける。

1876 ラッセル 初めてバーバーの聖書解説に触れる。(1978年にラプチャーの教え)
ラッセル仕事をたたんで、全時間宣教開始
1877 ラッセル バーバーの「3つの世界」に金銭的支援、自作の本を出版
1878 ラッセル 「朝の先触れ」誌の共同編集者となる
期待されていたラプチャーは起きなかった
1879 ものみの塔誌印刷開始(7月)、ラッセル、実現しなかったラプチャーをめぐってバーバーと意見を異にする
CT ラッセル マリア・アケリー (Maria Frances Ackley) と結婚
ラッセルの父 ジョセフ・ラッセル (Joseph Russell) マリア・アケリーの妹エマ ・アケリー(Emma Ackley) と結婚

1881 ものみの塔協会 ウィリアム・ヘンリー・コンリー(初代会長)により設立される
ラッセルの父親(副会長)ラッセル(書記)
1884 シオンのものみの塔協会 ラッセル(会長)により、商業的協会(印刷出版、不動産、建築会社)として設立

以上がラッセルを取り巻く時代背景です。
世紀末に差し掛かり、アドベンチストと呼ばれる、キリストの再臨を待ち望む気運が高まっていました。
ものみの塔協会は、商業組織として始まりました。
初期のものみの塔誌の表紙から分かるように、ラッセルは、フリーメーソンのナイトテンプラーの表彰を用いており、フリーメーソンとのつながりを示しています。ピラミッドを信じていたこと、シオニスト運動を支援していたこと、その他を考慮すると、彼が高位のフリーメーソンであった可能性を否定できません。

ラッセルの死後、中央集権支配の導入
ラッセルの時代に、ものみの塔誌による聖書予言の解釈を受け入れたクリスチャンのグループが、世界の各地に形成され、それぞれの会衆は、その土地の牧者たちの下に独立した自治を行なっていました。

しかし、その状態は、1932年に終わります。
1932年に、ものみの塔協会のジョセフ・ラザフォード会長は、それぞれ独立して運営していた会衆の長老団制を廃止させ、ものみの塔協会が任命した奉仕監督 (Service Director) と置換えました。この措置は、ものみの塔に関わっていた世界中の会衆の全てを中央管理体制の下に置く最初の一歩でした。

1932年の1年前、ものみの塔に関わる会衆は、「エホバの証人」という名前を採択していましたので、ジョセフ・ラザフォードにより、エホバの証人の中央集権支配が開始されたと見ることができます。

そのときから現在に至るまで、このエホバの証人の組織の歴史は、神権支配を装った、完璧な中央政権支配であり、カトリック教会と同じように、階級制度によって運営されてきています。(メンロー・パーク王国会館乗っ取り事件訴訟で、協会の弁護士は、法廷で、ものみの塔、エホバの証人の組織は、カトリック教会と同じ階級制であると何度も強調しています。)

皆さんも良く承知しているように、ものみの塔、エホバの証人は、再臨のキリストに是認された唯一の神の組織であるとされています。
それで、神の家における、このような進展をどう理解したらよいでしょうか。

まず、ものみの塔に関わった会衆に集うエホバの証人の世界的なグループを、神の家であるとみなして考えて見ましょう。

1931年に「エホバの証人」という名称を採用する以前から、それらの会衆に集う人々は神の家の一員でした。
しかしその後、中央集権化がなされ、現在では、「統治体」が、最高の意思決定機関となっています。
世界中の全ての会衆は、支部の監督の下に置かれ、独立した自治は存在しません。
それに加えて、個々の信者は、独立の精神を悪いものとしてみなすよう教えられています。
協会の表明した聖書の解釈に、公に意見を述べることは、ありえない現状です。

それで、ある一部の人々は、このように極端に強化された権威の出現は、テサロニケ第二 2:4 の描写に当てはまるとみなしています。

4 彼は,すべて「神」と呼ばれる者また崇敬の対象とされるものに逆らい,自分をその上に高め,こうして神の神殿に座し,自分を神として公に示します。

この「不法の人」は、神の神殿に座すと述べられています。
神の神殿は、神の民のことであり、真のクリスチャンのことです。
ですから、ものみの塔に関わった全ての会衆に属する人々をそのように神の神殿とみなすと、この「不法の人」は会衆の上に神のような権威を振るう、ものみの塔協会法人の中央集権支配、エホバの証人の統治体、であることが分かります。

それで、1931年、1932年に、この「不法の人」の出現のための道が当時のものみの塔協会の会長ジョセフ・ラザフォードによって据えられたかのようです。
1931 エホバの証人の名称の採択
1932 独立した会衆の長老制の廃止、協会の直接の任命による中央集権制の導入

これらの事の進展は、テサロリケ第二 2:9-10 にあるように、偽りのしるしや、不義の欺きのように思えます。
つまり、クリスチャンであるべき、神の民が、「神の名によって呼ばれる民」と述べられている予言に調和するかのように「エホバの証人」という古代イスラエルに関連した名前がつけられた点です。

この名称は、今日神の民を識別する際の条件であるかのように、多くの誠実なクリスチャンを欺いています。
「エホバの証人」という名称は、今日神の民は、ものみの塔、エホバの証人だけという偽りを信じ込ませるための巧妙な欺きのように思われます。
「エホバの証人」は、偽りを信じ込ませるための欺きのタイトルです。

「エホバの証人」の名称は、ものみの塔協会が国家に法人登録をする際に用いられる商標です。それは国家に登録された法人の実体を表すものに過ぎません。その名称は人のクリスチャンとしての実体を表すものではありません。

この欺きにより欺かれることは、重大な結果を招きます。聖句は、引き続きこのように述べています。

9 しかし,不法の者が存在するのはサタンの働きによるのであり,それはあらゆる強力な業と偽りのしるしと異兆を伴い, 10 また,滅びゆく者たちに対するあらゆる不義の欺きを伴っています。彼らが[こうして滅びゆくのは],真理への愛を受け入れず,救われようとしなかったことに対する応報としてなのです。 11 そのゆえに神は,誤りの働きを彼らのもとに至らせて,彼らが偽りを信じるようにするのであり, 12 それは,彼らすべてが,真理を信じないで不義を喜びとしたことに対して裁きを受けるためです。


クリスチャンのグループの中での中央集権制の導入は、色々な不義の欺き(もっともらしい欺き)を伴ってなされます。不法の者が存在するのはサタンの働きによるのであり、と述べられているとおり、1931-2年当時、ラザフォードの支配欲を利用して、不法の人への道筋を形作ったのはサタンであり、アダムとエバの時以来、神の民の中でサタンの欺きの働きがあります。


サタンの体制にいる限り、以下の聖句は、真のクリスチャンの導きとなるでしょう。
ヨハネ第一 4:1
1 愛する者たちよ,霊感の表現すべてを信じてはなりません。むしろ,その霊感の表現を試して,それが神から出ているかどうかを見きわめなさい。多くの偽預言者が世に出たからです。

啓示 2:2
2 『わたしはあなたの行ないを知っている。また,あなたの労苦と忍耐を,そしてあなたが悪人たちに耐えることができず,使徒であると言いはするが[実は]そうでない者たちを試して,それが偽り者であるのを見いだしたことを[知っている]。

マタイ 24:24
24 偽キリスト(偽の油注がれた者)や偽預言者が起こり,できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうとして,大きなしるしや不思議を行なうからです。


ものみの塔、エホバの証人の組織から排斥された人たち、または自ら断絶した人たちは、真理を愛しているなら、ものみの塔の都合の良い聖書解釈ではなく、引き続き聖書の貴重な真理を保つことができますし、また、ものみの塔協会による崇拝の方式に縛られることなく、エホバ神を崇拝し、キリストの贖いと王国の良い便りを他の人々と分かち合い、真のクリスチャンであることを証明する生き方を追い求めて、キリストの再臨を待ち望むことができます。

編集者 sk (2012年10月07日 07:43:32)

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#2 2012年10月06日 15:10:33

sk
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Re: エホバの証人 / 欺きの名前

聖書は、アダムの全ての子孫への神からの手紙です。(テモテ第一 2:4-7)
それで、望むものは誰でも聖書を読み理解し、聖書の真理に信仰を持つことができます。
それは、神の御意思です。
しかしながら、私たちはまだサタンが支配する世に生活しています。(ヨハネ第一 5:19; コリント第二 4:3-5)
また、エホバ神は真の崇拝者を求めています。(ヨハネ 4:23-24; ヘブライ 11:6; テサロニケ第二 3:2; ヨハネ 6:44, 65)

啓示も含めて聖書の内容の全ては、宗派に関わらず聖書を所有する全ての人に宛てられています。
キリスト教のどんなグループも、啓示の7つの会衆に対する手紙を自分たちに適用していると思われます。
キリスト教のそれぞれの教会、グループ、組織は自分たちが「神の家」、または「キリストの追随者」であると思って、そう告白しています。それで、キリスト教の各グループは、自分たちの理解やクリスチャンとしての活動に関し神に対して責任があります。それは、個々の人々が神に対して責任があるのと同じことです。

キリストが戻られるとき、裁きがいわゆる「神の家」から始まるとそれぞれのグループ、または組織は思っています。それで、御使いは世界のキリスト教の中で、雑草から小麦を分けることになります。

その分ける基準は、邪悪へ憎しみや、他の人への思いやりのようなものと思われます。(エゼキエル 9:4; マタイ 5:7, 9:13, 12:7, 14:13, 22:23; ヤコブ 1:27, 2:13; ペテロ第二 3:11; ローマ 2:13-16)
コリント第一 13:12 で「現在わたしが知っているのは部分的なことです」と書かれているとおり、教理は分ける基準とはならないでしょう。

キリストを信じるものはキリストを主と見なしていますので、エホバの証人も含めて全てのキリスト教信者たちは、マタイ 7:22 に書かれているようになるでしょう。

マタイ 7:22
その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名において預言し,あなたの名において悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。

イエスはキリストに向かって「主よ、主よ」と言うものつまりクリスチャンを自称する全ての者を分ける対象としています。

マタイ 7:21
わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が[入る]のです。

御使いたちは、世界中のクリスチャンと称する者の中から「神の御意思を行なっている者」を集めるでしょう。
そしてエホバ神は、愛ある親切と公正と儀を行なう者を喜ばれます。(エレミヤ 9:24)



次に高度に組織化された宗教組織の中にあっても人は聖書の真理に答え応じることができることの例を考えてください。

ウィリアム・ティンダル (William Tyndale)
16世紀のプロテスタント宗教改革の指導的な人物

彼は、ヨーロッパでギリシャ語の新約聖書を入手できるようにしたエラスムス (Erasmus) と、ローマーカトリックの修道士マルティン・ルター (Martin Luther) により影響を受けました。

ティンダルの聖書は、ヘブライ語とギリシャ語写本から直接翻訳された初めての英語の聖書でした。その最初の英語の聖書は印刷機を活用して出版され、最初の改革の新英語聖書となります。

彼は神学をオックスフォード大学で学びました。
しかし、彼はその当時の宗教的な環境をについて不満を述べています。
「彼らは、異教徒の学習を8-9年して、偽りの原理で武装してからでないと誰も聖書を見ないように制定している、それによって聖書の理解を全くできないようにしている」

ティンダルは、1521年ごろジョン・ウォーシュ (John Walsh) 卿の家のの牧師 (chaplain) 、また彼の息子の養育係になります。、彼の意見は仲間の聖職者と論争となります。そして1522年ごろ彼は、正式な訴訟なしにウィスター (Worcester) の主教管区の首相ジョン・ベル (John Bell) の前に出頭します。

ベルとその他の指導者たちによる厳しい聴聞の後、またリトル・サードブリー (Little Sodbury) におけるティンダル時の終わりに、ジョン・ホックス (John Foxe) は、ティンダルに「ローマ教皇の掟がないより、神の律法がない方がましである」と断言した学識のある、しかし不敬な僧職者との論争について描写しています。

ティンダルはこう返答します。
「わたしは、ローマ教皇と全ての彼の律法を拒否します。もし神がわたしの命を助けてくださるなら、何年もしないうちに、鋤を引く少年があなた方よりも、もっと聖書を分かるようにします。」

ティンダルの神学上の見方
ティンダルは聖者に対する祈りを非難しました。彼は信仰による儀、信者としてのバプテスマ、キリストの帰還、そして魂は不滅でないことについて教えました。



マルティン・ルター (Martin Luther)
プロテスタント宗教改革の象徴的人物、16世紀のカトリック修道士

彼は、神による罪の懲罰からの放免がお金で買えるとの主張に強力に異議を唱えました。1517年の「95ヶ条の論題」で免罪符の販売人ヨハン・テッツェル (Johann Tetzel) と対決しました。1520年の教皇レオ10世 (Leo X) の要求と、1521年のウォルムス (Worms) 地方議会における神聖ローマ帝国皇帝チャールズ5世 (Charles V) の要求による全ての彼の出版物の撤回の拒絶は、教皇による破門とローマ帝国による犯罪者の宣告を招きました。

ルターは、救いが善行によって獲得されるものではなく、ただ神の恵み (grace) による無償の贈物として罪の贖い主であるイエスキリストに対する信仰をとおして得られると教えました。彼の神学は、聖書だけが神により明らかにされた知識の源であると主張することにより、ローマカトリック教会の教皇の権威に挑戦しました。それは、また全てのバプテスマを受けた信者は聖なる祭司職であると見なすことにより、聖職尊重主義に反対しました。

ルターにとって推論は、神に対してではなく、人間や公共機関に疑問を持つのに用いられるものでした。人間は、神による啓示をとおしてのみ神について学ぶことができると彼は信じていました。それで、聖書は彼にとってますます重要なものとなりました。

彼は、使徒パウロがかってユダヤ教に熱心であったように、カトリック教会の伝統に深入りしていました。(ガラテア 1:14)
ルターは、断食、長時間の祈り、巡礼、そして頻繁な告白などに打ち込み修道士の生き方に献身していました。後日彼は「修道士として天の報いを得られる者がいるとすれば、私は正にそのうちにいます」と述べています。ルターはこの時期の生活を深い霊的な絶望のひとつと描写しています。彼は「私は救い主で慰めであるキリストとの接触を失い、またキリストを私の哀れな魂の看守また絞首刑執行人としてしまいました」と述べています。


上記の2つの例は、宗教組織によって強要される偽りの教理に囲まれていたとしても、人に確信を与える聖書の真理によって人は導かれ得ることを示しています。それですから聖書の真理は、鉄を引寄せる磁石のようです。それは、神を本当に求めている人々を引き付けるでしょう。また神に傾く人たちは、真理を求め続け、探し続け、たたき続けるでしょう。(マタイ 7:7-11)

最終的にそれら真理探究者たちはクリスチャンにとって「より重要なこと」を見出すでしょう。


*** クリスチャンにとって「より重要なこと」 ***

マタイ 7:12
「それゆえ,自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません。事実,これが律法と預言者たちの意味するところです。

ガラテア 5:14
律法全体は一つのことば,すなわち,「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」の中に全うされているからです。

ヤコブ 2:8
そこで,もしあなた方が,「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」という聖句による王たる律法を実践しているのであれば,あなた方はりっぱに行動していることになります。

コリント第一 10:23-24
すべての事は許されています。しかし,すべての事が益になるわけではありません。すべての事は許されています。しかし,すべての事が築き上げるわけではありません。

ルカ 10:25-37
25 さて,見よ,律法に通じたある人が立ち上がり,彼を試そうとしてこう言った。「師よ,何をすれば,わたしは永遠の命を受け継げるでしょうか」。26 [イエス]は彼に言われた,「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読みますか」。27 彼は答えて言った,「『あなたは,心をこめ,魂をこめ,力をこめ,思いをこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』,そして,『あなたの隣人を自分自身のように[愛さねばならない]』」。28 [イエス]は彼に言われた,「あなたは正しく答えました。『このことを行ないつづけなさい。そうすれば命を得ます』」。

29 しかしその人は,自分が義にかなっていることを示そうとしてイエスに言った,「わたしの隣人とはいったいだれでしょうか」。30 イエスは答えて言われた,「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中で,強盗たちに襲われました。彼らはその衣をはいだうえに殴打を加え,その人を半殺しにして去って行きました。31 さて,たまたま,ある祭司がその道路を下って行くところでしたが,その人を見ると,反対側を通って行ってしまいました。32 同じように,ひとりのレビ人もまた,そこまで来て彼を見ると,反対側を通って行ってしまいました。33 ところが,その道路を旅行していたあるサマリア人がやって来ましたが,彼を見て哀れに思いました。34 それで,その人に近づき,その傷に油とぶどう酒を注いで包帯をしてやりました。それから彼を自分の畜獣に乗せ,宿屋に連れて行って世話をしたのです。35 そして次の日,デナリ二つを取り出し,それを宿屋の主人に渡して,こう言いました。『この人の世話をしてください。そして,何でもこれ以外にかかるものがあれば,わたしがここに戻って来たときに返しますから』。36 これら三人のうちだれが,強盗に襲われた人に対して隣人になったと思いますか」。37 彼は言った,「その人に対して憐れみ深く行動した者です」。するとイエスは言われた,「行って,あなたも同じようにしてゆきなさい」。

ヤコブ 1:25, 27
25 しかし,自由に属する完全な律法の中を熟視し,[それ]を守り通す人,その人は,聞いてすぐに忘れる人ではなく,業を行なう人となっているので,[それを]行なうことによって幸福になります。
27 わたしたちの神また父から見て清く,汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち,孤児ややもめをその患難のときに世話すること,また自分を世から汚点のない状態に保つことです。

ヤコブ 2:12-13
12 自由の民の律法によって裁かれようとしている人のようにいつも話し,またいつもそのように行動しなさい。13 憐れみを実践しない人は,憐れみを示されることなく[自分の]裁きを受けるのです。憐れみは裁きに打ち勝って歓喜します。

編集者 sk (2012年10月24日 10:17:58)

オフライン

#3 2012年10月06日 20:57:41

sk
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Re: エホバの証人 / 欺きの名前

宗教詐欺

ものみの塔協会は、私たちに偽りを信じ込ませた宗教詐欺とみなすことができます。
それは、何か望ましいもの、期待されるもの、求めるべき正しいことから始まります。
地上の楽園での永遠の命、苦しみと悪の終わりについての良いたよりが私たちに提供されました。
義を愛する人たちにとってそれを受け入れることは本当に良いことに思えます。
それで、私たちはそれらの聖書の真理を受け入れました。
さらに死者の状態、復活の希望、エホバ神、イエスキリストについての真理が引き続き提供されます。明確な聖句によって、これらの聖書の真理を識別することはそれ程難しいことではありません。私たちはこれらの貴重な聖書の真理を学ぶのを助けられました。
そのころまでに、私たちはこれらの情報の源に対してふさわしい敬意を培うようになっています。
そして、私たちは目に見えない王イエスによって「忠実で思慮深い奴隷」にイエスの全ての持ち物がゆだねられていると告げられます。(マタイ 24:45-47)
私たちにはその声明を疑う理由がありません。
それで、それを受け入れます。
しかし、残念なことにそれは偽りです。彼らの任命はまだなされていません。任命は、自己推薦、あるいは自己任命するグループによってではなく、戻られたキリストによりなされます。それで今日のエホバの証人の「忠実で思慮深い奴隷」は自分で名乗り出て任命を受けたと主張する偽者です。(コリント第二 10:18)
このようにして、私たちは自称「忠実で思慮深い奴隷」の支配下に陥りました。
貴重な真理から始まって最後に私たちは偽りを信じるように誤導されました。
これが詐欺というものです。

ひとたび完全に洗脳されてしまうと人は「忠実で思慮深い奴隷」に依存するように身を任せます。
そして、出版物や会衆の取決めによってこの依存状態はいつも強化され続けます。
彼らは平等を教えながら、私たちは様々な特権により階級に分けられます。
彼らは独自性を認めながら、私たちは教えや注解において画一性を強要されます。
そして彼らがいつも強調するのは、独立的な考えの危険です。
その結果、「忠実で思慮深い奴隷」の統治体に完全に依存した私たちは自分で何も判断できなくなってしまいます。(ルカ 12:57)

そのような崇拝者をエホバ神が望むと思いますか。
私はそうは思いません。

*** エホバ神の望む崇拝者の特徴 ***

ヨハネ 4:23
とはいえ,真の崇拝者が霊と真理をもって父を崇拝する時が来ようとしています。それは今なのです。実際,父は,ご自分をそのように崇拝する者たちを求めておられるのです。

マタイ 23:2, 4
2 「書士とパリサイ人たちはモーセの座に座っています。
4 重い荷をくくって人の肩に載せますが,自分ではそれを指で動かそうともしません。
(統治体はパリサイ人と同じことをしていませんか)

マタイ 23:8, 10
8 しかしあなた方は,ラビと呼ばれてはなりません。あなた方の教師はただ一人であり,あなた方はみな兄弟だからです。
10 また,『指導者』と呼ばれてもなりません。あなた方の指導者はキリスト一人だからです。

マタイ 11:30
わたしのくびきは心地よく,わたしの荷は軽いのです。

ローマ 14:22
あなたの抱く信仰は,神のみ前で自分自身にしたがって抱きなさい。自らよしとしている事柄について自分を裁かないでよい人は幸いです。(誰も他の人との信仰の主人にはなれません)

ローマ 14:4
他の人の家僕を裁くとは,あなたはだれなのですか。その人が立つも倒れるも,それはその主人に対してのことなのです。実際,その人は立つようにされるでしょう。エホバはその人を立たせることができるからです。

コリント第一 4:5
それゆえ,定めの時以前に,つまり主が来られるまでは,何事も裁いてはなりません。[主]は,闇の隠れた事柄を明るみに出し,また心の計り事を明らかにされます。その時,人は各自神からの称賛を受けるのです。

コリント第一 4:8
あなた方はすでに存分に持っているのですか。あなた方はすでに富んでいるのですか。あなた方はわたしたちを抜きにして王として支配しはじめたのですか。(先走る忠実で思慮深い奴隷の統治体には正当な権利がありません)

ガラテア 2:5
そのような人たち(他人を支配しようとする人たち)に対してわたしたちは屈服して譲歩したりはしませんでした。

コリント第一 7:23
あなた方は代価をもって買われたのです。もう人間の奴隷となってはなりません。

コリント第一 3:6-7
6 わたしは植え,アポロは水を注ぎました。しかし,神が[それを]ずっと成長させてくださったのです。
7 ですから,大切なのは,植える者でも水を注ぐ者でもなく,成長させてくださる神なのです。

真理の経路となった者、あるいは組織が重要ですか。
私たちの聖書の理解や信仰は人や組織からではなく神からのものではありませんか。
そうであるなら、真理の経路となった者や組織に服従する理由はなにもありません。
私たちは、人にではなく神に服すべきです。
私たちは、自己推薦をする者に依存する必要はありません。

統治体を含め真理の経路となる者はコリント第一 1:24 に従って振舞う義務があります。
コリント第二 1:24
わたしたちがあなた方の信仰に対する主人であるというのではありません。わたしたちはあなた方の喜びのための同労者です。あなた方が立っているのは[自分の]信仰によるのです。

マタイ 23:8 で述べられているように私たちは皆兄弟なのです。

使途 20:29-30
わたしが去った後に,圧制的なおおかみがあなた方の中に入って群れを優しく扱わないことを,わたしは知っています。

使途 5:29
わたしたちは,[自分たちの]支配者として人間より神に従わねばなりません。

階級制度、または中央集権制度は神の方法ではありません。
それは、ニムロデの時代から、サタンの世のやり方です。
エホバ神は、目に見える王を要求してイスラエルが周囲の諸国民のやり方を取入れた時不快感を示されました。

イエスの追随者は神権支配が何を意味するかを識別する必要があります。
それは、私たちの信仰の見える指導者となっている統治体によよる支配ではありません。
それは、目に見える指導者や、見えないキリストの見える代表者たちによるものではなく、私たち1人1人の信仰の権威となるべき聖書による支配です。

以下の聖句は、クリスチャンの指導者としてキリストの見える代表者が不要なことを示しています。

コリント第二 4:18
同時にわたしたちは,見えるものではなく,見えないものに目を留めます。見えるものは一時的ですが,見えないものは永遠だからです。

コリント第二 5:7
わたしたちは信仰によって歩んでいるのであり,見えるところによって[歩んでいるの]ではありません

それで、エホバ神にとって個人個人の聖書の真理(キリストの教え)への信仰が重要といえます。
聖書をとおして働くキリストの指導への信仰による従順。
神はそのような崇拝者を求めています。

編集者 sk (2012年10月24日 10:15:54)

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