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#1 2012年10月24日 13:12:41

sk
メンバー

聖書予言

聖書の予言には、2つのタイプがあります。

1つは、理解が期待されている予言です。例えば、それは将来起きることの警告で、誰でもその意味を理解できます。このタイプの予言は命を救うための明確な指示を伴っています。この予言は他人の解釈を必要としません。例をあげると、西暦70年のエルサレムの滅びがあります。ルカの記録ではエルサレムが駐留軍の先のとがった杭で囲まれたら滅びが近いのでその都市から出て山へ逃れるように指示されています。(ルカ 21:20-21, 19:43)また、啓示の7つの会衆への予言的助言も、色々な適用の仕方があるにしても誰でも理解できます。

これと対照的に、理解が期待されていない予言があります。例えば、出来事の起きる時期や、ダニエルや啓示のように印や、シンボルによってなされている予言です。この種の予言は神がその意味を明かさない限り誰も理解できません。そしてその多くは成就して後その意味が分かるようになっています。一例はメシアに関する予言があります。人々はメシアの到来後(予言の成就の後)予言の意味を理解しイエスをメシアとして受け入れました。

予言の成就する時期について、

使徒 1:7
7 [イエス]は彼らに言われた,「父がご自分の権限内に置いておられる時また時期について知ることは,あなた方のあずかるところではありません

マタイ 24:36
36 「その日と時刻についてはだれも知りません。天のみ使いたちも子も[知らず],ただ父だけが[知っておられます]。


それで、知らないこと、または知ることが許されていないことがあることを認めるべきです。
そうすれば、それを知ろうとして無駄な努力を払うことはないでしょう。

この予言の成就の時期は、サタンが人を惑すのに用いやすい命題でしょう。

ある人はこの事実を知らないためか、または知りたいとの情熱が強すぎるためか、聖書中の数字を用いて、そもそも知る権利が与えられていない出来事の成就の時期を算定しようと試みます。

そのような人の中にチャールズ・ラッセルやフレッド・フランズがいます。
ラッセルは1914年、フランズは1975年にこだわり、両者とも、自らの確信を自ら妄想した架空の現実からみごとに裏切られ期待はずれの結果を刈り取っています。彼らの悪い点は、自分の確信に満ちた推測を神からのものとして多くの人々を扇動したことです。ここに偽りの父サタンの働きを見ることができます。

それで、そのような無駄な試みを行なうべきではありません。
またそのような妄想によって踊れらされることがあってもなりませんね。


とはいえ誰にでも理解できる聖句を用いて推論することはできます。それでもそれはその人の推論であり、その人の思考の型の反映に過ぎませんのでそれをあたかも神からのものとして他の人に強要することはできないでしょう。しかし健全な推論はおのずと明らかであり、多くの人々に容易に受け入れられるでしょう。それで、独善的になったりせずに自由に聖書から論じることは何も悪いことではないでしょう。色々な意見や見方やアプローチの仕方があり互いから学び合えるでしょう。

それで神が私たちが理解することを期待されている、私たちに属している健全なことを、jw掲示板で自由に聖書から論じることができると思います。それで現在掲示板の傍観者の皆さんの中でご自分の思いや信仰をもって他の方々との関わりを望まれる方は書き込みしてみませんか。そうすれば、現在のハイテクを利用してクリスチャンの交友を楽しめると思います。

インターネットはダニエル 12:4 の成就であると言えませんが、その一部の表現はネットの現状とよく合っているみたいですね。

ダニエル 12:4
多くの者が行き巡り,[真の]知識が満ちあふれる。


とりあえずこの聖書予言のトピックでは、予言に関わることを扱っていただければと思っています。

編集者 sk (2012年10月25日 07:16:08)

オフライン

#2 2012年10月24日 18:33:14

カレブ
Administrator

Re: 聖書予言

sk さんの発言:

ダニエル 12:4
多くの者が行き巡り,[真の]知識が満ちあふれる。

インターネットが世の中を変えていっているのは確かです。
そして、ものみの塔のような情報統制的な組織にとっては厳しい状態かと思います。

いずれにしても知識があふれるのは良いことです。

今までは世界の裏側で起きている出来事が伝わることはありませんでした。
skさんが訳して掲載されているような情報はほとんど闇に葬り去れていました。
今は翌日には世界に伝わりますからネットの力は素晴らしいですね。

オフライン

#3 2012年10月24日 19:36:11

sk
メンバー

Re: 聖書予言

jw研究さん


同感です。

悪者にとってもインターネットは両刃の剣ですね。
技術を監視や統制に利用できますが、彼らにとって都合の悪い面もまた強力に働きますね。

ネットのおかげでルカ 12:2節の実現が加速されていると思いませんか。

ルカ 12:2
2 しかし,注意深く秘められているもので表わし示されないものはなく,知られないで終わる秘密はありません。


ものみの塔協会だけでなくサタンの世全体が暴露されていますね。

jw研究さんはこの悪い世の中が裁かれる必要があると思いませんか。

編集者 sk (2012年10月25日 07:44:09)

オフライン

#4 2012年10月24日 23:01:39

カレブ
Administrator

Re: 聖書予言

>jw研究さんはこの悪い世の中が裁かれる必要があると思いませんか

世の中の不公正を見て 正しい裁きを願うのは自然かと思います。

初期のキリスト教を発展させた原動力もそのようなものだったのだと思います。

オフライン

#5 2012年10月25日 07:24:27

sk
メンバー

Re: 聖書予言

jw研究さん

返答ありがとうございます。

おっしゃるとおりですね。

いつかjw研究さんが自然界の背後に存在していると思われる公正の原因あるいは源について考えて頂けたら嬉しく思います。
もちろん私が持っている結論と異なる見方をお持ちだと思いますが、もし良ければ試してみてください。

ではまた wink

編集者 sk (2012年10月25日 20:22:41)

オフライン

#6 2012年10月27日 01:42:05

カレブ
Administrator

Re: 聖書予言

sk さんの発言:

いつかjw研究さんが自然界の背後に存在していると思われる公正の原因あるいは源について考えて頂けたら嬉しく思います。
もちろん私が持っている結論と異なる見方をお持ちだと思いますが、もし良ければ試してみてください。

ご提案ありがとうございます。
実は自然界の分野は わたしの最も好んでいる分野でもあるので、
いろいろ記事にしたいとも思っています。

神の存在については 穏やかに掲示板で討論するのも面白いかなとは思います。

ただ海外の掲示板だと かなり激しい討論に発展したのを見たこともあるので
慎重にしないといけないなとも感じています。

オフライン

#7 2012年10月27日 08:07:10

sk
メンバー

Re: 聖書予言

jw研究さん

良いお返事ありがとうございます。

自然界のすばらしい発見をわしたちと分け合ってください。

神を信じている者たちにとって、また異なった受け取り方があると思います。


楽しみにしています。 wink

オフライン

#8 2012年11月02日 21:59:16

sk
メンバー

Re: 聖書予言

終わりの日に関するイエスの予言について、


イエスは、ユダヤ教の事物の体制の終わりと、サタンの事物の体制の終わりについてオリーブ山で弟子たちに語っています。
ユダヤ教の事物の体制の終わりを特徴付ける出来事はローマ軍による西暦70年のエルサレムの滅びです。
他方サタンの事物の体制に終わりをもたらすのはキリストの再臨です。

それで、西暦1世紀当時のキリストの弟子たちは、エルサレムの滅びと、キリストの臨在によってもたらされる終わりを意識して活動しました。

エルサレムの滅びについて言えばその規模はひとつの地域に限られており、関係する人もユダヤ人とユダヤ教に改宗した人々でした。それらのユダヤ教に関わる人々が年に数回エルサレムで行なわれる祭りに参加する義務を負っており、彼らだけが自らの命のためにイエスの予言的な警告に従って行動する必要がありました。イエスは、エルサレムが野営をはった軍隊により先のとがった杭により囲まれたなら、その滅びの近さを知りエルサレムから出るように予言的な警告を与えています。

エルサレムを訪れる必要ない異邦人にとってその警告は意味を持たなかったでしょう。しかし、異邦人のクリスチャンたちも、キリストの臨在によるサタンの体制の終わりの予言により、やはり終わりを意識して活動していたはずです。西暦56年ごろパウロはローマ人への手紙の中で、クリスチャンの信仰が世界中で語られている書いています。

ローマ 1:8
8 . . . あなた方の信仰のことが世界じゅうで語られているからです。

それで、キリストの臨在、または帰還のおける世の終わり、または裁きの音信は当時のローマ世界の全域で知られていました。

それで、エルサレムの滅びと、世界の滅びの音信を当時の人々は聞いたことになります。
そしてエルサレムの滅びはユダヤ教に関わる人々に対する警告となりました。

エルサレムの滅びも、世界の滅びも、ある意味で、その音信をのべ伝えたキリストの弟子たちの世代のうちに来ると見なすことができるかも知れません。



エルサレムの滅びについて

まず、エルサレムの滅びは、イエスの伝道により、「この世代に、預言者たちの血の責任が問われる」と言われていました。(マタイ 23:35-36;ルカ 11:50-51)

マタイ 23:35-36
35 こうして,義なるアベルの血から,あなた方が聖なる所と祭壇の間で殺害した,バラキヤの子ゼカリヤの血に至るまで,地上で流された義の血すべてがあなた方に臨むのです。36 あなた方に真実に言いますが,これらのことすべてはこの世代に臨むでしょう。


ルカ 11:50-51
50 こうして,世の基が置かれて以来流されたすべての預言者の血がこの世代に対して要求されるのである。51 アベルの血から,祭壇と家との間で殺されたゼカリヤの血に至るまでが』。そうです,あなた方に言いますが,それはこの世代に対して要求されるのです。


そして、上記の予言的警告のとおり弟子たちの世代のうちに、西暦70年にエルサレムはローマ軍により滅ぼされました。



キリストの臨在にについて

また、臨在もひとつの世代と関わって生じることが述べられています。(マルコ 8:38)

マルコ 8:38
38 だれでも,この罪深い姦淫の世代にあってわたしとわたしの言葉を恥じるようになる者は,人の子も,聖なるみ使いたちと共に自分の父の栄光のうちに到来する時,その者を恥じるのです」。


キリストの臨在についてマタイ 16:27 は、こう述べています。

マタイ 16:27
27 人の子は,自分の使いたちを伴って父の栄光のうちに到来することに定まっており,その時,各々にその振る舞いに応じて返報するのです。


この栄光のうちのに到来するキリストの臨在は、エルサレムの滅びとは別のものです。
イエスは、上記のマタイ 16:27 の後にペテロとヤコブとヨハネを伴って山に行きそこで変貌し、父の栄光のうちに到来する様をそれら 3人の使徒たちに示されました。

マタイ 17:
1 六日後,イエスはペテロとヤコブおよびその兄弟ヨハネを伴い,彼らだけを高大な山の中に連れて来られた。2 そして彼らの前で変ぼうされ,その顔は太陽のように輝き,その外衣は光のようにまばゆくなった。

その時のことを後日ペテロは、西暦64年ごろペテロ第二 1:16 でこう述べています。

ペテロ第二 1:16
16 そうです,わたしたちが,わたしたちの主イエス・キリストの力と臨在についてあなた方に知らせたのは,巧みに考え出された作り話によったのではなく,その荘厳さの目撃証人となったことによるのです。

この聖句から、何が分かりますか。
キリストの臨在は、キリストの変貌によって示されているような荘厳なディスプレーを伴うことが分かります。
それは、天から示される臨在の顕現であり、各々に対する返報のときなのです。

ですから、キリストの臨在は、ものみの塔の説明のような、目に見えない何の顕現も伴わない話だけのものではありません。ものみの塔の教えは、ペテロ第二 1:16 の書かれているように、7つの時の予言の独自の解釈に基づく「巧みに考え出された作り話」に当ります。

西暦1世紀のクリスチャンたちは、そのキリストの臨在が自分たちの世代にうちに起きることを意識して生活していたということです。

ですから、西暦 51年ごろテサロニケ第二 2:1-2 にあるような助言がなされています。

テサロニケ第二 2:1-2
1 しかし,兄弟たち,わたしたちの主イエス・キリストの臨在,またわたしたちがそのもとに集められることに関して,あなた方にお願いします。2 エホバの日が来ているという趣旨の霊感の表現や口伝えの音信によって,またわたしたちから出たかのような手紙によって,すぐに動揺して理性を失ったり,興奮したりすることのないようにしてください。

イエスの弟子たちにとって、このキリストの臨在は、ある意味で彼らの世代のうちに到来すると見なすことができます。

まず以下の2つの点を思いに留めてください。

① 一世代は誕生から死にいたるまでの期間をさすこと。(ここでの仮定)
② 死は存在の消滅で無意識であり、死者は時間の経過を意識できないこと。(事実)



西暦1世紀から今日に至るどの時代のクリスチャンも、キリストの臨在の際に生き残るためのクリスチャンの人格の形成の期間は、自らの死か、キリストの臨在に直面するか、いずれにしても自分が生きている間の 1世代しかありません。しかもキリストの臨在がいつ始まるかは誰にも分からないわけですから、それが自分の生きているうちに来る可能性は、いつの時代のクリスチャンにもあることになります。また死は、無意識の死者にとって時間のワープのようなものですから、いつの時代においても死んだら、いわば次の瞬間はキリストの臨在に至っていることになります。それで、いつの時代のクリスチャンにとってもキリストの臨在は遅くてもその人の1世代のうちにに来ると見なすことができます。

キリストの臨在は、裁きのときであり、各々が、良いものでも、悪いものでも自分の行いの返報を受けるときです。

それで、どの時代のクリスチャンも良い返報を受けるための準備の期間はその人の一生つまり、1世代しかありません。
ペテロ第二 3:11-12 の助言に従いクリスチャン人格を培う期間は長くても1世代しかないのです。

ペテロ第二 3:11-12
11 これらのものはこうしてことごとく溶解するのですから,あなた方は,聖なる行状と敬虔な専心のうちに,12 エホバの日の臨在を待ち,[それを]しっかりと思いに留める者となるべきではありませんか。その[日]に天は燃えて溶解し,諸要素は極度に熱して溶けるのです。

どの時代のクリスチャンンにとっても、キリストの臨在は自分が生きているうちに始まるかもしれませんし、何年も後になるかもしれないものなのです。仮に臨在が自分が死んでから何百年も後であるとしても、死そのものは、時間の経過を意識できませんので、死後は直ちに臨在にいたることになります。それで、いつの時代のクリスチャンンも、終わりは一世代のうちに来ると見なすことができます。自分の生きているうちか、遅くとも自分の死のときとまでにその裁きがあると見なせると思いませんか。

ヘブライ 9:27
27 そして,人がただ一度かぎり死に,そののち裁き[を受けること]が定め置かれているように,

死は、無意識の死者のとって時間のワープであり直ちに裁き(臨在)に至ります。


それで、いつの時代のクリスチャンにも上記のペテロの助言が当てはまることになります。

私たちが信仰のうちに神の恵みを得るクリスチャンン人格を培うための期間は生きている間に限られています。

誰にとっても言えることですが、クリスチャンにとっても時間はとても貴重で人生のうちの残されている時間を有効に用いるように励まされています。

エフェソス 5:15-17
15 ですからあなた方は,自分の歩き方をしっかり見守って,それが賢くない者ではなく賢い者の[歩き方]であるようにし,16 自分のために,よい時を買い取りなさい。[今は]邪悪な時代だからです。17 それゆえ,もはや道理をわきまえない者となってはなりません。むしろ,何がエホバのご意志であるかを見分けてゆきなさい。

フィリピ 1:10
10 それは,あなた方がより重要な事柄を見きわめるようになり,こうして,キリストの日に至るまできずなく,他の人をつまずかせることなく,11また,イエス・キリストによる義の実に満たされて,神の栄光また賛美となるためです。



読んで頂きありがとうございます。

皆さんの意見も聞かせてください。

よろしくお願いします。

編集者 sk (2012年11月03日 14:03:22)

オフライン

#9 2012年11月03日 12:51:26

カレブ
Administrator

Re: 聖書予言

skさん
世代という表現を クリスチャン各人の人生に当てはめた斬新な観点ですね。

わたしの信仰とは別に、skさんの理解と関連して一つの考え方を提示したいと思います。

わたしはこれが書かれた当時はエルサレムの滅びとイエスの再臨は
「複合的」なものではなく、「一連の出来事」と受け止められていた
と考えています。

ただ分離することは可能ではあると思います(多少無理がありますが)
以下は考え方の一つの例にすぎませんが、提示します。

マタイ24:33 の「これらのすべてのこと」と
マタイ24:34 の「これらのすべての事」という言葉は
両方とも「パンタ・タウタ」というギリシャ語が使われています。

そして24:33のほうでは「すべての事」の中にキリストの再臨は含めて
いません。ですからエルサレムの滅びまでを一区切りにして、それ以降は
単に「彼が戸口にいる」という状態であると解釈することは可能だとは
思います。

ヤコブでも戸口の前に立っているという表現を比ゆ的に使っています。

(ヤコブ 5:9) 兄弟たち,互いに対して溜め息をついてはなりません。
それは,あなた方が裁かれないためです。ご覧なさい,
裁き主が戸口の前に立っておられます。


以上 参考までに記載しました。

オフライン

#10 2012年11月03日 14:37:16

sk
メンバー

Re: 聖書予言

jw研究さん


コメントありがとうございます。

了解です。

ご指摘のように西暦1世紀の弟子たちはエルサレムの滅びと臨在を分けて考えていたのではありませんね。
とはいえ、「臨在」つまりサタンの世全体の裁きのためのキリストの帰還は、西暦1世紀には生じませんでした。

西暦98年にヨハネによって書かれた啓示の最後でヨハネは啓示の書を次のように締めくくっています。

啓示 22: 20
『しかり,わたしは速やかに来る』
「アーメン! 主イエスよ,来てください」

それで、AD70 以降はキリストの臨在だけが残されたことになります。
西暦2012年の終わりの今でさえ、キリストの臨在は将来のことで、クリスチャンはその到来に備えて目覚めているように励まされています。

神との関係を発展されるために私たちに残されてい時間は、自分の命の終わりか、臨在の到来ということは、西暦1世から変わっていないことになります。


また注解、書き込みよろしくお願いします。


傍観者の皆さんの参加もお願いします。

オフライン

#11 2012年11月04日 23:41:47

SHOGO
ゲストユーザー

Re: 聖書予言

「キリストの臨在がいつ始まるかは誰にも分からないわけですから、それが自分の生きているうちに来る可能性は、いつの時代のクリスチャンにもあることになります」

skさんの言葉は、私が、うまく表現できなかったことを言葉にしてくれているような気がしました。
それは、エホバの証人研究さんが書かれていた、以下の言葉について考えていたことに対して考えていたことです。

クリスチャンはこれらの預言の成就について思いを巡らせることになる。そして、どの時代にも考え方に共通点がある。それは:
「それは我々の時代に成就する」
というものだ。人は自分のまわりの世界が一番重要であり、常に興奮を誘うものを求めているのだ。謎めいた預言の言葉を見れば、それを自分の時代に当てはめたくなるのであろう。

#12 2012年11月06日 22:23:46

sk
メンバー

Re: 聖書予言

SHOGO さん

返信ありがとうございます。


臨在 [Parousia] について

ものみの塔協会は、ギリシャ語のパルーシア (Parousia) を臨在と翻訳してイエスの目に見えない存在、居ること、を強調しています。
この概念の理解は簡単ではありませんよね。
この言葉は素直に理解できる、または分かるものでないため、また予言の趣旨と合わないために長い説明を要します。

つまり何か間違っている雰囲気を感じませんか。

パルーシアは、臨在 (presence) と訳すより、むしろ出現 (appearance)、または到来 (arrival) と訳す方が適切です。

ストロングのコンコーダンスにもその訳がでています。
http://biblesuite.com/greek/3952.htm


では、終わりの予言に関する聖書的な背景を考えて見ましょう。


まずマタイはマタイの書をギリシャ語で書いてはいません。
マタイの書はアラム語でかかれ、西暦2世紀にゾバ (Zorba) によりギリシャ語に翻訳されています。その際に珍しいパルーシア (Parousia) というギリシャ語が導入された形跡が明らかになっています。

マルコとルカの書は最初からギリシャ語で書かれましたが、オリーブ山での弟子たちの質問に関する記録にはパルーシアは用いられていません。

また、当時のイエスの弟子たちの関心事は遠い将来のキリストの目に見えない臨在ではなく、当面の眼下のエルサレムの神殿についてでした。しかも彼らの思いには天の王国の概念すらなくイエスが地上に王国を回復することを期待していました。使徒 1:6 で復活したイエスに「今この時期にイスラエルに王国を回復するのですか」と尋ねているとおりです。

それで、彼らの思いに、将来のキリストの目に見えない臨在の概念はありませんでした。

それで弟子たちの質問に対するイエスの直接の答えは、臨在ではなく眼下に見えるエルサレムの神殿の滅びに関わるものでした。

マタイの記録を、マルコとルカの記録と比較してみましょう。

マタイ 24:3
[イエス]がオリーブ山の上で座っておられたところ,弟子たちが自分たちだけで近づいて来て,こう言った。「わたしたちにお話しください。そのようなことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。

マルコ 13:4
「わたしたちにお話しください。そのようなことはいつあるのでしょうか。そして,これらのすべてのものが終結に至るように定まった時のしるしには何がありますか」

ルカ 21:7
そこで彼らは質問して言った,「師よ,そのようなことは実際にはいつあるのでしょうか。また,そのようなことが起きるように定まった時のしるしには何がありますか」


アラム語で書かれて後でゾバ (Zorba) によりギリシャ語に翻訳されたマタイの書だけが「パルーシア」(Parousia) という言葉を用いています。最初からギリシャ語で書かれたマルコやルカの記述に、ギリシャ語のパルーシアが存在しないことは、マタイの書へのこの珍しいことばの追加の疑いを生じさせます。

マタイの記録からパルーシアを取除くと、マタイの記録はマルコやルカの記録と調和が取れたものとなります。
そしてオリーブ山での弟子たちの質問が、遠い将来のキリストの再臨、又は到来についてではなく、当面のエルサレムの神殿の滅びに関するものであったことがより一層明確になります。


次にイエスの答えについて見てみましょう。

マタイの24章では、4-28節までは当面のエルサレムの滅びについての物事の進展が予言されています。
29節以降は、遠い将来のキリストの出現 (appearance)、 到来 (arrival, coming)、再来 (return) の予言が記録されています。

マルコ 13章では、7-23節までがエルサレムの滅びで、24節以降がキリストの再来 (return) についての記録です。
ルカ 21章では、8-24節までがエルサレムの滅びで、25節以降がキリストの再来 (return) についての記録です。

ここで、再びキリストの到来 (coming)、又は再来 (return) についての記録が始まる節を比べてみると、マタイの24章の記録に「すぐ」 (immediately) という表現が加筆されているように見られます。

マタイ 24:9
「それらの日の患難のすぐ後に,太陽は暗くなり,月はその光を放たず,星は天から落ち,天のもろもろの力は揺り動かされるでしょう。

マルコ 13:24
「しかしその日,その患難ののちに,太陽は暗くなり,月はその光を放たず,

ルカ 21:25
「また,太陽と月と星にしるしがあり,地上では,海のとどろきと[その]動揺のゆえに逃げ道を知らない諸国民の苦もんがあるでしょう。


上記のとおり終わりの日の予言は、以下の2つのパートから成り立っています。

① エルサレムの滅び(ユダヤ教の事物の体制の滅び、イエスの使徒たちの世代に内に到来した)
② サタンの事物の体制の滅び(将来のキリストの再来 (coming)、到来 (arrival)、出現 (appearance) による)

そしてキリストの再来 (coming)、又は到来 (arrival) はまだ生じていません。

キリストの臨在 (presence) という考え方は聖書の他の記録と調和しません。
ものみの塔協会は、キリストが 1914年から再臨、臨在 (presence) しておられやがて再来、又は裁きのために来る (coming) と教えています。
その教えは、キリストが再臨、臨在の始まりと終わりに2回到来することを意味しますが、そのようなキリストの2回の到来を支持する聖書的な根拠を欠いています。協会の「最初の到来は天で目に見えない様でなされ、2回目は天から見える顕現となる」という教えを裏付ける聖書的な根拠はありません。むしろ聖書はキリストの到来 (coming, arrival, appearance, return) を一貫して教えています。
それで、新世界訳聖書で再臨、臨在と訳されている言葉を「再来」、又は「到来」、「出現」と置換えて読むなら聖書の意味を容易に汲み取ることができます。

キリストの再来 (return) はまだ生じておらず、これから到来 (coming) するでしょう。
そしてキリストの再来は主の日 (Lord's Day) を意味し、サタンの体制に裁きと終わりをもたらすでしょう。
1914年は聖書的に何の意味もない年に過ぎません。
キリストご自身が述べているように、年代計算でキリストの到来 (coming) を知ることなどあり得ないことです。

マタイ 24:36
「その日と時刻についてはだれも知りません。天のみ使いたちも子も[知らず],ただ父だけが[知っておられます]


エホバの証人の皆さんが、人間の推測ではなく聖書の真理により導かれることを願います。


読んで頂きありがとうございました。


ご意見や質問などをお聞かせください。


よろしくお願いします。

編集者 sk (2012年11月07日 07:37:28)

オフライン

#13 2012年11月30日 20:55:16

sk
メンバー

Re: 聖書予言

終わりの日の予言の中で、弟子たちの質問に対するイエスの最初の回答は、

ルカ 21:8
8 [イエス]は言われた,「惑わされないように気を付けなさい。多くの者がわたしの名によってやって来て,『わたしがそれだ』とか,『その時が近づいた』とか言うからです。そのあとに付いて行ってはなりません。

と言うものでした。

英語の表現は、

Lu 21:8   English Standard Version (©2001)
And he said, “See that you are not led astray. For many will come in my name, saying, ‘I am he!’ and, ‘The time is at hand!’ Do not go after them.

であり、'The time is at hand!' という表現に注目してください。

惑わすものは、「その時が近づいた」 (The time is at hand!) と言うと述べられています。
そして、「その者のあとについて行ってはなりません」と警告されています。

その者とは誰でしょうか。
1889年にCT ラッセルが出版した最初の本のタイトルは、

THE TIME IS AT HAND 「時は近づけり」でした。
file.php?id=27




そして、その100年後の時点でさえ、CT ラッセルが始めた組織は、同じ事を述べています。

1988
Revelation Its Grand Climax At Hand! 「啓示の書―その壮大な最高潮は近い!」
file.php?id=25




3代にわたるエホバの証人の家系の元べテル奉仕者で、ものみの塔の実体を見破り「ものみの塔」バビロンを後にしたマタイ (Matthew) 兄弟の短いビデオからの情報です。

編集者 sk (2013年04月13日 21:15:50)

オフライン

#14 2012年11月30日 22:25:52

カレブ
Administrator

Re: 聖書予言

THE TIME IS AT HAND 「時は近づけり」

ずばり、そのままですね。気がつきませんでした。
当時は恐らくKJVが主流でしたが、1901年のアメリカ標準訳を
見てみたら、こちらもずばり「THE TIME IS AT HAND」でした、
後に協会がこのアメリカ標準訳を使うようになったとき
気まずかったかもしれないですね。

こうなると逆にラッセルのほうが予言されていたみたいになっちゃいますね。

オフライン

#15 2012年12月01日 14:56:44

sk
メンバー

Re: 聖書予言

jw研究さん

イャ~、全く滑稽ですね。
私もうまく乗せられました。 tongue

でも今では、インターネットのおかげで最早「バレバレ」ですね。



エホバの証人の兄弟・姉妹たち、

神とキリストへの自分の信仰で歩んでください。

神 -- キリスト -- 人

神と人との仲介としてキリストを代表する人、または組織は意図されていません。
皆さんが冷静に物事を判断なさることを心から願います。

編集者 sk (2012年12月01日 14:58:24)

オフライン

#16 2012年12月16日 18:29:26

sk
メンバー

Re: 聖書予言

エホバの証人の兄弟姉妹たちの皆さん

明らかにされた隠蔽されていた事実を直視してください。

ルカ 12:2
2 しかし,注意深く秘められているもので表わし示されないものはなく,知られないで終わる秘密はありません。

インターネットの発展のおかげで,今では誰でも,以前は得ることのできなかった,あるいは意図的に隠されてきた事実を知ることができるようになりました。以前は,ものみの塔運動の経緯を調査することは容易ではありませんでした。唯一提供されていた資料は,自らを「神から選ばれた経路」と称する「ものみの塔協会」そのものによるものでした。

私達は誰でも「全ての霊感の表現を調べる」義務を,今なお負っています。これには当然「ものみの塔協会」の教えや活動も含まれます。

ものみの塔の起源

まず始めに,「CT・ラッセル」の教えは彼独自のものでない事を皆さんはご承知の事と思います。彼の教えは「セカンド・アドベンティスト」(キリストの再臨を待望しているグループ)から継承したものでした。

アメリカにおける再臨運動の創設者「ウィリアム・ミラー」(William Miller)は,キリストの再臨の日付を1884年10月22日に設定しました。そしてその期待が実現せずに「大いなる失望」を味わいました。とはいえ,彼の教えは彼の追随者達に引き継がれていきます。そして「CTラッセル」も「ミラー」の教えを継承しました。

そして,これらキリストの再臨信奉者達は「実現しなかった予言」のための非常に都合の良い言い訳を考え付きます。つまり「増し行く光」です。ラッセルも例外ではありませんでした。ラッセルは,どのように神の民が「現時点での真理」によって導かれるかを説明し,「実現しない予言」のための余地を残しています。


偽預言者

セブンスデー・アドベンティスト,「ものみの塔協会」を含むその他のキリストの再臨信奉者達の運動は,数多くの「実現しなかった予言」にもかかわらず,この都合の良い「言い訳」のおかげで繁栄し続けて行きます。

聖書が「実現しなかった予言」について述べる以下の点を考えてください。

申命記 18:22
22 もし預言者がエホバの名において話しても,その言葉が実現せず,そのとおりにならなければ,それはエホバが話されなかった言葉である。その預言者はせん越にそれを話したのである。あなたはその者に恐れ驚いてはならない』。

ラッセルの時代から今日まで「ものみの塔協会」の予言は何一つ実現していません。全て外れています。

まず,1914年について「ものみの塔協会」は次のように述べていました。

その年はサタンの体制の終わりとなる。
第一次世界大戦は直接ハルマゲドンに至る。
しかし,聖書はそれとは逆の事を述べいます。

ルカ 21:9
9 さらに,戦争や無秩序な事態について聞いても,恐れおののいてはなりません。これらはまず必ず起きる事だからです。しかし,終わりはすぐには[来]ないのです」。

このように,この複合の預言者(ものみの塔協会)は「キリストの教え」以外のものにより導かれています。

後日,1914年にかんする教えは「終わりの日の終わり」から「終わりの日の始まり」へと変えられます。彼らの「外れた予言」に対する見方は,「正しい時に,間違った事を期待していた」と説明されています。つまり1914年は正しかったが,期待していた「終わり」が間違いだったのでそれを「始まり」に変更した,ということです。(1906/7/15 ものみの塔,1924/2/13 p314 黄金時代)

ものみの塔協会は,引き続きその路線で偽予言を行い続けます。

以下は「外れた憶測」の事例です。
1925年 「現存する万民はけして死なない」「古代の信仰の人々の復活」
1940‐1942年 「ハルマゲドンが近い,差し迫っている」
1975年 「サタンの体制の終わり」「人類史の6,000年の終わり」

「ものみの塔協会」は独善的に「神からの音信」とか,「神の預言者」,「神の真実のメッセンジャー」,「忠実で思慮深い奴隷」,「神の唯一の伝達の経路」,「神が行動するふさわしい時」などの表現で自らを飾り立て,自らの憶測が神からのものである事を印象付けています。


群れを利用する

上記の理由で,多くの人々は「二度と繰り返されない人命救助活動」に専心してきました。
ある人達は,家を売り,教育や仕事をやめてまで,切迫した終わりの直前の宣教奉仕を拡大しました。

「協会」はそのような人々を立派な模範として出版物や大会のプログラムで紹介し他の人々も彼らに見習うよう,楽園の希望とともに励ましました。このように「協会」は,いつの時点でも「増し行く光」による更新された予言により,将来の差し迫った「終わり」への人々の期待を高めました。

「協会」は,「時にかなったふさわしい霊的食物」を提供してきたと主張していますが,ただ単に毎回,毎回,偽りの期待で人々の渇望を満たしてきたに過ぎません。

とはいえ,これまで何一つ期待されたことは起きていません。
最初のときから,全ての予言が外れています。
その後,「協会」は,過熱気味の雰囲気を変え,「兄弟達が途方もなく自身の想像力を膨らませてしまった。」とか,「そのような自己犠牲は,自己の決定であった。」,「私達は,特定の日まで神に仕えているのではありません。」などと述べて,「外れた期待」の責任を兄弟達自身の「過度の期待」に転嫁しました。このように兄弟・姉妹達自身の「思慮の足りなさ」を責めています。

その結果,多くの人が,「ものみの塔協会」に何か根本的な問題があると察知して,「ものみの塔」運動を去りました。


真理対偽り,支配の力

「協会」は,決して手を緩めることなく「増し行く光」,「現時点での真理」の教理,及び,自称「忠実で思慮深い奴隷」の教義と,止むことなく更新される「終わりの日の予言」の最新版と楽園の約束により人々を魅了し,引き続き信者数を増やし続けて行きます。

しかし,事実は,そのような「現時点での真理」なるものは,在りません。
それは,事実上「嘘」の「人を欺く表現」に過ぎません。

箴言 12:19
19 永久に堅く立てられるのは真実の唇であり,偽りの舌はほんの一瞬にすぎない。

「協会」は,謙遜な「忠実で思慮深い奴隷」でもなければ,自らが利用した兄弟・姉妹達(「協会」が仕えていると熱心に主張している)に対して思いやり深くもありません。「協会」は「ものみの塔運動」から離れる人々を排斥あるいは断絶処分により断ち,留まっている人達が一切の情報をそれら離れた人々から得られないようにしています。

明らかに,この理由で「統治体」は,不利な事実を知っている離れた兄弟・姉妹の証言による暴露を回避するために,留まっている兄弟・姉妹達がインターネットで調査することを思いとどまらせようとしています。

とはいえ,次の聖句の勧めに従うことは,各クリスチャンの責任です。

ヨハネ第一 4:1
1 愛する者たちよ,霊感の表現すべてを信じてはなりません。むしろ,その霊感の表現を試して,それが神から出ているかどうかを見きわめなさい。多くの偽預言者が世に出たからです。

啓示 2:2
あなたが悪人たちに耐えることができず,使徒であると言いはするが[実は]そうでない者たちを試して,それが偽り者であるのを見いだしたことを[知っている]。

インターネットにより入手可能になった以下の「隠されていた事実」について考慮してください。

CT・ラッセルの結婚生活

ラッセル(Russell)は1879年に27歳でマリア(フランシス)・アーケリー(Maria Frances Ackley)と結婚しました。
彼らの結婚は貞操結婚でした。
ラッセルは,「144,000人は女により汚されていない処女」と述べる啓示14:4の聖句を文字通りに解釈し,結婚の「当然受けるべきもの」に関するコリント第一7:2-5の助言を無効としました。彼は,結婚後この見方を妻に強要しました。
1894年,ラッセルが42歳の時,ローズ・ボール (Rose Ball-25歳のラッセルの速記者)とのふさわしくない関係がローズ自身によりラッセルの妻のマリアに告白されました。
その結果「マリア・ラッセル」は別居し,後に彼らは離婚します。
「ものみの塔協会」出版物は,「ローズ・ボールは,ラッセル夫妻の養女であり,当時15歳で,ラッセルの行為はごく自然な愛情の表現に過ぎなかった」述べ,この問題の深刻さを過小評価しています。(1975年年鑑 p69-70)

しかし,この記述は「嘘」です!
ご自分でインターネット検索してみてください。
ローズ・ボールの出生証明書によると,彼女は1894年当時25歳であることが分かります。


JF・ラザフォード
ラザフォード(Rutherford)についてはどうでしょうか。
なぜ,ラザフォードの家族についての記事が「ものみの塔」の出版物の中に一切ないのでしょうか。

明らかにされた証拠は驚くべきものです。ラザフォードは家族志向の人ではありませんでした。彼は,自分の妻,及び一人息子のマルコムから疎外されていました。
マルコム・ラザフォードはべテル奉仕者でしたが,父親の偽善的な生き方のため「ものみの塔協会」を去り,父親を忌み嫌っていました。マルコム・ラザフォードは,「ものみの塔協会」との関わりについて決して語らず,1989年6月22日に96歳で他界しました。

JFラザフォードは,家族と離れて「ベツ・サリム」に家政婦達とともに暮らし,彼の家族はそのサンディエゴのマンションから160km離れた所に住んでいました。

1923年から1941年まで,JF・ラザフォードには2人の女性旅行付添い人がいました。
ラザフォードのそれら2人の女性(彼の旅行付添い-妾)の名前は,「ボニーボイド」(Bonnie Boyd),「バータ・ピール」(Bert Peale)です。

これらの名前をグーグルで検索してみてください。そうすれば,「隠されている事実」が分かるでしょう。そして「ものみの塔協会」とその運動が神の霊と何の関係もないことを知るでしょう。

ある時,協会の法律顧問のオーリン・モイル(Olin Moyle)は,個人的な手紙でラザフォードのクリスチャンらしからぬ素行について訓戒した為に,1939年に排斥されました。その後,1941年8月のセントルイス大会で65,000人の聴衆に対して「モイル」の信用を毀損する公の決議が読まれ採択されました。モイルはラザフォードと「協会」を相手に訴訟を起こし勝訴しています。(1941/9/15)


ネイサン・ノア,フレッド・フランズの悪事

以下にある,ノア(Nathan Knorr),F・フランズ(Fred Franz),その他「ものみの塔協会」の活動を自分で調査してみて下さい。

恥ずべきことに「ものみの塔協会」は,レイモンド・フランズ(Raymond Franz-統治体の成員),エド・ダンロップ(Ed Dunlap),カール・オルフ・ジョンソンン(Carl Olof Jonsson),リチャード・ラーウィー(Richard Rawe) ,その他多くの義なる魂を排斥しました。

さらに恥ずべきことに,「協会」は,重大な罪を犯したイワート・チティ(Ewart Chitty-統治体の成員),及びレオ・グリンリース(Leo Greenlees-統治体の成員)を統治体から除籍後,何年か後に会衆の長老の職の回復を可能としました。両者とも,若いべテル奉仕者と同性愛行為の罪を犯しています。

この行為の罪悪感から,あるベテル奉仕者はベテルの建物から飛込み自殺を遂げたと報告されています。

それで,兄弟達目を覚ましてください。極めて汚れたものがそこに存在しています。

コリント第二 6:17
『そして汚れた物に触れるのをやめよ』」。「『そうすればわたしはあなた方を迎えよう』」。


真理の試金石

一度,「ものみの塔協会」の汚れた体質が明らかになった以上,この汚れた「協会」への確信は完璧に粉砕されました。もちろんこれはエホバ神と聖書の真理への信仰の喪失を意味していません。むしろ,ひとたび暴露された「虚偽」と「嘘」は火の中の籾殻であると言うことです。それらは,完璧に「真理」,「事実」によって消滅してしまうと言うことです。

とはいえ,「真理」への愛は厳しく試みられる事になっています。

テサロニケ第二 2:10-11
彼らが[こうして滅びゆくのは],真理への愛を受け入れず,救われようとしなかったことに対する応報としてなのです。 11 そのゆえに神は,誤りの働きを彼らのもとに至らせて,彼らが偽りを信じるようにするのであり,. . . .

コリント第二 13:8
8 わたしたちは真理に逆らっては何も行なえません。ただ真理のためにしか行なえないのです。

私は,「ものみの塔協会」が人造の,つまり神の導きのない人間の機関に過ぎないことを悟るようになりました。この「協会」は神の霊によって導かれてはいません。この「協会」が示している気質は,「嘘」と「半面真理」でしかありません。以前は,一方的に提供される情報のせいで,「ものみの塔協会」がこの終わりの日における「神とキリストの代弁者」の組織であると誠実に信じていました。信仰は聞くことより生じると教えられているとおり,もし聞かされていることが,サタンが光の天使に偽装するように「嘘」であれば,人々の信仰は誤導されます。

サタンは狡猾な手段を使いますので,私達は「全ての霊感の表現」つまり「神からの音信」と称されるものを試す必要があります。それで,この助言に従うことによってのみ私達は何が「真理」(真実,事実)か,「偽り」(嘘,欺き)か,に関し個人の確信を強化することができます。「嘘」は,神の霊感の言葉と神のご意思により明らかにされる偽予言や偽預言者に関わる事実の前に,耐えることはできません。

「ものみの塔協会」は,そのような暴露される「隠蔽されていた事実」を調べることさえ,「背教」,「変節」と決め付けます。
「統治体」は「忠実で思慮深い奴隷」などではありません。
この奴隷に関しイエスはこう尋ねられました。「忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか。」
その答えは,啓示2:23で「わたしが腎と心を探る者であることを知るであろう。そしてわたしは,あなた方一人一人にその行ないにしたがって与えよう。 」と言われている「戻られたイエス自身」によってなされます。

「ものみの塔協会」(統治体)は,自ら進み出て,「私達がそれです。私達が1919年に戻られたキリストから選ばれました。」とか,「そのとき以来,全ての権限が私達に委ねられています。」と主張している人々のグループです。

実は,この「統治体」という言葉は,聖書的な表現ではありません。この言葉は,ビジネスや会社に関連して使われる言葉です。
もともと,「ものみの塔協会」は印刷・出版を行う商事会社(business corporation)です。「ものみの塔協会」の役員は,その会社の株主です。一般にこの重役のグループのことを「統治体」と呼びます。そして,1976年に「協会」の株主(重役)が,エホバの証人(宗教団体)の「統治体」となりました。そして,「ものみの塔協会」は「インベスト・ヘッジ フォーラム」(InvestHedge Forum-投資家とヘッジファンドの年1度の国際会合)の登録された会員です。

イエスの使徒たちが,神から与えられた宣教活動における寄付を用いて,組織化された投機事業と関わりを持つことなど考えられない事です。「統治体」は,その教えにより「ものみの塔協会」が「唯一の経路」であり,それゆえ「ものみの塔」の導きなしには誰も聖書の真理を正確に理解できないと,多くの信者に思い込ませ,信者を「組織」内に留め,自らのビジネスのために利用しています。「協会」は決してその投資先を明らかにしません。

「統治体」は,一般のエホバの証人が,「ものみの塔」出版物を抜きにして自由に聖書の真理について討論することを禁じています。人々は,「統治体」(キリストの目に見える代表者)に全く依存するように,「ものみの塔の解釈」によって完全に教え込まれています。これは人々が自分で考えて行動することを妨げます。ひとたび,この「全き依存関係」が確立されたら,人々はいつも「ものみの塔」や「協会の代表者」は何と言っているか,あるいは何と教えているかを気にするようになります。それで「協会」は,彼らの聖書の解釈や,会衆により強化される彼らの教えにより,人々を呪文で縛るかのよう依存症にしています。

ルカ 12:57
57 なぜあなた方は,何が義にかなっているかをも自分で判断しないのですか。
(なぜなら,人々は書士やパリサイ人に依存するように教え込まれていたからです。)

ヘブライ 4:12
12 神の言葉は生きていて,力を及ぼし
(聖書は,明らかにものみの塔より強力です。)

テモテ第二 3:16-17
16 聖書全体は神の霊感を受けたもので,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です。 17 それは,神の人が十分な能力を備え,あらゆる良い業に対して全く整えられた者となるためです。
(聖書こそが,私達を教え,良いことを行うように動機付けを与えます。それは「ものみの塔」ではありません。)


全ての人が認めるように「統治体」は,人々が聖書によって導かれるように助けるべきです。
それはどういう意味でしょうか。それは,聖句が述べていることの個人研究や熟慮により,何を聖句が教えているか個々の人が十分に確信していることを意味しています。
つまりプロテスタントの指導者達が主張している,いわゆる「聖書のみ」(Sola Scriptura)です。

ローマ14章はこの点を強調しています。

ローマ 14:22
22 あなたの抱く信仰は,神のみ前で自分自身にしたがって抱きなさい。自らよしとしている事柄について自分を裁かないでよい人は幸いです。

だれも(組織も),自分の聖句に関する理解や推測を強要し,自分の基準よって他の人を裁いたりし,他の人の「エホバ神との個人的な関係」に干渉することはできません。しかしながら,「統治体」及び,その追随者たちは正にその事を行っています。それ故に,彼らによって示されている気質や態度はイエスから非難されたパリサイ人のものです。

マタイ 23:2
2 「書士とパリサイ人たちはモーセの座に座っています。
(彼らは,神の是認がないのに自らの主張で違法にその座についていました。)

同じように「統治体」も「天与の権限」という自らの想像や,「1919年に再臨されたキリストから選ばれた」という自らの主張により違法に権威の座についています。
イエスの時代のパリサイ人は普通の人々が聖句を解釈することを許しませんでしたが,今日「統治体」も同じ事をしています。人々は,かってパリサイ人の支配のもとにいたように,今日「統治体」の支配のもとにおかれています。「統治体」は,パリサイ人と同様律法の解釈権と規則設立権を有しています。

「統治体」は不要な規則をつくり,自ら課した勅令にどのように従うかによって人々を裁いています。

マタイ 23:4
4 重い荷をくくって人の肩に載せますが,自分ではそれを指で動かそうともしません。

ローマ 14;4
4 他の人の家僕を裁くとは,あなたはだれなのですか。その人が立つも倒れるも,それはその主人に対してのことなのです。

このようなパリサイ人のような組織のせいで,「ものみの塔」運動の中にいる人々は,彼らの指導者のようにパリサイ人になります。

マタイ 23:15
15 「偽善者なる書士とパリサイ人たち,あなた方は災いです! あなた方は一人の改宗者を作るために海と陸を行き巡り,それができると,これを,自分に倍してゲヘナに行くべき者とするからです。

一般のエホバの証人は上品な人々ですが,特権志向 *1, 2 が強く,それを求めるように励まされ,それによって評価され,それによって格付けされます。また信者でない人を「世の人」と呼び区別する傾向があります。

(*1 割当, *2 タイトル)
(*1 公の朗読,公の祈り,野外奉仕の司会,集会の司会,その他組織運営の割当)
(*2 補助開拓,正規開拓,特別開拓,宣教者,ベテル奉仕者,監督,僕,巡回・地域・地帯監督,支部委員,統治体,. . . )
「協会」は,それら数多くの特権によって,巧みに気付かれないように階層構造を組織全体に築いています。

「ものみの塔協会」の教育のおかげで,信者の思いの傾向は「自分達だけが選ばれた者で神の恵みの内にある」,「協会は神の組織で他はサタンの組織」であり,他の人が「ものみの塔」運動と別にエホバを崇拝することを認めることができません。このように「協会」と提携せずにエホバを崇拝する人々を拒絶するとは,何と狭量なことでしょうか。

彼らは以下の聖句に示されている真理を良く考えるべきです。

マタイ 23:8-10
8 しかしあなた方は,ラビと呼ばれてはなりません。あなた方の教師はただ一人であり,あなた方はみな兄弟だからです。 9 また,地上のだれをも父と呼んではなりません。あなた方の父はただ一人,天におられる方だからです。 10 また,『指導者』と呼ばれてもなりません。あなた方の指導者はキリスト一人だからです。
(「協会」はこの助言に反し,称号や割当を選ばれた小数に限定し,強固な権力構造を構築しています。)

ローマ 3:9
9 ではどうなのですか。わたしたちは勝った立場にいるのですか。決してそうではありません! わたしたちはすでに,ユダヤ人もギリシャ人もみな罪のもとにあるとの告発をしたのです。
(神にとって,「エホバの証人」といわゆる「世の人」との間に違いはありません。)

ローマ 2:27
27 そして,本来無割礼であるその[人]は,律法を実行することによって,その書かれた法典と割礼とがありながら律法の違犯者となっているあなたを裁くことになります。
(神の見地から,「世の人」が「エホバの証人」より勝っている場合があります。)

ルカ 9:49-50
49 ヨハネがそれにこたえて言った,「先生,わたしたちは,ある人があなたの名を使って悪霊たちを追い出しているのを見ましたので,それをとどめようとしました。彼はわたしたちと一緒に従って来ないからです」。 50 しかしイエスは彼に言われた,「あなた方は[その人を]とどめようとしてはなりません。あなた方に敵していない者は,あなた方に味方しているのです」。
(「協会」は「ものみの塔」を抜きにしてエホバ神を崇拝する人を認めていません。)

上記に記した理由で,私は「ものみの塔運動」に留まることは,健全な思いとクリスチャン人格の成長にとって逆効果となると理解するに至りました。「ものみの塔協会」はキリスト教世界に由来するゆえに,この面で,キリスト教世界の他の高度に統制された宗派と何も変わりません。

そのようなわけで,私は,「ものみの塔協会」(人間が企てた似非神権政治)との提携をやめました。

私は,「ものみの塔協会」の自称「忠実で思慮深い奴隷」の教義や,無価値な規則や決まり(重荷)から離れて,私達の主イエス・キリストと、エホバ神に注意を向けることにしました。

コリント第二 3:16-18
16 しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。17 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。 18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。 (口語訳)

その設立から人々の崇拝心を利用しきた「ものみの塔」運動の真の姿を暴露しながら,私は引き続き霊と真理によりエホバ神を中断することなく崇拝していくつもりです。(ヨハネ4:23-24)

世界には,既にそのようにしている多くの兄弟・姉妹達がおり,私は彼らと共に働きます。
皆さんも,また「ものみの塔協会」の本当の性質と支配的な霊を理解しその運動から出て霊と真理を持って受け入れられる仕方でエホバ神を崇拝なさることを願います。

もちろん,これはエホバ神と真の信仰からの背教を意味していません。
神と人の仲介者はイエス・キリストだけです。キリストの見える代表者あるいは、グループは意図されていません。

テモテ第一 2:5
5 神はただひとりであり,また神と人間との間の仲介者もただひとり,人間キリスト・イエスであって,

コリント第一 1:13
13 . . . パウロがあなた方のために杭につけられたとでもいうのですか。それとも,あなた方はパウロの名においてバプテスマを受けたのですか。

コリント第一 3:5-7
5 では,アポロは何者ですか。そうです,パウロは何者ですか。奉仕者であり,あなた方はその人々を通して信者となりましたが,それは主が各々に授けられたところによりました。6 わたしは植え,アポロは水を注ぎました。しかし,神が[それを]ずっと成長させてくださったのです。7 ですから,大切なのは,植える者でも水を注ぐ者でもなく,成長させてくださる神なのです。


そして「ものみの塔協会」の生み出している実は神からのものではありません。(マタイ7:15-20)

編集者 sk (2012年12月24日 23:04:16)

オフライン

#17 2012年12月17日 19:34:28

もんもん
メンバー

Re: 聖書予言

skさん

わたしも同じようなことを考えていたので、skさんがこのようなことを書かれてびっくりです。ぜひエホバの証人の兄弟・姉妹にも読んでいただきたい文章だと思いました。skさんは英語が得意のようですが、英語の掲示板などでも、投稿しておられるのですか。

オフライン

#18 2012年12月17日 23:15:34

sk
メンバー

Re: 聖書予言

もんもん さん

「もんもん」さんが同じ思いを持っておられることを知って大変嬉しく思います。
他の兄弟姉妹たちも事実を知れば同じ決定をすると思います。
変化のプロセスは急よりも、むしろ徐々にですよね。
「もんもん」さんもきっと同じと思いますが、時間をかけて辛抱強く徐々に理解を助けるようにしたいと思っています。

私は、JWStruggle の掲示板に投稿しています。ハンドルネームは okinawa です。
http://jwstrugglehelpforjehovahswitness … M8nAXczJad
そこには、元エホバの証人、現役エホバの証人、その他、いろいろな背景の方が集っています。
聖書の理解も様々で、それが対立を生むこともあります。
共通している点は、それぞれが神とキリストと隣人愛を認めていることです。

最近、John S 兄弟(元 jw)と一緒に phpBB を始めました。
http://christian.forumatic.com/index.php
そこは、現在10人のメンバーが投稿しています。

その他の元 jw の兄弟姉妹たちのサイトなども見たり、投稿したりしています。

日本では、ここ jw 研究の掲示板で投稿しています。
今までは、主に英語圏でのものみの塔協会の実態を伝えるニュースの投稿に集中しました。
これで、日本の兄弟姉妹たちが覚醒することを願っています。
今後は、英語のサイトでしているように聖書の教理的な投稿もしたいと思っています。

やがて日本でも真の崇拝者のコミュニティーが形成されることを確信しています。
エホバ神の働きを見るのを楽しみにしています。

ローマ 8:28
28 さて,わたしたちは,神を愛する者たち,つまりご自身の目的にしたがってお召しになった者たちの益のために,神がそのすべてのみ業を協働させておられることを知っています。

この掲示板を利用して、「もんもん」さんや他の現役 jw の兄弟姉妹、また元 jw の兄弟姉妹たちが自由に自分の思いや信仰を表明してクリスチャンの交友を楽しめることを願っています。

ローマ 1:12
12 いえ,むしろそれは,あなた方の間で,各々互いの,つまりあなた方とわたしの信仰によって,相互に励まし合うためなのです。

編集者 sk (2012年12月18日 17:46:22)

オフライン

#19 2012年12月18日 21:50:12

もんもん
メンバー

Re: 聖書予言

skさん
お返事ありがとうございます。英語もできるんですね。お互いがんばっていきましょうね。

オフライン

#20 2012年12月19日 18:11:16

sk
メンバー

Re: 聖書予言

もんもん さん


了解です。 smile

編集者 sk (2012年12月19日 18:11:36)

オフライン

#21 2012年12月19日 22:38:43

カレブ
Administrator

Re: 聖書予言

皆さん 投稿ありがとうございます。 お知らせですが、以前にヨーロッパ圏からの宣伝用スパムが横行したために、入力文字に厳しいチェックを加えていました。そのため通常の投稿でも「スパムと判断されました」というメッセージが表示されてしまうという報告がありましたので、今から少し文字チェックの制限解除を進めてみます。それでも「スパムと判断されました」というメッセージが表示されて投稿できないような場合がござましたらお手数ですが、お知らせください。

現在以下のような対策を施しています

1.極端に日本語文字数が少ない場合=>スパムと判断
2.ロシア語文字などが含まれている=>スパムと判断=>現在解除中
3.以前にスパムがあった特定の文字とURLを含むもの=>スパムと判断

以上です。

オフライン

#22 2012年12月20日 15:09:35

iris
ゲストユーザー

Re: 聖書予言

skさん、興味深い記事をありがとうございます。
ものみの塔の教義のポイントとなる語句についてわかりやすく整理されており、非常に勉強になりました。


「この世代」について

「預言者たちの血の責任が問われる」=「エルサレムの滅び」を指すと言えるのはなぜでしょうか?
文脈からは読み取れないと思うのですが。

この部分は律法学者たちとファリサイ派の人々に向けて語られています。
マタイ書の記事によると、この前の部分でイエスは、彼らが「もし先祖の時代に生きていても、
預言者の血を流す側にはつかなかったであろう」などと言う、と指摘しています(マタイ23:30)。
このように先祖と同じ過ちを犯していながら、その自覚がなく、他人事と考えている者たちに対して、
「他人事ではないのだ。時代の違いの問題ではないのだ」と主張しているのが、
「これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる(マタイ23:36)」という聖句の意味だと思います。
さらに、21世紀の現在に生きている私たちも、律法学者やファリサイ派のような態度をとるならば、
同じように責任を問われると考えるべきです。私たちにとっては「今の時代」とは21世紀の現在です。


「キリストの再臨」について

まず、聖書学ではマタイによる福音書は使徒マタイの著作ではありえないとされています。
90年頃までに、マルコによる福音書とイエス語録資料をつなぎ合わせ、さらに独自資料を加えて編集されたもので、
初めからギリシャ語で書かれています。この福音書は当時の正統派教会にとって都合が良かったため最も尊重され、
権威ある福音書とみなされていたため、マタイの著作であるという名目で流布したのです。
もちろん資料の一部はアラム語からギリシャ語に翻訳されています。

問題のマタイ24:3の後半は、Today's English Versionでは
"and what will happen to show that it is the time for your coming and the end of the age."
と訳されています。
skさんの指摘されている臨在(presence)は、このcomingにあたる部分ではないでしょうか。
coming はご指摘の appearance, arrival と類義の語ですから、通常の英訳ではそのように解釈されていると考えられます。

ものみの塔の聖書翻訳では、この例のようにわずか一語を追加したり削除したり差し替えたりするだけで、
原文ではありえない解釈を可能にしている例がいくつもあります。英語ならではの芸当かもしれません。
これをさらに日本語に訳すとかなり悲惨なことになります。


みなさまからのコメントをお待ちしています。

#23 2012年12月22日 16:35:29

sk
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Re: 聖書予言

iris さん


まず、ユダヤ教の事物の体制の終わりの世代について


西暦70年のエルサレムの滅びはユダヤ教の事物の体制を終わらせました。
それ以降、系図を焼かれて失ったユダヤ人は、世界各地へ離散し、エルサレムの神殿も破壊されエホバ神の崇拝はその地で行なわれなくなりました。これは、明らかにユダヤ教の体制の終わりを象徴しています。


イエスが、ご自分の宣教活動の終わりに、ユダヤ教の宗教指導者たちを糾弾された際、この裁きがその世代に臨むこと予言されました。イエスの弟子たちは、このユダヤ教の事物の体制の終わりに関心がありました。彼らの見方は限定的で、オリーブ山でイエスに終わりの日のしるしを尋ねたとき、世界的規模のサタンの事物の体制の終わりについては、弟子たちの思いにありませんでした。その時点で、彼らは地的王国の地上における回復を考えていました。イエスはその機会を利用し、ご自分の到来と、それによってもたらされるサタンの事物の体制全体の終わりの予言をなさっています。その予言の中で、イエスは、弟子たちの当面の関心であるユダヤ教の事物の体制の終わりについて取上げています。

それで、マタイ 24-25 章、マルコ 13 章、ルカ 21 章に書かれているイエスの予言のメインは、キリストの到来とサタンの事物の全体制の終わりです。その予言の中に、差し迫ったユダヤ教の事物の体制の終わり(裁き、エルサレムの滅び)についての予言が挿入されています。その箇所は、マタイ 24:15-20、マルコ 13:14-18、ルカ 21:20-24 です。

その箇所の記述は、キリストの到来に関する予言の前後の部分と対照をなしています。
このことについては、別の機会に説明したいと思います。

ユダヤ教の事物の体制に、その世代のうちに臨むとイエスが予言された裁きについて、マタイとルカの記録は、エルサレムの滅びが神の裁きであることを示しています。


マタイ 23:33, 24:15-18
33 「蛇よ,まむしらの子孫よ,どうしてあなた方はゲヘナの裁きを逃れられるでしょうか。34 このゆえに,わたしは今,預言者と賢い者と公に教え諭す者たちをあなた方のところに遣わします。あなた方はそのうちのある者を殺して杭につけ,ある者を会堂でむち打ち,都市から都市へと迫害するでしょう。35 こうして,義なるアベルの血から,あなた方が聖なる所と祭壇の間で殺害した,バラキヤの子ゼカリヤの血に至るまで,地上で流された義の血すべてがあなた方に臨むのです。36 あなた方に真実に言いますが,これらのことすべてはこの世代に臨むでしょう。

37 「エルサレム,エルサレム,預言者たちを殺し,自分に遣わされた人々を石打ちにする者よ-わたしは幾たびあなたの子供たちを集めたいと思ったことでしょう。めんどりがそのひなを翼の下に集めるかのように。しかし,あなた方はそれを望みませんでした。38 見よ,あなた方の家はあなた方のもとに見捨てられています。39 あなた方に言いますが,『エホバのみ名によって来るのは祝福された者!』と言うときまで,あなた方は今後決してわたしを見ないでしょう」。

24:15-18
15 「それゆえ,荒廃をもたらす嫌悪すべきものが,預言者ダニエルを通して語られたとおり,聖なる場所に立っているのを見かけるなら,(読者は識別力を働かせなさい,)16 その時,ユダヤにいる者は山に逃げはじめなさい。17 屋上にいる人は,家から物を取り出そうとして下りてはならず,18 野にいる人は,外衣を拾おうとして家に帰ってはなりません。

ルカ 21:41-44, 21:20-24
41 そして市の近くに来た時,[イエス]はそれを眺め,それのために涙を流して,42 こう言われた。「もしあなたが,そうですあなたが,この日に,平和にかかわる事を見分けていたなら-しかし今,それはあなたの目から隠されているのです。43 あなたの敵が,先のとがった杭でまわりに城塞を築き,取り巻いて四方からあなたを攻めたてる日が来るからであり,44 彼らは,あなたとあなたの中にいるあなたの子らを地面にたたきつけ,あなたの中で石を石の上に残したままにはしておかないでしょう。あなたが自分の検分されている時を見分けなかったからです」。

21:20-24
20 「また,エルサレムが野営を張った軍隊に囲まれるのを見たなら,その時,その荒廃が近づいたことを知りなさい。21 その時,ユダヤにいる者は山に逃げはじめなさい。[都]の中にいる者はそこを出なさい。田舎にいる者は[都]の中に入ってはなりません。22なぜなら,これは処断の日であり,それによって,書かれていることのすべてが成就するのです。23 その日,妊娠している女と赤子に乳を飲ませている者にとっては災いになります! その土地に非常な窮乏が,そしてこの民に憤りが臨むからです。24 そして人々は剣の刃に倒れ,捕らわれとなってあらゆる国民の中へ引かれてゆくでしょう。そしてエルサレムは,諸国民の定められた時が満ちるまで,諸国民に踏みにじられるのです。


次に、聖書の写本や、聖書学者たちの発見、研究結果について

クリスチャンギリシャ語聖書写本は、古代のどの文献の写本より断然多く保存されています。5,800 以上の全文、または一部欠落しているギリシャ語写本、10,000 のラテン語写本、9,300 の他の言語の写本が発見されています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Biblical_manuscript

これらの写本の比較研究をとおして、聖書の内容の純度を上げることができます。それで、誠実な聖書学者たちの努力を高く評価できます。そして、それらの研究結果を評価、判断するのは、聖書を読むわたしたち個人です。聖書を読み、聖書学者の研究結果を参考にして、聖書中の他の真理との整合性を吟味し、真理に到達する努力をするのは、個人です。他の人が他の人の判断、決定を支配することはできないでしょうし、そうする必要もありません。各々は、提供される情報により自ら判断、決定をすることになり、その様にして自分が蒔くものを、また刈り取ることになります。



マタイがヘブライ語で福音書を書いたとされる証拠があります。

ヘブライ学説 (Hebraism)
http://en.wikipedia.org/wiki/Hebraism

ヘブライ語らしい用法、特徴を識別する学問です。
少なくとも1人の著者は、新約聖書にヘブライ学説を見出しています。
新約聖書は、元々ギリシャ語ではなくヘブライ語で書かれたと主張しています。


そのような学者の1人ネヘミア・ゴードン (Nehemia Gordon) は、マタイ、マルコ、ルカ、使徒、啓示は、元々ヘブライ語で書かれたと主張しています。ヘブライ学から判断して、ヘブライ語からアラム語、ギリシャ語へ翻訳されたと述べています。

その解説のビデオ (2h) はここにあります。
http://www.youtube.com/watch?v=tddCNY6U77Y

ヒエラポリスのパピアス (Papias of Hierapolis, 60-130CE) による証言。
西暦1世紀の初期クリスチャン、使徒ヨハネとの交友があったとされています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Papias_of_Hierapolis

マタイの福音書に関してこう書かれています。
マタイは、福音書をヘブライ語のスタイルで書いたが有能な各自がそれらを翻訳した。
http://www.newadvent.org/cathen/11457c.htm


次に使徒 26:13-14 について

使徒 26:13-14
13 わたしは,真昼に路上で,王よ,太陽の輝きより強い光が,天からわたしのまわり,また共に旅をしていた者たちのまわりにぱっと光るのを見ました。14 そして,わたしたちがみな地面に倒れてしまった時,わたしは,ヘブライ語で,『サウロ,サウロ,なぜあなたはわたしを迫害しているのか。突き棒をけりつづけるのは,あなたにとってつらいことになる』と言う声を聞きました。

復活したイエスは、ヘブライ語を用いています。
それで、状況証拠はイエスの弟子たちがヘブライ語を用いていたことを物語っています。



初期クリスチャン書物について
http://www.earlychristianwritings.com/papias.html
http://www.textexcavation.com/papias.html

初期教会について
http://www.earlychurch.org.uk/papias.php



臨在 (Parousia) について

iris さんの発言:

問題のマタイ24:3の後半は、Today's English Versionでは
"and what will happen to show that it is the time for your coming and the end of the age."
と訳されています。
skさんの指摘されている臨在(presence)は、このcomingにあたる部分ではないでしょうか。

はい、仰るとおりです。

エホバの証人は、ものみの塔の解説に頼って、自分で調べようとしません。
それで、そのような人を助けるためには知恵や辛抱が求められると思います。
もちろん、個人の自由意志による決定を尊重し、それによって苛立ったり、失望する理由はありませんね。

まず、ものみの塔協会を神聖視している問題点を気付かせる必要がありますね。
最近の世界各地で公になる協会のスキャンダル、全時間奉仕者などのリストラ、資金不足の兆候などは、JWの覚醒のきっかけになるかも知れません。多くのエホバの証人の皆さんが、ものみの塔協会と、その運営の仕方が一般の多国籍企業と変わらないことに気付くといいですね。


臨在について、#12を参照してください。
http://www.jwstudy.com/jwbbs/viewtopic.php?pid=255#p255

編集者 sk (2012年12月26日 21:58:32)

オフライン

#24 2012年12月24日 22:55:07

sk
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Re: 聖書予言

他の羊について


ヨハネ 10:16
16 「また,わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,一人の羊飼いとなります。

このイエスの言葉は、2000年も先の他の羊の大群衆の予言でしょうか、それともやがて生じようとしていた諸国民の改宗のことでしょうか。

ものみの塔協会は、前者の立場で他の羊を地的クラスと教えています。それで多くのエホバの証人は自分たちが他の羊の地的クラスであると信じています。それで、このイエスの言葉を正しく理解することが人々が抱く希望と直接関わってきます。

まず、聖句の文脈を見てみましょう。

ヨハネ 9章によると、イエスが癒した盲人がパリサイ人たちにより会堂から追放され、その後にイエスに出会った際、そこに居合わせたパリサイ人たちとのやり取りの中で、パリサイ人たちに向かってイエスはご自分の羊についてのたとえ話を始められたことが分かります。

ヨハネ 9:35-10:1
35 イエスは,彼らがその人を追い出したことをお聞きになった。そして,彼を見つけると,こう言われた。「あなたは人の子に信仰を持っていますか」。36その[人]は答えた,「ですが,だんな様,それはどなたのことでしょうか。わたしがその方に信仰を持てますように」。37 イエスは彼に言われた,「あなたはその者を見ました。しかも,あなたと話しているのがその者です」。38 すると彼は言った,「わたしはほんとうに[その方に]信仰を持っています,主よ」。そして彼は[イエス]に敬意をささげた。39 するとイエスは言われた,「[この]裁きのためにわたしはこの世に来ました。すなわち,見えない者が見えるようになり,見える者が盲目になるためです」。40 パリサイ人のうち[イエス]と一緒にいた者たちがこれらのことを聞いて,彼に言った,「わたしたちも盲目であるというわけではないでしょうね」。41 イエスは彼らに言われた,「あなた方が盲目であったなら,あなた方には罪がなかったでしょう。しかしあなた方は今,『わたしたちは見える』と言います。あなた方の罪は残るのです」。

10:1 「きわめて真実にあなた方に言いますが,羊の囲いに戸口を通って入らず,どこかほかの場所からよじ登る者,その者は盗人であり,強奪者です。

ヨハネ 10:3-6
3 戸口番はこの者に対して[戸を]開け,羊はその声を聴き,彼は自分の羊の名を呼んで導き出します。4 自分のものをみな外に出すと,彼はその前を行き,羊はあとに付いて行きます。彼の声を知っているからです。5 よその者には決して付いて行かず,むしろその者からは逃げるのです。よその者たちの声を知らないからです」。6 イエスはこの比喩を彼らに話された。しかし彼らは,自分たちに話されていることがどういう意味なのか分からなかった

それから、7-15節でイエスは、立派な羊飼いが羊のために命をなげうつことを話され、羊飼いは羊を、羊は羊飼いを知っていることを強調しています。

そして、10:16節で他の羊について言及します。そこで言われたことは、他の羊もイエスの声に従い一つの羊の群れ、ひとりの羊飼いとなるということです。

それで、本来の羊も、他の羊も、イエスの声に聞き従うということに注目できます。
この特徴は、イエスの声に聞き従わないユダヤ教の宗教指導者たちとその追随者たちと対照を成しています。

イエスに従わないユダヤ人たちにイエスはこれらのたとえを話しています。

ヨハネ 10:16-21
16 「また,わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,一人の羊飼いとなります。17 このゆえに父はわたしを愛してくださいます。すなわち,わたしが自分の魂をなげうつからです。それは,わたしがそれを再び受けるようになるためです。18 だれもわたしからそれを取り去ったわけではなく,わたしはそれを自分からなげうつのです。わたしはそれをなげうつ権限があり,またそれを再び受ける権限があります。このことに関するおきてをわたしは自分の父から受けました」。

19 これらの言葉のために,ユダヤ人の間に再び分裂が生じた。20 彼らのうち多くの者は,「彼は悪霊につかれ,気が狂っている。どうして彼[の言うこと]を聴くのか」と言っていた。21 ほかの者たちは,「これは悪霊に取りつかれた人の言うことではない。悪霊が盲人たちの目を開けることなどできないではないか」と言うのであった。


このように生来のユダヤ人の中でイエスに聞き従う人とそうでない人がいました。
元々イエスは生来のユダヤ人の下に神から遣わされていましたので、生来のユダヤ人の中でイエスに信仰を働かせその声に聞き従う人をは本来の羊と見なすことができます。

そうすると、イエスが述べておられる他の羊とは、誰のことを指しているのでしょうか。
イエスの声に聞き従う生来のユダヤ人以外の人々がいますか。
歴史の事実は、ユダヤ人から異邦人と呼ばれていた諸国の人々がイエスに信仰を働かせ、その声に聞き従うようになったことを物語っています。

イエスの地上での宣教は、アブラハムの生来の子孫であるユダヤ人の間でなされました。以下の聖句はそのことを示しています。

マタイ 15:24
24 [イエス]は答えて言われた,「わたしは,イスラエルの家の失われた羊のほかはだれのところにも遣わされませんでした」。

ヨハネ 1:11
11 彼は自分のところに来たのに,その民は彼を迎え入れなかった。

アブラハムの生来の子孫の大半は、アブラハムの主要な胤であるイエスを受け入れませんでした。
イエスを受け入れた少数の残りの者をのぞいて大半のユダヤ人はイエスの羊ではないことを示しました。
イエスの声に従った生来のユダヤ人たちは、イエスのたとえ話の中の囲いの中の本来の羊で表されます。

イエスキリストはアブラハム契約の主要な胤としてアブラハムの生来の子孫の下に遣わされました。
それで、神の救いの計画を理解するためにはアブラハム契約の内容を理解する必要があります。

神の言葉に従い約束の地カナンへ向かうアブラハムは、紀元前1943年のニサンの14日にユーフラテス川を渡たりました。その時神はアブラハムと胤の約束をなさいます。

それから約40年後、神はアブラハムに青年のイサクを犠牲として捧げるように求められます。
アブラハムは自分の最愛の独り子イサクと共にモリア山に登り、そこで祭壇を築きイサクを犠牲にする寸前に神の介入によりその信仰の試みは終了します。
それは、将来神がアダムの子孫を罪から救出するために、ご自分の独り子を人類の贖いの犠牲としてされることを表す予言的な劇となりました。

その際、神はアブラハムに胤の約束を誓いを持って保証されました。

創世記 22:12, 15-18
12 すると[み使い]はさらに言った,「あなたの手をその少年に下してはならない。これに何を行なってもならない。わたしは今,あなたが自分の子,あなたのひとり子をさえわたしに与えることを差し控えなかったので,あなたが神を恐れる者であることをよく知った」。
15 次いでエホバのみ使いは再度天からアブラハムに呼びかけて16 こう言った。「『わたしは自らにかけてまさに誓う』と,エホバはお告げになる,『あなたがこのことを行ない,あなたの子,あなたのひとり子をさえ与えることを差し控えなかったゆえに,17 わたしは確かにあなたを祝福し,あなたの胤を確かに殖やして天の星のように,海辺の砂の粒のようにする。あなたの胤はその敵の門を手に入れるであろう。18 そして,あなたの胤によって地のすべての国の民は必ず自らを祝福するであろう。あなたがわたしの声に聴き従ったからである』」。

この神の約束により、キリストは人類を祝福するアブラハムの主要な胤として生来のアブラハムの子孫であるイスラエルに遣わされました。

このアブラハム契約の条項の「地のすべての国の民は必ず自らを祝福するであろう」は、どのように成就するのでしょうか。

西暦一世紀に使途パウロはその聖句の成就として次のように述べています。

ガラテア 3:7-9, 14, 26-29
7 あなた方は,信仰を堅く守る者がアブラハムの子であることを知っているはずです。8 さて,聖書は,神が諸国の人々を信仰によって義と宣することを予見し,前もってアブラハムに良いたよりを宣明しました。すなわち,「あなたによってすべての国民が祝福されるであろう」と。9 したがって,信仰を堅く守る者は,忠実なアブラハムと共に祝福されているのです。
14 その目的は,アブラハムの祝福がイエス・キリストによって諸国民に及び,こうしてわたしたちが,約束された霊を自分の信仰によって受けるためです。
26 現にあなた方は皆,キリスト・イエスに対する信仰によって神の子なのです。27 キリストへのバプテスマを受けたあなた方は皆キリストを身に着けたからです。28 ユダヤ人もギリシャ人もなく,奴隷も自由人もなく,男性も女性もありません。あなた方は皆キリスト・イエスと結ばれて一人の[人]となっているからです。29 さらに,キリストに属しているのであれば,あなた方はまさにアブラハムの胤であり,約束に関連した相続人です


信仰を堅く守る者がアブラハムの子である
アブラハムの祝福がイエス・キリストによって諸国民に及び
キリスト・イエスに対する信仰によって神の子なのです
キリスト・イエスと結ばれて一人の人となっている
キリストに属しているのであれば、. . . アブラハムの胤であり、約束に関連した相続人です

このようにパウロは、キリストを受け入れた異邦人、諸国の人々がアブラハムの生来の子孫であるユダヤ人と共に約束の相続人となったことに創世記 22:18 節のアブラハムの祝福をを適用しています。

また彼は、エフェソス書のなかで、ユダヤ人と異邦人を隔てていた律法契約がキリストの死により取除かれ、神が人類を分け隔てなく扱うようになった事実を強調しています。

エフェソス 2:13-22
13 しかし,かつては遠く離れていたあなた方が,今やキリスト・イエスと結ばれ,キリストの血によって近い者となりました。14 [キリスト]はわたしたちの平和であり,二者を一つにし,その間にあって隔てていた壁を取り壊した方なのです。15 この方は自分の肉によって敵意を,すなわち[数々の]定めから成るおきての律法を廃棄されました。それは,二つの民をご自身との結びつきのもとに一人の新しい人に創造し,平和を作り出すためでした。16 またそれは,両方の民を一つの体とし,苦しみの杭を通して神と十分に和解させるためでした。彼は自分自身によってその敵意を抹殺したからです。17 そして彼は来て,遠く離れた者であったあなた方に平和の良いたよりを,また近い者たちにも平和を宣明したのです。18 この方を通してわたしたち両方の民は,一つの霊のもとに父に近づくことができるからです。

19 それゆえ,あなた方はもはや決してよそ者や外人居留者ではありません。聖なる者たちと同じ市民であり,神の家族の成員なのです。20 そしてあなた方は使徒や預言者たちの土台の上に築き上げられているのであり,キリスト・イエスご自身は土台の隅石です。21 彼と結びあって建物全体は調和よく組み合わされ,エホバのための聖なる神殿に成長してゆきます。22 彼と結びあってあなた方も共に築き上げられ,神が霊によって住まれる所となってゆくのです。

エフェソス 3:5-6
5 ほかの世代において,この[奥義]は,今その聖なる使徒や預言者たちに霊によって啓示されているほどには,人の子らに知らされていませんでした。6 すなわちそれは,諸国の人々が良いたよりを通してキリスト・イエスと結ばれて,共同の相続人,同じ体の成員,わたしたちと共に約束にあずかる者となる,ということです。


このように西暦1世紀に、神は生来のユダヤ人と異邦人の両方の民をキリストにおいてひとつにされました。
その事実に基づいてヨハネ 10:16 節を理解するべきではありませんか。

ヨハネ 10:16
16 「また,わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,一人の羊飼いとなります

それで、他の羊は、キリストを受け入れその声に聞き従う異邦人のキリストの弟子たち、約束の相続人、アブラハムの胤の成員となる人々のことです。
それは、2000年後の地的クラスではありません。そのような解釈を裏付ける聖句はありません。

キリストの死と復活は、神の管理の新たな局面を進展させました。その時以降神は全人類をキリストにおいて同じように扱っておられます。


イエスは宣教期間中、主にイスラエルの失われた羊を導きました。
その宣教の終わりごろ、イエスはご自分の犠牲の死と復活の後、異邦人の扱いに関して、あらゆる人々を招くと保証されています。

ヨハネ 12:20-21, 32
20 さて,祭りに出て崇拝するために上って来た人々の中に数人のギリシャ人がいた。21 それで,それらの者たちが,ガリラヤのベツサイダから来ていたフィリポに近づき,「わたしどもはイエスにお会いしたいのですが」と頼みはじめた。22 フィリポはやって来て,アンデレに告げた。アンデレとフィリポは来て,イエスに告げた。
32 しかしわたしは,自分が地から挙げられたなら,あらゆる人をわたしのもとに引き寄せます」。


以上、神の言葉は、他の羊が異邦人のクリスチャンたち、約束の相続人、アブラハムの胤の成員であることを示しています。
つまり、他の羊は、キリストに信仰をもち、その言葉に聞き従うわたしたちのことです。
それで、わたしたちが約束の相続人であり、アブラハムの胤の成員であるということです。


長い間エホバの証人の地的クラスの教えにより、この事実を受け入れることに抵抗を感じる方がいると思いますが、聖書そのものはそのようにわたしたちの思いを導いています。

次回は、144,000人、神のイスラエル、イスラエルの12部族、新しい契約について聖書からの推論を展開したいと思います。


読んで頂いてありがとうございました。


皆さんのご意見も聞かせてください。
よろしくお願いします。

編集者 sk (2012年12月25日 18:24:40)

オフライン

#25 2012年12月25日 00:10:02

iris
ゲストユーザー

Re: 聖書予言

skさん お返事ありがとうございます。

聖書の言語について

1世紀のパレスチナでは、ヘブライ語は文章語であったそうです。
特に聖書はヘブライ語で書かれていましたから、それに関連する宗教文書はヘブライ語で書かれていました。
しかし、日常語はアラム語で、礼拝ではヘブライ語からアラム語への通訳がいたそうです。
(ヘブライ語では一般人が理解できないため)

イエスの言葉にもアラム語が伝えられています。
「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ(マルコ15:34)」「タリタ・クミ(マルコ5:41)」「エッパタ(マルコ7:34)」
などです。マルコ福音書は、日常語としてアラム語が使われていたことを正直に記しています。

「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ(マルコ15:34)」はヘブライ語で書かれた詩編の引用であるにもかかわらず、
イエスはアラム語で叫んだと伝えられていることに注目してください。
しかしマタイ福音書は、マルコ福音書を資料として用いているにもかかわらず、ヘブライ語の
「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(マタイ27:46)」に変えています。
これはユダヤ教やヘブライ語に精通していた著者が、日常語のアラム語で書くのは野暮だと考えて、
ヘブライ語に変えてしまったのだそうです。

私は聖書が専門ではないので、信頼できそうな説を受け入れているだけで、本当かどうかは知りません。
参考までに提示しておきます。


カトリック教会では、伝統的にこの夜イエスさまの御降誕を祝います。
聖書の記事からは、イエスさまが真冬に生まれたのではないことがわかります。
けれども、闇の中に住む人に光であるキリストが与えられたことを象徴して、一年でいちばん夜の長い
この時期にイエスさまの御降誕を記念するのです。
イエスさまはあらゆる立場の人に与えられ、すべての人が大切な存在であることを教えています。
skさんも、エホバの証人研究さんも、不安の中におられるもんもんさんも、どんな状況の人でも、誰もが
神さまにとっては大切な大切な人です。みなさまおめでとうございます。

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