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#1 2015年09月20日 19:58:26

Kohelet
ゲストユーザー

創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。

初参加で要領がまだよくわかりませんが、無礼がありましたら遠慮なく御指摘願います。

さて、創世記18章でアブラハムを訪れた三人のうち、一人は神「エホバ」であることが示されています。

ところでエホバの証人ではエホバの「遍在」は否定しておられ、エホバは天におられると教えておられますが(~「ものみの塔」 2011年8月 読者の質問「神は一つの所におられるのですか 」)、この箇所ではエホバはわざわざ人間になってアブラハムのところへ御使い二人を連れて会いに来たことになります。エホバの証人の皆さんはそのように理解しておられますか?

つまりエホバは人と等身大になって、アブラハムとそうしたように(18:23~)他人と対等に語り合い、しかも譲歩したりするのでしょうか?そしてそれは、「一つの所=天」におられるという教えと矛盾しないのでしょうか? sad

#2 2015年09月21日 14:24:01

Kohelet
ゲストユーザー

Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。

ささらほーさらさん、初めまして。御返信ありがとうございました。

創世記18章の三人の人は、JWの解釈ではすべて天使とのことですね?うむ、それなら「遍在否定」との整合性はわかるのですが、残念ながらそのように受け取れないのは、まず、新世界訳の記述が、明らかに三人の一人が「エホバ」であることを示しているからです。この点は普通の翻訳と同じです。そして、JW.ORGで「聖書は実際に何を教えていますか  第10章 霊の被造物 ― 人間にどんな影響を与えていますか」を読みますと、「邪悪な都市ソドムとゴモラの滅びの際,二人のみ使いが,義を愛する人 ロトとその娘たちを生き残らせるため,そこから外へ連れ出しました。(創世記 19:15,16)」と書かれてあり、これも文脈的に18章でアブラハムの前に現れた三人のうちの二人が「み使い」であるとの解釈を明示しています。ということは、JWにおいても残りの一人を「エホバ」であると理解していることは100%間違いありません。つまり、貴殿が御指摘の、「モーセやヤコブに対して『神』が現れた時」と、この場合の、アブラハムに対して「神」が現れた時とは別だということです。前者では、「み使い」が「神」を代表しましたが、後者では「神」であるエホバ自ら「み使い」と共に「人」に化身して来られたのです。

このような私の見方が合っているとして、だったらどうなの?聖書には矛盾もあり、JWの聖書解釈(教理)にだって矛盾の一つくらいはあるさ・・・と言われるかも知れませんね!でも、本当にそうなのでしょうか?私は、エホバの証人の信者さんで新世界訳聖書に矛盾を認める人がいるとすれば、さらにエホバの証人の教えにも矛盾や誤認を認める人がいるとすれば、その人はあまりJWにハマっていない人、失礼な言い方になりますがマインド・コントロールされていない人ということになると思っています。自分が入っている団体に対して批判的な見方が出来る信者さんばかりなら、その団体はけっして「カルト」とは言えないでしょう。

私見では、エホバの証人の聖書解釈には普通のクリスチャンも学ぶところがあり、共感するとこがあります。では、この創世記18章に限ってみるとどういうことが言えるのか・・・、私の個人的な意見ですが、言わば「片手落ち」(差別的意図はないので誤解なきよう)ではないのかと思われます。皆さん、いかがですか?
つまり「矛盾」というより、神の遍在を否定した時点で、この創世記18章におけるエホバの人間化身を考慮していなかったのではないか?ということです。考慮していれば神の遍在を肯定するか、あくまでも否定するなら新世界訳で、三人の全てを「み使い」とするような訳し方をしたはずです。そうでないと整合性を得られないからです。逆に言えば、エホバの証人の聖書解釈(教理)には体系化しきれていない部分があるということでしょう。これは必ずしも否定的な意味で言うのではなく、体系化しきれない方が人間の思考として健全だとも言えます。しかし、それならそれで、そういうことだと聞きたいものです。そうでないなら説明を聴いてみたいです。JWの公式見解としてですが、聖書解釈(教理)に整合性なんかなくたって、人知を超えた神秘なんだから、べつにいいんだ・・・というならその旨を・・・です。ただし、神秘を持ち出して思考停止させるこの言い方はエホバの証人を異端と決めつけて正統を自認しているキリスト教会側の言い方でもあります

#3 2015年09月21日 17:20:39

Kohelet
ゲストユーザー

Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。

ささらほーさらさん、ご親切な回答を感謝します。そうだったんですか!そんなにJWの出版物って矛盾に満ち溢れているんですね?しかし、そんなことをこの掲示板に書き込んでもよいのでしょうか?よいならよいのですが、まだ事情がよくわからないのでスミマセン cool

この聖書談義は「基本的に聖書が神の言葉であるという前提で」とのことであり、その場合の「聖書」はまずもって新世界訳だと思うので、参加者はおもに信者さんであると想像したので、JWの聖書解釈(教理)を批判するようなことを書き込むと荒らし扱いされるのではないかとの不安があります。

また、私自身、JWの聖書解釈(教理)を批判することを目的に参加したのではなく、むしろJWの聖書解釈(教理)に関心があり、正統的解釈より共感することが多いので、自分がわからない箇所について率直にお尋ねする主旨です。JWの通常の認識は、「神は途方もなく偉大な方であり、化肉して人前に現れることはない」とのことですが、これは私の信仰と一致します。でも聖書が神の(化肉と言うか)人間化を創世記18章などで明示しており、新世界訳でもそうなっているので、これはどういうことだろうと思った次第です。

矛盾は矛盾のままに、疑問は疑問のままに・・・というのも一つのやり方ではありますね。
ところで、私の質問にも不足があり、「神の遍在」を否定することと、「神の人間化」を肯定することとは、必ずしも矛盾しません。「遍在」とは文字通り、あまねく存在することであり、これを否定したって、つまり神が遍在しなくても、人間化することは可能だからです。むしろこれを肯定する方が、「神の人間化」の必要性を否定することになります。そこで補足しておきます。JWでは単に「神の遍在」を否定しているのではなく、「神が一つの所(=天)におられる」としておられるので、これと「神の人間化」が矛盾するのです。
しかしこれを認めたら、キリスト教の「神の人間化(受肉)」の教理を認める道筋をつけてしまうことになると思います。これはよくないですね。

#4 2015年09月21日 17:49:00

通りがかりですが
ゲストユーザー

Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。

Koheletさん

いちおう指摘しておきますと
アブラハムを訪れた人物は3人ですが、記述を読み進めると、18章22節で2人だけがソドムのロトの所へ向かっています。

ですから、

Kohelet さんの発言:

創世記18章の三人の人は、JWの解釈ではすべて天使とのことですね?うむ、それなら「遍在否定」との整合性はわかるのですが、残念ながらそのように受け取れないのは、まず、新世界訳の記述が、明らかに三人の一人が「エホバ」であることを示しているからです。この点は普通の翻訳と同じです。そして、JW.ORGで「聖書は実際に何を教えていますか  第10章 霊の被造物 ― 人間にどんな影響を与えていますか」を読みますと、「邪悪な都市ソドムとゴモラの滅びの際,二人のみ使いが,義を愛する人 ロトとその娘たちを生き残らせるため,そこから外へ連れ出しました。(創世記 19:15,16)」と書かれてあり、これも文脈的に18章でアブラハムの前に現れた三人のうちの二人が「み使い」であるとの解釈を明示しています。ということは、JWにおいても残りの一人を「エホバ」であると理解していることは100%間違いありません。

というわけではありません。
ロトを訪問した2人は、エホバを代表していた天使とは別人だからです。
そのことは19章1節で示唆されています。

*** 塔88 5/15 21ページ 神を見た人がいますか ***
後に,アブラハムが三人の訪問者たちと共に高台からソドムの町を眺めていた時,訪問者のうち二人はその町へ行くために出発しました。そして22節では,「しかしエホバのほうはなおもアブラハムの前に立っておられた」と記されています。この記述からすると,神は肉体の姿でアブラハムと共におられたように思えることでしょう。神とイエス・キリストは同一の方である,と信じる一部の人たちが熱心に主張するのはその点です。
(中略)
以上のことから,アブラハムが,人の姿で現われた,神の代弁者であるみ使いに対して,エホバ神ご自身に話しているかのように語りかけた理由が理解できます。そのみ使いは神がアブラハムに言いたいと思われた事柄をそのとおりに話し,その場で神の個人的な代理を務めましたから,「エホバは……彼に現われた」と,聖書の記録は述べているのです。―創世記 18:1。

#5 2015年09月21日 19:36:19

Kohelet
ゲストユーザー

Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。

通りがかりのユーザーさん、コメントありがとうございました。
ご案内頂き参考になりましたが、「塔88 5/15 21ページ 神を見た人がいますか 」は「ものみの塔 神を見た人がいますか」などで検索してみましたが出てきませんでした。

ところで、「ロトを訪問した2人は、エホバを代表していた天使とは別人」との御指摘ですが、私はアブラハムを訪れた三人のうちの二人のみ使いが、「エホバを代表していた天使」などとは全く申しておりません。

>アブラハムを訪れた人物は3人ですが、記述を読み進めると、18章22節で2人だけがソドムのロトの所へ向かっています。・・・はい、それは、エホバが二人のみ使いをソドムに遣わしたからです。私の理解と何ら矛盾しません。

>神は肉体の姿でアブラハムと共におられたように思えることでしょう。
・・・そうですね。そうでないと肉体を持つアブラハムが神の「前に立つ」ことは出来ません。エホバが可視的存在であったから、その「前」もあるわけです。もちろん、それが「神=エホバ」ではなく「み使い」であって、「み使い」が肉体の姿でアブラハムの前にいたと考えることは可能です。しかし文脈からすると、それは「み使い」ではあり得ません。なぜなら二人のみ使いはソドムに行ったからです。三人のうちの残りの一人がエホバであることは、新世界訳が明示していることです。

つまり、御貴殿がおっしゃりたいのは、アブラハムを訪問した三人の客がすべて「み使い」であったということなのでしょう。しかしそれが無理であり、うち一人はエホバであることをJWの聖書翻訳それ自体が認めているのです。
「1 後にエホバはマムレの大木林で彼に現われた。それは,昼の暑いころ,彼が天幕の入口に座っていた時のことであった。2 彼が目を上げて見ると,自分から少し離れたところに三人の人が立っているのであった。それを見かけると,彼はその人たちを迎えるため天幕の入口から走り出て,地に身をかがめた。3 そうしてこう言った。『エホバよ,もし今,私があなたの目に恵みを得ておりましたら,どうかこの僕のところを素通りなさらないでください。4 どうか少しの水を取って来させ,ぜひ皆さまの足をお洗わせください。そのあと木の下に横におなりください。・・・』」
1節と3節の「エホバ」で、三人の訪問客の誰かが「エホバ」であることは明らかですよね。キリスト教の牧師の中には三人とも神の顕現ととる人もいますが、その解釈が無理であるのは9節から10節にかけてです。アブラハムと対話しているのが1人称複数から単数に変わっています。そしてここでの単数(=彼)が「エホバ」であることは、発言内容が13節で「エホバ」を主語にした発言内容と一致することからわかります。原文を見て下さい。13節にはっきりと「エホバ」が主語として出ています。17節や20節もそうです。これを「神の代弁者であるみ使い」と解するのは、いかに解釈は自由とは言え客観的には度過ぎており、大いに無理を感じます。

18章1~15節と16節以降とは誰が読んでも連続しています。アブラハムを訪れた三人、すなわちエホバと二人のみ使いは16節でアブラハムのもとを出発し、ソドムを見下ろすところまで行きました。アブラハムもそこまで見送るべく同行したのです。ここでエホバは、二人のみ使いに「これからすることを、アブラハムに伏せておくのは正しいことだろうか」などを思い、二人のみ使いにソドムとゴモラの様子を確かめさせるための指示を与えることにより、間接的にこれらの町を滅ぼすことをアブラハムに打ち明けるのです。そこからアブラハムのエホバに対する「とりなし」(と言うか外面的には交渉)が始まります。19:1にあるとおり、ソドムに行ったのはエホバから遣わされた二人のみ使いです。しかし19:17の「彼」を18節のロトの呼び方からエホバであるとすると、アブラハムとの対話のあとでエホバもソドムに行ったことになります(21節の「彼」もエホバ)。いずれにせよ24節の原文には「そして主(エホバ)は」で始まるので、エホバがおられたことは間違いないです。それとも結果的に塩の柱になるロトの妻に「後ろを振り返るな」と言ったのはみ使いであってエホバではないとでも・・・?ソドムとゴモラに天から硫黄の火を降らせたのはエホバ以外の何者でもありません。これは神の裁きの定型的表現だからです。

私の発言に何か誤解がありましたら、なるべく具体的に指摘して下さい。どうぞよろしくお願い申し上げます。 glasses

#6 2015年09月21日 20:39:54

通りがかりですが
ゲストユーザー

Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。

Koheletさん。

わたしは一貫して「通りがかりですが」というハンドルネームで書きこみをしていますので。

さて、

Kohelet さんの発言:

通りがかりのユーザーさん、コメントありがとうございました。
ご案内頂き参考になりましたが、「塔88 5/15 21ページ 神を見た人がいますか 」は「ものみの塔 神を見た人がいますか」などで検索してみましたが出てきませんでした。

1988年の雑誌であればオンラインでは出てきませんので、あしからず。

Kohelet さんの発言:

ところで、「ロトを訪問した2人は、エホバを代表していた天使とは別人」との御指摘ですが、私はアブラハムを訪れた三人のうちの二人のみ使いが、「エホバを代表していた天使」などとは全く申しておりません。

はい。わたしはそのように書いたつもりもありません。
「3人のうちの一人はエホバを代表しており、あとの2人はそうではない」というのが公式見解だ、ということを指摘したまでです。
Koheletさんのご意見をわたしが批判しているわけでも、逆に賛同しているわけでもなく、それが「公式見解」だということを書いているにすぎません。

Kohelet さんの発言:

つまり、御貴殿がおっしゃりたいのは、アブラハムを訪問した三人の客がすべて「み使い」であったということなのでしょう。しかしそれが無理であり、うち一人はエホバであることをJWの聖書翻訳それ自体が認めているのです。
「1 後にエホバはマムレの大木林で彼に現われた。それは,昼の暑いころ,彼が天幕の入口に座っていた時のことであった。2 彼が目を上げて見ると,自分から少し離れたところに三人の人が立っているのであった。それを見かけると,彼はその人たちを迎えるため天幕の入口から走り出て,地に身をかがめた。3 そうしてこう言った。『エホバよ,もし今,私があなたの目に恵みを得ておりましたら,どうかこの僕のところを素通りなさらないでください。4 どうか少しの水を取って来させ,ぜひ皆さまの足をお洗わせください。そのあと木の下に横におなりください。・・・』」
1節と3節の「エホバ」で、三人の訪問客の誰かが「エホバ」であることは明らかですよね。キリスト教の牧師の中には三人とも神の顕現ととる人もいますが、その解釈が無理であるのは9節から10節にかけてです。アブラハムと対話しているのが1人称複数から単数に変わっています。そしてここでの単数(=彼)が「エホバ」であることは、発言内容が13節で「エホバ」を主語にした発言内容と一致することからわかります。原文を見て下さい。13節にはっきりと「エホバ」が主語として出ています。17節や20節もそうです。これを「神の代弁者であるみ使い」と解するのは、いかに解釈は自由とは言え客観的には度過ぎており、大いに無理を感じます。

無理をお感じになるのは、それはそれでよいのではないかと思います。
そして、「御貴殿がおっしゃりたいのは」と書かれましたが、「わたしが」ではなく「公式見解ではそうなっている」ということなので、次のように引用させていただきました。

*** 塔88 5/15 21ページ 神を見た人がいますか ***
後に,アブラハムが三人の訪問者たちと共に高台からソドムの町を眺めていた時,訪問者のうち二人はその町へ行くために出発しました。そして22節では,「しかしエホバのほうはなおもアブラハムの前に立っておられた」と記されています。この記述からすると,神は肉体の姿でアブラハムと共におられたように思えることでしょう。神とイエス・キリストは同一の方である,と信じる一部の人たちが熱心に主張するのはその点です。
(中略)
以上のことから,アブラハムが,人の姿で現われた,神の代弁者であるみ使いに対して,エホバ神ご自身に話しているかのように語りかけた理由が理解できます。そのみ使いは神がアブラハムに言いたいと思われた事柄をそのとおりに話し,その場で神の個人的な代理を務めましたから,「エホバは……彼に現われた」と,聖書の記録は述べているのです。―創世記 18:1。


ここの「以上のことから・・・創世記18:1。」と結論付けているところまでを含めて「ものみの塔」からの引用です。誤解のなきよう。

Kohelet さんの発言:

しかし19:17の「彼」を18節のロトの呼び方からエホバであるとすると、アブラハムとの対話のあとでエホバもソドムに行ったことになります(21節の「彼」もエホバ)。いずれにせよ24節の原文には「そして主(エホバ)は」で始まるので、エホバがおられたことは間違いないです。それとも結果的に塩の柱になるロトの妻に「後ろを振り返るな」と言ったのはみ使いであってエホバではないとでも・・・?ソドムとゴモラに天から硫黄の火を降らせたのはエホバ以外の何者でもありません。これは神の裁きの定型的表現だからです。

19章12-13節によれば、語り掛けている人とエホバは同一でしょうか?

#7 2015年09月21日 22:11:34

Kohelet
ゲストユーザー

Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。

「通りがかり」さん、JWの公式見解と御貴殿の御見解とを混同してしまい、たいへん失礼致しました。また、ささらほーさらさんの御指摘にも感謝致します。
>19章12-13節によれば、語り掛けている人とエホバは同一でしょうか?
・・・同一ではないです。私は18章の13節という意味で「13節にはっきりと「エホバ」が主語として出ています。」と書いたのですが、おうちゃくして章数を省いてすませんでした。
とにかく、「塔88 5/15 21ページ 神を見た人がいますか 」を読んでみたいと思います。バックナンバーでありますか?購入したいです。
私は、信仰内容ではJWと一致する点が多く、この箇所でも三人の訪問者は皆、「み使い」であり、うち一人が「エホバを代表(というか代理とか代行ですね)するみ使い」との解釈・・・これがいいと思います。と言うのは、私もエホバの「化肉」は信じないからです。エホバ神は内在よりも超越の方に重きを置いておられると信じています。それでこそ「神」だと・・・。
でも、テキスト的には、原文で「エホバ」となっているのを、エホバ代行のみ使いと読み込むのは、やはり無理かな~って感じです、正直言いましてね。
でも、これで満足です。ささらほーさらさんと、通りがかりさんのおかげで、創世記18章の三人の訪問者をJWがどのように理解しているのかがわかりました。資料としは「塔88 5/15 21ページ 神を見た人がいますか 」が決め手なのですね。是非、読んでみたいと思います。
本当にありがとうござました。 lol

・・・で、他にもなんかおかしなこと書き込んでいましたら、どうぞ遠慮なく御指摘願います。

#8 2015年09月21日 22:22:27

Kohelet
ゲストユーザー

Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。

ささらほーさらさん、この掲示板ではJWに批判的なことを書き込んでも大丈夫と教えて下さり、ありがとうございました。私はてっきり、カレブさんはJWの熱心な信者さんとばかり思っていたものですから。

それと、以前の御投稿を拝見しました。

「も塔の解釈で考察していくと、化肉と肉体が違うと考えるなら【化肉とは】ハリボテのように(肉体に当然備わっている諸細胞がなく粘土かシリコンで作られた[女の子の等身大人形が現にあるようです=性処理用?]ものに似ている。ゆえに生殖能力を持たない)になってしまいます。では、どのようにみ使いたちは人間の女性と性的な快楽を得、精子の作れない体でネフィリムを作り出したのでしょう???」

共感しました。私も同様の疑問を抱きます。ネフィリムについては本当に疑問で、ヘブライ人が本来、このような神話を思い描いたとは驚きです。なぜなら、ヘブライ人は、神と人との区別が明確だと思い込んでいるからです。でも、どうもそうでもなさそうですね。神ではなく神の子ではありますが、JWでは創世記6章の「神の子」は「み使い」なのですね。それと関係があるかは知りませんが、「神の子」と呼ばれたイエス・キリストも天使と同一視されるのですね。

何か、失礼とかあれば御遠慮なくおっしゃって下さい。

#9 2015年09月22日 21:47:43

もんもん
メンバー

Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。

み使いを通して、エホバが語っているのではないのですか?

「み使い」か「神」というのは、二者択一なのですか?

み使いの口を通して、神が語るというのは、不自然なのでしょうか?

編集者 もんもん (2015年09月22日 21:50:50)

オフライン

#10 2015年09月22日 22:19:15

Kohelet
ゲストユーザー

Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。

もんもんさん、初めまして。コメント、ありがとうございます。 smile

>み使いを通して、エホバが語っているのではないのですか?

なるほど、そういう理解の仕方もありますね。誤解してたらすみませんが、もんもんさんの御理解では、三人とも「み使い」で、彼らを通してエホバが語っているということでしょう?

「『み使い』か『神』というのは、二者択一」で問われるべきではなく、両者は言わば二位一体で、難しい言い方になりますが、み使いと神とは相互内在または相互浸透しているということでしょうか?

>み使いの口を通して、神が語るというのは、不自然なのでしょうか?

いいえ、不自然ではないと私は思います。私の信仰はかなりJWに近いと思っています。
ただ、問題は聖書のテキストに合うかどうかで、「み使いの口を通して、神が語る」とは言っても、三人ともそうではなく、うち二人は「み使い」としての自覚にもとづいて言動していることは、19章13節の「わたしたちはこの場所を滅びに至らせようとしているのです。彼らについての叫びがエホバの前に大きくなったからです。そのためエホバはこの都市を滅びに至らせようとわたしたちを遣わされたのです」(新世界訳)という言葉からわかります。二人のみ使いは、自分たちがエホバから遣わされたという自覚を持っており、エホバと自分たちとの存在論的、また、意識の区別があります。ということは、み使いの口から出る言葉がそのままエホバの語りであると読み取ることは困難だと思います。エホバの意思にかなうことを言っているとは言えますが、18章ではエホバはエホバで、アブラハムと対話しているからです。

何を言いたいかと申しますと、要するに、二人のみ使いは、エホバの操り人形のように、あるいはシャーマンのように、自分が無くて、ただエホバの意向を語っている・・・というわけではないということです。聖書のテキストからは、「み使いの口を通して、神が語る」とは言っても、その「み使い」を霊媒師か何かのようには読めません。ただエホバの言葉を機械的に口から発しているとは解せない・・・そういう意味で申しました。

JWの公式見解では、三人とも「み使い」で、そのうちの一人がエホバ神を代行していると学びました。
もんもんさんの御理解は、それとは違いますか?三人の「み使い」が皆、エホバ神を代行しているのでしょうか?(誤解でしたら、すません、間違いを指摘し直して下さい。)

JWの公式見解では、エホバはつねに「天」という一つの所(物質の宇宙とは全く別の領域である,霊的な天)におられるのだから、創世記18~19章の物語でも、エホバ御自身が地上に、しかも人間の姿で来られたのではなく、アブラハムの前に現れた三人は皆、エホバから遣わされた天使であり、彼らがエホバの意志を代弁したという理解はアリだと思います。ただし、三人全員がエホバの代役だとすれば、テキスト的には三人のうち一人だけが「エホバ」と言われ、他の二人が「み使い」と言われている、この区別の意味が問われると思うのです。

以上、私の理解が間違っていたら、どうか遠慮なく御指摘願います。JWの聖書解釈(教理)の学びのため、よろしくお願い致します。

編集者 Kohelet (2015年09月22日 22:56:55)

#11 2015年09月23日 20:07:50

もんもん
メンバー

Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。

Koheletさん

こちらこそ、始めまして。

>何を言いたいかと申しますと、要するに、二人のみ使いは、エホバの操り人形のように、あるいはシャーマンのように、自分が無くて、ただエホバの意向を語っている・・・というわけではないということです。聖書のテキストからは、「み使いの口を通して、神が語る」とは言っても、その「み使い」を霊媒師か何かのようには読めません。ただエホバの言葉を機械的に口から発しているとは解せない・・・そういう意味で申しました。

そのとおりだと思います。

>JWの公式見解では、三人とも「み使い」で、そのうちの一人がエホバ神を代行していると学びました。
もんもんさんの御理解は、それとは違いますか?三人の「み使い」が皆、エホバ神を代行しているのでしょうか?(誤解でしたら、すません、間違いを指摘し直して下さい。)

僕の見解は、エホバの証人の公式見解と同じです。3人とも異なるみ使いで、エホバご自身ではないです。3人とも異なる人格です。3人のうちの一人は、アブラハムの前で、エホバご自身の言葉を語っていると思います。

神が人間化したのではなくって、イエス・キリストが語られたとおり「神は霊である」というのが、正しいんじゃないかと僕は思っています。

編集者 もんもん (2015年09月23日 20:16:20)

オフライン

#12 2015年09月23日 21:15:25

Kohelet
ゲストユーザー

Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。

御返答を感謝します。

3人のうちの一人は、アブラハムの前で、エホバご自身の言葉を語っていると思います。神が人間化したのではなくって、イエス・キリストが語られたとおり「神は霊である」というのが、正しいんじゃないかと僕は思っています。

なるほどですね。これでもんもんさんと、通りがかりですがさんと、ささらほーさらさんと、私との四者間に話が開通したって感じがしました。・・・・ですよね(。◕ ∀ ◕。) ホンネはさらに他の方々にも参加してほしいんですがね。

そこでさらに参考までにお教え願いたいのですが、もんもんさんにとって「エホバ神」は旧約聖書(の特にJ資料)で擬人的に描かれているようなイメージではなく、つまり「これぞ、人格神~!」みたいな感じではなく、姿形の無い「霊」ということですか?
そしてその聖霊が、み使いの「3人のうちの一人」に内在しており、マタイによる福音書10章でイエスが弟子たちに「話すのは単にあなた方ではなく,あなた方の父の霊が,あなた方によって話すのです。」と言われたように、その一人のみ使いの内からアブラハムに話をしたということですか?

私の場合は、エホバとその霊とは存在論的に区別されます。エホバ神は「肉体」とは違いますがいわば「霊体」とでも言うべき身体性があり、「神(エホバ)は霊である」という場合の「霊」は、「神の霊=聖霊」とは区別されると解しています。

「神は霊であ(る)」とイエス・キリストは言いました。(ヨハネ 4:24)霊者は,人間とは異なる生命形態です。人間の目には見えませんが,体があります。それは「霊的な体」です。(コリント第一 15:44。ヨハネ 1:18)聖書は比喩表現を用いて,神には目,耳,手があるとさえ述べています。             (~塔04 5/15 p4 「あなたは神を喜ばせることができます」)

エホバ神は人格神であり、聖霊は人格ではなく、神の活動する力であると理解しています(~塔10 10/1 p27~28「聖書についての話し合い ― 聖霊とは何ですか」)。ということは、三人のうちの一人の中にエホバが霊として内在し、そのみ使いを通してアブラハムに語ったということではなく、エホバご自身は「天の天」に座しておられ、その活動力である御霊がみ使いの内に働き、彼をしてアブラハムの前でエホバの言葉を語らしめた・・・ということではないかと思いますが、いかがでしょうか?
私、なんかおかしなこと言ってますかね glasses  おかしなところがあったら遠慮なく御指摘をよろしくお願い致します。

#13 2015年09月24日 02:25:44

ハル
ゲストユーザー

Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。

僕は、アブラハムがエホバと呼んだ存在は、エホバの使うドローンのようなもので、み使いの1人の口を借りたのでもなく、線を伸ばしてスピーカーを持ってきたかのような存在として感じています。

神の一部と言えばそうですが、エネルギーは物質にも変換できますから、
「神の活動する力(エネルギー)を実体化させたもの」
としてイメージするならば、神の肉体としての姿とは言えなくとも、神そのものでありつつ本体ではない人の形をした存在があっても良いのかなと思います。

聖書を読み込んだ結果導きだした答えではなく、ただ、漠然とこのように捉えていました…というだけですがご容赦ください。

#14 2015年09月24日 06:22:36

1,000時間奉仕者
ゲストユーザー

Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。

おー、熱のこもった応酬ですねー。久々に投稿する気が起きてきました (^_-)-☆
研究生たちと心を込めて討議をしたことのない古いタイプの司会者が嫌がりそう(笑)な題目、私は大好きです。

今までのやり取りの中で、一人(リーダー的み使い)がイエス、あ、まだ俗界に降りる前だからミカエルだった、というご意見は既に出たでしょうか?

複数でエホバを代表して人々の前に現れるケースは、上記二例(アブラハムとロト)だけと言ってもいいですね(他にもあったっけ?)。

大抵の場合、エホバから伝言を仰せつかったみ使いは単独行動です。モーセと合流すべく息子を連れて旅立った妻チッポラの前に立ちはだかったみ使いはモロに「エホバは彼?彼女?に会い、これを……」(Ge 4:24)と呼ばれていまし、エリコ再戦前にヨシュアに現れた「君」も一人でエホバを名乗り(Jos 6:2)、ものを言ったロバを追い詰めたのも一人(Num22:22~)、他み使いが出場した記録は原則として一人でした。

上記のすべてのケースで、とは言えないでしょうが、協会の出版物は「かなりの頻度で、このみ使いはおそらく地に来られる前のイエスだと思われます」的な説明していたように記憶しています。ミカエルならみ使い界でも飛び抜けた存在ですし、3人トリオで現れて、アブラハムと残ってオークション(笑)に応じたみ使いも、他の二人とは別格扱いで書かれたとしても不思議ではない。

……ってところでいかがでしょう?

いや~、ここにカキ込む時ほどCDライブラリを使いまくる機会ってないかも……

#15 2015年09月24日 13:37:47

Kohelet
ゲストユーザー

Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。

1,000時間奉仕者さん、初めまして。コメント頂き、たいへん嬉しく思います。また
また、新しい情報を得ることができてよかったです。 smile
JWでは、三人のみ使いの代表格を、受肉前のイエス(=大天使ミカエル)と理解していたのですか!
これはJWの聖書解釈(教理)としては十分あり得ることではありますが、そこまでは思いもよらず、ここでの交信にも全く出てこなかったことです。

ところで、コメントを拝読し、あらたなる疑問も生じてきました。
出エジプト記4章24節でモーセを襲ったのはエホバ神ご自身ではなく、あれはみ使いなのですね?
それならイザヤ書19:1で、「エジプトに対する宣告: 見よ,エホバは速い雲に乗って,エジプトに入って来られる。そして,エジプトの無価値な神々はこの方ゆえに必ず震え,エジプトの心もその中で溶ける。」の、「エホバは速い雲に乗って」と言われているところの「エホバ」もみ使いでしょうか?
yahoo!知恵袋では、yangmuskさんの比喩的解釈での回答が出ていますが、JWの中には比喩的にではなく文字通りに近い解釈をなさる信者さんもおられて然りだと察します。

しかし、おかしいと思うのは、原文では「エホバのみ使い」が現れている箇所ではそのように書かれているということです。つまり旧約聖書では、それが「エホバのみ使い」による言動である場合には、その旨、記されているのではないのか?実際は「(エホバの)み使い」が主体であるのに、それを「エホバ」と書き表わす意味があるのだろうか?という疑問です。「エホバのみ使い」が出てくる数例を下に挙げます。

創世記22:11「ところが,エホバのみ使いが天から彼に呼びかけて,『アブラハム,アブラハムよ!』と言った。それに対して彼は,『はい,私はここにおります!』と答えた。」
出エジプト記3:22「その時,エホバのみ使いが,いばらの茂みの中,火の炎のうちにあって彼に現われた。」
民数記22:22「すると,彼が出かけて行ったために神の怒りが燃えた。そして,エホバのみ使いが彼に抵抗しようとして道路に立った。」
裁き人6:12「そこへエホバのみ使いが現われてこう言った。『勇敢な力ある者よ,エホバはあなたと共におられる』。」(※この箇所では22節に、「そのためギデオンは,それがエホバのみ使いであったことを悟った。直ちにギデオンは言った,『ああ,主権者なる主エホバ,わたしはエホバのみ使いを面と向かって見てしまったのです』。」と書かれているので、エホバとみ使いとの両義性が指摘されます。)
列王第一19:7「後に,エホバのみ使いが二度目に戻って来て,彼に触って言った,『起きて,食べなさい。旅はあなたにとって大変だからです』。」

仮に、おっしゃる出エジプト記4:24の「エホバ」が「(エホバの)み使い」だとしたら、なぜ、3:22では「エホバのみ使い」と書いているのに、こちらではそう書かずに「エホバ」と書いているのか?という疑問が生じますよね。これについての合理的な説明が必要になります。私自身は、それは無理だと思います。しかし、だからと言ってJWの聖書解釈を否定するわけではなく、信仰的には同感なのです。結局、信仰は最終的には論理を超えるってことでしょうか、矛盾があるのは正統的キリスト教も同じで、むしろあちらの教理の方がよっぽど聖書に合っていないし、論理的整合性に欠けます。・・・とまあ、そんなところでやめときます。急いで書いたので、なんかおかしなことを書いていましたら、どうか遠慮なく御指摘願います。 cool

編集者 Kohelet (2015年09月24日 13:39:29)

#16 2015年09月24日 18:42:52

Kohelet
ゲストユーザー

Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。

ハルさん、初めまして。コメントをいただき、誠にありがとうございます。 smile

>「神の活動する力(エネルギー)を実体化させたもの」としてイメージするならば、神の肉体としての姿とは言えなくとも、神そのものでありつつ本体ではない人の形をした存在があっても良いのかな

なるほどですね、おもしろいと思いました。神さまをどうイメージするかは個人の自由ですから、多様でいいんじゃないでしょうか?そしてこれは必ずしも聖書からかけ離れているとは思いません。「神の活動する力(=聖霊)」を実体化させたものという点ではJWの霊体説とも接点があるように感じました。

最近の神学者には、聖書に啓示された「神」を非実体的・非人格的に語る傾向が顕著ですが、世の中には「神」が得体の知れないもののように言われると、私のように不快な気分に陥る者も少なくないと思います。その点でJWは素晴らしいです、エホバ神についての解説を見ると私は安心します。

ハルさんも「神」の実体性を重んじるお方だとお見受けし、うれしく思います。よろしくお願いいたします。
何かおかしなことを書いていましたら、遠慮なく御指摘願います glasses

#17 2015年09月24日 21:01:24

もんもん
メンバー

Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。

Koheletさん

>そこでさらに参考までにお教え願いたいのですが、もんもんさんにとって「エホバ神」は旧約聖書(の特にJ資料)で擬人的に描かれているようなイメージではなく、つまり「これぞ、人格神~!」みたいな感じではなく、姿形の無い「霊」ということですか?

エホバの証人の公式の霊の解釈「エネルギー」とは異なりますが、僕は「霊」というのは、英語のspiritに非常に近いものではないかと考えています。

http://eow.alc.co.jp/search?q=spirit
〔生命体の〕生命力、精気
〔生きようとする〕生気、気力
〔人の〕性分、気性
〔人の〕心持ち、考え方
〔人の〕熱情、気迫文例
《spirits》〔人の〕気分、機嫌

「霊」という言葉には、「神の思い」や「神の考え」という意味が、含まれていると思っています。

霊魂として漂っているというイメージではなくって、そのなんというか、「お心」「意思」「思い」という感じですかね。

編集者 もんもん (2015年09月24日 21:07:25)

オフライン

#18 2015年09月24日 21:13:44

もんもん
メンバー

Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。

Koheletさん

>仮に、おっしゃる出エジプト記4:24の「エホバ」が「(エホバの)み使い」だとしたら、なぜ、3:22では「エホバのみ使い」と書いているのに、こちらではそう書かずに「エホバ」と書いているのか?という疑問が生じますよね。これについての合理的な説明が必要になります。私自身は、それは無理だと思います。

「エホバは、彼が調べようとして立ち寄ったのをご覧になり、神は、すぐにそのいばらの茂みの中から彼に呼びかけて「モーセ」「モーセよ」といわれた。(出エジプト 3:4」

編集者 もんもん (2015年09月24日 21:14:17)

オフライン

#19 2015年09月24日 22:15:55

Kohelet
ゲストユーザー

Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。

もんもんさん、ご返答をありがとうございました。
「霊」(ルーアハ/プニューマ)についての、もんもんさんの考えをうかがうことができました。

ただ、「『霊』という言葉には、『神の思い』や『神の考え』という意味が、含まれていると思っています。・・・『お心』『意思』『思い』という感じですかね。」と言われるので、「神は霊なり」は「エホバは霊なり」とはなりませんよね。「エホバ=神の思い」というのでは意味が通らないからです。もんもんさんにとっても「霊」とは「神」ではなく、その活動力であることは明らかですね。JWの公式見解と矛盾しません。

私がおききしたかったのは、もんもんさんにとってエホバ神はどのようにイメージされているか、です。やはり人格神なのでしょう?もっとも「人格」を「人間的」と同義にとる人も少なくないようで、「人格神」(Personal God)は日本人には Personified God(人格化された神)、すなわち人間的なものだと受け取られてしまうと嘆く学者もいるようですが、そんな区別をわれわれ大衆に求めること自体、宗哲系インテリの愚かさとでもいえるでしょう。まあ、それはそういう細かい定義はともかく、もんもんさんにとってもエホバは一般的に思われているような「人格神」ですか?神の「意思」とか「思い」といった表現からはそのようにお見受けされますね。

ところで引用しておられる出エジプト記3:4ですが、ここでは「エホバ」と「神(エロヒーム)」の二者が出てきます。実際は同じ「主なる神」を固有名詞の「エホバ」と普通名詞の「エロヒーム」の二つで表現しているのでしょうが、なぜ、このような使い分けをしているのか・・・資料的には4節前半は「ヤハウィスト(J)」で後半は「エロヒスト(E)」だからだと説明されますが、これも実情は定かではありません。続く5、7、8節もJ資料で、6、9~15はE資料というのもなんかせわしないですよね。
さて、問題はこの箇所でも「神(エロヒーム」は「エホバ」ではなく「(エホバの)み使い」であると読み込むのかどうかです。「エホバ」の方は「彼が調べようとして立ち寄ったのをご覧にな」ったのであり、それはその場にいなくても、詩篇の14:2や33:13~14などにみられるとおり「天(の天)」からでも可能なのですからよいでしょうが、「神(エロヒーム)」の方は「すぐにそのいばらの茂みの中から彼に呼びかけ」たのですから、この「神」が「エホバ」だということになると、「天の天」から地上に来られたことになります。だから、JWの公式見解的には、ここも「み使い」に替えて読むことになるでしょう。
人によっては、この箇所での「エホバ」と「神(エロヒーム)」とを別個として解釈し、前者は一神で後者は文字通り多神だと主張しますが、これは聖書全体の主旨に合わないです。
私、眠くなってなにかおかしなことを述べているかもしれないので御指摘願います。

編集者 Kohelet (2015年09月25日 18:33:53)

#20 2015年09月25日 15:22:55

カレブ
Administrator

Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。

コヘレトさん こんにちは。

JWの教理に関してですがコヘレトさんが別のスレッドで購入を考えていることを述べていた「聖書から論じる」を一通り読まれることをお勧めします。

「聖書から論じる」は特に教派の違いを意識した論題を幅広く扱っていますので、JWの聖書解釈についてかなり幅広く網羅しています。

アマゾン中古で格安で売っているようでしたら買っても損はないと思います。

あとは「三位一体」の特集された冊子もあるとよいですが
その前に
http://www.jw.org/ja/%E5%87%BA%E7%89%88 … h&sortBy=1

1443162118_t.jpg
この本がネットでPDFを入手できるので
一通り読んでみてください。
JWの基本的な教理を網羅しています。

オフライン

#21 2015年09月25日 18:48:49

Kohelet
ゲストユーザー

Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。

Administratorのカレブさん、初めまして。御挨拶が遅れて失礼しました。
『聖書から論じる』に関してコメントして下さり、ありがとうございました。

ところで、ヤフオクでは同じ『聖書から論じる』でも、1985年版は安いですが、新しい分はそうでもありません。
内容にはあまり変わりはないのでしょうか?変わりないなら古くても安い方を買いたいと思います。

ところで総合フォーラムの「ものみの塔の書籍(古本)に関する情報」というスレッドは、コメントもつかないようですので、削除した方がよさそうですね。 kiss  もうしばらく様子を見てから考えます。

ここでJWの基本的な教理を学べる資料のご案内をして頂いたので、今のところはそれでよさそうです。

あと、カレブさん、私が「聖書談義」で別に質問している使徒17:28~29に関しても答えて頂けませんでしょうか?よろしくお願い致します。

編集者 Kohelet (2015年09月25日 18:52:06)

#22 2015年09月25日 20:48:40

カレブ
Administrator

Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。

Kohelet さんの発言:

ところで、ヤフオクでは同じ『聖書から論じる』でも、1985年版は安いですが、新しい分はそうでもありません。
内容にはあまり変わりはないのでしょうか?変わりないなら古くても安い方を買いたいと思います。

ほとんど変わらないと思います。
「ソドムとゴモラの人が復活する」と論じたり
「ソドムとゴモラの人は復活しない」と論じたり、
もしかしたらそのような違いはあるかもしれませんが
それもまたつっこみネタに仕えるでしょうから
多少の違いは気にしなくてよいと思います。

オフライン

#23 2015年09月25日 22:57:29

もんもん
メンバー

Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。

Koheletさん

>私がおききしたかったのは、もんもんさんにとってエホバ神はどのようにイメージされているか、です。やはり人格神なのでしょう?

神よ,わたし自らあなたを呼び求めます。あなたはわたしに答えてくださるからです。
あなたの耳をわたしに傾けてください。わたしのことばを聞いてください
(詩篇 17:6)

これは、ダビデの歌で、詩篇からの引用ですが、ダビデが、神に祈り求めています。僕にとって、神とは、このような存在です。答えてくださる方、耳を傾ける方、祈りを聞いてくださる方です。

編集者 もんもん (2015年09月25日 22:58:56)

オフライン

#24 2015年09月25日 23:03:53

もんもん
メンバー

Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。

Koheletさん

>ところで引用しておられる出エジプト記3:4ですが、ここでは「エホバ」と「神(エロヒーム)」の二者が出てきます。実際は同じ「主なる神」を固有名詞の「エホバ」と普通名詞の「エロヒーム」の二つで表現しているのでしょうが、なぜ、このような使い分けをしているのか

それは、たまたまじゃないでしょうか。「エホバ」と「神」は、両方が普通に使われていますよ。使い分ける理由というのは、特に見当たらないと思います。

オフライン

#25 2015年09月25日 23:06:59

もんもん
メンバー

Re: 創世記18章の皆さんの理解をお聞かせ下さい。

Koheletさん

>さて、問題はこの箇所でも「神(エロヒーム」は「エホバ」ではなく「(エホバの)み使い」であると読み込むのかどうかです。「エホバ」の方は「彼が調べようとして立ち寄ったのをご覧にな」ったのであり、それはその場にいなくても、詩篇の14:2や33:13~14などにみられるとおり「天(の天)」からでも可能なのですからよいでしょうが、「神(エロヒーム)」の方は「すぐにそのいばらの茂みの中から彼に呼びかけ」たのですから、この「神」が「エホバ」だということになると、「天の天」から地上に来られたことになります。

そのとおりです、神は、ホレブ山に、雲の形で、降りてきていますよ。そして、モーセに語りかけています。

たとえば、以下の聖句などは、雰囲気がわかりやすいでしょうか。

するとエホバは雲のうちにあって下って来られ,彼と共にそこに立ち,エホバの名を宣明された。
(出エジプト記 34:5)

普段は天におられますが、雲の形で、ホレブの山に下ってくることもあります。

編集者 もんもん (2015年09月25日 23:16:35)

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