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#1 2014年03月24日 21:50:16

sk
メンバー

主の晩餐

こんばんは、皆さん

裁判のトピック、すごいですね。
生々しい書き込みで、読んでいて「ドキドキ」します。

この興奮をちょっと脇へ置いてキリストの犠牲の死について読んでください。




創世記 3:15の女の約束の胤としてイエスは人類をサタンの支配と罪から開放するでしょう。

創世記3:15
15 そしてわたしは,お前と女との間,またお前の胤と女の胤との間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き,お前は彼のかかとを砕くであろう」。


イエスは神の救いの手立てです。(ルカ 2:30)
イエスの名の意味は「エホバは救い」です。
イエスはエホバの救いの手立てとしてエホバ神により遣わされました。
彼は、自らを「神の子」と呼びました。
彼は、人類を祝福するアブラハムの主要な胤です。

創世記 22:18
18 そして,あなたの胤によって地のすべての国の民は必ず自らを祝福するであろう。あなたがわたしの声に聴き従ったからである』」。


ガラテア 3:16
16 さて,その約束はアブラハムとその胤に語られました。それが大勢いる場合のように,「また[多くの]胤に」とではなく,一人の場合のように,「またあなたの胤に」と述べてあり,それはキリストのことなのです。

彼は、多くの人に命を与えるために天から下ったパンと言われています。

ヨハネ 6:51
51 わたしは天から下って来た生きたパンです。だれでもこのパンを食べるなら,その人は永久に生きます。そして,本当のことですが,わたしが与えるパンとは,世の命のためのわたしの肉なのです」。


罪なくして死に至ったイエスの命は、罪を犯す前の完全なアダムと同等の価値があり、世の命ために犠牲とされました。

アダムは、神への従順を保てずに人間の命の価値を低めました。
では、アダムの不従順によって低められた命の価値(完全な人間としての失われた神の像、能力、特性など)を、どうすれば回復できるでしょうか。
それは、他の完全な人間がそれを高める以外にありません。
試練の中での犠牲の死に至るまでの罪のないイエスの生き方は、アダムによって低められた人間の価値を高め、エホバ神の義と憐れみを立証しました。

その目的で、エホバ神はご自分の長男を地上に使わされました。
地上でその神の子はイエスと呼ばれ天からのパンとして期待されていた人類を救出する仕事を成し遂げられました。それは試練の中での犠牲の死を意味しました。

マタイ 17:22-23
22 彼らがガリラヤに集まっていた時のことであったが,イエスは彼らにこう言われた。「人の子は裏切られて人々の手に渡されるように定められています。23 そして人々は彼を殺し,三日目に彼はよみがえらされるでしょう」。このため,彼らは非常に悲しんだ。



イエスは、彼の完全な命を犠牲にする必要がありました。
彼は、アダムのような失格者としての死ではなく罪のない死を遂げる必要がありました。
そうして初めて失格者アダムがもたらした罪と死の影響を取り除くことが可能となります。

このようにイエスには、人間としての価値、可能性、能力を神が意図した完全の基準まで高める仕事が与えられました。

そのような訳で、神はイエスに完全な人間としての体を供えられました。
そして彼は、人間として罪のない状態をサタンの敵意の中サタンが押し付ける屈辱的な犠牲の死に至るまで保たれました。

イエスは期待どおりに神のキリスト、または救いの手段としての役割を成し遂げました。
彼は、神に受け入れられる価値ある犠牲を備えました。
失格者としてのアダムの死は無価値なものですが、イエスの死には極めて大きな価値があります。

イエスの罪のない死のおかげで、アダムの子孫である無価値な(永遠の命に値しない)私たちの救いの希望が現実のもの(保証されたもの)となりました。

ヘブライ 10:5, 10
5 ゆえに,世に来る時,彼はこう言います。「『犠牲や捧げ物をあなたは望まず,わたしのために体を備えてくださった
10 ここに述べた「ご意志」のもとに,わたしたちは,イエス・キリストの体がただ一度かぎりささげられたことによって,神聖なものとされているのです。


ヘブライ 2:14-15
14 そこで,「幼子たち」が血と肉を持つ者なので,彼も同様にその同じものにあずかりました。それは,自分の死によって,死をもたらす手だてを持つ者,すなわち悪魔を無に帰せしめるためでした。15 またそれは,死に対する恐れのために生涯奴隷の状態に服していた者すべてを解放するためでした。


ペテロ第一 2:22-24
22 彼は罪を犯さず,またその口に欺きは見いだされませんでした。23 彼は,ののしられても,ののしり返したりしませんでした。苦しみを受けても,脅かしたりせず,むしろ,義にそって裁く方に終始ご自分をゆだねました。24 杭の上でわたしたちの罪をご自身の体に負い,わたしたちが罪を断ち,義に対して生きるようにしてくださったのです。そして,「彼の打ち傷によってあなた方はいやされました」。


ローマ 5:18-19
18 こうして,一つの罪過を通してあらゆる人に及んだ結果が有罪宣告であったのと同じように,正しさを立証する一つの行為を通してあらゆる人に及ぶ結果もまた,命のために彼らを義と宣することなのです。19 一人の人の不従順を通して多くの者が罪人とされたのと同じように,一人[の方]の従順を通して多くの者が義とされるのです。


イエスが完全な人間として罪のない状態を死に至るまで、(つまり生きている間中)保てた事実は、わたしたちもまた完全であればそうすることができることの立証といえます。

エホバ神は罪を犯すことができません。
彼は自らを決して堕落させません。
彼は自らを否むことはありません。
彼は真理の神であり、偽ることができません。

わたしたちはその神の像に従って造られました。
ですから、わたしたちもまた、そのような神の像を反映できます。

イエスの犠牲の死の意義を理解しそれに信仰を働かせ、神のようになることを望む全ての人に神はアダムの失った命の価値を回復なさいます。

それは、永遠の命を意味しており、ご自分の被造物に対するエホバ神の全幅の信頼の表れです。
神は、正しく歩む者に良いものを何一つ差し控えられません。
それは、またサタンの主張の偽りを証明しています。
サタンは、神が被造物から良いものを差し控えている印象をイブに与えました。
しかし、その主張は真実ではありませんでした。

詩篇 84:11
11 神エホバは太陽,また,盾であり,
恵みと栄光をお与えになるからです。
エホバは,とがなく歩む者に良いものを何も差し控えられません

創世記 3:1
1 さて,エホバ神が造られた野のすべての野獣のうち蛇が最も用心深かった。それで[蛇]が女にこう言いはじめた。「あなた方は園のすべての木からは食べてはならない,と神が言われたのは本当ですか」。

サタンの主張に反して神はご自分の被造物への全幅の信頼を表明なさっています。
神は人の中の最も低い者に最高の地位を与えられました。

イエスは侮辱を伴う苦しみの死に至るまで低められ、人の中で最も低い者となられました。
とはいえ彼は自らの神の像を失うことはありませんでした。
その結果、最高の地位に高められました。
神の公正さ、寛大さ、被造物への信頼に対するサタンの疑いは根拠がありません。

ダニエル 4:17
17 この事は見張りの者たちの定めにより,その要請は聖なる者たちのことば[による]。これは,至高者が人間の王国の支配者であり,ご自分の望む者にそれを与え,人のうち最も立場の低い者をさえその上に立てるということを,生ける者が知るためである」。


フィリピ 2:8-9
8 それだけでなく,人の姿でいた時,彼は自分を低くして,死,それも苦しみの杭の上での死に至るまで従順になりました。9 まさにこのゆえにも,神は彼をさらに上の地位に高め,[他の]あらゆる名に勝る名を進んでお与えになったのです。


イエスの生き方、犠牲の死は、神の真実性、公正、憐れみ、および神の家族の信頼性、可能性を最高度に高めました。それらは、サタンとアダムの罪によって低められていたものです。

そのようなわけで、キリストの犠牲の死は記念に値します。
それはキリスト教の唯一の記念式です。


今年(2014年)の大半のJWの記念式は4月14日(月曜日)に計画されています。

ニサンの14日の見分け方
春分の日に直近のエルサレムにおける新月から数えて14日目

エルサレムと日本の時差7h
日本がエルサレムより7h早い

日本とイスラエルにおけるニサンの14日は、今年は4/14(月曜)

時差の違いから日本はエルサレムより7h先に日没になります。

たとえば、
今年のニサンの14日の日没は、
日本では、4/14日 の19時とすると、
その時は、エルサレムでは、4/14日の12時でまだ昼間となります。

ですから、エルサレムにおけるニサンの14日(日没から始まる)、つまりエルサレムにおける4/14日の19時にこだわるなら、日本では、7h後の4/15日の午前2時以降に記念式を始める必要があります。


では、そうする必要があるでしょうか。

記念式は、律法契約における過ぎ越しの祭りにより予表されていたとはいえ、律法契約の規定に従って守るものとして存在していません。そのような解釈の根拠を聖書は提供していません。

聖書に書かれていないことは、個々の人々の解釈と判断に任されていますので、各々が自分で「いつ」、「どれほど頻繁に」行うかを決めれば良い事になります。

また、実体であるキリストの犠牲により律法契約は成就して、その祭りや日付に関する詳細な規定や要求と共に取り除かれました。


取り除かれたものを、あたかも重大なことでもあるかのように、それに従うことを要求することは、「書かれていること」を踏み越えていることになるでしょう。

コロサイ 2:16-17
16 ですからあなた方は,食べることや飲むことで,また祭りや新月の習わしや安息日に関して,だれからも裁かれるべきではありません。17 それらの事は来たるべきもののであって,その実体はキリストに属しているのです。

エフェソス 2:15
15 この方は自分の肉によって敵意を,すなわち[数々の]定めから成るおきての律法を廃棄されました

ガラテア 4:10-11
10 あなた方は日や月や時節や年を細心に守っています。11 わたしは,自分があなた方に関して労苦したことが無駄になったのではないだろうかと,あなた方のことが心配です。


コリント第一 4:6
6 . . . 「書かれている事柄を越えてはならない」という[定め] . . .
キリストの記念式を「いつ」、どれほどの「頻度」で行うべきかについて聖書は何も書いていません。


しかし、記念式の意義を理解していない、あるいはわきまえない仕方で行うべきでないことは書かれています。

コリント第一 11:27-29
27 そのようなわけで,だれでも,ふさわしくない仕方でパンを食べたり主の杯を飲んだりする人は,主の体と血に関して罪を負うことになります。28 人はまず自分をよく吟味して確かめ,こうして後にパンから取って食べ,また杯から飲みなさい。29 食べまた飲む人は,もしその体をわきまえないなら,自分に対する裁きを食べまた飲むことになるのです。


また、キリストの犠牲の価値に信仰を働かせるバプテスマを受けた全てのクリスチャンは感謝してキリストの体と血を表す表象物に預かるべきことも書かれています。

ヨハネ 6:51, 53-54
51 わたしは天から下って来た生きたパンです。だれでもこのパンを食べるなら,その人は永久に生きます。そして,本当のことですが,わたしが与えるパンとは,世の命のためのわたしの肉なのです」。
53 そこでイエスは彼らに言われた,「きわめて真実にあなた方に言いますが,人の子の肉を食べず,その血を飲まないかぎり,あなた方は自分のうちに命を持てません。54 わたしの肉を食し,わたしの血を飲む者は永遠の命を持ち,わたしはその人を終わりの日に復活させるでしょう。

マタイ 26:26-28
26 彼らが食事を続けていると,イエスはパンを取り,祝とうを述べてからそれを割き,弟子たちに与えて,こう言われた。「取って,食べなさい。これはわたしの体を表わしています」。27 また,杯を取り,感謝をささげてからそれを彼らに与え,こう言われた。「あなた方はみな,それから飲みなさい。28 これはわたしの『契約の血』を表わしており,それは,罪の許しのため,多くの人のために注ぎ出されることになっているのです。


また、キリストの贖いをいつも意識して日々生きるようにとも書かれています。

コリント第一 5:6-8
6 あなた方が誇りにしている事柄は良くありません。あなた方は,少しのパン種が固まり全体を発酵させることを知らないのですか。7 古いパン種を除き去りなさい。あなた方は酵母を持たない者なのですから,それにふさわしく新しい固まりとなるためです。実際,わたしたちの過ぎ越しであるキリストは犠牲にされたのです。8 ですから,古いパン種や悪と邪悪のパン種を用いず,誠実さと真実さの無酵母パンを用いて祭りを行なおうではありませんか。


上記の神のことばに導かれて各クリスチャンはどのようにキリストの死を記念するか自分で決めることができます。

編集者 sk (2014年03月25日 06:25:45)

オフライン

#2 2014年03月25日 23:05:57

もんもん
メンバー

Re: 主の晩餐

skさん

よい考察をありがとうございます。
僕も今は同じように考えていて、記念を特別の日に行うかどうかを、他の人が裁くべきことではないと思います。
キリストの死を思い出すという役割が果たせていれば、方法はそれほど大事だとは思いません。

オフライン

#3 2014年04月14日 22:42:34

sk
メンバー

Re: 主の晩餐

こんばんは、


先ほど、友人たち総勢7人で主の記念式を済ませて家に戻りました。
もちろん全員がキリストの犠牲の表象物に預かりました。
その中の2人は、エホバの証人の兄弟、姉妹でした。

ものみの塔の教えは間違っています。
キリストの犠牲は全人類のためのものです。
それに預かることを躊躇させる教えは、本当に神からのものでしょうか。


ヨハネ 6:51
51 わたしは天から下って来た生きたパンです。だれでもこのパンを食べるなら,その人は永久に生きます。そして,本当のことですが,わたしが与えるパンとは,世の命のためのわたしの肉なのです」。


聖書のどこにも、キリストの犠牲に預からずに、「見守るもの」として記念式を行うことは記されていません。

ものみの塔の勝手な教えによってキリストの犠牲に対するふさわしい認識を奪われないようにしてください。

編集者 sk (2014年04月14日 22:43:09)

オフライン

#4 2014年04月15日 13:30:59

ダメ人間
ゲストユーザー

Re: 主の晩餐

今年の記念式の話はこんな感じでした

・例年前半で扱う、記念式を祝う日付(今夜4/14(月)がニサン14日である)の言及がなかった
→ 今年はおかしい事を自覚してるんでしょうね

・表象物に与らない予防線が随所に張られ、多く時間配分された
→ 天的な希望を抱く人の自覚に関する内容がなかった
   イザヤ書各所から楽園での祝福を多数挙げ「これら喜びを感じるなら地的な級だ」
   何度も「この会場にいる人は地的希望を抱く人ばかり」と言及

聞いてはいましたが、例年と結構異なる筋書きだった模様です。
何としても表象物に与る人を減らしたい意図に満ちた内容に感じました。
でも周囲では、内容が変わったとかそういう感想は会場では聞かれず、
今後、個人的な会話の中で聞かれるか注目してみたいと思います。

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