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トピックレビュー(最新表示)
- tetu
- 2013年05月06日 21:08:01
書き間違えました。上記の
そこには、以下は聖書には関係ない血縁優先本能の
ことです。すみません。
- tetu
- 2013年05月06日 21:03:23
>ところが人間(および他の社会性動物)は血縁を優先して他を犠牲に
する感覚を本能的にもっています。これは楽園仕様の公正とはいえず
旧訳聖書では血縁を優先にしたとりきめがかなりあります。
新訳でそこからの離脱がありますが、パウロ書簡には
まだ血縁への拘りが残っています。
そこには公正よりもっと根源的な生存本能、種の保存本能が関係しており
神が生物に与えた至極当然のものだと認識します。
よこやり失礼しました。
別の機会にじっくり行きましょう。
- tetu
- 2013年05月06日 20:39:29
私は知性なくして万物は存在し得ない、関節一つもできないと
思っています。聖書から離れた進化論の展開も待望しております。
- もんもん
- 2013年05月06日 18:18:22
エホバの証人研究さん、お返事ありがとうございます。考え方のスタンスがよく理解できました。
> 進化論についてはこのサイト内ではあえて書いていませんが
> そのうちエホバの証人の概念を念頭に置いて別のサイトで
> 書いていこうかなと思っています。
楽しみにしています。僕は進化論については、疑問がたくさんあるので、そのときにまたいろいろ議論させてください。
- カレブ
- 2013年05月06日 11:17:39
もんもんさん
>なぜ人は公正に関心があるか
とてもよく考える点です。
公正を求める気質は霊長類のような社会性動物の中には
ある程度見られるものです。
社会性と公正の感覚は連動して進化してきたと考えられています。
キリスト教の考えでは神が公正であるので,その像につくられた
人間も公正の感覚があるというものですよね。
クリスチャン的な考え方に親しんでいると
「弱肉強食」という言葉に惑わされると思います。
進化論は弱肉強食という考えを中心にしているのではなくて
「自然選択」という考えが土台になっています。
社会性が有利になる場面では社会性に適した特性が残る
ようになることが予想されます。
進化の考えでも 聖書の考えでも どちらでも説明がついてしまうことなのですが,
一つだけ聖書よりも進化に軍配があがる点をお伝えします。
聖書が指摘するような仕方で公正が人間に組み込まれている場合,
「楽園向け」の公正になっているはずです。
つまり分け隔てない公正です。
ところが人間(および他の社会性動物)は血縁を優先して他を犠牲に
する感覚を本能的にもっています。これは楽園仕様の公正とはいえず
むしろ進化の必然の帰結と一致しています。
- もんもん
- 2013年05月06日 09:16:45
エホバの証人研究さん、お返事ありがとうございます。もうひとつだけ質問させてください。もうすこし根本的な部分として、なぜ人は公正に関心があるかという哲学的な問題について、考えたことはありますでしょうか。神を信じないとおっしゃられているので、説明は進化論だと思うのですが、自然選択の進化の結果として、獲得したという感じでイメージされていますか?
- tetu
- 2013年05月06日 06:25:37
僭越ながら、以下が私の現在の心境と似ていますので
ご紹介します。
(神ないし祖先への祈りの言葉)
これはカナダの五大湖のあた りに暮らしていたオジブア族の由来です。
おお、グレートスピリットよ、私は嵐の中にあなたの声を聞きま す。
あなたの息吹は、万物に生命を授けています。
どうか私の言葉を、お聞き届けください。
あなたが生んだたくさんの子供の一人として、
私はあなたに心を向けているのです。
私はこんなに弱く、そして小さい。
私にはあなたの知恵と力が必要です。
どうか私が、美しいものの中を歩んでいけますように。
赤と緋に燃える夕陽の光を、いつも目にすることができますように。
あなたが創り出したものを、私の手がていねいに扱うことができますように。
いつもあなたの声を聞き取っていられるよう、
私の耳を研ぎ澄ませていてください。
あなたが、私たち人間に教え諭したことのすべてと、
一枚一枚の木の葉や一つ一つの岩に隠していった教えのすべてを、
私が間違いなく理解できるよう、私を賢くしてください。
私に知恵と力をお授けください。
仲間たちに秀でるためではなく、人間にとっての最大の敵を
わが手で打ち倒すために。
汚れない手とまっすぐな眼差しをもって、
あなたの前に立つことができますように。
そのときこそ、私の命が夕焼けのように地上より消え去っていくときにも、
わが魂はあなたのもとに堂々と立ち返ってゆけるでしょう
- カレブ
- 2013年05月06日 02:00:00
>弱い立場の人を保護する観点や、真実を重視するという観点は、聖書由来ではないんですよね? どこで学んだ価値観でしょうか? 憲法ですか?
日本で人権擁護活動をする人の多くは無神論者だと思います。
人権を侵害する人は宗教者と無神論者がいます。
事実を重視する観点は宗教者にも無神論者で差があるかはよくわかりません。
わたしが記事を書くときに事実を重視するのは,エホバの証人が基本的に
事実を重視する傾向があると思っているからでもあります。
動機は エホバの証人が伝道する動機と同じです。
(だと思っています)
- tetu
- 2013年05月06日 01:32:54
創造神は信じるが,聖書のような書物で啓示を与えている神ではないということですね?
大体そうです。ただ聖典には神からの戒めが間接的には
あると思います。解釈が大切でしょう。
- もんもん
- 2013年05月06日 01:30:15
エホバの証人研究さん、返信ありがとうございました。「人権を重視する」「事実関係に正しく基づく」という方針があるのですね。エホバの証人研究さんの場合は、弱い立場の人を保護する観点や、真実を重視するという観点は、聖書由来ではないんですよね? どこで学んだ価値観でしょうか? 憲法ですか?
平均的な日本人は、あんまりそういうことを考えない気もします。特に、エホバの証人研究さんの場合は、自分の利益と直結しないのに、こんなにたくさんの情報を供給してくれているわけですので、不思議です。動機は愛の気持ちなのでしょうか?
- tetu
- 2013年05月06日 01:26:32
それと、私は評価や批判がいけないとは思いません。
過激な表現は自戒したいですが
人は他の宗教的主観を常に心でなんらかの評価をしており、
時には素直な疑問や反発を封じる権威との凌ぎ合いで自由を
勝ち取ってきた経緯があります。
日本人に多い、議論が苦手ではこれからの世界は難しいでしょう。
- カレブ
- 2013年05月06日 01:21:43
tetuさん
>厳密な一神教には疑問がありますが、一応創造神を
>前提としています。
失礼しました。
「神仏は信じる」というくだりでてっきり日本の仏教を想像してしまいました。
創造神は信じるが,聖書のような書物で啓示を与えている神ではないということですね?
- tetu
- 2013年05月06日 01:00:48
>わたしは神仏も信じていません。「神仏を信じる」という概念自体も理解できません。
上記の「概念自体も理解できません」というのは
日本古来の宗教の神のことです。
一神教の”創造者”の概念と比較して述べたつもりでした。
上記は私の神仏を信じる、へのご返答ですが
私は日本古来の宗教の神には言及しておりませんし、
古神道などはあまり存じておりません。
厳密な一神教には疑問がありますが、一応創造神を
前提としています。
どうしてそのように思われたか不思議です。
- カレブ
- 2013年05月05日 23:57:24
もんもんさん こんばんは
出来るだけわかりやすい説明にチャレンジしたいと思います。
>エホバに限らず 神様 仏様 にあたたかい気持ちがわくというのは自然なことだと思います。
この発言の趣旨は
神様仏様に対する気持ちはほとんどの場合は人間の頭の中にある理想像から
湧き上がっているものなので,それが優しい父親像のようなものになるのは
自然なことであるという事でした。
エホバの証人の場合も「神は優しい父親のような存在」という前提があり
聖書の中で実際どのような描写があろうと,その前提に基づいて推論され解釈されて
ゆきます。
>わたしは神仏も信じていません。「神仏を信じる」という概念自体も理解できません。
上記の「概念自体も理解できません」というのは
日本古来の宗教の神のことです。
一神教の”創造者”の概念と比較して述べたつもりでした。
わたしは聖書の神の絶対的な存在を信じているわけではありませんが
”創造者を信じる”という概念は理解しやすいと思っています。
もんもんさんが指摘されている通り,わたしのものみの塔に対する批判は
人権という価値観を重視しています。
必ずしも「人権侵害」は直接的なものとは限りません。
iris さんが以前にどこかでこんな指摘をされていた記憶があります。
「エホバの証人は後から間違いに気がついた時の代償が大きすぎる」
(すいません記憶で書いてます)
わたしはこれに全く同じ感想をもっています。
そして,ものみの塔が信仰におけるインフォームド・コンセントが無視
されている点を問題視しています。
その結果,10年20年30年してから目覚める信者が大勢出てきている
わけです。
>いったい何をもとに、批判を行っておられますか。
信仰に関わりなく「事実」を基に批判するよう心がけています。
サイトを作成したときにスタンスを走り書きにしたものが残っていますので
それを転載します。
http://ameblo.jp/jwstudy/archive1-201202.html
以前からエホバの証人に関して真面目に考えるためのサイトを作ろうと思っていた。しかし忙しさもあって、なかなか手を付けることができなかった。
そんなとき、サイトを立ち上げる動機付けを与えたものがあった。それが ものみの塔 2011年10月と11月に連載された「古代エルサレムが滅ぼされたのはいつか」という記事である。
人には信じたいことを信じる権利があると言われれば、それに異議を唱えるつもりはない。しかし真実を知りたいと思っている人々を巧みに操り、間違った結論に導くことは許されない。
記事はこのように述べる:「霊感のもとに記された聖書からの証拠が西暦前607年をはっきり示している」「一般の証拠は信頼できない、これこれの専門家もこう言ってる・・・」。
ものみの塔は1981年の「王国がきますように」の出版以来、587年vs607年の問題には触れなかった。エホバの証人の統治体は、自分たちにあまりにも不利になるこの問題は無視するのが得策だと考えていた。
少なくとも多くのエホバの証人に対しては沈黙するのが効果的であったことは確かだ。
協会の主張をまんまと信じ込まされているエホバの証人を見ると、心を動かされる。どうにかしなくてはと。これが「エホバの証人研究」のサイトに記事を投稿するきっかけになる。
こんな感じですが,納得していただけましたか?
- iris
- 2013年05月05日 23:43:16
エホバの証人研究さんのスタンスが、僕はまだよくわかっていません。
>エホバに限らず 神様 仏様 にあたたかい気持ちがわくというのは自然なことだと思います。
>わたしは神仏も信じていません。「神仏を信じる」という概念自体も理解できません。
この二つの概念は、エホバの証人研究さんの中で、両立しているのですか。
私もエホバの証人研究さんのスタンスは不思議だなぁと思っています。
エホバの証人研究さんに何の信仰もなくても構いませんが、何らかの信仰を持っている人の気持ちを尊重するつもりがあるのか疑問です。
エホバの証人についても、カトリックについても仏教についても、敬意をもって理解する努力をしたうえで発言しているのかどうか、判断しかねます。