ログインしていません。

#1 2013年04月21日 04:11:29

ima
ゲストユーザー

エホバの証人にうちこんだ生活のその後

集会に行かなくなって10年以上がたちました。
行かなくなってから、やるせないニュースをよく聞くので、
皆さんの意見を伺いたいと思い投稿しました。

当時、長老として活躍していた方々が、今ではほとんどいなくなってしまったそうです。
・長老をおりて、集会には来ているがほとんど目立たず、休むこともある。
・集会自体、全く来なくなってしまった。パートの仕事を続けていたので生活が苦しい。

それどころか、
・心の病で実家に帰り、引きこもりになってしまった。
・アパートから出られなくなり、仕方なくエホバの証人ではない親がアパートに迎えに来て、実家に連れ帰った。

という方もいると…。

こういう話しを聞くと、あの方々の頑張り、時間、人生…、エホバはどう見ているのかと考えてしまいます。
幸せになるために宗教を持ったのではないのですか。
今の状況だけを「この世」の見方からみると「不幸」に見えますが、
神の見方から見れば、幸せな人生なのでしょうか。

どう考えればいいのか混乱してしまいます。

私は、今はエホバの証人の組織から離れていますが、
証人たちは善良で真面目な人たちだという印象は変わっていません。
人生を捧げて打ち込んでいる姿を見てきたので、
「幸せ」であって欲しいと思います…。

皆さんはどう思われますか。
エホバはこうした人々のことをどう考えているのでしょうか。

#2 2013年04月21日 15:40:27

カレブ
Administrator

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

ima さん こんにちは
とても考えさせられる投稿をありがとうございます。
ima さんが『やるせないニュース』と言われる気持ちがとてもよくわかります。

証人たちが善良で真面目な人たちであることを知っているゆえに
ima さんのやるせない思いが強くなると思います。

あの頃 活躍していた長老たちは 今活躍していた長老たちと
何も変わらないと思います。 それはつまり10年後には同じような状況が
繰り返されるであろうことを意味しています。

ima さんの やるせない気持ちを消化する方法は幾つかあると思います。

わたしは そもそも そこに神は何も関与していないと思っています。
この考えでいくなら,過去の人生は 旅の道筋の中で巡り合った
人々,風景,道で構成されているにすぎないことになります。

その人は道の分岐点で立ち止まりました。そして当初予定していた
のとは違う道を進むことに決めました。

それまでの旅路がすべて無駄であったとは限りません。
挫折感があるとは思います,しかし挫折をバネにして,より良い人生に
切り替えていった人の経験は世の中にたくさんあると思います。

エホバの証人にエホバが関与しているという前提を持たない回答なので
期待されるような答えではないかもしれませんが,
お気持ちの部分はよく理解できるので,答えさせていただきました。

オフライン

#3 2013年04月22日 01:38:52

ima
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

エホバの証人研究さま、ありがとうございます。

神は何も関与していない、そうかもしれませんね。
結局は、全てのことは宗教のせいでも神のせいでもなく「自分」の選択の結果である、ということなんですよね。
宗教に入ったとはいえ、自分の人生は自分の責任の中にあるわけですよね・・・


しかし、あの頃の長老たちは今活躍中の長老たちと変わらない・・・
そうだとしたら、それは、とても悲しいことですね。

疑問なのですが、今のエホバの証人は過去の人たちがそういう状況で去っていったのを近くで見ているにもかかわらず、
なぜあえて残り、「10年後の繰り返し」を作ってしまうのでしょうか。

一般の企業でも、自殺者の多い企業や鬱病発生率の高い企業は、入職をためらいますよね。
だとすれば、この組織にこれほど辛い事実が多いのを見ていれば、自然と「そこから出る」という選択肢が出てくるように感じるのですが。

「信じる信じない」の問題でしょうから、そうした信仰を持たない者に理解できないのは当然かもしれませんが・・・
誰が何を信じようと否定するつもりはないのですが、長年近くで見ていて、純粋に「不思議だ」と感じてしまいます。

#4 2013年04月23日 18:28:50

カレブ
Administrator

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

>疑問なのですが、今のエホバの証人は過去の人たちがそういう状況で去っていったのを近くで見ているにもかかわらず、
>なぜあえて残り、「10年後の繰り返し」を作ってしまうのでしょうか。

かつて活躍していた長老たちも突然離れたのではないのだと思います。
徐々に疑問が多くなり,何かのきっかけで限度MAXを超えるのだと思います。
今去っていない人は 否定と肯定の バランスでまだ肯定のほうが強いのかもしれないですし
あるいは否定のほうが強くても,家族関係などがあるために去ることができない
ということもあると思います。

>一般の企業でも、自殺者の多い企業や鬱病発生率の高い企業は、入職をためらいますよね。

そうですね。でも宗教の場合はわりと入ってしばらくしないとわからない部分ってありますよね。
会社も社員の入れ替わりの激しい会社とかもリクルートのときは,すごく魅力的な会社に
見える時もあると思います。 原理は変わらないと思います。

宗教を離れるというのはすごく勇気がいることだと思います。
そしてJWの場合は特に離れた人から率直な意見を聞くことができない
仕組みになっています。 恐らくそれも関係していますね。

オフライン

#5 2013年04月23日 22:36:48

さ迷える豚
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

ima様

私は今は関わりをもっていませんが2年ほど研究をしました。また大学の後輩が神権家族でした。彼は人間関係のトラブルから精神をやみ、大学をやめ、今はスーパーのパートをしています。

エホバの証人が自称しているのとは全く裏腹の形でエホバは心を砕かれていると思います。

これはエホバの証人の読ませ方から離れ、聖書自らが語ること聞き取ろうとすれば気がつくと思います。

というのはエホバの証人とは度々聖書に登場し、エホバ御自ら滅ぼすと約束しているする偽預言者そのものだからです。

1975年など何度となくハルマゲドンを預言し、外しています。これは申命記18章20~22節にはっきりと偽預言者の印として書かれています。

20『しかし、話すようにとわたしが命じたのではない言葉をあえてわたしの名において話し、あるいは他の神々の名において話す預言者、その預言者は死ななければならない。
21 そして、あなたが心の中で「エホバが話されたのではない言葉をどのようにして知るのか」と言う場合であるが、
22 もし預言者がエホバの名において話しても、その言葉が実現せず、そのとおりにならなければ、それはエホバが話されなかった言葉である。その預言者はせん越にそれを話したのである。あなたはその者に恐れ驚いてはならない
(新世界訳の版が古いかもしれません)

エホバの証人は自らを聖書的な存在だと主張し、
聖書を引用しようとするでしょうがこれは悪魔の活用する戦略でもあります。

イエスはヨハネからパプテスマを受けたあと、荒野で悪魔が誘惑に来ました。この時サタンはエホバの言葉を使ってイエスを試みました(マタイ4章、マルコ1章、ルカ4章)。
サタンはエホバの御言葉を好き勝手に切り貼りしてねじ曲げてしまいます。あなたの聖書もカラフルに線を引いているところとほとんど何も引いていないところに別れるのではないでしょうか。そこに罠があります。

カトリックや正教、またプロテスタントでも福音主義といわれる人々は一言一句無駄にせず、エホバ神のメッセージを読み取ろうとします。


間違った設問から正しい解答が得られないように誤った聖書の理解ではエホバの御旨に沿うことはできません。

カインのことを思い出してください。
彼も弟と同じようにささげ物を用意しましたがエホバは受け入れませんでした。
熱心なエホバの証人はカインに似ています。いかに人生の大半をささげようと、真剣に祈ろうと、エホバの御旨に反するものならば神は受け入れられないのです。

あなたの人間の目に長老やうつになった方々は「善良で真面目」に写ったのは確かでしょう。私の知るエホバの証人も清潔感のある誠実そうな方々でした。

しかしそれは神の目に正しいことをしている保証にはなりませんし、どれだけ善良そうに見えても「嘘をつく証人は裏切る」のです(箴言12章27節新共同訳)。

彼らは自らをファリサイ派や律法学者のように神の真理を独占していると主張しますがイエスはこれを非難しています。

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたちは不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人々も入らせない。
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたちは不幸だ。改宗者を1人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、
改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。(マタイ23章13、15節)

律法学者たちも当時のイスラエル社会で尊敬を集めていました。しかしそれでも神の目に善しとはされなかったのです。

ではエホバはエホバの証人たちを見捨てられたのでしょうか?私はそうは思いません。彼らの手元には新世界訳ですが、聖書があるからです。

彼らの目の前にエホバの言葉があり、そこには救いの約束と偽預言者への警告が載っています。

神エホバの道は常に開かれているのです。もちろんエホバの証人たちにも。

#6 2013年04月24日 08:27:42

iris
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

imaさま、こんにちは。私はカトリック信徒です。
私も、エホバの証人たちは善良で真面目な人たちだと思っています。
(証人の姉妹が定期的に訪問され話をしています)

神さまは、苦しんでいる人々を見て心を痛め、本当の幸せに気づくよう願っておられると思います。
神さまはすべてを益となさる方です。無駄なものは一つもなく、苦しい過去もその人の糧となります。
(神なんかウソでも、このように考えるのが人生にとって有益です)

imaさまはエホバの証人とどのような関わりがあるのかはっきりとはわかりませんが、
深く関わってしまう方は、実態を知らないうちに組織に依存するよう方向付けをされてしまい、
実態に気づいた時にはかなりつらい状況になってしまっていた、ということだと思います。
また、組織は去る人に「落ちこぼれ」のレッテルを貼りますので、残る人がそれを見ても
「私はああはならない(なりたくない)」とますます組織に依存する方に働くのだと思います。
imaさまはその「方向付け」に嵌らなかった方なのかなと思いますが。

エホバの証人たちが使っている新世界訳聖書は、ものみの塔の教えに合わせて意図的に
誤訳してあるところがありますが、大筋では一般的な聖書と同じです。
ただし聖書は2000年前の外国の古典ですので、相応の解説がないと正しい理解はできません。
(1000年前の日本の古典でも解説がないと理解できませんよね)
ものみの塔はこの解説を自分たちの都合の良いように作り上げ、証人たちを惑わせています。

カトリックにはカトリックなりの聖書解釈(原理主義的な解釈はしません)がありますし、
その他の教会にはその教会なりの聖書解釈があるはずです。
興味のある方はいろいろと比較してみると面白いと思います。

#7 2013年04月24日 12:22:47

Tetu
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

エホバの証人を否定しても、聖書に固執するなら聖書にある信仰の純化、ある種の排他性を自分の中に持つことは避けられないでしょう。

#8 2013年04月24日 17:25:30

たけだけ
メンバー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

私は、元2世で生まれてから15年エホバの証人に入っていました。
私もimaさんと同じ考えを持っていて、現役である方、元信者のかたともども幸せであってほしいと考えています。
現役の信者の方では、組織の教えのせいで離婚しながらも信仰を続けている方もいます。
そういう方たちが、辞めてしまったらおそらく心の病にかかったり、喪失感でいっぱいになりで辛くなると思います。
組織の考え方には矛盾が多いので教えて辞めさせた方がいいと悩んで時期がありました。
しかし、自分には辞めた後どのように失われた時間と向き合えばいいかいまだに分からないことが多いので、やはり信じてもらった方がいいじゃないか?というスタンスです。
その考え方で母親と兄にも信仰してもらってます。
現役の方の行動で認めたくないのは懲らしめのむちと子供への集会と奉仕への強制参加ですね。
私はこれらの環境に育ったのが一番人生の中でダメージが大きいですし、トラウマでもあります。
懲らしめのムチはなくなってきたと聞いていますが、やはり子供にとってエホバの証人は生きづらい環境だと思います。

元信者の方は、生きることに苦労している人が多いと思います。
imaさんのお知り合いの長老であった方もおそらくそうだと思うのですが、宗教問題(特にエホバの証人は輸血問題、国歌斉唱禁止等で問題視されている)はなかなか周りの人に話しづらく結局自分の中で抱え込んでしまうのではと思います。
いつか辞めていった人たちと話し合いたいなと思うことがありますが、連絡手段がないので合えずじまいです。
僕にとってエホバの証人を辞めていった人たちは、自分の疑問に正直になり、悩み続けながら組織を離れていった勇気のある人です。

オフライン

#9 2013年04月24日 22:29:13

ima
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

皆さん!ありがとうございます。


エホバの証人研究さま
そうですね。ある宗教を持つ、ある宗教を捨てる、それは私がまだわからない、とても深い行為なのでしょうね・・・。それに命を懸けるわけですから、すぐ理解できるようなものではないですよね。エホバの証人の方々は、身近にいるとても親切な人たちだけれど、こと「理解しよう」とすると、とても遠い存在に感じます。


さ迷える豚さま
>エホバの証人が自称しているのとは全く裏腹の形でエホバは心を砕かれていると思います。
  これはエホバの証人の読ませ方から離れ、聖書自らが語ること聞き取ろうとすれば気がつくと思います。

私もこのご意見に共感します。聖書と、組織の中の規則、ものみの塔に書かれていることとは異なる部分があるように感じますね・・・。
自分の中でも相反する二つの気持ちがあるのです。聖書を読むときに感じるあたたかい気持ち、そして組織に流れている空気に対する嫌悪感です。これを不可分のものとして経験してしまったために、混乱しているのでしょうね。


irisさま
私は母親がエホバの証人であった、というよくあるパターンなんです。しかし母もかなり自己流な考え方で信仰しており、父は「世」を謳歌している人なので、私自身はわりと自由なこども時代でした。ただ、こどものときから集会への出席はしていましたから、少なからず影響は受けているのでしょうね。今になっても、というよりも大人になった今だからこそ、エホバの証人の様々なことが不思議に感じられて、「説明が欲しい」という気持ちでいます。

聖書解釈もさまざまなのですね。是非比較してみたいと思います。
カトリックのirisさまに伺いたいのですが、カトリックでも組織に依存してしまう人はいるのでしょうか?組織を去る者に「落ちこぼれ」のレッテルを貼る雰囲気はあるのでしょうか?エホバの証人はかなりその程度が強いとは思いますが、組織として機能している限り、多少の差はあってもそれは仕方のないことなのか・・・以前より気になっていました。不躾な質問ですが、教えて頂ければありがたいです。


Tetuさま
確かにおっしゃる通りだと思います。どうしてもなじみがあるので聖書やエホバをまず考えてしまいますが、本当は、聖書に固執する必要はないはずですよね。日本独特のふわっとした信仰心も、私にとって魅力的です。


たけだけさま
2世なのですね。私も同じです。
そうですね、信じている間は、幸せですよね。母は「今日信じているけれど、明日信じているかは誰にもわからない。でも、ここまで来たのだから死ぬまで信じていたいと願っている」と言っていました。私も、もし母が信仰をやめると言ったら、喜ぶというよりむしろ寂しく感じるような気がします。「失われた時間とどう向き合えばいいか」・・・難しいですね。でもたとえ間違っていたとしても、それを気付かずに死ねたら、それは本当に幸福なことなのでしょうね。

>僕にとってエホバの証人を辞めていった人たちは、自分の疑問に正直になり、悩み続けながら組織を離れていった勇気のある人です。
私はそういう考えを持っていなかったので、たけだけさんのポジティブな見方は新鮮でした。やめていった人たちは、だんだんに生気がなくなり、小さくなって、消えるようにいなくなってしまったので・・・組織にすり減らされてしまって、何も残らなくなってついに崩れてしまったのかと思っていて・・・。でも確かにたけだけさんの言う通りかもしれませんね。組織の中にいると、自分の疑問に正直になることはなかなか出来ないですし、疑問を持つと同時に模範解答が予測できてしまって、こんな疑問を持ってはいけないと自分で思考をとめてしまいますから・・・。

実は私は、またエホバの証人に聖書を学びたい気持ちがあるんですよ。矛盾していますね。これを洗脳とおっしゃるかもしれませんが・・・。しかし、疑問の全てをぶつけてみたいです。こども時代に自分も悩まされ、そして多くの人の「幸せには見えない姿」(あくまで主観ですが・・・)も見てきたあの正体を知りたい、そして、その一方でエホバに対して感じるこのあたたかい気持ちは一体なんなのか、と知りたいんです。

#10 2013年04月25日 02:52:07

たけだけ
メンバー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

imaさんへ
お返事ありがとうございます。
>実は私は、またエホバの証人に聖書を学びたい気持ちがあるんですよ。矛盾していますね。これを洗脳とおっしゃるかもしれませんが・・・。しかし、疑問の全てをぶつけてみたいです。
ここで、一般のエホバの証人と違うところは「疑問の全てをぶつけてみたいです。」というところだと思います。
疑問を持つのは何も悪いことではありません。
たまに現役のエホバの証人の方のブロガーで、imaさんと同じように疑問を持ちながらエホバの証人として生きている方がいらっしゃいます。
疑問をぶつける方がそのような方でしたら良いのですが、一般の方でしたら長老に相談して、そしてその長老からもう来ないでと言われるかもしれませんので、注意しなければいけませんね。

>多くの人の「幸せには見えない姿」
なんとなくなんですが、わかる気がします。
私は、集会が終ったあとの兄弟姉妹たちの顔が明るすぎるのと、会話がはずんでいるのを見て「幸せには見えない姿」というのを感じていました。
というのも兄弟姉妹と外でばったり会うことがたまにあったんですけど、集会にいた時と比べて顔が信じられないぐらい暗いからです。
なので、会衆の皆さんは本当に言いたいことを隠しながら、あんなに明るく振る舞っているんだなと思っていました。
私自身が本当のことをエホバの証人のみなさんに言えてなかったのでそう見えただけかもしれませんが。

オフライン

#11 2013年04月25日 04:38:45

Tetu
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

サムエル記上 30:2-18

あたたかい気持ち?

#12 2013年04月25日 05:26:39

Tetu
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

殆ど脅迫でしょう?父性愛依存に走らせる。

ヨハネ 3:36
・・・御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

#13 2013年04月25日 19:21:47

カレブ
Administrator

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

エホバに限らず 神様 仏様 にあたたかい気持ちがわくというのは
自然なことだと思います。

亡くなった家族や 伝説の英雄が理想化されるのも同じだと思います。

それは置いておいて

JWの中に見られる「幸せには見えない姿」は現実のものだと思います。
これについて考えるのは心理学の分野にも近いと思いますが
わたしも関心があります。

JWと研究して疑問をぶつけるというのも面白いかもしれないですね。
そのさいはぜひレポートお願いします。

オフライン

#14 2013年04月25日 22:45:27

Tetu
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

親からの酷い扱いで鬱などになった2世の子供数人と話して分かるのは、いくら聖書を読んでもエホバへの温かい感情を持つことは非常に困難だと言うことです。しかし親への何とも切ない感情、それを自傷でしか表現できない気持ちが解りますか?

相応しくない話題でした。終わりにします。

#15 2013年04月25日 23:25:46

Tetu
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

もう一言

箴言20:30
傷つくまでに打てば悪い所は清くなり、むちで打てば心の底までも清まる。

親も必死だったんだよね。理解して凌駕しないといけない分かってるようで、そこがまた哀しいところです。

#16 2013年04月26日 01:28:24

カレブ
Administrator

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

Tetuさん
おっしゃる点よくわかります。
わたしも最近よく考えている点があります。

それは二世の人が比較的”エホバ”に対しては批判的な言葉に拒絶しないのに対して
JW一世の人がエホバ批判や聖書批判には過敏に反応するという点です。

この差がなぜ出るのかを考えてみました。

Tetuさんが言われた「父性愛依存に走らせる」という点が一つの答えかなと
思います。JWになる人は理想家で完全で公正で愛のある神というものに
魅力を感じてJWになるケースが多いと思います。
聖書の中で描写されている神が現実的にはそのような神ではないとしても
「神は愛です」と書かれている個所があれば他の個所をそれに合わせた
仕方で再解釈されます。

この点では二世の方のほうが”現実”を見ている人が多いように思います。

現実を見ている子供が,現実を見ていない親との関係で苦しむ状況はよくわかります。
恐らく同じようなことで苦しんでる人がたくさんいると思います。
どこにぶつけてよいかわからない状況ですよね。
自分ももう少し勉強して何か書きたいと思います。

オフライン

#17 2013年04月26日 07:20:20

iris
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

imaさま

お返事ありがとうございます。imaさまは2世でいらしたのですね。
エホバの証人の世界に完全に囲い込まれることなく成長されたのは幸いでしたね。

カトリック信徒の中にも教会に依存しようとする人はいます。
けれども教会の方は信徒に自立を求めますので、依存しようとする信徒はいつの間にか
離れてしまうことが多い印象です。
日本のカトリック教会のスタンスとしては「来るものは拒まず、去るものは追わず」といったところですね。
カトリックの洗礼を受けた人はすべてカトリック信徒とみなされ、教会に来ているかどうかは
チェックされていませんので、「組織を去るもの」という発想がないです。

私も長い間エホバの証人の聖書解釈に対する疑問を抱えていましたので、姉妹に訪問して
いただくようになってからいろいろと疑問をぶつけてみました。真面目で、エホバの証人としては
よく勉強されている姉妹でしたが、ものみの塔の解釈の通りにしか聖書を読んでいないので、
予想される(エホバの証人的な)答えしか返ってきませんでした。
私が、姉妹の答えに対して次々に聖句を並べて反論するので、「irisさんはよく知っているから
答えるのが大変」と何度か別の姉妹を連れてきてくださったことがあるのですが、どの姉妹も
型通りの(答えになっていない)お答えでした。
いつもの姉妹は2世で、いったんエホバの証人を離れた後、やっぱり真理だと思って活動を
再開したそうで、ガチガチの証人ではなくお話するのが楽しいです。そんな姉妹でも、聖書は
協会の誘導通りにしか読めないのだなぁという印象を持ちました。

聖書自体を勉強されるのなら、エホバの証人からさらに学ぶのではなく、別の方法を探して
エホバの証人の解釈と比較された方がすっきりすると思います。

#18 2013年04月26日 07:24:45

iris
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

エホバの証人研究さんのコメントに関して、

ものみの塔は「神は愛です」ということを強調しているように見えますが、
その「愛」は聖書の説く「愛」ではないところが問題だと思います。
オウム真理教で、「ポア」という言葉を誤用し、殺されるのが幸せという教理を
正当化していたのに似ています。

#19 2013年04月26日 19:03:15

iris
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

imaさん
エホバ神に温かい気持ちを感じるのは、imaさんが(もしかしたらお母様も)組織の誘導に
完全に嵌ることなく聖書を読んでおられるからかもしれません。
本来の聖書の教えと、エホバの証人流の解釈とは雰囲気がまったく違います。
さらに会衆によっても雰囲気はかなり違うのではないでしょうか。


【1世と2世の違いについて】

1世の方は、多少なりとも自分から求めてエホバの証人になったという側面がありますので、
本人が幸せを感じているのならそれでよいのかもしれません。
自分がようやく掴んだ真理ですから、否定されると過敏に反応するのも無理はありませんし、
自ら人生を賭けてきたという意識があるので、やめたくてもやめられない気持ちになるでしょう。
ですから私も、今ではあえて反対しようとは思いません。たけだけさんと同じ考えです。

これに対し、幼いころからエホバの証人になるよう育てられた2世の方は、自分の意思に反して、
エホバの証人の世界でしか通用しない常識を押し付けられています。
さらに、発達心理学を無視した協会の方針によって、社会的に不適応になるよう育てられています。

幼い子どもは母親に完全に依存しています。母親が子どもの要求を適切に読み取り、応えてやることで
子どもは基本的信頼感を身につけ、それを基礎として成長後は社会的に自立していくことができます。
幼いころに適切な接し方をしてもらえなかった子どもは、いつまでたっても乳幼児期を卒業できません。
身体が大人になり、社会的にも大人と見なされるようになっても、Tetuさんのおっしゃるような
親への切ない感情を抱き続けることになります。親が反省して、大人になった子どもを乳幼児期から
育てなおすような接し方をしてくれればよいですが、親がエホバの証人である限りは無理な話でしょう。
乳幼児期を卒業していない方が社会に適応するのは本当に大変です。

親(または親代わり)の愛を知らない子どもが、神(エホバ)の愛を感じられるはずがありません。
熱心なエホバの証人に育てられた2世の方は、エホバ神の愛を(感覚的に)知らないので、
エホバ神への批判には過敏性がないのでしょう。
ただしエホバの証人への批判には、親を否定されたように感じて、過敏に反応する可能性があります。

不適切な育児と輸血拒否(両方とも事実上の虐待)が強制されている点で、ものみの塔は
子どもの福祉の観点からは大問題を抱えている組織です。

#20 2013年04月26日 20:14:48

伝書鳩
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

エホバの証人教師      と動画検索して出てくる奉仕者との会話が興味深いです スレ違いだったらごめんなさい

#21 2013年04月27日 00:26:42

さ迷える豚
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

>>Imaさま
私が常々JWの方々に思うのはエホバの証人たちが見捨てることがあっても、エホバは決して見捨てない、ということです。
わたしは今福音主義(七日間の天地創造など、聖書を文字通りに信じる立場)のプロテスタント教会に通っていますが、もし彼らが、のみならず日本の全教会が私を見捨てることがあっても、キリストは私を見捨てないと信じております(この信仰はアーサー・ホーランドという大阪の不良牧師から受け取りました)。

>>エホバの証人研究さま
一世と二世の温度差ですが精神科医のなだいなだが書いた『神、この人間的なもの』岩波新書806という本にヒントになりそうな部分があったので紹介します。心理学主義のきらいはありますが、わかりやすい対話篇となっております。私は古本屋で100円で手に入れました。

Imaさんの問いかけからずれてきているような気もしますので読み飛ばしてもらっても構いません。

著者はまず信仰を4つのケースに場合分けします。
1慣習(たとえば先祖代々仏教徒だから仏教、ムスリムだからムスリム)
2家族の入信に合わせて入信(たとえば夫が、親が、入信するから自分も入信する)
3自ら求めて入信(たとえば死病にかかり死後のことを考えるようになった)
4折伏(相手の誤りを打破することによって真実の教えに消えさせる教化法)による入信

4折伏に関する引用
T「いわば神経症予備軍だ。そうした状態の人間が、折伏を受けやすい」
B「なるほど。神経症の予備軍か」
T「集団的な折伏の場合だが、人工的に神経症に陥れているんだな。人間を精神的に崖っぷちに立たせる。死というものを、おれは結核になって直視した。そして神経症になった。折伏する者たちは、今のところなんでもない人間を不安に落としてゆさぶって、無理にそれを見つめさせる。そして神経症のような状態におちいらせる」
B「そこで、しかし信仰すれば、その神経症状態から解放されると、勧誘するわけだ」
T「実際に解放されるのさ」
B「それはわかった。でも、新興宗教は折伏に成功して数を増やしていくのに、きちんと教義で理論武装した古い宗教が大きくならないのはなぜだ」
T「簡単に言えば、古い宗派は折伏に熱心ではない。新しい宗派ほど熱心だ。つまり折伏のエネルギーが大きいんだな。核エネルギーの臨界のようなものかな。新しい信者の割合が大きいと連鎖反応でエネルギーが大きくなる。それに比べると、古い宗派は折伏のエネルギーを持った人間の割合が低い。それで臨界に達しないんだな」
B「なるほど。エネルギーが連鎖的に増えるのは分かった。でも、新しい信者にエネルギーが大きいのはどうしてだろう」
T「入信したばかりの新しい信者は、折伏したがる。不安だからだよ。わかった、これだ、といったんは思うのだが、自信を持てない。そこで誰かを折伏して自信をつけたいと思う。論理よりも熱心さでね。そして、たまたま折伏に成功し、《信仰に入ってこころが落ち着いた。今は幸せな気分だ》、といってもらうと、自分の考えに確信が持てるようになる。そのためにますます熱心に折伏する」
B「それだったら、教義にはあまり詳しくないものたちが折伏することになる」
T「まさにその通りだよ。だから、末端の折伏では、教義などあまり重要ではない。信じなければ不孝になる、という点が強調され、また、自分の場合、病気が治った、生活が安定した、幸せになった、という点が強調されることになる」
B「哲学的な宗教の考察など全然ない」
引用終わり


宗教一般についての話で、JWの場合は時間をかけるので折伏というよりは摂受といったほうがよいかもしれませんが、折伏も摂受も教化するという意味では同じです。この分類と説明に従うならば一世(4のパターン)は二世(1,2のパターン)が信仰を放棄した場合に自分の心の平安が保てなくなるために二世に信仰を強要するという構図が浮かび上がります。

ふつう親は子に愛情を注ぐものとされていますが、逆転しています。
これは親による愛情の搾取です。

仮定の話ですのであまり決めつけるのもよくないのですが、こうした愛情の搾取の問題についてはスーザン・フォワード著『毒になる親 一生苦しむ子供』が有名で日欧米でロングセラーになりました。また加藤諦三氏がわかりやすい本を大量に出しています

おしゃべりが過ぎたようです。長々と失礼しました。

#22 2013年04月27日 04:37:40

ima
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

皆さま、ご意見ありがとうございます。
いろいろな視点をいただき、とても参考になります。

宗教って難しいですね。これだけ世界中で宗教対立が起きているのだから当然のことでしょうけど、伝書鳩さまが紹介して下さった「エホバの証人教師」の動画を見ていて、改めてそう思いました。動画の中では、仏教を信仰するという動画投稿者(?)と、エホバの証人が議論していました。お互いに(私が見たものは特に動画投稿者の方が)、相手が間違っている、論破してやろう、というスタンスでの議論でした。

私も自分とエホバの証人とのかかわりをまだまだ整理できていないので、よくわかりませんが、宗教って、他人が「間違っているか、正しいか」の判断をするものではないのですよね、きっと・・・。どれか一つの宗教が正しければ他は全部間違っている、そういうものではないですよね。どんなに証拠を集めても、結局グレーな存在なのではないでしょうか。
自分の宗教(思想)を正当化したいために、相手に「間違い」を認めさせるなんて、ずるいと思います。確かに相手の矛盾をつけばいい気持ちだろうと思いますが、それは単なる征服欲だと思うのですが。相手のためでもなんでもないです。エホバの証人もそうですし、エホバの証人に限らず、宗教の持つこうした一面は毒がありますよね・・・。


たけだけさま
そうですね、ありがとうございます。気をつけたいと思います。

>兄弟姉妹たちの顔が明るすぎるのと、会話がはずんでいるのを見て「幸せには見えない姿」というのを感じていました。
私もわかります。朗らかな明るさではなくて異様に明るいので・・・。
あの、言いたいことを言えない強力な空気はなんなのでしょうね。一人一人は、とても良い思いを持っていて、良いことをしたいと考えている人たちなのに、集まるとああした空気を出してしまうというのは・・・。あの方たちの誠実さは偽善なんでしょうか?私はそうとは思えないのですが・・・。
しかし「あそこにある愛は限定的だな」と思うことはあります。エホバの証人は、お互いに本当に助け合って、緊密にやり取りしていますよね。でもそれは、「エホバの証人だから」愛を示してくれているのであって、「私だから」愛してくれているのではないんだ、といつもそこがひっかかっていました。


Tetuさま
私は、脅迫とは感じていなかったんです。ハルマゲドンに怯えたことも特になく、むしろ友達のような気楽な感覚でエホバのことを考えていました。
>いくら聖書を読んでもエホバへの温かい感情を持つことは非常に困難
そういう子どもたちも多いんですね・・・。でも、そんな子ども達のことを、多くの特権的な役割を与えられて輝いて「見える」人よりも、エホバは誰より愛しているはずですよね。たとえエホバがいようがいまいが、私はそう信じたいです。
もし、ものみの塔がそういう趣旨の記事を出してくれれば、どれだけの人が安らぐかと思います・・・。


エホバの証人研究さま
はい、もし研究をはじめることがあれば、レポートいたしますね。
その際はまたご意見をお願いします。


irisさま
カトリック教会の雰囲気について教えていただきありがとうございます。
自立を求める教会なのですね。出席をチェックされないというのは、いいですね。自分のペースで信仰できそうです。
やはり型通りの答えだったのですね。私は、ものみの塔の解釈は、最近のものは特に好きではないです。家に1980年代のものみの塔があり少し読んでいたのですが、私は昔のものみの塔の方が、物言いははっきりしているけれどあたたかみがあって好きでした。最近のものみの塔を読むと、聖書はもっと豊かで深いものではないか?と不思議に感じます・・・。

エホバの証人の世界で最も退屈だったのは、自由に議論できないということでした。同じように感じている人はかなり多いと思います。
irisさまが参加されたことがあるかわかりませんが、エホバの証人はものみの塔研究という集まりを持っています。王国会館に集まってものみの塔を読み、司会者が質問して参加者が答えるという仕方で行われる勉強会です。
しかしその質問も答えもあらかじめ決められています。自分の疑問に思った点、納得できない点などを質問して、他の方から意見をもらうことはできないんです。全く予定調和の世界で、これにどんな意味があるのか・・・最後までわかりませんでした。


さ迷える豚さま
>もし彼らが、のみならず日本の全教会が私を見捨てることがあっても、キリストは私を見捨てないと信じております
確かにそうですね!私も、これが「信仰」ということなんだと思います。
「自分がどんなに愚かで、大馬鹿者で、親にも友人にも愛想をつかされても、それでも神は、自分が評価されているときと同じように愛してくれるんだろうか?」と、よく考えます。
私はまだそこまでの確信は持てませんが、神という存在は、そういうものなのでしょうね。

>一世(4のパターン)は二世(1,2のパターン)が信仰を放棄した場合に自分の心の平安が保てなくなるために二世に信仰を強要する
一世の方の気持ちはまだよくわかりませんが、そうかもしれませんね・・・。
たぶん宗教って、皆で突進している間は、本当に楽しいんですよね・・・。

#23 2013年04月27日 22:14:59

Tetu
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

いくら聖書を読んでもエホバへの温かい思い、信仰がつちかえない子供たちは結局滅びるのでは?ローマ10:9、10。啓示21:8。
それでも彼らをエホバが愛していることを裏付ける聖句はあるかな?聖書の神の愛は常に条件付きだったように思うけど。

#24 2013年04月27日 23:27:17

iris
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

Tetuさま

大変な子ども時代だったことお察し申し上げます。

Tetuさまはエホバへの信仰は培えないけれど、エホバに滅ぼされることだけは
信じていらっしゃるのでしょうか? 自分にはエホバへの信仰がないと思うのならば、
エホバの裁きを恐れる必要はないと私は思います。

エホバの証人は、本来の意味で「イエスは主である」と信じてはいません。
ものみの塔が「イエスは主である」の意味を捻じ曲げて教えているからです。
「信じないものは滅ぼされる」のであれば、エホバの証人は誰も救われないと
いうことになってしまいます。

ローマ書10:10は、「信じる者は救われる」という意味であって、
「信じない者は救われない」という意味ではないと私は思います。

エホバの証人は、聖書の神の愛は条件付きであると強調しています。
けれども聖書は、神の愛はすべての人に無条件に注がれると教えています。

幼いころから叩き込まれた世界観や恐怖を乗り越えるのは難しいことだと思いますが、
Tetuさまが、心から平安を感じることができる時が訪れるようお祈りしています。

#25 2013年04月27日 23:50:53

iris
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

imaさま

私もものみの塔の聖書解釈は聖書の豊かさを損ねていると思います。

書籍を使った研究では、あらかじめ決まった答えしか求められていないのが明らかにわかります。
私もそれが本当に苦痛で、途中で書籍を使うのはやめました。
自分の頭を使って理解させるのではなく、自由な議論を禁じて自分の頭を使わせない、
単なる刷り込みを目的としたシステムですね。

クィック投稿

メッセージを書いて送信してください。

Board footer