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てつてつ
2017年02月17日 18:13:17

ラハムさん お疲れ様でした

ラハム
2017年02月17日 17:45:08

「ナザレのイエスは神の子か」はきょう読み終わりました。
「発掘された聖書」は1月15日から2月12日までかかりました。
「岩はうそをつかない」はこれから読書開始です。

「神の子」はジャーナリストが世の中の権威者から
聞き取り調査をした結果を伝えています。
それらの権威者たちが抱く聖書やキリストに対する信仰と
確信で満たされている資料でした。
それらの確信や信仰が正当かどうかは判断しません。
わたしとしては、JWと30年近く付き合うことを通じて
聖書の神や他の宗教の神々について信仰を失いました。
だから、それら権威者たちのような
純粋な信仰を持てることをうらやましく思いました。
そのような信仰を抱き続けることによって
幸福で満ち足りた人生を送れるのであれば
ほんとうによいことです。
論理的な立場から、学問的な立場から
特に新約聖書に描かれているキリストの人生の
信憑性を説明し、立証していたと思います。

さて「発掘された聖書」は考古学的立場から、
特に旧約聖書に記述されている歴史を
どこまで証明できるかを検証していたと思います。
その結果として、シルバーマンという人が
調査した結果は、考古学と一致している部分もあるが、
一致していない部分も多数あるということでした。
彼の調査した段階では、聖書に記録されているほど
イスラエル民族は古くありませんでした。
聖書の記録通りであれば都市や村が実在し、
民族の繁栄が発掘される時代においても
そのような考古学上の遺跡はありませんでした。

わたしとしては、これら考古学者が物理的に
発掘した段階では証拠を見出せなかったとしておきます。
過去においてさまざまな段階で否定されていたものを
肯定する証拠を見出す事例もあるからです。
いくら掘り出して証拠を見出そうとしても、
実際存在しなかったとすれば、
見つけることは不可能だということも認めます。
でも、あるかもしれません。

これら二冊の本は異なる立場から聖書の信憑性の
立証を試みたものだと思います。
だから「神の子」に記載されている論理を用いて、
「発掘された」の説明を覆すことは無理だと思います。
また、その逆も意味があるように思われません。

現在のわたしにとって聖書の存在が自分の人生において、
どのような意味があったのか、これからどのような意味を
持つことになるのか考察しようと思っています。
聖書を肯定する説明も、否定する説明も合わせて考慮し、
世界のベストセラーとして多くの人が受け入れているのは
なぜかということも考えてゆきたいです。
意味や意義のない書物が世界のベストセラーであり、
これまで大勢の人々が研究の対象として
命がけで守り続けようとするはずがありません。

400ページを超える書籍を読むことはほんとうに
努力が求められましたが、「発掘された聖書」の
エピローグを読んだとき、真によかったと思いました。

以下、抜粋です…。p380-381

へプライ語聖書が共同体の生活におけるその力強い働きから切り離され、詳細に分析、研究され始めたときになって初めて、神学者や聖書研究者はそれに何か別のことを要求し始めた。一八世紀から、まったく正確で、実証できる歴史への啓蒙主義的な探求において、聖書の歴史的事実性が、現在もそうであるように、激しい論争となった。研究者たちは、七日間の創造と自然発生的な奇跡は科学と理性によって納得いくように説明されることができないということをはっきり理解し、彼らが聖書において「歴史的」であると認めるものとそうでないものを選別し始めた。聖書のテクストに含まれている異なる資料についていろいろな理論が現れ、考古学者たちは、聖書における特定の部分の歴史的信頼性を証明あるいは反証する証拠について論じた。

けれども、聖書の全体性と、実際にその歴史性は、紅海の分離、エリコの壁を倒した角笛の音、ダビデによる石投げ紐の一投でのゴリアト殺害のような何らかの特定の出来事あるいは人物の忠実な歴史的「証明」に依るものではない。聖書のサガの力は、それが、人々の解放、抑圧への継続的な抵抗、社会的平等への探求という時代を超えた主題についての、人を動かさずにはおかない、一貫した物語的表現であることに由来する。それは、あらゆる人間の共同体が存続するために必要とする、共有する起源、経験、運命についての深く根ざした感覚を雄弁に表現している。

特定の歴史的観点から見て、私たちは今、聖書の叙事詩的サガは最初、滅亡の前数十年における小さなユダ王国の人々や捕囚後の時代にエルサレムにあったより小さな神殿共同体が直面した圧力、困難、難題、希望への応答として現れたことを知っている。実際、私たちの聖書理解にとって考古学の最も大きな貢献は、王国時代末期のユダや捕囚後のイェフドのような小さく、比較的貧しく、周辺的な社会が、そうした短い期間にこの不朽の叙事詩の主要な輪郭を生み出すことができたという認識なのかもしれない。こうした認識はひじょうに重要である。というのは、聖書に述べられている考え、イメージ、出来事がいつ、そして何のために巧みにまとめあげられるようになったのかを私たちが認識する時だけ、私たちは人間の歴史においてまさに最も影響力のあるこの文学的、精神的創造物の真の特徴と存続し続ける力を最終的に正しく理解することができるからである。

てつてつ
2017年02月17日 10:26:32

ヤマさん興味深い書き込みありがとうございました

Chimera証人
2017年02月17日 10:24:30

ヤマさん、アーメンです。

KAOさんなどは、新約聖書の本文研究からもメツガー博士の言葉を都合のいい部分だけ抜き出しており、呆れるばかりです。

よって、もはや反論する気にもなれず、滅びへ引き渡して放置しています。

都合のいい引用や曲解は、カレブ、ささらほーさらなどの人物にも時に見られます。(敬称略)
欺かれないように注意が必要です。

ヤマ
2017年02月17日 09:29:59

初めまして。
KAOさんやてつてつさん、ラハムさんたちの論議を楽しく拝見しております。

田川先生のマルコ福音書の著者に関する見解が、現在では異なっています。どなたかが訂正して下さるものと思い、静観しておりましたが、いまだ、その投稿がないようですので紹介させていただきます。

KAOさんが、マルコ福音書上巻の記事を紹介して下さっており、マルコ福音書のマルコとは、使徒12:12等に出てくるヨハネ・マルコとは別人物であり、記号的名称であるとの見解を紹介して下さいました。

以下引用。
まず第一に我々の手元には「マルコによる福音書」が存在します。これは歴史的な固有名詞です。それに対し「この福音書はいったい誰が書いたのか?」という聖書学上の著者問題というものがございます。この第二福音書がマルコの名と結びつけられたのは、「教会史」で知られるエウセビオス(260-339)が、ヒエラポリスの司教パピアスの伝える伝承によるもので、そこで「マルコ」はペテロに同行した通訳として言及されています。しかしそれがⅠペテロ5章13節の人物を指しているかどうか、単なる通訳ではなく「わたしの子」と表現されており、それにⅠペテロそのものが偽書とされていることを勘案すると、根拠は乏しいようです。他にも新約の中にはパウロの同行者としてのマルコ(ヨハネ・マルコ)も存在しますが、その場合でもイエスの同時代人とはなりません。

要するに聖書学の分野では、マルコ福音書の著者は「無名人」であり、著者としての「マルコ」とは、便宜上の記号にすぎないということです。田川先生は、もはやマルコの専門家という狭い範囲の研究者ではありませんが、学位論文はマルコ研究だし、いまだ上巻だけとはいえ、『マルコ福音書』注解も出しており(新教出版社:1972年)、その序説の部分で著者問題に言及し、「著者がどういう人物であったかはわからない。新約聖書で何度か言及されているマルコなる人物(使徒行伝12:12,25,13:5,13,15:36以下 ピレモン24,第一ペテロ5:13)とは、おそらく無関係であろう。」(P6)と明確に書いていらっしゃいます。
引用終わり。


現在、田川先生はこの見解を撤回しており、「新約聖書訳と註」の第一巻、マルコ福音書の解説P853~以下のようにあります。

以下引用。
・・・このマルコがこの福音書の著者であるという指摘は、現存の文献では最も古くさかのぼっても二世紀初めまでしかさかのぼれないが、しかし、二世紀には広く広まっており、その点ではまったく異論もなかったのだから、すでに一世紀後半にはそのことは十分に広く知られていたものであろう。そして現に、この人物がこの福音書の著者であることを否定する積極的な理由は何一つない。それにもかかわらず比較的最近の聖書学では、これを否定する傾向が強い。(私も若いころは学会の主流に抵抗する勇気がなかったから、その意見にくみしていた。どうもすみません)。しかしこのマルコがこの福音書を書いたということに反対すべき根拠は、本当に、何一つないと言ってよい。むしろ、この人物ならばいかにもこの本を書いただろうな、と思えるふしは多い。・・・
引用終わり。


マタイとヨハネに関しては、記号的名称でしかないが、マルコとルカに関しては、聖書中に登場する実在の人物である、と考えておられるようです。

詳しくは、新約聖書訳と註でご確認ください。


「書物としての新約聖書」P335-6にかけても、
・・・キリスト教の長い伝統では、この人物は使徒行伝12:12などに出てくるヨハネと呼ばれるマルコと同一人物であろう、と信じられてきた。とすれば、エルサレム在住の、キリスト教の発足時にはまだおそらく若かった人物で、その母親マリアは最初期のエルサレムのキリスト教会のかなり有力な人物であったらしい。おそらくはバルナバが彼をヘレニズム世界に向かう宣教活動にひっぱりだした(12:25,13:5)。しかし、第一回伝道旅行でおそらくパウロと衝突して、途中からひきかえしてしまう(13:13)。それが原因で、バルナバ自身も第二回伝道旅行の時にはパウロと判れ、マルコと共に別の伝道旅行に出発する(15:36以下)。もしもこの人物がマルコ福音書の著者であったならば、そのギリシャ語のくせも大いに理解できるというものである。・・・

ここでも、はっきりとヨハネ・マルコがマルコ福音書の著者であると断定はしていないが、その可能性が非常に高いことを示唆しています。

ご参考になれば、幸いです。

てつてつ
2017年02月05日 01:31:32

みなさんこんにちは 全然このトピとは関係ないのですが マイケルムーアのアホでマヌケな大統領選  dvdみてみました「ほぼ全部だれかユーチュブに上げてありました」 モルモン教徒の多いユタ州の大学にムーアがこの地域では支持者の少ないほうのケリーの応援演説にくるというものでしたが  自分はムーアを正当化するつもりはありませんが以下のアマゾンの評価にあるように  背筋か凍るような気がしました


ユタ州の一部の人たちを映した映画でしかないのですが、なんとも"異常な"人たちがが映っており衝撃を受けました。
もっと異常なのは、異常なひとたちが圧倒的多数を占め、街全体が異常なことになっていることです。
異常が正常になっているという異常さが強烈でした。

私は別に保守を攻撃したいわけではないのですが、彼らの狭すぎる視野、議論さえ拒否する姿勢は、隔離された異常な宗教団体そのものです。
私は自分の考えが正しくて、彼らの主張が異常であるといいたいわけではありません。
そうではなく、彼らの言論に対する姿勢です。

言論を徹底的に拒否する彼らの姿は"共和教"の狂信者にしか見えません。
やはり多様性というものの大切さを改めて感じました。

最も大切なのは、敵対する思想を排除することではなく、それをも受け入れる懐の深さなのではないでしょうか。
同じ考えの人たちがより集まって、ほかの世界と隔離するとこうなるんですね。

ちょっとマイナーなdvdですので 普通のレンタル屋さんにはないかもしれません 自分もいって聞いたのですがありませんでした ゲオのネットレンタルにありました 1ヶ月お試し無料期間がありますのでその期間中に見ちゃってやめちゃうなんてウラワザもあるかも ゴメンネーゲオさんまた店舗でたくさん借りるから許してねー kiss

痛風
2017年02月03日 23:11:25

元証人が自分の信じたいものを信じるということが、これで分かったな。

てつてつ
2017年02月03日 09:11:24

ラハムさんこんにちは作者の経験などはあまり重要ではないので本当に大切な部分はわずかですのでそこだけ読めば数時間でいいですよー

ラハム
2017年02月03日 08:53:04

わたしも先月初めから「神の子か」を半分まで読みました。
どの本も軽く400ページを超えることが多いですね。
途中まで読んでいるところで、てつてつさんから
「発掘された聖書」を先に読んだほうがいい、
というアドバイスをいただき、
切り替えてから、半分まで来ました。
もう少し時間が必要ですね。「神の子か」も中途ですが、
読んでいて、なんだか変だなあと思っていました。
聖書にとって都合の良い解説者ばかり登場していましたから…。
KAOさんの説明を読みその理由がわかりました。
わたしとしては一つの勉強として、
そのような説明もあるんだということで
読破しておこうとは思っています…。

てつてつ
2017年02月03日 06:14:38

今度はストロベルさんに、私が製作した「取材対象者リスト」でもってインタビューしてみてほしいと思います。

どんな本になるか楽しみですねー kiss

KAO
2017年02月02日 23:05:47

ほんとだー、同じような感想をレビューしてる人いますね。
これだけ露骨に人選が偏っていたら、当然見抜く人はいるでしょう。
今度はストロベルさんに、私が製作した「取材対象者リスト」でもってインタビューしてみてほしいと思います。
あっ、「いのちのことば社」の企画通んないか(笑)

てつてつ
2017年02月02日 07:11:57

KAOさん大変詳細な書き込みありがとうございます

てつてつさんに倣って自分なりのリーディングレポートを残しておこうと思います。

レレレレレベルが違いすぎますー cry

結論から言いますと、メツガーさんの書いた学術書には、上のような楽観的な発言は全く見られず、研究者として至極まっとうな論述が見られるだけです。さすがに専門家やその卵を相手とした学術書の中で、「自信をもって、聖書の内容が正確に筆写されてきた」(P102)などと発言することは、研究者としての姿勢が根本的なところから疑われることを認識しているのでしょう。

もうお分かりでしょうか? 『ナザレのイエスは神の子か』におけるメツガーさんの発言は、彼の信仰的立場からすれば半分本気だと思いますが、半分は(良心的に受け取れば)素人さん相手のリップサービスに過ぎないということです。

それはメツガーさんも同じで、ジャーナリストさんが「新約聖書の信憑性」について遠路はるばる質問に来たのならば、数限りない「安心材料」を提供してあげたいと思ったことでしょう。「まったく信用なりません!」という回答を求めてわざわざ自分のところにやって来たとは思わないはずです。

これはよくわかります 相手がプロばかりのところでは絶対くちにしないことも そうではない記者の取材ならちょっとうれしくなって相手の聞きたいことをついしゃべってあげてリップサービスしてあげてしまうかもしれませんね

あるいは少し悪意を持った想像で、こちらの方が真実に迫っているとも思いますが・・・
彼はこの世界では、いわゆる御用学者の部類ですから、いうなれば、原発メーカーの技術者や経産省の役人が、専門家として誰よりも核反応の制御技術の限界やリスクを知りながら、住民説明会や学校向け副読本で「安全性にはまったく問題はございません」「信用していただいて結構です」と吹聴して回っている姿が重なりました

こちらは真実味があってこわいです

それからついでに、この『ナザレのイエスは神の子か』の中で、調査対象として登場し、証言する学者たちの全てが、例外なくゴリゴリの福音派の論客ばかりなのはどうしてなのでしょうか?これでは「公平な姿勢」どころか、原爆投下の賛否についてインタビューするのに米国退役軍人協会を訪れるようなものでしょう。このジャーナリストさんが、今回の取材相手をどのようにして選び出したのかこの本には書いてありませんが、少なくとも得たい結論は最初から見え見えで、ハッキリ言えば茶番です。

アマゾンの評価にも同じ意見の人がいますね

内容面で気になったのは、インタビューに応じ意見を表明してくれたのが護教論者のみであり、彼らと対極に位置する無神論者などとのインタビューが無く、中立性に対する疑念と物足りなさが残ったこと。ジャーナリズムを貫くのであれば、無神論者からも話を聞くべきでしょう

田川先生が言っておられるように、「要するに、わからないことはわからないので、学問というのは、残念ながらこれ以上はわからないよ、ということを正直に明らかにするのが仕事なのだ。

自分もそう思います

ほか、ギリシャ語の語順に自由度がある話や、聖典成立史を扱った部分(ここはヒドイ!)、それからイエス・セミナーについての章にも論評を加えたい衝動に駆られますが・・・とにかく読んでいてイライラする本でした。

貴重な時間とお金を使わせて大変申し訳ありませんでした cry でもこのレポートで十分その価値はあると思います kiss
自分にとっては 霊の剣で その骨髄を分けるまでに刺し通し 主よ良くぞ言われましたという感じです
(エフェソス 6:17) …それに霊の剣,すなわち神の言葉を受け取りなさい…
(ヘブライ 4:12) …神の言葉は生きていて,力を及ぼし,どんなもろ刃の剣よりも鋭く,魂と霊,また関節と[その]骨髄を分けるまでに刺し通し,心の考えと意向とを見分けることができるのです…
(ルカ 20:39) …書士の幾人かがそれにこたえて言った,「師よ,よくぞ言われました」…

KAO
2017年02月01日 23:10:42

元証人さんは退出なさったようなので、もう取り上げる必要もないのかもしれませんが、2500円も払って購入しましたし、他にも購入なさって読み始められた方もいらっしゃるようなので、『ナザレのイエスは神の子か』に関して、てつてつさんに倣って自分なりのリーディングレポートを残しておこうと思います。というより、手にする前から確認したいところは決まっていました。それはB・M・メツガーさんについて書いてある部分です。なぜかというと、元証人さんが「B・D・アーマンを読むなら、その師であるメツガーさんも読みなさい。」と繰り返しおっしゃっていたからです。
メツガーさんが新約聖書の本文学における第一人者でありながら、信仰的には極度に保守的な人物で、ネストレ本文にも(妥当かどうかの評価は別にして)大きな影響を与えている人物だということはよく知られていることです。

そのメツガーさんが『ナザレのイエスは神の子か』に登場するのは91~116ページの部分で、そこでは著者のストロベルさんの質問に答える形で、メツガーさんが本文学について述べていらっしゃいます。
まずストロベルさんの疑問は、長年に渡って筆写が繰り返された結果、現在我々が手にしている新約聖書は、元のオリジナルと同じであると信じられるのか? というものです。
それに対しメツガーさんは、以下の点を指摘します。
① ギリシャ悲劇等の他の古典に比べ、新約本文の写本の数は圧倒的にたくさん現存する。
② 初期の写本の中には、イエスや使徒たちが生きた時代からそう遠くない時代の物がある。
③ ギリシャ語写本の他、近隣の古代語の翻訳や、教父の著作の中には引用も豊富にある。
そして結論は、
「自信をもって、聖書の内容が正確に筆写されてきた」(P102)とおっしゃるのです。

さて、ここでメツガーさんの別の著作に移りますが、『新約聖書の本文研究』(聖文舎:1973年、原著第3版からの翻訳は日本基督教団出版局:1999年)は、私にとって、大学における「新約本文学演習」のテキストでもありましたし、同じく『図説ギリシャ語聖書の写本』も邦訳(教文館:1985年)があって手元にありましたので、今回あわせて読みなおしてみました。

結論から言いますと、メツガーさんの書いた学術書には、上のような楽観的な発言は全く見られず、研究者として至極まっとうな論述が見られるだけです。さすがに専門家やその卵を相手とした学術書の中で、「自信をもって、聖書の内容が正確に筆写されてきた」(P102)などと発言することは、研究者としての姿勢が根本的なところから疑われることを認識しているのでしょう。

①について
今日参照することができる5000を越える写本の存在は、果たして失われたオリジナルに肉薄することを「保証」してくれるものなのでしょうか? 無数にある写本の存在は、その数に比例するだけの「異読」の存在を意味します。単純に数学的な判断からいえば、分母(選択肢)が大きくなれば大きくなるほどオリジナルにたどり着く可能性は低下します。
(「声を1オクターブ上」げて)語った「五千部以上」という数字の出し方も問題です。これは当然、新約文書全ての章節に対する数の合計であって、その分布もバラバラであれば、ハガキか名刺サイズの断片でしかないものも多数あります。実際のテキストの釈義にあたって考慮すべき写本は、特定の傾向によって分類された「家族」であって、その数は数えるほどしかありません。メツガーさん本人も『ナザレのイエスは神の子か』では小文字写本だけでも「二千八百五十六枚にのぼります。」と大風呂敷を広げますが、『新約聖書の本文研究』の第2章「新約聖書の重要な小文字ギリシア語写本」の項目で挙げるのは20個だけではありませんか(P78~82) それに、重要なのは写本の「数」ではなく「質」です。そしてその質が高いもの同士が異なる読みを示している場合、簡単に判断がつく場合がある一方、どちらを採用すべきか判断がつかない場合も多いのです。だからこそメツガーさんは言います。
「ある場合には、2つの相違する読み方のうち、それぞれを支持する証言がほとんど均等に分かれて対立し、いずれか一方を決定することがきわめて難しい。」(『新約聖書の本文研究』P22)

ひとつだけ例を挙げておきましょう。マタイ21章28~31節「二人の息子のたとえ」ですが、口語訳と新共同訳では、兄と弟の役割が完全に入れ替わっています。これと同じ逆転現象が、旧来の新世界訳と2013年版新世界訳(英文)の間でも起こっています。理由はとても簡単で、ネストレ・アーラントのアパラトゥス(欄外資料欄)を見れば一目瞭然、口語訳はバチカン写本の読みを採用しており、新共同訳はシナイ写本の読みを採用しています。このように新約本文において重要な2つの写本の読みが対立している場合、そのどちらを採用するかは高度な神学的判断によるのですが、それらは専門家の間においても常に意見が一致するわけではありません。新共同訳が今回口語訳と異なる判断を下した理由はいくつも考えられますが、それは今日の課題ではありません。ものみの搭協会のように、こういった例え話に「現代における成就」などを読み込もうとすると、解釈がひっくり返る可能性だってあるのです。

②について
メツガーさんがここで言及なさっているのは、マンチェスターのジョン・ライランズ図書館が所蔵するP52という写本番号で知られる、それこそ名刺サイズの小さなヨハネ福音書の断片のことです。現物でなくとも写真をご覧になりたい方は、先に紹介したメツガーさんの『図説ギリシャ語聖書の写本』(教文館:1985年:8240円)の73ページか、蛭沼寿雄先生の『新約本文のパピルス第Ⅲ巻』(新教出版社:2010年:16200円)の951ページで(原寸大)で見ることができます。表裏合わせて100字に満たない(欠損部分の予測含む)断片です。
この断片の書かれた年代が2世紀中ごろとされていて、もしそうであればイエスの死から100年ちょっとということで、この断片がエジプトで発見されたことを考えると、このヨハネ福音書の写本は、原本が書かれてから「数十年の間に」写されたものだと高く評価なさっているわけです(P95)。
すなわち、ここが重要ですが、メツガーさんとストロベルさんは、本文伝達の正確性は、出来事が起こってから、それが記述されるまでの期間が短ければ短いほど正確に伝達されたに違いない、とお考えのようです(一理あります)。

それではここで問題です。今から100年と少し前、新しいキリスト教系の団体を立ち上げたアメリカ人が、もうすぐこの世は終わると預言して、自分の思想をたくさんの書物として残しました。果たしてそれを信じ続けている後継者の弟子たちは、今日、彼の文章を正確に引用し、伝えているでしょうか? 本人の著作である「聖書研究シリーズ全6巻」は、彼の死後の版では、(何の但し書きもなく)あちこち改訂されてはいないでしょうか?
そしてより根本的な部分として、「1874年」とあった教えを、「1914年」と書き換えたりはしていないでしょうか? そしてこれらの改訂(改竄)は、「数十年の間に」どころか本人の死後すぐに始まってはいないでしょうか?
文章が正確に伝わるかどうかは、時間の短さではなく動機によって決まるのです。

ずっと後代に書かれた写本が、それよりも年代的に古い時期に書かれた写本より、オリジナルに近い「読み」を保存している場合があるということは本文批評学のイロハであって、メツガーさんも当然ご存知のことです。メツガーさん、「信仰書」の取材だからといって、あまりいい加減なことを言わない方がいいですよ。

③について
古代語訳のうち、2~3世紀に由来するものについては、今日知られる大文字写本(3~4世紀)よりもさらに古い本文が底本に使われた可能性が高く、参考に値する場合も確かにあり、ネストレでは70人あまりの教父の引用を参照できますが、この点についてメツガーさんはインタビューにこう答えています。

「もし今日ギリシャ語の写本がなかったとしても、こうした比較的古い時代の翻訳に書かれた情報をつなぎ合わせることで、オリジナルの新約聖書の内容を再現することができるのです。」(『ナザレのイエスは神の子か』P95)

(タッチ風に・・・)ちょっと、ちょっとちょっと!
メツガーさん正気ですか? あなた自分の本にはこう書いているじゃありませんか。

「これらの翻訳は2世紀、3世紀に起源するので、きわめて重要なものである。しかし同時に、翻訳文を新約聖書の本文批評に適用するのはかなりの限度があることにも注意すべきである。ギリシャ語を自由にあやつるだけの力のない者が訳したものもあるし、またギリシャ語の文章や語彙の特徴は必ずしも他国語に訳されるとは限らない。-具体例中略- 新約聖書の古代語訳の研究は、いろいろなギリシャ語写本から、いろいろな人がいろいろな翻訳をしたという事情のおかげで、複雑きわまるものである。その上、ある言語の訳本は他の訳本で、また翻訳の底本とは別のギリシャ語写本で校訂されていることがある。このようにして古代語訳の批評的編集を再建するのは、もとのギリシャ語本文を編集するよりも厄介なことが多い。」(『新約聖書の本文研究』新版P83)

たとえギリシャ語写本が「あっても!」、古代語をあてにした校訂には大きな困難が伴うので、その使用には「限度がある」というのが本文学者メツガー先生の認識ですよ! 酔っ払ってインタビュー受けちゃダメです。

「メツガーも読むべきだ」と主張なさった元証人さんはこれらの本も当然読んでいるはずですが、私がその奨めに応じて読んでみた学術書におけるメツガー先生の論述と、『ナザレのイエスは神の子か』における彼の受け答えとは、とってもチグハグな印象しか受けませんでした。
学術書におけるメツガーさんの主張は専門家らしく慎重なものであって、こういった本文学の諸理論に基づく研究は、結局のところ「原本」が存在しない古典の本文確定という作業が、どこまでも「暫定的な可能性の追求」という営みであることをよく自覚されているようでした。誰も太鼓判など押せない「はず」なんです。
他の専門家の発言の中には、ヘルムート・ケスターの、「2世紀の福音書本文について我々は何も知らない」という指摘や、ネストレ校訂者の一人、バルバラ・アーラントの「写本伝承が反映している本文は、著者自筆のものから相当異なっている」(「New Testament Criticism」:1994)といった、悲観的とさえ思えるものもあります。

もうお分かりでしょうか? 『ナザレのイエスは神の子か』におけるメツガーさんの発言は、彼の信仰的立場からすれば半分本気だと思いますが、半分は(良心的に受け取れば)素人さん相手のリップサービスに過ぎないということです。
私だって、ミッションスクールや教会学校の教師をしていた頃は、子どもたちに対して、ノアの箱舟やバベルの塔の話をして聞かせましたし、定期的に礼拝説教も担当しました。そこでは決して「自由主義神学」の研究成果を盛り込んだりしませんでしたよ(笑)。
それはメツガーさんも同じで、ジャーナリストさんが「新約聖書の信憑性」について遠路はるばる質問に来たのならば、数限りない「安心材料」を提供してあげたいと思ったことでしょう。「まったく信用なりません!」という回答を求めてわざわざ自分のところにやって来たとは思わないはずです。

あるいは少し悪意を持った想像で、こちらの方が真実に迫っているとも思いますが・・・
彼はこの世界では、いわゆる御用学者の部類ですから、いうなれば、原発メーカーの技術者や経産省の役人が、専門家として誰よりも核反応の制御技術の限界やリスクを知りながら、住民説明会や学校向け副読本で「安全性にはまったく問題はございません」「信用していただいて結構です」と吹聴して回っている姿が重なりました。

それからついでに、この『ナザレのイエスは神の子か』の中で、調査対象として登場し、証言する学者たちの全てが、例外なくゴリゴリの福音派の論客ばかりなのはどうしてなのでしょうか?これでは「公平な姿勢」どころか、原爆投下の賛否についてインタビューするのに米国退役軍人協会を訪れるようなものでしょう。このジャーナリストさんが、今回の取材相手をどのようにして選び出したのかこの本には書いてありませんが、少なくとも得たい結論は最初から見え見えで、ハッキリ言えば茶番です。

元証人さんや、このような本で信仰を鼓舞されたいと願っている人たちは、「聖書を信じられる根拠」を欲している人たちだと思います。そしてその一番の問題は、その「根拠」を求めて一所懸命お勉強をすることで、「信仰の根拠」が学問的にも証明され得ると信じ込んでしまったことでしょう。メツガーさんの最後の言葉も同じです。
「研究は私の信仰を育ててくれました・・・揺るぎない信頼を持っています」(P115)

本人がどういう信仰告白をしようと自由です。弟子のアーマンさんは信仰を棄てました。同じ研究から何を得るかは人それぞれです。原爆開発後、嬉々としてさらなる核兵器開発を推進していった科学者もいれば、自分たちの生み出したものの恐ろしさに、死ぬまで後悔の念に苛まれた科学者もいます。

私はなにも「信仰の根拠」なるものを破壊しようと躍起になっているわけではありません。田川先生が言っておられるように、「要するに、わからないことはわからないので、学問というのは、残念ながらこれ以上はわからないよ、ということを正直に明らかにするのが仕事なのだ。」(『書物としての新約聖書』P388)
「生命の始まり」や「死後の状態」、「神の名の発音」など、神が人間に、知らずともよいとされている事柄に対し、謙虚でありたいと願っているだけです。

ほか、ギリシャ語の語順に自由度がある話や、聖典成立史を扱った部分(ここはヒドイ!)、それからイエス・セミナーについての章にも論評を加えたい衝動に駆られますが・・・とにかく読んでいてイライラする本でした。
論証抜きで「それはもう古い説です!」「それは一面しか捉えていません!」で一蹴してしまうのも手でしょうけどね(笑)。

てつてつ
2017年01月31日 06:13:04

ささらさん こんにちは 文字の歴史少し読ませていただきました
最初の楔形文字やヒエログリフなどの特徴から 解読 現代に至るまでの文字や字体 筆記用具の変化 印刷方法の発達 エトセトラ など分かりやすくまとめてあり大変勉強になりました

そんなわけで「聖書には真実の歴史が書かれている!」と信じている方々には気の毒な限りですが
世界中の文字の多くは(中国語、日本語などは今回「度外視」しています)
シュメールとエジプトの文化から生まれ、育ってきたものです。
初めに書いたようにノアの日の洪水が今から約4400年ほど前である(と計算できる)ならそれよりも100~200年後にバベルの塔の崩壊と共に世界中に言語が散っていった・・・とする記述はやはり「創作」と言わざるを得ないでしょう。
シュメール人とエジプト人は約5000~5500年前には、ただ絵を描いただけではなく伝達手段としての文字体系の基礎を作り上げていたのですから。

やっぱりこう結論せざるを得ないかもしれませんね どうもありがとうございました

てつてつ
2017年01月29日 09:33:03

ただし、史料として有用な部分と、あくまでも著者の予想の部分とを読み分ける必要があるかと思います。

聖書の記述にエジプトの影響は少なからずあると思います ただささらさんのいわれるように見極めが大切かなと思います 情報として知っておけばまた将来新しい証拠が出たときに再度調べるきっかけになると思います
どうもありがとうございました

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